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動物と子どもの被る苦痛

−児童虐待へのまなざしの端緒
三島 亜紀子

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last update: 20151222


動物と子どもの被る苦痛
−児童虐待へのまなざしの端緒

三島 亜紀子

1.はじめに

動物と人間と一緒にするな、としかられそうだが、自己抑制できない衝動を、弱者に
ぶつける病理という点でこの二つは同根である 。

上記は、『厚生福祉』に組まれた児童虐待問題特集に、動物虐待に関する記事も掲載したことに関して、著者が弁明をおこなっている部分である。ここでは、無防備な弱者への暴力を一つの病理とし、その病理が児童虐待と動物虐待とを通底する病理とされている。
しかしながら、児童虐待と動物虐待は「同根」の問題を持つといったとき、歴史を鑑みれば他にも特筆すべき二つの事柄がある。それらは両者とも、その残虐な行為を阻止するための正当で公式の理由となるものである。第一に、上記の弁明が苦痛を与える側にのみ注視したのに対して、痛みを負う側の福祉を考慮したものが考えられよう(図1)。暴力がもたらす苦痛とは、それを受ける側、つまり子どもと動物の福祉を害するものとして捉えられ、ここではそれを阻止しようと尽力される。この思考は功利主義者の主張にも重複する。

(図1)子ども/動物虐待防止の動機づけ@

● → ○
○ 自体の福祉を重視

第二に、苦痛を受けるもしくは与えるという過程を経ることが、公共の安全を脅かすという言説のなかにも「同根」の部分をみることができる(図2)。そこで虐待行為への公的な介入は、公共の秩序を維持するため、その予防手段としてなされるものと正当化される。例えば、人が犯罪に至った原因として、幼児期の虐待があげられることがある。もちろん、虐待を受けた動物が直接、公共の秩序を破壊することはない。子どもへの虐待が将来の犯罪者を生むといった構図とともにあるのは、動物への虐待をおこなう者は将来、逸脱者となるという解釈である。

(図2)子ども/動物虐待防止の動機づけA

● → ○ → ?
↓ → を予防する目的


動物と子どもという、訴える手段を持たない二種の「弱者」の苦痛を排除しようとするこれらの試みは、主に上の二つの動機づけによって、19世紀前半から徐々に普及していった 。彼ら/それらの被る苦痛を排除しようとするとき、公的な権力とそれを裏づける知の存在が必然となり、児童虐待防止法などといった法律や制度にも結実した。こうした動物を対象とした苦痛排除の試みと、子どもを対象としたそれとは、複雑に絡み合いながら深化していく。
本稿では、痛みを感じえる「主体」に引き寄せることによって、その苦痛に特別の注意を払わねばならない子どもの現出せしめた経緯を辿っていきたい。このとき、その対象となる子どもの範囲が拡大したことによって、公的介入の機会は増え、その是非を問う議論の場も開かれた。
現在の日本の状況に目を転じてみよう。1999年、2000年に相次いで動物と子どもに対する虐待に焦点を当てた法律が成立・改正された。また動物虐待への関心は急速に高まりつつある。こうした二種の弱者への関心に、上記の伝統的な動機づけ、あるいはそれを実践するにあたって生じる公共の安全か自由かというアポリアを見出すことができるだろうか。まず、現行制度を概観してから、歴史的経緯を確認していく。

2.痛みへの配慮の形成
2.1苦痛のとりあつかい
今日、子どもの福祉あるいは権利を考慮する場合、彼らの受ける身体的な苦痛に配慮することは、一般的になっている。無力な子どもが被りがちな身体的な苦痛は、直接彼の権利を侵し、福祉を害するものとして把握される。国連の「児童の権利に関する条約」(1989年)第19条において「虐待及び放任からの保護」がうたわれているのも、その現れだといえる 。まず、現在の措置を中心とした動物/児童虐待に対する法規定を概観したい。日本では、児童福祉法をはじめとした諸法で児童虐待を想定した条項が設けられている。
児童福祉法第28条は、保護者がその児童を虐待などした場合に、親権を行う者または後見人の意に反していても、家庭裁判所の承認を得て、子どもを家庭から引き離し、施設入所など(第27条第1項第3号)の措置を取ることができると規定している。また同法第33条第1項には児童相談所所長または都道府県知事は、被虐待児を一時保護などをおこなうことができると規定されている。2000年5月に成立した「児童虐待の防止等に関する法律案(以下、児童虐待防止法)」では、親がこれら保護された子どもとの「面会又は通信の制限」(第12条)が盛り込まれた。
さらに、児童福祉法第33条第6項において、「児童の親権者が、その親権を濫用し、又は著しく不行跡であるとき」、民法第834条の規定による親権喪失宣告の請求に関して定められている。これまでこの条項が積極的に運用されてこなかったとして、児童虐待防止法では、第15条において「親権の喪失の制度の適切な運用」がなされるべきとして新たな条項が加わった。
子どもへの虐待を、親権を超越する権力でもって解消させようと試みるこれらの条項は、「保護者が、その児童を虐待し、著しくその監護を怠り、その他保護者に監護させること」が「著しく当該児童の福祉を害するもの」(同法第28条)として位置づけられている。
一方、動物の法律に関してだが、「動物の保護及び管理に関する法律(通称;動管法)」が1999年12月に改正され、「動物の愛護及び管理に関する法律(通称;動物愛護法)」になった。同法は「愛護動物」を虐待した個人に対し、罰則規定が設けられている。旧法では「保護動物」の「虐待」・「遺棄」に対し3万円以下の「罰金又は科料」に処せられた(動管法第13条)が、改正後、「殺傷」の場合は「一年以下の懲役又は百万円以下の罰金」、「虐待」・「遺棄」の場合は30万円以下の罰金に処すると厳罰化された(動物愛護法第27条)。また、旧法では単に「虐待」・「遺棄」を規制の対象としたが、改正法では「みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等」と、広がりをみせている 。
次項では子どもと動物という二種の弱者への憐れみのまなざしが、19世紀を舞台に錯綜しながら社会的・法的に確立していく経緯を辿っていきたい。それは主に大西洋を挟んだ英米を舞台に展開していったため、英米、そして日本に焦点を絞る。

