HOME > 全文掲載 >

社会福祉の学問と専門職

三島 亜紀子 199903
大阪市立大学大学院修士論文

last update: 20151221


 *この論文をもとに、以下の書物が刊行されました。
◆三島 亜紀子 20071130 『社会福祉学の「科学」性――ソーシャルワーカーは専門職か?』,勁草書房,211+36p. ISBN:9784326602063 (4326602066) 3150 [amazon] ※

目次
 序  1

 第1章  専門職化への起動  9

  第1節  全米慈善・矯正会議におけるフレックスナー報告  9
   1915年フレックスナー報告 ─否定されたソーシャルワークの専門性  9
   社会福祉教育をめぐる背景 ―フレックスナー以前  12
  第2節  フレックスナー報告に先行するフレックスナー報告  15
   医学領域におけるフレックスナーの功績  15
   1910年フレックスナー報告  15
   フレックスナーの人物像  17
  第3節  進化する専門職  20
   1915年フレックスナー講演にみる「進化する専門職」像  20
   カーネギーの『富の福音』  22

 第2章  社会福祉の「科学」を求めて  30

  第1節  ソーシャルワーク理論と諸学問の理論  30
   ソーシャルワーク理論の変遷  30
   社会福祉学の「学際的」研究  31
   今は無きソーシャルワーク理論 ─優生学の援用  34
   社会福祉学の基礎科学における「神々の争い」  36
  第2節  精神力動パースペクティヴ  38
   精神力動ソーシャルワーク理論出現の背景  38
   理論的構造  41
   脚光を浴び始めた子ども時代  43
   心理主義の専門家観  45
  第3節  マルクス主義にとっての「社会福祉学」  46
  マルクス主義的ソーシャルワーク理論出現の背景  46
  理論的構造  47
  マルクス主義ソーシャルワーク理論の専門職観  49
 第4節  社会福祉統合化へむけて ─システム‐エコロジカル理論  51
  システム‐エコロジカル・ソーシャルワーク理論出現の背景  51
  理論的構造  53
  「生活モデル」は「医学モデル」を「超越」したか?  55
  システム‐エコロジカル理論の専門職観  57

 第3章  幸福な「科学」化の終焉  67
  第1節  反専門職主義の嵐  67
   「反専門職主義」の台頭  67
   ソーシャルワーカー批判  69
   自立生活運動 ─リハビリテーションへの疑問  72
  第2節  脱施設化運動  74
   社会運動としての脱施設化  74
   ホスピタリズム研究にみる「脱施設」の文脈  77
   治療としての脱施設化  79
  第3節  新たな社会福祉専門職への再調整  82
   例えば「ノーマリゼーション」、「リハビリテーション」概念の変遷  82
   再調整されたソーシャルワーク理論  84
   社会福祉学の二律背反  86

 第4章  「子どもの主体化」への流れと児童虐待  91
  第1節  近代社会と児童虐待  91
   「子どもの発見」と学問  91
   「子どもの発見」と社会福祉学  92
   「子どもの発見」の発見  94
   社会福祉と児童虐待  95
  第2節  動物と子どもと…  97
   動物愛護協会と被虐待児  97
   動物へのまなざし  100
   牛いじめ廃止と児童虐待防止協会  101
  第3節  近代家族と児童虐待 ─性的虐待に関する考察  103
   「性的虐待」が犯罪となる日  103
   性的虐待者は男か女か  106
   フロイトの功罪  108
   性的虐待のサイクル説 ─フロイト主義 v.s.フェミニズム  110
  第4節  権利主体としての子ども  112
   児童の権利と優生思想  112
   子どもの「依存宣言」  114
   「子どもの権利」二つ  115

 第5章  社会福祉専門職が介入する主体 ─安全重視か自由か  123
  第1節  社会福祉学における主体について  123
   ソーシャルワーク理論にみられる複数の主体  123
   悲観主義と楽観主義  125
   政治と「主体」の多様性  127
  第2節  専門職化と児童虐待問題 〜拡大しゆく児童虐待の意味内容  129
   児童虐待の定義  129
   拡がりゆく定義  130
   児童虐待の定義に疑問を投げかけた人々  131
   ソーシャルワーカー批判の意味  133
  第3節  安全重視か自由尊重か  134
   児童虐待防止法導入とともに浮上した問題 ─安全重視か自由重視か  134
   1933年「児童虐待防止法」にみる「安全重視か自由重視か」  136
   「安全重視か自由尊重か」と複数のソーシャルワーク理論  138
  第4節  子どもと親と国とのバランス  141
   誰の自由なのか? ─J・S・ミルの「自由について」  141
   自由論と子ども  143

 終章 社会福祉学領域の「ポストモダン」論争  148
  第1節  イギリスにおける展開 @ 専門職化とソーシャルワーク理論の変遷  148
   救貧法からの脱皮と1948年児童法  148
   子どもへの学問的まなざしの集中  149
   「予防」的介入の進展  151
   マリア・コルウェル事件と精神力動ソーシャルワーク理論の攻防  153
   ジャスミン・ベグフォド事件と心理主義の剥落  156
  第2節  イギリスにおける展開 A 懐疑されるソーシャルワークの「科学」  157
   クリーブランド事件  157
   性的虐待の診断方法 ─性的虐待を取り巻くディシプリン  158
   1989年児童法  161
   子どもおよび親の権利の所在 ─「自由」とはなにか  162
  第3節  「社会的に構築される」児童虐待という命題  163
   アメリカにおける児童虐待の「バックラッシュ」 ─ジョーダン事件の転機  163
   「バックラッシュ」推進側の理論  164
   社会構築主義と社会福祉研究者  165
  第4節  社会福祉学という場にあるM.フーコー  166
   「ポストモダン」時代の社会福祉学 ─1990年代の熱狂  166
   自由主義との親和性  167
   フーコー、およびフーコディアンの「移植」  169
   従来の社会福祉学の解体と「反省的学問」  170
   日本の「反省的学問」  172

  文献表


 




社会福祉学

  現在、日本で「社会福祉学」1)という学問は既に成立している。少なくとも「学」を取りまく法的な既成事実は確実に存在する。「社会福祉士」という国家資格があり、国家試験が毎年施行されている。その受験資格を所得するためには、学校教育法に基づく大学・短期大学・専修学校において、厚生大臣の指定する科目を修めるなどしなくてはならない。そこに「社会福祉学」という科目や、その周辺科目は確かに存在し、その機能を果たしている。特に近年、全国の大学や大学院に社会福祉学のコースが乱立されていき、福祉の名のつく教科書が本屋で溢れていくのを目にしてきた。
  しかしながら学問というものは、それだけでは成立しない。社会福祉の研究者たちはこれまで学会を結成し、学術雑誌などを中心に理論や技術の精緻化を志し、論を戦わせてきた。そこで日本でも、それは踏襲され、社会福祉学の礎とされる『社会診断』も戸田貞三らがテキストにするなど、戦中から海外の研究がリアルタイムに紹介されていく。また、自らの歴史を溯って日本固有のものを求め、現在の社会福祉従事者を裏書きしようとも試みた。そして最近では、他の専門職や、海外での様式に忠実に、「倫理綱領」(1986年)も宣言されている。
  確かに、存在としての社会福祉学は19世紀末ごろから現在に至るまで「発展」の歴史を歩んできた。その学問はソーシャルワーカーの「専門職化」を根拠付けるものとして、一定の役割を果たしたとされている。学問の確立が専門職化をもたらすというこの図式は、他領域の学問 ─例えば医学や精神分析学─ にも共有されるものであった。社会福祉学は、医学教育を近代化させたことで名高いフレックスナーという人物を通じて、それを学んでいった。彼はそもそも20世紀初頭に「ソーシャルワーカーは専門職ではない」といいはなったことで、福祉関係者によく知られている人物である。社会福祉学は社会進化論の楽観的な潮流のなか、この屈辱を励みに、彼の提示した観念上の「専門職」の条件をクリアしていったのである(第1章参照)。このことはいずれなされるソーシャルワーカー批判が証明するように、社会福祉学が知の近代的様式美に従順であったことを示しているといえよう。
  ここで彼らはまず、福祉専門職が担うであろう幅広い実践領域を鑑みながら、社会福祉学の境界を確定し、体系的な理論を構築していかなくてはならないという強迫観念に駆られる。そこでその対象や行為、方法、技術に関して、立法・行政用語と照らしあわせながら、専門用語として公式の定義付けをおこなう。こうした司法関係の用語に連動しているのは、社会福祉という生業が、国や自治体からの委託を受けておこなわれているなど、それと密接な関係にあることから生じたのかもしれない。とはいえ、社会福祉学における方法・技術に関しては、独自の理論を展開できる自由な空間を有していた。

興亡

  本論文でいう「ソーシャルワーク理論」2)とは、この自由な空間で積まれた研鑚の厚みのことを指す。学問としての形式を保つためには、他領域の学問から理論が援用されていった。これまで多くの理論がその場を賑わしたが、最初に導入されたのは社会学と精神医学・心理学を論拠とするソーシャルワーク理論である。特に、フレックスナーによる動機付けがなされてからは、フロイトを代表とする後者の理論が最も影響力を持った。その後、優生学(第2章1節)からマルクス主義(第2章3節)、機能主義、一般システム理論(第2章4節)、問題解決、行動変容、実存主義、危機介入、課題中心、そして生態学にいたるまで多数の領域から影響を受けたソーシャルワーク理論が展開された。社会福祉学研究者たちは自らそれらの蓄積を、他領域の学問を「移植」したものにすぎないと卑下してみせるが、現行の社会福祉学においてそれらは排除されてはいない。
  しかしながら実践と密着する学問の運命として、「学」を意識するものほど、演繹的な学門の迷宮に迷い込んでいるのではないかという批判を受けやすい。社会福祉の場合、その実践に就いているものが発する声が、いち早くその性質をいいあてていた。現場にいるものたちはいう。学問は日常の業務には関係ない。実践において役立つことは少ない。大学での専門教育を終え、資格を手にした若者よりも、現場経験の長い無資格者のほうが現場では有能である、など。そこでは、専門職化を裏付けるはずであった研究の蓄積は、容赦なく放棄される。
  とはいえ、アカデミックな場においても、社会福祉学は市民権を得ることができないでいた。既存の学問を集成すると、新しい学問が創立されるという根拠はどこにもなく、かえって、既存の学問からの攻撃は激しさを増すという結果となった。諸学問からの無頓着な理論の流入で成り立つ社会福祉学とは、結局二番煎じにすぎず、独自の学問として単に体系化ができていないものとして受け止められた。もろく、傷つきやすい社会福祉学。そのことは、フレックスナーというトラウマ以来、常時口にされてきたものでもある。
  こうした傷つきやすい部分を残したまま、日本では急速な高齢化という追い風を受けて、社会福祉学は所与のものとされ、専門性を根拠付ける役割を課せられた。この危うい学問に立脚して、「社会福祉士及び介護福祉士法」(1987年)は成立したといえる。こんにち、社会福祉の「学問」を修めた学生は国家試験に合格すると、国のお墨付きを得た専門家として待遇されている(あまり優遇されないが)。さらに、同法の成立が公的介護保険の制度化にとって前提条件であったともいわれているように、この危うさに準拠して、超高齢社会あるいは「福祉社会」の設計図が描かれ、社会福祉専門職の質の向上、量産が目論みられているのだ。しかしながら、高齢社会という回避できない状況が「学問」としての完成度と「専門性」を擁護するといっても、根本的問題は解決されていないし、それがもたらす逆機能が問題になることもある。
  マルクス主義が、ある時代の日本の社会福祉学界を一世風靡したことがある。彼らも社会福祉学を確立させるため、思索を重ねてきた。このマルクス主義が持つ論理的一貫性は、学問としての達成度が一気に上がるのではないかという期待感を当時の社会福祉関係者たちに抱かせた。また時代的にも、まだ社会福祉がマーシャル(Marshal, T.H.)のいう「残余的」なものであったので、クラス概念は経験的にも妥当であったといえよう。しかし福祉関係者たちに夢を抱かせてくれたこの理論的道具が「流行」らなくなった現在、こうした理論的構築の試みや福祉学内部での論争も、同時に意気消沈しているようにみえる。
  当時、伝統的なマルクス主義者たちは既存のソーシャルワーク理論、特に「精神力動ソーシャルワーク理論」(第2章2節参照)に激しい批判をぶつけていた。マルクス主義者たちの目には、そのソーシャルワーク理論が資本主義社会を基礎付ける「ブルジョア科学」として映ったことは想像に難くない(Rojek[1986:67])。その「マルクス主義的ソーシャルワーク理論」(第2章3節参照)が結局、科学を志向するものであったとはいえ、心理主義的な援助技術に対立項が出現し、活発に議論が交わされたという点では意味深いものであった。そして現在、その対抗関係もマルクス主義的ソーシャルワーク理論の消滅とともに、希薄化が進んだ。
  しかしながら、マルクス主義の没落によって精神力動ソーシャルワーク理論が再び表舞台に押しもどされることはなかった。1960年代、1970年代からの反専門職の潮流が引き続きその存続を脅かしたのである(第3章参照)。そこでは社会福祉学の「科学」性を高めるといった客観主義的な学問のあり方が、パターナリステックな専門職の温床となると批判された。マルクス主義でさえも否定しなかった、知のあり方そのものを標的にしたものである。この経験はこれまで骨身を削って重ねてきた「科学的技術」への努力が無意味化されたのみならず、それの精緻化が専門化の根拠となっていたという危うさをも露出してしまう。

「反省的学問理論」

  こうした研究活動の閉塞状況のなかで生じた「新しい」ソーシャルワーク理論が、本論文が主題とする「反省的学問理論」* である。社会福祉学の場合、「エコロジカル・ソーシャルワーク理論」や「エンパワーメント」、そして「ポストモダン・ソーシャルワーク理論」といったものにほぼ該当する。本論文では、社会福祉学における「反省的学問理論」を検討するが、実践を目的とした他領域の学問を横断するこの傾向を視野に、普遍性を有するものとして扱いたい。

* この造語を用いるか否かで散々迷ったが、これを描き出すことが本論文の主題の一つであり、紙数を減じるためにもあえて用いることとした。各学問領域にこの概念に合致するものはあるが、渉猟しえたかぎりでは、それらの共通性を封じたことばがみつからなかった。謹んで、ご了承いただきたい3)。

  「反省的学問理論」とは、本来おのれに向けられる批判的言説を、内面化することによって正当性を保つ学問理論のことを指す。この奇妙な学問理論は、批判的言説を真摯に受け止め、反省すべき点を反省しているようにみえる。またそれは自戒的緊張を保ちつつ、より「おだやか」にことを進めるためにある時期以降、急速に普及していったともいえる。例えば、他分野の「反省的」表象として、以下のようなものなどがあげられる。
  戦後からの歴史がある「リハビリテーション医学」という分野では従来、文字どおり医学モデルに基づく施療がおこなわれていたが、ある時期から「反省的学問理論」の洗礼を受け始める。現在では「全人的復権」(上田[1983])が第一義となり、「ユーザー」の人格の自立性や尊厳性、そして選択権と自己決定権を尊重するといった標語が、まず前面に掲げられている。
  心理学の分野においても、「社会構成主義」の実践として「ナラティヴ・セラピー」(McNamee and Gergen[1992=1997])というものが出現した。彼らは「自らをポストモダンの流れのなかに厳密に位置づけ」、デリダやフランクフルト学派のネオ・マルクス主義、フーコーなどの影響を受けているとする。そこでは「科学者としての治療者」という「伝統的な見方」は放棄され、個々人の「」や「」を許容することが重視される。
  また教育学において「反省的学問理論」は古くて新しい問題ではあるが、1960年代の児童解放運動の潮流がもたらした「児童中心主義的教育」とは、近代プロジェクトとしての教育学の反省をもとに再生された教育法である。そこでは、自発性や能動性が高められるものが重視され、詰め込育や、暗記の強制、体罰などが回避される(松下[1997])。もちろん、その背景には「脱学校化」を唱えたイリイチや、学校を「イデオロギー装置」と位置づけたアルチュセールらの存在がうかがえる。
  この「反省的学問理論」を本来の学問理論と比較してみると、その概念の輪郭は明確になるだろう。本文第2章では科学性を志向する本来の学問理論のいくつかを具体的に取り上げているが、それと「反省的」な徴候を第3章で対比させている。「反省的学問理論」への移行は従来の近代知のあり方を否定し、つまりそれまでの研究の蓄積を相対化し、自省を経て「新しい」展望を摸索する試みである。その移行は、これら複数の学問領域において、担保を用意しつつも「コペルニクス的転換」としてセンセーショナルに語られていさえする。
  「反省的学問理論」といったとき、学問理論に準拠する専門家の制度が整備される前のものはここでは考慮しない。それは適任とされた多数の者が動員され、彼らに必要とカテゴライズされた人々を組み込んで執行されている制度が存立していることを重視するからである。もちろん、それ以前の思想家が提示する理論にその源泉を辿ることは可能である4)。しかしながら、この制度が運営されている段階で出現する対抗言説は、より存在感があるし、あるいは政治的文脈のなかに読み取ることもできる。
  社会福祉学において「反省的学問理論」の興隆をもたらした思想家としてフーコーの存在は大きかった。本論文では、この領域において彼の思想がいかに吸収され、従来の学問から「反省的学問」への形式に変容したのか、歴史的過程を考慮しつつ明らかにしていきたい(終章参照)。この奇妙な形式に頻繁に引用されるのが『監獄の誕生』(Foucault[1975=1977])であるが、フーコーはこの著書で社会福祉学をも含む、既存の学問を「国家の管理装置」、「規格化の技術」としたのは周知の通りである。
  該当する従来の学問にとって、こうしたフーコーの思想は破壊的である。したがって、社会福祉学に限らずフーコーの論を「移植」することは、一見、従順にも「まなざし」が再び変容したかのような印象を受ける。はたして、そう即断してもよいのだろうか?さらに社会福祉学において、「反省的学問理論」が ─ポストモダンという鍵概念を介して─ みうけられるようになるのは、イギリスではようやく1990年代にはいってからである。つまり、そこに10年以上の沈黙の期間があり、そこに不自然さを感じられずにはいられない。

アポリア

  しかしながら、この「反省的学問理論」という形式には、先天的なアポリアが存在した。例えば、教育学における「児童中心主義」とは、単に社会統制を目指す教育の機能をより効果的に果たすための手段にすぎないという批判が寄せられる。一部の者たちが「楽しい学校」や「ゆとりの時間」に込められた作為を読み取るのである。また「ナラティヴ・セラピー」にしても、それをセラピストが臨床場面での「治療」に用いるため、結局「科学」の一形態にすぎないという指摘はまのがれない。
  社会福祉学の「エコロジカル・アプローチ」という方法は、ソーシャルワーカー批判を経て理論化された「反省的学問理論」の一種といえる。ここでは「治療」者としてのソーシャルワーカーから、「生活モデル」に基づく「協働」者ととしての役割が強調された。しかしながら、こうした試みも、否定されたはずの「医学モデル」の域を脱するものではないという者がやはり存在する。また、社会福祉学におけるポストモダニストの出現は、他領域と同様、新自由主義の台頭という政治的問題に読み替えられることが多かった。しかしながら他方では、それは「自由」に粉飾された介入主義的な「本来の学問」にすぎないと解釈される。とはいえ、こうしたアポリアに解決や回答をみいだそうとするのは、無意味といえるかもしれない。
  近年、この解決されない問題は子どもの権利という軸をみいだすことによって、さらに展開されてきた(第5章)。したがって、本論文ではそれに関連する子ども観についても1章を割いている。例えば、「子ども」という観念が近代において、家族と学校に囲い込まれることによって発明されたというアリエスの論は、彼が自認するように、彼の歴史認識はイリイチのいう「脱学校化」論と重複し、教育における「反省的学問理論」推進者を魅了してきた。そしてそれは同時に、オートノミーとしての子どもの権利を擁護する者によっても多用されている(Archard[1993])。社会福祉学の領域においても、オートノミーとしての子どもの権利は、子どもの真の福祉を保障するものとして、「反省的学問理論」を支持する者の多くがそれを掲揚するだろう。
  ところが、それを楽観的な論理にすぎないとする人々が存在する。アリエス・テーゼなどで論拠付け、子どもの自律性や自由を口にすることは、結局「介入の一手段」となっているという。社会福祉学の「反省的学問理論」は、国家や「公共の安全」に対峙する「自由」の論拠として活用できる。しかしながら同様に介入を棄却するものと思われた「親の自由」と「子どもの自由」の擁護とでは、その目的が実は異なっていた。つまり、オートノミーとしての子どもの自由を強調することは、家族を遠隔地から統治することと変わりはないとみなされるのである。両者が「反省的学問理論」の援護を受けているのに関わらず、その目的は反発しあう。

攻防

  さらに「反省的学問理論」のアポリアは、子どもの権利を介して、児童虐待をめぐる問題に出会うときに噴出する。そして、その子どもの虐待事件は、イギリスにおける戦後の福祉サービス体制の整備や、社会福祉の専門職化とともにあったといっていい(Jordan[1984=1992])。なぜなら虐待事件とは、ソーシャルワーカーへの批判を集めることになるが、その結果、それまでは明確にされていなかった「責任」や「権限」を、手中に収めることになるからである。
  ところで、ドンズロは「非行に走る危険な子ども」と「危険にさらされている子ども」という、二人の子ども像にソーシャルワーク存立の近代性をみいだしている(Donzelot[1977])。彼らの/彼らへの「危険」性が国家機関による介入の正当性を自明のものとした。そして、彼もフーコーも主に、前者の「危険な子ども」をめぐる知の様式について検証した。
  本論文ではもう一人の子ども像、「危険にさらされている子ども」に焦点を当て、それが社会福祉の学問の体系化とその専門職化にどう関与していったかを描いていきたい(第4,5章参照)。特に、この「危険にさらされている子ども」を対象とした場で、数ある言説がどのように攻防戦を繰り広げていったのであろうか。子どもの権利を軸として、子どもの主体化の変遷をなぞるところから考察していきたい。だが、ここではそれが社会福祉学のポストモダニストのような型どうりの批判的文体にならないように、また「反省的学問」の持つアポリアに回答を出すようなことはしないでおく。
  ちなみに、この「二人の子ども」は、彼らを対象とする学問にとって紙一重の違いであるとみなされる。例えば、ボールビーは「母性的養育の喪失」(児童虐待と定義されうるものを含む)が(少年非行を含む)「社会的病毒の源泉」になるとして、「予防対策」を要請している(Bowlby[1951=1967])。日本でも最近、児童虐待に対する関心が高まりをみせているが、それは少年の逸脱行動と結合させられる。「神戸連続児童殺傷事件」のA少年に対しても、彼の家庭環境にその原因を究明する試みが多くなされたが、彼が一種の被虐待児であったことに注目する研究者もいる(野口善國[1998]、斎藤学[1998])。


  また、こうした議論が繰り広げられる前提として、現在われわれを抱合する社会の様式に注目しなければならない。自由主義社会にあって、児童虐待とは自由や責任を消滅させる一つの回路となる(第5章参照)5)。アメリカのクリントン大統領の不倫揉み消し疑惑に際しても、彼が子供時代、情緒的に「剥奪」され、虐待を受けた経験があったことなどが連日マスコミで取り上げられた。その総体は彼を解読可能なものとし、彼を責任追究する経路から、それをずらした世界へと招きいれるだろう。

  自由な社会における一つの「不自由への経路」としての児童虐待は、『ファウスト』にも読み取ることができる。ファウストとの間に生まれた子どもを死に至らしめたグレートヒェンは、いわば究極の「児童虐待」を犯した。当時の法律によると、子殺しは死罪である。グレートヒェンは牢獄に入れられ、精神錯乱に陥る。その彼女を救うことができたのは、「知」への限りない探求心を持ち、貨幣経済を肯定し、「自由な土地に自由な民とともに立ちたい」と願うファウストその人であった。しかしながら、「正気」を取り戻した彼女は誘うファウストを振り切り、神を選び、同時に死刑が確定する。
  象徴的なファウストが救われるクライマックスでは、贖罪を済ませたグレートヒェンが彼を赦し、天上へと導く。そして、被虐待児といえる「早く天に招かれた少年たち」(天使と人間の中間)は、ファウストの魂に向かっていう。

  ぼくたちは早く
  生きている人たちから遠ざけられましたが、
  この人はいろいろと学んでこられたので、
  ぼくたちを教えてくれるでしょう。

                 (Goethe,J.W.[1774-1831/12080-12983])


1) 「社会福祉学」、「社会福祉」の定義について、数々の論争を経験してきた。その対象とは何か、またどういった手法を用いるのか、基礎知識をどういった範疇とするのか、など。ここでは、こうした解決されることのなかったコンフリクトを認識しつつ、それら脈絡のない総ての知的作業を含む範囲を念頭にこの語を用いる。体系化がなされたかどうかよりも、体系化を志向したかどうかを重視したものである。しかしながら皮肉なことに、社会福祉領域におけるポストモダニストの出現が(終章参照)、社会福祉学を近代国家における一つの知として承認された結果となった。
2) 本文中でも述べるが、これまで「ソーシャルワーク理論」という語はあまり使われてこなかった。「理論」といえば、人名を冠した「○×理論」というようなかたちで用いられている場合が多かった。しかしながら、人名を表に掲げた場合、その人物が参考にした学問や理論は複数にわたっている場合が多いため、ここではこの語を用いない。ソーシャルワークということばには、社会福祉学の「科学的」技術を追究する分野であるとのニュアンスが含まれるため、「社会福祉理論」よりも的確であると判断したものである。
3) 教育学において、体系的教育学の破棄を宣告するレンツェン(Lenzen, D.)は、新たな学として、「反省的教育科学」を提示する(鳥光[1995])。ここでも、「反省的」ということばが用いられている。
4) 例えば、宮澤康人は「児童中心主義的教育」をルソーからドイツ観念論を経てデューイにいたる教育論を貫流するものとし、さらにロマン主義の精神も浸透しているとした。
5) ここで、実際に「危険にさらされる子ども」◆無視し、児童虐待に関する昨今の関心の高まりを「社会的に構築されたもの」と一括りにするつもりはない。児童虐待はここにあり、今、何らかの対処を要することは確かである。それを確認したうえで、以上で述べた本論の主題を検討していきたい。


  


■第1章  専門職化への起動

第1節  全米慈善・矯正会議におけるフレックスナー報告

1915年フレックスナー報告 ─否定されたソーシャルワークの専門性

  1915年、アメリカ・ボルチモアで開かれた全国慈善・矯正事業大会(National Conference of Charities and Correction)において、「ソーシャルワークは専門職か?」(Flexner[1915:576-590])が発表された。この報告は、エブラハム・フレックスナー(Flexner,A.)によってなされたが、彼はこの短い「論文一つによって、その名は社会事業界に遍く知れわたっている人」(田代[1974:68])である。
  「その後の社会福祉専門職の研究に原点の位置を占めるかのように、多大な影響を与え続けてきた」(秋山[1988:85])といわれるこのフレックスナー講演は、社会福祉学の基礎知識として、社会福祉の専門家たるものは頭に入れておかなくてはならない事項である。なかでも、フレックスナーの功績として専門職が成立するための「6つの属性」を明確に提示したことが注目される(田代、[1974:68]秋山[1988:85]、NASW[1995:2584-2585]奥田[1992:67]などで引用される)。その専門職の規準とは次のようなものである。

@ 基礎となる科学的研究(基礎科学)のあること1)
A 知は体系的で学習されうるものであること
B 実用的であること
C 教育的手段をこうじることよって伝達可能な技術があること
D 専門職団体・組織を作ること
E 利他主義的であること2)

  これらは医学を完成された専門職のモデルとして提示されたといわれるが、フレックスナーの主張にインパクトがあったのは、なによりもこのモデルに準拠してソーシャルワークは専門職ではないという結果を導いたことである。フレックスナーはこれら属性を掲げた後で、「現段階でソーシャルワークは専門職に該当しない」(Flexner[1915:588])と結論づけた。当時、アメリカでは社会福祉を専門に教える学校は既に設立され、「専門的」な教育がそこで施されつつあるという認識があったばかりに、このことは社会福祉従事者を専門職化させようと試みる人々にとっては衝撃的なものであった(田代[1974:68]、小松[1993:28-29])。
  いや、そればかりではない。爾来、専門職化のためには、考案された「専門職として承認されるための条件」(フレックスナーの場合は例の「6つの属性」)を充たしていく過程を歩んでいくべき、という暗黙のルールが社会福祉学という場を支配していくことになる。フレックスナーに準拠した論理展開によって「専門職化」を推し進めた人物としてグリーンウッド(Greenwood, E.)やミラーソン(Millerson, G.)などがあげられる。彼らの社会福祉の専門職化に関する研究も、フレックスナー「神話」(Austin[1983])の世界のなかでくりひろげられた議論であったといえよう。
  グリーンウッドは1957年に「専門職の属性」を発表し、独自に5つの属性(Greenwood[1957:44-55])3)を掲げた後で、「ソーシャルワークはすでに専門職である」と結論づけた。このフレックスナーと正反対の結論にも、フレックスナーの影響をうかがうことができる。なぜなら、フレックスナーの講演は、「発展する社会福祉学」(発展しゆくイメージについては、第3節参照)を運命付けたのであるが、グリーンウッドはその運命に従って、いよいよ社会福祉も専門職に昇格する時期にきたという判断を下したにすぎないからである。
  しかしながら、グリーンウッドが独自の専門職の基準を設け、既に当時のソーシャルワーカーはそれらの基準を充たしているため、専門職であると述べたことは人々の認識に基づいていた。1952年にソーシャルワーク教育協議会(Council on Social Work Education:CSWE)が結成され、ソーシャルワーク教育についての全米的な責任を持つものとなったほか、1955年に7つの社会福祉団体が統括され4)、全国ソーシャルワーカー協会(National Association of Social Workers:NASW)が組織された。このグリーンウッドの論文が合併して間もないNASWの機関紙“Journal of Social Work”に発表されたことも、一つの完成された学問体系に立脚しているように思われる。
  1967年に東京都社会福祉審議会が東京都知事に対して提出した答申「東京都における社会福祉制度のあり方に関する中間報告」のなかで、ミラーソン(Millerson, G.)の概念が用いられ、日本では彼の6つの属性が普及している(秋山[1988:86-87])。1964年に発表された「資格化団体 ─専門職化の研究」は、専門職を属性で把握し、専門職になるためにそれぞれの条件を充たすよう促す5)。ここでは条件として、「テスト合格」という用件が加えられていることが注目されている6)。しかしながら、この論文においても、属性モデルを規準とする基本的な姿勢はフレックスナーやグリーンウッドと大差ない。それは、ブラウン(Brown, E.L.)の掲げた属性7)にしてもまたしかりである。その他にも、多くの研究者が専門職性について言及したが、奥田のおこなった比較一覧表を参照したい。

表 1 専門職の属性 ─研究者別比較一覧表

  (略)

  オースチン(Austin,D.M.)は1982年に、社会福祉領域に蔓延する「フレックスナーの悪霊を、追い払うべき時が来た」(Austin[1983:375])と述べた。「反省的学問理論」さえもが台頭してきている現在、フレックスナーの提示した専門職の規準に照らすと、それを満たせない仕事に多くの福祉専門家が従事しているといえる。こうした事態でもオースチンは、フレックスナーのいう属性に惑わされることなく、多様な形態の職務があることそれ自身を、社会福祉の専門職の特性として肯定していくべきだ主張する8)。
  この社会福祉学における「フレックスナー神話」は、その後くりひろげられた一つの「知」を目指す学問的な試みや、専門職団体の整備、学会の開催、学術専門雑誌の発行、そして教育のあり方についての改革に大きな影響を与えている。しかしながら、こうした1915年のフレックスナー講演がすべての源泉だとは考えられない。この「神話」を再考するためにも、まず、当時の背景について検討していきたい。

社会福祉教育をめぐる背景 ―フレックスナー以前

  フレックスナーの講演が、無情にも当時の社会福祉教育を否定し、衝撃を与えたせいか、それ以前の社会福祉の教育が評価されることは少ない。逆に、フレックスナー以前の学問や教育を未分化段階と位置づけ、その未熟さを強調することによって、「発展する社会福祉教育」像を描くことに貢献しているといっていい。では、社会福祉教育の始まりの場面では、どういった学生を対象としていたのであろうか?
  1869年にイギリスで設立された慈善組織協会(COS)では友愛訪問員による救済活動にがくりひろげられていたが、これがアメリカに伝えられ、1877年にCOSがニューヨークで初めて組織化された。そして1893年の深刻な不況以降、社会におけるソーシャルワーカーの役割は重要なものになっていったが、この活動を支えたのは、新しく開設された女子大の卒業生であった。彼女たちの多くは中流・上流階級に属し、それまでの伝統的な女性像に収まることを拒否して、新しい女性のあり方を模索していた。しかしながら、大卒の女性に既存の専門職従事者(医者・弁護士・聖職者・ビジネスの管理職など)として受けいれる機会はほとんど与えられない。そうした状況のなか、社会福祉の機関が大卒の女性に対して就職の機会を提供し始めたのである(Austin[1983:378])。
  そこでくりひろげられた初期の専門職論は、必然的に女性の問題と関係してくる。このことはフレックスナーの1915年講演にしても、ソーシャルワーカーを三人称で表すときには、「彼女」となっていることからも類推できる。しかし、そこでの「ソーシャル・ワーカーという新しい役割は、古くからの一部擬制的な役割 ―家庭の守り手― の要素と、新しい役割 ―社会奉仕家― の要素とを結び付けたもの」(Platt[1969=1989:94])と特徴づけられるように、現在「女性の社会進出」が意味するものとは異なってくる(母性主義フェミニズムと児童福祉の関係については、第4章を参照)。それは「大規模な家事」(Platt[1969=1989:75])として受け入れられ、「フェミニストと反フェミニストの立論の前提は、奇妙な符合をみせた」(Lasch[1965:53-54])のであった9)。
  そこでこの新しい職業のための訓練が1890年代および1900年代に始められた10)。社会福祉教育の養成学校の必要を訴えた人物のなかでも、リッチモンド(Richmond,M.)が有名であろう11)。1897年全国慈善矯正事業大会の講演のなかで、当時ボルチモアCOSの事務局長であったリッチモンドは、COS内でおこなわれていた見習い研修制度は、経験的な教育に偏り、同時にあまりに早い専門分化を強制するものであると批判した。そこで題目である「応用博愛事業学校の必要性」(Richmond[1897=1974])を説いたのである。そこでは新興の職業であるソーシャルワークを既存の「専門職」同様、社会的に認知されるよう働きかける姿勢が読み取れる。
  1898年には、ニューヨークCOSが主催となり、常任理事(executive director)であったデヴァイン(Devine, E.)の責任のもと、ソーシャルワーカーのための博愛夏季学校(Summer School of Philanthropy)が実現される。さらに1904年には1年コースのニューヨーク博愛事業学校(New York School of Philanthropy)が開校され、1912年には2年コースが加えられた。このように、1915年以前にも、リッチモンドを始めとする多くの要請を受けて、教育体制が整いつつあった。この時、学校を設立してすでに17年も経過しており、フレックスナーという外部から専門性を否定されたことはショッキングであったことが類推できる12)。
  ここで、社会福祉教育の方法に関して、「二つのアプローチ」(Austin[1983:358])が対立しあっていたことに注目したい。まず第一のアプローチとして、分析的で社会改良に端を発し、社会理論に基礎をおく学術的なカリキュラムを要請する立場である13)。この立場にある代表的な人物の一人として、ハルハウスでのセツルメント活動を通じて社会改良運動をおこなったアダムス(Adams, J.)があげられる。これは1869年に設立されたCOSにおいて、植民地支配の方法を貧困救済の技法として用いたことに溯ることができる(Jones[1996:191])。このアプローチにとって、ソーシャルワーカーは基礎知識として社会政策問題に精通するべきものとされる。リッチモンドの定義に従うと、個々のケースを重視する「小売り」(retail method)(Richmond[1905=1930:214-221])的ソーシャルワークよりも、総合的な「卸し売り」(wholesale method)的ソーシャルワークを推奨する立場といえよう。
  第二のアプローチは、「社会調査をおこなう者」である前に「ケースワーカー」であるべきとする臨床に基礎をおいた教育カリキュラムを主張する立場で、実践経験を重視し、社会福祉機関との連携を強調した。第一のアプローチの「卸し売り」に対して「小売り」的社会福祉学とされる。この立場にある者として、リッチモンドがあげられる。彼女はフィラデルフィアCOSの事務局長にあった1905年に社会福祉領域における先駆的な専門雑誌“Charities and the Commons”を創刊する。そしてその雑誌を舞台に、ケース記録を教材に使った実践的な教育方法を強調し始め、第一のアプローチと対照的な存在となった(リッチモンドとアダムスのコントラストについては、木原[1998])。
  また、それ以前の「応用博愛事業学校の必要性」(Richmond[1897=1974])にもすでに「アカデミックなものよりも実際的なもの」を強調し、教室での授業とともに、現場での経験を重視していくべきであると述べている。ここに、臨床の場を持ち、施療体験や観察を教育に役立てる近代医学の教育体制の影響がみうけられる。「医者こそ私たちが心からそうなりたいと願っているもの」(Richmond[1897=1974:5])であり、第2節で述べる1910年「フレックスナー報告」の出版にも強く影響を受けている(Richmond[1911=1930])。ここで、1915年の講演以前にも、1910年の医学におけるフレックスナー報告が直接影響を与えていたことが明らかになった。
  フレックスナーが講演した1915年頃は、社会改良思想を支柱とした「社会」側から、振り子が退却しつつある時期であった。第一のアプローチの立場をとったリンドセイ(Lindsay, S.M.)が1911年からニューヨーク博愛事業学校に勤め、自ら主張するアプローチを基礎とした教育をおこなうが思うようにはいかなかった。そこで翌1912年には学校を去ってコロンビア大学に戻ることとなっている。そして、リンドセイが去ったその席には、実践経験のある常勤教師が雇われることになった。また同1912年、2年目が実践教育に割かれる2年制のカリキュラムが加わることとなり、リッチモンドの支持する臨床重視の教育が実現しつつあった。当時の実践を重視したニューヨーク博愛事業学校の教育方針は、実はアメリカの医療界を近代的なものに刷新したフレックスナーの教育方針に大きく影響されていった。
  1915年フレックスナー講演は、「これが刺激となって、フレックスナー『症候群』と評価されるぐらい、脅迫的に、『技術』への傾斜が強められるようになって」(小松[1979])きたと認識される。そして『社会診断』(Richmond[1917])の出版も契機となり、その後第二のアプローチ、「小売り」的ソーシャルワークが主流となる。
  それは両者の発行した専門雑誌の関係者による普及度によっても類推することができるだろう。第一のアプローチに属したアボットとブレキンリッジ(Breckinridge,S.P.)による雑誌“Social Service Review”と、第二のアプローチに属したAmerica Family Social Work協会(旧・アメリカCOS)の発刊した雑誌“The Family”14)では、後者のほうが圧倒的に広く読まれた。前者が公的扶助を含む社会福祉政策、行政、そして社会保障などに関する記載が多いのに対して、後者はソーシャルワークの技術や方法論に関わる論文を多く載せている。1930年代、1940年代では、当時の社会福祉分野における指導的な人物のほとんどが“Family”に論文を掲載していた(窪田[1988:66])ことからも、第二のアプローチがその後優勢になっていったことがうかがえる。
  「技術への傾斜」が時代の趨勢となるなかで、しだいに社会福祉学はフロイト(Freud, G.)の精神分析をその論拠とするようになっていく。そこでいわゆる「精神医学の氾濫(psychiatric deluge)」(Woodroofe[1961=1977])の時代を迎えることとなった。社会福祉の科学化を進め、学問としての体系化を図ることにより、専門職化を促すために、精神医学や心理学を取りいれることとなっていく。これに続いて、さまざまな学問理論が大挙して社会福祉学の範疇に押し寄せてくることになる。こうした傾向のインセンティヴとなったのは、フレックスナーの講演に代表される、科学的な知の体系に裏付けられた理想的専門職像の存在であった。
  ここでは、現代的な社会福祉専門職の鋳型となった医学領域におけるフレックスナーの言明について考察し、彼自身の思想を重層的に捉える作業を試みたい。


第2節  フレックスナー報告に先行するフレックスナー報告

医学領域におけるフレックスナーの功績

  フレックスナーはその後、半世紀以上、あるいは現在に至るまで社会福祉領域におけるトラウマとして存在しつづけてきたのだが、当の本人は社会福祉への興味はほとんどなかったといっていいだろう。“I Remember”という自叙伝には1915年の会議については何も言及されておらず、ほとんどが医療分野の教育改革に関する言動について記されている(Austin[1983:364])。全国慈善矯正会議に出席したことについて「私は覚えて」いないらしい。
  フレックスナーという人物は社会福祉分野のみならず、医学分野においてもその専門職化に大きな貢献をした。いや、彼の関心が医療に集中しているように、医療分野における功績のほうが、より大きな関心を集めているといっていいだろう。また彼の医学領域における業績は福祉分野のみならず、法学や精神医学、薬理学などといった、さらに広範囲の学問領域に影響を与えている15)。また、プリンストン高等研究所(The Institute for Advanced Study)の設立に尽力し、アインシュタインを始めとする多くの著名な科学者を招聘するなど、学術の中心地がドイツからアメリカに移行する際のキーパーソンとして重要な役割を果たしたとされる(斎藤真[1979])。
  しかしながら、社会福祉研究者の間ではこれまで彼を単に医学分野からやってきて、社会福祉専門職を否定した人物として捉えられてきた。彼自身が医者であったという誤解さえ蔓延っている16)。またどれだけアメリカの医学教育に大きな影響を与えてきたかに関しては意外と知られていない。こうした誤解や無関心は単に、「フレックスナーの神話」に浸った社会福祉研究者の心性から生じるのかもしれない。とはいえ、1960年代からのソーシャルワーク批判(第T部、第3章参照)というのも、実はこのフレックスナー的発想に対する批判であったはずである。以上のことを考慮すると、「批判」の後にも専門職を語るときにのみ、引用されるフレックスナーについての再考が必要であろう。

1910年フレックスナー報告

  1909年、アメリカ医師会(American Medical Association:AMA)は、カーネギー財団教育促進委員会(Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)の寄付を受け、フレックスナーはアメリカとカナダにある全ての医学校の訪問を開始した。これは翌年、『合衆国とカナダにおける医学教育』(Medical Education in the United States and Canada :A Report to the Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)と題してまとめられた。これがいわゆる「フレックスナー報告」である。
  彼はその訪問に際し、以下の点を評価をおこなううえでの規準とした。フレックスナー報告の約半分の容量に相当する第U部において、その評価は州ごとに全て収められている。

@ 学校名、創立年、学校の系列など
A 入学資格
B 生徒数
C 教員数
D 維持費の財源
E 研究設備
F 臨床設備

  このうち後二者(E、F)は、フレックスナーの知見に基づくコメントが添えられており、よりよい設備を確保する学校に対しては10行程度の長さとなっている。
  ハドソン(Hudson, R.P.)は、この報告書がもたらした影響について、その長所として次のような点を掲げている。

@ 水準のまばらな医学校を等質化し、医学校の全体数と、脆弱な教育しか受けない医者の数を減らしたこと。
A 医科大学予科教育(premedical)の必要性を説いたこと。
B 研究機能を担わせ、医学校への常勤体制を導入したことにより、医学校教育者の「専門職化」を促したこと。
C 科学的基礎の上に医学校のカリキュラムを組んだこと。
D 臨床教育のために病院施設が必要となり、病院を学校のなかに取り込んでいったこと(Hudson[1992:7-13])。

  @は「報告」以降、専門職的団結力が強まり、州による免許制定の要望が高まった結果、もたらされた。このことは専門家団体の発言が影響力をもつようになったことを意味する。AMAはそもそも、教育改革をおこなうことを主目的として1846年に設立されたのだが、その成果は全く振るわなかった。当時は、後述するリッチモンドの医学に関する記述が証明するように、「初期の頃の治療法のほとんどあらゆる粗野な形態が依然として残存してい」(Richmond[1897=1974:5-6])たのである。そのような状況のなかで、AMAの進める改革が実を結ばないのも、私立の医学校を経営する医者が多数を占め、改革をおこなう上で不釣り合いに大きな発言権が与えられたからである。その改革は小規模の医学校を淘汰することになり、当然それらの学校に関係する医者にとって不利益をもたらす(Hudson[1992:6])。そのため、半世紀以上にわたってAMAは有名無実な存在であったが、1904年にAMA内で医学教育審議会を設立され(Council on Medical Education:CME)17)、定期的に医学校を視察・評価するようになってから事態は急速に展開していった。CMEは1908年にカーネギー財団の援助の獲得に成功し、フレックスナーの大規模な調査が実現することとなった。
  またAは、生物学、化学、物理学といった基礎知識を進学時にすでに身につけるように要求したものである。それは高校や大学の一般教養ではその要求を充たすものではなく、高いレヴェルに設定されていた。そこで、この基礎知識を学ぶための医科大学予科教育の登場となる。この新しい医学に対する要求は、フレックスナーによると、医者の役割が個々の患者を治療するものから、社会全域を対象とした予防的なものを強調するものへと変化したため、起こってきたという。つまり、医者は公衆の衛生管理という新しい役割を担うために、より広い科学的知識を身につけなければならないという論理である。しかしながら、このフレックスナー進学時に幅広い基礎知識が必要だとする主張はその後、しばらくはあまり徹底されることはなかったという(Hudson[1992:9])。
  ジョンズ・ホプキンス大学やハーヴァード大学など、近代医学教育の先駆をなした医学部のカリキュラムは4学年にわたるものであった。最初の2年間は解剖学、生理学、病理学などの研究科目に割かれ、後半の2年間は内科、外科、産科などの臨床科目に費やされる。そして、この後半の2年間に提供される病院施設の必要性は高まっていく。その臨床教育がおこなわれる際、ライセンスを持つ経験豊かな医師の指導が必要となり、Bのような常勤のスタッフを配備しなくてはならなくなった18)。
  次に、Cに関して教育者である医者は一方で科学的研究活動をおこなわなければならず、そこで得られた成果を実践に、そして教育において役立てていくことを期待されるようになった。フレックスナーは、治療の実践と研究活動は「精神・方法・目的において同一のもの」(Flexner[1910:56])とみなしたが、この点については現在批判が集中する部分である。つまり、フレックスナーはここで「医者=研究者」と設定したのであった19)。医学従事者とは実践の場においても、研究所内においても、「科学者」なのであり、患者の診断時のクリニカル・エンカウンター(clinical encounter:治療上の出会い)は科学的研究における一つのケースとみなしていた(Hudson[1992:9])。そこで、患者と医者の関係は一方的な権力構造のもとにおかれ、人間的なコミュニケーションが剥奪されている、という批判が起こるのである。
  Dに関連して、Barzanskyがフレックスナー報告の背景として、治療の場が家庭から病院へ移行した時期であることを指摘したように(Barzansky[1992:191])20)、医学教育もそれへの対応が迫られていた。それは病人を病院へと囲い込むことになり、昨今の反医療化や脱施設化などの批判の対象となる。また、それは大規模な資本、運営費を必要としていった。

フレックスナーの人物像

  19世紀末におこなわれたリッチモンドの講演のなかで、専門職としての医療を社会福祉の専門職化の過程で意識するよう呼びかける記述があるので、少し長くなるが引用する。

  私たちは、往時において理容師たちが採血をしたり、抜歯を行ったとか、司祭が依然として私たちの主治医でもあるとか、あるいは薬剤徒弟人たちに病気の診断をするという微妙な仕事を委ねたといったような、慈善事業の進歩の上では初歩的な段階以上には進んでいないと言うべきであろう。私たちは、医業においてさえも、初期の頃の治療法のほとんどあらゆる粗野な形態が依然として残存している、ということは知っている。しかしこれらの遺物は、一定の専門職の基準によって比較衡量されるから、その規準に達しないことが明らかになるのである。そのような規準となるものが、知的でない仕事であるかどうかを確かめるために、私たちの慈善事業にあっても遺憾ながら必要だということになるであろう。私は、医学の歴史についての造詣はあまり深くない。そうではあるが、おそらく医業はその知識と原理の遺産の大部分を、その大学制度に、自由豁達な専門職の一員たるには臨床医であるのみならず教育者であるべきだ、という伝統が確立されている大学に、負うていると言えるのではないだろうか。
(Richmond[1897=1974:5-6])

  ここでは、19世紀末、医学は社会福祉学に比べてより「進歩」的な位置を占めていたという当時の認識がうかがえるが、フレックスナーによる専門職としての社会福祉の否定を待つまでもなく、それは当時の社会福祉領域の人々にとって常識であった。つまり、フレックスナーの講演は当時の認識から隔絶したものではなく、何ら新しいものではなかったといえるだろう。
  この点に関して、フレックスナーの医学領域における役割は「偉大な触媒」(Barzansky,B.[1992:189])と表されるように、福祉領域の場合と同様、なんら革新的な言明をおこなったわけではない。さらにフレックスナーはもともと正規の医者ではなく、カーネギー財団の援助を受けた全国調査に関与するまではケンタッキー州の一中学教師(後に大学予備校の校長)にすぎなかった。そんな、地方の中学校に20年近く奉職した教育者がドイツ留学を機に21)、利害関係を孕むパワーゲームのなかに、半ばスター的な存在として登場したのである。
  フレックスナーは1910年の報告において、先に述べたように望ましい専門職のあり方について述べたが、結局それはハドソンの指摘するように、当時の医学領域の常識を超えるものではなく、その権威者の見解を代弁したものとさえいえる(Hudson[1992:7])。例えば、その報告にある調査の視点も、1906年Council on Medical Educationによる認可調査で用いられた方法に酷似しているといわれている(Barzansky,B.[1992:190])。
  このように、当時の共通認識を代弁したにすぎないのにもかかわらず、その影響が大きかったことに関して、バーザンスキーは「フレックスナーの方法論は評価的と特徴づけられる」と述べる。フレックスナーは1910年の報告のなかで、厳密に当時運営されていた全国の医学校を、学校名を明らかにして評価をおこなった。それは時には無遠慮ともいえるほど、歯切れのよい評価であった。例えば、いち早く当時近代医学のトップと考えられたドイツ流の医学教育体制を整えたジョンズ・ホプキンス大学などは評価が高い。

  (ジョンズ・ホプキンス大学に併設されている)ジョンス・ホプキンス病院及び薬局は実践上の理想を提供している。(略)医学校の設備とはこのように、研究所と臨床とが複雑に織り交ざった有機的な全体性をもつものである。(Flexner[1910:235])

  そこで、結果的に「淘汰」される学校がでてくる。特に少数民族や女性を対象とした学校や、低価格の授業料で徒弟的な伝授をほそぼそとおこなっていた学校が、フレックスナーの推し進める医学教育の近代化に乗り遅れることとなった。このことは現在、「黒人や大多数の女性や貧しい白人男性の前にドアはぴしゃりと閉ざされてしまった」(Ehrenreich, B. and English,D.[1973=1996:47])と批判されている22)。フレックスナー報告に記載されている黒人専用の医学校の評価がどんなものか、みてみよう。

  (3)Knoxville 医学校。黒人向。1900年設立。無所属の機関
入学資格:無きに等しい
学生数:23名
教員数:11名、うち9名が教授
維持費のための財源:授業料、$1020にのぼる(推定)。
研究設備:なし。学校のあるフロアーでは葬儀屋の設備で占められている。
臨床設備:なし。ある学生が述べたところによると、10月1日から1月28日までに2度、「幾人かの学生がKnoxville大学病院に連れられていった」そうである。調剤室はない。
この学校のカタログは初めから終わりまで虚偽の陳述で塗り固められている。
(Flexner[1910:303-304])

  こうした無慈悲な評価がなされた学校の多くは、寄付金や補助金を得ることができなくなり破綻に追い込まれる。上記のノックスビル医学校にしても、フレックスナー報告の出版された年に資金難で閉校されるにいたった。そして10校あった黒人向けの医学校のうち、8校は「淘汰」される結果となった(Savitt[1992])。フレックスナー以後、「医師は白人の、男性の、中産階級の職業にな」り、排他的で権威主義的なものとなったとして、特に権利運動が盛んになった時期から、批判されることになる。
  チャップマン(Chapman, C.P.)によれば、フレックスナー報告が大きな影響を与えた理由の一つは、医学校の運営資金のあり方であった(Chapman[1973:111])。フレックスナーがモデル校として示したジョンズ・ホプキンス大学の標準にまで教育改革をしたその他の学校に、寄付金獲得への道を開いたのである。 
  フレックスナーの推奨する医学教育は研究所の維持や常勤教員の雇用、臨床教育のための病院との連携などの必要から、その運営に莫大な費用を要するようになっていた。そこで、公的機関による補助金や、民間からの寄付金という学校にとっての新たな収入への道が、運営費の大きなウェイトを占めるようになっていった。実際、各医学校が先を争って、フレックスナーの描いた、つまりAMAの意向に沿う教育改革をおこなうようになった。報告書の存在は医学の「科学的進歩」に向けたインセンティヴとして効果的に作用したといえる。逆に、教育改革をおこなわず、設備の整わないといった「出費の対象とならない大学は衰退し、廃校の可能性」(Achterberg[1990=1994:281])が生じたのである。
  フレックスナーの歴史に占める役割を再度確認すると、彼は社会福祉学領域においても、医学領域においても、その学問としての形態を近代的なものへと移行させたという点で、非常に大きな役割を果たした。しかしながら、彼の主張する言説は当時の各学問領域ではすでに一般化しつつあったものであり、あるグループの強調するものであった。彼はこの言説が多数派に移り変わる絶好のタイミングで登場し、専門職のあり方を近代的に初期化した人物として歴史に名を留めることとなったのである。
  しかしながら、一方でこうした淘汰の過程を経ることは科学としての医学が「発展」の右肩上がりの線をなぞっていることになり、好意的に受け止められた節がある。社会進化論が全盛を極めた時期であったことを考慮すると、こうした多少手荒な報告であっても人々の理解が得やすく、寄付金を集めやすかったのではなかっただろうか。次に、二つのフレックスナー報告に共通する専門職の発達史観について検討してみたい。


第3節 進化する専門職

1915年フレックスナー講演にみる「進化する専門職」像

  フレックスナーの「ソーシャルワークは専門職か?」(Flexner[1915])は、以上のような医療領域における議論を念頭におくと、単にその講演がソーシャルワークの専門職性を否定するに終始したのではないことをより際立たせる。
  医学領域においてフレックスナーは、「進化」を遂げる医学・医療を最前線で目の当たりにしてきた人物であったといえる。実際、医学校の「淘汰」に際し、各学校が生き残るための条件を明確に記し、また実名をあげて評価をおこなったことでその「淘汰」の営みに片棒を担いでいる。そうした人物が「ソーシャルワーカーは専門職か?」の結びに次のような含蓄のある言及をしている。

  ソーシャルワークが専門職でないということを不愉快ではあるが、自覚するようになれば、おそらくソーシャルワークは進歩するであろう。(Flexner[1915:590])

  ここで、フレックスナーは「進歩」という言葉を使っているが、この点が、ソーシャルワークの専門性を否定したにもかかわらず、彼の名が社会福祉の歴史のなかに刻まれるに至った要素だといっても過言ではない。たとえ彼がその完全な発展の可能性について多少の疑問を差し挟んでいたとしても、社会福祉領域における知の連続体が「進化」に彩られていることに意義がある。つまり、この「進化する社会福祉学」の像がその後の社会福祉の展開(おそらくはソーシャルワーク批判の時代まで)の指針となっているのである。
  また、この「進化する社会福祉学」像は、主に医学との比較によってその程度を類推してきたのであるが、1915年の講演においてそれ以外のさまざまな(専門)職業との対比をおこない、斜め上がりの進化の線をより滑らかなものにしている。その簡単な概念図を下に記したが、具体的に論文においては「a」に配管工(plumbing)、「b」に銀行家、「c」に薬剤師、「d」に正規看護婦、または看護婦が他の方面の看護(公衆衛生)を発展させた保健婦として描いた。そして「承認された専門職」として「e」には「法律家、医者、宗教家」をあげている。

図 1「ソーシャルワークは専門職か?」における専門職のヒエラルキー

   専門性 高                     ・ e
        α                        
                               
                    ・ d
                 ・ c           
              ・ b
           ・ a
      低           未専門職     専門職
                          
                           専門職の種類

  また「専門職としての規準線」は、「α」に設定されているが、これはフレックスナーがこの論文で明らかにした「専門職の6規準」であることは容易に察せられよう。ここでは、その規準を充たし、αの線を踏み越える職業こそが「専門職」として認定されるのである。
  ソーシャルワークという職業がこの線のどの部分に位置づけられたかであるかだが、これに関してフレックスナーは明言を避けており、「ソーシャルワークは教育とほぼ同じ水準にある」(Flexner[1915:587])としている。しかしここで重要なのは、これら社会福祉を含む職業がこの発展の線上に位置づけられたことであり、その結果、職業間に一種のヒエラルキーのようなものが発生したことである。現にリッチモンドも1917年の全米ソーシャルワーク会議において、フレックスナーが1915年の講演においてソーシャルワークの技術が発展していくものとして位置づけたことに希望を託している(Richmond[1917=1930:399])。
  しかしながら、やはりフレックスナーは発展段階のある段階にソーシャルワークを位置づけた先駆者だとはいえない。リッチモンドは、ニューヨーク博愛事業学校設立の直接的なきっかけとなった全国慈善矯正会議における講演「応用博愛事業学校の必要性」をおこない、社会福祉の専門職化のイメージを医療におけるそれに重ねている部分がある。前出のリッチモンドの見解を参照されたい(第2節)。彼女は医者という専門家をすでにその専門性が確保されたものとして、「私たちが心からそうなりたいと願」う。そしてその後で、「慈善事業の進歩の上では初歩的な段階以上には進んでいないと言うべき」(Richmond[1897=1974:6])とし、次の段階に進むためには医学教育のように、社会福祉に従事する人々の間に共通の理解を作り出すことが重要であると述べる。こうした発想は、フレックスナーのレトリックに酷似しているといえる。またこれが医学におけるフレックスナー報告に先行していたことに注意するべきであろう。
  リッチモンドにとって、教育・研究機関を造るということは、専門職化をおしすすめる過程にほかならない。彼女自身は、1909年にニューヨークに新設されたラッセル・セイジ財団(Russell Sage Foundation)の慈善組織部(Charity Organization Department)部長として多忙な組織活動から退き、「研究、指導および出版活動に専念」(小松[1993:47])するようになっていた23)。木原活信は、ここで「しだいにケースワークの科学化に成功し、『社会診断』、『ソーシャル・ケースワークとは何か』にいたる執筆の構想が完熟してきた」(木原[1998:172])とする。こうした研究活動とそれを支える研究機関や学校の存在は、そのディシプリン存続の糧となり、「科学化」の基盤となる。
  しかしながら、「博愛の科学化」や「科学的慈善」という言葉自体を溯ると、セツルメント創始者の一人、トインビー(Towinbee, A.)の説くところでもあった。さらに溯ると、19世紀初頭に隣友運動をおこなったチャルマース(Chalmers, T.)が「科学的救済法」を提唱したり、アメリカCOSの初期リーダーの一人、ロウウェル(Lowell, J.S.)も貧民を扱うことは科学であり、ソーシャルワークを「科学」と称し(井垣[1994:60])ている。フレックスナーが講演をおこなった全国慈善矯正会議でも、1901年にすでに「科学の時代」の到来が宣言されている(井垣[1993:39-85])24)。とはいえ、フレックスナーの役割は、近代的な様式の位相に社会福祉を標準化したという意味で、重要な位置を占めているという点において変わりはない。

カーネギーの『富の福音』

  医学領域のフレックスナー報告(1910年)が実現したのはカーネギー財団からの寄付金であったが、カーネギー財団とはいうまでもなく、19世紀末及び20世紀初頭に「世界の鉄鋼王」として名をはせたアンドルー・カーネギー(Carnegie,A.)の所有した財団である。彼は貧しいスコットランド移民であった少年時代から、大富豪へとのぼりつめた成功者として有名だが、彼自身自伝のなかで述べているように、社会進化論者であったことでも有名である25)。社会進化論者であるイギリス人のスペンサー(Spencer,H.)も、カーネギーをアメリカの親友の一人に数えたといわれている。
  カーネギーは「乞食を作ってきた罪を免れる百万長者は少ない、実に少ない」(Carnegie[1889=1975:264])と前近代的な貧者に対する施しを否定する。しかも「慈善家たる者が、この世界で真に恒久的な善を行なおうとするにあって直面する主要な障害の一つは、無差別施与の実行であるということを忘れてはならない。百万長者の義務は、施与するに値すると明らかに得心がゆかない者には、けっして与えないこと」(Carnegie[1889=1975:263])という。これらの言明は彼が「富の偏重は『種の発展』において不可欠の要素であるとみなす」(Brown[1979:30])、社会ダーウィニズムの思想に基づいた見解であることが推測できる。
  これらの否定はマルサス的な自由放任主義思想かいまみられるが、彼の「慈善家」としての一面は世に名高い。現に、彼は300の図書館や4100の教会のオルガン、カーネギーホールなどを寄付し、カーネギー財団も設立した。一見矛盾しているように思える彼の活動を決定付けたのは、社会進化論的見地と宗教的実践に基づく「進歩」的な援助観であった。
  カーネギー財団がAMAのCMEに寄付し始めたのは、1908年からであったが、それに先立つ1889年に、カーネギーが新しい時代にふさわしい富者にとっての寄付のあり方について述べた文章がある。この「富の福音」(The Gospel of Wealth)と題されたエッセイは、雑誌『ノース・アメリカン・レヴュー』に発表され、評判となった。現在ではウォードとサムナーの『社会進化論』(Ward, L.F. and Sumner, W.G.[1975=1975])に収められているのだが、そのなかに医学への寄付について触れた個所がある。
  
  さらに、厖大な財産が有効に利用されうる、きわめて重要な分野がもう一つある ―病院、医科大学、研究所、その他の病気の治療、特に人間の不幸の治療よりは、むしろその予防に関連した施設の創設あるいは拡張である。(Carnegie[1889=1975:270])

  カーネギーは、医学領域に対する「百万長者」からの寄付を、美術館、図書館、公園、ホール、屋内プール、教会にならんで推奨した。なかでも、フレックスナーのおしすすめた医学の教育改革の方向と一致する部分がある。

  もしわが国の百万長者で、委託者としての自分に任されてきた余財の使途を考えあぐねている者がいるとしたら、このような化学研究所(ある事業家がコロンビア大学に贈った研究所・筆者注)からもたらされる利益について考えてもらいたい。いかなる医科大学も、研究所がなければ完璧とはいえない。総合大学の場合と同じように、医科大学もまたしかりである。必要なのは新しい施設ではなく、既存の設備をさらに完璧なものにするための付加的な資金である。(Carnegie[1889=1975:271])

  研究所では「病気を、その原因を究明することによって予防することを研究している」(Carnegie[1889=1975:270])のだが、これは個人への施しを拒否し、「公共の福祉」、ひいては社会の進歩のためにこうした活動を続けるカーネギーにとって、絶好の寄付先であったといえよう。
  しかしながら、このエッセイの題名からも推察できるように、こうした寄付活動それ自身は、「金持ち」の「義務」(Brown[1979:31])であり、宗教的な理由が大きな要素となっている。彼は「金持ち」は天国に入ることが難しいというキリストの教えに執着しているようにみえる。

  金持ちは天国に入りがたし、といわれた時代があった。(Carnegie[1889=1975:271])

  ここで、過去形で表現されていることに注目したい。カーネギーはそんな時代は過ぎ、今や「最高最良の形態」で貧者に施しをする「金持ち」には「天国の門が閉ざされることはない」という。この「最高最良の形態」とは、国民、あるいは人類の「純然たる進歩」が見込める、(ここの貧者への施しではなく)「公共の福祉」(Carnegie[1889=1975:277])のためになされる寄付のことを指すのである。
  社会進化論には淘汰されゆく数多くの劣性のイメージが付随するが、この淘汰の「法則」は、例えば黒人専用の医学校へはより少ない寄付で済ませることの正当化に用いられた。「黒人の教育に常に関心を持っていた」というロックフェラー財団でさえも、比較的小規模な援助に終わっている。

  医学校のすべてを十分に援助することは明らかに不可能であった。金は重要な点に集中させなければならない。(Fosdick[1952=1956:145]26))

  ロックフェラー財団の歴史をまとめたフォスディックは「昔ロックフェラー氏の個人的な博愛主義の時代に行われた方針 ─弱者よりもむしろ強者の上に更に築き上げる方針と合致した」ものと解釈している(Fosdick[1952=1956:145])。
  当時、社会進化論という新たなユートピア的未来観がアメリカ中を覆いしていたことは周知であろう。一般に、社会進化論の祖述者であるスペンサーの思想は、彼の母国であるイギリスよりも、アメリカでの評判のほうが高かったといわれている(Hofstader[1944=1973])。こういった土壌のなかで、社会福祉従事者や医師を含む「専門家」が設定され、人々がそれを望み、貨幣がそこに流通していったことを把握しなければならない27)。
そして、医学領域におけるフレックスナーの主張を考慮すると、こうした学問的外観を維持するためには、恒常的な研究活動がおこなわれていなければならない。フレックスナー的な言説は病人を部分化して捉え、病院を科学的実験の場へといざなったが、こうした精神もやはり社会福祉学にとりこまれていった。木田は「現存する関係科学の総ての知識を基礎に持たねば完成せぬ」としたうえで次のように述べる。

  技術的な記録となり、実験となることによって実験となり得るのである。即ち社会事業の実践は技術によって実験となり、その故に科学的になる。したがって実践は一つ一つ切り離されたものであるが、実験たることによって整理され進歩性を獲得する。だから技術は前以てつめ込まれた機械的な画一化でなく生々躍動する進歩的なものなのだ。
(木田[1952:40])

また、谷川貞夫も戦後のケースワークに影響を与えた『ケース・ウォーク要論(改訂版)』において、セツルメント・愛隣園を「社会事業のラバラトリー」(谷川[1949:1])としたし、児童福祉施設・双葉園30)長の高島巖も児童福祉施設を「実験劇場」(高島[1954:51])とした。しかし、こうした思考は戦前からの継承であることがわかる。

  セツルメントは一の社會的實驗室である。(渡部[1936:53])

実践が実験になったとき、科学性が実証されるのであるが、こうした科学志向は第3章で検討する反専門職化運動などの火種となったのは明らかである。
さて、ソーシャルワーカーが専門職となる可能性がこうした風潮のなかで約束され、その方法もフレックスナー的な思考により、自明のものとなった。社会福祉研究者としては社会の「進化」のためにも、整備され始めた議論の場で技術を高め、科学性を追求する役割が与えられていた。医学を模したその学問を確立することが、専門職化を確固たるものにしていくのである。次章では、社会福祉を科学化させるために援用された、代表的な「ソーシャルワーク理論」について具体的にみていきたい。


