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自己決定と支援の境界

寺本 晃久 20000225 『Sociology Today』10:28-41


1 自己決定の前提

 自己決定とは、自己決定の主体たる当の「自己」が、いかに決定するのか、どれだけのものを私の決定可能なものとして扱えるか、他者の不可侵領域を設定できるのか、そしてどれだけ自己の決定できる対象について熟知しているか、などの問題であるとする考え方がある。
 たとえば、J・ロックは次のように述べた。
 「個人に何かの欠陥の起こることがあり得る。そのために何人かが、法を知りその規律に従って生活するだろうと想定される程度の理性を獲得しないとすれば、その者は決して自由人となり得ず、決して自分自身の欲するままには放任されない。…中略…むしろ彼自身の理解力がその責任を引受けることができない間は、絶えず他人の後見支配の下にあるのである。だから精神病者や白痴は決してその両親の支配から解放されない。」(Locke[1690=1968:63])
 決定を下し実行するための能力、たとえば判断能力、経済力、能動性などが問われ、そしてこの能力が低く自由を行使できない者は、他者の支配のもとに置かれることを容認する。知的障害を持つ人は、そもそもの自己決定能力がないということによって自己決定の主体の枠から排除されてきた。しかし、知的障害をもつ当事者による運動や新たな福祉実践の中で、環境の整備と情報・選択肢の提供とを追求することで、つまり他者による支援を追求することで、知的障害をもつ人についても自己決定が広げられてきている。
 けれども、自己決定に対する他者の関与はどのようなものであるのか。そして、その際にどのような問題が起こりうるのか。知的障害をもつ人の自己決定とその支援において、特に、その当事者活動において、自己決定への支援に関わる議論の蓄積があり、この形態の支援における悩みやとまどいが特徴的に表れている。本稿では、知的障害をもつ人の当事者活動1)への支援についての議論を参照しつつ、自己決定への支援に不可避的に起こる困難を明らかにすることで、自己決定に対する他者の関与の問題について検討してみたい。


2 知的障害をもつ人の支援

 自己決定のための支援は、主に(1)情報提供と(2)環境整備に分けることができる。

 (1)情報提供
 知的障害者の障害の機能的な側面を補うために、情報を整理し、その人の意味理解を助けることが必要となる。彼らは意味や状況に対する理解やコミュニケーションに障害があるかもしれない。そこで、支援者は、情報処理障害を補うために、社会と障害者との間にある情報のギャップを埋める役を演じるのである。(ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会編1992:66)
 北米などでは、情報提供を基本としつつ、他者との間の通訳や代筆や付き添いなどを含めた支援が具体的に行われつつある。当事者組織や個人に対する支援者は「アドバイザー(advisor)」あるいは「ファシリテーター(facilitator)」と呼ばれる。たとえば、読み書きのできない人のために文字を読み、代筆をする。アパートの貸借、出産・子育て、金銭の管理といった自立生活に必要な知識を噛み砕いて説明したり援助したりすることもある。話をする時に混乱したり、その発言の内容が脈絡を持てなかった時に、意を汲み取って話に筋を通すこともある。ジェフ=ウッドヤードの著した当事者活動のマニュアルによれば、支援者とは「情報を提供する者(resource person)」である(Jeff Woodyard1980:7)。そのために、支援者は意思決定の方法、組織運営、福祉サービスに関する情報、人権、企画立案、といった分野についての知識を蓄えておくべきだとする。しかし、支援者は考えられる選択肢を提案するが、グループの決定過程には参加しない。
具体的な情報提供の技法として、第一に、ものごとをわかりやすく伝えることが心懸けられる。たとえば難しい言葉はなるべく使わない。ゆっくり話す。文書で書くのもよいが、そのときに漢字はできるだけ使わない、使う場合はふりがなを振る。あるいは、絵や記号、色を効果的に使う。
 決定を下す際には、選択肢をなるべく具体的な形で提示する。たとえば、「どうしたい?」と聞くだけでなく、「コーヒーにしますか、それとも紅茶にしますか?」と質問する。また、はい/いいえなどの回答で答えられるようにする。あるいは当人の思考が混乱した場合には、その人の認識や記憶や状況を丹念に聞き、「あなたが思っているのはこういうことですか?」と、相手の思考に筋を通して返したりする。また、単に事実を伝えるだけでなく、より相手の行動や思考に影響を与えうる場合もある。たとえば教える、助言するといったことだが、その場合には、「どうすべきだ」といった「答え」を支援者が与えるのではなく、当事者自身が意志決定し、決定を実行に移したり、意志決定を人に伝えるための「技術」を伝えていくことである。たとえ「答え」を述べても、なるべく多くの考え方を示し、その中で選べるようにするのが望ましい。2)