2.2動物の虐待防止から児童虐待防止へ
イギリスでは、1800年に「牛いじめ」行為を違法とする、動物虐待防止をうたった初の法案が議会に提出される。結局、その法案は否決されたが、1822年にリチャード・マーティン(Martin,R.)という議員によって提出された、家畜の残虐で不適当な使用を禁止する「マーティン法」が両院を通過して国王の許可を得るに至った 。この法律は後に、諸外国に影響を与えることになる。例えば、フランス初の動物保護法である「グラモン法」(1850年)はこのマーティン法の強い影響下にあり 、日本初の動物保護をうたったといわれる旧刑法典第3編第2章第7節「家屋物品ヲ毀壊シ及ヒ動植物ヲ害スル罪」もこのグラモン法を経由してマーティン法の精神が伝わったものであった。
また最初の動物愛護団体設立の動きは、法の成立直後から始まる。盛り上がりを見せずに終わった1822年の協会を経たあとで、1824年「動物虐待防止協会(Society for the Prevention of Cruelty to Animals ; SPCA)」が誕生した。この協会は1840年にヴィクトリア女王の命により、「動物に対する虐待を防止するための王立協会(Royal SPCA;RSPCA)」と名乗ることになり、現在に至っている。
次に、この動物の苦痛への配慮は、大西洋を越えてアメリカへと渡ることになる。ヘンリー・バーグ(Bergh,Henry)という「英国崇拝者」 によってRSPCAの活動が模され、1866年にニューヨークで「アメリカ動物虐待防止協会(American SPCA ; ASPCA)」の活動が開始された。それ以前にも、マーティン法の影響を受けたニューヨーク州法(1828年)やマサチューセッツ州法(1835年)という動物虐待防止法が存在してはいた。しかしバーグのこの貢献によって、フィラデルフィアやボストンなどでもSPCAが設立されるなど、アメリカにおける動物保護運動は広がりをみせていった。
現在の価値観に照らすと非常に奇妙なことだが、こうした動物虐待に関する法整備や、協会の設立がある程度進行した後で、児童虐待への関心が興隆する。さらにこのことは、英米、そして日本でも共通する現象でもあった。児童虐待への対策が必要視されるようになった象徴的な転機として、1874年のマリー・エレン児童虐待事件の訴訟があげられよう。同事件はアメリカのASPCA創始者バーグによって「子どもも動物の一種である」という理由から裁判所に訴えられたもので、同協会の顧問弁護士であるジェリー(Gerry,Elbridge T.)によって弁護がおこなわれた 。この訴訟は世論を喚起し、同年、ジェリーはそれに応じるかたちでニューヨーク児童虐待防止協会(NY Society for the Prevention of Cruelty to Children;NYSPCC)を設立することになる。ここに世界初の児童虐待防止協会が出現するにいたった。
動物から子どもをも含むまでに対象が広がった憐れみの心性は、イギリスにとってアメリカから逆輸入するかたちで普及した。トマス・アグニュー(Agnew,Thomas F.A.)というリヴァプールに住む一銀行家がニューヨークを訪れ、NYSPCCの活動に感銘を受けて帰国、1883年にリヴァプール児童虐待防止協会の設立にこぎつけたのである 。そして1889年には、全国児童虐待防止協会(NSPCC)が設立され、同年、イギリス初の児童虐待防止法が制定されるはこびとなった。
日本では、1899年になされた広井辰太郎の提唱 に呼応して、1902年に日本初の動物虐待防止協会である「動物虐待防止会」が東京・三田のユニテリアン協会で設立された。日本初の児童虐待防止運動を展開した「児童虐待防止会」が原胤昭によって設立されたのが1909年だったことを考慮すると 、英米と同様、児童虐待防止に先立って動物虐待防止の取り組みがなされたといえる。日本で初めて「児童虐待防止法」(法律第四〇号)が制定されたのは1933年であるのに対し、「動管法」が成立したのは1973年であった。一見、動物より先に子どもへの虐待が法的に規制されたかのようだが、1908年に成立した旧刑法のなかにその精神は既に存在していた。そして注目すべきは、「動物虐待防止会」の機関紙『あはれみ』の創刊号において、児童虐待防止へ向けた関心が記されていたことである 。
こうした初期の児童虐待防止活動の状況を一見すると、動物虐待防止活動との浸透性は各所に見られる。例えば、初期のロンドンのSPCCでは、会員の17%はRSPCAかその他の動物愛護協会の会員であったし、23人いる役員のうち5人までもが動物愛護関係に携わっていたという 。また、ロンドンSPCCは1884年10月末に事務所を構えるまでRSPCAのフロアを間借りしており、同じ事務員が事務をこなし、同一会計でさえあったという。また日本でも、児童虐待防止法が制定された時になされた「児童虐待防止に関する講演会」の記録などに人員の重複がみられる 。こうした例は他でもみられるが 、これらは弱者の被る苦痛を阻止しようとする活動に通底する文法が存在したからだといえよう。特に子どもと動物との近似性を示唆するものとして、マリー・エレン事件が有名だが、これについて節を変えて検討したい。

