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「障害者家庭」へのまなざしの変遷

−政策作成側と当事者運動側の緊張関係をみる−

土屋 葉 2000
『家族研究年報』25:16-28



1.はじめに

 戦後の、とりわけ常時介護を必要とする重度の身体障害を持つ人びとに対する施策は、成人後の彼らの生活について誰が面倒をみるのか、という問いを内包しつつ展開してきたといえる。あるときは、「家族への放置」という形で、全面的に家族に介護/扶養責任が委ねられ、またあるときは、「親亡き後」の措置として、施設整備の必要性が唱えられた。これに対して家族の抱える多大な負担を指摘し、これを軽減しようとする議論も行われてきたし、このような主張に基づき「在宅福祉」の充実が図られてきた(中野1997:79)。またある時期からは障害を持つ当事者によって「自立生活」や「家族からの独立」が主張されている。しかし施策としては戦後一貫して、可能であれば家族が彼らの面倒をみることが前提とされてきたといえる。
 こうしたことから、今問われるべきは、「なぜ」家族が負担を抱えてきたのか、ということである。と同時に、自明とされている「家族」と「介護/扶養」の結合関係を解き明かすためには、「どのように」家族に介護/扶養責任が課せられてきたのかを問うことも必要であろう。本稿は「重度障害者」に対する施策が形成される過程に焦点化し、「障害者家庭」に対して向けられた複数の「まなざし」の変遷を検討することを通じて、家族と介護/扶養責任が結びつけられてきた、「過程」を明らかにすることを目的とする。
 ここでは国際障害者年(1981)に注目する。国際障害者年をメルクマールとして位置づけるのは、第一に、この契機によりさまざまな場で障害者施策に対する議論が活発に行われたこと、第二に、「完全参加と平等」を目標として、国、地方行政、民間団体あげての取り組みがなされ、幾つかの障害者に関わる政策が改編されたこと(三ツ木1997)、第三に、障害者運動団体と行政側が接近し、障害者側が施策形成過程へ参加する機会を得たことによる。
 以下、障害者施策に関わる議論をたどる中で、政策作成側と、障害をもつ当事者によって構成される運動側、双方の「家族」へのまなざしの変遷を描き出していく1)。2.では運動側の、3.では行政側のそれぞれの「家族」に関わる言明をみていく。さらに4.では国際障害者年以降の施策の展開を概観し、最後にそれぞれの主張がどのように絡み合って施策の展開に影響を与えたのかについて考察を行う。

2.運動側の「家族」へのまなざし

 1960年代前半まで「重度障害者」は障害者施策の対象とさえなっておらず、施設整備などの公的な対策の必要性が論じられるようになるのは1970年代に入ってからである。障害をもつ当事者の団体である「青い芝の会」は、こうした状況を「親がかりの福祉」と呼び、1970年代前半から批判運動を展開してきた(荒川・鈴木1997)。
 国際障害者年(1981)は、行政側と当事者による運動側の一部との関係を相対的に近いものとし、運動側の政策作成過程への参加を可能にした。ここでは運動側の「家族」に関する言明を、国際障害者年を目前として結成された二つの機関における議論をもとに検討していく。この二つの機関は共通して、政策作成の過程に一定程度参与し、その後の政策の展開に影響を与えたという点で重要である2)。

(1)家族介護に関わる議論
 まず「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」(1980/3〜1981/3、以下「研究会」と記す)における議論を検討する。この研究会は厚生省社会局内に発足した、障害者団体の代表が三分の一を占める異例の研究会であった。のちに厚生大臣の諮問機関として「生活保障専門家会議」に発展し、障害基礎年金制度の創設に結びつくなど(板山・仲村1989:44)、施策の形成過程へ影響を与えている。
 毎回の研究会の討論内容の記録及び配付資料が『とうきょう青い芝』に掲載されている。『とうきょう青い芝』は、東京青い芝の会が当時月一回発行した機関誌であるが、同会の幾人かがこの研究会の構成メンバーとなっていたことから、研究会の記録を詳細に掲載していた3)。行政交渉を含めた運動の様子が詳細に記録されていること、したがって、ここから行政側と運動側双方の主張を読みとることが可能であることから、以下ではこれを主な資料として使用する4)。
@「過度の負担を抱える家族」の指摘  第一回の研究会では、「脳性マヒ者等の生活をめぐる現状と問題点について」という議題のもとに、それぞれの委員から問題提起が行われた。提出された資料において「在宅の脳性マヒ者」のおかれている状況が次のように記述されている。

