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「容貌の自己受容──口唇口蓋裂の場合」

松本 学 1999 卒業論文
大阪教育大学障害児教育教員養成課程

last update: 20151221


容貌の自己受容──口唇口蓋裂の場合

 ※文字化けしている部分があります。著者よりその部分について情報を得た後
  再度掲載する予定です。(立岩 19990201)

大阪教育大学障害児教育教員養成過程4年
松本 学 (まつもと まなぶ)
1999 卒業論文

T 序論
1 問題提起
 疾患固有の顔を持つ人がいる。機能的に問題がないからという理由だけで、今までほとんど問題として取り上げられてこなかった。例えば口唇・口蓋裂、例えば血管腫。ことわざにされ、物語に取り上げられ、ということからも人生に大きな影響を与えるように思えるのに、今まで取り上げられることはなかった。本当に機能的な問題がなければいいのだろうか。顔は「美しさ」に大きく関わるところである。この点で、顔に疾患がおこるということは身体の他の部分の疾患と異なる意味を持つ。つまり、顔以外の疾患において、美しさということはほとんど問題にならないが、顔の疾患の場合、機能的な問題が生じなくても何らかの心理的問題が生じる可能性があるのだ。
 ただし、この心理的問題の原因は(よくあるように)直ちに疾患の程度に求められるわけではない。実際、顔の疾患の程度と心理的な問題の程度との間には直接の関係はないと報告されている。(Baker,1992;Macgregor,1990;Love et al.,1987;Malt&Ugland,1989)つまり、顔の疾患を気にするかしないかは、各人の心のあり方にもとめられそうなのである。顔にほんのわずかの傷があったとしても、とても気になって、外出する気もおきなくなる人もおれば、その反対に、周囲の人が困惑してしまうほどの重度の顔の疾患を持った人でも、社会的に適応している場合もあるということである。では、この違いをもたらすものは一体なにものであろうか。顔にこだわってしまう人とそうでない人と何が違うのであろう。
 ここで、真っ先に思い当たるものは、醜形恐怖であるが、醜形恐怖の場合、容貌に疾患固有性がない。本論で取り上げるのはあくまで疾患によって固有の容貌が生じている場合である。疾患固有の容貌を持つものが自身の容貌をどのように感じ、どのように他者の影響を受けて、その上で生き生きとした生を実現しているのか。また、生き生きとした生の実現のために障害となるものは何か。実際に当事者の言葉にあたって、その実態調査を試みたい。但し、固有の容貌といっても様々であるから、本論では固有の容貌を持つ疾患例として口唇・口蓋裂を取り上げる。
 口唇・口蓋裂は先天的奇形である。現在その発現頻度は母集団の人種・地域等で多少の幅があるが、日本人ではおよそ500〜600人に一人の割合といわれる。これは先天的奇形の中で比較的頻度の高いものである。これまで日本での口唇・口蓋裂に対するアプローチは、医学的なもの、言語療法的ななもの、親の会活動が見られる。
 ところが、親の会会報の親や本人の記事において、容貌に関する記事が多いにも関わらず、口唇・口蓋裂を持つ人における固有の容貌の心理的問題は、現在まであまり取り上げられていない1)。口唇・口蓋裂固有の容貌は、生まれたときに口唇や口蓋が開いたままであるこ
とから生じる。口唇や口蓋が開いていれば結果的に口や鼻などの顔の造作が固有になるの
である。生後2〜3ヶ月から開いた部位を閉じる手術を行なうことにはなるが、手術の傷痕は残り、顔の形は口唇・口蓋裂に固有のものになる。つまり、傷痕と、顔の形の変形という2側面で、「普通」とは異なった状態が生じる2)。
近い将来、彼ら自身の疾患固有の容貌に対する心のあり方の考察は、口唇・口蓋裂に限ら
ず固有の容貌を持つ人一般に起こりうる心理的問題にも敷衍されるものだろう。それゆえ、その第一歩として口唇口蓋裂の実態調査を行なうことにした。


2 用語の検討
 ここで再度本論の主題について確認しておきたい。「疾患固有の容貌」とは何らかの先天的または後天的疾患(奇形、外傷を含む)が原因で引き起こされる特徴的な容貌のことである。
 今回、筆者は「疾患固有の容貌」という言葉を使うべきであると提唱するのだが、では、今までに疾患固有の容貌という言葉の代わりにどのようなものが用いられて来たのかを概観したい。この分野における用語の一致はその当初の試みからして困難であったようで3、様々なものが見られる。幾つかの観点に整理すると、まず、医学用語には、奇形、欠損、facial anomalies, malformation等がある。しかし医学用語は難解で、当人を傷つける言葉ともなりうるので用いない。(例えば、本人が「奇形」と呼ばれたら、どう思うだろうか。)第二に障害であるということに視点を置いた用語には、顔のハンディfacial handicapがある。しかし、固有の容貌を持つ人すべてが、必ずしも顔にハンディ(社会的不利)があるとは限らない。第三は、新造語である。facial difference,visible difference,異形4などは新たに考えられた言葉である。「異形」は、「イケイ」という読みで「単なる形の違い、違ったすがた」を表わすとともに、「イギョウ」という読みでは「異様なすがた、普通でないあやしいすがた」を意味する。facial difference は「イケイ」に近い意味であろう。visible differenceの意味は、可視性――つまり人の視線――を介して容貌の差異が増幅されるということを捉えていて5)興味深いが、日本語に訳した時に可視性の相違、言い換えれば見た目の違い、見掛けの違いとなってしまう。この日本語訳は「見かけ倒し」とか「見た目が悪い」といった言い回しと通底し、誤解を招く恐れがある。
そこで本論では@善悪・良否などの評価の視点が入らない言葉であること、A分かりやすく、誤解されないこと。B顔だけでなく身体の疾患にも表現が応用できること、という三点を前提として、疾患が原因で特徴的な容貌であることを、「疾患固有の容貌」と表現することにした。
 以下にこれまで「疾患固有の容貌」を表わすために用いられてきた言葉を表にして挙げた。


表1 顔に関する用語の一覧
用語        意味
異形       「イケイ」 異なる形、違ったすがた
         「イギョウ」 異様な形、普通でないあやしいすがた(『新字源』)
奇形(畸形)   「奇」は「人並みでない」の意がある。
         「畸」も同様の意味あり。(角川『新字源』)

損なわれた容貌   損なわれたものと断言することは不可能である。

見掛け       外から見た様子、外観、うわべ(『岩波国語辞典))
          外観から受ける印象「見かけ倒し」

醜い人       評価の視点が入る。

見た目       目にうつる姿、様子(『岩波国語辞典』)「見た目が悪い」

目に見える形のハンディキャップ  必ずしもハンディとは限らない。

ルックス      Looks (略式)容貌、風采、美貌(GENIUS)

Abnormal (appearance) (しばしばけなして)異常な、例外的な(GENIUS)

Anomary      例外、変則、変わり種、不合理(GENIUS)

Craniofacial deformities  頭骨と顔の奇形(不具)、欠陥
              deformity:make ugly or misshapen (POD)

Defect       欠点、欠陥(GENIUS)

Difference     相違、違い、相違点(GENIUS)

Disfigurement   外観(形状、美観)を損なうこと、傷、欠点(GENIUS)
          disfigure:spoil the appearance of (POD)

Disorder     (心身機能の)不調、異常、障害、     (軽い)病気

malformation    faulty formation (POD)

stigma       差別的刻印、恥辱、不名誉

Visible difference 目に見える相違

*なお、表中の『岩波国語辞典』は『岩波国語辞典』第4版(1989、岩波書店)、『新字源』は『角川新字源』(1983、角川書店)、(GENIUS)は『ジーニアス英和辞典』改訂版(1994、大修館)であり、PODは“The Pocket Oxford Dictionary”(1996)である。

