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「障害者反差別論序説」より

三村 洋明 1999/04/30

last update: 20151221


「障害者反差別論序説」より

ホームページに寄せて                 1999.4.30

                               三村 洋明

 昨年から今年の初めにかけて、東京都障害者福祉会館主催で「障害学への招待」という連続講座が開かれました。その全体のコーディネーター、また最初の講演者でもあった長瀬さんとの出会いがありました。そして連続講座の最後の講演者が立岩さんでした。その講演の中の質疑応答の時間に、「障害学」として出発するならば、そもそも、障害−障害者規定をちゃんとなすべきではないかというような提起をしました。そして、講演をきいての感想を文にして長瀬さんに送りました。そういう中で、ホームページへの掲載を勧められました。
 今回、載せてもらう文は、私の個人紙『反差別(S)』に連続掲載している「障害者反差別論序説−「障害−障害者とは?」−」の導入部分です。(今回投稿部分は『反差別(S)1(『吃屹14−終刊号)95年秋』 1995.10.21)
 書き上げた時点で、もう一度全面的に構成をしなおす予定でいる文で、そのような文を公にすることにためらいがあるのですが、少なくとも何が問題になっているのか、ということの一端を示し得るのではと思います。また、理論の貧困的状況ということが、障害者運動の混迷に陰をおとしているというとらえ返しをしている中で、運動の中で理論を問題にしてきた者として、理論の厳密性よりも、現実に理論化の作業にそして運動に少しでもインパクトをもたらせればと、寄稿します。
 寄稿に際して、せめて、もう少し書き改めようという思いも湧いていたのですが、その作業に相当時間がかかるようですし、どちらにしても全面的に書き直すべき文ということで、いくらかの記号的整理や、読みにくいところの整理にとどめました。どうしても補足しておきたいことは、「*注」として書き加えました。「*」は当初からあった注です(本文を一部移動し「*」の中に入れました)。
 全体の構成を示すために、「もくじ」を示しておきます。書き始める時に予定していた「もくじ」からだいぶ変わっていますし、最後にもう一度編集する際にも大幅な変更が出ると思っています。とりあえずの構成案として示します。

(序)
第1章 障害−障害者とは?
第1節 様々な障害者規定について
(1)「〇〇の不自由な」という規定批判
(2)「障害をもつ」という論理批判
(3)WHO(世界保健機構)の障害者規定批判
(4)「障碍者」という規定批判
(5)障害=レッテル貼り−障害=スティグマ論批判
(6)「」をつける論理批判−「障害」者と「障害者」
                        (以上『反差別(S)1』)
第2節 運動の方向性につながる障害者規定−障害・障害者観
(1)発達保障論とその批判
                           (以上『反差別(S)2』)(2)障害個性論の歴史的意義とその限界
(3)障害個性論から障害関係論へ
(まとめ)
                           (以上『反差別(S)3』)第2章 障害者差別はどのようなこととしてあるのか?−障害者差別の存在構造−
第1節 障害者差別はどのようなこととしてあるのか?
(1)障害者規定について
(2)障害者差別における「できない」−「できる」を巡る言説
 (イ)どのような「できる」−「できない」が問題になるのか?
 (ロ)なぜ「できる」−「できない」が問題になるのか?
 (ハ)「生物学的事実」の問題
                           (以上『反差別(S)4』)(3)まとめ−障害の異化−物象化
第2節 障害者差別はどのようにして生まれるのか?
第3節 障害者差別の三つの性格
(1)方法論−脱構築することとしての三つの性格
(2)三つの性格
 (イ)経済的性格/(ロ)政治的性格/(ハ)文化的性格
                           (以上 未刊)
第3章 障害者差別の形の違い−差別形態論第1節 絶対的排除と相対的排除
第2節 排除型の差別と抑圧型の差別
第3節 差別の型−差別形態論各論
(1)抹殺/(2)隔離/(3)排除/(4)抑圧/(5)融和/(6)同化
補節 マージナリティと差別形態論
                        (以上『反差別(S)5』)
第4章 障害者差別各論−「障害別」分断を超えるために!
第5章 障害者反差別運動論
第1節 人権論−倫理主義批判
第2節 「融和としての共生論」批判
第3節 政治利用主義批判
第4節 「障害者運動における排外主義」批判
第5節 反差別運動論−共生論
                           (以上 未刊)

