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フィリピン貧困層における「障害者問題」

―国外NGOの取組みとその課題(注1)―

一橋大学大学院地球社会研究専攻
http://www.soc.hit-u.ac.jp/isgi/index.html
城田 幸子

一橋大学大学院地球社会研究専攻・修士論文

last update: 20151223


序章:問題提起

「障害者の――多くは貧しく、従属的であり、攻撃にさらされやすい――声は弱々しい。彼らは何の影響力も力もなく、政治的な重みもない。途上国のそうした障害者の98%は完全に無視された状態にあるとWHOは推測する(注2)」

――――――――――――――――――――

 「途上国(注3)の貧困層の障害者」という存在がいる。今まで途上国問題、貧困問題、障害者問題と、それぞれ別個に論じられることはあったが、彼らはそのどれにおいても対象としてはずされることが多く、この3つを重ねることで、初めて見えてくるものがある。
 長いことその存在を認識されず周辺においやられ、生存さえ脅かされていた彼らだったが、ここ数年の間に途上国における医療や福祉やサービスの不足、障害を理由とする権利の剥奪など、彼らの抱える「問題」が語られるようになってきた(注4)。それには、1970年代から顕著になってきた先進国における障害者運動の興隆と(注5)障害者への注目、そして1983年から1992年の「国連障害者の10年」と、それに続く1993年から2002年までの「アジア太平洋障害者の10年」などの、世界規模の障害者問題への関心の高まりが背景にある。政府間援助だけでなく、障害者インターナショナル(DPI=The Disabled People's International)の結成(注6)、健常者・障害者双方の様々な非政府組織(NGO=Non-Governmental Organization)による援助や支援や交流など、障害者をめぐって情報や人が世界規模で行き交っている。私自身、フィリピンの貧困層の障害児を支援する日本のNGO、バタバタの会のメンバーの一人としても、その流れの中にいる。バタバタの会は、骨形成不全症という障害を持つ女性、安積遊歩を代表に1992年に結成された。活動内容としては、フィリピン国内のNGO、フィリピン障害者連合(KAMPI=The Katipunan ng Maykapansanan sa Philipinas, Inc.)を通じて、フィリピンのメトロ・マニラ地域にあるスラムの障害児を対象とした、刺激治療活動センター(STAC=Stimulation and Therapeutic Activity Center)プログラムの運営の補助を、主に財政援助という点で行っている。
 しかし、このように先進国で把握され語られる問題は、本当に彼らのリアリティを表しているのか。私が「障害者問題」の構築に疑問を抱き始めた契機は、先進国における自立生活(Independent Living)(注7)の思想が、様々な活動や交流を通じてフィリピンに流入しているのを見て(バタバタの会の活動もまさにその一つである)、次のように考えたからである。文化的・社会的状況の違うフィリピンにおいて、自立生活の思想は果たして広がるのだろうか。そして、それが広がることで、フィリピンの障害者はより「幸せ」になれるのだろうか。直輸入することに無理があるとすれば、どのような「フィリピン版自立生活」が可能で、先進国日本の健常者である私はどのように関わっていけるのだろうか。そして、修士2年目を休学し、KAMPIに何度も足を運び、フィリピンの「障害者問題」に対する解決策である、フィリピン版自立生活の可能性を模索しているうちに、私は自分の考え方がスタート地点から間違っていたと考えるようになった。
 当初、私はある程度普遍的な「障害者問題」が存在すると考えており、共通の問題に対する、文化的・社会的背景をふまえた異なる解決策を模索しようとしていた。だが、調査を進めるにしたがい、そもそも先進国と途上国では、「障害者問題」の質が違うのではないかと、問題の把握そのものに疑問を持つようになった。
 貧困層の障害者の抱えている問題とは何か。それは、必ずしも医療の現場で語られるようなインペアメントを持っていることでもなく、先進国の障害者解放運動が展開してきた、支配文化としての健常者文化対それに従属を強いられる障害者文化という図式でもないのではないか。そして、先進国の健常者・障害者とも、貧困層の「障害者問題」を理解することなく、自ら問題を構築し、それを解決しようとしているようにみえる。
 この問題意識を出発点として、本稿ではフィリピン貧困層の状況を整理し、先進国の構築した問題把握のあり方とその解決策にひそむ問題を、バタバタの会の活動を事例としながら明らかにする。この目的にむけ、本論の前半では主に事例を詳述し、私自身の議論は後半にのべる。

第1章:フィリピン貧困層の障害者


第1節 用語の説明

 まず、本稿で対象として取り上げる「フィリピン貧困層の障害者」とは、具体的にどのような状況にいる誰のことなのか。
 どのような状態を「貧困」と呼ぶかは定義による。同じ「貧困層」でも、都市と農村ではその性質は異なる。バタバタの会が支援している、障害児へのサービス提供センターSTAC(後述)は、メトロ・マニラのケソン市にあり、親の所得が月額8千ペソ(1ペソ=約2.5円/1999年12月現在)以下の家庭を対象にサービスを提供している。中には月額2千ペソや、月によっては無収入の家庭もある。また、たとえ家庭内所得が8千ペソ以上あったとしても、子どもが6人いれば食べていくのに決して充分ではない。この「8千ペソ」はあくまでも目安であって厳密ではない。
 彼らの多くは、スラム/スクオッター地区(注8)の6畳ほどの部屋に6〜7人で住み、食事は一日に2回ないしは1回。子どもを学校にやる経済的余裕もなく、働ける子は小さい時から家事や親の仕事の手伝いをし、車に乗っている人達に、香りのいいサンパギータの花輪を売るなどして働いている。一般的な親の仕事は、サリサリ・ストア(雑貨屋)の経営、洗濯婦、ジプニー(ジープを改造した乗合タクシー)やトライシクル(三輪車)の運転手、その他建築現場等での日雇いや短期雇いの労働者で、定職について収入が安定している家庭はほとんどない。夫が家を出ていったため、母親一人で子どもを何人も育てている家庭も多い。STACセンターに来る障害児や母親たち、つまりここで語る「貧困層」とは、そのような生活をしている人達である。
 本稿は、そうした環境にいる「障害者」を対象とするが、「障害」に関する国際的な定義は、現時点では存在しない。WHOは、障害を機能障害(impairment)、能力障害(disability)、社会的不利(handicap)の3つに分けて定義し(注9)、DPIは第三回世界評議会で「ディスアビリティ(障害)は、身体的、精神的、感覚的インペアメント(損傷)により起きる個人の機能的制約」で、「ハンディキャップ(社会的障壁:不利益)は、物理的社会的障壁により他の人と同じレベルで地域社会の通常の生活に参加する機会が失われているもしくは制限されていること」という定義をつくり出している(注10)。
 いずれにしても、西洋医学におけるインペアメント(機能障害、損傷)の診断があり、それゆえのディスアビリティとハンディキャップを語っている。バタバタの会の運営するSTACセンターを訪れる障害児は、来所後医師の診断を受けており、西洋医学的診断に基づいた「障害者」である。しかし、フィリピン貧困層で一般に語られる「障害者」は、必ずしもインペアメントという診断に基づくものではない。むしろ、本稿における「障害者」は、倉本智明の「身体上の差異にかかわって他の人びとから分かたれ、『障害者』と名づけられるとともに、『障害者』としてふるまうことを期待される人びと(注11)」と重なる部分が多いように考える。


