1998年度 お茶の水女子大学人間文化研究科 発達社会科学専攻応用社会学コース 修士論文 『<語り>と<コミュニティ>の生成 −障害を持つ人々の語りを通して』                                    瀬山紀子 **目次 序 第一章 ライフヒストリーからストーリーズへ  第一節 方法としての個人への注目   1.個人に注目した研究の流れ   2.『口述の生活史』が持った二つの意味   3.「フィールドとしての個人」  第二節 相互行為としてのライフヒストリー:ストーリー論の展開   1.語りの真実性   2.構成される語り   3.経験のせめぎあい  第三節フェミニスト・エスノグラフィの方向性   1.フェミニスト・エスノグラフィの方法   2.「女=私たち」への問い   3.フェミニスト・エスノグラフィの転換  第四節 ライフヒストリーが生み出される場   1.コミュニティへの注目   2.コミュニティと語りの相互補完性:ストーリーズの社会学  □小括 第二章 ライフヒストリーが生み出される場:セルフヘルプグループ  第一節 セルフヘルプグループとは何か.   1.セルフヘルプグループ,自助グループ,当事者グループ   2.セルフヘルプグループの系譜   3.個人モデルから社会モデルへ  第二節 セルフヘルプグループの機能   1.関係性の質:体験の類似性と差異性   2.経験的知識   3.援助者治療原則   4.セルフヘルプグループの規則  第三節 セルフヘルプグループの社会的役割   1.利用者運動   2.多様な決定を生み出す場   3.セルフヘルプグループの位置  □小括 第三章 障害を持つ人々の語りとコミュニティ  第一節 障害を持つ人々のコミュニティの成立過程   1.自立生活運動の始まり   2.優生保護法撤廃要求と「障害の肯定」    2.1 障害者の生存権    2.2 優生保護法改正をめぐる動き:女性運動と障害者運動の対立    2.3 女性障害者運動と女性運動の共闘   3.「CP女の会」    3.1 成立    3.2 障害を持つ親にとっての「脱家族」   4.子宮摘出と女性障害者運動    4.1 子宮摘出合法化要求をめぐって    4.2 「向かい風」:女性障害者の語りの場    4.3 「子宮摘出」をめぐる議論が提起したこと   5.1980年代後半からの活動:自立生活センターの広まり    5.1 IL運動(アメリカの自立生活運動)の影響    5.2 自立生活センター   6.日本における障害者福祉の転換    6.1 国連・障害者年    6.2 障害者プラン   7.小括  第二節 ピア・カウンセリングに見る「障害の肯定」   1.ピア・カウンセリングとは何か.    1.1 ピアとしての支えあい:広義のピア・カウンセリン    1.2 心や精神面の支えあい:狭義のピア・カウンセリング   2.広い意味でのピア・カウンセリング    2.1 自立生活プログラムの実践    2.2 アサーティブ・トレーニング   3.狭い意味でのピア・カウンセリング:コウ・カウンセリングの方法    3.1 傷からの回復    3.2 対等性を作り出す    3.3 感情の生成とその意味   4.小括  第三節 ピア・カウンセリングでの語り   1.「怒ってもいいんだ!」:「運ばれる介助」   2.対等感:「自分のままでいい」と思えるまで.   3.認めること:障害を持つ自分を認める   4.分断の最前線:ピアになること   5.感情の解放:「辛くて辛くてしかたなかった」   6.障害に対する認識の転換   7.「障害者」としての自分を認める   8.小括  第四節 ピア・カウンセリングのこれから   1.生活支援事業とピア・カウンセリング:カウンセラー認定制度   2.障害を持つ人々の運動の広がり  □小括 「障害の肯定」から「差異の肯定」へ 終章 語りとコミュニティ  第一節 生成される経験と道具としての差異   1.生成される語りと経験   2.差異によって見いだされること  第二節 障害を持つ人々の語りが意味すること   1.障害を持つ人々の「道具としての差異」   2.語りが開く語り 文献表 謝辞 **序  障害を持つ人々が肯定的な語りを作り出してきた.彼/女らは,「障害者」に付与されてきた「障害=不幸」という否定的なイメージを覆し,障害を持つ自己を信頼した肯定的な語りを多数生み出してきた.彼/女らは,どのようにして肯定的な語りを生み出してきたのだろうか.またその語りはどのような問いを生み出しているのだろうか.  論文の第一の関心は,スティグマを付されてきた人々が,それをはがし肯定的な語りを作り出す過程とそこで生み出される語り/ライフヒストリーにある.またライフヒストリー論の中に,彼/女らが自己を再定義し創造する過程で作り出してきたコミュニティの存在を位置づけることにある.  ライフヒストリー論は,差別的なまなざしを向けられ,自らも自己を否定的な存在として位置づけてきた人々が「どのようなプロセスをたどり語り出すことが可能になるのか」に注目することが必要である.しかし,従来ライフヒストリー法は,聞き手である調査者が語り手との間に「親密な関係」を作ることによって聞き出すことのできる自明で固定的なものであるかの様に捉えられてきた.このことは,ライフヒストリーを対象とする研究が,「語られた内容」やその構造に焦点を置き,語りが語られる社会的文脈や語りの変化,語りが果たす社会的な役割を重視してこなかったことを意味する.  マイノリティとされてきた人々の語りは,コミュニティ:ピア・グループを生み出してきた.彼/女らは,自己の属性に付された否定的な意味を「自己嫌悪」として,また,同じ属性をもつ人に対する否定的なまなざしとして獲得してきた.しかし,コミュニティの中で,それまで自らが受けてきた差別や恥と感じてきたことの原因が,自分にあるのではなく,そのような状況を作り出す社会の側にあることを確認する.それは,自分を社会に合わせて変えることではなく,差別を生み出す社会の側に,何らかの問いかけを始めることを意味する.  被差別状況に置かれてきた人々が語り出すことは,事実や経験がそれを意味づける人によって別の意味を持ち,別の経験として現れることを明らかにする.つまり,このことはある人の経験が自明なものではなく,作り出され作り替えられていくものであることを意味する.また,彼/女らがどのような契機で経験を作り出していくのか,そのプロセスに注目する必要性があることを明らかにする.  論文のもう一つの関心は,障害を持つ人々のセルフヘルプグループにある.  障害を持つ人々は,差別的なまなざしの中におかれてきた.彼/女らの多くは,これまで「在宅」か「施設」かの二つの限られた選択肢を与えられてきた.そのような実際の生活上の極端な選択肢の少なさが,彼/女らの否定的な自己像をつくる原因ともなってきた.また彼/女らの否定的な自己像は,生活の多くの部分で介助を必要とすることへの否定的な意味づけや(健常といわれる人々と同じように働くことで)「経済的な自立」をすることができないことに対する否定観によっても作られてきた.さらに日本では,1996年まで優生保護法が存在した.旧優生保護法とは「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに,母の生命健康を保護することを目的」とした法律で,遺伝性精神疾患や遺伝性奇型を持つ人々の優生手術を行ってきた法律であると同時に,女性の人工妊娠中絶を「許可する」法律だった.この法律のもとで「優生手術」が行われ,法律とは直接関係ないものの「子宮摘出手術」が行われた.それらは,障害を持つ人々の生を脅かし,障害を持つ女性の性と生殖に関する権利を否定してきた*1.  しかしその後,障害を持つ人々の権利獲得運動や自立生活運動が彼/女ら自身によって進められてきた.日本で1970年代に脳性まひの人々がつくった「青い芝」の運動,アメリカでの自立生活センターの活動,イギリスでの施設隔離反対運動などがそれに当たる.それらの運動の中で,「障害」という言葉の意味が作り替えられてきた.  彼/女らは,第一にこれまで個々人の「障害」と捉えられてきたことの多くは,社会的な環境によって作られているものであることを示した.そのことは,社会環境を変えることによって「障害」とされてきたことの多くを取り除くことができるという主張である.その主張によって,駅や建物の段差が解消されてきた.第二に,社会的な規範が「何が「障害」であるのか」を規定している(にすぎない)ことを示してきた.このことは、現在ある「社会の規範」を変えることによって「損傷」から生じるとされる「障害」の多くを取り除くことができることを明らかにした.「社会的不利益」を生む障壁もこれまで「障害」とされてきたことも,社会が作り出したものであると主張することは,「社会」を変えることによって「障害」を取り除くことができるという主張である.また,「障害」に付されてきた否定的な意味を取り除くことができるという主張でもある.  しかし,第三に社会的な障壁や社会の規範を変更してもなお残る個人の身体的な差異をどう考えるかという問いがある.つまり,否定的なものと見なされてきた「障害」は,障壁や規範を変えることによって全て取り除かれるべきものなのかという問いが生じた.もちろん,多くの社会的な不利益は,取り除かれるべきものとして存在する.また,彼/女らの取り組みによって実際に社会の障壁や規範は変化してきた.そのことによって,彼/女ら自身の生活の幅が広がっていることも事実である.その上で,「障害」という身体的な差異を持つことことを受けとめ,認めることはどのような意味を持つのかが問われてきた.彼/女らが持つ身体的な差異は,社会の規範に問いを発する「道具」でもある.そのような社会の在りようを顕在化する道具としての「障害」を彼/女らは手放さなかった.  運動の社会的な広まりは,「障害」定義についての再検討を促した.英語では(少なくとも)「障害者」にあたる言葉が3つ存在する*2.現在でも定義は定まっているとはいえない.しかし,障害を持つ人々による権利獲得運動の一つの結果として1983年にDPI(DPI=Disability People's International:障害者インターナショナル)は,第三回世界評議会で「ディスアビリティ(障害)は,身体的,精神的,感覚的インペアメント(損傷)により起きる個人の機能的制約」で,「ハンディキャップ(社会的障壁:不利益)は,物理的社会的障壁により他の人と同じレベルで地域社会の通常の生活に参加する機会が失われているもしくは制限されていること.」という定義を作り出した(長瀬[1996b])*1.  この定義やそれに先立つ運動は,「障害」に関わる問題の焦点を「障害(インペアメント)」を持つ個人から「障害(ハンディキャップ)」を生み出す社会環境と,それがもたらす社会的不利益にうつす大きな転換だった。この転換は、「障害」の「個人モデル(医療的な側面で個人を問題対象とする捉え方)」から、「社会モデル(「できなくさせる社会」を問題にする「障害」の捉え方)」への移行と捉えることができる。  アメリカでは,障害者運動の結果の一つとして「障害を持つアメリカ人法(ADA法)」が1990年に成立した.また現在,自立生活運動などを背景にした「障害学=disability studies」という分野がイギリスやアメリカで広がっている*3*4.「障害学」とは,「従来の「障害者に関する」学術研究を批判するために創出された「障害」者による,また「障害」者に関係する学際的な研究分野」と定義することができるだろう.また,1996年に障害を持つ女性たちの国連人口会議での働きかけなどによって日本政府は,旧優生保護法の「優生条項」を取り下げ名称を母体保護法に改正した.  このように,障害を持つ人々の運動は大きな広がりをもち,社会的な政策も基本的には彼/女らの「自立生活」をサポートするものへと変わってきた.ノーマライゼーション*5,バリアフリー*6,インクルージョン*7という言葉は,社会的障壁の解消を目指す障害を持つ人々の権利獲得運動の中で生み出され,現在も「まちづくり」や法制度の改正,教育の機会均等などの権利獲得を目指すキーワードとして大きな役目を果たし続けている.  しかし,障害を持つことを否定的なものとしてきた社会的な状況がなくなったわけではない.その一つの例として,出生前診断技術(特に,母体血清を使うトリプルマーカーテスト=TMテスト)の急速な普及が上げられる*8*9.また,旧優生保護法下で行われていた「優生手術」と非合法で行われていた「子宮摘出」などに関する調査や報告,謝罪などの「批判的総括*10」を国に求める障害を持つ人々の運動なども行われている.  上述した障害を持つ人々による運動は、「障害」の「個人」モデルから「社会」モデルへの転換を図ってきた.それは,社会制度や環境の変化の面で成果を見ている.しかし,第三の問題として示した身体の差異としての「障害(とは呼ばないと考えられるが)」は,個々人の身体に依然として存在する.彼/女らの運動は,一方で社会的な障壁の解消を訴え,一方で差異を抱えた身体を「ありのまま認める」ことを訴えてきた.このことは,彼/女らが自らの身体を肯定しそこにある何らかの差異を認めることを意味している.  以上で本論の問題関心として二つの方向を示した.この論文の目的は,<障害を持つ人々のセルフヘルプグループ>を<ライフヒストリーが生み出される場としてのコミュニティ>であると捉え,それが生成される過程とそこで生み出される語りの意味,社会的な役割とその方向性を捉えることにある.  語りはコミュニティを生み出す役目を果たすものであると同時に,コミュニティによって作り出され続けるものである.そのような相互補完的な要素を持つ語りとコミュニティの関係を障害を持つ人々のセルフヘルプグループの実践を通して書くことで,彼/女らが語ってきたことの方向性を明らかにしたい.また,彼/女らが語りを開くことは,まだ沈黙している人々の語りを支える力になるだろう.特に,介助を必要として生活する多くの人々の語りを新たに作り出す契機となるかも知れない.  この論文のテーマに取り組むきっかけとなったのは、私自身が介助者として障害を持つ人々に関わり、彼/女らの語りを聞く経験をしてきたことと深く関係している.  本論文の大まかな見取り図を示す.  第一章ではライフヒストリー論のレビューを行う.ここでは,ライフヒストリー論に,語りの契機となるコミュニティの存在を位置づけることを目的とする.そのためはじめに,個人に注目したライフヒストリー研究が見いだした<フィールドとしての個人>という概念に注目し,それが創出される過程を見る.次に,ライフヒストリー論において「語り」がどのようなものとして扱われてきたのかを批判的に検討する.特に,調査倫理の重要な概念であるラポールが「正確で深い語り」の存在を前提とすることや,この方法論が「語りと事実との整合性」において「語り」を捉えてきたことを批判する.次に,語りが現在における過去の再構成であるとする論を取り上げ「いかにして語り手は過去を語る言葉を獲得するのか」という問いに置き換える.同時に経験が社会の権力構造の中に位置することを示し,コミュニティの必要性を提示する.また,同様の変遷を見せた方法論の一つとして,フェミニスト・エスノグラフィを取り上げその方向性を示す.  第二章では語りが生み出される場(コミュニティ)の一つとしてセルフヘルプグループを取り上げる.はじめに,セルフヘルプグループ論を日本での生活記録運動などに見られる社会運動の系譜の中に位置づける.次に,セルフヘルプグループを構成する人々を同質性と差異性の観点で捉え,そのどちらもが語りを生み出す契機となることを示す.また,セルフヘルプグループを利用者運動の側面から記述し,特に語りによって生み出される多様な決定の方向を支える場としてセルフヘルプグループが持つ意味を記述する.また,セルフヘルプグループでつくられていく語りが社会的にどのような力を持つのかをみる.  第三章では,障害を持つ人々の運動をセルフヘルプグループの運動と位置づけ日本での障害者運動の系譜を概観する.特に障害を持つ女性たちの運動が,どのような過程で語りを生み出してきたのかに注目し,その語りの持つ意味を検討する.また,障害を持つ人々のセルフヘルプグループの一つである自立生活センター*11の活動を取り上げる.中でも,ピア・カウンセリング*12の実践を取り上げ,障害を持つ人々の語りがどのようなプロセスで語り出されてきたのか,またそこでどのようなことが語られてきたのかを検討する.特に「障害の肯定」が均質性を生み出そうとする社会に対する抵抗(「差異(違い)の肯定」)であることを提示する.  終章ではコミュニティと語りの関係を整理し,障害を持つ人々の語りがどのような意味を持ち,今後それらがどのような語りを支える可能性を持つのかを検討する.                                         *1優生保護法第4条及び第12条で規定された本人の同意を必要としない不妊及び断種手術実施数は1949ー1994年までに統計で明らかになるものだけを見ても16520人(内男性が5164人)にのぼる.(http://itass01.shinshu-u.ac.jp:76/TATEIWA/1.htm:強制不妊手術に関する参考資料より:『医制八〇年史』及び『優生保護統計報告』).  また,第三章第一節で詳しく取り上げる子宮摘出に関する問題もこれと関連する.93年6月12日付の毎日新聞は「障害者から正常子宮摘出」という見出しで,国立大学付属病院での女性障害者の「生理時の介助軽減」を目的とした子宮摘出が「本人の同意を得ずに」行われていたことを報じた.その後毎日新聞は,86,87年に3人の知的障害者女性の「正常子宮」摘出手術を文部省,厚生省が調査の結果認めたことを報じている.この報道は,「旧優生保護法」の「優生手術」規定の範囲を超えた,強制不妊手術であったことが強調されている.  しかし同時に,CP女性が障害者生活施設内で子宮摘出手術を進められ手術を「決意」した(岸田[1995:28ー46])話からも明らかなように,「子宮摘出」は,特に施設に暮らしていた経験のある障害者女性,また施設職員や親の間では「公然の秘密」であり,「強制不妊手術」が,「本人の同意(自己決定)」として行われた例が事実上の「強制」であったことを考えると,数値では明らかにならない多くの人が強制「優生」手術をしたと考えることができる.  毎日新聞(93.6.12)の報道のなかで「ある中部地方の国立大学教授」は,「施設や親がそんなに困るならとりましょう,と摘出を決めた.病気は社会の問題.社会が困れば何らかの医学的な処置が必要.摘出の意味を理解できないから,同意書にサインはもらっていない.」と述べている.その言葉が端的に示すように子宮摘出は介護をする側また社会の側の「都合」を優先した「処置」であることが分かる. *2現在,特に身体的な障害を持つ人々のことをより肯定的な意味で捉える physically challengedまた,physically differentという言葉も生まれている.翻訳すると,前者は「身体的な挑戦者」,後者は「身体的差異を有する者」になる.日本でもこれに習って「チャレンジド」という言葉を使う場合もある. *3英国の障害者運動では,ハンディキャップという言葉の代わりにディスアビリティが使われる.