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「全身性障害者の語る「家族」――主観的家族論の構築へむけて」

土屋 葉
お茶の水女子大学人文科学研究科修士論文(1998年1月)

last update: 20151221


全身性障害者の語る「家族」−主観的家族論の構築へむけて−

土屋葉
お茶の水女子大学人文科学研究科修士論文(1998年1月)570枚(400字詰・本文+註)
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目次

†序
第一章 日本における家族研究の動向
 第1節 家族研究方法論の展開
     1.制度論から集団論へ 〜欧米の場合                
     2.農村研究から家族社会学へ 〜日本の場合             
 第2節 家族研究における「家族のきずな」
     1.「感情的融合」                         
     2.「感情的係わりあい」                     
     3.理論的背景                           
     4.小括                              
 第3節 個人に焦点を当てる家族研究の動向
     1.集団論的パラダイムの乗り越え方                 
     2.個人に焦点を当てる家族研究の系譜                
       2.1 主観的家族論                      
       2.2 構築主義的家族研究                   
       2.3 ライフヒストリー研究                  
     3.小括                              
     4.本論文における研究枠組み                    

第二章 「障害者と家族」研究の展開
 第1節 障害者をとりまく状況の変化
     1.国際障害者年に関わる動き                    
     2.障害者への認識と理解の深まり                  
 第2節 「障害者と家族」研究の展開
     1.概要                              
     2.福祉論における「家族」                     
     3.福祉政策との関わりを論じたもの                 
     4.「障害者(児)と親」論                     
       4.1 「悲嘆の過程」からの脱出                
       4.2 「脱家族」論における「親」論              
     5.小括                              
 第3節 先行研究の批判的検討 
     1.「脱家族」論                          
     2.「脱家族」論への批判的検討                   
     □小括                               

第三章 障害者と家族を規定するもの
 第1節 戦後の障害者政策 
     1.「家族への放置」から施設収容へ                 
     2.「在宅福祉」への転換                      
     3.「障害者プラン」による施策の充実                
     4.小括                              
 第2節 障害者側からの運動
     1.施設に対する運動                        
       1.1 施設建設を求める親たちの運動              
       1.2 施設からの当事者運動                  
     2.「成年後の親からの独立」の主張                 
       2.1 所得保障の要求                     
       2.2 生活の場への要求                    
     3.青い芝の会の運動 〜「親の愛を否定する」            
     4.自立生活運動                          
       4.1 障害者運動の転換                    
       4.2 アメリカにおける自立生活運動              
       4.3 日本における自立生活運動                
       4.4 日本の運動の特殊性                   
     5.小括                              
 第3節 障害者を規定する諸制度
     1.所得保障                            
       1.1 障害者基礎年金                     
       1.2 生活保護                        
     2.介護保障                            
       2.1 ホームヘルプ事業                    
       2.2 介護人派遣事業等                    
     3.扶養義務                            
     4.小括                              
     □小括                               
  
第四章 障害者が語る「家族」、「ケア」、「自立」
 第1節 「障害者」の世界へ
     1.障害者への注目                         
       1.1 「障害者」とは                     
       1.2 行為主体としての障害者                 
     2.聞き取りの概要                         
       2.1 対象者の特性                      
       2.2 データを使用する際の基本的な姿勢            
       2.3「自立」という言葉への注目                
       2.4 各節におけいて使用する方法               
 第2節 介助が生み出す親子関係
     1.介助をめぐる議論                        
     2.親が一人で担うことのリスク                   
       2.1 僅かなメリット                    
           2.1.1 「ケアのプロ」〜介助技術的なこと     
           2.1.2 安心感 〜感情的なこと           
       2.2 閉ざされた空間で                    
           2.2.1 絶対的な権力を握る親            
           2.2.2 行為主体になれない子ども         
           2.2.3 相互依存的な関係              
       2.3 「親」の限界性                     
           2.3.1 「身体規則」の不成立            
           2.3.2 子どもの「性」               
     3.親と他人の不協和                        
       3.1 「親密圏としての家族」の逆照射             
       3.2 親の介助への介入                    
     4.小括                              
 第3節 「家族」を維持する技法
     1.場面の設定                          
     2.介助と親と上手くつきあう                   
       2.1 精神的な親子離れ                   
       2.2 自己決定と割り切り                  
       2.3 思いやりと遠慮                    
     3.他者と親との狭間で                      
       3.1 母親の解放                      
     4.介助の介在の拒否                       
       4.1 「甘え」からの脱出                  
       4.2 「娘」を演じる                    
     5.小括                             
 第4節 「問題」とその対処法
     1.介助に伴う「問題」構成                    
     2.「問題」への対応としての技法                 
     3.技法により解決され得ない問題                 
       3.1 「性」は「家族」へ持ち込めない            
       3.2 「他人」は「家族」へ介入できない           
 第5節 「障害者家庭」と「普通の家族」、そして「私の家族」
     1.主観的世界の多層性                      
     2.リアリティの相互作用                     
       2.1 「家族」の位置づけの変更               
       2.2 「私の家族」の肯定                  
     3.公的な場における家族定義とのズレ               
       3.1 「限界まで努力する家族」とのズレ           
       3.2 「一緒にいるのが家族」とのズレ            
       3.3 「不幸な家族」とのズレ                
     4.制度が定める「家族」への対処法                
       4.1 「世帯単位」の壁                   
       4.2 「同一居住」の壁                   
     5.小括                             

第五章 結論 〜「自立」の意味するもの
 第1節 介助という「しがらみ」からの解放
     1.「精神的な距離」を保つこと                  
     2.「家族だから辛い」                       
       2.1 「距離」を保てない                  
       2.2 愛情規範のぶつかり合い                
 第2節 「障害者家庭」から「ケア」の関係への転換
     1.親が固持する「家族」からの脱出                
     2.「ケア」の関係性へ                       
     3.共生へと向かうベクトル                    

†参考・引用文献一覧
†謝辞

                           (40字×30行×189頁)


†序

 「家族」が注目される時代である。過剰に(といえるほど)「家族」に関する話題は多く、また専門家や研究者やその他大勢の人が、それぞれの立場から「家族」を語る。もっとも典型的に語られる言葉の一つに「家族は安らぎの場」というものがある。
 これを人びとがどのように受けとめているかは定かではないが、ある調査結果がその一端を示している。それは「一番大切なもの」として40%強の人が「家族」と答え、「家族に求めるもの」として60%強の人が「心の安らぎを得るという情緒面」を挙げているというものである。無視できない数の人々が「家族」を一番大切なものと考え、「心の安らぎ」の場であると位置づけているようだ*01。
 私自身としては直感的に、家族について語られるものの多くが「いまの家族は病んでいる」、あるいは「家族は安らぎの場である(はずなのに)」という類のタームを含んでいることに対して、すっきりしない気持ちの悪さを感じてきた。こうした「家族」という言葉に強制的な響きを感じ、この裏に見え隠れする「情緒的なつながり」や「きずな」という言葉によって、巧妙に隠蔽されるものがあるのではないかと思っていた。これが本論文における問題意識のはじまりである。
 例えば高齢者介護の場面において近年よく使われる、「心のケアは、暖かいふれあいのある家族で行われることが望ましい」という提言がある。しかし一見説得力があるこの提言も、「なぜ「家族」なのか」が問われないままに、「家族」にある責任が課せられるという点では、「高齢者介護は(すべて)家族の手で」という従来のものと変わりはない。一体、高齢者の精神面のケアは完全に家族で担えるものなのか、そして家族が担うべきものなのか、その根拠は何もない。もちろん、高齢者自身にとって家族よりも精神的に頼れる、また一緒にいると心が安らぐ人物が存在する可能性もあるだろう。しかし「家族のきずな」という言葉のために、ある行為をなぜ家族が担うのか、が不問にされてしまう。これは高齢者介護の場面に限ったことではない。
 家族を否定しているのではない。「家族」という枠を取り払えば、もっと楽に生きることができるのではないか、どの家族もそろって「安らぎの場」でなくてはならないという根拠もないのではないか。本論文はこうした問題意識に基づき、「家族(のきずな)」について考察を行うことを目的とする。

 本論文のもう一つの関心として、「障害者」がある。本論における障害者とは、全身性の、日常的な活動に介助を必要とする身体障害者である*02。障害者に焦点を当てるのは、彼ら自身が特別だからではない。彼らのおかれた幾つかの状況が特別だからである。その一つとして、何よりも「きずな」や「情緒的つながり」がもっとも強調される場の一つ、「障害者家庭」におかれた彼らが、「脱家族」というスローガンを掲げ、地域で生活することを目標とした運動を行ったことが挙げられる。「家族」という場所からいったん出て、「家族」という枠をはずしてみないことには何も始まらない、という彼らの主張は、「家族」の規範性と拘束性に疑問を持っていた私と、思いを同じくしているように感じられた。彼らの主張をより深く知ることで、「家族」の別の側面に近づくことができるのではないかと考えたのが、第一の理由である。 
 また第二に「ケア」に関わることがある。ここで注目する全身性障害者とは、四肢が不自由な人びとである。具体的には(個人差が大きいが)、移動に車椅子を使用し、言語障害があり、起床、洗面、食事、排泄、移動などの日常動作に手助けを必要とする人々をイメージしてもらえればよいだろう。こうした人々の介助を行っているのは、多くの場合家族である。中心的な役割は母親が担っているが、その場所では家族が支え合うことが往々にして求められる。また当事者の側からいえば家族の手がなければ生きてはいけない状態におかれる。時にはほんの数時間人の手がないと生命が脅かされることもある。こうした状況にある人々にとって家族とは良くも悪くも「重要な他者」である。またそうであるからこそ「障害者家庭」という場所は、「家族」や「家族のきずな」の存在の有無とむすびつけて語られやすい。これが彼らに注目する第二の理由である。

 本論文では先に述べた問題意識に基づいて、障害当事者への聞き取りを行い、そこから得られた言葉や、家族についての「語り」に注目するという方法をとる。ここでは「家族」や「家族のきずな」を自明なもの、自然なものとして措定するのではなく、個々人の意識や言説の中で組み立てられ、変容を受けるものとして考察する。というのも、先の問題意識には「家族は情緒的結合によって結ばれた集団である」というような、従来の家族社会学がとってきた、「客観的」な家族定義に対する疑義も含まれているからだ。
 本論文がとる立場や、使用する方法については本論で詳しく述べることにするが、ここでは「障害者が家族を語る」ということが、ある特別な意味を持つということについて言及しておきたい。ある男性がこれについて、聞き取りの中で次のように語った。少し長いが引用する。

 「…仕事とかさ、障害者であって、地域で暮らすためにはってことで話すじゃない。そうするとやっぱり、おのずと自分の母親とか自分の生い立ちを話さないと話が通じないわけじゃない。考えてみるとおかしなことだと思うんだよね。普通の人だと、オブラートに包んで、話したくなきゃ話さなくても済むじゃん、私生活の顔って違うわけじゃん。けど僕らは障害を持ってるってことでいえば、下手に隠しちゃうと話が続かなくなるわけよね。見せなきゃいけないわけ。見せた上で自分が話す言葉として相手に話していかないと、伝わっていかない。そこを抜いて話しちゃうと、解ってもらえないっていう部分がある。僕らだって話したくないことはいっぱいあるわけだよ。ましてや親子関係とかどろどろした人間関係っていうもの…。普通の人だったら話さなくても生活流れていくけど、僕らそれで生活流れていかないから。隠せるものなら隠したいと思うけどね、でもそこを話さないと中身がないようなものだよね。身体に関わること、それを話さないってことは、自分が生きていくことすら否定することだから、居ることすら。それを話さないでいる障害者で、家族の中で包まれている人達も、世の中にはいっぱいいるわけじゃん、一部で子殺しとかになる人達もいるわけ*03。そうすると、僕らみたいに話していくことがやっぱり自分たちを解ってもらう、一つの不可欠なものだと考えるとすれば、話していかなきゃいけないとは思うんだけど。」

 この男性は、「親子関係やどろどろした人間関係について話さないと、自分のことを解ってもらえない」と語っている。家族について語ること、すなわち身体に関わる介助という行為に、大きく関与する家族について語ることは、自らの生活が成立するために必要不可欠なことであるという。これを話さないということは、自分の生を否定することであるとも言う。つまり「家族について語ること」が、この男性にとっては非常に大きな意味を持っているといえる。すべての障害者がそうであるということはできない。しかし少なくとも前にも述べたとおり、重度障害者にとって「家族」とは、自らの身体や生を預ける非常に重要な他者であり、他人に「自分」を理解させる時に語る、必要不可欠な要素となっていることは想像に難くない。ここに全身性障害者の「家族についての語り」に注目する大きな意味が見いだせる(またこれまで、当事者の語りに注目したものがほとんどなかったことからも、その意義を見いだすことができる)。

 本論文のおおまかな見取り図を示しておこう。
 第一章では家族研究の方法論的なレビューを行う。ここでは本論文を、家族研究の流れの中へ位置づけることを目的とする。制度論的研究から集団論的パラダイムへという流れを概観した後、集団論的パラダイムの乗り越えを目指した幾つかの方法論について検討し、本論文がどのような立場を取るかを示す。また家族研究の中で「家族のきずな」がどのように論じられてきたかということにも言及する。
 第二章では「障害者と家族」に関する先行研究のレビューを行う。まず福祉論、地域福祉論における「障害者と家族」の位置づけを概観した後で、「障害者と親」論を見ていく。さらに「脱家族」に言及した論文を幾つか取り上げ、批判的に検討を加える。これは第四章へつながる部分である。
 第三章では「障害者と家族」を外的に規定するものの一つとして、制度を取り上げる。ここで明示的に「障害者と家族」の状態、行動などが規定されてきたこと、また現在でも規定されていることを示すことは、それだけで重要な作業である。また障害当事者がどのような状態に対して異議申し立てをし、運動を行ってきたか、何に対して「脱家族」の主張がなされたのかをみることも、ここでの目的の一つである。しかしこれのみに留まらず、第四章において、「家族」が法制度上で明示的に規定されるということが、人々の「家族イメージ」とも連動していること、またこれらと個々人が経験する「家族」との関係を論じる伏線となっている。
 第四章では、全身性障害者が語る「家族」について論じる。第二章では研究者が措定する、また第三章では制度が定める「障害者と家族」について論じるが、これらがいわば外在的に規定する「家族」の側面であるのに対して、ここではじめて当事者自らが認識し、経験し、生きられる「家族」を論じることになる。ここでは二つの方法を用いる。一つは幾人かの言葉を切り取って断片的に論じる方法、もう一つは個人の「語り」から得られた、彼らのライフストーリーを深く掘り下げて論じる方法である。ここでは「ケア(介護・介助)」、「家族を維持する技法」、「自立」がキーワードとなる。
 第五章ではまとめにかえて、障害者という小さな、しかし実は様々なことが見え隠れする窓から、「家族」を見ることで何がいえたのかについて述べる。

 この論文を書くにあたって、私は多くの人々との出会いを経験した。そしてたくさんのことを彼らから学んできた。昨年の春から、私に関わって頂いたすべての方と、お話を聞かせて下さった方に大きな感謝の念を抱きつつ、そしてこれからも未熟な私に、多くのことを示唆して頂きたいと願いつつ、彼らが語ってくれた言葉に、改めて耳を傾けることにしたい。

(註)
*01 前者は1993年の文部省統計数理研究所の国民性調査(『朝日新聞94年7月16日付)』。ちなみに「仕事・信用」を挙げたのは4%、「国家・社会」を挙げたのは1%にすぎない。1958年には家族を一番大切と考えたのは11%にすぎなかった。後者は総理府の調査による『婦人政策の指針』総理府編。20代の男女は共に70%を超える割合でこれを指示している。
*02 「障碍」と表記する人もいる。これについてもさまざまな思いがあるのだが、本論文では便宜上「障害」を使用する
*03 親が障害児を殺すという事件70年代後半から80年代にかけてが連続したことがあった。これについては第三章参照。


第一章 日本における家族研究の動向
 ここでは本論文を家族研究の流れの中に位置づけるための、土台となる部分について論じる。第1節では欧米および日本における家族研究の方法論の展開を概観する。第2節では、日本の家族研究の流れの中において、「家族のきずな」がどのように語られてきたかに焦点化して論じる。本論文における中心主題である「家族のきずな」は、日本の家族研究においても中心的に語られてきたものでもあり、これを見ていくことも本論文の位置づけを知る上で重要な作業であるといえよう。第3節では、パラダイム転換が唱えられている現在の家族社会学の状況をふまえ、これを乗り越える方法論を提示する、いくつかの論考を検討し、本論文のとる立場を明らかにする。

第1節 家族研究方法論の展開
1.制度論から集団論へ 〜欧米の場合
 ここでは欧米における家族研究を概観し、落合[1989]を援用してそのパラダイム転換を見ていく*01。家族社会学は、十九世紀後半の制度論的研究をはじまりとし、二十世紀には科学的な集団論的研究へと移行する。さらに1950年代以降は集団論的研究が通常科学化する時期にあたる*02。この背景には、「近代家族」が先進国において圧倒的に優勢になった社会状況がある。制度論的研究は、近代化にともなう家族変動を共通のテーマとし、家族をマクロな社会変動の中で論じるものであった。その定式化は「伝統的な三世代世帯から二世代世帯へ」(リール)、「家父長家族・直系家族から不安定家族へ」(ル・プレー)、「父系家族から夫婦家族へ」(デュルケーム)と様々であるが、観念的・理論研究が主であり、実証研究の比率は低かった。これに対して集団論的研究は、マクロな制度論とは一変して社会心理学や心理学の方法を取り入れ、小集団としての家族の相互作用や個人の適応という、家族の内的過程に焦点を合わせたものであった*03。
 また制度論的研究は、いくつかの家族類型として「近代家族」をとらえるという比較の視点があったのに対し、集団論的パラダイムは、「近代家族」の特長をこれこそが家族というものだと、家族一般の本質に敷衍していくかたちで通常科学化していく。また白人中流家庭の内的構造を扱い、それをしばしば規範的にとらえてもいた。つまり集団論的パラダイムは「近代家族の影」であると同時に「アメリカの影」でもあった*04。1970年代になると、これがさまざまな反証や批判にさらされるようになる。

2.農村研究から家族社会学へ 〜日本の場合
 日本においても、1970年代までは集団論的パラダイムが主流を占めていたが、これが危機に陥っているという(野々山他編著[1996:2])。しかし、日本においては戦後の占領政策における政治的な変化の影響があったことを考慮に入れなければならない。ここでは日本の戦前からの家族研究の流れを概観する*05。
 日本における家族研究は、二十世紀前半(戦前と戦中の時代)を一応の始まりとすることができる*06。この時期には、やはり制度論的研究と集団論的研究という二つの方法が誕生する。集団論的研究の源流として、日本の社会学的な家族研究の先駆者である戸田貞三の研究が挙げられる。戸田は、大正九年に行われた国勢調査の調査票を抽出し、家族構成の数量的な分析によって、日本の家族の特長を明らかにした(戸田[1937])。一方、家族制度の質的な研究として鈴木栄太郎、有賀喜左衛門、喜多野清一、及川宏などの研究がある。これら戦前の家族研究は、日本の伝統的な家制度や村落の社会構造との関連で、いわば家−家連合としての同族−村落研究−日本文化の特質といった連関の中で研究されるという構造を持っていた。したがって「家族社会学」と「農村社会学」は不可分なものであった。
 戦後、家族研究は二つの流れに別れることになる(池岡[1993:67])。一つは、戦前からの家族研究の流れを継承する、農村家族に重心においた伝統家族の研究であり、もう一つは、アメリカの集団論的な家族研究の強い影響のもとに発展した、「都市家族」に重心をおいた研究である。戦前の研究との連続性は農村社会学の方に担われるようになり、家制度の廃止による西欧型夫婦家族制への政策的な転換をもとに、集団論的研究が優勢になる。戦後の家族社会学はこれを中心に展開していくことになる*07。
 しかし1950年代は夫婦家族制の実体はともなわず、理念的な把握にとどまっていた。60年代に集団論的パラダイムによって日本の家族社会学が確立され、70年代には定着・拡大していく。しかし80年代に入ると、言説レベルで「家族のゆらぎ」、「家族崩壊」などがいわれ、シングル指向の強まり、離婚率の上昇、同棲や婚外子の増加などの現象が問題になってくる(池岡[1993:71]、篠崎[1996:323-330])。これらは核家族モデルに当てはまらないものであったため、従来の枠組みを相対化してとらえる視点が必要とされた。いわゆる集団論的パラダイムの危機である。80年以降、核家族を普遍的、自然的なものとし、これらの現象を「家族の危機」ととらえる従来の研究枠組みに対して、歴史学的な視点やフェミニズムの研究が取り入れられるなど、新しい方法論が模索されてきた。この展開については第三節で見ていく。


第2節 家族研究における「家族のきずな」
 前節では欧米および日本における家族研究の流れを概観してきたが、ここでは日本の家族研究が、「家族のきずな」または「家族の情緒的結合」をどのように扱ってきたか、ということに焦点化して論じていく。これは日本の家族研究がどのような視座に基づき、これを語ってきたか、その立論の背景には何があったかという面から切り取るという、知識社会学的な試みである*08。
 これまでの家族社会学者の多くは、その研究を「家族定義」を行うところから始めてきた。戦前において、家族定義に家族成員の「感情的融合」を重要なものとして挙げた戸田貞三がいる。さらに戸田の影響を受けた森岡清美は「感情的係わり」を挙げており、森岡の家族定義は現在でも最もよく引用されるものである。ここでは戦前と戦後に分けて幾人かの論者を見ていく。さらにこの理論展開の背景を考察する。

1.「感情的融合」
 日本の家族社会学の基礎を確立したといわれる戸田貞三は、家族を次のように定義している(戸田[1937=1970:37])。
 @家族は夫婦親子およびそれらの近親者よりなる集団である。
 A家族はこれらの成員の感情的融合にもとづく共同社会である。
 B家族的共同をなす人々の間には自然的に存する従属関係がある。
 C家族は、その成員の精神的ならびに物質的要求に応じて、それらの人々の生活の安定  を保障し、経済的には共産関係をなしている。
 D家族は種族保存の機能を実現する人的結合である。
 E家族はこの世の子孫があの世の祖先と融合することにおいて成立する宗教的共同社会  である。
                           
 さらに、家族の一般的性質としてはDとEを除くことが必要であると述べ、これをまとめて「《家族は夫婦、親子、ならびにその近親者の愛情にもとづく人格的融合であり、かかる感情的融合を根拠として成立する》」としている(《》は強調のために引用者が用いる。以下同じ)。さらに上の六つの定式の中でも二番目の、「感情的融合にもとづく共同社会」という側面を重視している。戸田はこの「感情的融合」の理論的根拠をコントとリールに依っている*09。彼らの論じる内容の是非はおいておくとしても、ここで重要なことは戸田が家族の特質として家族成員の「感情的融合」*10を挙げ、これを本来的、自然的であるもののように記述していることである*11。
 また鈴木栄太郎も、社会的に承認された永続的な性的関係が家族の本質であるとする。そして都市に生活する夫婦生活にそれを見ることができるとし、さらに「感情的融合」は「おのずから生じる」と説く(鈴木[1940→1968])*12。ここでは夫婦の間の「感情的融合」が自然発生的なものとして論じられている。また、福武直はバージェスとロックに依拠してアメリカの友愛家族を理想とし、「家」と正反対の性格を持つ、情緒的結合に基づく民主的な生殖家族を「近代家族」として、これを目指すべき目標としてとらえている*13。 
 この戸田に代表される、「感情的融合」をアプリオリなものとし、家族の成立の根拠とする立論に関しては幾つかの批判も寄せられている。例えば喜多野清一は、戸田の家族結合の特質規定は、人間の感情的要因を重視しながらも、論究の手順は、心理学的でも経験的でもなく、論理的抽象の手法に依っていると批判する(喜多野[1987=1970:387])。しかし戸田の定義はその反面、現在においてもよく引用されるものでもある。

2.「感情的係わりあい」
 次に戦後の、戸田の論に大きく負っている森岡清美の家族定義を少し詳しく追っていく。森岡の定義は次のようなものである。
 「家族とは、夫婦・親子・きょうだいなど、少数の近親者を主要な成員とし、《成員相互の深い感情的係わりあいで結ばれた、第一次的な福祉志向の集団》である。」(森岡[1972:3])
 これは現在の家族社会学において、もっとも使用されることの多い家族定義である。森岡・望月による『新しい家族社会学』(1983)は教科書としては異例の売れ行きを見せたという(石原[1992:68])。これは二十年来培われてきた集団論パラダイムに基づく家族社会学の、体系化の一つの到達点として位置づけられる。
 森岡はこの定義について、戸田[1937]に追随し、家族は感情的融合に支えられた集団であることを強調したものであることを認め、「家族内の人間関係に、全生活的な共同と近親者としての愛着にもとづいた、非打算的な感情融合が支配していること、のみならずそれが家族に希求されていることは明らかである」と述べる。
 しかし森岡は、家族における人間関係には、実際には、感情のくい違いや緊張や葛藤が存在することを指摘し、「感情的係わりあい」はこうした点も含めて理解すべきであるとも述べており(森岡[1993:4-5])、家族の間の「感情的融合」をアプリオリなものとする戸田の見方を批判しているようにも見える*14。他方で森岡は自らの家族定義の説明において、「家族においては…人は他では味わい得ない満足感を得る」(森岡[1993:4])と、家族の特殊性を強調する記述を行っている。また「情緒関係」に関する記述において、「愛着関係によって結合し…家族のまとまりもよく、最も家族らしい家族である」(森岡[1993:153-154])と述べるなど、「愛着関係」に「家族」の特徴を見いだしている*15。
 こうしたことから、森岡は戸田の「情緒的融合」のとらえ方が一面的であることを批判するに留まっており、家族の間の「感情的係わりあい」は多面性を持つが、その中でも「愛着関係」や「愛情関係」によって、その特殊性を見いだせると説いているといえる。この点において家族の愛情をアプリオリに措定する、戸田の家族定義と大きな違いはないといえるだろう*16
3.理論的背景
 日本の家族社会学の問題構成の特徴の一つとして、戦後、欧米の家族が理想的な「家族」としてとらえられたことがある。ここにおいては「家から家族へ」「制度家族から友愛家族へ」等の二項対立的な記述がなされる。鈴木や戸田も、戦前の家族を「イエ」とし、欧米の「家族」を理想化するという立論をとっていたために、「情緒的結合」(鈴木においては「夫婦の間の」結合)が強調されるものであった(千田[1997:2])。
 さらに戦後の制度的変革は、「家」制度(家族制度)の廃止、西欧型夫婦一代限りの夫婦家族制への転換がはかられたものであった。「民主化」は政治経済全体の変革課題の一つであり、家制度は天皇制と軍国主義の基礎であったという認識が広まったことから、家族の民主化は日本社会全体の大きな実践的課題として位置づけられることになった(石原[1992:63])。つまりこうした「イエ」を否定し、欧米の「家族」を称揚する同一線上に、福武の「家族」をとらえる視点があったといえる*17。
 また、例えば有賀や喜多野が、日本社会の構造的特質を解明する有力な手がかりとして、日本家族に着目したのに対して、戸田は社会学において家の研究を基本的なものとしていた。また森岡は、「よりよい家族生活を営むための指針を得るために家族を研究し、学習することの意義を説いている」という(清水[1984:52])*18。つまり、前二者が社会全体を研究対象とし、その文化の特質を明らかにするための有力な対象として「家族」あるいは「家」を位置づけているのに対し、後二者は家族自体の運動法則を明らかにし、家族生活を一層充実させることに家族研究の価値を見いだしている。
 こうしたことから考えると、家族生活を充実させることに研究の価値をおいていた、戸田、ひいては森岡の家族定義は、その中に家族に対する「理想」を暗黙(半意識的に)の前提として取り入れるものであったといえる*19。