1) 広辞苑には、あるディシプリンにおいてこれをさす言葉として「基礎医学」の項目しか記載していない。「基礎医学」とは、「医学の研究・教育・実践上の専門分科のうち、直接患者の診療に携わらないものの総称。現代の日本では通例、正常の人体の構造および機能を研究・教授する学問(解剖学・生理学・生化学)、臨床の基礎的事項を研究・教授する学問(病理学・薬理学・微生物学・免疫学)および社会医学(法医学・衛生学・公衆衛生学)を含む」(広辞苑 第四版[1996])とある。
2) 場合によっては、この6つの規準に加えて「専門職の集団に属する人々は、常規的・機械的なものではなく、知的な過程にたずさわるものであり、またかかる知的な仕事をなす際に個人的責任を負うもの」(岡本[1988:60])があげられることがある。ちなみに“Encyclopedia of Social Work”(NASW[1995:2585])では6つとなっているが、論文ではしばしば強調される点であることを考慮すると、この7つめの属性も重要であろう。
3) ここで、グリーンウッドは@体系的な理論、A専門職的権威、B社会的承認、C倫理綱領、D専門職的副次文化(サブカルチャー)という5つの属性を示している。
4) 全米ソーシャルワーカー協会職業安定所(1917年、後に全米ソーシャルワーカー協会)、アメリカ病院ソーシャルワーカー協会(1918年、後にアメリカ・メディカル・ソーシャルワーカー協会)、全米訪問教師協会(1919年、後に全米スクール・ソーシャルワーカー協会)、アメリカ精神医学ソーシャルワーカー協会(1926年)アメリカ・グループワーク研究協会ソーシャルワーカー(1936年、後にアメリカ・グループワーカー協会)、アメリカ・コミュニティーオーガニゼーション研究協会、ソーシャルワーク調査グループ(1949年)の計7団体が合併された。
5) ミラーソンが掲げる専門職の属性とは、@公衆の福祉という目的、A理論と技術、B教育と訓練、Cテストによる能力証明、D専門職団体の組織化、E倫理綱領の6項目である(秋山[1988:87])。
6) しかしながら、「6つの属性」のなかにあげていなかったからという理由だけで、フレックスナーが「テストによる能力証明」を支持しないと結論づけるのは短絡的である。彼の医学における「専門職」観は、何らかの資格制度を前提とするものである。
7) ブラウンは専門職の特性として、@高度の個人的責任を伴う知的操作の使用、A学習可能性、B専門化された規準を通じて、伝達されうる技術の保有、Cその諸規準の向上と利益の増進とのための団結化の傾向をもつ、Dそれは理論的たるにとどまらず、その目的、及び目標において、実際的なもの(岡本[1988:62])をあげている。
8) 岡田藤太郎はすでに1972年に「ソーシャルワークの専門性の特性を、一口で言って拡散性とあらわしてみたらどうかと思う」(岡田[1977:164-169])として、5つの拡散性(@ソーシャルワークの適用される対象領域の拡散性、Aその適用の多様性、Bその技術の非純粋性、Cその基礎とする学問の多様性、D専門職業性)を提示し、それを積極的な方向で認識するよう主張している。
9) 1892年の「全米慈善・矯正会議」では「慈善事業における女性」が議題になっている。「精神異常と慈善に関するマサチューセッツ州委員会」のメンバーであったリチャードソン(Richardson, A.B.)の姿勢からもこのことが読み取れる。彼女は「出席委員の懸念を配慮して、職業婦人は決して『家庭の守り手』としての義務をおろそかにすることはないだろうと請け合っている。彼女は、女性たちは『男性や彼らのいわゆる良妻の権利や特権を奪おう』などと主張しているのではない、と言う。リチャードソン婦人は、自分と婦選運動の『恐るべき教義』との関わり合いを否定し、公的な立場への女性の進出を正当化するものとして、政治的権利からする立場と、社会奉仕からする立場を区別した」(Platt[1969=1989:78])のであった。
10) この時期より四半世紀以前でも、大学の経済学と社会学の教授が学生を多数、社会福祉施設に送り込んでいたことを鑑み、今岡健一郎は「何らかの形の社会事業教育が、しかも大学の社会学部もしくは経済学部でも行われていたことを物語っている」(今岡[1978:25])としている。
11) リッチモンドに先駆けて、アメリカ各地で専門教育の必要性を訴える声があがっていた。1893年、ドーズ(Dawes, A.L.)は「貧困問題に関する社会経済理論の基礎と、慈善事業入門、実習を含んだ、非教派的教育課程が造られるべきことを主張」(窪田[1988:53])し、同年バッファローCOS協会のローズノー(Rosenau, N.S.)も友愛訪問員の訓練過程の新設をニューヨーク協会宛に依頼した(窪田[1988:53])。とはいえ、リッチモンドの名声は、「彼女の主張がニューヨーク博愛事業学校の開設を促進する決定的な刺激となった」(田代[1974:3])ことにより、不動のものにするのであろう。
12) リッチモンドの「ソーシャルワークの発展」(Richmond[1923=1930:589])概念図(表紙参照)をみると、その歴史は1880年から始まっており、さらに長い歴史を当時の研究者達が共有していたことを物語っている。
13) また、この立場にある人物として、初代常任学校長のリンドセイ(Lindsay, S.M. コロンビア大学の元経済学教授、ニューヨーク博愛事業学校へ1911-1912年に勤務)や、パッテン(Patten,S. 経済学専攻の教授、デヴァインやLindsayの指導者)、アボット(Abbott,E. Chicago School of Civics and Philanthropyの教員、 1924年にChicago School of Social Service Administration*の学長)などがあげられる。
   *これの前身はテイラー(Taylor,G.)がその責任者となったSocial Science Center
  for Practical Training in Philanthropic and Social Work(1903年設立)
14) 1920年、リッチモンドの巻頭論文を載せて発刊された。後に“Social Case Work”と改題される。
15) 例えば、コストニスは法学に与えたフレックスナーの影響について検証している(Costonis[1992])。
16) おそらく、医者として病理学において功績を残し、ロックフェラー医学研究所の所長として名高いサイモン・フレックスナー(Flexner, Simon)と混同したものと思える。彼はA.フレックスナーの兄であるが、弟が医学教育に関与し始めてからは、しばしば共同して仕事をおこなった。しかしながら、この勘違いを一笑することはできない。なぜなら、医学領域におけるフレックスナー報告も、この勘違いから生まれたとされるからである。A.フレックスナーはドイツ留学から帰ると、『アメリカの大学』(Flexner,A.[1908])を著すが、これがカーネギー教育振興財団(Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching)の専務理事であったプリチェット(Pritchet, H.S.)の目にとまり、財団のスタッフとして医学校の調査をおこなうことを依頼された。そこで調査を依頼したきっかけは、プリチェットが既に医学界で名声を博していた兄のサイモン・フレックスナーと勘違いしていたからであった(Flexner,A.[1960:70-71])。しかしながら、ストーリーテラー的な彼の話を鵜呑みにするのは注意が必要である。
17) AMAにおけるCMEの当時の存在は少数派で、エリート主義的だったといわれている(Hudson[1994:13-16])。
18) こうした展開に、当時の人々は戸惑いを隠せなかった。「一般民衆は秀でた経験を積んだ医師から引き離されてしまうという強い講義」(Fosdick[1952:141])をおこない、マスコミもそれをかきたてた。
19) フレックスナー自身は、全ての医者は研究者であるべきだと主張したわけではなかった(Hudson[1992:9-10])。このことを、ハドソンはフレックスナーを弁護するが、その後、患者に向けられる視線は、分析的・診断的なものとなったことは間違いない。
20) 20世紀初頭に病院の数は急増している。
21) エブラハム・フレックスナー(1866.11.13−1959.9.21)は、ユダヤ人移民の両親を持ち、9人兄弟の6番目として生まれた。実家は商業を営むが、非常に貧しく、一番上の兄の経済的援助によって、ジョンズ・ホプキンス大学で古典および語学で学士号を所得。卒業後、故郷のケンタッキー洲ルイビルにもどり、教師生活を20年に渡って送る。1905年にはハーバード大学で心理学と哲学を学び、翌年、修士号を得る。その後、ベルリン大学およびハイデルベルク大学へ留学し、1908年に帰国する。その翌年からはカーネギー財団の医学教育に関する調査に関与し、そこから彼の輝かしい人生は始まる。フレックスナーの生涯に関しては、Flexner, A.[1960]、渡辺かよ子[1988]などを参照。
22) フレックスナー批判は主に、フェミニストやマイノリティなどを中心として起こっている。
23) 一つの学問を成立させる研究機関や教育機関が創設される際、アメリカでは財団が大きな役割を果たした。
24) 1929年に出版された“Social Work Year Book”(初版)において、学問的端緒をアメリカ社会科学協会(American Social Science Association)に求める記述をおこなっている。「慈善・矯正に関わる仕事の専門職的精神と態度の萌芽は、“社会科学研究を促進し、特に社会科学を社会問題に適用する”ために1865年に設立されたアメリカ社会科学協会の活動に、明らかに現れている」(NASW[1929:435]、小山[1997])。
25) しかしながら、本間長世は「カーネギーは社会進化論者であると唱えながら、実際の行動においては、スペンサーの教えにそむくことを数多く行なった。カーネギーは、保護関税、特許法、販売協定など、自由放任主義に反することに賛成し、労働時間の短縮は法律によって達成されるべきだと主張した」(本間[1975:23])ことから、カーネギーがスペンサーの哲学を理解したかを疑っている
26) 原典は「一般教育財団の年間報告」[1928-1929:46]
27) ワイリー(Wyllie, I.)やフーバー(Huber, R.M.)らの見解によると、19世紀後半から20世紀にかけてダーウィニズムの気運はあったといえ、成功物語の精神は適者生存ではなく、キリスト教と人道主義であったという。ゆえに当時のアメリカ人はスペンサーを真に理解していたかどうかは、疑問のままである。しかしながらたとえ、社会進歩論が、自由放任経済を支持する保守主義が手にした「新しいレトリック」(本間[1973:9])だとしても、それを用いて何を企てたかを対象にしているため、問題はない。


  


■第2章  社会福祉の「科学」を求めて

第1節 ソーシャルワーク理論と諸学問の理論

ソーシャルワーク理論の変遷

  まず、「ソーシャルワーク理論」ということばについての注釈からはじめたい。今日、「社会福祉理論」という語を含む書物や論文は多いが、その意味内容は多岐にわたっている。例えば、松井二郎は『社会福祉理論の再検討』のなかで「社会福祉理論の先行研究」の例として「竹中理論、孝橋理論、岡村理論、嶋田理論」(松井[1992:A])を挙げている1)が、こういった認識は現在、多くの社会福祉研究者の共通するものといえよう(その他に、吉田[1974][1995]、木田[1967a:51-71]など)。
  しかしながら、標準的な辞書として普及している『現代社会福祉辞典』(仲村他編[1988])や、『現代福祉レキシコン』(京極監修[1993])、そして基礎的なものを網羅した『社会福祉の基礎知識』(小倉他編集代表[1973])にも、「社会福祉理論」という項目はみあたらない。以上から、社会福祉学において「社会福祉理論」の語義は確立されていないといえよう2)。それにもかかわらず、これまでこの語は多用されてきた。
  こうした語義の混乱を避けるために、本章ではあえて「ソーシャルワーク理論」という語を、social work theory(Payne[1997]、Parton(ed.)[1996])を指すものとして用いる。ソーシャルワーク理論という言葉は、これまで用いられてこなかったわけではない。例えば小松源助の『ソーシャルワーク理論の歴史と展開』や、奥田いさよの『社会福祉専門職性の研究』の第1章で検討された「ソーシャルワークの理論」等がある3)。
  ここでいうソーシャルワーク理論とは、社会福祉学の分野や科目を横断して存在する論理的概念で、主にそれらは他の諸学問の理論を援用されてきたものである。われわれはまた、アプローチ、またはモデルという用語を共有するが、それらの語がここで明らかにしたいソーシャルワーク理論を意味する場合もある。第1章でみたフレックスナーによる動機付けのもと、社会福祉学が成立した初期において、最初に社会学と心理学の理論がまず、援用された。その後も、政治学や経済学、統計学に生態学までさまざまな理論が社会福祉領域に移植されてきた。ここでは社会福祉学領域に存在する、これらの他領域の学問から移植した諸理論を、ソーシャルワーク理論と総称する。
  専門職化の前提として体系的な学問が必要であったが、その学問にもまた「発展」が求められた。そして、ソーシャルワーク理論も「進化」することが求められたのも、自然な成り行きであった。日本の社会福祉専門職化にあたって影響を与えた社会学者、石村善助は次のように認識している。


  科学や高度の知識に支えられたものであることが必要であり、その(専門職としての技術・筆者注)高さは科学の進歩とともにますます高められる性質をもつものである
(石村[1973:10])

  ソーシャルワーク理論は社会福祉の「臨床」場面で問題を把握、解釈し、何らかの「援助」をおこなう上で大きな影響を持つものである。しかしながら、進化を余儀なくされたソーシャルワーク理論は、絶えず移ろいゆくものであった。日本でも社会福祉の学問が成立した当初からそのことがあてはまる。例えば、谷川貞夫は「ケース・ウヮークの最近の基盤」(谷川[1950:8])を、「社會科學的なものの域から脱して、社會學的なものに基盤を置く」という「段階に至りつゝある」と表現している。このようなメタファーは専門書のいたるところに散見されるものである。
  フレックスナー報告を経て、病院が科学的実験の場へと移行していったが、社会福祉学の場合、実践の場がこうした「進化」のための研究機関となった。谷川貞夫はセツルメント・愛隣園を指して「社会事業のラバラトリー」(谷川[1949:1])とする。また、木田徹郎も「現存する関係科学の総ての知識を基礎に持たねば完成せぬ」としたうえで次のように述べる。

  技術的な記録となり、実験となることによって実験となり得るのである。即ち社会事業の実践は技術によって実験となり、その故に科学的になる。したがって実践は一つ一つ切り離されたものであるが、実験たることによって整理され進歩性を獲得する。だから技術は前以てつめ込まれた機械的な画一化でなく生々躍動する進歩的なものなのだ。
(木田[1952:40])

  無論、こうした科学志向が第3章で検討する反専門職化運動などの火種となったのは明らかである。とはいえ、こうした議論では諸学問からの影響を受けた「進歩的」なソーシャルワーク理論が実践方法に影響をあたえたという前提がある。ここで、この前提を一転させて問題を切り取ることもできよう。つまり、時代が必要としたソーシャルワーカーの役割を「専門化」、「理論化」する上で、政治的にあらゆる理論を必要とした、ともいうことができる。コロンブスの卵ではないが、理論が方法を規定したのか、それとも政治的必要性が先行したのか、という問いたては不毛かもしれない。しかしながら、これまでそうした問いかけがなされてこなかったという問題は残る。

社会福祉学の「学際的」研究

  フレックスナーの提示した望ましい専門家とは、基礎科学をバックボーンとして科学的な実践をおこない、その科学を恒常的に精緻化することを試みる者であった。そして社会福祉学領域においてその「科学性」を保持するには、諸学問の理論を自らの学問の基礎的な知識とすることや、実践時にそれらの知識を技術として援用することが条件とされた。戦後、日本の社会福祉学の「科学」的体系化に貢献した谷川も、『ケース・ウヮーク要論(改訂版)』で次のように述べている。

  社会事業技術は、特定の社会的事情乃至社会的事件に対應する社会諸科学の應用或いは援用によつて、その技術性を一層高度化するのである。(谷川[1949:7])

  谷川は1954年、『社会事業』誌上で実際にベニ(Benne,K.D.)やリピット(Lippitt,R.)らの「グループダイナミックス」やロジャース(Rogers,C.R.)の「非指示的療法」などといった最新の研究を紹介している。これは、他の専門分野における研究の発展が「社会事業における科学性の進展」(谷川[1954a:3-6])に寄与するという了解の下でなされていた。
  木田哲郎はこうした基礎科学に「理論的基盤を求めている点が戦後の特徴」(木田[1967a:70])であるとするが、社会福祉学が「科学」を志向した時点からすでに紹介されていた。竹内愛二は戦前、すでにこうした把握を明確にしている。「社會事業が社會病理學に基づく社會治療Social therapeuticsとして科學的に又技術的に其發達の進路を見出す」(竹内[1936:29])として、次のように述べる。

  諸科學の提供する智識及技術は凡て之れケース・ウォーク遂行の必須要件をなすものなのである。特に生物學、醫學、經濟學、教育學、法律學、社會學、心理學、精神衛生學等は最も重要性を有するものである。(竹内[1936:33])

  戦後改訂出版された『ケース・ウォークの理論と実際』4)でも、「生物學、醫學」、「心理學、精神醫學」、「經濟」、「社會」、「宗教・道徳」の、「五つの立場」5)(竹内[1949:24])から、多角的に問題を考察しなければならないと説く。竹内はこの「五つの立場」に限定しているが、他ではこれほど明確でない場合が多い。先ほどの谷川は、「社会学・経済学・心理学・生物学・統計学等」(谷川[1949:7])をあげており、その後も多くの研究者が異なる学問を提示したことに注意したい6)。現在に至るまで社会福祉学の基礎科学となるべき学問は不確定である。
  その時、医学の学問的形成が意識されていたのは、しばしば隠喩として「医者」や「病人」が用いられていたことからも明らかである。またこの医学のメタファーは戦前から散見されるものである(例えば、藤田[1933:25]7))。

  ケースウォークの過程は、醫者が患者の病氣を診斷して、治療するがの如く、辯護士が法律問題を解決する如く、一定の過程を持って居る。醫者の中にも、實験室の化學的検檢査をしたり、環境状況を考慮に入れたり、又他科の醫學的調査を頼んだりして、病を原因的に知つて、的確な診斷を下した上、治療の方針をたてる者と、頭痛には此の藥、腹痛にはあの藥と定まった藥を與える者とがある。勿論後者の如きは診斷家でもなければ治療家でもない。(浅賀ふさ[1948:341])

医者が「病理的究明」、つまり学問的研究に依拠して治療をおこなうように、一専門職であるソーシャルワーカーは学問的究明に裏書きされた言動が要求されることになる。
  そこで望ましい社会福祉従事者となるためには、これらの多様な学問の基礎を身になければならない。

  良きケース・ウヮーカーとなるには、多角的な立体的な知的素養と技術的経験を必要とする。(谷川[1949:273])

  以上のように、本編第1章で検討したように、フレックスナーに刺激された、社会福祉の「科学」化という発想自体は、諸学問のより新鮮な理論の取り込みを促進する結果となった。「近代に於ける科学の進歩は、社会事業の精神の上に非常な影響を與えたのみならず、その技術の面に於いても頗る顕著なものがあ」(谷川[1949:18])ったのである。時を経るにしたがって、必然的にソーシャルワーカーが知識として蓄えておくべき総量は、増大の一途を辿ることとなった。
  それゆえ、社会福祉学領域における理論研究は、その創始から学際的研究であったことが求められていた。学際的研究という言葉自体は比較的新しい言葉である。それは産業社会が提起する問題が複雑多岐にわたりつつあるため、従来の専門分野ごとの研究では対応がむずかしいものが多数出現しているという現状認識を踏まえてようやく成立するものである(Gibney(ed.)[1993:1036])。1940年代のアメリカで用いられはじめた言葉で(祖父江[1992])、本来、共通の問題や課題を標的に専門分化した多数の学問的立場から多角的にその問題を捉え、解決を目指すものであった8)。社会福祉学の場合、近代的科学研究における専門分化の弊害をみる前に「学際」の形式をとりはじめ、それが専門職化の手段とされたという点で特異であった。
  そして、時には「科学性」を標榜するあまり、混乱が生じた。佐藤信一は、共同募金運動にさえも「科学」を要求する、1950年代初頭の風潮を「猫も杓子も科学的科学的と唱える」(佐藤信一[1951:35-40])と嘲弄している。
  こうした宿命のもとに置かれた社会福祉学は、その後、いくつかの矛盾を孕む総体となっていったようにみえる。第一に、ソーシャルワーク理論の全てが現在の社会福祉学に貢献したとはいえないし、第二に、数多く援用される理論のなかには反発しあうものが存在するといえる。本節の以下の頁では、この2つの問題を検討していきたい。


今は無きソーシャルワーク理論 ─優生学の援用

  ソーシャルワーク理論の研究が始まってから現在に至るまで、ソーシャルワーク理論としてさまざまなものが列挙されてきたが、現在その全てが肯定されているわけではない。ソーシャルワーク理論とは、社会の価値観がそのまま反映され(孫[1996:241])、移ろいゆくものである。ソーシャルワーク理論は、時には政治的な利便性から、時には理論の使命感から、時代に応じて選択され、また捨象されるものであったといえるのではないか。「ポストモダン」が口にされる現在、絶対的なソーシャルワーク理論が存在したり、その変遷が発展のロジックで形容されたりするわけでもなく、単にそれは林立する存在としてしか認識されないだろう。
  例えば、社会福祉学の理論の歴史には、沈黙が守られている一つのソーシャルワーク理論がある。1920年代から30年以上にわたり、「優生学」はソーシャルワーク理論の一つの分野と目されていた。戦前、戦中と影響をもった専門雑誌『社会事業研究』において、大林宗嗣は「ユーゼニックスと社会事業」と題して優生学を積極的に社会福祉(社会事業)の科学として摂取するよう、主張している。

  優生學が優秀種屬の絶滅を期してゐるに比して、社會事業はこの優生學が絶滅を期してゐる劣性種屬にも亦他の優生種屬と少くとも同等の待遇を與へてやらうとしてゐると、併しその意味は劣性種屬の永續性を保障しやうとすると云ふ意味ではない事は勿論である。更に今一歩進めて考へてみるならば、社會事業は社會から劣性種屬の發育する原因 ─環境と個別的遺傳を統制して之を驅逐しやうとしてゐるとも云ひ得るであらう。そう云ふ意味では優生學の目的と社會事業の目的は全く一致するものである。そこで兩者は元來全然無關係の別個のものであつたのであるが、その一致する目的を有する點に於て互に利用し又利用され(略)共に社會の福利の建設に努力すべきものであらうと云つてもよいわけである。否な現今の社會事業は寧ろ一層こうした科學の分野に這入りこんで行って、社會の科學的研究の結果を思ひ切って利用、或は採用すべきものであると私は考えてゐる。
(大林[1929:85-86])

  同号では「社会事業と優生学」と題した特集が組まれ、「賛否両論」の構成がなされたが、真っ向から反対したのは北村兼子(北村[1929:86-89])のみである。全体的に諸手をあげて優生学を受容していった様子が伺える(例えば、松澤兼人[1929:74-78]、小關光尚[1929:78-83])。また3ヶ月後にも同様の特集が組まれ、座談会「不良少年と遺傳」が掲載されているが、ここでも優生学支持の立場の者が多勢を占めていた。

  田結 そこで兎に角遺傳素質といふものは、何うしても動かすことが出來ぬと決まりましたから、若しさういふ素質を持つた者があつたとすれば、それには断種を行つたら何うでせう。
  富田 賛成です
  田結 アメリカなどでは三十年も前からやつておる。(略)是非日本でも法律の發布をまつてをるのは甚だ手緩いですから、大阪の社會事業聯盟などで、早速その活動を起こして貰ひたい。
(小關他[1929:48])

  何も大阪だけの話ではない。現在の全国社会福祉協議会の前身、社会事業協会の編集する雑誌『社会事業』でも同様に「優生学の應用」について盛んな議論がなされている(例えば、井上[1923])。このように優生学を社会福祉領域に積極的に取り込んでゆこうとする動機の一つは、近隣諸科学の諸理論によってその「科学化」を図ろうとする、社会福祉の専門職化始まって以来の様式である。松澤は「ユーゼニツクスと社会事業の關係の相互依存性」(松澤[1929:76])を指摘したが、これは社会福祉の「發展」は「科學的發展」に依存しているという見解に基づいている。
  谷川は社会福祉の学際性を強調し、諸科学の応用によって社会福祉の科学化は達成されると表明したことは上述した。『ケース・ウォーク要論(改訂版)』では、その「諸科学」として、社会学、社会病理学、心理学と精神医学、精神分析、心理分析、医学、経済学を検討するが、その「医学のの概念とその影響」の項目にはやはり、「優生学的知識」(谷川[1949:143])があげられている。

  ケース・ウォークは、その本質において、対象を優生学的領域においてとらえんとするもの。
(谷川[1949:143])

  「社会福祉技術論の嚆矢」(古川[1998:17])と称される竹内愛二も、これに準じた考察をおこなっている。「斷種法の研究」という論文のなかで、「科學的社會事業の有力なる一翼として相當の偉力を發揮し得るであらう事を信ずるものである」(竹内[1938:33])ことを明らかにした。
  竹内は終戦後にも、ケースワークの体系のなかに「優生学」的な志向を配備していく。彼はケースワークを「科學的認識に即した、技術的方法及び過程」(竹内[1949:21])と位置づけ、「生物學」、「心理學及び精神醫學」、「經濟學」、「社會學」についてそれぞれ章を割いて検討する。そのなかの「生物學」の章には「遺傳について」という項目があり、染色体や細胞などに関する一般的な知識が記述されている。ここでは先にみたような熱心に優生学を堅持する姿はないが、クライエントを「診断」する際に、「必ず先ず彼の身體、健康、疾病等、その生物學的・生理學的・醫學的因子の研究からはいり込まねばならぬ」(竹内[1949:40])という期待がある。ここで、クライエントは否応なく社会福祉従事者による「氏素性」への飽くなき詮索、学問に裏打ちされた(よって、民主的で客観的な概観をした)診断的なまなざしを浴びることとなったことは想像に難くない。
  しかしながら、優生学を生み出した主体はナチズム、と即断ができないように(米本[1986][1989]、Proctor[1988]、立岩[1997:228-241]、松原洋子[1997])、優生学を支持した社会福祉学に責任を問うことは不毛である。ここで指摘したいことは、社会福祉学が時代環境のコードに応じた複数のソーシャルワーク理論を設定し、かつ修正しつづけるいとなみを持続してきたということである9)。
  終戦後もかなりの期間、こうした先天的な遺伝をも社会福祉の処遇の対象とする思考が影を落としている10)。しかしながらその後、次第にソーシャルワーク理論として優生学を援用することはタブーとなった歴史をみると、抹殺された理論が存在することが明らかとなった。その放棄された理論は、忌まわしき過去の出来事として、歴史書のみに封印される11)。しかしそれをソーシャルワーク理論として取り込んでいった動力は、現在の社会福祉学にもかすかに息づいている、専門職化を企てる、科学化への志向であった。

社会福祉学の基礎科学における「神々の争い」

  20世紀の専門職は、フレックスナーの的確な指摘の通り、「科学」的な研究や、その研究活動を促進する学会の組織化など、いくつかの条件を必要とした。その条件の一つである研究活動の継続は、絶えず他分野からの理論の流入を促し、社会福祉従事者たちが共通に持つ基礎知識の総量を増大させたことは述べた。こうして増加するソーシャルワーク理論は「学際性」をほこる社会福祉学において、例外を除く全てが同等に肯定される場合が多い。しかしながら、医学において「最新の技術」が特権的であるように、それ以前の理論を全否定したところに成立する理論もあった。

図 1 既存理論の把握
                           X理論
                           …
                           h
    B C D E F H … X           f
                           e
                           d
       学際志向                c
                           b
                         特権付与志向

  図のX理論は最新の理論を意味している。そこで、従来の理論は基本的に過去に追いやられることになる。しかしながら、X理論が最新の理論として比較的重視しつつも、それまでの理論をも論拠とするのが左側の「学際志向」の図である。このように、複数の理論を把握することが重要とされ、国家試験や資格所得のための試験では、その知識が身についているかどうかが試されることとなる。さらに、そうした認定試験の前に専門教育が施されているわけだが、羅列された基礎知識がそのカリキュラムにも組み込まれ、教科書上にレイアウトされるのである。
  上の図にいくつかの理論が欠落しているのは、前小見出しで検討した「抹殺された理論」を表現したつもりである。また、最新の理論であるX理論により多くの信頼が寄せられるわけだが、ローカルな場面では、X理論よりも他の特定の理論に優先権が与えられている場合も多いと考えられる。
  また、日本では現在、一般的に生態学や一般システム理論を基礎としたシステム‐エコロジカル理論(本章第4節参照)が主流になってきたとされる。この理論は、独自の語や概念を提示しつつも、社会か個人の内面かという二文法をクリアしたものとして評価されている。しかしながら、こうした学際性を志向する場において意図的に選択されるソーシャルワーク理論に、しばしば政治的文脈を読み取ることもできる。
  学際性を尊重しながらも、過去のソーシャルワーク理論を否定した上に成り立っていた理論の攻防の歴史とは、無論、反発しあう言説の集積といっていい。それらの出所は、多岐にわたる学問にあるため、「神々の争い」の様相を呈することは不可避である。孝橋正一が嶋田啓一郎の「構造‐機能」理論を批判する際、下のように主張したのは「マルクス主義的経済学」のみに還元することを主張する者にとってみれば、正当な見解であった。

  政策論、技術論、運動論、さらには医学、精神医学、倫理学、社会学、経済学、政治学などを含む人間行動科学等々の原料を、これまた機能論という便利な触媒を使って用心深く掻混ぜ、繋合せて作ったお好みのカクテルを捧げて、すべての神々の顔を立てながら、その調和的な均衡それ自身が統一原理だというように自認されているだけなのである。
(孝橋[1973:8-15])

  図1の右側の「特権付与志向」において、X理論はただ単に最新の理論として優越権を付与されているだけでなく、過去のものとした諸理論をXの視点から読み替える作業を同時におこなっている。X理論が成り立つ局面では、過去の理論(A、B、C…)はXの言説内で理解され、理論(a、b、c…)となる。ここでは理論の内容の変化はみられないものの、Xの優勢のうえで再解釈されるため、学問の依拠する論理的基盤とはなりえない。
  社会福祉学におけるマルクス主義者たちはまず、学問、専門職としてのソーシャルワーク発展の歴史を資本主義の発展過程と絡めて解釈しなおし、既存の理論を再構築しようと試みる。1960年代、1970年代の社会福祉学界を風靡した孝橋正一も、彼の著書『社会事業の基本問題』シリーズにおいては、こうした読み替え作業が大半を占めていたといっても過言ではないだろう。例えばここで、「過去」の理論、次節で検討する「精神力動ソーシャルワーク理論」は、資本主義社会を基礎付ける「ブルジョア科学」として映る(Rojek[1986:67])。また高島進はレーニンの労働者保険について述べた見解を引用しつつ、「三段階的発展」(高島[1973:89-90])という法則を明言し、こうした発展段階を解明することが「社会福祉の科学的な理解」(高島[1973:89])につながるとした。
  「戦後日本社会福祉論争」の一つとして名高いこの「孝橋・嶋田論争」も、結局、図の「学際志向」か「特権付与志向」かという、X理論(社会福祉学にとって最もプライオリティーを与えられるべき理論)をめぐってくりひろげられた論争であったということができよう。社会福祉学にとって本質的な基礎として、嶋田啓一郎は竹中(勝男)理論の流れを受け継ぎながら「構造=機能」(嶋田[1974])理論を、孝橋正一は「マルクス主義的経済学」(孝橋[1969])をそれぞれ提示した。学際志向が主流である社会福祉学の歴史からみると、孝橋の「経済一元論」はまさに革新的で、当時の社会福祉関係者の心をつかんでいく(井岡[1979])。そしてそれは、社会福祉学の本質を全面的に変化させるパワーであるようにみえた。
  社会福祉領域において、主な理論的基盤を異にするワーカー同士の没交渉が生じる(例えば、浅賀[1961:92])のも、こうした要因が存在するからであろう。医学が解剖学、病理学、衛生学などといった基礎医学を基盤としたように、社会福祉学も複数の学問からなる基礎科学を設定したまではよかったが、医学のそれのようにはいかなかった。そこで、既存の一学問のみに準拠することもできたが、そうすると社会福祉学としての独自性が消滅し、科学や専門性は体現できない。まさに進退を許されない状況に陥ったのである。

  ここで、これまで出現したソーシャルワーク理論の全てが現在の社会福祉学に貢献しているとはいえないし、数多く援用される理論のなかには反発しあうものが存在するということが明らかになった。こうした視点を踏まえて、現行の日本の社会福祉教育や、資格試験で基礎知識として必要とされているソーシャルワーク理論を再検討していく。本稿では、流動するソーシャルワーク理論の力学を把握することを問題とするため、ここでは全てのソーシャルワーク理論を扱わないし、技術的な用語を残らず陳述することはしない。それらに関しては、すでに数多くの教科書で念入りに整理されているし、ハウ(Howe,D.[1992])やペイン(Payne, M.[1997])は著者と同様の視点から簡潔に論述されている。


第2節  精神力動パースペクティヴ

精神力動ソーシャルワーク理論出現の背景

  精神力動パースペクティヴは、現在の日本の社会福祉学やその教育にわたって、広く浸透している。この見地では、何らかの逸脱や問題が生じた場合にそれを主に人間の内面の問題として捉えていく学問的姿勢に関心をおく。こうした社会福祉学領域における精神力動ソーシャルワーク理論は、アメリカでは1920年代から、イギリスでは1930年代(Payne[1997:77-78])から約半世紀(Howe[1992:79])にわたって、大きな存在として君臨した。
  日本においても、社会福祉教育の先駆の一つといわれる財団法人社会事業協会主催の社会事業講習会(1925年〜1935年)に、「正科講義課目」として「心理学(変態心理学)」(大久保[1941:87-88])が加えられているなど、「社会科学系」が強いといわれる戦前の日本の社会福祉関係教育にも存在感があった。学術雑誌にも、心理学の研究者が福祉のクライエントに関する考察をおこなう論文が目に付く(例えば、黒澤[1924:24-28])。
  とはいえ、それが本格的に展開されるのは戦後のことである。敗戦後、占領軍総司令部、公衆衛生福祉部(GHQ、PHW)の指導の下に、日本社会事業学校を中心として厚生省、文部省、大学専門学校関係者を会員とする「社会事業教育懇話会」が発足した。これ以降、日本の社会福祉学場面では当時のアメリカで主流であった心理主義的ソーシャルワーク理論が優勢となっていく12)。しかしながら一方で、今岡健一郎はGHQの指導以前、日本社会事業学校13)は戦後初の社会福祉教育として「自主的に組み立てられた」(今岡[1976:23])と強調している。そして1960年代、1970年代と、第3節であつかう社会主義的理論を代表するような、「社会的なるもの」からの批判を経験しつつも、その存在をアピールし続けた。
  精神力動ソーシャルワーク理論は社会福祉援助技術の1つであるケースワークをを中心に議論が展開されてきたが、分野別にみると、児童福祉や老人福祉、障害者福祉など、広範囲で応用されてきた。このケースワーク一つとってみてもその様式は、さまざまな形に次々と変化していった歴史を持つ。それをおおよその出現順にならべると、診断主義、機能主義、問題解決、行動変容、実存主義、危機介入、課題中心、そしてエコロジカルなどといった、多数のものが挙げられる。これらの研究の蓄積14)は、時代の流れに乗じて、心理学・精神医学の範疇内で次々と新しい学問理論を取り込み、その「科学」の精緻度を競ってきた歴史の跡といっていいだろう。

  こうした多様な形態を通じた「科学的」な問題把握の試みは、「専門職化」の追究であったといってよい。しばしば、原初的ケースワークの形態として、チャルマースの隣友運動や、COS活動などなどを挙げられるが、フレックスナー講演を機に15)、より洗練された「科学化」の火蓋が切って落とされたといえよう。そこで、今から述べるさまざまな歴史的要因によって「精神医学の氾濫」とも揶揄される心理学偏重の時代を迎えることとなった。
  英米において体系化されたソーシャルワークの歴史を語るとき、リッチモンドの『社会診断』(Richmond[1917])をその端緒とするものは多い。ケースワークの発展史も1917年前後を境として大きく展開していくとみなされる場合が多い(木田[1956:3-39]、岡本[1973]、仲村[1980:60-62]、[1991:128]、川田[1992:115-117]、小松[1993:28]、井垣[1994:60-65]、Johnson[1992:31-34]、Payne[1992:141-149])16)。1917年頃を境に、心理学のみを社会福祉学成立の基盤とみなす潮流が本格的となり、同時にその専門性が形成されになりつつある時期であったとの見解が記されている。
  しかしながら、リッチモンドは学問としてのソーシャルワーク理論を心理面のみで捉えなかったことは周知の通りである。

  ケースワークとは、一定の意図のもとに、個人と社会環境との関係を、個人に応じて、総合的に調整しながら、パースナリティの発展をはかろうとするさまざまなプロセスからなるものである。
(Richmond[1922=1963:91-92])

  これは『ソーシャル・ケースワークとは何か?』(What is Social Case Work?:An Introductory Description)のなかの一文である。ここの「ケースワーク」には「ソーシャル」がついており、原文ではSocial Case Workとなっているように、社会的なものと心理的なものは同時に要求された。例えば同書で、ケースワークの活動として次の4点が挙げられている。

  A 個性と個人的特徴への洞察17)
  B 社会環境の資源、危険、影響についての洞察
  C 心から心へ働きかける直接的活動
  D 社会環境を通じて働きかける間接的活動
  (Richmond[1922=1991:59])

  しかしながらリッチモンドのこうした主張に関わらず、その後社会福祉学は、心理学や精神医学などの分野に理論的根拠を求めるようになっていく。そして、次第にフロイト心理学に傾倒するに至った18)。それには、時代状況を考察する必要があるようだ。この『社会診断』が世に出た1917年は、全米慈善矯正会議が全国ソーシャルワーク会議(National Conference of Social Work、 1956年からは全米社会福祉会議(National Conference on Social Welfare))と名称を変えた年でもあり、第一次世界大戦にアメリカが参戦したという歴史的な年でもあった。岡本は「心理学的・精神医学的志向の段階」の背景に、アメリカの参戦や経済状況がもたらしたクライエントの変化、またフロイト派心理学の普及など7つの要因19)をみている。
  なかでも、戦争という非常事態が社会福祉業務を一つの専門職業として確立する転機となったことはよく言及される。戦争は「砲弾衝撃」による戦争神経症患者を多く出してフロイト心理学の応用の機会を提供したし、何よりもソーシャルワーカーの需要を激増させた。1918年の全国大会で赤十字のワーカーが「貧乏線を越えたケースワーク」(Murary, A.[1918:340-343])と題した報告は、戦争が身近なものとなり、社会保障制度が整備されるなか、業務範囲の拡大を意図する象徴的なものになろう。
  ところで、リッチモンドは「システム‐エコロジカル理論」支持者によって「再発見」されたといわれているように、社会的な視点と、心理的な視点、あるいは多数の学問にまたがる見識の必要性を説いた人物である。しかしながら、結果として心理主義への偏向に導く水先案内人の役割を果たしている。リッチモンドは戦争への関与を積極的に支援していくが、その「戦争サービス(war service)への貢献は、彼女自らが名づけた赤十字社の「家庭奉仕事業」(Red Cross Home Service)を通じてなされていった(小松[1993:53])。
  とはいえ、この積極的に戦争に関わる業務に就くべきとする主張20)のおかげで、ソーシャルワーカーの需要は増大し、人的資源の確保が課題となっていく。それがソーシャルワーカー養成校の増加を招き、1930年までにそれは28校を数えるまで担った。そしてそこで、心理主義に傾倒した教育が施されたのである。
  
理論的構造

  以上に述べたように、社会福祉従事者の専門性が問われた時、科学的な論理基盤を求める人々は、まずそれを心理学にそれをみいだしていった。そして、その頃知的外観を保っていたとされる(Howe[1987:60])フロイトの理論が、社会福祉学のなかで大きな勢力となるまで長い時間はかからなかった。その後、心理学のさまざまな理論が「借用」されたが、なかでもフロイトに論拠をおく診断学派と、ラカンに論拠をおく機能学派との対峙は、初の社会福祉学領域における論争として今も語り継がれている。
  またこれらの理論を整理分類する試みもなされてきた。「精神力動(psychodynamic)」(Payne[1997])のカテゴリーに属するものとして、ロバートとニーは「心理社会的、機能的、問題解決」(Roberts and Nee[1970])を挙げ、ターナーは「心理社会的、精神分析、機能的、問題解決、自我心理学」(Turner[1986])を、そしてリッシュマンは「心理社会的、エリクソンのいう環境へのライフサイクルアプローチ、精神力動、カウンセリング」(Lishman[1991])をそれぞれあげている21)。
  これら心理学や精神医学からの理論は、ソーシャルワーカーにどのような「技術」あるいは発想をもたらしたのであろうか。ハウはフロイトが社会福祉学にもたらした理論的ディメンションを次のように提示する。

@ 心的決定論(determinism)
A 本能と性衝動(instincts and drives)
B 性心理の発達段階(psychosexual stages of development)
C 無意識(unconscious mental stages)
(Howe[1987:61])

  これらの心理学用語は一般によく知られているものであるが、ここで簡単に確認しておく。まず@の心的決定論とは「話す、考えることを含めて、われわれの行動というものは、その多くが無意識の経験や記憶、ニーズにしばしば起因する」(同上)ものである。言動や行動がすべて過去の何らかの出来事によって決定され、外部に現れた言動の原因の多くは無意識のもとにあるとされる(原因の無意識)。
  またAの本能と性衝動について、「本能は、人間の生活の個人的な考えの決定要因になり、有機体としての人間を行動に駆り立てる。このことは、その有機体が生存と繁殖という2つの基本的な重要事項をみたすために生物学的に必要」(Howe[1987:62])とされる。また、衝動には性的なものと攻撃的なものとが確認されている。
  Bフロイト派の「精神分析家は、大人の性格が幼年時代初期の直接の結果であると断言する。特に5歳までは個人のパーソナリティーが形成される重要な時期である」(Howe[1987:63])とされ、口愛期、肛門期、男根期の3つの段階22)で説明される。
  最後にCの無意識とは、フロイトによって人々の意識の下にあるものとして説かれた。意識のなかに捉えることができるのは氷山の一角でしかなく、大部分は無意識であると考えられた。またフロイトは心をイド、自我、超自我の3つの構造23)からなるものとする。
  そこでは、ソーシャルワーカーが対象とする「クライエント」の言動や心理は、こうした概念を用いて「診断」され、「治療」、記録されていく。また日本の社会福祉関係の専門学術雑誌にも、平賀孟をはじめ、先を争うようにしてこれらの概念を紹介している。

  その後、フロイト精神分析の信奉者たち、そしてその反論を企てる心理学者たちの理論が適宜、社会福祉学の理論的根拠となっていった。その傾向は精神力動ソーシャルワーク理論に多くの理論を氾乱させる結果となる。例えば、社会福祉学におけるフロイトの影響を受けた「診断主義」24)と「機能主義」25)の対立は、1920年代から半世紀近くにわたって大きなテーマとして存在した。後者は構造機能主義からの発想を受けいれる一方で、フロイトの弟子、ランク(Rank, O.)の意志心理学の影響が色濃い。心的問題に還元して解釈し、対策を講じるという点で、これらの立場には溝がない26)。また、パールマン(Perlman, H.H.)は目の前にあるクライエントの問題と彼をとりまく環境の困難を扱うことを重視する、「問題解決ケースワーク」を提唱する。パールマンのモデルはライド(Reid, W.J.)やエプスタイン(Epstein, L.)らのいう「課題中心ケースワーク」の先駈けとなった。しかし、このように全ての理論やモデルをあげ、それらの論理構造を詳細に記述することは本稿の主旨とするところでないので省略したい。

  本章1節では、異なる学問から移入されたソーシャルワーク理論どうしが反発しあうことを述べたが、同一の学問に起源をもつ理論同士が調和しない場合もある。また同様に、具体的で政治的な決断を下す際に多用されるものである。では戦後の日本において、「直輸入」(仲村[1957:61-63])された心理主義のソーシャルワーク理論を用い、どのように利用されたのであろうか。こうした問題を心理作用へと還元するいとなみは一方で、それまで顧みられることのなかった子ども期へのまなざしをもたらした。児童虐待を検討する第4章、5章を考慮して、次項では、子ども期への新しい干渉と関連させ、ソーシャルワーク理論の一面を論じたい。

脚光を浴び始めた子ども時代

  フロイトの理論は社会福祉学に大きな影響を与えたが、なかでも子どもに対する視線がこれまでよりもいっそう密度の高いものになっていった。大人でさえもが、過去の子ども期を現在の検証の対象とされた。例えば、フロイト派心理学の普及により、社会福祉機関には「口愛期」の大人であふれ返ると解釈されることとなる(Howe[1987:64])。なぜなら、問題を抱えるクライエントは健全な成長が促されるべき幼児期に何らかの不都合が生じた者と理解されるようになったからである。日本では戦後、精神力動ソーシャルワーク理論が主流となったが、それはこうした解釈が正当性を与えられる場が広がったことを意味する27)。
  大久保満彦もいわゆる「問題児」は「その真相をつきつめて行くと、子ども自身の「行動」に問題があるのではなく、その両親、その養育者の態度、すなわち子どもの養育環境に問題があったことが判る」(大久保[1954:80])として、パーソナリティーの発達段階をフロイト派心理学の強い影響の下に描いていく。そして、性欲を含む欲求が充たされない場合、「人格に一種のゆがみを生じることとな」り、問題行動に至る。例えば、正常なパーソナリティー発達を阻止する両親の態度と、子どもの持つ問題は、次のように因果づけられた。

  母乳も充分には与えられず、お母さんらしい世話もろくにしてもらえず、おまけに突然離乳させられたという赤ちゃんは何か自分のものを取りあげられたように思い、猜疑心が強く、恐怖に満ちていて、おどおどしており、恨みを抱いていて、それは後になって積極的な敵意と攻撃心に結晶することもある。(大久保[1954:81])
  子どもの「指しゃぶり」「おっぱいいじり」をやめさせるために、指や乳頭に「にがい熊の胃」などぬるというやり方ほど残酷なものはない。
(大久保[1954:83])

また、伝統的な家制度も「家庭生活の病根としての研究の対象になり得る」(村田[1954:92])とされることとなった。
  戦後の混乱期には、浮浪児や非行少年が数多く出没し、大きな社会問題になった。そこで平賀孟は、戦争が引き起こした経済的問題、物質的欠乏が「直接原因」となったとしながらも、「人間の内部」に生じた病理をみている(平賀[1951])。血なまぐさい戦争は「母親の不安な状態、いらいらした有様」を招き、母親の庇護のもと愛情を注ぎこまれるはずであった乳児は「感情的打撃」を受け、正常なパーソナリティーの発達が期待できない。こうした心理学的問題の存在ゆえに、「各の如き戦争中の嬰児が今、所謂問題児として我々の眼前に存在している」と解釈されるのである28)。
  竹内は論文「性問題の理論的一考察」(竹内[1955b:47-55])のなかで、特に青少年の「性的非行や犯罪」に焦点を合わせているが、そうした問題行動に至る経緯をランクのいう「体内空想」や「出産外傷」の概念を用いて解釈している。

  多くの人々は出産以来の人生苦は人々に胎内に復帰したい人々を、自殺に駆立てることになるが、まだ生の全面的否定にまでに至らない気持ちの人々は、ここに象徴的に母体に復帰しようとして、強く性を求め、これに耽溺しようとする。
(竹内[1955b:50])

ここで、胎内回帰への欲求が性的欲求に姿を変えて青少年を突き動かし、性的非行や犯罪に駆り立てられる姿が、ランクの学説に依拠して理論づけられる。しかしながら、胎内生活が理想化されるのは万人の普遍的なものとされているので、非行・犯罪の有無は「基礎的性格構造と、社会的性格形成の条件によって左右され」(竹内[1955b:53])る。例えば、貧困生活は、苦労をすることのなかった胎内生活をより強く希求せしめるという解釈が貧困層に非行や犯罪が多い理由としてあげられる29)。
  またそこでは、「予防」のロジックが好んで用いられた30)。心的決定理論は、世にはびこる悪弊や風紀の乱れは、子ども期が円満で充足したものにすると収まるという法則を提示したので、科学に裏付けられた「予防」という活動領域が浮上した。そこで、その活動に従事するべきとされたのは、社会福祉主事や民生委員(方面委員)、PTAなどであった。

  家庭に於ける生活史をダイナミックに調査し、現在の飛行の要因が分析され診断に応用されたならば、学校が不適応行動の特性があまりかたまらないうちに、それらの要因をもつ児童の「潜在的」非行を発見できるのである。潜在的非行者の発見の準備が行われるためにはPTAが中心となって、家庭の指導にあたらねばならない。(略)青少年の指導者はもっと勇敢に家庭生活の中から非行要因のダイナミックスを発見し、その潜在するものを治療することに努力せねばならない。それと同時にわれわれケースワーカーは生活史というダイナミックな調査から診断を引き出す困難性を科学的に解決する努力を続けねばならない。
(三野[1954:112])

  当時、「損なわれた家庭とは何か」というような問いかけが、社会福祉学上で多くなされた。「欠損家庭」の分析は細部に渡り、「悪い家庭」も、「悪い子ども」と同様、カテゴライズされていった(上武[1954:38-42]、大久保[1954:65-75]、牛窪[1954:80-94])。こうして、「欠損家庭」の子どもは非行や犯罪の予備軍とみなされ、監視の目が厳しくなっていった。またそれに陰影をつけるかのように、規範的な家庭を提示する動きにもつながっていく(例えば、大久保[1954:76-79])。また、1950年代半ばに起こった「ホスピタリスムス」論争(第3章2節参照)も、家庭、それも心理学的にノーマルな家庭を最上のものとして際立たせることとなった。
  精神力動ソーシャルワーク理論を駆使するソーシャルワーカーたちは、衛生的観点からはもちろん、心理的視点からも子どもを保護しようと努め始めた。前者の視点が乳児死亡率の低下など、身体上の健全な発育を促進することを目的にしたのに対して、後者は精神上の健全な発達を促した。それと同時に、後者の心理学や精神医学に準拠した知的な営みは、「予防」概念を介した社会防衛上の使命も負っていたのである。

心理主義の専門家観

  心理主義者たちは社会福祉の専門職化を促すため、基礎科学の主な部分を心理学や精神医学に求めた。心理学や精神医学に比しても遜色のない研究業績を積み重ねることが社会福祉学研究者の使命であり、またその専門職化に連関していた。心理主義が理想とした専門家とは、社会調査をおこない、社会に訴えかける社会改良主義とは明らかに趣が異なる。こうした学問が主体となって構築された社会福祉の専門家のイメージとはどういったものであっただろうか。
  精神力動に基づく治療は、心理カウンセラー的な応対技術を伝道したため、ソーシャルワーカーの受動的で寛容、傾聴的な態度をもたらし、ワーカー−クライエント関係は慈善的であったり、救貧法時代の抑圧的なものではなくなっていった(Wallen, J.[1982]、Payne[1997:78])。竹内は先に引用した性問題への対処を論じるなかで、ワーカーはクライエントに対して「傾聴面接」をなし、全てを受容する「温かい『母』の性格を感じさせることが最も重要」(竹内[1955:54])な役割であるとしている。なぜなら、「正常」な愛情や安定感からも見放されているクライエントに対し、擬似的な「母」31)を演じることによって、子ども期に達成をみなかったパーソナリティー発達の一助となると考えられたからである。
  このように、心理学の理論に乗じた役割を専門職の活動の一環として果たすように期待されていった。フロイトの精神分析によると、幼児期は口愛期、肛門期、男根期と区分されるが、何らかの問題を抱える成人は、これら性心理のいずれかの発展段階に属するものとしてカテゴライズできる。ここで、それぞれの段階に有効なソーシャルワーカーの役割も想定されることとなった。例えば、口愛期に固着されたものと診断されたクライエントに対しては、安全と快適さを与える母親の役割、家族の一員のような役割が望ましいとされた。なぜなら、口愛期にあるクライエントの特性の一つとして、依存性があげられており、そうした特性には母性的な態度をとることが理論的に正しいからである。その一方で、同じ口愛期パーソナリティーのクライエントでも、他人を信頼せず、拒否的な態度にでる特質をもつものもいる。こうしたクライエントに対しては、敵対的にならざるをえないが、それさえも学問理論をまっとうするものとされた(Howe[1987:66])。こうして口愛期にあると診断されたクライエントに対して適宜、ソーシャルワーカーは2種類の人物像を演じることが必要とされた。
  ここに、依拠する学問に忠実なワーカーの姿が浮かび上がってくる。社会福祉従事者は特定の学問的言説に準拠し、客観的に対象を診断・治療する主体となっていった。本章にある、マルクス主義的理論やシステム−エコロジカル理論の他にも「科学」的なソーシャルワーク理論は数多くあるが、これらの理論についても同様である。こうした専門家としてのワーカーの態度は、第3章にみるようなバックラッシュの誘い水となり、終章で扱う「ポストモダニスト」にとっての脱構築の対象となるだろう。


第3節  マルクス主義にとっての「社会福祉学」

マルクス主義的ソーシャルワーク理論出現の背景

  1917年は、社会福祉学にとって、心理学・精神医学に科学的根拠をおく動きが加速した転機の年となったが、まさにその年、ロシア革命が成功したことは意味深い。日本の社会福祉学領域におけるマルクス主義思想の貢献は、戦前に始まり(永岡[1979])、学園紛争の盛んな時代にピークを迎える。しかし、戦時中の思想弾圧の下や、終戦直後のアメリカに影響を受けた精神力動ソーシャルワーク理論が興隆した時代は一時的な衰退を余儀なくされた。
  第2節で述べたような「アメリカ直輸入」の戦後の社会福祉教育は、マルクス主義的が昂揚する1960年代、1970年代に攻撃の対象となった。学園紛争の時期と重なり、それが社会福祉教育全体の見直しへ向けた大きな力ともなった。例えば、日本女子大学社会福祉学科のカリキュラムは、学園紛争の前後に大きな変更がみられる。廃止された科目の主なものは、コミュニティー・オーガニゼーション、職業指導、社会病理学、生活心理学など。そして新設されたものは、政治学、社会運動史、労働法、社会構造論、日本経済論、などであった(今岡[1976:27])。また同志社大学では、ニューヨーク社会事業学校で学んだ「フロイディアン」(大塚[1978:332])、ドロシー・デッソー(Dessau, D.)が学生からの批判を受けている(嶋田[1978:343])。
  さらに、この時期のマルクス主義的ソーシャルワーク理論の興隆は、社会福祉の専門職制度にも影響を与えている。社会福祉学界のマルクス主義者たちは、1971年に公表された中央社会福祉審議会職員専門分科会起草委員会による「社会福祉職員専門職化への道 ─社会福祉専門職員の充実強化方策としての『社会福祉士法』制定試案」に、おおむね批判的な姿勢をとった。これについては後述するが、マルクス主義者のもつ望ましい「社会福祉労働者」(社会福祉従事者)像や理論が制定試案がその柱とした心理主義的技術論と大きくかけ離れていたことに、その理由の一つが求められよう。
  一言で社会福祉学領域におけるマルクス主義者といっても、精神力動ソーシャルワーク理論と同様さまざまな解釈があるし、現にその解釈方法の違いが多くの「論争」を生んできた(真田[1979])。ここでマルクス主義的ソーシャルワーク理論と一括りにしても漏洩する諸論があるのは避けられない。しかしながらそれらの試みは、マルクス主義的思想をソーシャルワークの理論として、いかに調整していくかが課題であったことは共通している。第1節に述べたように、マルクス思想をそれまでのソーシャルワーク理論と整合性を図っていくことを主張したものもあるし、それのみを社会福祉従事者の関与するべきものとして他を排除することを主張したものもあった。社会福祉学領域を沸かせたマルクス主義的解釈をめぐる論争も、その適用の程度問題だったともいえる。
  マルクス主義的ソーシャルワーク理論は一般的に、問題を個人的なものとして捉えるのではなく、社会的、構造的な問題として捉えた。そこでは、個人的な人と人とのつながりも、資本主義社会における社会的な産物とみなされる(Payne[1997:214])。社会福祉学が成立して以来の個人的な問題に還元するか、社会的な問題に還元するかという「振り子」は、ここで一挙に社会の側に傾いたのであった。

理論的構造

ロジェク(Rojek, C.[1986:67-68])は、社会福祉学におけるマルクス主義者の3つのタイプを明らかにしている。

1、 革新主義的立場:ソーシャルワーカーは、社会改革を積極的に促進する機関である。なぜなら、彼らは労働者階級と直接的に連携し、その代弁者としての役割を果たす。そこでいう労働者階級とは、資本主義制度のもとで搾取される者たちであり、そのシステムを破壊し、階級差別のない社会を建設することを運命付けられた者たちである。
2、 再生産的立場:社会福祉とは、先進的な資本主義社会にとっては欠くことのできない資本主義国家機構の一つの構成物として認識される。ソーシャルワーカーは、階級の制御機関として定義され、上層階級と下層階級の現在の関係を再生産するものとして機能する。
3、 矛盾的立場:社会福祉は、1と2で述べたように、一方では階級社会を打破するものとして、また他方ではそれを再生産するものとしてみなされる。ソーシャルワーカーは、国家の経済的・政治的権力にアクセスすることによって階級社会を打破するため、積極的に働きかけるよう要求される。しかしながらそこに矛盾があるのは明白である。

  日本においてマルクス主義的ソーシャルワーク理論を展開した代表的な人物として孝橋正一がいるが、こうした社会福祉学領域におけるマルクス主義者のジレンマをよく認識していた。

  社会事業とは、資本主義制度の構造的必然の所産である社会的問題にむけられた合目的・補充的な公・私の社会的方策施設の総称であって、その本質の現象的表現は、労働者=国民大衆における社会的必要の欠乏(社会的障害)状態に対応する精神的・物質的な救済、保護および福祉の増進を、一定の社会的手段を通じて、組織的に行うところに存する。
(孝橋[1962:24-25])

  と再生産的立場を明らかにしつつも、その限界性について次のように言及している。

  社会主義(社会民主主義)社会事業理論のおちいりがちな誤謬は、その主体的意欲の強烈さのために、社会的諸施策の構造的限界を忘却するところに存在している。しかしこの表現はある意味での社会主義社会事業の否定のために使用せられるべきではない。社会主義および労働運動の圧力によって高められた社会的保護水準は、それ自身客観的にはやはり資本主義制度の構造的合目的性の貫徹であり、それ以上のものではありえないとともに、それは矛盾的・自己同一的に社会主義への足場を固めるものとして利用することができるものだからである。それはすべての社会的存在が、古い制度の体内から生まれ、思われた意図に規定されながら、それをのりこえていくという真理の、社会事業における実現であるともいえよう。(孝橋[1962:100-101])

  ロジェクは、マルクス主義を含むラディカル・ソーシャルワークに関して「レジスタンスは単に『意識の昂揚』、すなわち全面的な社会変革への前奏の公開討論会にすぎない」(Rojek[1986:65])と述べたが、日本のマルクス主義者はこの矛盾をさまざまなやり方で超越していった。例えば、高島進は社会福祉を「資本主義の社会的矛盾の発達のなかで、資本主義制度の維持と支配階級の利益をまもるために、資本の蓄積法則がもたらす矛盾を緩和することを通じて、支配をより強化するということにある」(高島進[1973:7])と規定する。そして彼はこの「再生産的立場」を貫きつつ、「譲歩」と称して社会福祉の発展を戦略的に支持した。なぜならこうした譲歩が、労働者にとっての利益をもたらすからである。
  こうしてマルクス主義的ソーシャルワーク理論を概観すると、1971年の「社会福祉士」制定試案に彼らがそろって異議を唱えたのも、そこにおける正論であった。高島進は制定試案の「技術的」傾倒を批判して次のように論述する。

  試案の専門性の理解は、狭隘な技術主義に社会福祉労働を閉じ込め、貧困の現実と本質を見誤らせ、社会福祉を国独資による人民の管理の一環に埋没させる結果をつくり出すのである。
(高島進[1973:195])

  そこで社会福祉学が考慮しなくてはならないのは、「現代の貧困の現象を社会科学的に本質をふまえて分析」することであり、被った不利益を改善するために生存権、教育権、労働権等の諸権利を主張していく。この主張は「単なる『調整』ではなく」、「諸制度の民主主義的変革の努力によって保障されるもの」とされ、「革新主義的立場」を貫くことができる。それは、マルクス主義的な唯物論的発達史観や階級概念を用いて社会福祉範疇内で多いに論議された。マルクス主義者にとって社会福祉学とは以上のような学問的実践でなければならず、制定試案に異を奏すことが必然とされたのである。
  今思えば、社会問題を階級社会における問題と読み取り、諸権利の主張を労働者が主体となった階級闘争として把握できたことは、現実的な感覚を反映している。当時の社会福祉施設の最低基準や措置費の低さ、また社会福祉従事者の劣悪な労働条件、低賃金という山積みされた問題状況も、マルクス主義的ソーシャルワーク理論が選択される要因となったといえる。

マルクス主義ソーシャルワーク理論の専門職観

  ソーシャルワーカーを「社会福祉労働者」と呼称しようという動きが1970年代盛んになったことはよく知られている。それは鷲谷善教が社会福祉ワーカーの実態について取り上げた『社会事業従事者』(1968年)を約10年後に改訂出版したとき、『社会福祉労働者』と改題されたことにも象徴されている。この「社会福祉労働者」という表現を好んで用いたのが、マルクス主義的ソーシャルワーク理論を支持する人々であった。そしてその定義をみると、上述したような社会福祉領域におけるマルクス主義者のアンビバレントな存在がよく現れている。浦辺史は社会福祉労働者の特徴を次のように記している。

  支配階級は人民を支配するために警察、軍隊、税収などの暴力とともに教育、医療、社会福祉などの公的サービスを国家権力のうちにふくみ、「飴と鞭」によって階級抑圧の目的にこれをつかっている。財政的にみれば国家は国民の血税をとりあげて防衛、警察、産業と公共投資にあて、その一部を教育、医療、社会福祉にあてている。社会福祉労働者は対象者とともに社会福祉事業費(措置費)として国家が一般会計予算に計上した予算を賃金資源としている。社会福祉改善要求運動において、福祉労働が対象者とともに共闘する経済的基盤がここにあるといえよう。
(浦辺[1973:4])

  そして「独占に奉仕する政府」と「国民大衆」の板挟みにあう社会福祉労働者は、「対象者の福祉サービス水準を高めることと、福祉サービスを担当する福祉労働者自らの生活をまもるため労働条件の改善を同時平行的不可分にたたかう」(浦辺[1973:8])ことが求められる。みずからの労働条件の改善を求めることは、「革命」の手段とされた。それは「支配階級に奉仕する」、「国の低福祉水準の措置費」は、階級構造の再生産を象徴し、それを打倒することが使命とされるからである。 
  そこで「社会福祉労働者」は、対象者や自らの人権を表に掲げ、「国」に対して要求をしていくことがなによりも重要な実践となった。浦辺は社会福祉労働者の課題として、

  @「ふかまりゆく貧困の現実を告発しよう」
  A「労働者として社会科学の学習運動を深めよう」
  B「福祉労働者の連帯をつよめよう」

と呼びかけた。@では、単に社会に訴えるのみでなく、異なる現状認識をする人々への攻撃がおこなわれる。「社会福祉士法」制定試案の、「今日の社会福祉は経済的貧窮や疾病に対する、主として、物質的援護救済を中心とした昔日の姿から、はるかに脱したところにある」(中央社会福祉審議会[1971:6])といったような現状把握は、マルクス主義者の批判を受けるのは必至であった。またAについて「経済学」(マルクス経済学)はもちろん、「戦いの武器として民主的権利」を学ぶことが推奨される。世界人権宣言や日本国憲法、労働基準法、労働組合法などで守られている諸権利を把握することで、福祉労働者が関与する運動に法的根拠が生じるからである。そしてBは、団結することによって「社会福祉改善要求運動に自覚的にとりくむエネルギーをつちかうことができる」からとされた。
  社会福祉労働者は、労働者として、社会的弱者の代弁をおこない、主に「国」に対して運動をおこなっていったが、専門家としての社会福祉労働者についての議論はこれ以上の展開をみせなかった。なぜなら、社会福祉の従事者の専門性は歴史的必然性のもとに置かれていたからである。真田是は「専門分化としての専門性」(真田[1975])を指摘する。

  近代の専門性は、労働がますます細分化されていく過程で確立されてきたために、分業にもとづく協業の中での非代替性の部分を専門性として確立し、さらに過程としては、この非代替性の部分が一層分化をとげていくというものであったといってよい。
(真田[1975:248])

ここでは、分化した職業一般には専門化が不可避であるかのようにされ、社会福祉もこの「法則」のもとにおかれた。その際に真田は、それまでの社会福祉学の学問的形式を踏襲し、その理論的根拠を学際的なものにおいている(真田[1975:252])。細川順正は真田と同様、社会福祉労働者の専門性は、歴史的必然性のもとにおき、次のように述べる。

  社会福祉労働者の専門性は、真の意味における社会福祉労働自らの独自な発展法則による価値実現の過程において、社会福祉労働者が、社会福祉労働そのもの、労働対象、労働手段との関係おける行為と意識の一定の体系であるということができる。/そのような社会福祉労働者の専門性は、その労働における技術的過程において確保され、高められる。
(細川[1972:43])

  ここで技術は、「疎外された状態のもとでの人間に対する科学を基礎におくべき」とされた。技術は、「その対象者の疎外状況からの脱出」を図り、またその「技術自らの疎外状況からの脱出」を試みることが専門性を高めるとされた。
  以上のような、マルクス主義的ソーシャルワーク理論を支持するものたちは、おおむね国に対しての要求運動に没頭したといえる。この理論が支持された時代、福祉水準や福祉労働水準の改善は、確かに焦眉の問題であった。しかし、そこにマルクス主義的ソーシャルワーク理論が選びとられた政治性が透けてみえ、それが純粋な「理論的発展」かどうかは疑わしいといえる。
  しかしながら、このソーシャルワーク理論が全盛を極めた時代に、日本では社会福祉学が「学問」の一つとして認識されはじめたという史実は重要である。なかでも、『思想』に掲載された一番ヶ瀬康子の「社会福祉学とは何か」(一番ヶ瀬[1970])はエポックメイキングな存在とされているが、マルクス理論に依拠していることは否めない。


第4節  社会福祉統合化へむけて ─システム‐エコロジカル理論

システム‐エコロジカル・ソーシャルワーク理論出現の背景

  英語圏におけるソーシャルワーク理論の現在を語るとき、生態学の思考様式や視点が「主流」(岡本[1990:86])を占めるようになってきたといわれている。現在、日本ではどの教科書的な文献も、このシステム‐エコロジカル・ソーシャルワーク理論が最も有効なものであるとの認識がされている。つまり、このソーシャルワーク理論は現在、図1でいう最新で、最も特権的な「X理論」に位置づけられているのである。
  このソーシャルワーク理論は、幸福な「科学」化が終焉した時代(第3章参照)に生き残った理論という点で特殊である。しかしながら一方で、その理論的「限界」(平塚[1995:170]、稲沢[1992])を指摘する声も存在する。これは、本章の第2節、3節で考察した「精神力動ソーシャルワーク理論」や「マルクス主義的ソーシャルワーク理論」などという社会福祉学の「科学」化へ直進した理論とは違い、1960年代、1970年代の「ソーシャルワーク批判」のなかで企てられた調整をいかに評価するかに関連している。
  まず用語について、ここでは「システム‐エコロジカル理論」と総称しているが、別個の理論として扱われることもある。前者は「システム理論」、「システム論的アプローチ」、後者は「生態学的視座」、「エコロジカル・パースペクティブ」、「エコロジカル・ソーシャルワーク」などとさまざまに翻訳され、呼称されている。本論では、この両者の概念に重複する部分が多くあることを考慮して、「システム‐エコロジカル理論」(Payne[1997])と記述する。ジャーメインとギッターマン(Germain,C.B. and Gitterman,A.)の「エコロジストたちは、最初からシステム的思考をする人」(Germain and Gitterman[1987:488])という見解を引用して、「システム理論のメタファー」と「生態学的なメタファー」の類似性を指摘するものは多いが、彼らの一部は同時にそれらの間に大きな断絶をみる。システム理論との差異化を図ることによって専門職としての学問形態を維持しようと努める者と、それに異を唱える者との対立は何を意味するのか、この節では検討したい。
  時期的には、先にシステム理論、次にエコロジカル理論が社会福祉学の領域に導入されていく。システム理論は1960年代から導入され、1970年代にはマイヤー(Meyer, C.)やゴールドシュタイン(Goldstein,H.)、ピンカス(Pincus,A.)、ミナハン(Minahan, A.)やサイポリン(Siporin,M.)らを中心に大々的に展開されていく。またを背景とするソーシャルワーク理論が台頭してくるのは、1970年代である。それ以前にエコロジカルモデルのかすかな痕跡を辿ることはできるが、生態学からの知見を得て「生活モデル」(life model)概念を体系化した、ジャーメインとギッターマンの共著『ソーシャルワーク実践におけるライフモデル』(Germain and Gitterman[1980])が出版されてからは、その存在は揺るぎのないものとなる。日本には1975年から、平塚良子、小松源助、佐藤豊道、久保紘章、岡本民夫、小島蓉子、太田義弘、中村佐織らによって精力的に紹介されている(岩間[1991:72])。
  システム−エコロジカル理論は、社会福祉学のいわゆる「ジェネリック」な系譜を辿ることができる。つまり、リッチモンドの『社会診断』や、1929年に発行されたいわゆる「ミルフォード会議報告」などに代表される、「社会的なるもの」と「個人的なるもの」とを多角的に捉えようとする視点である。ここで、振り子は社会と個人の中間に静止したといわれている。システム−エコロジカル理論が口にされ始めた時期、「精神医学の氾濫」の時代には無視されていたリッチモンドが、「再発見」(Familiy Service Association of America[1961])されたことにも象徴される。中村佐織もジャーメインに倣い、システム−エコロジカル理論は「決して新しいものではな」(中村[1990:97])いとしている(他にPayne[1997:140]など)。例えば、ジェネリックなソーシャルワーク理論の特徴である、学際性もこのシステム−エコロジカル理論のなかに確認される32)。
  システム−エコロジカル理論が注目を集めた時期を考えると、統合的で学問的な論理基盤が希求されていた時期と重なっている。例えばイギリスにおいても、この理論が普及した時期はソーシャルワーカーの統合化の時代と重複している。1968年のシーボーム再編成により、多種に分断された地方自治体の機関が統合された。それと同時に、他分野にわたるソーシャルワーカーが同一のアイデンティティーを持ち、統一的な学問基盤を持つことが必要とされた。具体的には1970年地方自治体ソーシャルサービス法によって、地方自治体ソーシャルサービス部が出現した(津崎[1986]に詳しい)。また同年、専門職諸協会の統一を試みた、英国ソーシャルワーカー協会(British Association of Social Workers)が創設された33)。この時「全体」を見据えるシステム‐エコロジカル理論は、ソーシャルワーカーにとって無二の概念枠組みとして映ったのである(Payne[1997:140])。
  一般システム理論や生態学の持つ「全体性」は社会福祉学の論拠となるものとして「魅力的」(Payne[1997:140])な理論であった。実際、システム‐エコロジカル理論の指導者的存在である社会福祉研究者、ピンカスとミナハン、そしてゴールドシュタインはそれぞれ自らの理論の理論を「統合された」、「結合的」なものであると形容している(Payne[1997:140])。小松源助も「システム理論」を「社会福祉実践活動における方法の統合化」の視点の一つと数えられるものとしてあげている(小松[1976:165])。
  またシステム−エコロジカル理論は、1970年代半ばのソーシャルワーク理論に影響を与えた家族療法(family therapy)の理論と共通する点が多い(日本では例えば、倉石[1994]、[1995])。ハウ34)はファミリー・セラピストを熱烈なシステム理論の支持者だとして、彼らの「多くは、全ての構成員を、全体的機能としての家族システムの一部分として扱うことを好む。そのシステムの一部分での行動が、そのシステムのどこか他の場所へ影響を与えるのである。(略)個人の『病気』を語るのではなく、ファミリー・セラピストたちは家族プロセスにおける不適応という見地から考えることを好む」(Howe[1987:56])としてきた。また、行動療法に依拠するソーシャルワーク(behavioural social work)にも同様のことがいえる(Howe[1987:59])。

理論的構造

  ここで総称するシステム−エコロジカル理論とは、他領域における複数の理論がふくまれている。それはまた「学際志向」を示すこの理論の特質といえるかもしれない。一般的に「一般システム理論」と「生態学」がなんらかの関わりを持って社会福祉学に影響を与えたとされるが、過去に溯りそれらの理論の存在を確証するため、それ以外の学問理論が考慮されることも多い。例えば自然科学的・工学的システム論や「サイバネティックス」、また「社会システム理論」や「構造−機能分析」などが一般システム理論に先行する系譜とされている。本論ではシステム‐エコロジカル理論の論理構造を把握するために、最も頻繁に援用された「一般システム理論」と「生態学」を別々に追っていく。
  ベルタランフィ(Bertalanffy, L.)の一般システム理論が、ソーシャルワーク理論に応用されるようになっていくが、まずハーン(Hearn,G.)がその先頭を切った。ハーンは1958年にソーシャルワーク実践にシステム理論の導入を示唆し(Hearn[1958])、1969年には『一般システムズ・アプローチ』(Hearn[1969])と題する事例を交えた実践志向の本を出版した。これらの研究が契機となって、1970年代初頭にはソーシャルワーク実践の領域で大きな注目を集めることとなっていった(太田[1992:72])。
  一般システム理論の基礎的概念である、「解放システム/閉鎖システム」や「インプット/アウトプット」、「エンロトピー」、「定常状態」、「情報・資源処理システム」などが、福祉実践を解釈する用語としてそのまま使用されていく。ピンカスとミナハンは「ソーシャルワーク実践における4つの基本的システム」(Pincus and Minahan[1973])として、

@ クライエント・システム(社会福祉サービスを必要とする、個人や家族、集団)
A ワーカー・システム(援助活動を担当するワーカーと、その施設、機関、職員など)
B ターゲット・システム
   (問題解決のために変革あるいは影響を与えていく標的となる人や組織)
C アクション・システム(変革に用いられる人々や資源全体)

をあげている(川田誉音[1992:138])。このシステム理論の援用は、問題の把握の仕方を精神力動ソーシャルワーク理論のそれより、社会的の側に引き戻したといえる(Siporin[1980:509]、Payne[1997:140])。ここで問題は、システム内部に起こった不均衡に還元される。つまり、システム内の不整合がさまざまな形態をした問題となって表出すると考えられるのである。こうした局面では、これまで学問や「技術」の受動的な客体でしかなかった「クライエント」が、「治療」的な介入の際のアクション・システムの構成員として考えられるようになった。
  そしてこの一般システム理論に依拠したソーシャルワーク理論は、しだいに生態学的な示唆を受けることとなる35)。それは1960年代、バンドラー(Bandler, B.)によって提唱され、1970年代にオックスレイ(Oxley, G.)やストレーン(Strean,H.S.)らによって本格化されていく。そしてジャーメインとギッターマンが、生態学を主な基礎理論として「生活モデル」のソーシャルワーク理論、技術論を体系化した。ここでは、「人と環境との交互作用(transaction)36)」に焦点が当てられる。また、この交互作用の下位概念としては、「適応/ストレス/対処」、「関係性/同一性/対処能力」「環境」などが用いられている。
  例えば「適応/ストレス/対処」、均衡状態を保つ自然環境から観測された生態学的概念を用いて、人間関係を釈明する際の「メタファー」(Germain[1973=1992:8])とされたものである。生物学は、ジャーメインによれば「力動的な均衡性と相互性の達成を手段として存続する“有機体”と、その“環境”との適応的な共存の関係性にかかわる科学」(Germain[1973=1992:326])であるとされる。そしてソーシャルワーク理論における生態学の立場は、人間と環境との共存を、交互作用と相互適応(mutual adaptation)とみて、それを人間関係に適用する。そこで人間は生物的、心理的、社会的、文化的な交互作用のなかで「適応」(adaptation)状態という最適な状態へ向けて自分自身と環境を適応させていく主体と考えられる。
  そしてそれが達成できない場合、その歪みを「ストレス」と呼ぶ。そのストレスの原因も、交互作用上の滞りに問題があるため、個人か環境かの二者択一に解決をみいだせるものではない(Germain and Gitterman[1986:620])。こうしたストレス状態を脱し、安定したシステムに調整していく努力を「対処」(coping)と呼ぶが、その際、人的環境的資源が必要となる。
  その他にも、環境を構成する「層と織り(textures)」など、数多くの概念がソーシャルワーク理論のなかに導入されていった。しかしここで弱点をあげるならば、生態学的視点というのは、科学が目指され、ワーカーはシステムの外部に視点をおく観察者であったという批判が可能となる点である37)。

  生態学的視点は、急速に変化する「物理的環境」(physical environment)と「社会的環境」(social environment)と、人間とのデリケートなかかわり合いに関する科学的知識を深めることに貢献する。同時に人間の向上心と環境の改善に情熱的にはたらきかける。また生物学的視点は、「原因」と「機能」に橋渡しをし、「科学」と「人間主義」という二つの関心の隙間を埋めて、それらを相互補完的関係へと導くのである。
(Germain[1973=1992:8-9])

つまりここでは、人間と自然環境は「客観物」(objectivity)として捉えられており(Howe[1987:52-53])、こうした視線は生態学的視点が否定した科学知に属するという見方もある。しかしながら、逆にその「システム−エコロジカル理論」のこのハイフンのなかに、大きな断絶をみいだし、さまざまな意味を付加するものも多い。1960年代1970年代の「ソーシャルワーク受難の時代」を経た現在、このハイフンに断絶をみるか、連続性をみるかは、このソーシャルワーク理論を再建するか、否定的に評価するかの態度と関わってくるのでさらに論考を加えたい。

「生活モデル」は「医学モデル」を「超越」したか?

