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社会福祉の学問と専門職

三島 亜紀子 199903
大阪市立大学大学院修士論文


 *この論文をもとに、以下の書物が刊行されました。
◆三島 亜紀子 20071130 『社会福祉学の「科学」性――ソーシャルワーカーは専門職か?』,勁草書房,211+36p. ISBN:9784326602063 (4326602066) 3150 [amazon] ※

目次
 序  1

 第1章  専門職化への起動  9

  第1節  全米慈善・矯正会議におけるフレックスナー報告  9
   1915年フレックスナー報告 ─否定されたソーシャルワークの専門性  9
   社会福祉教育をめぐる背景 ―フレックスナー以前  12
  第2節  フレックスナー報告に先行するフレックスナー報告  15
   医学領域におけるフレックスナーの功績  15
   1910年フレックスナー報告  15
   フレックスナーの人物像  17
  第3節  進化する専門職  20
   1915年フレックスナー講演にみる「進化する専門職」像  20
   カーネギーの『富の福音』  22

 第2章  社会福祉の「科学」を求めて  30

  第1節  ソーシャルワーク理論と諸学問の理論  30
   ソーシャルワーク理論の変遷  30
   社会福祉学の「学際的」研究  31
   今は無きソーシャルワーク理論 ─優生学の援用  34
   社会福祉学の基礎科学における「神々の争い」  36
  第2節  精神力動パースペクティヴ  38
   精神力動ソーシャルワーク理論出現の背景  38
   理論的構造  41
   脚光を浴び始めた子ども時代  43
   心理主義の専門家観  45
  第3節  マルクス主義にとっての「社会福祉学」  46
  マルクス主義的ソーシャルワーク理論出現の背景  46
  理論的構造  47
  マルクス主義ソーシャルワーク理論の専門職観  49
 第4節  社会福祉統合化へむけて ─システム‐エコロジカル理論  51
  システム‐エコロジカル・ソーシャルワーク理論出現の背景  51
  理論的構造  53
  「生活モデル」は「医学モデル」を「超越」したか?  55
  システム‐エコロジカル理論の専門職観  57

 第3章  幸福な「科学」化の終焉  67
  第1節  反専門職主義の嵐  67
   「反専門職主義」の台頭  67
   ソーシャルワーカー批判  69
   自立生活運動 ─リハビリテーションへの疑問  72
  第2節  脱施設化運動  74
   社会運動としての脱施設化  74
   ホスピタリズム研究にみる「脱施設」の文脈  77
   治療としての脱施設化  79
  第3節  新たな社会福祉専門職への再調整  82
   例えば「ノーマリゼーション」、「リハビリテーション」概念の変遷  82
   再調整されたソーシャルワーク理論  84
   社会福祉学の二律背反  86

 第4章  「子どもの主体化」への流れと児童虐待  91
  第1節  近代社会と児童虐待  91
   「子どもの発見」と学問  91
   「子どもの発見」と社会福祉学  92
   「子どもの発見」の発見  94
   社会福祉と児童虐待  95
  第2節  動物と子どもと…  97
   動物愛護協会と被虐待児  97
   動物へのまなざし  100
   牛いじめ廃止と児童虐待防止協会  101
  第3節  近代家族と児童虐待 ─性的虐待に関する考察  103
   「性的虐待」が犯罪となる日  103
   性的虐待者は男か女か  106
   フロイトの功罪  108
   性的虐待のサイクル説 ─フロイト主義 v.s.フェミニズム  110
  第4節  権利主体としての子ども  112
   児童の権利と優生思想  112
   子どもの「依存宣言」  114
   「子どもの権利」二つ  115

 第5章  社会福祉専門職が介入する主体 ─安全重視か自由か  123
  第1節  社会福祉学における主体について  123
   ソーシャルワーク理論にみられる複数の主体  123
   悲観主義と楽観主義  125
   政治と「主体」の多様性  127
  第2節  専門職化と児童虐待問題 〜拡大しゆく児童虐待の意味内容  129
   児童虐待の定義  129
   拡がりゆく定義  130
   児童虐待の定義に疑問を投げかけた人々  131
   ソーシャルワーカー批判の意味  133
  第3節  安全重視か自由尊重か  134
   児童虐待防止法導入とともに浮上した問題 ─安全重視か自由重視か  134
   1933年「児童虐待防止法」にみる「安全重視か自由重視か」  136
   「安全重視か自由尊重か」と複数のソーシャルワーク理論  138
  第4節  子どもと親と国とのバランス  141
   誰の自由なのか? ─J・S・ミルの「自由について」  141
   自由論と子ども  143

 終章 社会福祉学領域の「ポストモダン」論争  148
  第1節  イギリスにおける展開 @ 専門職化とソーシャルワーク理論の変遷  148
   救貧法からの脱皮と1948年児童法  148
   子どもへの学問的まなざしの集中  149
   「予防」的介入の進展  151
   マリア・コルウェル事件と精神力動ソーシャルワーク理論の攻防  153
   ジャスミン・ベグフォド事件と心理主義の剥落  156
  第2節  イギリスにおける展開 A 懐疑されるソーシャルワークの「科学」  157
   クリーブランド事件  157
   性的虐待の診断方法 ─性的虐待を取り巻くディシプリン  158
   1989年児童法  161
   子どもおよび親の権利の所在 ─「自由」とはなにか  162
  第3節  「社会的に構築される」児童虐待という命題  163
   アメリカにおける児童虐待の「バックラッシュ」 ─ジョーダン事件の転機  163
   「バックラッシュ」推進側の理論  164
   社会構築主義と社会福祉研究者  165
  第4節  社会福祉学という場にあるM.フーコー  166
   「ポストモダン」時代の社会福祉学 ─1990年代の熱狂  166
   自由主義との親和性  167
   フーコー、およびフーコディアンの「移植」  169
   従来の社会福祉学の解体と「反省的学問」  170
   日本の「反省的学問」  172

  文献表


 




社会福祉学

  現在、日本で「社会福祉学」1)という学問は既に成立している。少なくとも「学」を取りまく法的な既成事実は確実に存在する。「社会福祉士」という国家資格があり、国家試験が毎年施行されている。その受験資格を所得するためには、学校教育法に基づく大学・短期大学・専修学校において、厚生大臣の指定する科目を修めるなどしなくてはならない。そこに「社会福祉学」という科目や、その周辺科目は確かに存在し、その機能を果たしている。特に近年、全国の大学や大学院に社会福祉学のコースが乱立されていき、福祉の名のつく教科書が本屋で溢れていくのを目にしてきた。
  しかしながら学問というものは、それだけでは成立しない。社会福祉の研究者たちはこれまで学会を結成し、学術雑誌などを中心に理論や技術の精緻化を志し、論を戦わせてきた。そこで日本でも、それは踏襲され、社会福祉学の礎とされる『社会診断』も戸田貞三らがテキストにするなど、戦中から海外の研究がリアルタイムに紹介されていく。また、自らの歴史を溯って日本固有のものを求め、現在の社会福祉従事者を裏書きしようとも試みた。そして最近では、他の専門職や、海外での様式に忠実に、「倫理綱領」(1986年)も宣言されている。
  確かに、存在としての社会福祉学は19世紀末ごろから現在に至るまで「発展」の歴史を歩んできた。その学問はソーシャルワーカーの「専門職化」を根拠付けるものとして、一定の役割を果たしたとされている。学問の確立が専門職化をもたらすというこの図式は、他領域の学問 ─例えば医学や精神分析学─ にも共有されるものであった。社会福祉学は、医学教育を近代化させたことで名高いフレックスナーという人物を通じて、それを学んでいった。彼はそもそも20世紀初頭に「ソーシャルワーカーは専門職ではない」といいはなったことで、福祉関係者によく知られている人物である。社会福祉学は社会進化論の楽観的な潮流のなか、この屈辱を励みに、彼の提示した観念上の「専門職」の条件をクリアしていったのである(第1章参照)。このことはいずれなされるソーシャルワーカー批判が証明するように、社会福祉学が知の近代的様式美に従順であったことを示しているといえよう。
  ここで彼らはまず、福祉専門職が担うであろう幅広い実践領域を鑑みながら、社会福祉学の境界を確定し、体系的な理論を構築していかなくてはならないという強迫観念に駆られる。そこでその対象や行為、方法、技術に関して、立法・行政用語と照らしあわせながら、専門用語として公式の定義付けをおこなう。こうした司法関係の用語に連動しているのは、社会福祉という生業が、国や自治体からの委託を受けておこなわれているなど、それと密接な関係にあることから生じたのかもしれない。とはいえ、社会福祉学における方法・技術に関しては、独自の理論を展開できる自由な空間を有していた。

興亡

  本論文でいう「ソーシャルワーク理論」2)とは、この自由な空間で積まれた研鑚の厚みのことを指す。学問としての形式を保つためには、他領域の学問から理論が援用されていった。これまで多くの理論がその場を賑わしたが、最初に導入されたのは社会学と精神医学・心理学を論拠とするソーシャルワーク理論である。特に、フレックスナーによる動機付けがなされてからは、フロイトを代表とする後者の理論が最も影響力を持った。その後、優生学(第2章1節)からマルクス主義(第2章3節)、機能主義、一般システム理論(第2章4節)、問題解決、行動変容、実存主義、危機介入、課題中心、そして生態学にいたるまで多数の領域から影響を受けたソーシャルワーク理論が展開された。社会福祉学研究者たちは自らそれらの蓄積を、他領域の学問を「移植」したものにすぎないと卑下してみせるが、現行の社会福祉学においてそれらは排除されてはいない。
  しかしながら実践と密着する学問の運命として、「学」を意識するものほど、演繹的な学門の迷宮に迷い込んでいるのではないかという批判を受けやすい。社会福祉の場合、その実践に就いているものが発する声が、いち早くその性質をいいあてていた。現場にいるものたちはいう。学問は日常の業務には関係ない。実践において役立つことは少ない。大学での専門教育を終え、資格を手にした若者よりも、現場経験の長い無資格者のほうが現場では有能である、など。そこでは、専門職化を裏付けるはずであった研究の蓄積は、容赦なく放棄される。
  とはいえ、アカデミックな場においても、社会福祉学は市民権を得ることができないでいた。既存の学問を集成すると、新しい学問が創立されるという根拠はどこにもなく、かえって、既存の学問からの攻撃は激しさを増すという結果となった。諸学問からの無頓着な理論の流入で成り立つ社会福祉学とは、結局二番煎じにすぎず、独自の学問として単に体系化ができていないものとして受け止められた。もろく、傷つきやすい社会福祉学。そのことは、フレックスナーというトラウマ以来、常時口にされてきたものでもある。
  こうした傷つきやすい部分を残したまま、日本では急速な高齢化という追い風を受けて、社会福祉学は所与のものとされ、専門性を根拠付ける役割を課せられた。この危うい学問に立脚して、「社会福祉士及び介護福祉士法」(1987年)は成立したといえる。こんにち、社会福祉の「学問」を修めた学生は国家試験に合格すると、国のお墨付きを得た専門家として待遇されている(あまり優遇されないが)。さらに、同法の成立が公的介護保険の制度化にとって前提条件であったともいわれているように、この危うさに準拠して、超高齢社会あるいは「福祉社会」の設計図が描かれ、社会福祉専門職の質の向上、量産が目論みられているのだ。しかしながら、高齢社会という回避できない状況が「学問」としての完成度と「専門性」を擁護するといっても、根本的問題は解決されていないし、それがもたらす逆機能が問題になることもある。
  マルクス主義が、ある時代の日本の社会福祉学界を一世風靡したことがある。彼らも社会福祉学を確立させるため、思索を重ねてきた。このマルクス主義が持つ論理的一貫性は、学問としての達成度が一気に上がるのではないかという期待感を当時の社会福祉関係者たちに抱かせた。また時代的にも、まだ社会福祉がマーシャル(Marshal, T.H.)のいう「残余的」なものであったので、クラス概念は経験的にも妥当であったといえよう。しかし福祉関係者たちに夢を抱かせてくれたこの理論的道具が「流行」らなくなった現在、こうした理論的構築の試みや福祉学内部での論争も、同時に意気消沈しているようにみえる。
  当時、伝統的なマルクス主義者たちは既存のソーシャルワーク理論、特に「精神力動ソーシャルワーク理論」(第2章2節参照)に激しい批判をぶつけていた。マルクス主義者たちの目には、そのソーシャルワーク理論が資本主義社会を基礎付ける「ブルジョア科学」として映ったことは想像に難くない(Rojek[1986:67])。その「マルクス主義的ソーシャルワーク理論」(第2章3節参照)が結局、科学を志向するものであったとはいえ、心理主義的な援助技術に対立項が出現し、活発に議論が交わされたという点では意味深いものであった。そして現在、その対抗関係もマルクス主義的ソーシャルワーク理論の消滅とともに、希薄化が進んだ。
  しかしながら、マルクス主義の没落によって精神力動ソーシャルワーク理論が再び表舞台に押しもどされることはなかった。1960年代、1970年代からの反専門職の潮流が引き続きその存続を脅かしたのである(第3章参照)。そこでは社会福祉学の「科学」性を高めるといった客観主義的な学問のあり方が、パターナリステックな専門職の温床となると批判された。マルクス主義でさえも否定しなかった、知のあり方そのものを標的にしたものである。この経験はこれまで骨身を削って重ねてきた「科学的技術」への努力が無意味化されたのみならず、それの精緻化が専門化の根拠となっていたという危うさをも露出してしまう。

「反省的学問理論」

  こうした研究活動の閉塞状況のなかで生じた「新しい」ソーシャルワーク理論が、本論文が主題とする「反省的学問理論」* である。社会福祉学の場合、「エコロジカル・ソーシャルワーク理論」や「エンパワーメント」、そして「ポストモダン・ソーシャルワーク理論」といったものにほぼ該当する。本論文では、社会福祉学における「反省的学問理論」を検討するが、実践を目的とした他領域の学問を横断するこの傾向を視野に、普遍性を有するものとして扱いたい。

* この造語を用いるか否かで散々迷ったが、これを描き出すことが本論文の主題の一つであり、紙数を減じるためにもあえて用いることとした。各学問領域にこの概念に合致するものはあるが、渉猟しえたかぎりでは、それらの共通性を封じたことばがみつからなかった。謹んで、ご了承いただきたい3)。

  「反省的学問理論」とは、本来おのれに向けられる批判的言説を、内面化することによって正当性を保つ学問理論のことを指す。この奇妙な学問理論は、批判的言説を真摯に受け止め、反省すべき点を反省しているようにみえる。またそれは自戒的緊張を保ちつつ、より「おだやか」にことを進めるためにある時期以降、急速に普及していったともいえる。例えば、他分野の「反省的」表象として、以下のようなものなどがあげられる。
  戦後からの歴史がある「リハビリテーション医学」という分野では従来、文字どおり医学モデルに基づく施療がおこなわれていたが、ある時期から「反省的学問理論」の洗礼を受け始める。現在では「全人的復権」(上田[1983])が第一義となり、「ユーザー」の人格の自立性や尊厳性、そして選択権と自己決定権を尊重するといった標語が、まず前面に掲げられている。
  心理学の分野においても、「社会構成主義」の実践として「ナラティヴ・セラピー」(McNamee and Gergen[1992=1997])というものが出現した。彼らは「自らをポストモダンの流れのなかに厳密に位置づけ」、デリダやフランクフルト学派のネオ・マルクス主義、フーコーなどの影響を受けているとする。そこでは「科学者としての治療者」という「伝統的な見方」は放棄され、個々人の「」や「」を許容することが重視される。
  また教育学において「反省的学問理論」は古くて新しい問題ではあるが、1960年代の児童解放運動の潮流がもたらした「児童中心主義的教育」とは、近代プロジェクトとしての教育学の反省をもとに再生された教育法である。そこでは、自発性や能動性が高められるものが重視され、詰め込育や、暗記の強制、体罰などが回避される(松下[1997])。もちろん、その背景には「脱学校化」を唱えたイリイチや、学校を「イデオロギー装置」と位置づけたアルチュセールらの存在がうかがえる。
  この「反省的学問理論」を本来の学問理論と比較してみると、その概念の輪郭は明確になるだろう。本文第2章では科学性を志向する本来の学問理論のいくつかを具体的に取り上げているが、それと「反省的」な徴候を第3章で対比させている。「反省的学問理論」への移行は従来の近代知のあり方を否定し、つまりそれまでの研究の蓄積を相対化し、自省を経て「新しい」展望を摸索する試みである。その移行は、これら複数の学問領域において、担保を用意しつつも「コペルニクス的転換」としてセンセーショナルに語られていさえする。
  「反省的学問理論」といったとき、学問理論に準拠する専門家の制度が整備される前のものはここでは考慮しない。それは適任とされた多数の者が動員され、彼らに必要とカテゴライズされた人々を組み込んで執行されている制度が存立していることを重視するからである。もちろん、それ以前の思想家が提示する理論にその源泉を辿ることは可能である4)。しかしながら、この制度が運営されている段階で出現する対抗言説は、より存在感があるし、あるいは政治的文脈のなかに読み取ることもできる。
  社会福祉学において「反省的学問理論」の興隆をもたらした思想家としてフーコーの存在は大きかった。本論文では、この領域において彼の思想がいかに吸収され、従来の学問から「反省的学問」への形式に変容したのか、歴史的過程を考慮しつつ明らかにしていきたい(終章参照)。この奇妙な形式に頻繁に引用されるのが『監獄の誕生』(Foucault[1975=1977])であるが、フーコーはこの著書で社会福祉学をも含む、既存の学問を「国家の管理装置」、「規格化の技術」としたのは周知の通りである。
  該当する従来の学問にとって、こうしたフーコーの思想は破壊的である。したがって、社会福祉学に限らずフーコーの論を「移植」することは、一見、従順にも「まなざし」が再び変容したかのような印象を受ける。はたして、そう即断してもよいのだろうか?さらに社会福祉学において、「反省的学問理論」が ─ポストモダンという鍵概念を介して─ みうけられるようになるのは、イギリスではようやく1990年代にはいってからである。つまり、そこに10年以上の沈黙の期間があり、そこに不自然さを感じられずにはいられない。

