「生殖技術:権利としての問題」
マーシャ・リオー,袖山啓子 訳
全日本手をつなぐ育成会『手をつなぐ』99年9月号
last update: 20151221
■生殖技術:権利としての問題
著者 マーシャ・リオー Marcia Rioux, Roeher研究所の役員
訳者 袖山啓子
全日本手をつなぐ育成会『手をつなぐ』99年9月号から掲載
現在、人類の生殖過程においてさまざまな医学的介入が行われており、それを新たな生殖技術ととらえています。その技術とは中絶、避妊、羊水検査、遺伝学的スクリーニング、クローン、試験管内受精、配偶者またはドナーによる択一受精、精子銀行、冷凍精子の保存、遺伝学的技術、人工子宮、胎児の性別判断などを指しています。
生殖技術を現代科学の勝利であるととらえる人たちは、この技術を女性が選択できる範囲を広げ、障害(disability)を持つ子どもの発生率を減少させるものであると主張しています。しかし実際にはこの新たな生殖技術に対する可能性を求めていくことが女性の性としての平等の権利や女性・男性両方の障害のある人の平等の権利に有形、無形の影響を与えています。
新たな生殖技術は先進性ゆえに、倫理的社会的な面を危険にさらしています。すなわちすべての人々の幸福や可能性を求める動きよりも人口の中から障害のある人の出生を減じたりなくしたりしようとする方向にいっています。しかし実際に障害のある人の真の関心事は自分たちの社会参加、経済上の参加を限定してきた差別的態度や実際上の問題点をどうするかにあります。それゆえ障害のある人、特に女性が技術に対する議論をあまり熱心にしてこなかったのです。障害のある人にとっては科学の進歩とか社会において何が有益であるかなどの理論より、自分自身にとっての権利や倫理の方が重要課題であるのは当然です。
遺伝学上の技術やスクリーニングをもう一度考えるために、次の三つの要因を取り上げます。第一にこれらが障害のある人を減らす可能性があるものだという誤った考えについて。第二にハンディキャップは生物学上のものであって、社会構造上のものではないとする誤解と、その結果としてそれをなくしていこうとする動きについて。そして第三に生殖技術を利用することが、個人の選択や法律上の自主性を傷つけるような可能性について。
新たな技術は障害のある人を減らす可能性のあるものだという誤った考え
遺伝学的技術やスクリーニング、選択的堕胎などの技術は障害のある人に対して狭義で限定的な視点しかもっていません。この視点によれば障害というのは変えることのできない望ましくない遺伝的状態の結果であると言うことになります。言い換えれば障害は個人の遺伝的産物であるということです。しかしこれは誤った考え方です。少なくとも誤った推定に基づくものです。もしも十分早期に遺伝診断が行なわれたとしても障害をなくすのには決して効果的ではありえません。大人の障害者の85%はその障害の原因が13歳以降にあり、幼児の90%以上の障害は遺伝的要因ではなく社会的要因がその原因となっています。
医学や遺伝が障害について否定的な扱いをするあまり、本当に重要なことに注意が向けられていないことが一番問題です。すなわち障害の原因となっている基本的な社会経済的要因(栄養不良、肉体の乱用、ストレス、環境汚染による排出物や中毒症など)をうやむやにし、本来こうした危険要因は予防可能であることを公開していないのです。遺伝が原因であると強調しすぎるあまり他の原因があいまいとなり社会全体の関心や財源までもが、医学技術や専門職の給与に流れ、栄養や社会的支援等、医療分野以外の諸方策などに向いていないのです。それゆえ幼児の障害の危険を最小限にしたりその影響をとらえていくことができなくなります。生殖技術は、それがたとえ社会的に有益だとしても−私はこの考えを支持できませんが、技術の理想であるという考え方には根拠がありません。
さらに、障害は望ましくないものであるという考え方を当然とする見方があります。新たな生殖技術は人類における「欠陥」(望ましくないという意味で)の発生率を減らし、「完全」な赤ちゃんの出産を確実なものとすると言っています。言い換えれば「完全」な赤ちゃんと言うものが何を意味するかについて社会的に一致した見解があるということになるでしょう。この世に生まれてくる最適な子供がどんな子供であるとか、それを決めていく力が誰にあるのかなどという問いにはこたえられていないのです。身体も心も完全に有能という考え方は非合理的であり危険な優生思想です。
社会構造上のハンディキャップ
障害と個人の遺伝要素とだけを相互関連のものとする考えは、本来は障害によるハンディキャップという広範で複雑な要因を見失わせるものです。ハンディキャップと言うのは社会構造上のことです。もし本当に防止することを考えているのならその前にハンディキャップの原因となる物理的条件を考慮していかなければならないでしょう。しかしながらこういったことは生物科学という伝統的枠組みの中では問題とされないだけでなく無視されてきたのです。障害そのものは小さな障壁に過ぎないと言うことを多くの障害者達は経験しています。むしろ彼らが直面する問題は差別的な態度、政策,障害のある人々を社会的重荷とみなし、実際上もそう扱っていく法律やプログラムなどがあることなのです。
ハンディキャップの防止とそれのもたらすもの――障害のある人々の幸福の追求(促進)―――には障害に伴うリスクを減らすことも含まれます。そのリスクとは貧困、乱用、差別、失業、その他の社会的不利益です。もし障害のある人々がコストの面で社会の重荷であるというならば、社会や経済に参加させないのではなく参加させるように計画し、それを実施することでそのコストを削減することが可能になるでしょう。遺伝的見地から存在そのものを否定される必要はないのです。