  まず、システム−エコロジカル理論のハイフンに断絶をみいだすものたちは、「治療モデルから生活モデルへ」(Germain[1987])に代表されるような、思想的な転換がなされたことを強調する(下記の岡本以外に、中村佐織[1990:93]、平塚[1995:169])。

  医学モデルで主たる認識対象として問題にする病理的側面とは異なり、人間を積極的、活動的、目的的存在としてとらえ、環境とのかかわりあいのなかで成長し、発達し、学習していく可能性のある存在として把握されている。(略)ライフモデルは生態学を援用してソーシャルワークに新しい旋風をふきこみ、今日の厳しい社会経済情勢における福祉問題に対して、斬新な介入方法を提示し、伝統的な医学モデルを克服し、凌駕していこうというきわめて意欲的な取り組みである。
(岡本[1990:91])

  また、太田義弘(太田[1990:83])は「システム思考」と「生態学的視座」との相違を10項目にわたって整理しているが(下図)、こうした比較検討の試みも、両者の隔絶を強調するものである。

表 1「基礎的特性の比較」        表 2 「方法的特性の比較」
システム思考  生態学的視座       システム思考  生態学的視座
1 組織工学   1 生物学         1 統合性    1 統一性
2 論理性    2 実証性         2 分析性    2 全体性
3 人為性    3 自然性         3 説明概念   3 実体概念
4 超自然事象  4 自然事象        4 構成     4 素性
5 組織体    5 生活体         5 構造機能   5 変容過程
6 没価値志向  6 価値志向        6 形式     6 内容
7 関係概念   7 状況概念        7 多様性    7 単一性
8 ハード    8 ソフト         8 静態     8動態
9 不可視性   9 可視性         9 ミクロ    9 マクロ
10 思考性   10 感覚性        10 抽象性   10 具象性
(太田[1990:83])

  上のような社会福祉学における生活モデルへの推移は、「パラダイム転換」(一番ヶ瀬[1992:B])とまで称されるが、これは「科学とりわけ近代諸科学」批判を背景に推進されてきたとみるのが主流である(下記の平塚のほかにも、白澤[1975]、小島[1989]、太田[1990])。

  生態学的アプローチでは環境との関わりのなかで生きる能動的な存在としての人間論の積極的な展開により、生活主体者としての人間のもつ強さや人間の潜在的可能性に価値がおかれる。それは当時の公民権運動・福祉権運動などの人間の復権運動や環境汚染問題と関連するものであるが、とりわけ生物体の進化概念を組み込む適応概念をメタファすることは人間観において有効な示唆を与えている。
(平塚[1995:169])

  つまり、システム−エコロジカル理論のハイフンに断絶をみいだすものたちは、トゥレーヌ(Touraine, A.)のいう「新しい社会運動」(Touraine[1969])が要請するような、「改革」が社会福祉学の範疇で達成されたと自認するのである。それは「ソーシャルワーカー批判」の後におこなわれた、社会福祉学の再構築を積極的に評価するものであるといっていいだろう。
  ところが、以上のような「一般システム理論」を脱し、「エコロジカル・ソーシャルワーク」への「パラダイム転換」を果たしたという釈明に異を唱えるものがいる。彼らはハイフンの断絶に付加される多彩な意味付けを無に帰す。ペインはソーシャルワーク理論を論じる際に、両者を一括しており、ハウも同様に構造−機能分析も含めたThe Fixersと総称している。「アプローチにおいて、問題志向的である」(Burrell and Morgan[1979])という言葉をひいて、ハウはThe Fixers(ここでいうシステム‐エコロジカル理論)について次のように述べる。

  規律化の社会学であるのは明らかである。それゆえ、規律という言葉を二通りに理解することができる。まず、正常な社会生活の模範が認識され賞賛されること。次に、その均衡を保つために、行動を規制し、制御する必要性と準備があることである。
(Howe[1987:52])

  このソーシャルワーク理論に対する、このような批判はいたるところからあがっている。その多くが、人種や民族、マイノリティ、性による差別などにより辺境に追いやられた人々、もしくは彼らを擁護するものたちから発せられた(秋山薊二[1995:164]、平塚[1995:170])。つまりこのシステム‐エコロジカル理論は基本的に保守的な主張を弁護する傾向にあるという批判である(第3章参照)。彼らはエコロジカルな局面へと「パラダイム転換」したと銘打ったとしても、パターナリスティックな構造から抜け出せず、表面的な転換に終わっているという。
  またシステム‐エコロジカル理論に対する、既存のソーシャルワーク理論からの批判も存在する。精神分析理論の立場からは、「生態学的アプローチは人間の内的心理システムの理解不足を指摘」(平塚[1995:170])される。またマルクス主義者からは、「資本主義社会における階級利益の確執を考慮しない」という攻撃を受けている(Payne[1997:156])。逆に、マルクス主義者の使命である「革命」も、システム‐エコロジカル理論の解釈に従うと単なるシステムの均衡状態を打ち破る「ストレス」として映るだろう38)。

システム‐エコロジカル理論の専門職観

  以上のような批判が存在することも考慮しながら、ここではこのソーシャルワーク理論が想定した専門職像について検討したい。既述したように、システム‐エコロジカル理論では、「治療モデルから生活モデルへ」の転換が企図されたが、そこで求められる専門職の役割や位置づけも多少変化した。
  まず、システム論的ソーシャルワーク理論を展開するものが想定するソーシャルワーカーの役割を、ペインは次のように列挙する(Payne[1997:142])。

・ 問題解決のため、人々みずからの能力を使わせ、それを発達させるように助けること。
・ 人と資源システムの間に新しいつながりを設けること。
・ 人と資源システムの間の相互作用を促し、調整すること。
・ 人と資源システムの間の相互作用を発達させること。
・ 社会政策を発達させ、変化させることを手助けすること。
・ 実践的な援助を与えること。
・ 社会制御の機関として行動すること。

そして、そこで結ばれるクライエントとの関係は、@協同(目的が定められた上の)
A契約(同意を必要とする)B衝突(目的は一致しない)(Payne[1997:143])と特徴づけられるものとした。
  次に、そのシステム論的ソーシャルワーク理論を超越した、エコロジカル・ソーシャルワークを自認するものは、「専門的な関係をの舞台として眺める」(Germain and Gitteman[1987=1992:210])。そして「その関係は、パートナーシップや協働の努力によって実らされる」(同上)。つまり彼らの役割は、

@ 仲介者
A 弁護者
B 組織者

として、存在するのである。また、生活モデルの基礎を築いたオックスレイも、実践者としてのソーシャルワーカーの役割として、イネーブラー、代弁者、治療者、親、友人、教師をあげている(Oxley[1971:629]、白澤[1975])。
  彼らはそれ以前のソーシャルワーク理論と同様、その援助過程を分節化していくが、システム‐エコロジカル理論は、独特なアセスメント手法を編み出した。それがクライエントを取り巻く空間を視覚化した「エコマップ」(eco-map、生態地図ともいう)であり、時間を視覚化した「ジェノグラム」(genogram)である(岩間[1994:91])。下に例としてジェノグラムとその地図記号、およびエコマップを載せておく。

図 2 ジェノグラムの例

  (略)


図 3 エコマップの例

  (略)


地図記号

  エコマップを描くことは比較的単純な技能であるが、それだけに利便性に富むとされる。また「エコマップの作成にクライエントを参加させ、自己の人間関係や状況を対象化し、客観視することができる」(岡本[1992])ため、「パラダイム転換」以降の専門職的態度にそぐう実践であるとされる。つまり、協働者としてのソーシャルワーカーが用いるツールであることが強調できる。
  しかしながら、先述のシステム理論とエコロジカル理論とを一括する人々は、これに対し厳しい視線を向ける。システム−エコロジカル理論は、その問題の原因をトランザクショナルなシステム(個人を包囲する社会環境)に存在するとしたが、ここで一つの独特な解釈学が成立している。この新しく成立した問題に関する解釈を、協同的になったワーカーはクライエントと共有する。そして多くの場合、クライエントは専門家にその解釈をいかにおこなうべきかという指導をうけることになる。そして、フロイトの精神分析がそうであったように、その学問理論の言説に、クライエントは巻き込まれていく(Howe[1987:57])ともいえる。ここには、啓蒙的な上下関係が確認できるというのである。

  (ソーシャルワーカー・筆者注)は欠陥部分を弁別する、その人である。彼女はそれを直すために客観的な知識と専門技術を適用する。彼女は何をするべきか指示する責任がある。科学者のように、ソーシャルワーカーはいかに人間が働くかを知っている。彼女はいかに環境が問題を引き起こすかを説明する。(Howe[1987:58])

ハウは、その主導権がワーカーの手中にあるとしてそれを批判し、システム理論との連続性を浮き彫りにするのである。
  ここで、システム‐エコロジカル理論のハイフンのなかに断絶をみるものと、連結をみるものとの相違を簡単に要約しよう。ここで仮に、前者をパラダイム「転換派」、後者を「現状維持派」と呼称する。

図 4 システム‐エコロジカル理論の評価

             シ ス テ ム  −  エ コ ロ ジ カ ル 理論 

     転換派    医療モデル       生活モデル

    現状維持派         医 療 モ デ ル


概念図に示したように、「転換派」は医療モデルから生活モデルへの転換が達成されたとする立場である。ここの医療モデルに含まれるものは、「一般システム理論」に限らず、その他のさまざまな科学的追究を志向したソーシャルワーク理論すべてである。そして、専門家がおこなう実践活動もエコマップを作成し、エンパワーメントやセルフ・ヘルプなどの機会を増やすなど(第3章3節参照)、「生活モデル」実現に向けての試行錯誤が繰り返された。
  これに対し「現状維持派」は、エコロジカルモデルは医学モデルの域を脱するものではないと結論づける。この転換派と現状維持派の対立の存在は、終章で検討する社会福祉学における「ポストモダニスト」を把握するために重要な鍵であろう。そしてこの解釈の違いは序章で述べた「反省的学問理論」の孕むアポリアとも通底するものである。



1) ここで松井はこうした理論的展開の限界を指摘し、それを乗り越える理論的展開を試みている。しかし松井の「社会福祉の構造的理解」に向けて用意した「社会システムの三つの構造領域」とは、システム論を用いた社会福祉の解釈であった。これは、本章第3節で扱う予定のソーシャルワーク理論に属する。
2) というのも、これまで社会福祉関係の理論の議論が、日本においてどのように展開されてきたかの歴史を物語るものではないか。日本では、どういった理論を掲げているかというより、いかにそれらを解釈しなおしたかに重点が置かれていたといえよう。
3) 国立国会図書館の雑誌記事索引CD-ROMをみても、「社会福祉理論」の総数のほうが「ソーシャルワーク理論」に比べて多い。
4) 1938年に出版された『ケース・ウォークの理論と実際』には、「宗教、道徳、生物學、醫學、心理學、精神衛生學、經濟學、社會學、教育學、法律學」(竹内[1938:92])が列挙されており、定義の若干の変化はあったようだ。
5) この「五つの立場」を示す際、「クヰーキン及びマン共著」の『社會病理學』に大きな影響をうけ、社会病理学をケースワークの「前提」として重視している。1938年出版の『ケース・ウォークの理論と実際』では、「五つの立場」の例示として、この『社會病理學』から長い引用をおこなっている。
6) 大塚達雄はケースワークで科学的というとき、「クライエントを、ある環境における全人として理解することを意味する」としながらも、具体的なレベルになると、竹内・谷川と変わらない。「各ケースの的確な診断・評価のためには、人間や社会に関するあらゆる科学の知識が必要(略)例えば診断評価を的確にするためには、心理学、社会学、精神医学、医学、社会病理学、文化人類学、経済学、法律学、栄養学等々が挙げられる」(大塚[1960:120-121])と述べている。孝橋・嶋田論争の発端ともなった嶋田啓一郎の「社会福祉と諸科学」では「われらの社会福祉研究は人間行動科学の樹立に貢献する経済学・生物学・心理学・社会学・文化人類学等の諸科学を基礎とすべきことを知った」(嶋田[1960:30])と述べられている。最近では福富昌城が、ケースワークのアプローチに影響を与えた理論として、「文化人類学、危機理論、コミュニケーション理論、発達心理学、家族理論、ゲシュタルト療法、組織理論、現実療法、ロジャーズ心理学、小集団理論、社会葛藤理論、社会役割理論、社会科学理論、サリバン理論、システム理論、交流分析など」(福富[1994:72-74])を挙げている。ちなみに、Psychosocial Approach in the Encyclopedia of Social Work(1995)には、「一般システム理論、生態学、フロイト理論、自我心理学、対象関係論、認知理論、コミュニケーション理論、家族や小集団理論、役割理論、組織論など」(Goldtein[1995:1949])としている。また標準的な教科書の一つとされる『新・社会福祉学習双書』でも、それを全面的に肯定している(福山[1998:40])。
7) 「社會事業的救濟に理論的吟味を要しないといふのは、醫者が病人を治療するのに、病理的究明を要しないといふのと同一からである」(藤田[1933:25])とある。
8) 学際的研究、インターディシプリナリーと形容されるものが「流行現象」といわれたのは1960年代以降である(Sherif,M and Sherif,C.W.(ed.)[1969])。もちろん、学問が専門分化をする以前、全体的な視野を失う以前にさかのぼると、「学際的研究」の原始形態を確認することは可能である。
9) 戦時の「社会事業」に関して吉田久一は、「ドイツのファシズムに比し、いわゆる特殊日本型ファシズムがその特徴である。そして、社会事業が獲得しはじめたその社会性や人格性も後退、放棄が迫られた」(吉田[1994:166])という。ここで、「論理的厚生事業論も、その理論的放棄を迫られ、理論的に破産した」(吉田[1994:168])とされる。いうまでもなく、当時の理論構築は常軌を逸するものであったが、今日の社会福祉学の一部と平行性を有するもので、本格的な反省がなされていないと筆者は考えている。木田も戦前の理論的同一性を指摘している(木田[1967:51])。
10) 戦後でも、施設職員への恋愛感情の高まりから自殺するに至った少年をめぐって、その原因を他の男性職員が「遺伝的精神病質人格乃至は自殺愛好者ではなかったろうか」(大久保[1955:64])と述べている。また、浅賀ふさも、日本福祉大学の学内テキストを出版した『ケースワークの要点』において、クライエントの生活暦の調査をする際、そのポイントとして「遺伝的要因」の項目を挙げている(浅賀[1971:5])。
11) 加藤博史は社会福祉学界の先駆者たちの多くが優生学を支持した史実に関して、「これは単なる偶然ではなく、また歴史的制約に帰すべきものでもなく、社会事業の一面の本質と深く関連しているものと捉えるべきであろう」(加藤[1996])と述べている。
12) 同懇話会が定めた「社会事業学部設置基準」では、アメリカ社会事業学校連盟が1944年に決定したカリキュラム規準、いわゆる「基礎8科目」(basic eight ソーシャル・ケースワーク、ソーシャル・グループワーク、コミュニティー・オーガニゼーション、公的福祉、ソーシャル・アドミニストレーション、社会調査、医学知識、精神医学知識)が「事実上モデルとして紹介された」(今岡[1976:23])。木田徹郎と今岡健一郎は、その基礎8科目がアメリカにおいて大学院レベルで教授され、それが先進的な地域のみで試みられていたのに関わらず、日本における大学の社会事業学部カリキュラムの標準になったと批判的に指摘している(木田[1967:399]、今岡[1978][1976:23-24])。
13) 現日本社会事業大学研究科。GHQからの指示により厚生省を中心に「社会事業学校設立準備委員会」が発足したが、発足後3ヶ月目に開校した。戦後の社会福祉教育の記念すべき再出発であった。
14) この「蓄積」は実体としての研究の集積を表現するものである。これまで多くの社会福祉の関係者から、「科学化」、「発達」とされてきたものを指す。
15) リッチモンドがそれ以前に同様の発言をしていたとしても、注目され始めたのはフレックスナー報告だったといっていいだろう。
16) 例えば、木田徹郎はアメリカ社会事業における技術論の推移を5つの時期に区分している。そこでは、@友人的訪問者期(〜1917年)Aリッチモンドによる社会事業の科学的体系化(1917〜1920年)B心理学重視期(1920〜1930年)Cフロイド主義全盛期(1930〜1940年)Dフロイド左派ないしフロイド万能主義への批判期(1940年以後)に整理した(木田[1956:3-39])。
   また、岡本民夫はケースワークの発展史を6つの時期に分けて考察しているが、@ 萌芽期(1870年以前)A胎生期(1870年頃〜1890年頃)B基礎確立期(1980年〜1917年頃まで)C確立期(1917年〜1920年頃まで)D発展期(1920年〜1940年頃)E反省・統合期(1940年頃〜)としている。
17) ここで、直ちに精神力学パースペクティヴに属するものと即断できない。「個人的」(Richmond[1922=1991:59])、「人格的特性」(Richmond[1922=1963:94])つまりPersonal character の「パーソナル」に関する解釈をみると、日本の戦時中に存在した「優生学」支持陣営と大差ない。「〈パースナリティ〉は、人間における生来的・個人的(individual)なものを意味するだけではなく、教育や経験、さらに他人とのかかわりあいによって身につけたすべてのもの、つまり一個の統合体を意味するからである。体質的遺伝、つまり受けつがれた普遍の生来的な特質は、個人的なものである。しかし、われわれが、毎日の生活において、個人的なもの(individual)につけ加えることができ、われわれの血肉たりうるあらゆる部分の社会遺産や環境は、人格的(personal)なものであり、その全体が〈パースナリティ〉が形成していくのである」(Richmond[1922=1963:87-88])。
  さらに、リッチモンドはフロイトに対して否定的だったことから、当時支配的であったフロイト的パースナリティ論を彼女がここで展開させているとは考えにく、限定的なものであった。ここで、フロイト以降とは異なる〈パースナリティ〉の定義を考慮しなければならない。そうすると「リッチモンドによって詳述された心理・社会的ケースワークの線」(小松[1993:72]、Bruno[1957:186-187])というときの「心理」にも慎重に取り組まなければならない。
18) リッチモンドのケースワーク論は、精神医学やフロイト精神分析を取り入れなかったため、「『精神医学の氾濫』のなかで育った世代から疎んじられ、しだいに背後に追いやられるようになってしまった」(小松[1993:73])。
19) 「この7つの要因」を要約すると、
@ 19世紀後半から1910年代なかばにかけて隆盛を極めた、セツルメント活動を中心
とする「社会改良主義者」の主張が(リッチモンドは1905年から1924年までを「失 意の時代」(Richmond[19=1979:67])と告白している)、1920年代の経済的繁栄、つまりは資本主義の勝利のもとに急降下していったこと。そして、「物質文明によいしれた多くの国民のなかに、精神的頽廃と心理的苦痛をもつものが多数出現し、心理的な「治療」を求める人々が多くなった」。
   A1909年、フロイドとユングがクラーク大学創立20周年記念に招聘され、彼らの
    心理学が一代ブームとなったこと
   B「第一次世界大戦にみられた『砲弾衝撃』による戦争神経症へのフロイド学説の
    応用」が大きな関心として浮上してきたこと
   C「第一次大戦中、軍関係病院や野戦病院にアメリカ赤十字(American Red Cross)
    が大量のソーシャルワーカーを派遣し、前述の戦争神経症の多発に対応していた
    が、なおも人的資源の調達に多くのワーカーを必要としていた」。とあるように、
    心理学的手法を用いたソーシャルワーカーの需要が戦争を期に、高まっていった
    こと。
    「このワーカーの需要の高まりに呼応して、1918年、スミス単科大学(Smith
    College)ソーシャルワーク大学院に「戦闘神経症やその他の神経症を病んでいる
    兵士たちのリハビリテーションを援助する精神医学ソーシャルワーカーの訓練学
    校」が開設され、教育と研究がすすめられていた(岡本[1973:38])。そこで、
    初めて社会福祉領域内でフロイト心理学が講じられた(Howe[1992:60])。
   D戦争がもたらしたクライエントの特殊性。「物質的・社会環境的要因よりも、むし
    ろ、心理的・精神的問題をもつ」者を対象にしていったため、「心理学的精神医学
    的知見をケースワークに導入・採用」(岡本[1973:39])することとなったこと。
   E1920年代後半、ナチスに追われた精神分析学者が多数アメリカへ移住してきたこ
    と。
   F「児童問題の領域では、治療単位が家族よりも、個々の児童に関心が集中し、児
    童問題の心理的要因がとりあげられつつあった」(岡本[1973:40])こと。  

20) 戦時における軍事活動への参加は、他の科学・技術の専門職業化の過程においてもしばしばみられる現象で、それを契機に劇的な発展や変貌がもたらされる(奥田[1992:38])。
21) 数あるソーシャルワーク理論を比較検討することはできないという、ソロモン(Solomon,B.B.[1976])の意見もある。
22) フロイトは、「一時的な本能衝動が乳児から成人に至るまで段階的にその質が変化すると考えた。本能衝動は全ての行動の源泉であるが、それは快を求め不快を避ける(快−不快原則)のを本質とする。乳児期の初めは、さまざまな皮膚刺激に快を感ずるが、とくに口・唇で母親の乳房を吸うことがその中心となる。その後2歳頃までは便をなめたり排泄する肛門の感覚が、3歳頃にはペニスまたはクリトリスをこすることが快感の中心となるとし、それぞれ口愛期、肛門期、男根期とよんだ。この快感は広義の性的なものであり(小児性欲)、この3期では自分の体の感覚だけを求める点で自体愛とよばれ、後の対象愛の時期(性器期)と区別される。各期に欲求不満があると固着が起こり、その気の特性あるいはその昇華や反動形成を中心とした人格となり、また成人した後でも障害にぶつかると、その期への退行現象が起こりやすい」(近藤[1978:376-377])。
23) 「エス(イド)は、生物として遺伝的な本能・衝動・欲求であり、全ての心的エネルギーの源泉である。エスは未分化で、その内容や対象は圧縮や転化を許し、ただむやみと快を求め解放を求めている。自我はエスの一部が現実にふれて変化したもので、現実を認識して順応し、エスする働きをもつ。超自我は両親や権威者のしつけ・教育を内部にとり入れてできたいわゆる良心であり、自我を道徳・規範・理想をもって監視する。自我と超自我は、エディプス期になってわがままをおさえる働きとして強化される。健康な人格の基本条件は自我の強さである」(近藤[1978:376])。
24) フロイトの精神分析を取り入れたケースワークの伝統的なアプローチ。その援助過程は、インテーク、社会調査、社会診断、社会治療と展開される。
25) この「『機能』という言葉は、社会福祉機関がその形態と方向において実践に与える機能を強調するため、適用された」(Payne[1997:86])。病理を診断し、問題を取り扱うよりも、機能主義者は、個人の成長を遂げるクライエントを手助けすることを強調する。そしてこの理論は医療モデルの形態を取ることを避けることができ、積極的で将来を見据えた変化を強調するものであった。
26) 杉本照子は、ロビンソン(Robinson, V.P.)の『ケースワーク 心理学の変遷』の「訳者あとがき」のなかで、「理論的には、機能主義と診断主義のちがいを指摘することはできよう。しかし、実践の場において、それほど差を見いだすことは困難である」(杉本[1969:212])と述べている。
27) フロイト全集を訳出した懸田克躬が「社会事業家のために」著した「精神医学概説」(懸田[1951:36-37])をみると、戦後しばらくは優生学的な言説がそれを支配していたことがわかる。精神病の原因として「内因」と「外因」とに分け、内因の主なものとして「遺伝」、外因の主なものとしては「伝染性疾患」が挙げられている。
28) 戦争が与える子どもへの心理的影響については、盛んに研究された。アンナ・フロイトは子どもを空襲の危険のある都市から郊外へ疎開させるべきか否かの問題について、「両親への愛情は非常に大であるので、児童を突然母親から離すということは、家庭を崩壊させる以上にショックがある」(Freud,A.[1942:50])と述べている。他にも、ロレッタ・ベンダの影響も大きい(Bender[1968=1968:347-375]、池田[1954:650])。
29) ここで社会事業の専門家は温かい「母」の性格を感じさせることが重要であるということも、フロイト主義的専門家観と相違はない。ソーシャルワーカー=母親的役割については「心理主義の専門家観」参照。
30) 歴史的に日本でも戦前から社会福祉領域に「予防」が存在したが、その多くはロジックではなく、医学的範疇における病気や伝染病の予防、優生学的意味での予防など、直接的なものであった。
31) 専門職としてのソーシャルワーカーの黎明期においては、この対となるものとして精神医が「父親的役割」(小松[1955:42])をはたした。小松源助は、この精神医の協働者としてのソーシャルワーカーは「いわば旧い家父長的な隷属関係のもとに追いやられ」、実務上は「きまりきった成育史の蒐集者、臨時の雑用の遂行者」(同上)に成り下がっていると批判した。
32) Germainは次のように述べている。「生態学的視点は、生物学(生態学と進化論を含めて)、文化人類学、社会心理学、行動科学など、幅広い知識と数々の理論を必要とする。生態学的視点は、人口理論、公衆衛生学、組織論、コミュニケーション理論からも学んでいる」(Germain[1973=1992:8])またEncyclopedia of Social Workの‘Ecological Perspective’(Germain[1987])の項で、生態学的視点を「それ自体に思考が進化するシステム」であるとし、「新しい理論や知識に対して門戸を開いて」いると述べた。つまり、「『生活モデル』には、さらなる要素がつけ加えられ、修正されて進化していく」ことが想定されているのである。
33) ジェネリックなソーシャルワーク教育に関しては、ロンドン大学経済政治大学(LSE)の社会科学部の一コースとして実現された「カーネーギー・コース」の存在は大きい。そのコースは、1954年から4年間、試行され、そのカリキュラムは現存するイギリスのソーシャルワーク教育の原型である(津崎[1987])。
34) ハウは“The Fixers”に対して批判的であることを確認しておきたい。
35) サイポリン(Siporin, M.)によると、一般システム理論は1950年代に脚光を浴び、1960年代半ばにソーシャルワーク理論の寵児となった。そして、1960年代後半から1970年代初頭にかけてゆきづまり、「生態学的視点」の導入となったとされている。
36) 交互作用とは、個人と環境との間におこなわれる交互交換。一方的に片方が他方に働きかけるだけの、直線的な因果関係を指す、相互作用(interaction)とは異なる。
37) 最近、ライフモデルのモデルは、技術的な意味を持つものではなく、「生活過程(life process)にならってつくられる実践」を指すと新たな注釈が与えられている(平塚[1995:169])。
38) もちろん、システム−エコロジカル理論からの応酬も用意されている。『社会福祉理論の検討』(松井[1992])のなかで、システム理論をX理論に位置づける松井二郎も、それまでの理論枠組みを駆逐している。


  


■第3章  幸福な「科学」化の終焉

第1節  反専門職主義の嵐

「反専門職主義」の台頭

  これまで第1章では、フレックスナーという人物の検証を通じて、「科学」としての社会福祉学の原型が20世紀初頭に確立されたことを述べた。その際、医学という学問形態はその鋳型ともいうべき存在であり、それを踏襲することにより理論上、ソーシャルワーカーの「専門職化」が急速に進んだ。そして第2章では、そうした社会福祉学の「科学化」がどのような展開をみせたか、代表的な3つの立場を中心に検討した。医学がそうであったように、社会福祉学は永遠の発展を期待されていた。少なくとも、社会福祉学者たちはそう信じていた。
  しかしながら、1960年代から1970年代にかけて、確立されて間もない(確立されたかさえも定かでない)社会福祉学、および社会福祉専門職に存命の危機が訪れたのである。この時、ソーシャルワーカーはクライエントを制御するもの、社会福祉学はそうしたシステムを維持させる装置であるとして糾弾された。かつ、この潮流は終章で検討する社会福祉学の「ポストモダン」論の伏線となっている。こうしたソーシャルワーカーを弾劾するいわゆる「反専門職主義」の興隆の要因として、1960年代後半に起こったアメリカの政治的、社会的な混乱の持つ意味は大きいと考えられている。

  60年代の貧困戦争・ベトナム北爆・福祉権運動・黒人の地位向上・女性解放運動・大学紛争などの波の中で、専門職は住民の信頼や要求に応えずして、保守的なエスタブリッシュメント(体制)に片寄っていると共に、自らの保身に汲々としていると批判され出したのであった。
(秋山[1988:92])

  山崎道子も同様に「1960年代の後半からのアメリカ社会」という状況が、ケースワークへ「激しい批判や非難を浴びせ」(山崎道子[1977:36])かけたとして、その時代背景を重視している(他にも、岡本[1985])。
  それは初め、他分野で発せられた批判であったが、しだいに社会福祉学の学術誌においてさえも疑問の声があがりはじめた。それは「基礎科学」の形式、あるいは「学際性」をその学問的成立の根拠とした社会福祉学の試練でもあったといえる。というのは、ソーシャルワーカーの存在を揺るがしかねない理論さえも、社会福祉学を支える土台のなかに容易に進入してきたのである。例えば、社会福祉学の黎明期において、リッチモンドの著作をみてもわかるように、「社会学」は社会福祉学の論拠となる社会科学の一つとみなされていた。しかしながら、しだいにこの二つの学問の間に亀裂が生じはじめる。特に、ラベリング理論や社会構築主義への関心が寄せられるようになってからは、その断絶は確実なものとなった。
  他学問における社会福祉専門職への懐疑のまなざしは、まず精神病患者の処遇をめぐる施設批判・専門家批判にはじまったとされる。ゴフマン(Goffman, E.)は『アサイラム』のなかで、「全制的施設」に収容された人たちが、その内部でアイデンティティーを剥奪され、無力化(mortification)1)されたうえで、「精神病患者」などのラベルを貼られる姿を追う。施設運営を遂行する施設職員は「人々と関わる仕事」をしながらも、彼らが働きかけるのは単なる「」(=クライエント)であって、「人々は何ほどか無生物的対象と同一の性質を帯びる」(Goffman[1961=1984:77-78])ことを解き明かした。こうした彼の研究は後に触れる「脱施設化」の思想にも大きな影響を与えている。
  イリイチ(Illich, I.)は『脱学校の社会』(Illich[1971])や「専門家時代の幻想」(Illich [1976])のなかで医者や教師と並んでソーシャルワーカーを名指しで批判している。彼の経歴をたどると、思想の背景となるものを垣間みることができる。彼は1951年から1956年までニューヨークのウエストサイドにあるインカーネーション教区でカトリックの助任司祭を勤めた。この教区はプエルト・リコ系移民が多く住む地域で、母国の文化や生活様式をそのまま維持して生活していた。そこへ、善意の白人ソーシャルワーカーたちが介入しようとするのだが、逆に反感をかう結果になる。なぜなら移民たちは「慈善の背後に、恩着せがましさ」と「軽蔑」(小澤[1977:214])を感じたからである。イリイチはこの時、「善意からにせよ、自らの信念を他人に強制することの弊害を意識するようになった」が、この時、彼の視線は少数民族の側にあったことを忘れてはならない。反専門職主義とは、いわば受動的なクライエントの側にまわりがちな、規範からこぼれおちる人々からの応酬であったということができるであろう。
  一方で、こうした反専門職の気運は福祉国家批判の本質と通底するものがある。ピアソン(Pierson, C.)は『曲がり角にきた福祉国家』のなかで、「福祉国家の危機」論以来「ニュー・ライト」や「ニュー・レフト」らが展開する「福祉国家批判」の批判をおこなう。「福祉国家批判」、つまり原題にもある「福祉国家を越える」ことへの志向は、しばしばフェミニズムや環境保護運動、反人種差別運動などの立場から提起されているが、ピアソンはこうした潮流への理解を示しながらも、次のように社会民主主義的な立場を貫く。

  二十世紀も末のこんにち、善意に満ちた国家権力の存在を、無邪気に語ることのできるものはいない。もし、二十世紀のもっともいまわしいふたつの専制、すなわちスターリニズムとファシズムの経験を想起するだけでは足りないというのであれば、おそらくフーコーによってもっともよく代表される、近代市民の日々の生活にたいする、常習的でこまごまとした国家の侵害の例を詳細に検討する伝統を想起すればよい。
(Pierson[1991=1996:401])

  ここでフーコーが標的にされているが、実際「社会政策学」(social pollicy)の分野でフーコーの著作を紐解き、一元的に国家管理される「福祉国家」批判の準拠点にすることは多い(例えば、Hillyard,P. and Watson,S.[1996]、Wilson,G.[1997])。同時にフーコーは「反省的学問理論」として、社会福祉学の領域においても引用されるが、それは技術的な社会福祉学批判、治療を志向するソーシャルワーカーを批判する文脈で用いられる。ここでソーシャルワーカーは、「微視的権力」の制御機関とされ、福祉関係施設は半ば「パノプティコン」の様相を呈するというふうに、フーコーの論が援用される(詳しくは、終章参照)。こうした潮流は英米では1990年代初頭から散見されるようになったが、日本ではまだ本格的に社会福祉学の範疇で議論されていない2)。
  この二律背反は実は1960年代に初めて問題化したのではない。社会福祉の存在そのものを、人々を苦境から救う善とみるか、人々を統制する悪とみるかという問いは、社会福祉学成立以来のものである。しかしながら、ケインズ主義的な福祉国家が樹立されて以来、1960年代半ばまで社会福祉学や、その専門職が本格的に疑問視されることはなかった。時期的に「政府が経済・社会問題に関してより大きな役割を果たすロールズ流のリベラルな社会正義の考え方に反対して、新保守主義の哲学者たちが最小限の国家という考えを主張し始めた」(Mishra[1990=1995:1])頃と重なるのも、偶然ではあるまい。

ソーシャルワーカー批判

  上記のような、社会福祉学領域内外における批判の高まりをうけて、1960年代には社会福祉学研究者が自らその建て直しを企図する論文を発表し始めている。その発端となったのが、1967年の全米社会福祉会議(National Conference on Social Welfare)で報告されたブライア(Briar, S.)の「ケースワークの現代的危機」であろう。そして同年、パールマン(Perlman, H.)によって「ケースワークは死んだか?」(Casework is Dead?)が“Social Casework" 誌に発表された。
  この頃、外圧となっていたソーシャルワーク批判に応対する研究が立て続けに世に出たが、社会福祉学の領域でなされたそれは、二つの方向へと展開されていったと考えられる。一つは、その批判を心理主義ソーシャルワーク傾倒への批判と読み取り、独自の「発展」を志向するもの。もう一つは、外部での批判をほぼそのまま移植し、その「専門職性」を一新したものである。
  まず第1の方向は、パールマンに代表される、それまでの「精神医学の氾濫」傾向を非難する方向である。つまり、彼女が論文で「ケースワークは死んでいる」と断言する場合、「社会的な措置と予防の面、制度の改革」(Perlman[1967=1971:88])などが存在しないなら、という条件が付される3)。個人の内面に大きく傾いていた「振り子」は、ここで個人と社会の中間付近まで振り戻ることになった。マイルズ(Miles, A.)が心理偏重の流れを憂い、リッチモンドへの回帰を提唱する、それと同じ文脈へと「批判」を読み替えていったのだ。そしてこれは第2章4節で検証したソーシャルワーク理論のシステム−エコロジカル理論とも調和するだろう。
  1968年にパールマンは「ケースワークは効果を上げ得るか」(Perlman[1968])という論文をまとめるが、ソーシャルワーカーの効果測定調査が、その無効性を立証した問題に関して検証している。反ソーシャルワークの立場のものがよく引用した『職業訓練学校の非行少女の調査』(Meyer, H.J. et al.[1965])では、「ケースワーク処遇」をうけた少女とうけない少女たちとの間に、それほどの有意差がみられなかった結果が発表された。また、『複合問題のジレンマ』(Brown, G.J.(ed.)[1968])ではソーシャルワーク修士の学位を持つものと、一般の訪問調査員が扱ったケースの間にも、差異はみられなかったことを明らかにされた。
  パールマンはこれらの調査に対して、いかなる状況、問題の種類、条件の下で効果があるか、について明確にされるべきであるとした。そのうえで、社会福祉専門職にも「社会」的な視点や行動が必要であると力説する。こうしたパールマンの主張は、以前から強調してきた「問題解決過程」4)へと帰結していくのである(例えば、Perlman[1952][1957])。彼女のソーシャルワーク批判に応えた一連の著作は、結局「ソーシャルワークを巡る知識ならびに技術体系」(奥田[1992:51])の変革に留まるものといえ(他にも、岡本[1985:79])、振り子を社会の側にもどすという技術論上での変革に制限されている。
  また、ソーシャルワーカーの有効性の有無に関する調査は、後にも継承され、1972年にも“The Social Service Review”誌で特集が組まれた(Mullen, E.J. et al.[1972]、Berleman,W.C.et al.[1972]、Reid,W.J.and Smith,A.D.[1972]、Wilkinson,K.P. and Ross,P.J.[1972])。これらの調査結果は全てケースワーク・サービスやその技術としての有効性を反証するものであった5)。しかしながら、これらにおいても、精神力動ソーシャルワーク理論に基づく実践の限界を示したものに止まり、ソーシャルワーカーの全活動を必ずしも悲観したものではない。例えば、ムランらは、家族への専門的ソーシャルワーク介入の有効性は測定できなかったと理論づけてはいるものの、「システムズ・パースペクティブに基礎をおく、異なる介入」(Mullen et al.[1972:321])に解決策をみいだしている。つまり、特に社会構造が生む貧困が問題の場合、心理主義的なカウンセリングのみではなく、「社会的なるもの」をも含む、「システム−エコロジカル理論」のような視野が必要だという主張に終着する。
  第一の方向とは、以上のようにソーシャルワーカー批判を「精神医学の氾濫」への非難として捉え、ソーシャルワーク理論の「発展」を摸索する。これらを概観すると、古典的な「個人」と「社会」との対峙を踏襲したものといえる。そこで第一の方向を志向するものたちが、後に歴史的な一貫性をリッチモンドに求めたのは賢明な方策であったように思われる。
  次に、社会福祉学領域における「ソーシャルワーカー批判」論考の第2の方向として、領域外での論調をそのまま移植する方向が考えられる。「反専門職主義」が専門職の論理的基盤となることは「反省的学問理論」に通ずる矛盾を孕んでいるが、これが社会福祉専門職、そして社会福祉学の表現形態を大きく転換するきっかけとなった。「反専門職主義」の精神が社会福祉学の仔細な部分に至るまで、いかにその性質を塗り替えていったかは第3節に譲るとして、専門職観について、それををどう変化させてきたのであろうか。
  1971年発表の「社会福祉士法制定試案」に関する議論の際、社会福祉士の専門性が議題の中心に据えられたが、グリーンウッドの「専門職の属性」(Greenwood[1957])がしばしば引用された。例えばこうした属性に反専門職主義者は批判のまなざしを向ける。グリーンウッドは体系的な理解、専門職的権威、社会的承認、倫理綱領、専門職的な副次分化からなる5つの「専門職の属性」をあげ、「専門的な関係では、専門家がクライエントにとって何が善く、何が悪いかを指示するが、クライエントは選択をせず、専門的な判定に同意するだけである」(Greenwood[1957=1972:184])と主張する。
  それに対し、秋山はこうした「過度の専門職への依存・服従」(秋山[1988:93])がこれまで多くの弊害を生んできたとして、批判を加える6)。こういった主張は、「ソーシャルワーカーは社会の医者」というような表現が成立する言説とは、異なる位相にあるといえよう。反専門職主義は、第2章で述べたような「科学」のみを純粋に精緻化する研究活動を相対化する局面へと誘ったのである。また、フェミニストからの批判も、こうした幸福な「科学」化の終焉を促したという意味で、同様のことがいえる。そこでは「賃金を含む職業上の差別等<組織としての差別に関すること>、女性クライエントにステレオタイプの性役割を期待する等<ソーシャルワーカー自身が持つ性差別に関すること>」(杉本[1993:37])が批判の対象となっていった。
  こうした反専門職主義の高まりを、精神力動ソーシャルワーク理論への批判と読み替えずに受け止めた社会福祉の研究者は、それまでの専門職観を完膚なきまで否定され、新しい専門職像の模索を強いられた。そこで、新しく起こった運動や活動を社会福祉学の領域に持ち込み、専門家としてのあり方を再構成するという、自らの同一性を危うくする作業をここでおこなっていった。
  具体的には、自立生活運動(IL運動)や脱施設化運動、セルフヘルプ活動、ノーマリゼーションの思想7)といった存在が、「科学」のみを追究してきた社会福祉学に新風を吹き込んでいった。以下では、自立生活運動に代表される専門職制への本質的な対抗勢力を概観してから、第2節でその経緯を辿り、反専門職主義のイデオロギーが孕むある「よじれ」を問題視していきたい。それは「ホスピタリズム研究」という具体的論題を中心に交わされた議論を通じておこなわれる。そして第3節では、こうした風潮をうけていかにソーシャルワーク理論が再調整されていったかについて検討したい。再調整がおこなわれたソーシャルワーク理論の「よじれ」とは、本論の主題に据えられている「反省的学問理論」のアポリアと通底するものである。

自立生活運動 ─リハビリテーションへの疑問

  「自立生活運動」という言葉は、「それまでの障害者福祉の概念を大きく覆すものであった」(小山[1997:82])と認識されている。そして現在、社会福祉学の教科書のなかにもよく登場する概念である。

  問題の所在は、障害のある障害者自身にあるのではなく、その当たり前の生活を阻む環境の側にあると強く訴え、ADLの自立や経済的自活ができなくとも必要なサービスを正当に消費しながら、一個の人間として自己選択、意思決定を行い生活していけるはずと考えられたのである。
(小山[1997:82])

  ここで「自立」という語が指す意味が現在では広範なものになっていることが伺えるが、誰の「自立」なのかについても同様のことがいえる。大泉溥によると、自立理念は障害者の自立のみに当てはまるのではなく、高齢者や子ども、女性など社会福祉全般に共通するものとされている(大泉[1989:121-123]、定藤[1993]も同様)。そしてこうした概念は現在の社会福祉学、そして第3節で触れるリハビリテーションの体系に融和しているかのような印象をうける。しかしながらそもそもの「自立生活運動」とは、歴史的に社会福祉の学問のアンチテーゼとして存在したのであった。
  自立生活運動の歴史的発端として、1962年にアメリカのカリフォルニア大学バークレー校に入学したエド・ロバーツ(Roberts, E.)らの始めた生活があげられる。大学構内にある学生保険センターの一室で生活し始め、1972年には州からの援助をうけるまでとなり、対象を学生に限らない自立生活センター(Center for Independent Living:CIL)が発足されるにいたった。そして多くの場合、この運動が全米の大学都市に波及し、日本にも影響が及んだと説明される(その見解に違和感を示したものとして、立岩[1995a:70-74])。
  こうした自立生活運動の潮流とは、本質的に社会福祉の専門職化と永遠に平行線をたどるものであった。この運動は、「当事者たるべきは彼ら自身であることを明確にし、専門家による政策立案、サービスの提供を批判し、保護され管理される者としてではなく、消費者としてサービスを受けるべきことを主張する」(立岩[1995a:72])からだ。定藤丈弘は障害者の自立生活の理念について述べるなかで、同様の見解を示している。

  自立理念の共通の原動力になっているのが、医療・福祉スタッフなどの専門家主導のこれまでのリハビリテーション施策が障害者の反福祉や依存性の助長につながったとする「反プロフェッショナリズム」の思想であることは指摘するまでもない。
(定藤[1993:19])

  またアパルトヘイト反対運動に参加し、イギリスに亡命した障害者、フィンケルシュタイン(Finkelstein,V.)もコミュニティケアを講ずるなかで、専門家や「医学的なリハビリテーション」へ懐疑の念を顕わにしている(ヒューマンケア協会編[1998:48-62])。
  彼らが攻撃の対象とする、主導権や決定権を手中に収め、障害者を制御のもとにおく「専門家」とは、具体的に例えば「リハビリテーション」を施す治療家をあげることができる。しばしばこの「リハビリテーション」自体にも、批判の矛先が向かう。そしてその矛の向かう先には体系的な学問と、その学問集団が明記されることもある。須田雅之は次のように指摘する。

  僕の理解では全障研の人たちは、障害者固有の肉体をあくまでも治療とリハビリテーションの対象にしている。つまり、“障害”を除去、改善、克服するべきものとみなしていて、健常者の肉体に一歩でも二歩でも近づけていこうという発想を持っている。障害者イコール不完全、健常者イコール完全という図式で、擬似的科学的な社会進化論のような発想で見ているんだよね。
(須田他[1998:119])

  この談話のなかで問題にされている「全障研」とは、「ごりごり」であるとされた「発達保障論者」中心の「全国障害者問題研究会」を指す。その発達保障論が拠り所とする機能訓練では、施療の対象は障害者であるが、「自立志向の障害者」にとって、その待遇は二重にバリアされた境遇でしかない。障害者は、本来のハンディーキャップに加えて、専門家に支配されるという「被害」に遭うのである。そして「専門家支配」の後遺症は、心理的なもののみならず、過度の機能訓練がもたらす身体機能的なものにまで及ぶとされる(須田他[1998:119])。
  「スーパーマン」を演じた、俳優のクリストファー・リーブは、1995年の落馬事故で脊椎損傷を持ち、車椅子での生活を送っている。その彼に集中する障害者からの批判8)をみても、障害者運動、ここでは障害文化(ディスアビリティーカルチャー)と「リハビリテーション」との本来的な不可侵の関係は明らかである。リーブは「医学の新時代に入り、脊髄障害の治療法確立も間近だ。そうなれば車いすに頼っている多くの人が立ち上がって歩くことができる」(朝日新聞1996年1月13日)などと発言し、治療やリハビリテーションの発達、推進にのみ精力を傾けている(長瀬[1998:205])。こうした姿勢が「障害をひとつのかけがえのない個性として受け入れ、ありのままの自分をまるごと一気に肯定する生き方」(岡原・立岩[1995:159-160])を選択した障害者たちの反感をかうのは歴然としている。彼らは「(障害を)置き換え可能な部品の故障と考えたりしないで、障害を『自己領域』から追放するのではなく、全てを『私らしさ』として受け入れいとおしんでいこうとするのである」(岡原・立岩[1995:160])。
  このように障害を「私らしさ」として受容することを、「障害=個性論」と称されることがあるが(その他に、土屋貴志[1992])、これに対する批判は無論存在する。全国障害者問題研究会の編集する雑誌『障害者問題研究』において、茂木俊彦は「障害=個性論が否定したり拒否したりするのは、障害に関する各種専門職による機能・形態障害、能力障害の軽減に向けた意図的・系統的な取り組みであり、それを可能にする社会制度と諸施策である」(茂木[1998:28])として、次のように論じた。「現在のdisabilityをあるがままに受け入れるのではなく、一方では治療、訓練、教育等の取り組みによって、他方では社会的条件の改善によって軽減すること」は、「活動の範囲、自由度を拡大することにつながる」ことに注目すべきであるという。ここで茂木は、障害者を「発達する権利をもつ」主体として捉えるべきだと主張する(茂木[1998:31])。また、上田敏と大川弥生のいう、「障害者の現状を『解釈』するためではなく、それをよりよい方向に『変える』ためにこそある」(上田他[1998:4])という障害論も、アンチ「障害=個性論」の立場といえよう。
  ここでは、彼ら「発達保障論者」が専門家として、自信を持って反専門職主義に立向かっている姿が伺える。一方、ソーシャルワーカーたちが専門家として「障害=個性論」を全否定することはついになかった。逆にそれを社会福祉学の体系に取り込み、「反省的学問理論」として再生させたのである。以下、1960年代、1970年代に盛んになったこれらの潮流が、社会福祉学の体系化、専門職化と逆行するものとして論を進める。


第2節  脱施設化運動

社会運動としての脱施設化

  この「脱施設化」(deinstitutionalization)という語の意味内容は時間とともに変容し、現在の解釈もいくつか存在する。deinstitutionalizationという用語自体はアメリカにおいて州立精神病院の患者の処遇をめぐって初めて用いられた。その歴史は1939年に州施設局長に就任した精神科医ロザノフが、精神病院の過密状態を解消させようと大規模な仮退院制度および仮退院患者に対するアフターケアが導入されたことにまで溯ることができる(Lerman[1982:82-85]、杉野[1994:19-20])。
  シーレンバーガー(Scheerenberger, R.C.)は米国全国公立精神遅滞者施設長会会長を経験し、脱施設化に関する著書が多数あることで有名である。彼は「施設入所者は、療育の目標を達成するために、最も制約の少ない条件を享受する権利を有する。この目的のため、施設は入居者が次のように移動できるようにあらゆる努力を払わなければならない」とし、次の6点をあげた(秋山[1981:42])。

@ 規制の多い生活から少ない生活へ
A 大きな施設から小さな施設へ
B 大きな生活単位から小さな生活単位へ
C 集団生活から個人の生活へ
D 地域社会から隔離された生活から、地域社会の中で統合された生活へ
E 依存した生活から自律した生活へ(Scheerenberger[1977:4])

  現在、以上のような理解が一般的になっているが、これは日本における脱施設化運動の現実路線、あるいは初期北欧型ノーマリゼーション(第3節参照)の理念の反映であるといえる。とはいえ、なかには施設を全く否定し、グループホームや自立生活などへと完全に移行するべきであるとする極端な立場も現存する。例えば日本初の本格的なILセンターであるヒューマンケア協会の事務局長、中西正司も完全移行を支持する一人である。彼は「施設の存在を前提にしたコミュニティ・ケア」は、「非常に中途半端なもの」(中西[1993:52])であるという。なぜなら、次のような施設観があるからである。

  施設はどれほど改善したところで施設である。施設と保護・管理は切り離せないものであり、それは自己決定、自己選択によって生きる自立生活とは相反する原理で動くものである。
(中西[1993:52])

  脱施設化の萌芽がみられた頃、アメリカでは第二次世界大戦や朝鮮戦争などの後遺症を負った元兵士も含めた精神病患者が多数存在し、政府はそれを重大な国家的課題であると認識していた(野嶋[1988:74])。このような状況のなかで1955年、精神病および精神衛生連合会議(Joint Commission on Mental Illness and Health)が設置され、1961年に精神衛生方策(Action for Mental Health)と呼ばれるレポートが議会に提出された。1963年の第8議会においてケネディー大統領が関連演説をおこない、同年には精神薄弱者施設および地域精神衛生センター建築法(Mental Retardation Facilities and Community Mental Health Centers Construction Act)が成立する(野嶋[1988:74]、秋山[1989:151])。
  杉野昭博によると、初期の脱施設化運動が盛んになった要因を究明するための分析枠組みは二分されるという。すなわち、社会イデオロギーが専門職のサービス実践モデルの変革を促したとする「実践革命論」と、社会統制のコスト追究が脱施設化をもたらしたとする「財政改革論」という2つのフレームである。そのなかで、脱施設化の促進要因については、以下のようにさまざまに論じられてきた(杉野[1994:17-19])。
  まず、「実践革命論」の代表的存在としては、キャスリーン・ジョーンズ(Jones,K.)の分析があげられる。彼女は1950年代以降のコミュニティーケアの発展について、@精神医薬の登場9)、A病院における開放治療の実践、B精神障害法制の改正という「3つの革命」によって説明する(Jones,K.[1972:291,304])。後に彼女は、逸脱理論やノーマライゼーション理論などの普及、さらに1960年代の社会改良主義や、1970年代の財政危機による反福祉国家の潮流なども大きな要因だったとしてそれに加えている(Jornes,K.[1988:82])。一方、「財政改革論」を展開するアンドリュー・スカル(Scull,A.)は、ジョーンズの@とAの説明要因を排除し、財政的要因のみが脱施設化を説明できるものという主張をおこなっている10)。

  いずれにせよ、アメリカ・カリフォルニア州やマサチューセッツ州を中心にした、精神病院からの「脱施設」の場合、それは施設から施設への移動を引き起こしたにすぎないという指摘がある(Talbott, J.A.[1979])。また、脱施設化運動の高まりを経験した後も、精神障害のために長期間施設に入所している者の割合は変わらないという報告もある(Kramer, M.[1977])。ゆえに、脱施設化運動とは施設の経済的、物理的な機能よりも、精神病院の持つ社会的な逆機能の方を重視する傾向にあり、その思想的な要素は相対的に重要なものとなるであろう。脱施設化運動の勃興とは、精神病患者というカテゴリーと、それを対象とした専門的処遇プロセスを消滅せしめようと試みるイデオロギー的パフォーマンスであったといえる。
  アメリカにおいて1970年代に急進的な脱施設化へと導いた1つの要因は、1960年代における「反施設主義イデオロギー」(杉野[1994:21])の展開であった。この反施設主義イデオロギーは、逸脱社会学とリベラリズムという1960年代の社会理論に生を受けている。ベッカー(Becker,H.)に代表されるラベリング理論を、ゴフマンやシェフ(Scheff,T.)ら多くの社会学者たちは、精力的に「精神病患者」をその対象に適用していった11)。またローゼンハン(Rosenhan,D.L.)らは、精神病患者を演技することによって、入院することができた事例を取り上げ、精神医学の診断基準のあいまいさを指摘した(Rosenhan[1973])。彼らはそれらを通して、施設化への問題提起をおこなっていく。一方、リベラリスト12)たちによる精神医療批判のほうは、彼らは精神病院という存在を「『精神医療』に名を借りての国家権力にによる個人の自由に対する統制」(杉野[1994:22])として捉えた。そこでは、それからの解放が第一目標となる。
  こうした反施設主義イデオロギーの成果ともいうべきであろうか、現在「自立生活」という「新しい」概念が「クライエント」にすぎなかった人々を支えている。そしてその精神は現在、社会福祉学のすみずみにまで浸透しているといえよう。
  しかしながらその「自立」とは歴史的な経緯において、専門家による「治療」的行為の一手段として用いられることもあった。それは、反施設主義イデオロギーの存在を希薄化する存在のようにみえる。例えば、治療としての「自立」や「脱施設」の存在は、自立生活を送ることによって「保護・管理」から解放されるとする中西正司の想いは救われない。反専門職に起源をもつ「自立」と、専門職的な営為のなかに起源をもつ「自立」の両者は、眼前にある問題に取り組むとき、複雑に絡み合う。
  今でこそ違和感のあるこの「よじれ」について、児童福祉分野でなされた「ホスピタリズム研究」を具体的に検討しながら以下で考察していきたい。この、ホスピタリズム研究という蓄積は、子どもの処遇の「脱施設化」と関連するものである。

ホスピタリズム研究にみる「脱施設」の文脈

  20世紀初頭の西欧におけるホスピタリズム研究が、内科学から小児科の分化独立を促したとされている(金子保[1994:193])。ホスピタリズムとは、施設入所児童が示す独特の病理または症候群のことを指し、19世紀末の死亡率が100%に達することもしばしばあったことを問題視し、「戦力増強」という歯に衣を着せない目標を掲げたことに起源をもつ。この概念の発見は、第4章、5章で検討する、子どもに対するまなざしの変化を契機にしていることを確かめておきたい。
  日本では1950年代に、社会福祉学領域でのホスピタリズム研究が盛んになったが、金子保はウォルグレン(Wallgren, A.J.)の分類を用いてこの時期における研究を「ニュータイプ・ホスピタリズム」(金子保[1994:190])であるとした。ウォルグレンは、西欧における研究を「1930年代を境に、それ以前を身体的症状を主とするオールドタイプ・ホスピタリズムとし、それ以後を精神症状を主とするニュータイプ・ホスピタリズムと呼んで区別」した。日本では、「昭和30年代」(金子保[1994:191])に、子どもの心理を問題とするこのニュータイプ・ホスピタリズムが西欧に約20年遅れて浮上したのである。
  早くは岡山孤児院の石井十次や、家庭学校の留岡幸助もこのニュータイプ・ホスピタリズムに腐心したといわれている。そこで「ホスピタリズム」もしくは「施設病」(institutionalizm)といえば、主に児童福祉施設に関心がおかれていた。1952年から1954年には厚生科学研究費による研究助成費が『ホスピタリスムス13)研究』に支出され、ホスピタリズムの実態とその予防および治療についての対策が共同研究された(社会事業研究編[1954])。これらの研究成果は、1956年に出された「養護施設運営要領」へと結実し、その後の施設養護の方針を方向づけることとなった。
  黒木利克によると、こうした議論はGHQのマーカソン(Markuson, A.H.)が発表した論文「児童養育上考察さるべき諸問題」の存在が大きいとしている。これは、ボールビーのWHO報告(1951年)にはじまる論議をまとめたもので、「正常な家庭環境の欠如は児童の健全な社会的、精神的、及び生理的成長を不可能にするとして、収容施設児童の人格形成について配慮すべきことを指摘」(窪田[1986:130])した。マーカソンはその論文のなかでニューヨークのベルビュー病院におけるロレッタ・ベンダー(Bender,L.)の研究を紹介し、日本の児童養護施設関係者に大きな関心を呼ぶに至った。1950年には堀文次や瓜巣憲三らが『社会事業』誌上を通じてそれらを新しい養護理論として紹介し、独自の解釈をおこなっている。そして1950年代半ばに、高島巖と堀文次を中心とした激しいホスピタリズム論争が起こる14)。
  日本の社会福祉学領域におけるこうしたホスピタリズム研究は、医学や精神医学15)の知見を福祉学にも援用しようとする、学際的な社会福祉学の必然でもあった(玉井[1954:42])。優生学が福祉学領域に取り込まれたように、当初医学や精神医学で課題とされたホスピタリズム研究16)も取り込まれていくことになる。ここで留意しなければならないのは、この研究の蓄積がもたらした二つの意義についてである。
  まず1つめは、このホスピタリズム研究の蓄積が導いた解決策の一つとして、「脱施設化」へと回収されていくということである。施設内部にいた人が外部に放出される、という具象のみで捉える場合、この学問的に正しい対策は「脱施設化」だといえる。ここでも、本来浸透しあうことのないはずの治療的な専門家による関与と脱施設化とは、奇妙な同一性を有することとなる17)。子どもの「脱施設化」では、例えば里子に出すことを推奨したり、虐待が認められても施設に収容するよりは親のもとにおかれたほうが適当とされる(具体的には終章参照)。施設から専門職とその学問的基盤を追究する営みと、逆にそれらを破壊する営み、この相対立する目的を持ちながらも、「脱施設」という同一の行動に収斂するとは皮肉な結果であるといえる。
  モリセイ(Morrissey, J.)らは精神病院の入院患者の脱施設化が、学問的野心に突き動かされたことに端を発するものであったと指摘している(Morrissey[1980])18)。つまり、精神医療の分野においても「科学」化と反施設主義との奇妙な符合をみることができるのである。また彼は脱施設化を1950年代から1970年頃までの「前期脱施設化」と1970年以降の「後期脱施設化」とに分け、前者を「暫時改革期」、後者を「急進改革期」とする。ここで「後期」が反専門職のイデオロギー的なものであるにしろ(つまり現在の社会福祉学で尊重されている「自立」や「ノーマリゼーション」に連結する)、「前期」が専門職の営為であったことは明確であるとした。前期脱施設化と後期脱施設化との間には実は深い溝が存在するのである。
  ちなみに、イギリスでも同様に知的障害者の「脱施設化」が自立生活、コミュニティーケアの萌芽をもたらしたとされている。1913年に制定された「精神薄弱者法」(Mental Deficiency Act)において、地方公共団体の業務としてコミュニティーケアを位置づけている。1924年に設置された「精神異常・障害に関する王立委員会」では、精神病患者の施設での処遇が批判され、1930年に「精神科治療法」(Mental Treatment Act)が成立した。しかしながら、ここで問題にされているのは、救貧行政のなごりである、スティグマの付与をいかに払拭するかであった(炭谷[1991:235-246])。それは1909年「王立救貧法委員会」の報告におけるナショナル・ミニマムの実現と、「救貧法の破壊」を主張した「少数派報告」と同一平面で語られていることがわかる。ここで明らかになるのは、施設から出るという行為に、さまざまなが存在してきたという事実である。
  戦後10年経った頃、日本でくりひろげられたホスピタリズム研究も、精神病院の脱施設化を試みる「公衆精神衛生」研究のように、いずれ反専門職主義と同様の主張となる具体策を提示したのである。しかしながら、脱施設化の思想がいかに被収容者を管理し、支配する構造からの解放を促すものであっても、観察し解釈をおこなう学問的まなざしから逃れることは難しい。現在では、そうした自立や自己決定などの概念も、医学や社会福祉学のなかに包摂されているが(それについては第3節)、それをどのように把握すればよいのだろうか。
  ホスピタリズム研究のもたらした意義の2つめは、この研究が「家庭」の優越性を体現するものであったことである。特に日本ではその傾向が強かった(金子龍太郎[1998:12])。1950年代のホスピタリズム論争には、ひんぱんにベンダーの「家庭生活に優るものはない」(米国児童福祉資料。厚生省の浅賀ふさによって訳されたが、厚生省にも国会図書館にも現存しておらず、今のところ未確認資料)が引用されているが、この論題の原文は“Infants Reared in Institutions Permanently Handicapped”であった。題名が全く異なっていることからも、いかに意図的に家庭が強調されたかがうかがえる。厚生科学研究費による研究助成を受けたホスピタリズム研究で、「ホスピタリスムス症候群の研究」(谷川[1954b:2])を担当した玉井収介が以下のように指摘している。