4.小括
 戦前の戸田や鈴木による「感情的融合」を強調した家族定義は、社会全体の近代化の流れの中で「イエ」を否定し、西欧型の「家族」を志向する中で行われてきたものであった。
 さらに家族社会学において1960年代から70年代にかけて、アメリカの集団論的パラダイムの影響が見られ、こうした核家族モデルを「よきもの」「あるべきもの」とする立論に拍車がかかった。この集大成が森岡らによって刊行された『新しい家族社会学』(1983)であり、そこにおいてなされている、「感情的係わりあい」を重視する家族定義であったといえる。
 戸田や森岡の家族定義に対して、まったく批判がなされなかったたわけではない。しかし森岡の家族定義はもちろん、戸田までさかのぼって、家族の「感情的融合」を用いた家族定義が、広く援用されるものであることに注意しなくてはならない。1970年代は、「森岡による標準的な家族研究のスタイル」(集団論的アプローチ)が定着し、これが家族社会学を支配した(池岡[1997:4])。現在においても、集団論的アプローチの有効性が問われながらも、森岡の定義にもとづいた家族定義は優勢である*20。つまり日本の家族研究においては長い間、戸田による家族成員の「感情的融合」、これを援用した森岡による「感情的係わりあい」(愛情、愛着関係)といったものが、その両面性を指摘されながらも、自然的・普遍的、あるいは理想的なものとして位置づけられてきているといえる。


第3節 個人に焦点を当てる家族研究の展開
1.集団論的パラダイムの乗り越え方
 第1節において、現在家族社会学において「パラダイム転換」が言われており、集団論的アプローチの有効性の再検討、またそれにかわる新しいアプローチの検討が行われていることを指摘した*21。この転換を説いたものとしてまず落合[1985]が挙げられる。落合は家族史の視点から「近代家族」という概念を家族研究に持ち込んだ。これはアナール学派の社会史の影響のもとに近代を問い直すこと、従ってまた、近代家族の歴史的相対化をはかるものでもあった*22。こうした試みにより、それまで自明視されていた家族の形態が、普遍的なものではなく歴史的なものであることが示された*23。これに続き、幾人かの論者が新しいアプローチを提示している。池岡義孝も、現在注目されているものとして、従来からあった発達アプローチと家族周期論に代わって、ライフコース・アプローチを挙げる。また家族を定義するところから出発していた従来の家族研究に代わり、人々のとらえる「家族」に注目する研究(エスノメソドロジー、ファミリィ・アイデンティティ論)の重要さを説いている(池岡[1993:66-68])。また舩橋惠子も同様に、個人を単位とした家族関係の集積として把握する方法が有効になると指摘する*24。
 このように、集団論的パラダイムを超える方法論として、「個人」へ注目する必要性が一様に説かれている。この背景には前述したように、従来の枠組みではとらえられない「家族」が出現したことがある。

2.個人に焦点を当てる家族研究の動向
 「個人」への注目が説かれるのは、近年に限ったことではないが、以下では1990年代初頭の日本において、個人に焦点を当てる方法論が示されてきた系譜をたどり、幾つかの方法論を詳しく検討する。

2.1 主観的家族論
 落合は、解釈学的アプローチを提唱し、その中において「家族定義を行わない立場から出発する試み」を提案している(落合[1989:163])*25。こうした提案を受けて、上野[1991]と山田[1992]が論を展開している。以下では上野によるファミリィ・アイデンティティ論、山田によるエスノメソドロジーへの応用を説いた論考を批判的に検討し、さらにそれらをまとめ、「主観的家族論」の意義を説いた田渕[1996]の論考を見ていく。

 上野千鶴子は、予め家族像を設定することを斥け、個々人の「家族を成立させている意識」に注目し、これを「ファミリィ・アイデンティティ Family Identity(FI)」=何を家族と同定するかという「境界の定義」であるとし、ここから議論を始める。
 FIという概念を導入する理由として、第一に、家族が実体的な自然性を失って、人為的な構成物と考えられるようになってきたこと、第二に、これまで伝統的に「家族」の実体とみなされてきたものと、FIの間に乖離が見られるようになってきたこと、第三にFIという概念は、その担い手を複眼化することによって、家族メンバー相互のズレを記述することができることの三つを挙げている。またFIが成り立つためのミニマムの根拠を、伝統的な家族の要件(「居住や血縁の共同」)と意識であるとし、さらに伝統/非伝統のダイヤグラムを作成している。
 上野らのグループは、三つの象限における家族類型をシミュレーションし、それに該当する経験的な事例を探し、可能な場合は「あなたはどの範囲の人々(モノ・生きものetc.)を「家族」と見なしますか」というFIについての「境界の定義」を尋ねるというインタビューを行っている*26。
 ファミリィ・アイデンティティ論は、これまで二次的に扱われてきた個人意識に注目し、特に「家族を成立させている意識」を、FIという用語として導入したという点において新しいものであった。また「集団としての家族」を前提する集団論的アプローチではとらえられない「家族」の側面を描いたという点、意識と「実体」のズレに言及した点において注目すべきものである。

 同様に、山田昌弘は落合の解釈学的アプローチに関する問題提起などを受け、家族論にエスノメソドロジーを取り入れる必要性を説く(山田[1992:151-162])。山田は上野も指摘しているように、従来の家族社会学と、日常生活を送る人々の「家族に対するものの見方」の間のずれが問題になっているとする*27。その理由として、(伝統的)家族社会学が、「家族とはこういうものだ」という知識を動員して、家族のリアリティを構成してきたことを挙げる。これに対して、山田は家族という意識を形成させていくプロセスを見ることの必要性を指摘する。さらに、日常生活をしている当人の「どこまで家族とみなすか」というリアリティが重要であると述べ、このリアリティは個人によって異なるし、また時と場合によって変化するものであるとする*28。
 また、この家族のリアリティについて試験的な考察を試みている。家族に関する言明を調べていくと、二つのルール(規範)@「家族だから〜する、している、しなければならない」という言明、A「〜しているから家族である」という言明が見いだせるという。こうしたルールと「代替不可能性」と結びつけられたときに、家族のリアリティが生成・維持される。この「代替不可能性」を意識させる事実は、@親族関係、A機能的代替不可能性、B情緒的絆のカテゴリーに分類することができる。つまり、家族であるというリアリティは、これらの三つのリアリティによって支えられている一種のメタ・リアリティであると説く。
 山田が提起するのは、エスノメソドロジーの方法論を「家族」に応用することである。この論考の意義は、先の上野同様、当事者のもつ家族の「リアリティ」に注目し、その形成過程に注目する理論を提起したという点にあるといえる。

 次に、現象学的研究や「家族言説」、「家族イデオロギー」などの構築主義的なアプローチとの関連から、「主観的家族論」を位置づけ、その意義を検討したものとして田渕六郎[1996]を取り上げる。これは実証研究に向けての理論的枠組みが設定されている点で、注目すべき論考であるため、内容を詳しく見ていくことにする。
 主観的家族論は、現象学的な方法論に大きな影響を受けている(「家族はそれが行為者の意識に現れるとおりに、すなわちそれが経験されるとおりに研究されなければならない」(MacLain & Wergert [1979:171]))。田渕六郎は、現象学的社会学者のバーガーとケルナーによって書かれた「結婚とリアリティ構成−知識の微視的社会学における試み」(Berger,P& Kellner,H[1964=1988])を主観的家族論の先駆けであると位置づけ、その後の展開を丁寧に後付けている。また日本における先行研究(山田[1992]、上野[1991])の議論を整理し、批判的に検討を行っている。
 田渕は主観的家族論を、「個人の「家族」に関わる認知や経験(またはその微表としての、家族に関わる言語表現)を観察者ないし理論家の分析の枠組みの中にとりこむことを方法論上重視する立場である」と定義する。このような方法を採用する場合、従来の家族研究の枠組みが家族を論じる際に、「核家族」などのモデル(理念型)を参照点としつつ、家族が客観的な構造を持つ「集団」であり、それが普遍的な機能を有することを前提としてきたこと、その中で「行為者の視点」に十分な考慮を払ってこなかったことを批判するという意図が存在する。主観的家族論が採用している枠組みは、家族というものを確立した制度や自明な集団のように扱うのではなく、むしろ当事者の意識や言説のなかで組み立てられ、変容を受けていくものとして考察するという視点を強調することになる。
 田渕はまた、個人のリアリティ構成と、リアリティの社会的定義との相互作用が、主観的家族論の分析課題となり得るとする。「家族言説」(family discourse)、「家族イデオロギー」(family ideology)という用語を使用した研究が、この二つのリアリティ定義が相互に浸透しあっているという視角を強調してきたという。この先行研究として、田渕は「構築主義的研究法」という言説分析研究に注目している(Gubrium & Holstein[1995]など)。これらは、これまで家族研究の枠外とされていた領域における家族言説の分析を、一つの研究対象として析出したこと、またリアリティが多層的に存在し、相互に作用しているという認識を提示したことにおいて、重要であるとする。
 田渕は主観的家族論の理論的意義として、まず、一般的には人々が日常的に行う家族に関する認知や言明そのものが、社会学的な分析課題として有意味であることを示すものであり、従来の家族研究法に対する疑念を提示していることにあるとする。また、個別的には、複数の当事者の視点を重視するという意味で「家族集団」という単一実体の想定を批判していること、及び、個人のリアリティと社会的なリアリティという水準の間における相互関係を問う問題構制が、これまでの研究法にない分析を可能にすることを挙げている。つまり、主観的家族論は従来の「実体的」ないし「客観的」な家族定義に対する疑義を提示し、当事者の与える定義を「家族」の定義として扱うべきことを主張している。
 これまでの日本における論者は、「客観的家族定義」の有効性を問い直すという問題意識を内包していた。しかし、田渕はまず上野の論考が、主観的認知の多様性を指摘するに留まっていると批判する。さらに山田が、私たちが用いる概念が行為者の意識と一致しないということから、「客観的家族定義」の無効性を主張していることに対して、こうしたことは概念構成という理論的営為においては当然のことであり、「家族」が他の概念とは異なる「特殊」な概念であることを示すことができない限り、「客観的家族定義」の無効性を説くことはできないと批判する。また、当事者に意識されていない要素が主観的な要素を規定する側面も指摘される。山田の論考への批判的な検討から、田渕は主観的家族論は、「客観的な家族定義」が有効か無効かという判断を行うべきではなく、むしろ客観的と思われている家族定義(個人に認知されたもの)と主観的/個人的な家族像がどのようにズレており、いかにしてそのズレを生じるのかということを考察すべきであると説く。

 また田渕は、実証的な研究に向けての分析枠組みを提示している*29。行為者の家族に関わる言明が、自身の家族について述べられたものか、一般的な見解として述べられたものか。または二者間の関係(またはその累積)を述べるものであるのか、それとも複数(通常は3人以上)の成員の持つ相対的な特質について述べるものなのか。この区別を組み合わせると2×2のクロス表ができる。以上の分析枠を採用するならば、ある主体が家族に関する言説を提示する場合、この四つの領域がどのような相互的影響関係にあるのかを分析することが重要になる。この分析枠を採用することによって、「家族概念の社会的定義と個人的定義のズレ」というテーマが提示できることになるとする。

□小括
 個人への注目する視角の必要性は以前から提起されていたものの、めざましい発展を遂げてきたわけではなかった*30。また「家族を定義しない」ところから出発する上野、山田の論考の意義は、それまで二次的に扱われていた個人意識に注目し、それを描き出した点にあるが、これらの議論は十分な理論的な裏付けを持っていなかったために、実証的な研究に向けての理論的枠組みを提示するには至らなかった。さらにこれらが「客観的定義」を否定し、「主観的定義」の有効性を主張してきたことも、発展を見なかった原因の一つだろう。当事者に意識されていない要素が主観的な要素を規定する側面もあることを認識し、構造的な文脈を理論の枠組みに取り入れる必要がある。また、これまでの議論には「リアリティの社会的定義」と「個人のリアリティ構成」とを区分する視角を有していなかったために、議論に混乱が生じていた。
 田渕の主観的家族論は、現象学的研究からの流れや、「家族言説」や「家族イデオロギー」など、構築主義的なアプローチとの関連からもその意義を論じており、広い範囲をカバーしたものであるといえる。さらに日本における先行研究として、上野、山田の論考をこうした流れの中に位置づけて整理し、批判的な検討を行っている点でも評価される。しかしながら、実証研究に向けて田淵の示した分析枠組みは検討の余地があり、本論文で分析を行う際には、これを部分的に修正して用いることにする(これについては第四章において詳しく述べる)*31。

2.2 構築主義的家族研究
 近年、田渕も指摘する社会構築主義的な手法による新しい家族研究が、日本においてもなされている。例えば池岡・木戸らによって、家族研究の新しいアプローチについて、理論的枠組みと実証的研究の可能性の両面から検討を加える試みがなされている。池岡によると、これは前述した落合[1989]、上野[1991]、山田[1992]、田渕[1996]と同じ問題意識を共有するものであるとする(池岡[1997:1])。また池岡はこうした「主観的家族論」が、ファミリーディスコースの研究、構築主義的家族研究の新しい展開(Guburium & Holstein[1990=1997]、苫米地[1996]、赤川[1997])とも呼応するものであるとする。これらは、家族を人々の日常的実践によって構築されるものとしてとらえ、当事者のカテゴリーを重視するという基本的な研究のスタンスを持っており、従来の家族研究の主流が軽視してきた側面に注目する、新しいアプローチであると位置づける。ここではこれらの論考について考察を加える。
 まず、Gubrium & Holstein[1997]の内容を詳しく見ていき、その研究の意義を検討する。さらにこうした視点が取り入れられた、日本の近年の家族研究について検討していく。

 Gubrium & Holsteinの著作である『家族とは何か』は、社会構築主義(social constructionism)という視点から従来の家族研究を批判的に検討するとともに、実証的な研究を行ったものである*32。社会構築主義から家族を論じることについて、以下のように述べられている。
 「(社会構築主義から家族を見るとは)一言でいえば、家族を、所与の具体的で、固定したものではなく、人々の相互作用を通じて社会的に構築される現象としてとらえることである。その際に、言語と現実は分離できないことを認識し、家族の現実とされるものはディスコースを通じて構築されることに着目する。すなわち、構築主義は、人々が家族を解釈する過程に焦点を当て、実践において何が家族と受け取られるかは、流動的で変化するものであることを示す。」(Gubrium & Holstein[1990=1997:333])*33
 Gubrium & Holsteinは、「家族は法的に定義されてもいるし、生物学的に定義されてもいる。にもかかわらず、家族に関わるものの日常的な現実は、言説を通じて創り出される」と述べる。また「家族とは、社会的なきずなや感情の具体的な組合せであるだけでなく、関係について考え、語る方法でもある」とし、家族がどのようにして有意味な現実を持つようになるか、その過程を示している。具体的には「家族」、「家」、「世帯」、「家庭」、「プライバシー(私事)」の五つの言葉を取り上げ、その使用のされ方を見ることによって、個々人が「家族」を解釈する過程を綿密に描き出している。また家族をそれを構成するメンバーたちとは別個の、一つの全体性を持った統一体であるとし、独自の「もの」である表象としての家族が、実践を通じて達成されると述べる。

 この論考は、ある特定の「場」の言説データを使用した、家族に関する言説分析である。著者たちは自らフィールド調査を行い、ナーシングホームや、情緒障害児のための収容の居住治療センターなどの公的組織において、参与観察、インタビューといった質的調査を行い、そこで得られた言説データを使用している。こうした場所から「家族」に関する言説が抽出されている点に、まずこの研究の意義があるといえる。これは研究者の側で「家族」について想定させる状況を回避できるだけでなく、私的(と思われている)領域における家族言説も「組織に埋め込まれている」ことを示すことを可能にする。また、このことは家族に関するリアリティ構成において、個人的定義と社会的定義の相互作用を明らかにする視角を有していることを示しており、田渕[1996]とその視座を共有するものである。

 次に、日本において言説に注目する新しい家族研究を見ていく。
 木戸功は、従来の研究のあり方を否定して、人々がそう見なしているところの個々の多様な「主観的家族」をとらえるアイデアを提示する*34。さらに、「家族」の定義および設定を放棄し、当事者の用いる「家族」という言明に注目する〈家族の実践的アプローチ〉を示す。これは「与えられたデータ、つまり言説における「家族」をその対象として家族について考察をしていく」手法である。ここにおいては「家族とは何か」、何を家族とみなすかという問題は研究者にではなく言説の主体に委ねられる*35。
 また池岡らのグループは、木戸[1996]などに続き、このアプローチの実証的研究への可能性を探る試みを行っている*36。具体的には、単身者の主観的な家族意識についての調査を行っているが、これは人びとが家族というものに対して付与する意味を明らかにすることを意図したものである(志田・木戸[1997:1])*37。分析の結果、単身者の家族意識に関して、「同居」カテゴリーが相対的にプライオリティをもたないという、特有の傾向が見いだされた。しかしデータから得られたカテゴリーは、一般的に流通している家族イメージに依拠しており、単身者も個々の主観的な家族の解釈を行っていると結論づけられる。ここでは社会的リアリティ定義(「家族イメージ」)と個人的リアリティ定義との相互作用をとらえる視角があり、やはり田渕[1996]と共通する問題意識を有しているといえる。

□小括
 木田による、あるものに対して「家族」とラベル貼りを行う際の論理的・抽象的・潜在的な知識の体系(〈知識としての家族〉)を導きだそうとする試みは興味深いものである。木田は、複数の人間による議論からデータを収集するという方法をとっているが、これにより、個人が家族についてラベル貼りを行う「過程」を描き出すことが可能となる。また個々人の言語表現にこだわる姿勢は、より「家族であるもの」をとらえることに対して意識的であるといえる。また池岡らの試みは、単身者の「家族」を対象としたことによって、主観的家族論の可能性が示された。この調査は二回にわたる郵送調査を行い、詳しい「記述的データ」を採集し、さらに「なぜ」かを問うことにより、木戸[1995]と同様に個々人の解釈過程を描き出すことを可能にしている。
 二つの論考は共に、人びとの「家族」のリアリティの多層性を描き出そうとする視座を有している。しかし、「家族」という言葉のみに注目することの限界性、つまり研究者の側で「家族」を措定し、「家族」について考えることを強制する状況を作り出しているという問題が残る。人々が自発的に「家族」というカテゴリーを採用し、意味づけを行っているわけではない。そこにおいて得られたデータは、特定の状況における「家族」を、個々人が言葉で表現したものにすぎず、家族を経験する行為者としての個人をとらえきれているとはいえない。これと比較したとき、特定の「場(フィールド)」における言説を収集することの優位性(→Gubrium & Holstein [1990=1997]、)が改めて発見されるだろう*38。

2.3 ライフヒストリー(生活史)研究
 行為者としての個人をとらえる視角を有する研究法の一つとして、近年に新しいアプローチではないが、ライフヒストリー研究を挙げることができる*39。ライフヒストリー研究は個人を「複雑で重層的な存在」としてとらえ、「関係が複雑に集積する〈場〉」であるとし、これを研究対象として重視する(佐藤[1995:20])。つまり、これまでみてきた主観的家族論や、構築主義的家族研究とも視座や関心を同じくしている。
 この研究法は、主にある特定の個人が、これまで歩んできた人生や遭遇した出来事について述べた口述記録(ライフストーリー)を対象とし、調査者の枠組みではなく、語り手の、個人の主観的現実の構成のあり方を探るという方法をとる。つまり、語り手が自分の人生や過去の体験をどのように意味づけ、解釈しているかを重視するものである(桜井[1992:47])。
 これを家族研究に援用する際には、個人が過去の体験や出来事を述べた口述記録(ライフストーリー)を分析対象とし、その中に語られる「家族」についての「語り」を、データとして収集するという方法を用いることになる。
 先に、Gubrium & Holstein [1990=1997]が、特定の場をフィールドとして、家族についての言説を収集することによって、「研究者の側で「家族」を措定する」状況を回避できるという優位性があると述べた。これと同様のことが、この手法について言うことができる。つまり、ある「個人」をフィールドと見なし、その個人が、自分の人生や過去の体験を語る「ライフストーリー」の中に登場する、「家族」を抽出するというこの手法は、研究者の枠組みで「家族を考えさせる」状況を作り出すことを避けることができるだけでなく、ある個人が過去の(家族)体験を再構成して語る中に、彼らの「家族」に対する意味づけや、「家族」を解釈する過程を見ることを可能にする。つまり、ある個人がそれまでの人生の経験を語る中に、「家族」が逆照射され、その「語り」の中から、彼あるいは彼女の「家族」を描き出すことが可能になるのである。
 この意味においてライフヒストリー研究は、個人に焦点を当てる家族研究の、具体的なアプローチとして有効であるといえるだろう*40。

3.小括
 落合が1989年に提示した「家族を定義しない試み」への関心は、まず山田[1992]、上野[1991]へと受け継がれた。田渕[1996]はこれらを批判的に検討し、構築主義的家族研究(「家族言説」「家族イデオロギー」など)とも関連させつつ、「主観的家族論」の可能性を切り開こうとした。ここで田渕が重視したのは、リアリティの個人的定義と、社会的定義との相互作用を記述することであった。
 一方で近年、田渕も指摘している構築主義的なアプローチが、日本の家族研究の中にも取り入れられつつある(グブリアムらは、アメリカですでに十年ほど前から実証的研究を行っているが)。「主観的家族」という問題関心から出発し、言説に注目することにより、行為者がいかに「家族」を決定しているかを描く木戸[1996]、志田・木戸[1997]の試みなど、これらは家族に関する当事者の「言説」に、より注目するアプローチであるといえる。しかしこれらの研究は、「家族を人々の日常的実践によって構築されるものとしてとらえ、当事者のカテゴリーを重視する」(池岡[1997:1])という基本的な研究のスタンスを共有している。また「客観的な実体としての家族を想定し、研究者の側で設定した「客観的家族定義」によって行われてきた従来の家族研究の主流が軽視してきた側面に注目する」という同様の視座も有している。またこうした人々がそう見なすところの個々の多様な「主観的家族」をとらえるアイデアは、行為者としての個人へ焦点を当てる、ライフヒストリー研究とも関心を共有するものである*41。

4.本論文における研究枠組み
 本論文では、こうした新しいアプローチの潮流を踏まえた上で、基本的には田渕の「主観的家族論」を援用し、「個人の「家族」に関わる認知や経験(またはそれを表すものとしての言語表現)を観察者の分析の枠組みの中に取り込むことを方法上重視する立場」(田渕[1996:20])をとる。つまりここでは、家族を確立した制度や自明な集団として扱うのではなく、当事者の意識や言説の中で組み立てられ、変化するものとして考察することになる。またこれを援用する意義として、家族に関する個人のリアリティ定義と社会的なリアリティ定義との相互作用を分析する視角を有していることが挙げられる。
 またここでは、特に人々の語る「ことば」に注目する。またその「語り方」を重視するとき、聞き取りにおいて、対象者が語ったものを「語り手自身が口述した自分の人生あるいは体験についての生の説明」(桜井[1992:46])と位置づけるならば、ライフヒストリー研究に依拠することになる*42
 こうした研究枠組みを使用する際、第一に「核家族」などを参照モデルとし、ある構造や、普遍的な機能を持つ集団として「家族」を設定してきた、従来の家族社会学に対する批判を含む。第二にこうした中で、「行為者の視点」に十分な考慮を払ってこなかったことへの批判を含むものでもある。この意味において、「従来の家族研究で前提となっていた家族定義の有効性を疑い、それを留保」(池岡[1997])し、「家族を人々の日常的実践によって構築されるものとしてとらえ、当事者のカテゴリーを重視する」(赤川[1997])という、構築主義的家族研究と関心を共にする(ただしこの時、当事者に意識されていない要素が主観的な要素を規定するという意味において、「構造的な要素」が軽視されるべきではない)。
 くりかえしになるが、家族研究においては従来「客観的」な家族定義が優勢であり、それによって、行為者としての個人が営む「家族」の側面が軽視されてきたという経緯がある。これらへの批判を含むという意味での主観的家族論、あるいは構築主義的家族研究の視角を援用することは重要な意味を持つ。つまり、こうした研究枠組みを使用することによって、従来軽視されてきた個人の「家族のリアリティ」をとらえると同時に、「家族」のリアリティが多層的に構成されていることを示すことが可能になるのである。