アポリア

  しかしながら、この「反省的学問理論」という形式には、先天的なアポリアが存在した。例えば、教育学における「児童中心主義」とは、単に社会統制を目指す教育の機能をより効果的に果たすための手段にすぎないという批判が寄せられる。一部の者たちが「楽しい学校」や「ゆとりの時間」に込められた作為を読み取るのである。また「ナラティヴ・セラピー」にしても、それをセラピストが臨床場面での「治療」に用いるため、結局「科学」の一形態にすぎないという指摘はまのがれない。
  社会福祉学の「エコロジカル・アプローチ」という方法は、ソーシャルワーカー批判を経て理論化された「反省的学問理論」の一種といえる。ここでは「治療」者としてのソーシャルワーカーから、「生活モデル」に基づく「協働」者ととしての役割が強調された。しかしながら、こうした試みも、否定されたはずの「医学モデル」の域を脱するものではないという者がやはり存在する。また、社会福祉学におけるポストモダニストの出現は、他領域と同様、新自由主義の台頭という政治的問題に読み替えられることが多かった。しかしながら他方では、それは「自由」に粉飾された介入主義的な「本来の学問」にすぎないと解釈される。とはいえ、こうしたアポリアに解決や回答をみいだそうとするのは、無意味といえるかもしれない。
  近年、この解決されない問題は子どもの権利という軸をみいだすことによって、さらに展開されてきた(第5章)。したがって、本論文ではそれに関連する子ども観についても1章を割いている。例えば、「子ども」という観念が近代において、家族と学校に囲い込まれることによって発明されたというアリエスの論は、彼が自認するように、彼の歴史認識はイリイチのいう「脱学校化」論と重複し、教育における「反省的学問理論」推進者を魅了してきた。そしてそれは同時に、オートノミーとしての子どもの権利を擁護する者によっても多用されている(Archard[1993])。社会福祉学の領域においても、オートノミーとしての子どもの権利は、子どもの真の福祉を保障するものとして、「反省的学問理論」を支持する者の多くがそれを掲揚するだろう。
  ところが、それを楽観的な論理にすぎないとする人々が存在する。アリエス・テーゼなどで論拠付け、子どもの自律性や自由を口にすることは、結局「介入の一手段」となっているという。社会福祉学の「反省的学問理論」は、国家や「公共の安全」に対峙する「自由」の論拠として活用できる。しかしながら同様に介入を棄却するものと思われた「親の自由」と「子どもの自由」の擁護とでは、その目的が実は異なっていた。つまり、オートノミーとしての子どもの自由を強調することは、家族を遠隔地から統治することと変わりはないとみなされるのである。両者が「反省的学問理論」の援護を受けているのに関わらず、その目的は反発しあう。

攻防

  さらに「反省的学問理論」のアポリアは、子どもの権利を介して、児童虐待をめぐる問題に出会うときに噴出する。そして、その子どもの虐待事件は、イギリスにおける戦後の福祉サービス体制の整備や、社会福祉の専門職化とともにあったといっていい(Jordan[1984=1992])。なぜなら虐待事件とは、ソーシャルワーカーへの批判を集めることになるが、その結果、それまでは明確にされていなかった「責任」や「権限」を、手中に収めることになるからである。
  ところで、ドンズロは「非行に走る危険な子ども」と「危険にさらされている子ども」という、二人の子ども像にソーシャルワーク存立の近代性をみいだしている(Donzelot[1977])。彼らの/彼らへの「危険」性が国家機関による介入の正当性を自明のものとした。そして、彼もフーコーも主に、前者の「危険な子ども」をめぐる知の様式について検証した。
  本論文ではもう一人の子ども像、「危険にさらされている子ども」に焦点を当て、それが社会福祉の学問の体系化とその専門職化にどう関与していったかを描いていきたい(第4,5章参照)。特に、この「危険にさらされている子ども」を対象とした場で、数ある言説がどのように攻防戦を繰り広げていったのであろうか。子どもの権利を軸として、子どもの主体化の変遷をなぞるところから考察していきたい。だが、ここではそれが社会福祉学のポストモダニストのような型どうりの批判的文体にならないように、また「反省的学問」の持つアポリアに回答を出すようなことはしないでおく。
  ちなみに、この「二人の子ども」は、彼らを対象とする学問にとって紙一重の違いであるとみなされる。例えば、ボールビーは「母性的養育の喪失」(児童虐待と定義されうるものを含む)が(少年非行を含む)「社会的病毒の源泉」になるとして、「予防対策」を要請している(Bowlby[1951=1967])。日本でも最近、児童虐待に対する関心が高まりをみせているが、それは少年の逸脱行動と結合させられる。「神戸連続児童殺傷事件」のA少年に対しても、彼の家庭環境にその原因を究明する試みが多くなされたが、彼が一種の被虐待児であったことに注目する研究者もいる(野口善國[1998]、斎藤学[1998])。


  また、こうした議論が繰り広げられる前提として、現在われわれを抱合する社会の様式に注目しなければならない。自由主義社会にあって、児童虐待とは自由や責任を消滅させる一つの回路となる(第5章参照)5)。アメリカのクリントン大統領の不倫揉み消し疑惑に際しても、彼が子供時代、情緒的に「剥奪」され、虐待を受けた経験があったことなどが連日マスコミで取り上げられた。その総体は彼を解読可能なものとし、彼を責任追究する経路から、それをずらした世界へと招きいれるだろう。

  自由な社会における一つの「不自由への経路」としての児童虐待は、『ファウスト』にも読み取ることができる。ファウストとの間に生まれた子どもを死に至らしめたグレートヒェンは、いわば究極の「児童虐待」を犯した。当時の法律によると、子殺しは死罪である。グレートヒェンは牢獄に入れられ、精神錯乱に陥る。その彼女を救うことができたのは、「知」への限りない探求心を持ち、貨幣経済を肯定し、「自由な土地に自由な民とともに立ちたい」と願うファウストその人であった。しかしながら、「正気」を取り戻した彼女は誘うファウストを振り切り、神を選び、同時に死刑が確定する。
  象徴的なファウストが救われるクライマックスでは、贖罪を済ませたグレートヒェンが彼を赦し、天上へと導く。そして、被虐待児といえる「早く天に招かれた少年たち」(天使と人間の中間)は、ファウストの魂に向かっていう。

  ぼくたちは早く
  生きている人たちから遠ざけられましたが、
  この人はいろいろと学んでこられたので、
  ぼくたちを教えてくれるでしょう。

                 (Goethe,J.W.[1774-1831/12080-12983])


1) 「社会福祉学」、「社会福祉」の定義について、数々の論争を経験してきた。その対象とは何か、またどういった手法を用いるのか、基礎知識をどういった範疇とするのか、など。ここでは、こうした解決されることのなかったコンフリクトを認識しつつ、それら脈絡のない総ての知的作業を含む範囲を念頭にこの語を用いる。体系化がなされたかどうかよりも、体系化を志向したかどうかを重視したものである。しかしながら皮肉なことに、社会福祉領域におけるポストモダニストの出現が(終章参照)、社会福祉学を近代国家における一つの知として承認された結果となった。
2) 本文中でも述べるが、これまで「ソーシャルワーク理論」という語はあまり使われてこなかった。「理論」といえば、人名を冠した「○×理論」というようなかたちで用いられている場合が多かった。しかしながら、人名を表に掲げた場合、その人物が参考にした学問や理論は複数にわたっている場合が多いため、ここではこの語を用いない。ソーシャルワークということばには、社会福祉学の「科学的」技術を追究する分野であるとのニュアンスが含まれるため、「社会福祉理論」よりも的確であると判断したものである。
3) 教育学において、体系的教育学の破棄を宣告するレンツェン(Lenzen, D.)は、新たな学として、「反省的教育科学」を提示する(鳥光[1995])。ここでも、「反省的」ということばが用いられている。
4) 例えば、宮澤康人は「児童中心主義的教育」をルソーからドイツ観念論を経てデューイにいたる教育論を貫流するものとし、さらにロマン主義の精神も浸透しているとした。
5) ここで、実際に「危険にさらされる子ども」◆無視し、児童虐待に関する昨今の関心の高まりを「社会的に構築されたもの」と一括りにするつもりはない。児童虐待はここにあり、今、何らかの対処を要することは確かである。それを確認したうえで、以上で述べた本論の主題を検討していきたい。


  


■第1章  専門職化への起動

第1節  全米慈善・矯正会議におけるフレックスナー報告

1915年フレックスナー報告 ─否定されたソーシャルワークの専門性

  1915年、アメリカ・ボルチモアで開かれた全国慈善・矯正事業大会(National Conference of Charities and Correction)において、「ソーシャルワークは専門職か?」(Flexner[1915:576-590])が発表された。この報告は、エブラハム・フレックスナー(Flexner,A.)によってなされたが、彼はこの短い「論文一つによって、その名は社会事業界に遍く知れわたっている人」(田代[1974:68])である。
  「その後の社会福祉専門職の研究に原点の位置を占めるかのように、多大な影響を与え続けてきた」(秋山[1988:85])といわれるこのフレックスナー講演は、社会福祉学の基礎知識として、社会福祉の専門家たるものは頭に入れておかなくてはならない事項である。なかでも、フレックスナーの功績として専門職が成立するための「6つの属性」を明確に提示したことが注目される(田代、[1974:68]秋山[1988:85]、NASW[1995:2584-2585]奥田[1992:67]などで引用される)。その専門職の規準とは次のようなものである。

@ 基礎となる科学的研究(基礎科学)のあること1)
A 知は体系的で学習されうるものであること
B 実用的であること
C 教育的手段をこうじることよって伝達可能な技術があること
D 専門職団体・組織を作ること
E 利他主義的であること2)

  これらは医学を完成された専門職のモデルとして提示されたといわれるが、フレックスナーの主張にインパクトがあったのは、なによりもこのモデルに準拠してソーシャルワークは専門職ではないという結果を導いたことである。フレックスナーはこれら属性を掲げた後で、「現段階でソーシャルワークは専門職に該当しない」(Flexner[1915:588])と結論づけた。当時、アメリカでは社会福祉を専門に教える学校は既に設立され、「専門的」な教育がそこで施されつつあるという認識があったばかりに、このことは社会福祉従事者を専門職化させようと試みる人々にとっては衝撃的なものであった(田代[1974:68]、小松[1993:28-29])。
  いや、そればかりではない。爾来、専門職化のためには、考案された「専門職として承認されるための条件」(フレックスナーの場合は例の「6つの属性」)を充たしていく過程を歩んでいくべき、という暗黙のルールが社会福祉学という場を支配していくことになる。フレックスナーに準拠した論理展開によって「専門職化」を推し進めた人物としてグリーンウッド(Greenwood, E.)やミラーソン(Millerson, G.)などがあげられる。彼らの社会福祉の専門職化に関する研究も、フレックスナー「神話」(Austin[1983])の世界のなかでくりひろげられた議論であったといえよう。
  グリーンウッドは1957年に「専門職の属性」を発表し、独自に5つの属性(Greenwood[1957:44-55])3)を掲げた後で、「ソーシャルワークはすでに専門職である」と結論づけた。このフレックスナーと正反対の結論にも、フレックスナーの影響をうかがうことができる。なぜなら、フレックスナーの講演は、「発展する社会福祉学」(発展しゆくイメージについては、第3節参照)を運命付けたのであるが、グリーンウッドはその運命に従って、いよいよ社会福祉も専門職に昇格する時期にきたという判断を下したにすぎないからである。
  しかしながら、グリーンウッドが独自の専門職の基準を設け、既に当時のソーシャルワーカーはそれらの基準を充たしているため、専門職であると述べたことは人々の認識に基づいていた。1952年にソーシャルワーク教育協議会(Council on Social Work Education:CSWE)が結成され、ソーシャルワーク教育についての全米的な責任を持つものとなったほか、1955年に7つの社会福祉団体が統括され4)、全国ソーシャルワーカー協会(National Association of Social Workers:NASW)が組織された。このグリーンウッドの論文が合併して間もないNASWの機関紙“Journal of Social Work”に発表されたことも、一つの完成された学問体系に立脚しているように思われる。
  1967年に東京都社会福祉審議会が東京都知事に対して提出した答申「東京都における社会福祉制度のあり方に関する中間報告」のなかで、ミラーソン(Millerson, G.)の概念が用いられ、日本では彼の6つの属性が普及している(秋山[1988:86-87])。1964年に発表された「資格化団体 ─専門職化の研究」は、専門職を属性で把握し、専門職になるためにそれぞれの条件を充たすよう促す5)。ここでは条件として、「テスト合格」という用件が加えられていることが注目されている6)。しかしながら、この論文においても、属性モデルを規準とする基本的な姿勢はフレックスナーやグリーンウッドと大差ない。それは、ブラウン(Brown, E.L.)の掲げた属性7)にしてもまたしかりである。その他にも、多くの研究者が専門職性について言及したが、奥田のおこなった比較一覧表を参照したい。

表 1 専門職の属性 ─研究者別比較一覧表

  (略)

  オースチン(Austin,D.M.)は1982年に、社会福祉領域に蔓延する「フレックスナーの悪霊を、追い払うべき時が来た」(Austin[1983:375])と述べた。「反省的学問理論」さえもが台頭してきている現在、フレックスナーの提示した専門職の規準に照らすと、それを満たせない仕事に多くの福祉専門家が従事しているといえる。こうした事態でもオースチンは、フレックスナーのいう属性に惑わされることなく、多様な形態の職務があることそれ自身を、社会福祉の専門職の特性として肯定していくべきだ主張する8)。
  この社会福祉学における「フレックスナー神話」は、その後くりひろげられた一つの「知」を目指す学問的な試みや、専門職団体の整備、学会の開催、学術専門雑誌の発行、そして教育のあり方についての改革に大きな影響を与えている。しかしながら、こうした1915年のフレックスナー講演がすべての源泉だとは考えられない。この「神話」を再考するためにも、まず、当時の背景について検討していきたい。

