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「ロシアの見捨てられてきた子供たち」

西村 洋子 『季刊福祉労働』78:134-144

last update: 20151221



ロシアの見捨てられてきた子供たち
                      西村洋子(米国在住)

『季刊福祉労働』78:134-144


はじめに
アンドレイが歩こうとしている! わたしはびっくりした。
知的障害と身体障害を併せ持ち、孤児院で暮らす六歳の少年は、ふだ
ん膝にのせて話しかけてもほとんど反応がない。ブロンドの髪に色白の
きれいな顔は、いつもぼんやりどこかを眺めているだけだ。ベンチに横
たえられたままで、自力では座っていることもできない。ところが、あ
るときわたしが両脇を支えてやると、枝のように細く曲がったままの足
を片方ずつ前に出そうとするではないか。ぎこちなく、つっかかりなが
ら、本当に少しずつ、確かに彼は、歩こうとしていた。しかし、両足と
も膝が伸びない彼は、自力では立っていることもできない。支えるこち
らも、六歳の体をずっと中腰で持ち上げてはいられない。
 ここはモスクワの孤児院の一室。多分、これまでに彼に歩く訓練をし
てくれた者は、この孤児院にはいなかったに違いない。歩行を助ける器
具もないし、あっても部屋は狭すぎて使うスペースがない。あまり光も
入らない一〇畳ほどの部屋は、並べられた粗末なベッドが空間のほとん
どを占めている。
「もっと早く、赤ん坊の時に、足に適切な処置をしていたら歩けるよう
になったでしょうに。今からでは、マッサージしてもあの足は伸びない
でしょうね」
リハビリの専門知識のあるスーザンが、残念そうにつぶやく。
一九九七年春までモスクワに在住していたわたしは、週に一、二回、
モスクワの孤児院を訪ねてボランティアとして子供の世話をしていた。
知的障害のある子供たちを収容するこの孤児院には、六歳から一八歳の
子供たち、一五〇人が暮らしていて、わたしが外国人女性五人の仲間と
ともに訪ねるのは、その中でも最も症状の重い、年少の子供たちの部屋
だった。
わたしたちが帰ったあとは、少年はまたベンチに寝かされるだけだろ
う。この部屋には二〇人近い子供たちがいるが、その世話には、通常た
った一人の保母がいるだけなのだ。
「でも、今からでも手術すれば、立てるようになるかしら」
わたしの問いにスーザンは溜息をついた。「なるわよ。でも、知的障
害のある施設の子供に、この国で誰が手術を受けさせてくれるかしら」
それがこの国の現実なのだ。

ソ連社会では、知的障害者は「二級市民」と位置づけられて、施設に
隔離されるのがシステムになっていたと言える。予算の少なさと施設職
員の意識の低さが相まって、子供たちの置かれた環境は劣悪にならざる
を得なかった。部屋にはおもちゃもほとんどなく、子供は成長に必要な
外部からの刺激を受けられず、発達がなお一層阻害される。リハビリ用
の設備も不足しているし、職員には活用の意欲もノウハウもない。保母
の多くは、この子供たちには治療の価値はなく、育っても仕方がないの
だと思い込んでいるようだ。
この子供たちのほとんどは、親にも見捨てられている。親には子供の
教育や情報収集のための手段がなく、社会にサポートの制度が存在しな
かった。医者は治療のためのアドバイスをするより、障害児は施設に入
れるように圧力をかける。このため九五%もの親が、子供を手放して施
設に入れ、関係を切ってしまうと言われている。こうした子供を、唯一
愛情を持って懸命に育ててくれるはずの親から引き離してしまうところ
に、このシステムの最大の悲劇がある。

