「出生前遺伝子検査に対する障害者の批判:考察と勧告」
エリック・パレンス&エイドリアン・アッシュ 1999
『ヘイスティングス・センター・リポート』29巻5号(1999年9-10月号)特別付録1-22頁
Erik Parens & Adrienne Asch 1999
"The Disability Rights Critique of Prenatal Genetic Testing: Reflections and Recommendations,"
Special Supplement, Hastings Center Report 29, No.5 (September-October 1999), S1-S22.
*土屋貴志さんによる訳文
【以下、内容の要約を記す。【 】は要約者=土屋貴志による補足説明ないしコメン
ト。原文には節番号はないが、見やすくするために付け加えた。掲載誌は生命倫理学
のシンクタンクであるヘイスティングス・センターが発行している定評ある生命倫理
学誌。著者パレンスはヘイスティングス・センター専任研究員で健常者・男性、アッ
シュはウェルズレイ・カレッジ教員で元障害学会会長、全盲・女性】
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当プロジェクト:2年間そしてさらに続く議論 The Project: A Two-Year and Ongoi
ng Discussion【4-5頁囲み記事】
この2年間のプロジェクトは国立ヒトゲノム研究所の倫理的・法的・社会的意味に
関するセクションから援助を得て行われた。遺伝子検査を支持する多くの人々は「遺
伝子検査は差別的だ」という障害者の批判に注意を向けてこなかったし、生命倫理学
や医学の学界も取り合ってこなかった。この批判は親になろうとする人々と医療専門
家の紋切り型の障害観を変えようとする。
研究グループは障害者や障害学者、社会科学者や人文科学者、遺伝医学者、遺伝カ
ウンセラー、医師、弁護士から構成され、ヘイスティングス・センターで2日間の研
究会を計5回行った。4回目までは論文報告と議論に費やされたが、その諸論文はパ
レンスとアッシュ編の本として2000年半ばに刊行される(Erik Parens & Adrienne A
sch, eds., Prenatal Gentic Testing and the Disablility Critique, Georgetown
University Press)。また、国立障害・リハビリテーション研究所から障害学会(Soc
iety for Disablility Studies, SDS)に対する資金援助により、1977年5月にミネ
アポリスで行われた障害学会大会でプロジェクトメンバーが障害学会会員と共に4つ
のセッションをもった。プロジェクトメンバーの数人にとってこのセッションは、臨
床の場面以外で障害者と出会った最初の機会となった。
テーマの論争性とメンバーの多様性により、すべての問題に関して合意が得られた
わけではなかった。出生前診断は道徳的に問題ある障害者観や誤った障害観に基づい
ているという障害者の見解には全員が同意したわけではない。障害者は依然として出
生前診断の現状は不愉快な差別であると主張し、出生前診断の支持者は依然として疾
病や障害を避けるためのケアや医療の一環であると考えている。メンバーはまた、穏
当な検査と不穏当な検査の線引きをするのが果たして良い公共政策なのかという点に
関しても一致しなかった。にもかかわらず、二つの点に関して重要な成果が得られた
。それは第一に、障害者たちの関心を世間に訴え、それに真剣に取り組むという公共
的目標に貢献したこと、そして第二に、出生前検査を提供する際の慣習的問題のいく
つかをどうやって改善するかに関して勧告を行ったことである。
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その文脈:出生前検査に関する議論を形づくるもの The Context: What Frames the
Discussion about Prenatal Testing【8-10、12、14頁囲み記事】
1. 障害者に対する明白な差別と無自覚な態度の歴史 A History of Outright Discri
mination against and Unexamined Attitudes about People with Disabilities
障害者教育法(IDEA)と米国人障害者法(ADA)の制定にもかかわらず、障害者に
対する差別は依然としてある。女性差別や人種差別などを告発する学者でさえ、障害
