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ICIDH2批判−障害の生物学的決定論(物象化)批判

三村 洋明

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last update: 20151222




 ICIDHに付いては、色々コメントしてきましたし、ICIDH2についても、「反差別(S)6」でコメントしました。しかし、その後読み落としていた基本文献とも言える本と出会い読んだことがあり、もう少し深化する形で、あえて図式化して書き込んでおきたいと思います。もちろん図式化ということの弊害、とりわけ、ここでも触れている物象化ということと、図式化がかなりつながってしまうということを承知の上で、それでも敢えて分かりやすさを求めて書き試みます。
 この文章を書いている途中でICIDH2の正式な英文ができたという情報がはいってきています。が、語学を苦手にしているわたしには、それを取り込む時間も力もないし、また、概略は押さええることとして、このまま書き進めます。

 80年に出された障害の3つの性格という形で押さえたWHOの障害規定は、またそれまでの障害を個人の属性ととらえることに対する批判的観点をもっていて、過程として評価できるものとしてあったと言えるでしょう。その三つの性格の相互関係は明確に書かれていないのですが、現実的には、下記のような内容になってしまっています。

                        
         
                 

     


          図 1

 通常は横に並列的にかかれていますが、内容的に押さえると、下にあるものがより規定性を持っていて、いわゆる土台−上部構造の関係をもっています。
 この障害規定はかなり広まっていて、障害の規定を試みようとする人の間ではこの規定を抜きにしては論じられない情況があります。しかし、機能障害の規定性が強く、生物学的決定論だという批判の中で、新しい規定の試みがなされてきました。その1つとして、出されたのが下記のICIDH2です。

ICIDH−2(ベータ2案・1999)
諸次元の相互関係

健康状態 Health Condition
(変調/疾病 Disorder/Disease)

心身機能・構造          活 動          参 加
Body Function Activity Participation
& Structure


  環境因子           個人因子
    Environmental Factors Personal Factors

                図 2

 しかし、この規定にはいくつかの問題点を指摘せざるをえません。
 まず第1は、前の規定は、障害を規定すると目的がはっきりしていたのですが、この規定は、そもそも何を規定しようとするのか、はっきりしないということがあります。いわば障害者の生活情況というようなことでしかなく、何を問題にしているのかが不明です。
 第2に、「健康状態」「心身機能・構造」という情況概念と「参加」「行動」という実践概念がごっちゃになっているという指摘ができます。もとの規定の方がもっとすっきりしています。敢えて、実践概念をいれるとしたら、情況概念は情況概念として整理し、「行動」は「行動の制限」、「参加」は「排除−バリア」というように置き換え、実践概念は別な形で入れ込むべきです。
実践概念的な書き込みとしては、そもそも、WHOの規定は、リハビリテーションというところから出てきているのですから、3つの規定に対するリハビリテーション的働きかけとして、「健康状態」「心身機能・構造」に対しては医学的リハビリテーション、「行動の制限」に対しては教育・職業的リハビリテーション、「排除―バリア」に対してはバリアフリーのための活動(―「社会的リハビリテーション」)というようにおけます。
もちろん、「行動の制限」ということは単に医学的リハビリテーションの問題や教育的・職業的リハビリテーションで解決する問題だけでなく寧ろ排除―バリアということの問題なのですが、そもそも3つの規定として分けたということの中で、その規定性の関係を明らかにしないで作られたということで、その生みなおしの作業の中で整理をしなければなりません。
 初めに、障害者差別社会の当事者意識に沿ったところで、一部最初の規定に戻しつつ、合論理的に完成させてみます。

                  (略)

