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「優生学」

松原 洋子 20000201 『現代思想:臨時増刊 現代思想のキーワード』,p 196-199.

last update: 20111003

 「優生学」はきわめて政治的な概念である。それは、「優生学」が二重の意味で価値判断を伴う境界設定を前提としているためである。
 第一に、繁殖が望ましい人間とそうではない人間の区別。あるいは、出生が望ましい人間とそうではない人間の区別であり、基本的に特定の性質が子孫に伝達されることが望ましいか否かで判断される。ただし、それは必ずしも遺伝子を媒介とした伝達に限らない。「遺伝性」とみなされた性質(疾患、障害、犯罪性向、体質など)ばかりでなく、感染症(梅毒、ハンセン病など)、中毒(アルコール、麻薬など)、生育環境(貧困など)もまた、優生学における子孫の適否の判断基準となりえた。これらの身体的条件には、しばしば「人種差」や「階級差」が重ね合わされ、さらに社会防衛や医療・福祉コストあるいは人生の幸不幸の判断が勘案されて、選別の優先順位がつけられていった。また、一九六〇年代以降は出生前診断技術の普及によって選別のターゲットが「親」から「子」(正確には胎児)にシフトし、親からの伝達が予想される性質だけではなく、遺伝子突然変異や薬害による発生異常などの突発的な性質も選別の条件に加えられることとなった。最近では、選別に際して親の個人的な要望が重視されるようになり、それは近未来における生殖細胞系列の遺伝子治療の方向性を左右するとみられている。
 このように、「優生学」は「遺伝か環境か」という問題構成だけではとらえきれない。「優生学の定義について、それは優生学の拡大解釈だとか、あるいは狭すぎるとか色々と言われるが、優生学の歴史そのものがあまりにも複雑で多様な解釈が可能なので、一つの定義に収めるのは無理」(Paul 1998)と言われるほど優生学は様々な顔をもつ。優生学の根拠となる境界設定のありかたは、それに関わる人間の利害関心にかなり依存してきた。二〇世紀に優生学が世界各地で一定の影響力を獲得し得た理由の一つは、それぞれの社会状況に応じて様々に変容する「いいかげんさ」を優生学が備えていたためであろう。
 第二の境界設定は、「良い優生学」と「悪い優生学」、あるいは、「優生学であるか否か」という区別である。優生学の根拠となる第一の境界設定自体が、何らかの差別の原理による価値判断を伴うために、「優生学」の質の倫理的妥当性が常に問題となってくる。特に人類史上最悪の経験としての「ナチズム」が優生学と深く関わっていたことで、ナチス・ドイツで行われた暴虐の数々との距離が、今日に至るまで優生学にまつわる善悪の重要な基準とみなされてきた。
 ナチズムと優生学の線引き問題は、すでに一九三〇年代から浮上していた。ナチス政権における人種政策と「正しい優生学的プログラム」を区別する努力、あるいはナチス優生学を含む人種的階級的偏見にみちた古典的優生学と新世代のリベラルまたは左翼的な遺伝学者や人類学者が支持した「科学的な優生学」を区別する努力が、イギリスやアメリカの優生学支持者の間で行われていたのである。第二次世界大戦後は、ナチズムと優生学を同一視する風潮が一般的になり優生学の評判はますます失墜したが、一九六〇年代頃までは、科学万能主義と近未来の遺伝子操作への期待を背景に、科学者や医師の間で「優生学」を公然と支持する声は珍しくなかった。
 しかし、六〇年代末から七〇年代にかけてのベトナム反戦運動を契機とする科学技術批判運動や反人種差別運動、女性解放運動、患者の権利運動、性革命は、新たな人権意識を喚起し、人々の生殖の自律性(reproductive autonomy)への意識を高めた。こうして、公共の利益を優先し、科学や医学の権威において個人に生殖の規範を押しつけるような従来の優生学的言説は、時代になじまなくなっていった。さらに、IQ論争や社会生物学論争における遺伝決定論・生物学的決定論批判では、歴史上の負の教訓として優生学が反面教師の役割を果たした。その結果、「優生学」という言葉は、「ナチズム」だけでなく「疑似科学」、「国家による強制」、「人種差別」、「階級差別」という負の概念と強く結びつけられて、普及していった。科学者や医師たちも自分たちの活動がそうしたイメージと重ね合わされることを嫌って「優生学」という表現を差し控えるようになっていった。