社会福祉教育をめぐる背景 ―フレックスナー以前

  フレックスナーの講演が、無情にも当時の社会福祉教育を否定し、衝撃を与えたせいか、それ以前の社会福祉の教育が評価されることは少ない。逆に、フレックスナー以前の学問や教育を未分化段階と位置づけ、その未熟さを強調することによって、「発展する社会福祉教育」像を描くことに貢献しているといっていい。では、社会福祉教育の始まりの場面では、どういった学生を対象としていたのであろうか?
  1869年にイギリスで設立された慈善組織協会(COS)では友愛訪問員による救済活動にがくりひろげられていたが、これがアメリカに伝えられ、1877年にCOSがニューヨークで初めて組織化された。そして1893年の深刻な不況以降、社会におけるソーシャルワーカーの役割は重要なものになっていったが、この活動を支えたのは、新しく開設された女子大の卒業生であった。彼女たちの多くは中流・上流階級に属し、それまでの伝統的な女性像に収まることを拒否して、新しい女性のあり方を模索していた。しかしながら、大卒の女性に既存の専門職従事者(医者・弁護士・聖職者・ビジネスの管理職など)として受けいれる機会はほとんど与えられない。そうした状況のなか、社会福祉の機関が大卒の女性に対して就職の機会を提供し始めたのである(Austin[1983:378])。
  そこでくりひろげられた初期の専門職論は、必然的に女性の問題と関係してくる。このことはフレックスナーの1915年講演にしても、ソーシャルワーカーを三人称で表すときには、「彼女」となっていることからも類推できる。しかし、そこでの「ソーシャル・ワーカーという新しい役割は、古くからの一部擬制的な役割 ―家庭の守り手― の要素と、新しい役割 ―社会奉仕家― の要素とを結び付けたもの」(Platt[1969=1989:94])と特徴づけられるように、現在「女性の社会進出」が意味するものとは異なってくる(母性主義フェミニズムと児童福祉の関係については、第4章を参照)。それは「大規模な家事」(Platt[1969=1989:75])として受け入れられ、「フェミニストと反フェミニストの立論の前提は、奇妙な符合をみせた」(Lasch[1965:53-54])のであった9)。
  そこでこの新しい職業のための訓練が1890年代および1900年代に始められた10)。社会福祉教育の養成学校の必要を訴えた人物のなかでも、リッチモンド(Richmond,M.)が有名であろう11)。1897年全国慈善矯正事業大会の講演のなかで、当時ボルチモアCOSの事務局長であったリッチモンドは、COS内でおこなわれていた見習い研修制度は、経験的な教育に偏り、同時にあまりに早い専門分化を強制するものであると批判した。そこで題目である「応用博愛事業学校の必要性」(Richmond[1897=1974])を説いたのである。そこでは新興の職業であるソーシャルワークを既存の「専門職」同様、社会的に認知されるよう働きかける姿勢が読み取れる。
  1898年には、ニューヨークCOSが主催となり、常任理事(executive director)であったデヴァイン(Devine, E.)の責任のもと、ソーシャルワーカーのための博愛夏季学校(Summer School of Philanthropy)が実現される。さらに1904年には1年コースのニューヨーク博愛事業学校(New York School of Philanthropy)が開校され、1912年には2年コースが加えられた。このように、1915年以前にも、リッチモンドを始めとする多くの要請を受けて、教育体制が整いつつあった。この時、学校を設立してすでに17年も経過しており、フレックスナーという外部から専門性を否定されたことはショッキングであったことが類推できる12)。
  ここで、社会福祉教育の方法に関して、「二つのアプローチ」(Austin[1983:358])が対立しあっていたことに注目したい。まず第一のアプローチとして、分析的で社会改良に端を発し、社会理論に基礎をおく学術的なカリキュラムを要請する立場である13)。この立場にある代表的な人物の一人として、ハルハウスでのセツルメント活動を通じて社会改良運動をおこなったアダムス(Adams, J.)があげられる。これは1869年に設立されたCOSにおいて、植民地支配の方法を貧困救済の技法として用いたことに溯ることができる(Jones[1996:191])。このアプローチにとって、ソーシャルワーカーは基礎知識として社会政策問題に精通するべきものとされる。リッチモンドの定義に従うと、個々のケースを重視する「小売り」(retail method)(Richmond[1905=1930:214-221])的ソーシャルワークよりも、総合的な「卸し売り」(wholesale method)的ソーシャルワークを推奨する立場といえよう。
  第二のアプローチは、「社会調査をおこなう者」である前に「ケースワーカー」であるべきとする臨床に基礎をおいた教育カリキュラムを主張する立場で、実践経験を重視し、社会福祉機関との連携を強調した。第一のアプローチの「卸し売り」に対して「小売り」的社会福祉学とされる。この立場にある者として、リッチモンドがあげられる。彼女はフィラデルフィアCOSの事務局長にあった1905年に社会福祉領域における先駆的な専門雑誌“Charities and the Commons”を創刊する。そしてその雑誌を舞台に、ケース記録を教材に使った実践的な教育方法を強調し始め、第一のアプローチと対照的な存在となった(リッチモンドとアダムスのコントラストについては、木原[1998])。
  また、それ以前の「応用博愛事業学校の必要性」(Richmond[1897=1974])にもすでに「アカデミックなものよりも実際的なもの」を強調し、教室での授業とともに、現場での経験を重視していくべきであると述べている。ここに、臨床の場を持ち、施療体験や観察を教育に役立てる近代医学の教育体制の影響がみうけられる。「医者こそ私たちが心からそうなりたいと願っているもの」(Richmond[1897=1974:5])であり、第2節で述べる1910年「フレックスナー報告」の出版にも強く影響を受けている(Richmond[1911=1930])。ここで、1915年の講演以前にも、1910年の医学におけるフレックスナー報告が直接影響を与えていたことが明らかになった。
  フレックスナーが講演した1915年頃は、社会改良思想を支柱とした「社会」側から、振り子が退却しつつある時期であった。第一のアプローチの立場をとったリンドセイ(Lindsay, S.M.)が1911年からニューヨーク博愛事業学校に勤め、自ら主張するアプローチを基礎とした教育をおこなうが思うようにはいかなかった。そこで翌1912年には学校を去ってコロンビア大学に戻ることとなっている。そして、リンドセイが去ったその席には、実践経験のある常勤教師が雇われることになった。また同1912年、2年目が実践教育に割かれる2年制のカリキュラムが加わることとなり、リッチモンドの支持する臨床重視の教育が実現しつつあった。当時の実践を重視したニューヨーク博愛事業学校の教育方針は、実はアメリカの医療界を近代的なものに刷新したフレックスナーの教育方針に大きく影響されていった。
  1915年フレックスナー講演は、「これが刺激となって、フレックスナー『症候群』と評価されるぐらい、脅迫的に、『技術』への傾斜が強められるようになって」(小松[1979])きたと認識される。そして『社会診断』(Richmond[1917])の出版も契機となり、その後第二のアプローチ、「小売り」的ソーシャルワークが主流となる。
  それは両者の発行した専門雑誌の関係者による普及度によっても類推することができるだろう。第一のアプローチに属したアボットとブレキンリッジ(Breckinridge,S.P.)による雑誌“Social Service Review”と、第二のアプローチに属したAmerica Family Social Work協会(旧・アメリカCOS)の発刊した雑誌“The Family”14)では、後者のほうが圧倒的に広く読まれた。前者が公的扶助を含む社会福祉政策、行政、そして社会保障などに関する記載が多いのに対して、後者はソーシャルワークの技術や方法論に関わる論文を多く載せている。1930年代、1940年代では、当時の社会福祉分野における指導的な人物のほとんどが“Family”に論文を掲載していた(窪田[1988:66])ことからも、第二のアプローチがその後優勢になっていったことがうかがえる。
  「技術への傾斜」が時代の趨勢となるなかで、しだいに社会福祉学はフロイト(Freud, G.)の精神分析をその論拠とするようになっていく。そこでいわゆる「精神医学の氾濫(psychiatric deluge)」(Woodroofe[1961=1977])の時代を迎えることとなった。社会福祉の科学化を進め、学問としての体系化を図ることにより、専門職化を促すために、精神医学や心理学を取りいれることとなっていく。これに続いて、さまざまな学問理論が大挙して社会福祉学の範疇に押し寄せてくることになる。こうした傾向のインセンティヴとなったのは、フレックスナーの講演に代表される、科学的な知の体系に裏付けられた理想的専門職像の存在であった。
  ここでは、現代的な社会福祉専門職の鋳型となった医学領域におけるフレックスナーの言明について考察し、彼自身の思想を重層的に捉える作業を試みたい。


第2節  フレックスナー報告に先行するフレックスナー報告

医学領域におけるフレックスナーの功績

  フレックスナーはその後、半世紀以上、あるいは現在に至るまで社会福祉領域におけるトラウマとして存在しつづけてきたのだが、当の本人は社会福祉への興味はほとんどなかったといっていいだろう。“I Remember”という自叙伝には1915年の会議については何も言及されておらず、ほとんどが医療分野の教育改革に関する言動について記されている(Austin[1983:364])。全国慈善矯正会議に出席したことについて「私は覚えて」いないらしい。
  フレックスナーという人物は社会福祉分野のみならず、医学分野においてもその専門職化に大きな貢献をした。いや、彼の関心が医療に集中しているように、医療分野における功績のほうが、より大きな関心を集めているといっていいだろう。また彼の医学領域における業績は福祉分野のみならず、法学や精神医学、薬理学などといった、さらに広範囲の学問領域に影響を与えている15)。また、プリンストン高等研究所(The Institute for Advanced Study)の設立に尽力し、アインシュタインを始めとする多くの著名な科学者を招聘するなど、学術の中心地がドイツからアメリカに移行する際のキーパーソンとして重要な役割を果たしたとされる(斎藤真[1979])。
  しかしながら、社会福祉研究者の間ではこれまで彼を単に医学分野からやってきて、社会福祉専門職を否定した人物として捉えられてきた。彼自身が医者であったという誤解さえ蔓延っている16)。またどれだけアメリカの医学教育に大きな影響を与えてきたかに関しては意外と知られていない。こうした誤解や無関心は単に、「フレックスナーの神話」に浸った社会福祉研究者の心性から生じるのかもしれない。とはいえ、1960年代からのソーシャルワーク批判(第T部、第3章参照)というのも、実はこのフレックスナー的発想に対する批判であったはずである。以上のことを考慮すると、「批判」の後にも専門職を語るときにのみ、引用されるフレックスナーについての再考が必要であろう。

1910年フレックスナー報告

  1909年、アメリカ医師会(American Medical Association:AMA)は、カーネギー財団教育促進委員会(Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)の寄付を受け、フレックスナーはアメリカとカナダにある全ての医学校の訪問を開始した。これは翌年、『合衆国とカナダにおける医学教育』(Medical Education in the United States and Canada :A Report to the Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)と題してまとめられた。これがいわゆる「フレックスナー報告」である。
  彼はその訪問に際し、以下の点を評価をおこなううえでの規準とした。フレックスナー報告の約半分の容量に相当する第U部において、その評価は州ごとに全て収められている。

@ 学校名、創立年、学校の系列など
A 入学資格
B 生徒数
C 教員数
D 維持費の財源
E 研究設備
F 臨床設備

  このうち後二者(E、F)は、フレックスナーの知見に基づくコメントが添えられており、よりよい設備を確保する学校に対しては10行程度の長さとなっている。
  ハドソン(Hudson, R.P.)は、この報告書がもたらした影響について、その長所として次のような点を掲げている。

@ 水準のまばらな医学校を等質化し、医学校の全体数と、脆弱な教育しか受けない医者の数を減らしたこと。
A 医科大学予科教育(premedical)の必要性を説いたこと。
B 研究機能を担わせ、医学校への常勤体制を導入したことにより、医学校教育者の「専門職化」を促したこと。
C 科学的基礎の上に医学校のカリキュラムを組んだこと。
D 臨床教育のために病院施設が必要となり、病院を学校のなかに取り込んでいったこと(Hudson[1992:7-13])。

  @は「報告」以降、専門職的団結力が強まり、州による免許制定の要望が高まった結果、もたらされた。このことは専門家団体の発言が影響力をもつようになったことを意味する。AMAはそもそも、教育改革をおこなうことを主目的として1846年に設立されたのだが、その成果は全く振るわなかった。当時は、後述するリッチモンドの医学に関する記述が証明するように、「初期の頃の治療法のほとんどあらゆる粗野な形態が依然として残存してい」(Richmond[1897=1974:5-6])たのである。そのような状況のなかで、AMAの進める改革が実を結ばないのも、私立の医学校を経営する医者が多数を占め、改革をおこなう上で不釣り合いに大きな発言権が与えられたからである。その改革は小規模の医学校を淘汰することになり、当然それらの学校に関係する医者にとって不利益をもたらす(Hudson[1992:6])。そのため、半世紀以上にわたってAMAは有名無実な存在であったが、1904年にAMA内で医学教育審議会を設立され(Council on Medical Education:CME)17)、定期的に医学校を視察・評価するようになってから事態は急速に展開していった。CMEは1908年にカーネギー財団の援助の獲得に成功し、フレックスナーの大規模な調査が実現することとなった。
  またAは、生物学、化学、物理学といった基礎知識を進学時にすでに身につけるように要求したものである。それは高校や大学の一般教養ではその要求を充たすものではなく、高いレヴェルに設定されていた。そこで、この基礎知識を学ぶための医科大学予科教育の登場となる。この新しい医学に対する要求は、フレックスナーによると、医者の役割が個々の患者を治療するものから、社会全域を対象とした予防的なものを強調するものへと変化したため、起こってきたという。つまり、医者は公衆の衛生管理という新しい役割を担うために、より広い科学的知識を身につけなければならないという論理である。しかしながら、このフレックスナー進学時に幅広い基礎知識が必要だとする主張はその後、しばらくはあまり徹底されることはなかったという(Hudson[1992:9])。
  ジョンズ・ホプキンス大学やハーヴァード大学など、近代医学教育の先駆をなした医学部のカリキュラムは4学年にわたるものであった。最初の2年間は解剖学、生理学、病理学などの研究科目に割かれ、後半の2年間は内科、外科、産科などの臨床科目に費やされる。そして、この後半の2年間に提供される病院施設の必要性は高まっていく。その臨床教育がおこなわれる際、ライセンスを持つ経験豊かな医師の指導が必要となり、Bのような常勤のスタッフを配備しなくてはならなくなった18)。
  次に、Cに関して教育者である医者は一方で科学的研究活動をおこなわなければならず、そこで得られた成果を実践に、そして教育において役立てていくことを期待されるようになった。フレックスナーは、治療の実践と研究活動は「精神・方法・目的において同一のもの」(Flexner[1910:56])とみなしたが、この点については現在批判が集中する部分である。つまり、フレックスナーはここで「医者=研究者」と設定したのであった19)。医学従事者とは実践の場においても、研究所内においても、「科学者」なのであり、患者の診断時のクリニカル・エンカウンター(clinical encounter:治療上の出会い)は科学的研究における一つのケースとみなしていた(Hudson[1992:9])。そこで、患者と医者の関係は一方的な権力構造のもとにおかれ、人間的なコミュニケーションが剥奪されている、という批判が起こるのである。
  Dに関連して、Barzanskyがフレックスナー報告の背景として、治療の場が家庭から病院へ移行した時期であることを指摘したように(Barzansky[1992:191])20)、医学教育もそれへの対応が迫られていた。それは病人を病院へと囲い込むことになり、昨今の反医療化や脱施設化などの批判の対象となる。また、それは大規模な資本、運営費を必要としていった。

フレックスナーの人物像

  19世紀末におこなわれたリッチモンドの講演のなかで、専門職としての医療を社会福祉の専門職化の過程で意識するよう呼びかける記述があるので、少し長くなるが引用する。

  私たちは、往時において理容師たちが採血をしたり、抜歯を行ったとか、司祭が依然として私たちの主治医でもあるとか、あるいは薬剤徒弟人たちに病気の診断をするという微妙な仕事を委ねたといったような、慈善事業の進歩の上では初歩的な段階以上には進んでいないと言うべきであろう。私たちは、医業においてさえも、初期の頃の治療法のほとんどあらゆる粗野な形態が依然として残存している、ということは知っている。しかしこれらの遺物は、一定の専門職の基準によって比較衡量されるから、その規準に達しないことが明らかになるのである。そのような規準となるものが、知的でない仕事であるかどうかを確かめるために、私たちの慈善事業にあっても遺憾ながら必要だということになるであろう。私は、医学の歴史についての造詣はあまり深くない。そうではあるが、おそらく医業はその知識と原理の遺産の大部分を、その大学制度に、自由豁達な専門職の一員たるには臨床医であるのみならず教育者であるべきだ、という伝統が確立されている大学に、負うていると言えるのではないだろうか。
(Richmond[1897=1974:5-6])

  ここでは、19世紀末、医学は社会福祉学に比べてより「進歩」的な位置を占めていたという当時の認識がうかがえるが、フレックスナーによる専門職としての社会福祉の否定を待つまでもなく、それは当時の社会福祉領域の人々にとって常識であった。つまり、フレックスナーの講演は当時の認識から隔絶したものではなく、何ら新しいものではなかったといえるだろう。
  この点に関して、フレックスナーの医学領域における役割は「偉大な触媒」(Barzansky,B.[1992:189])と表されるように、福祉領域の場合と同様、なんら革新的な言明をおこなったわけではない。さらにフレックスナーはもともと正規の医者ではなく、カーネギー財団の援助を受けた全国調査に関与するまではケンタッキー州の一中学教師(後に大学予備校の校長)にすぎなかった。そんな、地方の中学校に20年近く奉職した教育者がドイツ留学を機に21)、利害関係を孕むパワーゲームのなかに、半ばスター的な存在として登場したのである。
  フレックスナーは1910年の報告において、先に述べたように望ましい専門職のあり方について述べたが、結局それはハドソンの指摘するように、当時の医学領域の常識を超えるものではなく、その権威者の見解を代弁したものとさえいえる(Hudson[1992:7])。例えば、その報告にある調査の視点も、1906年Council on Medical Educationによる認可調査で用いられた方法に酷似しているといわれている(Barzansky,B.[1992:190])。
  このように、当時の共通認識を代弁したにすぎないのにもかかわらず、その影響が大きかったことに関して、バーザンスキーは「フレックスナーの方法論は評価的と特徴づけられる」と述べる。フレックスナーは1910年の報告のなかで、厳密に当時運営されていた全国の医学校を、学校名を明らかにして評価をおこなった。それは時には無遠慮ともいえるほど、歯切れのよい評価であった。例えば、いち早く当時近代医学のトップと考えられたドイツ流の医学教育体制を整えたジョンズ・ホプキンス大学などは評価が高い。

  (ジョンズ・ホプキンス大学に併設されている)ジョンス・ホプキンス病院及び薬局は実践上の理想を提供している。(略)医学校の設備とはこのように、研究所と臨床とが複雑に織り交ざった有機的な全体性をもつものである。(Flexner[1910:235])

  そこで、結果的に「淘汰」される学校がでてくる。特に少数民族や女性を対象とした学校や、低価格の授業料で徒弟的な伝授をほそぼそとおこなっていた学校が、フレックスナーの推し進める医学教育の近代化に乗り遅れることとなった。このことは現在、「黒人や大多数の女性や貧しい白人男性の前にドアはぴしゃりと閉ざされてしまった」(Ehrenreich, B. and English,D.[1973=1996:47])と批判されている22)。フレックスナー報告に記載されている黒人専用の医学校の評価がどんなものか、みてみよう。

  (3)Knoxville 医学校。黒人向。1900年設立。無所属の機関
入学資格:無きに等しい
学生数:23名
教員数:11名、うち9名が教授
維持費のための財源:授業料、$1020にのぼる(推定)。
研究設備:なし。学校のあるフロアーでは葬儀屋の設備で占められている。
臨床設備:なし。ある学生が述べたところによると、10月1日から1月28日までに2度、「幾人かの学生がKnoxville大学病院に連れられていった」そうである。調剤室はない。
この学校のカタログは初めから終わりまで虚偽の陳述で塗り固められている。
(Flexner[1910:303-304])

  こうした無慈悲な評価がなされた学校の多くは、寄付金や補助金を得ることができなくなり破綻に追い込まれる。上記のノックスビル医学校にしても、フレックスナー報告の出版された年に資金難で閉校されるにいたった。そして10校あった黒人向けの医学校のうち、8校は「淘汰」される結果となった(Savitt[1992])。フレックスナー以後、「医師は白人の、男性の、中産階級の職業にな」り、排他的で権威主義的なものとなったとして、特に権利運動が盛んになった時期から、批判されることになる。
  チャップマン(Chapman, C.P.)によれば、フレックスナー報告が大きな影響を与えた理由の一つは、医学校の運営資金のあり方であった(Chapman[1973:111])。フレックスナーがモデル校として示したジョンズ・ホプキンス大学の標準にまで教育改革をしたその他の学校に、寄付金獲得への道を開いたのである。 
  フレックスナーの推奨する医学教育は研究所の維持や常勤教員の雇用、臨床教育のための病院との連携などの必要から、その運営に莫大な費用を要するようになっていた。そこで、公的機関による補助金や、民間からの寄付金という学校にとっての新たな収入への道が、運営費の大きなウェイトを占めるようになっていった。実際、各医学校が先を争って、フレックスナーの描いた、つまりAMAの意向に沿う教育改革をおこなうようになった。報告書の存在は医学の「科学的進歩」に向けたインセンティヴとして効果的に作用したといえる。逆に、教育改革をおこなわず、設備の整わないといった「出費の対象とならない大学は衰退し、廃校の可能性」(Achterberg[1990=1994:281])が生じたのである。
  フレックスナーの歴史に占める役割を再度確認すると、彼は社会福祉学領域においても、医学領域においても、その学問としての形態を近代的なものへと移行させたという点で、非常に大きな役割を果たした。しかしながら、彼の主張する言説は当時の各学問領域ではすでに一般化しつつあったものであり、あるグループの強調するものであった。彼はこの言説が多数派に移り変わる絶好のタイミングで登場し、専門職のあり方を近代的に初期化した人物として歴史に名を留めることとなったのである。
  しかしながら、一方でこうした淘汰の過程を経ることは科学としての医学が「発展」の右肩上がりの線をなぞっていることになり、好意的に受け止められた節がある。社会進化論が全盛を極めた時期であったことを考慮すると、こうした多少手荒な報告であっても人々の理解が得やすく、寄付金を集めやすかったのではなかっただろうか。次に、二つのフレックスナー報告に共通する専門職の発達史観について検討してみたい。