(註)
*01 落合は「家族社会学という知的営為自体をひとつの社会現象としてとらえて時代の流れの中に位置づける」という、いわば「家族社会学の知識社会学」の試みを行っている(落合[1989:136-165])。落合は学史家トマス・クーンのパラダイム論を援用し、パラダイムとは「ある集団の成員によって共通して持たれる、信念、価値、テクニックなどの全体構成」であるとする。つまり「モデルや例題として使われる具体的なパズル解きを示すものであり、通常科学の未解決のパズルを解く基礎として、自明なルールに取って代わり得るものである」(落合[1989:138])
*02 山根は、十九世紀の家族研究は集団としての面をほとんど無視してきたが、二十世紀になると、家族の安定が加速度的に崩れたため、特にその傾向が強かったアメリカでは集団としての家族の現在志向的研究へと移行したとする(山根[1972:238])。山根はヒルの挙げた五つのアプローチ、すなわち、制度的アプローチ、構造−機能アプローチ、相互作用アプローチ、場アプローチ、発達アプローチの五つのアプローチのうち、制度的アプローチ以外はすべて、集団論的研究として一括している。また、池岡も同様の区分を行っている(池岡[1993:62])。
*03 また膨大な量の実証研究が行われたが、代表的なテーマは、配偶者選択、夫婦関係、親子関係、家族におけるパーソナリティの形成などであった(池岡[1993:63])。
*04 落合は集団論的パラダイム自体の基本的構成を描くために、集団論的パラダイムを標準的に代表する教科書を検討して、それらに共通して含まれている「背後仮説」(グールドナー)を抜き出す作業を行っている。背後仮説として落合が指摘するのは、次の八つである。
 @家族は人類社会に普遍的に存在する
 A家族は歴史や文化差を超えて変わらない本質を持つ
 B家族は集団である 
 C家族は主に親族からなる
 D家族成員は強い情緒的絆で結ばれている
 E家族のもっとも基本的な機能は子どもの社会化である
 F家族成員は性別により異なる役割をもつ
 G家族の基本型は核家族である
 落合はこうした試みにより、@〜Gが集団論的パラダイムにおいて暗黙の前提とされていることを明らかにした。それと同時に、集団論的パラダイムは歴史的家族類型である近代家族の特長と重なり合っていることを指摘し、これらから、集団論的パラダイムには、近代家族のマンタリテが暗黙の背後仮説として影を落としていたと述べる(落合[1989:146-154)。
*05 この部分は布施[1992]、池岡[1993]、石原[1992]、正岡[1986]、野々山[1996]、篠崎[1996]に拠っている。
*06 清水浩吉は、昭和十年(1935年)前後に実証的な家族研究が開始されたとする(清水[1984:49])。
*07 布施晶子は、戦後の四十年間の家族研究を貫く特徴として1)研究の視角が巨視的研究から微視的研究へそして再び巨視的研究へという推移をたどっている、2)実証研究が多数を占める、3)都市家族を対象にしたものが多い、4)構造=機能アプローチと発達アプローチが主軸を占める、5)現状の改革・変革を目指す政策科学的姿勢を禁欲することを目指したものが多い、6)アメリカ社会学の学説の援用が多い、7)経済学、哲学、歴史学との接点に欠ける、としている(布施[1987:157-159])。
*08 ここでは家族社会学自体を一つの社会現象としてとらえる落合の視角(落合[1989:136])を援用する。日本の家族社会学がどのような視座に基づき、「家族のきずな」(「情緒的結合」)を語ってきたのかということを省みる、家族社会学の知識社会学的な試みである。
*09 戸田によると、コントは「…家族においては異性者が緊密に合一している。人々はその性的の差(分化)にもとづいて相互に接触結合する場合には、完全に合一化することが困難であるが、《家族においては人々の結合はきわめて緊密に行われている》。他のいかなる社会においても人々の融合は家族におけるほど充分に行われ得ない。ここでは二者は融合して一つのものとなっている。かくのごとき家族の緊密なる合一化は共同の目的を求めんとする自然的力が不断の従属関係の実現と結びついているが故である。人々の形作る社会結合は相互の従属関係にもとづくのであるが、この社会的結合の基本的条件は家族においてよく実現せられている。」と述べている。
 またリールも、「家族における愛情と信頼の関係、この関係にもとづく権威と従属とが家族的共同の基本である」としており、コントの説明による家族の意義に近いという。さらにリールは性的・血縁的な愛情が、信頼感・従属感となり、この従属感にもとづいて権威が生じ、従属と権威との関係が家族員と家長との間に生ずると論じている。
*10 「戸田はこの家族共同の緊密な結合の基礎に対し、成員の感情的融和・融合あるいは合一化、相互の全的開放没我的全的一体化を求める内的関係などさまざまな表現を与えているが、成員の感情的融和という場合がもっとも多く、これらの心的態度を一応この表現で代表させることができる。」(喜多野[1937=1970:391])とあるが、ここでは定義に使用されている用語に則り、「感情的融合」を使用する。
*11 例えば戸田は、家族は人々の感情的要求にもとづいて成立するものではなく、人々がその経済的要求などの打算的要求を充たすための集団であるとする説に対して、「…打算的要求を動機として成立する家族結合にあっては、各成員の提供する機能にかなり重き期待が置かれているであろう。しかし…この機能の実現がないとて直ちに夫婦関係が分解し、親子が分離するのではない。かかる機能の実現はないとしても、夫婦の和合、親子の共同は比較的よく維持させられるようである。このような動機にもとづく家族結合においても、夫婦の別離または親子の別居が起るのは、かかる機能実現の有無によるよりは、感情融和の通路の遮断によることが多い。してみれば家族結合の動機が打算的要求にある場合においても、この結合の存続は主として人々の感情的融合にもとづくものであると云われ得る。」とし、家族員の「感情的融和」を、一般的な家族の存立の根拠としている。
 また戸田は日常の講義の中でもしばしばこのことについて言及したようだ。昭和初期、戸田のもとに学んだ清水幾太郎が次のように書いている。 
 「…もう一つ、私たちが飽きるほど聞いたのは、(中略)家族の心理的基礎に関する美しい言葉である。夫婦や親子の間の感情的融合および全人格的信頼−。こういう点に触れるとき、教壇の先生は、必ず眼を半ば閉じて、恍惚と呼びたいような表情になる。それは、多くの学生が気づいていた。そのたびに、“始まったぞ”と私たちは教室でささやきあった。しかし、私のように人生経験が乏しいものでも、こういう先生の言葉が現実の家族の描写と言うより、その一面的な理想化であることを知っていた。感情的融合や全人格的信頼というものの裏側には、家庭生活に固有の、どこにも抜け道のない、煩わしい諸問題が縫いつけられているのではないか。学問とは関係のない、何か特別の事情があって、先生は、ある願いをこめて家族を一面的に理想化し、みずからこれに酔っておられるのではないか。教室で、私はいつもそんなことを考えていた。」(清水[1973:92-95])
*12 鈴木は次のように述べている。「家族の本質は、社会的に承認されたる永続的なる性的関係ということになるだろう…(中略)…かくの如き家族は現代代都市における自由主義的・個人主義的生活態度を持する文化人の夫婦生活のうちに明瞭に示されている。同居する事も、共産的になる事も、そこに従属関係が生ずる事も、《感情的融合》が現れる事も、みなかくの如き性的関係の持続の間におのずから生じる附帯的要素にほかならぬ。現時点の大都市のアパートに住む若夫婦の生活に、もっとも《純化された家族》をみいだす事ができる。」(鈴木[1940→1968:162])
*13 福武は戦後、「封建遺制」をめぐるシンポジウムの記録として出版された『封建遺制』(1951)において、家族について次のように述べている。
 「法律や儀礼のような形式的権威的な制度を根底にもつ家族ではなくて、相互の愛情や理解や合意というような人格的相互関係にもとづく友愛に立脚するものとなっている欧米の近代的家族においては、結婚によって家族をつくりあげる当事者にとって家族がアソシエーションと考えられても、それほど不自然ではありません。…」(福武[1951:150])こうした福武による類型論は、戦後日本社会科学における典型的な立論であった(千田[1997:2])。
*14 森岡は次のように述べる。「…しかし、事実は期待を裏切って、しばしば夫婦の間や親と青年期の子、既婚の子との間に感情のくい違いが起こり、緊張・葛藤さらには暴力行為へと発展することさえある。…だから、いちがいに感情融合を家族の人間関係の特色と主張するのは、「甘え」の心性に根ざした日本的発想であるかもしれない。ともあれ、愛であれ、憎しみであれ、夫婦も親子も、感情的に深くからみついた余儀ない結ばれ方をしていることは、疑いいれない。家族員は互いに無関心であること、第三者的な平静な態度をとり続けることができないのである。家族関係をいろどる感情は、非打算的である代わりに、しばしば合理的判断を拒否し、時には理不尽でさえある。家族員は互いにそのような感情的関わり合い(emotional involvement)で結ばれているのである。」(森岡[1993:4-5])
*15 森岡は、愛着関係を反発関係と無関心の三種類に分類し、愛着関係を統合型、反発関係と無関心とを合わせて解体型と呼び、情緒関係のパターンを4つ(統合型、ブリッジ型、スケープゴート型、解体型)に整理している。そのうち統合型が「3人が三つの《愛着関係によって結合しているもので、家族のまとまりもよく、最も家族らしい家族である》」と説明している(森岡・望月[1993:153-154])。
*16 この定義に関する山根常男の批判「家族を福祉追求の集団とみなすのは、現実に基礎づけられた規定というよりは、むしろ、期待、願望、当為に基礎づけられた規定である。」に対しては、「筆者の定義と実体との距離は確かにあるが、現実との距離は理念型である概念のもつ本来的性格ではないだろうか」(森岡[1986:4])と述べる。
*17 有賀喜左衛門によってこうした福武の近代主義が批判されている。有賀は「このような評価は日本の文明が西洋文明に比して遅れており、日本は西洋文明を取り容れることによって、同じ様な発展過程をとるという文明批評に根ざしている。」(有賀1965→1971:63])と述べている。
*18 清水によると、有賀喜左衛門は農村社会学の立場に立ち、「日本民族文化の特質解明とのかかわりのなかで家族(「家」)研究の重要性を指摘した」(清水[1984:52])という。有賀によると「家はきわめて重要な社会関係の一つであることはいうまでもないが、それは決して唯一の重要な社会関係ではない。ただこれは性関係・血縁関係・さらに非血縁関係をも含むことのできる複雑にして、比較的小規模なる、かつ最も普遍的なる社会関係であるという特徴によって、社会関係の本質を極めるには最適のものである。それゆえに家に示された民族的特質の傾向が基本的であるのではない。」(有賀[1947→1969:109]。しかしこの特質は日本民族文化として共通に示現するものであるため、これを究明するために家(家族)を研究することの重要性を説き、「家連合の集合する都市と村落とをこれに関連させて追求することは適正と考える。戸田貞三博士が社会学において家の研究を基本的なものとする意味を深く捉えたい」(同:161)と述べている。
*19 森岡は「家族関係を研究する意義」として次のように述べている。「激動の時代ほど科学的な情報の必要な時代はない。かつての親たちはその親の足跡をモデルとして踏襲すればよかったが、激動期にあたる今の親たちには新しいモデルを創造する課題が課せられている。この課題に立ち向かうためには科学的情報が必要なのである。家族関係を研究し、また研究成果を学習する現代的意義もその辺にあると考えるべきであろう」(森岡[1974:6])
 また湯沢正彦も森岡同様、よりよい家庭生活を営むための指針を得るためのものとして「家族」を論じることを位置づけている。それは次のように論じられている。「誰でも、家族についてある種の漠然としたフィロソフィー(哲学的思考)を持つことができるが、本格的なサイエンス(体系だった科学的判断)をもつことは容易にできない。そこで、偏狭な独断を排するために、家族関係についての諸問題を体系的・組織的に研究し、客観的な認識を深める必要があるわけである。これが、家族関係学を学習し、研究しようとする目的に他ならない。」(湯沢[1969:4])
*20 布施晶子も家族を「愛の生活共同体」として定義し、「精神のオアシス」として重要な意味を持っていると説く。一方では「愛情」が不安定なものであり「家族」が矛盾を抱えていることを指摘し、次のように述べる。「愛情というきずなは、ある意味ではこのうえもなく強い関係であるが、ひとたび愛情が喪失したときには脆い関係に変わり、家族の凝集性は弱まる。その意味では、現代家族の、とりわけ夫婦のきずなは、このうえなく強く、また弱い不安定な関係とも言える。」(布施[1992:134])しかし、「異性愛」と「肉親愛」が家族の本質であることが強調されている。
*21 舩橋惠子は、家族が集団としての側面を持つことを指摘し、個人と集団という二重の単位での重層的・多角的な分析が必要であると説く。舩橋は、集団として家族を捉える視点は、家族が社会的行為の主体であるかのような「戦略」を生み出すという事実を指摘したこと、(→ハレーブン[1982])また、「家族福祉」という政策的課題を提起すること(家族生活の実現という人間的欲求に応えようとするもの→「子育て支援」などにも応用展開できるとする)などを指摘し、集団性が本質であるかということは、議論の余地があるが、今後の家族研究にとっても大切な視点になると説く(舩橋[1996:244-246])。
 もちろん集団としての家族という側面があることは否定されるべきではなく、こうした視角も重要であろう。ただこうした研究視角の有効性を説く際に、集団論的パラダイムが危機に陥った原因として、欧米型「核家族モデル」を理想としていたという点にあったこと、また従来「集団としての家族」が過度に強調され過ぎたために、見落とされてきた側面(個々人が認識、解釈する「家族」)への注目が言われてきていることに自覚的である必要があるだろう。
*22 ここでは詳しく触れないが、社会史の業績として「子ども期の成立」「子どもを中心とした親密な家族の成立」という変化を指摘したAries[1960=1980]、「感情革命」という言葉で、近代化の中で家族と感情が結びつく過程を表したShorter[1975=1987]、「母性愛」を発見したBadinter[1980=1991]、「夫婦愛」に言及したStone[1979=1991]、Segalen[1981=1987]、さらにその中でもカトリックの変貌に着目したFlandrin[1981=1987]などが挙げられる。ここにおいて拡大家族・大家族制度から核家族・小家族制度へと家族の形態が変わってきたという常識、また家族の情緒的なつながり(「愛情」)が自然的・本質的なものであるという常識が覆えされた。
 また近代社会と「親密性」について「ロマンティック・ラブ」と「純粋な関係性」などの概念を提示して論じているものとしてGiddens[1992=1995]。近代家族と「愛」について論じたものとして立岩[1991]参照。
*23 落合はこれが家族研究の、また社会研究の一つのパラダイムとして定着したと位置づける。しかし他のアプローチへの目配り不足や近代家族論万能主義というような、枠組みの強引な適用が見られるとし、この理論の精緻化の混乱をただす試みを行っている(落合[1996:23-53])。1980年代には、落合は「当時学会においても一般の人々の理解においても圧倒的に支配的であった家族観・家族理論を「脱構築」するためにこそ、近代家族の知見を用いる価値があると判断し」、家族を定義することを放棄した。それは当時の一般的な知的状況(従来の知に対する「異議申し立て」がさかんに行われた時代)とも連動するものだった。しかし90年代に入ると、新たな家族理論構築のために近代家族概念を正確に定義しようという動きが現れてきた。落合は、近代家族概念の操作化をめざし、戦後日本家族を@女性の主婦化、A二人っ子化、B人口学的移行期における核家族化という、三つの特徴を持つ「家族の戦後体制」としてとらえることを提案した(落合[1994:97])。これにより、「少子化」「主婦」という指標をつくることが可能になり、解釈のあいまいさが減少する。
 また近代家族概念を「脱構築」のためではなく実証的に用いるといった種類の研究が登場してきた。この段階を落合は近代家族論のセカンドステージと呼ぶ。現在、日本の近代家族論者の多くが日本の近代家族をどう考えるかという問題ととりくんでおり、近世近代の日本家族の分析に多くの成果を挙げているという。
*24 木本喜美子は池岡や舩橋とは違う視角からの乗り越え方を提示する。木本は従来の研究は家族と全体社会との関係構造の解明において、十分な力を発揮していないと指摘する(木本[1995:13])。また戦後の日本における家族社会学は、アメリカの影響を受け他の集団には代替しえない家族集団の特徴として「情緒的結合」を強調してきたが、社会変動の波を受け、変質してきている現代の家族をとらえるために、ジェンダー論を視野に入れた視角の可能性を提示する。
*25 落合は、解釈学的アプローチとは社会の暗黙の層を<読む>ことであると述べる。その方法として、@社会的ルールを外的視点から事実として観察する方法(人口学、社会統計を用いる方法など)、A内的視点に比重を置いて生きられるルールを意味論的に解読する方法(エスノメソドロジー、記号学など)、B可視化されたルールである法や慣習に注目する方法を挙げている。この方法はあらゆる社会現象は客観的でも、主観的でもなく、間主観的であると考える。内的視点に立てばしたがうべき規範と言え、外的視点に立てば人びとの行為が規則性をもつという事実と見える社会的ルールの文脈にあって、行為ははじめて意味を持つという(落合[1989:162-165])。
*26 上野はFIが伝統型から非伝統型へと移行してきた果てに、現実の家族以上に絶対的で宿命的な関係が構築されているというパラドックスを指摘し、「家族」という言葉で表されるものの一つの本質をついている、とする。つまり自発的で選択的な関係を人は「家族」とは呼ばないということ、従ってある関係が「家族のような」という比喩で呼ばれる時には、その関係の基盤を選択的なものから運命的なものに置き換えたいという動機が働いているということである(このときに宗教やオカルトが力を発揮する)。
*27 また従来の枠組みでは、現代家族に生じているさまざまな経験をとらることができない例として、@ペットを家族とみなす、A夫婦生活はうまく言っていても、「本当の家族ではない」というリアリティを持つ、B「世帯」概念ではとらえられない家族、住民表上は、核家族世帯となっていても、同一敷地内に住んでおり、事実上生活を共同している家族がいるなどをあげている。
*28 山田は家族論にエスノメソドロジーの手法を導入する際の課題を次の三点にまとめている。
 @従来の「家族社会学」が使用している家族のとらえ方をあきらかにすること。
 A日常生活を送る人びとが使用している家族のとらえ方をあきらかにすること。
 B現実の相互作用の中で家族のとらえ方がどのように用いられているかを明らかにすること。
 @に関しては、歴史社会学や文化人類学、フェミニズムなどの業績に影響を受け、集団論的家族社会学に対する再検討がさかんになっているという。またAに関しては、データの問題があるとする。家族に関する意識調査は数多く行われているが、質問紙調査は類型的な質問にならざるをえず、家族社会学がもつ家族のとらえ方が影響してしまう。近年、歴史社会学や生活史の分野からの歴史的データが集まりつつある。また、人々の家族の体験を綴った本が相次いで出版されているが、これらのデータを社会学的にまとめたものは少ないという。Bに関しては先行研究はほとんどないが、会話分析などが有効な手段だと思われると述べる。
*29 当事者の有する主観的な家族像は、主として行為者の言明(家族に関わる言明)を指標として推測されねばならず、この言明の水準の区別が必要になると述べる。またこの時に重要なのは、研究主体がどのような水準で分析を行っているか自覚することにあるとする。
*30 田渕はまた従来の家族社会学の方法論的な考察において、「当事者の視点」に対する考慮が払われてこなかったわけではないことを指摘し、野々山が当事者の認知的な側面を考慮すべきことを指摘したこと(野々山[1977:229])、また、家族ストレス論の中に「状況の定義」「凝集性」などの概念で成員が持つ「家族」に関する認知を分析対象にするという視角が見られたこと、また人類学的な文献において当事者が「家族」を定義づけるかという契機が持つ重要性が指摘されていることを挙げる(清水[1987])。しかしこうした指摘は、実際に当事者が「どのようにして」家族に関わる認知を構成していくのかということを理論的および実証的に究明すべき問題として扱ったり、経験的データをもとに検討したりするという作業を生んでこなかった、という点において従来の家族社会学は、当事者が持つ主観的な認知が、家族研究に対して重大な論点を提示すると認識することがなかったと言ってよいと述べ、主観的家族論はこの点に疑義を提示するものであると位置づける(田渕[1996:25])。
*31 立岩真也は、これまでの論者の多くが「感情的包絡」「情緒的充足」「第一次的な福祉追求」といった、行為の質、動機づけの特質、あるいは家族の機能を見いだして、家族(あるいは近代家族)を定義してきたことに対して、第一に家族の存在を情緒的な関係があるという事態そのものだとすると、当事者の現実に則さない「家族」が多々見いだせること、第二に、情緒的な関係を全て家族であるとはいえないこと(これに成員の資格を付け足したところで、事態は変化しない)を挙げ、単に当事者の観念という問題だけではなく、行為の権利・義務に関して社会的な規則が存在することを指摘する。さらに、従来の議論では「誰が設定するのか」という視点の問題が重視されてこなかったとし、「私たちが漠然と家族として知っているものが、何によって構成されているのか、それを規定しているらしい諸要素を取り出し、その各々から帰結する像を確定することが必要」であると述べる(立岩[1992:32])。主観的家族論はこうした「誰が家族を定義するのか」という立岩の問題提起に対する一つの答えを提示するだろう。
*32 社会問題研究における社会構築主義の有名なテーゼとして「社会問題とは、人びとがそれが社会問題だと考えるところのものである」、「社会問題とは、ある状態が存在すると主張し、それが問題であると定義する人びとによる活動である」というものがある。
*33 日本の家族研究との関わりでは、山田[1994](愛情表現と家族との関係)、牟田[1996](言説分析の応用)、坂本[1997](家族イメージの創出という問題意識)と共鳴するという(訳者あとがき:345)。
*34 木戸は、従来の家族社会学は、専門用語(学術用語、操作概念)としての「家族」という概念を用いて、またこうした概念というフィルターを通して把握しうる家族のみをその考察の対象として、一定の成果を挙げてきたとする。木戸はこれを「家族社会学的家族」とでも呼べるような定義づけられた「家族」であるとする。つまり「家族とは何か」に関する明確な選択基準が存在し、それによって経験的現実が科学的に把握されているのだが、これはここから逸脱する事例によって常に批判にさらされることになる(木戸[1995:173]、池岡[1997]、田渕[1996]、立岩[1992]など、このことは幾人かの論者によって指摘されている)。しかし、この操作概念としての「家族」では捉えきることのできない家族が存在することを指摘する。
*35 木戸はこの主体に、あるものを指して「家族」と言わしめる論理的で抽象的、また潜在的な知識の体系、または文節カテゴリーを〈知としての家族〉とよぶ。またこれを山田[1989]の言う「主観的家族像」とぼぼ同義の操作概念であるとする。田渕の「リアリティの社会的定義」(「家族」に関する社会的に許容された知識体系」)とも同様であると思われる。これはその主体にとっての〈家族であるもの〉を確定化するうえで必要な装置であるという。これを操作的に導き出すことで、主体がなぜその時「家族」という言葉を選択するのかを考察することが可能になる。こうした個々人の〈知としての家族〉の行使の仕方を観察するために、操作的に問題状況を設定し、それに対する個人の反応を検証するという試みを行っている例えば以下のような課題、「親が反対している同棲のカップルに子どもが生まれました。彼ら3人は家族でしょうか、家族ではないでしょうか。あなたはどう思いますか。」に対して、二人一組で話し合って結論を出すことを求め、この議論の過程から、話者が対象をどのようなレトリックを使って家族である、あるいは家族ではないと主張するかを考察する。これによって、〈知としての家族〉へアプローチしていく(木戸[1997:5])。これに対して山田が行った「家族の範囲をめぐる意識調査」(1988〜89)は、例えば「長期間一緒に生活しているが、婚姻の届けをしていない男女」について@家族だと思う、Aどちらかというと家族だと思う、Bどちらかというと家族だと思わない、C家族だと思わない、の四つの選択肢から選ぶ形式で行っている。そのため、木戸が行っているような「家族」を解釈する「過程」を描くことはできない。したがって「人びとが家族という言葉を使用して把握している多様なリアリティ」を描くことに留まる。つまり「人々が思うところが家族」であることを示し(ペットを家族だとみなす)、それが何なの?ということになってしまう。こうした意味で木戸などの試みは、個々人の「言語表現」にこだわり、これを踏まえて〈知としての家族〉を考察することを目的にしたものであり、より「家族であるもの」を捉えることに対して自覚的であるといえるのではないか。
*36 池岡は「従来の家族定義を前提とする家族研究は、家族を定義することによって同時に「非家族」をも定義することになり、結果的にあらかじめ家族研究の対象を拡大することになる。それに対して、家族定義を前提としない家族研究は研究対象を限定することがない」と述べ、主観的家族論の可能性を説く(池岡[1997:1])。
*37 志田らの調査はまず、対象者自身によって自らの家族の対象を記述させ、自らの「家族」というラベルを誰に(何に)付与するかを対象者に問うために、「あなたが家族だと思うものを、思いつくままにすべてあげてください」という質問を行う。その結果から、家族としての対象をあげていない対象者と、何らかの家族としての対象をあげた対象者という二つのグループに分類し、それぞれに別個の質問項目を作成している。前者のグループに対しては、両親やきょうだいという、通常「家族」のラベルを付与されてもおかしくない対象に、それが行われなかった理由を尋ねる。後者のグループに対しては、すでに挙げられた対象が家族である理由を尋ね、またさらにそれ以外の、通常「家族」のラベルが付与される対象を挙げなかった理由を尋ねるという方法をとっている。そうして得られた記述から、十のカテゴリー(血縁・戸籍関係、同居、交流、親密性、困難時の相互依存、扶養、死亡、相手が生殖家族をすでに有している、その他)に分類している。
*38 このほかに、言説に注目した家族研究として、赤川[1997]、苫米地[1996]が挙げられる。赤川は、家族を「客観的な実在と言うよりは、むしろ人びとの日常的実践によって構築される現象ととらえる」ような理論的傾向を、家族の構築主義的把握と呼ぶ。こうした把握の仕方により、人びとが「家族」を認知し、意味づけ、日々の活動を行っていくその様相に、より微細な関心を向けることができるとする。また従来の家族社会学では見落とされてきたような、人びとが「家族」に対して抱く多様なリアリティ、リアリティの複数性を分析的に抽出し、処理することが可能になるとする(赤川[1997:106])。赤川は明治期末から大正期にかけての言説的構築について、その時期に出版された女性向け雑誌の言説をデータとして論じている。しかしこうした分析が、個々人が認知し、意味づけする「家族」を描くという、構築主義の利点を生かすものであるのかについては疑問が残る。
 また苫米地伸は、構築主義的なレトリック分析を用いて、「夫婦別姓」の言説を再構成する試みを行っている。また「夫婦別姓」問題という言説の中で、どのように家族が扱われているかを考察している。苫米地によると、「夫婦別姓」に賛成する人々(賛成派)が理想とする家族像は、個人がそれぞれに尊重される家族である。「個人が家族をつくるのであって、家族に個人が組み込まれるのではない」。これに対して、反対する人々(反対派)は、社会の最小単位として「夫婦と子供」を措定する。しかしこれは相反するものではなく、「賛成派は愛情を先行させた上で「結婚」、そして「家族」を形成するのを理想とするのに対し、反対派は「結婚」を先行させ、そこから愛情のある「家族」の形成を理想とするという順序が異なっているだけ」と結論づけられる。また、この二つの家族が共に「愛情」を基本としていることを指摘している(苫米地[1996:72])。苫米地の論考は、「夫婦別姓」についてのレトリックの応酬を構築主義的に記述しながら、その中でどのように「家族」が扱われているかを考察した興味深いものである。構築主義的な家族研究の実証的な試みとして評価されるべきものだろう。また、「家族」という言葉だけに拘ることのない、構築主義的家族研究への道を開いたといえるのではないか。
*39 ライフヒストリー研究は、人類学ではすでに方法論として確立されているが、社会学の分野では1950年代(日本においては1970年代)に、それまで主流であった統計的調査法と構造機能主義に対して異議申し立てがなされ、再び光が当てられたものである。主流の社会学への批判は、「個人を正統な対象としてこなかった」という点であり、これに対してライフヒストリー研究が提起するのは「個人の復権」(プラマー)である。このリバイバルには、シンボリック相互作用論はもちろんのこと、文化人類学、歴史社会心理学、歴史社会学、役割理論、理解社会学など、さまざまな理論的枠組みが使われている。また現象学的社会学やエスノメソドロジー、解釈学などが「ライフヒストリー研究を進める際の大きな布石になっている」という(中野・桜井編[1995:9])。
*40 個人に焦点を当てる方法として、ライフコース研究を付け加えることができるだろう。ライフコース研究は、主としてライフパターンの析出を分析の中心に据えたものだが、個々人の人生を対象にすることで、生活史研究との対比や論争が生まれ、ライフサイクル論よりは、事例研究を併用することが多くなるという(池岡[1997:5])。正岡らの一連のライフコース研究でも、人口学的・統計的分析と、生活史(ライフヒストリー)分析の併用が主張され、実施されている(正岡[1992])。また大久保・嶋崎[1995]においても、分析のスタイルとして、現象一般を対象とする統計的分析と具体的な個々の現象を対象とする事例分析があるとし、両者は相互補完的に併用されるべきであるとする。統計的分析として、家族経歴、職業経歴、転機と時間、人生の浮沈感覚、事例分析として転機の類型、戦争と転機が挙げられている(大久保・嶋崎[1995:65])。また佐藤健二はライフコース論が、ライフヒストリーのテクストを切り分けて整理するという一定の役割を果たすと述べる(佐藤[1995:22-23])。ライフコース論に関しては、大久保・嶋崎[1995]など参照。
*41 構築主義的家族研究とライフヒストリー研究の差異はどこにあるのか。まず一つには、前者が歴史学や人類学、あるいは現象学の理論枠組みを使用するものであること。したがって、ライフヒストリー研究は「日常生活世界のリアリティ構成」を主題とする現象学的社会学や、「人びとの方法」を探るエスノメソドロジーと共通する視座を有している(主観的家族論も同様である田渕[1996])。一方で構築主義は社会問題論の分野で発達したものである。従来の社会問題研究の主流は機能的および規範的アプローチであり、社会問題として研究者が措定したものが、研究者の「常識」や「規範」や「判断」によって論じられていたことへの批判から提出されたものである。このため、「問題」の客観的状態を措定するのではなく、メンバーによる「クレイム申し立て活動」などによってそれを「社会問題」だとする姿勢をとる。つまり、これが家族研究に応用されるときには、「家族」とは「人々の言説を通じて社会的に構築される現象」としてとらえられることになり、従って人々の言説に非常な重きを置き、また家族の客観的な定義を否定する視角を持つ(Gubrium & Holstein[1990=1997:330])。後者の点において二つの方法論の相違点が見いだせる。ライフヒストリー研究は、社会を構成する主体としての「個人」へ注目する視角を有しているが、これが家族研究に導入される場合、「個人の認識・解釈」への注目へと変換され、分析者の側が「客観的」な家族定義を分析視角に持ち込む可能性もあり、注意深く扱う必要がある。これらの方法論を援用する第四章において詳しく論じる。
*42 またライフヒストリー研究は、ライフコース研究とも重なり合う面を持ち、相互補完的な役割を持つことが指摘されている。本論文では、障害者が「自立」を語る言葉に注目するが、これは障害者にとっての「自立」が「家族と同居する場から一人暮らしへ」を意味する限りで、ライフコース論の「家族経歴」を辿るという手法に類似したものであるといえる。「自立」を語るときに障害者の「家族」が逆照射され、その「語り」のなかでよりくっきりとした輪郭を描くことが可能になる。実のところ聞き取りをはじめた当初は、障害者へ「自立」の契機やその経緯を尋ねることは、「家族」に関する話題を引き出すきっかけとしていたにすぎなかった。しかし結果的には、「自立」を語るときに登場する「家族」に関する言説を収集することが、本論文の目的に対して有効に働くことになった。というのは、これによって先行研究にみたような、研究者の側で「家族」について考えさせる状況を定義することを回避することが可能になるからである。