 こうして七〇年代後半には、「優生学」という言葉そのものがスティグマとなった。遺伝子技術や生殖技術は、しばしば「優生学の疑いがある」として批判される一方、科学や医療の側は「優生学」という汚名を着せられないように、そうした技術が「優生学」といかに無縁であるかを説明するのに苦心してきたといえる。出生前診断と選択的中絶について、個人(親)の利益を最優先として自発的に行われることであるから「優生学ではない」と擁護する論法はその典型といえる。
 「優生学」が悪を意味する非難の言葉であることは、今も基本的には変わらない。しかし、イギリスやアメリカでは最近、「優生学」というスティグマの威力が弱まりつつあるようだ。遺伝医療の問題に発言する専門家の間で、「優生学」という言葉が再び中立的または肯定的に使われはじめているのである。ただし、これは六〇年代までによくみられた「良い優生学」の主張とはいささか性質が異なる。かつては、「カップルが決めること」といいながらも、公共の利益からみて望ましい生殖行動を個人に求めるという押しつけがましさがつきまとっていた。その手の主張は今でもあるが、新しいタイプの優生学擁護論では、原則として医療サービスにおける消費者のニーズを最優先にする徹底した個人主義を建前としている。どうやら「優生学」という言葉の政治的な意味が変容しつつあるらしい。
 現代と近未来の遺伝医療は、「新優生学」(new eugenics)という観点からしばしば論じられる。「新優生学」の定義や評価もまた、論者によって様々である。例えばリフキンは、新優生学は市場の勢力と消費者の欲望によって拍車をかけられていると特徴づけ、これを「商業的優生学」と呼んで批判している(Rifkin 1998)。またダスターは、個人の利益を優先した非強制的な出生前検査と選択的中絶を「裏口からの優生学」(eugenics by the back-door)と名付け、新しいタイプの優生学として警戒している(Duster 1990)。これまで生まれてくる子供の質を個人本位で自由な決定により選択する行為は、「優生学ではない」としてしばしば擁護されてきた。しかしその一方で、「裏口からの優生学」をはじめ「レッセフェール優生学」(laissez-faire eugenics)、「自家製優生学」(homemade eugenics)、「自発的優生学」(voluntary eugenics)、「個人的優生学」(individual eugenics)、「私的優生学」(private eugenics)などという呼び名で、こうした行為を「優生学」の一種と認定する論者は少なくない。
 多くの場合それらは批判的文脈で使われるが、中には肯定的に使う人々も出てきている。現代の遺伝医療の様相を「レッセフェール優生学」と名づけたキッチャーはその一人である。「遺伝学を知らない楽園から出てしまった以上、われわれは何らかの形の優生学から逃れられない」という覚悟のうえに、「実行可能な選択肢から最も安心をえられるものを選ぶしかない」とキッチャーはいう。彼は「レッセフェール優生学」が抱える問題点もいくつか指摘しているが、選択的中絶による遺伝性疾患の発生予防については、生まれてくる子供の苦難を未然に取り去るのはよいことだとして肯定している(Kitcher 1996)。このように、選択的中絶を「優生学」の一種として肯定的に受け止める態度の出現は、「優生学」という言葉の脱スティグマ化を示唆している。
 さらに、「悪くない優生学」の議論は生殖細胞系列の遺伝子治療にまで及んでいる。そもそも「新優生学」は、個別的な遺伝子治療による人類の遺伝的改変を主張して、分子生物学者でヒトゲノム計画の立案者のひとりでもあるジンスハイマーが一九六九年に提唱した概念であった。
 最近では、生命倫理学者のカプランらが、現在解禁を求める動きが出ているヒトの生殖細胞系列(卵、精子、受精卵および初期胚)の遺伝子治療を擁護している。彼らは生殖細胞系列を遺伝子操作し、人為的に遺伝子を組み換えた赤ん坊を得ようとする場合、優生学的な選択(eugenic choices)は避けられないという。このとき国家や公共機関などの第三者による強制があれば問題であるが、カップルが情報を得た上で自由に決めた結果ならば、遺伝性疾患の回避や目や髪の色・性別の選択、「数学好き」の性質を加えることなどを不道徳だと考える理由はないとしている(Caplan, McGee, and Magnus 1999)。
 問題を整理しておこう。「新優生学」を容認するにしても批判するにしても、第三者が集団の利益を優先して個人の生殖に介入する優生学(「旧優生学」)を否定する点では大筋で一致している。争点となるのは、「個人本位の自由な選択」が現実にありうるのか、またありえたとしても問題は生じないのか、という点である。