第3節 進化する専門職

1915年フレックスナー講演にみる「進化する専門職」像

  フレックスナーの「ソーシャルワークは専門職か?」(Flexner[1915])は、以上のような医療領域における議論を念頭におくと、単にその講演がソーシャルワークの専門職性を否定するに終始したのではないことをより際立たせる。
  医学領域においてフレックスナーは、「進化」を遂げる医学・医療を最前線で目の当たりにしてきた人物であったといえる。実際、医学校の「淘汰」に際し、各学校が生き残るための条件を明確に記し、また実名をあげて評価をおこなったことでその「淘汰」の営みに片棒を担いでいる。そうした人物が「ソーシャルワーカーは専門職か?」の結びに次のような含蓄のある言及をしている。

  ソーシャルワークが専門職でないということを不愉快ではあるが、自覚するようになれば、おそらくソーシャルワークは進歩するであろう。(Flexner[1915:590])

  ここで、フレックスナーは「進歩」という言葉を使っているが、この点が、ソーシャルワークの専門性を否定したにもかかわらず、彼の名が社会福祉の歴史のなかに刻まれるに至った要素だといっても過言ではない。たとえ彼がその完全な発展の可能性について多少の疑問を差し挟んでいたとしても、社会福祉領域における知の連続体が「進化」に彩られていることに意義がある。つまり、この「進化する社会福祉学」の像がその後の社会福祉の展開(おそらくはソーシャルワーク批判の時代まで)の指針となっているのである。
  また、この「進化する社会福祉学」像は、主に医学との比較によってその程度を類推してきたのであるが、1915年の講演においてそれ以外のさまざまな(専門)職業との対比をおこない、斜め上がりの進化の線をより滑らかなものにしている。その簡単な概念図を下に記したが、具体的に論文においては「a」に配管工(plumbing)、「b」に銀行家、「c」に薬剤師、「d」に正規看護婦、または看護婦が他の方面の看護(公衆衛生)を発展させた保健婦として描いた。そして「承認された専門職」として「e」には「法律家、医者、宗教家」をあげている。

図 1「ソーシャルワークは専門職か?」における専門職のヒエラルキー

   専門性 高                     ・ e
        α                        
                               
                    ・ d
                 ・ c           
              ・ b
           ・ a
      低           未専門職     専門職
                          
                           専門職の種類

  また「専門職としての規準線」は、「α」に設定されているが、これはフレックスナーがこの論文で明らかにした「専門職の6規準」であることは容易に察せられよう。ここでは、その規準を充たし、αの線を踏み越える職業こそが「専門職」として認定されるのである。
  ソーシャルワークという職業がこの線のどの部分に位置づけられたかであるかだが、これに関してフレックスナーは明言を避けており、「ソーシャルワークは教育とほぼ同じ水準にある」(Flexner[1915:587])としている。しかしここで重要なのは、これら社会福祉を含む職業がこの発展の線上に位置づけられたことであり、その結果、職業間に一種のヒエラルキーのようなものが発生したことである。現にリッチモンドも1917年の全米ソーシャルワーク会議において、フレックスナーが1915年の講演においてソーシャルワークの技術が発展していくものとして位置づけたことに希望を託している(Richmond[1917=1930:399])。
  しかしながら、やはりフレックスナーは発展段階のある段階にソーシャルワークを位置づけた先駆者だとはいえない。リッチモンドは、ニューヨーク博愛事業学校設立の直接的なきっかけとなった全国慈善矯正会議における講演「応用博愛事業学校の必要性」をおこない、社会福祉の専門職化のイメージを医療におけるそれに重ねている部分がある。前出のリッチモンドの見解を参照されたい(第2節)。彼女は医者という専門家をすでにその専門性が確保されたものとして、「私たちが心からそうなりたいと願」う。そしてその後で、「慈善事業の進歩の上では初歩的な段階以上には進んでいないと言うべき」(Richmond[1897=1974:6])とし、次の段階に進むためには医学教育のように、社会福祉に従事する人々の間に共通の理解を作り出すことが重要であると述べる。こうした発想は、フレックスナーのレトリックに酷似しているといえる。またこれが医学におけるフレックスナー報告に先行していたことに注意するべきであろう。
  リッチモンドにとって、教育・研究機関を造るということは、専門職化をおしすすめる過程にほかならない。彼女自身は、1909年にニューヨークに新設されたラッセル・セイジ財団(Russell Sage Foundation)の慈善組織部(Charity Organization Department)部長として多忙な組織活動から退き、「研究、指導および出版活動に専念」(小松[1993:47])するようになっていた23)。木原活信は、ここで「しだいにケースワークの科学化に成功し、『社会診断』、『ソーシャル・ケースワークとは何か』にいたる執筆の構想が完熟してきた」(木原[1998:172])とする。こうした研究活動とそれを支える研究機関や学校の存在は、そのディシプリン存続の糧となり、「科学化」の基盤となる。
  しかしながら、「博愛の科学化」や「科学的慈善」という言葉自体を溯ると、セツルメント創始者の一人、トインビー(Towinbee, A.)の説くところでもあった。さらに溯ると、19世紀初頭に隣友運動をおこなったチャルマース(Chalmers, T.)が「科学的救済法」を提唱したり、アメリカCOSの初期リーダーの一人、ロウウェル(Lowell, J.S.)も貧民を扱うことは科学であり、ソーシャルワークを「科学」と称し(井垣[1994:60])ている。フレックスナーが講演をおこなった全国慈善矯正会議でも、1901年にすでに「科学の時代」の到来が宣言されている(井垣[1993:39-85])24)。とはいえ、フレックスナーの役割は、近代的な様式の位相に社会福祉を標準化したという意味で、重要な位置を占めているという点において変わりはない。

カーネギーの『富の福音』

  医学領域のフレックスナー報告(1910年)が実現したのはカーネギー財団からの寄付金であったが、カーネギー財団とはいうまでもなく、19世紀末及び20世紀初頭に「世界の鉄鋼王」として名をはせたアンドルー・カーネギー(Carnegie,A.)の所有した財団である。彼は貧しいスコットランド移民であった少年時代から、大富豪へとのぼりつめた成功者として有名だが、彼自身自伝のなかで述べているように、社会進化論者であったことでも有名である25)。社会進化論者であるイギリス人のスペンサー(Spencer,H.)も、カーネギーをアメリカの親友の一人に数えたといわれている。
  カーネギーは「乞食を作ってきた罪を免れる百万長者は少ない、実に少ない」(Carnegie[1889=1975:264])と前近代的な貧者に対する施しを否定する。しかも「慈善家たる者が、この世界で真に恒久的な善を行なおうとするにあって直面する主要な障害の一つは、無差別施与の実行であるということを忘れてはならない。百万長者の義務は、施与するに値すると明らかに得心がゆかない者には、けっして与えないこと」(Carnegie[1889=1975:263])という。これらの言明は彼が「富の偏重は『種の発展』において不可欠の要素であるとみなす」(Brown[1979:30])、社会ダーウィニズムの思想に基づいた見解であることが推測できる。
  これらの否定はマルサス的な自由放任主義思想かいまみられるが、彼の「慈善家」としての一面は世に名高い。現に、彼は300の図書館や4100の教会のオルガン、カーネギーホールなどを寄付し、カーネギー財団も設立した。一見矛盾しているように思える彼の活動を決定付けたのは、社会進化論的見地と宗教的実践に基づく「進歩」的な援助観であった。
  カーネギー財団がAMAのCMEに寄付し始めたのは、1908年からであったが、それに先立つ1889年に、カーネギーが新しい時代にふさわしい富者にとっての寄付のあり方について述べた文章がある。この「富の福音」(The Gospel of Wealth)と題されたエッセイは、雑誌『ノース・アメリカン・レヴュー』に発表され、評判となった。現在ではウォードとサムナーの『社会進化論』(Ward, L.F. and Sumner, W.G.[1975=1975])に収められているのだが、そのなかに医学への寄付について触れた個所がある。
  
  さらに、厖大な財産が有効に利用されうる、きわめて重要な分野がもう一つある ―病院、医科大学、研究所、その他の病気の治療、特に人間の不幸の治療よりは、むしろその予防に関連した施設の創設あるいは拡張である。(Carnegie[1889=1975:270])

  カーネギーは、医学領域に対する「百万長者」からの寄付を、美術館、図書館、公園、ホール、屋内プール、教会にならんで推奨した。なかでも、フレックスナーのおしすすめた医学の教育改革の方向と一致する部分がある。

  もしわが国の百万長者で、委託者としての自分に任されてきた余財の使途を考えあぐねている者がいるとしたら、このような化学研究所(ある事業家がコロンビア大学に贈った研究所・筆者注)からもたらされる利益について考えてもらいたい。いかなる医科大学も、研究所がなければ完璧とはいえない。総合大学の場合と同じように、医科大学もまたしかりである。必要なのは新しい施設ではなく、既存の設備をさらに完璧なものにするための付加的な資金である。(Carnegie[1889=1975:271])

  研究所では「病気を、その原因を究明することによって予防することを研究している」(Carnegie[1889=1975:270])のだが、これは個人への施しを拒否し、「公共の福祉」、ひいては社会の進歩のためにこうした活動を続けるカーネギーにとって、絶好の寄付先であったといえよう。
  しかしながら、このエッセイの題名からも推察できるように、こうした寄付活動それ自身は、「金持ち」の「義務」(Brown[1979:31])であり、宗教的な理由が大きな要素となっている。彼は「金持ち」は天国に入ることが難しいというキリストの教えに執着しているようにみえる。

  金持ちは天国に入りがたし、といわれた時代があった。(Carnegie[1889=1975:271])

  ここで、過去形で表現されていることに注目したい。カーネギーはそんな時代は過ぎ、今や「最高最良の形態」で貧者に施しをする「金持ち」には「天国の門が閉ざされることはない」という。この「最高最良の形態」とは、国民、あるいは人類の「純然たる進歩」が見込める、(ここの貧者への施しではなく)「公共の福祉」(Carnegie[1889=1975:277])のためになされる寄付のことを指すのである。
  社会進化論には淘汰されゆく数多くの劣性のイメージが付随するが、この淘汰の「法則」は、例えば黒人専用の医学校へはより少ない寄付で済ませることの正当化に用いられた。「黒人の教育に常に関心を持っていた」というロックフェラー財団でさえも、比較的小規模な援助に終わっている。

  医学校のすべてを十分に援助することは明らかに不可能であった。金は重要な点に集中させなければならない。(Fosdick[1952=1956:145]26))

  ロックフェラー財団の歴史をまとめたフォスディックは「昔ロックフェラー氏の個人的な博愛主義の時代に行われた方針 ─弱者よりもむしろ強者の上に更に築き上げる方針と合致した」ものと解釈している(Fosdick[1952=1956:145])。
  当時、社会進化論という新たなユートピア的未来観がアメリカ中を覆いしていたことは周知であろう。一般に、社会進化論の祖述者であるスペンサーの思想は、彼の母国であるイギリスよりも、アメリカでの評判のほうが高かったといわれている(Hofstader[1944=1973])。こういった土壌のなかで、社会福祉従事者や医師を含む「専門家」が設定され、人々がそれを望み、貨幣がそこに流通していったことを把握しなければならない27)。
そして、医学領域におけるフレックスナーの主張を考慮すると、こうした学問的外観を維持するためには、恒常的な研究活動がおこなわれていなければならない。フレックスナー的な言説は病人を部分化して捉え、病院を科学的実験の場へといざなったが、こうした精神もやはり社会福祉学にとりこまれていった。木田は「現存する関係科学の総ての知識を基礎に持たねば完成せぬ」としたうえで次のように述べる。

  技術的な記録となり、実験となることによって実験となり得るのである。即ち社会事業の実践は技術によって実験となり、その故に科学的になる。したがって実践は一つ一つ切り離されたものであるが、実験たることによって整理され進歩性を獲得する。だから技術は前以てつめ込まれた機械的な画一化でなく生々躍動する進歩的なものなのだ。
(木田[1952:40])

また、谷川貞夫も戦後のケースワークに影響を与えた『ケース・ウォーク要論(改訂版)』において、セツルメント・愛隣園を「社会事業のラバラトリー」(谷川[1949:1])としたし、児童福祉施設・双葉園30)長の高島巖も児童福祉施設を「実験劇場」(高島[1954:51])とした。しかし、こうした思考は戦前からの継承であることがわかる。

  セツルメントは一の社會的實驗室である。(渡部[1936:53])

実践が実験になったとき、科学性が実証されるのであるが、こうした科学志向は第3章で検討する反専門職化運動などの火種となったのは明らかである。
さて、ソーシャルワーカーが専門職となる可能性がこうした風潮のなかで約束され、その方法もフレックスナー的な思考により、自明のものとなった。社会福祉研究者としては社会の「進化」のためにも、整備され始めた議論の場で技術を高め、科学性を追求する役割が与えられていた。医学を模したその学問を確立することが、専門職化を確固たるものにしていくのである。次章では、社会福祉を科学化させるために援用された、代表的な「ソーシャルワーク理論」について具体的にみていきたい。