ディスアビリティとインペアメントの違いが,前者(disabiliy)が社会的に作られた「障害」(これが,通常ハンディキャップとされる),後者(impairment)が個々人の身体にある「差異」として捉えられている(ニック・ダナファー[1998]). *4「障害学」という言葉は,すでに従来の「障害者福祉」一般を指す語として使われている.例えば,石部・柳本[1998]『障害学入門』では,「現在の障害児(者)の福祉・教育全般にわたる基礎知識を体系的に述べ(ibid[4])」ることを,「障害学」という言葉で表している.これは,本文で述べた障害を持つ人々の自立生活運動などに端を発し「能力主義」や「優生思想」,「均質性」を問題化しようとする「ディスアビリティ・スタディーズ」とは,別の方向をもっている.特に,『障害学入門』は,障害を持つ人々の特殊教育の在り方を模索するものであり,その意味でもいわゆる障害学:ディスアビリティ・スタディーズとは方向を異にする. *5障害学というのは disability studies の翻訳である.the Society for the Disability Studies(SDS)という米国を中心とした学会が1982年に「障害と慢性疾病の人文,社会学的側面を研究する学際的研究の促進」をあげて「慢性疾病,インペアメント,ディスアビリティ研究学会」として発足し,1986年に現在の名称に変更されている(長瀬[1997]).  また日本では,本文に書いた意味でのディスアビリティ・スタディーズの最初の刊行物として,石川准,長瀬修編『障害学への招待』明石書店1999年に刊行予定とされている. *61950年前後に知的障害(児)者の親の会が,知的障害児者の隔離施設収容への反対運動を展開する中で生まれた言葉(石渡[1997:65-66]).この言葉の持つノーマライズの意味は,障害を持つ人々が「当たり前の生活」を営むことができるように社会の側を変革していくという意味で使われている.しかし,この語は「障害」を持つ人々をノーマルにすること,という意味と誤解される懸念があることも指摘されている. *7バリアフリーとは,障害を持つ人々が生活して行く上で「障壁」となる,建物や交通機関などの物理的障壁(段差など)や,制度,情報面などの障壁を取り除くという意味で使われている.平成七年度の『障害者白書』では,バリアフリー社会をめざすべき社会のありようとして提起するに至っている. *8これまでは,統合教育を意味する「インテグレーション」という言葉が使われてきた.しかし,インテグレーションの理念によって遂行される機会均等は,障害を持つ人々に対する必要な援助を考慮せず形の上での平等を目指していたことが批判され,現在ではインクルージョン(=包み込み)という言葉がより積極的な個別の援助を前提にした統合教育理念を言い表す語として使われるようになってきている(石渡[1997:73-75]). *9日本人類遺伝学会が,優生保護法の改正に当たり厚生大臣に学会理事会声明として要望書を提出している.要望書は,現在急速に広まりつつある出生前診断技術,特に母体血清マーカーテスト(TMテスト)に対応する法的な適用基準が必要であるとし,「優生思想の排除のみでなく,生命倫理の立場から見た先端医療技術の適用基準の設定であり,その法的な対応(日本人類遺伝学会[1998])」の必要性を述べている.その後,DPI女性ネットワーク(第三章一節2.3)は,同学会に「胎児条項導入に反対する意見書」を提出している.それに対する学会理事長からの返答では,「「胎児条項反対」と唱えるだけでは何事も起きません,TMテストによる妊婦の集団スクリーニングが全国に広がり結果的に経済条項によるという理由で,ダウン症などの中絶が急増する(中込[1998:3])」とし,TMテストが非常に広まってきていることを考えれば,「胎児条項がらみ」の議論も含めて,法的な基準を作ることが必要であることを述べている(中込[ibid]).この返答によれば,同学会が胎児条項導入をすすめているとは言えない.  DPI女性ネットワークも同学会(理事長)も出生前診断技術の非常な「進歩」とその広まり自体を問題化しなければならないというのは共通の認識だといえる. *10厚生科学審議会先端医療技術評価部会で,現在審議がなされている.出生前診断については,1998年12月に行われた同部会・出生前診断に関する専門家委員会で「母体血清マーカー検査の存在を積極的に妊婦に知らせる必要はない」また「妊婦が希望する場合,検査前,検査後に障害を持つ子とその親の生活,社会支援のケア情報,確率の読み方などについての十分な説明とカウンセリング体制を整える」必要があることを提起した.  審議会が開いた公聴会では,青い芝などの団体から意見書が提出されている.(先端医療技術評価部会平成10年4月24日資料および,同部会・出生前診断に関する専門家委員会平成10年10月23日:厚生省HPによる同審議会の概要を参照した.) *11日本における優生政策の歴史研究をする松原は,次のようにのべている.「「優生思想を正当化する法律の撤廃」は障害者運動体や市民団体が長年目指していた目標であり,これがようやく実現を見たことは歓迎すべき画期的な事件であった.しかしスピード決着が優先されまともな審議が行われなかったため,強制不妊手術をはじめとする優生保護法下での人権侵害や,「国連(人権委員会)にでも持ち出されたらどうしようもない」(衛籐氏)程の反人権的な優生条項を放置してきた国の責任が国会の場で問われることはなかった.優生政策の批判的総括を欠いたまま,優生保護法は忽然と姿を消したのである.(松原[1997:8])」 また,それに関連して「強制不妊手術に対する謝罪を求める会」が,1997年に発足し謝罪要求活動を展開している.現在これに対する国の見解は示されていない. *12障害を持つ人々の手で運営され,自立生活をサポートするための介助者派遣や生活情報を伝える非営利組織.第三章一節5.2及び二節で詳しく取り上げる. *13ピア・カウンセリングの「ピア」は仲間同士を意味する言葉で自立生活センターの中で行われている障害を持つ人同士の「聴き合い」=カウンセリングを意味する.第三章二節,三節で詳しく取り上げる. 第一章 ライフヒストリーからストーリーズへ  方法論としてのライフヒストリーに注目するとき,以下の文章は何を指し示すものとして読み解くことができるだろうか. 「ライフヒストリーを語るには様々な障害もある.それは第一に,語ること自体への恐れと抜き差しならぬ抵抗感だった.これまで語る相手を見出すことができずに心の奥深くに押し込めてきた経験.どうしてそんな過去のいやな経験をもう一度あらためて人前で吐露しなければならないのか,と語った者もいた.私たちにとってライフヒストリーを語ることは,過去の心理的な外傷や悲痛な経験を,再度それも「他人」の前であからさまに体験しなおすことでもあったのだ.(キース・ヴィンセント他[1997:188])」  この文章は,スティグマを付与されてきた人々の経験がおかれている位置とそれがいかにして語れ出されるものとなるのかを問いかけている.また「語り」には,それが「語り出される」以前の「沈黙」が存在することを示している.「語ること」を対象とすることは,一方で「口を閉ざすこと」を対象にすることである*1.  これらの問いを念頭に置きながら,この章では従来のライフヒストリー方法論が語りをどのようなものと位置づけてきたのかを中心にその系譜をたどる.  第一節 方法としての個人への注目  ライフヒストリー法とは,調査者が調査対象者の個人史などを聞くことを通して得た第一次資料をもとに社会を描き出す方法である*2.以下では,個人の記録や生活史に焦点を当てたライフヒストリー論の系譜をたどる.  1.個人に注目した研究の流れ  社会学では個人の生活史に焦点を当てた研究の起点として,トーマスとズナニエツキによる『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』(1918-20)がある.これは,個人的記録としての手紙や実際にあるポーランド農民に書かせた自伝/生活記録を用いることで,個人と時代との関わりを映し出した研究である*3.この研究の出現によって,個人の生活記録が社会学の研究対象となることが示された.  その後,シカゴ学派による都市生活者を対象者にした都市民族誌とよばれるライフヒストリー法を用いた研究が1920年代から30年代にかけて盛んに行われてきた.しかし,これらの研究は資料の代表性や一般化がいかにして可能かという問題や分析や解釈の妥当性をめぐる問題などさまざまな批判にさらされてきた(桜井[1982],水野[1986]).それらの批判に対して,個人的な生活記録を用いてきた研究者の側がより「客観的」で一般化が可能なマクロデータを用いた方法の必要性を認めてきた経緯もあった.  社会学でのライフヒストリーや個人記録の活用は,主に社会の周縁に位置しマクロデータでは得ることのできないとされた人々やその集団に対するアプローチの方法として活用されてきた.しかし,それらの研究は,マクロデータによる「より客観的な」調査研究の有意性を認めており,その補完的役割を果たし得る方法としてライフヒストリーや個人記録の活用を位置づけるにとどまってきた.このことは,二節以下で示すようにライフヒストリー法で現在もなお続く議論の一端を示している.  桜井は,ズナニエツキやそれに続くシカゴ学派が生活史や個人的記録へ大きな関心をよせた1920年頃から1945年頃までを生活史法の第一期,その後生活史法に対する批判やパーソンズの構造=機能主義が主流を占めるようになった1945年頃から1960年頃までを生活史法の衰退期=第二期,1960年代半ばから現在に至る時期を第三期と捉える(桜井[1982:250-253]).第三期は象徴的相互作用論や現象学的社会学,エスノメソドロジーが脚光を浴び,再び生活史法が復興してきた時期である.また生活史の復興は社会学に限られたことではない.佐藤(郁)はこの時期を社会科学全般でフィールド調査がブームになったという意味で「フィールドワーク・ルネッサンス」とし,その背景として「実証主義に対する異議申し立てや異文化研究の再評価,解釈学的アプローチの台頭」などがあるとする(佐藤[1992:22-27]).1970年代において生活史やフィールドワークに基づく研究が社会科学全般で再興してきたとされる背景にあるのは,「新しい社会運動」といわれる地域主義,エコロジー,性差別などに対する運動の広まりを上げることができる.また,「新しい社会運動」の出現と個人への注目とが相互作用的に関連していたとも考えられる.  現在ライフヒストリー法は,どのような視点からあらためて意義づけられてきたのだろうか.  桜井は「生活史研究の課題」(1983)の中で,生活史研究(=ライフヒストリー研究)の意義として3つの要素をあげる.第一に個人が有する主観的現実,内的経験に焦点を当てること.第二に日常生活経験の混乱や矛盾や曖昧さを性急な一般化を行わずに記述し,その生活過程を把握すること.また第三に社会的,歴史的な状況と個人の経験との相互作用過程を把握する全体性の視点である(桜井[1983:260ー262]).  第一点目の「主観的現実」についてプラマーは「生活史の調査で重要なことは,小細工を弄して事実から真相なるものを引き出そうとするナィーヴな妄想にとらわれることではなく,可能な限り充分に,被調査者の本人の主体としての見方を引き出す方向に導くことである.社会科学の大部分は「客観的なもの」を得ようと努める.しかし生活史研究は,他でもなく主観的なものの領域を明らかにしようとするのだ.(プラマー[1983=1991:24])」と述べる.ここでは主観的な現実の領域が社会という抽象的な概念に対峙する概念として提示されている.これは主観的領域を,いかにして明らかにするのかというそれ以後続くライフヒストリーをめぐる議論の出発点を示している.  これまでのライフヒストリー研究の対象となってきたのは「マイノリティ,逸脱者,下層社会生活者,女性などの経験に基づいているものが多いという傾向(桜井[1996:214])」を示していた.このような傾向は,この方法論が「これまでの社会科学においては実証主義的傾向が強く,そのため社会についての抽象的な知識からこうした人びとの社会生活における経験的な知識が相対的に排除され,それがむしろ彼らの従属性を維持するのに力を貸してきたという批判(桜井[1996:214])」を示していることを意味する.しかし,マイノリティとされる人々の語りがどのような過程を経て語り出され得るものとなるのか,またそこでの語りをどのようなものとして扱うのかについては,第二節以降で見る問題を含んでいる.またこのことは第三節で見るフェミニズムから提起された問題でもある.  次に,日本の社会学において最初に個人のライフヒストリーの研究事例を提出した中野卓による『口述の生活史』の意義を取り出しながら,この方法論の現在の方向性を見ていく.   2.『口述の生活史』が持った二つの意味  日本の社会学におけるライフヒストリー法の画期的な作品とされる中野卓の『口述の生活史 在る女の愛と呪いの日本近代』(1977)は,少なくとも二つの大きな意味を持っている.  第一に,「社会的存在であるよりほかに在りようのない人間の,個性ぬきでは考ええない個人の解明(水野[1986:184]←中野[1981b:237])」を明示し,研究対象をそれまでの「社会集団」のモノグラフ的研究から「個人」を焦点にあてた研究の可能性へと導いた点である*4.  それまでにも「社会的存在としての個人」という捉え方は存在していた.しかしそれまでの方法では,個人の経験を農村などの「社会集団」との関係でのみ捉え,社会集団と社会との関係を捉えようとするものだった(中野[1981a:3]).中野は「個々人は例外なく個性ありまた自立した存在であるのに拘わらず,社会学的な研究では,多くはせいぜい,ある特定社会,また社会集団,あるいは特定の層を構成する諸個人を一束ねにしてその社会的性格を論ずるとか,性別・年齢層別とか,職業別,階級ないし階層別とかの類型ごとに一束ねにして扱わなければ社会学にはなりかねるかのように思い込みがちでした.(中野[1981a:3])」とし,社会集団と同様に個人に注目する研究が意義を持つことを明らかにした.「個人とは例外なく個性あり,自立した存在である」という視点が個人を社会学の調査対象に位置づける起点となった.  つまりこれは「個人を,彼が置かれている状況において,広くは彼の生きている全体的現実において把え,すなわち社会によって規定されながら逆に社会を規定している存在として個人を把える社会学的研究(中野[1981:4])」の重要性から試みられた研究だった.ここで中野が用いる「全体的現実」というのは,このテクストの意義の第二点目と関連している.  第二点目はこれが,「現実=リアリティ」認識の多層性を描き出したという点である.大出は,『口述の生活史』は「個人の生き方や重要な判断の基礎を支えている内的世界の話者自身の開示を奇妙な聞き流すべき話しとしてではなく作品化し,そうした世界の存在を明示的に取り上げたことがより画期的だった.(大出[1995:98])」という.つまり,大出は個々人の持つリアリティの多元性を描き出したという点で中野を評価している.大出のいう「内的世界」とは,具体的にはテクストの中で語り手の内海松代が語る「宗教的体験」とでもよべるお稲荷さんにまつわる話しや情婦の呪いに関する話しを指している.大出は,このような被調査者の内的世界の聞き取りを可能にしたのは語り手が卓越した話術をもった人であったことに加えて,調査者である中野が話者との「信頼関係」を築き上げ,「話者の語りたいことを聞く姿勢に徹した(大出[1995:105])」ことにあるとしている.  以下で,上述した意義と現在の議論への続きを見ていこう.   3.「フィールドとしての個人」:社会的な存在としての個人  中野の示した「社会的存在としての個人」という言葉は「フィールドとしての個人(佐藤[1992:15])」という概念に置き換えることでより理解しやすくなる.「フィールドとしての個人」とは,<個人>が社会集団やある特定の地域といういわゆる「フィールド」と同じ意味で成り立つことを示している.なぜなら「社会」と同様に個人というフィールドも「社会や規範=秩序」が複雑に集積し,それによって多元的に構成されているものだからである(佐藤[1992:19]).「フィールドとしての個人」は,調査対象としての個人への注目を促し具体的な個人の「生」のなかで重層的に生きられ経験された社会を個人の語りに沿って記述することの意義を提示する.  しかし調査方法論でライフヒストリー法は実証主義的方法論をとる研究者から,量的調査の客観性/質的調査の主観性を提示された上でその主観性を批判されるものだった*5.また,「1950年代以来の「統計的研究法」対「事例研究法」といった,わが国の社会調査論でしばしばくり返される対立(佐藤[1995:16])」も存在し常にその方向性を問われてきた.一般に「量的調査」とされる方法論からライフヒストリー法論へ提出されてきた批判や疑問として,第一に調査対象者選定における調査者の恣意性,つまり調査対象者の非代表性に関するものがある.また第二に,資料の一般化がいかにして可能なのかという問題がある.  それに対して,ライフヒストリー法は第一に性急な一般化がもたらす抽象的なものとして社会を捉える研究が,その中に生きる抽象的なものではありえない個人を捉え損なうことを示してきた.また,先に示した「フィールドとしての個人」という概念は,個人が常に社会の「代表」として存在しうることを明らかにした.第二に「量的調査」が有する恣意性を指摘し,両者を恣意性において分けることができないことを指摘した.  しかし,ライフヒストリー方法論が提示するフィールドとしての個人が有する主観的現実やそこで見出された語りは,これまで事実との整合性や語りの真実性において意味を持つとされてきた.そのことを批判的に検討するために,次に,この方法がその対象とする<語り>が,どのようなものとして扱われ,どのような意義を持つものとして位置づけられてきたのかを見ていこう.  第二節 相互行為としてのライフヒストリー:ストーリー論の展開  ライフヒストリーは,<個人というフィールド>へ調査者が入り込み,聞き取りをする過程で生まれる.口述記録を集めることは,それ以外の個人的生活のドキュメントを集めることとは別の位相を持っている.なぜならそこには聞き手と語り手の双方がいて,その双方の「語り」があってはじめて対象化されうるテクストが作り出されるからである.  その意味で,ライフヒストリーは調査者−調査対象者の「関係性」を含んだ作品である.現在のライフヒストリー論で,<語り>が調査者−被調査者の相互行為が生み出した作品であるという見方は,共通の認識になっている.小林による次の言及もその状況を明らかにする.「対面的な相互作用で生まれるライフヒストリーは語り手と聞き手の関係性を包含しており,そのライフヒストリーを考えるときに,この関係性の把握が前提となる(小林[1992:432])」.  その上でこの関係性の問題は,主に「いかにして深い話しを聞き取ることができるか」という方向から調査者と被調査者の議論を重ねてきた.   1.語りの真実性  調査者と被調査者の相互作用についての論考で多く見られるのは,調査者と調査対象者の間の「親密な関係」をいかにして作り出すかといういわゆる「ラポール(Rapport)」めぐるものだった.ラポールとは,調査者と調査対象者の親密な結びつきや信頼関係のことを指す.