者に対する自分の差別的態度を自覚していないことがある。生命倫理学や医学の文献
も、障害が個人や家族や社会に対してもつ意味に関して、誤解や紋切り型の思考をあ
らわにしている。多くの医師や生命倫理学者は障害者が生きていく上でさまざまな機
会が少ないことを当たり前と考え、教育差別や雇用差別を無視している。また医師や
生命倫理学者は、障害者やその家族が自らの人生を必ずしも否定的に見ていないとい
うことを示すデータを軽視し、こうしたデータは厳しい現実を否定しているとしたり
、問題を乗り越えた例外的事例と捉えたりする。
出生前検査は生まれてくる障害児の数を減らすためではなく生殖に関する女性と家
族の選択を促進するためのものといわれる。しかし生殖の自由と障害児出生の防止は
しばしば両立しない。そこで産科医や遺伝カウンセラーは出生前診断で胎児がダウン
症とわかったような場合、中立の立場を保つというよりは中絶を勧める立場に偏るこ
とがあるし、ダウン症の子どもを育てている親に冷淡だったりすることもある。
2. 障害を引き起こす特性の多様性と出生前診断に対する態度の多様性 A Plurality
of Disabling Traits and a Plurality of Attitudes toward Prenatal Diagnosis
「障害」は非常に多様であるし、その重要性ないし深刻さの受け止め方も非常に多様
。出生前検査を受ける女性はレッシュ・ナイハン症候群のように生まれて間もなく苦
しみながら死んでしまうような障害を恐れる。しかし一方では欠指症のように軽い障
害をもつ子どもを生むことすら無責任だとする意見もある。遺伝学の専門家の間でさ
え、何が「深刻」で何が「深刻でない」のかは見解が分かれる。障害者の間でも、軟
骨形成不全のカップルのように子どもを生まない人たちから、自分たちと同じ障害を
もつ子どもを選んで生みたいという人たちまでいる。同様の多様性は、障害児を育て
ている親の間にもみられる。
要は、すべてのフェミニストが「女性の問題」に関して一枚岩ではなく、また人種
差別反対論者がアファーマティヴ・アクション等に関して一枚岩ではないのと同じよ
うに、障害者差別に反対し障害者の生を改善しようとする人々も出生前検査に関して
一枚岩ではないということである。だからといって生命倫理学や遺伝学の学界に問題
提起できないわけではない。しかし政策を定める際には、こうした複雑な事情を考慮
しなければならない。
3. 変わりつつある状況下の医療 Health Care in a Changing Environment
最近では遺伝カウンセリングを省いて出生前検査を行う産科医が増えてきている。
インフォームド・コンセントを得る際にも、遺伝カウンセラー綱領に従わず指示的な
態度をとる産科医が多い。遺伝カウンセラーも十分な教育を受けないパートタイムの
人が少なくないし、カウンセリングにおいても十分な話し合いが行われていない。
遺伝カウンセリングの多くは羊水穿刺のような侵襲的検査の前に行われるが、カウ
ンセリングを受けに来るのは検査を受けるかどうかを考えるためではなく、検査を受
けるためだと思われている。医療費の節減を唱える医療システムの下では、ますます
検査が促進されカウンセリングは削減される。カウンセリングは時間と費用がかかる
割に成果が見えにくく、金になる検査などを減らして医療費のかかる障害児を増やす
ことにもなりかねないからである。今後はコンピュータによる患者教育システムが発
達するだろうが、患者がじっくり考えるのを助ける遺伝カウンセラーもますます必要
になる。安易な代替手段や他の専門家(医師、看護婦/士、ソーシャルワーカー)に
依存すべきではない。
4. 生殖の自由 Reproductive Liberty
出生前遺伝子検査に対する態度と中絶論争における立場の間には奇妙なねじれが生
じている。出生前検査で障害をみつけて中絶することに不安を抱く人の多くは中絶権
擁護派 prochoice である。また、一般の中絶に反対する人の多くは、出生前検査に
より障害のある胎児を中絶することに賛成している。今回のプロジェクトメンバーは
、中絶権をはじめとした、生殖に関する女性(および男性)の自由を擁護する点で一
致している。
出生前検査の新しい点は、いつ・何人の子どもを持つかだけではなく、どんな子ど
もを持つかまである程度決められるようになることにある。しかし、現在の出生前検
査は、胎児の性別を明らかにすることを除いて、医学的な障害を見つけだすために用
いられている。将来的には望ましい特性を持つ子どもを選ぶために出生前検査が用い
られるようになるかもしれないが、障害者の批判はいまのところ、障害のある子ども
を生まないようにすることに対して向けられている。今回のプロジェクトも障害を排
