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知的障害・と・自己決定

寺本 晃久 20000221 障害学研究会関東部会第6回研究会


 ●自己決定の条件としての知的能力

 自己決定することが自立生活だという思想、あるいはアメリカ的な自己決定主義的平等思想がある。これでとにかく押し通すこともいさぎよいけれども、一方で疑問も残る。身体に障害があっても、頭が動くなら自己決定能力があって自己決定ができるのならば、その決定の実行においては介助者や機械が代行すればよい、と考えることができる。しかし知的能力や判断能力がうまく働かなければ自己決定することも難しいのではないか、そういう人は救われないではないか。以前、障害学MLでも話題にのぼったことでもあるが、しばしばこのことは問い続けられてきた。
知的障害を持つ人については、自己決定能力がまず問題になってきた。能力の低いことによって自己決定ができないという現実があり、それによって自己決定の制限が正当化される。これまでの禁治産者制度は、それが制度化されたものである。判断能力のない者の保護と関係する第三者の安全(特に取引、そして家族の生活の安全)のために、財産管理や諸契約、投票といった行為の権利を剥奪する代わりに、後見人をつけて、後見人がすべての決定を下し、行為する。
 たとえば、J・ロックやJ・S・ミルは自由を語るときに、自由の要件として能力を置き、能力の欠如によるパターナリズムを容認している。医療に関するインフォームド・コンセントにおいても理解や同意の能力が問われる。自己決定能力の問題をつきつめれば、たとえば「パーソン論」がもちだされて、自己決定能力がない人は人ではない、だから殺してもいいということになってしまう。

 ●能力と自己決定の結託

 しかし、そこで問題となる知的能力の内実は、たいした言及もなく、はっきりしない。
 20世紀初頭からの、その時点で知的能力が低い場合にそれが単に怠慢や不勉強の結果であるのか、それとも病理的・生得的に知的能力が低いことに起因するのかを峻別し、さらに序列化する試みが始められた。これは本来的に能力のある者とそうでない者を限定したと同時に、新たなカテゴリーを設定したことによってむしろ能力の低い者の範囲は拡大した。知的障害の歴史は、線が引かれることによって認識されてきた歴史でもある。
 現代に続く歴史の中で、(本当は)能力があるのだと主張することによって、権利主体の範囲は広げられてきた(女性や動物の権利の擁護)。禁治産者制度においても、禁治産者の枠は狭められてきた(女性や盲聾唖者)。彼らはそれまで意思能力に問題があるとされていたのだが、それは偏見であったと、差別が禁止され、相応の配慮があれば適切に判断することができるのだという理由において権利主体として認められてきた。
 しかし、このことは、ある人の能力を認め自己決定権を尊重することが、逆に能力のない者を取り残していくという矛盾を生み出す。
 ではここで、本来は能力があるにも関わらず差別されている、だから能力を正確に判断するべきだとするのか。あるいは、能力による差別はよくないからやめようというのか。
 しかし、能力が低いとはどのようなことか。何の能力をどのように測るかということを考えると、案外われわれはいいかげんに能力を決めているのではないか。能力は、環境との関係においてどのようにでも形を変えられる。知的障害においては、できること/できないことが、1分1秒ごとに異なる。障害をもつ人が対処しようとしていることがらの内容や、支援や周囲の人の対応のしかた、選択肢の量とその提供のされ方、などによって、たとえ行為そのものは同じであっても、周囲の状況が違えば、ある場所ではできたことがある場所ではできなくなったりする。むしろ「能力が低い」というとき、あらかじめ「能力が低い」という線をどこかで引くことを先にしている。そして「能力が低い」とするのは、本人が実際に判断能力が低いこととは関係なく、他の基準、たとえば他者の視点によって定義される。われわれが能力について考えるとき、能力差別について何かを語るとき、すでにその前提となる能力はずいぶん前からそこに置かれていたかのようにわれわれの前にあらわれてしまう。能力による差別を問う以前に、その能力がどのように配置されるのかという問題がある。
 自己決定として実現するかどうかは、他者がその判断を自己決定として受け入れるかどうかにかかっている。「誘導」や「強制」が問題になるが、それも決定の帰属の様式の問題である。ある決定を自己のものとして引き受けることが自己決定とされるのであり、それだけのことである。しかし、われわれは、ある場合にはそこに自己決定の存在を見いだし、別の場合には自己決定の不在(低下)を見いだす。そして、「自己決定ではない」「自己決定能力がない」というとき、それは他者がある決定を自己決定として受け取らないことでもあるが、本人の能力の欠如にすりかえられてしまう。能力と自己決定が結託しているところに、ひとつの問題はある。