わたしが夫の勤務地だったモスクワに住んだ二年半の間に、市場経済
への移行過程にあるロシア社会は、急激な変化を遂げていた。通貨ルー
ブルの劇的な下落、失業や賃金の未払い、犯罪の増加。マフィアや一部
の金持ちが勢力を伸ばす一方、困窮家庭やホームレスが増えている。そ
して、社会が外に開けてきて、これまで隠されてきたソ連の暗い部分が
明るみに出始めたという面もある。障害のある子供たちの人権の問題も
、やっとメディアに取り上げられるようになってきた。
わたしは、モスクワに在住する外国人女性がつくるボランティアグル
ープ「ARC(ロシアの子供を助ける会)」で、孤児院や障害児教育施
設を支援する活動に携わった。東京ではテレビ局に勤めていたわたしは
、障害児問題に関する知識は少ない。しかし、ARCの仲間や教育関係
者の話を聞いているうちに、この国では、障害児に絶望的な状況が作り
出されてきたのだということがわかってきた。
社会主義ソ連は、国家を一つの大きな組織として分業体制を築いた。
障害児の養育も、労働者が国家のために十分その役割を果たせるように
、手のかかる養育は国家が引き受けようという発想である。保育の費用
は無料だし、成人後も衣食住は保障された。しかし、そこには、子供に
いかに愛情が必要であるかという根本的な発想が欠け、子供たちはかろ
うじて生かされていたに過ぎない。
いま、ソ連は崩壊したが、やってきたのは弱肉強食の社会であり、障
害児にとって明るい未来が見えてきたわけではない。ただ、これまでな
かった教育施設が民間の手でつくられ、情報も以前より手にはいるよう
になった。障害児教育のいろいろな可能性が生まれてきて、障害児をも
つ親が、子供を手放さずに手元で育てられるかもしれないと思い始めて
いる。

一、モスクワの孤児院
まだ町の至る所に、泥で汚れた雪の山が残っているころ、第一七乳児
院を訪れた。冒頭の孤児院より小さい子供のための施設だ。庭では、防
寒着でまん丸くなった四歳ぐらいの子供たちが雪のスロープの上を、プ
ラスチックのそりで次々滑り降りていた。
子供たちは、わたしたちを「チョーチャ(おばさん)」と呼ぶ。知能
は全く正常に見える子供もあれば、情緒不安定気味だったり、会話ので
きない子もいる。アリシアは、少し気に入らないことがあると、すぐに
相手をたたく。まつげが長いコーリャは、五歳になるのに、わたしの隣
にうずくまるように座って「チチチ、チチチ」としか言わない。
この子供たちの多くは、孤児ではない。親に育てる能力がなかったり
、知的な障害があるとみなされた子供たちが、収容されているのだ。初
めは親や家族も会いに訪れ、週末には自宅に連れて帰ることもある。し
かし、だんだんと会いに来なくなり、親権を放棄するパターンが多い。
外で遊べる子供たちのほかに、もっと症状の重い子供たちのグループ
があると聞いて、その部屋を訪ねた。知的障害に加えて、身体障害も併
せもつ子供たちが一五人。五人ほどの保母が面倒を見ている。
部屋の中央には、一畳大のベビーベッドが置かれ、そこに赤ん坊が四
、五人寝かされている。ベッドにはおもちゃが上からぶら下がっている
が、安物のおもちゃですら、一人が一個もてるほどの数はない。赤ん坊
たちは、ほとんど動かずじっとしているか、ぎゃーぎゃー泣いている。
泣いても、保母はなかなか来ない。
部屋の奥には、二歳のときに脳に障害を負って、全身が麻痺した五歳
の少年がいた。わたしが近づくと、本当に嬉しそうに笑顔を見せた。彼
は、粗末なベッドで横になったままひっそりと暮らしている。おもちゃ
もテレビもなく、あまり話しかけられることもなく、硬直していく手足
をマッサージしてくれる人もいない。
隣のベッドでは、かつて精神病院で使われた拘禁服のようなものを着
せられて腕も動かせない少年が、横たわったまま無表情に何もない天井
を眺めている。手を自由にすると自傷行為をするのだ、と保母が説明し
た。しかし、自傷行為を止める治療や訓練などが試されている気配はな
い。

