「盲人男性は「美人」に欲情するか?──晴眼社会を生きる盲人男性のセクシュアリティ」
倉本 智明 1998/12 『視覚障害リハビリテーション』48号:69-76頁
last update: 20151221
盲人男性は「美人」に欲情するか?
──晴眼社会を生きる盲人男性のセクシュアリティ──
倉本智明
『視覚障害リハビリテーション』48号:69-76頁, 1998.12, 日本ライトハウス
1.「声の美人」
どんな女性に性的魅力をおぼえるか、を話題にして晴眼の友人らと話しているとよく、「目が見えないと、やっぱり、『声の美人』とか気になるんじゃないの?」と言われることがある。視覚的な基準で性的魅力を云々することのできない盲人が、声に重きをおいているだろうとの推測は、それなりにうなずけるものかもしれない。「鈴を鳴らすような」といった比喩の存在が示唆するように、晴盲を問わず、私たちはさまざまな声のなかに美醜を発見し、優劣の判断を下さずにはおかない文化のもとにくらしている。「鈴を鳴らすような声」が好みであるかどうかはともかく、その意味では、盲人もまた、「声の美人」に無関心ではいられないということはできよう。
けれども、視覚的な判断基準をもたないからといって、盲人が、他をさしおいてなによりも声に反応するかというと、はたしてどうだろう。“革フェチ”などモノへのフェティッシュな志向を含め、なにに性的な魅力を感じ、興奮をおぼえるかはきわめて個人的偏差の大きい事柄である。が同時に、ある集団の成員が、ある程度特定の傾向を示すということもまた充分に考えうることである。一概に断じきるのはやや乱暴かもしれないが、一般に女性とくらべ男性は、容姿の善し悪しといった視覚的な要素に強くこだわる傾向が認められる。女性もまた、視覚的な「美」に惹かれる点は男生徒同様だろうが、その比重は多くの場合、男性のそれより小さいようだ。こういった性的な嗜好をめぐる集団間の傾向的差異は、確かに晴眼者と盲人のあいだにも認めることができよう。しかし、それは、視覚を欠く盲人は視覚的なものには興味を示さず、聴覚的に捉えうるものにより敏感に反応するといった単純なものではない。盲人であると同時に、男性でもある私は、同時代を生きる男性として、その大半を占める晴眼男性の文化をまちがいなくある程度身につけてしまっているはずである。晴眼男性が「美人」に惹かれ、欲情をおぼえるならば、それがいったいどのようなものなのかを知らずとも、私も彼ら同様、「美人」ということばに反応し、性的な興味をかき立てられるのである。
本稿で私が論じようとしているのは、晴眼社会にくらし、晴眼文化の影響を免れえない、こうした盲人のセクシュアリティについてである。おかれている環境や生活歴のちがいによって、影響の大小にこそ差はあれ、現代に生きる盲人が、晴眼者の文化から完全に自由でいるなどということは決してありえない。盲学校から三療業へとすすみ、盲界内部のつきあい以外は、人間関係がほとんどないかにみえる者の場合でも、家族や教師、患者や隣近所の住人など、晴眼者との関わりを必ずもっている。また、日々なにげなく耳を傾けているテレビやラジオが伝えるのは、99パーセントまで晴眼者の手になる情報である。そのような晴眼者との関係のなかで、盲人は、無意識のうちに晴眼文化の規範を取り込み、、自身のものとしてしまっている。ところが、それらが前提するのはあくまでも目で見ることをあたりまえとする晴眼者の身体なのである。そのような規範に私たちがしたがえばどうなるか。ここでは、「美人」をめぐる晴眼男性文化にふりまわされる盲人男性の現実を切り口として、このことについて考えてみたいと思う。
2.「美人」とは?