する選択について検討した。
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【以下、本文】
ヒトゲノム解析計画は疾病と障害に関わる遺伝子異常を見出し修正する道を開くと
期待されている。今のところは遺伝子治療はほとんど成功していないし、胎児の遺伝
子異常を治す遺伝子治療は行われていない。しかし、テイ・ザックス病【脳内の代謝
異常による遺伝病】のような重い疾病から多指症のような軽い障害まで、約400の疾
病や障害の遺伝子異常を見出すことは可能になっている。また、現時点では一度に一
つの遺伝子異常しか調べられないが、将来的には同時にいくつもの遺伝子異常を検査
することができるようになるかもしれない。検査の時期はもっと早くなり、より侵襲
の少ない方法が開発されるだろう。
こうした遺伝子検査は、健康な子を生むための出産前のケアの延長線上にあるとい
われる。検査で脊髄髄膜瘤が見つかり胎児治療が行われた例が50人以上に及ぶなど、
こうした見方は妥当な点もある。だが一方では、ほとんどの親が検査で胎児に遺伝子
異常が見つかった場合に中絶しており、この意味では出生前ケアの延長とはいいがたい。
いずれにせよ、多くの人々にとって出生前遺伝子検査がよいものであることは自明
である。しかし障害者の人たちは、障害者差別の歴史的経験から、このような検査は
危険なものであると考えている。障害者運動の担い手は、障害は本人や家族や社会に
とって必ずしもわるいものではないという。彼/彼女たちによると出生前診断は
(1) 障害者差別ではなく障害自体を解決すべき問題とみなす医学モデルを強化する
(2) 障害のあるわが子を受け入れさせず、子に託した夢にしがみつかせることになる
(3) 障害児ではふつう子育ての過程で達成できることが達成できないという誤った考
えを助長する。
本論文はこうした障害者の批判を以下の二つの主張、すなわち、
(1) 出生前遺伝子検査と選択的中絶【障害のある胎児の中絶】は道徳的に問題だ
(2) 出生前遺伝子検査および選択的中絶は誤った情報に誘導されている
という主張に整理し、検討する。次に、認められる検査と認められない検査を区別で
きるかどうか考察する。そして最後に、遺伝子検査を提供する医療専門家に対して勧
告を行う。
1. 障害者からの批判を理解し評価する Understanding and Evaluating the Disabil
ity Rights Critique
(1)「出生前検査は道徳的に問題だ」Prenatal Testing Is Morally Problematic
障害者が出生前検査および選択的中絶を道徳的に問題だと考えるのは二つの理由か
らである。その一つは、選択的中絶は障害や障害者に対する否定的で差別的な態度を
表しているから、という理由である。そしてもう一つは、選択的中絶は社会のみなら
ず家庭における多様性に対する不寛容な姿勢を表しており、最終的には子どもに対す
る親の態度を害するから、という理由である。
(A)「障害者差別の表現」という議論 The Expressivist Argument
「出生前診断は他の差別と同じように、たった一つの特性によってその人全体を代表
させてしまう、その特性が全体を覆い隠してしまう」(アッシュ)。これは男児生み
分けが女性差別なのと同様である。「出生前診断に基づく選択的中絶が広く用いられ
ることは、最大の侮辱的メッセージを含む。……我々の生まれ出る権利と意義のため
に闘うことは、障害者抑圧に対する根本的な挑戦となる」(サクストン)
しかしながら、この議論を公共政策の基礎とするには異論がある。
第一に、出生前検査を受けるという決定が具体的にどんな「メッセージ」を送って
いるのか特定することは不可能である(J. リンデマン=ネルソン、キテイ)。行為
およびその行為によって送られるメッセージが単一の動機や意味をもつことはほとん
どない。検査を受ける人は単に自分自身の家庭的目標を達成しようとしているだけか
もしれず、その場合には何らメッセージは送っていない。
しかし、検査を受ける人がどのような意図をもっていようとも、また、特定のメッ
セージを送るつもりがないとしても、障害者の多くがそのようなメッセージを感じ取
り苦痛を感じることは否定できない。
第二に、どんな胎児も中絶することと、特定の胎児を中絶することの間に区別を立
てることが適切かどうかは明らかではない。どんな胎児でも中絶することが、特定の
胎児を中絶することと解釈されることもある。たとえば、4人も子どもを育てられな
いと中絶する場合、子どもの特性を選んでいるわけではないのに「4人目」というこ