 「修学猶予・免除で幼い頃より家にいる者はもとより、養護学校を卒業した脳性マヒ者も生活の場が家庭に限られる場合が多い。自分で身のまわりのことができない脳性マヒ者の日常生活介護を担うのは唯一家族であり、家という単位を越えて地域全体で介護を保障していく状況がないため、年おいた親が脳性マヒ者の我が子の将来を悲観して殺すというような惨事が起きている。いちいち家族の手を借りなければならないので外出することもままならず、家に閉じこもって、ぼんやりとテレビやラジオと向き合う毎日を送っている脳性マヒ者が多い。そういう生活が長く続くことにより、自主性、積極性が奪われてしまう。」(「現状分析と問題点の整理」(全国青い芝の会提出))5)

 さらに別の箇所でも介護保障体制が皆無であることが指摘され、「在宅脳性マヒ者の介護は、全て家族の手に委ねられ、家族に過度の負担が集中する結果となる。」と述べられている。
 ここで重要なのは、家族に対して「過度の負担が集中している」というまなざしを向けているのみならず、家族が介護することによって、障害を持つ子どもの側が「外出もままならず」「家に閉じこも」り、「自主性、積極性が奪われてしまう」ことを「問題」として指摘していることである。すなわち、ここでの運動側の議論は、家族介護そのものが有する問題性を指摘するとともに、「家という単位を乗り越えて地域全体で介護を保障」する、つまり家族以外の手による介護保障制度要求につながる可能性を十分に含んでいたといえる6)。

A「自立」の条件:介護保障から所得保障要求へ
 しかしながら研究会において、介護保障に関する議論はここから先へは進まない。たとえば第三回の介護に関する討論の中で、委員の一人は「所得保障がなく、障害者が自分の生活をもっていない現状の中で、ヘルパー制度など現行のケア体制のどこがたりないといっても、一方的に与えられる介護でしかなく、自立の条件にはならない。住居や所得保障など、マンパワーにたよる以前の本人自身にかかわる条件、障害者がどういう生活を作っていくかという視点で議論を進める必要がある。」と述べ、「自立」の基本的条件は介護保障よりも、所得保障であるという見解を示している7)。
 この研究会において障害者側が主張するのは、可能な限り介護を少なくするための条件(たとえば住居)を整えること、そして「障害者が他人に依存することなく自分自身でつくりあげる生活」すなわち「自立」を目指すことである。これは何よりも、彼らが他者への依存による自律性の喪失を恐れたことに由来していた。こうした立場から最終的な報告書においても、最も重要な課題は所得保障であると主張されるに至る8)。
 またより具体的な所得保障として、年金の獲得を第一の目標とした場合、その額を超える介助料の要求は非現実的で、かえって運動を阻害するものととらえられていた。つまり、多額の介助費用を要求するよりは、最低限の所得保障の金額により、できる限り自身で生活するという方向の方が行政側の了解を得やすいということになる。実際に基礎年金改革の動きが持ち上がったことにも影響を受け、議論は徐々に「所得保障」に収斂していく(立岩1990:191)。ここにおいて介護保障や介護「問題」については結果的に看過されていくのである。

B残された問い:「誰が面倒をみるのか」  しかし、ほぼ全介助の重度障害をもつ委員の一人は、繰り返し次のように発言する。
 「食べる、出す、起きる、寝る、きる、脱ぐといった生命維持の為のプリミティブな介護というのは、家族がいないばあいは誰がやるべきものなのか。また生命を維持するだけでなく、野球を見に行く、彼女とデートしたいなどの人間的欲望を実現する上で誰かがそばについていなくてはならないが、それはいったい誰がやるべきなのか、この両方とも全然定義されていない。」「第4回脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会の討議から」9)

 こうした発言は、「介護を必要とする障害者の世話をだれが行うのか」という根本的な問題に対して、この研究会が答えを出していないことを鋭く指摘するものである。しかしこれに答えることなく、研究会は所得保障の獲得を強調する議論へと傾いていく。後で詳しく述べるが、これが結果的には「介護」と「家族」の位置づけを曖昧にしたままの制度成立に寄与することになったのである。