2.3マリー・エレン神話
児童虐待が人々の関心を集める契機となったのは、1874年のマリー・エレン児童虐待事件であったとされることが多い。この事件は、9才の少女が長期間にわたって里親から虐待を受けていたとして訴えられたもので、日本における児童虐待研究の先駆者の一人、池田由子の『児童虐待』でも、冒頭に次のような記述がなされている。

ニューヨーク市に住んでいたメリーは継親(一説には養親)に殴られ、飢え死にし
そうになっているところを発見された。しかし、当時は虐待された子どもを保護する法
律がなかった。そこで市民たちは動物虐待防止協会を説得し、彼女を広義の"動物"の
一員として、少なくとも犬や馬に与えられるのと同じ保護を受ける権利はあるとし
た 。

マリー・エレンという人間の子どもが「保護を受ける権利」は、彼女が動物の一種であることに法的根拠があるとなされ、それが児童虐待防止へ向けての第一歩となったという。われわれはここで、子どもと動物が同一平面上に並べられた極端な例をみることになる。このとき、ニューヨークでは州法のなかにマーティン法の影響を受けた動物虐待防止法は存在していた。しかしながら、機能こそしていなかったが、実際は身体的な虐待やネグレクトを禁じる刑法は整備されており、動物虐待防止法に依存する必要はなかった 。現に、マリー・エレンを虐待した継母は傷害罪により有罪判決を受けている 。
こうした子どもの虐待されない権利を動物虐待防止法という動物の持っていた既得権によって成立させたという「神話」は、さまざまな場面で口にされた。特にソーシャルワークの領域において饒舌に語られる 。とはいえ、この神話が流布したのも、ただ歴史認識の誤謬や歪曲であると結論づけるのも安直であろう。そこでは、子どもという特殊なカテゴリーを想定する法律の不備が問題視されたのであり、公共の秩序を維持する機能を担わせたディシプリンからの要請も受けていたはずである。そうした状況のもと、虐待から子どもを保護する必要性を強調するには有効な神話であったといえるのではないだろうか。また家族の自律性や、介入を阻む強い親権の存在を批判的に強調するにも一役かっている。これらを検討する前に、なぜこれほどまでに動物と子どもの存在が接近していたかについて考察していきたい。

3.ローカルな人々と動物
3.1進化論という契機
子どもと動物との境界を不鮮明にした背景として、どのようなものが考えられるだろうか?イギリスにおいて、動物をめぐる態度は17世紀後半から徐々に変化していったという。ターナーはその要因として、人間は根本的に動物であるという科学的研究が蓄積されたこと、18世紀に人道主義的感受性が興隆したことなどをあげている 。それは動物と人間の歩み寄り、あるいは逆説的に差異の強調といった相反する言説の共存であった。
例えば、解剖学は人間と動物の身体が原理的に類似し、多くの場合、同一の器官を有していることを証明した。さらに解剖学者の視線は(それまでは人間のみがもつとされていた)精神という領域をも貫く。そこで、感覚器官やその働きは人間においても動物と同様であることが実証され、人間が動物の一種であることが驚きをもって普及していった。こうした実証主義的な科学の発展によって、全動物の支配権を与えられていたはずの人間は、その地位から引き摺り下ろされてしまう。
また、ダーウィン(Darwin, C.)を待つまでもなく、進化という概念は広く流布していたが、これが与える影響も大きいものであった。そこでは種族や能力の異なる人間、諸動物を、進化の線に沿うように並べる作業がくり返しなされることとなる。

動物の生命は、軟体動物のような低いものからはじまって、昆虫、魚、鳥、獣の無数
の主を経て、理性の領域に至り、犬、サル、チンパンジーの理性は、人間の理性の最も
低いものと密接に結びつくので、簡単には区別できない。理性は、野蛮なホッテントッ
ト人における最も低いものから、学習と科学の助けによって進歩し、次第に高まる人間
の知力の様々な段階を経て、ベーコンあるいはニュートンのような人間において頂点に
達する 。