第二章 「障害者と家族」研究の展開
 ここでは障害者と家族についての先行研究を批判的に検討する中から、本論文の課題と意義を見いだすことを目的とする。第1節では近年の障害者を取り巻く状況を概観し、どのような中でこれらの論考が著されたのかを考察する。第2節で先行研究を具体的に見ていき、第3節において特に「脱家族」論に対して批判的に検討を加える*01。

第1節 障害者をとりまく状況の変化
1.国際障害者年に関わる動き
 最近の二十数年の障害者福祉の進展ぶりはめざましいものがあるという。日本における障害者福祉の進展に多大な影響を及ぼしたのは、国連による障害者に関する幾つかの宣言である。1971年に「知的障害者の権利宣言」、1975年には、すべての障害者の権利を擁護するための「障害者の権利宣言」が採択された*02。これを具現化するために、1981年を「国際障害者年」とすることが総会において決議され、1983年からの十年間が「国連・障害者の十年」と定められた。これにあわせて、日本においても「障害者対策に関する長期計画」(1983年からの十年間)が策定される。また、二つの機関、「国際障害者年推進本部」(総理府)、「国際障害者年特別委員会」(中心心身障害者対策協議会)が設置された。さらに国際障害者年のテーマである「完全参加と平等」を実現させようと、1980年国際障害者年日本推進協議会が組織された*03。
 また同時期、アメリカの自立生活運動(→第三章第2節参照)に代表される障害者パワーの台頭は、新しい自立観と、障害者自身の政策決定過程への主体的参加、参画の必要性を示した。とくに、1983年3月、重度障害者を中心とした実行委員会組織の要請に応え、約二週間にわたって、バークレーとハワイのCIL*04の活動家と介助者の十余名が日本を訪れたことは、日本の障害者に多大な影響をもたらした。彼らは東京(3回)、神奈川、愛知、京都、大阪、福岡で計8回のセミナーを行い、啓蒙と交流の役割を果たした。このアメリカの活動家たちの来日により、日本にも存在していた自立生活を求める運動は、急速に力をつけていった。
 また一方で厚生省の側から呼びかけられた、当事者を含めた研究会(「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」)の成果として、1984年に、はじめて「自立」を扱った『自立生活への道』(全国社会福祉協議会)が刊行される。

2.障害者への認識と理解の深まり
 国際障害者年に関わる一連の動きの中で、国・地方自治体による施策の充実、そして障害者福祉の理念の確立において、これまでに例のない程の進展がみられた。このような中で一般市民への「障害者」の認知や理解が飛躍的にすすんだ。「障害者問題についての意識調査」(総理府、1981)によると、東京都民の90%が国際障害者年を知っており、ロサンゼルス市民33%、パリ市民66%を上回り、調査した都市の中では周知度はトップであった(大野[1988:30])。「障害者」に対する認知はともかく「理解」に関しては疑問も出されている。しかし国際障害者年が、多くの人々にとって全く知らない存在であった「障害者」について知るきっかけを与えたことは、確実にいえるだろう。こうした中で、障害者が徐々に外へ出かけるようになり、彼らの著作が幾つか著される*05。
 また一方で「施設から地域へ」という障害者に対する施策が(一方では「家族による介護力を期待したものだ」と批判されながらも)行われ、福祉論や地域福祉論という領域において、「障害者(児)と家族」が論じられるようになる*06。さらに自立生活運動への注目が高まる中で、「脱家族」という主張との関わりで「障害者と家族」を論じたものが80年代後半に著される。次節からはこれらを詳しく見ていく。


第2節 「障害者と家族」研究の展開
1.概要
 ここでは「障害者と家族」について論じる先行研究を見ていく。障害者に関わる論考は少ないわけではない。医療・リハビリテーション的視点からの研究は多くある。また個人の損傷が問題の核心であるとする「医療モデル」的な見方ではなく、障害者をとりまく環境や人間的・社会科学的側面に注目する研究も多数存在することは、長瀬修によって指摘されている(長瀬[1995])*07。しかし「障害者と家族」という限られた領域になると、それは格段に減少する。久保紘章は障害児に限定してではあるが、「わが国の場合、障害児を持つ親や家族についての研究は、いくつかの先駆的な研究はあるもののまだ本格的なものは少ない。障害児本人に焦点が当てられていて、家族は常に背後に押しやられている」と指摘する*08。
 こうした状況と合わせて、ここでは「障害児と親(家族)」についての論考も先行研究に含めて見ていくことにする。その理由は第一に、しばしばこれらの中では障害児と障害者が混同して論じられていること、第二に、本論文で注目する重度の全身性障害者の大半が、成人後も引き続き在宅で、主に家族の介護を受けて生活しており、幼少時からの継続的な問題を有していることが挙げられる。
 「障害者と家族」は主に三つの論じ方に分類することができる。一つは福祉論、地域福祉論において福祉の対象として論じるもの、二つめに「障害児の親」を中心に論じるもの、三つめに自立生活運動における「脱家族」に関連して論じるものである。これらの先行研究を批判的に検討し、特に「脱家族」論について詳しく見ていくことにする*09。
 ここで触れるのは、筆者が文献をたどった上で重要だと判断した、少数の先行研究に限られるが、注目すべきことは、これらの中で障害者とその家族との関係を主題的に論じたものがほとんどないことである。この理由についても最後に考察を試みる。

2.福祉論における「家族」
 まず、福祉論が家族をどのように把握してきたかを見ていく。岡原正幸によると、これまでの福祉論において「家族」のとらえ方は、福祉機能の多くを家族に求めるかどうか、具体的には福祉の対象とされる人々のケアを家族がするのか、それ以外の制度がするのかという論点によって、大きく二つに分けられる。ただし、これらは可能ならば家族が福祉機能を果たすべきだとする点は一致している(岡原[1990a:76-78])。
 岡原に依って、これまでの戦後日本における社会福祉の政策的、理論的流れを概観する。まず、大家族制や地域共同体の消滅、都市における核家族化などを背景にして家族機能の弱体化が指摘されていく。その結果、福祉機能は家族にではなく、それを補完すべき公的制度に求めるべきだとするとらえ方が出てくる。ここで重要なのは主にそれが資源論的観点、つまり人的・物的資源の欠如や調達不能の問題からなされた議論であることである。
 二つめとして、高度成長期が終わり経済的な停滞が訪れるにつれて、社会福祉責任の主体を公的制度にのみ求めるべきではないというとらえ方、日本型福祉社会の構想が現れる。これは家族に福祉機能を再度求めるものだが、家族の資源的限界が克服されたからではなく、むしろ社会全体の資源的限界が明白になったから登場したものである。これが主張された直接的な原因は、緊縮財政による「福祉切り捨て」といわれた事態であったが、もう一つの理由として「心の問題」が挙げられた。つまり施設がいくら豪華で快適であっても、家族がもつ「暖かさ」はない。「人間的」に成長するには家族の間の情緒的関係が大事だとする主張である*10。特にこの後者の「家族の暖かさ」を重視した立論は、以下に見る論考にも使用されている点で重要である。

3.福祉政策との関わりを論じたもの
 次に政策との関わりで「障害者と家族」を論じているものをみていく。これらは「成人した障害者の子ども」と「老齢化した親」の問題を主題として論じている。
 川池智子は、「障害者家庭」*11において、介護にあたっているのは大半が家族であることを指摘する。また成人した障害者の子どもがいる家庭について、子どもの「障害者問題」と親たちの「老人問題」を抱えており、状況は深刻であると述べる(川池[1989:169])。また、障害者家庭に対する実態調査に即して、介護者の心身の負担が大きいこと、また障害者の介護だけでなく家事、老人の介護を担っていることが指摘される。
 ここで重要なことは、こうした議論の前提として「(要介護障害者は)彼らが家庭にいれば、《当然家族がその生活を支えなければならない》」(川池[1989:158])と述べられていることである。また、1981年の『厚生白書』の次のような一文を引用する。
 「人間にとって基本的な生活の場は家庭であり、《障害者においても可能な限り家族の一員として家族との暖かいふれあいの中で生活する》とともに、地域社会にその一員として参加できる方向に今後の施策の重点を移していく必要がある。」
 川池はこれについて、施策の方針自体は障害者、家族双方にとって望ましいとする。しかしながら、現在障害者家庭が抱える問題は、家族の限界までの「自助努力」と「受益者負担」を要求する在宅福祉施策に原因があるとする。
 この川池の立論は、障害者の介護を、基本的には「家族との暖かいふれあいの中で」行い、それを補うような公的ケアを求める立場を取るものであり、岡原のいう、高度成長期以降の福祉論にほぼ即しているといえる。
 また、春日キスヨは川池と同様に、成人した子どもたちの「障害者問題」と、親たちの「老人問題」を共に抱えることの問題を指摘している(春日[1992])。しかし春日はまず、従来の研究が、親や家族が障害児の発達を保障する支援者、もしくはそれを阻害する加害者としてのみとらえられる傾向があったことを批判し、「子どもが障害を持つということは、他の家族成員にとっても問題である」という視角への転換を示す。そして公的サービスは、「障害児(者)を抱えた家族」に対してなされるべきだと主張する。川池が「家族介護の辛さ」を前提として議論に組み込み、「家族が担えない部分について公的サービスを供給すること」を求めるのに対し、春日の「障害児(者)の介護を行う家族の辛さ」を自明視しない視角は、「障害児(者)と家族」論を一歩先に進める可能性を持つものである。
 しかし「家族」を基盤におき、その上で論議を行っているという点では、川池も春日も同じ問題性を有している。また、「家族」へのサポート体制(相談事業や支援サービス)を整えることによって解決の道を探るという春日の姿勢は、「家族」の辛さを指摘しながらも、また「家族」ぐるみで解決すべきものとして返していくものである。つまり、障害者(児)の介護は基本的には家族で、それを補うものとして公的サービスを位置づける、従来の福祉論の延長線上にあると言わざるをえない。

4.「障害者(児)と親」論
4.1 「悲嘆の過程」からの脱出
 ここでは「障害者(児)と親」を主題として扱った論考として、要田[1986][1996]、石川[1992]を見ていく。要田は「健全者の論理」から、石川は「アイデンティティ論」からそれぞれを論を展開する。

 要田洋江は、従来の障害児と家族の問題を扱った研究は、親を“悲劇の主人公”としてとらえ、その悲劇からいかに救出すべきかを議論の前提としたものが一般的であったと指摘する。こうした研究において、親は「慣れる」ことによって悲しみは癒えると論じられているにすぎず、こうした「悲嘆の過程」(Klaus,M.H.)は、「常識」つまり、「健全者」としての親の立場からのみ論じられていたにすぎないと批判する(要田[1986])。
 また我々の日常生活には、「健全者」と「障害者」を区別し、「障害者」を周辺に追いやることをとおしてのみ、「健全者」が中心にいることができるという、「健全者」に対する「障害者」への差別の仕組みがある(要田はこれを「障害者差別のメカニズム」と呼ぶ(要田[1996:85]))。要田は、親たちの障害児が生まれた時のショックは、自らが持っていた「健全者の論理」において成立している「常識」から来るものであると指摘する。また親たちの「とまどい」は障害児を持った親たちが、“世間から差別される対象”であると同時に、“差別する主体”でもあるという両義的存在であることに由来していると述べる。そして親達が自らの内にある「常識」と障害児がいる「現実」とのなかで、「健全者の論理」を超えていく過程を記述している。

 また石川准も、要田と同様に、親が子供の障害を受容する「悲嘆の過程」という古典的理論を批判する。そして「障害のある子供を育てるという体験を通して親たちが自分の価値観、枠組、存在証明の方法を変更し<健常者の論理>から少しずつ自分を解放していくことで、<悲嘆の過程>の無限ループから脱出していくということを、フィールドワークから得た知見および存在証明の理論、家族と愛情についての理論を根拠に論じる(石川[1995])。
 石川によると「存在証明」とは、「自分にとって望ましいアイデンティティを獲得し、望ましくないアイデンティティを返上しようと、日々あらゆる方法を駆使する」ことだという。障害児の親たちは、はじめは「障害児の親」というレッテルをアイデンティティとすることを拒否しようとして、子供の障害を否定する。しかし「障害児の親」は、やがてもっとも中心的なアイデンティティとして、引き受けられていく。「障害児の親」として適切にふるまうことによって、再び存在証明を達成しようとするのである。「障害児の親」としての適切なふるまいとは、愛情深い親であることであるという。また、とくに母親が閉鎖的な空間を作ってしまうことについて、障害児を産んだ責任感を負わされることからくる、罪責感からくるものであると述べる。

 要田と石川の論考は、親へのインタビューやフィールドワークで得た知見などから、障害児を持つ親の内面の変容過程に注目し、従来の障害児の親を「悲劇の主人公」ととらえる見方からの転換が示されている点で、「障害者(児)の親」論にインパクトを与えたといえる。また両者はともに「自立生活運動」での「脱家族」という主張にも言及している(これについては後で詳しく論じる)。次に「脱家族」を主題的に扱った岡原[1990a]の中から親について述べている箇所をみてみよう。

4.2 「脱家族」論における「親」論
 「脱家族」をごく簡単に説明するならば、主として全身性障害者によってなされた自立生活運動のスローガンの一つである。彼らは施設や家族ではなく地域で、他人に介助を依頼して生活することを主張した。
 岡原正幸の論考は、ここで取り上げた中では「障害者(児)の親」だけではなく「障害当事者」の言説を取り入れた唯一のものであるとういう点において、これまでの障害者論に一石を投じたといってよい。ここでは「障害者(児)の親」に関して論じた箇所をみていく。
 岡原は、普段われわれが空気のように感じている家族には「愛情」がつきものであるが、さまざまな問題が、「愛情の欠如」として一般的に語られていることを指摘する。また、愛情を母親に強制する構造があり、その愛情の証を求める社会が存在すると述べる。それは、次のような要因によるものだという。
1)障害者の行動や身体について家族、親が責任を負うとされること
2)障害を持つ子を産んでしまったという母親による罪責感が存在すること
この理由として@「障害」が社会や個人から否定的に位置づけられていること、A「障害児」を出産した母親に、障害の原因が現実的にも象徴的にも帰属されるということを挙げる(岡原[1990a:85]))。
 岡原は愛情と親の行動の関係を次のように述べている。
 「無限の愛情を表すには無限の行動が必要である。この場合、無限の行動は子供のすべてを配慮して、微に入り細に入り介入していくこととして具体化される。これが家族での閉鎖的空間を作ってしまう。親は子供を囲い込んで、すべてを自分の監視下におき、責任をとろうとする。…さらに、そこで行われるすべての行動や介入が「愛ゆえに」という言説で正当化されてしまう。まさに、愛ゆえの「出口なし」である。」(岡原[1990a:93])*12

 また、前述した春日によっても同様の、「愛情による母子関係の囲い込み」の構造的要因についての指摘がなされている*13。さきほどの石川の論考をふくめて三者は従来ほとんど論じられていなかったこの「囲い込み」の構造を考察しているという点で重要である。

5.小括
 福祉政策との関わりで論じた川池や春日の論考は、基本的には「障害者と家族」を、福祉の対象として、どのような政策が有効であるかという視点から論じたのものであった。それは「家族との暖かいふれあい」を基礎とした、それを補完する形での公的サービスを求めるものであり、「心」の問題を重視する「日本型福祉社会」の福祉論にほぼ即したものであるといえる。こうした立論においては「家族が大変だから、公的ケアで補う」という、家族の労力の限界についての議論に留まる。つまり「家族がみる」ことを前提とした立論においては、家族による介護・介助そのものを問い返す余地がない。
 「障害者と家族」を主題とした研究は、重度障害者の「自立」を目指す「自立生活運動」が1980年代後半になって注目されるようになるまでは、ほとんどなかったといってよい。国際障害者年などの契機があり、障害者への認識、理解が進み、重度障害者の「自立」が論じられるようになって十年余が立とうとしている。その間、福祉の対象としての「障害者」や「障害者(児)の親」から、行為主体としての「障害者」や「障害者(児)の親」へ、また「障害者と家族」の問題へも目が向けられるようになってきたといえる。
 要田や石川の論考もこうした流れの中にある。これらは従来の「悲劇の主人公」としての「障害児の親」論から、主体としての「障害児の親」論への転換を示したという点、また「成人後の障害児」と親についても言及している点において、注目すべきものである。「成長した障害児」、「成長した子ども」という言葉が使われることからも分かるが、障害児と障害者に関わる問題は、継続性を持つものであり、そうした意味ではこれらの論考も本論文の議論に大きな示唆を与えるものである。
 またこれまで見てきた中で、「障害者と家族」を主題的に論じているのは岡原の論考のみである*14。岡原は自立生活運動の「脱家族」からこれを論じている。また要田や石川が「障害者と家族」を主題的に論じた箇所も「脱家族」との関連であることから、「障害者と家族」について考察するとき、この主張は重要な意味を持つものであることがわかる。次節ではこの「脱家族」についての議論を中心に見ていき、これらに批判的検討を加える。


第3節 先行研究の批判的検討
 ここでは石川[1995]、要田[1986][1996]から「脱家族」を主題的に論じた箇所、岡原[1990a]を取り上げ、これらが「障害者と家族」について、何を明らかにしたのか、また何を明らかにしていないのか、という視点から批判的検討を加える。そして改めて本論文における問題提起を行う。
                                     
1.「脱家族」論
 要田は「脱家族」は、障害者が自らの生を肯定するアイデンティティを確立するための手段であるという。それは親たちの持つ「健全者の論理」に絡め取られないようにするためだとする(要田[1986:21-22])。
 また石川はこれまでの障害者運動において、親は障害者の自立を阻む存在として描かれてきたと指摘する(石川[1995:36])。しかし「脱家族」という主張は、親を非難したり、拒絶しようとするのではなく、親の「子供を差別・排除する社会の現場監督、エージェントとしての役割」を、批判しようとしたものであるという。しかし石川は、親も子どもたちと関わる体験を通して、自分たちの認識枠組みの差別性を知って、それらからの解放をめざすようになったと述べる。つまり親は、いたずらに社会のエージェントとして子供を愛し、監視し、責任を負い続けるだけの存在ではないと論じる。そして「これまでの障害者運動は親を過小評価しすぎてきたのではないか」という疑問を発している。
 両者の論を単純に展開するならば、障害者はこれまで親の担わされてきた「社会のエージェント」としての役割を過剰に否定してきた。しかし親もこうした枠組みからの解放を遂げつつある。もしこれが完全に達成されるならば、障害者は「自らの生を肯定するアイデンティティ」を獲得し、必然的に「脱家族」の主張の必要性はなくなるということになるだろう。これについては後で詳しく論じる。
 また岡原は、「自立生活」という主張に含意された「脱家族」というものが、どのような内実から発せられるのかを、障害者本人や、親への聞き取り、個人的対話などから明らかにし、そうした中で「家族」の輪郭を描く試みを行っている(岡原[1990a])。
 岡原は「脱家族」の意味するところを次のようにまとめている。
 1)障害者が独自の人格として周囲との対等な関係を作りつつ、自分の責任で自分の望む生活を営むということ。
 2)障害を持って生きるという側面を、家族という空間のみに押しつけないこと。
 3)障害に関わる否定的観念を排すること。
 4)愛情を至上の価値として運営される家族、といった意識がもたらす問題点を顕在化すること。
 5)家族関係の多様なあり方を示すこと。
 また岡原は、障害者側が「親の愛情を強く否定してきた意味」を次のように説明している。
 「社会やそこに住む人々に、母と子どもがひとつの閉鎖的な情緒的空間を作るべきであり、それがいいのだという意識がある限り、「自立」して障害者が一人で生きようなどとするのは論外ということになる。それも普遍的に価値づけられた愛情という形をとるので、それに抵抗するには勢い過激な言葉を必要とすることになる。人々が自然で当然と思っていることに、最初に意義を唱えるには、相当のエネルギーが必要だろうと思う。だから日本における自立生活運動のはしりである青い芝の会が、「愛を否定する」といわざるをえないのには、訳があるのだ。」(岡原[1990a:96])

 また、ここで注目すべきものは当事者による「脱家族」論である。青い芝の会の運動のリーダーであった横塚晃一は、自立生活運動に先駆けて、「脳性マヒの親子関係」について言及し、障害者運動はまず、親を通して覆い被さってくる差別意識と戦わなければならず、「親からの独立(精神的にも)ということが先決」であると述べている(横塚[1975→1981:17])*15。こうした論理の展開として、有名な「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならないのが我々の宿命である」という発言がなされることになる。当事者による「脱家族」論は他に磯部[1984]がある*16が、これらは実存的体験に基づく、「愛」への疑義の表明であり、当事者に大きな影響を与えたという点において重要である*17。 

2.「脱家族」論への批判的検討
 ここでは先に見た「障害者(児)と親」論と合わせて批判的に検討していく。
 先に見た石川や岡原や春日は、「愛情による母子関係の囲い込み」の構造的要因について、ほぼ同様の指摘を行っている。この背景には「近代家族論」が、1980年代後半になって日本へ取り入れられたことがある。これは従来圧倒的に支配的であった、親−子の愛情を自明なものとする家族観を脱構築するものであった。こうした「愛情」を自明視しない視角によって「障害者家庭」における「制度としての愛情」の構造が明らかにされたといえる。また特に春日や岡原の論考においては、「母親」や女性のおかれた状況の特殊性が、性別分業などとの関連から論じられており、その背景には、ジェンダーの視点を取り入れた研究の蓄積があったことも忘れてはならない。また横塚のような当事者からの言明も、当然これらの論考に影響を与えているだろう*18。 
 これらの論考は、確実に従来の「障害者と家族」についての議論を前進させたといえる。しかしながらまず留意すべき点として、岡原の論考を除いて「当事者」の言説や言明を取り入れ、これを主題として論じたものではないということである。もちろん要田、石川の論考において主題とされているのは、「親」の側の障害児に対する意識であり、親の側が「障害」に対する認識枠組みを変更していく過程を示したことの意義は、否定されるものではない。しかしながらこれらの論考から浮かび上がる、「障害者と家族」の関係は、ある側面、ここでは親の視点から見た一面にすぎないことに注意しなくてはならない。
 この点において本論文は、聞き取りという手法を用いた、障害者当人の視点からの「障害者と家族」をとらえる試みとして位置づけられ、これらの議論に欠けている面を浮かび上がらせ、さらに展開させることが可能であると思われる。
 第二に、これについては後で詳しく述べるが、岡原は介助行為が介在する関係において、そこに構造的な問題が存在することを指摘している(岡原[1990b])。また家族による介護・介助に限界があるという議論も行われてきている(川池[1989]、旭[1993]他)。しかしそれにもかかわらず、これまで見てきたように、ほとんどの論者が母親が子どもと閉鎖的な空間を作ることにより「囲い込み」の構造があることを指摘する際に、「親が障害者の介護・介助を行うこと」、とくに「成人後も親が子どもを介護・介助し続けること」を前提として組み込んだ議論を行っている。「母親の愛情による子どもの囲い込み」の構造が指摘されたことは、もちろん評価されるべきであり、これによって障害者の母子関係の「辛さ」を理論的に明らかにした意義は認められる。しかし、それ以前に「親による子どもの介護・介助」を問い返す試みが行われなければならないのではないか。そしてその際、親と子どもの間に、どのような関係性が創出されるかも問われなくてはならない。介護・介助という行為は、構造的な問題を生じさせるものであるという。しかしながら、これが家族の間に介在するとき、「問題」と見なす視角は失われがちとなる。これは「親が子どもをみる」ことが自明視されているからに他ならない。こうした従来の立論への批判的検討から、「親が子どもの介護・介助を行うこと」自体を問い返すことが、本論文での課題の一つとなる。
 第三に、最初のものと関連するが、石川や要田は、親自らが「健全者の論理」を否定し、自らの持つ価値観を変更して、認識枠組みを変更させつつあると論じる。また要田は親が子どもに「利己的な愛情」を注いできたために、障害者である子どもは「人間として生きる」ことを否定されてきたとする。そして親が、自分自身を尊重した家庭生活をとりもどし、「かけがえのないわが子のいのちに向き合うという新しい家族」を建設し、利他的な愛情を注ぐことによって、自立した障害者を育てることができると論じる(要田[1996:96]。こうした両者の立論に基づくと、親の側の認識や、ライフスタイルを変更することによって、障害者と親(家族)の間の問題は解決されることになり、子どもの側の「脱家族」という主張は必要ないということになる。しかしこれはあまりに楽観的な見方であるのではないか。親の認識や意識だけの問題であろうか。それだけでは解決できない問題が多分に残されているのではないだろうか。ここに、「親」の側から論じることの限界を見ることができる。
 これらの批判的検討から、第四章において、親ではなく、子どもである障害当事者の視点に立ち、「親による介護・介助」を問い返すという試みを行う。そこにどのような関係性が生じ、これを障害者自身がどのように認識しているかを、彼らの言説から明らかにすることがそこでの課題となる。

□小括
 この章では「障害者と家族」を論じた先行研究をみてきたが、ここではまとめにかえて、なぜこれまで家族社会学において「障害者家庭」「脱家族」が論じられてこなかったのかを考察する。
 家族社会学という領域において、「障害者」を主題的に論じた研究の蓄積はまったくといってよいほどない。「自立生活運動」や「脱家族」のスローガンがそれほど広く知られているわけではない。また障害者は従来福祉論や、リハビリテーション論において論じられることが多かったという状況もある。しかし、障害者側による「家族」への言及は、さまざまな著作によってなされている。また母親が障害を持つ子供を殺害するなどの事件が、70年代には多数起きており、「家族社会学」がここに注目する土台はできあがっていたといえる。これまでにこの領域において、行為者としての障害者や、障害者と家族の関係、また「脱家族」という主張が主題的に論じられなかった理由を考えなくてはならない。
 主な理由として、次のようなものが挙げられる。まず家族社会学の方法論的なことである。従来の家族社会学は、家族内の権力構造や機能を明らかにすることを目的とした、「実証主義的アプローチ」が中心であったため、個々人が営む「家族」に関しての記述に欠ける面があったということ、まして「障害者家庭」における当事者の「脱家族」という主張には注意を向けられてこなかったこと。二つめとして、家族社会学のパラダイムに関わることである(第一章参照)。特に1970年代は「森岡による標準的な家族研究のスタイル」(集団論的アプローチ)が定着し、これが家族社会学を支配した時期であった(池岡[1997:4])。その中でも森岡による「家族は成員相互の深い感情的係わりあいで結ばれた、福祉福祉志向の集団である」という定義が支配的であったために、「障害者家庭」も一括りにとらえられていたこと。またこれに関わることであるが、家族の間の「感情的係わりあい」(愛情)が自明なものとされていたため、家族が障害者の介護を行うのは当然とみなされていたことがある。これが前述したように、「脱家族」論においても、「親が子どもを介護すること」自体は、前提に組み込まれた議論が行われていたことにもつながる*19。つまり、従来の家族社会学の枠組みでは「障害者と家族」や「脱家族」を、主題として論じることが出来なかったのである。
 こうした文脈からみると、本論文においては、従来の集団論的研究では軽視されてきた個々人の認識、実践する「家族」に焦点を当て、「家族のきずな」や「感情的かかわりあい」を中心とする家族定義の有効性を疑い、それを留保することによって、障害者と家族の関係や、「脱家族」・「自立」の主張に含まれる別の側面にアプローチし、これを明らかにすることが目指されることになる。