第2節  家庭・社会の中での障害者

 フィリピンの貧困層では、障害者はどのように見られ、扱われているのだろうか。医療や福祉面でのサービスが不充分で、たとえ何らかのサービスがあっても、困難なアクセスや、経済的な問題などで、途上国では障害者のライフスパンは健常者と比べて短いと言われている。WHOの資料によると、先天的、もしくは乳児期に障害を持った場合、多くの子どもは20歳以上は生きられないとされる(注12)。
 農村地域においては、障害者は家族によって、家の中に隠されてしまうことが多い(注13)。それは、一部の貧困層や農村の人達の間では、障害は悪霊のしわざないし神の罰、または伝染すると信じられているためである。しかし、家族が障害者を恥とみなすこと以外に、障害者がほとんど家から出ない理由は他にもある。子供を愛するあまり、近所の人たちからの苛めや冷たい風から子供を守ろうとして外に出さない場合や、車椅子もないような環境では、子供が大きくなると、物理的に外出しにくい。まれに、障害児を「幸運の印」と考え、御守りのように家の中で大事に育てることもある(注14)。
 都市スラムの場合、障害児に対する家族の対応は、無関心と過保護に大きく分けられる。貧しい家庭では子供が労働力となることを期待するが、障害児、特に重度となると遺棄されたり売られることもある。障害児の売買については第三章で述べるが、捨てられた障害児は、運がよければ拾われて養子にされたり施設に届けられる。しかし、ストリートチルドレンとして生き抜くことが困難な彼らは、その多くはそのまま死んでしまう。たとえ捨てられなかったとしても、「生産性がない」とみなされる障害児は、親の注意を得ずに放置され、食事や就学の機会を最後にされるなど、無用の重荷と見られるケースが多い。また、親に障害に関して充分な知識や情報がないと、KAMPIのようなNGOを探し、サービスを獲得しようという発想にならない。たとえ、他の子とは違うケアが必要と理解したとしても、時間的・経済的余裕がなく、結果として放置してしまうこともある。
 反対に、家族、特に母親から溺愛される場合もある。貧困層の障害児の場合、前述したように、多くはあまり長く生きられない。そのため、親は与えられるものは何でも与え、子どもの要求に最大限応えようとする。
 カトリック教徒が全人口の85%を占めているフィリピンにおいて、障害者は長いこと憐れみや慈善の対象であった。1984年9月に「一定の建物、施設、公共設備、その他の公共事業に設備や機器を設置することを要求することにより、障害者の移動を促進する法」である「アクセス法(Accessibility Law)」が発効され、1992年3月に、「障害者のマグナ・カルタ(Magna Carta for Disabled Persons)」が共和国法7277号として調印された。マグナ・カルタは、障害者をフィリピン社会の一員とし、彼らの全面的幸福や社会的統合への国家の充分な支援、障害者の尊厳の主張と推進、社会統合を阻止するすべての障壁の除去等を原則とした(注15)。しかし実際には、都市の一部の地域でしかアクセスは改善されておらず、障害児を積極的に受け入れる学校も少なく、就学・雇用の機会とも制限されている。障害者を「憐れみの対象」として見るため、障害者には好意的に接しながらも、自分たちと同じ社会の一員と見なすことは少ない。


第3節 フィリピン国内の障害当事者団体

 そうした中、フィリピンでいつ頃からどのように障害当事者(注16)が社会的に声をあげるようになったのか。この点については資料もなく明確でない。現KAMPI代表のヴィーナス・イラガンによると、数は少ないながらも1970年代頃から当事者団体はフィリピン国内、主に都市部に存在したという。しかしそれらは、ある程度の医療サービスを受けられる余裕があるか、成人できるほど軽度だったか、または成人後に障害を持つにいたった障害者で、教育を受けた、問題意識のある中産階級の障害者が主体の団体だったと推察される。当時は当事者団体間のつながりがほとんどなく、障害者の多くは教会や上流階級の慈善の対象だったという。
 1990年7月に、ネグロス・オキシデンタルのバゴ市で開催された第二回障害者全国会議において、フィリピン全土の障害当事者団体の連携強化、プロジェクト、情報、サービスに関する効率的なネットワーク形成を目的として、フィリピン障害者連合(KAMPI)が設立された。当初は、7地域から11団体が参加していたにすぎなかったが、1999年8月の時点では、58地域から231団体がメンバーとなり、その後もKAMPIは全国レベルで障害者のリーダーシップ育成、当事者団体結成の補助を行っている。1993年の第三回全国会議において、異なる地域出身の、15人の理事からなる現在の形ができあがった。1995年、セブ市で開催された第四回全国会議のときに、現代表のイラガンが代表に選出され、現在は3期目を務めている。本部はメトロ・マニラのケソン市にある。
 前代表による援助金の不正利用などにより、イラガン着任時にはKAMPIは大幅な赤字を抱えていた。しかし、安積やDPIによる援助、イラガンの手腕等により、KAMPIの経営は改善し、その後は国内外において積極的な障害者運動を展開するようになった。KAMPIは、障害者がフィリピン社会において対等な一員となり、障害者の社会参加を妨げている全ての障壁を除去することを目的に、STACの運営の他にも、直接的なサービスの提供や広報活動など、様々な活動を行っている。
 その主な内容として、障害者に対しては草の根レベルでの指導者の養成、所得創出援助プログラム、無料の医療・法律・雇用相談、年4回発行するニュースレターによる情報提供等があげられる。国内レベルにおいては、「国連障害者の機会均等化に関する基準規則(The UN Standard Rules on the Equalization of Opportunities of Persons with Disabilities)」をもとに、全国の地方自治体で権利養護のキャンペーン、リハビリテーションや予防、障害に関する問題に関与する政府や民間の専門家や団体との連携の強化を行っている(注17)。
 年会費は、支部会員は20ペソ、支持会員は500ペソ、学生は2ペソである。しかし、貧困層の会員が大多数を占め、会費の納入は潤滑ではない。KAMPIにとり、国外の政府・民間団体からの援助金が最大の収入源になっていることから(注18)、国際的な広報活動は重要である。海外からの視察団を積極的に受け入れるほか、イラガンはDPIアジア太平洋地域副事務局長、DPI世界評議会評議委員を務め、国際的な場においてフィリピン障害者の現状を報告等の活動を通じて、KAMPIの知名度をあげている。
 このように、国際的に知名度があがり、国外の障害当事者団体や支援団体との関係が強化されることは、国内に対してもアピール力があり、KAMPIの信用度を増大させている。イラガンは、KAMPIの存在意義について「田舎の小さな当事者団体が、国内外の支援団体に対して何か要求を出しても相手にされにくいが、KAMPIを通すことによって支援が受けやすくなる」と私に語った。
 KAMPIは全国規模の障害者連合として、障害者福祉国家委員会(NCWDP=the National Council for the Welfare of Disabled Persons)とパートナーシップを結び、対障害者政策の企画・実行・評価について、政府からも定期的に意見を求められるようになった。1998年5月に行われた国会議員選挙において、KAMPIは傘下の団体への働きかけ、その結果視覚障害者でKAMPIの活動的なリーダーの一人である、オスカー・タレオン氏が下院議員になるなど、その政治的な発言力を強化している(注19)。