  施設収容児童の特徴を研究することは、他方において家庭の意義、家庭の重大さ、というものを裏から証拠だてるものであるといえよう。
(玉井[1954:42])

ここで、その背景に政策的な作意を察することもできるが、同時に、ここでノーマルな家庭の輪郭を描いていったことはいうまでもない。
  こうした「ホスピタリズム」が成立するなか、児童福祉施設の職員は家族、特に母としての役割を担わされた。そして学問が編み出した最善の措置として、「日常擁護職員の住込み勤務体制」が要求(強要)された。つまり、安定した子どもの人格形成のためには、「日常生活身辺に存在する職員の恒常性という在り方が子どもの自己連続一貫感覚(feeling of self-continuity)にとって、何物にも増して重要な役割を演ずるであろうことは言うまでもない」(大谷[1978:312])という。この頃、社会福祉学領域にもマルクス主義者が多くみられたが(そしてその多くは福祉水準と福祉労働者の雇用水準向上に向けて「闘争」を繰り返していた)、慢性的な低賃金、長時間勤務を強いかねないこれらの主張との確執はこのとき一段と激しくなった19)。

治療としての脱施設化

  ホスピタリズム研究は、主に心理学的・精神医学的なアプローチが試みられた。事実、厚生科学研究費を受けた『ホスピタリスムス研究』では、フロイト全集を訳した懸田克躬が名を連ねているし、国立精神衛生研究所の児童精神医学部部長、高木四郎や同研究所所員の玉井収介、池田由子が「ホスピタリスムス症候の研究」を担当している。また下記の「研究の概要」20)を一見しても、容易にそれは推察される。

@ 「ホスピタリスムス症候の研究」
A 「乳児院、養護施設における児童の綜合的発達過程の研究」
B 「精神発達、行動観察、情意徴表検査」(人格形成)
C 「ホスピタリスムスの医学的研究」(乳幼児検査、乳児院収容児)
D 「原爆被爆児童を中心とした施設収容児童と一般児童との比較研究」
E 「教護院におけるホスピタリスムス研究、退院生予後調査」
F 「ホスピタリスムスの治療予防対策の研究」
G 「里親制度及び里親制度研究」

  当時の『社会事業』(現『月刊福祉』、全国社会福祉協議会発行)誌を繰ってみても、ホスピタリズムは重大な問題として捉えられ、関連論文数も多い。そこでは、ホスピタリズムの[原因 ― 症候 ― 対策]の循環が幾度となく研究された。
  まず、ホスピタリズムの発生要因として、そこでもベンダーの論文「家庭生活に優るものはない」がしばしば用いられた。ベンダーは「所謂ブロークン・ホームに、あるいは非常に歪んだ人間関係のうちに育った子供は、の人格をつくるのである」(Bender[1968]、瓜巣[1954:100-101])といったが、それは「決して取りかえしのつかない」ものであった。堀はベンダーを引用して、「乳幼児期に特定の母親との間にアイデンティフィケーション(自他同一化の作用)を欠くと、叙上の如き特異な人格が形成せら」(堀[1954:34-35])るとして、施設児童の「症候群」の病因としている(他にも、瓜巣[1954]、堀[1955a]、谷川[1954:47])。
  このベンダーと並んでリッブル(Ribble, M.A.)もよく引用された。リッブルは多くの乳児の臨床観察をおこなった結果、「乳児の吸入経験や運動感覚などの経験を重視し、そして母の愛撫と世話が、生理的にも感情的にもその正常な人間発達のために不可欠であることを明らかに」(瓜巣[1954:100])した(他にも、谷川[1954:47])。彼女の研究結果は、ベンダーの理論を補強するかのように利用されている。
  またフロイトの理論もホスピタリズムの発生過程を説明するうえで、直接援用される。子どもという存在はフロイトのいう超自我あるいは理想自我(super-ego)の形成過程にあると理解される。堀文次は、この「インツロゼクション(Introjection)『取入』『移入』の心的メカニズム」(堀[1955a:16])が、ベンダーのいうアイデンティフィケーションと並んで重要であり、「児童人格形成の真髄」とは、これらが「働き易い行動環境を作ってやること」(堀[1955a:18])であると述べた。これらを総合すると、「その子供が生れた親のある家庭が最も自然なまた典型的なものである」ことが自明となり、施設は「ホスピタリスムス発生の温床」となるのである。その他にも、「集団生活の弊害」について「集団心理学」の見地から解明しようと試みた潮谷総一郎などの研究もある(潮谷[1954:43-48])。
  次に、厚生科学研究費を受けた『ホスピタリスムス研究』のなかから「ホスピタリズムの症候」としてあげられているものをみてみよう。

@ 発達の遅滞
A 神経症的傾向
B 対人関係の障害 

  @は身体的・知能的・情緒的・社会的・自我の発達と分類して検討され、Aは指しゃぶり、夜尿、爪かみ、そそう、夜泣きなどが例示されている。そして、Bでは接触の浅さ、自発性の欠如、攻撃的傾向、逃避的傾向、場の問題が症状の顕著なものとして検討された。
  堀は「施設児童の人格的缺陥」(堀[1955a:18-19])として「罪悪感の稀薄さ」や「非抑制」、「忍耐」などをあげるが、1954年の論文「施設児童とその人格」(堀[1954:34-37])において、「報恩感の稀薄なこと」を施設児童の特異性として強調している(他にも、潮谷[1954:44])。つまり、「窮乏のどん底にあって救われた施設であるから、その出身者達の施設や職員に対する謝恩の念は、定めし骨身に徹していることであろう」にもかかわらず、「謝恩感の薄い人格が形成される」のは、ホスピタリズム症候群の一端に違いないというのである。小野顕はこれに対して、人権保護の観点から批判をおこなっている(小野[1954:40])21)。彼のように、ホスピタリズム研究自体に懐疑的な人々も多くあった。
  これらホスピタリズムの対策であるが、これについては大方の意見は一致していた。

@ 幼少期の児童は里子を原則とすること、
A それが不可能ならば、幼少期の児童には、客観的、主体的条件を具備した家庭的環境(小舎制度)を与えること。(瓜巣[1954:106])

  『ホスピタリスムス研究』においても、これと同様、「ホスピタリスムスの予防と施設形態」として「里親制度の確立」と「小舎制度」(Cottage System)がその「対策」として結論づけられている。この2つが、学問上導き出された最善策、つまり治療的行為として存在したのである。
  しかしこの「科学」的な「ホスピタリスムス」研究に対して、異説があったことを忘れてはならない(例えば、高島[1954]、小野[1954]、本間[1955]。水芦[1955]それらの経緯については、窪田[1986]、野澤[1996])。とはいえ、全体の共通項として家族の至高性は存在した。これはアメリカにおいてベンダーやアンナ・フロイトらの所論が「家庭生活に優るものはなし」というような結論に直結しなかったことを考慮すると(窪田[1986:136-142])、日本におけるこの経過の示すものは意味深い。
  以上で検討してきた1950年代の「ホスピタリズム研究」とは、精神力動ソーシャルワーク理論が社会福祉学において優勢であった時代に、それらの理論を駆使して積み重ねられた学問的追究であった。ここでわれわれは、専門家としての科学的探求と、専門家支配を否定し、その学問をも相対化する「声なきものの声」とは、同一の結論を編み出す可能性があることを確認できる。それは、現在の「児童福祉論」の教科書に多くの「反専門職主義」的ドグマをみつけるたびに確証されるものである。
  ここで確認しておきたいことは、施設という建物から解き放たれることの恣意性である。この施設から脱出するという行為そのものの意味付けは、アプリオリに存在するのではない。問題となるのは、この行為にいかなる文脈のもとに置かれるかであって、ある時間点において必ずしも特定の一つとは限らない。専門職との関係から捉えた場合、既述のように専門家の存在意義と両立する意味が付される場合もあり、対立する意味が付される場合もある。したがって、1960年代に高まっていった脱施設化の気運も、単に施設から放出される行為そのものではなく、それに付与されるさまざまな言説に注視するべきである。


第3節  新たな社会福祉専門職への再調整

例えば「ノーマリゼーション」、「リハビリテーション」概念の変遷

  本章の第1節では、フレックスナーの提示した青写真が「反専門職主義」のなかで効力を失っていく様態を描いた。第2節では、それにもかかわらず、その反専門職主義が提示する具体的表象は専門的、学問的追究の延長線上に位置する場合もあることが明らかになった。以上のように、反専門職主義の立場が一枚岩として存在したのではないことを認識しつつ、この節ではその反専門職主義の及ぼしたソーシャルワーク理論への影響について検討していきたい。それは、社会福祉学創立以来の大規模な刷新として存在している。
  例えば「ノーマリゼーション」という単語一つにしても、その意味内容の歴史的変遷を辿ると、その影響が大きかったことがわかる。ヴォルフェンスベルガーも指摘しているように、「北欧型ノーマリゼーション」とは、「質の高い施設福祉」という伝統の延長線上に位置するものであった。ミケルセン(Bank-Mikkelsen, N.E.)やニーリエ(Nirje, B.)に代表される、北欧における初期のノーマリゼーションは施設サービスのノーマル化を目指したものであった(秋山[1981]、中園[1982])。そこでは、「『社会防衛的隔離型施設』22)から『保護福祉型施設』への移行」(杉野[1992:193])がくわだてられ、主に施設内生活のQOLの改善が目標に据えられた。それは、脱施設化や自立生活運動、あるいは反専門職運動といった考えとは本質的に相反するものである。
  初期の北欧型ノーマリゼーションとは、一定限度の「分離処遇」(セグリゲーション)を不可欠としていたが、これが批判されるようになるのは1970年代に入ってからである。それらの批判は、本章の第一節で検討したアメリカを中心に起こった「反専門職主義」らの唱えるソーシャルワーカー批判と連関するものであった。こうした新しい潮流を受けたノーマリゼーションは、自立生活を最善のものとし、地域生活を中心とした在宅福祉を根拠付ける理念へと変化していき、その概念は再構成されていく。そこで、脱施設化や自立生活運動、あるいは反専門職運動と対立していたはずの北欧型ノーマリゼーションは、いわば「逆輸入」のかたちでアメリカ型のノーマリゼーションの影響下におかれることになった。ヴォルフェンスベルガー(Wolfensberger,W.)のノーマリゼーション(後にソーシャル・ロール・ヴァロリゼーション)論(Wolfensberger[1972=1982]、[1994=1995])の変遷も、同様の圧力を受けて再構成し続けてきたことを浮き彫りにしている(横須賀[1996])。

  また、リハビリテーションの学問体系にも「反専門職主義」的な要素がその隅々にまで浸透することとなった。元々、リハビリテーションとは今世紀の初めに萌芽し、医学領域において発展してきた歴史をもち、「反専門職主義」とはまったく相容れないものである。アメリカにおいて戦後、独立の専門分野として成立したリハビリテーション医学(rehabilitation medicine)とは、「主として身体の運動障害を中心にそれに関係の深い諸障害(言語障害、失行・失認、呼吸器障害、循環器障害)を対象とする医学」(上田[1983:110])であった。それ以前にも1920年に、現在の「リハビリテーション医学会」の前身である「アメリカ物理医学会」が結成され機関紙が発行されているが、この「物理医学」と、第二次大戦中の戦傷者を対象としたリハビリテーション活動のなかで生まれた「リハビリテーション医学」とが手を結び、1947年、「物理医学及びリハビリテーション」の専門医制が発足の運びとなる。この時代の「従来のリハビリテーション」は、現在のリハビリテーションとは峻別すべきとされている。
  ちょうど、ノーマリゼーションの概念が1970年代にその理念が刷新されたように、「全米におけるIL運動は、それまでのリハビリテーションのあり方を一変させた」という(三友[1998:10])。従来のリハビリテーションとCILの自立生活の枠組みについて、ボストンにあるタフツ・ニューイングランド医療センター(Tafts New England Medical Center)のデジョング(Dejong, G.)は、次のような比較をおこなっている(三友[1998:10]を参考)。


表 1「従来のリハビリテーションとCILの自立生活の枠組みとの比較」

  項 目          従来のリハビリテーション       CIL自立生活

なにを問題とするか    身体的欠損や職業能力欠如       専門家、家族への依存

どこに問題があるのか   個人                 環境、リハビリテーション
                                のプロセス
問題の解決方法      医師、PT、OT、職業リハビリ     ピアカウンセリングによる
             テーション・カウンセリング等     援助、人権擁護、セルフ・
             の専門的指導             ヘルプ、社会障壁の除去等

対象者のとらえ方     クライエント(患者)         ユーザーとしての市民
  
推進する人        専門家                ユーザーとして本人

望ましい結果       最大限のADLの自立、収入のよい   独立した自立生活  
             職業

  かくして、リハビリテーション学という場において、本来医学的研究の対象に過ぎなかった患者としての「クライエント」は、「ノーマリゼーション」の理念(それも1970年代以降のアメリカにおける在宅福祉を基調としたノーマリゼーション)を踏まえて、「全人的復権」を目指す積極的な主体となったのである。そこでは「医学モデル」を脱し、「生活モデル」が達成されたことが強調される(三友[1998:9])。

再調整されたソーシャルワーク理論

  以上のように、現在、社会福祉の理念の一つとされている「ノーマリゼーション」や「リハビリテーション」(厳密にいえば1970年代以降のそれ)でさえも、「反専門職主義」的な圧力を受けていることがわかった。1970年代のアメリカにおける、自立生活運動や脱施設運動などを受けて、「ユーザー」(=旧クライエント、「利用者」ともいう)の自律権をはじめとした諸権利を重視する潮流が高まる。その波及がもたらすソーシャルワーク理論への影響とはどんなものであっただろうか。
  本論文ではこれまで、社会福祉の「科学」を追究したソーシャルワーク理論として、「精神力学ソーシャルワーク理論」、「マルクス主義的ソーシャルワーク理論」、「システム−エコロジカル・ソーシャルワーク理論」を中心にその論理構造や、政治的・思想的連関を検討してきた。社会福祉学の科学的研究として、それぞれ完結されたかたちで研鑽が積まれてきたのであるが、「反専門職主義」的潮流に直面するや各々で調整を強いられた23)。例えば、現在有効なソーシャルワーク理論のいずれであっても、浅賀ふさが「醫者が患者の病氣を診斷して、治療するが如く、辯護士が法律問題を解決する如く、一定の過程をもって居る」(浅賀[1948:341])と言及したような次元とは現在、異なった位相にある。それらは、「反専門職主義」的に彩られ、おのれに向けられた批判的言説を内面化することによって正当性を保っているという点で「反省的学問」だといえる。そして徐々に、ケアマネジメントの手法のような、プロセスが重視されるようになった。そしてソーシャルワーカーは、ユーザーの主体性を尊重し、彼/彼女の自己実現を果たす際の協働者(co-worker)となる。
  なかでも、システム−エコロジカル・ソーシャルワーク理論はこうした変革期に形成されたため、反専門職主義の影響をそのまま読み取ることができる。特に生態学からの知見を援用しはじめたのは、こうした「パラダイム転換」(Whittaker[1986:39]、小松[1990])を表現したものであった。システム−エコロジカル理論の歴史認識のうえで、このハイフンの間に断絶をみいだす勢力と、連関をみいだす勢力とがあったが(第2章・図4参照)、このハイフンの間に断絶をみいだす「転換派」は、その「パラダイム転換」を達成されたものとみる。そしてますます「反省的学問」の重要性は増大するだろう。
  「転換派」は、単に均衡状態にある自然環境から観測された生態学的概念を用いて、人間関係を釈明する際のメタファーとしただけではなかった。システム理論から生態学の理論を取り込むとき、「新しい社会運動」的なものの存在を自覚していた。だからこそ、この転換は彼らにとって、それまでの社会福祉学のあり方を根本的に覆すものと評価できるものであった。そこでは、「エコロジー」運動という、額面通りの主張がなされる場合も少なくはない。岡本は生態学的視点の「発端」として次のようなことを述べている(他に、岩間[1991]、太田[1992])。

  大気汚染、水質汚濁による生活環境の悪化は多くの公害病を発生させ、生活破壊をもたらした。そして、環境の悪化は人間の生命および生活をおびやかすに至り、人間と環境の連鎖つまり個体と環境の生態系(ecosystem)の危機が大きな問題となりはじめた。/こうした状況は当然のことながら科学技術のあり方から産業構造や社会体制の矛盾や欠陥まで、公害をめぐる多面的な追及と論議を喚起することになった。そして高度な科学を駆使した人間活動が果たして人類に真の豊かさをもたらしたか否かに関する反省とりわけ科学至上主義がもたらした弊害を正面から批判の対象にするようになった。
(岡本[1987:6-7])

  ここでは、自然環境への配慮を怠ったことに対する懺悔の心さえ明らかにされる。また「科学至上主義」に抗議する姿勢を示すため、ソーシャルワーク理論にエコロジカルという冠を被せ、「生活モデル」たるを主張したともいえる。もちろんそれには限界が存在するとして、それに厳しいまなざしを向けるのが、「現状維持派」の人々であったことは上述した。しかしながら、この「転換派」の試みを無視することもできないであろう。なぜなら、彼らの試みは、地域で働くワーカーの日常の業務になるであろう、ケアマネジメントの理念として戦略的に受け入れられやすいからである(岡本[1992:1])。
  「科学」志向のソーシャルワーク理論における、ソーシャルワーカーと利用者との関係は、ワーカーの側の情報過多に終わってしまうのに対して、生態学的視点においては「パートナーシップや協働の努力」(Germain and Gitterman[1987=1992:210])が強調される。「エコシステム」を維持するために、ワーカーはその内部で取り交わされる交互作用が円滑になされるべく、仲介者や弁護者として立ち回る。こうしたソーシャルワーカー像は、まさに公的介護保険施行下でケアマネジメントを手がけるソーシャルワーカーと二重映しになるといえる。
  さらに、この生態学的ソーシャルワーク理論は、在宅福祉の担い手として、(福祉専門職ではない)パート労働や、インフォーマルな資源(ボランティアや家族、親戚など)を期待する行政側の意向と合致する理論であるといえる。ホイッタカー(Whittaker, J.K.)は次のように生態学的視点を特徴づけた。

  合衆国とその他の国におけるソーシャル・サービスは、パラダイムの転換を迎えつつある。この動向には、人間の発達に関する「パーソナリスティック・パースペクティブ」から、「エコロジカル・パースペクティブ」への転換をはたし、援助を必要としているクライエントへ「フォーマルな援助」のみで対応する方法から、「インフォーマルな援助」の重要性を徐々に認識していこうとする方法への転換が含まれている。
(Whittaker[1986:39])

  こうして専門職としての業務に、訓練を施されることのなかった「素人」24)との「専門」的業務の共有が理論付けられたといえよう。とかろがここで、ソーシャルワーカーの業務は専門知識のない者とどう違いがあるのか、という根本的な問題が生じたことは当然である。ソーシャルワーカーとは、専門家ではなかったか。そこで、次章以下で検討する児童虐待の存在は、専門家としてのソーシャルワーカーの需要を確保するためにもその意義は大きい。なぜなら、そうした責任が伴われる業務には、専門的な知識と経験、勘とが必要とされるからである。

社会福祉学の二律背反

  現在「社会福祉学」と呼称することは少々気が引けるとはいうものの、日本では「学」を取りまく法的な既成事実は確実に存在する。まず、「社会福祉士」という国家資格があり、国家試験も年に1度、施行されている。その受験資格を所得するためには、学校教育法に基づく大学・短期大学・専修学校において、厚生大臣の指定する科目を修めるなどしなくてはならない。そこに「社会福祉学」という科目やその周辺科目は確かに存在し、その機能を果たしている。
  しかしながら、その内部に羅列されているものを概観するとき、学問間の葛藤や、「客観主義−主観主義」(objectivity-subjectivity)(Howe[1987:25])の対立を見逃すことはできない。学問間の葛藤は、学際性を社会福祉学の特質の一つとする、この学問成立以来の伝統であるといえるかもしれないが、「客観主義−主観主義」の対立というのはそうではない。便宜上、社会福祉学領域においてこの対立について検討したハウの概念に基づいているが(Howe[1987:25-33])、そもそもこれは哲学あるいは社会思想などにおける二律背反でもあった。例えばそれを、第1章で検討した1915年のフレックスナー報告の「神話」に立脚するか(客観主義)しないか(主観主義)の違いとも表現できる。平たくいえば、前者は科学的研究を第一のものとし、後者はその呪縛から解放された、本章でみてきたようなソーシャルワークのバックラッシュともいうべきものである。
  しかしながら社会福祉学において主観主義の登場が劇的であったのは、この学問の成立以来継続して、客観主義的原則に基づいて「科学」化や専門職化が試みられてきたからであった。それは、国レベルにおいてケインズ(Keynes,J.M.)が「富のはなはだしい不平等」、「労働者の失業」、「合理的な事業上の期待の破綻」、「効率性と生産性の減退」などの「経済悪」の「治療法」は、「個人の手の届かないところにある」(Keynes[1981:349])として、国家介入を主張したことと連動している。社会民主主義的な「コンセンサス」(田端[1988])が得られた福祉国家体制のもと、科学的な「知」が介入の根拠となったが(Parton[1991:19-23])、それが有効であったのは「福祉国家の危機」と称されている時期まではであった。福祉国家体制のもと、社会福祉学という「知」は微細なレベルで作用し、それに対してあまりある信頼を寄せられたのであった。
  ところで、現在の日本の社会福祉学では、客観主義と主観主義とが何のためらいもなく、共存共栄している。教科書的な文献をみても、そこに反発しあう理念や思想が共生する姿が伺える。それは、意図的なものかもしれないが、早急に見直されるべきものではないだろうか。

  第1章では、社会福祉の学問としての「発展」が動機づけられた経緯を追い、2章ではその領域内部における科学的研究のいくつかを紹介した。そして、第3章ではそうした「幸福」な時代に終わりが告げられ、「反省的学問」様相を呈するようになってきたことを述べた。それは、社会福祉学の本質的/表層的な変容として、認識されているものである。以下では、この「変容」を児童福祉分野の制度や議論にみいだしていく。
  ドンズロ(Donzelot, J.)は「非行に走る子ども」と「危険にさらされている子ども」という二人の子ども像が、ソーシャルワーカーの扱う「病理」とみなされ、社会福祉学の近代的な体系化において重要であったと述べている(Donzelot[1977=1991:112-113])。ここでは、彼が検証した前者ではなく、後者に焦点を絞り、児童虐待という現象を中心に議論を進めていきたい。
  1990年頃から日本でも、この児童虐待という問題が再浮上してきたが(急浮上してきたという者もいる)、社会福祉学研究者などの専門家のみならず、一般の人々の関心を集めるにいたっている。例えば最近では、新聞や雑誌などにも取り上げられ、ワイドショー番組では特集が組まれる。またドラマの主題にも据えられ、主題でなくとも、数ある物語のいたるところに被虐待の挿話がみうけられる。こうした状況のなか、「反省的」なソーシャルワーク理論はどういった展開をみせるのだろうか。それにはまず、主体としての子どもが成立してくる過程を踏まえることは必須であろう。次章からは、時間軸を再び過去に伸ばし、さまざまな局面から論じていきたい。



1) 単に無力化するのではなく、「二次的適応」の存在をここでゴフマンは明らかにしたのではあるが、ここではそれについて触れない。
2) 日本において、その「導入」が遅れているという見方は適当でないように思われる。1990年代は超高齢社会を迎えるにあたり、1987年に「社会福祉士及び介護福祉士法」を成立させ、「社会福祉学」の統一化、社会福祉専門家の同一性を確保していく基盤整備の時期であった。こうしたなか、その思想を社会福祉学、特にソーシャルワーク理論に普及させることは、社会的気運ともそぐわないし、不都合を生じかねなかった。
3) 「ソーシャル・ケースワークに社会的視野を導入せよ」というパールマンの見解は1952年以来の提唱である(山崎美貴子[1968:2])。
4) パールマンが「診断主義」と「機能主義」の双方の優れた部分を統合するため、提唱したもの。いわゆる「4つのP」(person,problem,place,process)を設定し、社会福祉技術論における分裂を収拾させようと試みた。
5) こうした調査自体の有効性にまず、疑問の声があがった。後に、ソーシャルワークの有効性の評価測定方法として、単一被験者実験法(single-subject design)が編み出される。
6) 筑前甚七は、批判という方法をとらず、「専門職的権威」に異なる意味を独自に汲み上げていった。彼はグリーンウッドのいう専門職的権威を「@社会的に承認された専門的な熟練性をもつ。A利用者との自発的な合意がある。B自ずから権威として振りかざすものでないという条件をもつ。かくて、ソーシャルワーカーたる者は、自己の業務に対し自身と誇りを持っていると、自ずからこうした権威は光り輝くもの」(筑前[1992:108-109])であるとした。
7) 厳密にいえば、「反施設主義」的なノーマリゼーションのこと。杉野は3つの立場がノーマリゼーションをめぐって混在しているとして、@「在宅福祉中心主義」、A「施設福祉中心主義」、B「地域福祉」をあげたが(杉野[1992:189])、一番目の「在宅福祉中心主義」に相当するものである。現在、これをもって「ノーマリゼーション」とすることは一般的である(例えば、加藤[1991:100-101])。
8) リーブ批判の先頭に立っているのは、障害文化運動である。障害文化運動が問題にするのは、ケボアキン医師に代表される「死」が、リーブに代表される「治療」、「リハビリテーション」の二者選択のみしか存在しない社会構造自体であるといえよう。最近の米国障害学会年次総会においても、リーブ批判の声があがった(長瀬[1998:205-206])。
9) 向精神薬が発達することによって、慢性精神障害者を地域で支えていくことが可能となったと考える。これは比較的広範に流布していた説である(野嶋[1988])。
10) これに対しグットウィンはジョーンズの解釈を「社会民主主義モデル」、スカルのそれを「マルクス主義モデル」として対比している。
11) ラベリング理論によると、「『精神病』とは個人の行動の性質を意味するものではなく、ある特定の個人が『精神病者』として認知され分類され最終的に隔離収容される社会的過程として理解される。個人が『精神病者』として診断されるか否かを決定するのは、当人の逸脱行動だけではなく、この行動に対する社会的意味付与との間の相互作用である」(杉野[1994:21])。
12) 例えば、サッツ(Szasz, T.)やキトゥリー(Kittrie, N.)など。
13) ホスピタリズムの意味。この頃、ドイツの影響が強く、Hospitalismus(ホスピタリスムス)が一般的に使用されていた。
14) その発端は、施設寮母の呼称をめぐる意見の相違であった。
15) 当時、ここでのホスピタリズム研究はフロイト派精神分析の学説に拠っていた(池田[1954:650])。
16) その起源は、19世紀後半の児童収容施設に溯る。当時の施設の100%近い死亡率を最初に問題にしたのは小児科医であった(小田[1974])。ウォルグレンの分類によると、オールドタイプ・ホスピタリズムということになるが、日本のホスピタリズムの歴史もこの問題から始まっている(金子[1994:29])。
17) 興味深いのは、パーターナリスティックな治療の形式を医学に学んだ社会福祉学であったが、それが揺らいだのも医学と同じ軌跡をたどる宿命にあったことである。
18) モリセイらはアメリカ・マサチューセッツ州のウォチュスター州立精神病院の歴史を通して、医師たちの職業的関心の分析をおこなった。それによると、第一に、精神病院の医療水準を維持するためには入院患者数の制限は必須課題であり、脱施設化がその解決策となった。それを受けて、1950年代には早期退院と退院患者のための地域アフターケアが実行されている。第二に、これらの動向には公立精神病院に所属する精神科医の職業的野心の影響があった。公立精神病院の精神科医は他の医者に比べて下位におかれる傾向にあったが、精神病患者を地域で治療する「公衆精神衛生」の確立によって社会的地位と名声を獲得する機会とみなされた。ケネディー政権によって1960年代に導入された「地域精神保健センター」(Community Mental Health Centers)は、このような公立精神病院医師たちの専門家的営為であり、野望でもあった。それに伴い、対象とする患者もスティグマ付きの人々から一般大衆へと拡大していった(杉野[1994:19-20])。
19) 社会福祉従事者の労働条件に関する問題自体は古くからあるとはいえ、この精神力動ソーシャルワーク理論と健全な業務管理とのジレンマはこの頃多くみられた(養護技術誌上討論[1959]、後藤[1959a][1959b]など)。後藤は精神医学、心理学的命題により、保母が施設児の母親的役割を期待される場合の危険性を危惧しながら、当時の現状を述べている。「施設長が、自分の経営する施設の保母には『お母さんには休みはないのだ。施設の保母は母親の役割を果たしている。だから、二十四時間勤務で、休日のないのも当然だ。私は他の人達にそう話して廻っているのに何事だ』と週休を願い出た保母の願いを蹴ったという施設長の話も聞いている」(後藤[1959a])。
20) ここではテーマごとにチームを組んで研究が進められた。ちなみに、懸田はBを担当している。
21) 「心配なのは、施設の子に社会にたいする報恩感謝の念を期待し強要するかのような考えが、園長の立場で肯定されていることで、人権問題のかげろうが燃えている。親の恩、世間の恩を否定するつもりはないが、今の世に、わが子に恩返しを期待する親はないはず。その親にかわって社会が育てる施設の子にたいして、措置費アリガトウ、赤い羽根アリガトウ、と感謝を強要する園長があるとしたら、なんと前時代的なことか!」と、「何が病的か」と題されたコラムに載せている(小野[1954:40])。
22) 「社会防衛的隔離型施設」とは、ナチズムを思い起こさせる優生学の影響が色濃く、隔離収容主義的施設である。
23) 第1節にも既述したように、マルクス主義者は社会福祉学領域におけるそれといえども、社会福祉の「専門家」を成立せしめる社会体制を糾弾したわけであるから、多少それからずれるであろう。
24) もちろん、新卒で免許をとったばかりの「専門家」が、何十年来育児や介護を経験してきた「素人」に劣ることは多々ある。


  


■第4章   「子どもの主体化」への流れと児童虐待


第1節 近代社会と児童虐待

「子どもの発見」と学問

  アリエス(Aries,P.)によると、子ども期は近代になって誕生したという(Aries[1960=1980])。それ以前では幼児期と成人期の間に、現在あるような子ども期・少年少女期・思春期という期間はなくて、幼児期の段階を過ぎると「小さな大人」として扱われていた。アリエスは絵画のなか描かれる子どもの姿などを検討し、「子供期へのまなざし」の変化が17世紀にあったことを確認する。そしてこの頃から、子どもの保育や教育をはじめとする制度が整い始め、19世紀後半にいたるまでに、新しく生まれた「子ども期」に対するあらゆる学問やその処遇方法が出現し、人々の接し方、価値観にも大きな変化がみられたとされる。
  よく教育学史では、18,19世紀のロマン主義者やルソー(Rousseau, J.-J.)などによって「子どもの発見」がなされたといわれているが、そこでみいだされたのは子どもだけではなかった。本田和子は次のように述べる。

  近代的心性が「子ども」を発見し、彼らが、時代の視野に「保護」と「教育」の対象と意味付けられつつ浮上して以来、子どもを巡る諸行為は、それを前提としてのみ展開可能なものと化した。その結果として、彼らの保護と教育にかかわる合目的的な言説だけが、子ども論あるいは子ども研究として場所を与えられてきたのである。
(本田[1998:548])

つまり子どもの登場と同時に「保護と教育にかかわる合目的的な言説」も近代社会のなかで浮上してきた。近代の子どもの発見とは、子どもを共同体から引き離して、家庭へと囲い込み、学校へと「隔離」することであった1)。アリエスはここで教育という側面に焦点を絞り、「子ども期」という固有の時期が浮かび上がってくる姿を『<子供>の誕生』(Aries[1960=1980])や『「教育」の誕生』(Aries[1972=1992])のなかで検討したのであった。
  ポストマン(Postman,N.)は、中世は話し言葉の習熟が「インファンス」(幼児、つまり「声をもつ、ただしは舌足らずな文節以前の声」(Lyotard[1991=1995:196])の持ち主)と大人を隔てるものであったのに対し、近代においては文字の習得が「子ども」と大人を区分するものになったと主張した。これに準じて、森田伸子は近代的「子ども期」を「大人によって周到に創られた『一定の教育の順序』という人為的世界を生きるべき時期」(森田[1996:162])とする。例えば、近代教育学の始祖であるペスタロッチ(Pestalozzi,J.H.)の言語教育論は、母親に子どもがまだ話せないうちからアルファベットを読み聞かせることを奨励する。それは初め母音、次に母音と子音を組み合わせたもの、そして単語、などと順序付けられている(Pestalozzi[1801=1960:177-178])2)。つまり近代的子ども観が成立する局面においては、それまで学問の対象として顧みられることがなかったインファンスから「科学的実体としての子ども」へと転換していった。
  教育学が初めて子どもを発見しえた、近代的思考のもとでようやく社会福祉学も子どもを対象とする自明性へ到達しえたものと考えられる。もちろん、社会福祉の系譜を、近代以前に存在した宗教的思想や倫理、慣習を「社会福祉」分野のものと読み取って今日につながる源泉とみなすことは可能である。しかしながらここで問題にしたい社会福祉というのは、社会全体に緊密に張り巡らせた組織や、オーソライズされた専門家、あるいは体系的な知から成立するその専門家の養成過程、そしてそれが国家的な規模である方向性をもってなされる性質のものである。
  こうした子ども期に与する諸発見と知は普遍的に「エキスパート化」(北本[1993:139-142)する運びとなった。つまり近代的な知は、子どもたちをさまざまな自然的制約や、文化的な矛盾から解放し、諸制度およびそれを維持運営する専門家を登場させることによって、彼らを管理することになった。北本正章のいうように、専門家たちをつねに頼らざるをえない、エキスパート化された状況にある現在、その要因を「社会秩序の混乱の反映とみるか、それとも古い血縁的な共同体支配からの合理的な解放とみるか、あるいは新たな統制の拡張とみるか」という難題は残る。

「子どもの発見」と社会福祉学

  社会福祉学の創設に貢献した人物として、ジェーン・アダムス(Adams,J.)やメアリー・リッチモンド(Richmond,M.)をはじめとする女性たちの功績がたたえられることは多い。アダムスとリッチモンドは1898年に始まった初の、社会福祉の専門教育といえるニューヨーク慈善組織協会による博愛夏季学校(その講習会は1904年には1年課程のニューヨーク博愛学校となり、1915年には社会事業専門学校に発展している。第1章を参照)の講師として活躍する。彼女らはまた、セツルメント活動に邁進したり、多くの文献を著すことによって、社会福祉の学問や専門職の成立に貢献した。そして彼女らは現在につながる社会福祉専門職の基礎を創った先駆者としてみなされている(例えば、奥田[1992:34-38])。
  しかしながら、ここで大きくこの活動について振り返ってみると、彼女らの運動はブルジョア女性運動穏健派の流れに属するものといえる。姫岡とし子によるとそれらは、「母性の職業化や母性精神を社会精神に高めるという意味で『私的領域を政治化』し」(姫岡[1993])、「母性という私的領域を国家と切り離してとらえることは決してできな」いものと特徴づけられる。
  プラット(Platt, A.M.)は、その19世紀のアメリカの「児童救済運動」は“maternal justice”「母性の美徳」(Platt[1969=1989:71-96])のもとに展開されたいう。女性の特質である、母性を活かして社会に貢献することが推奨され、そこで女性は「男性に比べて倫理的で、上品であって、子どもの純真さを守るにふさわし」(Platt[1969=1989:74])いとされた。しかしながら、それは結果として、「社会が急速に変化する中で、中産階級婦人の威信を保つという意味において重要な象徴的機能を果たしたのであるが、それとともに、女性に新たな職業の途を開くことを正当化するという点でもかなり重要な役割を果たし」(Platt[1969=1989:94])た。したがって、この新しいソーシャルワークという職業は、主に中産階級の女性たちによって担われた。それは「近代家族の肖像の範囲内での職場進出であるだけでなく、むしろそれを強化するような」(小玉[1996:195])社会進出であった。専門職化への欲求も、教養ある白人の中産階級の女性がこの職に就くことを正当化するために必要であったという者もいる(Lubove[1965])。

  ドイツでも1890年代にブルジョア女性運動穏健派は、ソーシャルワークに本格的に取り組んでいくが、すでに1891年に「全ドイツ女性協会」では、市民層の女性を社会福祉事業の担い手として教育することの必要性を説いていた。「ドイツのジェーン・アダムス」と称されるアリス・ザーロモン(Salomon, Alice)は1899年に「社会援助活動のための女性グループ」の会長に就任し、同年、社会福祉専門家養成のための1年コースを開設した。ザローモンは、「女性には男性にない母性的特質が備わっている」として、「細やかな心配りや世話、また教育的な観点の要求される社会的援助活動を女性に『もっともふさわしい生得の領域』とみなしていた」(姫岡[1993:68])。そこで援助活動の目的は、「援助の対象になる『女性が僅かながらでも自分の家庭を顧みられるようにする』こと、つまり労働者階級の家族を『健全化』することにあった」(姫岡、同上)。ブルジョア女性運動穏健派は「市民層の女性が『社会の母』として労働者家族の面倒をみることや、労働者の女性が『家族の母』になれるよう援助すること」(姫岡[1993:71])を目的としていた。
  日本では、戦前、社会政策的な色が濃厚で、戦後の研究者に男性が多いせいもあってか、あまり母性保護運動の痕跡をその歴史からみいだすことは難しい。ジェーン・アダムズのハルハウスの事業に影響を受けた平塚らいてうは(今井[1998])、母性保護運動を実践するために「新婦人協会」を結成している。その平塚が社会事業大会や、方面委員会に出席するなど、微かな社会福祉との接触は認められるが、その主流となることはなかった。しかしながら、戦後しばらくの期間、「ケース・ワーカーの仕事はその母性愛的な面が多分にあります」(鈴木邦子[1959:30])のような発言は散見される。とはいえ、バダンテール(Badinter, E.)が『プラス・ラブ』(Badinter[1980=1981])で母性本能が「神話」にすぎないと指摘するとき、母性本能とセットになった専門職観も神話の域にあるといえようか。また、その社会福祉学の有する子ども観についても同様のことがあてはまるだろう。
  一方、近代という時代に生きた子どもは単に、その「合目的的な言説」の対象にとどまってはいない。矢野智司は二つの側面から捉えている。まず一方では、「それまで『小さな大人』とみなされていた子どもが、ルソーの時代になり、いわゆる『子どもらしさ』という性格をもつようになってき」て、他方で「『子ども』という時間を理想化」するようになったという(矢野[1995:17])。
  ロマン主義者は「初源の楽園期と楽園喪失そしてその回復というテーマを、個人の発達史における初源的な状態、すなわち幼年期の無垢性、非性性、自由、平和、至福、神性等々の喪失と、その初源的な状態への回帰願望というテーマへ転換した」といわれている(矢野[1995:15])。そこで子ども期は「失われた楽園」、「黄金時代」といったメタファーで語られるようになり、物語のモチーフとして好んで描かれた。例えば、永遠に年を取ることのない「ピーター・パン」が住む「ネヴァーランド」(絶対ない国)や「不思議な国」を訪れる少女「アリス」。また「星の王子様」では子どものまま夭折する「永遠の子供」を描いている(本田[1982:122-126])。こうした物語を通じて、人々はすりかえられた近代的「楽園」を共有するのだ。
  しかしながら、楽園としての子ども期は近代に移行した当初、現実の子どもの生活実態とはかけ離れたものである。急速な産業化の進むなかで、多くの子どもたちが工場のなかで長時間労働を強いられた。マルクスは『資本論T』(Marx[1867=1969])第3編「絶対的剰余価値の生産」の第8章のなかで、工場による児童労働の「搾取」の酷さを繰り返し強調している。マルクスの嘆きは児童労働に限っていえば3)、ロマン主義の表裏を成すものといえるだろう。実際、ロマン主義者たちは「児童労働の唯一の解決策として、政府による規制を支持」しており、ナーディネリ(Nardinalli, C.)は「労働者階級の生活状態に関する調査のほとんどは、ロマン主義的な目で見た十八世紀をその比較規準としていた」(Nardinalli[1990=1998:42-43])という。
  こうした無邪気な子ども、かわいい子どもという役割は、児童虐待に関する諸言説のなかでも、保護主義の立場にいるものが好んでもてはやすが、これは後ほど検討したい。なお、ここで「無邪気でかわいい子ども」というとき、タブラ・ラサ的な子ども観が重複していることに気を付けたい。これら保護主義とタブラ・ラサ的な子ども観とは他方が一方を根拠付ける、相互依存関係にあるといっていいだろう4)。

「子どもの発見」の発見

  では、現在の児童福祉に戻って、子ども観について、社会福祉学を学ぶ者がよく目にする教科書を例にみてみよう。従来から児童福祉では、「子どもこそ弱者の最たるもの」(井垣[1985b:4])とみなし、彼らを保障することが「大きくは人類の子孫の確保、未来の生産者、あるいは次代の社会成員の育成という人類・社会の存続、発展のために絶対欠かすことができない重要な社会的意義」(井垣[1985b:5])を持つものとされてきた。そして敗戦後、日本国憲法をはじめ、子どもの権利を保障するさまざまな法律が制定され、それらが児童福祉の根拠とされた。子どもは社会福祉という場において、子どもという特性を考慮しつつ、それにふさわしい権利を保障されるべき主体となった。しかしながら最近では「子どもの発見」を念頭に置いた相対的な子ども観に基づいて議論が進められることが多くなってきた。
  柏女霊峰は、子ども期とは、「生物学的な概念であると同時に社会的な概念」(柏女[1995:6])でもあり、恣意的なものとしたうえで、その子ども観を「社会の必要により、大人によって作り出されてきた」ものと説く。こうした局面では、「3歳までは児童のその後の発達にとってきわめて重要な時期であり、母親が家庭で育てるべきである」とする「3歳児神話」は、母性的養育の剥奪(maternal deprivation)の存在という学問的裏付けがあるのに関わらず、それを「雇用調整のためのレトリック」として「イデオロギー的性格を持つ」(柏女[1995:20])ものとして解読されることが可能となる。なぜなら、子どもを相対的に捉えるこうした思考においては、子どもという対象が学問的言説から浮遊し、政治的文脈に投射されやすくなるからである。
  最近では、受動的な保護の対象としてのみの子ども像や、ロマンチックな幻想が付与された子ども像は崩壊しつつあるという認識がなされている。これは、最近盛んに問われている「子ども期の消滅」論議の影響を受けているものと受け取れよう。特に前出のアリエスや、高度情報化社会のなかで子どもと大人の境界が不鮮明になったと主張するポストマン(Postman, N.[1982=1995])、ウイン(Winn, M.[1984])などの貢献があげられる。これは1960年代から1970年代に当事者たちによる解放を希求する運動が盛んになるなかで、子どもの権利運動(Children's Right Movement)が展開されたこともその一つの発端であろう。この運動は、「保護」は自由の侵害にほかならないとし、「子どものオートノミー・自律権」(森田明[1992b:314])を強調するものであった5)。例えばアリエス・テーゼは、教育学において「児童中心主義」(child-centered educatuion)の興隆を招くが(終章2節参照)、そこの子どもとは、大人と同等の権利主体であることが想定されている。
  こうした潮流を受けて、社会福祉学領域でも「『子どもの発見』の発見」がなされ、それが子どもに対する援助観さえも左右するものとなった。その一方で、ロマンティックな子ども観を持つ言説は依然として随所にみられる。では現在、躊躇なくこうした保護主義的な子ども観を維持できる場とは、いったいどのような場なのであろうか。それは他でもない、児童虐待の問題をめぐってなされる議論のなかにおいてであった。

社会福祉と児童虐待

  芦部信喜によると、18,19世紀においては近代法すなわち「国家からの自由」(freedom from state)を名分とする自由権が主体であり、20世紀以後の現代法において「国家による自由」(freedom through state)を名分とする生存権、教育権などの社会権が主流になったという(芦部[1983:120-122])。これに基づいて、網野武博は児童福祉を「国家が立法、行政を通じて積極的な施策を講じることによって保証される権利を基底としている典型である」(網野[1988:223])とする。つまり児童福祉に必要なのは20世紀以降獲得されるに至った社会権的な発想であった。
  子どもの権利の概念整理をする際も、マーシャル(Marshall,T.H.)の市民権に関する社会福祉領域の研究はその手助けとなるだろう。彼は社会権の獲得に至る社会状況を、一つの発展の図式を明確化したが(Marshall[1963][1981=1989])、下に引用しておこう。

表 1「マーシャルの市民権の発展図式」


市民権的権利
(civil right)
政治的権利
(political right)
社会的権利
(social right)
時期
18世紀
19世紀
20世紀
主要原理
個人的自由
政治的参加
社会福祉
主な権利の内容
身体の自由
言論・出版の自由
思想・信教の自由
所有権
契約の自由
選挙権
被選挙権
公務につく権利
教育を受ける権利
労働の権利
経済的福祉への権利
最低限度の文化的な生活を営む権利
平等の意味
   法の下の平等(形式的平等)
実質的平等
   (伊藤[1996:31])

  この図で、現在の子どもの権利を確認すると、社会的権利をベースとしながらも、市民的権利が昂揚されているものといえる。
  しかしながら、自由に関して、一つのねじれが存在することを頭に留めておきたい。「国家の無干渉に本質があるはずの自由権が、むしろ国家の積極的な介入・関与あるいは補助を必要とするという、自由権の伝統的な観点からはまことに逆説的な状況」(芦部[1982:124])に直面するのである。オートノミーとしての子ども観の登場がそうした事態をもたらすのであるが、この自由のねじれついては、第5章で検討したい。

  この第4,5章では1章から3章までに検討した社会福祉の諸理論を具体的に児童虐待という問題をめぐっていかに議論されてきたか、概観することを目標としている。もちろん、児童虐待それ自身の重大性を看過しているつもりはない。深刻な結果をもたらす児童虐待は忌々しい問題であり、ソーシャルワーカーとしてはもちろん、人間としても、万全な体勢を整えてそれに取り組まねばならないと考えている。しかしそれを前提としても、児童虐待を対象とする諸ソーシャルワーク理論間のずれの本質を調べる意義は大きいと考える。
  ではなぜ、「社会福祉の学問と専門職」を研究するうえで、児童虐待を検討するのだろうか? それは戦後、児童虐待という事件が福祉職の専門化に与えた影響が大きいからである。イギリスでは第二次世界大戦中から、ベヴァリッジ報告の公刊などを受けて包括な社会サービス体制が整いつつあったが、「対人サービスに対して公衆が関心を寄せたのは、他でもない、公的保護を受けていた児童の死亡事故であった」(Jordan,B.[1984=1992:67])のである。児童虐待という事件が人々の注目を集め、その結果、福祉サービスの供給機関の整備や、福祉専門家の教育の一般化、あるいはその学問の体系化などへと向かわせる一つのきっかけとなった(DHSS[1982])。
  戦後、イギリスの児童福祉はカーティス委員会の報告に基づく1948年児童法により再スタートした。同法の下、「地方自治体児童福祉行政の統合(児童部の設置)、施設ケアの改善(施設規模の縮小、特にfamily group home の推進)、他の代替的ケア(里親委託、養子縁組)の促進、フィールドワーカー(里親委託担当オフィサー、後の児童ケア・オフィサー)研修制度の確立(中央児童ケア研修協議会の設置)等が実施され、正常な家庭生活を奪われた児童に対するケア・サービスの枠組みは完成された」(津崎[1981:182-183])。イギリスを福祉国家と浮上させた社会制度である、1946年国民保健サービス法(National Health Service Act)や1948年国家扶助(National Assistance Act)と並んで1948年児童法は、福祉国家の柱の一つとして重要なものとされている。こうした戦後福祉国家の成立に与する法改正も、デニス・オニール(O'Neil,Dennis)という一人の里子の虐待死が一つのきっかけとなっているのである。
  さらに、1968年のシーボーム報告を受けた再編成の後、統一された社会福祉サービスへの批判が高まるが、1975年児童法へ促したのは7歳のマリア・コルウェル(Colwell,Maria)という少女の虐待死事件であった。現在に至るまで、イギリスでは幾度となく制度改革が行われたが、その度に子どもの虐待死事件の影があった。それは、デニス・オニールやマリア・コルウェルのように一人称の時もあれば、児童虐待ホットラインが一日中鳴り響くといった集団として存在することもあった(詳しくは終章参照)。そこで、ハウ(Howe,D.)がいうように、「児童虐待の処遇はソーシャルワーカーにとって最優先課題となった」(Howe[1987:149])のである。戦後、児童虐待事件は社会福祉の法改正とともにあり、また社会福祉の専門職化とともにあったのだ。


第2節  動物と子どもと…

動物愛護協会と被虐待児

  ここに、一つ児童虐待問題に関する、洋の東西を問わない奇妙な現象がある。エレン・ケイやフレーベル(Frobel,F.)に影響を受けた田村直臣は、1933年「児童虐待防止法」成立の約20年前にこのことを既に指摘している。

  子供が親の為め、又社会一般の人々より酷い圧迫を受けて居るのであります。或場所に於ては子供を獣よりも酷く虐待して居るのであります。近頃は日本でも動物虐待防止協会と云ふ様な会も設立せられて、動物を虐待するものを國の法律で罰せんとして居るのであります。(略)然るに尊き子供の権利に向かって叫ぶ者のないのは悲しむべきことではありませんか。(田村[1911:2-3])

  生江孝之は「児童虐待防止法」に先立つ1923年に『児童と社会』を著すが、そのなかで虐待について一章を割き、諸外国の児童虐待に関する制度や「防止会」について詳細な報告をおこなっている。その「防止事業の起源」という項目のなかでも、この奇妙な現象についての叙述がなされている。

  然るにこゝに不思議なる一現象は、動物虐待防止事業が、いずれの國に於いても、前者(児童虐待防止法、筆者注)に先だつ数十年既に其の活動を示しつゝあるのである。
(生江[1923:280])

  日本動物虐待防止協会(現・日本動物愛護協会、総理府管轄の財団法人)は児童虐待防止法の後援団体的存在であった児童愛護協会同様、半官半民の要素が強い。そしてそれは児童虐待防止協会よりも早くからその活動を開始していたのである。とはいえ、西欧の後を追う日本が意図的にそれにならって動物虐待防止協会を児童虐待防止協会に先立って設立させた、とも考えにくい。それは自然な成り行きであったといえる。
  『<子ども>の誕生』でアリエスが検証したように、フランスでは「子ども期」の確立しない社会において、赤ん坊は今では考えられないほど粗末に扱われていた。子どもは産まれるとすぐに乳母のもとに手渡され、スウォッドリング(swaddling)と呼ばれる、細い布切れで手足をまっすぐに伸ばしたままがんじがらめにして育てられた。また当時の乳母の呪術的な医術に準拠した世話の仕方も、高い死亡率につながっていたという。だからこそ、自分の子どもを自分で育てることを中産階級以上の人々に説いたルソー(Rousseau,J.-J.)の教育法が革命的であったのであり、そこにも当時の子ども観を反映したといえる「子どもは獣」や「悪党の従僕」(Rousseau[1762=1963:21])というような表現が多々みられるのである。
  イギリスにおいても事態は同様であった。運良く7歳頃まで生き延びることができても、「里子制」や「徒弟制」のもと、14歳頃まで他人の家に奉公させられ、「召し使いがするようなあらゆる卑しい仕事」をさせられるという慣習があった(北本[1993:75])。その多くでは性的虐待を含む、過酷な取扱いをされ、死亡する子どもが後を絶たなかったという。
  このように、近代以前の子どもは日常的に今でいう虐待を受けていたようだが、彼、彼女らに救いの手が差し伸べられたのは、動物が救出されて後のことである。イギリスでは1889年に全国児童虐待防止協会(NSPPC,National Society for the Prevention of Cruelty to Children)が結成され、今に引き継がれているが、これはトーマス・アグニュー(Agnew,T.F.A.)という一銀行家がアメリカを訪問した際に、児童虐待防止協会の存在を知り、帰国後結成に向けて働きかけたことに端を発している。注目したいのは、動物愛護協会の集会が犬の虐待防止運動を繰り広げる際に、子どもに対する虐待行為の禁止も含めるように訴えたことがその始まりだったということである(清水[1991:287]、Hendrick[1994:51])。またNSPCCはヴィクトリア女王をパトロンとし、一般市民の教化や法の制定運動をおこない、同年、児童虐待防止法が公布されることになった。
  児童虐待の歴史を語るうえでその「始まり」にもってこられるのは、アメリカで1874年に起こったマリー・エレン(Mary Ellen)事件6)である。日本において比較的早い時機に児童虐待問題を世に説いた池田由子もこの事件を重視している。

  ニューヨーク市に住んでいたメリーは継親(一説には養親)に殴られ、飢え死にしそうになっているところを発見された。しかし、当時は虐待された子どもを保護する法律がなかった。そこで市民たちは動物虐待防止協会を説得し、彼女を広義の“動物"として、少なくとも犬や馬に与えられるのと同じ保護を受ける資格はあるとした。(略)/ 児童虐待に関する報道はその後折りにふれて紙上にあらわれたが、処置といえば虐待をした親への処罰が主であった。ところが、罰せられた親が刑務所から家に戻ったときさらに暴力をふるい、子どもの命が危殆に瀕することがわかってきた。そこで、次第に、処罰よりも社会復帰や福祉的な取扱いをすべきだという考え方が有力になってきた。
(池田[1987:4-5])

  ここでもやはり、動物と子どもとの接点がうかがえる。アメリカ動物愛護協会(ASPCA,American Society for the Prevention of Cruelty to Animals)の会長ヘンリー・バーク(Bergh, Henry)自らが良心に従って、マリーを親元から引き離す訴訟を起こしたという説もある。実をいうとこの協会は、バーグによって1866年、ロンドンにある王立動物愛護協会(RSPCA,Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals)を模して組織されたものであった。ここではその頃、広まりつつあった動物虐待防止協会や、法の持つ「動物の」既得権から、子どもと動物との類似性を指摘することによって、子どもの「動物並みの」保護を求める図式が共通してみられる。無力な存在に憐憫の情を寄せるこの精神には、イギリスのロンドンで生まれ、アメリカ・ニューヨークでその対象が子どもを含むものへと拡大され、再びロンドンへと逆輸入された。そしてさらに、その子どもを保護する際の処遇の仕方は、しだいに「社会復帰や福祉的な取扱い」となり、さまざまな理論に基づいた「治療」が試みられるようになっていく。
  ここで少し回り道になるが、人間と非人間との境が主な関心となる、動物と子どもとの関係についてもうすこし理解を深めたい。これは社会福祉学成立の背景となったフランス革命時に人権が保障された「人間」からこぼれ落ちる、「マージナルな人間」への新しいまなざしについても踏み込むことになる。
動物へのまなざし

  トマス(Thomas,K.)によると、功利主義者が「最大多数の最大幸福」を唱えるとき、誰の幸福かといえば、「奴隷や子ども、罪人や狂人を問わず、主として人間」の幸福であり、実は「不可避的に動物も含」(Thomas[1983=1989:263])まれていたという。なぜ動物までもそこに含めなくてはならなかったかといえば、「奴隷や子ども、罪人や狂人」は動物と同様であるとみなされ、「劣った人間」と位置づけられてきた歴史があったからある。こうした「劣った人間」を救うためには、動物をもその対象に含まなければならない、当時の感覚があったといえる。トマスは18世紀のイギリスにおいて、貧民や女性、他民族、他宗教・他宗派の人々は動物のメタファーで形容され、人間と動物との境界線上に配置されていたことを検証している(Thomas[1983=1989:51-65])。
  「問題は彼ら(=動物・筆者注)が理性を動かせることができるかでも、また、彼らが言葉を使えるかでもなくて、彼らが苦痛を感じることができるかである」とベンサム(Bentham, J.[1780])は述べた。彼がこういう時、その動物の幸福を損なうという功利主義的な理由だけで、「虐待」者を非難できるようになった。宗教やモラルを持ち出さなくても、苦痛を感じることのできる動物7)であれば「愛護」すべき対象となるのである。また元・功利主義者で、ベンサムに「満足せるブタでなくして不満を抱いたソクラテスであれ」と批判したミル(Mill,J.S.)ではあったが、動物を虐待から守ることについてはベンサムと同様に熱心で、動物愛護協会にも関わっていた。イギリスでは既に1820年代に法律による動物の保護は始まっており、この頃それを具体化するための団体がいくつか生まれていた。
  ところでミルは1868年に動物愛護協会の副会長の職をある理由で断っている。その理由とは協会の仕事が社会的に影響力のない階級の犯す違反だけに限られていたからだというものであった(Thomas[1983=1989])。つまり、ミルは動物愛護協会の攻撃する相手が下層階級に焦点が絞られていることに抗議したのである。確かに動物へのまなざしが変化する以前では、ペットは上流階級の象徴として飼われていたが(Thomas[1983=1989:156]、Darnton[1984=1986:103])、上流階級に属する者は下層階級に属する者よりも動物保護の意識が高かったかといえばそうでもないらしい。ダーントン(Darnton,R.)は親方夫妻の飼い猫を殺すことで「労働者の叛乱」を企てた若い徒弟の物語(18世紀初頭)について検証するが、ここで猫をペットとしてかわいがる親方の妻は、睡眠を脅かす多くの野良猫の退治を命じている。彼女は、お気に入りの猫以外の猫やその他の動物の生命には無関心なのである。こうした行動は動物全般へ憐憫の念を投げかける、19世紀にみたような動物愛護運動と同様のエトスとはいいがたい8)。
  動物保護を訴えるミルがなぜその活動を下流階層への「啓蒙」と読み取り、それに対して不満を抱いたのであろうか。ターナー(Turner,J.)はここで、近代化と動物愛護との相関関係を指摘する。彼は工業化に伴って、それまでの農業生活では経験することのなかった規則正しい生活が始まったことが、伝統的な娯楽であった「牛いじめ」廃止の原動であったという。そして、イギリスの都市部周辺では、19世紀に入ると急速に姿を消すこととなった。

牛いじめ廃止と児童虐待防止協会

  「牛いじめ」とは熱狂をもたらす人々の娯楽であり、賭け事にふさわしいものであった。

  これら人気のある娯楽のなかで、牛いじめが最も暴力的で血なまぐさかった。規則は簡単だった。地面に立てた杭に、自由に動けるだけの長さのロープで牛をしっかりとつないでおいて、たいていはそのために特別に飼育した犬をけしかける。怒り狂った牛は身を守るために、不運な攻撃者を角にかけて投げ上げたり、振り回したり、突き刺したりし、一方、犬たちは懐に飛び込み、万力のような口で、牛の最も敏感な唇や鼻の穴にかみつく。攻撃する犬の巧みさ、牛の粘り強さ、牛が苦しみもだえて上げる吠え声、腹を切り裂かれて空中に投げ上げられる犬、大量のビール、銀貨がチャリンと鳴る音、これらが全て混じり合って熱病のような騒ぎと興奮を作り出した。
(Turner[1980=1994:36])

  しかしこうした血をみるスポーツは、近代化しつつある社会にとって都合のよいものではなかった。「結末が動物の耐久力にかかっているので何時間も続き」、「賭博や飲酒を伴う」ので、そのような娯楽は「倹約よりは浪費を、節約と規律正しさよりもだらしなさを助長」(Turner[1980=1994:45])するものとみなされるようになっていく。つまり牛いじめに伴う人々の熱狂は、モラリストや福音主義者の見地からはもちろん、資本主義の精神と相反し、都市的生活様式とも衝突するものであったといえる。しかしながら、工場などで働く人々はこうした「堕落して」「野蛮な」この見せ物に熱中したのであった。
  トマスによると17,18世紀にあっても「残酷なスポーツを廃止しようとする圧力の多くは、新しい労働階級をより水準の高い公共秩序と勤勉な習性へ訓育しようとする願望からでていた」そうだが、産業革命以後ではターナーと同様の考察をしている。つまり「動物の虐待を禁止する1835年の条例は、ものいえぬ動物を苦しみから救い、同時に<人民の風俗紊乱>を防ぐ意図のもとに公布されたものにほかならない」(Thomas[1983=1989:263])ものであった。動物愛護協会とは、下層階級の教化のために中産階級が中心におこなったものであり、実際起訴されたのも、初期の頃はほとんど労働階級の人々であった。
  弱者に対して憐れみの感情を寄せるこの潮流が、中産階級の目論見だとすれば、子どもに対する19世紀後半からの子どもに対するまなざしの変化も同様のことがいえるだろう。なぜなら上述したように、19世紀において動物と子どもとは互いに浸透性を有していたからである。しかしながら、初めて動物愛護協会のバークが子どもを救いの対象に加えたのは1874年のことで、動物の救済に比べてかなりの後れをみせている。
  ターナーは17世紀後半から動物に対する人々の態度が変化してくると論証している。その要因として、人間は根本的に動物であるという科学的研究が蓄積されたこと、18世紀に人道主義的感受性が興隆をみたことなどをあげている(Turner[1980=1994:1-25])。例えば、科学的研究からの影響として、解剖学は人間と動物の身体が原理的に類似し、多くの場合、同一の器官を有していることを証明した。さらに解剖学者の視線は精神という(それまでは人間のみがもつとされていた)領域にまで及ぶことになる。「神経学的実験によって、感覚器官の働きは人間においても動物と全く同じであることが示唆された」からである。
  また、ダーウィン(Darwin, C.)を待つまでもなく、動物の「進化」は人間と動物との境界線を不明瞭なものにした。

  動物の生命は、軟体動物のような低いものからはじまって、昆虫、魚、鳥、獣の無数の主を経て、理性の領域に至り、犬、サル、チンパンジーの理性は、人間の理性の最も低いものと密接に結びつくので、簡単には区別できない。理性は、野蛮なホッテントット人における最も低いものから、学習と科学の助けによって進歩し、次第に高まる人間の知力の様々な段階を経て、ベーコンあるいはニュートンのような人間において頂点に達する。
(Jenyns[1782])

  ダーウィンが『種の起源』において明らかにしたことは、進化理論であったが、この理論は秩序ではなく混乱を引き起こした。進化の線は歯切れの良いものであっても、人種や能力の異なる人間、多種の動物などを、この線に沿うように整然と並べることは至難の業であった。その時、貧民や女性、他民族他宗教・他宗派の人々といったカテゴリーに属するものたちは、グレーゾーンにおかれることになる。
  例えば、ダーウィン自身も、この傾向を促進している。『人間の由来』(Darwin[1871=1924])の主題の一つは、「野蛮人」と動物の決定的相違を明らかにすることであった。それは同時にその近似的性質を証拠づける作業ともなった。「ダーウィニズムは、科学的妥当性とは無関係に、『人間と動物の共通の起源を描き出して、一つの疑問の余地のない』道徳的真実を教えてくれた」(Turner[1980=1994:107])のである。動物愛護の運動家である、フランシス・パワー・コブ(Cobbe, F.P.)も、「未開人」に「人間」の称号が与えられたことに対して違和感を主張している(Thomas[1983=1989:283])。
  こうした傾向は、子どもに関しても同様の混乱がみられる。ジャコビアン時代のある著作家は「子どもとは何か、人間の姿をした野獣ではないか。若者とは何か、馬勒をつけていない野生の仔ロバにすぎないではないか」(Thomas[1983=1989:53])と述べている。また19世紀末、イギリスの教科書に大きな影響を与えたオクスフォード大学教授のフロード(Floud, J.A.)は『西インドのイギリス人』のなかで次のような一節を記した。「黒人は子どもであり、お人よしの動物にすぎない。自由人になっても心のどこかで劣等感を抱いている。彼らは白人に服従し、そして犬のように白人から指導を受けるべきだ」(伊野瀬[1992:141])。
  19世紀において、動物とマージナルな人間とは、科学的にも浸透性をもっていた。ここで動物と子どもとは同じカテゴリーに属していたのにもかかわらず、憐憫の情が社会的に組織されるのに時間的ずれが生じたのは、なぜだろうか。1881年、児童虐待防止協会の設立にあたり、協力を求められたシャフツベリー伯爵(Shaftesbury, Anthony Ashley Cooper,3rd Earl of)がそれを断った理由がそれへの回答を用意してくれる。

  そんなにもプライベートで、家庭の内部に関する性質のものは、
法の支配するをこえている。
(Hendrick[1994:50])

  ちなみに、彼は英国動物愛護協会の副会長、および生体実験に供される動物を守る会の会長に就任していた(Turner[1980=1994:62])。つまり、彼は虐待された動物に対しては手を差し伸べたが、被虐待児童に対しては、親の自律性を考慮すると躊躇せざるをえなかったのである。


第3節 近代家族と児童虐待 ─性的虐待に関する考察

「性的虐待」が犯罪となる日

  1989年11月20日の第44回国連総会において全会一致で「子どもの権利条約」が採択された。日本でも大きな話題となり、「大人同様の権利を子どもに付与された条約」へのさまざまな反応がみうけられる。「年齢や成熟度に従って」、あるいは「公共の福祉に抵触しない限り」という「制約」(福田垂穂[1991:53])が設けられ、第5条では「親の指導の尊重」が謳われているなど、子どもを未成熟で保護すべき対象であるという「大人同様の子どもの権利」とは相反する要素も盛り込まれている(子どもの権利条約に関する日本での議論は、本章5節参照)。
  条約第5条の「大人の指導の尊重」など、「子どもの権利条約」における「保護主義」の存在は日本においても論争の要となっている。これは、時代背景から考えると、英米で高まっていた児童政策に関するバックラッシュの気運が見逃せない。当時は子どもに関する取り扱いについて、ある程度家庭の裁量を尊重し、公の介入を最小限に押さえるべきだという世論が多くを占めた時期でもあった。バックラッシュについては後述するが、これの呼び水となったのは、性的虐待に関する人々の、しばしば好奇心に満ちた関心の増大である。それにともなって、性的虐待の報告件数も急増した。この増加しすぎた報告件数が、逆に性的虐待に対する関心が過多であるとの批判を受け、みずからの首をしめる結果となったのである。
  さて、このバックラッシュをもたらすほど社会の注目を集めた性的虐待問題であるが、その歴史をたどるとき、よくギリシャ・ローマ時代の「性的虐待」が言及される。たとえば、ギリシャ人の少年愛や、プラトンやアリストテレスらがそれを推奨したことが話題にのぼる(Kahr[1991=1993:124-127]、北山[1994:56]など)。カー(Kahr,B.)は、ギリシャ時代の慣習でもあった、幼児殺しを含む子どもへの悲惨な待遇を全て、「児童虐待」と呼称している。
  カーはここで、ギリシャ・ローマ時代のいわゆる「慣習」、強いていえば「文化」に対して、「児童虐待」と明確な判断を下し、その歴史的端緒をそこに求めている。しかしながら、それは「児童虐待の歴史」の始まりや初期形態ではなく、それは単に、「年少者が年長者によって、身体・心理的危害を加えられること、ネグレクト的行為、及び両者の間で性的行為がなされることの歴史」である。真の「児童虐待の歴史」はこれらの行為が虐待と認識されたときに始まる。また性的虐待は身体的虐待と異なり、傷痕などが残りにくく、刑法でもって罰することが困難であり、以上でみてきた身体的虐待と異なるタブーの系譜が存在すると予想される。ではいったいいつ頃、真の意味での「性的虐待の歴史」が始まったのであろうか?
  ところで、『不思議の国のアリス』の著者、ルイス・キャロル(Carroll,L. 本名、Charles Lutwidge Dodgson、オックスフォード大学キリスト・チャーチ数学講師)も少女の裸体をカメラに収めた時点で、異常性癖者となろうか。しかしながら、彼がその頃普及し始めたカメラを携えて少女を撮りだした、ヴィクトリア朝後期は、子どものヌード写真は万人が好む被写体の一つにすぎなかった(Lewinski[1987=1989:103])。キャロルは、1856年に24歳で写真を始め、それにのめり込んでいくが、ある時期、突然それをやめてしまう。彼が写真をやめた理由について、レヴィンスキーは「彼の遺書を見るかぎり倫理的な罪悪感を抱いていた」(Lewinski[1987=1989:100]、Gattegno[1974=1997:269])からだという。そして遺書にはすべてのヌード写真をモデルか彼女達の両親に返却するよう指示がしてあり、それができない場合はすべて破棄するよう書かれていたそうである。
  写真をきっぱりとやめた1863年3月25日、キャロルが子どもの清純さに別れを告げ、セクシュアリテの対象として子どもを受容した転機だともいえる。彼は子どもをセクシュアリテの対象として見ないことを、カメラをやめることで表現したが、これはキャロルが子どもをセクシュアリテの主体と認識したことの裏返しでもある。