調査方法論では,ラポールを成立させることが調査を成功させるための重要な要素となることが説かれてきた.つまり,調査者が聞き取り調査をする対象と「いかに親密な関係を作ることができるか」,また調査対象の集団の中に「いかにとけ込むことができるか」が,調査上の大きな課題とされてきたのである.  人類学のフィールドワークを主な対象とするラングネス,フランクは,『ライフヒストリー研究入門』(1981)のなかで,ラポールを確立することの重要性について,「人類学のフィールドワークとライフヒストリーを取ることの成功の鍵は,ラポールにある.おそらくフィールドワーカーやフィールドワーク状況,インタビューされる個人の数と同じだけの問題がラポールの確立の問題にもある(ラングネス,フランク[1981=1993:46])」とし,ラポールがいかに重要なものであるかを説く.尾嶋(新社会学辞典[1993:1463])による次の見解もある。「面接調査を行う場合、調査が客観的であることは重要だが、それをあまり強く意識しずぎて機械的に接し、相手に嫌がられたり、相手が非協力的になってしまうと、得られた結果は逆に客観性を持たなくなるおそれがある。したがって、正確なデータを収集するためには、調査員と被調査者の間に一定の友好な関係を成立させ、調査を円滑に行うことが必要となる。両者の間に結ばれるこの友好関係をラポールとよぶ、ラポールも過度になるとバイアスの原因となる」.この見解はラポールが「正確なデータ」を得るために行われるものとして重要である方向を明らかにする*6。  ラポールが問題にされてきたのは,調査者によって聞き取れる<語りの内容>に非常なばらつきが見られることや,それがその「浅さ」や「深さ」と関係していたからである.小林は,調査者と被調査者の<親密さ>とライフヒストリーの<深さ>の関係について「親密さ」が増すにつれライフヒストリーに「深さ」が増すことを述べ「あいづち」などによる調査者−被調査者のラポールの重要性をあらためて認識する必要があるとする*7*8.また,佐藤(郁)のいう「『一歩距離を置いた関与』あるいは『客観性を失わないラポール』(佐藤[1992:145])」が,調査をする場合に重要であるという指摘もある*9.  ラポールを成立させることの重要性を説く多くの調査法は,それを成立させることによって「より正確で」「深い語り」を得ることができるということを提示してきた.つまりラポールに関する記述は「より正確で,真実に近い語りをいかにして生み出すか」という問いに答えることを前提にして成立していた.またこのことは,ライフヒストリーが資料の整合性や客観性を高めることに重要性を見いだしてきた事実と無関係ではない.  これまでライフヒストリー研究では,「口述資料の代表性や事実の確認や検証という客観性をめぐる議論が頻繁になされ,それを充足しようとする研究(桜井[1995:223])」が提示されてきた.つまり,事実との整合性においてライフヒストリーは意味を持つことができるとされてきた.  ライフヒストリーとライフストーリーの相違に言及し,ライフヒストリーの信憑性について研究者は常に慎重でなければならないとする中野は,「現実に『生きられた生において経験したこと』について語っているのかどうかの信憑性」の有無には注意を払う必要があり,「生の経験の語りと作り話との区別を軽視してはライフヒストリーはなりたたない(中野[1995:204])」という.中野は,個別のライフヒストリーが持つ「歴史認識の再新」を標榜する立場から,「『そのとき経験された生』と『後になって回想された経験』の間のズレには注意すべきである」としながらも,「それが架空の生についての想像にもとづく語りではなくて『生きられた生』についての経験,それを回想して語っているのでなければ,ライフストーリーをライフヒストリーに仕立て上げることは不可能であろう.(中野[1995:205])」という.  また,経験と語りのズレについて「強く印象付けられた出来事の直接体験の記憶は忘却をまぬがれて正確に保持される(中野[1995:203])」とし,「『生きられた生』は経験されることによって本人の現実となる.まず,『生きられた生』をその時点で認知するとき感情が湧き起こり意味付与がなされ,それがのちまで,記憶される(中野[1995:205])」という.つまり,ここではあくまでも「実際に起こったこと」と「語り」のズレを取り除きいかに「正確な経験」を聞き取ることができるかが問題とされている.  先に示したラポールの必要性をいう調査法がその前提とした「いかに正確で真実に近い語りを聞くことができるか」という問いと,「ライフヒストリーを歴史的事実として把握しようとすること」は,次の点でつながっている.第一に,それが語りを過去や現在のある社会状況を分析/研究するための手段であると位置づけているということ.また第二に,社会状況を分析するためにできるだけ「正確な語り」を収集することが大切であるとすること.つまりこれらに共通するのは「正確な語り」が存在するという前提である.  しかし,<語り>を対象とする研究は,その内容の分析をすることだけでなく,<語り>が生み出されるに至る状況や<語り>が果たす社会的な役割に注目する必要がある.そして,このことは社会を描き出すための「より真実に近い語り」が存在するとしてきた従来のライフヒストリー法への批判としても成立する.以下でその批判を明確にしていこう.   2.構成される語り  先にも示したように,これまでのライフヒストリー法は聞き取りの「内容」を重視してきた.つまり,これまでライフヒストリー方法論では<ディスコース内容の次元>を重視した上での<関係性の次元>(桜井[1992:48])を主題としてきた.関係性の次元の問題は,正確な語りを収集するためにはどのような関係を対象者との間に作るのがよいかという調査者の態度の問題に絞られてきた.  しかし,関係性の次元に注目することは,もう一方でライフヒストリーがその対象とする語りの性質への注目を促す.  桜井は,ライフヒストリーが置かれている「語りの層」の特性について,E.ブルナーをひき<生=life>を<暮らしとしての生><経験としての生><語りとしての生>という三つの層として取り出す(桜井[1995:231]←Bruner[1984:7])*10.第一の<暮らしとしての生>とは,外的な行動の現れとして「現実」に起こっていることをさす.第二の<経験としての生>とは,個人によって経験され把握される現実をさす.また第三の<語りとしての生>とは,ライフヒストリーとして現れる個人の生の経験であり,語る現在における過去の再構成を意味する(桜井[1995:231-232]).  ライフヒストリーがその対象とするのは「語りとしての生」である.「暮らしとしての生」は,語る現在において話者が再構成した「語りとしての生」として聞き手の前に現れる.つまり聞き手は,話者がどのように「暮らしとしての生」を語るのか「どのように語る現在において過去を再構成するのか」を対象にすることしかできないのである.  バーガーは,過去の出来事の想起について,次の言及を行っている.「少なくともわれわれの意識の内部においては,過去は順応性にとみ柔軟性に満ちている.すでに起こった出来事を回想し,再解釈し,説明し直すたびに,過去は絶えず変化してゆく.それゆえ,われわれは物の見方と同じ数だけの人生を持つわけである.(中略)われわれも自己の生活史を常に再解釈し続けているのである(バーガー[1963=1979:85])」.ここに見られるのは,過去は<事実>として語り手にとって自明なものとして存在するのではなく語りを通して常に変化し生成されていくものであるという視点である.  これは,先に見た「より真実に近い語り」を見いだそうとする視点とは異なる.そればかりか,語りを研究対象とする方法が<ディスコース内容の次元>に注視してきたことの問題点をも明らかする.なぜなら,ライフヒストリー調査がその前提としていた「正確な語り」やそれによって聞き取ることのできるとされた「ただ一つの事実」というものは存在しえないからだ.過去の経験は語りの中で絶えず変化していく.つまり語りを対象とする研究はいかにして過去が語る現在に置いて再構成されたのかという<語りが構成される過程>にこそ注視すべきなのである.  しかし,このことは語りがフィクションである(事実ではない)という主張ではない.これは,過去の経験がそれを経験した人の意味づけによって,様々に変化することを意味する.また,過去の経験は人々に認識されることによって成立するということを指す.つまりこのことは「客観的事実」としての経験が存在するのではないことを意味している.  さらに<語り>が過去を対象とするものであると同時に,現在を対象とするものである以上,過去だけではなく現在の経験もそれを意味づける人によって様々な経験として存在しているといえるだろう.つまり,先に見た<暮らしとしての生>や<経験としての生>が,<語りとしての生>と独立して存在するとはいい切れない.これは語りを3つの層に分けて説明した桜井自身も認めるところである(桜井[ibid:231]).つまり,<暮らしとしての生><経験としての生>それ自体も,それを経験する人に意味づけられてはじめて出現するものなのである.過去だけでなく現在が,経験のせめぎあいにおいて構成されているものであると考えることができる.  社会は様々な語りとそれによって作られていく経験によって成立している.このことは,先にも示したように語りを対象とする研究がそれまで前提としていた「正確な語り」や「正確な事実」というものが存在しないことを明らかにする.このことは語りを対象とする研究を,語りの内容の正確さや過去(や現在)の事実を知るための研究から,いかにして過去や現在の経験を人々は作り出していくのかに焦点を当てる研究へと移行させる.  しかし,現実や経験が語りによって作られているといってしまうと,ある語りと別の語りの間に存在する力関係や,ある語りが社会の中で不可視化されている状況を問題化する視点を落としてしまう.そこで,次に語りとそれによって生み出される現実=経験が社会の権力構造の中に位置することを確認していこう.   3.経験のせめぎあい  日本軍による「従軍慰安婦」問題を元「慰安婦」の証言=語りの問題として取り上げた上野は「少し前まで多くの元『慰安婦』の女性たちは,自分の経験を『わが身の恥』と捉え,記憶の淵に沈めてきた.彼女たちは過去に蓋をし,最も身近な家族にさえ,それを明かさずにきた.その過去を,彼女たちは『被害』として公然と再定義した.(上野[1998:171])」とし,その契機として80年代の韓国の民主化運動と女性運動による歴史認識のパラダイム転換があったことをあげている*11.このことは,支配的な現実や支配的な言説に抵抗する場:コミュニティによって生み出された歴史認識の転換が,過去を別なものとして書き換えることを可能にする契機を語り手に与えたことを意味している.また,過去はそのようにして書き換えられていくものであることを明らかにする.  上野は,「歴史に「事実fact」も「真実truth」もない,ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実reality」だけがある(上野[1998:12])」とし,「ある「事実」の背後にあってそれと対抗する「もう一つの現実」を発掘するものは,それを構成する視角にほかならない(上野[1998:13])」という*12.このことは,元「慰安婦」の女性たちの語りに限らず「証言」を事実との整合性において取り上げようとする歴史家(や社会学者)に対する批判である.つまり「権力関係が非対称なところでは,強者の『現実』が支配的な現実となって,少数者に『状況の定義』を強制する.それに逆らって支配的な現実を覆すような『もうひとつの現実』を生み出すのは,弱者にとってそれ自体が闘いであり,支配的な現実によって否認された自己をとり戻す実践である(上野[1998:174])」というのだ.  このことは語りやそれによって生み出された経験=もう一つの現実を対象とするためには,被差別状況に置かれてきた人々の語りがどのような契機によって再構成され得るのかに注目する必要性を明らかにする.これは,第四節で見るコミュニティに注目することの意義と関連する.  同様の言及はライフヒストリーとして表出する自己像を「ただ一つの事実」として捉えることを批判するゲイ・スタディーズの中にも見ることができる.  「ライフヒストリーをその人のうちに内在する,確固たるものとして捉えることはできない.(ライフヒストリーを語るということは)内面化された同性愛嫌悪や,異性愛社会において擦り込まれてきた物語と意識的に向き合い,その価値観を本来の自分に引き受ける永遠のプロセスなのだ.(キース・ヴィンセント他[1997:198-199])」  このことはマイノリティとされる人々の現実が,それを書き直す闘いを経ることによってはじめて社会に表出するものであることを意味する.また,彼らが過去を書き直す過程で生まれるコミュニティが果たす社会的な役割を検討する必要があることを明らかにする.語りによって構成された現実は,現実が固定的なものではなく,社会の権力構造の中での意味のせめぎあいによって生み出されるものであることを明らかにする.  くり返すが,それは単に複数の語りが社会を構成しているということを意味するのではない.それは経験や現実に対する意味が,社会の権力関係のなかで「せめぎあっている」ことを示しているのである.その意味でも語りを対象とする研究は,語りが置かれている社会的な位置や社会的な役割にこそ目を向けるべきだということができるだろう.これは第四節のコミュニティとの関連で再度検討する.  次に,ライフヒストリー論とは別な視点で「語りの真実性」にたいする批判を投じたフェミニスト・エスノグラフィの成立とその議論をおってみよう.  第三節 フェミニスト・エスノグラフィの方向性  上述した歴史認識や社会調査における調査者−被調査者の搾取的関係やそのジェンダー関係について批判的な考察を行ってきたのが,以下で見るフェミニスト・エスノグラフィである.以下では,その成立過程と現在の問題点を示しその課題を明らかにする.   1.フェミニスト・エスノグラフィの方法  フェミニスト・エスノグラフィとは「フェミニスト研究者がフィールドワークという体験(中略)にもとづき対象を分析,記述して行く過程および方法(春日[1995:169])」を指す.  この方法は「価値中立的で客観的とみなされてきた実証主義の社会認識が,その基底に,男性中心社会の先験的知をおいて成り立っているという事実(春日[ibid:170])」を明らかにする.また従来の実証主義的研究が「人々に共有される価値や規範などの客観的側面を重視するあまり,社会が生成,再編されているという別の側面の分析をおざなりにしてきた(春日[ibid:170])」ことを批判し,社会の中に生きる個々人が価値や規範を操作し,再定義する能動的主体であること提示する.  フェミニスト・エスノグラフィはこれまでのフィールドワークに基づく調査が何を調査するのか,誰に聞くのか,また誰が聞くのか(調査者は男性か女性か),そこがどのような場かという調査の前段階や<聞き取りの場>における権力関係に無自覚であったことを批判する.その上でこの方法は,これまであまり研究対象とされなかった女性の生活領域を女性の視点から扱うことを出発点とした.対象者は主に女性で,それまで男性の視点からしか扱われてこなかった女性自身の声を女性の視点から明らかにすることが目的とされた.このことは,これまで「語られ分析される対象」だった女性を「語り分析する主体」へ移行させることを意味した.  桜井も指摘するように、これまでのライフヒストリー研究が必ずしも女性を研究対象としてこなかったとはいえない。そのようにいえないばかりではなく、これまでの研究対象が調査する男性と調査される女性という二項を,現行のジェンダー関係に基づいて設定してきたことが指摘されている*13。  「調査者と被調査者の対比は、不思議なことに、そのままこれまでの男女のジェンダーのステレオタイプ、すなわち男性は客観的、合理的、そして他者との関係において手段的であり、女性は感覚的、情緒的、そして個人的な関係が中心という対比において対応している。(中略)これまでのインタビューの考え方には、調査者が男性で被調査者が女性であるというジェンダー特性が無意識のうちに反映していたとも考えられるのである。(中略)社会学は女性の観点から社会調査の社会的相互作用を見ていないという点で社会を忠実に反映していたのである。(桜井[1996:216-217])」.  このことは,従来の(実証主義的な)調査研究が,女性を「分析する対象」と位置づけてきたことを意味する.  フェミニスト・エスノグラフィは,これまでの女性に対する研究が「男性の視点による女性の調査研究」でしかなかったことを明らかにし「女性による女性の調査研究」の必要性を認識した.また,これは先に見た桜井の指摘からも明らかなように男性の視点による女性の調査研究が,女性を分析される(受動的な)対象と位置づけることでジェンダーによる知(男性=分析者,女性=受身な調査対象)を再生産していることに対する批判をも意味していた.   2.「女=私たち」への問い  「男性の視点による女性の調査研究」が女性を搾取してきたとしたフェミニスト・エスノグラフィは「女性による女性の調査研究」の必要性を挙げた.このことは「女性による女性の調査研究」が非搾取的な調査であることを前提としていた.またその理由として女性研究者は「感情移入性(エンパシー)」「関係性への配慮」「直観力」という,「女性」特有の互恵的な関係性をつくる能力を有し,調査/被調査者という二元論的枠組みを越えその間に非搾取的な関係をつくることができるというという主張だった.  しかしフェミニズムの歴史と同様に,80年代になってこの調査法とそれが前提とした倫理は,マイノリティー女性をはじめとする様々な女性からその白人中産階級中心主義的側面や異性愛,健常者中心主義的側面の批判を受けてきた.  批判は第一に,調査法が前提としていた女性の感情移入性や関係性への配慮が「生物学的基盤論(ニコルソン[1995])」に基づいたジェンダーによる知の再生産に他ならないというものだった.また第二に,女性という当事者性の強調によって女性の立場を一枚岩的なものに還元し,その中の差異を無化してしまうことへの批判だった.このことは研究者がインフォーマントとの関係を対等なものにすることに力点を置き,その立場性を無化してしまうことが,解釈や編集における権力作用をあいまいにし,より見えにくい搾取をしかねない問題として顕在化した(Stacy[1991]).フェミニスト・エスノグラフィは以上の批判により,その根本的基盤を問われることになった.果たして,フェミニスト・エスノグラフィーは成立しうるのか?(Stacy[1991])と.  生物学的基盤論,女性を一枚岩で捉えてしまう事の問題性など80年代から始まったフェミニスト・エスノグラフィへの新たな課題は,ジェンダー理論,女性史の分野などでも同様に浮上してきたさけて通れない課題であることは確かだった(荻野[1997]).しかしこの方法が調査/調査対象者としてきた「女性」というカテゴリー自体が,現時点で無効になってしまったとはいえない.春日はそれに対して,この方法論に現時点で必要なのは「女性内部にも存在する不平等性を認識した上で,なおかつ,女性を男性社会の従属者としてとどめる権力作用をどのような方法によって明らかにしうるのか(春日1997:178)」という問いを提起した.