 (2)環境整備
 「自分は何もできないのではないか」「言ってもいいのだろうか」といった否定的な感情があるためになかなか自己表現ができないこともあるという。過小評価され、過保護にされ、隔離され、虐待されてきた人々は変化を恐れ、否定的な自己像を受け入れてしまう(Worrell1988=1996:36)。したがって、「自分の意見を言ってもいい」「自分で決めてもいいんだ」「やればできるんだ」などという、否定的な自己像をやわらげるような励ましや承認が必要なこともある。支援者の資質として重要なのは、当事者の潜在的な能力を「信じる」ことだという(ibid:40)。また、自己決定が行われる「場」も問題になる。「施設や職場で言いたくても言えないことがたくさんあります。何か言うと怒られるのではないかと、いつも不安やこわさをもって」いる。そこで、「本人たちが物を言える環境が保障されていること」が必要になる(全日本手をつなぐ育成会1999:39)。

 ただし、支援者がどのように支援すべきかは一概に語ることはできない。当事者のその都度の状況や必要、情報の内容によってその関わり方は異なってくる。けれども、支援者が何でもやってしまったり、決めたりするのではない。自己決定への支援という新たな考え方は、むしろそのような自己決定能力の不在(低下)のために他者による代行(パターナリズム)が正当化されるという図式の下に結果的に自己決定権が制限されてきたことへの反省と抵抗から生みだされてきたのだから。全ての援助が、援助される当事者の必要にしたがってなされ、情報は提供しても、決定するのは当事者である。「困ったときやわからないときだけ助けてほしい」「できないことだけ助けてほしい」という意見を、私たちは障害をもつ本人から多く聞くことができる。
 ここでは、支援を受ける人には決定だけが残される。本人の能力を問うのではなく、その周囲の者たちあるいは「社会」がどのように関わるか、どのように支援できるかが問われる。


3 支援におけるとまどい

 だが、実際には支援者による情報提供→当事者による決定、といった簡単な図式におさまらないこともある。以下では、主として当事者活動に対する支援における、自己決定とその支援との間にある悩みを見ていく。

 (1)程度と時機
 第一に、困ったときやわからないときだけ支援がなされればよいということを前提とするとしても、支援の関与の程度やタイミングを計りかねることがある。
 「私は一応アドバイザーという形で今回の会議には参加させてもらったのですが、どこまで自分の意見を言えばいいのか戸惑いました。」(溝渕1996)
 「援助者という新しい役割は、なかなかうまくとりにくい。会合の内容を合理的なものにしようとすると、会話を牛耳ってしまいやすい。援助者がしゃべりすぎると、必ず、自分たちで考えようという意識をなくし、先に意見を求めるようになる。退いて第3者に徹しようとすると、話すべき時がわからなくなる。」(河東田他1994:139)
 どこまで発言していいのか、どの程度頼られどの程度本人がやるのがいいのか、いつどの程度の支援が必要なのか、見極めるのに迷う。そこで、余計な手出しをしないように気をつけたり、逆にただ当事者からの要求を待っているだけではなくて、支援者の方から積極的に働きかけたりする。
 たとえば、何かを決めるとき。いくつかの提案をメンバーの間で出し合って、決を採って決めるが、あまり意見が出ないこともあるし、いい答えが出ないこともある。当事者の意見の方が良い場合もあるが、支援者の意見の方が良い意見を持っているかもしれない。だが、それをどこでどう言えばいいか、迷う。これは後の(4)で述べる誘導とも関係する。ともすると支援者の考えを押しつけてしまうことへの警戒がある。
 あるいは、助けを求められてはいないが、このまま続けていると失敗するだろうというときに、支援者はどう行動するべきだろうか。ここで口を出すのが良いのか、それとも口を出さないのがいいのか。下手に口を出すと、余計な介入ととられるかもしれない。それに、失敗したり試行錯誤をする権利を奪ってしまうかもしれない。
 当事者が何かを言おうとして、しかしうまく言えない場合、いつ、どのようにそれをサポートすればいいか。たとえば、元々、その人とその人が話そうとする相手との会話があり関係があるところに、支援者が割って入ることによって、その関係が壊されかねない。だが、口をはさまないことによって、当事者が困るかもしれない。かといって、司会のときに、支援者が先回りして細かく指図しておくと、かえって本人がそれにしばられてしまって、うまくいかないこともある。あるグループのメンバーは、次のように言う。
 「だいたいメンバーはメンバーで話し合って、スタッフはスタッフで話し合います。なんで分かれて話し合うかというと、スタッフが入ると、意見がメチャメチャになっちゃうときがあるんです。反対される場合もあって困るし、言いたいことも言えないと思うんですね。」(石曽根・他1995:17)