         障害者反差別論序説
       −「障害−障害者とは?」−
                                  三村 洋明
(序)
 最近、障害者規定を巡る混乱的情況に何度も出食わせています。ろう者のあるグループから「私たちは障害者ではない。」という提起が出ています。基本的にはすごく共鳴しえる内容なのですが、そこで終わってしまうと、自分たちとは別に「障害者」と言われる存在があり、自分たちは違うんだという排外的な論理で、障害者が「障害別」に分断されている現実を固定化・拡大していくことになってしまいます。そもそも「障害者」と言われる存在がどのような存在としてあるのか、という問いかけを欠落しています。差別ということがとらえられない論理になっています。
 又、私自身が吃音をめぐる議論の中で、「他の障害者と一緒に運動をする時、吃音という障害を明らかにすることが必要になるのではないか、吃音そのものの研究に踏み込むべきだ。」という提起を受けたりしています。「障害」の個別的研究が必要だとするならば、それはその差別が偏見に基づく差別で、その偏見を解く必要があるという側面においてだけです。障害者差別は大枠において、この「社会」の「社会」的関係性に根拠をもつ差別で、偏見という側面は少ないと想います。もう一つ、共に生きるというところで、対等な関係を築くというところで、具体的にどういう要求を他者に出して行くのかということで、「障害」の個別性を明らかにする必要はあるとも想います。ただ、これは、障害者が対等な関係性になく、何らかの排除−差別を受けているところで、むしろその差別に対して、共にどう闘うのかが主要な課題の時に、「障害」の掘り下げた個別的研究ということが必要とは思えません。確かに、過渡的にも共同性をどう築きあげていくのかというところで、対等な関係性のために何を求めるのかということを出していく必要はありますが、これは「障害」そのものの個別的研究−生理学的研究、「障害」のメカニズムの研究とは違ったものではないでしょうか?!
 更に、障害者運動の中で、先鋭的な部分でさえ、相変わらず障害個性論的なところでしか問題を提起していない現状があり、そのことの中で、運動が倫理主義的なところでしか提起されないか、ニヒリズムの淵から抜け出せていないと感じることが多々ありました。 これらの、言葉の定義さえ明らかにされていないという、基礎的な問題があいまいにされたまま運動が進んでいて、そのことが運動の展望のなさの一つの根拠になっていると想っています。この基礎的な問題を明らかにする作業の一端をここで果たして行きたいと想います。
 私が「障害−障害者とは?」という問いかけをする時、多くの人達の「何を小難しいことを言っているのだ?!」という冷ややかな態度に出くわしてきました。また、障害者の「障害別」を越えた連帯を模索する中で、知的障害者の問題を考え、その中で、私自身理論ということがもつ知の抑圧性ということもとらえ返さずにはいられませんでした。
 それでも、私がこの問いかけにこだわり続けてきたのは、この問いかけが私自身の運動の総括から出てきているからです。私自身、10年前まで障害者宣言をなしえませんでした。私は、30になった時やっと、当時の障害者運動のインパクトを受けて、障害者宣言をなそうという衝動にかられました。しかし、その時見事に失敗しました。当時私自身が「優秀な人間」云々という、優生思想そのものにとらわれていました。それでも、障害個性論の地平までは到達していたと想います。しかし、その個性論は、「吃音は私の欠点だけども、欠点を含めて私の個性だ。まるごとの私を認めて欲しい。」というようなことでしかありませんでした。そこで、私は結局、「吃音の負価値性」にとらわれ、開き直れず、障害者宣言をなしえませんでした。それから5年かけて、やっと「なぜ、「どもりは悪いもの劣ったもの」と価値づけられるのか?」という怒りをもつところまで到達しました。しかし、そこでは、まだ個性論から脱していませんでした。しかし、その「価値づけられる」ことを固定的にとらえない、それを関係性の中でとらえた時、やっと個性論の頚城から脱したのです。それには、アメリカ先住民のある部族には‘吃音’に相当する言葉がない、<吃音>が{吃音}(*)として異化しないことがある(今、学説的には疑問が呈されていますが)、という話がヒントになり、そこから認識論にまで掘り下げて、そこからフィードバック(還流)してくる作業が必要でした。(*注1)
 この文章はあくまで、障害者運動の方向性へつながる議論として、そして、障害者のおかれている被差別の情況どう変えていくか、そして反差別の運動をどう進めて行くか、反差別の運動の連帯−仲間づくりをどう進めて行くのかというところで、問題を掘り下げるというところで書いたものです。これは、私がこれまで書いて来た「「吃音−吃音者とは?」ノート」と「反差別論序説草稿」の中間に位置する文です。この二つともノート的な意味しか持ち得ませんでした。この「障害者反差別論序説」は広く障害者運動を進める人達へ訴えかけるものにしたいと想っています。ただ、これまでの一般的な考えを根底から覆そうとする文です。私の書いている文の難解さは、その文のこなれなさもあるには違いないのですが、既製の観念を壊し新たに築き上げようとする(脱構築する)ことであるからだとも想っています。いわば知識がないから私の文が理解できないというとではなくて、むしろ既製の知識にとらわれているがゆえに、理解できないこととしてあるのではと想います。ですから、私自身も、こなれた文を書くことを努めつつ、読者の皆さんにも、既製の観念に固執しないで、読み込んでいって欲しいと願います。
 この文章は、ここで、書き下ろしの連載という形で進めていきます。書き上げた時点で、もう一度文を練り直し、校正・編集し直して、小冊子にする予定です。この(序)も改めて書き直します。この『反差別(S)NO.1』の最初の、呼びかけの内容的なこともその(序)に織り込む予定です。参照していて下さい。

*後論のために、この浮かび上がって名づけられた障害(ここでは吃音)を{障害}(ここでは{吃音})そして負価値的に価値づけられた障害を“障害”、そして、浮かび上がる以前の、障害としてとらえられないこと、<そのもの>を<障害>と記号的に押さえて置きます。‘障害’の‘ ’は言葉という意味で使います。詳しくは、第2章で展開します。

第1章 「障害−障害者とは?!」
 最初、第1章は、障害者問題の根底的とらえ返しの章です。難解さを少しでも解きほぐすために、第1節で、「様々な障害者規定」を書き、第2節で、障害−障害者観の概略を追う作業として、「発達保障論から障害個性論、障害個性論から障害関係論へ」を書きます。第3節でまとめます。