3 疾患固有の容貌が原因で起こる心理的問題
 では、疾患固有の容貌であることで、どのような問題がおこるのであろうか。現在までに、やけどや口唇・口蓋裂、血管腫など、顔の疾患をめぐってその心理的影響を研究した文献のなかで、ここでは、現在までに指摘されてきた心理的問題を口唇・口蓋裂を中心に取り上げる。
 まず、口唇・口蓋裂者は、対人間のやり取りが苦手である(Kapp,1979)。Noar(1991)は質問紙による調査で、口唇・口蓋裂者が異性との関係構築に困難を感じるとした。Lansdown(1981)によれば、口唇・口蓋裂児の青年期には家族以外の人から凝視されたり、誤解を受けたりという経験がある。さらに、他者との初対面が不得手であるということがいわれている(Kapp,1979)。
 Leonard(1991)によれば調査対象となった105人の口唇・口蓋裂児童の98%が、平均もしくは平均以上の自己イメージを持っていたが、青年女子(12~18歳)は少年女子(8~11歳)よりも自己イメージの評価が低く、青年男子は少年男子より肯定的な自己イメージを経験しているという。Broder&Strauss(1989)は7歳の口唇・口蓋裂児58名に自己概念の調査をした。すると統制群に比べて低い自己イメージ評価が得られた。固有の容貌のために彼らの自己概念(self-concept)は否定的である。Kapp(1979)も11~13歳の口唇・口蓋裂児34名に自己イメージ検査を行ない、口唇・口蓋裂の子どもは性別に関わらず、容姿に大きな失望をあらわすという結果を得た。また、口唇・口蓋裂の女子の方が不満や学校での不成功感、不安を報告した。Haper&Richman(1978)は、MMPIを用いて、口唇・口蓋裂と肢体不自由の子どもを調べ、口唇・口蓋裂児が行動上の深い抑制と対人関係における強い自意識と自己不信の感情をもつとした。Richman(1983)は口唇・口蓋裂群が社会的に適応しているが、固有の容貌との関連で社会的適応に問題があると認識しているとしている。また、青年期には社会的内向が言葉の心配よりも顔の心配と関係しておこるとしている。
 以上の報告から、口唇口蓋裂を持つ人々がいかに多くの問題を抱えるかということが分かってくる。

U 本論の目的と方法
 前項のような心理的問題を抱える人々はどのように生きていくのであろうか。日本において、口唇・口蓋裂を持つ人が生きていく上で、疾患固有の容貌の問題をどう捉えているかという点を実態調査しようと試みる。当人は何時ごろ自分の容貌を認識し、どうそれと関わってきたのか。疾患固有の容貌を持つことで、どういった心理的問題が生じるのか。何が原因で固有の容貌を意識したりしなかったりするのか。当事者本人の顔に対する心のあり方の推移を考察することで、数名の当事者の容貌に関する体験を理解しようと努めたい。また、心理的問題そのものを明らかにするよりも、様々な心理的問題がどうしておこるのか、そしてどのように解消していくのかということを援助の在り方に焦点を当てて、論を進めたい。そのため、起こりうる心理的問題を念頭において質問を作成し、数人の当事者に面接で聞き取りを行なった。
 面接で調査を行なったのは、質問紙調査では見えにくい心のゆれを捉えたかったからである。こうして面接で得た回答をもとに、様々な出版物にある本人の記録を併せて、考察を進める。
 具体的な方法は、以下の通りである。疾患固有の容貌に対する本人の心のあり方を実態調査するために、二つの方法を採用した。@口唇・口蓋裂を持つ人数名に聞き取りを行い、全体像を把握しようと試みた。情報の偏りを少しでも少なくするために、A既存の資料(親の会の会報記事、口唇口蓋裂を持つ人が発言している書籍等)を調査した。@については、近畿圏在住の社会的に適応していると思われる口唇・口蓋裂を持つ人(5名)、及びその母親(4名)と配偶者(1名)に対して、インタビューを行った。インタビューの内容は予め筆者が用意したものをインタビューの1〜2週間前に対象者に送付した。インタビューにはMD(Mini Disc)による録音を採用した。インタビューおよびその録音については予め本人の許可を得た。インタビューの項目は、思い付くことを出来るだけ構えずに述べてもらうために包括的な質問が用意された。各インタビューのあと、筆者がテープ起こしをし、インタビュー時の発言を整理した。さらに問題をいくつかの焦点にわけ、既存の資料にある患者の記述と合わせ、検討した。インタビューの場所は人気の少ない場所が使われた。

V 結果と考察

1 容貌の自己受容過程の仮説的モデル
 どうして固有の容貌を気にする人と気にしない人が出てくるのか。その違いは何か。記録や発言から、筆者はその違いの原因を疾患固有の容貌についての本人の心のあり方を考察することで明らかにしようと試みた。すると幾つかのあり方の違いが見受けられた。そこで、単に心のあり方の分類として整理するよりも、仮説的ではあるが、ひとつの受容過程の中でおのおののあり方を提示する方が心の動きがより明らかになると考えられた。(本来、受容過程を調査する場合は縦断調査によって行なうのが通例である。)また、本論の意図のひとつに疾患固有の容貌の問題の認知ということがあり、受容過程の仮説的モデルが援助の方法を探るにあたって大きな手がかりになると考えられたので、今回の調査の資料に基づいて、仮説的に容貌の自己受容の過程を構築する試みを行なった。よって、以下に提示する受容過程のモデルはあくまで仮説モデルである。
 以下は例示しながら順に詳しく見ていくことにする。なお、筆者の質問は括弧( )に括ってある。また、インタビューと区別するために、会報等の資料には出典を明記した。

(1)容貌に無自覚な時期
 口唇・口蓋裂の人の場合、疾患固有の容貌は先天的なものであった。しかし、今回の調査で口唇・口蓋裂の人が疾患固有の容貌に無自覚な期間が存在することがわかった。なお、無自覚の期間には個人差があり、今回の調査では明確にその期間を示すことが出来なかった。

幼稚園年長女子の母親 十周年記念文集(1986)pp.29−30
 子供は近所の友達に「Nちゃんのお口どうしてそうしているの」と聞かれて「Nちゃんどうしてこうしているのかわからへんもん」と返答していましたが、最近も外で遊んでいてお兄ちゃんに「お前の口きたないなあ」といわれたよと言っていましたがあまりたいして気にはしていないようです。

T.H (25歳 男性会社員)
 (他人からはどういう風に言われました?)ありますよ。それはずばり、口歪んでるとか、何や?とか、気色悪いとか。(言われ始めたのは?)小学校のころからですかね。低学年のころ。幼稚園はあまり記憶にない。

 最初の例では疾患固有の容貌について他人から尋ねられて返答に困っている。この時点ではまだはっきりとした顔の自覚がないと思われる。この状態がいつまで続くかは個人差があるが、今回の調査では、後者の例のようにおおよそはじめての社会参加である幼稚園から小学校入学くらいまでに疾患固有の容貌を自覚する例が見られた。これは、疾患固有の容貌の自覚は、他者による疾患固有の容貌の指摘がきっかけであることを示唆している。自覚以前はおおよそ家庭内で他者からの顔についての指摘なしに過ごしていると予想される。万一指摘されても、たいていの場合は両親が本人のかわりに質問に対応してくれる。更に、以下のように母親が口唇・口蓋裂の子どもを家の外に出さない傾向も影響しているだろう。

T.Hの母親(主婦)
 一年保育の幼稚園出すまでは、ほんとにあんまり外に出ませんでしたものね、もう幼稚園行くようになって仕方がないから出たって言う感じ。

H.Nの母親(教員)
 3歳くらいまではもうひたかくしに隠して、外にはほとんど出してはいません。(はい。)(ひたかくしに隠して。)だから3歳のときに幼稚園に入れるようにって、いわれたんですね、ことばの教室の先生から、(ええ)で、それが、地域社会に出す第一歩でしたね、