 (2)パターナリズム
 たとえば、悪事を働こうという決定をしたときに、いくらその人の決定だとしても、支援者はそれを止めるだろう。ミルによる他者危害防止の原理(Mill1859=1971)からも、それは正当化されるかもしれない。自己決定を守られるべきものだとしても、自己決定のすべてが認められるわけではない。いくつかの条件のもと、自己決定の制限が正当化されることがある。特に彼らについては、本人の保護・他者危害の防止を理由に自己決定が制限されてきたのである。パターナリズムに抗し、けれども一方で少なくともパターナリズムのある部分が認められるのならば、その境界をどう設定すればよいのか。
 積極的に違法な行為をしようと思えば、そして実際に行ってしまった場合はパターナリズムが正当化されるかもしれない。だが、予期せず他人に迷惑をかける、損害を与えてしまうことがあるかもしれない。これについてはどうか。また、自分にだけ被害が及ぶ決定についてはどうだろうか。
 たとえば、自分の金銭を自分で管理したのだが、実際に全部自分で持って扱ってみると、生活が困難になるほど浪費してしまう場合。この場合、これまでの禁治産制度では、その者は自分で金銭を管理できないのだから、究極的には本人が管理する権利を奪い、管理能力のある他者に金銭管理のすべてを行わせることになる。しかし、自己管理の権利を奪われることに反対するなら、どのように対応すればよいか。
 ひとつには、将来の可能性についての情報提供を行う。「そんなにお金を使っていると、家賃がはらえなくなるよ」という具合にである。また、金銭管理の方法を知らない、管理の経験がないためにどのように管理すればいいかわからないということが考えられる。この場合、金銭管理の方法を教える。1ヶ月にこれだけの収入があって、家賃や光熱費などどうしてもかかる費用はこれだけで、そうすると、1日に使える食費はこれだけで、自由に使えるのは残りいくら、などということを示したりする。
 ただし、こうした情報提供を行ったとしても、パターナリズムが発動される可能性がなくなるわけではない。

(3)関係性
 支援者から、次のような声を聞くことができる。
「(当事者活動の)話し合いをやっているとき、私の方を見ないでって、思うときがある。」
「頼りにされないようにするにはどうすればいいか。どこまで言って、どこで引き下がるか、いつも考える。」
 当事者活動の場で、メンバーが、支援者の顔ばかり見て話をしたり、いちいち支援者に同意や承認を求めたりすることがある。支援者は、少なくともできる部分についてはメンバー同士だけで話し合ったり考えたり行動したりしても一向に構わないし、それどころか奨励している。支援者としては、活動を応援し、手伝うだけだと思っているのに、メンバーの輪の中にいつの間にか引き戻されてしまうのだ。そこで支援者たちは「私は透明人間なのよ」と常に言ったり、「まったく自分の存在を消しててできればいいんだけど、そういうわけにもいかないし……」とジレンマを抱えたりする。あるいは、頼りすぎる場合は自分たちでやるように励ますということをやる(河東田他1994:138)。
このとき、活動の障害となっているのは、支援者と当事者の関係性である。上記のような行動をとる障害者は、支援者との間に上下関係や依存関係を見ている。そこで当事者活動の支援者の資格のひとつとして、「支援者は障害者のためのプログラムやサービスに関わっていない人が良い」、つまり、入所施設や作業所などの、障害者のための伝統的なサービスに関わっていない人が望ましいとされる。もし支援者がそうした立場の者であったならば、障害者が支援者に遠慮したり、本当に言いたいことができなかったりすることがあるとされる。ある障害者は、自分の所属しているグループについて、「援助者が作業所の先生や寮長さんであったりして、えらいから遠慮してしまうんですね。」と、障害当事者の立場から発言している。
 また、あるグループの支援者は、「活動の援助者と生活の援助者を分けることが必要」だとし、活動の支援者の要件として、(1)生活支援者ではないこと、(2)生活援助者と連携しないこと、(3)他に生業を持つこと、(4)会に責任を持たないこと、(5)勝手に情報(記録)は作らないこと、(6)自分の友人を惜しみなく紹介していくこと、を挙げている(全日本手をつなぐ育成会1996:21)。日常生活における支援者と、当事者活動における支援者は同じ人物でない方がよいとし、しかも両者間では秘密を守り、一線を画すべきだというのだ。
 支援者が、当事者グループのメンバーにサービスを提供している機関から給料をもらっていたりする場合、まず、支援者とメンバーの間で利害の衝突が起こる。グループが施設を批判したり、作業所の運営や給料について抗議しようとする時、もし支援者がその施設や作業所の職員であれば、それだけでトラブルのもとになり得る。また、このように支援者が「専門家」であるならば、彼は他の伝統的なサービスでの経験に基づいて行動してしまうかもしれない。そして一度、両者の間に職員−クライエントという関係ができてしまうと、施設などの外にいてさえ、この関係が存続してしまうこともある。学校で教師と生徒だったものは、学校の外でも、あるいは学校を卒業しても教師と生徒であり続ける。
 グループによっては、そして活動の初期段階では、生活支援と当事者活動支援をする者が同じである場合があり、するとそれだけで当事者が自由にものを言えなくなったという経験がある。しかも、今までの生活支援者や教師や親は「しきるのが好き、命令するのが好き」だ。しゃべりすぎて当事者の発言をさえぎってしまい、彼らを無視して全部やってしまうこともある。
 支援者が、個人的にはその仕事と離れたところで活動に参加したいと思っていても、当事者からは反発されたり逆に過剰に依存されたり気を遣われたりと、しばしばそこにいることの難しさ、やりにくさを経験する。また、立場上、障害者を管理し指導する人間が、一方で彼らの主体性を尊重した形で関わることの難しさがしばしば訴えられる。
 ところで、こうした関係の「過剰さ」だけが問題になるのではない。接触する頻度が少ないなどに起因する関係の「希薄さ」も、影響をもたらす。たとえば既述のA会では、活動の場を提供・管理している事務局の職員は、数人が交代で会に参加するため、メンバーとの関係が希薄になっている。その職員が会の支援者として認められ信頼関係ができていたならば、同じ内容の発言でもそれは助言として受け入れられただろうが、関係が成り立っていなければ逆に反感を買うこともあるという。
 「支援者は友人」であるとか、「アドバイザーは私達の前に立たないでほしい。後にも立たないでほしい。横にいてほしい」と言われる(国際会議旅行団1994:44,103 他)。あるいは北米などにおけるピープルファーストでは、当事者に認められることが唯一の支援者にとっての条件だと言われるが、これも同様の感覚から発生するものであろう。当事者から支援者に向けて語られる主張の多くは、何について支援をしてほしいかといった支援の「内容」ではなく、どのような立場でいるのがいいか、どのようにつきあってほしいかといった「関係」についてである。