また,搾取的な関係に抵抗するには,それを無化しようとするのではなく,それを常に顕在化させる必要があることも明らかにされた.   3.フェミニスト・エスノグラフィの転換:コミュニティへの注目  その上で,この方法は「生物学的基盤論」に陥りかねないと批判されてきた女性の「感情移入性(エンパシー)」を強調する方法を取り下げ,「いかにして調査対象者の声を調査対象者の解釈によって」聞き取ることができるかを問い直してきた.そこで次に注目したのがインフォーマントの生活経験をインフォーマントの解釈によって聞き取る事のできる場/コミュニティを調査対象に据える方向だった*14.  そのような場として春日があげているのがセルフヘルプグループの存在である.春日は「自助グループのようなコミュニタス的空間においてなされる対話とは,社会の“境界”にあって,最も鋭敏化された自己感覚でもって,自己の経験を支配的社会が行使してくる力との関わりから読みとこうとする集団的いとなみにほかならない.したがって,自助グループに限らず,コミュニタス的性格を持つ社会集団を多数うみ出しているのが現代という時代であるとすれば,こうした社会的性格を持つ組織集団を見いだして,そこでの対話を記録することによって,支配的集団の視点からネガの形で解釈されたものではない,社会の周縁に置かれた人に生の現実に根ざす声から社会を読み解く道が私たちに開かれてくる(春日[1997:186])」という.  ここで注目すべきことは,春日が調査対象者の語る「経験」が,社会の支配的な現実に対峙する場によって「生み出されるものである」と捉えている点である.その意味で,この方法はインフォーマントの語る「経験や現実」を,それまでの「非搾取的な関係を作ることによって取り出すことのできるもの」から,コミュニティを経て「作り出されるもの」へ位置づける方向へと展開した.つまり,この方法が(第二節で述べた方向と同じように),それまでの<ディスコース内容>を重視し,<真実の語り(本当の声)>を得ることを目的としていた方向から,<コミュニティの中で生み出される経験>や<語りが生み出されるプロセス>に注目する方向へと大きく転換したことを意味している.  このことは,次の文章の中でも読みとることができる. 「自助グループでの体験談とは,人生上のさまざまな転機,すなわち離死別や疾病や,障害を持つことやその他のマイノリティとしての受苦体験などによって,それ以前には自明なものとして受け入れていた生の現実が揺らいだ人たちが,新たに踏み込んだ異次元の現実に即して,過去の世界を相対化し,現在の状況に即した新しい意味の構築を他者(同類)との対話によって,すなわち世界の読みとき(解釈)をするいとなみにほかならない(春日[1997:186-187])」とする.ここに見られるのは,マイノリティとされる人々は支配的な現実に抵抗することによって現実を作り替えていくのだとする視点である.このことは,語りや現実がある自明なものとして存在するのではなく社会の権力構造の中でせめぎあっているという認識を示している.  しかしコミュニティでの語りを対象とする時,研究者はどのようにそれを聞き取ることができるのかという問題点はのこっている.なぜなら調査者はコミュニティを形成する当のメンバーではなく,外部からの侵入者であることは変わりないからである.このことは語りを対象とする限り常に存在する問題である.もし,この方法が,そこに関わることの意義を「調査対象の<真実の声>を聞くことができることにある」としてしまえば,それはこの方法に対して問われた問いの振り出しに戻ってしまう.  あくまでも,この方向転換が示すのはセルフヘルプグループなどのコミュニティで語られる語りが,社会の権力関係の中でどのようなものとして作られ,どのような抵抗として成立しているのかという「語りをとりまく権力関係」への注目である.またそこで抵抗として語られたもう一つの現実の意味である.そして,それを見るためにセルフヘルプグループでの語りを聞くとすれば,やはりそこでの調査者と調査対象者の間の力関係もまた常にその分析対象としなければならないのである.  第四節 ライフヒストリーが生み出される場  第二節,第三節でこれまでの調査方法論の展開の新しい問題として「コミュニティへの注目」を見た.ここでは,コミュニティへの注目の意義と「語り(ストーリーズ)の社会学」の方向性をさらに見てゆこう.   1.コミュニティへの注目  日本におけるライフヒストリーは,調査対象としての「個人」を見いだしたことに画期的側面があったことはすでに述べた.このことは,それ以前の「社会集団」のみを「社会を分析するための調査対象」と位置づけてきた研究を批判していた.その批判を引き継ぐためには,ここから示すコミュニティが<フィールドとしての個人>の意義をあくまで保持することを示す必要がある.その点に留意しながらコミュニティに注目することの意義を記述していこう.  中野が述べているように,「人間は一生でその生活史の重大な転機となるような状況に幾度か直面するものであって,それらの状況をどのように受けとめ,どう対処したかは,その前後において,その人に重要な影響を与えた人々が存在し,それらの人々を含む状況の中で,自分が何者であるか,何であり得るかを,どう考えたかという結果(中野[1981:12])」を示している.この生活史の中の重要な転機とは,デンジンの言うエピファニー体験にあたるだろう.  エピファニー体験とは,「人びとが彼ら自身や彼らの人生設計に与える意味を根源的に変容し,形成する」ような人生経験のことを指す(Denzin[1989=1992:8]).デンジンは,人々が経験するそのようなエピファニー体験は,それを体験した個人を「公的な舞台へと押し出す(Denzin[1989=1992:15])」様な体験であるとする.  中野やデンジンが示す生活史の重要な転機は,個人が社会的存在であることに,自らの経験を通して象徴的に出会わざるを得ないような経験のことを指していた.そのような生活史の転機がどの人にも体験されることであるということは確かである.しかし,次のように問題を置き換えてみよう.どのような状況にある人が,より自分と社会との関連において自分自身を意識化してきたのか.その問いに答えるのが,マイノリティとされてきた人々の経験である.  マイノリティとされてきた人々は,その属性に付与された否定的な意味ゆえに「自分が何者であるのか」「何者であり得るのか」を常に問うことを要請されてきた人々である.なぜなら,「差別は人から非常な抑圧において価値あるアイデンティティを剥奪することにおいて成り立って(石川1996:172)」おり,価値を剥奪されてこなかったマジョリティとされる人々は,深刻なアイデンティティ問題,つまり(先に挙げた中野の)「自分は何者か」という問いに迫られたことがなく,既成の存在証明規範に依存することでのみ生きて行ける人々だからである.  もちろん,先にも示したように生活史の転機はどの人にも体験されるものである.しかしそれが単純に「どの人にも」体験されるものとしてではなく,社会の中でマイノリティとされる集団とマジョリティとされる集団との間で決定的な差を持っていることもまた事実である.このことは,ライフヒストリー法がこれまでもそうであったようにマイノリティとされる人々へ注目することの一つの意味とその理由の一つを明らかにする*15.  そのようにマイノリティとされてきた人々を対象としようとするときに出現するのが「コミュニティ」の存在である.また,デンジンのいうエピファニー経験を経た個人が経験を公的な問題であると位置づけ語り出すには,そのためのコミュニティの存在が不可欠であることもコミュニティに注目する意義である.特に,マイノリティとされ否定的な意味を付与されてきた個人の経験は,コミュニティという存在に支えられることによって,はじめて語り出され得るものなのである.  上述したようにコミュニティに注目する第一の意義は,これまで否定的なアイデンティティを付されてきた人々が,自らの肯定的なアイデンティティを獲得し,語り出すためにそれが必要だったということにある.それは,例えば次の二つの言及に見られる. 「私たちに同性愛者であることを口に出すことさえためらわせ,言葉を失わせてきたのは,自己に付与される否定的なスティグマのせいだ.ならばそれを一度留保する場を持たなければ「物語」は始まらない.(キース・ヴィンセント他[1997:201])」 「否定も揶揄もなく話を聞いてくれ,自己を受容してくれる「仲間(peer)」がいること.これによってもつれた糸がときほぐされるように徐々に自分の物語が語られていく.(中略)このような受容の経験の積み重ねによって,受容されなかった過去の経験が書き換えられていく.ライフヒストリーの中でも話すのがいちばん困難な「傷」の経験を語ることが可能になっていく.それは「恥」と「自分」の新しい関係だ.「傷」を恥じ,「恥」を披露しあって舐め合うのではなく,互いの「傷」の共通項を発見して「恥」の原因が自分にではなく「外部」にあることに思い至る.(キース・ヴィンセント他[1997:192])」  以上の言葉は,否定的な自己像を持たされてきた人々が「物語」を作るためには,そのために「安心して話せる場」が必要であることを意味する.つまり,そのような場としてコミュニティに注目することの意義があることが分かる.  また,このことはコミュニティに注目する第二点目の意義を示している.つまりコミュニティとは「経験」を書き換える場であるということだ.すでに第二節,第三節を通して示したようにこのことは,それまで<ディスコース内容の次元>を重視し<正確なの語りによる事実>が存在することを前提とした調査法を<語りが語り出されるプロセス>とそれがおかれてきた位置へと転換する方向とも合致する.  2.コミュニティと語りの相互補完性:ストーリーズの社会学  以上見てきた二つの意義に加えて,コミュニティが果たすもう一つの役割に注目しておこう.それが以下に見る語りとコミュニティの相互補完性に関するものである.  コミュニティと語りの相互補完性についての注目を促したのは,「ストーリー(ズ)の社会学」を提唱するプラマーである.プラマーは,『セクシュアル・ストーリーの時代 Telling Sexsual Stories』([1995=1998])のなかで,これまでのストーリーに関する研究がナラティブの構造や形式的な構造の分析を行うものに偏りすぎてきたことを批判し「ストーリーの社会的役割を調べることにもっと関心をよせるべき」だとする(プラマー[ibid:37]).つまり語りを対象とする研究は,「ストーリーが文化において果たす社会的作用(ストーリーの生み出され方,読まれ方,ストーリーがより広い社会的秩序のなかで果たす作用,ストーリーの変化の仕方,政治過程におけるストーリーの役割)」を研究対象にする必要があるというのがプラマーの提唱である(プラマー[ibid:37-38]).このような方向を持った研究をプラマーは「ストーリー(ズ)の社会学」と位置づける.  その上で,ストーリーのカムアウトに不可欠な要素の一つとしてプラマーがあげるのがコミュニティの存在である.コミュニティの存在と語りの関係について,プラマーは次の言及を行う.「カミングアウト,生き残り,回復のストーリーは,ストーリー・テリングの過程でコミュニティが果たす役割を明らかにする.ストーリーは,それに耳を傾けるコミュニティが必要であるが,コミュニティそれ自体もまた,ストーリー・テリングをとおして構築される.ストーリーはそのまわりに人々を集めるのである(プラマー[ibid:374])」.  先に示したようにマイノリティとされてきた人々はコミュニティがあることによって語り出すことが可能になる.同時にコミュニティは語りを通して作り替えられていくものでもある.つまりコミュニティとストーリーは相互補完的に存在するのである.このことは,コミュニティに注目することの別の側面を明らかにする.それはコミュニティが語りを増殖させていく場であるということだ.また,語りがコミュニティを増殖させていくものであることもその意味である.  つまり語りは,特にマイノリティとされてきた人々にとって「安心して語り合うことができるような場」において生み出されるものである.同時に,語りだした人がいたからこそコミュニティが成立した.コミュニティの中での語りは,コミュニティに属する人々の「私たち」の語りを生み出すと同時に,それまで自らの属性に付与されてきた否定的で画一的なイメージに抵抗し,マイノリティとされてきたものが決して単一のカテゴリーに収まらないものであることを明らかにする.それはコミュニティを通して現に多様な存在である人々に出会うことによって確認され得るものとなるのである.  その意味で,コミュニティは同質性(同じ経験をしたものであるからこそ語り合える)から始まり,後に「差異」を表出させる場として機能するようになる.そして,コミュニティを通して確認された「差異」こそが,彼/女らが社会的に作られた支配的な現実に抵抗するために語り出す契機となるのである. □小括  はじめにライフヒストリー法は調査対象としての「個人」を見いだした.ライフヒストリー方法論を提示する研究は,この方法に対して疑問としてこれまで提出されてきた「代表性を欠く」,対象の選び方が「恣意的」で「一般化」した社会の解読へ結びつけるのは不可能なのではないかという問いに答えてきた.その答えは,第一に,個人は社会の重層的で複雑なコンテクストのなかに存在する<フィールド>であるという意味で常に社会の代表性を有するということ.また第二に,研究する側の仮説や前提は個人に接しそこでの相互作用を通して常に作り替えられるものであるという意味でこれまでの仮説検証型調査法それ自体が持ってきた仮説の在り方に疑問を呈した.  その上で,これまでのライフヒストリー論では主に<ディスコース内容の次元>に重点を置き,いかに真実に近い深い語りが聞けるかということをラポールの成立の必要性などによって説明してきた.またそこで収集された資料を事実との整合性において価値在るものとしてきた.  しかし,それに対し語りとは語られる現在における過去の再構成であるとする論が提出された.語りを構成されるものとすることは「語りがフィクションであること」を意味しているのではなかった.このことは過去の経験や現実が,その経験を生きた人々にとって固定的なものとしてではなく,書き換えられていくものであることを明らかにした.さらに,経験と経験の間に存在する社会の権力構造への注目を促した.その過程で社会の中でマイノリティとされる人々の経験や現実がどのような過程で生み出されるのかという語りのプロセスに注視することの必要性が明らかになった.このことは,第三節で見たフェミニスト・エスノグラフィの方法論の変遷とも一致していた.  以上の問題は,語りを対象とする研究の問題を大きく転換した.つまり語りを対象とする研究は,それまでの<ディスコース内容>を重視し「正確な語り(事実)」が存在するとしていた方向から,語り(によって作られる現実)がせめぎあっている社会を対象とする方向へと転換したのである.また,このことは<語りが生み出されるプロセス>と<語りがおかれている社会の権力関係>,<語りがおかれている位置>に注目することを意味した.そうすることによってこの研究は,この章の始めにあげた「<沈黙>がどのように生成されているのか」をもその対象とすることになるのである.  そして過去が構成されるプロセスをより顕在化させる様な場としてコミュニティの存在がその視野に入った.しかし,これは<フィールドとしての個人>を保持する方向である.なぜならこれまでマイノリティとされ否定的イメージを付されてきた人々はコミュニティの存在によって,語り出すことが可能となるからである.またコミュニティはそこに参加する人々が,ある支配的な言説によって作られてきた現実に抵抗し,現実を書き換えていく場でもある.それは,これまでマイノリティとされ一つのカテゴリーに括られていた人々がコミュニティを通して,そこに集まる人々の差異に気づき,彼/女らを一つのカテゴリーで括る社会の支配的な現実に抵抗する語りを生み出すことを意味した.  つまり語りを対象とする研究は,このような様々な語りがせめぎあう状況とその中でこれまで否定的な意味づけをされ語ることが容易ではなかった人々が語り出す契機となったコミュニティの存在に注目することが必要となるのである.コミュニティの存在によって生まれる語りは,支配的な現実に抵抗する過程で絶えず変化しながら生み出されるものなのである.  第2章では,コミュニティの具体例の一つとしてセルフヘルプグループを取り上げその社会的な役割を検討する. --------------------------------------- *1「沈黙の社会学」という言葉は,プラマー著『セクシュアル・ストーリーの時代』を評した河口(1998)の次の言及による.「「語り」を考えることは,すなわち「沈黙」がいかにして生成されたのかと考えることでもある.「語り」は常に沈黙を伴っている.実は<ストーリーの社会学>は同時に<沈黙の社会学>なのかもしれない.(河口[1998:3])」 *2ライフヒストリー研究という用語は,これまで「生活史研究」や「生活記録法」など,多様な訳語があてられてきた.ここでは現在社会学の分野で定着しつつある(と思われる)「ライフヒストリー研究」という用語を用いる.また本論ではライフヒストリーに関する方法論を主な対象とし検討する. *3この研究は<自伝>的要素が強いもので,桜井によればこのような研究の出現は「西欧近代社会に個人の「私=自己」の強烈な自覚と対応して」成立したものだという(桜井[1983:256]). *4水野はこのテクストの意義を「調査対象上の革新」と「口述の生活史」を用いるという方法上の革新の二点であると捉え,これを生活史研究における一大事件であるとする(水野[1986:184]). *5現在では,このような二項対立図式は存在していないといえるかもしれない.しかし本論で示すように「実証主義的」なライフヒストリーの位置づけは現在においても見ることができる.ここで実証主義的というのは,語りを「自明なもの」と位置づけて研究対象とする方向を指している.本論二節以降で批判的検討を加えるものがそれに当たる. *6出典は『新社会学辞典』([1993])有斐閣の「ラポール」の項による。 *7小林は「ライフヒストリーのコミュニケーション論的なインプリケーションをまとめるなら,第一に,ライフヒストリーは「関係」のレベルと「内容」のレベルという二つのレベルでとらえられることである.そして「関係」のレベルでは,聞き手によって<親密さ>が意図的につくりだされるが,とくに本稿の事例では聞き手のおこなう「あいづち」のもつメタレベルのメッセージが有効に働いている.第二に,「関係」のレベルが「内容」のレベルにどのように影響するかという点では,<親密さ>が増すにつれ,ライフヒストリーに<深さ>が増すことが明らかにされた.(小林[1992:431])」とする.しかし,ここで検討された関係性の問題は,「調査者の態度」の如何によって,語り手の語りが深くもなり浅くもなるという内容次元のことを問題化するにとどまっている. *8『口述の生活史』のなかで中野は,すでに,そこで語られたライフヒストリーが,中野という聞き手の存在や中野自身がもらした相槌によって生み出された作品であることを述べている(中野[1977:5,286]).