しかし、こうした進化論は秩序ではなく混乱を引き起こした。進化という斜めあがりの線を、現存する多種の民族や動物を配置することによって表現することは至難の業であったようだ。この時、進化のどの部分に置くべきか判定が困難な、貧民や女性、他民族、他宗教・他宗派の人々といったマージナル周辺部のカテゴリーに属するものたちは、人間と動物の狭間のグレーゾーンにおかれることになる。
だからこそ、一方では人間と動物の境界線を強調する作業がおこなわれた。ダーウィンの『人類の起源』 の主題の一つは、「野蛮人」と動物の決定的相違を明らかにすることであった。また1887年に刊行された文部省の『尋常小学校読本』に、「桃太郎」が初めて教科書のなかに登場したときも、同様の試みがなされている。それまでの赤本を含む草双紙類では、イヌ、サル、キジは擬人化されていたが、明治政府によって教材化されると、これらの動物はリアルな動物として描かれた。同時に桃太郎は青年から少年として描かれるようになるが、中内敏夫はこれを「少年期の概念の成立は、根強く続いた日本の子どもたちの、動物界からの永遠の別れ、そういう意味での『人間』化の過程でもあったのである」 と特徴づけている。しかしながら、これらの試みは同時に、両者の近似性を特徴づける作業ともなるだろう。
さらにこの進化という概念を数値的に実証することによって、補強しようと試みた科学者たちも後を絶たなかった。ロンブローゾ(Lombroso,C.)は犯罪行動に関する研究のなかで、犯罪に手を染める人々を「犯罪者階層(criminal class)」に属するものとして、その身体的特徴を類人猿やそれ以下の霊長類、あるいは未開部族のそれと重ねあわせている。また、ドイツの人類学者E・フーシュケは1854年に次のように述べた。

黒人の脳は、子どもや女性に見られるタイプの脊髄を所有し、またそれ以上に、高等
なサルに見られる脳に近い 。

骨相学や頭蓋計測学など、さまざまなヴァリエーションを持つそれらの研究は、与件としての進化という概念を「科学」的に補強する役割を担った。そこでグレーゾーンに置かれたローカルな人々は、「科学」的にも相関性が高いものとして目されるようになる。

3.2不明瞭な境界線の生み出す不幸な混乱
医学や諸科学の発展により増幅された、ローカルな人々と動物とを区分する線の不明瞭さは、しばしば予想外の悲劇を生みだす。アメリカでは南北戦争以前に動物虐待防止法が各地で制定されたが、黒人への苦痛に対する配慮はなされないでいたのも一つの例である。こうした混乱は、19世紀だけのものではない。その残虐性は20世紀にいっそう増したとさえいえる。ナチス政府は1933年に動物虐待防止法を制定したが、一方でユダヤ人を動物以下に扱っていたことは悪名高い。同法では動物実験に関する制約さえ盛り込まれ、そこではできるだけ苦痛を少なくするように配慮されていたにもかかわらず、同時期にユダヤ人などを対象とした人体実験が頻繁におこなわれていた 。
こうした錯綜に日本が無縁であったわけではない。上述したように、明治期から動物愛護の精神は喧伝されており、戦時中においても兵士は軍馬に対して愛護心を持つように推奨された 。しかしながら一方で、その同じ日本兵の残虐さは今なお非難の的となるところであり、南京にある侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館には立派な「軍馬の墓」が建てられている傍に中国人の首が無造作に転がっている風刺画が飾られている。
このように、不明瞭な境界線が生み出す混乱の一つが、本論の主題とする子どもよりも先に動物の感じる苦痛が考慮されたという事実である。それは、以上のような悲劇と通底するものであるといえよう。さらにこうした混乱は、社会的な福祉を向上させようとする野望のなかにもみうけられる。次に、功利主義者による意図的な混乱について触れたい。

3.3苦痛の除去が意味するもの
ベンサム(Bentham, J.)の試みは、苦痛を社会全体の福祉の度合いを測る一つの尺度としてみなし、その極小化を試みるものである。ここで苦痛は「悪」であり、それを除去することは、社会全体の福祉を増大させるものと設定されていた。ベンサムは臨終間際の自らの状態は他の者に苦痛を与えるとして召し使いをも部屋から閉め出すなど、苦痛を徹底的に消去しようと努めたという 。功利主義者が「最大多数の最大幸福」を唱えるとき、誰の幸福かといえば、奴隷や子ども、罪人や「狂人」を問わず、人間全般の幸福であるが、実は不可避的に動物も含まれていたという。なぜ動物までも含めなくてはならなかったかといえば、奴隷や子ども、罪人や「狂人」は動物と同様の地位にあるとみなされてきた歴史があったからある 。
例えば当時、黒人は痛みを感じないという通念が流布していた。デカルト(Descartes, R.)は動物を機械とし、痛みを感じないと断じたが、黒人が痛みを感じないというのも、黒人を動物と位置づけた当時の西洋人の心性と無関係ではないだろう。こうしたマージナルな人々を救うために、動物をもその対象に含まなければ、救うべき人間が救えないという感覚があった。
またベンサムの主張を批判的に展開していったミル(Mill, J.S.)にしても、動物が排除されることはない。福祉国家を企図した思想の先駆とみなされる彼らが、その端緒において動物への配慮が必須とみなされたという事実は重要であろう。しかしながら、彼は「福祉」を考えた場合に忌避できないあるアポリアに遭遇することになる。