第2章:バタバタの会とSTACプログラム

第1節  バタバタの会設立の背景

 1992年11月、障害者自立生活センターである、八王子のヒューマンケア協会でピアカウンセラー(注20)として働いていた安積遊歩は、当時のKAMPI代表、アウロラ・ベイビー・エストレーリャから自立生活に関する話をしてほしいという依頼を受け、マニラに赴いた。安積自身、カリフォルニア州バークレーの障害者自立生活センターに留学し、帰国後は日本における自立生活運動の一線で活動を行っていた(注21)。だが、日本のように車椅子や補装具の支給、障害者年金がないフィリピンにおいて、日本における自立生活への取り組みを話しても、彼らの現実とはかけ離れすぎていると判断した安積は、急遽講演内容を「障害を持つ人達の愛と性」というテーマに変更した(注22)。
 そして、翌日KAMPIのオフィスを訪れた安積は、栄養不良で生後2、3ヶ月と思われるほど小さい、生後8ヶ月の乳児と、捨てられていたその障害児を拾って育てているという母親に会った。その時感じたことを、安積は以下のように語っている。

 「(栄養失調児とその母親に会って)自分の家族の生活だけで手一杯だろうに、それでも捨てられていた子どもを引き取って育てようという気持ちを持っている――ショックだった。私も何かしなければ、という思いにせかされて、さっそくイベントを企画した女性たちに相談した。当然のことながら、いちばん必要なのはお金だという。私はその場で心を決め、毎月カンパしてくれる人を日本で集めると約束したのだった」(注23)

 フィリピンでは障害のない子どもでも、経済的な余裕がなく学校に通えず満足に食事がとれない状況にあるが、障害児になるとそれが極端に悪化するケースが多い。そこで、子供一人あたり月2千円あれば、十分に食べて学校にも通えると聞いた安積は、帰国後さっそく「バタバタの会」を設立し、その宣伝およびスポンサーの獲得をはじめた。「とりあえず50人の子ども達の保障はする」という約束のもと、月々2千円の会費を納入する会員を50名集めることを最初の目標にした。安積は自らの講演会ごとに同会の宣伝をし、雑誌や新聞の取材を受けることもあり、会員数は1996年には200名を超えた。しかし、会があまりに巨大になり、管理・運営が複雑になることを恐れた安積は、それ以上規模の拡大を行ってない。同会では、年に数回不定期でニュースレターを発行するほか、年に一度スタディツアーを行っている。
 「バタ」はタガログ語で「子ども」、「バタバタの会」は「子どもたちの会」という意味である。その名の通り、センターでは0歳から14歳までの障害児を対象にしている。世界的にみてもアジアの子どもたちへの援助活動は数多くあるが、障害児にターゲットをしぼったものはあまりない。後に安積は、自分が障害児を対象として選んだことには、「同じ障害者」として自分の幼少期と重ね合わせたことが大きな理由だと語っている。
 安積と同様に、途上国への支援を始める先進国の障害者の中には、自分と「同じ障害者」、「仲間」を応援したいという意識が見うけられる。バタバタの会のスポンサーにも障害当事者やその家族が何人もおり、スタディツアーにも参加している。私自身、フィリピンへのスタディツアーに3回同行しているが、障害者の参加者からは「仲間がフィリピンでどのような生活をしているか知りたかった」という発言が聞かれた。自ら障害を持ち、国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP=Economic and Social Commission for Asia and the Pacific)にて勤務した後、東京でアジア・ディスアビリティ・インスティチュートを設立した中西由起子は、他のアジアの国々と日本人の障害者は、「同様な問題を抱える同士である」という表現をしている(注24)。
 障害者は、何に同一性を見出すのか。この点について、20年以上障害者運動に携わってきた、アメリカの障害当事者団体MIUSA(Mobility International U.S.A.)代表のスーザン・シーガルは、ベトナムを訪れた際のレポートに、次のように述べている。

 「障害者は同じ家族の一員であり、雇用、教育、交通、住宅、レクリエーション、エンパワメント、自己信頼という共通のニーズのもとでは、政治的信条や国境は二次的なものになる」(注25)

 また、ピーター・コーリッジも「障害者は世界の北、南両方でのあらゆる国で抑圧され、排斥されている。恐れや偏見から起こる社会の態度によって抑圧されている(注26)」と述べ、健常者社会から同様な差別、抑圧、社会的不利益を被っているという点での障害者の同一性を示唆している。安積がバタバタの会を設立し、スラムの障害児やKAMPIの支援を始めたのも、まさにそのような同一性を、フィリピンの障害者に対して抱いたからと言える。