子供が共同生活をする施設は、この乳児院のような零ー四歳の幼児の
ための施設と、冒頭で紹介した孤児院のような四ー一八歳の青少年ため
のの施設とがある。前者は保母の数も多く設備はそう悪くないが、青少
年の施設に移ると生活環境はぐっと悪くなる。
青少年施設は、障害の程度で分れており、三、四歳の時に医師ら専門
家からなる委員会が診断を下すことになっている。知的障害は三つのラ
ンクに分類され、軽度の症状の子供は、仕事や家庭をもてる可能性が残
されているが、中度と重度の子供は施設で一生を終えるしかない。症状
の重い子供の施設ほど待遇は悪くなり、子供の一生はこの振り分けの段
階で、決定づけられてしまう。特に、自分で食事をすることのできない
子供は、青少年施設では生きぬくことができないと言われる。
一、二年前に撮影された障害児施設の映像を見せてもらった。薄暗い
大部屋の両側に並んだ子供用のベッドには、骨と皮ばかりの裸の子供た
ちが横たえられている。ベッドに手を縛り付けられている子供もいる。
拘禁服を着せられ、身動きもできずにいる子。気怠そうに、ただ壁を見
つめる曇った瞳。
「七〇人の子供に対し、世話をする職員はたった二人しかいなかったん
です。世話も何もあったものじゃない」
VTRを見せてくれたロシア人の教育者が解説する。六〇〇人の収容
児のうち、一冬に二〇人の子供が死んだという。
 なぜそれほど施設の生活環境は悪いのか。社会から隠されてチェック
の機能が働かないこともあろう。また、保母の給料が極度に低いことが
、これに拍車をかけている。
市が保母たちに支払う月給は約一七万ルーブル。四千円に満たない額
だ。日当ではない。月給だ。一か月のバス・地下鉄の定期券代にすら足
りない。ロシアの月給の平均は一万五千円程度といわれるが、インフレ
が急速に進んで物価はけっして安くない。
「この給料の額を見てください。これでは職員は集まらないし、仕事を
かけもちでもしなければ、とても生活できません」
施設で、子供に対する世話が十分でないのではないかと質問すると、
決まって返ってくる答えだ。どこも職員は定員の半分から三分の二程度
しか確保できず、自分の子供が入所しているからという人が多い。
 施設の財政は近年では改善されてきて、市が子供一人の生活費として
施設に支払う金額は五四万ルーブル(約一万二千円)となっている。保
母の給料はこの三分の一に過ぎず、子どもに接する職員の待遇は忘れら
れている形だ。
また、親が手元で育てている場合の手当ては、その子供が施設で育て
られる場合の経費よりも少ない。関係者の話では、障害の重い子供では
施設で二〇〇万ルーブルかかり、それを政府は支払っているのに、自宅
で育てる親には三〇万ルーブルしか支払われない。自宅での養育をさら
に不利にしているわけだ。
もっとも、青少年孤児施設も、近年は財政的にも改善され、スポーツ
や手芸などに力を入れている施設もあったし、わたし自身、子供への世
話を改善しようと努めている職員にも何人も出会った。そうした意欲の
広がりを願うばかりだ。

二、ダウン症児に教育を
先天的な染色体異常であるダウン症候群(以下ダウン症)の少女ナタ
ーシャは、五歳の時にそれまでの幼児施設から障害児施設に移ってきた
。幼児施設では職員が食事を食べさせてくれたが、ここではそこまで面
倒を見てくれない。ナターシャは栄養失調で痩せ細り、一七キロあった
体重は、八歳の時には六キロにまで減っていた。同じ時期に収容された
ほかの二人の子供はすでに死亡。ナターシャも、死を待つばかりだった