4.公共の安寧と犯罪
4.1ミルのため息
ミルは「不干渉主義の原理」の「例外」として、虐待問題をあげている。。そして「教育の問題においては、政府の干渉は正当」であるとの主張に並んで、次のように悲嘆する。

児童のために行われる法律的干渉に与えられうる根拠は、あの不幸な奴隷の場合や、
もっとも残酷な人々の犠牲となる下等動物のばあいにも、同様の強さをもって当てはま
る。防衛手段をもたない生物に対して加えられる残虐に対し政府が見せしめのための刑
罰を課することは、政府の領分を逸脱した事柄に対する干渉である、すなわち家庭内の
生活に対する干渉であるとされてきたが、これは、自由の原理に対する最大の誤解に基
づくものである。家族の暴君の家庭内における生活こそは、法律の干渉することがもっ
とも必要とされる事柄の一つである 。

ここでは「児童」と「奴隷」、「下等動物」が同一カテゴリーに共存している。ミルもベンサムと同様、苦痛があれば除去しなくてはならない主体として動物を含んだグレーゾーン全体を設定していた。
しかしながらミルは、少なくとも二度、動物に対する虐待を防止する動きに対して否定的な態度をとっている。まず、1868年に動物愛護協会の副会長に推薦されたときに、それを辞退した件である。彼がその職を辞した理由は、協会の攻撃する相手が下層階級に絞られていることに抗議したからであった 。実際、1800年に却下された「牛いじめ法」は、モラリストや福音主義者の見地からはもちろん、資本主義の精神と相反し、都市的生活様式とも衝突する「牛いじめ 」を規制しようとするものであった。そして動物愛護協会とは、下層階級の教化のために中産階級が中心となって展開されたものであり、実際起訴されたのも、初期の頃はほとんど労働階級の人々であったという。
二件目は、次の主張に読み取ることができる。

動物の虐待防止のための法律を熱心に支持する多くの人々が、政府の権威の性質およ
び源泉に関する形而上学的躊躇に基づいて、この問題そのものの内在的理由ではなしに、
むしろこの悪習が人類の利益に及ぼす偶然的結果の中に、この法律を正当とする理由を
求めようとしていることは、残念なことである 。

ミルが虐待を受ける側の福祉を低減させるという理由で、その虐待の阻止を主張しているのに対して、動物虐待を防止しようとする人の多くは犯罪予防などといった効果に期待を寄せている。ミルにしてみれば、それが不満なのである。個人の行為への干渉は、その行為が他者に危害を与える場合にのみ正当化されるという自由論を提唱したミルであるが、動物/子どもに対する虐待が将来的に公共の安全を脅かすとする説(図2)は「偶然」と映ったようだ。そして彼は動物/児童虐待を防止しようとする二つの動機づけを、混在させることを邪道としたのである。
しかしながら、動物/児童虐待防止を推進する人々の多くはやはり、両者を一括して介入の理由にする場合が多い。現在の虐待を封じることによって、未来の犯罪を予防しようとする者の多くは、同時に虐待を受ける側の福祉を尊重しこそすれ、無視することは少ない。そこに動物の被る苦痛に配慮することは、教育プロセスにおいて重要となるだろう 。

4.2公共の安全
初の児童虐待防止協会となったNYSPCCの創設者であるジェリーも例外ではない。彼は「子どもへの残虐(cruelty)な行為は精神的・身体的な疾患をもたらすため、そうした行為を防止することは、公的にも重要な事柄である」 として、それを推進したのである。また、1860年からRSPCAの事務官を勤め、ロンドンSPCCの役職委員であったコラム(Colam,J.)も、「動物への虐待は常に、直接的・間接的に抑止すべき人間への残虐な行為をもたらす」と言及している 。
こうした背景に都市が抱える社会問題、特に犯罪や非行の増加や、それに対して治療や矯正を試みる犯罪学や心理学、そしてソーシャルワークなどといった学問の興隆をみることができよう。
子どもや動物に対する虐待を防止することで犯罪の抑止効果を期待する思考は、日本にそれが導入された時、忠実に移入された。1904年、「動物虐待防止会」の発足を報じる『万朝報』では、同会設立の理念をあげているが、これがその一つとして明記されている。

児童が動物を虐待するその始めあに悪意あらんや、然れどもこれを為すことの多き、
(略)殺人の大罪を犯すに至る、人を殺すと、他動物を殺すと、その精神状態において
何等の異なるところ無きなり、即ち残忍殺伐の気風を養成せしめ、犯罪の素因を構成す
る動物の虐待を防止することは、実にこれ法律上の問題なり 。

また、前掲の「児童虐待防止に関する講演会」においても穂積重遠が子どもへの虐待の影響について、次のように述べている。

子供が虐待されるとそれが不良少年になって火をつけたり盗みをしたりする、だから
この法律はその虐められる子供を保護するだけでない、國家、社會の安全を圖つてその
犯罪から國家、社會を守るための法律だ、かういふお話でありましたが、確かにさうで
あります 。