1) 広辞苑には、あるディシプリンにおいてこれをさす言葉として「基礎医学」の項目しか記載していない。「基礎医学」とは、「医学の研究・教育・実践上の専門分科のうち、直接患者の診療に携わらないものの総称。現代の日本では通例、正常の人体の構造および機能を研究・教授する学問(解剖学・生理学・生化学)、臨床の基礎的事項を研究・教授する学問(病理学・薬理学・微生物学・免疫学)および社会医学(法医学・衛生学・公衆衛生学)を含む」(広辞苑 第四版[1996])とある。
2) 場合によっては、この6つの規準に加えて「専門職の集団に属する人々は、常規的・機械的なものではなく、知的な過程にたずさわるものであり、またかかる知的な仕事をなす際に個人的責任を負うもの」(岡本[1988:60])があげられることがある。ちなみに“Encyclopedia of Social Work”(NASW[1995:2585])では6つとなっているが、論文ではしばしば強調される点であることを考慮すると、この7つめの属性も重要であろう。
3) ここで、グリーンウッドは@体系的な理論、A専門職的権威、B社会的承認、C倫理綱領、D専門職的副次文化(サブカルチャー)という5つの属性を示している。
4) 全米ソーシャルワーカー協会職業安定所(1917年、後に全米ソーシャルワーカー協会)、アメリカ病院ソーシャルワーカー協会(1918年、後にアメリカ・メディカル・ソーシャルワーカー協会)、全米訪問教師協会(1919年、後に全米スクール・ソーシャルワーカー協会)、アメリカ精神医学ソーシャルワーカー協会(1926年)アメリカ・グループワーク研究協会ソーシャルワーカー(1936年、後にアメリカ・グループワーカー協会)、アメリカ・コミュニティーオーガニゼーション研究協会、ソーシャルワーク調査グループ(1949年)の計7団体が合併された。
5) ミラーソンが掲げる専門職の属性とは、@公衆の福祉という目的、A理論と技術、B教育と訓練、Cテストによる能力証明、D専門職団体の組織化、E倫理綱領の6項目である(秋山[1988:87])。
6) しかしながら、「6つの属性」のなかにあげていなかったからという理由だけで、フレックスナーが「テストによる能力証明」を支持しないと結論づけるのは短絡的である。彼の医学における「専門職」観は、何らかの資格制度を前提とするものである。
7) ブラウンは専門職の特性として、@高度の個人的責任を伴う知的操作の使用、A学習可能性、B専門化された規準を通じて、伝達されうる技術の保有、Cその諸規準の向上と利益の増進とのための団結化の傾向をもつ、Dそれは理論的たるにとどまらず、その目的、及び目標において、実際的なもの(岡本[1988:62])をあげている。
8) 岡田藤太郎はすでに1972年に「ソーシャルワークの専門性の特性を、一口で言って拡散性とあらわしてみたらどうかと思う」(岡田[1977:164-169])として、5つの拡散性(@ソーシャルワークの適用される対象領域の拡散性、Aその適用の多様性、Bその技術の非純粋性、Cその基礎とする学問の多様性、D専門職業性)を提示し、それを積極的な方向で認識するよう主張している。
9) 1892年の「全米慈善・矯正会議」では「慈善事業における女性」が議題になっている。「精神異常と慈善に関するマサチューセッツ州委員会」のメンバーであったリチャードソン(Richardson, A.B.)の姿勢からもこのことが読み取れる。彼女は「出席委員の懸念を配慮して、職業婦人は決して『家庭の守り手』としての義務をおろそかにすることはないだろうと請け合っている。彼女は、女性たちは『男性や彼らのいわゆる良妻の権利や特権を奪おう』などと主張しているのではない、と言う。リチャードソン婦人は、自分と婦選運動の『恐るべき教義』との関わり合いを否定し、公的な立場への女性の進出を正当化するものとして、政治的権利からする立場と、社会奉仕からする立場を区別した」(Platt[1969=1989:78])のであった。
10) この時期より四半世紀以前でも、大学の経済学と社会学の教授が学生を多数、社会福祉施設に送り込んでいたことを鑑み、今岡健一郎は「何らかの形の社会事業教育が、しかも大学の社会学部もしくは経済学部でも行われていたことを物語っている」(今岡[1978:25])としている。
11) リッチモンドに先駆けて、アメリカ各地で専門教育の必要性を訴える声があがっていた。1893年、ドーズ(Dawes, A.L.)は「貧困問題に関する社会経済理論の基礎と、慈善事業入門、実習を含んだ、非教派的教育課程が造られるべきことを主張」(窪田[1988:53])し、同年バッファローCOS協会のローズノー(Rosenau, N.S.)も友愛訪問員の訓練過程の新設をニューヨーク協会宛に依頼した(窪田[1988:53])。とはいえ、リッチモンドの名声は、「彼女の主張がニューヨーク博愛事業学校の開設を促進する決定的な刺激となった」(田代[1974:3])ことにより、不動のものにするのであろう。
12) リッチモンドの「ソーシャルワークの発展」(Richmond[1923=1930:589])概念図(表紙参照)をみると、その歴史は1880年から始まっており、さらに長い歴史を当時の研究者達が共有していたことを物語っている。
13) また、この立場にある人物として、初代常任学校長のリンドセイ(Lindsay, S.M. コロンビア大学の元経済学教授、ニューヨーク博愛事業学校へ1911-1912年に勤務)や、パッテン(Patten,S. 経済学専攻の教授、デヴァインやLindsayの指導者)、アボット(Abbott,E. Chicago School of Civics and Philanthropyの教員、 1924年にChicago School of Social Service Administration*の学長)などがあげられる。
   *これの前身はテイラー(Taylor,G.)がその責任者となったSocial Science Center
  for Practical Training in Philanthropic and Social Work(1903年設立)
14) 1920年、リッチモンドの巻頭論文を載せて発刊された。後に“Social Case Work”と改題される。
15) 例えば、コストニスは法学に与えたフレックスナーの影響について検証している(Costonis[1992])。
16) おそらく、医者として病理学において功績を残し、ロックフェラー医学研究所の所長として名高いサイモン・フレックスナー(Flexner, Simon)と混同したものと思える。彼はA.フレックスナーの兄であるが、弟が医学教育に関与し始めてからは、しばしば共同して仕事をおこなった。しかしながら、この勘違いを一笑することはできない。なぜなら、医学領域におけるフレックスナー報告も、この勘違いから生まれたとされるからである。A.フレックスナーはドイツ留学から帰ると、『アメリカの大学』(Flexner,A.[1908])を著すが、これがカーネギー教育振興財団(Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)の専務理事であったプリチェット(Pritchet, H.S.)の目にとまり、財団のスタッフとして医学校の調査をおこなうことを依頼された。そこで調査を依頼したきっかけは、プリチェットが既に医学界で名声を博していた兄のサイモン・フレックスナーと勘違いしていたからであった(Flexner,A.[1960:70-71])。しかしながら、ストーリーテラー的な彼の話を鵜呑みにするのは注意が必要である。
17) AMAにおけるCMEの当時の存在は少数派で、エリート主義的だったといわれている(Hudson[1994:13-16])。
18) こうした展開に、当時の人々は戸惑いを隠せなかった。「一般民衆は秀でた経験を積んだ医師から引き離されてしまうという強い講義」(Fosdick[1952:141])をおこない、マスコミもそれをかきたてた。
19) フレックスナー自身は、全ての医者は研究者であるべきだと主張したわけではなかった(Hudson[1992:9-10])。このことを、ハドソンはフレックスナーを弁護するが、その後、患者に向けられる視線は、分析的・診断的なものとなったことは間違いない。
20) 20世紀初頭に病院の数は急増している。
21) エブラハム・フレックスナー(1866.11.13−1959.9.21)は、ユダヤ人移民の両親を持ち、9人兄弟の6番目として生まれた。実家は商業を営むが、非常に貧しく、一番上の兄の経済的援助によって、ジョンズ・ホプキンス大学で古典および語学で学士号を所得。卒業後、故郷のケンタッキー洲ルイビルにもどり、教師生活を20年に渡って送る。1905年にはハーバード大学で心理学と哲学を学び、翌年、修士号を得る。その後、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学し、1908年に帰国する。その翌年からはカーネギー財団の医学教育に関する調査に関与し、そこから彼の輝かしい人生は始まる。フレックスナーの生涯に関しては、Flexner, A.[1960]、渡辺かよ子[1988]などを参照。
22) フレックスナー批判は主に、フェミニストやマイノリティなどを中心として起こっている。
23) 一つの学問を成立させる研究機関や教育機関が創設される際、アメリカでは財団が大きな役割を果たした。
24) 1929年に出版された“Social Work Year Book”(初版)において、学問的端緒をアメリカ社会科学協会(American Social Science Association)に求める記述をおこなっている。「慈善・矯正に関わる仕事の専門職的精神と態度の萌芽は、“社会科学研究を促進し、特に社会科学を社会問題に適用する”ために1865年に設立されたアメリカ社会科学協会の活動に、明らかに現れている」(NASW[1929:435]、小山[1997])。
25) しかしながら、本間長世は「カーネギーは社会進化論者であると唱えながら、実際の行動においては、スペンサーの教えにそむくことを数多く行なった。カーネギーは、保護関税、特許法、販売協定など、自由放任主義に反することに賛成し、労働時間の短縮は法律によって達成されるべきだと主張した」(本間[1975:23])ことから、カーネギーがスペンサーの哲学を理解したかを疑っている
26) 原典は「一般教育財団の年間報告」[1928-1929:46]
27) ワイリー(Wyllie, I.)やフーバー(Huber, R.M.)らの見解によると、19世紀後半から20世紀にかけてダーウィニズムの気運はあったといえ、成功物語の精神は適者生存ではなく、キリスト教と人道主義であったという。ゆえに当時のアメリカ人はスペンサーを真に理解していたかどうかは、疑問のままである。しかしながらたとえ、社会進歩論が、自由放任経済を支持する保守主義が手にした「新しいレトリック」(本間[1973:9])だとしても、それを用いて何を企てたかを対象にしているため、問題はない。


  


■第2章  社会福祉の「科学」を求めて

第1節 ソーシャルワーク理論と諸学問の理論

ソーシャルワーク理論の変遷

  まず、「ソーシャルワーク理論」ということばについての注釈からはじめたい。今日、「社会福祉理論」という語を含む書物や論文は多いが、その意味内容は多岐にわたっている。例えば、松井二郎は『社会福祉理論の再検討』のなかで「社会福祉理論の先行研究」の例として「竹中理論、孝橋理論、岡村理論、嶋田理論」(松井[1992:A])を挙げている1)が、こういった認識は現在、多くの社会福祉研究者の共通するものといえよう(その他に、吉田[1974][1995]、木田[1967a:51-71]など)。
  しかしながら、標準的な辞書として普及している『現代社会福祉辞典』(仲村他編[1988])や、『現代福祉レキシコン』(京極監修[1993])、そして基礎的なものを網羅した『社会福祉の基礎知識』(小倉他編集代表[1973])にも、「社会福祉理論」という項目はみあたらない。以上から、社会福祉学において「社会福祉理論」の語義は確立されていないといえよう2)。それにもかかわらず、これまでこの語は多用されてきた。
  こうした語義の混乱を避けるために、本章ではあえて「ソーシャルワーク理論」という語を、social work theory(Payne[1997]、Parton(ed.)[1996])を指すものとして用いる。ソーシャルワーク理論という言葉は、これまで用いられてこなかったわけではない。例えば小松源助の『ソーシャルワーク理論の歴史と展開』や、奥田いさよの『社会福祉専門職性の研究』の第1章で検討された「ソーシャルワークの理論」等がある3)。
  ここでいうソーシャルワーク理論とは、社会福祉学の分野や科目を横断して存在する論理的概念で、主にそれらは他の諸学問の理論を援用されてきたものである。われわれはまた、アプローチ、またはモデルという用語を共有するが、それらの語がここで明らかにしたいソーシャルワーク理論を意味する場合もある。第1章でみたフレックスナーによる動機付けのもと、社会福祉学が成立した初期において、最初に社会学と心理学の理論がまず、援用された。その後も、政治学や経済学、統計学に生態学までさまざまな理論が社会福祉領域に移植されてきた。ここでは社会福祉学領域に存在する、これらの他領域の学問から移植した諸理論を、ソーシャルワーク理論と総称する。
  専門職化の前提として体系的な学問が必要であったが、その学問にもまた「発展」が求められた。そして、ソーシャルワーク理論も「進化」することが求められたのも、自然な成り行きであった。日本の社会福祉専門職化にあたって影響を与えた社会学者、石村善助は次のように認識している。


  科学や高度の知識に支えられたものであることが必要であり、その(専門職としての技術・筆者注)高さは科学の進歩とともにますます高められる性質をもつものである
(石村[1973:10])

  ソーシャルワーク理論は社会福祉の「臨床」場面で問題を把握、解釈し、何らかの「援助」をおこなう上で大きな影響を持つものである。しかしながら、進化を余儀なくされたソーシャルワーク理論は、絶えず移ろいゆくものであった。日本でも社会福祉の学問が成立した当初からそのことがあてはまる。例えば、谷川貞夫は「ケース・ウヮークの最近の基盤」(谷川[1950:8])を、「社會科學的なものの域から脱して、社會學的なものに基盤を置く」という「段階に至りつゝある」と表現している。このようなメタファーは専門書のいたるところに散見されるものである。
  フレックスナー報告を経て、病院が科学的実験の場へと移行していったが、社会福祉学の場合、実践の場がこうした「進化」のための研究機関となった。谷川貞夫はセツルメント・愛隣園を指して「社会事業のラバラトリー」(谷川[1949:1])とする。また、木田徹郎も「現存する関係科学の総ての知識を基礎に持たねば完成せぬ」としたうえで次のように述べる。

  技術的な記録となり、実験となることによって実験となり得るのである。即ち社会事業の実践は技術によって実験となり、その故に科学的になる。したがって実践は一つ一つ切り離されたものであるが、実験たることによって整理され進歩性を獲得する。だから技術は前以てつめ込まれた機械的な画一化でなく生々躍動する進歩的なものなのだ。
(木田[1952:40])

  無論、こうした科学志向が第3章で検討する反専門職化運動などの火種となったのは明らかである。とはいえ、こうした議論では諸学問からの影響を受けた「進歩的」なソーシャルワーク理論が実践方法に影響をあたえたという前提がある。ここで、この前提を一転させて問題を切り取ることもできよう。つまり、時代が必要としたソーシャルワーカーの役割を「専門化」、「理論化」する上で、政治的にあらゆる理論を必要とした、ともいうことができる。コロンブスの卵ではないが、理論が方法を規定したのか、それとも政治的必要性が先行したのか、という問いたては不毛かもしれない。しかしながら、これまでそうした問いかけがなされてこなかったという問題は残る。

社会福祉学の「学際的」研究

  フレックスナーの提示した望ましい専門家とは、基礎科学をバックボーンとして科学的な実践をおこない、その科学を恒常的に精緻化することを試みる者であった。そして社会福祉学領域においてその「科学性」を保持するには、諸学問の理論を自らの学問の基礎的な知識とすることや、実践時にそれらの知識を技術として援用することが条件とされた。戦後、日本の社会福祉学の「科学」的体系化に貢献した谷川も、『ケース・ウヮーク要論(改訂版)』で次のように述べている。

  社会事業技術は、特定の社会的事情乃至社会的事件に対應する社会諸科学の應用或いは援用によつて、その技術性を一層高度化するのである。(谷川[1949:7])

  谷川は1954年、『社会事業』誌上で実際にベニ(Benne,K.D.)やリピット(Lippitt,R.)らの「グループダイナミックス」やロジャース(Rogers,C.R.)の「非指示的療法」などといった最新の研究を紹介している。これは、他の専門分野における研究の発展が「社会事業における科学性の進展」(谷川[1954a:3-6])に寄与するという了解の下でなされていた。
  木田哲郎はこうした基礎科学に「理論的基盤を求めている点が戦後の特徴」(木田[1967a:70])であるとするが、社会福祉学が「科学」を志向した時点からすでに紹介されていた。竹内愛二は戦前、すでにこうした把握を明確にしている。「社會事業が社會病理學に基づく社會治療Social therapeuticsとして科學的に又技術的に其發達の進路を見出す」(竹内[1936:29])として、次のように述べる。

  諸科學の提供する智識及技術は凡て之れケース・ウォーク遂行の必須要件をなすものなのである。特に生物學、醫學、經濟學、教育學、法律學、社會學、心理學、精神衛生學等は最も重要性を有するものである。(竹内[1936:33])

  戦後改訂出版された『ケース・ウォークの理論と実際』4)でも、「生物學、醫學」、「心理學、精神醫學」、「經濟」、「社會」、「宗教・道徳」の、「五つの立場」5)(竹内[1949:24])から、多角的に問題を考察しなければならないと説く。竹内はこの「五つの立場」に限定しているが、他ではこれほど明確でない場合が多い。先ほどの谷川は、「社会学・経済学・心理学・生物学・統計学等」(谷川[1949:7])をあげており、その後も多くの研究者が異なる学問を提示したことに注意したい6)。現在に至るまで社会福祉学の基礎科学となるべき学問は不確定である。
  その時、医学の学問的形成が意識されていたのは、しばしば隠喩として「医者」や「病人」が用いられていたことからも明らかである。またこの医学のメタファーは戦前から散見されるものである(例えば、藤田[1933:25]7))。

  ケースウォークの過程は、醫者が患者の病氣を診斷して、治療するがの如く、辯護士が法律問題を解決する如く、一定の過程を持って居る。醫者の中にも、實験室の化學的検檢査をしたり、環境状況を考慮に入れたり、又他科の醫學的調査を頼んだりして、病を原因的に知つて、的確な診斷を下した上、治療の方針をたてる者と、頭痛には此の藥、腹痛にはあの藥と定まった藥を與える者とがある。勿論後者の如きは診斷家でもなければ治療家でもない。(浅賀ふさ[1948:341])

医者が「病理的究明」、つまり学問的研究に依拠して治療をおこなうように、一専門職であるソーシャルワーカーは学問的究明に裏書きされた言動が要求されることになる。
  そこで望ましい社会福祉従事者となるためには、これらの多様な学問の基礎を身になければならない。

  良きケース・ウヮーカーとなるには、多角的な立体的な知的素養と技術的経験を必要とする。(谷川[1949:273])

  以上のように、本編第1章で検討したように、フレックスナーに刺激された、社会福祉の「科学」化という発想自体は、諸学問のより新鮮な理論の取り込みを促進する結果となった。「近代に於ける科学の進歩は、社会事業の精神の上に非常な影響を與えたのみならず、その技術の面に於いても頗る顕著なものがあ」(谷川[1949:18])ったのである。時を経るにしたがって、必然的にソーシャルワーカーが知識として蓄えておくべき総量は、増大の一途を辿ることとなった。
  それゆえ、社会福祉学領域における理論研究は、その創始から学際的研究であったことが求められていた。学際的研究という言葉自体は比較的新しい言葉である。それは産業社会が提起する問題が複雑多岐にわたりつつあるため、従来の専門分野ごとの研究では対応がむずかしいものが多数出現しているという現状認識を踏まえてようやく成立するものである(Gibney(ed.)[1993:1036])。1940年代のアメリカで用いられはじめた言葉で(祖父江[1992])、本来、共通の問題や課題を標的に専門分化した多数の学問的立場から多角的にその問題を捉え、解決を目指すものであった8)。社会福祉学の場合、近代的科学研究における専門分化の弊害をみる前に「学際」の形式をとりはじめ、それが専門職化の手段とされたという点で特異であった。
  そして、時には「科学性」を標榜するあまり、混乱が生じた。佐藤信一は、共同募金運動にさえも「科学」を要求する、1950年代初頭の風潮を「猫も杓子も科学的科学的と唱える」(佐藤信一[1951:35-40])と嘲弄している。
  こうした宿命のもとに置かれた社会福祉学は、その後、いくつかの矛盾を孕む総体となっていったようにみえる。第一に、ソーシャルワーク理論の全てが現在の社会福祉学に貢献したとはいえないし、第二に、数多く援用される理論のなかには反発しあうものが存在するといえる。本節の以下の頁では、この2つの問題を検討していきたい。


今は無きソーシャルワーク理論 ─優生学の援用

  ソーシャルワーク理論の研究が始まってから現在に至るまで、ソーシャルワーク理論としてさまざまなものが列挙されてきたが、現在その全てが肯定されているわけではない。ソーシャルワーク理論とは、社会の価値観がそのまま反映され(孫[1996:241])、移ろいゆくものである。ソーシャルワーク理論は、時には政治的な利便性から、時には理論の使命感から、時代に応じて選択され、また捨象されるものであったといえるのではないか。「ポストモダン」が口にされる現在、絶対的なソーシャルワーク理論が存在したり、その変遷が発展のロジックで形容されたりするわけでもなく、単にそれは林立する存在としてしか認識されないだろう。
  例えば、社会福祉学の理論の歴史には、沈黙が守られている一つのソーシャルワーク理論がある。1920年代から30年以上にわたり、「優生学」はソーシャルワーク理論の一つの分野と目されていた。戦前、戦中と影響をもった専門雑誌『社会事業研究』において、大林宗嗣は「ユーゼニックスと社会事業」と題して優生学を積極的に社会福祉(社会事業)の科学として摂取するよう、主張している。