第1節 様々な障害者規定のとらえ返し
(1)「○○の不自由な」という論理批判(*注2)
 障害者を指す言葉は、かっては、むしろ「障害別」の個別性においてしめされていました。それらの多くが、障害者への差別の歴史的蓄積の中で、その語自体の差別が如実になり、差別語として規定され、差別者と障害者自身が開き直り的使う以外には公には使われないようになりました。その中で現れて来た一つが、「○○の不自由な」という表現です。 この表現のおかしさの指摘は、サリドマイド児に対するアンケートへの回答の中に明らかです。『障害者は、いま』(大野智也 岩波書店)という新書の本の中で、「あなたは自分で不自由だと思ったことがありますか」「あなたは自分が障害者だと思ったことがありますか」という質問に対して60%のサリドマイド児が「ない」と応えています。サリドマイド障害者や「先天性四肢欠損」で「手がない」障害者に、よく、「頑張って努力して足で何でもこなせるようになった」と感嘆の言葉を送る人がいるのですが、確かに努力や回りの人達が訓練したということもあるのかも知れませんが、むしろ、自然に身につけたという側面が多いのではないかと想います。生まれた時から「手がない・短ければ」、自然に他の方法を身につけることとしてあるのではないでしょうか? 今、ここで「手がない・短ければ」という書き方をしました。だが、そもそも、「手がなければ」「短ければ」という表現自体がおかしなことです。これ自体が、「ひとには手があるものだ」「ある長さであるべきだ」というとらわれからきているからです。ひとには「確率的には低い」とされるのでしょうが、必ず「手がない」「短い」と言われる人が生まれています。「ひとには手があるものだ」「ある長さであるべきだ」という考え自体がおかしいのです。
 以前テレビを見ていた時に、ある手話通訳者が、「一度、ろう者に音楽を聴かせてあげたい、音楽の素晴らしさを感じさせてあげたい」と発言するのを見て、一体この人は手話を学ぶ中で、何を学んだのだろうと愕然としたことがあります。そもそも、ろう者を、聴者が自分の価値観で、「音のない世界にいる不幸な人だ」と決めつけるような論理は信じられない事です。例えば、そのような発想をする人は、「超音波の聞こえる世界の素晴らしさとか、紫外線、赤外線の見える世界の素晴らしさを感じさせて上げたい」と言われて、一体どう感じるのでしょうか?
 これらのことは、差別ということの中に、一つ「比較する」、しかも自分の世界−価値観を絶対的なこととして、そこで比較するという行為があることを教えています。また、そういう中で、標準的人間像を描いている、そしてその標準的人間像から外れる者に「障害者」というレッテルをはっているのではないか、という指摘がここでできます。

(2)「障害をもつ」という論理批判
(a)「障害をもつ」とは?−どちらが障害者?−
 「障害をもつ人」という言われ方があります。ですが、そもそも「障害をもつ」ということはどういことでしょうか? 以前朝日新聞のあるコラムに聴障者を主人公にしたマンガを書いている山本おさむという人の記事が載っていました。彼は、そのマンガを描くために、手話サークルに通って手話を学んだのですが、そういう中で、「手話ができないという障害を克服しました」という発言をしています。聴覚障害者が必ずしも手話を知っているわけではないのですが、手話を第一言語とする人達をろう者という規定が、かなりひろまって来ています。そのろう者と手話を知っている聴者には「障害」はありません(厳密に言うと色々指摘が出てきますが、「障害」とは言えないことです(*))。多くの聴者が「手話ができない」ということと、ろう者が「聴こえない(聴くことができない)」という中で初めて「障害」が生じます。こういうとらえ返しがあってか、今ろう者の間で、「自分たちは障害者ではない」という主張が起きてきています。「自分たちは使う言語が違い、文化が違うだけだ。自分たちの問題は障害者問題でなくて、むしろ民族問題だ」というような趣旨の発言をしています。さて、問題は、そこでその主張をしているろう者が指している障害者とは誰を、どのような人をさしているのか? ということです。例えば、「車椅子の障害者」といわれるひとがいます。そのひとは例えば「階段を歩いて上れない、だから障害者だ」とされるのですが、そこで、そもそもなぜ、車椅子使用者が移動できない交通機関、建物、まちを作ったのかという問題があります。そこで、まちや建物や交通機関を設計企画する仕事から障害者が排除されていて、その設計・企画した人達が、そしてそれらのひとたちを支持する多くの健常者が、障害者の存在を考えることができなかったという問題があります。二つのできないという問題の上に、「障害」が生まれているわけです。そして、この「障害」を車椅子使用者の上にかぶせて、「障害者」と規定する社会なわけです。
 先ほどのろう者の主張は、「ろう文化宣言」として突き出されて来ているのですが、その文化ということで、もうひとつ想起することがあります。食事の時に、箸を使う、ナイフとフォークを使う、手で食べるという色々な民族があり、昔はそこで自分たちの文化を絶対化したりして、文化の序列をつけたがったのですが、今はそれらのことを文化の違いとして互いに認め合うというような傾向が生まれつつあります。だとすれば、障害者が介助をえて(介助者を使って)食事することや皿に口をつけて食べることも、そのようなことの一つとしてとらえられないでしょうか?!(*注3) なぜ、他の多くの人と違う方法で食事をしたり生活することで障害者と規定されなければならないのでしょうか?!