日本の場合、これに加えて動物の虐待防止のパフォーマンスは、国の近代化を体現する一つの手段とされた 。それは戦前にもっとも顕著に見られたが、1973年の「動物の保護及び管理に関する法律」の成立したときにも表出した。1969年、同法の成立を企図する加藤シヅ江は、参議院外務委員会において質問をおこなっている。それに応じた時の国務大臣・愛知揆一は、同法の存在を次のように位置づけ、立法化に向けて積極的な姿勢を示している。

近代国家らしき ―私はやはり一種のシェイムであると思う 。

これは「残虐性=野蛮性」とみる思考 を反映したものであり、残虐性を排除すれば、野蛮性も消滅し、近代化も可能という回路が存在していたことを表している。

4.3なぜ子どもが被る苦痛への配慮が動物に遅れたか?
19世紀において、動物とマージナルな人間とは、科学的にも浸透性をもっていた。ここで動物と子どもは同様に周辺部に位置していたのにもかかわらず、苦痛に対する配慮が公的に整うのに時間的ずれが生じたのは、なぜだろうか。シャフツベリー卿(Shaftesbury, Anthony Ashley Cooper,7rd Earl of)は1881年の児童虐待防止協会設立への協力を求められ、それを断っている。その際の彼の回答は示唆的である。

そんなにもプライベートで、家庭の内部に関する性質のものは、法の支配をこえてい
る 。

ちなみに、彼は英国動物愛護協会の副会長、および生体実験に供される動物を守る会の会長に就いていた。つまり、彼は虐待された動物に対しては手を差し伸べたが、被虐待児童に対しては、親の自律性を考慮してあえて関与はしなかった。そこには彼が躊躇せざるをえなかった状況があったのである。
前項でミルが主張したのは、後に『自由論』でも指摘したように 、子どもを「自由の原理」の例外とみなし、保護主義の姿勢を貫くことと、「自由の観念」が「誤用」されないように設定された「国家」による「監督」をおこなうことであった。そして主に父親による自由の「誤用」に非難の矛先を向けたが、ミルが想定したのはこうした状況ではなかったか。
家族の自律性が国家によって相対的に弱められていく過程で、徐々に児童虐待に対する介入がタブーではなくなっていったと考えられる。子どもが被る苦痛への配慮が動物に遅れた原因を全て強い親権に帰すことはできないが、大きな要因の一つであっただろう。以降、虐待の定義は、身体的虐待のみではなく、しだいにネグレクトや性的虐待、心理的虐待などへと広がり、介入の対象となる層も厚くなっていった。それにともなってソーシャルワーカーをはじめとする機関が活躍する、さらなる地平が開けていったといえる。

5.おわりに
本論では、一つのカテゴリーに動物と子どもとが共存していたことに留意しつつ、動物/児童虐待防止活動がなされる前提として、親権を制御可能なものとした国家の存在や、その国家介入・管理を実践する専門家が必要であったということを確認した。そしてその正当化のためには、図で示した二つの動機づけ ―痛みを被る弱者の福祉を守るため、苦痛そのものを排除すべきだという動機と、今ある苦痛が将来の犯罪や病理を喚起するため、公共の安全を守るために「予防策」として現在ある虐待を防止しようとする動機― が必要視される。
約2世紀も前に存在したこの二つの動機は、一見、現在では存立不可能のように思える。しかしながら実際は、弱者の福祉を守るのはもちろん、予防策としての動機も、現在でも脈々と息づいていることが確認できる。例えば、動物愛護法は、1997年5月の神戸市須磨区の児童連続殺人事件の少年が、殺人に至るまでに猫やハトを虐殺していたことを受けて、自民党環境部会が法改正に動き出して成立したという 。同事件をめぐり、少年が被虐待児であったかどうかの検証がなされたが 、ここにも児童虐待と殺人を結ぶ線が温存されている。少年の両親の手記 にも、少年への「厳しいしつけ」があったかどうかがたびたび叙述されているが、これも少年の「心の闇」をこの言説でもって読解しようとする者の層が厚かったことの裏返しである。こうした<苦痛への介入 = 公共の安全のための予防>という言説は、もちろん、児童虐待へのさまざまな分析や解釈、法の根拠のなかにも見出すことができる。
近年、マスコミの報道などを通じて、日本でも児童虐待に対する世論が今まで以上に喚起されつつある。この数年間で民間の虐待防止団体などに寄せられる相談件数も飛躍的に伸びた。その背景に<苦痛への介入 = 公共の安全のための予防>という言説が見え隠れする。それは同時に児童虐待をあつかう小説やドラマ、映画のなかにも再現され、そのイメージとそれのもつ影響力は増幅されていく。
この二つの動機づけが一世紀以上もの間、さまざまな層にまで浸透し、介入への論拠となりえている。確かに、児童虐待への関心が集まらない時期はあった。アリス・ミラー(Miller, A.)によれば、それはフロイト理論が虐待の存在を訴える声を封じ込んだということになろう 。いずれにせよ、そうした停滞期の後に虐待への熱狂的な関心が再度浮上したとき、約半世紀の時を経ても<苦痛への介入 = 公共の安全のための予防>は有効であり、それを実践する際にともなうアポリアもやはり組み込まれていることに注視すべきであろう。
ドンズロ(Donzelot, J.)は「非行に走る危険な子ども」と「危険にさらされている子ども」という、二人の子ども像にソーシャルワーク存立の近代性をみいだす 。彼らの/彼らへの「危険」性が国家機関による介入の正当性を自明のものとしたという。そして彼主に、前者の「危険な子ども」をめぐる知の様式について検証していった。もう一人の子ども像、「危険にさらされている子ども」もまた、「危険な子ども」と同様の役割を演じてきたといえる。ソーシャルワーカーとしてのキャリアを持つビル・ジョーダンによると、子どもの虐待事件は、イギリスにおける戦後の福祉サービス体制の整備や、社会福祉の専門職化とともにあったという 。なぜなら虐待事件とは、ソーシャルワーカーへの批判を集めることになるが、その結果、それまでは明確にされていなかった「責任」や「権限」を、手中に収めることになるからである。
ゲーテ(Goethe,J.W.)の『ファウスト』でも「虐待」死がモチーフとなっている。グレートヒェンはファウストとの間に生れた子どもを死に至らしめた。象徴的なファウストが救われるクライマックスでは、贖罪を済ませたグレートヒェンが彼を赦し、天上へと導く。そして、被虐待児といえる「早く天に招かれた少年たち」は、ファウストの魂に向かっていう。