議論をすすめる前に、あらかじめ確認しておかなければならないことがある。それは、ここで取り扱うこととなる「美人」が、あくまで視覚的な要素から構成される概念であるという点だ。「美人」ということばが女性に対してもつ抑圧的な性格を減殺することを目的としてか、「美人」をめぐる言説の傾向──少なくともオピニオン・リーダーと目される人びとのそれは大きく変化してきている。大まかに言って流れは、「顔かたちの整った人」といったビジュアル的なものから、「内面から輝く人」といった非ビジュアル的なものへと、「美人」を定義しなおす方向にむかっているようだ。いっとき流行った「性格美人」「性格ブス」といったことばなども、この流れの延長線上に位置づくものと考えることができよう。
けれど、では男たちが日常の場面で「美人」ということばをそのような意味で用いるようになったかというと、おそらくそうではなかろう。多くの男性が「美人」ということばを口にし、あるいはイメージするとき、そこに立ち現れる表象は従来どおり、視覚的に捉えうる「美」の基準にかなったそれにほかならない。どのような顔をもって「美人」とするかの尺度は変わろうとも、顔かたちという視覚的な要素を対象として、いまなおふりわけがなされていることに変わりはないのである。「美人」とはなにかを定義しなおそうとする試みを評価すべきかどうかとは関わりなく、日常の文脈において、「美人」がそのようなものとして理解されている事実は押さえておかなければなるまい。
では、「知的な美人」「意志的な美人」といったものの存在はどう考えたらいいのか。実は、一見、内面的な要素を考慮に入れたかにみえるこれらも、基本的には上述の枠をはみ出すものではない。確かにここでは、知性や意志といった内面的な要素が評価に関与してきている。しかし、注意深く考えてみれば明らかなように、「知的な美人」ということばが表現しているのは、知性的であることそれ自体が「美しい」といった類のことではない。そこに表現されているのは、内面的な知が顔に特定の表情を与えることで、顔そのもののもつマテリアルな要素に付加価値をつけたすといったことだ。
もちろん、そのことによって、素材としての顔そのもの、あるいは、装いだけを対象に、なにが「美しく」、なにが「美しくない」かを判断するよりは、「美人」という範疇にはるかに大きな幅が与えられるかもしれない。しかしながら、それは、あくまでも素材としての顔の造作に制約されたものにすぎないのである。知的な女性がすべて「知的な美人」であるわけではない。旧来的な「美人」の範疇からは多少外れるにしても、一定の要件を満たす容姿のもち主が知性をも兼ねそなえたとき、はじめて「知的な美人」と認められるのである。したがって、どれだけ知性に磨きをかけようとも、ただ「知的な女性」としか呼ばれない女性も存在しつづける。内面からにじみ出る要素を加味しているかにみえるこれらのことばも、結局のところは、ビジュアルで捉えうる部分にのみ焦点をすえた、以前からの「美人」のバリエーションにすぎないということだ。
3.「美人」ということばの力
「美人」がそのように、顔の造作や装い、そこに宿る表情などから定義されるものである限り、視覚を欠く者が、「だれそれは美人である」「だれそれは美人でない」と直接同定することは不可能である。この点は、誰もが認めるところだろう。ナイーブに考えれば、ここから導き出される結論は、全盲や重度の弱視者にとって、「美人」であるかどうかは性的関心の外部にあるということになる。しかし、先にも述べたように、「美人」を知覚することができないはずの盲人もまた、「美人」に性的な興味をそそられ、惹きつけられるのである。それは、どうしてなのだろう。そのしかけを理解するためには、「美人」ということばが指し示す内容を知覚することが可能であるかどうかとは関わりなく、「美人」という記号そのものは、ことばというかたちで盲人にも届いている事実を確認しておく必要がある。
たとえば、盲人である私が晴眼者の友人と連れだって歩いていたとする。そのとき、道の反対側からひとりの女性がやってくる。いや、この時点では、それが女性であるかどうかは私にはわかっていない。ただ、足音や気配で人が近づいてくることが察せられるだけだ。やがて、私たちは彼女とすれちがう。彼女との距離が、もはや会話を聞きとがめられることのないくらいにまで広がったところで、友人が私にこう語りかける。「いますれちがったコ、すごい美人だったぞ」。彼のこの発話でもって、私ははじめて、さっきすれちがった人物についてのいくつかの情報を知る。それが女性であること、しかも、「コ」と表現されるくらいだからおそらくは若い女性であろうこと、そして、その女性は「美しい」ということ。こうして、盲人である私も、彼女が「美人」であることを知る。そして、この「美人」ということばに、否応なく私は反応してしまうのである。