                  図 3

 さて、話をICIDH2の限界性の指摘に戻します。第3として、個人と環境を二項対立的に置いたこと自体の問題があります。この新しい規定は、そもそも生物学的決定論の批判からおきたのですが、障害を社会的関係性から切り離された実体化された個人に内自有化された属性とおいたところで、個人・実体―障害・属性として現れています。環境と言う言葉自体、社会と区別された環境、すなわち自然と言うことを頭に入れて使っていることと推測できますが、社会と区別された純粋な自然と言うものを置くこと自体がおかしいと指摘できます。だから環境などというあいまいな言葉を使わないで、個人と社会というように置くと、そもそも二項対立的に置くこと自体がむずかしくなります。個人ということは、社会という網の目・結節点といえることで、社会―網から切り離されたところで個人−網の目が存在することではなく、それを切り離したところで、実体主義が生まれます。障害自体も、社会的関係性の中で障害として現れることで、関係性と切り離されたところで障害というものがあるわけではありません。まさに、社会的関係を自然的関係ととらえそこなった物象化といえることで、生物学的決定論批判はそのような観点からなされるべきです。哲学の世界に於いても、そして自然科学・社会科学の世界においても、パラダイム転換ということが語られるようになって久しくなっています。その内容の根幹は実体主義批判なのですが、その批判的観点の世界観まで掘り下げたとらえ返しを欠落させているので、新しいこの障害規定も生物学的決定論を超ええていないのです。
 ただ、これも当事者意識からICIDH2の「個人的要因」と「環境的要因」をとらえれば、図3において、上の方が上になればなるほど社会的要因が強くなり、下の方が個人的要因が強くなることとして一応押さええます。

 さて、ここで、ちょっと別の観点から、障害の概念をとらえかえしてみます。それは、最近生み出されている新しい障害概念です。もうだいぶ前からですが、学習障害(LD)と言う新しい障害概念が生み出されました。以前は、単に勉強の遅れる子どもと言う規定だけから、何か脳の中に障害があるのではないかとして、その医学的・生物学的原因らしきものを探ろうという動きが出ています。つい最近になって、注意欠陥多動性障害(ADHD)なる新しい障害概念も出されて、同様の動きが出ています。それから障害者問題から若干ずれるのですが、性差別と架橋する概念として性同一性障害なる言葉も生まれ、これも、医学的生物学的差異を見つけ出そうと言う道筋を辿ろうとしています。
 何も新しい障害概念だけではありません。自閉症や吃音、それに精神障害においても、素因論的探求−脳の中に障害を見出そうという努力が最近頓に盛んになってきています。特に吃音に関しては、そもそも、吃音とは器質性の障害ではないと言う規定そのものを踏み外しての論理矛盾的探求であることを指摘できます。これらの素因論的探求が障害者サイドからなされることに関しては、「自己責任」の回避という内容をもっているのですが、努力義務という抑圧型の差別から、排除型の差別に「逆戻り」するという意味しかもたらしません。
 脱線した話を戻します。この新しい障害概念が生まれる構造というのは、図にすると下記のようになります。

       図 4

 これは、実は内容的には図1図3をひっくり返したものですが、この新しく生み出される障害概念の産出構造というのは、実は、障害の存在構造そのものではないかと指摘できるのです。
 もちろん産出されて以降は、産出したものが逆に規定していくという相互規定性をもっています。
 一番土台的位置に関係性ということをもってきていますが、実はこれは、個別的関係性ということで、この図総体を個別関係性と区別された関係性の総体として、表すことができます。この関係性総体の中身は実は、差別の構造としてほぼイコール的に表せることです。それを図式化すれば、図5として表せます。

障害の関係性総体=障害者差別の構造


       図 5

 ここで問題にしているのは、機能障害ということで、もうひとつ形態障害という概念の問題が残っています。障害を巡る美意識の問題という言い換えもできることなのではと思っていますが、これには美意識も歴史的規定性と個別的規定性の中にあるということを指摘しつつ、更に詳しい展開は別の機会に譲りたいと思います。
 さて、このような障害規定を展開すると、おそらく余りにもイデオロギー的だという批判がおそらく出てくるでしょう。しかし、イデオロギー的という批判がいつもそうであるように、イデオロギー的という批判をするひと自身が、実は(障害者)差別意識にどっぷりと使っている、イデオロギー的であることをとらえかえせていないのです。それがイデオロギーとしてとらえにくくなっているのは、その意識が社会一般に広まっているイデオロギーだからという理由だけであり、また、その社会的意識が、社会的関係性の中である意識としてとらえられないで、自然に依拠するものというようなとらえ方、これが物象化といわれることですが、いわば根拠のある錯誤に基づいているのです。一言で言えば、障害という実体的差異を障害者がもっているという錯誤の問題です。

 さて、問題は、この差別の構造そのものをどう解体していくのかということなのですが、ここでは、そこまで踏み込みません。とりあえず、ICIDH2のあいまいな規定を批判しつつ、障害者反差別運動サイドからの新しい障害概念のとらえ返しの作業として、ここに提出しておきます。



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