第2節 STACプログラムとそのねらい

 バタバタの会による支援金で、具体的にはどのようなことがKAMPIで行われるようになったのか。
 KAMPIでは、すでに1991年から貧困層の障害児のために医療費の援助、事務所に子供を集めての読み書き・手話などの教育、一日一食しかとれない子どもへの軽食提供などのプログラムを開始していた。安積は当時のソーシャルワーカー、メラニー・カタランの助言に従い、これを補強する形の刺激治療センター(STAC=The Stimulation and Therapeutic Activity Center)プログラムへの支援を開始した。バタバタの会は、スタディツアーを含めてなるべく現地を訪れ、障害児、その親、スタッフとの交流をはかった。しかし、現地に日本人スタッフはおかず、基本的には財政支援だけを行い、会計・活動報告を半期に一度受け取る他は、具体的なプログラムの企画・運営は現地のニーズと判断を尊重した。バタバタの会のそうした方針は、当事者主体であるべきだという、安積の中の障害者自立生活の思想が反映されていると言える。
 同センター設立時の一番の目的は、家から出て人と接する機会がほとんどない障害児に、外に出るきっかけを与え、「遊び場」を提供することだった。障害を治す必要のあるものと必ずしも考えない安積は、センターが「治療の場」でなく、あくまでも障害児たちの「遊び場」となることにこだわった。そして、障害児たちがここで遊びながら、他の障害児やスタッフと接することで社交性を身につけ、マッサージやリハビリ、点字や手話の教育を受けられるようにした。障害児は極度の栄養失調である場合が多く、彼らにとってはセンターまでの交通費も大きな負担になる。そのため、センターに来た彼らには、なるべく栄養のあるおやつを提供し、交通費も一部支給した。
 プログラムの宣伝は、ソーシャルワーカーのメラニー・カタランが、センター周辺のスラム/スクオッター地域の家庭を一軒一軒訪ねておこなった。カタランは、「最初は全然信用してもらえず、顔も見ないでドアをガチャンと閉められることもあった。スラムには沢山のNGOが来て、同じように家をまわったりしてるが、何も変わらないというのが彼らの言い分だった」と述懐している(注27)。しかし、そうしたカタランの努力や、すでに来所している障害児の親による口コミにより、子どもの数も当初の9人から、徐々に増えていった。
 人数が増えるに従い、サービス内容も変化した。病院と大学から、理学療法士と作業療法士がボランティアで訪れるようになり、セント・ルクス・ホスピタルの発育障害専門の医師が、定期的に無料で子どもたちを見てくれることになった。1994年には、スタッフが各地のコミュニティーセンターに出向き、セミナーを開くなどセンター外でも様々なプログラムを提供するようになった。その他、来所する子供たち以外にも、視覚障害や難聴の子ども達の就学補助を開始した。重度の障害児の場合介助探しが困難で、ジプニー(乗合バス)の乗車拒否にあう場合も多いので、1996年には障害児の送迎用のジプニーを一台購入した。
 センターを訪れる障害児の数が百名を超えた時点で、クラスを午前と午後に分け、金曜日はソーシャルワーカーが直接スラムに出向く訪問活動日とした。STACがより子どもたちの学びの助けになるよう、新しく黒板、脳性麻痺の子ども用の椅子、教育おもちゃ、学用品なども増えていった。
 1999年の時点では、理学療法、作業療法、親への資金の貸し出し、補助具の提供、障害児への就学前の学習、基本的なリハビリテーション技術の親への教育、カウンセリング、給食、センターでは提供できない医療や歯科医療等への照会サービスの他、クリスマスパーティや運動会のようなイベントも行っている。
 現在では、センターのスタッフはソーシャルワーカー1人、理学療法士1人、作業療法士1人の計3名である。フィリピンでは理学療法士や作業療法士は、学校を卒業するために、1ヶ月ずつ10ヶ所、計10ヶ月病院や施設などでインターンとして実習を行わなければならない。KAMPIは、センターが彼らの実習先となるよう、いくつかの大学と提携しているので、センターにはそうしたインターン生が常時10人前後おり、子どもたちの相手をしている。
 来所する母親の中には、子どもの障害についての知識が乏しく、他の子と同様のことができないと子どもを殴ったり、障害のない子と同じように抱きかかえたり座らせようとする人が多い。そのためセンターでは、障害児をつれてきた母親に対して、簡単なリハビリテーション等のトレーニングやカウンセリングもおこなっている。また、たとえ大家族で暮らしていようと、母親だけが障害児の面倒をみる場合が多いので、家族の他のメンバーにも協力してもらうよう勧めている。
 センターでは、障害児への軽食支給の準備を、毎日二人の母親に手伝ってもらうなど、母親の積極的な活動参加を促している。それは、親がセンターに依存し、自分で子どもの面倒をみなくなることを避けるためだとしている。けれども、それでも親たちは、車椅子がほしい資金がもっと自分の子供のために使えるようにしてほしい等の要望を数多くあげ、リハビリや教育の専門家が子供を障害から救ってくれるという思いを強く持っていると代々のスタッフは語っている。
 STACでは1994年から、母親の経済的自立を援助するために、ピアスやペンケース作りを教え、商い準備金の貸し出しを始めた。それによって、少しでも家族が障害児を負担に感じることがなくなり、重度の障害児が最低限ではあっても、より良い食べ物を得られるようにと考えてのことだ。現在では、収入が安定したら返済してもらい、次の親の元金として貸し出す継続的制度を作る方向にある(注28)。