(註)
*01 本論文での「障害者」とは、主に全身性の重度身体障害者のことを指すが、先行研究においてはこの限りではない。また本論文では子どもとしての障害者が認識し、経験(実践)する「家族」を論じることを主題としているため、「障害者と家族」という場合は、障害者が自ら形成する「生殖家族」ではなく、生まれ育ってきた「定位家族」を意味する。前者については基本的には言及を行わない。これはいわゆる「生殖家族を営む」障害者、結婚などをして子どもがいる方に、私が出会う機会が少なかったというだけではない(重度障害者の婚姻率が低いという潜在的な問題もあるが)。これまでの障害者運動において問題とされてきたのは親との関係であったということ、また日常生活に介助を必要とする重度障害者にとって、介助者である親からの「自立」が大きな意味を持つことから、「子ども」としての障害者がとらえる「家族」に注目することが意義があると思われるためである。
*02 この宣言は「障害者の世界人権宣言」ともいうべきもので、障害者福祉の基本理念の原点であるという。第3条には「障害者は、人間としての尊厳が尊重される生まれながらの権利を有している。障害者は、障害の原因、特質及び程度にかかわらず、同年齢の市民と同等の基本的権利を持ち、このことは、まず第一に、出来る限り普通の、また充分に満たされた、相応の生活を送ることができる権利を有することである。」とある。
*03 「完全参加と平等」は、ノーマライゼーションとその思想的基盤を同じくする理念であり、「障害者のいる社会こそが、ノーマルな社会なのであり、障害者を社会における正当で不可欠の一員として位置づけ、障害者と障害者以外の人びとの生活の統合をはかることが大事だ」とする考え方である。1950年代のデンマーク、スウェーデンで誕生したノーマライゼーションの理念は、当初、知的障害者の施設処遇のあり方をめぐって提唱されたが、現在では、障害を持つすべての人に、また高齢者、児童などを含む社会福祉の全領域に共通する理念だといえる。
「ノーマライゼーションとは、知的障害をその障害とともに(障害があっても)受容することであり、彼らにノーマルな生活条件を提供することである。すなわち、最大限に発達できるようにするという目的のために、障害者個人のニーズに合わせた処遇、教育、訓練を含めて、他の市民に与えられているのと同じ条件を彼らに提供することを意味している。」(デンマークの知的障害者サービスを規定した「1959年法」にかかわった社会省の行政官、N.E.Bank Mikkelsenの言葉)
 「障害を持つ人も老人も子どもも、すべての人が同じように社会の一員として存在している社会がノーマルであり、日常の生活においては、障害を持つ人たちのいろいろな欲求が、社会の他の人たちと同じように、ごく自然に満たされていくことが当然である。」
 「障害を持つ人たちをノーマライズするのではなく、環境をノーマライズしなければならない。」(スウェーデンの知的障害者協会の事務局長であったBengt Nirjeの言葉)
 以上は、三ツ木[1997b]より抜粋。また仲村・板山[1984]の「序」参照。
*04 Center for Independent Living:自立生活センター(→第三章参照)
*05 小山内[1981][1988]など。またCILに関連するものも多い。福島[1987]など。
*06 以上の流れは、三ツ木[1997a]、三ツ木[1990b]他、調[1984]、立岩[1990]など参照。
*07 長瀬修は、欧米においては「障害」の社会・経済・政治的側面に目を向ける研究、学問が進んでおり、「医療モデル」や「個人の悲劇モデル」と呼ばれる個人の損傷が問題の核心であるとする従来の視点から、環境や社会の組織自体のほうにこそ問題があるという視点への転換が起こっていると述べる(長瀬[1995])。その背景には1982年の米国における「障害学」学会の結成などによる、障害の研究の進展、障害に関する理論化が進んだことを挙げている。しかし日本においては障害への社会的側面からの取り組みは、組織的、体系的にはなされておらず、医療・リハビリテーション的視点からではない、「障害学」の構築が必要であると説く。しかし、その基盤となるべき蓄積は花田[1990]、安積他[1990]、佐藤[1992]などをはじめ多数存在すると述べる。「障害学」についてはここではこれ以上詳しく触れないが、欧米の先行研究を検討することは今後の課題としたい。また長瀬は「障害」と書くが、ここで注目する「障害者」と意味的に厳密な差はないと考える。
*08 ヒューイット =1990 久保紘章監訳『脳性マヒ児と家族』海鳴社久保による「まえがき」
*09 障害当事者による「家族論」も重要なものであるが、これについては特に「脱家族」論に関連したものが多いことから、その中の一つとして論じることにする。
*10 地域福祉論においても、「障害者と家族」は論じられている。
 地域福祉論は、「生活の場」としての地域社会が重視されるようになった、1970年代半ば頃現れてきたものである。また障害者施設中心の施策から、在宅福祉が施策が重点として打ち出され、地域社会を中心にすえた地域福祉政策が展開されるようになったのは80年代であるという(中野[1997:78])。地域福祉論において、「障害者と家族」は「高齢者サービス」と並列される「障害者サービス」または「在宅福祉サービス」という項目において論じられる(これは教科書的な扱いであることに注意しなくてはならないのだが)。この中の「家事援助的サービス」については次のように述べられている。
「日常生活上の家事援助的サービス(非専門的サービス)
 朝起きてから次の日の朝起きるまでの間の日常生活上のニーズに対応するもので、衣服着脱、洗面、食事、排泄、外食、買物、移動、洗濯、掃除、布団乾燥、代読、代筆、会話、つめきり、入浴、安否確認等々に対する非専門的な援助サービスをいう。これらのニーズ対応の担い手は、通常は家族であるが、家族ができなかったり、いなかったりの場合、制度としてはホームヘルパーの派遣(家庭奉仕員派遣制度)がある」(沢方[1990:123])。
 つまり、公的サービスは、日常生活のケアの通常の担い手が家族であるという前提のもとに行われるものだと説明されている。また在宅ケアに関しては、「(…要介護ケア者は)家族が24時間介護しているのが実態である。在宅ケアは、この家族の私的なケアを前提にしているのである。いわば、家族成員もケアの一端を積極的に担う主体者として期待されているわけである。…だが現状では、一人の家族成員が介護や家事に明け暮れ、社会的な支援もないまま過重な負担に耐えかねている実例も多い。」(牧里[1989:67])と指摘されるのみである。
 地域福祉論において、家族と障害者は主題として論じられるものではなく、福祉サービスを受給する対象者として規定され、論じられていると言える。他に調[1984]など。
*11 「一般に障害者家庭は障害者を世帯主とする家庭を指すことが多いが、ここでは障害者とその家族から成る家庭を障害者家庭とした、という(川池[1989:178])。また中途障害者家庭については論じていない。
*12 また家族における障害者の問題は、近代家族一般の問題に通底するものであり、特殊なものではないとする。障害者は「弱者」であり、保護すべき対象であるという思想が、「家族愛」の理念と融合し、親は愛し足るという経験ができない、ということから問題は顕著にあらわれることになると論じる。
*13 春日は、重症心身障害児のいる家族の母子関係を規定している社会的背景について考察する(重症心身障害児とその親で構成されるセルフ・ヘルプグループの会合での会話と個人へのインタビュー記録がデータとして使用されている)中において、母子が家庭内で孤立することを指摘し、それを近代社会の「愛情規範」によって説明している(春日[1992])。「愛情規範」は近代社会だけでなく、母親たち自身にも内在化されている。これは、子どもを障害児として産んだこと、もしくは障害児にしてしまったことについての自責感と、子どもの障害が大きく無力であるため、愛情を注いでも注いでも、まだ愛したりないのではないかという不充足感という二つの感情が絡んで、期待される障害児の母親として生きなければならない、という義務感を強くするという。
*14 家族を主題にはしていないが旭[1994]もある。旭の論については後述。    *15 横塚は次のように言う。「親の権力下に抱え込まれた脳性マヒ者(児)は…いくつになっても赤ん坊扱いされ、一人前の人間として社会性を育む機会を奪われてしまうというのが今迄我々のおかれてきた現状なのである。我々が社会の不当な差別と闘う場合、我々の内部にある赤ん坊性、つまり親のいうままに従うこと、言い換えれば親に代表される常識化した差別意識に対して無批判に従属してしまうことが問題なのである。我々の運動が真に脳性マヒ者の立場に立ってその存在を主張することにあるならば、先ず親を通して我々の上に覆い被さってくる常識化した差別意識と闘わなければならず、そのためには自ら親の手かせ足かせを断ち切らねばならない。つまり親からの独立(精神的にも)ということが先決なのである(「青い芝」No.78 昭和四十五年六月)」(横塚[1975→1981:17])。*16 当時の青い芝の会で運動を振り返って、磯部真教が次のように述べている。「…ある時期には「親がかりの福祉反対」などといういささかどきついスローガンを掲げ、父母の会などからは「親を軽視するのではないか」といった誤解を招いた面もありました。これは、これまでの施設福祉や在宅福祉は、親きょうだいが面倒を見るのが当然という前提に立って、それを補完し、あるいは負担を軽減するという発想のもとに進められてきたからでした」。また障害者が経験に乏しく、判断力が身についていないことについて、「行動やコミュニケーションの制約に加えて、いくつになっても親から子どもとして扱われ、大事にされすぎ、しかもその関係が成人した後も続くために、社会体験を積極的に培う時期を失してしまう場合が多い」(磯部[1984:31-32])と述べている。
*17 また横塚の論は、「施設さえあれば悲劇(例えば介助疲れからくる子殺し(1970年の重症児殺害事件)のような)は救える」という肉親達(大衆)の要求に対して、「殺人を正当化する論理」であると反論を加えるものであった。ここでは何よりも「障害児は親に殺されてもやむをえない」という論に対して「障害者の生存権の主張」が第一に叫ばれていたことを考慮しなくてはならない。「親がみるのが当たり前」という論理はこれ以降の流れとなる。
*18 さらに「障害児を持つ親」たちの運動が活発化し(親亡きあとの作業所づくり、サークルづくりなどが進められた。石川はそのサークルへ参加し、そのフィールドワークから得た知見を論考に生かしている)、その存在が広く認知されはじめたということもある。それに関する著作も多数発行された。こうした状況があったことも付け加えておく。*19 また「制度が規定する家族像」に対して注意を払ってこなかったために、「障害者と家族」の抱えている問題を扱うことができなかったということがある。つまり、障害者当事者が抱えている問題−公的サービスが「世帯」に対して給付されるなど、制度が規定する「障害者家庭」と障害当事者の家族のリアリティとの間にズレがあることを、従来の家族社会学では発見することができなかった、もしくは発見してもそれを「問題」だとみなす視角が欠けていたということもある。   


第三章 障害者と家族を規定するもの
 ここでは障害者と家族を外在的に規定するものの一つとして、法、制度、政策などをみていく。第1節では障害者に関する法、制度、政策が、歴史的な変化の中で「障害者と家族」の状態や行動などをどのように規定してきたか、あるいはそうではなかったのかを見る。また第2節では、これに対して障害者側(当事者、親・家族)がどのような要求を行ってきたか、またこれらと「脱家族」の主張との関わりを見る。第3節において、現在の法、制度、政策が「障害者と家族」の状態、行動をどのように規定するものであるかを見ていくことにする。
 こうした政策レベルに現れる「家族」をとらえることは、それだけでも意義があることであるが、第四章において、個人の家族に関するリアリティを構成する要素の一つである、「社会的なリアリティ定義」について論じるための伏線となってもいる。

第1節 戦後の障害者政策*01
 ここでは戦後の障害者政策(特に身体障害者に限定して)を主に立岩[1990]に依拠して概観する。重度障害者の所得(生活)保障や介護保障、また生活の場について、これらに関わる制度、政策を抜粋し、家族との関連において論じていく。

1.「家族への放置」から施設収容へ
 第二次世界大戦前には、傷痍軍人対策を別にすれば障害者に対する固有の施策はない。戦後占領軍の「無差別平等の原則」によって、傷痍軍人優先の対策が打ち切られ、一般の身体障害者を対象としたものに転換する。1949年12月に「身体障害者福祉法」が制定され、十八歳以上の障害者に、身体障害者手帳や補装具が交付されること、またその更生援護などが規定された。これによって戦後の身体障害者福祉行政の制度的基礎がつくられることになる。しかしこの法律は、占領軍の政策によって生活に困窮した傷痍軍人に対する救済策という性格が強かったこと、また占領軍自身がリハビリテーション対策として法を位置づけようとしたことによって、軽度者を対象とする更生援護(特に職業更生)にその目的を限定される*02。
 ここでは、職業につく能力のない障害者は、法の適用から除外されることになる。この法に規定された施設も更生のための施設であり、入所施設の場合も期間は限定されたものだった。また、介護を必要とする障害者は入所できなかった。結局のところ、重度の障害を持ち、収入がない者は、家族の扶養か、生活保護、または生活保護法(1950)に規定される数少ない救護施設に頼らなければならなかった。
 法解釈上もそのような位置づけがなされた。1960年代前半までのいわゆる「不適応層」、高度成長期による社会構造の変化やその「恩恵」から取り残された階層=高齢者世帯、母子家庭、障害者をかかえた家族などに対する福祉施策は、基本的に公的扶助制度と強く連携する低所得層対策としての性格を有していた(古川[1985:202])。
 障害者の生活保障の面では、1959年の「国民年金法」の成立にともない、障害者福祉年金が制定される。これによって先の「身体障害者福祉法」に欠けていた障害者に対する生活保障がなされることになる。しかしこれは対象が重度者に限定されただけでなく、同居家族の所得制限等の厳しい枠がかせられ、きわめて低い額が支給されたにすぎなかった。
 また、在宅の障害者への施策は少なくはないが、極めて限定された補助という性格が強く、物の支給や相談員の設置といった制度でしかなく、直接に生活を支えるという方向は希薄であった*03。つまり彼らの生活を、経済的にも日常生活の面においても、直接的に支えていたのは家族であったといえる。

 1960年代までの政策は、次のように特徴づけられる。第一に職業的な更生を目的としていたこと、第二に職業的自立、またはそれが困難な人には収容といった意味を持つ、施設の拡充政策であったこと*04、第三に重度障害者に対しては、ほとんど策が講じられず、多くの人達の所属する場所は家族でしかありえなかったことである。
 ここで重要なのは三番目の、介護・介助を必要とする重度障害者に対しては「家族への放置」がなされていたことである。つまり、親からの依存を断つような施策は皆無であり、従って彼らが属する場所は家庭でしかなかった。また障害者をかかえた世帯は、「不適応層」のうちの一つであるとみなされ、僅かな額の障害者福祉年金も個人ではなく、世帯を対象に給付された。この結果として経済的にも障害者が家族へ依存することは避けられなかったといえる。
 親の側としては、「療育指導もない、生存権も認められていない」重度障害者(児)を家庭に抱え込む役割を担わされたことになる。こうした親たちからは、現状を打破するため、または自分たち亡き後、子どもの面倒を見るための施設の建設、または拡充を求める運動が起こってきた。これによって大規模な施設の建設が進められ*05、1960年代に入ると、職業訓練のためではない、生活の場としての施設(特に重度の心身障害児を対象とする)の建設が社会的に注目を集める。
 1970年代から国家の中心的な施策課題とされたのは、引き続き収容施設の拡大であった。1970年の「厚生行政の長期構想」は福祉サービスの充実とともに、社会福祉施設の充実を主張している。また同年、1971年度を初年度とする「社会福祉施設緊急整備五カ年計画」が発表されている。ここでは、重度障害者全員の施設収容が目標として掲げられ、大規模な施設の建設が推進される。

2.「在宅福祉」への転換
 1960年代から70年代初頭、高度成長期に伴う国家財政の自然膨張に支えられ、福祉予算の総額は増え続けた。73年には福祉関係の予算の大幅な増額がなされ、この年は福祉元年と呼ばれた。しかし同年11月、第一次石油危機が起こると、低成長経済への移行とともに、「福祉見直し」の論議が生まれる。こうした中で「小さな政府」への志向のもと「活力ある福祉社会」の実現が目指される。それは、福祉の対象を真にそれを必要とするものに限定し、それ以外の人には自立・自助を促すこと、家族の機能を重視し、福祉政策はそれを補完するものとされる(第二次臨時行政委員会1982年「第三次答申(基本答申)」)。
 国際障害者年に関わる一連の動き*06の中で、障害者福祉充実を求める動きが強められ、政府の障害者福祉政策は拡充される。これによって1984年までの障害者福祉予算は一直線に増大するが、しかし1985年以降事態は急激に変化する。障害者福祉の「見直し」が、「日本型福祉社会」を建設するという、それ以前から掲げられていた目標に沿って本格的に進められ、一部で在宅福祉や所得保障の拡大がなされたものの、障害者福祉施設関係を中心に国家予算の大幅な減額、地方負担の増大が見られた(西田[1988:301])*07。

 国際障害者年をめぐる動きの中でもう一つ重要であるのは、政府によって国連の宣言を基調とした提言がなされたことである。ここにおいては「自立生活」という言葉が使われ、収容施設に対する一定の反省、在宅での生活に対する援助を中心とすべきだと述べられる。
 「在宅福祉」という概念が使われるようになったのは、1970年代からである(1971年の中央社会福祉審議会答申『コミュニティ形成と社会福祉』など)が、その必要性が広く認識され、施策として注目されてきたのは1980年代である。1981年の『厚生白書』には次のように述べられている。
 「人間にとって基本的な生活の場は家庭であり、障害者においても可能な限り家族の一員として家族との暖かいふれあいの中で生活するとともに、地域社会にその一員として参加できる方向に今後の施策の重点を移していく必要がある。」
 また1990年の社会福祉関連八法の改正で、法的にも明確に「在宅福祉」が位置づけられる。この改正以前は「在宅福祉」は、「在宅を余儀なくさせられている」人への「施設入所」までの一時的な対策、といった消極的な側面があった。そこでは家族による「介護力」に左右される生活の実態があり、その「介護力」を支える意味での「在宅福祉」機能への期待もあった(中野[1997:78-79])。しかし、家族内での介助をどのようにとらえるかという視点は、この政策の中でも明確ではない。

 所得保障の面で言えば、大規模な年金改革と共に、障害基礎年金制度が1986年から実施されることになった。この結果二十歳以前に障害者となり、拠出制の年金を受けられず、福祉年金しか受けられなかった者も含め、基礎年金が支給されることになった。と同時に、従来の福祉手当は特別障害者手当に移行した(支給額は上がったが、支給の対象者は縮小した)。この背景には国際障害者年に関わる行政に接近した障害者の運動がある。しかし、やはりその支給額は一人の生活を支えるには不十分なものに留まっており、親からの経済的な依存から抜け出すことは困難であった。

3.「障害者プラン」による施策の充実
 国際障害者年に関わる「国連・障害者の十年」を主軸としたものが、戦後の第一の転換期であるとすると、第二の転換期は「平成の社会福祉改革」といわれる1990年代からの一連の出来事である(三ツ木[1997a:15])。1990年には福祉関係8法の改正、1993年には「障害者対策に関する新長期計画」の策定、「障害者基本法」の制定、1995年には「障害者プラン」の策定などがなされた。特に注目すべきは、「心身障害者対策基本法」を大幅に改革した「障害者基本法」である。これは第一条(目的)において「障害者の自立と社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動への参加を促進することを目的とする。」と定められたことなどが挙げられる。さらに「障害者プラン〜ノーマライゼーション7か年戦略〜」が、1996年から2002年までの7か年計画であり、新長期計画の重点実施計画として位置づけられている。
 障害者プランではその骨格として、次の七つの視点が挙げられている(三ツ木[1997a:17])
 @地域で共に生活するために
 A社会的自立を促進するために
 Bバリアフリーを促進するために
 C生活の質(QOL)の向上を目指して
 D安全な暮らしを確保するために
 E心のバリアを取り除くために
 F我が国にふさわしい国際協力・国際交流を

 これまでに論じてきた、重度障害者の生活の場、所得(生活)保障、介護保障という面から見てみると、生活の場については@「地域で共に生活するために」という視点のもとに、「ノーマライゼーションの理念の実現に向けて、障害のある人々が社会構成員として地域の中で共に生活を送れるように、ライフステージの各段階で、住まいや働く場ないし活動の場や必要な保険福祉サービスが的確に提供される体制を確立する」と述べられている。また介護保障についてはサービス供給体制の整備や在宅サービスの充実、施設サービスの充実などを掲げ、ホームヘルパーの増員等を目標としている。また所得保障についても具体的な施策は提示されていないが、言及されている(総理府[1996]、三ツ木[1997a])。
 しかしここにおいても問題となるのは、「地域」が何を意味しているかである。『障害者白書』においては「在宅サービス・訪問看護サービス」の項目において「障害児(者)が出来る限り住み慣れた過程や地域で生活できるようするためには、その介護に当たる家族の介護負担を軽減するとともに、障害のある人の自立した生活を支援することが重要である。」(総理府[1997:176])と述べられている。このことからは、「地域」とは従来と変わらない、「家族の介護」を前提としたものであるといえる(要田[1994b:66])。

4.小括
 障害者福祉予算は、国際障害者年を挟んで1980年代半ばまで増え続ける。70年代までは、重度障害者に対しては全員の施設収容という目的を持つ、施設拡充の政策を中心としていたが、80年代になると「福祉見直し」の論議が生まれ、「自助・自立」の原則や「家族の機能」が強調される。また国際障害者年の宣言を基調とした幾つかの取り組みが行われ(第二章参照)、「施設から地域へ」や「コミュニティケア」が唱えられるようになる。しかしここで重要なことは、「在宅福祉」という言葉の中に「家族の介護力」への期待が含まれていたという点である。つまり、「在宅福祉」や「コミュニティケア」という言葉が、「家族介護」の補完物としての福祉サービスを意味していたのである。いいかえると、「家族」という領域を拡大したものとして「地域」を彼らの住む場所と定めたものであり、「家族介護」を中心とする施策が変革されたわけではなかった。
 また年金制度も大幅な改革はなされたものの、一人の生活を支えるに十分なものとしては確立しなかった。このため重度障害者が、家族に経済的に依存する状態から抜け出すことは困難である状態が続くことになった(全国的な制度としては生活保護に「他人介護加算」が定められることになったのであるが。これについては後述)*08。こうした意味において「家族でも施設でもない、地域」を主張した「自立生活運動」は彼らの生活環境を変化させる大きな主張であった。
 また90年代に入ってからは、「障害者基本法」の制定や、「障害者プラン」の策定など(これは現在進行中であり、これがどのような結果をもたらすかを現時点で論じることはできないが)、施策はある面では確実に充実されつつあるといえるだろう。しかし、政策における、「地域で生きる」という言葉と、障害者運動など障害者側がとらえてきたものとの間には、ずれが生じているようだ。次節では障害者の側からの運動の展開を見ていくことにする。


第2節 障害者側からの運動
 ここでは障害者側からの運動を見ていく。幾つかの運動体があり、ある時期は共に戦ったりするが、その主張や理念は多々すれ違ったりもする。しかしそれについては詳しく触れず、これらの運動によって変化した政策あるいは制度(の一部分)に重点をおいて見ていく。

1,施設に対する運動
1.1 施設建設を求める親たちの運動
 戦後まもなくから、民間の運動は少しずつ始まっていた。特に重度の心身障害児を持つ親たちから、子どもを家庭で生活させることが困難なこと、特に親の亡き後の不安が非常に大きいことが切実に語らた。また障害者(児)を抱える家族の横のつながりが求められ、「全国心身障害児を持つ兄弟姉妹の会(BS・つくし会)」(1963)(→1995年「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」(略称・きょうだいの会)と名称変更)、「全国重症心身障害児(者)を守る会」(1964)、など、家族全体で、親亡き後も含めて支えていかなければならない不安を乗り越えようとする運動体が多く誕生した。そしてこれはさらに広がり、障害種別をこえて心身障害児の親の会が結束してつくった「心身障害児福祉協議会」(1965年)へと発展していく(中野[1987:133])。
 こうした動きはやがて、精神薄弱者を主要な対象とする大規模な収容施設、いわゆる「コロニー」建設へとつながっていく。六十年代の、障害者側の運動は、基本的に施策の不足を補うことを目標としていた。またこれらの運動は、親が主となっていた分だけ、当事者の意向は抑えられることになっていた(立岩[1990:170])。

1.2 施設からの当事者運動 
 しかし1970年代に入ると、施設に入所している障害者の側から運動が起こる。特に注目すべきは東京都府中療育センターにおける運動である。このセンターは、1968年4月、「東洋一」といわれる「超近代的」な医療施設として開設された。その管理体制に対して在所生から批判の声があがった*09。また1971年には一部在所生の民間施設への移転が計画され、それに対する反対運動が起こった。しかしセンター側との交渉は進展せず、都との交渉を求めて1972年9月から都庁前でテントをはって座り込みが始まるが、交渉は実現されなかった*10。
 こうした運動の中で、施設から出て生活を公的に保障されつつ、自律的に統御できる方向を志向するものが出てくる。具体的な方法として、介助料を行政側に要求し、介助者を自らが選んでいくことが求められた。都との交渉により、1973年「重度脳性マヒ者等介護人の派遣事業」の設立が獲得され、翌年から実施される。これによって利用者が選んだ介助者に対して自治体の窓口から介助料が支払われることになった。また厚生省は、生活保護を受給している人は、「生活保護他人介護加算」の特別基準の適用を受けうることを示し、これが1975年度から実施される*11。さらに交渉を続ける中で、「全国公的介護保障要求組合」が結成され、91年度には知事承認の特別基準での加算が新設される。これによってそれまで特別基準で支給されていた人は厚生大臣承認の特別基準の枠に移った。

2.「成年後の親からの独立」の主張
 他方で、「成年後の家族からの独立が当然のこととされねばならない」という、脳性マヒ者の団体「青い芝の会」*12が運動体として活動を始めた頃からの主張があった。「東京青い芝の会」が、これを引き継ぐ形で運動を展開した。ここではこれを見ていく。

2.1 所得保障の要求*13
 年金による生活保障の要求は以前からあった。青い芝の会の運動においても、会員の多くは在宅者であり、またその多くは十分な収入を得ることができない人達であったことから、年金の増額は初期の頃から課題となっていた。しかしこれが現実性を持ち出すのは1980年代に入ってからのことである。その背景には、年金制度全体の改革が持ち上がってきたこと、国際障害者年以降、障害者の問題が比較的取り上げられるようになり、一定の政策の転換が行われたという事情、また行政に対しての運動体が形成され、この機会に年金制度確立を、という一致した認識で運動が行われたことなどがある。
 1980年11月、全国青い芝、東京青い芝などが加盟した「全国所得保障確立連絡会(所保連)」が結成され、政府・議会に対する積極的な要請運動を始める。また「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」*14においては、所得保障は最重要の主題とされた。これらを受けて、1981年に国会は所得保障促進の決議をあげる。そして1982年に出された幾つかの答申などにおいて、一様に既存の制度の拡充が求められ、制度の改革が将来の課題として挙げられた。たとえば中央心身障害者対策協議会の「国内長期計画のあり方」においては、「成人後も恒久的に「家族の扶養」に依存することは、家族への過重な負担となるとともに、社会の成員たる一市民としての自立及び社会参加意識を疎外することになる」と述べられ、「障害者の自立生活の基盤を確保できるような総合的、体系的な所得保障を確立するように務めること」を提言している。
 こうした中で年金制度自体の見直し作業が進められ、大規模な年金改革と共に障害基礎年金制度が1986年から実施されることになった。障害者側が行政に対して発言する場を得たことや、所得保障を求めようとする一致した運動がなされた結果として、「障害者の自立をめざす」ことを目的とした年金改革が行われたといえる。

2.2 生活の場への要求
 また、生活の場として、ケア付き住宅という形態が模索されるようになる。これは必要な設備と介助を提供する住宅として構想されており、そこから別の住処に移行していけるような、またそのために生活の技術を獲得する場所として、さらにその集団生活の中で介助を安定的に確保できる場所として追求された(立岩[1990:214])。ケア付き住宅は、家族や施設の職員に依存する生活から脱出した障害者が最初に暮らす、家族でも地域でもない「第三の生活の場」(三ツ木[1997c:149])となることが目指されたという意味において重要である。
 1981年7月にケア付き住宅、「東京都八王子自立ホーム」がオープンし、東京青い芝の会の中心的な存在であった磯部真教が所長に就任した。また各地でグループホーム、グループケア制度などの取り組みがなされ、自立生活運動の先駆けとなった*15。