ここで,相槌などがもたらす調査者と被調査者の関係が,語りに深く関わっていることが明らかにされているということができる. *9佐藤の言及とは,次のものである.「実りあるフィールドワークを行うためには,私たちは,参与,観察どちらの極にも陥らないスタンスの在り方について常に意識しておく必要があります.すなわち,『一歩距離を置いた関与』あるいは『客観性を失わないラポール』といわれるスタンスです.(中略)フィールドワーカーは,対象者と同一化しすぎることによって生じる『オーバーラポール』の問題が,ラポールの問題と同じくらい,場合によってはそれ以上に深刻な問題になりうることを常にわきまえておく必要があるのです.(佐藤[1992:145])」 *10桜井は,<暮らしてしての生>を<生きられた生>という訳語で用いていた(桜井[1992:56]).しかし,「『生きられた生』については現象学的な理解に基づく誤解が多い」ため,「より語義的に近い訳語」として<暮らしとしての生>を用いるとする(桜井[1995:247]). *11このことは,「子宮摘出」を「障害者である自分」に問題があり,それ自体を「恥」として認識してこざるを得なかった女性たちの状況と非常に近い.このことは第三章第一節で詳しく取り上げる. *12上野は,このような認識(=社会構成主義)は「社会学にとってはもはや『常識』となっている(上野[1998:12])」,とするが少なくとも本文で示したようにライフヒストリー法を使う社会学でこのような認識が「常識」となっているとはいえない. *13桜井は「ライフヒストリー・インタビューにおけるジェンダー(1996)」の中で,「男性は女性の聞き取りに適していないのか?」という問題を自身の調査経験に照らして考察している.その中でジェンダー以外にも,調査過程で重要な要素となる属性があることを指摘する.中でも,端的に現れるものは「年齢」である.又,文化によっては調査者が未婚/既婚ということが,そのジェンダーによって非対称に作用することもあるという.つまり調査過程では,ジェンダー以外の諸属性やそれとジェンダーとの絡みが,ジェンダーより重要な位置を占める場合があるため,女性だから女性の聞き取りに適し,男性は男性の聞き取りが可能であるとは一概にはいえないとする(桜井[1996:220]).  その上で桜井は,「ジェンダーは調査者のセックスに結びついた固定的なカテゴリー,いわば属性と見られて」きたが,「ジェンダーも,実は調査の過程を通して不断に達成しつつあるカテゴリーに他ならないのではなかろうか.(桜井1996:225)」とし,ジェンダーの捉え方それ自体に新たな方向性を見いだそうとしている.つまり,ジェンダーをセックス(生物学的な性差)に基づいた固定的なものではなく,交渉過程を通して生み出される可変的なものと捉えようという.  しかし,このジェンダーの可変性がそく<調査者><被調査者>の両者に与えられたものであるとは考えにくい.ここでも調査者と調査対象者の間の非対象なジェンダー認識が生み出されることもあると考えられる. *14このような「当事者」による自助グループへの注目を、杉本は「当事者論、当事者組織論に基づく当事者調査法」と捉えフェミニスト・リサーチの一つの方向性として提示している(杉本[1997:149ー152])。杉本のいう「当事者調査法」とは、当事者が直接に関与,参加することによって調査過程での聞き取りをより互恵的な関係の元で行うことができるような調査のことを指している(杉本[ibid:149]).杉本は,この方法がこれまでの上から下へのアプローチを下から上に変えてゆくような方法論であるとする(杉本[ibid:150]).  しかし本文で触れたように,当事者性の強調はそれによってより見えにくくなる「当事者」内部での差異を不可視化し「より見えにくい搾取」をすることがある,という問いを忘れることはできない. *15しかし,このことはマジョリティとされる人々を対象とすることの不可能性を意味しない.そればかりかこれまで社会の中でマイノリティ/マジョリティとされてきた二つの集団に働く権力関係を明らかにし,マジョリティの側こそが問われるべき対象として浮かび上がることを意味する.これはこの節の最後でも説明した. 第二章 ライフヒストリーが生み出される場:セルフヘルプグループ  ここでは第一章で見た語りが生み出される場としてセルフヘルプグループに限ってその活動の簡単な系譜と機能を見ていこう.  第一節 セルフヘルプグループとは何か.  ここではセルフヘルプグループとはどのようなものかを概観する.   1.セルフヘルプグループ,自助グループ,当事者グループ  セルフヘルプグループという言葉にはこれまで自助グループ,当時者グループなどの訳語があてられてきた.以下で,これらの訳語が持つ問題点を検討し本論でセルフヘルプグループという言葉を使う意義を明らかにする.  まず,自助グループという現状で用いられることの多い訳語は,次の点で問題がある.それは「公的な福祉予算を削減するためのスローガン」として持ち出される「自助」という言葉と混同してしまうという点である(岡[1995:276],春日[1998]).同時に「混同する」だけでなく障害を持つ人々のセルフヘルプグループなどは「公的な福祉予算」を要求する運動でもあるため先のスローガンに反するのである.そのため自助グループという言葉には問題がある.  では「当事者グループ」という言葉はどうだろうか.この言葉に対して岡はそれが「当事者性」を限定してしまう可能性があるという側面からよくないとする*1*2*3.また,この言葉が,行政の下位組織として使われてきたためよくないとする見解もある(春日[1998]).本論では当事者という言葉が「当事者性」を限定してしまうという論には与しない.なぜなら,当事者という言葉は使い方によっては当事者性の枠を広げる可能性を持つと考えるからである.しかし積極的に当事者という言葉を使う意義を見いだせないためここでは使わない.  ここで「セルフヘルプグループ」という言葉を使う積極的な意義は,セルフという概念に含まれた「同一類の」または「同質類の」という意味がある(春日[1998])という見解に依拠する.それは「苦境に陥った私自身を同じ苦境にある同類の人との対話が立ち直らせてくれる(春日[ibid])」というセルフヘルプグループの機能を的確に示している.また本論では同じ意味でピア・グループという言葉も使う.ピア(Peer)とは「仲間」を表す語である.   2.セルフヘルプグループの系譜  一般にセルフヘルプグループとしては,アルコール依存症者のつくったAA(Alcoholics Anonymous)がよく知られている*4.しかしセルフヘルプグループをそう呼ばれてきたものに限定せずに「苦境にある同類のもの同士の集まりの場」であると捉えれば,アメリカでの1970年代の女性運動の中でうまれた女性たちのグループ,女性たちによるクリニックを作る活動やCR(Consciousness Raising=意識覚醒)の手法を取り入れたフェミニズム運動,そして女性運動に限らず黒人解放運動やその他の社会運動もセルフヘルプグループであると捉えることができる.  また日本で独自に展開されてきた部落解放運動や盲人,ろうあの人々による運動,ハンセン氏病などのさまざまな患者会,神経症者のつくった生活の発見会,生活綴り方運動*5,生活記録運動,それに続くサークル運動や自分史を書く活動などもセルフヘルプグループの活動の起点であると捉えることができる(岡[1995:167-209])*6.中でも特に注目したいのは生活綴り方運動やその後それに続いて行われた生活記録運動である.  1950年代のサークル運動の一つである生活記録運動は次のような方向性を持っていた.つまり「悩みを語り合うことは,自分の体験を他人の体験と交錯させ,共通しあっている要素を,社会的な関連の中で,一つの<意味>としてつかみ直すことになる(岡[1995:256]←佐々木斐夫[1956:255-256])」というものだ*7.この運動は,個人の体験を記録することによる社会変革の可能性を示唆する方向性をもった営みだった.  この運動は障害を持つ人々の「しののめ」という文芸誌の登場にも,何らかの影響を及ぼしていると考えられる.「しののめ」は,都立公明養護学校*8の卒業生である花田春兆らが始めた文芸誌で,主に詩歌や小説などの発表媒体としてその後の障害者運動の担い手たちのメディアとして機能していた.「しののめ」を通して書き記された個人史や文芸作品は,障害を持つ人々による表現を文章化し,それを通して自らの問題と社会の問題を結びつけることを可能にした.その意味でこの文芸誌は,先に示した生活記録運動の系譜に位置づけることができる.この文芸誌は障害者運動の先駆けと位置づけることができる*9.  見てきたようにセルフヘルプグループは,AAのような欧米にその起点をもつものに限らず広く捉える必要がある.ではすでに書いてきたようなグループに共通していることはどのようなことだろうか.以下で見ていこう.   3.個人モデルから社会モデルへ  通常セルフヘルプグループとは,「何らかの問題・課題を抱えている本人や家族自身のグループ」であり,その最大の特徴は「当事者」が「当事者」である自分や自分たちを支えあい自分たち同士育てあうことにあるとされてきた(久保[1998:2]).つまり,セルフヘルプというのは「同じ様な状況にあるもの同士が,集い,そこで自らの問題や課題を解決するための力を取り戻して行くような営み」を指している*10.ここで取り上げるセルフヘルプグループは,上述した定義に加え「自らのある属性にスティグマを付されきた人が集まり,スティグマを付した社会の側を問い返していくような場」として捉える.  セルフヘルプグループで行われる語り合いは,同じ様な状況にあった人々の体験を結びつける社会的要因を探りそれを対象化することを可能にする.それによって自らの属性に付与されていた否定的な意味の原因は,「個人」の側から「社会」の側へと転換されることが可能となる.個人モデルから社会モデルへの移行は,それまで自明とされてきた「問題」や「課題」を,「問題と見なし」「課題と見なす」社会の側の問題と捉えることを意味する.しかし,序で見たように問題を社会の側に移すことは,問題の原因とされてきた「自らが有する何らかの「差異」」の全てを解消することは意味しない.  問題の原因を個人の側から社会の側へと移行させることは,問題の原因に付されてきた否定的な意味を「否定的なものとして受け入れる必要がないこと」を明らかにする.その意味で「自らが有する何らかの「差異」」は,それが個人モデルで捉えられていたものとは,別のものとして存在することが可能となる.このことは,次の節で示すセルフヘルプグループの機能によって明らかになる.  第二節 セルフヘルプグループの機能  ここではセルフヘルプグループ論として包括的な議論を展開し,その機能や特性を論じている岡([1995,1996])を主に援用し,その成立と機能をまとめる.  セルフヘルプグループは,上述したとおり「問題的経験,受苦体験をしたきたもの達による自発的な集まりの場」である.しかし,その場がどのような受苦体験をした者の集まりであるのか,また会がどのような方向を目指しているのかによっていくつもの違う機能を持っている*11.その意味では,セルフヘルプグループそれ自体を,その場に集う人々の属性やその方向性を限定せずに検討することは難しい.しかし,ここではあえて第一章で示した「個人の経験が社会的な問題として経験され直す場」としてセルフヘルプグループが有する基本的な方向性を見てみたい*12  セルフヘルプグループの成り立ちの基本要素は,第一に構成員の「参加の自発性」,また第二に構成員をとりまく「状況の共通性」がある(岡[1995:320]).セルフヘルプグループとは,第一義的には自らの生活において何らかの「問題経験」を持ったと感じた者が集う場である.個々人が感じている「問題経験」が,自らがおかれている社会的な状況や立場を社会との関連において捉えなおそうとするきっかけになっている.またそれは第一章で見たように,そもそもマイノリティとされている人々が,その属性に付与された否定的価値のために,常に自らの問題経験を社会の側の価値と照らし合わせることを要請されてきたを意味している.一方で,彼/女らはその「差異」ゆえに社会の支配的な現実とは別の現実があることに気づくことが可能な存在であるといえる.  では,セルフヘルプグループとは,どのようなことをする場なのだろうか.第一にそこは「共通の問題経験を持つ人々が集い」,感情の分かち合い/情報や方法についての分かち合い/考え方の分かち合いの少なくとも三つの側面での分かち合いがなされる場である(岡[1995,1996]).そして第二にそのような分かち合いを通して,それまで困難な状況にいた自分自身を困難さから「ときはなつ」ような場である(岡[ibid]).では,そのような「分かち合い」や「ときはなち」はどのような過程を経て可能となるのだろうか.   1.関係性の質:体験の類似性と差異性  セルフヘルプグループは,「状況の共通性」をその基本要素としている.体験の共通性はお互いが「対等な仲間」であることを意味している.しかし,同時にそれまで自らの属性に否定的な意味を付与されてきた人々は,同じ状況にある人に対する「仲間」意識より「否定感」を持たされてきた人々でもあった.また,自己に付されてきた否定的な意味を「自己否定」という形で選びとらされてきた人々でもあった.そのようなときには,状況の共通性は「対等な仲間」としては成立しえない.  このような否定的な自己像は,例えば障害を持つ人々の場合,自分以外の「障害を持つ人々」にたいする否定的なまなざしを彼/女ら自身が獲得してきていたことを意味している.障害を持つ人々自身が主体的に選びとってきた(選びとらざるを得なかった)戦略の一つである障害者嫌悪(=自己嫌悪)は,障害を持つ人々を分け隔ててきた.その意味でも「同じ状況にある者」であることは,語ることを可能にする第一の要素にはなり得ない現実があった.  しかし,なんらかの状況に置いて同じ状況にあるもの同士が出会い,そこで語り合うことによって,彼/女らは自分たちのおかれている状況の共通性に気づくことになる*13.状況の共通性に気づくことは,彼/女らがそれまで自分自身の属性に付与されてきた否定的な意味を「個人モデル」から「社会モデル」へと転換する契機ともなる*14.  そのような,自分自身に付与されてきた否定的な意味をそれまでの「個人モデル」から「社会モデル」へと転換することを可能にするのがセルフヘルプグループでの体験談を語り合う場である.これまで負の感情として言い出せすことができず自らのうちに閉ざしてきた感情を吐き出しそれを身を持って体験する人たちに聞いてもらうことは,その感情から自らが解放されて行くことを指している.感情の吐き出しという「生(なま)」の体験を語ることが,集いに参加する人々に感情的なつながりをもたらすのである(ヒル[1988:72]).  そしてそのような感情の吐き出しをする場=「安心して話せる場」は,参加者の体験の共通性やそれによる共感によって生み出される.医療などの場が上下関係によって成り立っているのに対して,セルフヘルプグループは共通の体験によって生み出される共感とそこで生み出される対等性によって成り立っている.  このことは,それまで否定的な意味を付与され語り出すことができなかった人々が,自らの過去の経験を作り替えていくことを意味している.それまで支配的な現実によって作られてきた自己否定や同じ状況にある者への否定的感情は,セルフヘルプグループなどの場を通して作り替えられていく.  そのような体験を経ることで,少なくとも自らに付されてきた否定的な意味は受け入れる必要がないものであることが明らかになる.また,その過程でそれまで否定的なものとしてしか捉えられてこなかった自らの属性を肯定的なものへと作り替えていくことも可能になる.  しかし,セルフヘルプグループにおいて「状況の共通性」が重要であるのと同時に,その間の「差異」も重要な要素である.参加者間の「差異」について,これまでのセルフヘルプグループ論の中ではあまり取り上げられてこなかった.しかし,参加者の「共通性」と同時に「差異性」が語りの契機になることは,この場の重要な要素である.なぜなら,差異性は参加者の間に様々な差異が存在するにも拘わらず,彼/女らをある一つの否定的なカテゴリーに閉じこめている社会を問題化する視角をそこに参加する人々に示すことになるからである.また,そのようにして獲得された視角が,社会の支配的な現実によって作られてきた自らの否定的な経験を書き換えるための契機となるのである.   2.経験的知識:無力化からの脱出  次に,上述したような関係の質を持つセルフヘルプグループの中で,交換される語りや情報とは,どのような質のものかを見て行く.  セルフヘルプグループ内での情報や方法の伝達は,特に医療や社会のハード面の情報が得にくい状況にあった人々にとって重要な役割を果たしている.障害を持つ人々のセルフヘルプグループの中では,自立生活をする上での諸制度の活用法や介助者との関係の問題などが伝達される(第三章二節2.1).また,医療に関する情報の交換としては特に限られた難病を持つ人々のセルフヘルプグループの重要な要素である.年齢が違うものの間でなされる情報交換は,自らの症状がこれからどのような様相を呈するのか,その時どのような方法で生活することが可能になるのかという生活の指針を立てる上でも重要な役割を果たす.  セルフヘルプグループでなされるこれらの「情報や方法についての分かち合い」は,個々の人々が不確かな情報の交換をするということではなく,何人もの人々の間で何年間もかけて確かであると確認されてきた情報が交換されて行くという点に有効性がある*15.三つの分かち合いのなかで交換される感情や方法や,生き方は,それに関わる人々が身を持って体験してきた知識であるという意味で,「経験的知識 experiential knowledge(岡[1995:314]←Borkman[1976])」と呼ばれている.  経験的知識とは,セルフヘルプグループがこれまでの意味での専門的知識とは異なるものの「たんなる素人の知識」でもなく,さまざまな人々の経験によって積み上げられてきた「もうひとつの専門的な知識」であることを意味している.  ある問題や課題を持った人々は,医療などを通して「何らかの病を治す」という援助や治療を必要としてきた人々であることも多い.そのような場面では対等であることより,専門家である医者と治療を受ける患者=クライアントという立場の決定的な上下関係を持つ力が働く.しかし,セルフヘルプグループが専門性を批判しているということは一概にはいえない.ここで示される専門性に対する批判とは,援助を受ける側が,援助の方向と内容を決定する第一の主体である,ということを意味するのである.  医療などの場においてなされる治療の方向は,支配的な現実によって構成されている.そこは多様さが見られない.これまで「よいこと」とされてきた治療に別の在り方があることを示すのは困難なことである.セルフヘルプグループでの対等なもの同士による援助は,治療の在り方をいったん括弧に入れ,互いに過去の自分の体験を語り合い自分にとってなにが苦痛であったのかを確認しあうことを可能にする.  セルフヘルプグループは,これまで自明とされてきた治療の方向や援助の在り方を構成している現実に抵抗する「別の現実」を生み出す.