第2節  STACプログラムから見えてくるもの

 フィリピンにおいて、バタバタの会の支援によって始められたSTACプログラムの成否は、どのように評価しうるのだろうか。
 1992年の設立当初、STACプログラムのスポンサーはバタバタの会だけだったが、1994年からデンマーク国際開発事業団(DANIDA=The Danish International Development Agency)の注目をひきはじめた。そしてSTACプログラムは、デンマークのポリオ・事故被害者協会(PTU=The Danish Society of Polio and Accident Victims)とDANIDAの支援をうけ、1996年にパナイ島のイロイロ市に同様のセンターが開設された後、ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロ市、ルソン島のケソン市、バギオ市、トゥゲガラオ市の5つの市に拡大され、KAMPIを代表するプロジェクトとして発展していった。このプロジェクトは、それまで見落とされていた貧困層の障害児への効果的なサービス提供プログラムとして世界的に有名になり、世界各地から視察団が訪れるほどになった。 バタバタの会が支援しているセンターを訪れた障害児の数は、1999年12月の時点で252人にのぼり、そのうち52人は地域の小学校に「統合」されていった(注29)。この252人は、別の施設やサービスに移ったり、他の地域に引っ越した子どもも含んだ数字であり、全員が来所しているわけではない。現在では、スタッフ数や施設の関係上、来所してもらっても対応しきれないこともある。
 多くの障害児を受け入れることができたという点では、STACプログラムは成功したと言えよう。来所者数が増えたことは、それだけ社会的にセンターの存在が認知されてきた証である。来所を勧める家族が多いということは、彼らの満足度が高い証拠だと言える。そして、STACの存在を知った親たちは、そこが子どものために何かしてくれると期待し、センターを訪れている。
 だが、中には定期的な来所が必要とされながらも、来所の頻度が少なかったり、足が途絶える子どもがいる。来所が途絶える理由のひとつは、センターへの送迎が親にとり大きな負担だという点にある。センターのジプニーは、家の遠い子や障害が重度の子を優先的に送迎する。交通費の補助が出るとはいえ、日々の生活さえもままらない彼らにとって、たとえ一日3ペソ(ジプニーの初乗り料金)の出費でも大きな負担となる。また、母親が仕事をしていたり求職中である場合が多く、そうした中、交通費を払い、時間を費やしてまでセンターに来るには、それなりに「メリット」が必要になる。
 たとえ、そこで遊ぶことで社交性が身につき、ただ家に放置されるよりは子どもの成長に「プラス」になるとしても、そのために彼らが支払う代価(交通費と時間)があまりにも大きい。そのため、「プラス」がはっきりと目に見えるものでないと、親は満足しない。そうした中で、親にとって一番の「目に見えるプラス」というのは、子どもの身体的な機能回復になる。スタッフは親に、子どもの障害は良くなっているかとよく質問される。そこで、何も「進歩」がないと、親はがっかりし、連れてきても仕方がないと思うようになる。そのため、スタッフも障害児の「進歩」に力を入れるようになり、「遊び場」だったセンターは「治療の場」となり、「障害は治さなければいけない」という意識が拡散していく。しかも、子どもの機能回復がプラスになるには、その子どもが多少なりとも働けるようになればこそで、そうでなければ、リハビリや教育補助を受けにセンターに来るインセンティブにはならない。
 安積は次のように語る。

 「今一番考えているのは、障害を持つ子の家族が経済的自立を少しでも果たしていくために、どんな援助ができるかと言うことだ。今までは魚屋、雑貨屋、豚飼いの商いなどを援助するプログラムを立ててきたが、それを恒常的で安定したものにするためにはどうしたらいいのか。そうでないと、子供たちの栄養失調、不良状態は改善しないだろう。今後は、子供たちの一過性の状態を改善してきた今までから、これからは家族全体の自立という視点を入れていく必要がある」(注30)

 ここでは、食べられないまでの貧困が障害児とその家族に与える影響、そして、その貧困がわずかでも緩和されない限り、障害児の状況改善が困難なことが示唆されている。貧困問題があまりに大きいため、その解決策である経済力がフィリピンにおいては前面に押し出される、そうした状況では生産性のない障害児はどこまでいっても救われることはない。


第3章:貧困の中の障害者

 前章において、STACプログラムを見ることにより、「貧困層の障害児」のおかれている、より根源的な状況として、「貧困」の大きさが浮き彫りにされた。本章では、フィリピンにおける「貧困」と「障害」の関係を細かく検討したい。


第1節  障害の原因

 「貧困」と「障害」の密接な関係は、障害の原因について見た場合からもうかがえる。もちろん、障害をもたらす「身体的な差異」は、後天的なならまだしも先天的な場合、その原因を明らかにすることは難しい。しかし、そこにはいくつかの観察が可能である。
 途上国における障害の原因のひとつは栄養失調だが、これは授乳する母親の栄養状態のほか、ただ色を白くしただけの栄養価の低い粉ミルクを飲ませることも影響している。ポリオ、結核、ハンセン病、エイズ等の伝染病や、都市スラムにおいては環境破壊と衛生の不備も大きな問題である。その例として、スモーキーマウンテン、飲料水の汚染、下水処理の未整備があげられる。農村部では、やしの木からの落下が大きな事故原因とされているが、都市では、無謀な運転をする車による交通事故や、未熟練労働や児童労働による労働災害などもある(注31)。
 医療不備も大きな問題である。STACに来所している子どもの中にも、乳児期に高熱を出し、経済的理由で近代医療を受けられずに放置されたり、民間療法などに頼ったことで、障害を持つにいたった子が多い。その他、母親が子どもの健康状態を見誤って症状が悪化したり、医師による誤った処置のために障害を持つにいたったケースも多い。そうした時でも、彼らには医師を訴えたり賠償を要求するほどの立場の強さはない。
 フィリピンでは、中絶は違法であるため、すでに何人も子どもがおり、それ以上産むことが困難な状況にいる貧困層の女性は、闇で中絶する。支給された「薬」を服飲したり、医師でもない人間が妊婦の腹部を圧迫して堕胎させることもある。こうした、不適切な堕胎方法により、障害児が生まれてきたり、妊婦が障害を持つにいたる場合もある。
 もう一つ貧困層に特徴的なのは、睡眠薬の服用である。空腹のために泣く赤ん坊を黙らせるため、親が睡眠薬を飲ませ、例え24時間以上眠ったままでもそのままにしてしまう。ある程度成長した子どもだと、自ら睡眠薬やシンナーを服飲して眠りにつく。そのため、脳に障害がでたり、目が覚めても意識が朦朧としたまま車道に出て、車にひかれてしまう場合もある。
 最近では、貧困層の人達による臓器売買も大きな問題となり、国内のニュースでも取り上げられている。臓器売買は違法であるため闇で行われ、アフターケアがなされることはない。その結果、臓器を売却した人は数ヶ月後には体調を崩し、命を落とすこともある。
第2節  マイナス要因とならない障害

