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挑戦し続けよう

第4回ピープルファースト世界大会(アラスカ)に参加して

寺本 晃久 19980925 『季刊福祉労働』80:131-134


 ついに、ピープルファースト世界大会に参加する機会を得ました。この大会は知的障害・発達障害をもつ人々が中心となって開催され、五年に一度、世界各地で開かれています。第一回は一九八三年、アメリカのワシントン州シアトル市で開かれたのを皮切りに、一九八八年ロンドン市ストロベリーヒルで、そして一九九三年カナダ・トロント市で開かれました。第三回大会には日本からも約八〇名の人たちが参加しています(このときの様子は本誌六一号でも特集されています。その他、八巻純「ピープルファースト国際会議に参加して(1)(2)」(『手をつなぐ』一九九三年九,一〇月号)、堤愛子「ピープルファースト日記」(『ジョイフル・ビギン』1〜4))。
 このとき初めてピープルファーストを目の当たりにし、海外の参加者の活発な発言や進んだ活動にただただ驚いて帰ってきたそうです。それから五年の月日が流れ、カナダに行った人たちの何人かは、その後のアメリカ国内大会などに参加した人や、まわりの人たちと一緒に、各地で自分たちが集まる場をつくってきました。たとえば一九九四年から、毎年、全国的な交流集会を独自に開くようになりました。最初から約百名の参加があったのですが、昨年の集会では五百名を越す人々が集まりました。現在、私がお手伝いをしているピープルファーストはなしあおう会も、一九九五年に東京で全国交流集会「東京で・はなしあおう会」の開催をきっかけにして結成され、今では、地域福祉財団の援助により、全国でおそらく初めての有給・専従の障害者事務局員と支援者をおけるようになっています。
 こうした国内での展開を受けての、今回の世界大会の参加でした。前回の参加のとき、知的障害の当事者は二〇名程度でしたが、私たちのツアーの参加者三十四名(通訳・添乗員を除く)のうち、半数以上は知的障害者で、しかもそのほとんどは当事者活動の関係者です。

 内容はもりだくさん
 今回の第四回大会は「挑戦し続けよう」という題名で、四月二十三〜二十五日の三日間、アラスカ州アンカレッジ市の中心にあるイーガン・コンベンションセンターで開かれました。大きなホールの全体会会場には、十八カ国から来た約千人の参加者でいっぱいでした。
 大会は全体会と分科会で構成されていて、全体会では、ジュディ・ヒューマン(自立生活運動のリーダーで、現在は合衆国教育省次官。しかし欠席で、原稿を代理の人が読んでいたけれど)や、TASHという全米の障害者団体のマルシア・ロスらがスピーチし、障害種別を越えてつながろうとする運動の広がりを感じました。また、国連が大会のスポンサーとなったのですが、国連社会政策・開発局(Division for Social Policy and Development)の伊藤亜紀子さんが、基準規則(Standard Rules)についてわかりやすく説明しました。ひきつづいてのシンポジウムでは、世界の5つの地区のスピーカーがそれぞれの国の障害者の置かれている状況を訴えました。
 分科会は、「地域で暮らす」「バリアをこわす」「法律を知る」「他の団体と協力する」「障害者の権利」という5つの大きなテーマの中で五十一の分科会にわかれて、さまざまな国や地域の代表たちが、それぞれに報告したり意見交換をしました。分科会の多くは地域生活や日常的な差別や権利に関することがらで、施設を閉鎖するための取り組み、仕事の探し方、介助者とのつきあいかた、自立生活について、あるいは各地のピープルファーストの活動紹介やリーダー研修、強制的な避妊手術に対する反対、といったテーマがありました。
 朝からの会議の後は、毎晩、ダンスやカラオケ、アラスカの民族衣装のファッションショーなどで楽しみました。