●自己決定の例外の再編

 このたびの成年後見制度改正では、補助類型や任意後見制度の新設によって、本人の意思能力の程度や必要性に応じて、成年後見を受けることができるようになる、といわれる。「能力が低いから、成年後見制度が必要」ということにすりかえれば、それは個人の問題として解決されうる。社会的な環境の整備や支援の問題がほとんど無視され、現時点で現れてしまった能力が判断され、社会的要因を改善する努力がなされないで済んでしまう。補助類型や任意後見になったところで、後見制度の範疇にある以上、依然として、「精神上の障害」に基づいて分類され、能力がある/ないの間で線が引かれるという構造は変わらない。
 近代社会は、個人の自由を基礎にしつつも、その権利享受の資格には常に無能力に基づく例外を設けてきた。 
 しかしこの論理においては、何についての、どのような能力の状態が自由に対する例外であるのかの実体的な内容は指示されておらず、その都度の理由づけによって時代とともに変化してきた。禁治産制度の変遷を翻ってみれば、その対象は身分や性差や知能以外の身体的能力を次第にはぎとり、より意思能力の障害へと純化してきている。今回の改正も、この純化の延長線上にある。補助類型の新設やその他の類型の柔軟化によって、従来のようにすべての権利があるかないかの二者択一の制度だけではなくなった。しかし、軽度の障害者にまで対象が拡大したことによって、困難ではあったもののなんとか自己決定できていた層が「補助」という新たなカテゴリーに取り込まれる可能性がある。自己決定の資格の境界は一様ではなく、一方では限定され、他方では拡大され、揺れ動くが、しかし常にどこかに例外は残される。ここでは、自己決定の範囲が広がったのではなく、むしろ自己決定の例外が再編されている。


◆以下、瀬山さんより

[jsds:4018] 第六回関東障害学研概要(寺本さん)

瀬山です。

2月21日に三田の障害者福祉会館で行われた障害学研究会の報告です。
発表は、寺本晃久さん「知的障害・と・自己決定 障害の社会的構成」と本多創史
さん「伊沢修二の思想」(本多さんの報告は、既出の[jsds:3971] 関東部会レ
ジュメをご参照ください)でした。研究会は、30名ほどの参加で行われました。

(以下記録・長文)
第六回障害学研究会 2000/2/21 18:00~21:00 @三田障害者福祉会館

寺本晃久「知的障害・と・自己決定」
○かかわりのきっかけとなったこと
大学時代に、障害を持つ人にかかわって何かを書く、という課題が出て、養護学校
に行った。それまで知的障害の人たちにかかわるという経験がなかったため、単純
にいって「ショック」を感じた。その後、94年のアメリカでのピープル・ファー
ストの集会に参加したり、日本での活動にも(支援者として)参加したりしてき
た。
○自立/自己決定をめぐる疑問、問い
 「自立」という思想が、障害者運動によって「自己決定すること(何かをきめる
こと、自分でコントロールすること)」に改変されたことに新鮮さを感じる一方
で、いざ知的障害の人にかかわってみると、「自分でコントロールする」とはどう
いうことなのか、ということに疑問が生じた。
 ピープル・ファーストなどの知的障害者の運動は、「知的障害があるから決定で
きない」とされてきたことに対する批判として成立し、情報提供やサポートがあれ
ば「わたしたちは、できる」といってきた。しかし、それだけではないのではない
かという疑問が残っている。その辺りのことを考えたかった。