 すでに記したように、障害児は貧困の中で、とりわけ弱く、周辺においやられた存在である。しかし、貧困の中では、日々生きるために臓器売買やHIV感染の可能性のある売春など、相応の意味を持つ。障害に結びつくかもしれないそのような行いが肯定されるような状況では、障害は必ずしも「マイナス要因」とみなされるわけではない。第二章第二節で、障害児の売買にふれたが、障害児が売買の対象に――「商品」となる理由は、次の通りである。
 マニラ市内では、物乞いの姿が数多く見うけられるが、彼らの中でも障害者の方が人々の同情をかうので実入りがいい。また、マニラに数多くあるNGOや政府機関などに障害児をつれていき、その子の「手術費用の補助金」や何らかの援助を獲得することもある。その道具として、障害児は売買される。もっとも、最近ではこのような手口には皆慎重で、KAMPIでも障害児が入院した場合の補助などは、親に払うのではなく、直接病院に払うようにしている。
 KAMPIでは、障害児への軽食提供や就学のサポートを行っていると書いたが、栄養不良や経済的余裕がなくて学校に行けないのは、障害児だけではない。もちろん、そうした子ども達の中でも、障害児の場合は特に事態は厳しい。しかし、障害児のいる家庭だけがサービスを受けられることに対して、中には健常児の家庭から「健常児差別」という不満の声があがることもある。マニラ近郊にある、障害者のための職業訓練所「階段のない家(Tahanang Walang Hagdan)」では、寮や住宅手当があり、訓練修了後でも同所に残ってわずかながらでも給料をもらって働けるため、入所を希望する健常者が月に何人も訪れる。
 ただ、それは貧困層にとり障害を持つことがメリットがあり、健常者以上の明るい未来が用意されていることを意味しない。たとえ物乞いで障害者の方が実入りが良くNGO等から資金を獲得できようと、彼らは搾取の対象になる。だが、障害が生きていくための道具になりえるような、貧困層の障害者のおかれている複雑な状況は理解に努める必要がある。
 本稿が「フィリピン貧困層の障害者」というように、「貧困層」に対象を限定する理由は、フィリピンでは貧富の差が大きく、階層(注32)や経済状態により生活状況が全く異なるからである。この社会では、障害の有無より、どの利益集団に属するか(階層、ジェンダー、都市と農村など)の方が生存上重要な場合がある。そのため、障害が必ずしも彼らの置かれている困難な状況の主因とは言いきれない。中産・富裕層の障害者の中には、貧困層の健常者を安い賃金で雇い大学に行き、自ら会社をおこしたり弁護士になるなど、場合によっては先進国の障害者よりも自由に「自立」した生活を送っている。こうした環境の中では、障害というのは必ずしも決定的なマイナス要因とはならない。

第3節  異なる障害者像

 フィリピンの障害者のなかに、どれほど「同じ障害者」としての共通体験や、意識があるのか。置かれている状況が違えば、当然のことながらニーズも違ってくる。車椅子に乗れば建物にスロープがつくことを要求するだろうし、学校に通う余裕があれば、障害による差別の撤廃を要求するだろう。しかし、途上国の障害者の中で大多数をしめる貧困層の場合、車椅子は購入できず、学校に行く経済的な余裕もない。そうした彼らにとっては、スロープも就学時の差別撤廃も、二次的なことである(注33)。KAMPIが障害者の人権や機会均等のための法律改正に関するセミナーを開いても、出席者はごく少ない。しかし、所得創出に関するセミナーの場合、会場は出席者で満員になるほどである。
 障害者をめぐる環境は、階層や利益集団別分断されている。したがって、中産階級や都市でおこった自助運動が貧困層や農村の障害者を代弁することは難しい。また、彼らが手にした自由や権利が貧困層にまで波及するとは容易には考えられない。その困難は、ジェンダーその他の問題についても語られてきた。国内で注目を集める場面や国際的な舞台において「障害当事者」として自らの状況やニーズを語るのは、えてして教育レベルが高く、優勢な利益集団に属する障害者である。彼/女らの発言は、同国で最底辺におかれている貧困層の障害者を必ずしも代弁しているわけではない。
 フィリピンの障害者運動においても、「障害者をメインストリームへ」という言葉が聞かれる。しかし、フィリピンの貧困層の障害児にとっては、何が「メインストリーム」なのか。スラム地域の健常児のおかれている状況を見た場合、彼らの多くは学校に行かず、家事を手伝い、わずかな仕事をし、親に虐待され、売春に身を投じ、ストリートチルドレン化している。スラムの子どもたちの、このような主流を変えないかぎり、障害児の厳しい状況も変わりえない。もし障害がなかったら、その子どもたちの暮らしはもっと良かったのだろうか。そうだと自信を持って答えることが私にはできない。彼らのおかれた厳しい状況の中で、障害が作りだした部分は、貧困に比べて二義的とさえ言えよう。
 貧困層以外でも、障害者の抱える問題が「贅沢な悩み」であるはずはない。たとえ貧困から免れようと、障害者は同じ利益集団内での差別・偏見に直面する。「障害者」という枠組みで切り取った場合、確かにそこには健常者という共通の「他者」がいる。しかし、利益集団別の差異が障害の有無より大きければ、「インペアメント」を治療することで問題を解決しようとする医学モデルも、健常者社会のとの関係性に問題をみいだす社会モデルも、貧困層の障害者への解答になりはしない。
 医療は先進国(西洋)の健常者による障害者の同一化であり、自立生活運動などの障害者解放運動は障害者による障害者の同一化である。先進国によるこのような同一化は、フィリピンの障害者に対してプラスに働いた面もある。第一章第三節で述べたように、先進国の障害者との同一性の強調は、物理的・財政的支援の獲得を容易にし、政治的発言力を増大させた。フィリピンの障害者にとり、同一性の強調は戦略的に有効であると言える。しかし、前述のように、組織の巨大化は貧困層の障害者の状況改善を直接意味しない。その点を勘案せず、国外の団体が流入した場合、貧困層の「障害者問題」が放置される危険性もある。
 先進国側の人間は、健常者・障害者であれ、岡真理がフェミニズムの世界的展開において指摘するように(注34)、先進国の障害者の特定の経験に規定された「障害者問題」を普遍的なものとして語りがちである。しかし、このように自文化中心主義的に「障害者」という同一性を作り出すことで、途上国に対して植民地主義的な権力行使を行っている可能性があることには注意しなければならない。そして、「障害者」という語り自体を持ちこむことを通じ、「障害者」を作り出しているかもしれないことにも。


終章:途上国の「障害者問題」を前にして
              ――先進国の健常者として

 途上国の「障害者問題」に関わる先進国側は、途上国の障害者に対し「同じ障害者」という同一性を見出し、自文化中心主義的に問題を構築していると私は考える。障害だけを一義的にとらえ、その解決をリハビリテーション、治療という視点から捉えただけでは、たとえ機能的に健常者にわずかでも近づいたにせよ、貧困層の障害者のおかれた「困難な状況」の改善には必ずしも結びつかない。
 第二章第三節で、私は先進国の障害者社会には障害者を被抑圧者として一般化する傾向があることを指摘した。しかし、それが途上国の障害者社会に投影された場合、そこに内在する利益集団差が見落され、社会基盤の全体的脆弱性による彼らの現状改善の限界という問題点が看過される危険がある。
 本稿では、先進国における「障害者問題」の構築と、それへの解決策の限界を指摘してきた。それは、従来おこなわれてきた、先進国による強固な「障害者問題」の構築性の見なおしを意図している。
 外部のみが問題を構築することがあってはならない。私たちは、欠乏を惨めで不幸な状態だと危機感を持ちやすい。不足イコール劣、過分イコール優のイメージである。そのイメージにより、健常者は障害を、富める者は貧困を問題にし、それを解決しようとしてきた。
 しかし、より多くを所有する、社会的・経済的な相対的「強者」が、自らが所有するものが欠如する状況を一方的に問題と認識し、その問題解決のために介入することは避けなければならない。そうした時に行われる介入は、治療、慈善、発展という名のもと、無条件に正当化される。介入の暴力性については、大塚和夫がフォーラムにおけるウンベルト・エーコの発言を用いて以下のように述べている。