とが特定されうる。しかし「4人目」の子を堕ろすことが批判されないのに、「障害
のある」子を堕ろすことが批判されるのは、どういう理由からなのか(J. リンデマ
ン=ネルソン)。
【それは一般に「4人目差別」はないけれど「障害者差別」はあるからなのでは?差
別されない特性に基づく中絶には差別的メッセージは読み取れないが、差別される特
性に基づく中絶には差別的メッセージが読み取れるのでは?】
第三に、二分脊椎を防ぐために葉酸を摂るとか、胎児に害のある薬を避けるといっ
た他の障害予防策は咎めないのに、出生前検査に基づく選択的中絶は道徳的に問題あ
りとするのは一貫性を欠くのではないか。
これに対して障害者の論者は、中絶は胎児を保護するものではなく、単に胎児を殺
すことで障害を予防するだけだ、と反論する。といっても彼女たちは中絶権擁護派で
あり、特定の中絶の用い方を批判しているだけである。だが、中絶権擁護派の主流は
、産まれた新生児と、胎児ないし胚を区別し、胎児ないし胚を殺すことに何ら問題は
ないとするので、胎児への害を防ぐ障害予防策と選択的中絶の間に道徳的相違を認め
ない。
もっとも、胎児に障害があると知りながら妊娠を継続する人を罰したり、医学的援
助を打ち切ったりするような政策はけっして採るべきではない。また、出生前検査が
受けられるようになったからといって、障害をもって生まれてきた人や中途障害者に
対する我々の社会的義務を緩めるようなことがあってはならない。
(B)「親の態度として不適切」という議論 The Parental Attitude Argument
出生前検査は、親が子どもに関して完全を期することができるという幻想と誤謬に
基づいている。また出生前検査は、一つの特性にすぎない障害が人格全体を代表する
という考え方に立っている。だから出生前検査を受けるのは親になろうとする態度と
して不適切だ、という議論。子どもの特性を選ぼうとする心性には問題がある。出生
前検査と選択的中絶が自己決定によって広く行われるようになると、累積的効果とし
て、変えようのない出来事に対応する能力が失われていくかもしれない。
しかしこの議論にも問題がある。この議論は「子どもがほしい女性はどんな子ども
であろうとほしがらなければならない」という「母性主義者的前提」に依存している
(ラディック)。しかし、どんな子どもや家庭がほしいかということに関する観念を
まったく抱いてはいけないというのは厳しすぎる。音楽好きの親が聾の子をほしがら
ないのは認めてよいかもしれない。自分なりの家庭像を描くことは、しばしば家庭生
活に意義を与える重要な役割を果たしている。
それでも出生前検査が我々の子どもに対する態度に悪影響を及ぼすのではないかと
懸念する障害者の意見には同意できる。だが、こうした懸念は出生前検査に関する特
定の政策を導くものではない。
(2)「出生前検査は誤った情報に基づいている」Prenatal Testing Is Based on Misi
nformation
医療専門家の多くは障害が子ども本人や家族に否定的影響を与えると考えているが
、障害者やその家族に関する調査は、健常児家庭の場合とそう変わらないことを示し
ている。崩壊する家庭もあれば、繁栄する家庭もある。共働きの家庭でも同様である
。たしかに仕事と家庭を両立させるための工夫がより必要とされたり、通常のライフ
サイクルを変えなければならないことはあるが。
しかし、障害に対する誤った見方が存在するからといって、出生前検査を受けたい
という希望がもっぱら誤った情報に基づいたものであるとはいえないかもしれない。
過去を振り返った評価と、将来を予測した評価は異なる。障害児を育てたことが大変
だったけれど最終的には素晴らしい経験だったからといって、これからそれに乗り出
そうとするとは限らないし、それを避けようとすることが不合理で道徳的に間違って
いるとはいえない。レニエ山【米国ワシントン州にある名山】に登ろうとする人は、
エベレストに登ることがどんなに素晴らしいと聞いても、やはりレニエ山に登りたい
というかもしれない(メアリ・アン・ベイリ)。結局、当プロジェクトの障害のある
メンバーは、障害児を育てることは健常児を育てることより大変なわけではないとい
うことに関して、他のメンバー全員を説得することはできなかった。
(A) 社会における障害 Disability in Society
障害はどの程度社会的に構築されたものなのか?別様に構築された社会では、ほん
とうに障害は「中立的」な性質になり、出生前検査は不要なものとなるのか?たしか
に障害の問題は一般に考えられているよりははるかに多く社会的に構築されたもので
ある。しかし、障害者の論者でも、障害は「生物学的実在」をもち、中立なものでは