(2)所得保障制度の確立へ向けて
 次に「全国所得保障確立連絡会」(1980/11〜、以下「会」と記す)を中心とする障害者団体が、政策作成側へ提出した要望書や意見書を中心として、運動側の主張をみていく。この会は所得保障制度確立をめざして、五つの組織が集まり結成された運動体である。統一行動、厚生省との交渉、厚生大臣、大蔵大臣との会見をそれぞれ数回にわたって行うなど、政府・議会に対して積極的な要請を示し、制度改革の際にも影響を与えたという意味で注目に値する団体である。
 所得保障を求める声は、国際障害者年という契機を目の前にして徐々に高まっていった。国民年金基礎改革の改革案が諮問され、運動が一応の収まりを見せる1984年5月までに、十の行政側へ向けた要望書等が『とうきょう青い芝』に掲載されている。これらの中に、所得保障制度を獲得するために運動側が用いた、幾つかの「家族」に関わる典型的なレトリックがみられる。これらは、先に見た研究会とは明らかに異なる「語り方」を有している。

@「家族への依存」からの独立
 まず典型的なレトリックとして、障害者の「家族への依存」を強調し、そこから「自立/独立」することの重要性を強調するものが挙げられる。たとえば以下のように述べられる。

 「…幼い時から障害を負い(…)職業によって生活出来る収入を得ることの出来ない脳性マヒなどの障害者が、身も心も親きょうだいに依存した生活から脱皮し、地域社会の統合された一員として独立と自由、責任の自覚を持って生きるためには、一貫した所得保障が何にもまして急務である…」(「国際障害者年を契機として:幼い時からの障害者に対する所得保障の早急な実現を求める要望書」東京青い芝の会役員会 1980/10/12)10)

 ここでは「親きょうだいに依存」して生きることと、地域社会の一員として「独立」して生きることが対置されている。そして「独立と自由、責任の自覚を持って」生きるためには、所得保障制度の確立が必要であることが主張されている。「身も心も依存した生活」という表現によって「介護されている状態」が示唆されてはいるものの、直接的に「介護」という表現は使われていない点に注意を払わなければならない。すなわち、「依存」と表裏一体である「介護」に関することがらを注意深く除去した上で、依存状態からの「自立/独立」を説いているのである。

A「成熟した親子関係」の創出
 また第二に、「よきものとしての親子関係」を強調するレトリックがある。たとえば以下のように述べられる。

 「…親への依存の絆を断ち切るという要求はこれまでえてして親を敵視するものだとか、親子関係の重要性を否定するものとみなされがちであったが、決してそうではなく、むしろ独立した人格としての社会的地位の確立こそ真に成熟した親子の絆を創り出すものであることに注意を喚起しておかなければならない。障害者が地域の一員として、独立して生き、社会参加してゆくためには、(…)その大前提となるのは経済基盤の確保である。障害の為に生活の資となるような職業が得られない、すなわち稼得能力のない障害者にとって、所得保障の確立をなくしては、依存からの独立も、責任ある生活もありえない。」(「所得保障プロジェクトチームへの意見書」全国所得保障確立連絡会 1981/12/18)11)

 同様のものとして、次のような記述がある。

 「「完全参加と平等」への第一歩を踏み出すためには、親きょうだいに依存しなくても生きられる社会的条件づくりがどうしても必要である。親への依存を断ち切ることは、親を敵視したり、親子関係の重要性を否定したりするものでは決してなく、むしろ真の絆を強めるものであることはいうまでもない。」(「10/27幼い時からの障害者の所得保障制度確立を要求する中央決起集会 基調報告」1981/10/27)12)

 ここでは「親への依存からの独立」という既にみてきた主張は、即親子関係を否定するものではないことが明快に述べられている。「依存からの独立」という要求は、ともすれば「親を敵視している」「親は何もしなくて良いのか」という批判をまねきがちであった。こうした批判に対し、「親子関係の重要性」はもちろん認めている、しかしその上で障害者が所得保障を獲得し、親から経済的に「独立」することによって、はじめて「真に成熟した親子の絆」が創り出されるのだというレトリックを用いて応えているのである13)。