 (4)誘導
 支援者が誘導してしまうのではないかという懸念もある。たとえば、次のようなことが言われる。
 「サポーター(筆者注:支援者)が情報提供として選択肢を提案しても、受け止めるメンバーはすぐに決定に結びつけてしまいやすいために、メンバー間のコミュニケーションの活性化を減じることになりかねない。極端な場合には今までの議論を無視して、サポーターの提案を採用してしまうこともある。」(平井1996:94)
 「知的障害者同士がたとえばどんなものを買うか話し合っているとき、(筆者注:支援者が)「こんなものもある」的な介入をすると、直ちにみんながそれを買いたいとなってしまう。」(枝本1994:45)
 自分の考えと支援者の提案を比較して、支援者の提案の方が良いと思えばそれをとることはある。しかし、彼らが支援者の意見を意識的に選択したのか、それとも単に同調しているだけなのか、わからなくなる場合がある。そこで「これは障害をもつ本人の活動なのに、結局自分が誘導しているのではないか」と考え込んでしまう。実際、「話し合いは、かなり誘導的だった。」「(会の名前を決めるに当たって)名前の中に、ここの地名をつけた方がいいのではと言ったが、できればみんなの方からでてほしかった。言うべきだったのだろうか。」ともらす支援者もいる。
 それでも、単なる情報としての情報(たとえば、使える制度・権利・サービス、ものの値段、言葉の意味、場所の所在、など)ならば、ともかく支援者がそうした情報を提供した上で、選択するのは当事者自身であると考えることができる。しかし、「意見」や「善悪の判断・評価」「嗜好」「意見が分かれる事柄についての評価」「主義・主張」といった、それを発言する者の主観が入り込むような事柄についてどう扱うべきだろうか。
 そこで、「書類をつくったり金銭の管理は手伝う。でも、彼ら(当事者)の考えることや決めることに関しては、なるべく邪魔しないでおこうと思う。」というように、一歩引いた立場をとる支援者もいる。