3.青い芝の会の運動 〜「親の愛を否定する」
 こうした運動とはまた違ったところで、本論の道筋において「親の愛を否定する」という重要な主張がなされている。これを追ってみることにする。
 青い芝の会の運動の転換点となったのは、1970年5月横浜で起きた、母親による二歳になる障害児の殺害事件だった。事件後、神奈川県心身障害児父母の会による、母親に対する減刑嘆願運動が始まる。この会が主張したのは、「施設もなく家庭に対する療養指導もない、生存権を社会から否定されている障害児を殺すのは止むを得ざる成り行きである」というものであった。こうしたことは初めてではなく、従来こういった事件に対しては、親への扶養・介助の押しつけ、施設の不足が非難され、親に対しては同情が集まるという傾向があった。しかし「青い芝」神奈川連合会はこれを批判する運動を展開した。彼らは障害者自身の存在が肯定されていない状況、親もまた、実は彼らをそれ自身の存在として認めていないと指摘した。横塚晃一は次のように言う。
 「…「悲劇」という場合も殺した親、すなわち、「健全者」にとっての悲劇なのであって、この場合一番大切なはずの本人(障害者)の存在はすっぽり抜け落ちているのである。このような事件が繰り返されるたびに、我々障害者は言いしれぬ憤りと危機感を抱かざるを得ない。」(横塚[1975→1981:80])

 ここでは「施設さえあれば子の悲劇は救える」親たち(大衆)の主張に対して、「悲劇」とは健全者にとっての悲劇であり、障害当時者の存在が抜け落ちていると述べられる。そして「殺される側」の人権を主張する*16。
 また1972年に青い芝神奈川連合会の会員達が出演し、記録された映画『さようならCP*17』が製作され、各地で上映・討論会が行われた。この映画の上映・討論会は神奈川を中心とする運動が、全国に広がっていくきっかけともなった。優性保護法の改定案に対する反対運動も全国に広がっていき、1973年には第一回全国代表者大会を開催し、全国組織としての形が整えられる。さらに羊水チェック*18など障害者の生命の否定につながる様々な動きへの反対運動、また1975年以降には養護学校義務化に反対する運動等が行われることになる(三ツ木[1997c:148-149])。
 『さようならCP』の「上演討論集」として横塚[1975→1981]に、その時の様子が記されている。

 「男A 愛と正義を否定するという行動宣言が理解できないんですけど。
 「横塚 私達は愛という言葉によって押さえられてきた。例えば障害者がよく殺される。障害児殺しが行われればすべてそれは親の愛、やっぱり子どもにとって生きているより死んだ方が幸せだという一方的な判断がされるわけだよ。それでそれが−殺してやるのが−親の愛である。あるいはやっぱり愛によって作られたところの施設がいわゆる我々のような障害者を圧迫している。いわゆる愛によって人権が認められねェんだ、という場合が多いわけ。私達障害者と私達の親の関係というとその親はこの子のためにとやっていることが結局は私達にとって非常に抑圧になる。…」(横塚[1975→1981:143])

 ここでは、「愛によって作られた施設」や、殺すことが愛であるとする親への批判がなされている。また親が「この子のためにとやっていることが、結局は私達にとって非常に抑圧になる」と述べられる。こうした中から、横塚の有名な「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならないのが我々の宿命である」(横塚[1975→1981:19])という、後によく引用される一文が提示されることになる。
 ここで重要なのは、子どもである障害者によって、「親の愛」が否定されていることである。また、「施設があれば救われる」とする主張に基づいて「愛」によって作られた収容施設も否定される。つまり「親の愛」を否定することが、生活空間を「施設でも家族でもないところ」に求めることにつながっていく。それ以前から「成年後の親からの独立」は青い芝の会では大きなテーマとなっていたが、ここにおいてそれが明確に、またその理由も同時に語られたことになる。

4.自立生活運動
4.1 障害者運動の転換
 1970年代後半からの障害者運動に新しい方向が見えてくる。それは新しい生活の場を自分たちの生活実践を通して実現していこうとする動きである。その例が、先に見たような、全身障害者によるケア付き住宅への取り組みなどである。ここに、障害者運動の担い手が、親の手から障害者自身の手へ移行していこうとする兆しが見える(中野[1987:134])。
 またこうした動きは、施設や家族に頼るのではなく、地域で暮らすことを主張した自立生活運動につながるものである。この運動の始まりとして、先に見た1970年代に始まる神奈川を中心とする青い芝の会の運動と、府中療育センターでの運動がある。ここで重要なことは先にも見たように「施設・家庭を出ることを主題化した」ことである。彼らが主張したのは、彼らが生活する空間を「家族でも施設でもなく、地域」に求めることであった。以下では自立生活運動について述べる。

4.2 アメリカにおける自立生活運動
 日本において自立生活運動がいつ始まったのか、という議論はおいておくとしても、一般に言われる障害者の「自立生活運動(Independent Living Movement)」は、1970年代のアメリカに始まったといえるだろう。これは、「重度の障害者が、家族や施設の職員に依存する生活から脱却し、地域社会の中で自分の意志と責任にもとづいて生活できる条件を獲得していくことを目的とした、障害者自身による主体的な運動」であり、それぞれの国の障害者施策を変革させる原動力となってきた(三ツ木[1997c:153])。
 アメリカの運動の始まりについて少しだけ触れておくと、1962年にカリフォルニア大学バークレー校に入学したエド・ロバーツ(Edward Roberts:四歳の時にポリオにかかり四肢マヒ、鉄の肺を使用)が、大学構内にある学生保健センターの一室で生活を始めたことに端を発する。ここを生活の場とする障害を持つ学生の数が次第に増えて、1969年には12名の重度障害者が「コーウェル寮プログラム」(州の公認プログラム)により高等教育を受ける生活の場を与えられる。介助にあたったのは初期には大学生のボランティアであった(後に介助者手当が出るようになる)。1970年7月には肢体障害学生援助計画(Physically Disables Students Program)をキャンパスの外に誕生させ(学生による自主管理)、地域に住みながらの通学を始める。これを母胎に州からの援助を得て、対象を学生に限らない自立生活センター(Center for Independent Living=CIL)が1972年3月発足した。
 またボストンでも似た経緯をたどっている。最初四人の重度障害者が大学当局と交渉して、寮の二部屋が提供され、介助者二人と住み始める。その後さらに四人が、別の二部屋で生活を始める。こうした動きを経て、1974年に学内に障害者のためのサービスセンターができる。こうしてボストンCILの活動が開始された(立岩[1990:72-73])。

4.3 日本における自立生活運動
 日本においては、先に見たように「家族や施設の職員に依存する生活から脱却する」という運動自体は、アメリカの自立生活運動の動向が伝えられる1977年以前からも存在していた。また厚生省の側から呼びかけられた、当事者を含めた「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」(前述)において、全身性障害者の「自立生活」を実現する方策のあり方について1980年から二年間にわたって検討が重ねられ、この研究成果をふまえて『自立生活の道−全身性障害者の挑戦』が刊行されたことは前にも触れたとおりである。この中において、ハワイ自立生活センターの活動が紹介された箇所があるが、当事者がバークレーのCILを訪れたり、また外国の障害者運動の指導者を招く試みもなされる。その最初の試みが1983年に合衆国のリーダーを多数招いて各地で開催された自立生活セミナーであった。
 こうした中で、日本自立生活センター(1984)、静岡障害者自立センター(1984)、ヒューマンケア協会(1986)などを先駆けとして、全国各地に次々と自立生活センターが開設されていき、1991年11月には、全国自立生活センター協議会 (Japan Council On Independent Living →JIL=ジル)が結成された。JILの加盟している自立生活センターは、1997年5月現在、全国に68カ所までに増えている(JIL第6回評議委員会資料)。自立生活センターの試みについてはここでは詳しく触れないが、その要件としてJILは、@運営責任者と実施責任者がともに障害者であること、A運営員の過半数が障害者であること、B権利擁護と情報提供を基本サービスとし、かつ、次のサービスのうち二つ以上を不特定多数に提供していること(介助サービス、住宅サービス、ピア・カウンセリング、自立生活プログラム)、C障害の種別を問わずにサービスを提供していること、の四点を挙げている(三ツ木[1997c:156])*19。

4.4 日本の運動の特殊性
 日本における自立生活運動は、目標として「脱施設」、「脱家族」が掲げられた(横塚[1975→1981])。「脱施設」は、障害を持つ人を排除するシステムの上に立つ「施設」の抑圧から出て、地域社会で一般の人々と同じように生きることを意味している(要田[1994b:65]、尾中[1990→1995])。ここで注目すべきことは、欧米の障害者解放運動(ノーマライゼーション、自立生活運動)では、「脱施設」を唱えるのみであるのに対し、日本においては「脱家族」が含まれていることである。つまり、「脱家族」という目標は、日本における障害者運動の特殊な状況なのである。このことは施設と同様に、家族も障害者を抑圧するものであることを意味している(要田[1994b:66])。
 また、当事者からは日本と欧米諸国との「自立」の意味するところの重さを指摘する声も出ている。阿部司は、日本では欧米のような、十八歳をすぎたら一度は親元を離れて生活するのが自然だ、という共通認識がないために、“一人暮らし”を体験することに消極的な価値をおいていると指摘する。その中において「障害者が自立をいっても、「親元や施設にいられて何が不満なのか」という、アメリカやヨーロッパにはない認識で、まず測られ」てしまうという(阿部[1988:327])。
 また諸外国の運動を知る中で、日本の障害者が関心を抱いたのは、CILを媒介とする介助の供給のあり方、その中でも有料で介助者を雇用するという考え方そのものだった。谷口明広はしかし、1988年当時で「日本ではアテンダント(有料介護人)制度の実施はまだまだ早すぎる」という結論を出している。その理由として1985年に行った調査において、対象者の36%が家族による介護を希望しており、有料介護人を希望しているものは21%にすぎなかったことをあげている。つまり「子どもが十八歳になると親と別居するのが当然と考える米国と、親と同居しているのが当然と考える日本と、同じステージでは考えることに疑問を感じ」ると述べる(谷口[1988a:232])。また日本の障害者のためには、特別な自立生活プログラムが必要であることも提起している*20。

5.小括
 障害者側からの運動は、一貫して「独立」「自立」を求めるものであった(「成年後の親からの独立」)。したがって、そこにおいては所得の保障と共に、生活の場の保障への要求が大きな意味をもっていた。後者は彼らが生きる空間を「家族でも施設でもない、地域」に求めることを主軸として運動が展開されていた。それは制度や政策が彼らの生きる場所として、まず、「施設」、次に「地域という名の家族」を措定したこととは全く対立するものであった。ここにおいて彼らが主張する「地域」と制度が規定する「地域」とのずれが見られる。また、これらの運動において「家族からの脱出」が主張されたこと(これが日本の特殊性であったこと)、「親の愛」が否定されたこと、また「家族と離れて暮らすこと」(独立)が主張されたことは、本論文の文脈において重要である。これらについては次章で詳しく論じる。


第3節 障害者を規定する諸制度
 前節では所得保障や、介助料保障などに対して、当事者から運動が行われてきたことを見てきたが、現在の状況はどのようなものか、それが障害者とその家族の行動をどのように規定しているのかを、所得保障、介助保障に分けてみていくことにする。

1.所得保障
 所得保障は、1970年以前から障害者運動の中心的な課題だった。例えば青い芝の会では、年金制度の確立が目標とされた。これは「成年後の家族からの独立が当然のこととされねばならない」という主張からくるものであった。そして、運動を行ってきた人びとの多くは、生活保護護を受けそれによって独立の生活を始めていたが、一時的な困窮に対する支給とされてきたために、支給を請求する場面で屈辱的な思いを味わってきた。したがって生活保護ではなく、年金による所得保障が強く求められてきた(立岩[1990:190])。

1.1 障害基礎年金
 障害基礎年金は、国民年金法に依り、一定の障害程度の程度(1級または2級)に該当し、且つ一定の納付要件を充たしているときに支給される。二十歳前に初診日のある障害については、保険料納付要件に関わりなく二十歳から障害基礎年金が支給される(三ツ木[1997b:54])*21。
 1985年の改正の際、障害福祉年金から障害基礎年金へ移行している。この改正は前述したように障害者の「自立」を前提とした、所得保障を目指して行われたものであり、大幅な金額が引き上げされた*22。それ以降にも徐々に額は引き上げられ、現在の年金額は1級が981,900円(月額81,825円)、2級が785,500円(月額65,458円)であるが、なお一人の生活を支えるに足りるものになっていない。また個々の拠出に応じた部分と、基礎年金の部分によって構成されるいわゆる「二階建て」の制度の一階部分しか受けとれないという問題、拠出制の保険制度に組み込むことが妥当なのかという問題が残されている。
 これに加えて、障害基礎年金の導入と同時に設定された特別障害者手当が、年金に上乗せされる。これは「精神または身体に重度の障害を有するため日常生活に置いて常時特別の介護を必要とする状態にある在宅の二十歳以上のもの」という定義に基づき、月額26,230円が支給されるというものである。目的は「これらのものの福祉の増進を図ること」とあるが、この手当は性格があいまいであり、目的に照らしてみても支給額も充分ではない。また所得制限があり、受給資格者は459.6万円、扶養義務者の年収が二人世帯で833.4万円以下である必要がある。これが世帯単位となっていることにも注意する必要がある。
 障害基礎年金と特別障害者手当を受給している場合でも、所得合計は108,055円であり、これだけの収入では経済的、日常生活の面で親から「自立」することは困難である。そこで、「他人介護加算」のある生活保護に頼る手段が考えられる。

1.2 生活保護
 1950年に制定された生活保護法は「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障すると共に、その自立を助長することを目的とする」ものであり、対象者は障害者に限っていない*23。しかし実際には一人暮らしをする重度の障害者は生活保護を受けている場合が非常に多い。生活保護を受給し(または受給する資格があり)、介護を要する障害者の場合、その支給額に「他人介護加算」が上乗せされるからである。
 「保護は、世帯を単位としてその要否及び程度を定めるものとする。ただし、それによりがたきときは、個人を単位として定めることができる。」(生活保護法一〇条)という条文に従い、世帯収入の合計によってその支給の可否が決定される。世帯とは居住同一・家計同一という生活上の単位である。しかし、保護行政の実際では、扶養法上の関係を問わず、同一世帯とみなされた当該成員全体の収入を合算して当該世帯の収入とし、保護基準と対比して赤字が出た場合にだけ、その限度で保護を行えば足りると解釈し、運営している(小倉他編[1987:57])。また、世帯単位の原則は崩そうとせず、「世帯分離」は「別世帯と同じように扱うという擬制的措置」としているに過ぎず、しかも「世帯分離」が認められる場合の条件は大変厳しく、例示以外は認めないとする制限列挙規定になっている(佐藤[1996:83])。
 生活保護の受給に際して、介護を要する人に関わる加算として、障害者加算・重度障害者加算(障害者加算に上乗せされる)、介護加算(特別介護料)があり、介護加算は重度障害者家族加算・重度障害者他人介護加算に分かれている。その使途に関しては監視されることになるが、介護に関わる利用できる制度としては、これ以外にはホームヘルプサービスしかない。合計した金額は、年金(1,2級)と障害者手当を合わせた108,055円*24に重度障害者加算と、住宅補助、他人介護料(一般基準の場合)が加算され、合計243,160円となる(1996年度、一人暮らし、1級地−1の場合(自立生活情報センター[1996:100-108]))。

2.介護保障
 「障害者と家族」を直接規定するわけではないが、重度の障害者が「自立」を考えるときに、まず必要条件とされるのが介助の手の確保であること、また特に長時間の介助を必要とする場合、一定の介助料を確保することは、生計を立てる上で不可欠であることから、介助保障の制度に関しても触れておくことにする。

2.1 ホームヘルプ事業*25
 ホームヘルプ事業は、全国規模の介助人派遣制度であり、まだ地域差が著しいが、厚生省としての態度は一貫しており、「一番使える」制度となっている。生計中心者の所得に応じた利用者負担がある。ヘルパーへ支払われるお金は介護中心1360円/時、家事中心900円/時(94年度で非常勤の場合)であり、財政負担は国が二分の一、都道府県が四分の一、市町村が四分の一となっている。
 1990年、「ゴールドプラン」を受けて、厚生省は、「家庭奉仕員派遣事業」を「ホームヘルプ事業」として位置づけ直し、派遣時間数の上限に関わる規定を撤廃する。1992年厚生省の老人福祉計画課は、それまでのヘルパー制度を全面的に見直すよう都道府県・市町村に対して制度の改善を求めた。派遣時間の上限や時間帯の制限を設けるべきではなく、時間帯や休日の派遣も認め、推進すべきだと考えている*26。自治体レベルでは1993年にようやく東京都が「週18時間枠」の撤廃を決め、これを受けて93年度、田無市や東久留米市では一日12時間、週84時間と上限が一気に拡大された(自立生活情報センター編[1996:21-22])。しかし多くの自治体は派遣時間や内容を制限している。また厚生省は2000年までにホームヘルパーの数を大幅に増やす計画を立てている*27。
 また利用者が選んだ介助者を、市町村あるいは市町村が委託している団体にヘルパーとして登録し、登録したヘルパーを派遣させる、「登録ヘルパー方式」が、東京都では立川市・東久留米市・田無市・93年度からは練馬区等でとられている。これはホームヘルプサービスをさらに利用者側にとって有利にさせる方法として注目されている。
 こうしたヘルパー派遣事業は、世帯単位であることの問題点が以前から指摘されているが(立岩[1990:67])、近年地域によってはこうした姿勢を緩和させている*28。

2.2 介護人派遣事業等
 このほかに、各自治体による介護人派遣事業がある。前述したように東京都の独自の制度として「脳性マヒ者等介護人派遣事業」が1974年から開始されているが、1993年度からは毎日行われるようになった。

3.扶養義務
 これまで見てきた法などに、実は優先して定められていることがある。例えば生活保護法には次のようにある。
 「民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする」(生活保護法4条2)

 これは、「親族扶養の原則」であり、民法に定められる親族扶養義務とは、以下のようになっている。
 「1)直径血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある。2)家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合の他、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。」(民法877条)

 扶養義務とは、夫婦相互間や未成熟の子に対する関係は、「生活保持義務関係」、直系血族や兄弟姉妹などの関係は、「生活扶助義務関係」とされている。前者の関係における扶養の程度は、扶養義務者の最低生活費を超える部分とされる。後者は社会通念上、その扶養義務者の生活にふさわしいと認められる程度を損なわない限度の扶養とされているという(佐藤[1996:82])日本においては、「三親等内の親族間」という明治民法の規定が戦後も残り、生活保護制度、他の社会保障・社会福祉制度の実際の適用においても、親・成人の子どもに対する扶養義務が優先されることになっている(原田[1988:321])。つまりおおもとのところでは、「親が子供を扶養する」ことが義務づけられているのである。これが、重度の障害者が「自立」(=親元からの一人暮らし)を果たそうとする時の困難に直接的に結びつくことになる。

 これまで見てきたように、障害基礎年金などの制度では、人一人の生活を支えるのは不十分である。特に介助を必要とする人にとっては介助料を確保するという意味において、生活保護が唯一の拠るべき制度となる。しかし生活保護法では扶養義務が優先されるため、生活保護を受給するためには「世帯分離」を行う(これは非常に認められにくい)か、あるいは親と別居して別世帯を構成し、親からの扶養を受けていないことを福祉事務所に証明する他はない。また介助の手を確保するという意味においても、ホームヘルプ事業が、地域によっては世帯ごとに派遣されることが原則となっているという現状があり、公的な介助者を得るための戦略として、家族とともに住むよりも一人暮らしが選択されやすくなる。

4.小括
 現在の制度において、基本的には「親が子供の面倒を見る」ことが規定されており、特に、年金がその収入のほとんどを占める重度障害者を親が経済的に扶養すること、日常生活においても親が「面倒をみる」ことは、当然であると解釈されている(要田[1994b:73])。
 こうした中で重度障害者が「自立」を望むことは大変な困難を伴う。しかし親と別居し、別世帯を構成することによって、つまり「家族」ではなくなることによって、初めて経済的にも日常生活面でも頼らない生活が可能になることがある。これまで見てきたように、介助者確保などの問題は残されており、地域差も大きい(東京では比較的容易)が、近年全国各地に自立生活センターが設立され、充分ではない制度の活用方法などの情報も、得られやすくなってきている。自立生活情報センター[1996]など、行政に対する働きかけの方法を記述したマニュアル本も出版された。しかし逆に皮肉なことだが、制度上は、重度の障害者が在宅で、家族と共に暮らすという状態の中で、経済的また日常生活の面で親に依存しない生活を送ることはほとんど不可能であるように定められているのである。

□第三章の小括
 障害者政策の流れとしては、戦後から1960年代までは、重度障害者に対する施策はなく、「家族への放置」がなされていた。これに対して親からの運動が起こり、大規模な施設の建設・拡充政策が行われる。1981年の国際障害者年は障害者政策の一つの転換期であると位置づけられ、この宣言を基調とし、「施設から地域へ」というスローガンのもとに「コミュニティ・ケア」が唱えられるようになる。一方で80年代に入って「福祉見直し」の議論が起こり、「自立・自助」の原則や、「家族の機能」の見直しなどが言われる。90年代に入ってからは「障害者基本法」の制定や、「障害者プラン」の策定などがなされ、障害者施策はある面においては着実に充実されつつあるといえる。
 障害者側の運動を見てみると、60年代には親からの運動が先行していたが、70年代からは当事者による、特に生活の場を家族や施設ではない「地域」に求める運動が起きてきた。ここにおいて障害者運動の転換を見ることができる。さらに国際障害者年をきっかけにし、行政に対する少なくはない発言の場を得たことや、また政策決定の場への参画を果たした結果として、年金制度の大幅な改革などが行われた。また本論の文脈からいえば、「親の愛を否定する」という運動や、「脱家族」や「脱施設」を唱えた自立生活運動などが注目すべきものである。これらは親の経済的にも日常生活の面でも庇護のもとにあった重度障害者が、自らの自律的な生活を求める運動であったという点が重要である。

 障害者政策と制度を概観してきたが、ここで気づくことは、制度と政策が往々にして矛盾していることである。例えば「他人介護加算」は、一時的な困窮対策である生活保護の給付金に、重度障害者にとって必要不可欠である介助料を加算するものである。また、この制度を利用して「自立」を目指す場合、生活保護法が「世帯単位」を基礎としているため、親と同居している場合にはこれを受給することが出来ず、世帯分離(ほとんどの場合は別居)という手段をとらなくてはならないことになる。また障害者年金は、政策を作成する側としては「障害者の親からの自立」を目指していたが、実際には法律で親が生涯のある子供を扶養することが義務づけられている。
 つまりここにおいて、障害者政策の根本的な問題は、「家族と障害者」、や「家族」を規定する諸制度の、さらに基礎となっている法律が定めているものであることが明らかになる。つまり、重度障害者が「自立」を目指す際に障害になるのは、諸制度を規定する、「世帯単位の原則」や「家族の自助原則」や、親族扶養の原則があることなのである(要田[1994b:67])*29。

 現実の制度に対しては、様々な戦略が考え出され実行されている(これについて次章で言及する)。また、現在の制度は十年前よりは格段に「よい」ものになっており、幾つかの戦略を使用することが前提であり、地域差も大きいが、重度障害者が「自立」生活を行うことが可能となっている。もちろん自立生活センターという機関の重要性も忘れてはならない。この意味においては政策もある面では、「障害者の自立」を目指す方向性を持つものである。
 こうした、政策や制度レベルの問題をクリアした後、問題となるのはむしろ、「障害者は家族が面倒をみるべきだ」、「家族がいなくなったら施設に行くべきだ」という社会的な視線や、個々人の(親を含む介助する側)の意識である。制度を利用する際にネックになるのが、主介助者(親)の、「家族がみないと他人にどう思われるか」、また「他人に家の中に入られたくない」という思いである。次章ではこうした個々の事例を通して、実際に経験される、生きられる「障害者と家族」をみていくことにする。