 「介入が決定される際には、およそ良心などは越えた次元で、暴力の原則が打ちたてられるのが常である。この暴力はかつては帝国主義的なものだったが、たとえ目的が人道的なものであっても暴力であることにかわりはない。介入とは、他の人間の暴力によって引き起こされた状況を、ある種の暴力によって解決するために行われるのである。

 このエーコの考え方に、筆者は同意する。介入は、いかに善意から出たものであっても、そして巨大な暴力に対する小さな抵抗であったとしても、それが暴力であることには変わりはない。少なくとも、その自覚は持つべきなのである」(注35)

 安積自身、医療専門家による介入に疑問をもち、それを拒否してきた経緯がある(注36)。その意味では、彼女自身、介入の持つ暴力性には自覚的であり、すでに述べたように、バタバタの会の方針にもその姿勢がうかがえる。途上国における「障害者問題」のみならず、「問題」の語りが困難なのは、問題の追究が問題の多面性を気づかせ、把握していたはずの問題の輪郭がずれてくるからである。そもそも、そこには本当に問題が存在するのかという問いすら出てくる。私は、センターに子どもをつれてくる母親たちと会話をしている時に、敬虔なカトリック信者である母親達からよく「神が与えてくれた人生だから、私は幸せだ」という言葉をきいた。そこに「問題」は存在するのか、しないのか。NGOを始めとする外部者は、常にこのようなジレンマを抱えている。しかし、問題の構築について考えた場合、内部者がそれを「問題」と認識しなければ、「問題」は存在しないとしていいわけではない。真に底辺においやられている人達は、自分たちが声をあげられることも知らない。そして、無介入は時には暴力的行為ですらあろう。
 バタバタの会も過渡期にある。KAMPIからは、2000年から15歳以上の障害者を対象に自立生活プログラムを行うための資金援助のプロポーザルが届いている(注37)。安積は、障害者に限定せず、より包括的に貧困層を取り込んだプログラムを作り、そうした中に障害者を含めていくことを検討している(注38)。先進国の健常者という、言葉上は「途上国の障害者」の対極にあり、構造的には不可避的に「抑圧者」に位置付けられる自分が、この流れの中で具体的にどのようなことができるのか。
 介入それ自体が問題なのではない。介入する外部者が、内部者をコントロールしようとする力の不均衡に問題があると私は考える。先進国や専門家など、経済的・社会的「強者」である外部者が内部者に関わる場合、常に自己の「不当性」を振り返る姿勢は持ちつづけ、内部者の視線によりそいつつ、オプションを提供していくことができればいいのではないかと私は考える。自己満足の罠に陥らず、自らの位置を見定めつつ何ができるかを、私自身の今後の課題としていきたい。