 そして、以上で述べた4点のとまどいは、互いに関係しあっている。医療におけるインフォームド・コンセント(以下IC)でなされてきた議論によって整理してみよう。フェイデンとビーチャムは、自己決定の条件として、1)意図的であること、2)理解していること、3)何かの影響下にはないこと(非支配)、という三つの条件を設定した(Faden and Beauchamp1986=1994:186)。その上で、ICにおいては、他者がその条件を満たすためにどれだけの環境や情報が用意できるかどうかが重要になる。彼らはこの自己決定の条件を必ずしも「完全に」満たしている必要はなく、完全な自己決定の程度より下まわっていても「実質的に」条件を満たしていればよいとする(ibid:188)。だが、自己決定の要件を広げたことはより現実的ではあるが、どの程度の条件を満たせば自己決定たりうるのか、明確ではない。明確な線を引くことができないという一方、結局、完全な自己決定から完全な非自己決定へと段階的に程度が下がっていく連続線を設定し、それによって自己決定を概念的に規定する。ところが、単線的な規準によって自己決定の度合いを測ろうとする試みは、先に見た支援におけるとまどいの中で有効性を失う。
 たとえば「理解している」とは何か。ICで主張されるのは、まず他者(医師、支援者)が持っている情報を利用者(患者)に「開示」することである。だが開示された情報を理解するだけの能力が利用者になければならない。しかも、彼らも指摘しているように、それぞれその時々の情報の内容や開示のされ方によって理解度もそれぞれ異なり、理解する能力を、完全に理解している程度から完全に理解できない程度までの単線的な基準によって測ることはできない。そして、理解しているかどうかは主観的な問題であり、他者がその理解度を定義づけることは困難である。したがって「できないことだけ助けてほしい」とは言われるものの、どの程度まで理解できているのかがわからないところで、「できないこと」の内実が不明確であるからこそ、先の例(1)(2)のようなとまどいが生まれるのである。「できないこと」がわかっていれば、当人が指示して「できないこと」を支援者にやらせればよい。しかし、すべてのことについて「できないこと」が自覚されているわけではない。「できないこと」が当人に自覚されていない場合、当人が支援を依頼することができない。また、当人は「できる」と思うことが、実際には「できない」場合も考えられる。このとき、当人からの依頼がない場合であっても、支援者が先回りして支援をすることがある。「できないこと」が当事者にとって認知されないとき、パターナリズムが正当化される。支援者と当事者との間に情報格差・理解力の格差がある場合に、情報を多く持った者が最も妥当な決定ができるという信念のもと、当事者の決定それ自体は否定されうる。だが一方ではパターナリズムは当事者を様々な危険から保護するものであり、結果的に当事者もその決定を望むかもしれない。しかし(2)で見たように、どの程度の危険性がある場合にパターナリズムを発動するのかについて判断することが難しい。できるかどうかが当人にとっても支援者にとっても定かではないなら、いろいろな方法を試しながらできるかどうかを支援者とともに探っていくことができる。しかし、当人が「できる」と考えている場合は、当初から支援者の介入が拒否されてしまう。こうして、「できないこと」の不確定性と情報格差による支援者の支配やパターナリズムへの警戒の中で、実際にどの程度の支援をどの時期にどのように行えばよいか、しばしば判断に迷うのが、(1)で見た事例である。
 また、たとえば「何かの影響下にない」とは何か。フェイデンらは、影響力を「強制」「操作」「説得」に分類する。ここで「強制」とは、脅迫のように相手の望まない明らかな力・危害によって相手の行動を特定の方向へ強いることである(ibid:274)。しかし反対に「説得」は、「ある人の理性に訴え説得者の主張する信念、態度、価値観、意図、行動を、自由に自分自身のものとして受け入れるよう説く」ことであり、これは支配に当たらないとする。「操作」は、たとえば選択肢を制限するなどによって相手の行動に影響を与えることである。「操作」は他の二つの影響力とも異なり、相手から見て明らかな力が用いられていると感じられず、また主体的にある決定を選び取るだけの十分な情報に基づいているのでもない。外見上は確かに自己決定であっても、自己決定の元になる情報が操作されていれば、それは支配的な影響力が働いているのである、とする。そこで、ICにおいては心理的操作と情報の操作をすべて避け、相手(患者、被支援者)に歓迎されそうな提案や報償の申し出も制限することだと述べる。
 事例(3)(4)で述べたのは、こうした「操作」に関わる問題である。(3)では、支援者や周囲との関係によって、決定そのものが大きく左右されてしまう。そして、外見上は確かに自己決定であるのだが、その内実が切り崩されるのが(4)誘導である。誘導がやっかいなのは、支援者との情報格差や関係性が自己決定にどの程度影響しているのかが不明確な点である。この誘導の危険に配慮して、(1)程度と時期、(2)パターナリズム、(3)関係性、のそれぞれの介入の程度や関係の持ち方に注意を払わなければならないのだが、個人のどの都度の状態や能力、あるいは決定しようとする対象や時期に応じた個別的な対応にならざるを得ないため、どのような支援を行うべきかとまどうのである。しかし、(3)(4)で見たとまどいは、支援者の立場や関わり方によって、提供される情報が当事者において何らかの位置を伴ってしまうことに起因する。ここで、支援者が影響力を行使しようとする意図が必ずしもないにも関わらず、むしろ支援者はできるだけ操作を行わないように努力していても、結果として「操作」してしまうのである。