第一章で書いたように<現実>は「ある視点をもつことによって」から生み出されるものである.このことは「ある視点」の創出がなければ語りは語れることがなかったことを意味していた.セルフヘルプグループによって作り出される「視点」は,そこに関わる人々がこれまでとは違う「別の現実」を作り出すことを可能にし,それによる決定の多様性を生み出すのである.   3.援助者治療原則  セルフヘルプグループは,出会い語り合うことによって自らをときはなっていく場であると同時に,同じ状況にある者を巻き込み自分がときはなたれていった過程を「伝えて」いく場でもある.このことは「伝えていくこと」によって,自らがときはなたれていく過程を意味する.これは,それまでは援助される側であった者が援助することによって自らへの信頼を取り戻していくという意味で,援助者治療原則とよばれている.それまで,多くの場合「無力な存在(治療や援助を受ける側)」とされてきた人は,サポートする側になることによって自己信頼を獲得するのである.  「伝える」という行為は,自らが「伝えられる」ことで自己への信頼を取り戻してきたという経験に根付いて行われる行為である.つまりこのことは,自らが他者との「分かち合い」なくしてはときはなたれなかったということを意味する.その意味でも,セルフヘルプグループの「セルフ」は「自分の力」で解決することを指すのではなく「同じ状況にある人々=同類という意味でのセルフ」との「出会い」のなかで何らかの解決やときはなちをすることを指していることが分かる.   4.セルフヘルプグループの規則  セルフヘルプグループでは,いくつかの原則が存在する.一つには,セルフヘルプグループで語られた体験談などの秘密保持の原則である*16.セルフヘルプグループ内で語られることの多くは,個々人の家族や関わってきた人々との関係やその中での自分自身のさまざまな葛藤に関する話しである.それらを,安心して語るためには,そこで語ったことを流布されるかもしれないという思いは,口を閉ざすことにつながるということだ.またこのことは,そのようにしてしか「安心して話せる場」を確保することはできないことを示している.  第三節 セルフヘルプグループの社会的役割  セルフヘルプグループが持つ専門性批判の側面は,これまでの社会運動の中の「利用者運動」の流れの中に位置づけることができる.現在様々なところで取り上げられる「インフォームド・コンセント:医療者に患者に対する医療の十分な説明を求める働きかけ」なども,利用者運動の一環である.  またここでは,セルフヘルプグループが社会的に作られてきた支配的な現実に対抗しうる別の現実を生み出すような場であるという側面に注目する.そのため,それが社会の支配的な現実に抵抗する,どのような社会的なちからを持ち得るのかを検討する.   1.利用者運動  三島は,フランク・リースマンをひきセルフヘルプグループが有する専門職援助に対する批判的役割の方向を消費者運動の新しい流れの中に位置づけ,サービスの消費者(consumer)をその生産者(producter)として位置づけ直す,prosumer(プロシューマー)運動であると捉える(三島[1998:45])*17.  このような運動の流れは「患者」から「ユーザー」への流れと位置づけることもできる.アメリカでのウーマン・リブ運動がその発足期から取り組んできた女性の「健康運動」(ボストン女の健康の本集団が編集した『からだ,私たち自身』1971を起点とする)も,医療提供側の情報独占や男性中心性を問題にしたことでそれまでの「医療」観を変えることに寄与してきた(リサ[1991:160]).  高橋によれば,利用者運動は1960年代のフェミニズムが提唱してきた意識改革=コンシャスネス・レイジングにそのひとつの起点を見ることができるという(高橋[1996:164]).意識改革とは,グループ討論などを通して共通の被抑圧経験を認識し抑圧からの解放を目指し社会的な改革へと結びつけていく方法とされる(高橋[1996:164]).高橋は,この方法が精神病院で医療を受給してきた患者を治療を前提とする「医療の受け身な受け手」としての患者から,医療の「主体的な選択者」へと向かわせた原動力になったとする.このことによって,それまで一度も利用者の側から試されることのなかった精神病院をはじめとする「医療」の側が試されることになった.  セルフヘルプグループは自らを主体的な医療の受け手と位置づけた.またこのことは,セルフヘルプグループが支配的な現実に抵抗する「もう一つの現実」を生み出すことによって可能となった.これは単に医療の受け手=自律した「個人」による異議申し立てであったよりも,同類のもの同士によるサポートを前提としていることに意義がある.  サービスの多様な在りようや,その方向の多様性は「多様性があり得る」という認識を持つことではじめて確保されるものである.その意味で,多様な方向の在り様を生み出すセルフヘルプグループの活動は意義を持つ.またこのことは,セルフヘルプグループが社会の中でどのようなものとして存在するのかという問いにつながる.  次に「自己決定」という言葉の意味を見ていこう.   2.多様な決定を生み出す場  これまで「自己決定」という言葉は,医療や社会サービスを受ける利用者によってその方向性や使い道に関する決定を奪い返すための重要な言葉として使われてきた.これまで少なくとも,治療の方向性や援助の在り方に関する選択肢は決定的に限られてきた.また,障害を持つ人々の生活の場や医療の場での選択肢は今現在なお決定的に限定されている.現在もなお在宅か施設かの選択を迫られ,地域での自立生活はそれに比してそれを試みようとする個人の「がんばり」や「負担」の先にしか存在し得ない状況が続いている.また「できるようになる」ことをよいこととする医療の在り方も続いている.  そのような選択範囲の極端な狭さを顕在化させる役目を果たしたのが「自己決定」という言葉だった.このことは「決定する」ということを第一の価値と位置づけるものではなく支配的な現実が作り出す決定の極端な限定性にたいする変革を求めるものだったことは確かである.  「治療」は,それを提供する側の「よかれ」と思う方向を指し示してきたのであり,それ自体が差別的で抑圧的なものとして行われてきたのではなかったはずだ.だからこそサービスの受け手である人々は,それに対する批判をすることが困難だった.しかし「あなたがた(=マジョリティである医療の側)がよかれと思ってやっていることは,私たち(マイノリティとされてきた側)にとってちっともよいことではない」ということがセルフヘルプグループなどでの語りを通して可能になる.このことは,サービス提供者の前提とする方向性に別の在り方を提供することを意味する.  現在「自己決定」という言葉は,決定を下す本人以外の人々の責任回避を正当化する言葉として使われるに至っている.特に,出生前診断などの生殖医療技術の進展により,この言葉は当の技術を提供する側が医療を受ける側に求める責任の移転として多用されるようになっている.自己決定は,それが権力を持つ側の意図に添う決定としておこなわれるとき権力の側をより強固にするためのものとして機能する.つまり,本人の同意という形を取ることによって「支配的な現実」は補強され問うことを不可能にする強力な力となってしまう.このことは,障害を持つ女性の「子宮摘出手術」が,事実上の強制を伴った「本人の同意:自己決定」という正当化の根拠を持って行われてきたこととも関連する*18.これが,自己決定という言葉をあくまでもマイノリティの側の抵抗の所在としようとするときのもっとも大きな問題の一つである.  この問題への一つの答えとして,何を決定するかということに関する社会的な力の配置を問題化することができる.自己決定は,これまでマジョリティの側が「よかれ」と思ってやってきたことが,マイノリティとされてきた人々の側にとって「よい」ことではないことを明らかにするために提示されてきたことはすでに述べた.現実が構成されている力の配置への注目を促すのが自己決定という言葉がもつ意味なのである.また,そのためにはマイノリティの人々の別の現実を作り出すコミュニティの存在が不可欠なのである.ここで使われる「自己決定」とは責任回避を意味しない.  援助や治療,サービスの提供に当たって「よい」とされ,そうでない方向があることを考えもつかない,また考えるということすら認められることなくある種の方向を選択せざるを得なかった人々がいる.その様な支配的な現実が作り出すある種の決定の方向が,「別の現実」を作り出した人々によって「少なくとも別な方向があるのではないか」といわれる.それが,自己決定という言葉の意味する方向だったはずだ.  また別の問題として,「自己決定」という言葉が「自己決定できる」人間を価値あるものとしてしまうことに対する問題がある.例えば知的障害を持つ人々の「自己決定」をどのように考えることができるのかということがそれに当たる.「自己決定」という言葉を生みだし活用してきた人々は,知的障害を持つ人々や自己決定が困難である人々の生を支えようとしてきた人々であることはたしかである.これは第三章でも明らかになる.また「自己決定」能力が人間であることの要件である,という考え方に対して明確に批判を投げかけてきた人々であったことも確かだろう.  「自己決定」という言葉によって確保されようとしてきたことは,どの人も自らの生を「生きる」主体であるということだった.そのようなことさえも認められてこなかったということを明らかにする意味で「自己決定」という言葉は使われてきた.その上で「決定」する能力のない人々が存在するとすれば,彼/女らの生の決定はどのように確保されるのか,どのようにして可能になるのかということを実践として考えていかなければならないことは確かである.  セルフヘルプグループは援助の多様な在り方を提示することを可能にした.このことは,これまでの決定が支配的なある一つの現実にもとづいて組み立てられてきたことに対し「様々な現実の中で様々な決定のありようが可能になること」を援助を提供する側に示すことの必要性を意味している.  多様な自己決定とは,そのような別の決定が存在することを明示することを必要とし多様な決定があり得ることを知ることによってはじめて,現れるのである.それによって,これまで問われることのなかった決定の方向性が確固としたものとしてではなく,それもただ一つの方向性でしかないことを示すことを可能にする.  セルフヘルプグループは,多様な決定を生み出す場として機能している.このことは,多様な決定がいかにして生み出されるのかということにたいする一つの答えなのである.   3.セルフヘルプグループの位置  では,そのようにして作り出されたセルフヘルプグループがもたらした「もう一つの現実」は,社会の支配的な現実に対しどのような力と広がりを持ち得るのだろうか.  セルフヘルプグループが作り出す言葉は,それがグループ内部で閉じたものになってしまえば社会的に作られている現実に抵抗する言葉を生み出す力を持ち得ない.セルフヘルプグループは,社会的に作られる差別的処遇や偏見に対抗するための言葉を作り出す場として機能して行くために社会的な力を持つことが必要となる.個別のセルフヘルプグループを論じるとには,それが作り出す別の現実がどのように社会的に存在する偏見や差別に抵抗してきたのかということに注目する必要がある.  また,社会の支配的な現実は実際の社会に存在するものであると同時に個々人の中に存在してきたのだった.個人は,常に社会の規範や価値を集積した<フィールドとしての個人>であり,社会的な存在だからである.その意味では,セルフヘルプグループに参加している個々人が,自ら肯定的な語りを語り始めることは,その個々人において支配的な現実が作り替えられるという意味で社会に対する抵抗となっているのである.個々人がその内部で変わっていくことは,社会に抵抗する大きな力となりうる.その具体的な例は第三章で示す障害を持つ人々のセルフヘルプグループに見ることができる. □小括  セルフヘルプグループは,「苦境に陥った私自身を同じ苦境にある同類の人との対話が立ち直らせてくれる(春日[1998])」場である.そのような場として,これまで様々な活動が展開されてきた.それは欧米に起点を持つものであると同時に日本にも同じ方向性を持った場が存在してきた.そこに共通していたことは,第一に,同じ問題経験をもつ者同士の支えの場であること.第二に,それが社会の支配的な現実によって作られた自らの否定的な価値を「個人の側」から,そのような価値を作り出す「社会の側」へと移行することを可能にする場であること.  しかし,共通の状況であることが即「仲間」として出会えることを意味するのではない.なぜなら,スティグマを付されてきた人々は自らへの否定感を同じ状況にある者に対する否定感として内在化させてきたから(選びとってきたから)だった.しかし,セルフヘルプグループのような場を通して自らに付されてきたスティグマを受け入れる必要がないことが確認される.それが可能になるのは,この場が共通の問題経験を持つ者同士の場で,経験の共通性とそれによる共感があったからである.また否定的な感情を吐き出し,それを身を持って分かり合える人々がいたこともその要因だった.セルフヘルプグループを通して彼/女らは「ピア」になっていくのである.  しかし,同時にセルフヘルプグループを通してそこにいる人々の差異性に気づくことになる.このことは,参加者の間に様々な差異が存在するにも拘わらず,彼/女らをある一つの否定的なカテゴリーに閉じ込めてきた社会の支配的な現実を問題化する視角をそこに参加する人々に示すことになる.また,このことは「カテゴリー」の解消を意味するのではなく支配的な現実がなにをもって彼/女らを否定的なものとしてきたのかを顕在化させる.そして,自らに付与されてきた否定的な意味をそのようなものとして受け入れる必要がないことが確認される.同時に自らが有する何らかの差異を道具立てとして,社会が有する規範を顕在化することを可能にする.  場の持つこのような意味を考えると,それが社会に対してどのようなちからを持つのかを考える必要がでてくる.すでに示した方向性として利用者運動があった.また,セルフヘルプグループによって生み出された支配的な現実に抵抗するもう一つの現実が自己決定の多様さを提示することも示した.また,個々人が持っていた社会の支配的な価値をその個々人において変革していくことが社会を変えていくことと同等の意味があることも示した.  第一章でも述べたように,社会は様々な現実=リアリティのせめぎ合いによって構成されている.その中でこれまで被差別状況におかれてきた集団やその個人は「現実」を作り出す「言葉」を自らの経験にそって語り出すことが困難な状況にあった.そのような社会的な状況のなかで,セルフヘルプグループは被差別集団やマイノリティとされてきた人々が自らの言葉や自らの経験を自らの解釈によって「作り,語り出す場」として存在している.  第三章では障害を持つ人々の自立生活運動とそれに続く自立生活センターでの実践を見る. --------------------------------------- *1岡は,「障害者の問題(事)にあたるのは障害者問題の『当事者』,つまり障害者自身だというと,その他の人々は,『事』に『当』たらなくてよい,あるいは『当』たるべきではないということになってしまう(岡[ibid:277])」とし,当事者という言葉を強調することは,「障害者の問題は,障害者以外の人には無関係だという意味あいがでてくる.だとすれば,差別の問題をどう考えるか.障害者差別の問題について,『当事者』は,差別される側だけでなくて差別している側をも含むはずである.そういう矛盾がでてくる.(岡[ibid:277])」とする. *2「当事者」という言葉に関する同様の指摘は,豊田([1998])にも見ることができる. *3その上で,岡は「本人の会」と言う訳語を用いるとする(岡[ibid:278]).しかし,この言葉にも問題があるように感じられる.本人といってしまうと問題を持つ「個人」が強調されてしまうように思われる.本論ではセルフヘルプグループを個人モデルから社会モデルへの意向を促すような場であると捉えるため,個人モデルが強調されてしまう様に思われる「本人」という言葉はここでは使わない. *4AAに関する社会学的な考察は,野口[1996],岡[1995],斎藤[1995]などがある.どれも,臨床の場で大きな役割を果たすことを証明し現在もなお世界的な規模で展開しているセルフヘルプグループとしてAAの意義をあげている.  野口,斎藤ともに,AAの匿名性と12にステップの中の「無力」にたいする認識に注目し「自己=自己制御可能なもの」という「近代自己像」を脱する方向として制御不可能な自己像を前提とするとしたことが画期的であると捉えている.  セルフヘルプグループは,個別のグループによって,もちろんさまざまな個別の問題側面を持つが,包括的にセルフヘルプグループ論として展開できることを前掲書は示している. *5「戦前の教育勅語を主軸とした画一主義の教育に抗して,子どもたちが生活の場で経験し,感じ考えたことを,自分のコトバで書くことを通して,自立した主体形成を目指す教育運動」で,戦時中弾圧を受けたが,戦後,『山びこ学校』を契機に復活し,その後「生活記録運動」として継承発展された思想運動(鶴見和子→見田[1994:519]). *6岡は,日本におけるセルフヘルプグループの形態を以下の4つの型で説明している.はじめに欧米に起点を持ち,日本で取り入れられてきたAAのような活動を「普遍型」,第二にAAを取り入れながら日本で独自の活動を展開している断酒会などを「適応型」,第三に日本で独自に発展してきた生活綴り方運動,サークル運動などを「独立型」,最後に薬物依存者を中心とするシナノンのように日本の文化の中で,あまり適応してこなかった運動を「非適応型」とする(岡[1995:211-271]). *7この運動では,そのような<意味>を「しゃべりのなかで消散させてしまわず,文章に綴」り,「話しあいのなかですでに社会化されていたものを書きあらわして」ゆき,そのことによって「再び自分の体験と対決させること」が可能になり「自分のなかの矛盾を社会の矛盾として正しく位置づけられるようになる」とする(岡[1995:256]←佐々木[1956:255-256]).また,書くという過程は,自分のまわりの人間関係を変えて行くことになるばかりか「苦悩は自分が社会に押さえつけられていることの現れ」であると認識することで,「こんどは主体的な表現とその表現をなかだちにする働きかけにより,私たちが社会を変えてゆくとができる」という認識に至るという(岡[1995:256]←佐々木[1956:255-256]). *8都立公明養護学校は,日本で初の公立の肢体不自由児学校で1931年に光明学校として設立された. *9「しののめ」の役割については,立岩([1995:172,173]),岡[1995:258]が指摘している.以上の文献では,文章を通じて自らがおかれている社会的な状況を対象化し作品化していくことが「社会的な位置を問い返す志向」へと,つながっていったことが指摘されている. *10AAが,アルコール依存症などの病の「治療」に際し欠かせない存在として位置づけられてきたことがセルフヘルプグループ論を活発化させてきた要因である. *11例えば,野田哲郎は,セルフヘルプグループの志向性による違いを6つの分類にまとめている.