ぼくたちは早く
生きている人たちから遠ざけられましたが、
この人はいろいろと学んでこられたので、
ぼくたちを教えてくれるでしょう 。

岡崎武志「社説拝見」『厚生福祉』第4736号、1999年、6頁。
近代以前において、子どもは小さい大人であったというアリエス(Aries, P.)のテーゼがあるが、虐待に対する憐れみの心性が成立したのも、これと不分離では考えられないだろう。子ども=弱者の図が成立し、あるいはパレンス・パトリエが必然視されるようになった証であったともいえようが、本論では言及しない。
「児童虐待の防止等に関する法律案」において、「児童虐待」は@身体的虐待A性的虐待BネグレクトC心理的虐待に分類して定義がなされており、痛みがもたらす子どもの福祉への悪影響のみに焦点を合わせているのではない。本稿では、注釈なしに子どもに関する虐待と記した時、「苦痛」をともなう身体的な虐待を指す。
1998年に発行された「動物の法律を考える連絡会」のパンフレット「『動物の保護及び管理に関する法律』の改正を求めて 資料集(1)」では、虐待に対する罰則の強化を求めているが、その理由として、「動物虐待は犯罪の温床となる可能性があり、言語道断の残虐行為に対しては然るべき罰則の引き上げを行う必要がある」としている。
ターナー,J.(斎藤九一訳)『動物への配慮―ヴィクトリア時代精神における動物・痛み・人間性』法政大学出版局、1994年、68-78頁。
青木人志「動物虐待罪の日仏比較法文化論」『一橋大学研究年報 法学研究』第31号、1998年、185-189頁。
ターナー、前掲書、81頁。
Thomas,M.P.T.(1972)'Child abuse and neglect PartT:Historical overview,legal matrix,and social perspectives,'North Carolina Law Review,Vol.50,p.308.
Hendrick, H.(1994)Child Welfare:England:1892-1989,Routledge.p.51.,Behlmer, G.K.(1982)Child Abuse and Moral Reform in England,1870−1908,Stanford University Press.p.64.
広井辰太郎「誰か牛馬の為めに涙を濺くものそ」『太陽』第5号第17・18巻、1899年、「動物保護論」『中央公論』10月号、1899年など。
岩間麻子「明治・大正期における児童虐待とその背景」『社会福祉学』1998年、第39-1号に詳しい。
毎月開かれる例会での根本正の報告に、「根本氏は、兒童虐待即ち憐れなるサ丶ラ賣りの事を談され」とある。『あはれみ』第1号、1904年、8頁。
Behlmer, G.K.,op.cit., p.65.
穂積重遠「子供の対する法の保護と社会の保護」『社会事業研究』第21巻第12号、1933年、13頁。
例えば、Thomas,M.P.T., op.cit., p.313.など。
池田由子『児童虐待 ―ゆがんだ親子関係』中央公論社、1987年、4頁。
Thomas,M.P.T., op.cit., pp.308-310.
裁判の経緯については当時のニューヨーク・タイムズを翻訳した斎藤学『子供の愛し方がわからない親たち ―児童虐待、何が起こっているか、どうすべきか』講談社、1992年、75-86頁を参照。
Thomas, M. P. T., op.cit., p.308., Kadushin,A.(1967)Child Welfare Services,pp.30-36.など。
ターナー、前掲書、1-25頁。
Jenyns,S.(1782)Disquisitions on Several Subjects,Dublin,pp.8-9.ターナー、前掲書、13頁から引用。
ダーウィン,C. (池田次郎・伊谷純一郎訳)『人類の起源』中央公論社、1967年。
中内敏夫「教材『桃太郎』話の心性史」「産育と教育の社会史」編集委員会編『学校のない社会 学校のある社会 @』新評社、1983年、208頁。
グールド,S. J.(鈴木善次・森脇靖子訳)『人間の測りまちがい ―差別の科学史』河出書房新社、1989年、119頁。
ナチス時代の動物保護法と人体実験については、Taylor,T.,'Opening Statement of the Prosecution,December 9,1946,'pp.89-90.in Annas,G.J. and Gordin,M.A.(eds)(1992)The Nazi Doctors and the Nuremberg Code:Human Rights in Human Experiment,Oxford University Press.に詳しい。