そんなナターシャを救いだしたのは、ダウン症協会のセルゲイ・コロ
スコフ氏だった。彼は周囲を説き伏せて、少女を入院させた。病院はダ
ウン症児の治療に熱心ではなかったが、それでも三か月後には、ナター
シャの体重は倍に増え、再び歩くまでに回復した。
コロスコフ氏によれば、ソ連では、ダウン症の子供は「まったく学ぶ
能力はなく、治療法もない」と決めつけられ、努力を払う価値のない存
在として施設で放置されてきた。
「ロシアで施設に入れられたダウン症の子供はたいてい死ぬ運命にある
。九六年中に生まれた一二五人のダウン症児のうち、すでに半数が死亡
した」(ヨーロッパのダウン症児支援団体「ダウンサイドアップ」機関
紙より)というショッキングな報告もある。
コンサートピアニストとして働いてきたコロスコフ氏は、彼自身が七
歳になるダウン症の娘ベラの父親である。彼は、娘が生まれたとき、こ
の国の知的障害者に対する冷酷な姿勢を思い知った。
「この子が産まれたとき、医者はこう言いました。『この子は一生、話
すことも自分の世話をすることもできませんよ。子供の世話であなたが
働けなくなったら、どうやって生活するんですか。悪いことは言いませ
ん。子供は施設に入れなさい』ってね」
こう言われて、ほとんどの親は自分で育てるのを諦めてしまう。その
まま子供を見捨て、生まれなかったものと考えることにする。
コロスコフ夫妻は、医者に見捨てられた子供を、自分で育てようと決
意した数少ない勇気ある親の一組だった。しかし、ソ連では、ダウン症
児の教育のための情報は手に入らなかった。他の国々では、すでに教育
方法が開発されていたにもかかわらず、ソ連は知的障害児を生かすため
の情報には関心がなかったように思われる。
 ソ連にやっと自由の風が吹いてきたとき、コロスコフ氏は外国に出か
け、ダウン症児をもつ親たちに出会い、オーストラリアのマクワリ方式
という教育方法について知った。ベラをこの方法で育てると同時に、他
のダウン症児の親にも紹介しようと翻訳も作った。
「あの時、マクワリ方式に出会えていなかったら、どうなっていたでし
ょうね。そう思うとぞっとします。少し前までは、外国との交流自体が
不可能だったわけですから。それに、民間の組織を作ることもできなか
った」
七歳になるベラは、部屋をあちこち走り回り、やんちゃにわたしに話
しかけてくる。普通の子供よりずっと手はかかるのだそうだが、見た目
はあまり変わらない印象だ。こうしたベラの成長を見てきただけに、コ
ロスコフ氏には、施設で何の刺激もなく、ただ死を待っている子供たち
のことが放っておけない。
 彼は、一九九三年にダウン症の子供とその親を支援する協会を設立し
、施設にいる子供たちの救援活動も始めた。ヨーロッパの援助団体など
から贈られた資金で、施設に人を派遣し、家族に教育方法などの情報を
流布する活動を続けている。協会で雇って派遣している人員は、今や八
〇人にのぼっている。

三,間違ったレッテル
誤った認識で『学ぶ能力なし』と判断されてきたのは、ダウン症児ば
かりではない。妊娠中の母親の病気や生まれたときの状態などから、出
生時に予備的な烙印が押される。実際の判断は三、四歳になったときだ
が、出生時の烙印が先入観を生むし、それまでにすでに施設に入れられ
て発達が阻害されていることも多い。生まれたときから刺激のない施設
に放置されたら、正常なコミュニケーションができるようにはならない