 積極的な参加
 一日目朝の全体会で、オハイオ州で活躍するセルフアドボケイト(欧米ではピープルファースト運動を担う障害当事者のことをこう呼んでいる)、T・J・モンローが、「今回の大会で話したいことがある人は前に来て話して下さい!」と呼びかけると、彼の前には次々に集まってきて列ができました。そのとき、大阪から参加した生田さんが、サングループ事件についてコメントしました。それを壇上で聞いていたT・Jは、後日「日本にそんなひどい虐待事件が起こっているのか?」と、生田さんを見つけて意見交換をしました。彼は「日本の障害者の力になりたい。ぜひ私を日本に呼んでくれ」と言い、生田さんも「がんばりたい。ぜひ来て下さい」と答えていました。
 また分科会でも、たとえば仕事についての分科会の中で、アメリカの人たちに混じって活発な発言がありました。
 そして今回、私たちは分科会を二つ担当しました。ひとつは日本のピープルファーストの活動について、私たち東京のグループと、ピープルファースト横浜、大阪のなかま会から報告をしました。また、大阪で普段から行っているワークショップを簡単にしました。サングループ事件を紹介し、会場から感想や同じように職場でたいへんだったことや暴力を振るわれた経験が何人もの口から語られました。
 もうひとつの分科会は、「施設を出てくらす」というテーマで、施設を出て自立生活を送っている方とそれを支援している自立生活センターの方がそれぞれに、施設を出た理由、自立生活の良いところ、悩み、問題点、自立にいたる経過などを話しました。
 三日目の午後、香港のピープルファースト「Chosen Power(チョーズン・パワー)」との交流会をしたとき、日本の人が「”超人パワー”ってどんな力があるの?」と質問しました。それで「超人じゃなくてチョーズン、英語のグループの名前だよ」と言って一同大笑い。ところが、代表のレイモンドによると、チョーズン・パワーとは「とても大きな力がある」という意味で、「超人パワー」もあながちはずれていないとわかり、またびっくり。また、自閉症のため、他の人が話しているときでもおかまいなしにわいわい話している方がいましたが、レイモンドが「彼は何を言っているの?」と近寄っていき、周囲の注目が彼に集まった途端、急に黙ってしまってあぜんとしていたのはおかしかった。

 日本に帰ってきて
 私が一九九四年に全米セルフアドヴォカシー会議に参加したときには、大規模な大会運営と、参加者の強烈な自己主張や二十五年の運動の進展に、ただただ圧倒されたのを覚えています。しかし、今回、日本の人たちがたいした違和感もなくむしろ積極的に参加できているのを見て、この四、五年の間の時の流れを改めて実感しました。もちろん、海外のこのような大会に参加したことのある人が多かったということはありますが、本当に、普段の生活や活動でやっていることをそのままやっていたし、むしろ旅の中でより解放された感じでした。みんなとても元気だったし(夜、寝ている間に同室の方が外に出ていったりしてあせったけれど、幸い、アンカレッジは安全だったようだ)。私自身、前回大会の話をいろんな方から聞いていてとても期待していたのですが、結局、日本も外国も言っていることは同じなのです。「施設をなくそう」「差別するな」という単純明快な主張。「どうしたらグループをまとめられるか」「援助者とうまくつきあうには?」「仕事がなくて困っている」など、疑問や悩みも同じ。
 今から思えば早かったとも思うし、端から見れば順調に行っているところもあるかもしれません。けれども、メンバーも支援者も、試行錯誤しながらも何とかここまでやってきているのもまた現実です。
 私も一応、設立以来ピープルファーストの「支援者」として関わってきたけれど、どうすればいいのかよくわからなかったし、たくさん失敗もしてきました。必要な支援がされないこともあったし、意見を聞かなかったり、勝手に先回りして行動してしまったり。今回のツアーでも、すんなりいったわけではなく、いろんな葛藤がありました。
 一方で、一週間ずっと一緒にいて、みんなすばらしいなあと改めて感じました。世間的には問題行動であったりわがままと捉えられるかもしれないようなことでも肯定的に考えられるようになりました。今、ピープルファーストの人たちと一緒に活動したり話しあったりするのがおもしろい。障害の重い軽いはたいして関係がないように思う。障害よりも、ひとりひとりの気持ちが大事だ。また、「どういう支援が良い支援なのか」としばしば語られたり聴かれたりしますが、むしろ私たちにとって重要だったのは、特定の支援者との関係だけに閉じるのではなく、ただ私たちの周りにはさまざまな人がいて、さまざまな関係があったことでした。
 最後に、今回のツアーのためにご協力下さった旅行代理店の方々、通訳の方々に、この場を借りてお礼申し上げます。


UP:1998 REV:20081127
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