  イギリスの刑法上、近親相姦が罰せられるようになったのは、1883年のことであった。それ以前では、この近親相姦のタブーは主に教会が掌握するものであり、1650年のthe Puritan Commonwealthでは、それを犯したものに対して、死刑を科していた。しかしながら、これらのほとんど訴えられることがなければ、実際に罰せられることもごく少なかったという(Hendrick[1994:65])。この理由にウォール(Wohl,A.S.)は、@近親相姦がヴィクトリア時代の中流・上流階級の人々に好まれる話題ではなかったこと、Aまたこの存在を承認することは、彼らが生きるブルジョア家庭の理想像を崩壊せしめる危険を伴っていたこと、Bレッセフェールの風潮のなか、国家が家庭に介入することを好まず、単に、下層階級に多発する性風俗の堕落としてみなされたことをあげている(Wohl[1978:197-216])。
  こうした流れのなか、1908年にインセスト法(Incest Act)が施行されるが、これは刑法の外部で、明確に近親相姦を禁止したものとして画期的であった。1890年代から、同法の成立に向けての運動が広まっているが、この運動は「労働者階級の居住環境が暴露されたことを通じてなされた、1880年代半ばの『インセストの再発見』」(Hendrick [1994:65])に端を発している。ちょうどこの時、社会改良家9)たちがきそって、都市部の底辺、「暗黒世界」を暴いて問題化していったのだが、インセストに関するこの新しい取り決めも、それへの対処の一つであった。またこの運動は、女性団体や児童虐待防止協会、そして警察によって担われたことに注意したい。例えば、女性団体である「国家自警協会」(National Vigilance Association)は1901年にこの運動を「国家的純潔聖戦」(national purity crusade)と位置づけて活動をおこなっている。ヘンドリックが述べるように、この法は社会純潔運動(social purity movement)として機能していた。

  1885年のCriminal Law Amendment Act と1908年のインセスト法(Punishment of Incest Act)は、性的自由に対する姿勢や、社会機制の意図、家族イデオロギー、子ども/大人の概念や、公共のモラルの展望といった多くの重要で重複する事柄を含んでいた。これらの法はどれも、性的虐待から子どもを保護するためのみ、あるいはそれを主な関心としたものではなかった。これらの先駆的な法は、同時に、親権(parental ownership)の保護、売春と同性愛の抑制に関与し、特にインセスト法は、公共のモラルの統制することを意図していた。これら二つの法は、それらが性や家族、ジェンダーや年齢のつながり(age relation)に関する、改革者の理想(たいていは中産階級にその起源をもつ)の宣言であったという、確固とした象徴的意味があった。それらは激しい苦悶と不安の時代に、公共と個人のモラルに必要な法的規定を設けようとした。
(Hendrick[1994:67])

  1980年代には、アメリカ、イギリスともに性的虐待の報告件数が激的に増加する。ちょうど100年前の1880年代、イギリスにおいて性的虐待へのまなざしが変化したことが「インセストの再発見」(Hendrick[1994:65])であるとするならば、1960年代からのこの意識の高まりは「インセストの再々発見」ということになろうか。しかしこの100年の間に子どもをとりまく環境は激変した。100年前ではそれが社会純潔運動の一端を担ったのに対して、現代ではどういった文脈のもとにあるのだろうか。

性的虐待者は男か女か

  日本で性的虐待が話題になったとき、それを巡って二つの立場が形成された。簡単にいえば、虐待者は男であるという主張と、女であるという主張とである。この不可思議な対立は1980年代に日本で起こったが、これは日本に限らず、フロイト的分析の是非をめぐる問題と通低するためここで少し検討してみたい。そしてそれはソーシャルワーカーが取り扱うべきであるとされる児童虐待問題に関して取り交わされた諸理論の攻防でもある。
  1984年から日本で子ども虐待についての発言をし始めたという森田ゆりは激しい憤りを顕わにさせながら、次のように訴える。

  母子相姦神話は今だに根強く信じられているが、散発的に起きたいくつかの母子姦ケースをもとに、マス・メディアがなんの裏付けもなしに捏造したものと考えてよいと思う。
(森田[1993:89])

  十年前は、「日本では息子過保護の教育ママによる母子相姦が問題だけれど、あなたのいうような虐待が日本にあるかどうか」とか「日本の子ども虐待の特殊性は母子相姦ですよ」といった反応を何度も受けたものであった。(略)/男性中心の日本社会は、母親に対して、子どものためには自分を犠牲にすることを少しもいとわない聖母であることを要求します。虐待した父親の行為はみのがせても、母親の虐待行為は聖母幻想を裏切る許しがたい極悪非道行為として徹底的に攻撃されるのです。
(森田[1995:15])

  当時の雑誌をみると、なるほど、森田のいう「捏造されたもの」がうかがえる。当時、一橋大学の名誉教授であった南博さえも「妻への不満が“家庭内性愛”の温床生む」というタイトルとともに、雑誌『世界週報』においてこの立場を支持している。南によると、日本では母親と息子の間の性的虐待が起きやすいという(他にも、南博[1984:43])。

  たとえば夫の単身赴任、浮気などからくる性的な欲求不満が、そのはけ口を息子に向けることはしばしばである。(略)/このケースでは最愛の息子を独占したいという気持ちから、息子をまず性的な対象として息子の性的な欲求を満足させようとする。フロイトはかつて「母親は息子にとって最初の恋人である」と言ったが、逆に言えば、「息子は母親にとって夫に代わる恋人である」ということにもなる。
(南[1986b:22])

こうした見方は、1990年代にはいっても依然、まことしやかに語られている。例えば、児童虐待に関する問題意識を普及されたと好評の、漫画『凍りついた瞳』(雑誌『YOU』に連載)でも、母子姦が多い「実態」に登場人物が驚いているシーンがみられる(ささや[1995:177-179])。
  この南の論理は、フロイト理論を下敷きとして、日本では「母子相姦が多いのにくらべて、アメリカでは父子相姦が多いようです」(南[1984:43])という日米比較文化論の一端を担っているようである。こうしたいわば日本特殊論は、フロイトの影響を受けた心理学をはじめとする複数の学問的研究においても展開された。社会福祉学分野における児童虐待問題の先駆的研究である井垣の論文においても、当時の日本の現状を特徴づけるために、その河合隼雄の『母性社会日本の病理』からヒントを得ようとしている(井垣[1985a:51-52])。
  この論理に沿っていくと、日本では「男性の同性愛に非常に寛大」(南[1984:139])という伝統というのも自明のものとされる。なぜなら、「男の子が母親に対して強いマザーコンプレックスを持っている場合」、女性一般に「無意識のタブーがはたらき、女性回避へと向かい」、「同性愛の傾向、男性性の欠如、女性への恐怖心などから、インポテンツになることもある」ことが比較的多いことが、日本の「伝統」だからである。池田も自ら関わった同性愛のケースを記載している(池田[1987:65-69])。もちろん、ここで同性愛は、児童虐待がもたらす一つの「病症」としてみなされており、ゲイ・カルチャーの気運などとは真っ向から対立するものである。
  荒堀憲二も同様に、母子密着の「弊害」を「我が国の伝統」に重ねている節があり、南に類似した見解を持っている(荒堀[1994:26-27])。荒堀が1991年に「インセストの実態と発生要因を探る目的」でおこなった調査では、サンプルとして父−娘関係よりも母−息子関係を10倍以上も多く検討しており、母−息子間の性的虐待がますます問題になってきつつある、という見地に立つ(荒堀[1994:17])。実際、1980年なかば頃の電話相談に関しては、母−息子間の相談が圧倒的に多かったらしい(池田[1991:49])。
  また、これらの母−息子間の性的虐待を問題視する立場の者は、その環境的要因を、現代社会の病理的様相にもとめることが多々ある。南博は「日本における母子相姦の例」として新藤兼人の映画『絞殺』をあげ、「家族内性愛」は「苛烈な受験戦争、父と息子の対話不在、夫と妻の間の、長い間の対話不在」など、社会のゆがんだ構造が生み出す一つの病理であるとの理由付けがなされる(南[1984:34-38])。
  では、虐待者は主に男であるという主張を裏付ける、日本における調査をみてみよう。1983から1984年にかけて、国際児童虐待常任委員会による虐待の定義(身体的虐待、保護の怠慢や拒否、性的虐待、心理的虐待の4種)に準拠した、調査が「児童虐待調査研究会」によってなされた。ここでサンプル数は少ないが、「母親より、父親(85%)がめだって多く、うち実父(55%)と継父(21%)もともにより多くなっている」(田村[1985:24])という結果が出ている。また精神医学の領域で行われた調査でも「性的虐待では継父・義理の叔父・母と同居の男性などからの虐待が主であった」(亀岡他[1993:9])という結果が出ている。
  これでは父子姦と母子姦、両者の主張はともに調査によって裏付けられたことになるが、一体どちらが正論なのであろうか? 池田由子も「近年電話相談などで訴えが多くなってきたという母親と息子の近親相姦は、少なくとも福祉の問題としては浮かび上がってはいない」(池田[1985:81])と指摘している。

  心理的インセストはさておき、実際のインセストはそれほど多いものとは思えない。/何故なら、臨床場面にも福祉相談にもほとんどあらわれてこないからである。家庭が孤立し、崩壊し、その教育的機能を失っているような要救護階層では、もっとも早くこれらの病理が把握され得るからである。また、女性の特質として男性より攻撃性が少ないということも挙げられよう。(略)実母とのインセストを訴える電話相談の中には、現実の事件ではなく、彼らの性的空想や欲求の投射が反映しているものも含まれているのではないかというのが、私の結論である。(池田[1991:59])

  また斎藤学も池田の指摘を受けて、この現象を「この奇妙な、“日本的近親相姦”」(斎藤[1992:212])としてその存在に疑問を抱いている。
  森田ゆりによれば、「10年前」(1980年代のこと。森田[1995:15])は主に母−息子間の性的虐待が注目されていたのだが、現在では父−娘間の性的虐待に問題がすり替わったことになる。しかしながら、実際に起こる虐待自体が、この短期間の間に激変したとは考えにくい。現に、ちょうどに10年前に実施された児童虐待調査研究会の調査(1985年)では父−娘間のそれが圧倒的に多いという報告をしている。それにもかかわらず、母−息子間の性的虐待が問題になったのは、それに目を閉ざさせるある力が働いたとしか考えられない。つまり、フロイト(Freud,S.)に通じる精神分析的言説が10年前に優勢であったが、児童虐待の読み取りを試みる諸言説の攻防がくりひろげられた結果、それがこの10年間で衰退の道をたどったということである。

フロイトの功罪

  フロイトの「エディプス・コンプレックス」とは、異性の親への強い愛情がもたらす心の葛藤のことであるが、ここでは患者のインセストの報告がある場合、幻想の産物とみなした。子どもに幼児性欲があると確信するこの「衝動理論」は、フロイトがそれまで掲げてきた幼児期の性体験が精神的疾患の病因だとする説、いわゆる「誘惑理論」を放棄して打ちだされたものであるとはよく知られている10)。衝動理論が初めて世に出る2年前の『ヒステリー研究』(Freud[1895])のなかで、フロイトはどんなヒステリーや強迫観念症、神経症、慢性のパラノイアなどでも、その病理としてかならず幼児期の性的体験に溯ることができるという「誘惑理論」を明らかにした。

  十八の症例(純粋ヒステリー、および強迫観念と混合したヒステリーで、男性六名、女性十二名よりなる)のいずれにあっても、わたくしは、前述のような、幼児期における性的経験を知るようになりました。わたくしのあつかった症例は、性的刺激の原因に応じて、三つのグループに分けることができます。第一のグループは、暴行に関するものですが、それはたいてい、見知らぬ成人男子の側から、女児に対して一回かぎり、もしくはときおり加えられる強姦のことです。ただしこのばあい、子供の同意は問題とされないから、この体験に続いて起こる結果としては恐怖が優生を占めることになります。第二のグループを形成する症例は、これよりずっと数多く見られます。要するに、子供を世話する立場の大人が ─それに子守娘、乳母、女家庭教師、先生、遺憾なことにはあまりにもしばしば見られる例としては、身近な親戚などがありますが─ 子供と性的交渉を持つようになり、その子供と外形的に ─精神的な面についてもそれが成立っていますが─ 恋愛関係を結ぶのです。しかもそれが長年にわたることがよくあります。最後に第三のグループには、子供どうしのだけの関係、つまり性を異にした二人の子供、しかもたいていは兄妹のあいだの性的関係が数えられますが、この関係は、往々にして思春期を過ぎるまで継続され、当事者の双方に持続的な結果をひきおこします。わたくしの症例の大部分では、このような病因が二つ、ないしはいくつかずつ結合して作用していることが明らかになりました。しかも、個々のばあいには、種々の側面からする性的体験の集積はまさに驚くに足るものでした。
(Freud[1895=1975:350])

  その後の人間科学に大きな影響を与えることになるフロイトの精神分析は、もとはといえばその病因を幼児期の性的な実体験に存在するという説を、「性的な実体験」ではなく単にそれを幼児の抱く幻想であるとみなし、純粋に心的現象の次元だけで分析をおこなうよう転換した時点から人々の注目を集めるようになった。前者にはクライエントの幼少期に起こった性的体験という外部条件を必要とするが、後者はクライエントが父親に犯されることを夢想する「倒錯的、近親相姦的で殺人狂的な夢」(Freud[1917=1978:414])のみで精神分析が成立するのである。
  フロイトが児童期の心理を精神分析学の考慮の対象領域に加えたことは、第2章で述べたように、社会福祉学にとっても大きな貢献であった。しかしながら子ども期の性的な実体験を精神異常の病因とみなす、誘惑理論を放棄したこと自体に関して、児童虐待問題が話題になることと平行して批判も多くでてきた。アリス・ミラー(Miller,A.)は『禁じられた知』(Miller[1981=1985])において、フロイトの掲げたこの衝動理論を全面批判した。彼女のこの試みは、性的虐待の存在を重視したものである。
  ミラーはフロイトが「おとなの無意識のなかに存在する乳幼児期の苦悩(つまり、虐待を受けたという事実、筆者注)をかいま見、それに触れ」(Miller[1981=1985:167])たのにかかわらず、その誘惑理論を放棄するに至った結果、社会はその問題に目を閉じることになったと批判する。このことに関して、フロイト自身は1897年のフリースあての書簡のなかで、誘惑理論は虐待行為自体の「ありそうにもなさ(非蓋然性)」に敗れたと記している。誘惑理論を放棄したフロイトは、「時代の子」(Wolff[1988=1992:373-383])であり、「強力な父権の支配する家庭像に囚われてい」(Miller[1981=1985:167])たとしてその狭隘さが批判の対象となる11)。

  精神分析の主流を占める衝動理論はこのように、精神的外傷の存在を否定し、むしろ自分に罪を着せようとする患者の傾向を助長します。つまりこの理論は、子どもが性的、自己愛的に悪用されている事態を暴くのではなく、ごまかし、わからなくしてしまうのに役立つのです。
(Miller[1981=1985:9])

  池田も「近親姦 −親による性的虐待− が、このように、広範に存在するにもかかわらず、現在まで無視されてきたのは、フロイトをはじめ多くの精神分析学者たちが、子どもが親に暴行されたという考えは、原光景と同じく幼児期の空想で、現実のことでないと結論づけていたためといわれる」(池田[1987:53])としている。しかしながら、逆に、フロイト理論が後退するなかで、性的虐待問題がにわかに注目を集めるようになったということもできる。フロイト批判と性的児童虐待の時期が重なっていることを考えると、そこに何らかの相関関係を類推することができるのではないだろうか。
  
性的虐待のサイクル説 ─フロイト主義 v.s.フェミニズム

  「性的倒錯」が次々と感染していくような論理がある。つまり、「虐待する親は虐待されていた子ども」であり、「虐待する子どもは将来の虐待者」なのである。この「虐待のサイクル説」は性的虐待のみならず、あらゆる虐待に当てはまるものとされ、児童虐待を語る際になかば常識とされている。このことはさらに、「虐待される妻は虐待される子の母」(斎藤[1992:171-195])と、「バタード・ウーマン・シンドローム」(battered women syndrome,夫や恋人から殴打される女性症候群)にまで、その範囲を広がり、その病理が蔓延っていく様子がうかがえる12)。
  また性的虐待に限らず、他の虐待行為が非行などの逸脱行為の原因とされる場合も多い。例えば、1968年イギリスで起こった11歳の少女、マリー・ベルによる3歳の幼児殺害事件も、少女が未成年の母親による虐待が、そもそものきっかけであったとされている(Sereny[1972=1980])。
  カー(Kahr,B.)はこの虐待のサイクル説をさらに広範なものとし、ギリシャ・ローマ時代の「性的児童虐待」にもその病理を観察している。彼は、年長者の少年愛の対象になった「虐待を受けた子ども」は、「肉欲の犠牲者」(Kahr[1991=1993:124])となった時、虐待のサイクルの一端を担い始めると述べる。池田もこうしたサイクルを「虐待のチェーン現象」(その他に、「虐待の世代間連鎖」(内山[1997])など)として、次のように述べる。

  虐待された子どもの中には、攻撃する親と同一化して、衝動的、乱暴な大人となり、暴力団や犯罪組織と関係したり、わが子に暴力をふるう親になることも多い。適切な治療的な介入のない限り、被虐待児→虐待する親という、何代も続く悪循環が始まるのである。
(池田[1987:154])

  イギリスの女流作家、ルース・レンデルの『身代わりの樹』では被虐待児の行末がモチーフとなった。池田はこの小説の内容について、「その父親に虐待された被害者キャロルはわが子を虐待する加害者となり、自分も性交のときに殴られることを求める、加虐的、被虐的な性格異常者に育っている」(池田[1987:156])と分析している。ここでは南と同様、広い意味での虐待と、性的異常癖との連関を示唆している。ここでは性的に虐待された者のみならず、身体的に虐待された子どもさえも性的倒錯の予備軍という同一のカテゴリーに分類される力が働いている13)。
  では、次にこうした心理主義的サイクル説に根本的に対立するフェミニストの主張をみてみよう。内藤和美は子どもの性的虐待問題を「女性への暴力、子どもの虐待、性的暴力という三つの人権侵害問題の交点にある問題」だとし、前二者は「構造的弱者への暴力」であると強調する。内藤のいう「構造的弱者」とは、ある社会において構造的に常時存在する劣位の集団のことで、具体的には「女性、有色人種、マイノリティー、子ども、障害者、発展途上国など」(内藤[1994:42-54])をあげている。この文脈では性的虐待という病理を社会の「構造的力関係」(内藤[1993:469-71])に原因があるとするため、「サイクル説」のような解釈をあまり必要としない。フェミニストたちの論理によると、たとえばある家族が3世代にわたる「虐待のチェーン現象」を呈しても、社会構造上の不平等がもたらす、社会的・金銭的な条件に病理の要因を求めることになる。
  一方、虐待のサイクル説を完璧に否定する立場のものもいる。森田ゆりは「被虐待児は大人になり、親になると、今度は自分の子どもを虐待することが多い」というのは「神話」だとして、「事実」を記述している。

  いくつもの調査から、虐待の加害者の多くが子ども時代に虐待を受けた経験があることはわかっています。加害者はかつては被害者だったわけです。(略)しかし気をつけなければならないことは、その逆は事実ではないということです。すなわち虐待の被害者がのちに、加害者になる可能性が強いとはいえないのです。この神話は日本では今もなお子ども虐待問題の専門家と思われる人たちですらが信じこんで、公の場で語ったり、書いたりしていますが、大変な間違いです。/ この神話は虐待の被害者たち、あるいは子ども時代の虐待のから立ち直ろうとしているサバイバー(体験者)たちに大きな心理的ダメージを与えています。この神話ゆえに、彼らの中には自分は加害者になるべく運命づけられていると思いこみ、子どもをつくることをあえて避けたり、不必要な罪悪感や不安にさいなまれていることがしばしばです。
(森田ゆり[1995:12])

  問題解決を試み、虐待の心的後遺症から立ち直ろうとしている「サバイバー」14)にとって、「虐待のサイクル説」が運命的で避けられないものならば、救いは精神医学・心理学的な治療的介入のほかにどこにも残されていないということになる。これに対して、森田は被虐待児(者)のエンパワーメントを試みる。つまり、被虐待児(者)自らを肯定し、その内に秘める「パワーや個性を再び生き生きと息吹かせ」(森田ゆり[1998:17])ようとする森田にとってたとえ、このサイクル説は、「神話」にすぎないものとして映るのである。
  「虐待のサイクル」を想定する、もしくはそれを強調し、問題化するのは、精神医学および心理学といったなんらかの治療的なはたらきかけを試みる営みではないだろうか。彼らが活動するためには、その前提として虐待および虐待のサイクルをそれぞれの言説のなかで解釈されていなければならない。そこで初めて、それらの言説のエージェントとしての専門家が必要不可欠のものとなるのである。例えば、前出の池田の解釈(池田[1987:154])は、「適切な治療的な介入のない限り、被虐待児→虐待する親という、何代も続く悪循環が始まる」という但し書きが専門職介入の直接的なきっかけとなっている。逆に、ある病理を社会構造上の不平等の結果生じたものとしてみるフェミニストや、そうした病理は社会的に構築されてきたものにすぎないという理論を支持するものたちは、この虐待のサイクル説を必要としない。
  しかしながら、このエンパワーメントを語る際、「虐待のサイクル」は完全に廃棄されたわけではない。なぜならエンパワーメントによって当事者の内なる力を発揮し、自己解決力を持てるように働きかける目的は、やはり虐待のサイクルや他の悪影響から脱するためになされるからである。ここで、エンパワーメントが実は前提としている、虐待のサイクル説の存在が浮き彫りになる。例えば、幼少期に虐待を受けたとして、被虐待児がそれを真の愛だと思っていたり、当然のことと理解されているとしたら、そこにエンパワーメントの存在理由はなくなってしまうからである。


第4節 権利主体としての子ども

児童の権利と優生思想

  児童の権利について何らかの考察が試みられる時、必ずといっていいほど1900年に出版されたエレン・ケイの『児童の世紀』が引用される。彼女は「子どもの親を選ぶ権利」を第1章にすえて論を展開しており、現在に通じる子どもの権利運動の先駆者の一人として名前があがってくる。井垣章二はケイの「子どもの親を選ぶ権利」について、「子どもは健やかに生まれ愛情ある世話をうけることによって基本的必要が充たされ、つつがなく育っていけるのであり、それは親がどうであるかにかかっている。子どもはひたすらよき親を望むが、その親はどういう親かわからないし子どもは親を選べない。だからこそ親はよき親であらねばならない絶対的な義務があり、子どもはそれを要求する権利があるというのである」(井垣[1985:23-24])と解釈している。
  ここで注視しなければならないのは、上の解釈にある「よき親」に含蓄する内容である。井垣は「よき親」について深く言及しなかったが、これはこの字面では読み取れない、多くの意味を含むものである。エレン・ケイがここで主張する「子どもの親を選ぶ権利」とは、ワロン(Wallon, H.)が「ファシズム」のもとでは、「身分や民族や血統の区別なく、あらゆる子どもたちを、彼らの人格が完全に開花」(Wallon[1960])する機会を失いかねないと危惧したことを思い起こさせる。なぜならそこには優生思想の片鱗がみうけられるからだ。
  エレン・ケイが母性主義的フェミニズムと深い関わりを持ちながら主張する、「子ども
の親を選ぶ権利」の子どもの権利とは、「遺伝病またはその他の悪い素質を負わせて、健康と幸福の可能性を奪う状態」(Key[1900=1979:51])を回避するために、親に医学的に適切な結婚を提案するというものである(小玉[1996:201])。ケイは「医師の結婚適格証明書を実際に取らせることは」、「社会にとって大切なこと」であるとさえ提案している(Key[1900=1979:52])。ここで彼女の想定する権利とは、「生まれてくる子どもにとっての問題ではなく、『適切な』子どもと『不適切な』子どもを分類し、『適切な』子どもを志向する大人の議論」(小玉[1996:201])であるといえよう。ケイの指す「よき親」とは、こうした優生学的プロセスから逸脱しない「よき親」のことを意味していたのである。
  ケイはその反面、「子どもの権利条約」(1989年)に史上初めて明確にされたような、革新的な子ども観を提示している。彼女は教育を論じるなかで、詰め込み教育を否定し、「家庭中心、実物教育、体罰の厳禁、階級別と性別を撤廃した学校組織、そして教育の機会均等」を推進した。そして家庭における教育について、次のように述べている。

  最も道徳に強く、かつ溌剌たる労働力をもつ青年男女を世に送り出す家庭では、子どもと親との関係は仕事仲間であり同格であり、妹あるいは弟と親切な姉や兄の間柄と同じである。(略)そういう家庭では、特別に子どものために整えられたものはないし、子どもと親は互いに別種の人間として見るようなことはない。親は子どもに、自分の仕事と自分の努力と自分の力のほどを見せるように生活しかつ行動する。いやそればかりか、喜びも悲しみも、過ちも失敗も子どもに見せてやる。このような親はさらにへりくだったり、または虚勢を張ったりすることなしに子どもの協力を得、互いに思想と意見を自由に交換しながら、目立たないように教育する。/(略)このような家庭では、率直に飲み込める理由なしでは、絶対に命令は出さない。責任は赤児のときから、子ども自身の上に課せられることになる。禁止は極く稀であるが、厳重である。というのは、禁止には常に理由があり、決して気分によるものではないからだ。母親も父親も、注意深く気はつけても、それが子どもの監視になってはならない。相対的自由は子どもに完全な自由の使い方を教えるが、禁止と統制は人間を不誠実にし、かつ虚弱にする。
(Key[1900=1979:303-304])

ここでは徹底的な子どもの権利と自由が唱えられ、子どもは「赤児のときから」その自由に付随する「責任」を身上に課すべきと説かれている。彼女は「適切な」過程、つまり優生学的に淘汰された子どもに対しては、自由な権利主体となることを推奨したのである。
  『児童の世紀』は多くの言語に翻訳されて世界的な注目を集め、教育における児童中心主義運動の一つの発端をつくったといわれている。ケイの教育思想にはニーチェとルソーの影響が大きいが、「赤児」に「責任」を課すべきだとするのも、ルソーの思想に触発された消極教育15)の踏襲といえよう。ここで彼女の教育の理想的な場所とは、自由な男女の愛による家庭のなかと、その家庭に似た自然な教育をおこなう小さな学校である。しかしながら、ここで子どもに与えられた大人同様の自由と責任というのも、教育学的な生業のなかでの一つの企みであったといえる。

子どもの「依存宣言」

  以上のように、優生思想に触発され、また児童救済・福祉運動の流れの中で初めて獲得された「子どもの権利」とは、受動的なものであったといえる。日本の「児童福祉法」、「児童憲章」、国際連合の「児童権利宣言」などなどの条文には、たいてい児童の権利について受動態(「児童は……されなければならない」、「児童は……される」など)が用いられていると揶揄されることが多い。その子どもの「権利」が、「良き親がいたならばその『保護』によって当然与えられたはずの子供の『利益』を意味していた」(森田明[1992a:307])ことを考慮すると的確な表現であるといえよう。20世紀に獲得された福祉権的な子どもの権利とは、本来、受動的なものであった。
  児童労働の規制にとりくんだ運動家の一人、マッケルウェイ(Mckelway,A.J.)が「アメリカ独立宣言」を皮肉って起草した「アメリカの児童の依存宣言」(1913年)とは、当時の子どもの「権利」に関する率直な表現といえよう。
  アメリカの児童の依存宣言
  我々アメリカの子供たちは自由かつ平等に生まれたと宣言されている。にも拘わらず我々はこの自由の国で隷属の状態にされており、健康、安全、労働時間、賃金に関する労働条件の何らのコントロールもなく、また労働の対価に関する何の権利もなしに終日終夜の労働を強いられている。それ故に、我々は次のことをここに決議する。
T 子供期には、一定の譲りわたすことのできない権利が与えられており、その中には日々のパンのための辛苦からの自由、遊び夢見る権利、夜の時間に安眠する権利、および自分のなかにあるすべてのものを発展させるための平等な機会を持ちうるような教育を受ける権利が含まれている。
U 我々は自分たちがよるべなく依存した(dependent)ものであることを宣言する。我々は依存したものであると同時に権利において依存するべき存在(of right ought to be dependent)である。それ故に我々はここに、子供期の権利を享受できるような保護が我々に与えられるよう訴える。
(Mckelway[1913=1992:306)

  ここでは親による保護を子どもが享受できる「権利」、当然与えられるべき「利益」とされているのである。特に「教育を受ける権利」は、「それが保証されていないといわゆる一般人権というものが虚しくなるという意味で、人権の基底となす権利とみなすことができる」(堀尾[1990:67][1986][1991])。この教育の権利が始めて憲法上に登場したのは1849年のプロイセン欽定憲法で、世界的に、基本的人権の一つとして憲法典の上の確立するのは、第二次大戦以後であるといわれている。
  これらは主に20世紀にはいって獲得された社会権の一つといえようが(本章第1節参照)、現在においてもそのままの形態を持続させている権利といえよう。日本国憲法第26条2項は「すべての国民は…その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」と定めており、義務教育制度を親の子に対する保護という基礎の上に組み立てている(森田明[1992a:308])。現在、子どもは学習する義務を己の身上に負っているのではない(教育基本法4条、学校教育法22条)。親権者(および後見人)に対して、「教育を受けさせる」法律上の義務が課せられているのである。もちろん日本国憲法上では基本的人権の共有主体とされているが、その被保護的性格は依然存在する。

「子どもの権利」二つ

  国連は1979年を児童権利宣言の20周年の意味をもって国際児童年と指定した。そして10年後の1989年11月20日に「子どもの権利条約」が国連総会で採択される16)。この条約採択の背景として、アメリカにおける差別撤廃運動の盛隆があげられる。この運動の余波を受けて、1966年に「世界人権規約」、1974年に「女子差別撤廃条約」を国連で採択される運びとなっている。そしてその第3弾として「年齢による差別の撤廃」(柏女[1995:66])の実現が目標とされたのだ(本章第1節参照)。まずここではこの子どもの権利条約がどのような構造になっているのか、検討してみたい。
  子どもの権利条約の採択に前後して、日本では同条約が子どもの権利を親による保護から、大人同様の権利を認めるものへと転換した、とみることが多かった(例えば、網野[1988:229-230]、渡辺[1989:104]、小坂[1997:308]など)。それは、パレンス・パトリエ・ドクトリンが支配する子どもから、市民権的自由を享受できる権利主体としての子どもへ夢の転換が図られる、といった希望に満ちたものとしてみなされていた。しかしながら、現在、こうした見方は一面的なものとされている。
  柏女は子どもの権利条約の性質を、「受動的権利」と「能動的権利」の併存と特徴づける(柏女[1995:66])。ここで子どもの「受動的権利」とは「児童の最善の利益」を図る成人の義務に対応する児童の「保護を受ける権利」であり、「能動的権利」とは「『人権としての児童の権利』すなわち、成人とほぼ同質の権利を保障する」権利のことを指す。これら性質の違う二つの権利が併存しているというのだ(その他に、森田明[1992a][1992b])17)。

図 1「子どもの権利」二つ      *カッコ内は主な責任の所在を示す

子どもの権利(P)

保護を受ける法的地位
無垢でタブラ・ラサ的な子ども像

子どもの権利(C)

子どもの権利・自由
ませた子ども像


    (P=parents,parens patraie,        (C=child)     
        paternalism)

  実はこの子どもの権利(P)こそが、工業化が進むなか、不当に搾取されてきた子どもを保護し、健全に育成するために、人々がようやく勝ち得たものであった。マルクスが『資本論T』第3編の第8章で要求するのも、この権利である。しかしながら、成人の「労働者の具体的な生活を人間的なものに保障していくためには、それまでの自由、とりわけ財産権の自由、経済活動の自由に対して一定の制裁を加えることが必要となってきた」(牧[1985:213])のと同様、子どもの「自由」に対しても制約(より重いことの多い)が課せられることになる。T.H.マーシャル(Marshall, T.H.)も指摘したように、社会的権利の保護は「なくしては機能することができない」(Marshall[1975=1981:8-9])ものであった。
  柏女はこの並立する子どもの権利について述べた後に、何を児童福祉の分野で重視していくべきか検討している。そこでは、

  @「児童の最善の利益」の明確化
  A子権の尊重

が掲げられている。@は「児童の最善の利益」を達成するため、「子どもの意見を表明する権利」(第12条)を充分に保障されねばならないと説く。つまり「成人の判断」から「児童の意見も」へ、の転換が標語となる。またAは増大する児童虐待問題を考慮して、「親権や私権に公権が介入することにより生ずる問題よりも、子権を守ることのほうが重要」(柏女他[1992:9])という思想を定着させていくための努力が必要だという(柏女[1995:74])。そこでは相克する「親権」と「子権」は、それまで伝統的に親権が強かったことを反省して、「児童の最適の権利」のために「公権」介入方策が検討されるべきと主張されている。
  しかしながら、歴史的に「子どもの最善の利益」(the best interest of the child,児童の権利条約第3条)が問題になる時には、ある「法則」がある。

  「前国家的自立性」の担い手であり、しかも家父長的な特徴をもった「『家長個人主義』の大衆社会状況における衰退」が社会立法の背景には横たわっていたのであり、保護・教育機能が低下した(あるいは新たな需要に応じきれなくなった)家族にかわって、法が部分的にその機能を引き受けるという力学がここには一貫して働いていた。その際に用いられた制度形成のシンボルが「子どもの最善の利益」(the best interest of the child)であり、「子どもの権利」であった。
(森田明[1986:13])

  子どものためを思い、「子どもの最善の権利」を口にするとき、子どもの権利は内部紛争(P v.s. C)が起こり、結局は子どもの権利(C)の影は薄くなっていく18)。柏女がこの二つの権利が併存していると述べたとしても、結局、子どもの権利(P)を強調していることからも、それは明らかであろう。今のところ、「子どもの権利」には子どもが客体となるような結末が用意されているのである。実際、子どもの権利条約などで明文化されている子どもの権利(C)というのも、一方で介入の手引となるものであった(終章第2節参照)。
  子どもは、児童福祉の場面で、世界大戦中から1960年代頃までは「恐いもの」であった(Hendrick[1994:11])19)。つまり、公共の福祉を脅かすため、介入が必要な犯罪少年や非行少年などである。その頃ソーシャルワーカーたちの眼中には、街を徘徊する「小悪党」の姿が主に映し出された。例えばイギリスではそれまで非行少年の処遇に多くを割いていたのだが、1970年代に児童虐待が「再発見」されてからは「かわいそうな」子どもたちを救うことに方向を転換してしまった。
  ちょうど、家庭に介入してくる国家機関に対抗する親の権利が、声なく死んでいった「かわいそうな」子どもの声、それまでは一部の人を除いて多くが聞き漏らしていた権利(P & C)主体としての声、これを聞きもらさまいと耳をそばだてる専門家が出現した。彼らは医学的根拠を手に入れると、それを法的根拠とし、彼らの家庭に介入する準備を整えていく。このとき専門家たちの言明は、20世紀的社会権ともいえる子どもの権利に、18世紀的自由権で彩られていた。かわいそうな「危険にさらされている子ども」の存在は、専門家自身の存在をも必然のものとしたのである。
  再び脚光を浴びるようになった「危険にさらされている子ども」の総体は、専門家を必要としたと同時に専門職体制を必要としたため、さまざまな専門職がその対応に知恵を絞ることとなった。その源泉を辿るとフロイトの「誘惑理論」にまで溯ることができるにせよ、「危険にさらされている子ども」が差異的に認識され、合理的な理解がなされ、科学的に分類されるようになり、そこから導き出される処遇方法の蓄積が急増してきた。
  しかしながら、子どもの権利(C)とはその経緯をみても本質的に、こうした知の営みのなかに融合するものではなかった 。前述したように、この「子どものオートノミー」(森田明[1992b])という新しい子どもの権利は、グールト事件5)を発端に、1970年代に「子どもの権利運動」(Children's Rights Movement)として広まっていくが、これは母性保護運動の潮流を受けた「児童救済・福祉運動」と対照的であったはずである。1世紀以上前に児童救済・福祉運動が社会福祉学をはじめとする、さまざまな子どもの解釈や分類方法を編み出す「科学」の場を切り開いたのに対して、「児童解放運動」はそれらを否定したものであった。
  ところが、この子どもの権利(C)というのは、しばしば「救済者としての子ども」幻想を浮き彫りにしたものと解釈できる。それは、同時期にアメリカで開発された教材の一つ、「環境経験学習」(通称ES)がそれを象徴している。この学習方法は、「オープンアプローチ」と名づけられ、「(知識)内容は、環境のあらゆるところに存在し、教師は援助者の役割を演じると同時に、自らも生徒と一緒に研究活動を行う。生徒は自らが(略)探求活動を行い、自らが選択した内容を学習する」(市川知史[1992])とされる。そこでは啓蒙的に講義をおこなうのではなく、柔軟な子どもの思考を生かして問題に取り組もうとする態度である。まさに、子どもの権利(C)を描く子ども観を基礎に編み出されたといえる。
  宮澤康人は、このESを「ルソーからドイツ観念論を経てデューイにいたる教育論を貫通する」、「児童中心主義の学習理論」と相違ないと指摘した(宮澤[1998])。そしてリビジョニストたちは、その「児童中心主義はアメリカの資本主義体制を維持するための、社会適応主義の教育版であり、社会統制を目指す教育の機能をより効率的に果たすための手段として、子どもの興味や活動に注目しているにすぎない。子どもの解放を目的とするものではない」ともいえるとする。つまり、子どもの権利(C)を想定して、教師の視線が子どもの高さまで下りてきたと思いきや、実はそれも教育学が成り立つ場における一つの技術・方法論に過ぎなかったということが確認できるという。学問の客体から逃れたはずが、その学問の懐中で夢をみていたという、この奇妙な連関がここにもある。


1) 井野瀬によると、学校への隔離、ボーイ・スカウト運動の促進といった、当時生まれた子ども期独特の文化は、フーリガンと呼ばれる不良集団の撲滅キャンペーンの一環を担っていたという(井野瀬[1992])。
2) 日本では比較的最近までこれに似たものが試みられている。例えば、高島[1953]。
3) ナーディネリは、19世紀においては工場の子どもに限らず、子ども期とは「悲惨」なものであったことを指摘する。「工場の外にあった子どもたちもまた、家の中か、あるいは他の市場労働で、やはり働いていた」(Nardinelli[1990=1998:256])のである。彼は、児童労働が衰退した理由を、工場法や児童労働法が整備されたからというより、実質賃金の上昇と出生率の低下、技術発展がもたらした「子ども使用型」から「省子ども型」への転換がなされたからだと結論づけた。
4) 「福祉」という用語を冠した第1号の法律となった児童福祉法(1948年施行)の原案には憲法と法律の中間のような憲章ともいうべき前文があり、その冒頭には「児童は歴史の希望である」と記されていた。これは、灘尾弘吉の示唆で当時の児童局企画課員、松崎芳伸が書いたものであったが、上司に「文学者のようだ」と、削られてしまったらしい(福田[1991:387])。
5) アメリカでは1950年代からこの兆しが見え始めていたという。1967年のJ.F.ゴールト事件判決は子どもを大人と同じ権利の主体と捉える象徴的な最高裁判所による判断となった(森田明[1992b:312])。「1967年、最高裁判所は隣人の婦人にいたずら電話をかけたことが原因で、インフォーマルな手続によって、“未成年者である期間(つまり21歳まで)、州の少年院に収容する”という処分を受けた16歳の少年ジェラルド・フランシス・ゴールトの事件について、アリゾナ州最高裁の判決を次のような憲法上の理由にもとづいて破棄した。
@ ジェラルドはもし大人だったら50ドル以下の罰金(または2ヶ月以下の懲役)ですむところを、子どもだという理由で長期6年の少年院収容になった。これは不平等・不公正である。
A 国が、パレンス・パトリエとしての立場から、大人なら持っている権利を少年に対しては否定することができることの理由として、“少年は大人と違って『自由への権利でなく保護を受ける権利』を持つからだ”と説かれてきた。その結果、大人には与えられる保障がジェラルドには無視された。この奇妙な少年制度には疑問がある。
B 「憲法に規定された修正14条の適正手続(デュープロセス)の権利、および権利章典(=基本的人権の諸規定)が成人専用の規定でないことは疑問の余地がなく明らかである」。憲法上の自由権の規定は、成人に対するのと同様、少年に対しても保障されていると当裁判所は考える。
6) この事件では傷害罪の適用をうけたが、事件を裁判に持ち込むまで、大きな役割を果たしたのは動物愛護協会の会長ヘンリー・バーグであった(斎藤学[1992:74-84])。
7) 苦痛を感じることのできる動物、といえば、脊椎動物がそれにあたる。これと同様、今日ある動物愛護協会が対象とする動物として、脊椎動物があげられる場合が多い。
8) しかしながら、やはり後に実際動物愛護運動を進めていったのは、上流階級の人々であった。
9) 「インセストの再発見」については、ウィリアム・ブース(Booth, W.)やベアトリス・ウェッブ(Webb, B.)も言及している。
10) しかし、フロイトは『ヒステリー研究』においてすでに、「幼児にもわずかな性的興奮が欠けてはいない、いやそれどころか、ことによると、その後の性的発展は幼児体験によって決定的に影響を蒙るかもしれない、と仮定することが正しいのではありますまいか」(Freud[1895=1975:355])としている。
11) 岡野憲一郎は、フロイトは誘惑理論を捨てて分析理論を確立したのではないという。フロイトは誘惑理論をいったん捨て去り、衝撃理論を成立させ、「その後に再び外傷のテーマにより十分な形で回帰していった」(岡野[1994:166])という。フロイトの二つの理論を外傷理論の枠組みで捉えると、そこに論理的一貫性があるというのだ。彼の誘惑理論はもともと、「性的虐待」そのものに問題があるのではなく、「誘惑」(大人からの「性的虐待」)によって引き起こされた子どもの側の「性的な興奮」が、放出されることなく鬱積することを問題としてきた。つまり、子どもが「性的な興奮」の「発散方法を知らないことが病因」と考えたという。
12) 1990年代に入ってからの「虐待のサイクル説」は1980年代の南らの主張に比べると洗練され、内容的にも異なったものとなっている。
13) スペンサーも『教育論』(Spencer[1861=1955])において、「蛮行は蛮行を生み、温順は温順を生むというのが心理である」(Spencer[1861=1955:167])とし、「サイクル」を指摘している。そのイメージとしては、専制政治(=蛮行)と自由な統治(=温順)があげられている。また、そこにスペンサー流の社会進化論が下敷きとなっていることを忘れてはなるまい。
14) かつてvictim「犠牲者」と呼ばれていたが、無力で受動的な意味合いが強いということから、最近ではsurvivor「生き残った人」と呼ばれている。
15) 「子どもは自身に危険がなく他人の権利を侵さないかぎり自由に好きなことをさせることによって成長する」(松崎[1990:4])教育のこと。
16) なお、日本では採択から5年ほど遅れて1994年4月22日に同条約を批准(5月22日に発効)し、締約国の一員となっている。批准がこれほどまで遅れたのは、さまざまな力学が働いていたといわれる。1989年に「子どもの権利条約」が国際連合で採択されるまでの動向を参考までに振り返ってみると、

*ジュネーヴ宣言(1924年)
「児童の権利宣言」、「国際児童福祉連合によるジュネーヴ宣言に対する修正案」と  も訳され、前文と5条からなる。この背景には第一次世界大戦で多くの子どもが犠牲となった反省があった。この大戦は初めて大量の民間人の犠牲者を出したといわれるが、特に子どもへの危害は人々の同情を集めた。
  この宣言はイギリスのジェブが、彼女の創設した児童救済団体(Save the Children)が国際組織となったとき、その綱領として1922年に書いたものである。当初は前文、総則(4条)、憲章条文(28条)から構成されていた。それが世界初の児童権利宣言として、1924年9月26日の国際連盟総会において採択された。憲章は「世界的に児童擁護の最低規準を確立することを目標に」されていた(古川[1982:85]、網野[1992:11])。
  それは「生活の主体、権利の主体として捉える思想」(古川[1982:85])の端緒というより、やはり当時の言説に拘束されているように思われる。

* 児童の権利宣言(1959年)
  第二次世界大戦による児童惨禍に直面した後、国連自らが作成し、各国の同意を得て1959年11月20日に国連総会で宣言されたものである。前文と10条の本文から成る。これは1948年12月10日国連総会が採択した「世界人権宣言」の流れをくむもので、基本的人権や平等権、自由を強調している。「児童の権利に関する宣言」ともいう。
  森田によるとこの権利宣言も、「子どものオートノミー・自律権」を謳ったものではなく、ジュネーヴ宣言よりも「洗練された形で」、「児童の依存宣言」にみられる「『権利』のカタログ」(森田明[1992a:307])が単にならべられたという。
  
17) 文脈によっては、「自律」面のみからみた「子どもの権利の時代」が鼓吹されている。
18) 安藤博も「いじめと子どもの人権」について考察するなかで、「その子にとっての最善の利益」を重視しなければならないという。そこでは、被害者の人権の救済と保障とならんで、「いじめ」などという「他者への人権侵害という未発達性の克服という成長発達権」(安藤[1995:24])が強調されている。
19) 貧困児童の問題もあったが、それは主に公的扶助や、母子および寡婦の福祉などに吸収されるものであった。


  


■第5章  社会福祉専門職が介入する主体 ─安全重視か自由か


第1節 社会福祉学における主体について

ソーシャルワーク理論にみられる複数の主体

  これまで社会福祉学領域の研究活動において、幾度となく「主体」(subject)は取り扱われてきた。さまざまな場面で主体を追求してきたのだが、大きく分けて二つの場面が考えられる。一つは、たとえば生存権を有する主体として、その権利を国や地方自治体などに主張するなど、権利主体としての主体を想定する場面。もう一つは社会福祉の学問、および専門職が対象とする人間はどういう主体であるか、また専門家としてどのようにその主体を扱っていくかを考察する場面である。本章ではこの二つの場面がいかに制度的に関連しあっているかについて検討していきたい。
  第2章でその一部をみたように、ソーシャルワーク理論にはその時代背景を受けてさまざまなものがあった。それらは今やどれが正しく、どれが劣っているかという判断を排除し、すべてが社会福祉という学問が成り立つために必要なもののようにみえる。しかしながら、これら林立する社会福祉の理論それぞれに、異なる主体が想定されていると考えられないだろうか。このことは社会福祉士および介護福祉士の国家試験の過去問題をみても明らかであろう。ソーシャルワーカー批判を知らない時代の心理学的手法を用いたソーシャルワーク理論はもちろん、専門職の存在すら否定しかねない理論でさえも、その理論が成立する基盤として必要とされている。そして同じ数だけ、異なる言説で解釈される主体が必要となった。
  岡村重夫は、社会福祉を「社会関係の客観的側面に規定されて専門分業化された生活関連施策の視野からぬけおちていた社会関係の主体的側面の問題に着目する」(岡村[1983:95-103])学問とする。そのうえで有名な「社会性の原理」、「全体性の原理」、「主体性の原理」、「現実性の原理」という4つの「社会福祉的援助の原理」を明らかにしている。そのなかでも社会福祉に「固有」の「主体性の原理」とは、個人を「生活主体者の権利主張の根拠となるだけではなく、同時に生活主体者が社会人としての責任主体者」であるとすることであり、その彼は「生活上の困難を自主的に解決」しようと努めなくてはならない。ここで岡村が想定した主体とは、@権利主体であると同時に、Aスマイルズ的自助をおこなう主体であった。
  一方、精神力動ソーシャルワーク理論ではどうだろうか。その初期のフロイト的分析によると、主体は「イド・エゴ・スーパーエゴ」という構造をもつ無意識に突き動かされるものと解釈される(第2章2節)。さらにパーソナリティーは発達の段階を経るものとされ、微細な「科学」的考察が蓄積された。ここでソーシャルワーカーたちは、精神科医や精神分析家と家族との間の「仲介者」(Donzelot[1977=1991:197])の役割を担っていたといえる。この理論の解釈が提示する主体が、どのような境遇の下におかれたかについては、屋上屋を架す必要はないだろう。
  また、マルクス主義的ソーシャルワーク理論では、一般的なマルクス主義者と同様、「革命」を口にしたが、それは社会福祉学領域に留まるかぎり、ディレンマから逃れることのできない運命にあった(第2章3節参照)。そこでは個々の主体に関して、権利を保持する主体として強調する際に言及するにとどまっている。それゆえ、ソーシャルワーカーの教育の際に「たたかいの武器として」、「経済学とともにぜひ必要」とされるのは、「民主的権利の学習」(浦辺[1973])であった。
  さらに、システム−エコロジカル理論にいたっては、その学際性が複数の主体が並立する論拠となっている。この理論が「リッチモンドの再発見」を促したといわれるように、「学際的な社会福祉学」を代表する存在といえよう。そして現在、ソーシャルワーク理論の存在意義が薄まりつつあるとはいえ、このシステム−エコロジカル理論が最も優越権を与えられたX理論と目されている。
  もちろん、社会福祉学の歴史は上記の3つの理論だけでは総括できない。これ以外にも多くのソーシャルワーク理論が存在し、それぞれ独自の言葉で解釈された「主体」を発見することができる。これは学際的研究を本質とする社会福祉学の必然といえよう。だからこそ、それを標準化しようとする貢献があり、日本独自の規準を設定する試みがなされたといってよい。しかしながら、たとえ社会福祉士や介護福祉士の国家試験体制が整い、「教科書」が数多く出版されるなかで、その試みは成功裏に終わったのか、はなはだ疑問を感じるときがある。
  本章では、社会福祉学領域において児童虐待はどのように扱われてきたかを通じて多数の主体が想定されたが故にもたらされた理論の攻防を検討したい。児童虐待という事件が人々の注目を集め、その結果、福祉サービスの供給機関の整備や、福祉専門家の教育の一般化、あるいはその学問の体系化などへと向かわせる一つのきっかけとなったことは先に述べた。児童への何らかの不利益が問題にされてから既に一世紀以上の月日が経つが、専門家がその業務として注目し始めたのは戦後のことである。それに平行して児童虐待というものを各々の学問理論がその独特の言葉を用いて分節化するようになった。ここでさまざまに語られた「児童虐待」というものは、第4章でも検討したように、学問ごと、理論ごとに推移するものである。そこで、この章では児童虐待を問題とする理論の間にある「主体」のずれが意味する政治性を考察していきたい。
  また、社会福祉の専門家は一般的に、被虐待児の生命、諸権利を守るために子どもの保護をおこなうが、この保護するという行為は直接家族のプライバシーに介入することにつながる。ここに安全重視か、それとも自由重視か、つまり介入かプライバシーの尊重かというディレンマが生じることになった。児童虐待が児童相談所または福祉事務所に通告された場合、児童福祉司や社会福祉主事などにより、被虐待児やその保護者への指導・訓戒という措置がとられる(児童福祉法第25条・26条・27条)。場合によっては、被虐待児を里親若しくは保護受託者に委任、または養護施設などの施設に入所させることが求められる。しかしながら、一方でこうした要請は親権と対立することになるだろう。
  ソーシャルワーク理論のずれがもたらす問題が顕在化するのは、たとえばこのように権利同士が衝突するような局面である。ソーシャルワーク理論には両者を支持する理論が共存している。では、ここでの対立をもう少し詳しくみてみよう。

悲観主義と楽観主義

  日本では児童虐待への関心が1990年代に入ると急速に高まった1)。1990年に民間ボランティア団体である「児童虐待防止協会」が大阪で、翌年に東京でも「子どもの虐待防止センター」が結成され、現在電話相談を中心とした幅広い活動を続けている。児童虐待防止協会では、相談件数が初年度708件から1996年度の1366件に増加し(毎日新聞1998年5月18日)、そうした事実が大きくマスコミにも取り上げられている。
  「忽然と顕れた」この問題に対し、なぜそういった非道な事態が起こるのかの解釈がなされる。例えば、「米国の後を追うように、日本でも父子相姦がじわじわと増えている」(朝日ジャーナル編集部[1989:43])とされる場合、「米国」のように都市化、核家族化、家族形態の多様化などが進展し、そこで生じる社会病理も増加しつつあるという解釈がなされる。また「家族イデオロギー」による抑圧が緩み、「マザリング(母親業)という苦行」が漸次、語られるようになったからだとするものもいる(斎藤[1994:18─23]、Swigart,J.[1991])。
  いずれにせよ主にそれらは今、ここにある窮状をいかに好転させるかが問題関心であり、児童虐待に関する緊張感に富んだ「悲観」的な報告がなされる。日本で問題意識が高まってきた1990年代から、このような緊張感あふれる現状認識が、児童虐待を語る際の主流であった。しかしながら同時に、その残虐性、意外性を帯びたスキャンダルとして消費された感も否めない。だが、事件の報道などを通じて虐待の概念が確実に普及していった。
  ところで現在の状況のように、危機意識を持って、民間の機関が組織されたり、勉強会やシンポジウムの開催が企画されたりする場面にあっては、親の子に対する自由についての関心は希薄であるといっていい。こうして日本において虐待を問題化することに没頭する人々は、1980年代半ばごろからの英米の文献にある、ある種の慎重さを伴う児童虐待に関する表現に対し頼りなさを感じるはずである。親が自由や権利を尊重するがゆえの慎重さ。たとえば、イギリスの王立出版局から出版された『児童虐待に対するソーシャルワーカーの手引』にさえも「慎重」な表現がなされている2)。
  
  ひどい虐待行為に関しては誰しもそれを認めるが、典型的でない場合には、見解が分かれ、適切な躾とある種の虐待との境介は不明瞭である。それゆえ、何をもって虐待とするのかという判断はある場合には、程度、意見、価値観の問題である。
(Department of Health[1988=1992:9])

1989年に開催された第41回世界医師総会で修正された「児童虐待と放置に関する声明」でも、同様の慎重さを伺うことができる(大阪府児童虐待対策検討会議[1990])。
  ここではこの慎重な面持ちの立場にいるものたちを、ディングヴォール(Dingwall,R.[1989=1993])にならい、「楽観主義」者と呼ぶことにしよう。なぜなら彼らは「文化的理論付け」などに躊躇して、現実の暴力行為に楽観的だからである。
ジョーダンは、虐待の報告件数が急増する理由として、児童を虐待する行為は昔からあったのに関わらず、その報告件数が増加するのは、「住民の意識の変化」(Jordan[1984=1992:26])があったからだという。これは緊張感をもって現状を認識している悲観主義者の多くがその拠り所としている、近隣ネットワークなど伝統的な扶助の喪失が虐待の「急増」の原因とする解釈とは一線を画する。
ディングヴォールのいう、楽観主義的立場は、しばしば社会構築主義と同一平面上にあるものとして理解できるだろう。彼らにとって、問題は社会的に構築されたものであり、児童虐待が急速に人々の共有する問題になったのも、虐待が急増したのではなく、その行為をめぐる言説が急変したとみなされる。パートン(Parton,N.)も、イギリスで社会構築主義的なアプローチを試み、同様の立場を表明した。彼は以前、「博物誌的アプローチ」(Parton[1979])と題して、児童虐待問題はラベリング過程を経て浮上したと説いていた。彼の理論的変遷をみるかぎり、社会構築主義とラベリング理論は同一の政治的主張を導き出せる理論であったといえよう。
  悲観主義者と楽観主義者の両者は、児童虐待という問題をめぐって、対立しあうことになる。前者は専門家の技術の精練や組織化の方向に向かい、後者は児童虐待を社会的に構築されたものであるという認識から、介入に慎重になる方向に向かっている。また前者は安全重視の保護主義にいたる傾向があり、反対に後者は親の自由な裁量を尊重する傾向を示す。さらにある局面では、悲観主義者と楽観主義者の対峙は、児童の権利に投射され、それを軸とした論争が展開される。
  この両者の対立関係は、いったい何を意味しているのであろうか?もちろん、個人の経験から、この両者の立場にいたった理由をあげるのは造作ない。例えば頻発する子どもの虐待に直面したワーカーは緊張感をもった悲観主義者になる場合が多いであろう。逆に楽観主義者たちは、子どもの入浴姿をみただけで「性的虐待」のレッテルを貼られたり、信じて疑わなかった伝統的なしつけを「身体的虐待」であると通報され、子どもを連れ去られてしまったり、日々ソーシャルワーカーなどの監視を受けることになってしまった者であるかもしれない。
  児童虐待に関する福祉分野における論争をみると、そうした経験上の感情的な立場を超えて論争が展開されている。そこではそれぞれの主体を携えたソーシャルワーク理論が反目しあう。たとえば、児童虐待を病理モデルでとらえる医学的言説と、社会構築主義者の主張との不整合。あるいはフェミニスト的理論と生物学的・心理学的理論との対立。社会福祉学の領域に浮遊する言説どうしの齟齬は、それぞれの論拠として領域外で体系化されたそれぞれの学問理論が存在し、妥協点をみいだす気配すらうかがえない。ウェーバーではないが、「神々の争い」の様相を呈しているのである。
  しかしながら、こうした社会福祉の領域において「学際性」がもたらすコンフリクトは、普段は無意識に回避される。こうした無頓着さが日本の社会福祉学における現状である。この時、フーコーが『知の考古学』で述べたような知の拘束力から、ある意味自由なのかもしれない。社会福祉学の領域でくりひろげられる、さまざまな知の自由な競合。次はこの自由さが演じるゲームについて考慮してみたい。

政治と「主体」の多様性

  ここで政治性といった場合、さまざまな力やその方向を含んでいる。それは社会保障費の増減を調整する力である場合もあるし、密閉された家庭の中を覗き込む監視に向かわせる力になる場合もある。特に隣接の社会保障分野で議論の中心となるのは「純粋」な政治である場合が多いが、ここで検討したいソーシャルワーク理論に関する政治性とは、それとは少し異なる。もっとも社会福祉学領域において、諸権利を主張してなんらかの保障を求めたり、法律などの改正を求めたりする「政治的な活動」は、「ソーシャルアクション」としてその専門的な業務の一つとして重視してきた。しかし、ここでいうその政治性とは、もっとおだやかで知的な様相を呈した政治である。
  まず、みずからの経験に基づく主観的な感情でさえも、一方である純粋な政治的立場の表明を要求される。たとえば日本だと、英米のような児童虐待の通報システムを公的に整備していくか、いかないか。あるいはそこで重要な要素になってくるであろう報告義務を怠った場合の罰則規定を盛り込むか、盛り込まないか。さらに親権を弱めるか、強めるか。これらいずれの立場をとるか、「純粋」な政治的意向を要求される。またそれは必然的に、金銭的な問題と絡んでくることも忘れてはならない。
  しばしばその経験的な個人の感情はマスコミを通じて増幅されていく。英米の児童虐待に関する報道(その多くは悲観主義者)には遠くおよばないにせよ、最近、日本でもそうした事件の報道は増えてきた。こうしたマスコミ報道に関し、ローニー(Loney,M.)は「イデオロギー的メッセージを伝えている」と断言する。それは、「個人によってなされた虐待に注目させることで、同時に、虐待を引き起こすかもしれない社会的要因を無視」(Loney[1989=1993:70])する結果となるからである。つまり、残虐な事件を報道することによって、観衆に被虐待児への同情を求めるその「イデオロギー」は、熟達した専門的介入を要請する声が高まるのを期待しているという。ローニーはここで貧困や、劣悪な衛生状態や居住環境などといった、社会的不平等がもたらす弊害をまず解決するべきとする。
  この章では理論の間にあるずれが意味する政治性を検討していくと述べたが、これは社会福祉領域で想定された「主体」の多様性は政治に直結していることを意味している。つまり、それぞれが属する政治的な立場の違いに応じた社会福祉理論が、その立場の前にカタログのように広がっているのである。

図 1政治的立場とソーシャルワーク理論の関係

  政治的局面              ソーシャルワーク理論の局面  
               
   政治的立場A             理論a       理論a′
                                   理論a″
  
           衝突                       不調和
   政治的立場B                   理論b  理論b′
                                    理論b″

   政治的立場C                 
    
    

  ところで、社会福祉学の領域で絡み合うこの複数のディシプリンは、公認のものである。社会福祉の法律の中で連結されているという現実がある。たとえば児童福祉法第十五条第二項[児童相談所の業務]の二には、次のように規定されている。

  児童及びその家庭につき、必要な調査並びに医学的、心理学的、教育学的、社会学的及び精神保健上の判定を行うこと。

  社会福祉という学問領域が開く場とは、さまざまな理論や学問、政治的立場の力関係が作用しあう場である。政治的な意図を持ったものたちは、その時代背景を取り込みつつ、適切な理論を選択しているのではないだろうか。政治的な意志を持たなくても、偶然に依拠した理論に付随する命題によって、ある立場を形成することがありえる。
  他の学問的関心から社会福祉に関する事柄に言及する者たちは、逆にその信ずるところの社会理論なり、心理学手法なりからある政治的な立場に自動的に辿り着くこともあるかもしれない3)。今や社会福祉の学問という範疇は、自由だといえる。過去の学問が強固な同一の主体を設定したり、またその主体が大きな力のコントロールの手段になったり、また自己の内部を自ら監視する動機になったりする傾向があるのに対して、そうした傾向を自覚する「反省的学問理論」を手にしている。現在の社会福祉の学問領域は主体を媒介にする拘束から釈放される回路をみいだしたのである4)。
  では、社会福祉学の内部に生じる摩擦、学問という形式を保っているにしては「寛大」なその性質がもたらす摩擦を児童虐待という事象を通して考察していく。

第2節  専門職化と児童虐待問題 〜拡大しゆく児童虐待の意味内容

児童虐待の定義

  1973年4月から1年間、厚生省は153個所の児童相談所を通じて3歳未満の子どもを対象に初の全国調査をおこなった(厚生省[1975])。そこでは虐待を「暴行など身体的危害、長時間の絶食、拘禁など、生命に危険を及ぼすような行為がなされたと判断されたもの」と定義されている。ここでは、

@ 虐待
A 遺棄
B 殺害(殺害遺棄、殺害、心中)

と分類されており、遺棄にしても「捨て子」のことを指しており、現在使われる「ネグレクト(放置)」のことではない。これはその頃、「コインロッカー・ベビー」事件が多発した背景を受けているのであろう。
  次に、池田由子、下平幸男、田村健二、吉沢英子からなる前出の「児童虐待調査研究会」は日本児童問題調査会の援助のもと、1983年度に全国の児童相談所を対象に児童虐待の実態調査をおこなった(児童虐待調査研究会[1985])。その際に用いられた定義は、

@ 身体的虐待
A 保護の怠慢ないし拒否
B 性的虐待
C 心理的虐待

であり、国際児童虐待常任委員会(ISCCA International Standing Committee on Child Abuse)の規準に準拠している。日本ではこの頃から、グローバルスタンダードともいえるこの定義が用いられる場合が多くなり、現在ではこの定義が定着している。
  また、「被虐待児のケアに関する調査報告書」(大阪児童虐待調査研究会[1989])の定義では、@身体的暴行による虐待(battered children syndrome)A養育の放棄・拒否による虐待(neglect)@,養育の放棄・拒否、A,養育の無知(育児知識、能力がない)B性的暴行による虐待(Sexual Abuse)と改良が試みられている。
  しかしながら現在では、児童虐待調査研究会が始めて用いた、

@ 身体的虐待
A ネグレクト(保護の怠惰や拒否)
B 性的虐待
C 心理的虐待

の4種で分類される場合が多い(津崎[1992:16]、泉[1993:15-16]、西澤[1994:5-11]、斎藤[1994:30-31]、柏女[1995:199]、奥山[1997:16-19]、坂井[1998:3-12])。

拡がりゆく定義

  児童虐待問題の記念碑的研究となったとされる、ヘンリー・ケンプ(Kempe,C.H.)らの論文「被殴打児症候群(The Battered Child Syndrome)」(Kempe,et al.[1962])では、「身体的虐待(physical abuse)」にあたる虐待のみに焦点が絞られていたという(西澤[1994:4])5)。そして「その後、虐待の定義は拡大し、この身体的虐待のほかに養育の拒否および放棄(neglect)、性的虐待(sexual abuse)、心理虐待 (emotional abuse)を含むようにな」(西澤[1994:4-5])っていき、「発展する児童虐待研究」の様相を呈していると解釈される。
  このことは、ケンプ自身の主張の変遷からみても明らかである。彼は10年余り後の1976年に、battered childという言葉から、より多くの内容を含んだchild abuse and neglectという用語を使うまで「発展した」(Helfer,R.E. & Kempe,C.H.[1976])と宣言した。さらに1978年には「性的虐待」に言及し、コミュニティーが児童虐待を受容するプロセスの6段階6)を示している。
  一般的にも、殴打される(battered)という身体的暴力のみを指す言葉から、abuseというより広く網羅できる言葉への転換が起こった。abuseの意味は、「あるものを間違った方法で使用する」という意味で、児童虐待とは「子どもを本来あるべき方法とは別の仕方で扱うこと」を示している(坂井[1998:4])。この転換により、殴られる子どもだけを救うのではなく、放置されたり、性的・心理的に大人から被害を受ける子どもまでを含むことが表明された。
  ここで注意したいのは、この言葉の変換が起こったときに、ただソーシャルワーカーおよびその他の専門家が用いる定義が拡大しただけでなく、「子どもを本来扱うべき方法」という規範が、慎重さを伴いながらも、登場したということである。それと同時に、子どもに危害を与える大人は、「加害者」(厚生省[1975])から「虐待者」になり、被虐待児とともに専門家の治療対象になっていった。

  この「拡がり」は予防的な援助機関であることを目的に設立された民間団体においてはさらに広域なものとなるという指摘がある(上野加代子[1996:110-111])。悲観主義者、特にそれを病理モデルで捉えようと試みる者たちは一般にその定義を拡大する傾向にあるといってよいだろう。たとえば斎藤学は、「さまざまな児童虐待」として@身体的虐待A性的虐待B情緒的虐待Cネグレクト(養育の怠慢、拒否)D情緒剥奪症候群E脅迫的な児童虐待F古典的な児童虐待の7つを挙げている(斎藤学[1992:39-70][1994:29])。なかでも、Fには「間引き」と称される嬰児殺の「伝統」までもが含まれていることが興味深い。
  そのほか、1975年の厚生省の調査では「殺害」のなかに分類されていた「親子心中」も、「都市型の児童虐待と根を一にする状況」(津崎[1992:148])と捉えたり、「子ども虐待のもっとも深刻なケース」(浅井[1995:30])とみなされ、定義の拡大が確認できる。また、こうした「拡がり」をみせる局面では、家庭に限らず、学校における体罰ももちろん、虐待の一つの形態ということになる(浅井[1995:26-27])。ここで重要なのは、児童虐待に関わるあらゆる専門職や、公的および私的機関に共通する「公式」の場で用いられる定義が短期間のうちに拡大していったことである(Otway[1996:164]、Dingwall[1989])。
  児童虐待の定義や対象となる子どもの範囲を拡げていったのは、ケンプをはじめとする虐待に関する知を蓄積する諸グループであり、知の「発展」の帰結でもあった。こうすることによって、彼らは被虐待児を綿密に把握することができるようになり、その早期発見・早期治療を実行するうえでの一助となった。
  ところで児童虐待の定義の拡大は、その「虐待」の範囲が拡大することであり、「被虐待者」、あるいは「虐待者」の人口を増やすことにつながる。アメリカと同様、イギリスでも性的虐待が児童虐待の一つの形態と人々に認識された時点から、公的福祉機関への通報件数や民間団体への電話相談件数が急増した(田邊[1992])。そして皮肉にもそのことが親の権利を重視する「楽観主義」と揶揄されるバックラッシュを生むことにもなる。では次に、その前奏となった人々の疑問について述べたい。