  優生學が優秀種屬の絶滅を期してゐるに比して、社會事業はこの優生學が絶滅を期してゐる劣性種屬にも亦他の優生種屬と少くとも同等の待遇を與へてやらうとしてゐると、併しその意味は劣性種屬の永續性を保障しやうとすると云ふ意味ではない事は勿論である。更に今一歩進めて考へてみるならば、社會事業は社會から劣性種屬の發育する原因 ─環境と個別的遺傳を統制して之を驅逐しやうとしてゐるとも云ひ得るであらう。そう云ふ意味では優生學の目的と社會事業の目的は全く一致するものである。そこで兩者は元來全然無關係の別個のものであつたのであるが、その一致する目的を有する點に於て互に利用し又利用され(略)共に社會の福利の建設に努力すべきものであらうと云つてもよいわけである。否な現今の社會事業は寧ろ一層こうした科學の分野に這入りこんで行って、社會の科學的研究の結果を思ひ切って利用、或は採用すべきものであると私は考えてゐる。
(大林[1929:85-86])

  同号では「社会事業と優生学」と題した特集が組まれ、「賛否両論」の構成がなされたが、真っ向から反対したのは北村兼子(北村[1929:86-89])のみである。全体的に諸手をあげて優生学を受容していった様子が伺える(例えば、松澤兼人[1929:74-78]、小關光尚[1929:78-83])。また3ヶ月後にも同様の特集が組まれ、座談会「不良少年と遺傳」が掲載されているが、ここでも優生学支持の立場の者が多勢を占めていた。

  田結 そこで兎に角遺傳素質といふものは、何うしても動かすことが出來ぬと決まりましたから、若しさういふ素質を持つた者があつたとすれば、それには断種を行つたら何うでせう。
  富田 賛成です
  田結 アメリカなどでは三十年も前からやつておる。(略)是非日本でも法律の發布をまつてをるのは甚だ手緩いですから、大阪の社會事業聯盟などで、早速その活動を起こして貰ひたい。
(小關他[1929:48])

  何も大阪だけの話ではない。現在の全国社会福祉協議会の前身、社会事業協会の編集する雑誌『社会事業』でも同様に「優生学の應用」について盛んな議論がなされている(例えば、井上[1923])。このように優生学を社会福祉領域に積極的に取り込んでゆこうとする動機の一つは、近隣諸科学の諸理論によってその「科学化」を図ろうとする、社会福祉の専門職化始まって以来の様式である。松澤は「ユーゼニツクスと社会事業の關係の相互依存性」(松澤[1929:76])を指摘したが、これは社会福祉の「發展」は「科學的發展」に依存しているという見解に基づいている。
  谷川は社会福祉の学際性を強調し、諸科学の応用によって社会福祉の科学化は達成されると表明したことは上述した。『ケース・ウォーク要論(改訂版)』では、その「諸科学」として、社会学、社会病理学、心理学と精神医学、精神分析、心理分析、医学、経済学を検討するが、その「医学のの概念とその影響」の項目にはやはり、「優生学的知識」(谷川[1949:143])があげられている。

  ケース・ウォークは、その本質において、対象を優生学的領域においてとらえんとするもの。
(谷川[1949:143])

  「社会福祉技術論の嚆矢」(古川[1998:17])と称される竹内愛二も、これに準じた考察をおこなっている。「斷種法の研究」という論文のなかで、「科學的社會事業の有力なる一翼として相當の偉力を發揮し得るであらう事を信ずるものである」(竹内[1938:33])ことを明らかにした。
  竹内は終戦後にも、ケースワークの体系のなかに「優生学」的な志向を配備していく。彼はケースワークを「科學的認識に即した、技術的方法及び過程」(竹内[1949:21])と位置づけ、「生物學」、「心理學及び精神醫學」、「經濟學」、「社會學」についてそれぞれ章を割いて検討する。そのなかの「生物學」の章には「遺傳について」という項目があり、染色体や細胞などに関する一般的な知識が記述されている。ここでは先にみたような熱心に優生学を堅持する姿はないが、クライエントを「診断」する際に、「必ず先ず彼の身體、健康、疾病等、その生物學的・生理學的・醫學的因子の研究からはいり込まねばならぬ」(竹内[1949:40])という期待がある。ここで、クライエントは否応なく社会福祉従事者による「氏素性」への飽くなき詮索、学問に裏打ちされた(よって、民主的で客観的な概観をした)診断的なまなざしを浴びることとなったことは想像に難くない。
  しかしながら、優生学を生み出した主体はナチズム、と即断ができないように(米本[1986][1989]、Proctor[1988]、立岩[1997:228-241]、松原洋子[1997])、優生学を支持した社会福祉学に責任を問うことは不毛である。ここで指摘したいことは、社会福祉学が時代環境のコードに応じた複数のソーシャルワーク理論を設定し、かつ修正しつづけるいとなみを持続してきたということである9)。
  終戦後もかなりの期間、こうした先天的な遺伝をも社会福祉の処遇の対象とする思考が影を落としている10)。しかしながらその後、次第にソーシャルワーク理論として優生学を援用することはタブーとなった歴史をみると、抹殺された理論が存在することが明らかとなった。その放棄された理論は、忌まわしき過去の出来事として、歴史書のみに封印される11)。しかしそれをソーシャルワーク理論として取り込んでいった動力は、現在の社会福祉学にもかすかに息づいている、専門職化を企てる、科学化への志向であった。

社会福祉学の基礎科学における「神々の争い」

  20世紀の専門職は、フレックスナーの的確な指摘の通り、「科学」的な研究や、その研究活動を促進する学会の組織化など、いくつかの条件を必要とした。その条件の一つである研究活動の継続は、絶えず他分野からの理論の流入を促し、社会福祉従事者たちが共通に持つ基礎知識の総量を増大させたことは述べた。こうして増加するソーシャルワーク理論は「学際性」をほこる社会福祉学において、例外を除く全てが同等に肯定される場合が多い。しかしながら、医学において「最新の技術」が特権的であるように、それ以前の理論を全否定したところに成立する理論もあった。

図 1 既存理論の把握
                           X理論
                           …
                           h
    B C D E F H … X           f
                           e
                           d
       学際志向                c
                           b
                         特権付与志向

  図のX理論は最新の理論を意味している。そこで、従来の理論は基本的に過去に追いやられることになる。しかしながら、X理論が最新の理論として比較的重視しつつも、それまでの理論をも論拠とするのが左側の「学際志向」の図である。このように、複数の理論を把握することが重要とされ、国家試験や資格所得のための試験では、その知識が身についているかどうかが試されることとなる。さらに、そうした認定試験の前に専門教育が施されているわけだが、羅列された基礎知識がそのカリキュラムにも組み込まれ、教科書上にレイアウトされるのである。
  上の図にいくつかの理論が欠落しているのは、前小見出しで検討した「抹殺された理論」を表現したつもりである。また、最新の理論であるX理論により多くの信頼が寄せられるわけだが、ローカルな場面では、X理論よりも他の特定の理論に優先権が与えられている場合も多いと考えられる。
  また、日本では現在、一般的に生態学や一般システム理論を基礎としたシステム‐エコロジカル理論(本章第4節参照)が主流になってきたとされる。この理論は、独自の語や概念を提示しつつも、社会か個人の内面かという二文法をクリアしたものとして評価されている。しかしながら、こうした学際性を志向する場において意図的に選択されるソーシャルワーク理論に、しばしば政治的文脈を読み取ることもできる。
  学際性を尊重しながらも、過去のソーシャルワーク理論を否定した上に成り立っていた理論の攻防の歴史とは、無論、反発しあう言説の集積といっていい。それらの出所は、多岐にわたる学問にあるため、「神々の争い」の様相を呈することは不可避である。孝橋正一が嶋田啓一郎の「構造‐機能」理論を批判する際、下のように主張したのは「マルクス主義的経済学」のみに還元することを主張する者にとってみれば、正当な見解であった。

  政策論、技術論、運動論、さらには医学、精神医学、倫理学、社会学、経済学、政治学などを含む人間行動科学等々の原料を、これまた機能論という便利な触媒を使って用心深く掻混ぜ、繋合せて作ったお好みのカクテルを捧げて、すべての神々の顔を立てながら、その調和的な均衡それ自身が統一原理だというように自認されているだけなのである。
(孝橋[1973:8-15])

  図1の右側の「特権付与志向」において、X理論はただ単に最新の理論として優越権を付与されているだけでなく、過去のものとした諸理論をXの視点から読み替える作業を同時におこなっている。X理論が成り立つ局面では、過去の理論(A、B、C…)はXの言説内で理解され、理論(a、b、c…)となる。ここでは理論の内容の変化はみられないものの、Xの優勢のうえで再解釈されるため、学問の依拠する論理的基盤とはなりえない。
  社会福祉学におけるマルクス主義者たちはまず、学問、専門職としてのソーシャルワーク発展の歴史を資本主義の発展過程と絡めて解釈しなおし、既存の理論を再構築しようと試みる。1960年代、1970年代の社会福祉学界を風靡した孝橋正一も、彼の著書『社会事業の基本問題』シリーズにおいては、こうした読み替え作業が大半を占めていたといっても過言ではないだろう。例えばここで、「過去」の理論、次節で検討する「精神力動ソーシャルワーク理論」は、資本主義社会を基礎付ける「ブルジョア科学」として映る(Rojek[1986:67])。また高島進はレーニンの労働者保険について述べた見解を引用しつつ、「三段階的発展」(高島[1973:89-90])という法則を明言し、こうした発展段階を解明することが「社会福祉の科学的な理解」(高島[1973:89])につながるとした。
  「戦後日本社会福祉論争」の一つとして名高いこの「孝橋・嶋田論争」も、結局、図の「学際志向」か「特権付与志向」かという、X理論(社会福祉学にとって最もプライオリティーを与えられるべき理論)をめぐってくりひろげられた論争であったということができよう。社会福祉学にとって本質的な基礎として、嶋田啓一郎は竹中(勝男)理論の流れを受け継ぎながら「構造=機能」(嶋田[1974])理論を、孝橋正一は「マルクス主義的経済学」(孝橋[1969])をそれぞれ提示した。学際志向が主流である社会福祉学の歴史からみると、孝橋の「経済一元論」はまさに革新的で、当時の社会福祉関係者の心をつかんでいく(井岡[1979])。そしてそれは、社会福祉学の本質を全面的に変化させるパワーであるようにみえた。
  社会福祉領域において、主な理論的基盤を異にするワーカー同士の没交渉が生じる(例えば、浅賀[1961:92])のも、こうした要因が存在するからであろう。医学が解剖学、病理学、衛生学などといった基礎医学を基盤としたように、社会福祉学も複数の学問からなる基礎科学を設定したまではよかったが、医学のそれのようにはいかなかった。そこで、既存の一学問のみに準拠することもできたが、そうすると社会福祉学としての独自性が消滅し、科学や専門性は体現できない。まさに進退を許されない状況に陥ったのである。

  ここで、これまで出現したソーシャルワーク理論の全てが現在の社会福祉学に貢献しているとはいえないし、数多く援用される理論のなかには反発しあうものが存在するということが明らかになった。こうした視点を踏まえて、現行の日本の社会福祉教育や、資格試験で基礎知識として必要とされているソーシャルワーク理論を再検討していく。本稿では、流動するソーシャルワーク理論の力学を把握することを問題とするため、ここでは全てのソーシャルワーク理論を扱わないし、技術的な用語を残らず陳述することはしない。それらに関しては、すでに数多くの教科書で念入りに整理されているし、ハウ(Howe,D.[1992])やペイン(Payne, M.[1997])は著者と同様の視点から簡潔に論述されている。


第2節  精神力動パースペクティヴ

精神力動ソーシャルワーク理論出現の背景

  精神力動パースペクティヴは、現在の日本の社会福祉学やその教育にわたって、広く浸透している。この見地では、何らかの逸脱や問題が生じた場合にそれを主に人間の内面の問題として捉えていく学問的姿勢に関心をおく。こうした社会福祉学領域における精神力動ソーシャルワーク理論は、アメリカでは1920年代から、イギリスでは1930年代(Payne[1997:77-78])から約半世紀(Howe[1992:79])にわたって、大きな存在として君臨した。
  日本においても、社会福祉教育の先駆の一つといわれる財団法人社会事業協会主催の社会事業講習会(1925年〜1935年)に、「正科講義課目」として「心理学(変態心理学)」(大久保[1941:87-88])が加えられているなど、「社会科学系」が強いといわれる戦前の日本の社会福祉関係教育にも存在感があった。学術雑誌にも、心理学の研究者が福祉のクライエントに関する考察をおこなう論文が目に付く(例えば、黒澤[1924:24-28])。
  とはいえ、それが本格的に展開されるのは戦後のことである。敗戦後、占領軍総司令部、公衆衛生福祉部(GHQ、PHW)の指導の下に、日本社会事業学校を中心として厚生省、文部省、大学専門学校関係者を会員とする「社会事業教育懇話会」が発足した。これ以降、日本の社会福祉学場面では当時のアメリカで主流であった心理主義的ソーシャルワーク理論が優勢となっていく12)。しかしながら一方で、今岡健一郎はGHQの指導以前、日本社会事業学校13)は戦後初の社会福祉教育として「自主的に組み立てられた」(今岡[1976:23])と強調している。そして1960年代、1970年代と、第3節であつかう社会主義的理論を代表するような、「社会的なるもの」からの批判を経験しつつも、その存在をアピールし続けた。
  精神力動ソーシャルワーク理論は社会福祉援助技術の1つであるケースワークをを中心に議論が展開されてきたが、分野別にみると、児童福祉や老人福祉、障害者福祉など、広範囲で応用されてきた。このケースワーク一つとってみてもその様式は、さまざまな形に次々と変化していった歴史を持つ。それをおおよその出現順にならべると、診断主義、機能主義、問題解決、行動変容、実存主義、危機介入、課題中心、そしてエコロジカルなどといった、多数のものが挙げられる。これらの研究の蓄積14)は、時代の流れに乗じて、心理学・精神医学の範疇内で次々と新しい学問理論を取り込み、その「科学」の精緻度を競ってきた歴史の跡といっていいだろう。

  こうした多様な形態を通じた「科学的」な問題把握の試みは、「専門職化」の追究であったといってよい。しばしば、原初的ケースワークの形態として、チャルマースの隣友運動や、COS活動などなどを挙げられるが、フレックスナー講演を機に15)、より洗練された「科学化」の火蓋が切って落とされたといえよう。そこで、今から述べるさまざまな歴史的要因によって「精神医学の氾濫」とも揶揄される心理学偏重の時代を迎えることとなった。
  英米において体系化されたソーシャルワークの歴史を語るとき、リッチモンドの『社会診断』(Richmond[1917])をその端緒とするものは多い。ケースワークの発展史も1917年前後を境として大きく展開していくとみなされる場合が多い(木田[1956:3-39]、岡本[1973]、仲村[1980:60-62]、[1991:128]、川田[1992:115-117]、小松[1993:28]、井垣[1994:60-65]、Johnson[1992:31-34]、Payne[1992:141-149])16)。1917年頃を境に、心理学のみを社会福祉学成立の基盤とみなす潮流が本格的となり、同時にその専門性が形成されになりつつある時期であったとの見解が記されている。
  しかしながら、リッチモンドは学問としてのソーシャルワーク理論を心理面のみで捉えなかったことは周知の通りである。

  ケースワークとは、一定の意図のもとに、個人と社会環境との関係を、個人に応じて、総合的に調整しながら、パースナリティの発展をはかろうとするさまざまなプロセスからなるものである。
(Richmond[1922=1963:91-92])

  これは『ソーシャル・ケースワークとは何か?』(What is Social Case Work?:An Introductory Description)のなかの一文である。ここの「ケースワーク」には「ソーシャル」がついており、原文ではSocial Case Workとなっているように、社会的なものと心理的なものは同時に要求された。例えば同書で、ケースワークの活動として次の4点が挙げられている。

  A 個性と個人的特徴への洞察17)
  B 社会環境の資源、危険、影響についての洞察
  C 心から心へ働きかける直接的活動
  D 社会環境を通じて働きかける間接的活動
  (Richmond[1922=1991:59])

  しかしながらリッチモンドのこうした主張に関わらず、その後社会福祉学は、心理学や精神医学などの分野に理論的根拠を求めるようになっていく。そして、次第にフロイト心理学に傾倒するに至った18)。それには、時代状況を考察する必要があるようだ。この『社会診断』が世に出た1917年は、全米慈善矯正会議が全国ソーシャルワーク会議(National Conference of Social Work、 1956年からは全米社会福祉会議(National Conference on Social Welfare))と名称を変えた年でもあり、第一次世界大戦にアメリカが参戦したという歴史的な年でもあった。岡本は「心理学的・精神医学的志向の段階」の背景に、アメリカの参戦や経済状況がもたらしたクライエントの変化、またフロイト派心理学の普及など7つの要因19)をみている。
  なかでも、戦争という非常事態が社会福祉業務を一つの専門職業として確立する転機となったことはよく言及される。戦争は「砲弾衝撃」による戦争神経症患者を多く出してフロイト心理学の応用の機会を提供したし、何よりもソーシャルワーカーの需要を激増させた。1918年の全国大会で赤十字のワーカーが「貧乏線を越えたケースワーク」(Murary, A.[1918:340-343])と題した報告は、戦争が身近なものとなり、社会保障制度が整備されるなか、業務範囲の拡大を意図する象徴的なものになろう。
  ところで、リッチモンドは「システム‐エコロジカル理論」支持者によって「再発見」されたといわれているように、社会的な視点と、心理的な視点、あるいは多数の学問にまたがる見識の必要性を説いた人物である。しかしながら、結果として心理主義への偏向に導く水先案内人の役割を果たしている。リッチモンドは戦争への関与を積極的に支援していくが、その「戦争サービス(war service)への貢献は、彼女自らが名づけた赤十字社の「家庭奉仕事業」(Red Cross Home Service)を通じてなされていった(小松[1993:53])。
  とはいえ、この積極的に戦争に関わる業務に就くべきとする主張20)のおかげで、ソーシャルワーカーの需要は増大し、人的資源の確保が課題となっていく。それがソーシャルワーカー養成校の増加を招き、1930年までにそれは28校を数えるまで担った。そしてそこで、心理主義に傾倒した教育が施されたのである。
  