*例えば、反転させて、手話の便利さという指摘もできます。その例をいくつか挙げれば、水中で手話で会話ができるとか、バスが連なって走っている時、その前のバスの後部座席と後ろのバスの前部座席で会話ができるとか、ちょっと離れていて声が届かなくても会話ができるなどなど多々あります。確かに、ろう者は大きな声を出して(呼びかけて)も聞こえない、例えば、建築・土木現場で危ない、そういう意味では障害者だという指摘ができます。しかし、そこでも、そのような効率性を高めるということで危ない作業をしているから、ろう者がその現場で働くことができない状態が生まれているのだという指摘ができ、そして、そのような危険性を除去するために、ろう者が安全管理者として色々指摘できる立場にあるというとらえ方もできるわけです。何度も繰り返しますが、このようなことを書くのは、みんなの考え方を変えたら、差別はなくなるのだという精神主義的なところで、書いているのではありません。むしろなぜひとつの「できる−できない」ということが問題になるのか、また色々「できる−できない」という中で、あるひとつのことは、たいして問題にならないのに、別のことは大きな問題になるのかという非対称性を問題にしているわけです。ここで言えば、安全性より効率性を求めるということの中で、差別が起きている、その差別の構造をとらえ返そうとしているわけです。しかし、その前に、その「差別は自然的なこととしてある」として、差別をとらえ返そうとする試み自体を切ろうとすることがあるわけで、そのことの反論として(脱構築するために)色々例をあげているのです。
(b)「障害」の反転−ルビンの図形の援用
 この問題をもう少し細く説明します。下の図はルビンの図形と呼ばれています。(*注4)