児童虐待の定義に疑問を投げかけた人々

  身体に決定的な証拠が残らない性的虐待はもとより、身体的虐待でさえも定義することは難しい問題である。どのぐらいの強さで暴行を加えると「虐待」なのか?以前は日本でも、「しつけ」としてあざができるほどの折檻をおこなう親は多かった。わりと普及していた「お灸をすえる」罰も、火傷という外傷を伴う。これらは前掲の定義によると、「虐待」であると判断される可能性があるだろう。そうした専門家の判断に、それまで何の疑問を持たずにそれらの「しつけ」を受け入れてきた多くの人々はある種、不思議さを感じるのは自然である。
  このような伝統的な子どもに対する「しつけ」観と照らし合わせた時に生じる不整合が、児童虐待を語るときに慎重に構える言説を生んだという側面がある。英米の子ども観の歴史をみても、第4章で検討したように最近まで「虐待」の域に達する「しつけ」や慣行が存在し、それとの不整合は人々の意識の中に、伏線として存在したに違いない。しかしながら英米に移住してきた少数民族(特にまだその土地に慣れていない人々)からの不満が高まったというのが大きなきっかけとなった。
  砂金玲子は1967年にニューヨーク市社会福祉部の職員となり、その後児童福祉部のスーパーバイザーを勤めるなかで多くの児童虐待ケースに遭遇した。そこではその場所柄、移民のケースを扱う機会が多かったらしい。著書『子ども虐待 ─アメリカの教訓』のなかで、その「虐待をめぐる文化摩擦」という章を設け、東アフリカから来た家族についてふれている。
  学校からの通報で8歳の男の子の「虐待」が発覚し、「即座に保護部員によって両親の家から救出された」。そこでその息子を取り戻したいのなら、「東アフリカ人の父親自身が、体罰なしの子どもの躾け方を教える親業のクラスに出席し、そのスキル(技術)を体得すること」が求められた。しかしながらこの父親はそのクラスに積極的に参加せず、砂金は彼の自宅に訪問することとなった。砂金の説得に対してその父親はこう反発する。

  あなた方に知ってもらいたいのは、アフリカ人にはアフリカ人のしきたり、躾けの仕方というものがあって、他の文化圏の人からとやかくいわれたくはないのです。私には自分が躾けられてきた通りに、自分の子どもに仕込む義務があるのですよ。それを理解してほしい。あのクラスではアメリカ人の子どもを躾ける仕方を教えているのですからね。私には意味がない。あそこでは『子どもに話をして躾けをする』といっていました。でも、子どもには話してやることと、身体で知ることとがあるのですよ。自然に悪いことをしない人間にさせるには、親の叩く手も必要なのですよ。
(砂金[1995:231])7)

  しかしながら、その介入を受けるのはなにもアフリカ人やプエルトリコ人に限ったことではない。在米日本人の「日本式の躾けの流儀」が児童保護部の職員の標的にされることもある(砂金[1995:235])。また、少数民族でなくても低所得者層などいわゆる社会的弱者が、その対象になりやすいという事実もよく話題にされるようになった(Loney,M.[1989=1993:69-85])。
  文化的なものを中心とするこうした「摩擦」は、あるしつけの規準を設定し、それを強要することに疑問を突き付ける。こうして強要すること自体、マージナルな文化の否定を意味したり、そうした文化を尊重する者の人権を侵害する結果になるともいえるからである。
  こうした「酷いまでの折檻=野蛮」、「やさしい躾=文化的」という構図は、実は教育学成立当時から存在した。スペンサー(Spencer, H.)も、1861年の『教育論』で、的確にこれを指摘している。

  両親の不快の念(子どもが悪いことをした場面で生じる不快の念、筆者注)は、比較的野蛮な時代、その時は子供もまた比較的野蛮であるが、その時代には激烈な仕方で吐露されるであろうということができる。そしてもっと進歩した社会状態においては、子供をやんわりともっとおだやかな取扱いで導くことができるような状態においては、それほど残忍な表われ方はしないであろうということができる。(Spencer[1861=1955:165-166])
  
こうした思考は「スポック博士の育児法」などにも一つの完結をみることができる。そして、この「正しい」育児が世界中で共通語になり、しばしば強要を伴う存在になっていく。学問的に「正しい」という承認があるとはいえ、一部の人々(たいていはローカルな人々)はそれを疑問視せざるを得なかった。

ソーシャルワーカー批判の意味

  こうしたローカルな人々の呟きは、やがて、ソーシャルワーカー批判へと回収されていく。また、それは「楽観主義者」のもつ政治性とも調和するものであろう。「楽観主義者」によると、児童虐待を問題化する「悲観主義者」たちはクレイムメイカー的役割を担っていたとされる。上野加代子はキツセとスぺクターを引用し(Kitsuse,J.I. & Spector,M.B.[1977=1990])、日本で1990年から盛んになった諸活動を「クレイム申し立て活動の核をなすものとして」位置づけている(上野加代子[1996:106-109])。しかしながら、ここでクレイムメーカーたちは、それに携わる専門家であるがために、自ら顕在化させた問題に対処できていないという容疑で批判されることになる。つまり、クレイムメーカーの一端を担うとされるソーシャルワーカーは、それを問題化することによって、みずからの首を絞める結果となったのである。

  もしすべての児童がそのような家族から引き離されるなら、ソーシャルワーカーを高圧的で独断的であると抗議し、児童保護の費用増加に対する不満の嵐が湧き起こるだろう。児童が留まる家庭と、引き離される家庭との相違はごくわずかなものである。児童が保護のために強制的な措置を必要とするのは裁量と判断の問題であり、やむをえず過ちに陥りがちな人間の判断の問題である。(略)それでも、稀に悲劇的な過ちがあった場合、彼らは非難され責めを受ける。また普段、ミスがなくても、称賛を受けることはないのである。
(Jordan[1984=1992:94-95])

通常時に、家族の自律性を侵しかねない介入に対して批判が集中する一方で、ひとたび虐待事件が発生すると、非難の矛先はやはりソーシャルワーカーに向かう。第4章1節で、児童虐待は戦後のイギリスにおける社会福祉学にとってその体系化を促す一要因であったことを明らかにしたが、それにはこうした世論をある意味必要としたといえる。世論を受けて批判されるソーシャルワーカー。しかしそれはソーシャルワーカーの「責任」の存在を明確化し、虐待に介入するべき専門家としての地位を獲得するにいたったのである。思えば、フレックスナーが「ソーシャルワーカーには責任がない」と低く評価したが、社会福祉の専門職化の道とは、この責任を獲得するに至る道であったともいえる。
  介入しても介入しなくても批判されるという、2種類の世論に板挟みになるソーシャルワーカーは、次節で検討するように「自由」をめぐる2つの態度の狭間に投じられているといえる。モンロ(Munro, E.)も、「不完全な知」に基づいているために、ソーシャルワーカーは要保護児童を見落とす「過失」を犯すと述べたうえで、「自由のディレンマ」がこの知の生成を阻むとしている(Munro[1996:795])。
  しかしながら、日本では児童虐待の事実がマスコミで大きくとりあげられても、ソーシャルワーカーの責任はおろか、他の専門家の至らなさを問題にされることはまずない。コメンテーターとして呼ばれた「専門家」はみずからの存在をアピールするが、論点は主に親の酷さに対する批判に集中する。そうした批判は、おそらく「家族イデオロギー」を揶揄する者からすると、そのイデオロギーにどっぷりと浸った問題把握となろう。つまり、英米において、世論およびそれをより鼓舞するマスメディアが、社会福祉の専門職化、あるいは児童虐待の医療化の一端を担ったのに関わらず、日本ではそれを保守主義的な語りのなかに吸収され、ソーシャルワーカーの責任は指摘されない、「憂き目」にあっているといえよう。現在のところ、新聞記事やマスメディア、各種マニュアルなどでは、専門職へのアクセス法が記されているが、例えばその起こってしまった虐待に関して、社会福祉士の責任が問われたり、批判されるということはまずない。


第3節  安全重視か自由尊重か

児童虐待防止法導入とともに浮上した問題 ─安全重視か自由か

  以上では児童虐待を語る態度として、主に「悲観主義」的なものと「楽観主義」的なもの、この二つの態度があると述べてきた。ここで「社会構築主義」的思考を1つのソーシャルワーク理論とみるとき、それはソーシャルワーク理論間の対立ともいえる。またこの二つの主義は「安全重視か自由か」という対立ともいい換えることができるだろう。そして後者の自由の台頭は、悲劇を生む家庭と生まない家庭の差異を捕らえるべく存在する、さまざまな学問に疑問の声があがりはじめた背景が存在する。現に、両親を心理的治療のクライエントとした悠長な処遇のうちに虐待死に至ったジャスミン・べグフォードの事件(1984年)は、「悲観主義」的な学問理論のあいまいさを露呈した。
  とはいえ「悲観主義」的に状況を捉え、ひたすら「安全を重視」し、疑わしいケース全てに積極的に介入していくか、あるいは「楽観主義」的な姿勢で親の「自由を尊重」しつつ、消極的に介入していくかという対抗関係は、実は普遍的な問題である。児童虐待をめぐって、その法律が成立した瞬間からそのディレンマは顕わになるのである。ここではまず、日本で初めて児童虐待防止に関する法が施行されたときに表出した対抗関係をみていこう。

  日本で始めて「児童虐待防止法」(法律第四〇号)が制定されたのは1933年であった。これは英米に比べると数十年の後れになるが、ここでやみくもに欧米を模倣しただけでなく、すでにこの安全性をめぐる議論がおこなわれていた。日本で最初に民間の児童虐待防止協会ができたのは1909年で、原胤昭が中心となったが(原[1909])、一年足らずで会の活動を中止せざるをえなくなる。後に山室軍平ら救世軍が同様の活動を1922年に始めるが、彼らもまた、約1年で会の活動停止に追い込まれている。これにはさまざまな要因があるだろうが、民法の保障する親権を盾にどうすることも出来なかった背景があった(高島巖[1933:119])。
  「子どもの権利」という観点に基づく児童保護への働きかけは、法成立の約10年前に8)、「子どもの権利」の概念だけなら19世紀後半からに紹介されていた。植木枝盛は『親子論』のなかで、親権に対し子権が看過されていると指摘している。なかでも1906年に大村仁太郎によって訳されたエレン・ケイの『児童の世紀』(当時の訳題は『20世紀は児童の世紀』)の影響が大きかったと考えられる。また田村直臣の『子どもの権利』は1911年に著されており、賀川豊彦や野口援太郎、下中弥三郎や平塚らいてうの著作をみても1920年代初頭にはすでに、見識者の間ではかなり広く問題視されていたといってよいだろう(他に、小塩[1915a][1915b])。また生江孝之(内務省社会局嘱託)が『児童と社会』のなかでドイツの児童保護政策から、子どもの人権について言及したのも1923年であった。
  こうした動向にかかわらず、「斯ういふ良い法律がなぜ今までできなかつたのか、そのおそかつた理由」について、穂積重遠は『児童を護る』のなかで述べている。

  親が自分の子供のことを始末するのだから、それにどうもあまり立入ることは宜しくあるまいといふことで、この親権といふものに遠慮してゐたといふことが、少なくともこの児童虐待防止といふものが今まで制定されなかつた一つの理由ではなかつたらうか。
(穂積[1933a:33-34])

  これは特に「法律は家庭に入らず」という方針を貫いた司法省からの圧力が強かったようである(穂積[1933b:3])。この児童虐待防止法は「工場法、工業労働者最低年齢法などでカバーしきれない児童労働に対する保護規定の位置をもった」(児童福祉法研究会[1978:37])とされるが、子どもの権利という観点から進められた上記の諸文献やその文面にある精神を見るとき、法律の文面には表れていないにせよ、現在に通じる権利意識の存在も確認することができる。
  ちょうどそれらは、子どもの権利に関する最初の国際的な宣言である国際連盟の「ジュネーブ宣言」(1924年)に前後する大正デモクラシーの時期に集中している。実際の場面でどのように理解され受け入れられたかはともかく、戦前の子どもを権利主体とする研究業績の存在は否定できないように思える。それがあったからこそ、「安全重視か(親の)自由尊重か」のディレンマが成立していたのである。とはいえ、「『国権論』のなかに閉じ込められた」(堀尾[1990:66])といわれるように、それが成立する文脈は現在と異なる(第1章第5節参照)。
  当時の子どもの権利に関する研究は、欧米の社会福祉に精通し、生存権思想や福祉概念を基盤とした生江孝之および彼の影響を受けた内務省社会局の存在に負うところも大きいといえる。そこでは欧米の児童保護立法のなかでも、イギリスの「1908年児童法」の研究が進んでいたことも頭にとどめておきたい。

1933年「児童虐待防止法」にみる「安全重視か自由重視か」

  さて、ようやく施行となった児童虐待防止法であるが、当時の人々はどのような感慨を持ってこれを迎えたのであろうか。1936年7月にある事件が起こり、翌月16日の『東京朝日新聞』には「何が虐待防止法だ/心なき法に引き離さるるゝ父子/抱合って涙の抗議」という見出しの記事が掲載される。少し長くなるが、全文引用してみよう。

  児童虐待防止法の適用によつて取り上げられた愛児を託児所から奪還して逃げた既報の國分要作(四七)が十四日夜バタ車に子供を乗せて日本橋區浪花通りうろついてゐて久松署員につかまつた、つかまると同時に車からわが児を抱き上げた國分は「親と子がこんなに頼り合つてゐるのになぜ引き離す、何が虐待防止法だ」と悲痛な表情で係官に食つてかゝり子供の山寺金二(六才)も懸命に父親にしがみついて離れゝばこそ、同夜置されたが父子はつひに抱合つて夜を明かしてしまつた。そして合掌せんばかりに
   旦那警察の御力で何とか子供と一緒にゐられるやうにして下さい。
と言いつゞけてゐるがやがて引取りに来る神田の児童擁護協會員にどうしても引渡される運命である。
   國分は長野縣上伊那郡朝日村澤庭の小寺の住職をしてゐるうちあやまちからできた
   子供で當時まだ誕生前の金二を抱いて修行に出て諸国を放浪するうちに昨年七月
   上京して職に窮しになったもの
貰ひ乳にミルクにすべてわが手にかけて育てただけに可愛さあふれて食に窮すとも離れまいと児童虐待防止法の心なき適用に抗議してゐるのだが
   この子供が取り上げられたのは辻占売りをさせてゐたためで、父親にはこの子を遊
   ばせて育てる事は到底出来ない事が判つて居り係員も痛しかゆしである。

  なお、児童擁護協会というのは民間の団体で、児童虐待防止事業の普及および発達を図り、被虐待児童の保護を目的として組織された。とはいえ、協会長は法律要綱を作成した社会事業調査会の一人である穂積重遠、会員には丹波七郎内務省社会局長、藤野恵同保護課長、三島道傭貴族院議員ら法制定の尽力者が名を連ねており、児童虐待防止法の「後援団体的な性格が強い」(斎藤薫[1995:4])。そこに現在の「草の根ヴォランティア団体」のような趣はない。
  「バタヤ」とは屑拾い業のことで、「辻占」とは紙片に種々の文句を記し、巻煎餅などに挟み、これを取ってその時の吉凶を占うもので、歓楽街に多くみられたそうだ。これを金二は道行く人に売っていたのだが、この生業は児童虐待防止法第7条のなかにある、児童が「戸々ニ就キ若ハ道路ニ於テ行フ諸芸ノ演出若ハ物品ノ販売其ノ他ノ業務及行為」(児童福祉法研究会、[1978:214])を禁止する条項に反する。また同法を一般向けに分かりやすく解説したパンフレットにも、この第7条違反の例として「夕刊賣、辻占賣」(藤野[1934:57])があげられている。

  この『東京朝日新聞』の記事にある父子の写真があまりにもきれいに「父子の愛」を表現しているので、なんらかの意図があった可能性を留保しなければならない。しかしながら、家庭という領域へ介入することに対して、一般の人々が拒否感を感じていたことは事実といえよう。二日後、同紙が載せたコラムでは「表面にあらはれた事実のみで、直に法の鉄槌を下すことは、却って純真な人間の魂を傷つけるものである」と、「『役所』的処置」(吉田生[1936])を批判している。穂積は「世間」、特に雑誌などでこうした法の適用に対して「皮肉な批評をする人」(穂積[1933b:17])が多かったことについてふれている。
  それら「皮肉」な姿勢をみせる人々は、現在にも通じる政治的立場を明らかにしている。つまり、法の責任を個人に求めたり、個人の暴力行為をあるディシプリン特有の病理モデルでもって専門的介入を行ったり9)することから、社会全般に関する問題へ関心を移行させることである。穂積は数ある批評のうちにも、「そんな事をしてなんの役に立つかもつと根本を救はなければいけない。が子供を連れて出る事を止めたが、乞食の親も出ないで済むやうにしなければいけないというやうな批評」(穂積[1993b:16])が多くあるといい、『東京朝日新聞』にも同様のことが指摘されている。

  何も好んで可愛いわが児を辻占賣にまでさせる類はあるまい、それほどまでしなければならぬ貧窮 ─この貧窮さが、かういふ行為を敢てさせたとすれば、それに對する處置はおのづから別にある。
(吉田生[1936])

  わが子を辻占売りにまでさせるのは、親の本望ではなく、やむにやまれぬ事情、貧困が原因であり、そういった貧困を生み出す社会の側に責任があるという。ここで「皮肉」を口にする人々は、親に責任を問うのではなく、社会的不公平をまず是正しなくてはならないと訴える。
  このとき、「安全重視か自由重視か」の問いは、問題を「個人にみるか社会にみるか」などといった、いかなる介入方法・理論を分配するかという、問題解釈の違いと交叉している。確かに当時と現在とでは児童虐待をめぐる言説は異なる。しかしながら戦後の社会福祉学領域における理論の抗争をみるときにも、同様のものを確認することができる。
  では、こうした「皮肉な批判」に対して、どういった反論が用意されていたのであろうか。当時の「安全重視」とは、時代的な束縛を存分に受けたものである。『東京朝日新聞』では吉田の批判に対し、法の適用を受けて金二を保護した施設「子供の家学園」の高田園長は、「法の精神は、子供に対して、正当に生活し得る道を拓いてやることにあるほかに、すべての親たちに、そして、その他の児童を保護すべき責任者に、真の児童愛護の精神を伝へやうとすることにある」(7月22日)と反論する。この発言には、おそらく以下のことが暗に意味されていた。

  我々の子供を良く育てゝ、少くも今の我々よりも精神においても身体においても良きものにするといふことが國家、社會、人類の前途のために非常に大切な事である。それでなくては國家が今より衰へ、人類は今より下等になるのである。我々の子供が我々よりも多少なりとも良くなれば國家はますます向上するのであるから、この子供を良く育てるといふことは我々が國家に對する義務であり、社會に對する義務であり、人類に對する義務であつて、必ずしもその子供だけに對する義務ぢゃない、子供に對する義務と考へるのはあまり小さい考へ方である、かういふ風に考へたい。
(穂積[1933b:6])

第4章で述べたように、これが児童虐待をとりまく当時の言説であった。これはもちろん、日本独特の問題ではない。パレンス・パトリエ・ドクトリンとは、世界大戦前や大戦中の近代国家を象徴するものである。そしてその精神は、現在の少年法のなかにも確かに現存している。

「安全重視か自由尊重か」と複数のソーシャルワーク理論

  では、時間を現在の児童福祉に戻してこの問題を考察していこう。1997年6月11日、児童福祉法等の一部を改正する法律が制定公布され、1998年4月から施行されている。児発第434号「児童虐待などに関する児童福祉法の適切な運用について」とあわせて、近年の児童虐待に関する日本人の意識の高まりがある程度反映されたと評価されている10)。
こうした今回の法改正の意義を柏女は、「@情報の提供と利用者の選択、A子育て家庭支援、B児童の権利保障(児童の最善の利益と意見表明権の確保)、C児童の自立支援」(柏女[1998:47])の4点にまとめる。なかでもB児童の権利保障のうち、「意見表明権」の確保は、児童虐待問題に関する文脈でも最近よく論じられるようになった。例えば、虐待の事実を隠したがる親の自白を待つよりも、子どもに耳を傾けることが重要とされる。今回の法改正論議のなかでも、国連の子どもの権利条約第12条「意見表明権」の具体化が一つの焦点とされた。それは一見、今回の法改正がオートノミーとしての子どもを想定した、子どもの権利(C)を積極的に保障するように方向が転換されたかのようにおもえた。
しかし、「児童の権利保障」のなかで一括りにする「児童の最善の利益と意見表明権の確保」とは、実は歴史的経緯も政治的立場も背反しあう性質を持つ。前者の「児童の最善の利益」とは、社会権的権利で20世紀に獲得された子どもの権利(P)であり、後者の「意見表明権の確保」とは、近年盛んに主張されるようになった子どもの権利(C)11)である。したがって、50年ぶりの児童福祉法改正において、しばしば「パラダイム転換」と特徴づけられるが、それに(P)から(C)への変換を含むことはできない。
  とはいえ、この二つの権利のバランスは現在、揺れ動いているものであり、活発な議論がみられる。例えば、昨今の少年法改正論議や子どもの性「問題」について語られるときにも表出する。特に、最近では少年犯罪への関心が高まり、世論は厳罰主義へと傾いているように思える。その動向は、しばしば子どもの権利(C)が尊重されはじめたものと解釈される。なぜなら、子どもが犯した罪を規律=訓練の経路に送り出すのではなく、懲罰でもって処することは、20世紀的な権利を「幻想」として、18世紀的な自由権でのみ捉えるといえるからである。
  ところが、こうした子ども観の変移に対して一番に意義を唱えるのはやはり、諸学問に依拠する専門家であった。それは、社会福祉に関連する部分にしても同様である(例えば、野田[1998]、近畿弁護士会連合会[1998])。そうした彼らの反応に、一定の子ども観 ─子どもの権利(P)の擁護側 ─ を礎とした学問がそこに成立していることを確かめることができる。なお、子どもの自由というものは、19世紀および20世紀のいわゆる近代家族にとってみれば異質なもので、一瞥して「安全重視」と「自由尊重」という枠組みでは捉えられない。この点については次節でみてゆくことにする(終章第2節も参照)。
  以上で「安全重視」と「自由尊重」を経験的なレベルで述べてきた。そしてまた、ある問題を個人に還元するか、社会に還元するかという普遍的なディレンマがあるとも述べた。そこで児童虐待をめぐる「自由」と、因果関係を解釈する学問的言説との相違がもたらす立場の違いについて、簡単な概念図を描いてみる。ひとまず、ここでは「科学」に向かって突き進んでいればよかった時代を考察したものである。


図 2 社会福祉の「科学」が志向された時代の、児童虐待をめぐる主張
              (親の)自由尊重
                    
         個人の価値観      宗教的・伝統的規範     
                 4  1
  個人的問題                        社会的問題
         「規範」的な育児  3   2 福祉国家を成立せしめる諸社会科学
          心理主義の一部        優生学

                   安全重視

  1933年の児童虐待防止法に関する賛否両論の主張を図で説明すると次のようになる。まず、批判を寄せる吉田生は、「純真な人間の魂」や「親の子に対する愛情」という社会的価値観を強調しているところから、第1象限に位置する。そして法律要綱を作成したメンバーの一人、穂積重遠は法を「国家、社会、人類のために非常に大切な」ものとし、「子供を任せておけないからこちらへ差出せといふことを国家が言ふことは国家としては勿論当然である」(穂積[1933b:7])という「安全重視」の立場にいるため第2象限に位置する。
  ここでは第1象限と第2象限の対立があるわけだが、穂積は「精神的の欠陥」がもたらす国・社会への不利益についても言及しており、第2象限の域を出て第3象限をも考慮の対象に加えている。「安全重視か自由尊重か」という政治的な場、それも児童虐待防止法を施行していくなど、強い推進力が必要とされる場面では「個人か社会か」のディレンマは「安全重視か自由尊重か」という政治的な場に吸収されてしまう傾向にある。
  図における「自由」とは親の自由を指すものである。ここでオートノミーとしての子どもが手にする自由は、どのような連関のもとに位置づけられるのだろうか。まず、子どもの権利(P)の本質は保護主義に通じる「安全重視」と置き換え可能であるので、「(親の)自由尊重」に対峙する「子どもの権利(P)重視」をこの図の上に描くことができるであろう。しかしながら、子どもの権利(C)をこの図上に位置づけようとする際、困難が生じる。
  例えば、「子どもの権利(C)重視」を「(親の)自由尊重」と対峙するマトリックスを描いたとしても、それぞれの象限に配置された児童虐待をめぐる解釈は剥落してしまう。子どもの権利(C)は「(親の)自由尊重」と対立する場合が多く、「安全重視」の位置に収まってしまうのではないか。つまり、子どもの権利(C)の出現は、既存の学問の本質である安全重視に向かわせる媒体であるとともに、福祉国家が成立して以来の前提を破棄する概念であることがここでも確認できる。教育学の分野では「児童中心主義」がロマン主義的系譜のなかに存在しえたが(第4章4節、宮澤[1998])、それは教育学が成立する場における技術論に過ぎなかったという指摘が存立するように、児童虐待をめぐって保障される子どもの権利(C)も現在のところ、空虚なものといえるかもしれない。


第4節 子どもと親と国とのバランス 

誰の自由なのか? ─J・S・ミルの「自由について」

  安全を第一にするのか、それとも自由を尊重するのかの選択は、その裏面で法によって合法化された専門職による介入に賛成か反対かの選択を迫っている。このディレンマは、介入する主体、国家がある限り普遍的な問題といえるのかもしれない。
  しかし、ここに児童虐待という解決しなくてはならない問題が、共通課題として人々の意識のなかにある。そのためには、プライベートな空間に踏み込み、自由を侵害する行為の正当化が必然となってくる。そこで、自由とは何か、という古典的な課題を突き付けられることになるが、実際「安全重視」派はこれまで、多くの発言をおこなってきた。児童解放運動の勃興以後、子どもの自由が強調されるようになるが、やはり親の自由との調整が最優先課題とされる。
  そこで、ミル(Mill,J.S.)が引用されるが、論者のミル解釈の相違により、同じ「安全重視」派にかかわらず、その評価は二分された。コルビー(Corby, B.)は、虐待が発覚しているのにもかかわらず、親の自由裁量を尊重するのは、「ミルの古典的自由主義的発想の線にそうものである」(Corby[1989=1993:27])と断定する。その見解は、ミルの「自由の原理」を受けている。

  人類が、個人的にまたは集団的に、だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、他人に対する危害の防止である。(略)自分自身にだけ関係する行為においては、彼の独立は、当然、絶対的である。彼自身に対しては、彼自身の身体と精神に対しては、個人は主権者である。(Mill[1855=1967:224-225])

  「安全重視」派は、決定的な「危害」にいたる間際までその問題の家庭のなかへ介入しないならば、「心理的・身体的にも未熟な児童を保護するというような養育の積極性や、幼い子にその子が自分で選んだ人と一緒に生活する権利を黙殺しているように思える」とつぶやく(Corby[1989=1993:27])。つまり、「自由の原理」に基づいた「最小介入」では子どもが救えないため、ミルはここで棄却される。
しかしながら、ミルがその「自由原理」を掲げるとき、例外が想定されていたことを指摘するものは多い12)。なかでも下記の見解はミルの子ども観が明らかにされている。

  たぶん、いうまでもないことだが、この理論は、成熟した諸能力をもつ人間に対してだけ適用されるものである。われわれは子どもたちや、法が定める成人年齢以下の若い人々を問題にしているのではない。まだ他人の保護を必要とする状態にある者たちは外からの危害と同様、彼ら自身の行為からも保護されなければならない。同じ理由から、われわれは、民族自身が未成年期にあると考えられるおくれた状態にある社会は、考慮外においてよいだろう。みずからの力で進化する途上における初期の困難は、非常に大きなものであって、それに打ち勝つための手段には、ほとんど選択の余地がない。(略)一つの原理体系としての自由は、人類が自由で平等な討論によって進歩しうるようになる時代以前の社会状態に対しては、適用されない。
(Mill[1855=1967:225])

  ミルが「自由の原理」という時、子どもは初めから除外されているのである。ここで「安全重視」派コルビーの単純なミル批判はその対象を見失う。なぜならミルは、「成熟した諸能力をもつ人間」といえないカテゴリーに対してパターナリズムの適用を準備していたからである。おそらく、このようなミルの見解は「父親は懲戒で家族を支配し、法制度はその時代の文化を反映して、父親の懲戒行為を神聖な権利として支持した」(Freeman, M.[1989=1993:112])、ヴィクトリア時代の時代的拘束があるといえるかもしれない。一方でミルは子どもの「自由」を「支配」できる親の「自由」が誤用されるのを批判している。

  誤用された自由の観念が、国家がその義務を遂行するのに実際上の障害になっているのは、子供の場合である。子供たちは、比喩的にでなく文字どおり、自己の一部とみなされるものと人はほとんど思いがちであって、子供たちに対する彼の絶対的排他的支配に対する法のほんのわずかな干渉にさえ、世論は非常にはげしく反発する。
(Mill[1855=1967:336])

  コルビーと同じく 「安全重視」派のフリーマンは、上を引用して、逆にミルを支持する。フリーマンは、親がその自由を濫用するのは誤りとし、子どもの福祉のために専門的な介入の機会を最大限に持ちたいからである。このようにミルを近視眼的に理解する「安全重視」派たちは、それを批判したり支持したりしてきた。
  しかしながらここでミルが子どもを親を批判したのには訳があった。

  国家は、一方では、各人に特別に関係することにおいては各人の自由を尊重するが、他方では、もし彼に他人を支配するなんらかの権力を許すときには、彼がその権力を行使するのを十分に監督する義務がある。
(Mill[1855=1967:335])

  「自由の観念」が誤用されないように、「国家」は「彼が」(つまり親が)「権力を行使する」のを「十分に監督する義務がある」と、ミルはここで「国家」は「自由」を尊重した介入の正当性を擁立している。
  もちろん、ミルは児童虐待の発生した家庭に介入することを前提にしているのではない。ここでは例として彼は子どもへの教育という「両親の神聖な義務」を説いている13)。彼は教育が「無料で提供されているにもかかわらず、それを受け入れるか否かは父の選択にまかされている」ことを批難する。しかしここでもな子どもの権利ということは問題にされていない。問題なのは、ある成人がおのれの子どもの自由を「誤用」しかねないことで、その例として教育の「義務」を遂行しない父親の自由の「誤用」が非難の的になるのみである。

自由論と子ども

  『自由論』でミルが子どもを「扱う」にあたって主張したのは、@子どもを「自由の原理」の例外としてみなし、保護主義の姿勢を貫くことと、A「自由の観念」が「誤用」されないように設定された「国家」による「監督」をおこなうことである。そしてこの子どもに対する国家の態度を貫くのは子どもの権利(C)抜きのパターナリズムであり14)、社会福祉が対象とする周辺部に追いやられた人々の自由を「実質的に切り捨てて」(岩崎[1997:50])いるという問題が残った。つまりそこで自由とは「成熟した諸能力を持つ人間」のみが掌握することができるものとなったのである。
  ここでわれわれが気づくべき点は、児童虐待をめぐる権利の所在や危機介入に際しても、私的所有を背景にしたリベラリズムの平面上で議論が展開されていることである。この私的所有に関してその系譜をロック(Locke, J.)にみいだすことができる。

  たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかし人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、何らの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼のとの動きは、まさしく彼のものであると言ってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたものであり、そうして彼自身のものである何物かをそれらに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。
(Locke[1689=1968:32-33])

  ロックはあらかじめ自らの身体を自らのものとしたうえで、自己労働が生み出したものは自己の所有物である、と説く。この図式を用いて子どもを定義した場合、子どもとは自己の「生産物」であるため、私的所有物と位置づけられるだろう。しかしながら、ロックも子どもの存在を、体系的に論述することはなかったとはいえ、その例外として位置づけている15)。子どもが親の所有物ではないということ(親の自由の限界)は、生命倫理の分野で表出している自由の限界性と通底する構造を持つといえる(自由の限界については、立岩真也[1997]、大澤真幸[1998])。とはいえ、子どもという存在は、労働生産物などと同様、身体の「生産物」であり、自由な主体となる可能性が明らかに高いため、身体と生産物との分断性は自明であった。
  立岩のいうように、自己の生産物を自己の所有物とするという原理は、そもそも「それ自体を根拠付けられない」(立岩[1997:36-37])ものである。第4章でもみてきたように、残虐な子どもの取り扱いは、とりわけ近代以降、国家的なダメージを生じせしめる逸脱行為としてみなされるようになった。そこではいくら、近代家族の世帯主に特権的な権利が付与されたとしても、その構成員の一人である子どもを傷付けることは、それと同一平面にある重鎮、自由の原理を犯すことに直結する。ここにいっぽうの自由は他方の自由を脅かすという「自由のねじれ」が存在する。こうした家庭内における自由の対立は、後に子どもの権利という発想の発明により、熾烈さを増すのである。
1970年代に「児童解放運動」の勃興をみ、爾来、その立法化が試みられてきた。例えば、国連の子どもの権利条約(1989年)や終章で検討するイギリスの1989年児童法があげられるが、そこでは子どものオートノミーを保障する条項が明記された。折りしも、ベルリンの壁が崩壊し、自由主義の勝利がセンセーショナルに語られていた時期である。「子どもの自由」も、「世界を支配する自由主義」という文脈のなかで、(とりわけ旧西側諸国の)人々は諸手をあげてそれを熱烈に歓迎したのであった。しかしながら、それから10年が経とうとしている現在、この時歓迎された子どもの自由や諸権利は、有名無実に帰したことが明らかとなる(Fox Harding[1991a][1991b]、Lyon and Parton[1995]、Freeman[1995]、終章参照)。
カント(Kant, I.)は、自由とはであると断言したが(Kant[1787=1927:8])、この1990年代を前にした子どもの自由(C)の掲揚は、その後の諸学問における「反省的学問理論」の興隆を予言するものであったといえる。限りない自由が生み出す抑圧という逆説を、「自由の牢獄」と称する大澤は、自由な社会において児童虐待という言説が、訴訟の場から自由や責任を消滅させる一つの回路となっていることを指摘している(大澤[1996:115-117])。そこで子どもの自由が招聘する、こうした自由の抹消や介入の機会の増大を体現する理論が、批判的言説を内面化した「反省的」な思考であった。


1) 森田ゆりによると、「1984年に日本で子ども虐待について発言し始めた頃私が受けた反応は僅かの人々を除いて冷たいもの」であったらしい(森田[1993:89])。また、朝日新聞記事データベース(東京本社発行)によると、1989年では9件だったのが1990年に20件、1991年に22件、1995年は44件と「1990年を境に増えている」(上野加代子[1996:108])ことがわかる。
2) もちろん、このハンドブックは実際に介入する側のソーシャルワーカーのために簡潔にまとめられたものであるので、全体の方向としては緊張感をもって書かれ、「悲観主義」的要素が多くを占める。しかしながら、ここで重要なのはそういった側でさえ、留保するべき保護者側の権利を蔑ろにできないという事実である。
3) しかし、かつて社会福祉学領域でもマルクス主義的議論が盛んに展開されたが、その後の政治的立場は多種にわたった。例えば、1980年代の臨調路線に際しても、右田紀久恵らが地方分権を前提とした地域住民の主体的な参加を求める地域福祉を支持した一方、高島進などはそれに真っ向から対立する姿勢を示した。
4) 序でも述べたように、主体を媒介とした統制から解放される回路をみいだしたのは、社会福祉学だけではない。心理学や教育学などをはじめ、他領域においてもそれは展開されている。
5) しかしながら実際は、論文「被殴打児症候群」(Kempe,et al.[1962])でケンプらはすでに精神医学的観点からの考察を試み、ネグレクトに関しても言及している。
6) ケンプの6段階論とは、児童虐待の存在の@「否認」から、A「身体的虐待の存在の容認、対処」、B「情緒的虐待の存在を容認、対処」、C「ネグレクトの存在の容認、対処」、D「性的虐待の存在の容認、対処」を経てE「全ての児童の保護的・予防的ケアの保障」を要請する(Kempe,R.S. and Kempe,C.H.[1978])。
7) この父親の言い分はもっともだが、このクラスで教授しているのは単に「アメリカ人の子どもをしつける仕方」ではない。この方式は20世紀初頭から急速に広まったもので、今やそれは国際的な育児の規準であるといっても差し支えはない。
8) 生江孝之はドイツの権利意識に基づいた児童保護政策を紹介した後、「我邦に於ても近く児童保護法案を議会に提出せんとて、目下鋭意其の編成中である」(生江[1923:26])と述べており、内務省の社会事業調査会で議題に上った時期(1931年10月)からみてかなり先行している。なお、日本では初めて被虐待児の保護(近代的な介入として)をおこなったとされる原胤昭は、1900年代から論文を著しているが、その初期において子どもの権利保護という認識は希薄である(原[1909][1912])。
9) 1933年法をめぐっては、筆者が渉猟したかぎりでは、この専門的介入は存在しなかった。しかしながら、明治中期以降からは児童研究が発展し、「科学的」子育ては強調されていた(岩間麻子[1998:123])。また当時、虐待が非行を招くという研究は、例えば留岡幸助が編集する雑誌『人道』にも多くみられた。
10) しかし、法律本文を読むかぎりでは、第二六条二項で児童の家庭環境並びに措置についての児童本人および保護者の意向が追加されたのを除いて大きな変化はない。以前から法第二五条の要保護児童発見者に対する報告義務に罰則規定を設けるよう求める声が関係者からあがっていたが、これも実現されなかった。
11) 子どもの権利(C)の存在を顕示した最初の判例として、アーチャード(Archard, D.)は、ゴールド事件以前の1944年にまで溯っている。この年、児童労働を禁止する法を用いて、マサチューセッツ州に住む「エホバの証人」の子どもが道路で宗教的な本を売る行為を禁止できるか否かの判決がおこなわれた。アメリカ最高裁判所はこれに対し、宗教行為など、プライベートな家族生活に法は介入すべきではないという判定を下した。
12) 福田雅章によると、ミルの自由原理において「自己決定」の行使主体として認められない場合として3つあげられるという(福田[1990])。それは、@生物学的・心理学的基礎を欠くために自己決定の可能性が否定される場合、A自己決定に際してそれに必要な情報などを欠くために自己決定の可能性が否定される場合、B「自己決定できる」という地位を本人自身が否定する場合である。具体的事例として、@とAに子ども、Bに奴隷があげられている。
13) イギリスにおいて初の義務教育制度「初等教育法」(Elementary Education Act)が1870年に成立する10年以上も前からミルは義務教育の必要性を説いている。1848年の『経済学原理』のなかでも「政府が両親に対してその子供に初等教育を受ける法律上の義務を負わせることは、政府の権力の行使として承認してよい」(Mill[1848=1959-1963])と主張している。
14) 山下重一の指摘するように、ミルの教育論は国家的な教育の画一性を否定するものであった(山下[1976:137-141])。ミルは「国家が市民として生まれたあらゆる人間の教育を、ある一定の標準まで要求し強制すべきであるということは、ほとんど自明の公理ではなかろうか」(Mill[1855=1967:336])としながらも、その陥穽について次のように指摘している。「一般的な国家教育は人々をお互いそっくりに形づくるための、ただの道具にすぎない。そして、人々を投げ入れる鋳型は、(略)その勢力の気に入るものなのであるから、それは、有効で成功すればするほど精神に対する専制を樹立し、また自然の成り行きとして身体に対する専制にもなってゆくのである」(Mill[1855=1967:337])。ゆえに、子どもを単にパターナリズムのなかで理解することは回避されなければならない。彼の教育理論は「『自由論』における個性と多様性との情熱的な擁護論の忠実な適用として理解されなければならない」(山下[1976:141])といえる。
15) ロックは『教育論』において子どもを論じる際、(条件付きではあるが)親や教師と対等な存在であることが望ましいとした(Locke[1692=1974:113-118])。つまり、ロックはオートノミーな子どもを支持しているといえる(Archard[1993:99-101])。ミルと同様、子どもは各々の主張を超越したところに存在するものとされた。


  


■終章 社会福祉学領域の「ポストモダン」論争

第1節 イギリスにおける展開 @ 専門職化とソーシャルワーク理論の変遷

救貧法からの脱皮と1948年児童法

  第4章、第5章では、主体化されゆく子どもの姿を考察しつつ、子どもの権利の変遷について考察してきた。その子どもの権利は児童虐待をめぐって複数に解釈され、その相違が議論の争点として存在する。こんにちの社会福祉学領域にひしめきあうソーシャルワーク理論は、虐待をめぐっても齟齬をきたす。こうした混乱は、「学際性」を承認した社会福祉学の宿命ともいえよう。そしてこのソーシャルワーク理論の混沌とした紛争は、「公共の安全性」の擁護側と、それが権力過多だとする勢力との普遍的な拮抗と通底していることについても言及した。一方でこの拮抗は、科学的合理性に準拠した方法・技術の効力が疑問視されたことにも由来することが明らかとなった。
  この終章では、イギリスを例に、児童虐待をめぐる社会福祉学領域の諸言説がいかに政治性と連動していたかについて歴史的な素描を試みたい。その際、福祉国家がもてはやされるなか、社会福祉の学問と専門職制度が整備されていくようすをを概観しつつ、制度の改正に影響を与えた児童虐待事件のいくつかも考慮していく。そして、1990年代に入ると社会福祉学領域において突如脚光を浴びることとなった「ポストモダン」論議について、その歴史的文脈に即して検討したい。その上で、他領域とも共有される「反省的学問理論」のアポリアについて論及する。

  「5巨人」(five giants;want, disease, squalor, ignorance and idleness)に打ち勝つべく、1942年にべヴァリッジ報告は公刊され、戦後の「福祉国家への道」を切り開いたといわれている。この報告の前提としてケインズ主義的な理論は必要不可欠であった(Keynes, J.M.[1936=1950:467])。べヴァリッジの親友でもあったケインズの新自由主義的思想は、政府による市場介入に論拠を与えるものであった。こうした社会民主主義的コンセンサスがこの時期に得られたからこそ、「福祉国家への道」は確実になったのである。
  べヴァリッジ報告はベストセラーとなり、権利を支柱にすえた福祉国家への前進が奨励され、救貧法的な慣習を解体していくこととなるが、パーソナル・ソーシャル・サービスに対して公衆が関心を寄せたのは子どもの虐待死事件であった(Jordan[1984=1992:67])。例えば1948年の児童法制定の直接的契機となった、カーティス(Curtis,M.)を委員長とする、児童のケアに関する公式調査委員会では、デニス・オニール(O'Neill,Dennis)の虐待致死事件が大きな役割を果たとされている1)。
  デニスは両親の育児放棄を理由に、8歳のときに弟2人と共にニューポートの少年裁判所により教育局の保護に委ねられた。デニスは里親を数度換えたあと、1945年1月9日にシュロップシャーの農場で働く里親によって虐待死されられる。死因は放置による栄養失調、前胸部と背中に加えられた暴力による急性心不全と診断された。モンクトン卿(Sir Walter Monckton)の公式調査報告(1945年5月)では(Monckton Report[1945])、この事件はニューポートの職員による指導監督の失敗であり、自治体間の連絡不行き届きによる人災とされた。
  カーティス委員会は、要保護児童を保護する既存の方法を調査し、新しい児童保護サービスを模索する試みであったといえる。そこでは救貧法の名残をいかに払拭するかが焦点とされた。それまで救済の対象となる子どもは、救貧法制度の下のさまざまな法律によって規定されており、「救済の必要な貧困者」(poor persons in need of relief,Hendrick[1994:214])とみなされていた。救貧法制度の下では、子どもはいわば「小さな大人」として扱われたのである。そしてその報告を受けて成立した1948年児童法は、1946年国民保険サービス法(National Health Service Act 1946)や1948年国民扶助法(National Assistance Act 1948)などとともに戦後のイギリス福祉国家の一翼を担うものとして評価されている。ここで保護される子どもの権利(P)が一応の完成をみたのであった。

子どもへの学問的まなざしの集中

  1946年のカーティス報告は、初めて子どもというカテゴリーを対象とした、福祉に関する調査である。そのなかでも「ノーマルな家庭生活を剥奪された児童」(children deprived of a normal home life)が救済の対象に含められたのが画期的であった。「剥奪児童」、つまり要保護児童とは、さまざまな事情により、父母や親族との通常の生活が送れない子どもである。杉野昭博はカーティス報告が対象とした「剥奪児童」の意味を次の三つに要約している(杉野[1991:67-69])。 

@ それまで救貧法のもとで対象とされてきた、残余的な救済のもとにあるこども。
A 肉親と暮らしていない子ども。
B 死という絶対的剥奪の危機に瀕している子ども。

委員会はAタイプの子どもの生活に愛情や変化が欠如していると指摘し、施設ケアよりも里親委託を優先、大規模施設を閉鎖もしくは縮小させ、ファミリー・グループ制度を推奨した。また行政機構に関しては要保護児童に関する公的な責任を一本化し、それを単一の行政機関が負うべきとしている。それを受けて1948年児童法では、地方当局に「児童委員会」(Children's Committee)が新たに設けられ、児童局(children's department)が実務を担当、その責任者は児童部長(children's officer)とされた。中央レベルでは、内務省(Home Office)が責任官庁となり、監督、助言、指示を通してケアの水準の確定、維持をおこなう情報センターとしての役割が期待された。
  ヘンドリックによると、イギリスでは1920年代頃から小児科が発展し始め、カーティス委員会設置までには子どもを身体的・精神的に分析する学問がある程度整備されていた(Hendrick[1994:258-259])。上記の法整備や勧告も、ボールビー(Bowlby, J.)やアンナ・フロイトらの心理学的見解に基づいて作成されたものである(Hendrick[1994:220-222])。例えばここで、「肉親と暮らしていない子ども」が剥奪された状態であるという認識にも、精神分析的な言説をみることができよう。
  それに基づくと、デニスは実の親からの愛が注がれることがなかったという時点で、すでに剥奪児童とされる。この報告では、デニス・オニール虐待致死事件を念頭に、死という絶対的剥奪からの保護も検討されているが、それは一般の子どもをくまなく対象とするのではなく、相対的剥奪の域に達するものではない。なぜなら、オニールは里親に虐待されており、ここでは「剥奪児童」の絶対的剥奪が問題とされたからである。親元にいる子どもは絶対的剥奪の可能性のあるものとして、学問的にも感知されなかった。相対的剥奪に福祉の関心が集まるのは、実の母親の眼前で殺されたマリア・コルウェル事件以降のことである。
  また、こうしてフロイト的精神分析に影響を受けた子どもの心理の解釈に基づいた福祉改革を推し進めるということは、それまでの救貧法的処遇と一線を画することにも役立ったといわれている(Kammerer[1962:17-21])。福祉国家体制のもとで、ソーシャルワーカーがその業務をおこなっていくが、彼らの理論的根拠はフロイトを中心とした精神分析学におかれた。この時期、福祉が対象とすべき子どもの把握や、その処遇に関する論拠となった理論は、比較的一貫したものであった。そしてこの時、社会福祉学という学問がイギリスにおいて本格的に初期化されたのである。
  ところで、カーティス報告のなかでは「ソーシャルワーカー」という言葉が一度も使われることはなかった。しかしながら、その後のソーシャルワーカー養成や専門性の確立に向けた重要な提言をおこなっている。既存の人材の質や研修の不備に警鐘を鳴らしつつ、施設職員の研修や里親委託訪問員の研修の強化を説く。そして新たな訓練過程を設け監督するうえで「中央児童ケア研修協議会」(Central Training Council in Child Care,CTC,1947年に実現)の設置を提唱した。また大卒のための新しい訓練過程も提案している。とはいえ、当時は津崎が「混沌期」と分類するように(津崎[1987:2-5])、ロンドン大学経済政治大学(LSE)に「カーネギー・コース」(1954-1958年)が設けられるまでは専門職養成課程と呼ぶにふさわしいものではなかったとされる(カーネギー・コースについては、津崎[1986:7])。
  イギリス初のジェネリック研修とされる、カーネギー・コースが開設されるまでの間も、水面下でソーシャルワークの専門職化に向けた努力は続けられていた。なかでも、次に触れるシーボーム勧告を促進するグループ(シーボーム勧告実施促進グループ、Seebohm Implementation Action Group,SIAG)の中核となった「児童主事協会」(Association of Child Care Officers,ACCO,1948年設立)は、すでに1947年5月に「児童ケア研究グループ」(Study Group on Child Care)として活動を始めている。このグループは、中央児童ケア研修協議会(CTC)の「里親訪問員」を対象とする資格所得コースを母体として生まれた。その後、児童主事協会2)は順調に会員数と会費収入を伸ばし、専門職団体としての発展を遂げていく3)。社会全体の動きをみても、福祉国家の基礎となる社会福祉サービスの法的基盤の整備が急がれるなか、福祉職員の増員とその専門性の確立が待たれていた。
  1954年に開始されたLSEにおけるカーネギー・コースは好評を博し、それを原型とした「応用社会科コース」(course of applied social studies)は諸大学に広がっていく。しかしながら、それは優秀な人材を充分に供給し得たとはいえず、1955年に「地方自治体保健・福祉サービスにおけるソーシャルワーカーに関する調査委員会」(通称ヤングハズバンド委員会)が設置された。その委員会報告は1959年に刊行され、政府はその制度化を決定し(1960年)、「ソーシャルワーク研修協議会」を設置するための法律、保健訪問およびソーシャルワーク(研修)法が1962年に制定される。またヤングハズバンド報告で勧告された「職員大学」(staff college)の構想(Younghasband,E.[1959:949-955])が1961年に「全国ソーシャルワーク研修研究所」(National Institute for Social Work Training)として実現されている。さらに1961年、ジェネリック研修コースが大学の外部でも開設され、国家資格であるソーシャルワーク認定証(Certificate in Social Work,CSW)を所得することができるようになった。
  1950年代、1960年代は専門教育のための研修体制が制度化される過程にあり、専門職団体の統合が進行し、地方自治体レベルでもパーソナル・ソーシャル・サービスの供給組織の統合化が促進されてきた。こうした統合化への動向は、1965年の労働党政府による白書「児童、家族、青少年犯罪者」の刊行を経て、1968年の「シーボーム報告」でその頂点に達することとなる(津崎[1987:12])。この報告では、家族の健全な機能促進と少年非行の防止が目標とされ、地域に根差し、家族本位のサービスの提供が望まれた。そしてこれらの勧告は、1970年地方当局社会サービス法(Local Authority Social Services Act 1970)により実現される。
こうして予防が強調されるとき、社会の進歩は国家機関や専門家の介入を通して達成されるとみなされ、それに割かれる国家予算は増加の一途を辿っていった(Parton[1994:21])。

「予防」的介入の進展

  1970年代に入ると、シーボーム報告に基づいた「シーボーム改革」がなされる。そこで、児童局のサービスのほか、住宅や教育、保健、福祉各局のパーソナル・ソーシャル・サービスは統合された地方自治体の「社会サービス局」より提供されるようになった。そこでは統合的なパーソナル・ソーシャル・サービス制度の指針として、「地域に根差す」とともに、「家族に焦点を当てた」サービスの提供がなされていく(津崎[1981:192])。こうした段階において、カーティス報告や1948年児童法は、「家族の崩壊を予防する法的手段はほとんど提供していない」(Sainbury, E.[1977:29])と、低く評価されることとなる。このとき、20世紀を通じて形成されていった社会福祉学の存在意義も最高潮に達し、それは福祉国家の根幹をなすにいたった(Parton[1991:12][1994:16])。
  この改革で「予防的家族福祉サービス」が確立されたといわれているが、「非行に走る危険な子ども」をめぐる処遇は、従来の心理主義的平面上で、より濃密になされていく。少年裁判所とその関連諸サービスを再検討するために、1956年にイングルビー委員会が任命された。これは、戦後混乱期の浮浪児が成人すると少年犯罪は逓減するであろうという精神分析学の予測に反して、1954年を境にその数が急増したことが背景にあった(津崎[1980:97])。この委員会の報告書は1960年に出され、非行および放任問題は家族のありかたにその原因を求めることができるとして、予防的介入の重要性を再確認している4)。そこで国の義務とは、「家族がそれにふさわしい諸機能を追考するように援助をすること」(Ingleby Report[1960])となり、予防的な介入が急務となった。イングルビー報告による勧告を受け、1963年に児童青少年法(Children and Young Persons Act,1963)として立法化され家族への予防的介入に対する法的根拠も確立される。ここでソーシャルワーカーはその権限を手中に収め、精神分析学や心理学を基礎理論としてその権限を行使していったのである。そしてこの法律は一方で児童虐待の「予防的な業務」を実施するために、児童部に大きな権限を与えた法でもあった(Younghasband[1978=1986:262])。
  戦後混乱期の浮浪児が成人すると少年犯罪は逓減するであろうという予測は、ともすると精神分析学の敗北とみなされかねない。戦時中の悲惨な体験が子どもの心理に悪影響を与え、さまざまな問題行動として表出するという命題は、当時の心理学、精神医学、そして社会福祉学(当時のソーシャルワーク理論は前二者に大きく拠っていたため)に馴染み深いものであった(例えば、Bender[1968])。しかし現実には非行少年の数は増加の一途を辿り、その原因を別に求めなくてはならない事態に陥った。そこで次に「家族の崩壊」現象が問題視され、それがもたらすとされる非行現象をくい留めるため法的に根拠付けられた介入が発動することとなる。この時期、それが法案として審議される場面においても、「児童のニード不充足と少年非行の関連性はあたかも公理のように考えられていた」(津崎[1980:97])ことは精神力学ソーシャルワーク理論と制度との連動を確認する上で重要である。
  この「公理」は、児童を対象にした精神分析学が成立した頃5)から、またそこでフロイト的分析を児童の治療へと応用した時点6)からの系譜を持つ。その代表的な研究者の一人であるボウルビーは、世界保健機構(WHO)の要請により、愛情喪失についての研究をまとめた『乳幼児の精神衛生』(Bowlby[1951=1967])を著す。この著書は「母性的養育の喪失」と「少年非行」の連関を、世界的な共通認識へとするうえで大きな役割を果たしたといえる。ここでは、ノーマルな生活を送れなかった子どもは、「ジフテリアや腸チフスの患者が社会にとって危険な」ように、「社会的病毒の源泉」と目され、その「予防対策」として、さまざまな社会政策が必然とされるのである(Bowlby[1951=1967:155])。本が出版された当時、ボウルビーは「どの国もいまだこの問題を真剣に考えていない」と嘆いたが、こうした思考はそれから徐々に世界へと広まっていった。
  児童青少年法は再び1969年に改正されるが、その時の理論的基盤は、社会福祉における二つの子ども像 ─被虐待児童と非行少年─ を根本的に同一の「病原」に発するものとしてみなす、心理主義的見地におかれた。非行少年と養護児童では、性格やニードにはほとんど差はなく、両者共に社会的欠損家族(socially deprived family)より生み出される。従って前者に対する処遇も後者のそれと基本的には同じであるべきという見解は、政治的な課程においてさえも所与のものとされた(津崎[1980:96])7)。
  こうした強固な理論の共通基盤のもと、ジェネリックなソーシャルワークが重視され、それに準じたソーシャルワーカーを養成する、さまざまな制度や協会が次々と整備されていく。まず、現存するイギリスのソーシャルワーク専門職教育研修を統括する機関である、「中央ソーシャルワーク教育研修協議会」(Central Council for Education and Training in Social Work,)が1970年に設置された。これはジェネリックな専門職資格で、さまざまな教育機関で設置されている「ソーシャルワーク資格認定証」(The Certificate of Qualification in Social Work, CQSW)を所得するコースを統括するものである。
  1970年には専門職諸協会の統合が実現し、「英国ソーシャルワーカー協会」(British Association of Social Work,BASW)が設立された。なおこの中央機関は、度重なる状況の変化に対応して幾度となく変遷を経たものである。1951年に発足された「ソーシャルワーカー協会」(ASW)がカーネギー・コースやヤングハズバンド・コースなどの試みを受けて1963年に「ソーシャルワーカー諸協会常設会議」(Standing Conference of Social Workers,SCOSW)となり、この英国ソーシャルワーカー協会へと結実した。また、1970年の地方自治体ソーシャルサービス法によって地方自治体ソーシャルサービス部が新設されたことも、統一的な社会福祉学を提示する際に重要な役割を担った。逆にこうした背景のなか、ソーシャルワーク理論を選択するにあたって一つの理論に限ったほうか都合がよかったともいえるのではないか。
  以上のように、戦後、シーボーム報告にいたるまで、社会福祉の学問と専門職制度は飛躍的に発展を遂げていった。しかしながら、ここでその学問的な完成度、あるいは信頼度を揺るがしかねない事件が起こる。この頃から社会福祉学(特に精神力動ソーシャルワーク理論)の根底は侵食され始めるが、そのきっかけになったのもまた、児童虐待事件であった。

マリア・コルウェル事件と精神力動ソーシャルワーク理論の攻防

  福祉国家体制が整備されるなか1973年までは社会福祉の学問の体系化や専門職団体の統合化、研修と資格制度、実務を組織が比較的順調に整備されていった。そしてそれに投入される国家予算も年々増加していく。戦後20年あまりの間、イギリスにおける社会福祉学とその専門職体制は、目をみはる発展を遂げてきたといってよいだろう。しかしながら、専門職化への大躍進に水を差し、その学問的基盤を揺るがす状況の変化が起こった。1973年とは、マリア・コルウェル事件の起こった年であり、石油危機がイギリス経済を直撃し、予算の削減をイギリス政府保健・社会保障省(Department of Health and Social Security,以下、DHSS)が決定した年でもあった。
  マリア・コルウェル事件が人々の注目を集めた理由の一つは、その虐待が実の母親のもとで加えられたという事実である。DHSS大臣がマリア・コルウェル事件の調査の開始を発表してからは、この事件がマスコミでも大々的に取り上げられることとなり、現在では一つの転換をもたらした事件として認識されている。マリア・コルウェル事件報告書(DHSS[1974])では、「専門家」であるはずのソーシャルサービス部のソーシャルワーカーが下した判断に対して疑問を投げかけた8)。マリア・コルウェル事件報告書の勧告を受けて1974年にDHSS通達が出されているが、この悲惨な事件を招いた最大の要因は、各種関係機関(学校、ソーシャルサービス部、全国児童虐待防止協会、住宅部など)の間の連携が失敗したものと指摘している。そこでDHSSは同年、再度通達を出し、事例会議や地区児童検討委員会、児童虐待登録制の導入を勧告した。そしてそれはイギリスにおける「児童虐待防止マネージメント」の出発点と位置づけられている。これ以来、マニュアルやガイドが氾濫するようになったといわれる(Howe[1992:504])。
  まさにこの混乱期にケンプらによる「殴打される子ども症候群」(Kempe,et al.[1962])研究9)によって、児童虐待が「再発見」され、イギリスもその影響下においた。翌1963年にはイギリス医学雑誌にThe Battered Baby Syndromeなる言葉が早くも登場している(Parton[1985:54])10)。また 1978年、ロンドンで開催された第2回の児童虐待の国際会議には、1000人もの研究者が集まった。この会議では、政府による協力とマーガレット王妃の後援を得ており、その関心の高さを物語っている。用語としては、1970年DHSS通達でbattered babyからNon-Accidental Injury(NAI)に変更され、さらに1980年からはchild abuseと公式に用いられるようになった。こうした医学的な知見が新たに加えられ、児童虐待への人々の関心が高まり、定義も拡大しゆくなかで、被虐待児童の報告が急増する。
  この事件ではマスコミなどを通じてソーシャルワーカーに多くの批判が寄せられた。そこで社会サービス部に属する保健・医療および福祉関係の専門家の専門性は、さらに高められるべきという結論にいたる。一方この事件は、ソーシャルワークが論拠としていた、「血縁」を重視する精神力動ソーシャルワーク理論の限界を露呈するものであった。つまり、実の親子間における愛情を最重視するソーシャルワーカーの判断、そしてその論拠となる学問の有効性が問われたのである。ここで、この一つの精神力動ソーシャルワーク理論の否定は、別の理論からの反撃を招くことになったといえる。
  ここで台頭してきたのが、ゴールドスティンらの『子どもの最善の利益を越えて』(Goldstein, J.,Freud,A. and Solnit,A.J.[1973=1990])に代表される主張である。ゴールドスティンらは、子どもには「一人の大人」との継続的な「愛情と刺激の関係」が必要であると説く。このとき、その大人とは、「生物上の親・養親・里親・コモンロー上の養親のいずれであってもよい」(Goldstein, Freud and Solnit[1973=1990:13])とされ、血縁が最善とされたそれまでのものとは大きく異なる。こうした論が主流となる背景には、その前提を崩壊させる児童虐待やネグレクト、遺棄などの事件が多発したことがあげられる。またその継続性の重視に関連して、子どもの時間感覚とは特別なもので、その特別な欲求を充たしてやらねばならないとしている(Goldstein, Freud and Solnit[1973=1990:40-41])。
  このゴールドステインらの理論に先立って、血縁神話を越えた動きはみうけられる(許[1990:68])。1969年に養子に関する法、政策、手続とその改革を考慮するためにホートン委員会(Houghton Stockdale Committee)が任命されたが、そこでは長期里親の申し立て権を拡張する試みがなされた。委員会では、実親の意思に反しても子を手元に留めておく権利を長期里親に認めるように要求したが、「血縁」を重視する風潮があり委員会への批判も強かった(Younghasband[1978=1986:60])。ちょうどこのとき、血縁者とともに生活していたマリア・コルウェルの虐待致死事件が起こったのである。それは、ホートン委員会報告(1972年)での勧告を後押しするものであったといえる。その他にも、長期ケアにいる子どもに関する調査(Rowe, J. and Lambert,L.[1973])の公表11)も同じ流れにあるといえる。
  しかしながら、ゴールドステインらの理論のなかでもっとも注目すべき点は、知の限界を明記したことである12)。「家族の結びつきは、複雑でこわれやすいプロセス」であって、「学問分野の総力をあげてもできないこと」(Goldstein, Freud and Solnit[1973=1990:118])であり、裁判官たちの能力を超えたところにあるという。しかしながら、知の限界性の肯定は後述のジャスミン・ベグフォド事件が生んだ潮流に比べると、牧歌的であったともいえる。学問や専門知識による解釈可能性を認めたといっても、それは精神分析学の範疇における一つの理論と位置づけられ(Goldstein, Freud and Solnit[1973=1990:119])、1948年児童法成立以来のエピステーメに属するものといえよう。その彼らの理論は、家族の自律性を重視する政治的立場にあるものたちを擁護する利便性に長けていた。そして、こうした理論に援護されたホートン委員会の報告は1975年児童法の枠組みとなったのである。
  ゴールドステインらの著作がもてはやされる一方で、経済的環境が悪化してきたという事態に注意しなければならない。1972年に「パーソナル・ソーシャル・サービスの10ヶ年計画」を策定した段階ではパーソナル・ソーシャル・サービス予算の伸び率は実質年率12%に達していたのを、1976年の『イギリスにおける保健およびパーソナル・ソーシャル・サービスの優先事項 ─諮問文書』(DHSS[1976])では2%に設定された(平岡[1992])。10ヶ年計画は1974年に廃止され、DHSSは1977年にそれに代わる「地方行政当局計画報告」(Local Authority Planning Statement, LASP)の導入を発表したが、それもサッチャー政権誕生とともに廃止されてしまうことになっている。

ジャスミン・ベグフォド事件と心理主義の剥落

  マリア・コルウェル事件は「児童は親の所有物ではなく、自立した存在であること、つまり児童の人権を尊重する風潮が芽生えた」(田邊[1991:37])とされる。この風潮は、実母と継父に虐待され、専門家の介入がありながらも死亡したジャスミン・ベグフォド(Beckford, Jasmine)事件によってさらに加速された。この虐待事件においても、ソーシャルワーカーなどが彼の両親をクライエントとして心理主義的に処遇してきたことが批判の対象となった。子どもの権利を前に、研修で習得した理論やそれに基づく処遇は存在意義をみいだすことができなくなった。しかしながら依然、ソーシャルワーカーの研修制度や処遇の際のプロセスが「不備」であったことにその原因が求められている(同様の指摘にParton[1986:517-518])。この事件を機に、虐待の報告件数や、安全地命令13)が一気に急増した14)。またそれまでに、一連の改革が、1980年の「児童ケア法」の制定によって完成されていたこともその一因として考えられる。同法は「1948年児童法」による保護的側面と、1963年の「児童青少年法」による予防的側面とを統合させたことで大きな意味があった。
  ジャスミン・ベグフォド事件は、1973年のマリア・コルウェル事件と同様、実母のもと、継父に殺されたが、世論はより過激にソーシャルワーカーを酷評した。そこにソーシャルワーカーによる「リハビリ的ソーシャルワーク」(Howe[1992:494])の存在意義はほとんど残されていない。勅撰弁護士ブロム-クーパー(Blom-Cooper,L.)による調査報告(Beckford Report[1985]通称、ベグフォド報告)では、ケンプの「もし、子どもが家で安全でないのなら、彼はケースワークによっても守られることはない」という言葉が引用されている(Beckford[1985:288])。ケンプの予言とおり、「ベグフォドの家族をいくらケースワークしても、ジャスミンへの酷い虐待を防ぐことはできなかった」のであり、ここで精神分析、心理学を基礎とした、治療を試みるソーシャルワークの技術は明確に否定されたのである(Beckford[1985:290])。
  同時に、ベグフォド報告には、ソーシャルワーカーに明るい未来を期待している部分がみうけられる(Parton[1986][1991])。虐待のリスク認識し、致命的なケースとなるか否かを予想する新しい形態での「児童虐待の科学」(Parton[1991:62])というべきものの確立が望まれていたのである。つまりこの時、心理主義的な治療を試みるソーシャルワーク理論はほぼ拒絶されたが、別の方向への科学化が期待されていった。
  例えば、1985年にグリーンランド(Greenland,C.)は「ハイリスク」の家庭を識別するチェックリストを163件のケースに基づいて作成している(Parton[1986:522])。この頃から「児童虐待の科学」は、両親をもクライアントとして長期的な治療を志向するものから、リトマス試験紙のように「ハイリスク」か否かを判定する道具を準備するものへと移行していった。そしてその判定を円滑にするために、マニュアルが数多く編まれ、それに基づいてワーカーは仕事をこなしていくようになる。
  ベクフォド報告以降、こうした「児童虐待の科学」が感知する「ハイリスク家庭」に対して、ケンプの主張に従順となっていく。

  「ハイリスク」のケースの場合、適当な時期に子どもを家庭から引き離すことを、社会は容認するべきである。われわれの計算では、そのような政策によって毎年親の下で命を落とす40から50人の子どもたちが助かることになるだろう。
(Beckford Report[1985:289])

  このとき以来、ソーシャルワーカーは虐待の形跡や可能性を収集する検察官のような役割を果たすようになってきた。こうしたソーシャルワーカーの役割の変異をパートンは「医療‐社会モデル」(medico-social)から「社会‐法モデル」(socio-legal)への転身と特徴づけられる(Parton[1991:18]、他にOtway[1996])。そして彼女は今日、証拠を調査、査定し、検証することが強調される「社会‐法モデル」が社会福祉学の存在を脅かしていると愁う。
  ハイリスクを的確に感知するという、新たな「科学」を目指した社会福祉学は、1987年のクリーブランド事件を迎えることとなる。


第2節 イギリスにおける展開 A 懐疑されるソーシャルワークの「科学」

クリーブランド事件

  1987年の5月頃から、クリーブランド・カウンティにあるミドルスバラ総合病院で性的虐待と診断されたケースが突発的に増加した。地元の新聞社は6月、わずか一ヶ月の間に200人もの子どもが性的虐待を受けたと診断され、地方行政当局のソーシャルワーカーに保護されたというニュースを流した。スキャンダラスなこの事件は、瞬く間にイギリス全土の関心の的となる。しかしながら、そこでの批判の矛先は、子どもを虐待した親などへではなく、主にソーシャルワーカーや性的虐待の診断を下した小児科医に向けられた。高圧的な態度で子どもを家庭から引き離す専門家は、まるで「ナチス親衛隊」15)のようだと「デイリー・メイル」や「デイリー・ミラー」などの新聞に記されている(Parton[1991:81])。マスコミでは、家庭へ土足で踏み込んでくる権威主義的な小児科医とソーシャルワーカー、それに対して市民の権利を守り、特に親の権利を擁護する警察という構図が繰り返し強調された。そこでは専門家によるマネジメントの至らなさが攻撃されたコルウェル事件、ベグフォド事件とは一転して、家庭への過干渉が矢面に晒された。しかしながらそこで、ソーシャルワーカーが批判されることには変わりがない。これは第5章2節でみたように、世論の板挟みになるのはソーシャルワーカーとしての宿命である。
  こうした専門家バッシングの背景には、保護された子を持つ親(つまり虐待者として「診断」された親)が団結して抗議をおこなったという事実がある。1980年代半ばから、安全地命令が多く発令されるようになったが、ちょうどその時、ケア決定の過誤に抗議する「不法に立ち向かう親の会」(Parents Against INjustice,,1985年)が結成される。この会は、いわば親の自由を代弁するものといえるが、クリーブランド事件に際しても大きな役割を果たした。彼らはクリーブランド事件で保護された子を持つ親たちに支援や助言をおこない、マスコミなどを通して大々的に自らの見解を主張していく。こうした活動はすぐに地元の聖職者や全国紙、そして地方下院議員(local MP)であるスチュアート・ベル(Bell, Stuart)とティム・デヴリン(Devlin, Tim)の援護を受けることができた(Hendrick[1994:274])。
  こうした世論の高まりを受けて、保健大臣(Minister of State for Health)はその調査にバトラー・スロス(Butler-Sloss, L.J.)高等法院判事を指名し、1988年の1月にはその報告書がまとめられた。この調査は、PAINの以前におこなっていた意見表明の多くを反映したものとなる(Parton[1991:95]、Lyon and Parton[1995:46])。
  この報告書では、性的虐待をどういった過程で調査したのか、いかに国家機関や専門家がそれぞれ異なる判断を下していったかについて多くが割かれている。このクリーブランド事件で主な争点となったのは、@性的虐待の診断方法と、A子どもおよび親の権利の所在である。この二つについて、見出しを改めて順に考察していきたい。