(3)小括
 まとめてみよう。運動が所得保障を第一の要求課題とし、具体的な制度を求める方向へ移行すると同時に、「家族介護」の問題を告発する姿勢は薄められていく。「過度の負担を抱える家族」が論じられる時には、たとえば障害者の置かれた状況が、「従属」、「厄介者」、「大きなあかんぼうのような毎日」などの言葉で表現され、家族が介護を行うことは障害者側の状況をも圧迫するものであることが指摘されていた。しかし「依存する障害者」が強調されるようになるにつれ、障害者の状況は「社会経験の不足」「自由が制限されている」といった言葉に置き換えられ、より緩やかなかたちで「介護される状態」の問題性が表現されるようになる。最終的に「よきものとしての親子関係」が強調されるに至り、こうした含みは完全に消滅する。
ところで、こうした一連の運動に参与している青い芝の会は、1970年代前半には「親は敵だ」という言葉によって、親や家族を告発の対象とする姿勢を有していた。また「愛情」という言葉には非常に敏感であり、愛情という名のもとに行われる、障害者/児殺しや、施設の建設に対して鋭い批判運動を展開してきた14)。先に見た所得保障制度要求の際に用いられた「自立は真の親子の絆を強める」というレトリックは、家族を肯定的にとらえるものであり、こうした1970年代前半の運動の主張を百八十度逆転させたものであるといえる。かつては危険タームとみなされていた、「親子の絆」(≒「愛情」)、「親のあたたかさ」等の言葉が用られていることにも注目すべきであろう。これはいったい何を意味するのか。
 まず、ある意味では親を「悪者」に仕立て上げるような従来の表現方法が、具体的な所得保障を勝ち取るための行政交渉という場にそぐわないものであったこと、また「親子の絆」、「親のあたたかさ」といった言葉の方が、官僚や政治家の共感を得られやすいことを経験的に知り、運動側が戦略的にこうしたタームを用いるようになったことが考えられる15)。
 しかしながら、運動が所得保障制度を要求する方向にシフトする中で、幾つもの要因が複雑に絡み合うなかで、既存の論点が他の新たな論点にずらされていく、その結果ある主題については、再び問題化されにくくなる状況が形成されたことに注意しなければならない。すなわちここでは、「家族介護」や「家族」の位置づけを十分に論じることなく、所得保障の議論へ移行したため、家族についての論点が放置され、再び議論することを困難にした。結果的にこのことは、「家族」と「介護」の関係が曖昧にされたままの制度が創設されることに寄与したといえる。さらに、ここで運動側が暗示した、「愛情深く介護する親」や、「よきものとしての親子関係」が、次節にみるように、結果的には行政側のとらえる「障害者家庭」に、ある意味で非常に適合的であったことは重要である。次節ではこの行政側の「家族」へのまなざしを詳しくみていくことにする。

3.行政側の「家族」へのまなざし
(1)交渉・委員会における議論
 まず、行政側と運動側の交渉における、行政側の「家族」に関する言明をみていく。
 全国所得保障確立連絡会を中心とする運動側との交渉は、厚生省とのそれが三回、厚生大臣や大蔵大臣との話し合いがそれぞれ三回ずつ行われ、その様子が『とうきょう青い芝』に記されている。しかし運動側の問いかけに対して、直接的な回答がなされないのが常であったようだ。たとえば厚生省との交渉において運動側は、現在の障害者施策に使われている予算の不合理性を指摘した上で、「今抜け落ちているのは、幼い時からの障害者の問題であり、それらの人達の所得保障が確立すれば、親子関係もうまくいくし、親がずっと働いて社会に貢献することも可能になる」と強調したが、村山(厚生大臣)は再三にわたって「皆さんの要望は十分わかっている」と繰り返すのみであった16)。
 幾度かにわたる交渉において、行政側が唯一反応を示した例がある。あるとき交渉の場において運動側は、「親きょうだいから独立して社会的責任を果たせるような生活を作っていきたい。金額をたくさん欲しいということではなく、私たちの自立の基盤となるような制度の仕組みを変えていただきたい」、「私達の仲間は、小さいときは親が暖かく育ててくれるが、おとなになる頃は親も年を取ってどうしようもない」などと発言した。これについて翌日の参議院社会労働委員会の場で、園田(厚生大臣)が次のように述べている。