 黒い部分が浮かび上がった時(これが「図」となり、白い部分が「地」になるというのですが)、杯に見えます。白い部分が「図」として浮かび上がり、黒い部分が退いて「地」になった時(「地」になったとき、同時にそれが意識されない−「無化する」いう表現を用います−状態になります)、それは向かいあった顔に見えます。どちらが浮かび上がるかということで、違った図形に見えます。このようなことは他の図形でも色々あり、これを「反転図形」というように表現しています。
 さて、このルビンの図形で先ほど展開した障害者問題の説明を試みます。例えば黒い部分を「聞こえないこと」として、白い部分を「手話ができないこと」とします。この図形の白い部分と黒い部分の輪郭線(境界線)で、その線を黒い部分の外郭線とした時(「内自有化」するという表現を使います)、黒い部分が浮かび上がって見えます(これを「異化」という言葉で表現します−「物象化」という言葉でも表現されます)。譬えでいうと、「聞こえない」ということが問題化されます。逆に、白い部分に内自有化した時、それは向かい合った顔に見えます。「手話ができない」ということが問題化されます。この輪郭線が「障害」といわれることで、どちらに内自有化されるかで、反転がおきます。これが、先ほどの「どちらにかぶせるか」という話につながっているわけです。
 さて、私はこのルビンの図形をずっと前から使っているのですが、このルビンの図形はかなり多くの人が使っていて、知る人ぞ知るというところで広まっていて、「なんで今更こんな話を持ち出すのか?!」と詰問されたことがあります。なぜその人が詰問したのかを考えているのですが、一つは「そんなことを言っても、実際、多くは黒い部分が浮かび上がるのが常であり、反転することもある、反転する見方もあると言っても何になるのだ」という指摘だと想います。確かに、それはそうで、私がこの「ルビンの図形はこういうとらえ方もあるのですよ」ということで、反転させてみて、「こういう考え方もあるのだから、気持ちをしっかりもって(もしくは気持ちのもち方を変えて)生きていこう!」ということで持ち出しているわけではありません。反転する場合もあるけれど、一般的には反転しない、なぜしないのか、そこにおける関係性をとらえ返そう、そのことが、なぜ、図として浮かび上がることの「一定性」の解明になるのではないか、また、反転することがあるならば、必ずしも、障害者問題が固定的なこととしてあるのではない、ということになるのではないか、それらの中から障害者問題の解決の途を見いだしていこうということでの、一つの例として出しているわけです。
 もう一つは、この図形は二義図形ですが、そもそもこの図形を持ち出したのは、異化ということを説明するための端緒として持ち出しているのです。図として浮かびあがるということ自体を問題にしようとしているわけです。
(c)どのような「できる−できない」が問題になるのか?−ルビンの図形からの展開 そこで、この図形そのものから離れて、もう少し応用的に使ってみます。
 問題を煮詰めるのに対話方式が一般的に「有効」だと思っています。私は言語障害者なので、私にとって「有効」というわけでもなく、もっぱら文を書いているのですが、その対話場面を想定したことがあります。
 「障害者問題とは何か?」というテーマで講演があるとします。その講演者は、「皆さんの、実は自分の、緊張をほぐすために、ちょっと遊びをしましょう!」と言って黒板に、この「ルビンの図形」の印刷された紙をはります。そして、みんなの方を向いて、まっすぐの姿勢で(身振り手振りをつけないで−つけているのをきずかれないで)、「これは何ですか?」とききます。何という応えが返ってくるでしょうか? 「ルビンの図形」、「向かい合った顔と杯の反転図形」、ちょっとトンチのきく人だと、「紙」、「黒い図形の印刷された紙」、というところ位まで広がるでしょうか? 応えられたことを黒板に書きながら、演者は「まだありませんか?」ときいて、何も返事が返ってこないのを確かめて、自分で更に書いていきます。「黒板」「空気」・・そして、最後に「靴」と書いて、「実は、みなさんは気が付かなかったのですが、私は私の左手の人差し指で、靴を指していました」と言います。そして、「ルビンの図形」と応えたひとに、「なぜ、あなたは、「ルビンの図形」と応えたのですか?」とききます。そのひとの応えは「あの紙をはってから、「これはなんでしょう?」ときいたから、てっきり、あの紙についての話だと想った」です。そこで、演者は「私があの紙をはったのは、あとで話すのに使うのだけれど、緊張をほぐす一連の作業の一つとしてやっただけです」と言って、「冗談はこのくらいにして」と、本題に入ります。「ここで、ルビンの図形やそれに類することとして、ほとんどの人が応えたのは、一つの役割期待−役割遂行としてあったわけです。「この紙」をはったら、それについて話すものだというみんなの期待があった。私は、それらの期待を知った上で、ルーティン化された(型に嵌まった)行動を外す−役割遂行しなかった−ことによって、冗談を作ったわけです。さて、この役割期待と遂行の話は、後ほどに話すことになると想いますので、さておいて、この遊びの中に障害者問題の根底的にことがあります。」と話に入ります。
 さて、「演者の想定の話」はこのくらいにして、素での展開に戻します。ここで「この紙」自体の多くのとらえ方があります。「紙」「黒い図形が印刷された紙」「向かい合った顔」「杯」「ルビンの図形(白黒反転図形)」。これを障害者問題で言えば、一人の障害者のとらえ方が色々ある、例えば、ある障害者は
 「歩くことができない人」−「下肢障害者」−「車椅子使用者」−「福祉のまちづくり ということで適切な提言ができる人」
といろいろな形で表現できるし、また別の障害者は、
 「自分で食事のできない人」−「脳性マヒの障害者」−「食事の介助の必要な人」
 −「介助を得て食事をする人」−「介助という関係の中で、ひととひととの関係のあり 方を提起しえる人」
と表現しえます。これらの表現のし方の違いの中に、その表現する人の障害者観−世界観の違いが現れているのですが、ここでもルビンの図形で話した反転の問題があります(最後の項目が反転させてみた項目です)。ここで、もう一つ押さえておきたいのは、いずれも最後から2番目の項は、価値判断がくだされていないニュートラル(価値中立的)な表現のようにとらえられますが、私はそもそもニュートラル−客観的表現などないと想っています。そもそもそのことがなぜ浮かび上がっているのかという問題があるからです(浮かび上がる−異化するということには、名付けられること−命名判断に繋がっていきますが、命名判断には既に価値判断が付帯しているという問題です(*注5))。そこで、なぜ「黒板」や「空気」や「靴」ということが浮かび上がらないで、「紙」に関することが浮かび上がったのかという問題があります。障害者問題に話を戻せば、色々な「できる−できない」ということで、なぜ、その「できる−できない」ということがとりたてて問題になるのかということです。さらに、もう一つ、その一つの「できる−できない」ということ自体がなぜ浮かび上がってくるのか−問題になるのかという問題があります。
 例えば、昔E.H.エリックとかいうタレントがいて、耳を動かせました。しかし、その「できる−できない」ということは宴会芸的にもてはやされることはあっても、たいした問題ではなく、まして、できないということで「障害者」という規定は受けないわけです。