4 検討

 以上で見てきたように、情報提供→自己決定という単純な図式に回収されず、しばしば、支援が当事者の自己決定を越えてしまったり、支援を行うときに力関係や非対称的な関係を伴ってしまうのである。ひとつには、(1)支援と自己決定との境界、または「できないこと」の内実が曖昧であること。またひとつは、(2)情報が当事者と対するときにある位置を取ってしまうこと、あるいは情報提供の過程で変質してしまうこと、が問題とされる。しかし、この悩みは解決できることなのか。この2点について検討を試みよう。

 (1)「できないこと」とは
 「できないこと」の内実が不明確であれば、もっと明確にすればよいという考えもある。
 ここで「障害の認識」の必要性が語られる。「ひとつは、自分自身の障害とその障害がもたらす結果を知り、またその障害の影響を受けないものについても知ることは、現実的な自己像を得るために必要であるという点です。もうひとつは、自分自身の障害についての知識は、自分の置かれている状況に働きかけるために重要であるという点です。このような知識があれば、知的障害をもつ人は、周囲の人から適切な支えと援助を得やすくなるのです。」(柴田・尾添1992:41)ここでは、適切に支援を受けるために、できることとできないことを認識することが求められる。
 「障害の認識」はしかし容易ではない。「できないこと」は常に固定しているものではなく、成長や時間の変化や、決定・行為しようとする事柄の内容や規模によって、「できないこと」ができるようになったり、反対にできるはずのことができなくなることがある。また、「できないこと」が誰によって認識されるかという問題がある。たとえば整理整頓ができない私は、しかし整理整頓ができないからといってたいして私は困らない場合や、それどころかかえって片づいていない方が私は落ちついていられるという場合がある。あるいは、確かに私は私なりの方法で整理しており、ただ一般的な意味で物が片づいていないだけであり、私はそれでよしとする場合もある。ところが、ある他者は私を見て「整理整頓ができない」とみなす。何を「できないこと」とし、何を改善されるべき、支援されるべきことなのかは、一義的に判断できない。それはある事柄を「できないこと」と判断する者の視点の問題でもある。
 柴田は、「障害者本人が受容する「障害」とは、impairementsとdisabilitiesを意味しているのであって、handicapsを受容することではない」と述べる(柴田・尾添1992:178)。つまり、1980年にWHOが提案した国際障害分類(ICIDH)における機能障害(impairment)と能力障害=できないこと(disability)については受容すべきだが、社会的不利(handicap)については社会が解消する努力をはらうべきこととする。
 しかし、英国における障害の社会理論家M・オリバーらは、機能障害あるいは「できないこと(disability)」自体が、社会的な生成(social creation of disability)によるものである(Oliver1990)。国際障害分類は、社会によってもたらされる不利益を認めつつも、医学的な定義としての機能障害は残され、それが能力障害と社会的不利の原因として位置づけられる。しかし、身体や知能のどのような変化を機能障害とするのかは曖昧なままである。近代における知的障害の歴史を見れば、それは知的障害が他者からの分類と名指しによって「発見」されてきた歴史でもある(Trent Jr.1995=1997)。身体や精神上のある状態を機能障害として名指すこと、そしてそれに関連づけられるものとして能力障害を配置することが問題になる。
 「できないこと」は、むしろ周囲の状況や対応によってかわってくる。2000年に予定されている国際障害分類の改訂(ICIDH-2)の試案では、能力障害は固定的なものではなく、その人の置かれる環境との相互作用によって発生するという考え方を導入している3)。また、1992年に発表されたアメリカ精神遅滞学会(American Association on Mental Retardation(AAMR))による精神遅滞の定義(第9版)でも、それまでのIQの数値のみによる定義を廃止し、代わりに環境や支援の度合いの要因を取り入れてきている(AAMR1992=1999)。以上で述べたように「できないこと」は一義的・固定的なものとしてとらえることが難しい。しかし、確かに「できないこと」として、本人にも体験される。では、「できないこと」の内実はいかに体験されるのか、そして体験される「できないこと」にいかに支援をなすことができるのだろうか。
 A・シュッツにしたがえば、次のように言うことができるだろう。すなわち、何かが「できる」とか「できない」という「体験」は、すでにそのように何かを「できること」「できないこと」として過去に起こった体験の中から際立たせる視線=志向作用において現前する。「意味は、志向性の働きに他ならず、この志向性の働きはもっぱら反省的な眼差しのなかでのみ可視的となる……「意味」というのは他ならぬ「注意を向けること」と理解すべきであり、しかもこれを行うことができるのは、もっぱら経過し去った体験に対してであり、決して経過中の体験に対してではない」(Schutz1932=1982:69)。「できないこと」して意味を与えられたものは、私の生の持続(duree)の中で、反省的にしか把握することができない。したがって将来の「できないこと」は、支援が行われる現時点では認知することができない。その支援される行為は、支援がなくても行為できたかもしれない。「できないこと」は、行為のそのときどきによって常に構成されていく(認識される)ものであるから、「できないこと」に対応して支援することは、常に困難を伴う。それは、過去の体験を参照してあらかじめ「できないこと」を予想し先回りして予想される「できないこと」に対処するか、そうでなければすでに「できないこと」が起こった後でしか支援をすることができない。前者においては、予想された事態がそのとおりに発生すればうまく支援がなされたことになる(支援がなされた場合はそもそも「できないこと」として認識されない)が、そうでなければ行きすぎた支援になってしまう。後者であれば、「できない」として体験されるそのときには支援がなされず、支援は後追い的な対応になってしまう。  