身体的に障害があるだけの場合でも、話すことができないために知的
障害もあるとみなされることも多い。脳性マヒでは、半数ぐらいが知能
は正常だときいたが、脳性マヒ、すなわち知的障害と診断される傾向は
強い。
こうしたロシアの障害児の現状を憂慮し、国際人権養護機関CSIは
、一九九一年にモスクワとサンクトペテルブルクにイギリス人の専門家
らによる調査チームを派遣した。そこで彼らは、知能が遅れているとみ
なされている施設内の一歳から一八歳までの子供たち一七一人に対して
、一、二種類の知能検査を行なった。その結果、このうち三分の一から
三分の二の子供たちは、平均的または平均以上の知能をもっていると診
断したのだ。
「知的障害」とのレッテルが貼られると、受けられる教育のレベルが
落とされ、仕事を選択することも許されなくなる。結婚や家族を持つこ
とはできないし、選挙での投票も車の運転も認められない。
子供たちが、孤児院の後の人生を送る場所を見学させてもらった。モ
スクワの中心部からおよそ一時間、一八歳からお年寄りまで、知的障害
をもつ五〇〇人の人々が生活する施設がある。広大な敷地に、五、六棟
の建物が建ち、周囲はコンクリートの壁で取り囲まれている。人里離れ
ているわけではないが、周囲は小さな工場などがある程度だ。
男性、女性の部屋は階が分かれ、三、四人が一二畳ほどの広さの一部
屋に住む。多くの部屋にテレビや個人のロッカーがあり、部屋は小綺麗
だ。ベッドのまわりを、写真や小物で飾っている者もある。
案内してくれたがっしりした男性職員は、必要なものは何でもそろっ
てますよ、と自信たっぷりだ。しかし、女性の部屋でもノックもしない
で開けてしまうことに、こちらは戸惑う。社会主義のもとでは、プライ
バシーの観念がなかった。それは、変わっていない。 施設内の作
業所では、廊下の壁を埋め、天井まで届く菓子箱の山がまず目についた
。ここの作業は、主に菓子箱折りと段ボール箱作り。雑然とした大きな
部屋で、男女一緒にひたすら箱を折っている。これは長年、彼らの収入
源となっていたのだが、今のロシア経済の沈滞で、受注は以前の一〇分
の一ほどに落ち込んでしまったという。
施設内で結婚はないのか訊ねてみた。
「ありません。結婚しても生活能力がないのですから。でも、現実問題
としては起こるわけです。」
つまり、妊娠する女性はいるというのだ。
「でも育てられませんから、中絶させます」
そのあっさりした言い方に、わたしの方がどきりとする。困難である
ことはわかるが、そんなに大事なことが頭ごなしに決められていいのだ
ろうか。施設内で出会った人々は、普通に話し、生活している。この人
々全員が、基本的な人間としての生活を完全に否定されるほどの障害を
もっているとは思えなかったし、どんなに障害が重くてもそれは否定さ
れうるものではない。
これほどの苛酷な運命が、もしも誤診のために降りかかるとしたら、
それが放っておけるだろうか。親に見捨てられた子供たちには、もしい
い加減なレッテル貼りが行われても、誰も守ってくれる者がいないのだ


四、ペレストロイカで変化は始まった
障害児教育を手掛けるモスクワのわたし設の学校「治療教育センター
(The Center for Curative Pedagogics)」は、かつて幼稚園だっ
たという、住宅街の中の二階建ての建物だ。
現在、長期短期合わせて、三〇〇人ほどの子供たちがこのセンターの
プログラムで学んでおり、スタッフは常勤で四〇人、他にも四〇人近い
専門家が力を貸している。自閉症、ダウン症、脳障害や言語障害などの
子供たちに対する効果的な教育方法を研究し、実践している。
センターの創立者の一人、アンナ・ビトバさんが力を込めて言った。
「『学ぶ能力なし』と診断された子供たちの七〇ー八〇%は、適切な教
育さえすれば、普通の日常生活がおくれるようになるとわたしは思って
います」
このセンターは、それまでの障害児教育に強い疑問をもってきた医師
、セラピスト、障害児の親たちが、一九八九年に設立した。
「ペレストロイカのお陰ですよ。ペレストロイカが始まって、この学校
を作ることが可能になったんです」
ゴルバチョフ以前には、国家組織の枠外で、市民が団体や組織を作る
ことが許されていなかった。市民による組織が法的基盤を得たのも、つ
い最近のことなのだ。
アンナさん自身は一〇年間、病院で言語療法士として働いていたのだ
が、子供たちは退院してしまえば、話す訓練を受けられなくなるのが現
状だった。病院の規則では入院は数か月しか認められていず、それが過
ぎたら子供たちはもう学ぶチャンスを失う、そのことに彼女はいつも苛
立ちを覚えた。
センターの中で、知的障害をもつ息子を連れた女性に出会った。子供
は五歳になってやっと話し始めたというが、このセンターに来て顕著に
進歩を見せ、一二歳になった今は書き方や数え方を学び、普通の学校へ
行く準備をしているところだという。
「薬を探し回ったり、いろいろな医師を紹介してもらったり、大変でし
た。でも、わたしはこの子を手放す気はありませんでした」
子供を手元に置こうとする親も増えてきているという。子供が親の元
で育てられるということが最も大事なのだ、とアンナさんが強調した。
 