 百mを10秒以内で走れる人がいますが、20秒以内で走れなくても「障害者」とは言われません。しかし、移動に時間がかかるということで、ある一定程度から「障害者」という規定を受けるようになります。一体どの程度で、その線引きがなされるのでしょうか? その線引きがなぜなされるのでしょうか? そのことのとらえ返しの中で障害者の問題がとらえられます。逆の関係性で言うと、絶対的多数の聴障者の社会があってその中に聴者がいたとしたら、浮かびあがるのは、聴者の方です(誤解のないように書いておきますが、私は差別の根源的とらえ返しにおいて、差別のマイノリティ−マジョリティ理論に組しません。これはあくまで、一つの側面だと押さえています)。どんな形で浮かび上がるでしょうか?! 「変な人」としてとらえられるか、「超能力者」的にとらえられるのでしょうか?!
 一体、どのような「できる−できない」ということが問題になるのか、どのくらいの「できる−できない」ということが問題になるのか、なぜ、その「できる−できない」ということが問題になるのか、それらのことを押さえることによって障害者の問題ということが明らかになるのではないでしょうか?(*注6)
(d)異化の問題
 こんなことを書くと、人の自然性ということで、「何が浮かび上がるか−上がらないかということは一定だ」という主張がでるのですが、そのことはある話で容易に反論できます。『みんなが手話で話した島』という本の中で、アメリカのある島でかなりの比率でろう者がいる島があり、そこの島では時には聴者同士で話す時も手話を使うようになった(メキシコ近くのアメリカ合衆国の州で、子供達が自然にスペイン語を身につけ、バイリンガルになるように)。その島で、あるろう者に関する聞き取り調査をしたところ、そのろう者の特徴ということをきいていっても、ろう者であるという指摘が出てこない。そこで、聞き手が「その人はろう者でなかったか?」という質問をしたところ、やっと「そういえばそうだった、しかしそんなこと関係なかった」という返答がかえってきた。その島では、少なくとも日常的には<ろう者>が{ろう者}として浮かび上がらなかった(異化しなかった)、という話です。こんなことを書くと、「それは聴覚障害という特殊性において成立しているのであって、他の重度と言われる障害者の場合は必ず異化するのではないか!?」という問いかけが返ってくると思います。このことについての反論をいくつか提起できます。一つは、歴史的なとらえ返しです。ずっと歴史をさかのぼると、障害者が異化していても、それが必ずしも負価値的に異化しているのではなく、畏怖というところで異化している場合があるということです。価値的に両義的に異化しているということです。障害者は政事の主催者として現れていたことと繋がっています。それは他の差別の問題からも援用しえるのですが、ケガレという観念がオソレと卑しいという二つの内容をかってはもっていた、両義性をもっていたということと類比しえます。しかも、この異化ということは、現在社会でとらえられている“障害者”ということとはかなり掛け離れたところで異化していたのではないでしょうか?! 二つ目は、この異化ということが、例えば、『みんなが手話で話した島』のろう者のように、異化する時もあるけれど、異化しない時もあるというようなところで、とらえられる可能性。三つ目は、異化するけれども、それが鼻がおおきいとか、ほくろがあるというレベルでの異化のし方になるということ。すなわち、{障害}というようなところで異化しなくなる可能性はあるのではないかと指摘できます。この異化という問題の、もう少し掘り下げた分析は別の節に譲ります。
(e)個性論としての「障害をもつ」論批判
 大分掘り下げもしたのですが、話がこの項自体から外れてしまいました。もう一点この項について、押さえることがあります。それは、後の障害個性論とも重なるのですが、「障害者という規定は、障害ということでそのひとの全人格を規定するような表現でまずい、障害はその人の一つの個性−側面であるという意味で、「障害をもつ」という表現の方が良い」という主張の存在です。これは、この項で既に展開しているように、「障害」を障害者の方へ内自有化していることでおかしいと思うのですが、単にそれだけでなく、「障害」と言われること、厳密に言うと、<障害そのもの>を“障害”につなげてしまって、その否定性に乗っかってしまっているというところで、おかしいと思います。障害者という規定をどうとらえるかという、問題がそもそもあるのですが、それは、後に展開するので先取り的になってしまうのですが、敢えて押さえておくと、基本的に「障害者とは障害者規定を受ける者、障害者差別を受ける者」という規定をするならば、「障害者という表現より、「障害をもつ者」という表現が良い」とは言い難いのではないでしょうか!?
(3)WHO(世界保健機構)の障害者規定批判(*注7)
 WHOの障害者規定は
     機能障害(impairment)
     能力障害(disability)
     社会的不利(handicap)
 となっています。色々な障害者規定が錯綜している中で、この規定はかなりまとまった規定として、障害者問題を語る多くの人から引用されています。
 しかし、この規定のもっともおかしいという点は、 の機能障害ということを、生物学的−生理学的事実、客観的事実として、これ自体をとらえ返そうとしていないことです。 これに対しては、(2)(d)の中で、『みんなが手話で話した島』を援用して、既に書いたのですが、聴覚障害という生物学的−生理学的事実が、浮かび上がらないことがある、そのことをどうとらえるのかという問題です。誤解がないように、断って置きますが、「生物学的事実」ということがないといっているのではありません。第三者的には「障害」としてとらえられることが、当事者意識としてないと言う場合もあるということを主張しています。「障害」として浮かびあがること<そのもの>が、時と場合に浮かび上がらないことがある。浮かび上がっても、それが両義的であったり、ニュートラルに近い形でしかとらえられない場合がある(例えば、ほくろなどのように)。そのことをおさえておかねばなりません。そのことから、なぜ「障害」として浮かび上がったのか、そして、明確に負価値的におかれるのか?そのこと自体を問題にしようとしています。
 このことは、科学批判にもつながることです。私たちは科学というと絶対的真理のようにとらえがちですが、科学とは「社会」的意識を高次化しようとしたものにすぎません。そのよってたつ社会意識が立場性によって異なるならば、科学自体が時には抑圧的に働きます。文化人類学が、他の学と同じように、研究者から女性を排除してきた歴史の中で、女性が新しくその分野に進出した時、文化人類学の大きな変換が起きたと言われています。これまでのアメリカの歴史が、差別する側の歴史でしかなかったという批判がネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)から出され、歴史の全く逆の見方が出されたということもあります。障害者運動においては、発達保障論が、生物学的発達の法則−発達の弁証法を指し示しましたが、それに対して「そもそも発達とは何か?」という問いかけの中で、「発達」そのものを問い返す『反発達論』というアンチテーゼ的に素晴らしい本も出されています。「発達の弁証法とは、科学という装いをもった神の別名だ」という批判もできます。
 科学的ということで出されることを、その背景にある社会凡通的な意識−世界観からとらえ返して問題にしていく必要があります。

