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「障害者男性のセクシュアリティをめぐって」

倉本 智明

last update: 20151221


障害者男性のセクシュアリティをめぐって

倉本智明

『MEN'S NETWORK』1999年1-2月号,メンズ・センター(MEN'S CENTER JAPAN)


■性に悩む障害者男性たち

 「ここ札幌はあいにくの雨模様。今日、僕はほとんどの男性が二十歳前後に突破する壁にいどむべくすすき野を訪れた」。こんな書き出しで始まる投稿文が、兵庫県下のある障害者団体が発行するニューズレターに掲載されたのはいまから6年ほど前のことだ。書き手は、電動車いすを利用する脳性マヒの男性。後に起こる健常者フェミニストをも巻き込んだ論争のきっかけとなったこの文章には、当時29歳だった彼がソープランドで経験した初めての性体験の模様が赤裸々に綴られていた。
 「本当は僕も前からむっちゃ好きな片思いの女の子がいて、その子にも申し訳ない気がするし、その他いろいろと後ろめたいことはあるにはあるが、やりたいものはしょうがないではないか」。ソープへと足を運ぶに至ったわけを彼はこのように記す。実際に風俗店へとむかうかどうかは別として、こうした思いを抱く障害者男性は決して少なくないように思われる。後の論争では、だからといって買春が容認されるのかといった方向に議論が傾く。だが、性の商品化云々といった問題以前の話として、問われなければならない事柄があるように思える。彼らは、どうして風俗店へと足を向けざるを得ないような渇きのもとにおかれてしまったのだろうか。
 性的なコミュニケーションの機会の確保といった問題に限らず、性に関わる悩みを抱える障害者男性は少なくない。たとえば、脊髄損傷など男性器の勃起不全といった性機能の損傷をともなう障害をもつ男性の場合、その多くが受障直後、自分が「オトコでなくなった・・」との思いに打ちひしがれるという。トム・クルーズ主演の映画「7月4日に生まれて」にも、ベトナムで負傷し障害者となって帰還した主人公が、「もとのようにセックスできるようにしてくれ」と涙混じりに吐くシーンが登場する。映画では、主人公は次第にペニスの呪縛から解き放たれ性的存在としての自分に自信を取り戻していく。しかし、現実の脊損男性のなかには、そこへと至ることなく悩み続ける者もいる。

■「はたらきかけ」の対象としての障害者の性

 男女を問わず日本の障害者が、自身のセクシュアリティ二関わるこうした事柄について語り始めたのはここ20年ばかりのことである。1970年代、あらゆる社会的抑圧に抗して障害者らが組織したラディカルな運動のなかでそれは可能となった。これ以前、障害者が自らを性的存在として語ることはタブーだったのである。
 それはしかし、障害者の性そのものがそれまで語られてこなかったということではない。障害者の性をめぐっては、既に19世紀以来100年以上にもわたる議論の歴史がある。ただし、つい最近まで、そのことについて語ることはいわゆる「専門家」にのみ許される特権だった。それはまず、遺伝性の障害をもつ者が「劣等」な子孫をもうけることで、人類あるいは国民全体の質が低下することを危惧した医師らによって語られ始めた。一昨年、その実態が暴露され日本のマスコミをもにぎわしたスウェーデン等における断種手術の問題を思い起こしていただきたい。優生学的な見地に基づく生殖の管理という思想は、今日に至るまでなお生き続けている。ただ、出生前診断による胎児の選択というより「洗練」された方法の登場にともない、生殖管理といった観点からの障害者の性への言及は徐々にその比重を小さくしつつある。
 一方、これに代わって目立つようになってきたのが、損傷を受けた性機能の回復や代替のための治療法に関わる研究・発言である。とりわけ、男性のそれに関わるものが目立つ。昨今のバイアグラ・ブームからもうかがい知れるように、多くの男性は、セックスとは勃起したペニスをヴァギナに挿入し射精することを必須要件とする行為だと考えている。障害者にとってもそれは同様で、そうであるがゆえにトム・クルーズ扮するベトナム帰還兵は思い悩んだのである。そうした理解が男たちに共有されている限り、この手の言説は増殖し続ける。
 また最近では、上肢に障害をもつ者へのマスターベーションの「介助」をどう考えるか、あるいは、性的なコミュニケーションについて知的障害者にどう教えるか、といったことが福祉や教育に携わる人びとのあいだで議論され始めている。これらをも含め、「専門家」らによる障害者の性への言及に共通してみてとれる特徴は、それが自分たち「専門家」による「はたらきかけ」を絶えず必要とするものだとの認識だ。彼ら/彼女らは、障害者の性をそのようなものとして考えるが故に、そのことについて言及し議論してきたのである。

■癒しへの二つの処方箋

 しかも、性教育に関しては例外がみられるものの、そこで提供される処方箋にはあるひとつの傾向が認められる。「男とはかくかくしかじかというものだ」といった常識をあらかじめ受け入れた上で、どうすれば障害者男性がそこに近づくことができるのかといった発想だ。「はたらきかけ」の主体である「専門家」のほとんどは健常者である。彼ら/彼女らは、暗黙裏に自身の身体を問題の前提として織り込んできたのである。先にふれたセックスをめぐる常識はその典型と言えよう。
 もちろん、実際にそういったかたちで癒しを得ることのできる障害者男性はいるのかもしれない。けれど、それが唯一の処方箋なのだろうか。第一、そうだとしたらどのようにしたところで取り残されてしまう者があまりに多くはないか。どう治療したところで勃起しないペニスというものはあるだろうし、男らしくふるまうことでパートナーを得ようにもそのようにふるまうことを許さない身体というものがある。いまひとつの処方箋を求める彼らに、「専門家」らはなにも応えようとはしない。
 ところが、健常者男性のふるまいを真似ようにもそんなことなど到底できっこないような重度障害者のなかにも、性をめぐる渇きや葛藤から遠く離れてくらす者がいる。たとえば頚椎損傷のある男性は、健常者男性が示す「男らしさ」とは対極に位置すると思われる自身のふるまいのなかに、ある種の女性に強くアピールするものがある旨を語っている。彼はまた、障害者には障害者独自の健常者とは異なる快楽のチャンネルが用意されているとも述べている。「専門家」らが書く処方箋とはまったく異なるもうひとつの癒しの処方箋の存在を、彼の語りは示唆しているように思われる。



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