「男性障害者のセクシュアリティ」
横須賀 俊司
『リハビリテーション』No.410、1999年、32-34頁
last update: 20151221
男性障害者のセクシュアリティ
横須賀俊司
『リハビリテーション』No.410、1999年、32-34頁
先日、大阪頸損連絡会から講演をしてほしいという依頼を受けた。テーマは「障害者と性」について。定例の勉強会の一環だという友人の言葉から、男性の頸髄損傷者(以下、頸損者)が最も気になる性機能を中心に話を進めればいいと勝手な判断を下した。これなら過去に少々調べたことがあるので、そんなに手間はかからない。それに内輪での話だから、最悪の場合、頸損者としての自分の体験談でもすればいいか、とも思った。それに友達からの依頼でもあるから、無下に断るのも悪いと思って軽いノリで引き受けた。
数日後、私の研究室の電話が鳴った。朝日新聞の記者だという。どういういきさつかは知らないが、例の講演の「宣伝」を書くために、私の名前や年齢を確認するためにかけてきたらしい。「新聞に「宣伝」を書いてもらうってことは、内輪の話とちゃう(違う)ってことか?どうも仰々しぃなってきたなあ。」
これに追い打ちをかける友人からの電話がきた。何と、参加費1000円を取って講演会をやるというのだ。「新聞に『宣伝』だして、参加費まで取るということは、完全に内輪での話とちゃう(違う)ということやないか!そうなると、話の内容も猥談程度では済まなくなってまうってことや・・・。こりゃあ、それなりの内容で話せんとあかんわ、参ったなあ。」
こういったわけで、それなりのお話しができるよう少しばかり障害者のセクシュアリティについて考え始めた。しかし、あまり時間がないので、自分の体験に基づいて考えられることがいい。そうなるとなると障害者一般のセクシュアリティにするのではなく、もっと限定して男性で、しかも頸損者についてのセクシュアリティしかないなということになった。これならまさしく私自身に引き付けて考えることができる。こうして私を含めた男性頸損者のセクシュアリティと向き合うことになった。
あれから何カ月かたったある日、本誌への原稿依頼があった。内容は自由に書いてもいいということであった。「車イスから眺める」という趣旨とは少し違うかもしれないが、あのとき考えたことを、この場を借りて、少しまとめてみることにしよう。
頸損者と他の障害者との決定的な違いの一つは性機能障害を伴うか、伴わないかにある。特に男性頸損者は性機能障害が著しく、勃起や射精といったことに影響が及ぶ。つまり、性交や生殖に問題が生じるということである。これに対して女性頸損者は男性ほどは影響を受けない。だから、性交もできるし妊娠や出産も不可能ではない。これは男性の性機能が陰部神経によって支配されているのに対して、女性のそれはホルモンによって支配されているという違いによるのである。
このような身体状況が男性頸損者の心に大きな影を落とす。自分は「ちゃんとした」セックスができるのだろうか、と。特に勃起をコントロールできるか、すなわち勃起したい場面でそれができるか、勃起したままある程度持続できるかといったことが重要な関心事となる。そして、それに対して多大なこだわりを見せるのである。頸損者になる前に性交体験があったりすると、余計にこだわってしまうことになる。実際、シリコンを注入して勃起できるような手術を受ける男性頸損者も存在しているのである。
このこだわりの裏には、性交のないセックスはセックスではないという重大な事実誤認が潜んでいる。あるいは、性交しなければ女性(ホモセクシュアルな男性頸損者もいるだろうが、ここではとりあえず異性愛指向者に限定しておこう)を性的に満足させることができないという大きな勘違いをしでかしているのかもしれない。
そもそも性交をしなくともセックスは成り立つものである。体に触れ合ったり、抱きしめ合ったり、唇を重ね合ったりすることで精神的な満足を得ることは十分可能である。そんな説明を女性からも聞いた記憶もある。どうしても性交にこだわるのであれば、体のいろいろな部分を使った「性交」だって十分有り得ることである。何なら器具を使ったっていい。
それにしても、「女性を満足させる」などという一方通行の考えは、相手を単なる受動的な存在としてしかとらえていない。女性だって能動的な存在でもある。男性も楽しんで満足し、女性も喜んで充実感を得るのがあるべき姿である。セックスとは双方(ひょっとしたらもっと複数もあるかもしれない)が楽しめるものでなくてはならないと思う。
しかし、なかなかこだわりを捨てることができないというのが現実である。そのために、男性頸損者は苦悩することになる。どのようにしても受傷する前と同じようには勃起しない。それにもかかわらず、勃起をコントロールすることができなければならないという強迫観念に取り憑かれているからである。その結果、ただでさえ障害者という健常者から転落した身分でしかないのに、さらに自分は男としても失格であるという烙印を受けなくてはならない。これでは二重の転落である(本当はどちらも転落でも何でもないのだが)。ここから抜け出す手立てを考えなくてはならない。
頸損者は障害者であって健常者ではない。健常者とは違う身体をもって生きているのである。そのために苦悩することが多々あるのも事実である(異なる身体をもっていることが原因ではなく、そのままで受け入れようとしない社会に原因があるのだが)。しかし、だからこそ、逆に男性頸損者は健常者の性的欲望や性行動から自由であることの可能性が残されているともいえる。勃起できないにもかかわらず、できるように願ったところで所詮はできないのである。これを健常者がイメージする方法で取り組んでもどうしようもないことがある。
それならば、いっそのことそれを逆手にとって健常者と違うセックスを創り出してしまえばいいのではないか。性交を重視しないセックスを創りあげて、これが俺たちのセクシュアリティだ、俺たちの文化だと胸を張ればいい。独自のセクシュアリティが思いつかないのであれば、少なくとも健常者のセックスにとらわれ、こだわることからは自由であっていいのである。
もちろん、前途は楽観的ではない。新たなものを創造するには相当な困難も付きまとう。しかし、そこに希望を見いだすことは十分可能である。さあ!男性頸髄損傷者諸君よ!一緒にチャレンジしようではないか!