(註)
*01 障害者政策については他に山田[1987]、三ツ木[1997b]を参照。また「家族政策」のとらえる「家族像」の分析として原田[1988]がある。特に老親扶養と介護について中心的に記述を行っている。
*02 第一条の「法の目的」には「この法律は、身体障害者の更生を援助し、その更生のために必要な保護を行い、もって身体障害者の福祉の増進を図ることを目的とする」とある。三ツ木も、「更生」という言葉は「リハビリテーション」の日本語訳にあたることから、この法は「リハビリテーション法」として位置づけられていたことを指摘する(三ツ木[1997a:32])。
*03 施策には以下のものがある。
・「身体障害者相談員・身体障害者家庭奉仕員の制度の創設」(1967年「身体障害者福祉法」改定による)
・在宅の重度(一・二級)の肢体不自由者に対する浴槽・便器等の支給(1969年)
・在宅重度障害者訪問診査事業の開始(1971年)
・特殊寝台貸与制度の創設(1972年)
・身体障害者介護人制度の創設
・日常生活用具給付の拡大(1973年以降)
・在宅重度障害者訪問診査事業の充実(OT・PTの訪問指導)、在宅重度身体障害者緊急保護事業の実施(1978年)
*04 中野も「わが国の、障害のある人たちへの自立のための施策の歩みをさかのぼってみると、まず、「施設」という形態から始まっているといえる。身体障害者福祉法、精神薄弱者福祉法、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律など、主な関連法の成立時の内容をみても、それは明らかである。」と指摘している(中野[1987:78])。
*05 しかしここには決定的に、当事者の声が欠けていたと言えるだろう。青い芝神奈川連合会の当時の会長であった横塚晃一は次のように指摘している。
 「例えば施設の問題一つをとっても、《施設を必要とし、それを作ることを要求しているのは殆んどの場、障害児(者)をもつ(知恵遅れ、精神病者も含め)父兄なのです》。にもか拘わらずそれが障害者福祉と言われ、障害者の為とされているところにごまかしがあり、いろいろな問題が起きる原因があるのです。…(「青い芝」No.11 昭和四十五年十月)」(横塚[1974→1981:22-23])。
 しかし横塚がすべての意見を代表していた訳ではない。これについては後述。
*06 国連総会において1981年を「国際障害者年」とすることが総会において決議され、さらに1983年からの十年間が「国連・障害者の十年」と定められた。これにあわせて、日本においても「障害者対策に関する長期計画」(1983年からの十年間)が策定される。また、「国際障害者年推進本部」(総理府)が設置され、「国際障害者年特別委員会」(中心心身障害者対策協議会)が組織された。さらに民間の側から障害者及び障害者関係の団体の連合体として、1980年「国際障害者年日本推進協議会」が組織される(第二章第1節参照)。
*07 「福祉国家の危機」については、武川[1995:290]参照。
*08 今回は障害者に関する施策を主に見ていくという形をとったが、「家族」に重点をおけば、利谷[1975]の「家族政策」概念や野々山[1992]の「家族福祉」の議論も踏まえて考察しなくてはならないだろう。また障害者の自立と家族制度、社会政策との関連を論じたものとして要田[1994b]参照。
*09 彼らが訴えたのは例えば次のようなことであった。「ついたてのようなしきりがあるだけの男女各一部屋ずつの大部屋に収容され、起床は朝六時、消灯は夜九時。トイレの時間も決まっていて、後にはトイレに行く手間を省くために全員に便器があてがわれる。…持ち物、飲食物は規制され、終日パジャマを着せられた。洗うのにじゃまだから髪は伸ばせない」(立岩[1990:179-180])。
*10 在所生の間でもその方向は完全に一致していたわけではない。施設を出て生活することを目標とする者、それを理解しつつまず施設の改革、また移転先の施設でその施設を変えていこうという志向があった。
*11 この制度は、生活保護という一時的な措置に、日常的に必要とされる介助のための費用が加算されるという制度的な矛盾を抱えている。
*12  「青い芝の会」:脳性マヒ者の団体。都立公明養護学校(当時全国で唯一の公立肢体不自由児学校であった)の卒業生を中心に1957年に誕生。主な会員の多くは、文芸誌『しののめ』同人の会「しののめ」の会員でもあった。最初は運動体というよりは相互の親睦のための集団という性格を強く持っていたが、次第に具体的な要求が表現されるようになる。1959年に支部体制が確立した。また1962年には社会活動部が設置され、この年に、障害者だけの団体としてははじめて厚生省交渉を行う。「東京青い芝の会」は、都下の支部を統合して結成されたもの。「青い芝全国連合会」に加盟しつつも独自の運動を展開した(三ツ木[1997c:149]など)。
*13 青い芝の会の運動を中心とした所得保障をめぐる運動の、行政との交渉については、白石[1984]を参照。
*14 国際障害者年にあたって、厚生省の側からの要請で当事者を含めて設置された研究会
*15 八王子自立ホームの設立、現状について、寺田[1984]。その後の実践については、磯部・今岡・寺田[1988]参照。また札幌いちご会の民間アパートによるグループケア制度の試みについては小山内[1984]、[1988]、相模原市のケア付き住宅「シャローム」について白石[1988]など。
*16 しかし障害者側からも「殺した親の気持ちがよくわかり、母親がかわいそうだ」「施設がないから仕方がない」「あの子は重度だったらしいから生きているよりも死んだ方がよかった」などの意見が出された。横塚はこれを「障害者は哀れな存在でなければならない」という世間の固定観念を無意識のうちに受け入れて、世間一般の側に立とうとするものであるとする(横塚[1975→1981:81])。
*17 CP:Cerebral Palsy=脳性マヒ
*18 胎内の羊水を採取することにより胎児の障害を出産前に知り、障害の早期発見を行うこと。
*19 CILについては立岩[1995]、千葉大学文学部社会学研究室[1994]など。
*20 谷口は、「18歳を超えたものも親と共に生活することが望ましいとされる我が国においては、単に障害者へのアプローチだけにとどまらず、家族や地域の人々、さらにボランティアを共に、プログラムに参加させていくことが必要になってくる」だけでなく、「自らを否定し、劣悪な生活状況を改善して行こうともせず、その状態から脱却しようともしないような動機づけに欠ける障害者に対して、社会的能力の向上をめざせるような動機づけをおこさせることも自立生活教育プログラムの基本課題の一つである」と述べる(谷口[1988b])。
*21 ただし、二十歳前の障害によって支給される障害基礎年金の場合には、本人に一定額以上の所得があるときは、所得額にしたがい、その支給が二分の一または全額停止される。原則として全ての成人障害者が受給できるものであり、障害者の所得保障において重要な役割を果たしている(総理府編[1996:165])。
*22 昭和六十一年三月以前には1級の障害者の障害福祉年金は39,800円、2級は26,500円であった(総理府編[1996:291])。
*23 これは社会保障制度の重要な一角を占め、憲法二十五条にいう、「健康で文化的な最低限度の生活」を国が生活に困窮する国民に保障することを定めた公的扶助法に法的根拠を置いている(『社会学小事典』(有斐閣)[1982:220])。「最低限度の生活」はお金に換算すると、「生保基準」(東京で24万円以上、全国でいちばん低い地域で19万円以上)になり、月々の全収入がこの金額以下なら生活保護が開始される権利がある。つまり「「年金と障害者手当」だけで生活している一人暮らし障害者は、全員「憲法違反の低レベルの生活」をしていることになる(自立生活情報センター[1990:106])。
*24 1類(食費)、2類(光熱・衣服・雑費)、障害者加算の合計が、年金と障害者手当の合計と同額になるように設定されている。
*25 ホームヘルプサービス事業の前身である家庭奉仕員派遣事業は、1962年に「家庭奉仕員活動費」として初めて予算化され(それまでは、長野県、大阪市、東京、名古屋市などが、自治体の単独の事業として実施していた)、1963年老人福祉法に明文化される。障害者に対する制度は1967年に始まっている(「身体障害者家庭奉仕員派遣事業」、73年度「身体障害者介護人派遣事業」)。このときは派遣対象世帯を原則として非課税世帯に限っていた。また、派遣回数は平均週二回、一回当たり二時間程度であった。1972年の改正で、@社会福祉協議会などへ事業委託してもよい、A特例的に、ヘルパーは非常勤の身分でもよい、ということになる(それまではほとんど公務員のヘルパーのみが派遣されていた)。さらに1982年の厚生省は大幅な制度改正を行い、@必要な世帯に対して派遣回数・時間数の増を図る、A利用者の多様なニーズに対応するための家庭奉仕員の勤務態勢の弾力化(パート・時間給ヘルパーの導入)、B所得税課税世帯に対しても有料で派遣できるものとする(世帯の生計中心者の所得に応じた費用負担制度の導入→本人ではなく、世帯の生計中心者に申請権があると規定→抗議行動→改定)、とする通知を提出する(このとき、介護人派遣事業が家庭奉仕員派遣事業に統合される)。またこの通知の中で派遣時間は、「一日4時間、週あたり6日間、週18時間」を上限として定めたため、「週18時間枠」を実質的上限として機能することになった。
 1990年度からガイドヘルパーもホームヘルプ事業に組み込まれたため、ホームヘルパーについての厚生省の指示は、ガイドヘルパーにも適応される。ガイドヘルパーの場合はほぼどこに行く時も良く、時間上限もないため、地域によってはホームヘルパーよりも「使える」制度となっていることもある。
*26 「対象者のニーズに必ずしも充分に応えたものになっていない。」「このような結果になっている主要な原因の一つとして、市町村がサービスの提供に際し、サービス回数、時間を対象者や家族の状態にかかわらず一律に定めているなど、ニーズがあるにもかかわらず制限を行っていることである。…このような要綱などを定めている市町村は、素急に改正する必要がある」など(「ホームヘルプ事業運営の手引き」1992年2月厚生省老人福祉計画課)。
*27 1990〜1999年までの十年間で「ゴールドプラン」(高齢者保険福祉推進10ヶ年戦略)は、ヘルパーの数を三万人から十万人に増やすという計画を立てた。また1995年度から「ゴールドプラン」は「新ゴールドプラン」となり、99年度までのヘルパーの目標数値も十万人から十七万人に改められた。また95年末には「障害者プラン」が策定され、七年間で四万五千人のヘルパー増が決まった。これで2000年には約二十万人のヘルパーが確保される見通しとなった。厚生省はさらに95年度に二十四時間巡回型のヘルパーを予算化している(自立生活情報センター編[1997:22-23])。
*28 これは高齢者に限ったものであるが、「ホームヘルプ事業の目的は、日常生活を営むのに支障がある高齢者本人に対する支援であるとともに、家族に対する支援でもある。よって、ホームヘルパーの派遣を一人世帯に限ることは適当ではなく、また、同居家族がいることをもって、派遣を行わなかったり、派遣の優先順位をさげることがあってもならない」(東京都福祉局編[1997:54])とある。
*29 要田は、現在の家族が「家族員の社会的地位の違いによって、勢力関係が異なるうえに、社会から期待される生活保障機能を遂行するために、互いに依存し合うことを前提としなければならず」また、「家族成員間の人間関係が不平等な関係となっている」という問題点を有しているという。結果的に「周辺に位置づけられた人々は、容易にその犠牲者となってしまう」と指摘する。これを克服するために、要田は個人単位で設計され、個人の尊厳を保障するための制度にしていく必要があると説く(これについてはさらに考察が必要である)。       


第四章 障害者が語る「家族」、「ケア」、「自立」 
 第三章では、「外部から規定されるもの」としての「家族」について論じたが、本章では実際に家族を経験し、実践する側の視点に立ち、いわば「内部において経験されるもの」として、「家族」を論じていく。
 ここでは「家族」を経験する主体としての障害者へ注目し、個々人の「家族」に関わる認知や経験を重視する。具体的には障害者へ聞き取り調査を行い、そこで得られたデータから「家族」についての言説を抽出し、彼らの「家族のリアリティ」を描きだす試みを行う*01。第1節では障害者へ注目する理由、聞き取り調査の概要や研究枠組みなどについて記す。第2節からは障害者の「語り」に耳を傾けることにする。

第1節 「障害者」の世界へ
 障害を持つ当事者へ聞き取りを行うという本論文の試みは、個人の持つ「意味」世界の重要性を示すことを目的とする。しかし従来の「障害者と家族」研究が、「障害者(児)の親」が抱える問題や、「障害者(児)を抱えた親やきょうだいの乗り越え方」について論じたものが多く、障害者自身に焦点を当てたものや、当事者としての障害者の言説を取り入れたものがほとんど見られなかったことへの批判を含むものでもある。
 ここではまず、「障害者」の世界の一端を知るために、彼らのおかれた状況などを概観する。その後、Gubrium & Holstein[1990=1997]に依拠して、「障害者」へ注目する理由を改めて述べる。

1.障害者への注目
1.1 「障害者」とは
 「身体障害者」とはどのような人びとか。法的には、「障害者」とは「身体障害、精神薄弱又は精神障害があるため、長期にわたり日常生活または社会生活に相当な制限を受ける者」(障害者基本法第二条)と定義されている。ここでは特に全身性の障害を持つ、「重度障害者」に焦点を当てる*02。この「重度障害者」という言葉は、障害の程度が重い状態にある者を指して慣用的に使われている(身体障害者手帳は身体障害程度を1級から6級までの六段階に評価して交付される。そのなかで一、二級を重度、三、四級を中度、五、六級を軽度と称することもある)。1991年11月厚生省による調査(厚生統計協会編1995『国民の福祉の動向』)によると、全国で約272万人の18歳以上の身体障害者が在宅で生活をしている。このうち約109万人(40.1%)が、一、二級の障害を有する(肢体不自由は約54万人(34.8%)を占めている)。
 全身性障害者とは、主として中枢神経系の障害のため、上肢、下肢、体幹、あるいは言語機能などに重複する障害を持つ人びとを指す。具体的には、脳性マヒ、脊髄損傷、進行性筋萎縮症などを原因とする身体障害者のことである(河野[1984:3-4])*03。

1.2 行為者としての障害者への注目
 本論文においては、主観的家族論を援用することは既に述べたとおりであるが、「行為者」としての個人へ注目するという主観的家族論に依拠した上で、特に障害者に注目し、彼らの「語り」に耳を傾けることの意味は、どこに見いだすことができるのだろうか。Gubrium & Holstein[1990=1997]の論点に依拠すると、彼らに注目する理由として、相互に関連する三つのことが挙げられる。
 一つめとして介護・介助(ケア)という行為に関わることがある。前述の同じ調査によると、介助を必要とする在宅の障害者のうち、主な介助者は配偶者、子供、親などの家族が六割近くを占めている*04。この調査結果からいえることは、在宅で、日常的な動作に介助を必要とする重度障害者は、家族と常に接している、または接する機会が非常に多いということである(介助がもっぱら家族によってなされている実態を示した他の調査結果もある)。Gubrium & Holsteinは、「家族のきずなは、…そのメンバーにお互いの世話をしあう意志や能力があるかどうかということと関連づけられて構成されることがよくある」(Gubrium & Holstein[1990=1997:127])と述べる。つまり、重度障害者にとって必要不可欠である介助は、日本においては、実際に専ら家族によって担われているだけでなく、「家族のきずな」を連想させるものでもあるといえる*05。したがって、介助する側もされる側も、つねに「家族」や「家族のきずな」について敏感であり、意識的であることが予測される。
 これと関連するが二つめとして、重度障害者が「家族」に関わる意識的な当事者として、「脱家族」という主張を行ったことが挙げられる。すでに述べたように「脱家族」は、全身性障害者によって行われた自立生活運動において、掲げられたスローガンの一つである。「脱家族」に関して重要なことは、「家族のきずな」が最も強調され、家族による扶養や介護・介助が当然視される場所である、「障害者家庭」から行われた主張であったこと、またそこからの脱出を目指し、地域の中で他人に介助を依頼して生活することを目指すものであったことである。彼らは「親の愛」を否定し、「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっとばさねばならないのが我々の宿命である」(横塚[1975→1981:19])と述べた。ここには「親の愛」を自明のものとしない視点がある。Gubrium & Holsteinは、私達は日常生活において、常に解釈作業を行っており、ある事柄について深く考える機会がなければ、依拠している日常的な認識を決定的なものだとみなしていると述べる。そして家族についても同様であることを指摘する(Gubrium & Holstein[1990=1997:319])。ここに障害者に注目する理由を見いだすことが出来る。つまり、介助という行為の存在ため、比較的家族と接することの多い重度障害者は、常に「家族について深く考える」機会を与えられており、同時に「家族」についての日常的な認識が、決定的であることを疑うことを容易にする場所にいるといえる。日常的な認識を疑った結果の一つが、「親の愛情」や「家族の介護・介助」を自明視しない、「脱家族」という主張としてあらわれたのではないか。
 三つめとして制度に関連することが挙げられる。すでに述べたように、制度上は、子どもである障害者を扶養する義務が家族(おもに親)に課せられている。また家族による「自助原則」がある。この結果として、重度障害者の介護・介助は、親をはじめとするその家族が担うことを前提とした諸制度が制定されることになる。また障害者に対する制度は、この家族の「扶養義務」と「自助原則」により、個人単位ではなく世帯単位で定められている。これゆえに、障害者が公的な制度を利用しようとする際に、制度上規定されている「家族」像に出会うことが多い。これは個々人の「家族」を考察する際に、社会的に定義された「家族」と、個人の経験する「家族」との相互作用がより見えやすいことが予測される。また、こうした制度上の規定が、前述したような「家族(のきずな)」と介護・介助を結びつける基盤ともなっていることに注意しなくてはならないだろう。

2.聞き取りの概要
 以下では、障害当事者に対して行った聞き取りの概要について述べる。
 1997年5月から9月までの間に、合計二十一名の重度の全身性障害者に聞き取りを行った。8月には身体障害者通所施設α(以下αと省略)へ、研修という形で約一ヶ月間通い、ここに通う人々に暇を見つけて話を聞くという形をとった*06。
 聞き取りは個人情報を守るという点から、基本的に一人ずつ、対面式で(会議室や自宅を利用させてもらうなどの形で)行った*07。まず、相手に自分の問題関心を簡単に説明し、「インタビューという形式をとりますが、自由な形で話してください」と付け加えてから、聞き取りを始めた(資料2参照)。あらかじめ質問を用意するという形はとらなかったが、共通の質問として、年齢と障害の等級を聞いている。また話のきっかけとして、学校体験などから現在の状況に至るまでの経緯を聞くことが多かった(しかし年齢層がさまざまであったため、学校体験はまったくないという人もいた)。時間としては一時間から三時間程度まで幅があり、「家族についてなら何時間でも喋ることができる」という人から「家族について特別に話すことはない」という人まで様々であった*08。

2.1 対象者の特性
 二十一名の属性は以下のようである。

性別 男性 13人 女性 8人
障害の種別 脳性マヒ 14人 筋ジストロフィー症 4人 その他8人
等級 一級 20人 二級 1人                         

 一級の脳性マヒ者が多数を占めているが、これは全身性障害者に占める脳性マヒ者の割合を考えると特別な状況ではない。
 対象者の特徴として、全ての人が自立生活センター(→第三章参照)に何らかの形で関わっていたため、「自立」や「一人暮らし」に関して関心が高かったことが挙げられる。また自立生活センターのスタッフが二十一名中九名と、かなりの数を占めている(非常勤スタッフ一名含む)が、この九名に関しては、積極的に自立生活運動あるいは介護者派遣事業に関わっており、「自立」に関わるノウハウ、制度の活用の仕方など、多くの知識を有している。
 したがってここでは家族と同居しており、かつ「自立」に関して知識が全くないという人は皆無であった。おそらく、こうした重度障害者の中でも多数を占めている人びと*09の話を聞くことはできなかったが、特に今回に限っては「自立」に関して意識的である集団として、対象者を括ることも可能であろう。

2.2 データを使用する際の基本的な姿勢
 既に述べたように、聞き取りから作成した記録をデータとして使用する。また必要に応じて障害当事者によって執筆されたものや発言もこれに加える。
 二十一名は下図のようなカテゴリーに分類することができる。

☆居住形態
同居 8人 一人暮らし 13人(施設から4人 在宅から9人)
☆年齢区分
〜29歳 9人
〜39歳 4人
〜49歳 6人
50歳〜 2人                           

 以上のような年齢、現在の居住形態の他にも、様々な軸が考えられる。しかしここではこういったカテゴリーから、施設への入所経験の有無による、「家族」認識の比較、というように現状との因果連関の類型を述べることは行わない。類型化することに意味がないというのではない。養護学校の体験や、施設への入所経験の有無は、家族体験のとくに量的な部分に大きく影響しているだろう。また年齢によっても「自立」のとらえ方は微妙に異なる。しかし本論文においては当事者の経験、認識する「家族」に焦点を当てることを目的とするために、「当事者の言明」をより重視する方法が有意義である。したがって施設への入所経験が家族との関係において重要であったと、当事者によって語られた場合のみ、その要因を重視するという姿勢をとる。

2.3 「自立」という言葉への注目
 本論文における一つのキーワードは「脱家族」と、障害者の「自立」である。「自立」は、近年の障害者運動として位置づけられる「自立生活運動」においては、次のように定義されている。
 「自立とは、技術を駆使した自助具を活用するにしてもしないにしても、他人の援助を受けるにしても受けないにしても、自分の行動に責任を負うことであり、同時に、自らの能力に合った生活を自分で選択し、実践することです。(ジェフ・ヒース(DPI*10オーストラリア代表))」(磯部[1984:29])*11
 ここでは、こうした「自立」の要件を前提とし、特に日本において唱えられた「脱家族」という主張と合わせ、基本的には「自立」を「親からの自立」ととらえ、聞き取りにおいて特にこの言葉に注目する*12。障害者が「自立」について語ることは同時に、彼らの親や家族について語ることを意味する。施設からの「自立」を果たした人も同様である。なぜなら彼らは施設を出て「家族と共に暮らす」のではなく、「一人暮らしをする」という選択を行っており、そこには家族に対する何らかの思いが存在するためである。
 「自立」の契機は、家族成員との衝突や、また漠然とした違和感や不安感を抱いたことからであることが多い。また「自立」を果たした人にとっては、現在の生活と、それ以前の生活と対比する中に、「家族」を語ることになる。つまり障害者が「自立」を語る文脈において、彼らの解釈、または再解釈する「家族」の輪郭を描き出すことが出来るのである。
 ここに構築主義的アプローチの限界(→第一章第3節参照)を超える突破口を見いだすことが出来る。まず第一に「あなたにとって家族とは何か」を尋ねること、つまり研究者の側から「家族」を考えるという状況規定を行うことを避けられること。第二に、「家族という語の使用のみが家族に関わる当事者の「意味ある世界」の構築の重要な局面であるという保障はどこにもな」(田渕[1996:33])いことから、研究者の側で「家族」という言語を特権化して扱うという事態を回避し、当事者の意味的世界の多元性を示すことを可能にすること。ここにおいて、ある「語り」の文脈の中から「家族」を抽出することの優位性を見いだすことができる*13。

3.各節において使用する方法論
 第2節では、成人後も親が子どもを介助し続けることによって、どのような関係性が生じるかについて考察する。ここでは聞き取りから得られた家族についての言説を切りとり、その「問題」を抽出するという作業を行う。このとき、特にこれらの「言葉」を重視することになり、構築主義的なアプローチに依拠する面が大きくなる。第3節では、第2節において明らかになった状態の中で、障害者や、時にはその親がその関係を、よいものにしようと努力を重ねていることについて言及する。このとき、個々人が体験を語るライフストーリーに注目し、積み重ねてきた経験の束である「人生」の中に語られる「家族」を、「語り方」に注目しながら深く掘り下げるという方法を用いる。ここではライフヒストリー(生活史)法に依拠することになる。さらに第5節では、個々人の家族のリアリティ構成に関して考察する。ここでは社会的なリアリティ定義と個人的なリアリティ定義の相互作用を描くことを目的とするため、これを分析課題とする主観的家族論に依拠し、田渕の分析枠組みを一部修正して使用する。
 これらの方法論に共通する問題意識と目的は、次のようなものである。第一に、個人に焦点を当て、彼らの「ことば」を分析枠組みの中に取り入れることによって、家族に関して個人が持つ認知や言説が学的分析の対象となることを示すこと、第二に「客観的な家族定義」によって行われてきた従来の家族研究が軽視してきた側面、つまり個々人が家族に対して持つ多元的なリアリティに注目するということである(田渕[1996:19])。さらに本論文の文脈では、当事者としての障害者の言説に注目することによって、従来の「障害者と家族」研究では見過ごされてきた「家族」の側面を描き出すことが意図される。


第2節 介助が生み出す親子関係
1.介助をめぐる議論
 論を進めるにあたって、「介助」「介護」「ケア」などの用語について触れておく*14。従来障害者に対して「世話をする」という意味を強調した「介護」という言葉が使われてきた(河池[1989:170])。しかし近年特に当事者は、「介助」や「ケア」という言葉を好んで使う傾向がある。当事者がこれらの用語を使用する際、ここに行為者としての自分自身に対する「手助け」という意味を込めている*15。ここでは、これに則って基本的に「介助」という用語を用いることにし、文脈に応じて「介護」「ケア」を使い分ける*16。
 岡原は介助関係の様々な問題について考察している(岡原[1990b])*17。しかし繰り返しになるが、岡原は「親による子どもの介助」を前提として議論に組み込んでいる。立岩真也は従来の「ケア」に関する議論において、「ケア」を「本来は誰が行うべきなのか、家族なのか、家族だとしたらそれはなぜかが問われていない」ことを批判する*18。そしてそれにもかかわらず、法的には義務が課せられていることに関して、家族との良い関係を作っていくために、義務を課すべきではないと説く(立岩[1995:234])。また、旭洋一郎も、障害が重ければ重いほど、子どもの親への依存度が増すと述べ、このことによって、親子関係における「一定の線」が見失われがちとなるという。またこの「親子一体」視傾向は、子どもの「性」に対応できないことも指摘する(旭[1993:6])。
 立岩は、同時に「介助という行為が「距離」を必要とすること。そして家族という関係自体に、ある距離が必要とされること」を指摘する(立岩[1997:4])。しかしこの指摘だけでは、少なくとも当事者にとって、家族による介助がどのようなものであるかを知るには不十分である。また旭は「一定の線」が必要であるとするが、これが一体何であるのか、介助が介在する場所で、それを保つことがなぜ必要なのか、そこにどういった問題が含まれているのかについての言及は行っていない。
 以下では立岩、旭の論考を下敷きとし、これまでの「脱家族」の議論ではなされていない、親の子どもに対する介助に関して、当事者の視点からの考察を行う。ここでは当事者である障害者の経験や、解釈する過程に焦点を当てて記述する。このことによって、従来の議論では見過ごされていた部分が明らかになり、これをさらに展開させることができると考える*19。

 以下では聞き取りから、親が子どもを介助するときに、どのような関係性が生じるかを考察する。そのために幾人かの聞き取りから得られた言葉から、その時の「利点」と「問題」を抽出する作業を行った。特に親との間に介助が介在する時に、ある特殊な関係性が生じるということが共通して語られた。ここで忘れてはならないことは、親は決して子どもにとっての「悪玉」ではないということである。しかし、親が成人後も子どもの介助を担い続ける場合に、そこに子どもが「問題」と感じる状態が生じることに注意しなくてはならない*20。
 論を進めるにあたって場面の設定を行う。ここで論じる親子の関係性は、もちろん重なる部分もあり相互に連関し合うものである。しかしここでは便宜上、介助を親が単独で行う場合と、親と他人が分担して行う場合に分け、さらに前者を、親が一人で背負うという事態に重点をおいた場面と、成人後の子どもに対して「親」という存在が介助を行うことに重点をおいた場面の、二つに分けて考察する。従来の福祉論などにおいて「親の介護の限界性」が論じられる際、親が「一人で」担うことの問題性と、介助を担う存在が「親」であることの問題性を混同していた(川池[1989])。これを分けて論じることにより、「親の介護の限界性」のどこに問題があるのかが明確にされるだろう。

2.親が一人で担うことのリスク
 ここでは、まず「親が一人で介助を担う」という場面において親子関係に何が生じるかを見ていく。はじめにその利点を見ていく。その後、さらに二つの場面に分けて考察を行っていく。

2.1 僅かなメリット
 ここでは「親が子どもの介助をし続ける」ことの利点について述べる(実は語られた中で見いだされた利点は僅かなものであり、「問題」の方がはるかに大きなウエイトで語られた。直面している「問題」が切実であるため、当事者が語るときには、そちらに重点がおかれるということもある)。利点は介護技術的なものと、感情的なものの二つに分けられる。順に見ていくことにしよう(《》は引用者による強調。( )内の言葉は前後の文脈から引用者が補ったものである。また対話の相手はすべて引用者。以下同様)。

2.1.1 「ケアのプロ」〜介助技術的なこと                 
 第一に、介護技術的なことが挙げられる。

 「それは、だって母の場合は何十年ていうのをやってましたから、いちいち言わなくても、私の体っていうか、どっちに転がせばどうなるかとか、っていうことも解ってるわけですよね。介助者っていうのは、いちいちこうやって下さいとか、こうやると楽です、とかっていうことを言う必要があることは一番の違いですよね。」
                          (男性 一人暮らし)

 「やっぱりほとんど母親に全部、何から何までやってもらってきてるし、二十四時間近く一緒にいるわけだから、それこそ言葉で言わなくても、目の視線だけでも意味が通じちゃう。母親だったら、私がちょっとって言ったときの、それこそ何センチとか何ミリとか動かしただけで姿勢が上手にできるとか、ちょっとでも違っただけで倒れちゃうとか、母親の方がもちろん、何をしてほしいとか、なんでそう頼んでるかとかわかってるだけに、楽は楽。そうじゃない人に頼むときは慣れてもらうまでがちょっと大変かな。」
                           (女性 父母と同居)

 「《私のケアの最高のプロは、母である。生まれたときから四十年以上、私のケアを行ってきたのだから当然である》。学校へ行くときも、朝寝ぼけている間に服を着せられ、顔を洗われ、口にご飯が入る。食べ終わったころやっと目が覚めていた。」(小山内[1997:39])

 しかし小山内は続けて次のようにいう。「これではまるで赤ちゃんであり、人形だ。手足の右、左さえなかなか判断つかなかった。十歳になってやっと信号機の見方がわかった。こういうことが障害児と言えるのではないだろうか。…母には感謝しているが、何もかもやってあげることが、子供の成長を止めてしまうときもあると思う。何十人、何百人の人に裏切られようとも、母だけは私の味方になるだろうと信じている。しかし、その熱い愛も時には重荷になる。このことはすべての親に言えることだろう。」(小山内[1997:39-40])

 家族の介助と、他人の介助とどのような点が違うのか、という質問をした人のほとんどが、上に挙げたような答え方をした。つまり「生まれたときから私の体を知っているので、介助をしてくれる技術としては一番である。やり方も分かっているし、説明も不用なので楽」という答え方である。これは当然の答えではある。逆に、「ずっと生活してきた家族とは生活習慣が違うし、極端な話で言えば箸の上げ下ろしから違う」介助者に、自分の身体の癖に慣れてもらい、身体をまかせるということは、大変な努力や労力を伴うものである*21。しかし同時に小山内のように、「自分の身体のすべてを解っている」親の介助の欠点も指摘されている。

2.1.2 安心感〜感情的なこと                      
 その他に、親の介助が気持ちの面で子どもの助けになっていることがある。

 「…家出てみて、いろんな人と介助を手伝ってもらてやるっていうのは、最初の頃は半年に一回は風邪ひいて、家でゆっくりして治るって感じかな。誰かに来てもらってても治らなかったなぁ。家帰らないと治らなかったなぁ。」
 「それって…」
 「あの、同じ人に介助されるのと、代わる代わる介助をされるのでは、気を使うわけじゃん。人それぞれに。まして、人間関係だけで友達としてやってもらってたから、それだと気使う。今よりもっと気を使ってた。…最近はなくなったよ、風邪ひくことは。上手くなったのかもしれないしね。あと、いろんな人に来てもらって介助してもらうのって楽しくて仕方がない時と、疲れてしょうがない時とあるのね。疲れてしょうがない時に家に帰れる人はいいんだよね。家に帰って休んでやればいい…」
                          (女性 一人暮らし)