(注1)本稿で出典を明記していない一次データは、筆者が1998年2月から1999年12月までに計8回114日間にわたりKAMPIを訪問し、複数のスタッフとの対話、障害児/者
とその母親たちとの情報交換などを通じ得たものである。
(注2)E. Helander, P. Mendis, G. Nelson, A. Goerdt , Training in the Community for People with Disabilities, World Health Organization, Geneva, p.7, 1989.
(注3)「先進国」は、援助の提供者である世界の経済強国を指す言葉として使われ、「途上国」は、概して「先進国」からの援助や開発事業の対象となっている国々を指す。これらの用語は、あくまでも先進国がつけたもので問題も多い。しかし、本論の目的が「先進国/途上国論」ではないことから、一般に流布している用語を使用した。
(注4)中西由起子、久野研二『障害者の社会開発』明石書店、1999年、ピーター・コーリッジ(中西由起子訳)『アジア・アフリカの障害者とエンパワメント』明石書店、1999年参照。
(注5)たとえば、アメリカの自立生活運動、イギリスの「隔離に反対する身体障害者連盟」(UPIAS)の運動、日本の「青い芝の会」の運動などがある。
(注6)1981年にカナダを本部に結成された、障害当事者による国際的なネットワーク。1999年4月にアジア太平洋地域事務所は、それまであったフィリピンのマニラから、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーなど、より支援が必要と思われる地域に隣接するよう、タイのバンコクに移動された。(Disability International Asia-Pacific Region, Disable People's International, p.6, 4th quarter 1999.)
(注7)元来、障害は治療すべきものとして、専門化による個人への介入が行われていた(医学モデル)。しかし障害者は、問題は自分の身体にあるのではなく、障害者を排除する社会にあることを示し、社会・環境の変化を強調した(社会モデル)。社会モデルをより実践的にしたものが自立生活パラダイムである。1997年11月に東京で行われた日米障害者自立生活セミナーにおいて、全米自立生活評議会のアン・マリー・ヒューイは、自立生活パラダイムと伝統的パラダイムを比較した表を用いている(付表参照)。医学モデルと社会モデルについては、長瀬修「障害学へ向けて」、石川准、長瀬修『障害学への招待』明石書店、pp.11−39、1999年参照。
(注8)萩原は、「スラムとは、不良住宅地域で、その多くは民有地を賃借しているものであり、またスクオッターとは国有地などを不法に占拠したものである。前者の場合、生活場所として一応安定しているが、後者の場合は立ち退きなどの問題に遭遇することが多い」と定義している(萩原康生「開発途上国の福祉問題の根源」、萩原康生編『アジアの社会福祉』中央法規、pp.10−11、1995年)。スラムの具体的な状況や基本概念などについては、中西徹『スラムの経済学』東京大学出版会、p.3、1991年を参照のこと。
(注9)これは1980年に国際障害分類(ICIDH)として試案として提案され、現在では現代的修正に向けてのICIDH−2(2000年に発行予定)が進められている。
(注10)長瀬修「障害(者)の定義 英国の例・上」『ノーマライゼーション 障害者の福祉』1996年6月号。
(注11)倉本智明「障害と文化の視点」、倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』スペース96より近刊予定
(注12) E. Helander, P. Mendis, G. Nelson, A. Goerdt , Training in the Community for People with Disabilities, World Health Organization, Geneva, p.13, 1989.
(注13)都市スラムのように密集したところで狭い家に住んでいる場合は、隠す場所がないので、農村部のように隠されることはほとんどない。
(注14)ソーシャルワーカーの話によると、このような家庭の方が、かえって障害児にリハビリを受けさせることや、「対等」に扱うことを拒む傾向があると言う。
(注15)中西由起子『アジアの障害者』現代書館、pp.160−162、1996年。
(注16)豊田正弘は「問題の質が社会的であることによって社会の誰もが接点を有し、従って誰もが当事者であると言いうるのである。」(「当事者幻想論」『現代思想』pp.100−113、98年2月号)と広義の意味での「当事者」を指摘しているが、ここでは狭義の意味で、「障害を理由に、直接的な差別・抑圧を受けている者」を「障害当事者」とする。(注17) Venus M. Ilagan, “Training new leaders at KAMPI, Philippines”, Management of Self-help Organizations of People with Disabilities, Economic and Social Commission for Asia and the Pacific, New York, pp.43−48, 1997.参照。
(注18)フィリピンには6万以上のNGOが存在するが、その多くは国外のNGOの支援を受けている。シリマンは、フィリピン国内のNGOと国外NGOとの関係を、連帯、情報交換、資金援助の3つのパターンに分け、フィリピンにおける国外NGOの影響力を記している。G. Sidney Silliman, “The Transnational Relations of Philippine Non-Governmental Organizations”, G. Sidney Silliman and Lela Garner noble, editors, Organizing for Democracy, University of Hawaii Press, Hawaii, pp.49−74, 1998.
(注19) 1997-1998 Accomplishment Report, Katipunan ng Maykapansanan sa Pilipinas, Inc., p.5, 1999.
(注20)障害者同士(ピア=仲間同士)のカウンセリングという意味で、広義では情報提供や自立のノウハウを伝えていくこと、狭義では精神面でのケアを行う(堤愛子「ピア・カウンセリングって何?」『現代思想』p.92、1998年2月号)。
(注21)詳しくは、安積遊歩『癒しのセクシートリップ』太郎次郎社、1996年参照。
(注22)安積遊歩「福祉:フィリピンの障害児のために」『ライオン』、p.25、1996年5月号。
(注23)安積遊歩『車椅子からの宣戦布告』太郎次郎社、p.83、1999年。
(注24)中西由起子「アジア・アフリカの障害者」『季刊福祉労働』p.19、1997年76号。(注25) Susan Sygall and Linda Phelps,“USA Disability Delegation Visits Vietnam” Portfolio '97, Rehabilitation International, New York
(注26)ピーター・コーリッジ(中西由起子訳)『アジア・アフリカの障害者とエンパワメント』明石書店、p.15、1999年。
(注27)メラニー・カタラン「この人に聞く」『れいろう』pp.4−6、1996年3月号。
(注28)「バタバタの会ニュースレター」第1号〜第10号から抜粋。
(注29)注意しなければいけないのは、フィリピンでは特殊学校に週3日通うことも「統合(integrate)」と言う場合がある。それまでは、家の中だけにいて、外の世界を知らなかった子どもが、たとえ特殊学校であっても外部の世界と関わりをもちだしたということで「統合」という言葉が使われている。
(注30)「バタバタの会ニュースレター」第6号、p.1、1995年。
(注31)中西由起子『アジアの障害者』現代書館、pp.7−11、1996年。
(注32)フィリピンには、スペイン植民地時代の大地主制度(アシエンダ)の名残の階層意識が強く残っている。
(注33)車椅子がないため、這って移動している肢体不自由者は、安積に「マニラに出てきた今は車椅子の必要を感じるが、自分の生まれた村で車椅子をもらった時には、家の中も外も動きまわるのにかえって苦労した。」と語っている。(安積遊歩「フィリピンに招かれて」『ヒューマンケア・ニュース』vol.23、p.3、1993年。)
(注34)岡は、「家父長制の犠牲者という『種的同一性』が、『第一世界』のフェミニストの思いこみによって、自分たちと彼女たちを結んでいる現実の関係性を飛び越して、一方的に『想像された同一性』であること」そして、そうした「同一性」を語ることの暴力性を指摘しており、これは障害者問題についても同様だと私は考える。(岡真理「『同じ女』であるとは何を意味するのか」、江原由美子編『性・暴力・ネーション』勁草書房、pp.207−256、1998年。)
(注35)大塚和夫「女子割礼および/または女性性器切除(FGM)」、江原由美子編『性・暴力・ネーション』勁草書房、pp.289−290、1998年。
(注36)安積遊歩『癒しのセクシートリップ』太郎次郎社、1993年、および安積純子「<私>へ――30年について」、安積純子、岡原正幸、尾中文哉、立岩真也『生の技法(増補改訂版)』、pp.19−56、1995年参照。
(注37) Venus Ilagan, Proposal for the Independent Program in Philippines
(注38) 1999年12月、安積からの聞き取り。


<参考資料(引用文献を除く)>

・浅見靖仁「東南アジアにおける三つの民主化の波」、木畑洋一、姫田光義、吉田元夫、北川勝彦、栗田禎子、清水徹編『東南アジア・南アジア』大月書店、pp.77−112、1999
年。
・石川准・長瀬修編著『障害学への招待』明石書店、1999年。
・伊勢崎賢治『NGOとは何か』藤原書店、1997年。
・医療人類学研究会『文化現象としての医療』、メディカ出版、1992年。
・シンシア・D・ノラスコ著(アジア社会学セミナー訳)『フィリピンの都市下層社会』明石書店、1994年。
・鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』中公新書、1997年。
・砂原茂一『リハビリテーション』岩波新書、1980年。
・谷勝英『現代の国際福祉』中央法規、1991年。
・ロバート・チェンバース著(穂積智夫・甲斐田万智子共訳)『第三世界の農村開発』明石書店、1995年。
・中田豊一『援助原論』学陽書房、1994年。
・中野善達編『国際連合と障害者問題』エンパワメント研究所、1997年。
・西川潤『<新版>貧困』岩波ブックレットNo.347、1994年。
・穂坂光彦『アジアの街 わたしの住まい』明石書店、1994年。
・ホルへ・アンソレーナ/伊従直子『スラム民衆生活誌』明石書店、1984年。
・要田洋江『障害者差別の社会学』岩波書店、1999年。


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