 「…自分たちは子供のときに特別親に迷惑をかけているのだ、二十歳過ぎたら少しでもいいから親きょうだいにその御恩返しをしたいんだと、そのために、自分たちが働けるようにひとつ所得保障制度というものをやれ、とこういう趣旨のことでありまして、(…)私はこれこそ新しい一つの方向だと、こう思いまして感激もいたしました。」(参議院社会労働委員会の質疑 1981/05/12)17)

 この大臣の発言は、運動側の「小さいときは親きょうだいが暖かく育ててくれる」、「親きょうだいから独立して社会的責任を果たせるような生活を作っていきたい」といった言葉に触発されたものであろうか。しかしながら発言においては、これらの言葉が「子供の時に親に迷惑をかけたが、成人後にはその恩返しをしたい」という意へ変換されている。「よきものとしての親子関係」を強調する語り方が、政治家の同意を得ることに非常に有効に働く一つの例を示しているといえる。
 行政側が障害者の「家族」に対してどのようなまなざしを向けているのかは、交渉の場面からは十分に読みとることは出来ない。しかし「家族について何も語らない」という行政側の姿勢そのものに、重要な意味が包含されているのではないだろうか。運動側の訴えかけに対して行政側は注意深く口を閉ざし、「幼い時からの障害者の所得保障を確立することは、急務である。しかし制度創設には時間がかかる/努力している」という発言のみを繰り返す。行政側が「家族」について強固に口を閉ざすという行為は、逆に「障害者家庭」に対して非常に意識的であることの表れであるといえる。つまり、「家族」についての発言が、行政側にとって政策の転換を方向づける、重要なものとなる可能性もあり得るのである。とりわけ扶養義務問題に関しては、行政側はより慎重な態度を取らざるを得なかったのだろう。
 しかしこうした行政側の態度は一方で運動側を、行政側の反応を引き出し、また共感を得るために、「親子関係の重要性」を強調するレトリックを多用させる方向へ導いたともいえる。

(2)施策の提言における議論
 他方で、こうした直接交渉とは別の場所で、幾つかの機関が政府内部に新たに設立され、その多くが、国際障害者年を意識した新たな施策について提言を行った。この時期に提出されたものとして、まず「国内長期行動計画のあり方」◇1がある。これは、国際障害者年にあたって政府が組織した機関の一つである「国際障害者年特別委員会」が、総理大臣に行った意見具申である。この意見具申を受けて「国際障害者年推進本部」が「障害者に対する長期計画」◇2を策定する。また厚生大臣の諮問機関である「障害者の生活保障問題検討委員会」は報告書◇3を作成している。最後に身体障害者福祉審議会の答申◇4がある。これらは、国連の採択した「障害者の権利宣言」(1975)や続いて策定された「国際障害者年行動計画」(1979)を視野におさめ、従来のものとは内容を大きく変化させている。障害者が「自立自助」すべき存在としてとらえられているのはその顕著な例であろう。また、既にみた運動側の主張と同じく、一様に「所得保障の確立」を最重要課題として挙げている。
 「家族」についての記述に注目してみると、「国内長期行動計画のあり方」(◇1)では、重度障害者が「家族の扶養」に依存してきたことが指摘される。注目すべき点は、このことが家族にとって「過重な負担となる」ことだけでなく、障害者自身の「自立および社会意識を阻害することになる」と記述された点であろう。これは先に見た運動側が行った指摘とほぼ同じものである。また審議会の答申(◇4)においては、「介護」についての記述に大きな変化がある。たとえば条件つきながらも障害者自身が、介護者として家族か(公的)サービスかのどちらかを選択できるようにすることが提唱される。ここでは家族は介護を行う存在として前提とされるのではなく、障害者が介護者を選択する際の、選択肢の一つとして位置づけられているといえる。また報告書(◇3)においても、介護サービスの拡充の余地があることが指摘され、家族もその担い手の一つであることが示唆されている。
 しかしここで重要なのは、重度障害者については、基本的に在宅福祉(サービス)の対象としないという姿勢がとられていることである。先に見たように、これらの文書においては、介護者を一見個人の決定によって選択出来るかのような記述が行われている。しかし「24時間介護を要するような重度の障害者」となると、「施設サービスの充実」が説かれ(◇3)、「(住宅の改造などを行っても)自立生活が困難な身体障害者にとっては、家族による扶養・同居の他、地域に密着した生活の場」が必要であるとされる(◇4)。すなわち、かなりの程度介護を要する重度障害者の家族に対しては「扶養/同居/介護を行う」ことが、従来と変わらず期待されているといえる。もちろん「家族で面倒をみきれないものは施設へ」とする見方も従来通りである。