 では次に、このように家族によって守られている本人が、疾患固有の容貌を自覚する様子を見ていきたい。

(2)疾患固有の容貌を自覚する時期
 口唇・口蓋裂の持ち主は幼稚園や保育園への入園、小学校入学などによって集団生活に入ると友だち等から疾患固有の容貌について一方的に指摘されるようになる。調査では、穏やかに尋ねられるというよりは、一方的かつ断定的に指摘されたという記録が多く見られた。他者に指摘されることで、口唇・口蓋裂の人は初めて自分の顔についての説明をする必要に迫られる。また、説明をするために自分の顔を鏡等でよく観察し、他者の顔と比較する。ここに疾患固有容貌に対する自覚が形成される。

H,Nの母
 4歳の時くらいからね、やっぱりなんか「僕変な顔っていわれる、僕変な顔っていわれる」って、家でいうようになりましたね。

 4歳はH.Nが幼稚園に入園した歳であるが、その時からさっそく他者から顔のことを指摘されるようになる。以下の例もH.Nの場合と同様に小学校と社会に参加した時から「鼻ペチャ」と指摘されるようになっている。

小学2年生の母親 会報No.56号(1996.8.30)p.11
 去年入学して“はなペチャ”と人によく言われ、おまけに学童保育(他校へ行っている)でも言われ、懇談会とか親の集いに行って、生まれた時の状況等の説明して、学校のクラスで先生から生徒へ説明してもらって、学級全体で守ってもらった。2年になって、担任も新しく変わり、初めて“学校が楽しい”と言ってくれたことが嬉しかったこの4月です。

 ここで注意すべき点は、顔の自覚の契機が他者からの一方的指摘であるということである。自分が顔の差異に気付くより先に他者に差異を指摘される。このことは自己概念形成上重大な影響を及ぼす可能性が危惧される。つまり本人の顔のイメージは混乱し、混乱をもたらした他者との関わりに不安を感じ、自己イメージを健全に形成することが不可能になる可能性がある。先行研究でいわれている対人関係能力の低さ――対人間やり取りの苦手感、異性との関係構築の困難、初対面の苦手感など――の原因の一つがここにある可能性がある。

(3)苦悩の時期
 疾患固有の容貌を自覚することで苦悩が生じる。調査では幼年期から青年期にかけて幅広く苦悩が見られた。苦悩は大きく分けて否認と失望・怒りの形で表現されている。さて発言のなかから、否認の項にまとめたのは、まず疾患固有の容貌を一見気にしていないように見える態度――つまり苦悩が潜在化している場合である。さらに「疾患固有の容貌=個性」であるとして、顔について何も思わないとした例である。失望・怒りは感情が内向するか、外向するかの違いだけで、表裏一体のものであると考えられ、同一の項とした。否認、失望・怒りともに容貌についての苦悩が原因となっていることは共通である。
 ここで注意すべき点は、容貌についての悩みは一生続く可能性があるということである。しかし後述するように、疾患固有の容貌を容認してしまっている人の場合、苦悩の占める位置は少ないように思われた。よってここ取り上げる発言は疾患固有の容貌であることをいまだ容認していないと思われる人の苦悩である。
 さて、他者からの一方的指摘によってどのように苦悩が生じてくるか、苦悩の萌芽期の例を以下に2例あげる。

小学生男子 会報No.14(1982.11.28)p.3 
 ぼくはこうしんこうがいれつというびょうきだ。いつも「鼻ペチャ」といわれるけれどそんなこときにしない。お父さんもお母さんも「気にするな」。と言う。だから「鼻ペチャ」て言われても「うるさいなあ」と思いながら聞いている。でも心のおくではすごくはらがたつ。でも気にしたってどうにもならないから、ぼくは気にしない。言う人は自分が反対に言われたらどう思うのかな考えたことあるのかな。

Y.Y (小学男子、インタビューのY.Y) 15周年記念文集(1991)p.41
 Aの中のB君が、「あのタラコくちびる、この家に住んどる。」と言いました。僕のくちびるは、みんなのくちびると同じです。なのに、タラコくちびると言われてすごくいやでした。

 この二例では、他者からの指摘によって本人が怒りを覚えるようになっている。以下にあげる苦悩の例は、この二例のような状況から派生して生じたものと考えられる。

1)否認
 否認には二つのパターンが見られた。まず、疾患固有の容貌であることの苦悩を抑圧してしまっている場合をあげる。

中学2年女子の母親 会報No.47(1994.5.29)p.11
 娘は今矯正の時期です。ヘッドキャップをかぶって学校に行っていますが、何も言いません。小学校の頃はよくからかわれて、いつも学校から帰ると、私に「今日はこんなに言われた」とかいって泣いた事もありました。今は強くなりました。娘は今年、中二になります。

 この例で母親は娘が「強くなった」と書いているが、特にヘッドキャップは目立つものであるから何も言わないと言うのは不自然に思われる。この辺りから、感情を押し殺している様子が見えてこないだろうか。本人が、容貌のことや、ヘッドキャップのことをなにも言わないのには、別の理由もないだろうか。つまり、母親に援助を求めてもどうしようもないと考えている場合。また、本当は顔のことが気になるのだが、努めて顔のことを考えようとしていない場合。更に、将来手術によって劇的に容貌が「普通」になると期待する場合などが考えられる。H.Nの中学時代の例が参考になるので以下に示す。

H.Nの母親
 小さいときにね、もっときれいに、手術してもらったらきれいになるから、あの、手術してもらおうねって、育ててきたわけでしょ、で、中学校のときに手術をして、で、もう、あの、手術して、ま、ほんとにきれいになるかと思ってたら、あの、「こんなんやったんか。」って。まあ、息子がいったわけですよね。手術したらきれいになる、手術したらきれいになるっていって育ててきたのに、中学校で手術したときにこんだけしかきれいにならないんだったらね、あの、「きれいっていっても違うじゃない」って、だから、「もう僕はもう絶対手術しない、これからは。」っていったんですね。でね、何でおまえはこうやってこの顔で生きていくんやっていってくれなかったのかって、あの子は怒ったんですよ。

 このように、子どもの顔についての心配を考えて、母親などが手術に過剰な期待を抱かせるような発言をするのは、のちに子どもがより大きな失望をうけることからも注意を要する。中田(1998b)は「持って生まれたこの顔がこの子の顔だ。私は大好きだ。」というこころ構えが必要であると述べている。以下も苦悩を抑圧している例である。

幼稚園年中男子の母親 会報No.46(1994.3.27)p.7
 今、幼稚園の年中組で元気に友達と遊んでいます。夏に、家の鏡を見ていて「お母さん、ぼくの鼻つぶれている」と言った時にはドキッとしました。「赤ちゃんの時に、入院して先生にきれいにしてもらったから心配ないよ。」といいましたら、それ以後はなにも言いません。

会報No.52(1995)p.8
 六年生の女児ですが、口に出しては何もいわないのですが、鏡をじっと見ているときには少しつらいです。(まだ子供に本当のことを言っていないので)本人は明るく友達も多い方です。

 なお、口唇・口蓋裂であるという事実を本人に告げていない例も散見された。事実を本人に告げていないとしても、現実には容貌が疾患固有なのだから、本人は様々な疾患についての憶測をする。例えば18歳の女性は自身が口唇・口蓋裂であると言う事実を知らされていない時の心境を以下のように綴っている。

18歳女性 口唇口蓋裂 会報No.56 p.6
 本当のことを教えてもらえないことがなぜそんなに大変なのか、お話します。まず、子どもは世界で自分ひとりなのでは…と思い、誰にもわかってもらえず一人で悩んでしまいます。そして周りの人達から、鼻曲がりとか鼻の下の傷はどうしたの?などと言われたとき、自分でもなぜなのかわからないので言いかえすことができず、ただ我慢するしかないのです。

 疾患固有の容貌は、事実を知っていてもありのままに受け入れることが困難なものである。本人が事実を知らなければ、容貌に対する本人の苦悩は更に困難な道を辿るものと予想される。以下も疾患固有の容貌を無意識に否認している例である。

