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スウェーデン王立科学アカデミーが〈厚生経済学への数々の貢献ゆえに〉1998年のノーベル経済学賞をアマルティア・センに授与すると発表したのが,昨年の10月14日のこと。このニュースはまたたくまに世界中に広がり,日本のマスメディアも好意的に報じた。そして紹介役の1人をつとめてきたに過ぎない私にまで,新聞社から受賞の意義に関する原稿の依頼が舞い込んできた(《朝日新聞》10月28日夕刊の文化欄に掲載)。執筆の準備段階で何よりも痛感させられたのが,インターネットの威力である。すなわち,受賞の件はいち早く知人からの電子メールが教えてくれたし,報道機関向けの受賞理由の説明文は彼女の指示どおりノーベル賞の公式ホームページ★1からダウンロードでき,さらにそこからのリンクを通じて生国インドの地方紙(IndiaTimes,Deccan Herald,Times of India,India Today等々)のホームページまでたどりつけたというわけだ。
ニューヨークのホテルに宿泊中のセンが当日早朝の電話のベルで起こされ〈すわ,非常事態の発生か〉と慌てたことや,我が子の受賞を知らされた母アミタ(87歳)も〈息子はこれまで何度もノーベル賞の下馬評にあがっており,そのたびに期待を裏切られてきた。だから正式の通知を見るまでは信じない〉と言い張ったこと。さらに19歳のセンが喉頭ガンの疑いをかけられ,〈あと5年ほどの余命〉と医者から宣告されたものの,転地療法をかねた国外留学先(イギリスのケンブリッジ大学)で誤診と判明し,健康を回復して学業を成就できたとのエピソード。インドの大学で比較文学を教えている最初の妻ナバニータがセンとの馴れ初めを語った,心温まるインタビュー。今も年末には母の住む故郷シャンティニケタンに帰り,旧友や村人との親しいつきあいを続けていること……などなど。ローカルな話題が写真入りで手に取るように読めるではないか。
日本国内では,武蔵大学経済学部の学生が〈ノーベル経済学賞受賞関連情報〉HP★2を開設し,私も重宝させてもらった。また1人だと見落としがちな新聞・雑誌の記事については,センを研究している若い友人たちがメールで教えてくれた。さらに翻訳の件で本人からのメールも届いた。先進国にも途上国にも当てはまる〈全世界的な福祉〉(World-Wide Well-being=WWW)の理論を探究してきたセンの魅力が,ネット上のWWW(World Wide Web)で味わえるありがたさに,つくづく感謝した次第である。
今年になっても,必要に応じてサーチエンジンでセン情報を検索し続けている。そこで何と,小渕恵三首相までもが演説で再三センを引用していることが分かって驚いた。まずは昨年12月2日に東京で開かれた〈アジアの明日を創る知的対話〉集会の開会挨拶の一節★3。アジアの経済危機を乗り越えるためには,勇気や創意,思いやりや協力といった〈人間中心の対応〉が必要だとする持論を裏付けるものとして,センの開発=発展理論が引き合いに出される――〈最近ノーベル経済学賞の受賞が決まったインドのアマルティア・セン教授も,《発展の過程とは,財及びサービスの供給拡大の過程ではなく,人間の能力(capability)の向上の過程である》と述べておられます〉と。また自ら召集した〈21世紀日本の構想〉懇談会の1回目の集まり(本年3月30日)で,〈国の品格〉の大切さと,〈利己〉と〈利他〉のバランスのとれたものの考え方の必要性とを訴えた首相は,センの名を高めた論考〈合理的な愚か者〉に言及している★4。すなわち〈セン教授が,《ラショナル・フールズ》と題する論文の中で,《利己主義的な人間像に欠けているのは,他者へのシンパシーとコミットメントである》と主張されていることは,私自身,強く同感するところであります〉と。
小渕氏の理解はいささか的を外しているきらいがあるのだが,それにしても一部の専門家の注目しか集めてこなかったセンの存在が広く知られるようになったことは,歓迎すべき事態だろう。そこで文末に,昨年10月来インターネットからたくさんの情報をもらってきた恩返しのつもりで,日本語で読めるセン関連文献を列挙しておく。遺漏があればお知らせ願いたい。
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最新刊の訳書《不平等の再検討》の紹介に移ろう。原書は,1988年4月のクズネッツ記念講演(イェール大学)を下敷きにして1992年に出されたもの。センのそれまでの仕事の中に位置づけるとすれば,タナー講義〈何の平等か?〉(1980年,《合理的な愚か者》★5所収)で打ち出された〈基本的なケイパビリティの平等〉論と《福祉の経済学》★6における〈ケイパビリティ・アプローチ〉に,デューイ講義〈福祉・行為主体・自由〉(1985年,未邦訳)での自由論を組み合わせたのが,この本だと言えるだろう。
まず中心概念であるケイパビリティだが,訳者も認めているように〈潜在能力〉という従来の訳語はどうもしっくりこない。〈何の平等か?〉では,財や資源(人が生活をいとなむための手段)の平等でもなく,効用(結果として感じる満足度)の平等でもなく,基本的な生活条件を達成できること(行きたいところに移動できる,衣食住のニーズを満たせる,社会生活に張りをもって参加できるなど)の平等をこそ目指すべきだという文脈で,〈基本的なケイパビリティの平等〉が提唱され,《福祉の経済学》でも,どれだけの財貨を持っているかでもなく,どれくらいの効用を感じているかでもなく,その人が発揮できる〈ファンクショニング〉(機能ないし生き方)の集合という意味での〈ケイパビリティ〉でもって当人の福祉(暮し向きのよさ)を評価するというアプローチが展開された。しかも別の論文でセンが,〈個人のケイパビリティを規定する要因の中には,個人の特性ばかりでなく社会の仕組みも含まれている〉と注意しているのだから,もっぱら個人の特性を連想させてしまう〈潜在能力〉では誤解を招く。少々砕き過ぎでも〈生き方の幅〉と訳し直したいところだ。ためしに次の私訳と本訳書の該当部分(59-60頁)とを読み比べてもらうといい。
個人の福祉は,その人が生きてあることの質(いわば〈良さ〉)という観点から調査できる。生活とは,相互に関連した〈機能ないし生き方〉(ある状態になったり,何かをすること)の集合からなっていると見なしてもよかろう。(……)ここで主張したいことは,個人の生活は複数の機能によって‘構成’されており,各人の福祉の評価はこれらの構成要素を査定する形をとらねばならないということである。機能の概念と密接に関連しているのが,機能を発揮する上での‘生き方の幅’である。これは,人が達成できる複数の機能(状態および行為)の組合せを表している。したがって生き方の幅は,あれこれのタイプの生活を送れるという個人の自由を反映した機能のベクトルの集合に等しい。(‘ ’で囲んだ部分は原文イタリック。以下同)