 (2)他の選択肢がありえた?
 支援者が当事者を支配しないように、情報の操作をすべて避けなければならない。しかし、これは困難を伴う。支援者の方が情報を多く持っているとき、構造的に支援者が当事者に対して優越する。情報を多く持っている人は、不都合な情報を隠すことができる。情報は伝えられなければ、どんな情報を利用することができるのか知ることはないので、利用者はその情報があることさえ知ることができない。当事者の言うことを聞かないで、お決まりのもので間に合わせようとすればできないことはないし、誘導しようとすればできてしまうかもしれない。しかもその事実は漏れることがない。
 けれども、最終的な決定が当事者によってなされたのであれば、そこに至る過程で支援者による意図的な誘導があっても、それは不問にされる。しかも、誘導であるのかないのか、判然としない。たとえば次のようなことがあったとしよう。雨の日に施設内で日課となっている作業に行くかどうかを、ある障害者(歩行に困難があり、車いすを必要としている)に対して施設の職員がうかがいをたてた。体調がすぐれず、雨の降る寒い日に外出すると体を壊してしまう可能性もあったが、職員は車いすを本人のところにもっていって、作業に行くかどうかを聞くと、その人は作業に行くと言って出かけていった。
 ……この例では、彼は確かに自己決定によって作業に出かけていった。したがって、出かけていって、病気が悪化してもそれはその人が決めたことなのだから、誰に対しても責めることはできない。けれども、その決定に至るまでに誘導があったとも考えられる。職員は作業に行くように命令したわけではないが、車いすを目の前に持っていったことで、無言の圧力をかけていたのだと言えるかもしれない。また、その障害者の全生活を握っている側と、生活を握られている側との非対称な関係がそこには成立しており、作業に行かなければ職員の非難を受けるかもしれないという状況の中で、「作業に行く」という決定をせざるをえなかったのだと言うこともできよう。「行かなくてもいい」という選択肢を提示する必要があった、という批判もできる。けれども、少なくともその人が作業に行くという決定をなした時点で、その他の可能性や誘導がすべて不問にされてしまう。
 もちろん、これは「悪い支援」の例として扱われるのかもしれない。すべての支援者が悪人だと言うのではない。だが、どのように支援者が多様な可能性や選択肢を用意するように努力したとしても、結局、選択肢の用意の仕方は支援者にゆだねられる。しかも故意に選択肢を出したり出さなかったりすることができるというだけでなく、無意識的に、支援者の能力の限界として、常に他にありえた可能性や選択肢をのこしつつ、選択肢の用意の仕方がどこかで制限されてしまう。
 ベルクソンは、「自由とは選んでしまう前に別のように選ぶこともできたという意識を持つことである」といった考え方に対して疑義を提示する。この常識的な見方においては、意識事象の系列MからOの地点を通過した後、O点に達し、そこから同じように未来に対して開かれている選択肢XとYの二つを前にしている私が想定される。そこでもし私がO→Xという方向を選べば、実現されなかったO→Yという方向もありえたという認識がなされる。またその逆もありうる。
 しかし、私はいつしか、XかYのどちらかの地点に達する。だが、たとえばXに到達したとして、Xに到達して初めてMOXという道のりをたどってきたことがわかる。O点があったこと、OYという方向がありえたこと、などはXに到達した後で振り返ってみるときに仮構として設定されることによって認識されるだけであり、まさにXを選択している最中にはO点やY点は存在せず、それらについて思うことは無意味となる。X点からみてO点を設定したとして、すでに時間は過ぎ去っておりO点へ戻ることはできない。私はO点において選んだのかどうかに関係なくすでにXに位置してしまっており、ただMからXへたどってきた道が存在するだけである。(Bergson1889=1990:160-168)
 たしかに支援者はある地点でいくつかの選択肢を提示することはできる。しかし、その選択肢を提示している間にも私たちの時間−生の持続は絶え間なく流れていく。その中で、提示されたある選択肢それ自体がすでに「選ばれてしまっている」もの(つまりすでにXに到達してしまっているもの)であり、その選択肢の前に「他にありえた選択肢」を仮構として設定することは可能ではあるが、しかしある選択肢が提示されてしまった時点でそれを仮構することは無意味である。