障害のある人々に対する差別を減らし障害のゆえのペナルティーを取り除くことこそがハンディキャップを減らしていくことに貢献する重要なことです。このアプローチによれば障害は社会的、法律上そして政策上の問題であって、生物学的問題ではないということになります。 障害者のグループは、幸福や社会正義と言ったものの平等な獲得のために一丸となって向かっていっています。これまでに障害のある人々は不公平な負担を強いられ、社会参加のために必要な資源やサービスも不足していました。その上、新たな生殖技術が開発されたため、生殖段階で障害者の排除が促されるという可能性が出てきました。
障害のある人々の貢献は不当に低く評価され、さらに悪い状況ではそもそもの差別ゆえに認知されることもなくきています。それゆえ市民権といった普通の権利を要求することさえ満足にできていないのです。大多数の人々と違う人々は価値がないとう考えは不当です。社会全体の幸福は全ての人々が平等な立場で受け入れられ、存在するということです。それは人種、性別、身体及び精神的能力によって差別されることなく、すべての人が市民として完全に参加できる社会を確立していく方法を模索するということです。技術的研究開発の基礎は誰かを排除していくことなく、様々な人々と共に行なうべきです。これは倫理的な意味での医療の発達を目的とした研究開発を行なうべきであるということです。これまで障害者は広範な差別の犠牲となってきました。たとえ差別の恐れがないとしてもその研究を監視していく法律上、道徳上の決まりが必要でしょう。障害のある人々に対する固有の偏見がある限り生殖技術の分野の研究設計、目的、財源などを詳しく吟味する必要があるのです。
個人の選択と自主性
生殖技術を実践で使うということは、障害が排除されるべきだということを意図しています。これでは生殖決定における女性個人の選択や自主性があらゆる面で限定されてしまいます。障害のある人々に対する差別があまりに広がっていて、その上障害のある子供を育てていくための資源やサポートが非常に限られたものでしかないため、胎児を中絶しないという選択が本当にありえると考える女性はほとんどいません。医学の専門家も社会全体も障害は望ましくないのだから、出生前スクリーニングを行なって中絶をすればよいと考えています。そしてもし女性がそれでも子供を産むことを選ぶのなら、その子供の必要を満たすのは生むことを決意したその母親の責任であるというメッセージを出していることになります。その結果、女性は強制的ではない、正しい知識を持った上での決定を下せず、中絶という医学的、社会的、経済的なプレッシャーを受けるのです。これはまさに女性の自己決定に影響を与える問題でしょう。
この問題では正しい知識を持って意思決定することがたいへん重要です。正しい知識には次のようなものが含まれます。障害のある人にとって能力的に不可能であることをあげつらうのでなく、可能性について理解すること。障害のある人に対する差別がその人の人生をひどく傷つけてきたにも関わらず、彼らの多くは生産的で価値ある人生を送っているということ。障害を排除することに何の絶対的利益も報酬もないと言うこと。障害に対するコストと言うのは社会的差別の結果であるから、社会がそれに対して責任を持つべきであること。女性自身が真の自己決定による選択をすることができなければ生殖技術という今では制御不可能なしかもまだまだ審査の必要な技術の波に飲み込まれてしまうこと。
結論
新たな生殖技術の研究開発を受け入れることと予算化することにおいてはいくつかの重要な原則があります。第一に生殖技術はすべての人々の平等とインクルージョンに寄与するものとして実施されなくてはなりません。そして人間としての尊厳と多様性を反映したものであるべきです。第二に生殖技術は障害の有無、社会経済上の状況、既婚か非婚か、そして生殖を促す目的の性的性向などにかかわらず、どんな状況の人々に対しても適応可能でなければならないでしょう。第三に優生学の立場から生殖技術が推し進められたり適用されたりしてはならないことがあげられます。言い換えれば、性別や人種が中絶の理由にならないのと同様、障害を持つということが胎児を亡き者にする唯一の理由であるべきではないということです。第四に障害のある人々に対する尊敬と尊厳を持った言葉が使われるべきです。第五にこの技術の研究の結果はまだ限られたものであるため、それを利用していくにあたっては誰の人生に価値がありその問いに誰が答えを出すのかと言った疑問等、価値観に対する熟慮が求められています。最後に、障害のある個人の平等性や利益は、生殖の自由を含んだ女性の自己決定権と、同様に護られるべきでものであることが挙げられます。女性が出生前診断を拒否する権利、障害があるとわかった時に中絶を拒否する権利、障害に対する偏見のない正しい情報を得る権利、障害のある子供を育てていくのに必要なサポートを得る権利などを持っていれば、その権利を行使してより良い状況を目指
すでしょう。
新たな生殖技術の開発が野放しになっているため、障害のある人々と女性に対して不均衡な影響が起きています。遺伝学的知識を追い求めていくことは広範な意味を持つようになってきています。たとえばアメリカでは保険会社が障害のある胎児の中絶を拒否した母親の保険を受け付けないなどということがあり、これはわれわれ社会の中の平等性と多様性という基本的性質を脅かしています。科学は客観的実習ではありません。科学にも他のあらゆる物と同様、理論的、社会的、法律的、倫理的精査が必要です。今こそ砂の中に頭を埋めるのを止めて、生殖技術のもつ有益な点と害になる点の両方を良く見極めていくべきでしょう。