こうしたケースに限らず、「美人」ということばは現実の「美人」よりももっと大量に、私たちの周囲に氾濫している。テレビドラマのなかに、点字本のなかに、喫茶店での会話のなかに、記号としての「美人」は存在しているのである。そして、盲人とて、そのことばを無意味な音・文字の羅列として受けとめているわけではないのだ。
ところで、そのような「美人」ということばに対する盲人の反応には、少なくとも二つのパターンがあると考えられる。ひとつは、中途失明者の一部にみられるように、かつて自身の目でとらえた「美人」の像が記憶のなかにとどめられていて、「美人」という記号を受け取ると同時に、それら記憶のなかの「美人」が視覚表象として惹起するといった場合である。
たとえば、ある盲人男性は、ほんの2〜3年前までは晴眼者として数多くの「美人」をその目で見てきた。実際にはある程度の変形をともなっているのかもしれないが、そのうちのいく人かの顔は、失明後も彼の記憶のなかにとどめられている。「美人」ということばを耳にするとき、彼は、それら記憶のなかの「美人」のうちの誰か、あるいは複数を思いうかべるという。「思いうかべる」といっても、意識的に思い出そうとするわけではない。「美人」と聞いたとたんに、頭のなかに彼女が現れるのだそうだ。そして、彼はそのようなイメージをもとにその女性に性的な関心を抱くようになる。「美人」ということばが指し示す当の本人と、頭のなかに思い描かれた「美人」の像が、まったく別人のものであるにも関わらずである。
いまひとつのパターンは、「美人」とはどのようなものであるか、これまで一度も自身の目で確認したことのない者や、以前にそのような経験はしているが、もはや記憶のどこを探っても、視覚的に「美人」をイメージすることなどできない者の場合である。この場合、「美人」ということばは、「美人」ということばそれ自体として性的な関心と結びつく。晴眼男性がヘゲモニーを握る現在の文化においては、性的対象として女性を語る際、「美人」であることはなによりの価値として位置づけられている。「不美人」よりは「美人」を好ましく思う感覚は、なにが「美人」の要件か、誰がそれに該当するかを確認しえない全盲者や重度の弱視者にもかなりの程度共有されている。確かに、「美人」がどれほどのインパクトをもつかは、視覚的な記号としてそれを知覚することのできる者と、あくまでことばとしてしかそれを知覚することのできない者とでは、相当のちがいがあるかもしれない。けれども、そうであるとしても、盲人もまた「美人」に惹かれ、「不美人」にネガティブな感情を抱くことがある。私は、つぎのような話をある盲人から聞かされたことがある。
彼にはつきあっている女性がいた。ある日、晴眼の友人に彼女を紹介した彼は、後日、その友人から、「お前の彼女、あまり美人じゃないな」と言われ、ショックを受けたという。彼は、それ以来、自分のなかでの彼女の評価がなんとなく下がってしまったようだと語ってくれた。友人のことばを耳にするまでは、彼にとって彼女の容姿がどうであるかはほとんど気にならなかったのにである。
もちろん、このケースでは、「あまり美人じゃない」女性を恋人にもつということの別な意味についても考慮しておく必要があろう。つまり、少なからぬ男性にとって、恋人は単に恋愛の対象であるのみならず、自分を他の男たちから差別化するための「アイテム」でもあるという点だ。そのことだけを目的に恋人を選ぶではないにせよ、彼女が「美人」であるということは、性的な欲望を満足させるだけでなく、一種の優越感をも男たちにもたらす。逆に、恋人が「不美人」であることによって、「負けた」という感覚を抱く男性も少なくない。こうした事柄に一喜一憂することがいかにばかばかしくとも、ゲームに熱中する男たちには、そうしたばかげた己の姿は見えておらず、仮にそのことに気づいたとしても、ひとりゲームからおりることを、他の参加者はたやすく許してくれないのである。