第一に,AAに代表される,特定の疾患を持つ者が「治療」的効果やリハビリ効果を中心に据えた活動を行う匿名自助志向群.第二に家族会などに代表される「家族自助志向群」.第三に,障害や難病を持つ人々が,社会的な制度や環境の改善を目指して集うような「連合組織志向群」.第四に情報交換や,感情の交換を中心した親睦を中心にする「自立相助志向群」.第五に,生活の自立を目指し,具体的生活情報や就労情報などを交換する「自立生活志向群」.第六に社会的環境や法整備を広く社会に訴えかけていくことを目指す「市民運動志向群」,があげられている.  しかし,この分類の中でも,第三と第六の違いやそれぞれの志向性の有機的なつながりをどのように捉えるのかが明確ではない *12個別のセルフヘルプグループが持つ基本的な要素を見ることによって,セルフヘルプグループ同士のつながりやセルフヘルプという方法それ自体の有効性を明らかにし,その活動を発展させていこうとする動きはすでにセルフヘルプグループ・クリアリングハウスの実践などで行われてきている.  セルフヘルプグループ・クリアリングハウスとは,セルフヘルプグループを探す個人へ向けて,セルフヘルプグループの「情報の収集と提供」を行い,活動しているグループに関わり活動についての相談,援助を行いグループの相互交流などの広報と社会教育的側面を有しセルフヘルプグループに関する調査研究をするような機関を指している(岡[1995:347]).  セルフヘルプグループ・クリアリングハウスについては,岡[1995:341-407].久保・石川[1998:226-242]がある. *13状況や体験の共通性は,マイノリティとされてきた人々がたどることのできるライフコースが極端に限定されていることを示している.例えば障害を持つ人々の場合はやくから在宅か施設かの選択を迫られたり,地域の学校に行くか養護学校に行くかの選択を迫られ学校を出てからの生活など人生のすべてにおいて選択の自由を極端に奪われ常に限定付きの選択を迫られてきたことを示している. *14第一章で書いたようにデンジンは問題体験=エピファニー体験は,個人を公的な場へ押し出すとした(Denzin[1989=1992:15]).セルフヘルプグループはエピファニー体験を経た個人が,「いかにして」自らの経験を公的な問題であると位置づけ自らを公的な場へ押し出すことができたのかの一端を明らかにする.個々人の問題体験は,問題体験を経た同苦のものに出会うという体験を経,そこで語り合うことによってはじめて個人的な問題から社会的な問題であると認識されるものだといえる. *15岡は,この点についてセルフヘルプグループで交換される情報が,単なる素人の情報ではなく,何人もの人の体験によって積み重ねられてきた情報であるという点に注意を払うべきであるとする(岡[1995:314]) *16これは,セルフヘルプグループを研究しようとする人々の間で,常に問題化されてきた(岡[1998]).実際に参加的調査(Participatory-Action Research)を行う調査においても,秘密保持の原則や調査者と対象者の関係がどのような関係であるかなどが常に問われてきている. *17また,専門職援助への批判的役割を「脱烙印化」「脱病理化」「脱専門化」という三つの方向を持つものとして整理する岡(三島[1998:46]←岡[1985,1988])の論考もある. *18「子宮摘出」の問題に関しては第三章で詳しく取り上げる. 第三章 障害を持つ人々の語りとコミュニティ  ここでは,障害を持つ人々の運動をセルフヘルプグループ実践と位置づけ日本の障害者運動の系譜を概観する.特に、障害を持つ女性たちのセルフヘルプグループに焦点を当てる.  また1970年代の自立生活運動の流れを組み,現在全国的な活動を展開している自立生活センターの実践を取り上げる.中でも「差異の肯定」を提起する実践としてピア・カウンセリングを取り上げ,障害を持つ人々の語りがどのようなプロセスで語り出され,それがなにを示してきたのかを見る.最後にピア・カウンセリングが今後どのような実践を続けていくのかその方向を見る.  第一節 障害を持つ人々のコミュニティの成立過程  ここでは特に,1996年優生保護法が母体保護法に改正されるに当たって障害を持つ女性たちが果たした役割の大きさを示すために,これまであまり記述されてこなかったこの活動の軌跡を中心に障害者運動の系譜をたどる*1.  障害を持つ女性たちの運動に焦点を当てる理由の第一点目は,障害を持つ女性たちによるセルフヘルプグループが障害者運動の過程で成立してきたことによる.このことは,一方で‘男性’障害者の問題がこれまであまり語られてこなかったことを意味する*2.女性障害者のセルフヘルプグループは,障害者運動の中の男性中心性に対する違和感や優生保護法改正や子宮摘出問題に関する議論の中から生み出されてきた.  女性に焦点化する第二点目の理由は,特に女性たちにとって私秘的なものであり語ることができないものとされてきた「性」に関する語りをこの活動が語りだした点にある.またそのことによって,彼女らが「性」についての語りを語り出すプロセスを見ることできる.  第三点目は,身体イメージの問題である.マスメディアなどを主な媒介とする身体像は見られる身体として女性を位置づけてきた.障害を持つ女性たちが,自己の身体を「認める」語りを生み出すことは,障害を持つ男性より困難さを求められてきたと考えられる.その意味で,第二点目と同じように彼女らが語り出すプロセスを見たい.   1.自立生活運動の始まり  自立生活運動とは,(特に日常生活に介助を必要とする)障害を持つ人々が,施設や家族の元をでて暮らすことをさす.この運動は,脳性マヒ者を中心とした「青い芝」の活動や府中療育センターでの脱施設の運動などによって1970年代前半から行われてきた*3.彼/女らは,施設や家族の保護を拒否し生活保護や年金,手当を経済的な基盤とし学生や労働組合員などのボランティア介助者による介助ローテーションを組み「地域*4」のなかで暮らして行くことを目指した.  「彼らは,その具体的な生き方を通して,それまでの自立の概念--経済自立や身辺自立ができなければ自立生活はありえないという考え方--を,(中略)労働により賃金を稼げなくても,あるいはトイレや食事が自分でできなくても,自分で自分の人生を主体的に決定していければそれが立派な自立なのだ(JIL[1997]←堤[3])」とすることで,自立概念の転換を行ってきた*5.  彼/女らは,実際に様々な理由から家族と暮らすことに限界を感じ施設での処遇にその抑圧性を感じ,それらから「出て」生活することを始めた.そのような生活を始めることによって「自立概念」の転換が示された.そしてこの生活は,それをサポートする人々を集め,その方法を伝達し始めた.このことが障害を持つ人々のセルフヘルプグループを生みだした.その具体的な活動の成立過程を以下でたどっていく.   2.優生保護法撤廃要求に見る「障害の肯定」  障害を持つ人々が,障害を持つ自己を肯定し障害者の生存権を主張する立場からの運動をしたという意味で日本における障害を持つ人々のセルフヘルプグループの起点と位置づけることのできる1970年の「青い芝」の会の活動を以下で見ていこう.  2.1 障害者の生存権:「障害の肯定」の起点  1970年5月に横浜で母親による二歳になる障害児の殺害事件が起きた.これに対し,町内会,神奈川県心身障害児父母の会により障害児を殺害した母親の減刑を求める活動が展開された。父母の会は「施設もなく家庭に対する療育指導もない,生存権を社会から否定されている障害児を殺すのは止むを得ざる成り行きである」という抗議文を横浜市長に提出した(立岩[1995b:176]).このような事件とそれに対する親への同情という「健全者といわれる人の立場からの運動」は,横浜に限らず全国で行われていた(横塚[1975:28]).また,その結果として障害者福祉施策とされた施設拡充の動きが広まっていた.  それらの動きにはじめて,障害を持つものの立場から批判をしたのが,脳性麻痺者を中心とする「青い芝」の会神奈川連合会だった.彼/女らは,障害者福祉と称され親や家庭の「不幸」を解消するために行われる福祉に対し「障害児は殺されるのが幸せか」,「殺人を正当化する考えから作られた施設とは殺人の代替ではないか」,「重症児は『殺されてもやむを得ない』とするならば殺されたものの人権はどうなるのだ,そして我々障害者はおちおち生きてはいられなくなる」,という殺される者の生存権を主張する立場から批判を行っていった(横塚[1975:30]).この主張は1972年の優生保護法改「悪」阻止の運動へと続いていく*6.  すでに書いたように,それ以前から障害児殺害事件やそれに類する事件は起こっていた.しかし横浜での事件は,それに対する障害者の生存権を主張する障害を持つ人々自身の運動の成立を促したという意味で,障害者運動の転換点と位置づけることができる.  しかしこの事件が起きた当初から,障害を持つ人々の運動体が生存権を主張する運動を展開したわけではなかった.「青い芝」の会で事件とそれに対する減刑運動に抗議を行う前になされた話し合いの中では,障害を持つ人々自身が「殺した親の気持ちが分かる」「重度だったら生きているより死んだ方がよかった」などの意見を出していた(横塚[1975:81])*7.  このことは,障害を持つ人々の生存権を主張する運動が彼/女ら自身が抱いていた「障害者観」の変更をなくしては成立しなかったことを意味する.彼/女らが抱いていた障害者観とは,彼/女らの親が抱いていた障害者観と同じく「障害を持つことは不幸なことである」とする障害者観である.障害を持つ人々の生存権を主張することは,障害を持って生きる自己を肯定することを意味した.またそれに伴って,施設や親元という限定された生活から当たり前に地域に生きることが主張されていった.  障害を持っている人たちが、このような主張を始めた背景にはマハラバ村での生活とその後の青い芝での活動があった。マハラバ村*8とは,大仏空(おさらぎあきら)という「青い芝」の会とつながりのあった住職が,1964年に「青い芝」の会員の一人との話し合いを経て茨城県で自宅を脳性麻痺者のために提供した共同生活の場だった(横塚[1975:93-97]立岩[1995b:174-175]).一時は20数名の脳性麻痺者がこの場所で生活した.この生活の場で大仏は,そこで暮らす脳性麻痺者に対して「障害者としての自覚を障害者自身が持つこと」や障害者である人々自身が持つ「健全者へのあこがれ」は,障害者自身による障害者差別意識であることなどを説いたという(横塚[ibid:94-95]).ここでの共同生活を通して数人の脳性麻痺者のカップルが生まれ,子どもを持つ者もいた.しかしここでの生活は,その後の大仏との確執やその他の要因で崩壊した.  ここでの生活をした者の中に,その後の青い芝の会の主要な担い手となった横塚や横田,小山などがいた.彼/女らは,ここでの生活の後,神奈川に移り「青い芝」神奈川連合会の担い手になっていった.  マハラバ村をセルフヘルプグループと位置づけることは難しいが,障害を持つ人々が生活をともにする中で,他の障害者と出会い大仏の教えによるものではあったとしても「障害者としての自覚」を持つに至ったことは,その後の障害を持つ人々の運動に大きな影響を与えている.  彼/女らがマハラバ村の生活の後に活動の拠点とした「青い芝」の会は,障害を持つ人々,特に脳性麻痺者のセルフヘルプグループの起点である.青い芝の会は,70年以前障害を持つ人々の親睦会としての役割を果たしてきた.しかし,1972年以降横塚が会長となり運動のバックボーンとなる四つの原則を作りだした.「青い芝」の行動綱領は以下の四原則である(横塚[1975:92]). 1.我らは自らがCP者であることを自覚する.  我らは,現代社会にあって「本来あってはならない存在*9」とされつつある自らの位置を確認し,そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ,且つ行動する. 2.我らは強烈な自己主張を行う.  我らがCP者であることを自覚したとき,そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である.我らは強烈な自己主張こそそれを成し得る唯一の路であると信じ,且つ行動する. 3.我らは愛と正義を否定する.  我らは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し,それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ,且つ行動する. 4.我らは問題解決の路を選ばない.  我らは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか,身を持って知ってきた.  我らは,次々と問題提起を行うことのみ我らの行いうる運動であると信じ,且つ行動する.  第二原則に見られる「自己主張」は,障害を持つ者の立場からの生存権の主張の起点となっている.また,脳性麻痺者としての自覚をいい脳性麻痺者としての自己を主張するというこの運動の方針は,セルフヘルプグループが持つ「肯定的な自己像を生成する機能」を有している.障害を持つ人々による「障害者としての自覚」や肯定的な自己像の生成がなければ,重度障害児殺害事件とそれに続く優生保護法撤廃要求の運動は成立し得なかった.同時に,彼/女らはこの時期に,施設でも家族でもない新しい生活の場を求める自立生活運動を展開した.また,このことは当時,施設内で行われた脱施設の運動があってさらに明確になった。  障害を持つ人の生きる権利は,そのような権利を主張する自己の明確な肯定と肯定するための生活を獲得することによってはじめてなされ得た.そしてその運動は,その後自立生活センターなど地域で当たり前に生きることを掲げる運動につながっていった。  序で示した「障害」に関する定義の転換は,主にイギリスやアメリカでの障害者運動によるところが大きい.しかし日本では,1970年代のはじめにすでに障害を持つ人々のセルフヘルプグループが成立し,そこで「障害を肯定する」という立場から出生前診断や選択的中絶に関する批判が行われていた.このことは,あくまでも「障害」を持つ自己を自覚し,社会や環境によって「できるようにすること」を求めることのみを目標としない運動だった.優生保護法撤廃の運動は、障害を持つ人々が生きる権利を認識し障害を持ってなお生きることを主張する運動があって初めて明確に提示されるものとなったのである.  次に,優生保護法改悪に対する批判運動を見てみよう.    2.2 優生保護法改正をめぐる動き:女性運動と障害者運動の対立  旧優生保護法とは,「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに,母の生命健康を保護することを目的」とした法律で,遺伝性精神疾患や遺伝性奇型を持つ人々の合法化での優生手術を行ってきた法律であると同時に女性の人工妊娠中絶を「許可する」法律だった*10.  1972年に優生保護法改正案が生長の家を母体とする連盟から請願を受けた厚生省により国会に提出された*11.その内容は第一に経済条項の削除,第二に胎児条項(胎児が,重度の精神,または身体の障害が原因となる疾病または欠陥を有している場合に中絶を許可しようという条項)の導入,第三に適正年齢での初回分娩の指導だった.この改正案は「経済的理由の削除によって安易な中絶をなくし,障害を理由とする中絶を認めることで生まれてくる子どもの「生命の質」を上昇させ,結婚した女性は若いうちに子どもを産んで育てるようにする(森岡[1996:47])」ことを目的にしていた.  72年に出された改正案は審議未了で廃案となるが,73年に再度国会に上程された.これに対し女性運動と障害者運動が激しく反対運動を繰り広げた.さらに74年に一部改正案が衆議院本会議を通過したが,参議院で時間切れ審議未了廃案となった.また,82年に同じように改正案の提出が成長の家や自民党の生命尊重国会議員連盟によって検討された.このときは「経済条項」の削除のみが検討されている.しかし改正案は結局,参議院婦人懇談会(超党派)などの反対決議などによって提出されなかった.  1970年当時,優生保護法に胎児条項の導入が検討されたときには女性運動も,障害者運動も国家が有する「生産重視」の社会をその国家意思の具体的な現れとしている.そのように主張することは,国家が有する「生産重視」社会は,自分たちの生を抑圧するという実感と私たちはそのような社会を望まないという主張だった.  この時期の女性運動自体は,簡単に一つの方向としてまとめられるものではないが,基本的な主張は第一に「女性の身体を通した国家による子どもの数と質の管理」に対する批判だった.このことは,女性の身体を生産性を上げることを目的とした国家の「子産み機械」とすることに対する徹底した批判だった.また第二に「女性にのみ,子産み,子育ての責任」があるという考え方が女性に子産み子育ての責任を負わせ,子殺しに至る女性(母親)を生み出しているのだという認識があった.女性運動は,あくまでも女性の身体に対する国家の介入を批判するという意味で,「女の身体は女のもの」ということを訴えた.  優生保護法撤廃という基本的な目標は,女性運動と障害者運動のどちらものが有していた.しかし一部女性運動が掲げた「中絶の権利」をめぐって障害者運動から「女性に障害者を抹殺する権利があるのか」という批判が提出され,女性自身の「内なる優生思想」が問題化された.  それに対し女性運動は胎児条項が女性の「内なる優生思想」を新たに作り出し,子殺しをする女性を新たに生み出すものであるとの立場から批判したのだった.青い芝の会の横塚による『母よ!殺すな』において,横塚は母親による「障害者」殺しを問題にすることで,社会的な優生思想を問題化しようとする.しかしそこではなぜ「女性」のみが「子殺し」に関わらざるを得ないのかを問題化する視点を有していたとは考えにくい.  上述した女性運動に見られるこれらの優生保護法に対する批判は,一部の女性運動(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合:中ピ連)が掲げた「中絶は女性の権利である」,「産む産まないは女が決める」という主張とは異なるものを持っていた.それが田中美津に代表されるリブ・新宿センターの主張だった.この主張は中絶を女の権利とすることに対し違和を表明し,中絶をしなければ生きていけない社会,子殺しを女に強制する社会の在り方に対する抵抗をいかに生み出していけるのかということにこだわり「産める社会を,産みたい社会を」という方向を掲げていった.  田中に代表される中絶を女性の権利とはせずにあくまで「子殺し」にこだわる主張は,子殺しを強制させられ,子殺しに至る女性を生み出す社会の在りようを,女性の権利という言葉によって前提としてしまうのではなく,問題化し,そのような社会のあり様を変革していく方向を目指していたのだった.基本的にはその後の女性運動は後者(「産める社会を,産みたい社会を」という方向)を継承してきたといえるだろう.しかし,その後これらの議論はつめられとはいえない.また現在も中絶は女の権利とする主張も存在する.  この時期,障害を持つ女性たちのなかで出産や育児を経験した人々がいた.彼女らは障害を持つという理由で中絶するのが当然であるかのような扱いを受ける経験をするなかで産む決定を望む側としての立場を表明していた.  