九一年八月には、自閉症やダウン症などの子供に教育を行う「ロドニ
ク(泉)センター」が、専門家らの手で開設された。
 アパートの二フロア分に、小学四年生から六年生の三クラスと幼稚園
クラスが設けられている。四、五人の子供に対し、先生が二人。大きな
紙にくねくねした線を書く子供、その子に先生がかかりきりになってい
れば、ただぼんやりと座っている他の子供たち。じっと座っていること
もできず、窓から外をのぞいたり、訳の分からないことを叫んだり、壁
をどんどんたたいたりする子もいる。彼らの可能性についてはわたしに
はわからないが、確かに重症だと思った。ソ連時代には、孤児施設に手
放す以外、この子供たちを受け入れてくれるところはどこにもなかった
。手元で障害児を育てている家族が、毎日子供を通学させてくる。
 ある母親に、子供を手放すことを考えたことはなかったかと尋ねてみ
た。彼女は、この学校ができるまで教育の方法もなく、大変な苦労をし
ながら子供を育ててきたに違いない。しかし、彼女は力強い笑顔で答え
た。
「あなたは自分の体の一部を、自分の小指を、切り落とすことができま
すか」
 そこには、子供に対する愛情と母親としての誇りが見えたような気が
した。
九二年に「ウテシェニエ(楽しみ)センター」を開いたビクトル・ユ
ルタイキン氏は、障害児は生後すぐから、まめに経過観察をして、教育
や治療を始めなければならない、と強調する。これまでは、幼児の経過
観察をする機関はなかったため、能力があっても見捨てられてしまうか
、手元においても手遅れになってしまったケースが多かった。
「制度として専門家が診断を下すのは、三、四歳の時点ですが、それで
は遅すぎるのです。また、障害がない子供が産院で誤って判断されて施
設に入れられたら、その子の成長は阻害されてしまう」
彼は産科医院とのネットワーク作りを急いでいる。これまで産院は、
脳や染色体に障害があると思われる子供が産まれると、施設に入れるこ
とを親に勧めてきた。両親には、ほかに相談するところもなかった。こ
れを変えて、ウテシェニエ・センターを訪ねるように勧めてもらうのだ
。九七年初頭で、ネットワークができている産科病院は一二カ所だった
が、これを、もっと増やす努力をしている。
ユルタインキン氏も、子供の教育における親の役割の重要性を強調す
る。
「親が子供と一緒にここに通い、訓練方法を学んで自宅で実践する用意
があることが、このセンターが子供を引き受ける条件です」
しかし、厳しい社会情勢の中、そこまでできない親もいるそうだ。
九三年には、脳性麻痺の息子をもつリディア・イワノワさんが、病院
内で脳性麻痺の子供たちに編み物を教えたのをきっかけに「プレオドレ
ーニエ(克服)センター」を開き、今は英語、手工芸、コンピュータな
どまで教えている。小児麻痺の子供たちの施設という大きな建物の四階
を借りているのだが、建物にはエレベーターの一機もない。
事務所で、小柄でふくよかな顔のリディアさんと会った。この日は息
子も一緒で、細長い部屋の真ん中で、コンピューターの前に陣取ってい
た。息子はもう高校生で、いまだに歩行は困難だが、聡明そうな少年で
ある。彼を病院に見舞いながら、リディアは、こうした子供たちのため
の教育施設が必要であることを痛感したのだ。脳性麻痺の子供は、手足
が不自由でも、知能は正常な子供も多い。リディアは当初のことを思い
出して笑う。
「病院の人たちは、あんなことしても無駄なのに、という目で見ていた
の。でも、子供たちが自分で編み物ができるようになるのを見て、びっ
くりしてたわ」
しかし、どのセンターも財政的に苦しく、教室の確保も難しい。行政