 まず、キッチャーも「個人本位の自由な選択」が完全に保証された場合を「ユートピア優生学」(utopian eugenics)と名づけているように、何らかの「強制」が全くない状況は現実にはありえない。選択的中絶をサポートするシステムが整備され、遺伝子検査結果を理由に保険加入を拒否され、障害児の医療福祉コストの大きさや障害児の人生の不幸が公然と語られる状況は、「産まない選択」よりも「産む選択」を現実に困難にする圧力となっている。選ぶ側の「本心」がどうであれ、選択肢の一方に選択を困難にする客観的な条件があれば、その選択は「自由におこなわれた」とは言えないのである。「個人本位の自由な選択」に、遺伝医療推進のための単なる口実以上の妥当性をもたせるためには、「強制」の有害性の内実を明らかにし、その有害性の除去がいかにして可能なのかを提示する必要があろう。
 また、仮に「ユートピア優生学」が実現したとしても、その結果もたらされる社会的効果の是非は別の問題である。特に一九九〇年代以降、欧米でも障害者の側から、出生前診断と選択的中絶の普及は、障害者の尊厳と生存条件への脅威となるという強い危機感が繰り返し訴えられている。「新優生学」の支持者たちが、障害者の危惧に正面から応えていない大きな理由は、彼らが相変わらず障害の医学モデルを自明視しているためだろう。医学本位の障害モデルが、障害者の価値をどれほど損ねてきたか、障害者がそれといかに格闘して当事者としての生活経験に根ざした尊厳を獲得してきたかを彼らは理解していないようだ。生殖細胞系列の遺伝子治療による「障害の根治」を無条件に歓迎する発想も、まさに障害の医学モデルに根ざしている点で同じ問題を共有している。むしろ障害や疾患を持つ可能性のある全ての生殖細胞を「治癒可能なもの」という善意で覆う発想は、それを拒否する将来の親を医療責任の不履行、子供の虐待を理由に非難する主張をすでに生み出しており、逆に生殖の自己決定が制約されるおそれがある。
 このように「新優生学」は相当問題を含んでいる。しかし、今後「優生学」の脱スティグマ化が進み、「優生学」が遺伝医療の一形態を意味する言葉にすぎなくなる可能性はある。というのも、「優生学」という言葉に付与されてきた「悪」の要素を、「新優生学」は言葉の定義として表面上払拭したからである。「新優生学」は、個人の利益を最優先し、自由な選択を保証する。また選別の直接的対象は胎児または初期胚であるから、個人(親)は直接的な差別をまぬがれる。さらに生殖細胞系列の遺伝子治療というアイデアは、遺伝に関わる病気や障害を「不治」ではなく治療可能な存在に意味を転換する。外部からの操作可能性において「遺伝」は「環境」の問題に横滑りし、遺伝決定論にまつわる運命論的性格が希薄になっていく。現に前出のカプランらは、子供にピアノのレッスンを受けさせることと生殖細胞系列の遺伝子治療を倫理的に同列に扱っている。
 もちろん「新優生学」の定義自体の論理性が問われなくてはならないし、当然ながら定義と現実の間には大きなギャップがある。しかし、「優生学」という言葉が持つ政治的意味が変化していることは確かであろう。今後は「優生学」という非難が通用せずに、「だからどうした」という答えが返ってくることを覚悟しなくてはならないかもしれない。ポールは「優生学」という言葉が非難と嫌悪の記号として乱用されているとして、現実の具体的な問題の所在を冷静に見極めるために「優生学」を使うのをやめようと提案している(Paul 1998)。確かにそれは有意義な試みであろう。しかし、すでに「優生学」は、遺伝医療と生殖をめぐる領域を動かす政治的なカードとして機能してきている。様々な利害関心から発せられる言説の政治性をすくい取る手がかりとして、やはり「優生学」からは目が離せない。

文献
Caplan, A., G. McGee, & D. Magnus. 1999. “What is immoral about eugenics?” The British Medical Journal 319:1284-5.
Duster, T. 1990. Backdoor to Eugenics. New York: Routledge.
Kitcher, P. 1996. The Lives to Come. New York: Simon and Schuster.
Paul, D. 1998. “Genetic Services, Economics, and Eugenics.” Science in Context 11:481-91.
Rifkin, J. 1998. The Biotech Century. New York : J. P. Tarcher/Putnam.




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