理論的構造

  以上に述べたように、社会福祉従事者の専門性が問われた時、科学的な論理基盤を求める人々は、まずそれを心理学にそれをみいだしていった。そして、その頃知的外観を保っていたとされる(Howe[1987:60])フロイトの理論が、社会福祉学のなかで大きな勢力となるまで長い時間はかからなかった。その後、心理学のさまざまな理論が「借用」されたが、なかでもフロイトに論拠をおく診断学派と、ラカンに論拠をおく機能学派との対峙は、初の社会福祉学領域における論争として今も語り継がれている。
  またこれらの理論を整理分類する試みもなされてきた。「精神力動(psychodynamic)」(Payne[1997])のカテゴリーに属するものとして、ロバートとニーは「心理社会的、機能的、問題解決」(Roberts and Nee[1970])を挙げ、ターナーは「心理社会的、精神分析、機能的、問題解決、自我心理学」(Turner[1986])を、そしてリッシュマンは「心理社会的、エリクソンのいう環境へのライフサイクルアプローチ、精神力動、カウンセリング」(Lishman[1991])をそれぞれあげている21)。
  これら心理学や精神医学からの理論は、ソーシャルワーカーにどのような「技術」あるいは発想をもたらしたのであろうか。ハウはフロイトが社会福祉学にもたらした理論的ディメンションを次のように提示する。

@ 心的決定論(determinism)
A 本能と性衝動(instincts and drives)
B 性心理の発達段階(psychosexual stages of development)
C 無意識(unconscious mental stages)
(Howe[1987:61])

  これらの心理学用語は一般によく知られているものであるが、ここで簡単に確認しておく。まず@の心的決定論とは「話す、考えることを含めて、われわれの行動というものは、その多くが無意識の経験や記憶、ニーズにしばしば起因する」(同上)ものである。言動や行動がすべて過去の何らかの出来事によって決定され、外部に現れた言動の原因の多くは無意識のもとにあるとされる(原因の無意識)。
  またAの本能と性衝動について、「本能は、人間の生活の個人的な考えの決定要因になり、有機体としての人間を行動に駆り立てる。このことは、その有機体が生存と繁殖という2つの基本的な重要事項をみたすために生物学的に必要」(Howe[1987:62])とされる。また、衝動には性的なものと攻撃的なものとが確認されている。
  Bフロイト派の「精神分析家は、大人の性格が幼年時代初期の直接の結果であると断言する。特に5歳までは個人のパーソナリティーが形成される重要な時期である」(Howe[1987:63])とされ、口愛期、肛門期、男根期の3つの段階22)で説明される。
  最後にCの無意識とは、フロイトによって人々の意識の下にあるものとして説かれた。意識のなかに捉えることができるのは氷山の一角でしかなく、大部分は無意識であると考えられた。またフロイトは心をイド、自我、超自我の3つの構造23)からなるものとする。
  そこでは、ソーシャルワーカーが対象とする「クライエント」の言動や心理は、こうした概念を用いて「診断」され、「治療」、記録されていく。また日本の社会福祉関係の専門学術雑誌にも、平賀孟をはじめ、先を争うようにしてこれらの概念を紹介している。

  その後、フロイト精神分析の信奉者たち、そしてその反論を企てる心理学者たちの理論が適宜、社会福祉学の理論的根拠となっていった。その傾向は精神力動ソーシャルワーク理論に多くの理論を氾乱させる結果となる。例えば、社会福祉学におけるフロイトの影響を受けた「診断主義」24)と「機能主義」25)の対立は、1920年代から半世紀近くにわたって大きなテーマとして存在した。後者は構造機能主義からの発想を受けいれる一方で、フロイトの弟子、ランク(Rank, O.)の意志心理学の影響が色濃い。心的問題に還元して解釈し、対策を講じるという点で、これらの立場には溝がない26)。また、パールマン(Perlman, H.H.)は目の前にあるクライエントの問題と彼をとりまく環境の困難を扱うことを重視する、「問題解決ケースワーク」を提唱する。パールマンのモデルはライド(Reid, W.J.)やエプスタイン(Epstein, L.)らのいう「課題中心ケースワーク」の先駈けとなった。しかし、このように全ての理論やモデルをあげ、それらの論理構造を詳細に記述することは本稿の主旨とするところでないので省略したい。

  本章1節では、異なる学問から移入されたソーシャルワーク理論どうしが反発しあうことを述べたが、同一の学問に起源をもつ理論同士が調和しない場合もある。また同様に、具体的で政治的な決断を下す際に多用されるものである。では戦後の日本において、「直輸入」(仲村[1957:61-63])された心理主義のソーシャルワーク理論を用い、どのように利用されたのであろうか。こうした問題を心理作用へと還元するいとなみは一方で、それまで顧みられることのなかった子ども期へのまなざしをもたらした。児童虐待を検討する第4章、5章を考慮して、次項では、子ども期への新しい干渉と関連させ、ソーシャルワーク理論の一面を論じたい。

脚光を浴び始めた子ども時代

  フロイトの理論は社会福祉学に大きな影響を与えたが、なかでも子どもに対する視線がこれまでよりもいっそう密度の高いものになっていった。大人でさえもが、過去の子ども期を現在の検証の対象とされた。例えば、フロイト派心理学の普及により、社会福祉機関には「口愛期」の大人であふれ返ると解釈されることとなる(Howe[1987:64])。なぜなら、問題を抱えるクライエントは健全な成長が促されるべき幼児期に何らかの不都合が生じた者と理解されるようになったからである。日本では戦後、精神力動ソーシャルワーク理論が主流となったが、それはこうした解釈が正当性を与えられる場が広がったことを意味する27)。
  大久保満彦もいわゆる「問題児」は「その真相をつきつめて行くと、子ども自身の「行動」に問題があるのではなく、その両親、その養育者の態度、すなわち子どもの養育環境に問題があったことが判る」(大久保[1954:80])として、パーソナリティーの発達段階をフロイト派心理学の強い影響の下に描いていく。そして、性欲を含む欲求が充たされない場合、「人格に一種のゆがみを生じることとな」り、問題行動に至る。例えば、正常なパーソナリティー発達を阻止する両親の態度と、子どもの持つ問題は、次のように因果づけられた。

  母乳も充分には与えられず、お母さんらしい世話もろくにしてもらえず、おまけに突然離乳させられたという赤ちゃんは何か自分のものを取りあげられたように思い、猜疑心が強く、恐怖に満ちていて、おどおどしており、恨みを抱いていて、それは後になって積極的な敵意と攻撃心に結晶することもある。(大久保[1954:81])
  子どもの「指しゃぶり」「おっぱいいじり」をやめさせるために、指や乳頭に「にがい熊の胃」などぬるというやり方ほど残酷なものはない。
(大久保[1954:83])

また、伝統的な家制度も「家庭生活の病根としての研究の対象になり得る」(村田[1954:92])とされることとなった。
  戦後の混乱期には、浮浪児や非行少年が数多く出没し、大きな社会問題になった。そこで平賀孟は、戦争が引き起こした経済的問題、物質的欠乏が「直接原因」となったとしながらも、「人間の内部」に生じた病理をみている(平賀[1951])。血なまぐさい戦争は「母親の不安な状態、いらいらした有様」を招き、母親の庇護のもと愛情を注ぎこまれるはずであった乳児は「感情的打撃」を受け、正常なパーソナリティーの発達が期待できない。こうした心理学的問題の存在ゆえに、「各の如き戦争中の嬰児が今、所謂問題児として我々の眼前に存在している」と解釈されるのである28)。
  竹内は論文「性問題の理論的一考察」(竹内[1955b:47-55])のなかで、特に青少年の「性的非行や犯罪」に焦点を合わせているが、そうした問題行動に至る経緯をランクのいう「体内空想」や「出産外傷」の概念を用いて解釈している。

  多くの人々は出産以来の人生苦は人々に胎内に復帰したい人々を、自殺に駆立てることになるが、まだ生の全面的否定にまでに至らない気持ちの人々は、ここに象徴的に母体に復帰しようとして、強く性を求め、これに耽溺しようとする。
(竹内[1955b:50])

ここで、胎内回帰への欲求が性的欲求に姿を変えて青少年を突き動かし、性的非行や犯罪に駆り立てられる姿が、ランクの学説に依拠して理論づけられる。しかしながら、胎内生活が理想化されるのは万人の普遍的なものとされているので、非行・犯罪の有無は「基礎的性格構造と、社会的性格形成の条件によって左右され」(竹内[1955b:53])る。例えば、貧困生活は、苦労をすることのなかった胎内生活をより強く希求せしめるという解釈が貧困層に非行や犯罪が多い理由としてあげられる29)。
  またそこでは、「予防」のロジックが好んで用いられた30)。心的決定理論は、世にはびこる悪弊や風紀の乱れは、子ども期が円満で充足したものにすると収まるという法則を提示したので、科学に裏付けられた「予防」という活動領域が浮上した。そこで、その活動に従事するべきとされたのは、社会福祉主事や民生委員(方面委員)、PTAなどであった。

  家庭に於ける生活史をダイナミックに調査し、現在の飛行の要因が分析され診断に応用されたならば、学校が不適応行動の特性があまりかたまらないうちに、それらの要因をもつ児童の「潜在的」非行を発見できるのである。潜在的非行者の発見の準備が行われるためにはPTAが中心となって、家庭の指導にあたらねばならない。(略)青少年の指導者はもっと勇敢に家庭生活の中から非行要因のダイナミックスを発見し、その潜在するものを治療することに努力せねばならない。それと同時にわれわれケースワーカーは生活史というダイナミックな調査から診断を引き出す困難性を科学的に解決する努力を続けねばならない。
(三野[1954:112])

  当時、「損なわれた家庭とは何か」というような問いかけが、社会福祉学上で多くなされた。「欠損家庭」の分析は細部に渡り、「悪い家庭」も、「悪い子ども」と同様、カテゴライズされていった(上武[1954:38-42]、大久保[1954:65-75]、牛窪[1954:80-94])。こうして、「欠損家庭」の子どもは非行や犯罪の予備軍とみなされ、監視の目が厳しくなっていった。またそれに陰影をつけるかのように、規範的な家庭を提示する動きにもつながっていく(例えば、大久保[1954:76-79])。また、1950年代半ばに起こった「ホスピタリスムス」論争(第3章2節参照)も、家庭、それも心理学的にノーマルな家庭を最上のものとして際立たせることとなった。
  精神力動ソーシャルワーク理論を駆使するソーシャルワーカーたちは、衛生的観点からはもちろん、心理的視点からも子どもを保護しようと努め始めた。前者の視点が乳児死亡率の低下など、身体上の健全な発育を促進することを目的にしたのに対して、後者は精神上の健全な発達を促した。それと同時に、後者の心理学や精神医学に準拠した知的な営みは、「予防」概念を介した社会防衛上の使命も負っていたのである。

心理主義の専門家観

  心理主義者たちは社会福祉の専門職化を促すため、基礎科学の主な部分を心理学や精神医学に求めた。心理学や精神医学に比しても遜色のない研究業績を積み重ねることが社会福祉学研究者の使命であり、またその専門職化に連関していた。心理主義が理想とした専門家とは、社会調査をおこない、社会に訴えかける社会改良主義とは明らかに趣が異なる。こうした学問が主体となって構築された社会福祉の専門家のイメージとはどういったものであっただろうか。
  精神力動に基づく治療は、心理カウンセラー的な応対技術を伝道したため、ソーシャルワーカーの受動的で寛容、傾聴的な態度をもたらし、ワーカー−クライエント関係は慈善的であったり、救貧法時代の抑圧的なものではなくなっていった(Wallen, J.[1982]、Payne[1997:78])。竹内は先に引用した性問題への対処を論じるなかで、ワーカーはクライエントに対して「傾聴面接」をなし、全てを受容する「温かい『母』の性格を感じさせることが最も重要」(竹内[1955:54])な役割であるとしている。なぜなら、「正常」な愛情や安定感からも見放されているクライエントに対し、擬似的な「母」31)を演じることによって、子ども期に達成をみなかったパーソナリティー発達の一助となると考えられたからである。
  このように、心理学の理論に乗じた役割を専門職の活動の一環として果たすように期待されていった。フロイトの精神分析によると、幼児期は口愛期、肛門期、男根期と区分されるが、何らかの問題を抱える成人は、これら性心理のいずれかの発展段階に属するものとしてカテゴライズできる。ここで、それぞれの段階に有効なソーシャルワーカーの役割も想定されることとなった。例えば、口愛期に固着されたものと診断されたクライエントに対しては、安全と快適さを与える母親の役割、家族の一員のような役割が望ましいとされた。なぜなら、口愛期にあるクライエントの特性の一つとして、依存性があげられており、そうした特性には母性的な態度をとることが理論的に正しいからである。その一方で、同じ口愛期パーソナリティーのクライエントでも、他人を信頼せず、拒否的な態度にでる特質をもつものもいる。こうしたクライエントに対しては、敵対的にならざるをえないが、それさえも学問理論をまっとうするものとされた(Howe[1987:66])。こうして口愛期にあると診断されたクライエントに対して適宜、ソーシャルワーカーは2種類の人物像を演じることが必要とされた。
  ここに、依拠する学問に忠実なワーカーの姿が浮かび上がってくる。社会福祉従事者は特定の学問的言説に準拠し、客観的に対象を診断・治療する主体となっていった。本章にある、マルクス主義的理論やシステム−エコロジカル理論の他にも「科学」的なソーシャルワーク理論は数多くあるが、これらの理論についても同様である。こうした専門家としてのワーカーの態度は、第3章にみるようなバックラッシュの誘い水となり、終章で扱う「ポストモダニスト」にとっての脱構築の対象となるだろう。


第3節  マルクス主義にとっての「社会福祉学」

マルクス主義的ソーシャルワーク理論出現の背景

  1917年は、社会福祉学にとって、心理学・精神医学に科学的根拠をおく動きが加速した転機の年となったが、まさにその年、ロシア革命が成功したことは意味深い。日本の社会福祉学領域におけるマルクス主義思想の貢献は、戦前に始まり(永岡[1979])、学園紛争の盛んな時代にピークを迎える。しかし、戦時中の思想弾圧の下や、終戦直後のアメリカに影響を受けた精神力動ソーシャルワーク理論が興隆した時代は一時的な衰退を余儀なくされた。
  第2節で述べたような「アメリカ直輸入」の戦後の社会福祉教育は、マルクス主義的が昂揚する1960年代、1970年代に攻撃の対象となった。学園紛争の時期と重なり、それが社会福祉教育全体の見直しへ向けた大きな力ともなった。例えば、日本女子大学社会福祉学科のカリキュラムは、学園紛争の前後に大きな変更がみられる。廃止された科目の主なものは、コミュニティー・オーガニゼーション、職業指導、社会病理学、生活心理学など。そして新設されたものは、政治学、社会運動史、労働法、社会構造論、日本経済論、などであった(今岡[1976:27])。また同志社大学では、ニューヨーク社会事業学校で学んだ「フロイディアン」(大塚[1978:332])、ドロシー・デッソー(Dessau, D.)が学生からの批判を受けている(嶋田[1978:343])。
  さらに、この時期のマルクス主義的ソーシャルワーク理論の興隆は、社会福祉の専門職制度にも影響を与えている。社会福祉学界のマルクス主義者たちは、1971年に公表された中央社会福祉審議会職員専門分科会起草委員会による「社会福祉職員専門職化への道 ─社会福祉専門職員の充実強化方策としての『社会福祉士法』制定試案」に、おおむね批判的な姿勢をとった。これについては後述するが、マルクス主義者のもつ望ましい「社会福祉労働者」(社会福祉従事者)像や理論が制定試案がその柱とした心理主義的技術論と大きくかけ離れていたことに、その理由の一つが求められよう。
  一言で社会福祉学領域におけるマルクス主義者といっても、精神力動ソーシャルワーク理論と同様さまざまな解釈があるし、現にその解釈方法の違いが多くの「論争」を生んできた(真田[1979])。ここでマルクス主義的ソーシャルワーク理論と一括りにしても漏洩する諸論があるのは避けられない。しかしながらそれらの試みは、マルクス主義的思想をソーシャルワークの理論として、いかに調整していくかが課題であったことは共通している。第1節に述べたように、マルクス思想をそれまでのソーシャルワーク理論と整合性を図っていくことを主張したものもあるし、それのみを社会福祉従事者の関与するべきものとして他を排除することを主張したものもあった。社会福祉学領域を沸かせたマルクス主義的解釈をめぐる論争も、その適用の程度問題だったともいえる。
  マルクス主義的ソーシャルワーク理論は一般的に、問題を個人的なものとして捉えるのではなく、社会的、構造的な問題として捉えた。そこでは、個人的な人と人とのつながりも、資本主義社会における社会的な産物とみなされる(Payne[1997:214])。社会福祉学が成立して以来の個人的な問題に還元するか、社会的な問題に還元するかという「振り子」は、ここで一挙に社会の側に傾いたのであった。

理論的構造

ロジェク(Rojek, C.[1986:67-68])は、社会福祉学におけるマルクス主義者の3つのタイプを明らかにしている。

1、 革新主義的立場:ソーシャルワーカーは、社会改革を積極的に促進する機関である。なぜなら、彼らは労働者階級と直接的に連携し、その代弁者としての役割を果たす。そこでいう労働者階級とは、資本主義制度のもとで搾取される者たちであり、そのシステムを破壊し、階級差別のない社会を建設することを運命付けられた者たちである。
2、 再生産的立場:社会福祉とは、先進的な資本主義社会にとっては欠くことのできない資本主義国家機構の一つの構成物として認識される。ソーシャルワーカーは、階級の制御機関として定義され、上層階級と下層階級の現在の関係を再生産するものとして機能する。
3、 矛盾的立場:社会福祉は、1と2で述べたように、一方では階級社会を打破するものとして、また他方ではそれを再生産するものとしてみなされる。ソーシャルワーカーは、国家の経済的・政治的権力にアクセスすることによって階級社会を打破するため、積極的に働きかけるよう要求される。しかしながらそこに矛盾があるのは明白である。