4.「国際障害者年」以降の施策の展開
 これらの報告書などを受けて、国際障害者年を意識した幾つかの制度の改革が行われる。大きな改革として、1983年に「障害基礎年金制度」が創設されたことが挙げられる(1986年より実施)。これにより、二十歳以前に障害が生じたものについても年金が支給されることになり、障害者運動側の第一の主張でもあった「所得保障制度の確立」が、ある程度までは達成されることになった。この制度の創設について運動側は、「金額のうえで決して十分と言えるものではない」としながらも、「二十歳以前の障害者に対する所得保障が国民全体の制度の中で位置づけられた」ものとして評価している18)。
 また1982年の答申を受け、1984年に身体障害者福祉法の改正が行われている。この法律に関わるものとして「身体障害者家庭奉仕員派遣事業」の運営要綱改正が行われたが、これは、報告書等で指摘された利用者の介護保障へのニーズに応え、派遣対象を拡大することに重きを置くものであった。
 しかしこの要綱改正は新たな「問題」をつくりだした。一つは、世帯の生計中心者の収入に応じた費用負担が荷せられたことである。ここにおいて障害者が家族と暮らしていれば、少なくとも世帯の生計を担う家族成員が、障害者の経済的負担を肩代わりすることが明示的に規定されたのである。派遣対象については、「家族が当該身体障害者の介護を行えないような状況にある場合」という従来通りの規定が維持されたが、新たに派遣の申請者については、世帯の生計中心者とするという規定が設けられた。これによって、家族と同居しながら、家族による介護や経済的な援助を受けないで生活していこうとする障害者への派遣がいっそう困難になった。また施設入所者に対する扶養義務者からの費用徴収もこの改正によって定められている。これらの一連の改正は「(障害者のいる)世帯」の責任を強調するものであるといえる。
 まとめてみよう。障害基礎年金制度が創設され、所得保障は一応の確立をみた。これは運動側も認めるように行政への働きかけの一定の成果ではあった。しかし金額の上で十分ではなかったことから、「自立」出来るのは一部の人に限定され、その他の障害者は従来どおりの生活を余儀なくされた。また家庭奉仕員派遣事業が、「世帯」の責任を強調する方向へと転換したことにより、「障害者家庭」が世帯単位で障害者の面倒をみる/責任をとることが、ここにおいて改めて規定された。また介護サービス供給についても一定の前進は見られたが、「選択できる介護サービス」というイメージが先行するものであった。全体をみわたせば国際障害者年以降の施策は、「介護/扶養する家族」という前提を従来どおり、ないしは従来以上に維持しつつ展開していったといえる。