K.N(24歳、女性、会社員)
 (見た目という点では)そんなに、今はそんなに引っかからないけど、中学の時にはやっぱり、割とうちにこもる方、あんまり出て行かない方、一人で出て行くのはあるけども、みんなと一緒には出て行かない、(それは見た目の問題で、ということですか?)う〜ん、やっぱりね、どう言えばいいかなあ、ふふふ(ため息に似た笑い)、どうでしょう、どう言えばいいかなあ、う〜ん、、、、、、、、、どう言えばいいかなあ、、、

 彼女は疾患固有の容貌の問題についての質問に対して言いよどみ、直接の答えは出さず
に、中学校在学時には容貌のために引きこもり傾向があったことを述べる。しかし、彼女は、顔については気に病んでいたと明言しない。ここに容貌に対する無意識的な否認の意識があるのではなかろうか。別の発言を見てみると幾分彼女の否認意識が明らかにされる。

K.N
 (今の自分の顔についてどのように考えておられるでしょうか?)う〜ん、今ですか?、う〜ん、今はだいぶ治ったし、今別に普通に近い状態?うん。(中略)人よりは傷とか、鼻が低いとか、(はい?)鼻が低いとかそういうの、思ってたけども、別に後は普通なんで、しゃべってても割と話も通じるとか、そんなには、、、この、横の傷、横にある傷が取れないっていうんで、それが治ればもっといいかなと、、、、

 この発言での「普通に近い状態」は、普通そのものの状態ではないということを含意している。つまり彼女の場合も自分の容貌が疾患固有であるということを認識していることになる。ただし、この場合でも、傷が気になることを消極的に認めているに過ぎず、疾患固有の容貌というよりはむしろごく普通の容貌とさほど相違がないということを強調している。つまり彼女はありのままの自分の容貌を疾患固有の容貌と認めることに消極的なのである。
 否認でもう一つ見られたのは、「疾患固有の容貌は個性である」といって特に疾患固有の容貌であることを認めなかった例である。

Y.Y(高校3年男子)
(自分の顔について)特に何も思わない。
(異形であることは?)個性でしょう。

 高校3年男子の例である。この事例だけは文書で答えを頂いた。彼の主張は疾患固有の容貌が取りたてて論じるものではなく、一人一人の顔が異なるのと同じように、自分の顔もそういった顔のひとつであるということである。しかし、個性とは何だろうか。個性とはその人特有の性質、特質を表わす言葉である。疾患固有の顔が個性――単なる特質、性質と見なされるようになれば、これこそ望むべきことである。しかし疾患固有の顔を持つ人の現状は、容貌の自覚の項で述べてきたように、他者から一方的に決定的差異を指摘されてしまうのである。この現状を踏まえたとき、「顔=個性」と闇雲に唱えることは疾患固有の容貌であるという事実を隠蔽する惧れがあると思われる。もっとも「疾患固有の顔=個性的な顔」という主張のメッセージ性は重要であろう。顔の差異はどんな差異であっても(一般の差異も疾患固有の差異も)単なる差異であって、それ以上のものではないとなれば、これは疾患固有の顔の持ち主が望むことであろうから。
 以下は男子の母親の話である。

Y.Y(高校3年男性)の母親
 [本人の「特に何も思わない」について]うん、これはかなり強がって言ってますね。まったく何も思ってないわけじゃないんだけども、だけどこうやって聞かれたら、強い気持ちを出していこうということだと思いますよ。だから、自分がそれをずっと気にして、生きてるんじゃないっていうことをね、(中略)もう、まったく何も思わないわけじゃないっていう。やっぱり、鏡は見たりとか、してますし、、、、

 本人の答えと母親の答えを総合すると、自分の容貌について自分の気持ちとは別に、他人に自分の弱さ(容貌について悩んでいること)を見せないための「公式見解」(タテマエ)があるように思われる。このタテマエは、前述したように疾患固有の容貌を抱えている本人と他者がともに固有の容貌を「気にしない」こと、つまり顔の差異は単なる個性であるということを訴えるメッセージである。しかしタテマエを前面にだしたために、本人が顔のことをどう悩んでいるかということは隠されてしまっているのである。ここでは疾患固有の容貌を持って生きることの苦悩をありのままに表現することが出来ないのである。

2)悲哀・怒り
 次に苦悩のもうひとつの類型である悲哀と怒りをみていきたい。悲哀・怒りは本人が疾患固有の顔であることをしぶしぶ認めているが、納得はしていない状態であると思われる。特徴としては、疾患固有の容貌であることを哀しみ、失望し、疾患固有の顔が将来治癒する可能性を期待する、固有の顔を持つ自分の将来を悲観する、疾患固有の容貌に生まれるように宿命づけられた自分の存在の不条理性(「生まれてきたくて生まれてきたのではない」)を訴える等がみられた。

小学6年生女子の母 十周年記念文集「大空」(1986)p.32
 娘は来春中学生になります。唇裂の手術を二回致しましたが、傷は、はっきりわかり鼻も普通の人とは違います。娘も小さい時は、気にしていなかったのですが、この頃は鏡を見る機会もふえ、男の子に傷の事を言われたりすると、とても辛いらしく「私の傷はもう治らないの」と泣きながら私に聞きます。私は絶対にきれいに直るし、お嫁にもちゃんといけるから、心配しないでいいと、はっきり答えます。どんなに辛くても負けたら駄目、強くなろうね、そして、誰にも負けない優しい心を持った女の子になってねと、いい聞かせます。でも、私の心は涙でいっぱいです。

 この女子は鏡を見ることで、自分の顔が疾患固有のものであることを確認している。また、他者によって指摘されてもいる。母に「私の傷はもう治らないの」と迫る本人の悲哀は切実なものがある。自分の容貌に失望する人は、容貌の、特に傷の部分の治癒を期待する。この人の場合、その尋ね方から判断して、一生傷が消えないことにも気がついているようである。医学的に治ることは確かに望ましいことだが、現在の口唇口蓋裂の医学的治療で跡形もなく傷がなくなることは不可能である。母親も娘に「絶対きれいに治る」と断言していながら、内心では困惑している。
 以下も中学生の女性の例である。

中学女子 『平成2年〜4年の活動記録』(1997) p.75
 服装や髪型にも気を配る思春期になりました。先日、何かの拍子に「私は結婚しないでずっと家にいるからよろしく。」と言うのです。「どうして?」と聞くと「出来ないもの。」と答えます。「じゃあ、しっかり働いて下宿代いれてもらわなきゃ。」と笑い飛ばしましたが、胸の奥がキリキリ痛みました。唇裂口蓋裂については隠さず年齢に応じて話してきたつもりです。でもこれから就職、結婚と大きな転機が控えています。まだまだ先の事だと思っていましたが、そんな心配をする年齢に近づいたかと感慨にふけりました。

 この例も疾患固有の容貌であることに苦悩している例である。こちらの例は失望の度合がより強く、疾患固有の容貌であるために本人は結婚ができないと考えている。確かに口唇・口蓋裂者の婚姻率は同胞の婚姻率よりも低いという報告もいくつかなされている(Bull&Rumsey,1988)。しかし、婚姻率という数字を以って個々人の結婚について論じても何の解決ももたらされないであろう。また、中田(1998a)も、やはり長年の口唇・口蓋裂児童を持つ親の会との関わりから「わずかな異形が結婚という時期を迎えて一変する。たちまち口唇口蓋裂による異形を理由にその選択の機会は狭められる。このことを恐れて親たちは子どもに真実を告げず、口唇口蓋裂であることを隠そうとする場合もいまだに多い。このことがじわじわと本人や親たちの気持ちをむしばんでいく。」と指摘する。筆者は現時点でこの結婚の問題に明確な答えを出すことが出来ない。ただ、結婚の問題は、疾患固有の容貌であることの苦悩の端的な表現のひとつとすれば、この解決は疾患固有の要望であることの苦悩が薄らいでいくと共にもたらされるのではないだろうか。
 思春期の本人の気持ちを綴ったものとして次の文章がある。