性的虐待の診断方法 ─性的虐待を取り巻くディシプリン

  まず@について。一ヶ月あまりの間に性的虐待の有無の診断を下したのは、ヒッグス(Higgs, Marietta)とワイアット(Wyatt, Geoffry)という二人の小児科医であった。この医者の診断にもとづいて、ソーシャルワーカーたちは子どもたちの保護をおこなっていったのである。その診断方法とは、「肛門肥大症」(anal dilatation)を肛門性交の証拠としてみなすものであったが、真偽性が低いとして、事件以後ではマスコミにおいても批判が集中するところであった。当時、性的虐待か否かの診断方法は、医学の新しい研究分野として注目を集めつつあったことも念頭におく必要がある。
  そもそも性的虐待は、戦後、再発見された児童虐待という領域において、身体的虐待やネグレクトに遅れて認識された(第5章2節参照)。アメリカでは1970年代後半に国家的な関心を集めることとなったが、イギリスではそれに数年遅れている16)。1982年にまとめられたパンフレット、『児童虐待』(DHSS[1982])においても、まだ性的虐待は関心外におかれていた。しかしながら、アメリカでの関心の高まりを受けて、状況が徐々に変化しつつある時期でもあった。性的虐待について研究し、彼らを処遇しようとする専門家がイギリスにも現れたのである。
  イギリスにおける性的虐待を扱う専門家的態度は、心理・精神医学的なアプローチと、身体的な徴候を読み取る医学的アプローチの二つに分類される(Parton[1991:84-91])。とはいえ、この両者とも医学的言説のなかでその技術を発展させていったことに変わりはない。
  前者の心理・精神医学的なアプローチの代表として、「イギリス児童虐待とネグレクトの研究と防止協会」(British Association for the Study and Prevention of Child Abuse and Neglect,BASPCAN)の会員でもあった精神病医、ベントヴィム(Bentovim, Arton)とコミュニティー小児科医のリンチ(Lynch, Margaret)らがあげられる。ベントヴィムとその同僚たちはカウンセリングで解剖学的に正確な人形を用い、幼い子どもでも密室で何が起こったかを表現できるような手法を発展させていった。

図 1 カウンセリング用の人形の広告

  (略)

精神力動ソーシャルワーク理論を支持するソーシャルワーカーたちも、盛んにこの手法を取りいれたようである。この方法は当初、性的虐待を受けた子どもに対するセラピーの一形態としての機能を果たしていたが、次第に虐待がおこなわれたかどうかの判定手段として期待されるようになっていく17)。
  そして後者の身体的なサインを読み取る診断方法は、リーズの二人の小児科医ワイン(Wynne,J.M.)とホッブス(Hobbs,C.J.)によって開発された。彼らは肛門の反応やその拡張を検査することによって、診断がおこなえるとし、「肛門肥大症」が虐待の証拠とされた。そして「幼児期、子ども期の肛門性交は、一連の学際的調査がなされなければならない、児童虐待の次なる主要局面である」(Hobbs and Wynne[1986])と主張する。
  その専門家的な野望はそのパンフレット等からも読み取ることができるが、それは小児科という後発の医学分野の野望でもあった。同時に、当時はまだ「児童虐待」の範疇に含まれていなかった性的虐待という項目を、それへ含めようという意図が伺える(Parton[1991:87])。また医者が診断を下すことから、性的虐待は特に子どもの健康を害するという病原として認識された(Parton[1989:100-106])。そして、それはみずからの専門的臨床のなかで解決の道がみいだされると結論づけられた。
  注目すべき点は、性的虐待は他の虐待と異なり、性的虐待の診断や判定に際して慎重にならなければならないとされたことである。性的虐待を受けている子どもは、それを秘密にする傾向があり、それを聞き出すのは並大抵のことではないとされた。それは、親による抑圧の証拠でもあると説明されている18)。

  性的虐待は、秘密裏に起こり、家族によって秘密は保たれ、共同体の所為と禁忌によって秘密は保たれたままとなる。
(CIBA[1984:xx])

1985年の児童ケア法では親とワーカーの「パートナーシップ」が強調され、後に出版された白書「児童ケアと家族サービスに関する法」(The Law on Child Care and Family Services、1987年)や政府刊行文書においても、それが引き続き強調されてきた。しかしながら、性的虐待という問題はその「パートナーシップ」哲学では解決できない、微妙な性格を有するものである。表出する性的虐待は「氷山の一角」にすぎず、専門家たちは念入りに総ての子どもに注意を向けなくてはならない、ということが医学的にも「証明」され、反パートナーシップ的な側面も必要だということが是認された。この傾向は、ジャスミン・ベグフォド事件やキンバリー・カーライル(Kimberley,Carlile)事件19)などによっても加速されたといえる。子どもの人権を守るためには、家族への介入は必然で、親の自由な裁量は二次的なものとみなされる風潮が生まれた。 
  PAINの活動は、こうした専門家の態度に異議を申し立てたものといえる。クリーブランド事件のもう一つの争点を検討する前に、こうした風潮の影響を受けた1989年児童法のなかでこの親の権利がどう扱われたか、その要点を略記したい。

1989年児童法

  この1989年児童法には、クリーブランド事件の教訓が盛り込まれたといわれている。それは、1980年に児童福祉の保護的側面と予防的側面とを統合させた「児童ケア法」成立の精神を根本から覆す事件でもあった。クリーブランド事件のもたらした転換とは、一体なんだったのか。事件をはさんで出された政府刊行物を、ヘンドリックは次のように対比させている(Hendrick[1994:275])。1986年に出版された手引書、『児童虐待:ワーキング・トゥギャザー(working together)』(DHSS[1986])において、「ワーキング・トゥギャザー」するのは各機関間のワーカーであった。そこでは子どもの保護とは、親や保護者から子どもを守ることである。これに対して、1987年のクリーブランド事件を経て編まれた『ワーキング・トゥギャザー』(DHSS[1988])では、専門家と各機関は「親と協働」しなければならないことが強調されたのである。さらに、子どもの権利概念が文面上重視されていることから、時には子どもと「ワーキング・トゥギャザー」する専門職像が推奨されている(これが示すアポリアについては、後述)。つまり、「ワーキング・トゥギャザー」の意味は、クリーブランド事件の前後でその内容を一変させたのである。
  1989年児童法の意義を概観すると、第一に子に関する公私法を統一化したこと、第二に「親責任」(parental responsibility)概念を強調したこと、第三に「子どもの福祉」の原則を盛り込んだことがあげられる。まず、この児童法は公私両分野におけるこの監護養育をカバーする体系的な制定法典となった(許[1993:67])。ここで子に関する公法というと地方当局の児童ケア責任に関する法を、また私法とは特定の個人、特に親に対するこの監護養育責任の配分に関する法を指す。前者は日本における「児童福祉法」など、後者は「民法」などの性格を持つとされる。
  第二に、親責任という新しい概念が提示された。これは第3条1項において「法によりこの親が子及びその財産に関して有するすべての権利、義務、権能、責任及び権威を意味する」と定義されている。これは親たることは権利よりも責任であることを強調したものである(Lyon and Parton[1995:41])。この法律では、後述する「子どもの福祉」を害する危険性が高くない場合、「不介入の原則」(第1条第5項)が明らかにされ、任意の「パートナーシップ」(第3部)に基づく子と家族への地方当局の家族支援を強化する法体系となって具体化された。これは、1973年後見法と1987年家族法改正法における規定を統合整理したものでもある(土屋恵司[1991])。
  最後に、第一条に掲げられている「子どもの福祉」の意義についてであるが、これは本法のなかでも「至高の考慮事項」(paramount consideration)とされている。この子どもの福祉という用語は従来から司法では用いられてきたもので、網野によると、「国際連合の『子どもの最善の利益』と同義である」ものとされている(網野[1995:170])。第4章4節で子どもの権利について考察したが、網野の第一条に関する指摘は、福祉権的子どもの権利(P)ともいえるものである。

子どもおよび親の権利の所在 ─「自由」とはなにか

  クリーブランド事件で議論された、A子どもおよび親の権利の所在をめぐる争点について考察したい。これまでも述べてきたように、親と子の権利の(アン)バランスは児童虐待をめぐって露呈されるが、この事件では、それがもっとも顕著に表れていた。この事件の余韻が残るなかで制定された1989年児童法も、上述したように「国家の役割と親の責任、子どもの権利の新しいバランス」(Lyon and Parton[1995])を模索したものだといわれる。クリーブランド事件という経験を通して、「二つの自由」がこれまで以上に議題に上ることとなる(第5章4節参照)。
  まず、この事件を機に親の責任、自由裁量権が重視されるようになる。その典型的な例として、保護された子どもの親などが集ったPAINは、国家の過干渉についてマスコミを最大限に利用して批判を展開している。これは国家に対立する自由主義的な主張という古典的な構造をもつものとして理解できる。ミルの論述にみたように、福祉国家の存立にとっては、まずその主張を封じ込めなくてはならなかった。多くの国々が「福祉国家への道」を歩むなかで、親の自由を主張する声は、後退していった。ところが、1980年代後半のこの時までには、親の権利や自由を尊重する風潮が高まりをみせていたのである。
  また、子どもの権利(C)が積極的に児童法に盛り込まれていった。そこでは、パターナリスティックな権利と一線を画した子どもの自由が意識されている。時期的にみても、大人とほぼ同様の権利を子どもに付与するという鳴り物入りの「子どもの権利条約」(1989年)が採択されるなど、世界的な潮流とも合致していた。イギリスでは、ちょうどファーソン(Farson, D.)の“Birthrights”や、ホルト(Holt, J.)の“Escape from Childhood”、ファイアーストーン(Firestone,S.)の“The Dialectic of Sex”などの影響が根を下ろし、子どものオートノミーを重視する学問も注目を集めていた(Archard[1993:45]、他にもFox Harding[1991:293-399])。
  その「子どもの権利(C)」を重視する児童解放運動の発端は、第4章でも考察したように、1960年代の西側諸国において高まった権利運動まで溯ることができる。この子どもの権利(C)を支持することは、資本主義社会の閉塞を打倒しようとするマルクス主義者や、家父長制の社会の抑圧的な構造を批判するフェミニストにとっても、自らの主張を顕示するに有効なものであったため(Archard[1993:45-46])、論争は過熱した。
  またこの時、教育学の分野でも、児童中心主義教育(第4章4節)を推進する勢力が隆盛を極めていた。児童中心主義の「教義」は、ルソーにその系譜を辿ることができるが(Archard[1993:46])、この1960年代には、大多数の教育学者や教育関係者たちが児童中心の教義を支持したという点で卓越していた20)。例えばその代表的なものとして、ロンドン総合学校(London comprehensive school)、ライジングヒル(1960年から1965年まで)におけるマイケル・ドゥェイン(Duane, M.)の指導的役割や、サマーヒル学園(Summer Hill School)におけるニール(Neil,A.S.)の研究記録(Neil[1967])などがあげられる21)。
  子どもの権利が専門家のいけにえとなったクリーブランド事件の反省から、「オートノミーとしての子どもの権利」が市民権を獲得することができたと考えることもできる。しかしながら、こうしたさまざまなディシプリンが擁立した子どもの権利(C)という存在は、果たして文字通りの役割を担っていたかどうかについては留保が必要であろう(宮澤[1998]、本論文第4章4節)22)。
  ライオンとパートンは、子どものオートノミーを尊重する、その改正法の精神が実際に活かされているか否か、判例を検討しているが(Lyon and Parton[1995])、好意的な評価を下していない(同様の見解としてFox Harding,L.M.[1991:299]、Freeman[1995])。彼らは結局のところ、1989年児童法とは、法に子どもの権利(C)を確保することに優先権が与えられたのではなく、プライベートな介入を監視するための新しい法的装置を樹立したにすぎないと結論づけられている。
  こうした彼らの主張には、フーコーの影響が多くみうけられるが、こうした社会福祉学領域におけるフーコーの思想の馴致は、それまでの社会福祉学の蓄積を無に帰す危険性を持つ。ここではそれを検討する前に、概観してきたイギリスの児童虐待事件の伏線となった事件を考察したい。


第3節 「社会的に構築される」児童虐待という命題

アメリカにおける児童虐待の「バックラッシュ」 ─ジョーダン事件の転機

  第2節では、1989年児童法成立に大きな影響を与えたクリーブランド事件が、いかに精神力動ソーシャルワーク理論を特権的地位から引き摺り下ろしたかについてみてきた。しかしながら実は、類似した事件は他の場所でも発生しており、過度の児童虐待の問題化に対する反発もすでに存在していた。その際、こうした反発を正当化するための理論も用意されたのであるが、それは1989年児童法以後のイギリスにおけるソーシャルワーク理論の基礎ともなった。ここではアメリカにおける類似した事件を通して、児童虐待の「バックラッシュ」を牽引する理論の展開について考察していきたい。
  アメリカにおいても、メディアが児童保護システムの失敗を再三取り上げるようになったのは1980年代後半といわれている。そのきっかけとなったのが1980年代前半に起こった、ミネソタ州ジョーダンでの集団性的虐待の裁判事件であった(上野加代子[1996:71])。この事件は、集団で子どもたちを性的に虐待したという容疑で、60人もの関係者が取り調べを受け、25人が告訴されたものである。のどかな一地方におけるスキャンダルとして、全米の関心を惹きつけることとなった。そして多くの報道カメラが見守るなかで1984年に裁判が始まったが、一人に有罪が確定しただけで、22人の告訴は取り下げられる結果となった。
  このジョーダンの事件では、子どもを不当に保護された親の会「ヴォーカル」(VOCAL)が創設されたり(イギリスのPAINよりも1年早い)23)、ソーシャルワーカーをはじめとする専門家への批判がメディアを通して国中吹き荒れたことなど、その構造はクリーブランド事件と相似している。そうした背景に、性的虐待に対する関心が「ヒステリー」(Gardner[1993])24)の域まで達し、虐待の通報件数が飛躍的に伸びた時期と重なっている。また、この事件と並んでカリフォルニア州ロサンジェルスのマクマーティン保育園の性的虐待事件(1983年)も大きな話題となったが、そこでなされた報道における論調も、前者に追随するものであった(詳しくは、上野加代子[1996:72-73])。とはいえ、この事件は1600万ドルもの公費を使いながらも、裁判では一つの有罪も取れずに結審し、「不毛さ」を印象づけた点では際立っていた。

「バックラッシュ」推進側の理論

  児童虐待問題を解釈する多くの学問と、それに依拠した複数の専門家の存在は、それが「飽和状態」に達したとき、人々の側からの批判を集め、その学問や専門家の存在を否定する潮流を生むといえる。アメリカとイギリスにおいても、そうした潮流は1980年代に起こり、既存の専門家たちの手法に異を唱える研究者が出現した。その代表的な人物として、ギル(Gil, D.G.)とぺルトン(Pelton, L.H.)があげられるだろう。彼らは日本の社会福祉学領域においてもっとも影響力を持つ雑誌の一つ『社会福祉学研究』において、上野加代子とともに論文「アメリカにおける児童虐待・放置対策の陥穽:無視された経済的要因」(上野他[1998])を発表し、日本のレフェリーを通過しており、ここで検討する意義はあると思われる。
  第5章で述べたケンプらは、児童虐待は社会の全階層において蔓延しているという「階層均等説」を打ち立てる。これに対し、ギルとぺルトンは「低所得者説」(上野加代子[1996:24-27])を力説する。ギルは、医療モデルで個人の病理に還元する解釈が主流を占めていた1960年代からすでに、社会的・経済的要因に注目するべきとの主張をおこなっている。その彼の調査(Gil[1970])によると、酷い身体的虐待のケースでは、年収が3500ドル以下の最貧困層に多いという結果が出ている。つまり、ケンプらの「階層均等説」が正しければ、外部に露見しやすい酷い身体的虐待のケースも同様に全階層にみられたはずである。そこでこの調査結果は「階層均等説」を反証するものとして注目された。
  それまで、貧困層に児童虐待が多いという事実は認識されていたが、その解釈として「階層均等説」を唱える論者は、「暗数」の存在を強調する。人口密度が高く、ソーシャルワーカーなどが多く出入りする地域に住む貧困層に比べて、階級が高くなると郊外の一戸建てに住むなど、プライバシーが厚く守られているため、虐待の発見が困難になるという(上野他[1998:86-87])。ギルらの主張はこうした通説を覆すものであった。
  ギルはさらに、児童虐待の大半は、カウンセリングや子どもの措置、医療サービスといったものに当てられてきたことに対して批判的である。彼は社会構造的な要因を重視し、雇用の供給や福祉手当の至急による一定収入の確保など、経済的な不安要素を首先に解決されなければならないと提言している(Gil[1985])25)。しかしながら、この主張はほとんど採用されることはなかった(上野[1996:27])。上野は彼らの論争を「心の問題か、貧困の問題か」という原因帰属論争であったとふりかえっている26)。この後者の児童虐待の原因を貧困の問題、つまり社会の問題として捉える立場は、一種の医療モデル批判を展開していった。
  イギリスでは、1980年代にこのギルらの主張が精力的に吸収されていく。なかでもパートンは『児童虐待の政治』(Parton[1985])のなかで、強力に彼らを擁護している(その他にも、Parton[1983]、Loney[1989=1993]、Archard[1993])。以上のような二項対立は、専門家の営為が「児童虐待」という現象を成立させているとした、社会構築主義に継承されていった。

社会構築主義と社会福祉研究者

  社会福祉学領域における「社会構築主義」を考察するに蛇足となるので、ここでは社会構築主義の流れやそれへの批判などを詳述することはしない(安藤太郎[1997]などを参照)。そこでは社会構築の論理的整合性を高めることよりも、この思考が現出したこと自体のほうがはるかに重要であったからである。
  社会構築主義が世に出るのは、それまでのラベリング論をめぐる論争を受け、1977年にキツセとスペクター(Spector, M. and Kitsuse, J.I.)が『社会問題の構築』(Spector and Kitsuse[1977=1990])を出版したことがきっかけであった。構築主義は、社会問題とはメンバーによってクレイムがなされた結果成立するものとして、そのクレイム申し立て活動(claim-making activity)とその変遷を研究することの有効性を主張する。そこで彼らは社会問題の「自然史」(natural history)27)をクレイムの変遷過程のモデルとして提唱した。
  アメリカでのギルらの主張を熱心に適用したパートンは、1979年に「児童虐待の自然史 ─社会問題の定義の研究」と題された論文を発表しているが、そこではこのキツセとスペクターの構築主義的立場28)に立ち、持論を展開していった。何よりも「自然史」という語を題名に据えていること事体が彼の立場を物語っている。
また、ペインも『近代ソーシャルワーク理論』のなかで、社会構築という言葉を多用する29)。彼はその著において、多数のソーシャルワーク理論を整理したが、社会福祉学やソーシャルワーク理論が社会的に構築されている、という前提があった。彼にとって、理論間のコンフリクトは「政治」(Payne[1997:25])であり、そうした視点にたったからこそ、ソーシャルワーク理論を相対的に鳥瞰することができたといえる。このように相対的に過去の理論を取り扱うことは、「科学」のみが強調された時代にはタブーとされたはずである。
こうした研究の厚みは、それまでの戦後社会福祉専門職制度の整備と平行して体系化された、近代社会の「本来の学問」である「客観主義」(objectivity、第3章3節参照)とは、ずれたところに存在している。つまり、これらが序章で言及した「反省的学問」の発端となるものであった。
  ところでパートンは次第に、他領域で影響を持ってきた理論をイギリスの社会福祉学の論題にのせていく30)。その目新しい理論が、次節で考察する「ポストモダンの社会福祉」であり、「社会福祉学におけるフーコーの権力論」である。この両者を同一平面で語ることは無謀のようにも思えるが、それこそがイギリス社会福祉学におけるリアリティであった。そしてこの部分に、社会福祉学における「反省的学問理論」のアポリアも論争となって開花するのである。1990年代にはいった頃から、彼に限らず盛んになったこの「ポストモダン」論議31)について、節を改めて論じたい。


第4節 社会福祉学という場にあるM.フーコー

「ポストモダン」時代の社会福祉学 ─1990年代の熱狂

  社会福祉学領域で「ポストモダン」が注目されるようになるのは、1990年代にはいってからである(Payne[1997:31])32)。特に1994年は多くの関連論文が発表された(Howe[1994]、Pardeck,Murphy and Chung[1994]、Parton[1994]など)。もちろん福祉以外の領域、例えば社会学において、こうした議論は先立って展開されてきた。そもそも、社会福祉研究者によって「ポストモダン」の「代表格」とみなされたフーコーの功績は、社会福祉学をも照射するものである。
  とはいえ、直接的に1990年代のイギリス社会福祉学における「ポストモダン」熱の呼び水となったのは、ロジェク(Rojek,C.)らを始めとする1980年代後半から1990年代前半にかけてなされた社会学の諸研究であった(例えば、Rojek,Peacook and Collins[1988]Philp[1991]MacBeath and Webb[1991])33)。なかでも社会学者ロジェクは、社会福祉学専門誌に「ソーシャルワークにおける『主体』」(Rojek[1986])などを発表し、「ポストモダン」論議の先駆となる。
  その議論のなかでは、「モダン」から「ポストモダン」への移行という時代認識が基礎となっている。現代社会の産業構造は大規模な機械産業から、知識・サービス産業へとシフトする過程にある。そうした局面では、よりフレキシブルで細分化された社会が成立し、学問領域においても概念やことばの刷新、「パラダイム転換」が要求された。
  ハウは社会福祉学の理論と実践に影響を与えた「ポストモダン」の特徴を、多元主義(pluralism)、参画(participation)、権力(power)、パフォーマンス(performance)の4項目で説明している(Howe[1994])。まず、1970年代頃までは「グランド・ナラティブ」(grand narrative)を追究するソーシャルワーク理論が数多く生まれてきたことをあげ、それと「多元主義」とを対比させる。「ポストモダン」の時代にいたっては、知のあり方も多様性が強調されるようになり(Howe[1994:524])、普遍的原理は希薄化する。それゆえ、社会福祉学においても、「哲学的、専門職的、教育的、機関的に統一化を目指してきたそれまでの社会福祉学は、破綻する可能性」があるという(Howe[1994:525])。
  このような多元的社会において、絶対的なものは拡散し、判定を下す権力も弱体化するとされるが、この時2番目の「参画」は重要度を増す。社会福祉の任務、つまり福祉サービスにおいて、何らかの選択や決定が必要となるときに、従来の「クライエント」は決定者としての役割が求められることとなった。そこで「エンパワーメント」や「自立」、「自己決定」などの鍵概念も脚光を浴びることとなる。こうした参画を強調する傾向は、ディシプリンからの要請というよりも、政治的な圧力の結果であったといわれている(Howe[1994:525]、他にParton[1994])。
  また3番目の「権力」に関して、ハウは社会福祉専門家を「マージナルな社会に住む人々を規律化する」ために「中心的役割を果たす」(Howe[1994:526])ものとして把握する。また4番目の「パフォーマンス」では、「クライエント」であった対象者から、「消費者、契約者」へと変貌したと特徴づける。つまり、従来のソーシャルワーカーたちがクライエントの精神分析に時間と労力を投資したのに対して、「ポストモダン」時代では表面的なパフォーマンスが重視される時代となったという。上でみた主張の場が拓けるためには、フーコーの権力論が不可欠であったが、これについては「フーコー、およびフーコディアンの移植」の小見出しで検討する。
  ウェブ(Webb, D.)は「ポストモダン」に還元することなく、この時期の社会福祉学の潮流をポスト・フォーディズムの煽りを受けて、経済における概念を熱心に援用したものと指摘している(Webb[1996])。その適用されたことばとは、例えばdecentralisationやteam-based work、quasi-marketsなどである。これらは「ポストモダンの時代」に適した社会福祉学の擁立を目論んでなされたが、同時に、これらの語に修飾される「ポストモダンの時代」とは、ネオ・リベラリズムの潮流と連動するものとして、批判が加えられることとなった。

自由主義との親和性

  以上のような「ポストモダン」というスローガンは、新自由主義(neo-liberalism)の時代とともにある、という認識は社会福祉学領域のポストモダニストの間でも存在している。それは「ポストモダン主義」に異を唱える論者とも共有されるものである。このことは経済学用語を熱心に適用していることからも予見しえたことだが、ここでフーコーが「ポストモダン」論者と目され、限定的に引用されていることに起因する必然であるともいえる。
  パートンは、新自由主義時代の社会福祉学のありようについて考察するなかで、マネジメントの重要性が高まってきたという。そしてソーシャルワーカーは、マネージャーとして機関を連携させ、他領域の専門家が協働する際にはコーディネーターとしての役割を果たすことが求められるという。そこでは、従来の近代的な体系化された知は後退させられる。パートンは後に、こうした知の変化を「ポストモダン」と位置づけているため(Parton[1994:27-29])、新自由主義との親和性を否定するものではない。
  スミスとホワイト(Smith,C.and White,S.)にとって、パートンやハウのポストモダン論は、「ニューライト・イデオロギーのヘゲモニーに帰せられるもの」(Smith and White[1997:293])だとして批判する。また、テイラー・グッビー(Taylor-Gooby, P.)も「ポストモダニズムの機能はそのイデオロギー性をあいまい」(Taylor-Gooby[1994:402-403])にするもので、不平等をもたらし、民営化の傾向をもつものとして批判している。さらに、ドミネリ(Dominelli, L.)においては、「ポストモダニズムの典型としてのサッチャー」(Dominelli[1996:162])と端的に記されている。
  こうした視野にたつ者たちの主張を敷衍すると、「障害者文化」や自立生活運動(第3章参照)を支える思想さえも新自由主義の流れの一形態とするであろう34)。そしてある者は、彼らの活動をして「新しい監視装置」などと定義するかもしれない。また別のある者は、単に社会福祉専門職の危機と捉え、「ポストモダン」を忌避するだろう。こうした場に、終わりのない言説の対立が表出するのである。
  ところで「自由」ということばを介して思い出すのは、本論文で検討した「子どもの自由」である。第5章とならんで本章においても、ルソーやロックに端を発する「子どもの自由」について論じてきた。そして、これら子どもの権利(C)やそのを擁護する動向は、実は、絶対的な権力の統治基盤となり、専門家の営為に調和すると解釈できることを確認した。ライオンとパートンをはじめとする研究が明らかにしたことは(Lyon and Parton[1995]、Fox Harding[1991:299]、Freeman[1995])、「子どもの自由」を口にすることは、従来の学問理論のアンチテーゼとして有効だったにもかかわらず、新たな制御と連結する姿であった。当初はその自由を新しい社会を支えるものとして夢想されたが、いつの間にか介入を理論付けるものとなっていたのである。
  ここで子どもの権利を援護する思想や理論を、本来のあるべき姿とは異なるが、自由主義の対立項として考えることができる。「反省的学問」とは、おのれに向けられた批判的分析を自らの内部へと消化する学問を指すが(序章参照)、結局これは自由を支持する側にも、介入を支持する側にも有用であることがわかる。これを「反省的学問」のアポリアとし、具体的に示してみる。オートノミーとしての子どもの権利を主張する児童解放運動家はこぞってアリエス・テーゼを多用する。アリエスの論は、『<子供>の誕生』の1973年度版序文(Aries[1973=1980])のなかでも彼が自覚しているように、その歴史認識はイリイチのいう「脱学校化」論と同様のものであるといえる。しかしながら、このアリエス・テーゼは「家族を遠隔地から統治する目的」(Lyon and Parton [1995:53])のために利用されているとみなすこともできるのである。
  社会福祉学におけるポストモダニストの主張が介入につながるという側面を、ポストモダニスト自身が指摘しているところからも推察できるように、社会福祉学におけるポストモダンの出現を自由主義の徴候とする者たちは、その主張の根拠を見失うであろう。社会福祉学において、フーコーおよび彼の思想を吸収した「反省的学問」というものは、実は自由−介入という二項対立とは無縁の場に存在するのではないだろうか。

フーコー、およびフーコディアンの「移植」

  興味深いことは、社会福祉学の「ポストモダン」論争において、フーコーがその代表的な思想家として広く認識されている点である35)。この時、フーコーの思想的展開の把握や、彼の思想をめぐる紛争に、注目を向けるものはほとんどいなかった。それは社会福祉研究者の関心が、以下に列挙するような第一命題のみに集中していたからだといえる。
  フーコーは『監獄の誕生』のなかで、「規格化」する実務に就くものとして、ソーシャルワーカーを医者や心理学者などとならぶ専門家として把握している(Foucault[1975=1977:304,306])。また、フーコーから大きな影響を受けたドンズロも、『家庭に介入する社会』(Donzelot[1977=1991])においてソーシャルワーカーを彼のいう「社会的なるもの」(le social)の領域に位置づけた。こうした認識に基づく実証的な分析は、社会福祉学者にとってショッキングなものであった36)。予防的介入を提言したイングルビー報告を経て、福祉と司法との密接な結びつきが1963年児童少年法でさらに強固なものとなっている。このように、ソーシャルワーカーが「規律化」を実行する管理装置の一機関だとする思考は、イギリスにおいて許容できる状況となっていたことも、この思想が普及する理由の一つであったといえる。
  そして社会福祉学の営為と真っ向から対立する、危険な思想がいつの間にか学問のなかで内面化されていくが、それは社会福祉学者(の一部)にとって、魅力的なものであった。パートンは、「フーコーとフーコーディアンらの政治(governmentality)の分析は、近代社会におけるソーシャルワークの性質を理解し、脱構築するのに非常に有益であった」(Parton[1994:10])と述べ、「ポストモダン」時代の社会福祉学を標榜している。しかしながら、社会福祉学の存立にとって危険性を孕むその思想を、ソーシャルワーク理論へと矮小化したところから議論が始まっているようにも思える。パートンにとってみれば、フーコーの思想は「利用者の主体的な参加」や「パフォーマンス」という新天地を開く重要な手段の一つにすぎないともいえる。
  しかしながら、こうした新しい形態を装うことによって、自ら異を唱える既存の管理装置としての役割から脱営できるとは保証されない。それは、他分野とも共通する「反省的学問」の直面する問題である。第3章では、脱施設の思想が専門家の野望と合致したり、反専門職主義が専門家の営為のうちに消化吸収されていったことを考察したが、ここでその再現をみることができる。矮小化されたフーコーは、「反省的」なソーシャルワーク理論として、一新されたことばで彩られた「社会福祉学」と「利用者」の仲を取り持つこととなる。
  以上を念頭に置きつつ、フーコーのどういった部分が社会福祉学に導入されたかを検討したい。引用された参考文献をみると、主に『監獄の誕生』(Foucault[1975=1977])と『知の考古学』(Foucault[1969=1981])、『性の歴史』(Foucault[1976=1986])に集中している。そのなかでも最もよく用いられたのは、やはりソーシャルワーカーが名指しされた『監獄の誕生』であった(Rojek[1986]、Parton[1991][1994]、Hendrick[1993]、Howe[1994]、Webb[1996]など)。同著の第4部「監獄」では、第3部「規律訓練」で考察した「パノプティコン」に代表される監獄の機能を社会との相関で描いているが、特にその周辺部分が適用されている。
  冒頭に記載されたダミアンの公開処刑のような酷い身体刑から、諸権利の停止という「おだやかな」処罰行為へと移行する際に、科学的な知が挿入されていくが、社会福祉学もそうした知の一つであったと自覚される(Howe[1994:527])。「規律・訓練に反する者や危険有害な者の行為をむりやりに規格化する実務」を一つの「技術」として再び「<規律・訓練=(学問)>」(Foucault[1975=1977:296])となるというフーコーの論にアイデンティティーをみいだすのである。それゆえ、社会福祉学の範疇で浮遊するうたかたのソーシャルワーク理論も、「言説」(discourse)であるという認識にいたった(Parton[1991:3-5][1994:11,29]、Howe[1994:517-519]、Payne[1997:30-31])。
  もう一つの主体化の装置として、セクシュアリテが『性の歴史』で分析されたが、これもしばしば引用されている。福祉対象者である「クライエント」とは、規格化の対象であると同時に、身体を通した「主体化」を経て操作されるものと把握された(Hendrick[1994:2]、Parton[1994:11]、White and Smith[1997:277])。第2章で考察したように、社会福祉学はとりわけフレックスナーの呪縛が強まってからは、長い間「精神医学の氾濫(psychiatric deluge)」(Woodroofe[1961=1977])の時代であったことを忘れてはならない。こうした過去を背負い、フーコーの精神分析の分析を自らへの訓戒として受け止める(あるいは反発する)のは、いわば自然の成り行きであった。

従来の社会福祉学の解体と「反省的学問」

  こうした「ポストモダン」時代の社会福祉学に応用された理論とはもともと、従来の社会福祉学の解体を意味していた。社会福祉学領域における「ポストモダン」論争をになる人にもさまざまに解釈され、全てを「反省的学問」とはしたくないが、これらは総じて学の成り立ちの正当性に懐疑の目を向けるものであった。ところが1990年頃から、その社会福祉学のなかに器用に定着してきた。
  ペインは「ポストモダニスト」の見解を理論ではなく、パラダイムであると述べたが(Payne[1997:35])、「ポストモダン主義」とはソーシャルワーク理論の一つとしてみなせるのではないかという疑問が残る。なぜなら「ポストモダン主義」が登場することが、それまでの理論の果たした役割を凌駕するものとは思われないからである。第3章でも述べたように、幸福に「科学」を追究しえた時代は終焉し、理論の閉塞状況のなかで、必要とされる業務を論理的に形容するために「ポストモダン的なものが」歓迎されたようにおもえる。ここでは仮に「ポストモダン主義」を一つのソーシャルワーク理論としておくが、議論の余地は残されている。
  それにしても、「ポストモダン」のソーシャルワーク理論とは、強烈なものであった。この理論はこの領域で蓄積された従来の社会福祉学を成立させない威力を秘めていた。いわばこのソーシャルワーク理論は、学問の解体とともにあり、それを理論付けるために必要とされたとさえいえる37)。だからこそ、社会民主主義的コンセンサスが消滅するなかで一定の支持を集めることができたのではないか。
  ハウは社会福祉学領域における「ポストモダン主義」は「社会科学の洞察に基礎をおいた国家主導の介入」(Howe[1996:87])への違和感を示すという。そこではもちろん、近代の科学的知を相対化する思考が脈打っている。そして彼は、この学問の変容について、「深層の説明」(depth explanation)から「表面的なパフォーマンス」(surface performance)への転身と特徴づけた(Howe[1996:88-91])。そしてフレックスナーが期待したような本来の学問としてのあり方は崩壊しゆくとして、次のように述べる。

  徐々に社会福祉学は、理論的、学問的基礎の核心となるものをまるで持たず、またその企ての中心部に空隙があるかのようになってきた。そのような状況において、新しい(社会福祉学の・著者注)ディスクールは、…マネジメントやモニタリング、評価やアセスメントに関心を持つようになる。
(Parton[1994:30])

  それまでの理論から解放されたとき、社会福祉の業務はフロイトに準拠していたときのように、深層心理を解釈したり、胎児にまで溯って「クライエント」を考察することはなくなった。「ポストモダン」時代の共通認識となっているソーシャルワーカーの業務は、「今、ここで」(Howe[1996:91])の世界に限定しておこなわれることとなった。そうした時代は、ウェブにいわせると、ソーシャルワーカー養成のためのカリキュラムは「教育」というよりも「訓練」となり、アカデミックな生業とは隔絶を強いられるという(Webb[1996:186])。
  ドンズロは次のようにいう。

  福祉国家の危機という事態のおかげで、私的なものと公的なもの、また国家と市民的なものとの境界が、ますます曖昧になってきているのだ。
(Donzelot[1991:179=1994])

彼のいう曖昧化されたこの境界において、「反省的学問」が生を受けたといえる。その、社会福祉学における展開が、「ポストモダン」論争であった。こうした「反省的学問理論」の導入は、論拠を必要としなくなったのに関わらず、学問としての形式を保つ社会福祉学の必然であったのかもしれない。

日本の「反省的学問」

  すべての社会福祉学者の共有する概念となってはないが、日本においてもこうした「ポストモダン」論議は僅かに存在する。下記では、これまでの社会福祉学領域、およびその周辺領域における研究を概観したい。
  渉猟しえたかぎりで論ずると、日本では、自らの(おそらくは他領域の)見識に基づいて独自に「ポストモダン」論を展開する場合と、諸外国の社会福祉学における(主として英米)「ポストモダン」論議を検討する場合とがある。前者の例として、久保紘章がポストモダンの概念を社会福祉学に貢献するものとしてみなしたことがあげられる(久保[1992])。また杉野昭博は、普遍主義−選別主義の拮抗関係に「ポストモダンの福祉」という新しい基軸を独自にみいだしている(杉野[1995])。
  また、外国において既に展開されている「ポストモダン」論議を検討したものとして、野口祐二(野口[1995])や加茂陽(加茂[1995a][1998])の研究があげられる(他に、松原[1997]、小田[1998]、三島[1998])。ここでわれわれが確認できることは、「ポストモダン」ということばが、社会福祉学のレフェリーの容認するものとなったという事実のみである。社会福祉学領域における「ポストモダン」ということばが持つ意味内容に合意が形成されているとは思われないし、これら単発的に発表された研究がお互いにリンクしあうかさえも不明瞭である。そもそも、議論が活発化していない、現在の日本語で書かれた文献の状況をかんがみると、これらを整理するという試みは無謀といえるのかもしれない38)。
  とはいえ、「反省的学問」の影は確かに忍び寄ってきている。社会福祉を取り巻く経済的、社会的環境がそれを招くのかもしれないが、現在、社会福祉学の範疇に偏在してかすかにみうけられる。将来的には特に、障害者関係の研究において疑問が活発化する可能性が最も強いといえる。第3章で述べた反専門職主義や脱施設化の論拠となった思想も「反省的学問理論」の範疇に入るが、それらも障害者福祉を中心に影響力を持つ。ゆえに、その分野は1990年代に勃興した異なる形態の「反省的学問」との親和性も高いと考えられよう。例えば、倉本智明は「障害者文化」(disability culture)の形成を目指す社会福祉学領域の論文において(倉本[1997])39)、フーコーにその論拠をおいている。また、倉本の主張には、社会構築主義とフーコーの思想が共存している姿がみうけられる(倉本[1998]、同様に、上野[1996]、岩間麻子[1998])。
  障害者福祉のほかにも、ピアカウンセリングや、エンパワーメントといった、「利用者」の存在をそれまでの「クライエント」から人間化したものへと企てる分野においてもこの「ポストモダン」のソーシャルワーク理論が重要視される可能性がある。さらに、高齢社会への対応として、ケアマネジメントが、社会福祉学のなかでも最重要課題の一つとみなされているが、これはハウのいう「ポストモダン」時代に特徴的な「パフォーマンス」であり、論拠となる可能性も残されている。
  このように、「ポストモダン」論議も、敷衍して「反省的学問」も、日本において展開することは無理なことではなくなったといえる。継続的に開発することを強制されてきた、専門家としての慣性に従っても、この「ポストモダン」論議、あるいは「反省的学問」にいきつくかもしれない。


1)  しかしながら、カーティス委員会の設置は、デニスの死亡以前に決定されていたことからも、「救貧法廃止後の行政責任の配分をめぐるさまざまな思惑もからみ、複雑な要因が作用した」(許[1990:50])と指摘されている。その他にも、アレン(Allen, M.)のタイムズ紙への投書(津崎[1982:103-104])や自ら出版したパンフレット(Allen[1945])が1948年児童法の成立を促したと説明される。アレンは投書のなかで、地方自治体や民間慈善団体のケアを受けている子どもの福祉に関する公式調査が必要だと訴えた。この投書から5ヶ月あまり後には内務大臣を通して政府は公式調査実施声明を発表する。この声明から数週間後にデニス・オニール事件が発生するのである。1946年には「児童のケアに関する公式調査委員会報告」(通称カーティス報告、The Report of the Committee on the Care of Children,1946)がまとめられている。
2) 児童主事協会では多くの下位委員会が設置されたが、なかでも1952年に発足した「専門職研修に関する下位委員会」は、その後のイギリスの学問としてのソーシャルワークを占う上で重要な役割を果たした。またカーネギー・コース開設に際しても、ソーシャルワーカー協会、タビストック・クリニック、LSE、カーネギー財団とともに協議するなど、それに関与している(Jacka, A.[1973:40])。
3) こうした専門職団体の形成は、一方で専門職化を暗に意味すると理解されていた。イギリス社会福祉学成立において、フレックスナーはアメリカにおけるほどの影響力は有しなかったといえる。しかしながら、ソーシャルワークの専門職化が試みられるうえで、その「専門職」の捉えかたは、フレックスナーに通じるものがあったといえよう。日本と同様、アメリカでの専門職化を考慮しつつ(Younghasband[1978=1986:87])、団体の結成は専門職化を推し進める一つの有効な手段として認識されていた(Younghasband[1978=1986:157])。もちろんこうした思考は、同時代で共有されるものであった。例えば,カーサウンダースとウィルソン(Carr-Saunders, A.M. and Wilson,P.A.)の“The Professions” にもそれが伺える。
4) 主たる関心は非行少年に関する裁判の手続や処遇の改善にあったといえる(許[1990:66])。
5) ウィーン精神分析学会(Vienna Psychoanalytic Society)のなかにこうした萌芽がみられる。1937年には、幼児初期の子どもを対象にした「実験的保育所」がジャクソン(Jackson, E.)によって創設、運営され、アンナ・フロイトもそれの管理をおこなった。翌年、ヒットラーがオーストリアに侵略した際、その活動は終止符を打つことになるが、結局イギリスやアメリカなどへその影響が広がることとなった(Freud, A.[1974=1981:7-9])。また、児童の精神分析の専門雑誌、The Psychoanalytic Study of the Childも出版されている。
6) 例えば一連のアンナ・フロイトによる功績があげられる。彼女は、子どもの社会的不適応(delinquency)の原因を「追跡してみると男根的自慰の完全な抑制とそれに伴う性的内容をもつ自我活動の氾濫によると理解される」という結論を導きだしている(Freud, A.[1949=1984:66-73])。
7) 1980年児童ケア法(Child Care Act 1980)が制定され、虐待を受けた子どもと非行少年とは別個の法手続で処遇されることとなる。
8) マリア・コルウェルは、1973年1月7日に継父から虐待を受けて7歳で死亡した。里親のもとから実母と継父のもとへ帰って一年あまりことであった。実父は彼女が生まれて間もなく家を去り、間もなく死亡。亡き夫の妹夫婦が生後間もない彼女の里親となり、6年間そこで生活する。しかしながら、実母は引取りを強く望み、ソーシャルワーカーはそれを適切な処置と判断して、事例会議では新しい生活に慣れる期間を設けるとともに、最終的には実母のもとに帰すべきであると結論づけられた。そして1971年末頃から試験的に実母のもとに戻されることになったのである。
9) ケンプらによる「殴打される子ども症候群」とは、「重篤な身体の虐待を受けた幼い子供の臨床的状態を指すものであるが、しばしば不治の障害や死の原因となる」と定義づけられるものである。「その所見は非常に多岐にわたるが、外傷や放置の可能性があったり、臨床的所見と親から得られた病歴データが著しく違う場合、そのすべての子供に対しその症候群を疑わなければならない」と結んでいる。(Kempe他[1962=1993:145])
10) 「全国児童虐待防止協会」(The National Society for the Prevention of Cruelty to Children:NSPCC)は、アメリカまでケンプ詣でに出かけている。帰国後の1967年に、「被虐待児ユニット」という組織を結成した(清水[1991:289])。
11) これは、地方当局や民間団体のケアに6ヶ月以上いる子どもを調査したもので、これらの子の22%は代替家族を必要とし、その3/4は恒久的な代替家族を必要としているとされた。また長期のケアになればなるほど、実親との接触は少なくなり、そのもとに戻れる可能性は低下していくという。そこで、実親への帰宅が不可能となった子に対して、代替家庭を与えることは急務であるとされた(許[1990:56])。
12) こうした動きに与えたラベリング理論の役割は大きいように思われる。徳岡秀雄は『少年司法政策の社会学』において、少年司法政策にあたえたラベリング理論の役割を指摘しているが、福祉関係についても同様のことがいえると考えられる。これについては、今後の課題としたい。
13) Place of Safety Order、虐待を受けている、もしくはその危険性が高いと判断された場合、市民は治安判事に子どもを安全な場所に保護することを請求できる。
14) イギリスで、安全な場所に移された子どもの総数は、1984年が5027名であったものが、ジャスミン・ベグフォド事件の起こった1985年を挟んで、1986年には7191名に増加している(Parton[1991:54])。
15) これらは下院議員デヴリンのスピーチの引用。
16) もちろん、第4章で触れたように、約1世紀前の母性保護運動の文脈や、ではそれはすでに問題にされている。しかしながら、そこには性的虐待を「診断」し、「治療」する専門家の存在は成立していなかった。ここでは、再発見された性的虐待のことを指す。
17) しかしながら、この人形を使ったカウンセリングで「ポジティヴ」と診断された場合、それを違法行為の証拠として有効であるとする見解に、法関係者からの批判を集めることとなった(Parton[1991:90])。
18) アメリカの精神科医、ローランド・サミット(Summit, R.C.)は「性的虐待適応症候群」(Sexual Abuse Accommodation Syndrome)の学説を提唱している(Summit[1983])。この症候群は、性的虐待を受けた子どもがなぜ抵抗せずに、秘密として保持しつづけるのかを説明したものである。この症候群は、@secrecy,Ahelplessness,Bentrapment and accomodation,Cdelayed, unconvincing,disclosure,Dretractionという5つのカテゴリーから構成されているという。
19) 1986年6月8日、4歳の女児虐待致死事件。継父は殺人罪で無期懲役、実母は酷い身体的虐待をおこなったとして12年の禁固を命じられている。ジャスミン・ベグフォド事件と同様、社会サービス局のケアやスーパーヴィジョンのもとで死に至った。
20) その後の構成される児童解放論者たちは、挙ってアリエス・テーゼを支持したが、そうしたスタンスが自縄自縛に陥る原因になったとアーチャードは批判する(Archard[1993:46-51])。児童解放論者たちは、子どもという概念は近代という時代的状況において社会的に構築されてきたという解釈のみに固執してきたという。
21) しかしながら、ニールの教育理論はフロイトらの精神分析に依拠しているという点では、「反省的学問理論」が示すアポリアを忠実に体現していると指摘できる。
22) ところで、日本では先の児童福祉法改正によって、子どもの権利(C)を多少なりとも意識した法体系が整えられたところである。この新法第26条第2項によって、児童相談所長の都道府県知事への報告書の記載事項に、家庭環境ならびに措置についての児童および保護者の意向を追加することになった(新保[1998:88])。また施設入所などに際し、「当該措置と児童もしくはその保護者の意向が一致しないとき又は都道府県知事が必要と認めたとき」(政令)、都道府県児童福祉審議会の意見を聴かなくてはならなくなった。
23) ジョーダンの裁判の元被告を中心に、「児童虐待関連の法律の犠牲者」(Victims of Child Abuse Laws)という団体が結成された(上野加代子[1996:72])。
24) ガードナーは、1980年代からの性的虐待の告発をアメリカの三大社会的「ヒステリー」の一つに数えている。他の二つとは、1692年のセイレム魔女裁判と1950年代の共産主義の脅威を煽いだマッカーシズムである(上野[1996:81])。なお、アメリカとイギリスとでは、どちらがより「ヒステリック」であったかについて、ここで即断できない。
25) もちろん、こうした反論にケンプは回答を用意している(Kempe[1975:xiv])。
26) 「児童虐待防止法」の適用を受けて親子を引き離したニュースに関して、吉田生が「何も好んで可愛いわが児を辻占賣にまでさせる類はあるまい、それほどまでしなければならぬ貧窮 ─この貧窮さが、かういふ行為を敢てさせたとすれば、それに對する處置はおのづから別にある」と主張したことが思い出される(第5章3節)。吉田と「國家、社會、人類の前途のために非常に大切な事」とした穂積重遠との対立と比べて、その構造にどれだけの差異がみいだされるであろうか。
27) この自然史の五段階は、次の通りである。@社会問題の創発、A問題の正当化、Bそれに対応する施策の動員、C公式の計画、D公式の計画の実施(安藤太郎[1997])。
28) パートンはそれをベッカーのラベリング理論などと峻別していない。それらの間でくりひろげられた論争や、論理の差異を考察するよりは、その系譜が生み出す政治性を優先させたといえる。よって、その意味において彼は厳格派ではないといえようか。
29) 厳密には、パートンの引用した「社会構築主義」、つまりキツセとスペクターらのそれとは異なる部分がみうけられる(例えば、Payne[1997:14])。
30) 1991年に出版された、“Governing the Family”にはすでに「社会構築主義」や「自然史」が索引に登ることはなく、キツセとスペクターが引用されることもなくなっている。そのかわり、彼の主張を理論付けるものとして、フーコーの『監獄の誕生』、『知の考古学』、『性の歴史』などが引用されている。
31) ポストモダンといったとき、ハーバーマス(Habermas, J.)を忘れることはできないが、これから考察するイギリスのポストモダン論者たちは、彼を引用することはほとんどなかった。それゆえ、ここではハーバーマスに関して何も触れないが、なぜ彼を無視して、フーコーのみに熱狂したのかについては、今後の検討課題としたい。
32) この時期、社会福祉学(social work)に歩調を合わせるようにして、イギリスの社会政策学(social policy)においても、「ポストモダン」論争は展開されている。特に、ミシュラ(Mishra, R.)が「ポストモダン世界における社会政策」(Mishra[1993])を発表してからはそれに拍車がかかった。
33) イギリスのみならず、アメリカにおいても、社会福祉領域における「ポストモダン」論議は、1990年代に入ってから突発的に盛んになった。その幕開けを印象づけるものとして、Social Work誌の編集長をつとめたハートマン(Hartman, A.)の「ことばは世界を創る」(Hartman[1991])が有名である。また、1994年には同誌で「ポストモダン」特集が組まれている。例えば、Pardeck, Murphy,and Choi[1994]、Saleeby[1994]、Pozatek[1994]。
34) 倉本智明も、「障害者文化」の宣言は、現在の社会福祉学の主流とは齟齬をきたすことを指摘している。「『現代思想』95年3月号に掲載された「ろう文化宣言」に、とまどいをおぼえる福祉関係者は少なくあるまい。ろうとは障害ではない、ろう者とは手話という独自な言語を用いる言語的マイノリティであるとするその主張は、近代医学の言説とそれを追認する実体主義的障害者観に真っ向から挑戦するものだった」(倉本[1997:67])と述べている。文中「ろう文化宣言」は、(木村・市田[1995])。
35) イギリスのフーコー研究者から彼の思想を吸収する場合が多かった。
36) ショックに感じるのが遅すぎると考えることができる。そこにあるタイムラグ(20年近くにもなる)は、さまざまに推察できる。例えば、@政治・経済的要因によってこうした思想が必要とされなかった。A他領域における思想や理論が社会福祉学領域に導入されるのは遅れる、などなど。
37) Webbは、「ポストモダン」を掲げて政治的なCCETSWを批判する。しかし、その批判のやり方はフーコディアンといえる。
38) もっとも、あるソーシャルワーク理論の成立には、政治・経済的な外部要因の存在が不可欠だという立場に立つとき、日本では今まで「ポストモダン」の思想を必要とする状況ではなかったということもできる。
39) この論文は、長瀬によると、「障害学」の研究とされているが、この障害学(disability studies)という分野は日本でも1997年頃から存在感を増してきつつある。一定領域の社会福祉関係者にとって、無視できない存在となろう。


  


参考文献



Achterberg,J. 1990 Woman as Healer=1994、長井英子訳、『癒しの女性史──医療における女性の復権』、春秋社
秋山 薊二  1995 「ソーシャルワークの理論モデル再考──統合モデルの理論的背景、実践過程の特徴、今後の課題」、『ソーシャルワーク研究』、21-3、相川書房
秋山 智久  1971 「社会福祉専門職の研究──専門職をめぐる諸概念と成立の条件について」、『四国学院大学論集』、22、四国学院大学文化学会
―――――  1975 「米国における社会福祉専門職の現状と展望──非専門職化の流れの中で」、『社会福祉研究』、17、財団法人鉄道弘済会
―――――  1981 「福祉施設をめぐる新しい思想と処遇理念」、『社会福祉研究』、29、財団法人鉄道弘済会
―――――  1987  「『社会福祉士及び介護福祉士法』法制化の過程と課題」、『月刊福祉』 、 70-9、全国社会福祉協議会 
―――――  1988 「社会福祉専門職と準専門職」、仲村他編[1988:84-97]
安積 純子・岡原 正幸・尾中 文哉・立岩 真也 1995 『<改訂増補版>生の技法──家と施設を出てから暮らす障害者の社会学』、藤原書店
Allen, E. 1945 Whose Children?,Favil Press.#
Althusser,L. 1970 ‘Ideologie et Appareils ideologiques d'Etat’,in Althusser,Sur reproduction=1974、西川長夫訳、「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」、『国家とイデオロギー』、福村出版
網野 武博  1988 「児童の権利、義務と自立」、『季刊・社会保障研究』、24-2、社会保障研究所
―――――  1995 「英国における子どもの福祉制度」、林茂男他監訳[1995:167-172]
―――――  1997 「児童憲章」、福祉士養成講座編集委員会編[1997:11-13]
安藤 太郎  1997 「社会問題研究の一つの方法──社会構築主義のプロジェクト検討」、『年報社会学論集』、10、関東社会学会
Archard, D. 1993 Chidren:Rights & Childhood,Routledge.
Aries, P. (1960)1973 L'enfant et la vie Familiale sous l'ancien regime=1980、杉山光信・杉山恵美子訳、『<子供>の誕生──アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』、みすず書房
―――――  1972 Problemes de l'Education=1992、中内敏夫・森田伸子訳、『「教育」の誕生』、藤原書店
浅賀 ふさ  1948 「ケースウォーク」、厚生省児童局編[1948]
―――――  1961 「社会事業専門化とチームワーク」、『ソーシャルワーク』、1、 日本ソーシャルワーカー協会
―――――  1971 『ケースヒストリーの要点』、川島書店
荒堀 憲二  1994 「子どもの性的虐待の概要と対応」、北山編、[1994:16-27]
芦部 信喜  1983 『司法のあり方と人権』(UP選書227)、東京大学出版会
浅井 春夫  1995 『子ども虐待シンドローム──養護施設から日本の現状が見える』、恒友出版
Austin,D.M. 1983 ‘The Flexner Myth and the History of Social Work’,Social Service Review,57-3,The University of Chicago.
東洋・大山正・詫磨武俊・藤永保 1978 『心理用語の基礎知識』(有斐閣ブックス)、有斐閣



Badinter,E. 1980 L'anour en plus:histoire de l'amour maternel=1981、鈴木晶訳、『プラス・ラブ──母性本能という神話の終焉』、サンリオ
Baker,R.L.  1987 The Social Work Dictionary,NASW.
Barzansky,B.,1992 ‘Abraham Flexner:Lessons from the Past with Applications forthe Future',in Barzansky,B. and Gevitz,N.[1992].
Barzansky,B. and Gevitz,N. 1992 Beyond Flexner:Medical Education in the Twenties Century,Greenwood Press.
Beckford Report 1985 A Child in Trust:the report of the panel of inquiry into thecircumstances surrounding the death of Jasmine Beckford,London:Borough of Brent.
Bender,L. 1968 A Dynamic Psychopathology of Childhood=1968、高橋省己訳、『児童の欲求阻止──児童期の力動的精神病理』、関書院新社
Bentham, J. 1780 An Introduction to the Principles of Morals and Legislation,inBurns,J.H. and Hart,H.L.A.(ed.)[1970]
Berleman,W.C. & Seaberg J.R. & Steinburn J.W. 1972‘The Delinquency Prevention Experiment of the Seattle Atlantic Street Center:A Final Evaluation',The Social Service Review,46-3,The University of Chicago Press.
Bowlby, J. 1951 Maternal Care and Organization, WHO, Monograph Series No.2=黒田実郎訳、『乳幼児の精神衛生』、光明社
Brauns, H.- J.and Kramer,D. 1986 Social Work Education in Europe:A Comprehensive Description of Social Work Education 21 Europian Countries,=1987、古瀬徹・京極高宣監訳、『欧米福祉専門職の開発──ソーシャルワーク教育の国際比較』、全国社会福祉協議会
British Association for the Study and Prevention of Child Abuse and Neglect 1981 Child Sexual Abuse,BASPCAN.
Brown,E.R. 1979 Rockefeller Medicine Men,University of California Press.
Brown,G.E.(ed.) 1968 The Multi-Problem Dilemma,Metuchen, N.J.:Scarecrrow Press.
Bruno, D. 1957 Trends in Social Work 1874-1956(Second Edition)
Burchell, G.,Gordon,C. and Miller, P. 1991 The Foucault Effect:Studies in Govermentality,Harvester Wheatsheaf.



Carnegie,A. 1889 ‘The Gospel of Wealth’in Ward,L.F. et.al.[1975]
Carr-Saunders, A.M. and Wilson,P.A. 1933 The Professions,Frank Cass & Co. Ltd.
筑前 甚七  1992 「二一世紀にむけての社会福祉学の進展への一考察」、『社会福祉学』、33-2、日本社会福祉学会
Chapman,C.B. 1973 ‘The Flexner Report by Abraham Flexner,' Daedalus 103,Winter.
The CIBA Foundation 1984 Child Sexual Abuse within the Family,Tavistock.
Coldtein, G.  1995 Psychosocial Approach in the Encyclopedia of Social Work, Xixth Edition,NASW
Corby, B. 1989 「児童虐待に関する理論的基礎」、in Rogers,W.S. et.al.,(ed.) [1989=1993]
Costonis, J.J. 1992 ‘The MacCrate Report:Of Loaves,Fishes,and the Future of American Legal Education’,Journal of Legal Education,43-2.