戦争に貢献する軍馬は特別な待遇を受けていた。1929年8月号のThe National Humane Reviewには、「動物虐待防止会」と比肩していた「日本人道会」(1915年〜1969年)によって軍馬の慰霊碑が建てられたと伝えられている。また、1938年6月7日付の英字新聞、The Osaka Mainichi & The Tokyo Nichi Nichiには、黄河を渡る際に馬がぬれないよう、日本兵が水に浸かって簡易の橋を支えたと報道されている。
関嘉彦「ベンサムとミルの社会思想」関嘉彦責任編集『ベンサム J. S.ミル』中央公論社、1967年、23頁。
トマス, K.(山内昶訳)『人間と自然界 ―近代イギリスにおける自然観の変遷』法政大学出版局、1989年、263頁。
ミル,J. S.(末永茂喜訳)『経済学原理(5)』岩波文庫、1959-1963年、316頁。
トマス, K.、前掲書、280頁。
「牛いじめ」とは熱狂をもたらす人々の娯楽であり、賭け事にふさわしいものであったという。
ミル,J. S.、前掲書、316頁。
その一例として、動物の保護及び管理に関する法律の一部を改正する法律案に対する付帯決議(1999年、参議院)にある次の記載があげられよう。「特に、年少者による動物虐待の事例が社会的関心をよんだことにかんがみ、動物が命あるものであることを踏まえ、野生動物の保護を含め人と動物の共生を前提とした適正な扱い方について、特に、幼児教育・学校教育等において適切な措置がとられるようにつとめること」。
Gerry,E. T.(1883)'Cruelty to Children,'North American Review,137,p.68.
Behlmer, G.K.,op.cit., pp.67-68.
『あはれみ』第2号、1904年、6頁。
穂積重遠、前掲書、14頁。
広井辰太郎「誰か牛馬の為めに涙を濺くものそ」『太陽』第5号18巻、1899年、174頁。
第61回国会参議院外務省委員会会議録第十号 抜粋「加藤理事長から外務大臣への質問」1969年5月8日。
ジャック・ロンドンの次の文章に、残虐な動物の扱いを通じて日本人(黄色人種)を「野蛮人」とする文法が成立しているのを見る。「日本人は東洋の英人ならん、されど未だ亞細亞人たるを免れず、獣類の苦しみは聊か彼等の心を動かすことなし、是れ米國其他歐洲諸國の騎兵に於て見る可からざる所なり」、『あはれみ』第4号、1904年、7頁。また、次の文章は、日本人がその文法を他国のアジア人に対して応用している。「朝鮮人は犬肉をたべるのでありますが、其の殺しかたと云ったら誠に残酷であります(略)まだ死にきらぬ中に皮をむく料理をするという風で、實に目もあてられぬ有様であります」『あはれみ』第3号、1904年、2頁。
Hendrick, H.,op.cit., p. 50.を参照。
ミル,J.S.(早坂忠訳)「自由論」、『ベンサム/J.S.ミル』中央公論、1967年。
「動管法改正運動の経過」『動物の法律を考える連絡会』第4号、2000年、14頁。なお、自民党動物愛護及び管理に関する小委員会委員長である杉浦正健は、「動物の法律を考える連絡会」が「芦屋の少年事件」の際に「動管法がザル法だからあの事件が起こった。動物の首や舌を切る、皮をはぐなどの事件の段階で、司法が介入しなければならない。この法律を改正しなければ、残虐な事件はなくならない」という訴えに応じ、取り上げることにしたという。同書、3頁。
野口善國『それでも少年を罰しますか』共同通信社、1998年、63-71頁、斎藤学「オトコの生きかた」『毎日新聞』1998年12月22日など。
「少年A」の父母『「少年A」この子を生んで… 悔恨の手記』文藝春秋社、1999年。同書は「少年A」の父母が殺人に至るほどの折檻はなかったと弁明した内容になっているのに関わらず、虐待の存在を容認したものとして解読する者が多い。例えば、林道義『母性の復権』中公新書、1999年、7頁。
アリス・ミラー、山下公子訳『禁じられた知 ―精神分析と子どもの真実』新曜社、1985年。
ジャック・ドンズロ、宇波彰訳、『家族に介入する社会 ―近代家族と国家の管理装置』新曜社、1991年、112-113頁。
ビル・ジョーダン、山本隆監訳『英国の福祉 ―ソーシャルワークにおけるジレンマの克服と展望』啓文社、1992年。
J.W.ゲーテ、高橋健二訳、『ファウスト 世界文学全集2』河出書房、1965年、12080-12

REV: 20151222
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