5.まとめにかえて:まなざしの変遷と残された「問題」
 最後に翻って「障害者家庭」をとらえる複数のまなざしが、どのように絡み合って施策の展開に影響を与えたのか、現在において、どのような意味を持つのかについて考察する。
 運動側は当初、「家族に依存する障害者」の問題性を指摘し、当時の状況に対して異議申し立てを行った。ここでは「家族への依存」という言葉によって、「依存」の二つの側面が指摘されていたといえる。一つは、脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会が強調した「身体的な依存」、すなわち家族の介護を受けて生活することによる依存であり、もう一つは全国所得保障確立連絡会が強調した「経済的な依存」、すなわち親に扶養されていることによる依存である。こうした現状に対する鋭い批判は、運動側の目的が具体的な年金制度獲得へと向かうと同時に、影をひそめるか、あるいは緩和した表現に置換されていく。「厄介者として扱われる」、「大きな赤ん坊のよう」などの具体的な記述から、次第に「依存」という抽象的な言葉のみが用いられるようになるのは象徴的である。さらに運動側は過去(親に「あたたかく」育てられた)や未来(自立すれば「親子の絆」がより深まる)については言及するが、現在の状態への言及を行うことをやめていく。つまり、現状に対する批判から「よきものとしての家族」を強調する方向へと論点をずらしていったのである。
 一方で行政側は、運動側との交渉等では明示的には語らないものの、報告書などにおいては、「家族」を一貫して「介護する存在」としてとらえていた。これに対して、「親子関係の重要性」や「親子の絆」を強調する運動側の議論は、「介護する家族」を積極的に肯定するものではないにしろ、行政側の議論に適合的なものであったといえるだろう。こうして最終的に運動側が用いた「経済的な基盤があれば、よい親子関係を創り出すことができる」というレトリックは、結果的に行政側に一定程度受け入れられ、障害基礎年金制度の確立という政策の転換に寄与したといえる。
 しかしこの過程において、当初の運動側の論点がずらされ、問題化の方向が決定づけられていったこと、つまりここにおいて、重度の障害を持つ人の「自立」に関わる問題が取り残されたことは重要である。年金制度の確立により「家族への依存」状態から抜けて、「自立した生活」を営むことが出来るのは、ある程度身の回りのことを自分で出来る人びとに限定される。これら以外の、全面的に介護が必要な人びとの場合、家族以外による介護の手が確保されない限り、「自立」は困難になる。こうした重度の障害を持つ人びとの「自立」はどのように果たされるのか、「介護は誰/どこが引き受けるのか」、「介護費用は誰/どこが負担するのか」という根本的な問いは取り残されたままになった。
運動側が、「家族による介護」に関わる問題点を、再び公の場における議論の俎上に載せることが出来なかったこと、また「家族」と「介護」の関係についての議論を曖昧なまま置きざりにし、「よきものとしての家族」へとまなざしを変化させたことは、意図せざる結果として「介護する家族」を是認する方向へ作用したといえる。このことは、重度の障害を持つ人びとの問題にとどまらない公的介護保障の問題が、現在においても残存していることと、無関係ではないのではないか19)。