女性18歳 学生 会報 No.56号
(1996.8.30)p.7
 中高生の女の子というのは、誰よりもかわいくなりたいと思う年頃で自分はそうなれないという思いや、どうして自分だけという思いがどんどん大きくなっていくものです。そう思うと同時にそう思ってはいけないんだという気持ちもあって、ずっと心の葛藤がありました。その頃はとにかく自分に自信がなくて誇りを持てなかった時期です。

 疾患固有の容貌の持ち主が「美しい」といわれることはおそらくまれであろう。「美しい」といわれたとしても、本人はその言葉を素直に受け取れない可能性があろう。ところが、中高生時代には、美しくなりたいという気持ちが強くおこる。しかし、「そう思ってはいけない」つまり、「内面の美こそが本当に美しい」のだから、疾患固有の容貌であっても(「美しい」といわれなくても)気にする必要はないともおもう。こうした苦悩を苦悩でなくするためには自分なりに疾患固有の容貌と自分との関係を見つめなければなるまい。
 こうして容貌について苦悩するうちに疾患固有の容貌を持って生まれて来たことを恨むことにもなる。

 小学男子  十周年記念文集「大空」(1986)p8
 「ぼく、生まれて来たくて、生まれたんとちがうのに」と、ある日、ポッと、子供が言った。何かあったのかは、わからないけれど、たった一度っきりだったが…。私にしても、この子を、こんなに苦しめるために、産んだ訳ではないのに。

 生まれてきたくて生まれてくる人間は一人としていない。これは、人間存在の不条理であるが、しかしこの厳然たる事実に気づかされてしまうほど、口唇・口蓋裂は本人に自己覚知を迫るのである。

Y.Yの母(Y.Y中学2年次)No.49(1995.3.10)p.5
 ある時、矯正治療の妨げになるので永久歯を抜いたところ、かなり痛いらしく数秒おきにうがいをし、自分が悪くて虫歯になったわけでもないのにとだんだん腹が立ってきて、私に八つ当たりして「こんなに生まれたくなかった」と言ったのです。

 この例も先の例と同様、自分の存在の不条理性を訴えている。Y.Yの例は歯痛がきっかけで「こんなに生まれたくなかった」と言い出す。しかし、生まれたくないと思ったのは、歯痛のためだけとは考えにくい。口唇口蓋裂を持つことの悩み、深い失望が吹き出したものと思われる。
 そしてこの深い失望は怒りにも転じうる。

H.Nの母(H.Nの中学時代について)
 だって、本人の責任でないのにね、いろいろいわれるわけでしょ、だから、何でこんな顔に産んだんやって私に突っかかってきますから、だから、私も、そんな顔に産みたくなかったわよって、言い返して、(なるほど)そんな感じ。

 本人はやり場のない怒りを自分を産んだ母親にぶつけざるを得ない。しかし、母親もわざわざ口唇・口蓋裂を持つ子どもを産んだわけではないのである。そして自分の存在理由にまで苦悩の対象を広げた本人はようやく誰を責めても仕方がないことに気がついていくようである。

(4)容認の時期
 失望や怒り、絶望を感じても、責任はどこにも、誰にもない。また、この苦悩を克服するためには物理的な――医学的な手段では解決できないことにも気付く。ここにおいて本人はある地点に辿り着く。自分は疾患固有の容貌で生きるほかはないと認めるのである。こうした思いは、苦悩の中から徐々に獲得されていくようだ。この状態を疾患固有の容貌の容認と呼ぶことにする。容認の時期の特徴として、自分の容貌をありのままに見つめるまなざしの獲得、治療不可能性の容認や、疾患固有の容貌を持つ自己の体験の再統合が、あげられる。

成人女性、口唇裂
会報No.39(1991.12.8)p.3 
 美に対するコンプレックス・…そして、アッ!!私もそうだったんだ。やっぱり心の奥深くに口唇裂のことあったのだ。意識しないようにしてきたことに気付いた。そうか、心の底から仲良しになれなかったのは人のせいではなくて、私のせい、無意識に閉じてしまう心のクセだった。

 この例では、自分の疾患固有の容貌を考えないようにしてきたことを再認識している。これは疾患固有の顔であることを否認していた自分に気がつくことである。このように苦悩する/していた自分に気付くメタ認知はありのままの自分を見据える視線から生まれている。以下も同様の視点で自分の顔についての意識を語っている。

T.H
 どっかでやせ我慢じゃないけどね、意識をせんとこうという意識が働いているかもわからないですけどね。だから、意識がまるでないというわけではないんですが、でもやっぱり意識はないんですよね。だから多分障害を持っているという意識を否定していると思いますね。顔が歪んでいるとかの意識を。

 T.Hの場合も、日常生活で、口唇・口蓋裂であることについてこだわらないようにしたことと、容貌のことから単に目をそむける傾向があることを認めている。こうした疾患固有の容貌に対するメタ認知は単に障害に目を背けているだけでは生まれない。これも再統合の例であろう。
 このメタ認知を獲得した人には答えにも余裕が感じられる。こうした認知――ありのままの自分を見る客観的視線――は以下のような顔に対する考えから生じると考えられる。

青年男性の母親 十周年記念文集「大空」(1986)P8〜9
 「気にしたって、どうにもできへん。」ケロッと言ってのける強さも、いつの間にか出来た。

 この発言もおそらくは苦悩の時期を経過したのちに、この心境に辿り着いたと思われる。気にせざるを得ないことは外から絶え間なく、本人の心のあり方とは関係なくやってくるが、気にすることは解決にはならない。このことを苦悩を通して体感したのだ。「どうにもできへん。」と思う気持ちは母親がいうような強さだけではなく、一種の諦めでもあるのだ。T.Hが自分の容貌についていった以下の言葉も、同じように一種の諦めの思いが込められている。

T.H
 (自分の顔を一語であらわすと、どうですか?)奇形。それはそれでとらまえてますよ。それでよく見せようと努力することはしない。よく見せようとはしない。そういう努力は一切考えてない。

 自分の顔を「奇形」と表現する悲しさはいかなるものだろう。自分は疾患固有の容貌であり、この顔で生きていくほかない。このように諦めることで、ありのままの自分を見る視線が獲得されていく。そしてその獲得した視線が疾患固有の容貌を持つ自分を再統合していく。
 さて、ここでの自己の再統合とは、疾患固有の容貌が交換不可能なかけがえのない自分の顔であることを理解し、医学的に顔を変えることなしにひとりの人間としてできる限りのことをしていこうとする過程とも言えよう。顔についての自己概念が形成されたあとで疾患固有の顔になった人の場合、自己の再統合は特に劇的になされると予想される。以下、どのように自己の再統合がなされるか見ていく。

H.N 会報No.37(1991.6.9)p.3
 あきらめるものはあきらめ、自分で治せる事は治そう。笑い方も、右から笑ったら口唇があがる。鏡を見て、注意し、口を閉じて、気をつけて歩いている。しかし、気をつけている事が苦にならない。今ある顔を少しでも良く見せたい。

 H.Nは、顔の造作自体を変えることは困難であると考え、かわりに表情に注意することで自分の魅力をつくろうと考えている。「今ある顔」で出来るだけのことをするという考え方であるだろう。
 また、H.Nは同様の主張を口唇・口蓋裂を持つ人達に向けて発している。

「大空」15周年記念文集(1991)pp.42-43
 でも、もしあなた方に少しでもファッションに興味があるなら、お洒落になりなさい。そして自分の顔をよく研究しなさい。顔というものは本人の気のつけ方次第でボーっとした顔にもなるし、ひきしまった顔にもなるものです。例えば、「口を閉じて歩く」「清潔にしておく」ということぐらいは気をつけておいたほうがよいでしょう。人を顔で判断するような奴らは放っとけ!と僕は思う。でも、自分では、とことん普通の人よりも、もっと顔に気をつかった方がいいと思う。