以下で,女性運動と障害を持つ女性たちの運動の共闘の方向を概観する.    2.3 女性障害者運動と女性運動の共闘  その後上述したとおり1982年に再度経済条項削除を求める優生保護法改正の動きがあるが,それも時間切れ廃案になった*12.同年に優生保護法改悪阻止連絡会(=後にSOSIRENとなる)が,優生保護法と堕胎罪の撤廃を掲げ活動を始めた.  障害者運動と女性運動の対立という図式から女性と障害者の共闘への道を開いたのは,障害を持つ女性たちによるセルフヘルプグループだった.また,障害を持つ人々の運動の広まりのよって障害を持つ女性たちが自立生活を始め,介助者を入れながら子育てをしていくという生活の変化とそれに伴うサポートの体制が組まれたことも大きく影響している.その中でも優生保護法から母体保護法への改正へ道を開いたDPI女性障害者ネットワークの成立の過程を以下で見ていこう.  DPI女性ネットワークは,1985年バハマで開かれたDPI世界大会の際に,障害者運動(組織)の中にある男性中心性を批判し,「女性」であり「障害者」であるという二つのハンディキャップを持つ女性障害者が当事者となる組織をつくる決議をしたことに始まる.その後,国際的な女性障害者の会議「国際女性障害者リーダーシップフォーラム」が数回開かれている.日本では,1986年にバハマ会議に出席したDPI日本会議の副議長だった樋口恵子が中心となって「女性障害者の自立促進と優生保護法の撤廃」を掲げて活動を始めた.  日本で障害を持つ女性たちの抱える問題に取り組んだのは,以下で述べるCP女の会の活動や車いす市民全国集会1979年の女性障害者分科会から継続した集まりを持つようになった「むかい風」の活動があった*13.  DPI女性障害者ネットワークは,国際規模の女性障害者運動の高まりと日本での子宮摘出などを契機とした障害者運動広まりという背景を持って立ち上がった.彼女らは,障害者運動の中で女性に固有の子宮摘出や月経介助,女性役割とされている子育てや家事に関する問題を話し合っていった.話し合いをしていく過程で,「自分たちが障害者だからしかたないと思ってあきらめてきたことや,自分だけの問題だろうとあきらめてきたことなどを出しあう中で,共通の問題だと分かってきましたし,自分たちに問題があるのではなく,社会が私たちの存在を考慮してつくられてこなかったことが,私たちを生きにくくしているのだということ(樋口[1998:118])」がわかってきたという.そして,まずは自分たちの存在を否定し,その結果としてなされていた「子宮摘出」や「断種手術」を問題化するためにも,あらためて優生保護法撤廃を活動の主軸とした.  DPI女性ネットワークは,障害を持っている人々が地域での自立生活を始めることができる社会的な環境を作り,障害を持つ人々の生活をサポートすることを第一に掲げている.彼女らにとっては,具体的な生活のサポートはすなわち自己を肯定する生き方を指していた.その意味でも,社会環境を変えることと自己の障害を認めること(肯定すること)は,両立して進められるものである.そのような社会的な状況を作り上げることによって,これまで「自己決定」の名を借りて強制的に行われてきた障害を持つ女性たちの「子宮摘出」や女性の「自己決定」という形で行われる可能性がある優生的な胎児の選別,胎児条項の導入などを批判することが可能になった.  彼女らは,街の構造や社会政策において実際に障害を持つ人々が地域で自立的な生活をしていくことができるようにすることを第一条件に,女性の身体を人口調節や命の選別に使うことを批判していった.現実に生きる障害を持つ人々の生活をサポートし,確かに「自分の人生のリーダーシップ」をとりながら信頼を持って暮らしていくことが「障害=不幸」という社会の圧倒的な力,同時に障害を持つ人々自身が有する否定的障害者像を批判する足場になる.この認識は,先に見た「青い芝」の会が有していた方向性と共通のものである.しかし,次の章でも見るようにこの時期に女性障害者の運動が出現したことは障害者内部に存在する差異を顕在化し,障害者を一枚岩で捉えることができないという大きな変化を生み出していた.  なかでも第二節で詳しく述べるピア・カウンセリングは,この時期の女性障害者運動の成立と切り放せない.そしてピア・カウンセリングを通して語りだした女性たちが,「障害という差異を持っていても」,そればかりか「障害という差異を持っているからこそ」人生を豊かに生きることができるのだと信頼を持って語りだしたことが優生保護法の撤廃に大きな力を果たしたということができる.  DPI女性ネットワークは,1994年カイロで開かれた国連人口開発会議のNGOフォーラム,続く1995年の国連による第四回女性会議(北京会議)で,フィンレージの会*14,SOSIRENと共催し「女性のからだ」に関するワークショップを開き国際的に日本の優生保護法の問題点を明らかにしていった.このことが一つの大きなきっかけとなって優生保護法は撤廃された*15.DPI女性障害者ネットワークとフィンレージの会,SOSIRENに共通していたことは,第一に女性の身体を国家の人口の調整弁とし,女性に「健全な子ども」を育成することを課す社会が「均質性」を作りだそうとするものであることに対する徹底した違和の表明だった.  母体保護法はスピード成立し,優生保護法の消滅した.しかし,旧法下で行われた「優生手術」や「強制子宮摘出」などに関する謝罪や検証が行われていないという面で,優生保護法の問題は,解決したとはいえない*16.また母体保護法に変わった現在においても,人工妊娠中絶の位置づけは変化していない.これに対してSOSIRENなどの団体は,女性の身体と性に関する新しい法律をつくる活動を続けている.しかし,同時に「優生保護法」という障害を持つ人々を直接的に差別していた法律が撤廃されたことは非常に大きな意味を持っているといえるだろう.    3.「CP女の会」  次に年代的に前後するが,障害を持つ女性たちのセルフヘルプグループの草分けと考えることができる「CP女の会」の活動を見てみよう.    3.1成立  「CP女の会」は、1974年に「青い芝」婦人部として結成され、後の独自の活動を始めた脳性まひをもつ女性たちの会である。この時期に女性障害者の「子宮摘出問題」や後にみる「八王子事件」などが起こり、それをきっかけに「青い芝婦人部」としてではなく自分たちの立場をより明確にした活動が必要だと考えた女性たちによってこの会は成立した(内田[1994:14])。  また「CP女の会」の成立に当たった内田は,その成立について「女たちは,子育ての中から生まれる新たな地域との摩擦の中で,男たちとは違う差別や偏見を味わい始めていた.男たちは、障害者運動に夢とロマンをかけ、女たちは、日々の生活をかけた(内田[1994:10])」と書いている.このことは,「子育て」を始め,親として地域と関わることをはじめた女性が,「新しい形の」差別,つまり,産むことに関わる差別や「健常者」の子どもを育てる過程で出会う地域や幼稚園,学校,日々の生活のなかでの差別を考える中で生まれてきたといえる*17。彼女らの活動が生活という基盤に起点を持った運動であったことも、これまでの男性を主体とし「思想」を前面に押し出した運動ではなく、実際の生活の中での差別にどのように抗するかを話し合う会としての性格を明確にした。また,それら地域での差別に女性が主に関わらざるを得ない状況それ自体も問題になってきた.    3.2 障害を持つ親にとっての「脱家族」  自立生活運動の中で子育てをはじめた女性たちは,どのような問題を提起していたのだろうか.それを次の文章から見てみたい. 「子供は、自分のものではない。いつか、自分の前から排除しなければ、その排除の時期を間違えれば、一人の健全者として、かって自分たちの親がそうであったように、必ず自分たちの自由を奪っていくだろう。(内田[1994:11])」  この文章は,親になった女性たちにとって、それまで障害者運動が提起してきた「脱家族」がどのような意味を持ったかの一端を示している。「脱家族」という主張がどのようなものだったか,また彼女らの活動がどのような意義を持っていたのかを見ていこう.  障害を持つ人々にとって,それまで「親」または「家族」というのは,自らを産み育てた親=家族を指し,しばしば自らの自立生活に際して対立をしてきた対象だった.彼/女らは、家族は障害を持つ人々自身の自立性を奪い,囲い込む場として存在すると主張してきた.  「脱家族」とは,家族介助の原理的な矛盾と限界を明らかにする日本での自立生活運動の特徴を指す言葉である。この言葉は、家族による介助では「家族内部での感情的な巻き込まれが強く,閉鎖的な空間が作られてしまい,社会に開かれる契機を失ってしまうこと(岡原[1990:78])」があるということを提起していた。岡原([1990:99-100])は,この主張を以下5つの意味に分けて説明する. 1.障害者が独自の人格として周囲との対等な関係を作りつつ,自分の責任で自分の望む生活を営むこと. 2.彼らが真の意味で社会に登場し,障害を持って生きることの大変な側面を家族という閉鎖的空間にのみ押しつけないようにすること. 3.障害を望ましくない欠如とし,障害者を憐れむべき弱い存在としてのみ理解するような否定的観念を排すること. 4.愛情を至上の価値として運営されるべき家族といった意識がもたらす問題点を顕在化すること. 5.家族関係の多様な在り方を示すこと.  岡原のまとめに沿って女性たちの主張を見ると1及び3に対応するのが、障害を持った自分たちが、子どもを産み育てるという意志を持った存在であると主張することに当たる。2及び4に対応するのが、親を介助する存在として子どもを認知することに対する批判として成立する。また、介助者を入れながら子育てする家族を作ることが、5の家族関係の多様なあり方を示すことにつながる。  特に子どもに親の介助を期待することに対し、障害を持つ親たちは早くからその限界性と危険性を指摘している。またここでいわれた家族による介助の限界と危険性は、家族機能の弱体化による家族介助の限界性をいう方向とは別のものである。  すでに示したように彼女たちが第一に主張したことは,自分たちの親が介助することで自分たちの自立性を奪ってきたことを否定するのと同じ立場から,子どもによる介助を拒否することだった.また、障害者の親を持った子どもは「健気な」「面倒見の良い」子どもであることが要求されているという社会的な障害者家庭像を否定した。それが象徴的な形で現れたのが、CP女の会で「八王子事件*18」と呼ばれる事件とそれに対する報道だった。  この事件は、1987年に起きた子どもの自殺に関する事件でその子どもの両親が「障害者」だったことからマスメディアによって取り上げられた事件である。この事件に関するマスメディアによる報道は,障害者の作る家庭を「哀れさ」と「貧しさ」によって描き出し,そのなかで「哀れに死んでいった,健気な少年」として子どもの自殺が描かれた.「少年」の自殺は,両親が障害者だったことのみに起因しているかのようなものだった(小仲井[1994:134]).この報道に対してCP女の会は、障害者の親を持った子どもに「健気さ」を要求することは、障害を持つ親の自立性を否定することにつながるという点から抗議をした.  CP女の会が第二に示したことは,母親役割また女性役割とされてきたものへの批判だった.障害を持つ母親たちは「母親役割を担い得ないものは,子どもを持つべきではない」という言葉に抗して,子どもを持つことを選択してきた人々だった.彼女らは,介助者を入れながら子育てをして行く.それだけでも,「自分のことも自分でできないのに,ましてや子どもまで」と周囲にいわれ,まなざされながら子育てを担っていった.  その中で「母親」のみに子育ての多くの責任を課し,その責任を担えない母親は子どもを持つべきではないという母親像が,母親にのみ「愛情」を要請する社会規範と合致することを彼女たちは問題化した.その意味で,「母よ!殺すな」というだけではなく「父はどこへいったのだ?」,なぜ母親のみが常に地域との摩擦と差別を受け、子育てに関わるらなくてはならないのかという疑問が生じたと考えられる。それは、当時の障害者運動の主導権を握っていた多くが男性であることに対する批判でもあった。   4.子宮摘出と女性障害者運動  1970年代後半に,優生保護法改正と並んで「子宮摘出」が問題化された.ここで問題とされる子宮摘出とは,障害を持つ女性の子宮もしくは卵巣を,月経をなくすことを目的として摘出する手術を指している.  子宮摘出を「問題化」したことは,横浜での障害児殺害事件に際して「青い芝」が障害者の生存権を提起したことと同等の意味を持っている.障害を持つ女性たちは「子宮摘出」を受けることを半ば当然の成りゆきとして受け入れてこざるを得なかった現実が存在してきた.その支配的な現実は「介助を受ける」ことに否定的な意味を付与していた.そのような中で介助に付与された否定的な意味をあらためて話し合う場がもたれていった.    4.1 子宮摘出の合法化要求をめぐって  「子宮摘出」の問題化は,障害を持つ女性自身による「子宮摘出」合法化要求から始まった.  1979年車いす市民全国集会の女性障害者問題分科会*19で,大阪から参加したCPの女性が「自分は子宮をとって生理介護を受けなくなってすごく自分の人生が広がった」,しかし「子宮摘出は安全な形ではできないから法的に保障して欲しい」という内容の発言をした(堤[1989:62]).それに対して,分科会に参加していた障害を持つ女性たちから,「生理介護を受けることで迷惑をかけるから子宮を摘出する」ということは,介助を受けて生活する障害を持つ人々の生活自体を否定することにつながるという反論が起きた(堤[ibid:62]).また「法制化」は,「子宮摘出」をせざるを得ない状況に置かれている障害を持つ女性たちの多くが,施設か在宅での生活をしている現状では,それをますます押し進めることになるばかりか,強制することにつながるという批判も行われた.これらの批判は,自立生活運動をする中で「重度障害者であることを自覚するということは,他人に迷惑をかけなければ生きられない自分を認識すること(内田[1994b:140])」であり,そのような自分をいかに否定せずに生きて行くかということがすでにそれまでの障害を持つ女性たちの間で話されていたという背景があって成立した.  しかし「子宮摘出」合法化要求は,それまで表だって語られてこなかった女性障害者の非合法下での「子宮摘出」を議論の対象にしたという意味では,画期的なことだったと考えることもできる.「子宮摘出」に関する問題は,その後この発言を受けて様々な場所で議論の対象となっていく.  議論の中で出された問題は,第一に月経介助に関すること.第二に障害を持つ女性たちが置かれている位置に関すること.第三に介助を受けて生活することに対して否定的な意味が付与されていること.第四に,生活の幅を広げるために自らの身体の一部を切り取ってしまうという選択があり得るのか,ということだった.  1981年車いす市民全国集会では,79年に合法化の発言をした女性をパネラーにした分科会が開かれている.ここでは,施設などに暮らす人々にとって半ば「公然の秘密」となっているにも関わらず,そのことを公に話したり相談したりする機関がないことの問題性と非合法のもとで行われている子宮摘出の危険性に関して議論することが必要なのではないかという問題が,再度提起されている*20.「子宮摘出」合法化という議題は1981年の段階ではでていない*21.この提起は,身体の一部を自分の都合にあわせて変えていくことはどこまで認められるのかという問題を残している.    4.2 「むかい風」:女性たちによる性に関する語りの場  1979年に,車いす市民全国集会「女性障害者分科会」での問題を継続して検討するために「むかい風」が結成された.この会では主に,女性障害者の月経介助の問題(ナプキンやタンポンをそれぞれの人がどのように使っているか)や,施設における異性間介助の問題などが話されている*22.  その中で,トイレ介助を必要とする重度の障害を持つ女性たちは,自分たちが,トイレや月経について「あっけらかん」と語り出せる場を作ることで,これまで語ることが「(語ること自体)はしたない」とされてきた「常識」を作り替えることが必要だという認識を持っていった.彼女らは,いかに自分たち自身が持っている否定的な意識を肯定的なものへと変化させて行くことができるのかを話し合いの中で見いだしている.  むかい風は,「『女であり,障害者であることのとらえかえし』」を行い,「日常生活の中で感じる様々な『常識』や『価値観』を問い直すこと(車いす市民全国集会[1981:65])」を行っていったのである.  この会は,介助を受ける側とする側の月経介助にたいする認識を転換することによって,それまで月経介助を受ける側の「恥」と認識されてきた「月経」を「当たり前なこと」へと大きく変化させた.このことは,「子宮摘出」を「月経に介助が必要であること」や「月経介助」の恥ずかしさを理由に行おうとすることをいかになくしていくかを考える契機となった.月経に関するこのような認識の転換は,障害を持つ女性たちに限らず,70年代の女性運動のなかでも見ることができる.また,註に挙げた『女たちのリズム 月経・からだからのメッセージ』(1984)に,月経を語れないものや恥ずかしいものから,当たり前に語れるものへと変化させていった女性運動の動きを見ることができる.    4.3 「子宮摘出」をめぐる議論が提起したこと  「子宮摘出」に関する議論の中で問われてきたいくつかの重要な提起をまとめると以下の5点になる(堤[1989],「障害者」が地域で生きる会[1981],岸田・金[1994]).第一に,子宮摘出とは,「親が看られなくなったら,施設に入るしかない」という決定権を持たない無力な障害者像の再生産に寄与するという点.同時に,介助者の側の介助軽減を目的としている意味で「健常者の側の都合」によって障害を持つ人々の身体を変えようとする営みであること.第二に,女性障害者の女性としての性が否定されていること.また,介助が必要な者は子どもを持つべきではないとする社会規範への批判.第三に,介助軽減を目的とした「子宮摘出」は,女性の身体への過剰な介入であり人権侵害であるということ.第四に性に関することを「私的領域」に閉じこめる社会規範が子宮摘出を語れなくさせてきたという認識.これに対しては月経や性をあっけらかんと語ることの必要性が認識され実際に語られてきた.また第五の問題は,「子宮摘出」が障害を持つ女性自身の「自己決定」という行為によって支えられ,強化されていたという事実とそれに対する鋭い批判である.  「子宮摘出」を「自己決定」せざるを得なかった女性たちは,「自己決定」という言葉が,優生思想を強化し支える強力な手段として使われてきたことを明らかにした.このことは,「自己決定」の必要性を一方で訴えながらそれがもつ危険性を彼女らが早くから認識してきたことを意味する.  第一の問題に対して,障害を持つ人々による80年代後半からの自立生活センターの実践や,それ以前の障害を持つ人々の自立生活運動は大きな力を果たしてきた.子宮摘出の決定をした(せざるを得なかった)多くの女性は,「一生施設で暮らして行かざるを得ない」と考えていた.それに対して「自立生活」という別の生活の可能性が開かれ,それをサポートする実践が行われてきたことは,彼女たちに「別の現実」をもたらしたことを意味した.また,現実に自立生活し介助者を入れて