  日本においてマルクス主義的ソーシャルワーク理論を展開した代表的な人物として孝橋正一がいるが、こうした社会福祉学領域におけるマルクス主義者のジレンマをよく認識していた。

  社会事業とは、資本主義制度の構造的必然の所産である社会的問題にむけられた合目的・補充的な公・私の社会的方策施設の総称であって、その本質の現象的表現は、労働者=国民大衆における社会的必要の欠乏(社会的障害)状態に対応する精神的・物質的な救済、保護および福祉の増進を、一定の社会的手段を通じて、組織的に行うところに存する。
(孝橋[1962:24-25])

  と再生産的立場を明らかにしつつも、その限界性について次のように言及している。

  社会主義(社会民主主義)社会事業理論のおちいりがちな誤謬は、その主体的意欲の強烈さのために、社会的諸施策の構造的限界を忘却するところに存在している。しかしこの表現はある意味での社会主義社会事業の否定のために使用せられるべきではない。社会主義および労働運動の圧力によって高められた社会的保護水準は、それ自身客観的にはやはり資本主義制度の構造的合目的性の貫徹であり、それ以上のものではありえないとともに、それは矛盾的・自己同一的に社会主義への足場を固めるものとして利用することができるものだからである。それはすべての社会的存在が、古い制度の体内から生まれ、思われた意図に規定されながら、それをのりこえていくという真理の、社会事業における実現であるともいえよう。(孝橋[1962:100-101])

  ロジェクは、マルクス主義を含むラディカル・ソーシャルワークに関して「レジスタンスは単に『意識の昂揚』、すなわち全面的な社会変革への前奏の公開討論会にすぎない」(Rojek[1986:65])と述べたが、日本のマルクス主義者はこの矛盾をさまざまなやり方で超越していった。例えば、高島進は社会福祉を「資本主義の社会的矛盾の発達のなかで、資本主義制度の維持と支配階級の利益をまもるために、資本の蓄積法則がもたらす矛盾を緩和することを通じて、支配をより強化するということにある」(高島進[1973:7])と規定する。そして彼はこの「再生産的立場」を貫きつつ、「譲歩」と称して社会福祉の発展を戦略的に支持した。なぜならこうした譲歩が、労働者にとっての利益をもたらすからである。
  こうしてマルクス主義的ソーシャルワーク理論を概観すると、1971年の「社会福祉士」制定試案に彼らがそろって異議を唱えたのも、そこにおける正論であった。高島進は制定試案の「技術的」傾倒を批判して次のように論述する。

  試案の専門性の理解は、狭隘な技術主義に社会福祉労働を閉じ込め、貧困の現実と本質を見誤らせ、社会福祉を国独資による人民の管理の一環に埋没させる結果をつくり出すのである。
(高島進[1973:195])

  そこで社会福祉学が考慮しなくてはならないのは、「現代の貧困の現象を社会科学的に本質をふまえて分析」することであり、被った不利益を改善するために生存権、教育権、労働権等の諸権利を主張していく。この主張は「単なる『調整』ではなく」、「諸制度の民主主義的変革の努力によって保障されるもの」とされ、「革新主義的立場」を貫くことができる。それは、マルクス主義的な唯物論的発達史観や階級概念を用いて社会福祉範疇内で多いに論議された。マルクス主義者にとって社会福祉学とは以上のような学問的実践でなければならず、制定試案に異を奏すことが必然とされたのである。
  今思えば、社会問題を階級社会における問題と読み取り、諸権利の主張を労働者が主体となった階級闘争として把握できたことは、現実的な感覚を反映している。当時の社会福祉施設の最低基準や措置費の低さ、また社会福祉従事者の劣悪な労働条件、低賃金という山積みされた問題状況も、マルクス主義的ソーシャルワーク理論が選択される要因となったといえる。

マルクス主義ソーシャルワーク理論の専門職観

  ソーシャルワーカーを「社会福祉労働者」と呼称しようという動きが1970年代盛んになったことはよく知られている。それは鷲谷善教が社会福祉ワーカーの実態について取り上げた『社会事業従事者』(1968年)を約10年後に改訂出版したとき、『社会福祉労働者』と改題されたことにも象徴されている。この「社会福祉労働者」という表現を好んで用いたのが、マルクス主義的ソーシャルワーク理論を支持する人々であった。そしてその定義をみると、上述したような社会福祉領域におけるマルクス主義者のアンビバレントな存在がよく現れている。浦辺史は社会福祉労働者の特徴を次のように記している。

  支配階級は人民を支配するために警察、軍隊、税収などの暴力とともに教育、医療、社会福祉などの公的サービスを国家権力のうちにふくみ、「飴と鞭」によって階級抑圧の目的にこれをつかっている。財政的にみれば国家は国民の血税をとりあげて防衛、警察、産業と公共投資にあて、その一部を教育、医療、社会福祉にあてている。社会福祉労働者は対象者とともに社会福祉事業費(措置費)として国家が一般会計予算に計上した予算を賃金資源としている。社会福祉改善要求運動において、福祉労働が対象者とともに共闘する経済的基盤がここにあるといえよう。
(浦辺[1973:4])

  そして「独占に奉仕する政府」と「国民大衆」の板挟みにあう社会福祉労働者は、「対象者の福祉サービス水準を高めることと、福祉サービスを担当する福祉労働者自らの生活をまもるため労働条件の改善を同時平行的不可分にたたかう」(浦辺[1973:8])ことが求められる。みずからの労働条件の改善を求めることは、「革命」の手段とされた。それは「支配階級に奉仕する」、「国の低福祉水準の措置費」は、階級構造の再生産を象徴し、それを打倒することが使命とされるからである。 
  そこで「社会福祉労働者」は、対象者や自らの人権を表に掲げ、「国」に対して要求をしていくことがなによりも重要な実践となった。浦辺は社会福祉労働者の課題として、

  @「ふかまりゆく貧困の現実を告発しよう」
  A「労働者として社会科学の学習運動を深めよう」
  B「福祉労働者の連帯をつよめよう」

と呼びかけた。@では、単に社会に訴えるのみでなく、異なる現状認識をする人々への攻撃がおこなわれる。「社会福祉士法」制定試案の、「今日の社会福祉は経済的貧窮や疾病に対する、主として、物質的援護救済を中心とした昔日の姿から、はるかに脱したところにある」(中央社会福祉審議会[1971:6])といったような現状把握は、マルクス主義者の批判を受けるのは必至であった。またAについて「経済学」(マルクス経済学)はもちろん、「戦いの武器として民主的権利」を学ぶことが推奨される。世界人権宣言や日本国憲法、労働基準法、労働組合法などで守られている諸権利を把握することで、福祉労働者が関与する運動に法的根拠が生じるからである。そしてBは、団結することによって「社会福祉改善要求運動に自覚的にとりくむエネルギーをつちかうことができる」からとされた。
  社会福祉労働者は、労働者として、社会的弱者の代弁をおこない、主に「国」に対して運動をおこなっていったが、専門家としての社会福祉労働者についての議論はこれ以上の展開をみせなかった。なぜなら、社会福祉の従事者の専門性は歴史的必然性のもとに置かれていたからである。真田是は「専門分化としての専門性」(真田[1975])を指摘する。

  近代の専門性は、労働がますます細分化されていく過程で確立されてきたために、分業にもとづく協業の中での非代替性の部分を専門性として確立し、さらに過程としては、この非代替性の部分が一層分化をとげていくというものであったといってよい。
(真田[1975:248])

ここでは、分化した職業一般には専門化が不可避であるかのようにされ、社会福祉もこの「法則」のもとにおかれた。その際に真田は、それまでの社会福祉学の学問的形式を踏襲し、その理論的根拠を学際的なものにおいている(真田[1975:252])。細川順正は真田と同様、社会福祉労働者の専門性は、歴史的必然性のもとにおき、次のように述べる。

  社会福祉労働者の専門性は、真の意味における社会福祉労働自らの独自な発展法則による価値実現の過程において、社会福祉労働者が、社会福祉労働そのもの、労働対象、労働手段との関係おける行為と意識の一定の体系であるということができる。/そのような社会福祉労働者の専門性は、その労働における技術的過程において確保され、高められる。
(細川[1972:43])

  ここで技術は、「疎外された状態のもとでの人間に対する科学を基礎におくべき」とされた。技術は、「その対象者の疎外状況からの脱出」を図り、またその「技術自らの疎外状況からの脱出」を試みることが専門性を高めるとされた。
  以上のような、マルクス主義的ソーシャルワーク理論を支持するものたちは、おおむね国に対しての要求運動に没頭したといえる。この理論が支持された時代、福祉水準や福祉労働水準の改善は、確かに焦眉の問題であった。しかし、そこにマルクス主義的ソーシャルワーク理論が選びとられた政治性が透けてみえ、それが純粋な「理論的発展」かどうかは疑わしいといえる。
  しかしながら、このソーシャルワーク理論が全盛を極めた時代に、日本では社会福祉学が「学問」の一つとして認識されはじめたという史実は重要である。なかでも、『思想』に掲載された一番ヶ瀬康子の「社会福祉学とは何か」(一番ヶ瀬[1970])はエポックメイキングな存在とされているが、マルクス理論に依拠していることは否めない。


第4節  社会福祉統合化へむけて ─システム‐エコロジカル理論

システム‐エコロジカル・ソーシャルワーク理論出現の背景

  英語圏におけるソーシャルワーク理論の現在を語るとき、生態学の思考様式や視点が「主流」(岡本[1990:86])を占めるようになってきたといわれている。現在、日本ではどの教科書的な文献も、このシステム‐エコロジカル・ソーシャルワーク理論が最も有効なものであるとの認識がされている。つまり、このソーシャルワーク理論は現在、図1でいう最新で、最も特権的な「X理論」に位置づけられているのである。
  このソーシャルワーク理論は、幸福な「科学」化が終焉した時代(第3章参照)に生き残った理論という点で特殊である。しかしながら一方で、その理論的「限界」(平塚[1995:170]、稲沢[1992])を指摘する声も存在する。これは、本章の第2節、3節で考察した「精神力動ソーシャルワーク理論」や「マルクス主義的ソーシャルワーク理論」などという社会福祉学の「科学」化へ直進した理論とは違い、1960年代、1970年代の「ソーシャルワーク批判」のなかで企てられた調整をいかに評価するかに関連している。
  まず用語について、ここでは「システム‐エコロジカル理論」と総称しているが、別個の理論として扱われることもある。前者は「システム理論」、「システム論的アプローチ」、後者は「生態学的視座」、「エコロジカル・パースペクティブ」、「エコロジカル・ソーシャルワーク」などとさまざまに翻訳され、呼称されている。本論では、この両者の概念に重複する部分が多くあることを考慮して、「システム‐エコロジカル理論」(Payne[1997])と記述する。ジャーメインとギッターマン(Germain,C.B. and Gitterman,A.)の「エコロジストたちは、最初からシステム的思考をする人」(Germain and Gitterman[1987:488])という見解を引用して、「システム理論のメタファー」と「生態学的なメタファー」の類似性を指摘するものは多いが、彼らの一部は同時にそれらの間に大きな断絶をみる。システム理論との差異化を図ることによって専門職としての学問形態を維持しようと努める者と、それに異を唱える者との対立は何を意味するのか、この節では検討したい。
  時期的には、先にシステム理論、次にエコロジカル理論が社会福祉学の領域に導入されていく。システム理論は1960年代から導入され、1970年代にはマイヤー(Meyer, C.)やゴールドシュタイン(Goldstein,H.)、ピンカス(Pincus,A.)、ミナハン(Minahan, A.)やサイポリン(Siporin,M.)らを中心に大々的に展開されていく。またを背景とするソーシャルワーク理論が台頭してくるのは、1970年代である。それ以前にエコロジカルモデルのかすかな痕跡を辿ることはできるが、生態学からの知見を得て「生活モデル」(life model)概念を体系化した、ジャーメインとギッターマンの共著『ソーシャルワーク実践におけるライフモデル』(Germain and Gitterman[1980])が出版されてからは、その存在は揺るぎのないものとなる。日本には1975年から、平塚良子、小松源助、佐藤豊道、久保紘章、岡本民夫、小島蓉子、太田義弘、中村佐織らによって精力的に紹介されている(岩間[1991:72])。
  システム−エコロジカル理論は、社会福祉学のいわゆる「ジェネリック」な系譜を辿ることができる。つまり、リッチモンドの『社会診断』や、1929年に発行されたいわゆる「ミルフォード会議報告」などに代表される、「社会的なるもの」と「個人的なるもの」とを多角的に捉えようとする視点である。ここで、振り子は社会と個人の中間に静止したといわれている。システム−エコロジカル理論が口にされ始めた時期、「精神医学の氾濫」の時代には無視されていたリッチモンドが、「再発見」(Familiy Service Association of America[1961])されたことにも象徴される。中村佐織もジャーメインに倣い、システム−エコロジカル理論は「決して新しいものではな」(中村[1990:97])いとしている(他にPayne[1997:140]など)。例えば、ジェネリックなソーシャルワーク理論の特徴である、学際性もこのシステム−エコロジカル理論のなかに確認される32)。
  システム−エコロジカル理論が注目を集めた時期を考えると、統合的で学問的な論理基盤が希求されていた時期と重なっている。例えばイギリスにおいても、この理論が普及した時期はソーシャルワーカーの統合化の時代と重複している。1968年のシーボーム再編成により、多種に分断された地方自治体の機関が統合された。それと同時に、他分野にわたるソーシャルワーカーが同一のアイデンティティーを持ち、統一的な学問基盤を持つことが必要とされた。具体的には1970年地方自治体ソーシャルサービス法によって、地方自治体ソーシャルサービス部が出現した(津崎[1986]に詳しい)。また同年、専門職諸協会の統一を試みた、英国ソーシャルワーカー協会(British Association of Social Workers)が創設された33)。この時「全体」を見据えるシステム‐エコロジカル理論は、ソーシャルワーカーにとって無二の概念枠組みとして映ったのである(Payne[1997:140])。
  一般システム理論や生態学の持つ「全体性」は社会福祉学の論拠となるものとして「魅力的」(Payne[1997:140])な理論であった。実際、システム‐エコロジカル理論の指導者的存在である社会福祉研究者、ピンカスとミナハン、そしてゴールドシュタインはそれぞれ自らの理論の理論を「統合された」、「結合的」なものであると形容している(Payne[1997:140])。小松源助も「システム理論」を「社会福祉実践活動における方法の統合化」の視点の一つと数えられるものとしてあげている(小松[1976:165])。
  またシステム−エコロジカル理論は、1970年代半ばのソーシャルワーク理論に影響を与えた家族療法(family therapy)の理論と共通する点が多い(日本では例えば、倉石[1994]、[1995])。ハウ34)はファミリー・セラピストを熱烈なシステム理論の支持者だとして、彼らの「多くは、全ての構成員を、全体的機能としての家族システムの一部分として扱うことを好む。そのシステムの一部分での行動が、そのシステムのどこか他の場所へ影響を与えるのである。(略)個人の『病気』を語るのではなく、ファミリー・セラピストたちは家族プロセスにおける不適応という見地から考えることを好む」(Howe[1987:56])としてきた。また、行動療法に依拠するソーシャルワーク(behavioural social work)にも同様のことがいえる(Howe[1987:59])。

理論的構造

  ここで総称するシステム−エコロジカル理論とは、他領域における複数の理論がふくまれている。それはまた「学際志向」を示すこの理論の特質といえるかもしれない。一般的に「一般システム理論」と「生態学」がなんらかの関わりを持って社会福祉学に影響を与えたとされるが、過去に溯りそれらの理論の存在を確証するため、それ以外の学問理論が考慮されることも多い。例えば自然科学的・工学的システム論や「サイバネティックス」、また「社会システム理論」や「構造−機能分析」などが一般システム理論に先行する系譜とされている。本論ではシステム‐エコロジカル理論の論理構造を把握するために、最も頻繁に援用された「一般システム理論」と「生態学」を別々に追っていく。
  ベルタランフィ(Bertalanffy, L.)の一般システム理論が、ソーシャルワーク理論に応用されるようになっていくが、まずハーン(Hearn,G.)がその先頭を切った。ハーンは1958年にソーシャルワーク実践にシステム理論の導入を示唆し(Hearn[1958])、1969年には『一般システムズ・アプローチ』(Hearn[1969])と題する事例を交えた実践志向の本を出版した。これらの研究が契機となって、1970年代初頭にはソーシャルワーク実践の領域で大きな注目を集めることとなっていった(太田[1992:72])。
  一般システム理論の基礎的概念である、「解放システム/閉鎖システム」や「インプット/アウトプット」、「エンロトピー」、「定常状態」、「情報・資源処理システム」などが、福祉実践を解釈する用語としてそのまま使用されていく。ピンカスとミナハンは「ソーシャルワーク実践における4つの基本的システム」(Pincus and Minahan[1973])として、

@ クライエント・システム(社会福祉サービスを必要とする、個人や家族、集団)
A ワーカー・システム(援助活動を担当するワーカーと、その施設、機関、職員など)
B ターゲット・システム
   (問題解決のために変革あるいは影響を与えていく標的となる人や組織)
C アクション・システム(変革に用いられる人々や資源全体)

をあげている(川田誉音[1992:138])。このシステム理論の援用は、問題の把握の仕方を精神力動ソーシャルワーク理論のそれより、社会的の側に引き戻したといえる(Siporin[1980:509]、Payne[1997:140])。ここで問題は、システム内部に起こった不均衡に還元される。つまり、システム内の不整合がさまざまな形態をした問題となって表出すると考えられるのである。こうした局面では