 H.Nの主張は、顔について気になるのなら、今できる範囲で顔の見せ方を工夫しようという積極的なものである。この主張は疾患固有の容貌に悩んでいる人としてはいささか逆説的ではあるが、自己の再統合の試みとして捉えることが出来よう。「今ある自分の容貌」を認めなくては持ち得ないものであろう。このようにして、疾患固有の容貌の持ち主は初めてよく生きることが出来るのではないだろうか。


表2 容貌の自己受容過程の仮説モデル
過程 特徴  容貌と自己との関係
1 容貌に無自覚な時期
    特徴      疾患固有の容貌の自覚なし
    自己との関係  明確ではない。

2 容貌自覚の時期
    特徴      他者からの一方的断定的指摘による疾患固有の容貌自覚
    自己との関係  自己の容貌を自分のものとしてうまく位置づけられない。

3 苦悩の時期
   特徴      疾患固有の容貌であることの否認による意識の抑圧
           疾患固有の容貌であることの悲哀・怒り・絶望など
   自己との関係  ありのままの容貌を自己のものとして認められない
           ありのままの容貌と自己を有機的に結び付けるための葛藤が見
           られる。

4 容認の時期
   特徴      ありのままの容貌を見つめるまなざし
           ありのままの顔で生きていくほかないという諦め
           疾患固有の容貌を持つ「私」としての自己の体験再統合がおこ
           る 苦悩は完全には消えず、「間遠」になる。


2 各段階ごとの援助のあり方の提言
 前節で疾患固有の容貌の自己受容の過程を仮説としてあげた。そこで本節では先にあげ
た仮説モデルに基づき、疾患固有の容貌を持つ人がありのままの容貌で生きるために、どのような援助のあり方があるべきか、各段階ごとの援助の方法を提言してみたい。

(1)容貌に無自覚である時期の援助
 疾患固有の容貌を本人が自覚していない時期に援助者はどのように本人と関わるべきであろうか。この時期は幼稚園や小学校等の子ども社会への加入以前の期間が当てはまると思われる。この時期の援助側の特徴として、母親など保護者の混乱が見られる。だから、本人に接する母親の態度も、不安定なものになっている可能性がある。実際、容貌に無自覚な時期(T.HやH.Nの母親の例)で例示したように、母親は子どもを外に出さない。「ひたかくしに隠して」、「仕方なく」外に出す。このような母親の混乱の中で、それでも疾患固有の容貌を本人に理解させる努力としては、T.Hの母親の例が参考になる。彼女はT.Hの生後3ヶ月のはじめての手術を終えてから、本人の顔を鏡に映して話し掛けている。

T.Hの母親
 鏡はねえ、赤ちゃんで抱っこしている時から見せてたんですよ、意識的に、「ほら、ほら」、いうて「ここいたかったでしょ」手術してここくっつけましたわねえ、3ヶ月で最初の手術を、そのあと鏡見て「ほら、ここ痛かったねえ」とか言いながら、ずっと言ってたんですよ。「痛かったけどくっついたねえ。」子どももまだようしゃべりませんよ、だからまだ4ヶ月、か6ヶ月くらいの時からずっとそうやってたんです。やっぱり鏡は見せておかないとかわいそうでしょ。ある日突然バッと鏡見てあっと思ったらかわいそうじゃないですか、いやだからそれこそ刷り込みですよね、みんなとは違うのよ、っていうことをやっぱり言っておいてやらないと、、、、

 赤ん坊をあやす技術として、鏡を見せる方法は一般的である。幼児がいつ頃から鏡に映った自分の顔の傷を自分のものと認知するかはという発達心理学的問題は残るが、本人にありのままの容貌を理解させる手だてとしては、また母親自身の不安を和らげるためには有効であると思われる。
 また、親の会活動に本人も参加することで、自分と同じ口唇・口蓋裂の人と交流することもありのままの容貌を本人が知る大切な機会であろう。

(2)容貌を自覚する時期の援助
 この時期は小集団加入の時期でもある。この時期に重要なことは、他者からの一方的指摘によってはじめて疾患固有容貌を自覚するというような事態を避けることである。この他者からの一方的指摘によって本人が非常に傷つく可能性については先に述べた。この点から、子どもが、口唇・口蓋裂であるという事実を教えられる場合、この時期に親から教えられることが多いと思われる。(関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会では、子どもに口唇・口蓋裂である事実を告げる適切な時期を、学童期としている。)ところで、疾患固有の容貌であることの苦悩がすぐ間近に予想されるということを考えると、親から子に伝えるべき事実の内容が問題とされる。本人に事実として伝えられる内容は、往々にして疾患自体のみであり、疾患が原因で(この場合は口唇・口蓋裂が原因で)疾患固有の容貌になっているという事実を本人に明確に伝えるということには力点が置かれていないように思われる。先に、疾患固有の容貌であるということが将来本人に重大な苦悩をもたらすことを述べたが、これは以下のような構造に支えられていると思われる。なお、この議論は手術などによって治癒不可な容貌にたいしての一方的指摘が、他者の倫理の未熟さにあり、他者の指摘自体が真っ先に非難されなくてはならないということは前提においてのものである。まず、顔と人の価値を考えるとき、思い当たるのは「人の価値は外見ではなく中身によって決定される」という価値観である。顔の見た目の美しさではなく、性格や性質、能力によって人は判断されるべきものであるという価値観である。口唇・口蓋裂の持ち主も、幼い頃からこの価値観を教えられている。ところが、口唇・口蓋裂の持ち主は幼い頃から他者に疾患固有の容姿を指摘される。この指摘は教えられた価値観を裏切る出来事である。
 一方、私たちは「美しければ美しい程よい」という視覚的美至上主義とも言える価値観をも持っている。例えばテレビや雑誌などには「かっこいい」「美しい」あるいは「個性的」なひとが多く現れる。そして疾患固有の容貌の持ち主はまず出て来ないといっていい。(かつてソビエト連邦の指導者ゴルバチョフ氏の額のあざがしばしば風刺の対象になって新聞紙上などに描かれたのは、例外であろう。)美を追求する人間の本性は、美術史からもいえることである。確かに表現主義や構成主義のように内面の美しさの精華を表面に現れたものに見ようとする主張も存在するが、外面的美しさを追求する傾向は否定ないだろう。美容整形の隆盛もこれを裏付けるだろう。また、社会心理学の領域では、松井・山本(1985)が、男性が女性を交際の対象として選択する場合、「美しさ」がもっとも大きな判断基準であることを示している。
 結局、人の価値はその中身で決まるという倫理とは別に、私たちには外見の美しさをもっとも望ましいものと見る習慣的思考があると考えられる。口唇・口蓋裂の持ち主も決して例外ではない。現に形成手術に過剰な期待をして、いつか「美しい白鳥」になることを夢見る。つまり、タテマエとしては前者の価値観を信じているのだが、自分の容貌に対しては価値観にも影響を受けているということになる。ここにひとつのジレンマが生じる。本当は美しくなりたいのに、美しくなれない、しかも、美しさは本当は人間の価値と関係のものであるはずだ。いったいどうしたらいいのか、というようなジレンマが。
 このジレンマは疾患固有の容貌を持つ人に限らず誰でも持ちうるものであろうが、疾患固有の容貌を持つ人はこのジレンマをより強く意識させられる。というのは幼時から自身の容貌を説明される時に前者の価値観を用いて説明を受けるからである。具体的に例を挙げてみよう。

T.Hの母
 小さい時からね、人は見てくれだけとちがうよって、顔だけでその人を判断したらあかんって、姿かたちだけで判断したらあかん、やっぱり内面的なことが大事だからっていうてずっと言うてたんですよ、小さい時から。