ないと認めることもある。だが一方で、出生前検査に関しては、障害は本質的に「反
価値的 disvaluable」なものであるわけではないと主張する。
障害が選択肢をせばめることがあるのを否定することはできない。ダウン症児はレ
ニエ山には登れないかもしれないし、哲学書を読むことはできないかもしれない。こ
の意味で障害は「実在的」であり環境の産物ではない。すべての特性がある程度「社
会的に構築されている」ことを認めたとしても、その特性があるゆえに非常に望まし
く貴重な活動ができないことはあるし、それは反価値的なことではある。障害が本当
に「中立的」なものなら、我々は健康を保とうとしたり病気を治そうとしたりはしな
いし、胎児に悪影響を及ぼす行為を防止しようとしたりはしない(スタインボック)。
しかし、可能性が奪われることばかりに注目するのは、以下の二つの重要な点をあ
いまいにしてしまう。それは第一に、できないことにこだわるより、活動の他のやり
方を見出すようにしたほうがよいという点である。そして第二の点は、無限に近い可
能性がまだ残されていることにもっと目を向けるべきだということである。全体とし
てみれば、障害のある生は健常な生よりつまらないわけではない。その意味で障害は
全体として中立であると主張されているのだ。
(B) 特性の評価と人格の評価 Evaluations of Traits versus Evaluating of Persons
障害者に特別な社会的資源とサービスを提供するのは、障害が記述的意味でも評価
的意味でも中立ではないとわかっているからである。しかしそれはまた、障害者が道
徳的な意味で「ノーマル」である、すなわち、障害者はすべての人々と同様にノーマ
ルな尊重を払われるべきだという考えにも基づいている。同等でない特別な扱いは、
道徳的平等を達成するために行われる。障害を記述するのにアブノーマルといいなが
ら、障害者を道徳的に評価するのにノーマルということは逆説ではない。
にもかかわらず両者がしばしば混同されてしまうのは、一方では障害者差別が障害
自体の記述的意味での否定性を強調することで障害者を道徳的意味で否定してしまう
からであり、他方では障害者運動が障害者を道徳的意味で肯定しながら障害自体まで
記述的意味で肯定してしまうからである(パレンス)。どちらの陣営も、障害の評価
を障害者の評価と混同している。
障害が価値ある選択肢をせばめ、それゆえ反価値的なのは、この社会の構築のされ
方に依存している。それは性別という特性に関して社会がひどい構築のされ方をして
きたのと同様である。
しかしながら、障害者の批判は出生前検査の全面禁止を求めるものではない。それ
は、親になろうとする人たちが立ち止まって自分のしていることについて考えること
、そして彼女たちが自分の決定をよく検討できるように医療専門家が援助することを
求めるものにほかならない。
2. 医療専門家への勧告 Recommendations to Professional Providers
認められる検査と認められない検査の間に線を引くという点に関して、当プロジェ
クトはとうとう合意に達しなかった。一方ではテイ・ザックス病のような疾病に関し
ては検査を認め、他方では完全な子どもや眼の色のような健康と関係ない特性を選ぶ
ために検査を用いることは認めない点でメンバーは一致していた。しかし、具体的に
どこに線を引くかという点に関しては困難があった。
ボトキンは、(1) 症状の深刻さ (2) 発症する年齢 (3) 遺伝子異常をもつ人が発症
に至る可能性 (4) 危険因子のない人に発症する可能性、の4点に基づき、血友病・
ダウン症・餓j・`^歉鼻Χ撻献好肇蹈侫・爾鮟仞諺宛〆困・茲啻・鯏・羸笋療・・H
する一方、喘息・マルファン症候群・ハンチントン病・精神分裂病を適応から外して
いる。しかしながら、(1)の症状の深刻さについては遺伝学の専門家も意見が一致し
ていない。また、障害者の論者はこのように詳しい線引きには反対した。それは第一
に、医療専門家が検査の適応をリストアップすることで、個人的かつ私的な親の判断
が社会的なものとなるからであり、第二に「避けるべきであるほど深刻」とされた障
害をもつ人々に明らかな否定的メッセージを送ることになるからである。障害者の論
者は、親になろうとする人の個人的選択を尊重する立場を採るようになっていたし、
また「わるい」障害と「ましな」障害を区別するという発想を受け入れられなかった。
同様に「ディスアビリティとは、個人の主要な活動のいくつかを実質的に制限する
身体的ないし精神的なインペアメントである」というADAの規定を援用しようとする
試みも成功しなかった。この試みは、第一に判断を個人に任せられること、第二に医