Darnton, R.  1984 The Great Massacre and Other Episodes in French Cultural History=1984、海保真夫・鷲見洋一訳、『猫の大虐殺』、岩波書店
Darwin, C. 1871 The Descent of Man and Selection in Relation to Sex=1924、大畑達雄訳、『人間の由來』、日本評論社
Department of Health 1988 Protecting Children:A Guide for Social Workers undertaking a Comprehensive Assessment=1992,森野郁子監訳、『児童虐待──ソーシャルワークアセメント』、ミネルヴァ書房
―――――  1991 Patterns & Outcomes in Child Placement:Messages from CurrentResearch and their Implications=1995,林茂男・網野武博監訳、『英国の児童ケア:その新しい展開』、中央法規出版       
Department of Health and Social Security 1974 Report of the Committee of Inquiry into the Care and Supervision Provided in relation to Maria Colwell,HMSO.
―――――  1976 Priorities for Health and Personal Social Service in England:A Consultative Document=1985、三友雅夫編訳、『英国の医療政策』、恒星社厚生閣
―――――  1982 Child Abuse, a study of Inquiry Reports 1973−1981,HMSO.
―――――  1986 Child Abuse:Working Together,HMSO.
―――――  1988 Working Together:A Draft Guide to Inter-Agency Co-operation forthe Protection of Children,HMSO.
―――――  1991 Working Together:Under the Children Act 1989:A Guide toArrangements for Inter-Agency Co-operation for the Protection of Children from abuse,HMSO.
Dingwall, R. 1989 ‘Some Problems about Predicting Child Abuse and Neglect’in O.Stevenson (ed.) ,Child Abuse:Public Policy and Professional Practice,Hemel Hempstead:Harvester Wheatsheaf.
―――――  1989 「被虐待児というレッテル貼り」,in Rogers,W.S. et.al.[1989=1993]
Dominelli, L. 1996 ‘Deprofessionalizing Social Work:Anti-Oppressive Practice,Compentencies and Postmodernism’, British Journal of Social Work,26-2,British Association of Social Workers.
Donzelot, J. 1977 La Police des Familles=1991、宇波彰訳、『家族に介入する社会──近代家族と国家の管理装置』、新曜社
―――――  1991 ‘The Mobilization of Society’,in Burchell,Gordon and Miller[1991]=1994、米谷園江訳、「社会の動員」、『現代思想』、青土社
Durkheim, E. 1893 De la division du travail social=1989、井伊玄太郎訳、『社会分業論』、講談社学術文庫
―――――  1922 L'education et sociologie=1976、佐々木交賢訳、『教育と社会学』、誠真書房



Ehrenreich, B. and English, D. 1973 Witches Midwives,and Nurses:Complaints and Disorders=1996、長瀬久子訳、『魔女・産婆・看護婦』(りぶらりあ選書)、法政大学出版局
Etzioni, A. 1964 Modern Organizations=1967、渡瀬浩訳、『現代組織論』(現代社会学入門 2)、至誠堂



Family Service Association of America 1961 Past and Present Motifs in Social Work,Social Work 特別号
Fischer,J. 1981 ‘The Social Work Revolution’,Social Work,26-3.
Flexner, A. 1910 Medical Education in the United States and Canada:A Report to the Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching,4,The Carnegie Foundation for the Advancement of Teaching.
―――――  1915 ‘Is Social Work a Profession?’,National Conference of Charities and Correction,Proceedings.
―――――  1960 Abraham Flexner:An Autobiography
Fosdick, R.B. 1952 The Story of The Rockefeller Foundation=1956、井本威夫・大沢三千三訳、『ロックフェラー財団』、法政大学出版局
Foucault, M. 1963 Naissance de la Clinique : Une Archeologie du Regard Medical=1969、神谷美恵子訳、『臨床医学の誕生』、みすず書房
―――――  1969 L'archeologie du savoir=1981、中村雄二郎訳、『知の考古学』、河出書房新社
―――――  1975 Surveiller et Punir : Naissance de la Prison=1977、田村椒訳、『監獄の誕生──監視と処罰』、新潮社
―――――  1976 Histoire de la sexualite 1-La volonte de savoir=1986、渡辺守章訳、『性の歴史1知への意志』、新潮社
Fox Harding,L.M. 1991a ‘The Children Act 1989 in Context:Four Perspectives onChild Care Law and Policy(T)’,Journal of Social Welfare and Family Law,3,Sweet & Maxwell.
―――――  1991b ‘The Children Act 1989 in Context:Four Perspectives onChild Care Law and Policy(U)’,Journal of Social Welfare and Family Law,4,Sweet & Maxwell.
Franklin, B. (ed.) 1995 The Handbook of Children's Rights:Comparative Policy and Practice,Routledge.
Freeman, M. 1989 「児童保護の原理とプロセス」、in Rogers,W.S. et.al. (ed.) , Child Abuse and Neglect=福知栄子・中野敏子・田澤あけみ他訳、『児童虐待への挑戦』法律文化社
―――――  1995 ‘Children's rights in a land of rites', in Franklin, B.[1995]
Freud,A. 1949 「社会的不適応のタイプと段階」、The Writings of Anna Freud,Volume W,Indications for Child Analysis and Other Papers[1968]=1984、黒丸正四郎・中野良平訳、『児童分析の指針(上)』(アンナ・フロイト著作集D)、岩崎学術出版社
―――――  1974 The Writings of Anna Freud,Volume T,Introduction to Psychoanalysis:Lecture for Child Analysis and Teachers 1922-1935=1981、岩村由美子・中沢たえ子訳、『児童分析入門』(アンナ・フロイト著作集@)、岩崎学術出版社
Freud,A. and Burlingham,D. 1943 War and Children,New York.
Freud,S.  1895 Studien uber Hysterie=1955、懸田克躬・吉田正巳訳、『フロイト 選集 第9巻 ヒステリー研究』、日本教文社
―――――  1917 Vorlsungen zur Einfuhrung in die Psychoanalyse=1978、「精神分析学入門」懸田克躬責任編集、『フロイト』 (中公バックス 世界の名著60)、中央公論社
藤野 惠   1934 『児童虐待防止法解説』(労働立法パンフレット第三号)、労働立法研 究所



Gardner,R.A. 1993 ‘Modern Witch Hunt:child abuse charges’,The Wall Street Journal,Feb. 22.
Gattegno,J. 1974  Lewis Carroll=1997、鈴木晶訳、『ルイス・キャロル──AliceからZenonまで』(叢書・ウニベルシタス 556)、法政大学出版局
Germain,C.B. 1973 ‘An Ecological Perspective in Casework Practioce’,Social Casework,54-6,The Family Service Association of America In Germain[1992]
―――――  1979 ‘Introduction:Ecology and Social Work’,in Germain[1992]
―――――  1992 Ecological Social Work:Antholory of Carel B. Germain、小島蓉子編訳、『エコロジカルソーシャルワーク──カレル・ジャーメイン名論文集』、学苑社
Germain,C.B.(ed.) 1979 Social Work Practice:People and Environment,Columbia University Press.
Germain,C.B. and Gitterman,A. 1980 The Life Model of Social Work Practice,Colombia University Press.
―――――  1986 ‘The Life Model Approach to Social Work Practice Revisited,Turner[1986]
―――――  1987 ‘Ecological Perspective’,Encyclopedia of Social Work,1,18th ed.,National Association of Social Workers.  
Gibney,F.B. 1993 Britannica International Encyclopadia:Reference Guide,TBS-Britannica=1993、『ブリタニカ国際大百科事典 1──小項目辞典』
Gil, D.G. 1970 Violence against Children:Physical Child Abuse in the United States,Harvard University Press.
―――――  1985 ‘The United States versus child abuse,’in Pelton,L.H. (ed.)[1985] 
Goethe,J. W. 1774-1831 Faust=1965、高橋健二訳、『世界文学全集2』、河出書房
Goffman, E. 1961 Asylums:Essays on the Social Situation of Mental Patients andother Inmates=1984、石黒毅訳、『アサイラム──施設収容者の日常世界』(ゴッフマンの社会学B)、誠信書房
Goldstein, J.,Freud,A. and Solnit,A.J. 1973 Beyond the Best Interests of the Child=1990、中沢たえ子訳、『子の福祉を越えて』(子の最善の利益@)、岩崎学術出版社
後藤 正紀  1959a 「児童収容施設における人事管理について」、『社会事業』、42-1、全国社会福祉協議会
―――――  1959b 「近代的労務管理を」(第十三回全国養護施設研究協議会報告)、『社会事業』、42-10、全国社会福祉協議会
Greenwood,E. 1957 ‘Attributes of a Profession’,Journal of the Social work,2-3,National Association of Social Workers=1972、高沢武司訳、「専門職業の特質」、財団法人鉄道弘済会 弘済会館編[1972]



萩原 玉味  1996 「少年法の立場から」、明治学院大学立法研究会編[1996]
原 胤昭   1909 「兒童虐待防止事業」、『慈善』、1-2
―――――  1912 「余が免囚保護の實驗」、『人道』、82
―――――  1922 「兒童虐待防止事業最初の試み」、『社会事業』、6-5、社会事業協会
Hartman, A. 1991 ‘Words create worlds’,Social Work,36-4,National Association of Social Workers.
Hearn, G. 1958 Theory Building in Social Work,University of Toronto Press.
Hearn, G.(ed.) 1969 The General Systems Approach:Contributions toward anHolistic Conception of Social Work,Council on Social Work Education.
Helfer, R.E. and Kempe, C.H. 1976 Child Abuse and Neglect:The Family and the Community,Cambridge,Mass., Ballinger Introduction
Hendrick, H. 1994 Child Welfare:England:1892-1989,Routledge.
樋口 陽一・野中 俊彦 編集代表 1991 『憲法学の展望』、有斐閣 
Hillyard,P. and Watson,S. 1996 ‘Postmodern Social Policy:A Contradiction in Terms?’,Journal of Social Policy,25-3,Cambridge University Press.
檜前 敏彦  1972 「社会福祉士法制定試案の問題点(専門職化についての学会への提言)」、『社会福祉学』、12、日本社会福祉学会
姫川 とし子 1993 『近代ドイツの母性主義フェミニズム』、勁草書房
平賀 孟   1951 「本能・意志・良心」、『社会事業』、34-5,6・7,8,9,11、社会事業研究所
平岡 公一  1992 「イギリスにおける社会福祉計画──1970年代〜1980年代初等の展開」、『季刊・社会保障研究』、28-2、社会保障研究所
平塚 良子  1995 「生態学的アプローチのパラダイム分析と今後の展望」、『ソーシャルワーク研究』、21-3、相川書房
Hobbs,C.J.and Wynne,J.M. 1986 ‘Buggery in Childhood:A Common Symptomof Child Abuse',The Lancet,4 October.
Hoffman, L. 1992 「家族療法のための再帰的視点」、in McNamee and Gergen[1992]
細谷 俊夫・奥田 真丈・河野 重男・今野 喜清 編 1990 『新教育学大事典』(第5巻)、第一  法規
本田 和子  1982 『異文化としての子ども』、紀伊国屋書店
―――――  1997 「異文化としての子ども」、見田宗介・上野千鶴子・内田隆三・佐藤健二・吉見俊哉・大澤真幸編、『社会学文献辞典』、弘文堂
本間 甚太郎 1955 「革新的児童処遇論への批判──堀氏の科学的分析の限界」、『社会事業』、38-8、全国社会福祉協議会
堀 文次   1954 「施設児童とその人格」、『社会事業』、37-4、全国社会福祉協議会
―――――  1955a 「ホスピタリスムス研究 施設児童の養護理論」、『社会事業』、38-3全国社会福祉協議会
―――――  1955b 「施設保母の呼び方とその根底にあるもの(一)──高島巌氏の所論を駁す」、『社会事業』、38-5、全国社会福祉協議会
―――――  1955c 「寮母の呼称とその根底にあるもの(二)」、38-6、全国社会福祉協議会
―――――  1955d 「寮母の呼称とその根底にあるもの(完)──高島巌氏の所論を駁す」、38-6、全国社会福祉協議会 
堀尾 輝久  1990 「子どもの人権と思想系譜」、『ジュリスト』、963、有斐閣
―――――  1991 『人権としての教育』(同時代ライブラリー 61)、岩波書店 
堀尾 輝久・松原 治郎・寺崎 昌男 編 1985 『教育の原理T──人間と社会への問い』、東京大学出版局
細川 順正  1972 「『専門職労働』としての社会福祉労働論序説」、『社会福祉学』、12日本社会福祉学会
Howe,D.   1987 An Introduction to Social Work Theory,Ashgate.
―――――  1992 ‘Child Abuse and the Bereucratisation of Social Work’,The Sociological Review,40-3.
―――――  1994 ‘Modernity,post-modernity and social work’,British Journal of Social Work,9-4:431-451,British Association of Social Workers.
―――――  1996 ‘Surface and depth in Social-work practice’,in Parton, N (ed.).[1996]
穂積 重遠  1933a 「親権の尊重と制度」、『子供を護る』、児童擁護協会  
―――――  1933b 「子供の対する法の保護と社会の保護」、『社会事業研究』、21-12、大阪社会事業連盟
Hudson,R.P. 1992 ‘Abraham Flexner in Historical Perspective’,Barzansky,B.and Gevitz,N. [1992:1-18]
藤田 進一郎 1933 「社会事業と理論」、『社会事業研究』、21-7、大阪社会事業連盟福田 雅章  1990 「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズム──ミルの「自由原理」に内在するパターナリズム」、『一橋論叢』、103-1、一橋大学一橋学会
福田 垂穂  1991 「国際連合『児童権利条約』とわが国への影響」、『明治学院大学論叢476号 社会学・社会福祉学研究』、86、明治学院大学社会学会
「福祉問題研究」編集委員会 1973 『社会福祉労働論』、鳩の森書房
福祉士養成講座編集委員会編 1997 『改訂社会福祉士養成講座C 児童福祉論 第二版』、中央法規出版
―――――  1992 『改訂社会福祉士養成講座G 社会福祉援助技術総論』 中央法規出版
福富 昌城  1994 「ケースワークのアプローチ」、大塚他編[1994]
古川 孝順  1982 『子どもの権利──イギリス・アメリカ・日本の福祉政策から』(有斐閣選書)、有斐閣
―――――  1992 『社会福祉供給システムのパラダイム転換』、 誠信書房
―――――  1997 『社会福祉のパラダイム転換──政策と理論』、有斐閣 
―――――  1998 「社会福祉の意義と理論」、『新・社会福祉学双書』、総括編集委員会編[1998]
古川 孝順・庄司 洋子・村井 美紀・茨木 尚子 1988 「複合施設化=脱『施設社会化』の視点」、『日本社会事業大学研究紀要』、34、日本社会事業大学
古瀬 徹   1987 「ケアワーカーの専門性と独自性──「介護福祉士」創設の意義と今後の課題」、『社会福祉学』、41、社団法人鉄道弘済会
ヒューマンケア協会「ケアマネジメント研究委員会」 1998 『障害当事者が提案する地域ケアシステム──英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』、ヒューマンケア協会、日本財団



市川 知史  1992 「アメリカのEnvironmental Studies Projectに関する研究(1)」、『環境教育』、2-1
市野川 容孝 1997 「安全性の装置──権力論のための一考察」、『現代思想』、25-3、青土社
市野川 容孝・立岩 真也 1998 「障害者運動から見えてくるもの」、『現代思想』、26-2、青土社
一番ヶ瀬 康子 1970 「社会福祉学とはなにか──試論として」、『思想』、547、岩波書店
―――――  1992 「二十一世紀の実践思想」、Germain[1992]
池田 由子  1954 「ホスピタリズムについて」、『臨牀内科小兒科』、9-9、醫學書院
―――――  1985  「被虐待児症候群」、『教育と医学』、33-9、教育と医学の会:76−83
―――――  1987 『児童虐待──ゆがんだ親子関係』、中公新書
―――――  1989 『引き裂かれた子どもたち──親の離婚と子どもの精神衛生』、弘文堂
―――――  1991 『汝わが子を犯すなかれ──日本の近親姦と性的虐待』、弘文堂
井垣 章二  1985a 「児童虐待の家族と社会」、『評論・社会科学』、26、同志社大学人  文学会
―――――  1985b 『児童福祉──現代社会と児童問題 第2版』、ミネルヴァ書房
―――――  1991a 「児童の性的虐待──セックスにおける大人対子ども」、『評論・社会科学』、42、同志社大学人文学会
―――――  1991b 「チャイルド・アドボカシーと社会変革」、『同志社社会福祉学』、5 同志社社会福祉学会 
―――――  1993 「慈善の終焉またはソーシャル・ワークの育ちゆく頃」、『評論・社会科学』、42、同志社大学人文学会
―――――  1994 「ケースワークの成立と発見」、大塚他編著[1994]
Illich,I. 1971 Deschooling Society=1977、東洋・小澤周三訳、『脱学校の社会』(現代社会科学叢書)、東京創元社
―――――  1976a ‘Disabling Professions’=1984、尾崎浩訳、「専門家時代の幻想」、『専門家時代の幻想』(イリイチ・ライブラリー 4)、新評社
―――――  1976b Limits to Medicine,Medical Nemesis:The Expropriation ofHealth=1979、金子嗣郎訳、『脱病院化社会──医療の限界』、晶文社 
今井 木の実 1998 「新婦人協会とハルハウス──平塚らいてうの母性保護運動の実践と、山田嘉吉、わか夫妻の果たした役割」、『社会福祉学』、39-1、日本社会福祉学会
今岡 健一郎 1976 「社会福祉教育の系譜」、『淑徳大学研究紀要』、9・10合併号、淑徳大学研究公開委員会
―――――  1978 「アメリカにおける社会事業従事者とその教育の歴史」、『社会事業  史研究』、6、社会事業史研究会
Ingleby Report 1960 Report of the Committee on Children and Young Persons,HMSO.
井上 俊・上野 千鶴子・大澤 真幸・見田 宗介・吉見 俊哉 編 1996a 『知の社会学/言語の社会学』、(岩波講座 現代社会学 第5巻)、岩波書店
―――――  1996b 『こどもと教育の社会学』(岩波講座 現代社会学 第12巻)、岩波書店
―――――  1996c 『社会構想の社会学』(岩波講座 現代社会学 第26巻)、岩波書店
―――――  1997 『現代社会学の理論と方法』、(岩波講座 現代社会学 別巻)、岩波書店
井上 哲次郎 1923 「優生學の應用と道徳心の養成」、『社会事業』、7-3、日本社会事業協会
井野瀬 久美惠 1992 『子どもたちの大英帝国──世紀末、フーリガンの登場』(中公新書1057)、中央公論社
井岡 勉   1979 「孝橋・嶋田論争」、真田編[1979:141-178]
砂金 玲子  1995 『子ども虐待──アメリカの教訓』、日本放送出版協会
石村 善助  1972 「職業の専門職性について」、財団法人鉄道弘済会 弘済会館編 [1972:3-16]
Itard,E.M. 1801 De l'Education d'un homme Sauvage ou des premiers developpements physiques et moraux du jeune sauvage de l'Aveyron=1978、中野善達・松田清訳、『新訳 アヴェロンの野生児』(野生児の記  録 7)、福村出版
伊藤 千代・岩瀬 英二・植野 千代子・鈴木 邦子・中島 さつき・山口 善久・安食 正夫 1959「苦渋時代のMSW──医療社会事業はこのままでよいか」、『社会事業』、42-6、全国社会福祉協議会 
伊藤 憲一  1992 「児童権利条約批准急げ」、『朝日新聞』、1月19日
伊藤 周平  1996 『福祉国家と市民権』(叢書/現代の社会科学)、法政大学出版局
岩間 麻子  1998 「明治・大正期における児童虐待とその背景」、『社会福祉学』、39-1、日本社会福祉学会
岩間 伸之  1991 「わが国におけるライフモデル研究の現状と課題」、『同志社社会福祉学』、5、同志社大学社会福祉学会
―――――  1994 「ソーシャルワークの展開とケースワーク」、大塚他編[1994:82-99]
岩崎 晋也  1997 「社会福祉と自由原理の関係について──J.S.ミル・L.T.ホブハウス・A.センの比較検討」、『社会福祉学』、38-1、日本社会福祉学会
泉 薫    1993 「児童虐待の概要」、児童虐待防止制度研究会編、『子どもの虐待防止──最前線からの報告』、朱鷺書房



Jacka, A. 1973 ACCO Story:The Story of a Professional Association
Jenyns,S. 1782 Disquisitions on Several Subjects,Dublin Turner[1980]
児童虐待防止制度研究会編 1993 『子どもの虐待防止──最前線からの報告』、朱鷺書房
児童虐待調査研究会 1985 『家族内児童虐待』、日本児童問題調査会
児童福祉法研究会 1978 『児童福祉法資料集成』、(上・下)、ドメス出版
児童養護研究会 1994 『養護施設と子どもたち』、朱鷺書房
Johnson, L.C.  1992  Social Work Practice:A Generalist Approach, Forth Edition.
Jones,Catherine(ed.) 1993 New Perspective on the Welfare State in Europe,Routledge.
Jones,Chris 1996 ‘Anti-Intellectualism and the Peculiarities of British Social Work Education’,in Parton, N(ed.)., Social Theory, Social Change and Social Work,Routledge.
Jones,K. 1972 History of the Mental Health Service,Routledge & Kegan Paul.
―――――   1988 Experience in Mental Health Service,Prentice-Hall.
Jordan,B. 1984 Invitation to Social Work=1992、山本隆監訳、『英国の福祉──ソーシャルワークにおけるジレンマの克服と展望』、啓文社
Jordan,B. and Parton,N.(ed.) 1983 The Political Dimensions of Social Work,Basil Blackwell.



Kahan,B.(ed.) 1989 Child Care Research, Policy and Practice,Hodder and Stoughton.
Kahr, B.  1991 ‘The Sexual Molestation of Children:Historical Perspectives’, The Journal of Psychohistory=1993、白波瀬丈一郎訳、『imago』、 4-6、青土社
懸田 克躬  1951 「精神医学概説──とくに社会事業家のために」、『社会事業』、34-3社会事業研究所
亀岡 智美・小林 一恵・真下 厚子・山本 弓子・岡本 正子・大月 則子・藤本 淳三 1993 「児童虐待に関する精神医学的考察@──精神科領域における疾病学的な理解と位置づけについて」、『児童青年精神医学とその近接領域』、日本児童青年精神医学会機関紙
Kammerer, G.M. 1962British & American Child Welfare Services:A ComparativeStudy in Administration,Wayne State University Press.
加茂 陽   1995a 「ソーシャルワークにおけるポストモダニズムの潮流」、『神奈川大学評論』、22、神奈川大学
―――――  1995b 『ソーシャルワークの社会学』、世界思想社
―――――  1998 『ヒューマン・サービス論』、世界思想社
金子 龍太郎 1998 『実践発達心理学──乳幼児施設をフィールドとして』、金子書房
金子 保   1994 『ホスピタリズムの研究』、川島書房
Kant, I. 1787 Kritik der praktischen Vernunft=1927、波多野精一・宮本和吉・篠田秀雄訳、『実践理性批判』、岩波文庫
柏女 霊峰  1995 『現代児童福祉論』、誠信書房
―――――  1998 「子ども社会福祉と社会」、柏女他編 [1998:33-60]
柏女 霊峰・網野 武博・鈴木 真理子 1992 「英・米・日の児童虐待の動向と対応システムに関する研究」、『児童育成研究』、10、日本児童育成学会
柏女 霊峰・山縣 文治 編 1998 『新しい子ども家庭福祉』、ミネルヴァ書房
粕谷 啓介  1996 「起源の他者──啓蒙時代の野生児とろうあ者」、『現代思想』(4月臨時増刊 総特集ろう文化)、24-05、青土社
加藤 博史  1991 「ノーマリゼーションの思想的系譜──『国民優生法』制定に関する批判思想の検討から」、『社会福祉学』、32-2、日本社会福祉学会
―――――  1996 『福祉的人間観の社会誌──優生思想と精神病を通して』、晃洋書房
上 笙一郎 編 1995 『児童虐待防止法解義、児童虐待法解説、児童を護る』、(日本<子供の権利>叢書 8)、久山社
川田 誉音  1992 「社会福祉援助技術の歴史と理論」、福祉士養成講座編集委員会編[1992:108-159]
川田 昇   1997 『イギリス親権法史──救貧法政策の展開を軸にして』、一粒社
Kempe, C.H. 1979 ‘Recent Development in the field of Child Abuse’, Child Abuse and Neglect、vol.3、Pergamon Press:ix-xv.
Kempe, C.H.,Silverman, F.N.,Steele,B.B.,Droegemueller, W. and Silver, H.K. 1962 ‘The Batterd-Child Syndrome’,Journal of the American Medical Association,Vol.181.=1993年、中尾睦宏訳、「幼児虐待症候群」、『Imago』、4-6
Kempe, R.S. and Kempe, C.H.,1978 Child Abuse,The Open University.
Key, E.K.S. 1900 Barnets arhundrade=1906年、大村仁太郎訳、『二〇世紀は児童の世紀』、同文館、=1916、原田實訳、『兒童の世紀』、大同館書店、 =1979、小野寺信・小野寺百合子訳、『児童の世紀』、冨山書房
Keynes,J.M. 1981 『ケインズ全集9 説得論集』、宮崎義一訳、東洋経済新報社
―――――  1936 The General Theory of Employment, Interest and Money=1950、塩野谷九十九訳、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(第4版)東洋経済新聞社
木田 徹郎  1952 「社会事業の本質問題について──閑な時間の読物として」、『社会事業』、35-1、社会事業研究所
―――――  1956 「米国社会事業における最近の理論的問題点」、『社会事業の諸問題』4-3
―――――  1967a 「戦後社会事業理論体系化の諸構想」、日本社会事業大学編[1967]
―――――  1967b 「社会事業教育」、日本社会事業大学編[1967]
木田 徹郎・竹中 和郎・副田 義也 編 1966 『改訂 社会福祉の方法』、誠信書房
木原 活信  1996 「ソーシャルワークにおける『物語モデル』出現の史的背景──没価値性と意味喪失という論点をめぐって」、第44回日本社会福祉学会配布資料
―――――  1998 『 J.アダムズの社会福祉実践思想の研究』、川島書店
木村 晴美・市田 泰弘 1995 「ろう文化宣言──言語的少数者としてのろう者」、『現代思想』、24-5、青土社
近畿弁護士会連合会少年問題対策委員会 1998 『少年の処遇の現状と課題──少年院・児童自立支援施設を中心として』、近畿弁護士会連合会
木下 茂幸 監修・浅井 春夫 編著 1997『児童養護の変革──児童福祉改革の視点』、朱鷺書房 
北本 正章  1993 『子ども観の社会史──近代イギリスの共同体・家族・子ども』、 新曜社
北村 篤子  1978 「ソーシャル・ワークの生成とその発展──ファウンデーションの分析を中心に」、『日本福祉大学 研究紀要』、37、日本福祉大学
北村 兼子  1929 「優生学、ちょつと待って」、『社会事業研究』、17-1、大阪社會事業聯盟
北山 秋雄  1994 「性的虐待の歴史と発生理論」、北山秋雄編[1994]
北山 秋雄 編  1994 『子どもの性的虐待──その理解と対応をもとめて』、大修館書店
Klein, Melany. 1932 The Psycho-Analysis of Children=1997、衣笠隆幸訳、『児童の精神分析』、誠心書房
小玉 亮子  1996 「『子どもの視点』による社会学は可能か」、井上俊他編[1996b]
小島 蓉子  1988 「人間的生活の思想と社会福祉理論──フロム、コノプカ、ジャーメインの実践思想の稜線」、『日本女子大学紀要 文学部』、38、日本女子大学
―――――  1989 「ソーシャルワーク実践における生態学とは何か」、『社会福祉研究』、46、財団法人鉄道弘済会
小松 源助  1954a 「ケースワークの技術的基礎──過程と機能の関連について」、『社会事業』、37-2、社会事業研究所
―――――  1954b 「メリー・リッチモンドの思想と生涯」、『社会事業』、37-5,7,10社会事業研究所
―――――  1955 「精神医とケースワーカーとの関係 ―精神医学的社会事業の問題について」、『社会事業』、38-1、社会事業研究所
―――――  1976 「社会福祉実践活動における方法の統合化──その具体化をめぐる課題」、『社会福祉研究』、19、財団法人鉄道弘済会 
―――――  1979 「アメリカにおけるソーシャルワークの成立過程」、小松他[1979]
―――――  1990 「社会福祉実践におけるパラダイム転換の動向──生態−システム論的視点を中心にして」、小松[1993] 
―――――  1993 『ソーシャルワーク理論と歴史の展開──先駆者に辿るその発展史』川島書店
小松 源助・山崎 美貴子・田代 国次郎・松原 康雄 1979 『リッチモンド ソーシャル・ケースワーク』(有斐閣新書・古典入門)、有斐閣
小松 隆二  1989 『イギリスの児童福祉』、慶應通信
近藤 邦夫  1978 「79 精神分析の心理・性的発展理論」、東・大山・詫磨・藤永編[1978: 376-377]
許斐 有   1989 「児童福祉法による親権の制限──保護者による児童虐待等の場合の制度的措置」、『淑徳大学研究紀要』、23
小坂 和夫(発言) 1997 「今後の展望を探る 座談会──児童福祉法、ここをこう変えたい」、木下茂幸監修・浅井春夫編著[1997:308]
小関 光尚  1929 「社会事業と優生学」、『社会事業研究』、17-1、大阪社會事業聯盟
小関 光尚・田結 宗誠・熊野 隆治・富田 象吉・川上 貫一 1929 「座談会 不良少年と遺傳」、『社会事業研究』、17-4、大阪社會事業聯盟
小塩 静堂  1915a 「兒童の要求(上)」、『人道』、108
―――――  1915b 「兒童の要求(下)」、『人道』、109
孝橋 正一  1954 『社会事業の基本問題』、ミネルヴァ書房
―――――  1962 『全訂 社会事業の基本問題』、ミネルヴァ書房
―――――  1969 『社会科学と社会事業』、ミネルヴァ書房
―――――  1973 『続 社会事業の基本問題』、ミネルヴァ書房 
厚生省    1975 『児童の虐待・遺棄・殺害事件調査報告』
厚生省児童局編 1948 『児童福祉』、東洋書館 
小山 隆   1997 「ソーシャルワークの専門性について」、『評論・社会科学』、57、同志社大学人文学会
Kramer,M.  1977 ‘Psychiatric Services and the Changing institutional scene’, 1950-1985 Washington D.C.,U.S. Government Printing.
久保 紘章  1992 「ライフ・ヒストリーとソーシャルワーク」、『ソーシャルワーク研究』、18-3、相川書房
窪田 暁子  1985 「1950年代の施設養護論(一)──ホスピタリズム論とその影響」 『人文学報』、187、東京都立大学人文学部
―――――  1988 「社会福祉学の創設期を担った女性たち──シカゴ大学の場合」、『人文学報』、202、東京都立大学人文学部
倉石 哲也  1994 「対人援助関係成立におけるシステム論考察──家族の面接過程への焦点化を通して」、『社会福祉研究』、44-1、財団法人鉄道弘済会
―――――  1995 「家族援助の実践的展開──家族を中心とするシステムズ・アプローチを基礎に」、右田編著[1995]
倉本 智明  1997 「未完の<障害者文化>──横塚晃一の思想と身体」、『社会問題研究』、47-1、大阪府立大学社会福祉学部
―――――  1998 「社会的構築物としてのimpairment──人工内耳手術の是非をめぐるイデオロギーのせめぎあいをとおして」、第46回日本社会福祉学会配布資料
黒木 利克  1958 『日本社会事業現代化論』、全国社会福祉協議会
黒澤 良臣  1924 「病的盗癖に就て」、『社会事業』、8-7、社会事業研究所
許 末恵   1990 「英国における児童ケア制度の一展開──1980年児童ケア法を中心に」、『神奈川工科大学研究報告』、A-14、神奈川工科大学
―――――  1993 「英国1989年児童法についての一考察」、『神奈川工科大学研究報告』、A-17、神奈川工科大学 
京極 高宣 1987a 「社会福祉の専門性について──『社会福祉士及び介護福祉士法』成 立後の課題」、『月刊福祉』、70-9、全国社会福祉協議会
―――――  1987b 『福祉専門職の展望──福祉士法の成立と今後』、全国社会福祉協議会
―――――  1990 『現代福祉学の構図』、中央法規出版
京極 高宣 監修 1993 『社会福祉学レキシコン』、雄山閣



Lee,P.  1915 Committee Report:The Professional Training,National Conference of Charities and Correction:Proceedings.
Lerman, P. 1982 Deinstitutionalization and the Welfare State,Rutgers University Press.
Lewinski,J.  1987 The Naked and The Nude=1989、伊藤俊治・笠原美智子訳、『ヌードの歴史』、PARCO出版局
Lishmen, J. (ed.) 1991 Handbook of Theory for Practice Teachers in Social Work,Jessica Kingsley.
Locke, J. 1689 Two Treatises of Government=1968、鵜飼信成訳、『市民政府論』、岩波文庫 
―――――  1692 Some Thoughts Concerning Education=1974、梅崎光生訳、『教育論』(世界教育学選集C)、明治図書出版
Loney,M. 1989 「社会との関係でとらえる児童虐待」in Rogers,W.S. et.al.[1989=1993]
Lubove, R. 1965 The Professional Altrust:The Emergence of Social Work as a Career,1880-1930,Harvard University Press.
Lyon,C. and Parton, N. 1995 ‘Children's Rights and the Children Act 1989’,in Franklin, B. (ed.) [1995]
Lyotard,J.-F. 1991 Lecture De'enfance=1995、小林康夫・竹林佳史・根本美作子・高本繁光・竹内孝宏訳、『インファンス読解』(ポエーシス叢書27)、未来社



MacBeath,G.B. and Webb, S.A. 1991 ‘Social work,modernity and post modernity’,Sociological Review,39-4.
牧 柾名   1985 「国家・人権・教育」、堀尾輝久他編[1985:207-241]
牧野 虎次  1936 「速かに斷種法の制定を望む」、『社会事業研究』、24-10、 大阪社會事業聯盟
Marshall,T.H. 1975 Social Policy in the Twentieth Century,4(ed.)=1981、岡田藤太郎訳、『社会(福祉)政策──二十世紀における』、相川書房
Marx,K. 1867 Das Kapital T=1969年、向坂逸郎訳、『資本論(一)(二)』(岩波文庫)岩波書店
松澤 兼人  1929 「社会事業と優生学──その依存性と優越性」、『社会事業研究』、17-1、大阪社會事業聯盟
Mckelway, A.J. 1913 Declaration of Dependence by the Children of America in Mines and Factories and Workships Assembled,2 Child Labor Bulletin 43 Aug..
McNamee,S. and Gergen,K.J. 1992 Therapy as Social Construction=1997、野口祐二・野村直樹訳、『ナラティヴ・セラピー──社会構成主義の実践』、金剛出版
松原 康雄  1996 「60年代後半のケースワーク理論の『ゆらぎ』について」、『明治学院論叢』、575、社会学・社会福祉学研究99、明治学院大学社会学会
―――――  1997 「公的介入とソーシャルワーカー──1989年イギリス児童法の実施過程を題材に」、『明治学院論叢』592、社会学・社会福祉学研究100、明治学院大学社会学会 
松原 洋子  1997 「<文化国家>の優生法──優生保護法と国民優生法の断層」、『現代思想』、25-4、青土社
松井 二郎  1992 『社会福祉理論の再検討』、ミネルヴァ書房
松下 良平  1997 「戦後教育の哲学的基底──自己矛盾としての<子供の尊重>の思想の“乱熟”」、『教育哲学研究』、75、教育哲学研究会
明治学院大学立法研究会編 1996 『子どもの権利──子どもの権利条約を深めるために』、信山社
Meyer,H.J.,Borgatta, E.F. and Jones,W.C. 1965 Girls at Vocational High:AnExperiment in Social Work Intervention,Russell Sage Foundation
水芦 紀陸郎 1955 「堀文次氏所論への疑問──“施設保母の呼び方とその根底にあるもの" について」、『社会事業』、38-9、全国社会福祉協議会
Mill,J.S. 1855 On Liberty=1971、早坂忠 訳、『自由論』、関義彦 編[1967:211-348]
―――――  1848 Principles of Polotical Economy with some of their Applications to Social Philosophy=1959-1963、末永茂喜訳、『経済学原理』、岩波書店
Miller,A. 1981 Du sollst nicht merken=1985、山下公子訳、『禁じられた知──精神分析と子どもの真実』、新曜社
南 博    1984  『家族内性愛』、朝日出版社
―――――  1986a 「家族内性愛」、『小児医学』、19-1
―――――  1986b 「性的虐待」、『世界週報』、9月23日号、20−23
ミネルヴァ書房編集部編 1995 『社会福祉小六法 1995』、ミネルヴァ書房
三野 亮   1954 「生活史から見た少年と家族──非行少年の社会診断の困難性」、『社会事業』、37-6
三島 亜紀子 1998 「『社会福祉学』におけるポストモダン的分析──近代を懐疑するまなざしについての最近の論争」、『ソーシャルワーク研究』24-2、相川書房
―――――  1999 「医師とソーシャルワーカーの専門職化──フレックスナー報告にみる科学的様式美」、佐藤純一他編[1999]
Mishra,R. 1990 The Welfare State in Capitalist Society:Policies of Retrenchmentand Maintenance in Europe, North America and Australia=1995、丸谷冷史他訳、『福祉国家と資本主義──福祉国家再生への視点』、晃洋書房
―――――  1993 ‘Social policy in the postmedern world’,in Jones,C.[1993]
三友 敬太  1998 「リハビリテーションの定義と理念」、『新・社会福祉学双書』総括編集委員会編19[1998]
宮澤 康人  1998 「児童中心主義の底流をさぐる──空虚にして魅惑する思想」、『子ども学』、18-冬、ベネッセ
宮澤 康人・星 薫 編  1992  『子供の世界』、放送大学教育振興会
Monckton Report 1945 Report by Sir Waller Monckton on the Circumstances Which led the Boarding Out of Dennis and Terence O'Neill at Bank Farm, Ministry and the Steps Taken to Supervise their Welfare,Cmd.6336. 
茂木 俊彦  1998 「障害論と個性論」、『障害者問題研究』、26-1、全国障害者問題研究会
森岡 正博 編 1992 『「ささえあい」の人間学』、法蔵館
森田 明   1986 「子どもの保護と人格」、『ジュリスト総合特集』、43
―――――  1991 「少年法手続における保護とデュープロセス──比較法史的考察」、樋口陽一他編、[1991] 
―――――  1992a 「子供と法 T──関わりの諸局面」、宮澤康人他編[1992:302-311]
―――――  1992b 「子供と法 U──『子供の権利とは何か』」、宮澤康人他編[1992]
―――――  1997 「大正少年法の施行と『司法保護』の観念──宮城長五郎の場合」、『犯罪社会学研究』、22、犯罪社会学会 
森田 伸子  1996 「『子ども』から『インファンス infans』へ──変貌するまなざし」、井上俊他編[1996b]
森田 ゆり  1993 「エンパワメント──子ども虐待にとり組む思想の原点」、『imago』 4-6、青土社
―――――  1995 『子どもの虐待──その権利が侵されるとき』(岩波ブックレット No.385)、岩波書店
―――――  1998 『エンパワメントと人権──こころの力のみなもとへ』、解放出版社 
村田 松男  1954 「家庭生活の病根調査──児童の生活環境を改善するための」、『社会事業』、37-6、社会事業研究所
Mullen,E.J., Chazin R.M. and Feldstein, D.M. 1972 ‘Services for the Newly Dependent:An Assessment’,The Social Service Review,46-3,The University of Chicago Press.
Munday,B. 1972 ‘What is Happening to Social Work Students?,Social Work Today,3-6.
Munro, E. 1996 ‘Avoidable and Unavoidable Mistakes in Child Protection Work’,British Journal of Social Work,26-6,British Association of Social Workers.
Murray,A. 1918 ‘Case Work Above the Poverty Line’,Proceedings of the National Conference.



National Association of Social Workers 1995 Encyclopedia of Social Work:19th Edition,NASW PRESS.
―――――  1974 Social Case Work=1993、竹内一夫・清水隆則・小田兼三訳、 『ソーシャル・ケースワーク:ジェネリックとスペシフィック──ミルフォード会議報告』、相川書房
内藤 和美  1993 「児童虐待の一側面──構造的弱者をめぐって」、『imago』 4-6、青土社
―――――  1994 「フェミニズムからみた子どもの性的虐待」、北山編、[1994:41-54]
永岡 正己  1979 「戦前の社会事業論争」、真田編[1979]
長瀬 修   1998 「障害の文化、障害のコミュニティ」、『現代思想』、26-2、青土社:204-215
永田 幹夫  1987 「問われる社会福祉の専門性」、『月刊福祉』、70-9、 全国社会福祉協議会
中村 季代  1997 『保母の子どもの虐待──虐待保母が子どもの心理的外傷を生む』、鹿砦社
中村 佐織  1990 「わが国の生活モデル研究の動向──生態学的視座に関する文献を中心として」、『ソーシャルワーク研究』、16-2、相川書房 
仲村 優一  1956 『ケースワークの原理と技術──主として公的扶助における』、社会福祉協議会
―――――  1980 『ケースワーク教室』、有斐閣
―――――  1991 『社会福祉概論 [改訂版]』、誠信書房
仲村 優一・秋山 智久 編 1988 『福祉のマンパワー』(明日の福祉H)、中央法規出版
仲村 優一・岡村 重夫・阿部 志郎・三浦 文夫・柴田 善守・嶋田 啓一郎 編 1988 『現代社会福祉辞典』、全国社会福祉協議会
中西 正司  1993 「当事者主体の福祉サービスの構築──障害者が地域で暮らす権利と方策〜自立生活センターの活動を通して」、『社会福祉研究』、57、財団法人鉄道弘済会
中園 康夫  1982 「ノーマリゼーションの課題とその実践方法──特に主要な定義との関係において」、『社会福祉研究』、31、財団法人鉄道弘済会
生江 孝之  1923 『児童と社会』、児童保護研究会
Nardinelli,C. 1990 Child Labor and The Industrial Revolution=1998,森本真美訳、『子どもたちと産業革命』、平凡社
Neil,A.S. 1967 The Free Child=1995、堀真一郎訳、『自由な子ども』、黎明書房
日本子どもを守る会編 1997 『子ども白書・1997年度版』、草土文化
―――――  1998 『子ども白書・1998年度版』、草土文化
日本社会事業大学 編  1967 『戦後日本の社会事業』、勁草書房
西澤 哲   1994 『子どもの虐待─子どもと家族への治療的アプローチ』、誠信書房
―――――  1997 『子どものトラウマ』(講談社現代新書1376)、講談社
野田 正人  1991 「少年法改正問題の焦点──審判構造の改革」、日本子どもを守る会編[1998]
野口 祐二  1995 「構成主義アプローチ──ポストモダン・ソーシャルワークの可能性」、『ソーシャルワーク研究』、21-3、相川書房
野口 善國  1998 『それでも少年を罰しますか』、共同通信社
野嶋 佐由美 1988 「アメリカ合衆国における脱施設化運動の影響」、『高知女子大学紀要 自然科学編』、36、高知女子大学紀要委員会
野澤 正子  1996 「1950年代のホスピタリズム論争の意味するもの──母子関係論の受要の方法をめぐる一考察」、『社会問題研究』、45-2、大阪府立大学社会福祉学部



小田 兼三  1974 「ホスピタリゼーションの社会的背景」、『社会福祉学』、15日本社会福祉学会
―――――  1998 「イギリスのコミュニティケア対応のソーシャルワーク教育の展望」、 『ソーシャルワーク研究』、24-2、相川書房
小倉 襄二・小松 源助・高島 進 編集代表 1973 『社会福祉の基礎知識』、有斐閣
岡田 藤太郎 1977 『(増補版)社会福祉とソーシャルワーク──ソーシャルワークの探求』、ルガール社
岡原 正幸・立岩 真也 1995 「自立の技法」、安積他[1995]
岡本 民夫 1973 『ケースワーク研究』、ミネルヴァ書房
―――――  1982 「ソーシャルワーカーの役割」、『社会福祉学』、23-1、日本社会福祉学会
―――――  1985 「ケースワーク理論の動向(T)」、『評論・社会科学』、85、同志社大学人文学会
―――――  1987 「ケースワーク理論の動向(U)」、『評論・社会科学』、87、同志社大学人文学会
―――――  1990 「ライフモデルの理論と実践──生態学的アプローチ」、
      『ソーシャルワーク研究』、16-2、相川書房
―――――  1992 「社会福祉実践活動におけるエコマップ(生態地図)の作り方」、
      社会福祉援助技術研究会報告文
―――――  1998 「社会福祉における援助実践をめぐる研究方法論の課題」、澤田編[1998]
岡村 重夫  1983 『社会福祉原論』、全国社会福祉協議会
岡野 憲一郎 1994 「フロイトに見られる外傷理論」、『imago』、5-8、青土社
奥田 いさよ 1992 『社会福祉専門職制の研究──ソーシャルワーク史からのアプローチ:わが国での定着化をめざして』、川島書店
奥山 眞紀子・浅井 春夫 編 1997 『保育者・教育者のための子ども虐待マニュアル』、ひとなる書房
小野 顕   1954 「なにが病的か──ホスピタリスムス偶感」、『社会事業』、37-5、全国社会福祉協議会
Otway, O.   1996 ‘Social Work with Children and Families’,in Parton, N(ed.).[1996]
大林 宗嗣  1929 「ユーゼニックスと社会事業」、『社会事業研究』、17-1、 大阪社會事業聯盟
大泉 溥   1989 『障害者福祉実践論──生活・労働の援助と人間的自立の課題』(新社会福祉選書B)、ミネルヴァ書房
大久保 満彦 1941 「社会事業研究所における社会事業幹部職員養成事業について」、『社会事業』、社会事業研究所
―――――  1954 「問題児童と兩親の態度について(上・下)」、『社会事業』、37-6、9、社会事業研究所 
―――――  1955 「少年と自殺──養護施設収容中の自殺少年の遺書」、『社会事業』、38-7、社会事業研究所
大阪府児童虐待対策検討会議 1990 「被虐待児の早期発見と援助のためのマニュアル」 児童虐待マニュアル検討委員会
大阪児童虐待調査研究会 1989 「被虐待児のケアに関する調査報告書」、『大阪府委託調査研究報告』、大阪児童虐待調査研究会
大阪市立大学社会福祉学研究室 1996 『社会福祉従事者の実践と意識に関する全国調査』
大澤 真幸  1996 「<自由な社会>の条件と課題」、井上他編[1996c]
―――――  1998 「自由の牢獄──リベラリズムを越えて」、『季刊アスティオン』、49、TBSブリタニカ
太田 義弘  1990 「ソーシャル・ワーク実践の前提と展望的課題」、『社会問題研究』、40-1,2、大阪府立大学
―――――  1992 『ソーシャル・ワーク実践とエコシステム』、誠信書房
―――――  1998 「ジェネラル・ソーシャルワークの意義と課題」、『ソーシャルワーク研究』、24-1、相川書房 
大谷 嘉朗  1978 「児童福祉施設の見直し」、大谷他編[1978]
大谷 嘉朗・斎藤 安弘・浜野 一郎 編 1978 『新版 施設養護の理論と実際』、ミネルヴァ書房
大塚 達雄  1960 『ソーシャル・ケースワーク──その原理と技術』、ミネルヴァ書房
―――――   1978 「デッソー女史とケースワーク」、大塚他編[1978:316-328]
大塚 達雄・岡田 藤太郎 編 1978 『ケースワーク論 ―日本的展開をめざして』、ミネルヴァ書房
大塚 達雄・井垣 章二・澤田 健次郎・山辺 朗子 編著 1994 『ソーシャル・ケースワーク論─社会福祉実践の基礎』、ミネルヴァ書房
大山 博・武川 正吾 編 1991 『社会政策と社会行政──新たな福祉の理論の展開をめざして』、法律文化社
Oxley, G.B. 1971 ‘A Life-model Approach to Change’,Social Casework,52-10,Family Service Association of America.
小山 聡子  1998 「固有の生活障害除去に向けた理念と方法」、『新・社会福祉学双書』総括編集委員会編[1998]
小澤 周三・小澤 滋子 1977 「解説」、in Illich,I.[1971] 



Pardeck,J.T.,Murphy,J.W. and Choi,J.M. 1994 ‘Some implication of Postmodernism for social work practice’, Social Work,39-4, National Association of Social Workers.
Pardeck,J.T.,Murphy,J.W. and Chung,W.S. 1994 ‘Social work and postmodernism’,Social Work and Social Sciences Review,5-2.
Parton, N. 1979 ‘The Natural History of Child Abuse:A Study in SocialProblem Definition’,British Journal of Social Work,9-4,British Association of Social Workers.
―――――  1985 The Politics of Child Abuse,Macmillan.
―――――  1986 The Beckford Report:A Critical Appraisal,British Journal of Social Work,16-5,511-530.
―――――  1989 ‘Child Abuse’,in Kahan, B.(ed.)
―――――  1991 Governing the Family:Child Care, Child Protection and the State, Macmillan.
―――――  1994 ‘The nature of social work under conditions of(post)modernity’,Social Work and Social Sciences Review,5-2.
―――――  1997 ‘Social work,risk and‘the blaming system’,in Parton, N (ed.)., Social Theory, Social Change and Social Work,Routledge.
Parton, N.(ed.) 1996 Social theory, Social Change and Social Work,Routledge.
Parton, N. and Thomas,T. 1983 ‘ Child Abuse and Citizenship’,in Jordan et.al.(ed.)[1983].
Paul, J.L. et al.(ed.) 1977 Deinstitutionalization:Program and Policy Development
Payne, M.  1991 Modern Social Work Theory,Macmillan.
―――――  1992 ‘Psychodynamic theory within the politics of social work theory’, Journal of Social Work Practice,6-3.
―――――  1995 Social Work and Community Care=1998、杉本敏夫・清水隆則監訳、『地域福祉とケアマネジメント──ソーシャルワーカーの新しい役割』、筒井書房
―――――  1997 Modern Social Work Theory(2ed.),Macmillan.
Pelton,L.H. (ed.) 1985 The Social Context of Child Abuse and Neglect,Human Sciences Press, Inc.
Perlman, H.H. 1952 ‘Putting the “Social”Back in Social Casework’,in Perlman[1971]
―――――  1957 Social Casework=松本武子訳、『ソーシャル・ケースワーク』(第2版)、全国社会福祉協議会
―――――  1967 ‘Casework is Dead?’,Social Casework,68-1,Family Service Association of America=1971、仲村優一・横山薫訳、「ケースワークは死んだか?」、『社会福祉研究』、8、財団法人鉄道弘済会
―――――  1968 ‘Can Casework Work?’,Social Service Review,42-4,The University of Chicago Press.
―――――  1971 Perspective on Social Casework,Temple Univ. Press.
Pestalozzi, J.H.  1801=1960、長田新訳、「ゲルトルートはいかにしてその子を教うるか──子供とみずからの手で教育しようとする母親への手引書」、『ペスタロッチー全集』(第8巻)、平凡社
Philp,M.  1991 ‘Notes on the form of knowledge in social work’,The Sociological Review,39-4,University of Keele.
Pierson, C. 1991 Beyond the Welfare State?=1996、田中浩・神谷直樹訳、『曲がり角にきた福祉国家』、未来社
Pincus,A. and Minahan,A. 1973 Social Work Practice:Model and Method,Peacock.
Pinel, P.   1800  ‘Rapport fait a la Societe des Observateurs de l' hommesur l'enfant connu sous le nom Sauvage de l'Aveyron'=「『アヴェロンの野生児』の名で知られる子どもに関する人間観察家協会への報告」、中野・松田訳、[1978]
Platt, A.M.  1969 The Child Servers:The Invention of Deliquency=1989、藤本哲也・河合清子訳、『児童救済運動』、中央大学出版部
Postman,N. 1982 The Disappearance of Child=1995、小柴一訳、『子どもはもういない』、新樹社
Pozatek, E. 1994 ‘The problem of certainty:clinical social work in the postmodern era’,Social Work,36-4,National Association of Social Workers.
Proctor,R.N. 1988 Racial Hygiene:Medicine under the Nazis,Harvard UP





Reid,W.J. and Smith A.D. 1972 AFDC Mothers View the Work Incentive Program,The Social Service Review, The University of Chicago Press
Richmond, M.E. 1897 ‘The Method of a Training School in Applied Philanthoropy’,in Richmond[1930]
―――――  1905 ‘The Retail Method of Reform’,in Richmond[1930]
―――――  1911 ‘Of the Art of Beginning in Social Work’,in Richmond[1930]
―――――  1917 ‘The Social Case Worker's Task’,in Richmond[1930] 
―――――  1922 What is Social Case Work? :An Introductory Description, Russell Sage Foundation,=1963、杉本一義訳、『人間の発見と形成─ソーシャル・ケースワークとはなにか』、誠信書房、=1991、小松源助訳、『ソーシャル・ケースワークとはなにか』、中央法規出版
―――――  1923 ‘Possibilities of The Art of Helping’,Richmond[1930].
―――――  1930 The Long View,The Russell Sage Foundation.
Roberts,R.W. and Nee, R.H.(ed.) 1970 Theories of Social Work Casework,University of Chicago.
Robinson, V.P. 1934 A Changing Psychology in Social Work,The University of North Carolina Press,=1969、杉本照子訳、『ケースワーク 心理学の変遷』(社会福祉学双書 2)、岩崎学術出版社 
Rojek,C. 1986 ‘The “Subject”in Social Work’,British Journal of Social Work 16-1,British Association of Social Workers.
Rojek,C.,Peacock,G. and Collins,S. 1989 Social Work and Received Ideas,Routledge.
Rogers, W.S.,Hevey, D. and Ash,E.(ed.) 1989 Child Abuse and Neglect=1993、福知栄子・中野敏子・田澤あけみ他訳、『児童虐待への挑戦』、法律文化社
Rousseau,J.- J. 1762 Emile ou de l'education=1962-1964年、今野一雄訳、『エミー ル』(上)(中)(下)、(岩波文庫)、岩波書店
Rowe, J. and Lambert,L. 1973 Children Who Wait



Sainbury, E. 1977 Personal Social Services, Pitman.
定藤 丈弘  1993 「障害者福祉の基本的思想としての自立生活理念」、定藤他編[1993]
定藤 丈弘・岡本 栄一・北野 誠一 編 1993 『自立生活の思想と展望』、ミネルヴァ書房
斎藤 薫   1995 「日本検察学会編『児童虐待防止法解義』藤野恵『児童虐待法解説』下村宏他『児童を護る』解説」、上笙一郎編[1995]
斎藤 真   1979 「プリンストン高等研究所の設立──アメリカ史の中の『無用の学の用』」、『国家学会雑誌』、92-7・8
斎藤 学   1992 『子供の愛し方がわからない親たち─児童虐待、何が起こっているか、どうすべきか』、講談社
―――――  1994 『児童虐待[危機介入編]』、金剛出版
―――――  1998 「オトコの生きかた」、『毎日新聞』、12月22日 
坂井 聖二  1998 「児童虐待を理解するための基本的な問題点」、吉田恒雄編[1998]
Saleeby,D. 1994 ‘Culture,theory, and narrative:The intersection of meanings inpractice’,Social Work,36-4,National Association of Social Workers.
真田 是   1964 「児童福祉の「近代化」が意味するもの」、『月刊福祉』、47-3、 全国社会福祉協議会
―――――  1975 「社会福祉における労働と技術の発展のために」真田編[1975]
真田 是 編 1979 『戦後日本社会福祉論争』
―――――  1975 『社会福祉労働』、法律文化社 
佐々木 毅  1995 「二十世紀の自由主義思想」、佐々木編[1995]
佐々木 毅 編 1995 『自由と自由主義─その政治思想的諸相』、東京大学出版会
ささや ななえ・原作、椎名 篤子 1995 『凍りついた瞳──子ども虐待ドキュメンタリー』、集英社
佐藤 純一・黒田 浩一郎 編 1998 『医療神話の社会学』、世界思想社
―――――  1999 『医療社会学のパイオニア』、世界思想社
佐藤 信一  1951 「目標額の合理性──共同募金運動の諸問題」、『社会事業』、34-10: 社会事業研究所
佐藤 豊道  1998 「社会福祉援助活動における専門性と倫理」、『新・社会福祉学双書』編集委員会編[1998]
Savitt, T.L. 1992 ‘Abraham Flexner and the Black Medical Schools’,Barzansky,B. et.al.[1992]
沢田 健次郎 1994  「ケースワークの基礎理論」、大塚他編[1994]
沢田 健次郎 編 1998 『社会福祉方法論の新展開』、中央法規出版
Scheerenberger, R.C. 1977 ‘Deinstitutionalization in Perspective ’,Paul, J.L. et.al.(ed.)[1997]
関 義彦 編  1967 『ベンサム/J.S.ミル』(世界の名著38)、中央公論
Sereny, G.  1972 The Case of Mary Bell=1980、林弘子訳、『マリー・ベル事件──11歳の殺人犯』(評論社の現代選書 11)、評論社
芹沢 俊介  1994 『現代<子ども>暴力論〈新版〉』、春秋社
瀬田 公和・仲村 優一・杉本 照子・村田 正子・板山 賢治 1987 「『社会福祉士及び介護福祉士法』の成立と今後の展望」、『月刊福祉』、70-9、全国社会福祉協議会
嶋田 啓一郎 1960 「社会福祉と諸科学──社会福祉研究の方向を求めて」、『社会福祉学』1-1、日本社会福祉学会
―――――  1962 「専門社会事業の問題点──日本ソシアル・ワーカー協会の育成のために」、『人文学』、57、同志社大学人文学会
―――――  1971a 「社会福祉と専門職制度──ソシアル・ワーカー協会の前進のために」、『評論・社会科学』、2、同志社大学人文学会
―――――  1971b 「専門職の権化──ドロシー・デッソー教授──それはわれらのインス ピレーション」、『評論・社会科学』、3、同志社大学人文学会
―――――  1972 「社会福祉における専門職化と法制化──「社会福祉士法」制定試案 の再検討」、『社会福祉学』、12、日本社会福祉学会
―――――  1974 「社会学における構造=機能論的理解──孝橋正一教授の批判に答え る」、 『評論・社会科学』、7、同志社大学人文学会
―――――  1978 「デッソー理論の学問的性格 ―米国ケースワーク研究の進展を背景 として」、大塚他編[1978]
清水 隆則  1988 「英国における性的児童虐待の実態」、『ソーシャルワーク研究』、14─1、相川書房
―――――  1989 「性的児童虐待ケースに対する体系的処遇─英米の実践例」、 『ソーシャルワーク研究』、16―4、相川書房
―――――  1991 「英国の児童虐待防止制度の史的発展」、『ソーシャルワーク研究』16―4、相川書房
―――――  1992 「英国新・児童法(Children Act 1989)の理念と方法──制定の背景と特徴」、『ソーシャルワーク研究』、18―3、相川書房
四宮 恭二 他 編 1950 『社會事業講座』(第3巻)、福祉春秋社
新保 幸男 1998 「相談と発見のシステム」、柏女霊峰他編[1998]
Sherif,M and Sherif,C.W.(ed.) 1969 Interdiciprinary Relationships in the Social Sciences=1971、南博監訳、『学際研究──社会科学のフロンティア』、鹿島出版会
Sibley, David. 1981 Outsiders in Urban Societies=1986、細井洋子訳、『都市社会のアウトサイダー』、新泉社
Simmel, G. 1890 Soziologische und Psychologische Untersuchungen,=1970、居安正訳、『社会分化論──社会学』、青木書店
『新・社会福祉学双書』総括編集委員会編  1998 『社会福祉概論T』(新・社会福祉学習双書 第1巻)、全国社会福祉協議会
―――――  1998 『児童福祉論』、(新・社会福祉学習双書 第9巻)、全国社会福祉協議会
―――――  1998 『社会福祉援助技術総論』、(新・社会福祉学習双書 第11巻)、全国社会福祉協議会
―――――  1998 『社会福祉援助技術各論T』、(新・社会福祉学習双書 第12巻)、全国社会福祉協議会
―――――  1998 『社会福祉援助技術各論U』、(新・社会福祉学習双書 第13巻)、全国社会福祉協議会
―――――  1998 『リハビリテーション論』、(新・社会福祉学習双書 第19巻)、 全国社会福祉協議会
潮谷 総一郎 1954 「養護施設における集団生活の弊害について──集団心理によるホスピタリスムスの解明」、『社会事業』、37-2、社会事業研究所
Siporin,M. 1980 ‘Ecological Systems Theory in Social Work’,Journal of Sociology and Social Welfare,7-4
Smiles,S. 1858 Self-help,with Illustrations of Character and Conduct,=1998、竹内均訳、『自助論』、三笠書房
Smith, A.  1776 An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations=1968、大河内一男訳、『国富論』
Smith,C.and White,S. ‘Parton, Howe and postmodernity:A critical comment onmistaken identity’, The British Journal of Social Work,27-2,British Association of Social Workers.
副田 義也  1966 「専門社会福祉事業論」木田他編[1966:218-272]
祖父 江孝男 編 1992 『人間を考える──学際的アプローチ』、日本放送出版会
Solomon,Barbara B. 1976 Black Empowerment:Social Work in Oppressed Communities,Columbia University Press.
園田 美幸  1996 『私も虐待ママだった──虐待連鎖を超えて』、悠飛社
孫 立亜   1996 「社会工作的専業化及社会工作教育在社会工作専業化過程中的作用」、亜洲及太平洋地区社会工作教育協会[1996]
宋慶齢基金会 編 1992 『宋慶齢選集』(上・下)、人民出版社
―――――  1987 『宋慶齢偉大光栄的一生』、中国和平出版社
Spector, M. and Kitsuse, J.I. 1977 Constructual Social Problems=1990、村上直之・中河伸俊・森俊太訳、『社会問題の構築──ラベリング理論をこえて』、マルジュ社
Spencer, H. 1861 Education,Intellectual,Moral and Physical=1955、岡本仁三郎訳、『スペンサー 教育論』、玉川大学出版部
須田 雅之・究極 Q太郎+神長 恒一(聞き手) 1998 「養護学校は、やっぱ、あかんねんか?」、『現代思想』、26-2、青土社 
杉本 貴代栄 1993 『社会福祉とフェミニズム』、勁草書房 
杉本 照子  1969 「訳者あとがき」、Robinson[1934=1969]
杉野 昭博  1991 「イギリス社会福祉学における制度的再分配論のゆくえ──『相対的貧困』『剥奪』『社会的公正』」、『社会福祉学』、32-2、日本社会福祉学会
―――――  1992 「ノーマライゼーションの初期概念とその変容」、『社会福祉学』、33-2日本社会福祉学会
―――――  1994 「社会福祉と社会統制──アメリカ州立精神病院の『脱施設化』をめぐ って」、『社会学評論』、45、日本社会学会
―――――  1995 「福祉のポストモダン──80年代福祉改革の底流」、『関西大学社会学部紀要』、27-2、関西大学社会学部
住谷 馨・右田 紀久恵 編 1973 『現代の地域福祉』、法律文化社
炭谷 茂   1991 「コミュニティー・ケア」、大山他編[1991]
Summit, R.C. 1983 ‘The Child Sexual Abuse Accommodation Syndrome’,Child Abuse & Neglect, 7.
鈴木 浩二  1964 「サイキアトリック・ソーシャル・ワークの理論的究明と展開」,『ソーシャル・ワーカー』、5、日本ソーシャルワーカー協会 
鈴木 邦子 1959 「座談会」における発言、伊藤他[1959]
Swigart, J.  1991 The Myth of the Bad Mother, Doubleday , New York.
社会保障研究所 編 1989 『社会政策の社会学』、東京大学出版会
社会事業研究所 編 1954 『ホスピタリスムス研究 ─その予防及び治療対策への考察』、  全国社会福祉協議会



田端 博邦  1988 「福祉国家論の現在」、東京大学社会科学研究所編[1988]
高橋 重宏  1987 「社会福祉専門教育と研修に求められるもの──社会福祉士、介護福 祉士養成に期待するもの」、『社会福祉研究』、41、財団法人鉄道弘済会
―――――  1989 「提言・解説」、『月刊福祉 増刊号』、72-7、全国社会協議会
高橋 史朗  1991 「誰が『児童の権利』を守るのか」、『文芸春秋』、11月号、文藝春秋社=1992、『現代のエスプリ』、304、至文堂
高沢 武司  1971 「社会福祉行政と社会福祉労働」、『社会福祉研究』、9、 財団法人鉄道弘済会
高島 巖   1933 「児童虐待防止法と児童擁護協会の活動」、『社会事業研究』、21-12、大阪社會事業聯盟
―――――  1953 『子に詫びる』、東洋経済新報社 
―――――  1954 「ホスピタリスムスという名のテーマ──『読書能力の面から見た施設収容児童の在り方』を序言として」、『社会事業』、37-4、 全国社会福祉協議会
―――――  1955 「施設保母の呼称問題について──堀文二先生の所論についてT氏よりの手紙に対する返書」、『社会事業』、 38-7、全国社会福祉協議会
高島 進   1973 『現代の社会福祉理論』、ミネルヴァ書房
―――――  1986 『社会福祉の理論と政策──現代社会福祉政策批判』、ミネルヴァ書房
武川 正吾  1989 「『福祉国家の危機』その後」、社会保障研究所編[1989]
竹村 典良  1997 「刑罰と福祉のエピステモロジー(科学認識論)」、『犯罪社会学研究』、22、犯罪社会学会
竹内 愛二  1936 「ケース・ウォークの職能と其遂行過程の研究」、『社会事業研究』、24-1、大阪社會事業聯盟
―――――   1938a 「斷種法の研究」、『社会事業研究』、26-6、大阪社會事業聯盟
―――――   1938b 『ケース・ウォークの理論と實際』、巖松堂書店
―――――   1949 『ケース・ウォークの理論と實際』、巖松堂書店
―――――   1955a 『科学的社会事業入門』、黎明書房版
―――――   1955b 「性問題の理論的一考察」、『社会事業』、38-7、全国社会福祉協議会
―――――   1959 『専門社会事業研究』、弘文堂
―――――   1961 「社会事業の専門的性格と機能」、『ソーシャル・ワーカー』、2、日本ソーシャルワーカー協会 
―――――   1964 「精神医学とPSWとの谷間」、『ソーシャル・ワーカー』、5日本ソーシャルワーカー協会
Talbott,J.A. 1979 Deinstitutionalization:Avoiding the disasters of the past, Hospital and Community Psychiatry. 
玉井 収介  1954 「施設と家庭──ホスピタリスムスの分析から一般家庭児をみる」『社会事業』、37-4、全国社会福祉協議会
田村 健二  1985 「家庭内児童虐待の実態」、『教育と医学』、33-9、教育と医学の会
田村 直臣  1911 『子どもの権利』、警醒社書店
田邊 泰美  1991 「英国児童虐待研究 その1──虐待調査報告とは何か」、 『佛教大学大学院研究紀要』、19、佛教大学学会
―――――  1992 「英国児童虐待研究 その2」、『佛教大学大 学院研究紀要』、20、佛教大学学会
―――――  1998 「英国児童虐待研究 その10──英国の児童虐待防止の現状と課題:リスク・アセスメントの功罪?」、日本社会福祉学会第46回全国大会配布資料
谷川 貞夫  1949 『ケース・ウヮーク要論(改訂版)』、中央社会福祉協議会
―――――  1950 「ケース・ウヮーク概説」、四宮恭二他編[1950:5-32]
―――――  1954a 「社会事業における科学性の進展と技術──『人間関係』『グループダイナミックス』『カウンセリング』『非指示的療法』」、『社会事業』、37-2:3-6、社会事業研究所 
―――――  1954b 「ホスピタリスムス研究(二)──その予防及び治療対策への考察」、『社会事業』、37-9、全国社会福祉協議会
田代 不二男 1955 『社会福祉学概説』、光生館
田代 不二男 編訳 1974 『アメリカ社会福祉の発達』、誠信書房
立岩 真也  1995a 「『出て暮らす』生活」、安積他[1995]
―――――  1995b 「はやく・ゆっくり──自立生活運動の生成と展開」、安積他[1995]
―――――  1997 『私的所有論』、勁草書房
―――――  1998 「分配する最小国家の可能性について」、『社会学評論』、49-3、日本社会学会
Taylor-Gooby, P. 1994 ‘Postmodernism and Social Policy:A Great LeapBackwards ?’,Journal of Social Policy,23-3,Cambridge University Press.
寺崎 弘昭  1996 「<子ども>と<教育>というアポリア──眺望台としての17世紀近代市民社会理論」、『現代思想』、24-7、青土社
Thoburn, J. 1991 ‘The Children Act 1989;Balancing Child Welfare with the Conceptof Partnership with Parents’, Journal of Social Welfare and Family Law , 5,Sweet & Maxwell.
Thomas, K. 1983 Man and the Natural World:Changing Attitudes in England 1500-1800= 1989、山内昶訳、『人間と自然界──近代イギリスにおける自然観の変遷』(叢書・ウニベルシタス 272)、法政大学出版局
東京大学社会科学研究所 編 1988 『転換期の福祉国家(上)』、東京大学出版会
徳岡 秀雄  1993 『少年司法政策の社会学──アメリカ少年保護変遷史』、東京大学出版会
鳥光 美緒子 1995 「ポストモダンと教育学」、『教育哲学研究』、71、教育哲学研究会
Touraine, A. 1969 La post-industrielle=1970、寿里茂・西川潤訳、『脱工業化の社会』、河出書房新社
土屋 恵司  1991 「英国1989年児童法」、『青少年問題』、38-8、青少年問題研究会
土屋 貴志  1992 「障害が個性であるような社会」、森岡編[1992]
津田 玄児  1993 『子供の人権新時代』、日本評論社
Turner,F.(ed.) 1986 Social Work Treatment(3ed.),Free Press
Turner, J. 1980 Reckoning with the Beast:Animals,Pain,and Humanity in the Victorian Mind=1994、斎藤九一訳、『動物への配慮─ヴィクトリア時代精 神における動物・痛み・人間性』(りぶらりあ選書)、法政大学出版局
津崎 哲郎  1980 「英国児童福祉サービス統合の試み──1969年児童青少年法の成立と展開」、『ソーシャルワーク研究』、6-2、相川書房
―――――  1981 「戦後英国における家族福祉サービス構想と社会福祉再編成──児童福祉における予防的介入志向をめぐって」、『季刊・社会保障研究』、17-2、社会保障研究所
―――――  1982 「児童のケアに関する公式調査(カーティス)委員会の背景をめぐる若干の考察」、『研究紀要』、1、大阪市立大学社会福祉研究会
―――――  1984 「戦後英国ソーシャルワーク発展に果たした地方自治体児童部の役割」、『四条畷学園女子短期大学 研究論集』、18、四条畷学園女子短期大学
―――――  1985 「戦後英国地方自治体社会福祉再編成に関する一考察──コベントリ市社会福祉部の施策・実務報告書を素材として」、『四条畷学園女子短期大学 研究論集』、19、四条畷学園女子短期大学
―――――  1986 「戦後英国におけるソーシャルワーク発展の基本構造に関する一考察(その四)──専門職協会の発展と役割」、 『四条畷学園女子短期大学 研究論集』、20、四条畷学園女子短期大学
―――――  1987 「戦後英国ソーシャルワーク発展の基本構造(Y)──専門職教育研修の展開」、『四条畷学園女子短期大学 研究論集』、21、四条畷学園女子短期大学
―――――  1992 『子供の虐待』、朱鷺書房
中央社会福祉審議会 職員問題専門分科会起草委員会 1971 『社会福祉職員専門職化への道──社会福祉専門職員の充実強化方策としての「社会福祉士法」制定試 案』、全国社会福祉協議会



上田 敏  1983 『リハビリテーションを考える──障害者の全人的復権』、青木書店
上田 敏・大川 弥生 1998 「リハビリテーション医学における障害論の臨床的意義」、『障害者問題研究』、26-1、全国障害者問題研究会
内田 隆三  1996 『さまざまな貧と富』(21世紀問題群ブックス、21)、岩波書店
―――――  1996 「知の社会学のために──フーコーの方法を準拠にして」、井上他編[1996a]
―――――  1997 「権力のエピステーメー」、井上他編[1997]
内山 絢子  1997 「調査報告から見た我が国の児童虐待の実態と今後の課題」、『子ども社会研究』、3
右田 紀久恵 1995 『地域福祉総合化への途──家族・国際化の視点を踏まえて』、ミネルヴァ書房
上野 加代子 1996 『児童虐待の社会学』、世界思想社
上野 加代子・Pelton,L.H.・Gil,D.G.  1998 「アメリカにおける児童虐待・放置対策の陥穽:無視された経済的要因」、『社会福祉研究』、71、財団法人鉄道弘済会
上武 正二  1954 「損なわれた家庭とは何か」、『社会事業』、37-4、全国社会福祉協議会
牛窪 浩   1954 「少年犯罪者の家族的背景」、『社会事業』、37-9、全国社会福祉協議会
浦辺 史   1973 「社会福祉労働者の課題」、「福祉問題研究」編集委員会[1973]
瓜巣 憲三  1954 「ホスピタリスムスの発生とその対策について」、『社会事業』、37-6、 全国社会福祉協議会



Wallen,J. 1982 ‘Listening to the Unconscious in case material:Robert Langs' Theory Applied ',Smith College Studies in Social Work,52-3 
Ward,L.F. and Sumner,W.G.  1975 Dynamic Sociology=1975、後藤昭次・本間長世訳、『社会進化論』(アメリカ古典文庫 20)、研究社出版
鷲谷 善教  1978 『社会福祉労働者──社会事業従事者 改題増補』、ミネルヴァ書房
渡部 一高  1936 「社會實驗室としてのセツルメント」、『社会事業研究』、24-10、大阪社會事業聯盟
渡辺 かよ子 1988 「A.フレクスナーの高等教育思想に関する考案──専門職化と大学の研究機能の関連を中心に」、『日本の教育史学』、31
渡辺 由美子 1989 「児童の権利条約と児童家庭行政の国際化」、『月刊福祉増刊号』、72-7、全国社会福祉協議会
Webb,D. 1996 ‘Regulation for Radicals:The state,CCETSW and the academy,in Parton, N.(ed.)[1996]
Whittaker,J.K. 1986 ‘Integrating Formal and Informal Social Care:A ConceptualFramework’,The British Journal of Social Work,16,British Association of Social Workers.
Wilkinson,K.P. and Ross,P.J. 1972 Evaluation of the Mississippi AFDC Experiment, The Social Service Review,46-3,The University of Chicago Press.
Wilson,G. 1997 ‘A Postmodern Approach to Structured Dependency Theory’,Journal of Social Policy,26-3,Cambridge University Press.
Winn, M. 1981 Children without Childhood=1984,平賀悦子訳、『子ども時代を失った子ども達』、サイマル出版会
Wohl, A.S. 1978 ‘Sex and the Single Room’,Wohl, A.S. (ed.)[1978].
Wohl, A.S. (ed.) 1978 The Victroian Family,London:Croom Helm.
Wolfensberger,W. 1972 The Principle of Normalization in Human Services,Tronto:National Institute on Mental Retardation=1982、中園康夫・清水貞夫訳、『ノーマリゼーション──社会福祉サービスの本質』、学苑社
―――――  1994 A Brief Introduction to Social Role Valorization,=1995、冨安芳和訳、『ソーシャルロールヴァロリゼーション──ノーマリゼーションの心髄』 学苑社
Wolff, L. 1988 Postcards from the End of the World=1992、寺門康彦訳、『ウィーン一八九九年の事件』、晶文社
Woodroofe, K. 1961 From Charity to Social Work in England and the U.S.=1977、三上孝基訳、『慈善から社会事業へ』、中部日本教育分化会



山辺 朗子  1994 「ケースワークの援助過程」、大塚他編[1994]
山室 軍平  1922 「兒童虐待防止運動」、『社会事業』、6-5、社会事業協会
山崎 道子  1977 「ケースワークに対する批判をめぐって──有効な援助の方向を目指し て」、『ソーシャルワーク研究』、3-1、相川書房
―――――  1980 「ケースワークの動向とケースワーク理論の七つのアプローチ」 『ソーシャルワーク研究』、5-4、相川書房
山崎 美貴子 1968 「問題家族に対するケースワークの役割と課題──再びパールマンの問題提起をめぐって」、『明治学院論叢』、137、明治学院大学
山下 重一  1976 『J・S・ミルの政治思想』、木鐸社
矢野 智司  1995 『子どもという思想』、玉川大学出版部
亜洲及太平洋地区社会工作教育協会・中国社会工作教育協会 1996 『発展 探索 本土 化──華人社区社会工作教育発展研討会論文集』、中国和平出版社
横須賀 俊司 1996 「ノーマライゼーションに求められるもの──多元主義の思想」、『社会福祉学』、37-1、日本社会福祉学会
米本 昌平  1989 『遺伝管理社会──ナチスと近未来』、弘文堂
吉田 久一  1974a 「現代社会福祉事業理論の系譜」、『社会福祉学』、15、 日本社会福祉学会
―――――  1974b 『社会事業の歴史』、一粒社
―――――  1990 『改訂増補版 現代社会事業史研究』(吉田久一著作集B)、川島書店
―――――  1994 『全訂版 日本社会事業の歴史』、勁草書房
―――――  1995 『日本社会福祉理論史』、勁草書房 
吉田 生   1936  『東京朝日新聞』
吉田 恒雄 編 1998 『児童虐待への介入──その制度と法』、向学社
Younghasband,E. 1959 Report of the Working Party on Social Workers in the LocalAuthority Health and Welfare Service,HMSO
―――――  1978 Social Work in Britain 1950-1975=1984、本出祐之監訳、『英国ソーシャルワーク史 1950-1975(上、下)』、誠信書房 
養護技術誌上討論 1959 「養護と職員の人権」、『社会事業』、42-10、全国社会福祉協議会 



財団法人鉄道弘済会 弘済会館編 1972 『シンポジウム'73 社会福祉の専門職とはなに か』、財団法人鉄道弘済会


UP:1999
三島 亜紀子  ◇Archive
TOP HOME (http://www.arsvi.com)