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「感動のオリンピック?ふれあいのパラリンピック?」

〈感動のオリンピック〉を考える市民の会

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last update:20190130

プログラム「感動のオリンピック?ふれあいのパラリンピック?」

1 講演「パラリンピックって何?――パラリンピックの歴史と現在」
山本 勝美さん(心理カウンセラー、なくそう優生保護法・堕胎罪、かえよう母子保健・全国連絡会事務局長)

2 発言――私を語る
橋本 和子さん
地域において自分で介助グループを組織して、「自立」した生活を送っている。脳性マヒの障害を持つ。

江沢 正雄さん(オリンピックいらない人達ネットワーク代表)

前田 智子さん(神奈川県養護学校教師)
知的障害者の入所施設職員などに就き、ことし2月に長野市松代町へ移住。 同町にあった朝鮮人「慰安婦」の家を、歴史資料館として象山大本営地下壕跡近くに再建する市民運動にかかわっている。

3 講演「パラリンピックから始めよう――「愛と感動」のゆくえ」
池田 浩士さん(京都大学教員)
オリンピックに関しては、天皇Xデイ情況時から、ベルリン・オリンピックについて、刺激的で綿密な批判的検討をしている。


日時:3月8日(日)13:00-17:00
場所:長野県教育会館3階(長野市旭町・勤労者福祉センター隣)
会場カンパ:700円
主催:〈感動のオリンピック〉を考える市民の会
共催:オリンピックいらない人たちネットワーク、街頭夢売り転戦ゲリラ三月のしまうま
問い合わせ:0263-33-1658(前田裕一)長野県松本市北深志3の7の13


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 私たちはそれを愛といっていいのか? 私たちはそれに感動していいのだろうか?

 去る2月22日、「愛」と「感動」のうちに長野冬季オリンピックが閉会しました。そして、今また、より純度を高めた「愛」と「感動」を引き継ぐ形で、長野パラリンピックが3月5日から開催しようとしています。

 しかし、私たちは、「愛」と「感動」の過剰な演出が、祝祭的なオリンピック・ムーブメントの過程を通じて、能力主義や差別性を不問にしていることを今ここでしっかりと確認しておかなければならないと考えます。逆に、国家の意図であるオリンピック・スポーツの推進は、その本質において能力主義や差別性を内包するがゆえに、それを覆い隠すために「愛」と「感動」を言わなければならないのではないか、ということを提起したいと思います。

 私たちの社会はよく「競争社会」などと言われ、多くの人にとっても、そういう社会はよくないと考えられていますが、未だ競争に代わる新たな原理を持ちえないでいます。そればかりか、競争に負けた人または、そもそも競争社会から排除された人を「弱者」として自らの強者性に対置して、「愛」をもって救済することで、自らの差別を覆い隠し、結果的に「競争社会」をより強固なものとして補強してはいないでしょうか。私たちが、オリンピックやパラリンピックのどこかしこに「愛」や「感動」を見つけたとき、その「愛」や「感動」が、学校や職場などの「競争社会」や、施設や病院に閉じ込められたままの障害者の日常生活(しかも彼等は社会復帰と称して不断に健常者に追い付くことを強要されている)を何ら喚起しないものである限りにおいて、私たちは純粋であり、無責任であるといえます。私たちが、手や足のない選手に、愛と感動のエールを送ることと、職場で効率の悪い働く仲間をどなりちらす、またはどなられることとの間に、何の違いがあるというのでしょうか。

 オリンピック・スポーツに見られる現象は、それ自体がスポーツであることから、日常的な社会生活とは関連が無いように意識されるが、有名なオリンピックのスローガン「より早く、より強く……」を思い起こすやいなや、それは普段の私たちの生活、例えば、職場や学校の原理となっていることをうんざりしながら想い起こしてしまうだろう。生産を優先させる社会にあっては、障害者は効率の良くないもの、非生産的なものとして下位に位置付けられている。そしてこの序列化は、障害者を社会のお荷物として認知させ、その一方で、あらゆる場面で健常者に追い付くことが障害者の生きる証であるといわんばかりの傾向を作り上げ、それを強要されている。すなわち、人間への差別、抑圧、競争は、私たちの「競争社会」の最下層で最も激烈で過酷な形で現われているということを、ここで再度思いかえしておきたい。

 「より強い人間」への志向は、ひとつの道筋として、競争原理にもとづくオリンピック・スポーツ(近代スポーツ)の世界的伝播によって確立されようとしている、近代における普遍的人間観であろう。より強い人が、より美しい人が、より早い人が、かくもかように素朴に、世界規模で賞賛される傾向は、同時に、よりダメな人、より劣った人を発見し、その序列の最下層に位置付け、固定することに他ならない。ヒューマニズムが、「理性・知性」を尺度に動物から人間へ上昇する序列を生み出してきたのと同様に、オリンピック・スポーツは、そうした人間観を確立するのに一役も二役もかってきた(ベルリン・オリンピックを見よ!)。能力主義による人間の序列化は、人間を選別するという意味において、人間の紐帯を引き裂き、関係性を分断する。私たちが分けられてはいけないとするのは、私たちの生の確信が関係性の中にしかないからであり、よくもわるくも、人にまみれて生きることのダイナミズムを信じるからである。人間能力の数値化や記録化の傾向が、人は発達し続けなければならないとする、近代の抱える病であるということ、そしてそれ以上に、「より劣った者」を生産しつづけることによって、一方を差別し、排除するものとしてあることを、いま私たちは自らに問いかけなければならないだろう。

 友よ、あなたと私が友達であるという根拠を失わないためにもオリンピックやパラリンピックに感動してはならない!


 以上、オルタナティブ運動情報メーリングリストから転載(の転載)ビラの一部だそうです。


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UP:20151221 REV:20190130
オリンピック/万国博覧会  ◇業績原理・能力主義/属性原理  ◇障害学  ◇全文掲載

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