(4)「障碍者」という規定批判
 もう大分前ですが、‘障害’の‘害’の代わりに、壁という意味の‘碍’という字をあてて、「障碍者」という表現がかなり見受けられました。最近、ほとんどみられなくなったのですが、この表現はWHOの障害者規定の handicapを強調した表現です。そのことの強調は意味があるのですが、他の項目をどう押さえるのかという観点が落ちてしまいます。更に、「障碍」の方は良いのですが、「障碍者」という表現になるとなぜ、障碍が「障碍者」と呼ばれるひとにかぶせられるのか(内自有化されるのか)ということが問題になります。これについては、もう(2)で述べました。更に、「障碍」ということにおいても、これは差別形態論の先取りになるのですが、差別ということを排除型の差別、隔離・排除という観点からしかとらえなくなるという落ちこぼしの問題が起きて来ます(もうちょっと詳しく書くと、排除型の抹殺という形態についても落ちこぼしています)。抑圧型の差別とりわけ同化ということでは、この「障碍」という言葉は適切ではありません。
(差別の型については第3章)

(5)障害=レッテル貼り−障害=スティグマ論批判
 「障害規定とはレッテル貼りだ」という提起があります。差別ということすべてにそのようなことが当てはまるのですが、これは「言われなき差別」という論理につながっています。これは被差別者間の分断につながるのですが、「すべての差別が根源的には言われなき差別である」という意味では一理ありますが、すべてその社会の中で起きていること−根拠があるという意味では、「言われある差別」で、「レッテル貼り」という言葉が内容のない規定だという意味では、「レッテル貼り」という規定はぴったり当てはまりません。 もうひとつ押さえておかねばならないのは、「障害者とは障害者と規定された者(名付けられた者)−障害者差別を受ける者である」という規定との関係です。かなり前から使われていて、私もこの規定には共鳴しています。この規定には、「レッテル貼り」という規定と通じることがあります。ただ、「障害者とは障害者規定された者−障害者差別を受ける者」という規定は同義反復的で、もう一歩突っ込んだ内容規定を必要とします。障害者規定を、その規定が行われる社会的意識(共同主観性)に沿って、明らかにしていく必要があります。「レッテル貼り」という規定も、{障害}ということで異化した後に、負価値的に規定しているという内容になっていますが、もう既に述べているように、異化すること自体に価値判断が働いています。そういう意味ではぴったり当てはまりません。
 この話は、障害スティグマ論とも重なっています。「スティグマ」というのは、ローマの時代に奴隷に押した烙印を意味しています。そこから、「スティグマ」を「烙印を押されたアイデンティティ」という内容で、差別の問題に援用する人が出てきています(長ったらしいので、私は「スティグマ」を一言で、「負価値性」とか「負価値項」と訳しています)。この「スティグマ」という概念も、異化したものに烙印を押すというイメージがあり、そういう意味ではしっくり来ません。ただ、この「スティグマ」という言葉には、「聖痕」というような訳があてられることがあり、「ケガレ」という言葉の両義性と同じようなニュアンスがあります。そのような意味合いで、このスティグマ論には魅力があるのですが、根本的なところでは、ぴったり合いません。

(6)「」をつける論理批判−「障害」者と「障害者」
 かねてから、障害者に「」を付けて「障害者」という規定がありました。これは、「そもそも障害−障害者とは何か?」という問いかけの中で、「障害者と呼ばれる者」、「障害者と規定される者」という意味というところでとらえていこうという内容が、以前からあり、その脈絡で出されて来たことと理解しています。
 最近‘「障害」者’という言い方が出てきています。どのような内容規定なのか、よくつかめていません。‘障害’に括弧を付けて「障害」ということは、理解できます。「そもそも障害とは何か?」ということを考えると、「「障害」は関係性の中で初めて障害であり、そのことを抜きにした、実体主義的「障害」などない」という意味で、個別‘障害’も、それに準じて、「 」をつけて表現します。しかし、‘「障害」者’という表現は納得できません。おそらく(2)(e)の内容で、「障害」ということに疑問を呈した規定で、そのことにおいては意義があるのですが、そのことを拡大して‘「障害」者’としてしまうと、「障害」の内自有化が、なぜ「障害者」側になされるのか、ということで不適当だと思っています。
 もう一つ言えば、名付けられたものという意味で「」をつけるとしたら、認識論的に言語学的に言えば、総ての名詞に「」をつけなくてはいけなくなります(動詞に関しても同様ですが、特に名詞が顕著になります)。更に、「障害者とは障害者差別を受ける者」という規定をすれば、「」を付けるという意味はなくなるし、また運動主体というところで障害者として自らを突き出す時、括弧をつけることが逆におかしくなります。「」つきの存在は、自らの主体性を、疑問に付するということになるからです。
 話がごちゃごちゃしてきたので、結論的にあえて、まとめれば、名付けられたという意味を強調したい時は、「」を付けるということを残す意味があると思います。また運動の主体性というニュアンスのあるところでは、括弧を外した方が良いと思います。その他、各障害者の「障害別」の個別性があり、その個別性を表現する時には、その主体性を尊重するという意味で、その個別を表現をその当事者が表すのに沿って、表現していく必要があると思います。そういう中で、障害者同士の交流、更に被差別者との交流という中での、問題の整理を図っていくこととしてあるのではないでしょうか!?





*注1
 吃音者自身には「吃音者は障害者ではない」というとらえかたが繰り返しおきてきます。それは、障害者と規定されることが排除されることにつながるというところで、そのことを何とか逃れたいという心情から来るのですが、そのことにとどまらず、他の障害者からも、「あなたたちのかかえている問題はたいした問題じゃない」とか、「あなたちを障害者とは認めない」という言葉をあびせられる事態がおきてきます。それらのことは差別の形の違いということをとらえられない、後に述べる、相対的排除−同化や融和や抑圧ということを差別としてとらえられない、そもそも障害者規定さえちゃんとされてこなかったという理論的貧困からくることです。だから、吃音者にとって障害者宣言−差別と闘うという宣言をするためには、障害−障害者規定をちゃんとなしきることが必要になる、ということがあります。私がほりさげの作業をしてきたのは、私の吃音者としての体験のなせるわざでもあったのです。
*注2
 最近ベストセラーになっている『五体不満足』という本のキャッチフレーズとして使われている、「障害者は不幸ではない、ただ不便なだけだ」という筆者の提言があります。筆者はテレビのインタビュー番組の中で、「心のバリアー−物理的バリアー」という言葉を使って色々話しているのですが、その主張からすると「障害者は不幸ではない、不便といわれることがあるけれど、それはバリアーが作られているからだ」という主張になるのではと思います。そもそも、不便ということ自体が比較ということからおきてくるわけで、「中途障害者」ならまだしも(これ自体が過去との比較ですが)、いわゆる「生まれつき」の障害者にとって、不便と感じるとしたら、それは「健常者社会」に刷り込まれたものだと言い得ます。
*注3
 これは実際に私が出会った障害者が、食事する時に皿に口をつけて食べるという場面に出会い、一瞬だじろぎ、そして、ああこれがひとつの文化の違いを認め合うと言うことなのだ、と思いに至るという実体験に根差していることです。ただ、なぜその障害者が介助者との関係を作る、むしろその関係作りを楽しむという方向で進むのではなく、介助者の手を借りないということを選んだのかということで、そこに自分と心が通じる介助者と出会えなかったのかという私の想いなども出てきます。ですが、メンドウだということは、障害者−非障害者に限らずあることで、ともかく、自己決定ということがそういうことも含めてあるということだと押さえています。
*注4
 ルビンの図形を用いて異化の説明をしたことについて、後でその問題点に気づいて、編集後記に一文を書いています。本当は、その内容に沿って本文を書き改めるべきことなのですが、転載して一時しのぎにします。