5 一歩進めること

 本稿で述べてきたことは、ある意味で支援の敗北である。支援に伴う問題は解決されない。何もできないで後手に回るか、当事者を支配してしまう。だから私たちは悩んでたちつくしてしまう。
 しかし、たちつくしてしまうのは、自己決定における「自己」「他者」をどのように位置づけるかという視座に起因しているからではないか。「自己」を不可侵の領域として扱い「自己決定=善、介入=悪」といった図式でとらえるならば、そもそも自己決定に他者が関与することは矛盾している。そこでは、他者はむしろ自己決定を制限する者として現れる。しかし、だから他者の存在を否定してしまえるのかどうか。他者を否定したとき、「自己」はどこに置かれるのか。自己決定に対する批判−自己決定は自己主張ができる人の物であって、より重度の知的障害をもつ人についてはそもそも自己決定さえも問題にならない、自己決定では彼らは救われない、といった主張−もある。だが、自己決定(権)が問題になるのは、単に自己決定する自己の側においてではなく、他者の側の問題としてもある。江原(1999)が指摘しているように、ある者の決定が決定として成立するのは、他者がその決定をその者の決定として取り扱うかどうかにかかっている。自己決定は、単に自己が決定できるかできないかというだけではなく、他者がその人の決定を受け入れるかどうか、どこまで支援することができるかといった要因によって左右される。そしてこの立場においては、自己決定の条件としての能力は不要になり、重度の障害をもつ人にも適用することができる。他者が自己の決定を認めないことがある一方、むしろ他者の関与があるからこそ自己決定は可能となる。
 これは、従来の自己決定論におけるプリミティブな自己−他者像、すなわち自己決定する自己の存在を前提とし、その自己決定に介入する他者という思想の転換である。むしろ、さまざまにあり得る他者の受け取り方のひとつの表れが、他者の介入や他者による自己決定の禁止となるのではないだろうか。
 知的障害をもつ人々においては、自己決定能力の欠如(低下)を理由にしてその自己決定(権)が否定されてきた。しかし近年になって自己決定が主張されるようになってきたのは、−たとえ本人の保護・幸福を理由にしていたとしても−自己決定が否定されることに対する異議申立や反省からである。そこで「支援はいらない」と言う主張がなされることがある。これは支援によって逆に本人の権利が制限されてきたためであり、そのような主張を否定することはできない。しかし、「パターナリズムはよくない」「支援の関わりはできるだけ少なくするべき」「誘導はいけない」「本人ができないことだけ支援するべき」「支援者と当事者は対等である」などと唱えるだけでは、何か抽象的な理想や思想としては語れても、それ自体は何も言っていないことと同じである。パターナリズムが発動される際の能力の不足や本人の幸福・危険をどのように考えるのか、誘導や支配関係を避けるときに理想とされるあるべき関係性をどのように考えるのか、できること/できないことをどのように考えるのか、を問題にする必要がある。しかし、一方ではそうした論理をつきつめていくと、事態はそう単純ではないことがわかる。
我々が問うべきことは、自己決定を単に賞賛したり否定したり、あるいは自己決定への支援は不可能だから支援を意味のないこととしてしまうことではなく、支援における様々な困難を前提としつつ、自己決定における他者の関与において、私たちはどのような関係性の中にいるのか、何を自己決定としているのか/していないのか、といった問いに常に開かれていること、そして具体的に支援の関係性のあり方や位置を検証し明らかにしていくことではないだろうか。



1) 知的障害をもつ人の当事者活動については寺本(1995)、寺本・立岩(1998)。米国での動きについてはWilliam & Shoultz(1982)、北欧については全日本手をつなぐ育成会(1997)を参照。当事者活動支援についてはWorrell(1988=1996)、全日本手をつなぐ育成会(1996)(1999)など。
2) 平井によって解明された、ある当事者活動のグループ(A会)の集団討議過程における支援の方法に関する分類によれば、具体的な支援の技法として「指示・注意」「教示・モデルの提示」「助言・提案」「確認」「示唆」があり、支援者たちは各個人や状況によってこれらを使い分けている、と指摘されている(平井1996:90-104)。
3) 障害分類について佐藤(1992)、ICIDHの改訂作業について、Kennedy(1998)など


文献
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Worrell,Bill 1988 Advice for Advisors,National People First Project=1996 河東田博訳編『ピープル・ファースト:支援者のための手引き当事者活動の支援と当事者参加・参画推進のために』,現代書館
全日本手をつなぐ育成会 1996 『どうかかわる!?本人活動 第1回本人活動支援者セミナー報告書』,全日本手をつなぐ育成会
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UP:1997 REV:20081126
寺本 晃久  ◇Archives
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