1) 政策を作成する側の「家族」へのまなざしを明らかにする先行研究として、政府の提出した文書、各審議会による答申などを資料として分析を行った原田(1988)、庄司(1984)がある。この時期の障害者施策の展開には、障害者による運動が大きな影響を与えているため、運動側の言明にも注目する必要がある。
2) 国際障害者年前後における当事者運動が、政策の展開に与えた影響について立岩が指摘している(立岩1990)。立岩の知見により、運動側が従来から「家族からの独立」実現のための制度要求を行っていたことが明らかにされている。しかし、立岩は自立生活運動の展開を主眼としているため、あくまで運動の結果としての政策の展開を記述したにとどまる。本稿はとくに「家族」に焦点化し、運動側と政策作成側双方の「家族」へのまなざしの変遷を読み解くことによって、政策展開に至る「過程」をより綿密に記述する試みとして位置づけられる。
3) 後述の「全国所得保障確立連絡会」についても同様であったようだ。
4) もちろん運動サイドの機関誌であることから、記述に偏りがあることには十分注意が必要ではあるが。
5) 『とうきょう青い芝』51(1980/05/01):2-3
6) また同じく第一回に「障害者の所得保障を要求する連絡会議」(以下、「障害連」と記す)が提出した「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会の発足にあたって」では、「ケアの獲得は、公的サービスによるのか、障害者各個人に対する所得保障の中に組み込むのかは、基本的検討課題の一つである」と、介護保障が検討課題の一つとして挙げられている(『とうきょう青い芝』51(1980/05/01):9-10)。
7) 『とうきょう青い芝』53(1980/07/01):8-9、今岡(障害連)の発言。また第五回、第六回の研究会においても、他の委員によって同様の主張が行われている(『とうきょう青い芝』54(1980/09/01):8-9、55(1980/10/01):8)。
8) 『脳性マヒ者等全身性障害者問題に関する報告書』(1982/04)
9) 『とうきょう青い芝』53(1980/07/01):9
10) 『とうきょう青い芝』55(1980/10/01):3、宮尾(障害連)の発言。また、同様のレトリックは以下の文書においてみられる。
「所得保障制度検討プロジェクト・チーム」への意見書」(全国所得保障確立連絡会 1981/12/18)『とうきょう青い芝』70(1982/01/01):2-4
「脳性マヒをはじめとする幼い時からの障害者の所得保障制度新設に関する要望書」(五・一〇、一一中央行動実行委員会 1981/05/11)『とうきょう青い芝』62(1981/05/01):6
「第5回障害者の生活保障専門家会議にむけての意見書」(全国所得保障確立連絡会 1982/10/22)『とうきょう青い芝』79(1982/12/01):2-4
11) 『とうきょう青い芝』70(1982/01/01):2
12) 『とうきょう青い芝』69(1981/12/01):5。また、所得保障制度獲得運動の一環ではないが、東京都社会福祉審議会における公聴会での寺田(東京青い芝の会)の発言(『とうきょう青い芝』53:2-3)にも同様のものがみられる。
13)このレトリックは行政交渉の場においても次のようなかたちで使用されている。
「私達の仲間は、小さいときは親が暖かく育ててくれるが、おとなになる頃は親も年を取ってどうしようもない。自分で働いて生きられるような稼得能力も無い。」(厚生省交渉1981/05/11 『とうきょう青い芝』63(1981/06/01):9-10)
 また同様のレトリックを用いた発言として厚生省交渉(1981/10/27)(『とうきょう青い芝』69(1981/12/01):2)がある。これらの発言は、個人的な見解によるものではなく運動全体を表すものであるといえる。このことは「自立することは親子の真の絆を強める」という共通の認識に基づいた「語り方」を行っていることからも明らかである。
14) この運動の展開については(荒川・鈴木1997:20)、またその主張については(横塚1975→1981)を参照。
15) 東京青い芝の会の会員であった若林は、1970年代の後半になると、同会の主張に「世間の人が耳を傾け」るために、従来の「親は敵だ」とする語り口から、「親であれば誰しも子どもの幸せを考えてはいる」という前提のもと、障害者が親から独立することが「親のためにも障害者のためにも良いことだ」という言い回しに変えていったとしている。このことから、彼らが戦略的に世間や行政側の「共感」を得るためのレトリックを獲得していったことが予測されうる(若林 1986:136)。また東京青い芝の会は、全国青い芝連合会に加盟しつつも独自の運動を展開し、とりわけ所得保障制度の獲得を第一の目的としていた。本稿でみた二つの機関は、東京青い芝の会のメンバーが複数委員として参加しており、同会の主張に強い影響を与えたことを付け加えておかなくてはならない(立岩 1990:190)、(若林 1986:136-140)
16) 『とうきょう青い芝』69(1981/12/01):2。また正木(総務審議官)との話し合い(1982/08/04)、竹下(大蔵大臣)との会見(1983/11/12)などにおいても、運動側の主張に対して回答が得られていない。
17) 『とうきょう青い芝』63(1981/06/01):9-10、64(1981/07/01):3
18) 『とうきょう青い芝』89(1983/12/01):1
19) 本稿では行政側の「家族」をとらえるまなざしについて、十分に論じきれているとはいえない。今後関連審議会や国会討論の議事録などを資料として、さらに分析をすすめる必要がある。また運動側についても、文献や当時の運動に直接に参加した人物へ聞きとりを行う等により検証作業を行っていくことは、残された大きな課題である。

引用文献
荒川章二・鈴木雅子1997「1970年代告発型障害者運動の展開:日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」をめぐって」『静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)』:13-32
原田純孝 1988「「日本型福祉社会」論の家族像:家族をめぐる政策と法の展開方向との関連で」東京大学社会科学研究所編『転換期の社会福祉国家(下)』東京大学出版会:303-392
板山賢治・仲村優一 1989「身体障害者福祉法制定40周年:近年における身体障害者福祉の展開」『月刊福祉』10:35-56
三ツ木任一編 1997『障害者福祉論』(放送大学教育振興会)
中野敏子 1997「障害者の在宅福祉」三ツ木編:78-88
庄司洋子 1984「わが国の「答申」・「白書」にみる家族」『社会福祉研究』35:44-50
立岩真也 1990「はやく・ゆっくり−自立生活運動の生成と展開」→安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 1995『生の技法−家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』藤原書店:165-226
若林克彦 1986『軌跡――青い芝の会・ある脳性マヒ者運動のあゆみ』
横塚晃一 1975→1981『母よ!殺すな』[増補版]すずさわ書店


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  by立岩
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  ◆家族


REV: 20151222
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