 文中、ルビンの図形を持ち出しました。持ち出した時、視覚にたよるルビンの図形を持ち出すことが、読者の対象から視覚障害者を外してしまうことになるのではないか、などと考えていたのですが、最近図形を触覚で分かるようにする工夫がなされているという話も聞いていたので、伝わるのではないかと想い、そのままにしました。このあたりは実際に視覚障害者から話をきいて、もう一度まとめ直したいと想っています。
 ルビンの図形の話は、触覚にたとえ直すと、自分の右手と左手を握りあった時の反転の話として出せます。すなわち、右手に左手を感じている時は、右手自身は地になって無化していて、それが、逆に、左手に右手を感じている時は、左手が地になって無化している。その反転が交互に起きます。もう一つ、反転ということと違うのですが、白杖の話があります。手に白杖を握った時には、手に白杖を感じるのでずか、実際使い始めると、白杖を握った手の感覚は無化して、白杖の先に地面を感じます。これは、身体の延長性の話として出される例ですが、反転ということの応用的な話です。
 本文の中に織り込めなかった私自身の限界性を押さえつつ、もう一度まとめ直す時には、織り込みたいと想っています。

*注5
 価値判断が付帯していても、それが両義的であったり、またゆらぎが生じるなどの場合があります。だから、あえてその段階を抽象的概念として{}をつけて強調して表現しています。
*注6
 このことが一番はっきりするのは、障害者の労働をめぐる問題です。これについては、かって私自身がある運動の中で議論し一文を書いていますので、引用します。

       自力出勤・自力勤務って何!?
自力出勤って何?!
 先日、教育委員会の入っているビルでのビラまきの後での対話です。
T:ビラまきしていたら、教育委員長が運転手付きの車で出勤してきた。私のこと、自力出勤できないと首にしておいて、自分だって自力出勤していないじゃない!?
S:他の人達だって自力出勤していないよ。他の人が運転する電車に乗ってくるのだから。T:自力出勤しているのは、歩いて通っている人だけね。
S:その人達だって、他の人達が舗装した道を歩いてくるのだから、自力出勤と言えない。 自力出勤って何でしょうか?
 例えば、勤住接近で、電動車椅子で通勤する場合。車椅子と車で通うこととどう違うのでしょうか?!他者の運転する車で通うこと他者の運転する電車で通うことと、介助を受けて通うこととどう違うのでしょうか?!介護人派遣制度で介助を受けて日常生活をすることとが進んでいる中で、なぜ介護人派遣制度を利用して仕事をすることが区別されるのでしょうか?!
自力勤務って何?!
 自力勤務についても同じことが言えます。最近頓に機械化が進む中で、その機械を使って仕事をするということは、その機械を作った人達の手を借りて仕事をしていることを意味します。機器ということ待ち出すまでもありません。鉛筆ひとつ紙ひとつだって自分で作ったわけではありません。更に、例えば、横浜市には、立派な市長室があって、多くの秘書が働いています。横浜市長は多くの手助けを得て「執務」しています。これは自力勤務と言えるでしょうか?これはシステムだと笑って答えるかも知れません。ならば、障害者が働けるシステムを作れば良いだけです。
 機械化を一様に評価しているわけではありません。時に、機械に人間が使われるという情況を生み出すからです。しかし、機械を使うことでよりよきことが生み出せるならば、機械を人が使うことを否定すべきことではありません。機器の導入で仕事ができるというTさんの主張をとりあげようとしないのはどういうことでしょうか?!そして、多くの労働が機械に置き換える中で、もっとも大切な仕事がひととひととのふれあうこととして位置づけられる中で、Tさんが学校の現場で子供たちにふれあう時、子供たちがTさんに合わせて体を動かす、その中で生まれる創造性が、今の知識の詰め込みに偏重し、競争の中で、いじめ・「体罰」などがはびこる学校で、必要なことなのではないでしょうか?!
追記 この文章を読んだ人の中で、差別を考えてきた人たちから、差別と分業の密接な関係をとらえ、分業を肯定する論理ではないかという批判がでるかも知れません。分業とは役割分担の固定化だと押さえています。役割分担自体を否定するわけではありません。「人は協働する動物」です。分業の問題の核心は、計画・立案・決定というところからの排除が起きることだと押さえています。ここでも、「自己決定」という障害者運動が押し出している問題があります。
*注7
 最近、フェミニズム世界システム論を主張するグループの本(マリア・ミース『国際分業と女性−進行する主婦化』日本経済評論社)を読んでいて、フェミニズムの中で、セックスという概念から区別してジェンダーという新しい概念を生み出したことによって、フェミニズムの新しい飛躍が生み出された。しかし、逆にセックスということがゆるぎのない生物学的事実として、セックスの違いによる差別の合理化を生み出したという内容の指摘が出ています。このことはWHOの障害者規定に通じています。フーコーが「生物学的事実」の歴史的相対性を指摘したこともとらえ返して、impairment自体が社会的歴史的概念であることを押さえる必要があるのではないかと思います。


……以上……

REV: 20151221
障害  ◇障害学  ◇全文掲載
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