「美人」に、そのような差異表示記号としての意味があるとすると、先の彼が恋人への評価を下げたのは、欲情をかきたてる要素が減衰したためではなく、彼女といることで、他の男たちからマイナスの評価を受けると考えるようになったためかもしれない。あるいは、両者の総和が、彼のなかでの彼女の評価を以前とくらべ低いものにしたのだろうか。このあたり、先の発言からだけではどちらとも判断がつきかねるが、いずれにせよ、そのことばの指し示す内容を確認することのできない彼が、「美人」ということばにふりまわされている点は疑いようのない事実である。
このように、私たちが日々用いることばの体系のなかに、「美人」は確固たる位置を占めている。この枠のなかにくらす限り、盲人もまた、「美人」という記号が生起する意味から容易に逃れることはできないのである。
4.「美人」からの自由
これまでフェミニズムは繰り返し、男による一方的な女性の「美」の定義や、女性の価値を「美」にのみ還元してしまう男性優位社会のあり方を批判してきた。そうしたフェミニストの告発は妥当なものだし、その意味ですべての男性は加害者としての責任を問われざるをえまい。しかし、集団としての男性が加害者の位置にいることはまちがいないとしても、個人のレベルでは、時として男性もまた、このことから被害を被ることがありうる。たとえば、「美人であるかどうか」をパートナー選びの基準から外した男性は、彼にとってはゆずることのできない基準によって恋人を選んだとしても、周囲の男たちからは「見る目のないオトコ」とラベリングされてしまう。もしかすると、そのことにより彼は、ある問題に関しては、友人グループのなかで発言権をまったく失ってしまうかもしれない。ばかげてはいるが、そのようなばかげた文化を少なからぬ男たちはいまなお生きつづけているのである。また逆に、「美人であること」に至上の価値を認め、他の要素を犠牲にしてでもそれを優先して彼女を選んだ男性のなかには、パートナー関係の多様な可能性を知ることなく、恋愛に失望していく者がいるかもしれない。いずれの例も、女性が被るそれとくらべれば、その被害性はくらべものにならないものかもしれないし、抑圧の主体が同性である点も異なっていよう。けれど、男性が常に加害者としてだけ存在するわけでなく、加害者であると同時に被害者ともなりうる可能性があることにも気づく必要がある。
こうした、集団としては加害の側に立ちながら、個人としては、ときに被害者ともなりうる男性一般のジレンマもさることながら、盲人男性はさらに複雑な位置におかれている。盲人男性もまた、「美人」ということばを無批判にもてあそぶという点では、晴眼男性同様、まちがいなく女性の抑圧に加担していると言えよう。けれど、男性ではありながら盲人男性は、少なくとも、一方的な「美」の定義の決定過程にはくわわっていない。対象を知覚することのできない盲人に、誰が「美人」か、なにが「美しい」かを決めることはできなくて当然だ。盲人にできることは、ただ、晴眼男性らによって定義された「美人」ということばの流通過程にたずさわることだけである。しかも、そのことばの使用にあたって盲人は、必ずなんらかのかたちでのエージェントを必要とする。「誰それは美人である」との晴眼者の支持がなければ、盲人はその女性の「美貌」について語ることができない。「こういった顔だちは美しい」とのことばがなければ、盲人は女性の「美しさ」一般についてすら語ることができないのである。
そうであるにもかかわらず、前節でみたように、盲人男性は「美人」ということばに反応し、性的な興味をおぼえてしまう。「美人」に関する限り、盲人男性はまさに「盲目的」に晴眼男性たちに追従しているのである。そこでは、セクシュアリティをめぐる自己決定権の一部が明らかに剥奪されている。その意味で盲人男性は、「美人」に過剰な意味を付与する現行男性文化による被害を大きく被った存在であるということができる。私たち盲人男性がセクシュアリティにおける自己決定の幅を少しでも広げようとするならば、こうした「美人」の呪縛から逃れる手だてを考えなければならないだろう。
《註》本稿で私は、「視覚障害者」ではなく、「盲人」ということばを一貫して用いた。
このことばは、「障害者」なる〈名づけ〉が近代医学によりなされるはるか以前から、
当事者が自らを指すことばとして使われてきたものである。最近では、若い世代を中
心に当事者のあいだにも「視覚障害者」という呼称が広がりはじめているが、私とし
ては、長い歴史のなかで築き上げられた独自な文化と結びついた「盲人」ということ
ばを積極的に用いていきたいと考えている。