 こうした助言は、親が疾患固有の容貌を持つ子どもが顔についての苦悩をいくらかでも減らそうという配慮から出たものであり、母親自身を慰める意味合いも含んでいると思われる。しかし、こうした助言によって口唇・口蓋裂を持つ人は苦悩を潜在化させてしまったり、先に述べたジレンマに陥る可能性がある。苦悩が潜在化すると、援助する側は(疾患固有の容貌の人に対するカウンセリングがおそらく存在していない現在の日本では、援助する役割をになうのは主に母親であろうが)どのように援助したらよいか困惑することになる。また、本人も苦悩を潜在化させてしまうのだから、容貌についてしっかり見据えることは出来ない。そして他者から疾患固有の容貌について指摘を受け、混乱し、母親からの助言に矛盾を感じるばかりである。つまり、このような形の助言では、疾患固有の容貌を持つ人がよりよく生きることにはつながらないのではないだろうか。
 では、疾患固有の容貌を自覚する時期以降、本人が苦悩の潜在化を起こさず、美しさに対しても目を背けずにいられるためにどういった助言が考えられるのであろうか。参考になるのは、容認の時期の項であげた記録である。例えばH.Nは自分の容貌について「あきらめるものはあきらめ、自分で治せる事は自分で治そう」と述べている。このような割切りがないと、疾患固有の容貌でありながら美しさを求めることは難しい。また、H.Nは母親との葛藤の中で疾患固有のこの容貌で自分が生きていかなくてはならないと言って欲しかったと言っている。
 自分の容貌の自覚の時期に、自分のありのままの容貌を認めることは困難なことであろう。しかし、ありのままの容貌を本人と関係づける努力を促すことが援助がワニは必要なのではないだろうか。 少なくとも、疾患固有容貌が手術によって治癒すると期待させたりすることは、本人にありのままの顔を受け入れる気持ちを起こさせないという点で望ましくない。

(3)苦悩の時期の援助
 苦悩の時期の特徴は、特に否認の時期において、ありのままの自分の容貌を自分のものとして素直に認められないということであった。ここで手がかりとなるのは、今回のインタビュー対象の5名のうち3名が、何らかの形で口唇・口蓋裂とは異なる障害を抱える人と交流があったということである。こうした交流の中で、障害に対する意識が明確になり、自身のありのままの容貌の受容にすすむということは十分考えられる。

H,N
 予備校時代、障害(目立たない。)の子と、いっしょに勉強したことがあった。その子は障害を気にしていた。やっぱり自分も不細工やからと思うこともありますやん。正真正銘五体満足な人なんていないと思った。気にしなければ障害にはならない。見据えているうちにとことん付き合うことで、障害を越えられる。

 H.Nの場合、他の障害を抱える人との出会いが結果的に自分の疾患固有の容貌に対する態度を見直す契機になった。他の2人は、障害を抱える人との交流によって何か自分の認識に変化が起きたとは語らなかったが、自分の疾患固有の容貌、あるいは口唇・口蓋裂という障害の認知に何らかの影響を与えているということは想像に難くない。
 もう一つは疾患固有の容貌そのものを詳しく知る手だてを援助するということである。容貌に苦悩している本人が、疾患についてよく知ることは、ありのままの容貌を受け入れるための重要な作業であろう。なお、ここで重要なことは、援助する側の価値観を押し付けないということである。むしろ本人自らが知ろうとする態度を育てることが重要であろう。
 悲哀・怒りについては、上記のことも併せて、共に哀しむことや、親としての悲哀がどのようなものであるか、発言することが重要であろう。
 以上、調査の結果から顔と人の価値との関係を、疾患固有の容貌を正面からありのままに理解することが出来るようなあり方について述べてきた。今後、どのようにして疾患固有の容貌を持つ人がありのままに容貌を理解すればよいのか、さらに検討すべき課題であろう。


3 疾患固有の容貌を持ちながらよりよく生きること――容認期の援助にかえて

 さきに述べたように、自分の疾患固有の容貌をありのままに理解する体験は、自己の再統合につながることであった。この項では自己の再統合後、どのように顔と関わっていくのか見ていく。H.Nは、27歳の現時点(インタビュー時)では固有の容貌についてまったく考えていないと述べている。

H.N
 だからね、正味、考えてないんですわ、顔については。そやからね、逆に、その、まあ、口唇・口蓋裂としてインタビューをしたいと、言われるとなると、逆に私が口唇・口蓋裂であったことを思い出すわけですわ。だ、それで、ま、いうたら、そんな必要ないん違うのっていう憤りがある、わけですわ。

H.N
 顔については、今となってはまったく考えていないですよ。たとえば営業いったときに口唇・口蓋裂だからどうとかね、人に対してどう見られてるとかね、そういった部分は今はもう全く、、、全くないですね。そういうハンディっていうのを感じる部分は、、、

 ここで今まで幼い頃からのH.Nの疾患固有の容貌に対する態度をもう一度整理してみる。幼稚園に入園する頃から他者に顔のことを指摘されるようになり、中学までは手術によって容貌が劇的に改善すると期待する。しかし、手術の結果は本人の期待とは程遠いものであり、自分の疾患固有の容貌や、そういう容貌を持って生まれてきてしまった自分に失望する。と同時に疾患固有の容貌を持って生きていくように運命付けられた自分に目をむけるようになる。そして自分を見据える方向性は予備校のときに出会った目立たない障害をもつ友人との出会いで決定的になる。「気にするから障害になるんだ」と。彼の顔についての積極的努力が始まる。最後の手術が中学卒業のときであるから、手術の後を容貌認知の転換点とすれば、それ以来12年が経過している。12年間、おおよそ自分の容貌をありのままに見据える努力を続けて、顔のことを「まったく考え」ないところに辿り着いたことになる。
 さて、彼が疾患固有の容貌をまったく顧慮しないというのはどういうことなのだろうか。否認とはどう違うのだろうか。筆者はH.Nが正確には顔のことを「考えていない」のではなく、本人が気にせざるを得ない機会が少なくなったといった方が適切であるように考える。27年間の生活の中で、口唇・口蓋裂を持つ人として考えられうる体験をおおよそしてしまった、そして経験した出来事への対処は可能である。だから、改めて容貌について考える必要はない。つまり、自分の固有な容貌についての苦悩が間遠になったと考えるわけである。そうしてはじめて口唇・口蓋裂を持つ人は「普通」に生活できるわけだ。興味深いことにこの男性の妻の話を聞いてみると、彼が決して顔のことを全く考えていないわけではないことが明らかにされる。

H.Nの妻(26歳 主婦)
 向こう(H.Nのこと)は冗談ぽく、なんて言うのかな、テレビとか見て言うじゃないですか、「ほんまやったらこんなに男前やったのに。」、とか(H.Nが)言うんですよ。「今でも男前や、なにいっとん!」とか(H.Nに対して妻が)言うんですよ。「普通の感じやったらこんなんやろなあ。」とか(H.Nが)言うから、やっぱ、ぽろっといったりするんですよ、本人はそんな積もりないのかもしれないけど、私が、だから、もう「どこが違うん?普通やんか?なにいっとん!」とか言って、それで話終わるんですけど。

 このような夫婦間の会話表現は、本人(H.N)の(固有容貌についての)不安の解消手段である様だ。ここでこのやり取り(妻が夫の顔を「普通」だという対話形式)が、夫自身の容貌に関する不安を和らげるものになっている。H.N自身がまったく顔について不安がないわけではないのである。
 ここから、ありのままの容貌を容認した本人が、それでも容貌についてのいくらかの不安を抱えながら生きていく姿が見えてくる。ただし、不安に対する接し方は歳を経るにしたがって熟練してくるし、配偶者等の家族や、友人などに支えられることで自信も出てくる。疾患固有の容貌を持つ人が活き活きとその人生を生きるためにまず必要なことは、ありのままに容貌を容認することであった。また、容認した自分の容貌に自分の生の感情をぶつけることであった。こうして曲がりなりにも自分のかけがえのない容貌を持った本人には、次第にかつての苦悩が間遠になっていく。しかし、間遠ななかにも容貌の問題が消え失せてしまったわけではない。容貌の問題は常に自分の顔に存在している。つねにそばに在る。そして本人が油断しているところにふっと「顔を」出す。
 青年期以降、よりよく生きるために疾患固有の容貌を持つ人がどのように自分の容貌とかかわっていくかということは、今後の課題として留保しておきたい。