機関の対応も冷たい。現状では、希望する子供たちを全員受け入れるこ
とは不可能だ。「適切な教育」が受けられる機会は、まだ大海の一滴に
過ぎないのだ。また、モスクワ以外の地域では、こうした教育施設はま
だ未発達で、何百キロと離れたウクライナやシベリアなどからも入学希
望者が訪ねてくる。
 アンナさんはこう打ち明ける。
「治療教育センターの場合、就学前の子供で二五〇人、就学年令の子供
で一〇〇人が、順番待ちの状態です。少しでも早く、特別教育が始めら
れればそれだけ効果があるのに、それができません」
 さらに、ソ連崩壊と自由な社会への動きは、外国人がこうした子供た
ちに手を差し伸べることも可能にした。ソ連時代には国内の目にすら触
れないように隠されてきた施設に対し、外国人による訪問や援助が始ま
った。
わたしがメンバーだったARCは、その中でも現地モスクワで発足し
、活動を続けている団体である。モスクワで長年、外国人の女性たちで
構成してきた国際婦人クラブの中で、孤児院訪問や援助活動が始まった
のは一九九一年二月。これを組織し推進した、当時の日本大使館の公使
夫人でクラブの会長も勤めた大島明子さんは、こう振り返る。
「孤児のために企画したパーティや遠足に、ロシア側関係者の子供ばか
りきてしまったり、援助を本当に必要な人のところに届けるのは難しか
ったです」
ARCは、その後独立したNGOとなり、民間の教育施設や保護施設
への資金援助や、海外の病院や援助機関との橋渡しなど活動を広げてい
る。
メンバーの一人、イギリス人医師のジュリーは、適切な治療が施され
ずに放置されている孤児院の子供たちに、手術の斡旋をしたり、資金援
助の調整をしたりするために走り回ってきた。
「今日、やっとカーチャが手術を受けるの」
ある日、ジュリーが弾んだ声で教えてくれた。わたしも、その数週間
前に出会った五歳の少女の顔を思いだした。
生まれつき上顎に損傷がある少女の口元には、三センチはありそうな
出来物があった。唇がなく、代わりに皮膚が外にまくれ上がっていたの
だ。口と鼻孔の境が不完全で、話す能力が劣り、うまく食べることがで
きないため、栄養不良も心配された。このまま孤児院にいたら、死を待
つ子供の一人になっていただろう。
この症状などは、生まれてすぐに手術すれば、ほとんど後も残らない
程度の障害だという。しかし、親に見捨てられた子供の治療に一生懸命
になってくれる人はいず、ARCが治療の手配をしてから、手術を受け
られるまでには一年以上かかったのだ。

 ロシアで求められているのは、援助ばかりではない。もっと、病気や
治療法に関する情報が必要なのだ。
ロドニクセンターで、廊下に座り込んでいた母親の一人が、わたしに
一生懸命に尋ねてきた。子供はてんかんなのだが、日本ではどんな治療
が行われてるのか。
訪れたどこの施設でも、日本での障害児教育について質問された。わ
たしには彼らに答えるほどの知識がなかったが、この国で障害児のため
に働く人々は、外国でのノウハウや情報を求めている。子供を自分の手
で育てたいと願う親は、子供にどう接したらいいのか、何をしてやれる
のかといった情報を得ることに必死だ。
これからこの国の障害児教育野問題を考えていく上で、多くの国の専
門家や関係者との交流が広がっていくことが大変重要になっている。日
本の教育者からも、協力できる分野や分かち合える問題があるに違いな
いと思う。そうした交流や外国からの支援が今後どんどんと実現してい
くことを、心から願ってやまない。



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