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「経済学は人間生活の改良の道具たりうるか」

川本 隆史
『グラフィケーション』105号(富士ゼロックス)

last update: 20151221


経済学は人間生活の改良の道具たりうるか
――アマルティア・センにおける厚生経済学の再生

川本隆史

『グラフィケーション』105号(富士ゼロックス)

 「厚生経済学への貢献」を理由に一九九八年度のノーベル経済学賞を授与され
たアマルティア・セン(一九三三年インド生まれ、英国ケンブリッジ大学教授)だ
が、受賞後のスケジュールが過密化したせいで、本年三月八日に予定されていた第
三回厚生政策セミナー(主催は国立社会保障・人口問題研究所、テーマは「福祉国
家の経済と倫理」)の基調講演を直前になってキャンセルしてきた。センの報告へ
のコメンテータを依頼されていた私としても、きわめて残念な出来事だった。だが
幸いなことに、三月初め別件で来日した当人に対して、同研究所の塩野谷祐一所長
が直撃取材を仕掛けることができたのである。
 セミナー本番では、五項目(総計十六)におよぶ質問に対するセンの応答の模
様が同時通訳付きでビデオ放映され、コメント役の私も何とかその責めをふさいだ
(全体の記録は、『厚生』一九九九年五月号と『季刊社会保障研究』第三五巻第一
号とを参照されたい)。そこで以下では、「経済学者がやり遂げようと努力してい
る複雑な分析は、たんなる知的な鍛錬ではない。それは《人間生活の改良の道具》
である」(『厚生経済学』序文)と言い切ったA・C・ピグーの初心に立ち戻りな
がら、厚生経済学の再生を企てるセンの活躍ぶりを三月のインタヴューに即してス
ケッチしてみたい。
 質問の第一項目は、厚生経済学の現状と課題についてだった。この分野を二種
類の懐疑論――@メンバーの多様な価値観を社会的に集計する妥当な手続きが、そ
もそも存在しないのではないか、A効用を個人間で比較することができないのでは
ないか――が支配してきたことを暴露したセンは、実際の生活において効用や幸福
の個人間比較が行なわれており、そこに一貫する論理をつかみ出せれば、そうした
懐疑を克服できる旨を述べた。
 二番目は、センが強力に推進している《ケイパビリティ・アプローチ》をめぐ
っての問いかけ。これは、どれほどの財貨を持っているかでもなく、どれくらいの
効用を感じているかでもなく、彼女/彼ができること・なれる状態、つまり「生き
方の幅」(ケイパビリティ)でもって当人の暮し向きを評価するものである。ここ
で彼は、人間が自分の福祉の達成だけをめざすのでなく、他人の福祉や自分たちが
帰属する社会のあり方にも無関心でいられない存在であることを強調する。たとえ
ば、自分より福祉の水準が低い人に対して「済まない」(I'm sorry about him)
と感じることがそうだ。さらに、現代の飢饉はせいぜい全人口の一割弱の住民に襲い
かかる災禍に過ぎないのに、デモクラシーを採用する国ぐにで飢饉を防止する政策
が多数派の支持を得るのはどうしてか。それは「餓死者が出るような社会に住みた
くない」との望みが広く共有されているからに違いない。センはそう分析する。
 本題の福祉国家を扱った第三項で、インタヴューアは@「個人の自己決定や自
己責任の領分と社会が保障すべきことがらとの間の境界線をどのように引けばいい
のか」、並びにA少子高齢化に対応した年金制度の改革論議を踏まえつつ「社会保
障の費用負担をめぐる世代間の正義をどう考えるか」と問い質した。前者の、個人
の責任と社会の責任とのバランスのとり方については公式的な解答があるわけでは
なく、当該社会における政治的な論議で決着をつけるべきことがらだと返答するに
とどまった。ついで後者は深刻な難題だが、それに《ケイパビリティ・アプローチ
》を当てはめるのは無理があると認めたうえで、「世代間の正義」といった設定が
誤った仕方でなされている場合もある、と注意した。各世代を、できるだけ少ない
負担でより多くの給付を求める孤立した経済主体と決めてかかる前提(「合理的な
愚か者」モデル!)それ自体を吟味する必要がある。こうセンは指摘したかったの
ではないか。
 社会保障の費用負担を、たんなる財政上の勘定に還元してはならない。また高
齢化は、生理的な老化現象というよりもむしろ社会のあり方に関わる問題である以
上、これと取り組むには「もっと豊かな想像力を発揮しなければならない。世代間
の分配の効率性や公平性ばかりに目を向けるのでなく、社会をどのように再編成す
れば高齢者の勤労生活がより幸せなものとなるのかを考えるべきである」との付言
もなされた。これは私にとって、きわめて啓発的であった。
 四つ目の設問――アリストテレス流の「徳の倫理学」および「コミュニタリア
ニズム」(リベラリズムの個人主義に対抗して、共同体や伝統の意義を持ち上げる
潮流)と《ケイパビリティ・アプローチ》との対比――は、私の専門分野で立てら
れている。まず「徳の倫理学」に関しては、それが「人間存在の価値を見くびり」
、個々の行為や実績面しか倫理的評価の対象としない狭隘さを衝いた。ついで「コ
ミュニタリアニズム」に対しては、やや両義的な評定が下された。すなわち、この
主義主張が個人の利己心を超え出て、コミュニティや他者の生活へと関心を広げよ