W 総括
・従来、顔の疾患による差異が一般的に用語として定着していなかったので、これまでの用語を検討した上で新しい用語――疾患固有の容貌――を提唱した。その上で、疾患固有の容貌を持つ人を対象を口唇・口蓋裂に限定して考察してきた。
・考察の結果、口唇・口蓋裂を持つ人本人の、疾患固有の容貌の受容過程をひとつの仮説として提唱した。
・まず出生からはじめての社会参加である幼稚園・小学校入学までの疾患固有の容貌の無
自覚の時期がある。
・次に、疾患固有の容貌の自覚が起こる。これは自分から自発的に自覚するのではなく、他者からの一方的断定的指摘によって自覚がなされるという点が特色であった。
・そして疾患固有の容貌を自覚すると同時に疾患固有の容貌を持つことの苦悩が始まる。これは幼年期から青年期まで広く見られた。
・苦悩は否認と失望・怒りとに大きく分けられた。
・否認は苦悩が潜在化する場合と、「疾患固有の容貌=個性」として疾患固有の容貌を持つ自分の苦悩を素直に表現できない場合の二通りが見られた。
・失望・怒りは特徴として、疾患固有の容貌が将来手術によって完全に治癒する可能性を期待する、疾患固有の容貌を持つ自分の将来を悲観する、自分の存在の不条理性を訴えるなどが見られた。この時期は自己と疾患固有の容貌を有機的に結び付けるための葛藤の時期と考えられた。
・更にこの苦悩体験を経て、本人は疾患固有の容貌を持つ自分を容認するようになる。ここでの特徴は、疾患固有の容貌で生きていくほかないというあきらめ、ありのままの自己を見据える客観的視線、などを獲得して自己のこれまでの体験を再統合するということである。この自己の再統合によって、自分の疾患固有の容貌=交換不可能なかけがえのない顔であることを理解し、疾患固有の容貌を持つ人として、できる限りのことをしようとするようになる。こうして獲得された姿勢こそが疾患固有の容貌を持ってよく生きることにつながるのではないかと結論した。
・以上の点を踏まえて、この自己受容過程の各段階ごとの本人への援助の在り方を提言し
た。
・特に疾患固有の容貌の持ち主は「人の価値は中身で決まる」という価値観と「美しければ美しい程よい」」という価値観の間でジレンマに陥りがちであるから、いたずらに疾患固有の容貌の治癒を期待させてしまうような助言や、苦悩を潜在化させてしまうような正論を助言として与えることの危うさを指摘した。
・そしてここから疾患固有の容貌を持つ人がよく生きるためにということを念頭において、ありのままの容貌を持つ自分を認められるような助言や援助をする必要性について言及した。
・最後に自己の再統合後、どのように疾患固有の容貌を持つ人が生きていくのか、中井
(1998)がPTSDの回復について説明した言葉、「間遠になる」を使って考察した。
・今後の課題として縦断的調査による容貌の受容過程の研究や各段階ごとの援助のあり方
の研究が必要であろう。また、疾患固有の容貌になった時期によって受容過程も異なると思われる。更に様々な疾患ごとの研究も必要になると思われる。


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藤原百合編(1998)『口唇口蓋裂の治療――家族のためのハンドブック――』
 関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会
三浦真弓(1995)「アンケートによる思春期口唇裂口蓋裂患者の心理」
 日本口蓋裂学会雑誌20,pp.159‐171

謝辞
 まず、私の論文のため貴重な時間を割いて下さり、たくさんの貴重な御教示を賜わりました藤田裕司先生に厚く御礼申し上げます。また、本論を書くにあたって、インタビューの機会と会報の記事を提供して頂いた関西地区口唇口蓋裂児と共に歩む会に深謝いたします。唐突で、気分を害するかもしれないような不躾な質問をぶつけても、真摯にインタビューに応じて下さった方々がいなければ、本論は完成することがなかったと思われます。また、最後に、私の粘着的な文章にも関わらず、最後まで論文を読み討論してくれた藤田ゼミの方々に感謝します。


資料
以下の質問項目は今回の調査で使用したものである。「異形」という用語が使われているのは、調査の時点では、適切な用語が見当たらなかったためである。なお、調査時には、「異形」の意味するところを本論で述べたような疾患固有の容貌の定義のように補った。

ご本人に伺いたいこと
1、 病名、障害をもった時期、年齢
2、 自分の顔についてどう思われますか?
3、 他人から顔についてどう言われてきましたか?
4、 3で、他人から言われたことをどう感じましたか?
5、 あなたにとって一般に「障害」とはどういうものですか?
6、 異形であることは障害であると思ますか?
7、 6でこたえられたことをどうしてそう思ますか?
8、 周囲の視線を感じますか?
9、 感じるとすれば、それはどうしてですか、また、どう思いますか?
10、 どんなときに自分らしく生きていると思いますか
11、 身近に顔にハンディをもつものがいますか?
12、 このインタビューを受ける感想をお聞かせ下さい。

お母さんにうかがいたいこと
1、 何歳の時の子どもさんでしょうか?
2、 子どもの容貌の異形についてどう思われますか?
3、 他人から子どもの異形についてどう接してこられましたか?
4、 大人数の前で子どもと一緒にいる時、不安を感じたり、視線を感じたりしますか?
5、 子どもが容貌について悩んでいる、あるいは気を遣っていると感じたことがありますか?
6、 異形であることをどう思うか?子どもの容貌のことで子ども自身と話したことはありますか?
あるとすれば、それはどんな内容でしたか?
7、 容貌のことで親戚、知己、見知らぬ人からなにかいわれたことはありませんか、いわれた
とすればどういう内容でしたか?
8、 容貌のせいで学業成績、友人関係、異性関係等で影響を受けたと思われますか?
9、 子どもは容貌のせいでいじめられたことがありますか?
10、子どもとの間で異形のことをなんといいますか?
11、子どもの容貌のことで相談相手は主にどなたでしたか?

1) 筆者の知る限り、日本では三浦(1995)が思春期の口唇裂口蓋裂患者に治療の指針を得る目的でアンケート調査を行なったものだけである。
2) 容貌の違いのほかに、口唇・口蓋裂の場合、機能的な障害もある。身体障害者福祉法により、口唇口蓋裂者は音声・言語・咀嚼機能障害に当てはまり、4級の身体障害者ということになっている。つまり、具体的には、風船を膨らますことが出来なかったり、ハーモニカやリコーダーが吹けなかったりする。また、言葉が聞き取りにくいこともよくある。
3) フィードラー (1978)は、顔に限らず「生理的逸脱を抱えた人々」の呼び名を確定することが出来ずに、「伝統的にフリークと呼ばれてきた人々の間には、今後の綱領として何と呼ばれたいかという合意が存在しないのである。何か別の名称で、という意志があるばかりなのだ。」(p8)と述べている。
4) 例えば、中田(1997)は、「容貌の異形」と言う書き方をしている。
5) Partridge,J.(1997)はvisible differenceを@文化的に規定された基準に照らしてはっきりと特異なために周囲の人から凝視されるという意味と、A自身の容貌がとりわけ客観的には問題がなくとも、個人的に特異に「感じられる」という意味とに分けている。Aの文脈では醜形恐怖もその範疇に入る。この言葉は、顔の問題が決して本人次第ではないということを指摘している。逆にいえば、この「本人次第」という視点が、この問題が今まで大きく取り上げられなかった原因の一つだろう。



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