学的資源の提供と健康状態の関係が明確であること、第三に性別や性的志向・眼の色
・身長といった病気と関係のない特性の選択を排除できること、という利点があった
。しかし、以下の三つの理由により、この試みは合意を得られなかった。第一に、障
害者の論者たちは、理想的世界ではこのような線引きは害がないかもしれないが、障
害者差別が蔓延しているこの世界では、障害者を傷つけるメッセージになると考えた
。第二に、このような線引きの現実的結果は、検査を受けたい人とそれに対応する医
療システムに左右されると考えられた(ウェルツ)。第三に、ADAが適用される障害
とそうでない障害を区別するのはパターナリスティックであって、親になろうとする
人自身の自己決定を尊重しないことになる。もっとも、この三つの理由に対してはそ
れぞれ反論もある。第一の理由に対しては、上述したように「障害者差別の表現だ」
という議論に対する反論がある。第二の理由に対しては、現実的結果がどうなるかで
はなく、どうなるべきかを考えなければならないという反論があった。第三の理由に
対しては、自己決定を尊重するとなると望ましい特性を選ぶことは認められるかとい
うことが問題になると反論された。
線引きに関して合意が得られなかったことは、提供すべき検査の種類を決めてもら
いたい医師たちと、歯止めなき検査の拡大を憂慮する障害者たちの両方を落胆させた
。かといって、線引きに代わる措置を議論することもできなかった。
3. 遺伝カウンセリングと障害に関する教育 Genetic Counseling and Educating Peo
ple about Disabilities
提供すべき検査とそうでない検査の線引きは成功しなかったものの、出生前検査の
提供の仕方や検査結果についての話し合いのやり方という手続き面に関してはかなり
合意が得られた。遺伝学の専門家は、親になろうとする人が受検に際して真のインフ
ォームド・コンセントを与えることと、検査結果を得てインフォームド・ディシジョ
ン【情報を得た上での決定】を行うことを援助しなければならない。障害者の実状に
ついて知らない医師や遺伝カウンセラーが多いが、彼/彼女たちは障害者に対する誤
解や偏見を是正するための教育を受けるべきである。遺伝カウンセラーであれ、遺伝
医学者であれ、産科医であれ、看護婦/士であれ、出生前遺伝子検査の提供に当たる
者は誰でも、その訓練において障害について学ばなければならない。
障害に関する情報を親に与える機会は三つある。第一の機会は母体血清マーカー検
査のようなスクリーニング検査の前であり、第二の機会は羊水検査前の遺伝カウンセ
リングである。しかし、こうした検査前の時間は障害をもって生きることについて考
えるにはあわただしい。第三の機会は羊水検査後であるが、これも適切な機会かどう
かについては賛否両論がある。おそらく最もよいのはカウンセリング以前の機会があ
ることであり、理想的には障害についての良質の情報が社会に浸透し、テレビやラジ
オや演劇や新聞記事を通してふだんから適切な障害者の姿が伝えられることである。
何が伝えられるべきかという点に関して、ダウン症協議会は (a) 偏見を解消する
ような障害者の観点からの情報、(b) 地域の障害児および家族支援プログラムや経済
的援助プログラムについての情報、(c) ダウン症児を養子にする人に関する資料、(d
) 障害者の人権を保護する主要な法律の抜粋、の4つを提供し、さらに障害者本人や
その家族と話す機会を与えること、としている。 親になろうとする人が、障害に関
する情報と、出生前検査に関わる価値や欲求や恐れや夢を検討する機会の両方を提供
する offer ことが重要である。また専門家は、クライエントがこうした提供を受け
入れることも拒絶することもどちらも尊重しなければならない。
4. 異なった種類の生 Lives of Different Sorts
障害についての無知が蔓延しており、それが障害者差別の主要な源になっていると
いうことについて、プロジェクトメンバーは合意に達した。もっとも、障害について
最良の情報を得たとしても、ほとんどの親は障害児を生まないことを選ぶだろう。し
かし、障害について知り、子どもに何を望むのかよく考えた親は、子どもとともに実
り豊かな家庭生活を送れるだろう。そして遺伝学の専門家が障害児を育てることはど
んなことなのかもっとよく学び、親に対する態度を再考して援助的になれば、《さま
ざまに異なった人々とその生をそれぞれ価値あるものとみなさなければならない》と
いう障害者の中心的メッセージが伝わったことになるだろう。
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(終わり)