○成年後見制度の思想的背景にあるもの
成年後見制度が改正(2000.4〜運用)され、補助類型や任意後見制度が新設され
た。そもそも、この法律は、基本的には「知的判断能力が低いとされる人」の自己
決定や自由に制限を設けるためのもの。本人の保護と同時に、取引相手の保護が重
視される。「知的判断能力が低い人」というカテゴリーがあたかも自明なものとし
て存在しているかのようにおもわされている。
同時に、成年後見制度は、本人の能力(の低さ)を言い訳にして、社会的な環境の
もつ問題を、見えなくさせてしまうという問題がある。
○「知的能力」ってなにか?という疑問
「知的能力」とされるものは、歴史的文化的に決定されるきわめて政治的なもの。
ある集団を、「能力の低い人」として「われわれ」から排除するための根拠がつく
りだされる。それは、IQの歴史をみても明らか。また、社会的な環境の変化に
よって、それまで「できなかった」人たちが、「できる」ようになるということも
ある。つまり、「知的能力」は、時代や社会状況によって変わり得る。
では、現在残っている「知的障害」という集団は、どのような根拠によって「知的
判断能力が低い人たち」とされているのか。その政治性、線の引かれ方をこそ明ら
かにしたい。

質疑応答
コメント:人間は常に自己決定しているということを前提にしたい。どんなひとに
も決定する権利、自由を保障すべき。怖いのは、「本当の気持ち」とは、別の決定
を強いられる場所、状況の問題。
寺本:強制される自己決定ではいけないというのはその通り。しかし、「強制」と
いっても、なにを「強制」とみなすのか、については疑問が残る。個別の関係性
のなかでのみ、その問題が意味を持つ。

コメント:「本当の」気持ち、ということも、ぐらつきやあいまいさがある。問題
なのは、自分が行ったことが自分が「本当に」やりたかったことなのか、いいた
かったことなのか、自信がなくなり、自分への信頼を失うことなのでは。
具体的に、援助技術的には、どう考えるか。
寺本:ベターな援助技術ということでいえば、できるだけ、援助者がしゃべらない
で聞く、ということぐらいしかない。答えはない。
援助には、先立ちか後追いしかない(別論文で書いたとか。)。先立ちとは、予防
線を張って、できるだけ「うまくいくように」する。混乱を事前に防ぐ。後追い
は、あとで失敗を埋める、反省する。

コメント:成年後見制度について。
寺本:問題は二つ。1つ目は、問題が個人にすり替えられること。環境や制度の問
題が、なおざりにされるという問題。二つ目は、自己決定の例外が残されること。
線引きが新たなる線引きを招くという問題。

コメント:成年後見制度はなくす方がいいと思うか?
寺本:かなりの部分は、なくてもできると思う。この制度をつかわずとも、本人の
保護が目的なら、他のものをおいてもいい。例えば、「地域福祉権利擁護制度」。
そのままは使えないが、使い方によっては、よいと思う。あらかじめ、本人の能力
の判断はしない。後見人制度とは違って、誰でも後見人になれるわけではなく、社
会福祉協議会などのかかわりもある。可能性の一つでしかないが、一つの今よりは
「まし」な仕組みだと思う。どのような仕組みなら良いのか、という具体的な話
は、当事者運動がこれから考えていくだろう。

コメント:実務にかかわっているDPI権利擁護センターの方が来ているので、その
辺りのことを聞きたい。障害学から離れるかも知れないが...
(司会:障害学は、現実の運動と理論の双方を兼ね備えているものだと思う。その
意味で、障害学から離れて、、ということではないと思う。)
コメント:DPI権利擁護センターで働いている。援助のアプローチの仕方は、現実
的課題。本人の自己決定に、具体的にどう関わり、本人の意思をどう実現するかが
課題だろう。センターの活動としては、補助人と本人との具体的かかわりの課程
を、第三者として監視していく作業が大切だろうと思っている。

寺本:今回の発表では、細かい話しでわかりにくいこともあったと思う。
今後の課題は、第一に、知的障害が社会的に作られていく課程を見たい。第二に、
能力と自己決定の問題にプラスして、社会的な「危害」という問題が、どう関わる
のかを見ていきたい。成年後見制度は「家の財産を守る」ための法律だった。現在
も、社会の安全・安定に抵触するという理由で知的障害者が排除されている。その
ことを考えていきたい。

寺本さんの報告は以上です。長くなりましたので、本多さんの記録は、別便にしま
す。以上のことで、訂正・追加あると思いますので、mlに投稿お願いします。


UP:2000 REV:20081127
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