うとするところに賛成し、特定の共同体にとどまって世界全体までその視野に収め
ない点に反対する。「コミュニタリアニズムの倫理学は、人間を別々の仕切りに押
し込めすぎるきらいがある」と。
 最後の項目では、経済学を「実践の下僕」にして「倫理学の侍女」となぞらえ
たピグーを引き合いに出して、経済学と倫理学を統合しようとするセンの動機づけ
が問われた。彼の回答はきわめて味わい深いものだった――「私を含む多くの人び
とが、厚生経済学の研究に携わっている。私たちは個々バラバラに仕事をしている
わけではない。他者が居てくれたことが現在の私を成り立たせてくれているような
世界に、私たちは住んでいるのだし、学問も他の人びとの働き抜きには成り立たな
い。他者との共同作業やチームワーク、他の人が自分の人生に貢献している世界に
自らをおくこと、これらが大きな喜びをもたらしてくれるのである」。
 私のコメントに移ろう。一点目は、選択の自由を重視し、たとえ結果が同じ事
態になったとしても、事前に当人の選択がはたらいたかどうかで重大な違いが生じ
ると考えるセンの自由論を、「福祉国家の倫理」に応用しようとするものだった。
とりあえずこの日本で福祉国家を運営する根拠は、国民の生存権と国の保障義務を
説いた憲法第二十五条に求めざるを得まい。だが、この条文とその精神を私たち自
身が積極的に選び取ったのだとの自覚が果たしてどれほど広く深く共有されている
だろうか。そこで私が想起したのは、フランスの文学者エルネスト・ルナンの講演
の一節だった。
 「国民とは、したがって、人びとが過去においてなし、今後もなおなす用意の
ある犠牲の感情によって構成された大いなる連帯心なのです。……それは明確に表
明された共同生活を続行しようとする合意であり、欲望です。個人の存在が生命の
絶えざる肯定であると同じく、国民の存在は(この隠喩をお許しください)日々の
人民投票なのです。……国民の願望こそ最終的には唯一の正当な基準であり、つね
にそこに立ち戻るのでなければなりません。」(E・ルナンほか『国民とは何か』
鵜飼哲ほか訳、インスクリプト、一九九七年、六二頁)
 国民国家を形成する「国民」が「犠牲の感情によって構成された大いなる連帯
心」に他ならず、その合意は「日々の人民投票」によって更新され続けるものであ
るとすれば、福祉国家の「福祉」を連帯して支え合うためにも、人民投票と相似た
何らかの手続きや仕組みが要るはずだ。そうした制度を構想するにあたっては、セ
ンが「社会的コミットメントとしての個人の自由」(拙訳、『みすず』一九九一年
一月号。なお本論文は、東洋経済新報社より近刊のセン論文集に所収予定)で展開
した社会倫理学をヒントにできる。だが個人の「コミットメント」(自分の利益に
ならなくても、他者の窮状を改善するための行動に打って出る用意があること)を
社会的に集計し、福祉国家を運営する倫理的基盤ないし連帯へと鍛え上げていく道
すじについては、介護保険などの具体的施策と突き合わせながら、私たち自身が探
り当てねばなるまい。
 二点目に、高齢者へのケアを福祉国家が打倒すべき巨悪と形容した塩野谷氏に
異議を唱え、ケアそのものに内在する価値を掘り起こせないかと問い返した。また
、個人の責任と社会の責任との線引きは(センの言うとおり)政治的討論で決着を
つけるほかないとしても、どんな線引きが望ましいかの価値判断を避けて通れない。
 センの用語を借りるなら、そうした判断をどのような「情報ベース」に基づいて
下し、そこからどのような手順でもって合意を形成すればいいのか――これを三番
目の論点として提示した。
 第四に、世代間の正義を再考するために「豊かな想像力」を発揮すべきことを
説いたセンを、フランスの社会保障改革の文脈で語られたミシェル・フーコーの提
言につないだ。フーコーによれば、各人の最大限の自立と最適な社会的支援とを両
立させることこそ社会保障の目標であるけれども、それを達成するためには「ある
種の経験主義」に立って、「社会制度の現場を広大な実験の場へと変換する」とい
う基本姿勢が要求される。そうした実験の精神と想像力の活用の好例として、橘木
俊詔が話題作『日本の経済格差』(岩波新書、一九九八年)で打ち出した「累進消
費税を財源とした社会保障制度との税・統合方式」と、中央政府、社会保障基金政
府、地方政府という「三つの政府体系」への変革を訴える金子勝・神野直彦のプラ
ン(「協力社会の年金を創る」、『世界』一九九九年三月号)の二つを、私は挙げ
た。
 最後に、「福祉国家の経済と倫理」を探究するためには「ジェンダーの視点」
を外せないと補足した。セン自身は、途上国の開発を考える際にこの視点を取り入
れているのだが、福祉国家におけるジェンダー問題は、理論的にも実践的にも取り
組みがいのある課題だと言えるだろう。
 ところで、以上のようなセンの厚生経済学は実際に「人間生活の改良の道具」
として使えるだろうか。もちろん私の答えは「イエス」である。彼に興味を持たれ
た読者にあっては、『経済セミナー』一九九九年三月号の特集《アマルティア・セ
ンの世界》の諸論考あたりを手がかりとしながら、出揃いつつある翻訳を直に読ん
で各自の判定を下されたい。

(かわもと・たかし 東北大学文学部教員/倫理学・社会哲学)



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