 この女性の場合は特に、常に人間関係だけで介助者をボランティアとして捜さなくてはならないことからくる、様々な心労が影響している。「来た人が楽しんでやってもらわないといけないかなと思ったりした面もあった」と言う。これに対しては、例えば介護人派遣サービス事業やホームヘルプ事業などの拡大により、介助の担い手が確保されることによって解決される面もあるだろう。しかし「代わる代わる介助されること」と「同じ人に介助されること」の違いは大きく、さらに、家族による介助が、障害者にとっても慣れたものであり、指示する必要がないという意味でも、親や家族による介助の与える安心感は大きい*22。
 しかし多くの人はこうした親による介助を拒否し、実際に家を出て一人暮らしを始めたり、他人へ介助を依頼して、家の中に介助者を入れたり、またそれらを望んでいたりする。これは何故なのだろうか。もちろん親の老齢化による介助技術への不安や、親の亡き後を心配するという理由も含まれているが、しかしそれのみではない。以下では幾つかの場面に分け、介助という行為が伴う時の親と子どもの関係性について考察する中で、これについても言及していく*23。

2.2 閉ざされた空間で
 全面的にケアが必要な子どもを、親が一人で担う場合について考えてみよう。ここでは介助者と被介助者がマンツーマンで向き合うという状態に焦点を当てて考察していく。
 在宅で暮らす重度障害者のほとんどがこうした形のケアを受けている。これはほとんどの場合母親によるものである。この場合、外出時(その時さえも、親のみが付き添う場合もあるが)以外の在宅での生活において、「親の存在なしには生きられない」という状態に陥ることになる。これが自体まず親子関係を規定する大きな要因となり、これに付随して「問題」が幾つか現れる。

2.2.1 絶対的な権力を握る親 
☆「親がいないと生きられない」
 一番目として親と子の間に権力関係が存在するということがある。つまり子どもにとっては切実に「親に逆らったら生きていけない」状況がある。

 日常生活に全面介助を必要とするIさん(三十八歳 男性)は「親子離れ」について語るとき、次のように切り出した。

 「…特に僕は思うんだけど、《自分一人で生きてはこれなかった》っていうのがあるわけだよ。生きてこれないし、これからも生きていかれないと思ってるからね。まして僕の体の状態がよければまた、障害の状態がよければまた違った感覚も持てたのかもしれないけどさ、《常に誰かの介助がないとやっぱり生活できない》わけだから、食べることも、飲むことも、おしっこも、うんちも、着替えも、風呂も、全部自分でできないような体で生活しなきゃいけないという状況がある中で、《親をどの程度まで遠ざけて生きていけるのか》…」

 日常生活に全面にケアを必要とするということは、Iさんが言うように、常に「誰か」の存在がなくては、日常生活はおろか生命も危ういことを意味する。現在のIさんにとっては、「誰か」は七十歳を過ぎた母親である。とはいえIさんは外出時や、仕事をする昼間の時間は、他人の介助を受けている。「親の介助と他人の介助を比べてどうですか」という質問に対してIさんは次のように答えている。

 「親はさぁ、言わなくても楽なんだよ。言わなくてもやってくれる。でもある部分、だからっていって干渉する。こうしなさい、こうするべき。逆に言うと他人の介助っていうのは、いちいち説明しなきゃいけないけど、どうやろうがどうしようが僕の判断、僕の気持ちで動ける時間じゃない。でも《母親に介助を受けてると、僕はこう思ってても、あんたそうやったら、この時間にこのことが私出来ないじゃないの、って言われると、そうだよなとか、思わなきゃいけない部分もある》わけじゃん。」

 他人に介助を受けるということは、「自分の判断や気持ちで動ける」、つまり自らが主体となって行動できることを意味する。しかしこれが母親の介助になると、母親の都合が優先され、自らの気持ちは二次的なものとなる。それを「そうだよな」と納得せざるをえない状況にIさんはいる。たとえそれが夕方帰ってから、次の日の朝出勤するまでの、家で過ごす時間に限られているとしても、それは「一番大事なところは親に握られている」と表現される。Iさんは聞き取りの中で、この表現を何度も使っている。「一番大事なところっていうのは、やっぱり身体に関わることだからですか?」という質問に対して、「身体に関わること、それを話さないってことは、自分が生きていくことすら否定するわけだから、いることすら」と答えている。
 Iさんのように、「一番大事なところを親に握られている」ことを自分で認めない限り、自分が生きていることさえ、自ら否定してしまうような状態、つまり親に全面的な介助を頼る状態にあるとき、それは親子をある固定した関係に規定することがある。その関係の一つが「親がいないと生きられない」ために、親が絶対的な存在となり、子どもが逆うことのできない権力関係が存在することであるといえる。

2.2.2 行為主体になれない子ども
☆「大好きな人たちなんだけど」 
 二番目として、先ほどの裏返しであるが、子どもの主体性が通りにくい状況が生まれることがある。「親がいないと生きていけない」ため「子どもの都合」と「親の都合」の折り合いをどのようにつけるか、という点で先ほどの権力関係が効いてくる。ここでは親が一人で介助を担っている場面ではないが、「行為主体として生きることの困難」が語られている事例を見ていく。

 現在一人暮らしをするNさん(二十六歳 女性)は、実家にいた頃は、祖父母と父母と弟に囲まれて中心的な存在だったという。しかしその中でも自分の意図する、イメージどおりの介助は得られていなかったことを語る。

 「一人暮らしがいいのは、自分でしきれるから楽ですよね、やりやすいように。家族と一緒だと、私の言うとおりっていうのも変だけど、ある種やってくれる家ではあったんだけど、言うとおりといいつつ、ものすごく私の意図に父とかおばあちゃんおじいちゃんが介入してきて、やってほしいことも、父が思うようにやってたり、おじいちゃんおばあちゃんがやってたり、要するに言葉だけは私の言うとおりとか言うんだけど、《自分の意図するような形での、イメージしたものっていうのはできない》。」
 
 家族は決して「悪玉」ではない。そのことは確かめられなければならない。しかし、家族が全面的に介助を担うということによって、その関係性が規定される面があることは、先にも見たとおりである。家族は基本的には善意から、Nさんの介助を行う。しかしそうすることで、行為者としてのNさんの意図に介入し、結果的にNさんが主体として行動することを困難にしている。
 Nさんは祖父母や父親のことを次のように語っている。

 「父親にしてもおばあちゃんおじいちゃんにしても、すごく感情的に、そのまま素直に裏表なくいいんだけど、ちょっと一歩引いて物事を考えたりとか、将来的にこの子はどうなるから、っていうようなことを考えるのも、そのときの感情で動くから、私の感情にも三人が振り回されるし、《三人の感情にも私が振り回されるっていうような感じで、すごくこう、私にとってはうっとうしかったし、うるさかった》し、あまり、こう、…いや、大好きは大好きだけど、いいイメージではいない人たちなんですね。」

 Nさんは家の中では、常に中心人物として、思うとおりに動いてきてた(「動かされてた部分が大きい」とも言う)、ため、「自由にできないプレッシャー」、つまり自分がやりたいことができない、というような抑圧感は感じたことがない。また、「家族が私のために色々とやってくれることっていうのが、逆に当たり前だっていうふうに、そこまでいうと傲慢なんだけど、それが普通なんだっていうふうに思っていた」という。
 しかし自らが意図し、イメージした通りの介助を得ることは、むしろそれが家族から得ようとするからこそ難しい。Nさんは、「親や家族がいなければ生きられない」というプレッシャーをそれほど感じることもなく、家族を「大好きな人たち」と表現している。しかし、そうした家族の介助を、「うっとおしく」て、「うるさく」て「過干渉」なものとして感じ取ってしまう。そこには、Nさんが行為の主体になることに対する、家族の柔らかな抑圧があったのではないか。それをNさんは敏感に感じ取っていたのではないか。

2.2.3 相互依存的な関係
☆「親とべったり一緒」
 親が子供の介助を全面的に担うということは、親と子どもが一緒にいる時間が多いということを意味する。ここではこの単純な事実に関わる問題を考えていく。親と子が接する時間が長く結果として、子どもが親に依存する関係、また閉鎖的な空間をつくる原因にもなる。

 就職し一人暮らしを始めたEさん(二十三歳 女性)は家を出るときの母親の反応についての質問に次のように答えている。

 「まぁ私の方で就職が決まったからというので、それじゃあ、親も(地理的な関係で)家から通うわけにもいくまい、とそういうところでは納得したっていうか。…それもあるし、話していく中でやっぱり障害があって、《普通の子供よりもそのぶん親に依存する部分ていうのは大きくて、普通の親子よりも一緒にいる時間って長いんですよ》。だからそうなると、小さいうちはそれでいいけど、だんだん、私も成長してやりたいことっていうのがいろいろ出てきたし、母の方もだんだん子どもが大きくなって、手が放れればちゃんとやりたいことというか、ありますね。そういう部分が出てきたときに、上手くいかなくなってきた。だから、ちょっと、ここらへんで離れてみた方がいいかもしれないよ、っていうような、感じに結局はなったんですね。例えば、…私は私の予定があるけど、母は母の予定がありますよね。だけど、実際うちに、実家にいると、行ってきますって言って、玄関出るところからほんとに親の手を借りないといけないから、私の予定のために母の予定が変わるとか、そういうことにもなりうるわけで、そういうことってちょっともう我慢できなくなったんですね。《親の都合を考えて自分の都合を決めなきゃいけないから、それがちょっとやだなと思って》。」

 Eさんの場合はそれほど親に依存していた、という思いはない。しかし家にいた頃は、スロープが付いていないなどの物理的な問題で、「玄関から出るところから親の手を借りないといけない」ような状態であったし、現在でも実家に帰れば「極端な話、自分でジュース一本買いに行けない」という。「普通の親子よりも一緒にいる時間が長い」こと、やりたいことがあるのに、お互いに時間的に制約されてしまうという状態に対して、Eさんの中には「我慢ができない」葛藤が生じた。また同じ障害を妹について次のように語っている。

 「私の感覚ではわりとそんなに家族に、依存、べたべたされたという感覚はないんだけど、妹に関しては、妹の方は私よりも動きに制約があったので、例えばお手洗いとかお風呂とか、私はだんだん家の中でそういうこと一人でできるようになっていったけど、妹の方は、一人でできるようになるまでにちょっと時間がかかったんですよ。で今でも実家に帰ればお風呂に入るときは妹は今でも、ちょっと手が必要なんです。だからそういう部分もあって、《家族に必要以上にべたべたされた》、とか、あと、《自分が親に対して負担になってるんじゃないか》とか、そういう思いっていうのは私よりも妹の方が強く感じてたと思うんですよ。…」

 Eさんは自分よりも動きに制約のある妹が、家族に対して「必要以上にべたべたされた」と感じていたこと、また「自分が親の負担になってるんじゃないか」という思いを強く抱いていたことなどを、自分と対比して述べている。つまり障害が重く、介助が必要であればあるほど親と共に過ごす機会が多く、またその時間も長くなる。また介助を一手に引き受ける親に依存し、逆に親が子どもに過干渉になり、「べたべたする」状態(ある意味で子どもに依存する状態)にも陥りやすいことがいえる。

 これまでは、親が単独で介助を背負う場面を見てきた。「介助を親が一人で担うこと」が、それだけで親子関係をある状態に規定する要因となることが確認された。さらに、この介助が母親によって幼少期から続けられていることを考えると、岡原が指摘するように、母親への愛情規範や、障害児を産んでしまったという罪責感などの要因が複雑に絡み合い、母子の閉鎖的な空間ができあがることが予想される。
 次に「親という存在が介助を行うこと」について重点をおいて考察していく。

2.3 「親」の限界性
 ここでは、親が一人で介助を担う場合において、特に子どもにとっての「親」という存在が介助を行うことに焦点を当てて考察する。ある介助について、「親」であるからこそそこに摩擦が生じるという状態が起こりうることが語られる。とくに身辺ケアと性的ケアに関して言及する。

2.3.1 「身体規則」の不成立
☆「「恥ずかしい」がなくなる」 
 ここでは身辺ケアについて論じる。ここでは身辺ケアとは、「衣服着脱、洗面、食事、排泄、入浴、車椅子の乗降など、最低限の生活の基盤」(中西[1988:128])を指す。
 身辺ケアは、子どもがごく幼い頃には当然のものとして行われることである。衣服着脱、排泄、入浴などどれも「育児」に含まれており、これ自体には何の問題性はないとされる。しかし、「身体規則」(身体距離や身体接触に関する規範で、その多くは人びとにとって自然に感じられるように身体化されたものとしてある。岡原[1990b:126])が、子どもが成長するにつれ親子の間でも出現し、「感情規範」(その場の社会的状況において、経験すべき感情状態を社会的に規定する規範(同[:126])に抵触するようになる。例えば娘が幾つになるまで父親と風呂に入るかという、一般的にはほほえましい問題として取り上げられるようなことが、全面介助を必要とする重度障害者の場合には、より深刻な問題として浮かび上がってくる。具体的には父親(または母親)による入浴介助に、子どもが羞恥、不快、嫌悪感を抱くようになり、母親(または父親)の労力のみに頼る限界性が問題として現れてくることなどがある。しかし多くは、親子の間でこうした身体規則が成り立たないことの方が問題として、障害当事者側から指摘される。
 Hさん(二十六歳 女性)は、次のように語る。

 「私はいろんな家族、親子を見てるんだけど、たとえば二十歳くらいの女の子とか、親に裸を見られるのってすごく嫌じゃん。特に男親に見られるのってすごく嫌なんだけど、やっぱり障害を持ってる人たちっていうのは介助が必要だから、お風呂も入らなければならないのよね。そうすると、母親だけの力だけでは(お風呂に)入れないから、父親がやってしまう。それを言うと変な目で見られるから、嘘言って母親に入れてもらってるんだって言うのね。私だったらそれが嫌だから家を出ようとか、あるわけよ、きっかけが。だけどその子たちっていうのは、それに慣れちゃってる部分があって、《恥ずかしいとかなくなる》のね。そういうのを見てるとさみしくなる。それが他の男の人もやってくれるもんなんだ、って思っちゃったりすると、そうじゃないわけだし、それをしてもらう相手ってやっぱり特別な人なんだよみたいな…。二十歳すぎた男の人が、ほら食事介助とかしてもらうじゃない。よっぽど仲がよければ友達同士だったら、同じスプーンでケーキを食べるとかってやるよね。だけどそれを親子でやったらどう思う?しかも《対等な関係じゃない》わけよ。目の前には自分専用の箸とかがなくて、親が共有してる。親が食べてる箸で子どもが食べていてもなんとも思わないし、子どもが食べたものも親が食べる。それに慣れてる毎日ってなんなんだろう、って。私は否定はしないけど、その壁を越えられない限り自立はありえないんだな、って。」

 ここでは二つの身体規則が成立していない例が示されている。一つは父親に入浴介助を受け「恥ずかしいとかなく」なっている二十歳の女性、もう一つは自分専用の箸を持たず、親と共有する成人した男性の例である。Hさんは自分と比較し、彼らに「それが嫌だから家を出ようとか」という思いがないということを指摘する。Hさんは「介助を受ける側としては、やっぱり身近に親がいなければ、介助してもらわなければ生活できないから、その場の状況を受け止めるしかない」と述べるが、前述したような状況について、彼らがそれに慣れてしまい何も感じないことが自立への「壁」になっていると表現する。そして「その壁を超えられない限り自立はありえない」と言う。ここでは介助される障害者側の意識において、身体規則が成立していないこと、つまり「恥ずかしいとかがなくなる」ことが問題であると指摘されている。
 これに対して小山内美智子は、自らの体験に基づいて親の側の身体規則が成立しない問題について次のように述べている。

 「便秘になった時何度もトイレに行くと、母は「下痢かい。出ないのかい。固いのかい」と聞く。母に悪気はないのだが、四十をすぎた女性に大便が出たか出ないかという問いはなく、堪忍袋の緒が切れるときもある。《障害の重い子どもを持つ母親は、子どもの体も自分の体の一部と思いこんでいるのではないだろうか》。「あなたと私は別の人間、違う人生を歩こうね」と言える母親が一人でも増えてほしい。
 母のお尻の拭き方は百点であるが、お尻を拭いた感触で大便の固さがわかるようだ。固いときは、夕食の食卓には繊維質のものがたくさん並ぶ。ありがたいようなありがたくないような…。大便の固さまで母に見てほしくはない。こういうことが子離れできない母親になってしまう危険性をもっている。」(小山内[1997:97])

 小山内は母親と自分の間に身体規則が成り立たない(他人の排泄行為に関して関与する)ことに対して「堪忍袋の緒が切れるときもある」という。また「障害の重い子どもを持つ母親は、子どもの体も自分の体の一部と思いこんでいるのではないか」と述べるが、これは身体規則が成立しないことの説明でもある。さらに「こういうことが子離れできない母親になってしまう危険性をもっている」と、この問題について言及している。

2.3.2 子どもの「性」
☆「親に隠れて…」
 ここではセクシュアリティに関するケア(性的ケア)について論じる。障害者のセクシュアリティや性的ケアと親の介助に関連して、やはり障害当事者側からの発言がある。そしてこの問題は、多くは「自立」と関連して語られる。

 旭[1993]の論考でも取り上げられている、TMという重度脳性マヒの男性(二十七歳)は、長年「自立生活」の夢を持っていたが、その理由の一つとして「性」を挙げている。

「私が自立したい理由がもうひとつあります。
 それはセックスです。私だって身体は不自由だけど健康な男です。
 綺麗な女性を見れば、「キスしたい、抱いてみたい」と思うのは当然ではないでしょうか。でも《障害者の性はタブーです》。
 実際には顔はゆがみ口からよだれを垂らしてる男と寝る女性はいないでしょう。これはいけないことと思いますが、セックスを買ってでも男になりたい。このまま童貞のまま死にたくありません。
 《親元ではセックスを買うことはもちろん、セックスに関する雑誌やビデオを中学生のように親に隠れて見ることしかできない》のです。…( '89・7・13 T・M)」(小山内[1995:183-184])

 ここには、「親元にいれば性的なプライバシーもなく、友達と飲んで騒ぐこともできない。女性を知らずして死にたくない」という切迫した気持ちが綴られている(旭[1993:5])。旭は日本の障害者福祉が親子関係との関わりが強いことを指摘し、障害が重ければ重いほど親への依存度が増し、このことによって「親子関係における「一定の線」が見失われがちとなる」と述べる。こうした「親子一体」視傾向が成人になってからも続くことを指摘し、プライバシーがなく、秘密も保てない。つまり「親は子供の性的欲求に対応できず、いつまでも「子供」と見、そもそもそのような欲求が存在することを認めないこともある」と指摘する。結論として「家族の介護・介助では「労力」以外にも限界はある」と述べる。
 また自立生活運動のリーダー的存在である安積純子は、二十二歳の時に家を出た経緯について、次のように述べている(安積[1990])。

 「当時、妹も兄も結婚の話が出て、私もなんとかしようと思って、恋人ができたりしたんで、二二歳の時、アパートを借りて暮らそうということになったの。親には出ると言ってあったけど、本気にはしていなかったんだよね。…親は呆然、母親は滂沱の涙だよね。…父親は何と言ったと思う? ぼくの大事なおかあさんを泣かさないでと言ったのよ。これなら大丈夫だと思ったわ。仲がよければ子どもがいなくなっても大丈夫だと思った。おとうさんとおかあさんは仲がいいけど、《自分は必ずしもそういうパートナーを見つけられるとは限らないと思った。今のままじゃわからないと思った》の。そういう人を捜すために出るのは悪いことじゃないと思った。もし、見合い写真の百枚でも持って来れるんだったらうちにいてもいいと言ったんだよ。ちょうどその頃、兄貴も妹も結婚して家を出てたから、子供のことを思ってる母親にとっては残酷な言葉だったかもしれない。でもほんとに《障害者の性っていうのはタブーだから》ね」(安積[1990:33])

 家を出た直接のきっかけは「恋人ができたりした」ことであった。安積はまたその時の心境について次のようにも述べている。

 「彼といっしょにいられる場所がほしくて家も出た。《親と住んでいると、二人っきりになるのはとってもむりだから、ぜったいに自立しなきゃと思った》のだ。それ以前から、家を出たいという気持ちが強まってはいたのだが、彼とのことがなかったら、あの時点ではまだ、実行に移すまでのエネルギーは出なかったかもしれない。」(安積1993:93])

 家を出たいという気持ちを実行に移した直接のきっかけは、当時の恋人といっしょにいられる場所がほしかったということだった。しかし安積は、家にいたのでは自分のセクシュアリティが、抑圧されることを感じとっていたのではないか。「見合い写真の百枚でも持って来れるんだったら、うちにいてもいい」という親へ向けた安積の言葉は、家族においては「障害者の性っていうのはタブー」であることの裏返しでもある。家族や親には障害者である自分の性や性的欲求は認めてもらえない。当然、その延長にある結婚相手(パートナー)も親まかせでは見つけることができない。だからこそ安積は家を出る、と宣言したのである。ここに旭のいう、労力以外の親の介助の限界性を見ることができる。

3.親と他人の不協和
 これまでは親が全面的に介助を担う場面を考えてきたが、ここでは介助が親と、(不)特定の他人との間で分担される場面を考えてみる。具体的には次のような状況が考えられる。子どもは、親(とくに母親)の加齢に伴う介助の技術に不安を感じたり、またその労力の負担を減らそうとし、他者の介助に頼ることを考える。何らかの公的な制度を利用したり、ボランティアを探したりして、家の中に介助者を入れようとする。しかし親の意識の中では、「私がいるのに、なぜ介助者を家にいれなくてはならないのか」、「「あそこの親は何をしているのか」と思われる」、「他人に土足で家へ上がられたくない」という様々な思いが交錯する。つまり「親密圏」としての場に公共の場からの他者が介入することに対して大きな抵抗が生じるのである。
 また、他者が子どもを介助するやり方に口や手を出してしまったりするということもある。子どもにとっては、自らの生死にも関わる問題であり(「親もいつまで生きているかわからない」)割り切れる幾つかの事態が、親にとってはその一つ一つが割り切れず、解消されないものとして積み上げられていく。

3.1 「親密圏としての家族」の逆照射
☆「他人に土足で家に上がられたくない」 
 ここではまず、当事者の周囲にいる家族(特に親)のプライバシーが保たれないことが問題になること、さらに親が他人が家に介入することに対して強い抵抗感を示すことを見る。

 両親と同居しているOさん(三十三歳 女性)は、将来的には一人暮らしをしたいという理由を、制度上の有利さに付け加えて次のように語った(制度については後述)。

 「…あとやっぱり自宅で、とくに私の部屋っていうのがなく、ほとんど一室私の部屋になっちゃってるんだけど、どうしても私が普段生活してる部屋と、家族の部屋と、共通なんで、それで介助の人があんまりたくさん入るとなると、《親の方のやっぱりプライバシー》じゃないけど。それを改造すればまた別だろうけど、例えば私が希望して二十四時間とか、夜とか入ってもらうにしても、親は寝てるとか、そういうのとかで結局出ちゃった方が…。」

 「人が家の中に入ってくるっていうのは、やっぱり主婦にとって、今はやっぱりすごく助かるし、入ってきてくれることに対してほとんど抵抗はないみたいだけど、やっぱり家の中きれいにしなくちゃとか、思ったりじゃないけど、《人に入られるっていうことに対して抵抗があったみたいで、私自身が人に頼むことよりも母親の方が人に頼むっていうことに対して抵抗があったみたい》で、しばらく頼まなかったんだけど、やっぱり無理が来て、でお風呂だけでも頼もうって頼んで…。」

 Oさんの話から解ることは、まずプライバシー性の問題である。Oさんが普段生活をしている部屋と家族の部屋が共同であるため、多数の介助者が入ると、親のプライバシーがなくなることを恐れている*25。
 また、特に当事者よりも、親が「他人が家に入ってくること」についての抵抗感を持つと言う。それはOさんの母親に、身体に「無理がくる」まで介助を続けさせるほど、強固なものであった。この親の抵抗感について既出のIさんも語っている。Iさんの場合は実際に介助者は入っていないが、親の労力の軽減のために、介助者を入れる相談をする文脈においてそれは語られている。

 「…母親も、口ではもう三十八なんだから、こんな七十すぎの親が、三十八の息子の面倒を見るのは辛くてしょうがないって言いながら、じゃあ、人をもっともっといっぱい入れて親ばっかりしなくてもすむようにしようとか、いうことを言っても、親からすると、なんでそんなことするのか、お金もいっぱいかかるし、私が動ける間は私がする、と。…《自分が出来る場合は自分がやるし、他人に、っていうか、赤の他人に自分の家の家族の生活を見られたくない》っていう…。
 …今の若い人っていうのは、行政にやってもらえばいいって思う人が多いけども、僕らの年代の母親っていうのは、自分が動かないと何もやってもらえなかったっていう、それこそ学校に入るにも当番が出来るか出来ないかで合格が決まってた時代だから、まして他人にやってもらうなんていう頭がないんだよな。言葉は悪いけど、《土足で他人に家庭の中を覗かれたくない》という、そういう部分も持ってるわけじゃない。」

 「自分が動けるうちは、自分が見る」という思いと、また「赤の他人に自分の家の生活を見られたくない」「土足で他人に家庭を覗かれたくない」という思いが交錯して、親は「家」という空間に他者の介助を入れることを拒否する。前者については、岡原による「母親に愛情を強制する」社会の構造的な要因によって説明され、またAにおける困難にも通じるものである。またOさんによっても語られていた、後者の「家の中に人が入ることへの抵抗感」については、現代の「家族」の持つ性質によって説明されうる。
 現在「家族」は公的なものに対して私的なものと位置づけられている*26。また今日「親密圏」の代表とされているのも「家族」である(佐藤[1996:113-120])*27。こうした「親密さ」という感情を軸にした「家族」という場と、公的な場の分離は、家族と見なす人びととの間に適用される価値規範と、家族以外の人びととの間に適用される価値規範が異なるものと意識させることにより、可能になる(Arendt[1958=1973:35])。つまり、家族の中で許されることは、家族の外では許されず、また逆の事態も生じるということになる。これをOさんやIさんの話に応用すると、特に親にとっては「家族」が、「他人が入ってこられない」「私的」な空間として位置づけられていることが解る。さらに他人に見られる時の「家」(Oさんの母親「家きれいにしなくちゃ」)と人に見られたくない「家」(Iさんの母親「覗かれたくない」)は、明らかに「家族」とその他の領域の区別が意識されたものである。つまり「親密さ」を共有していない「介助者」という人間が入ること、もしくはそれが想定されることによって、「親密性を持つものとしての家族」が逆に強調されることになる。

 こうしたことは障害当事者にとっては自らの生死にも関わるものであり、「他者の手がなければ生きられない」状況が切実であることもあり、「割り切る」ことが比較的容易であるようだ。逆に言えば彼らは「割り切らなくては生きてはいけない」のである。しかし親にとってはまず、自分のプライバシー、次に家族という場のプライバシーに侵入されることに関して抵抗感があり、一つ一つが割り切れない問題として積み上げられていくことになる。

3.2 親の介助への介入
☆「どうしても面倒を見ちゃう…」 
 また、こうした問題を乗り越えたとして、介助者が家に入った途端に、次の困難が生じる。それは他者の介助、親が介入することである。具体的には他者が子どもを介助する方法について口を出し、ついには見ていられなくなって手を出してしまうという事態が生じる。再びIさんの語りを聞いてみよう。

 「…僕は、人を使うノウハウは自分なりに解ってるし、使えると思ってるけど、いざそれを家で実践できるかっていうと、やっぱり親子関係の中で実践できてないよな。それこそ逆に《親が周りにいちゃうから、親も余分なこと思っちゃうし、余分なことに手を出すのが癖のようにはなってるからね。子どものときから。それこそ子どもの時から、障害者のことは、障害者の母親がやるんだという、形になっちゃってるんだよ》。」

 Iさんは、人を使うノウハウが、親がいる場面では役に立たないことを指摘する。つまり「障害者のことは障害者の母親がやる」というセオリーに則り、今や「余分なことに手を出すのが癖のようになっている」母親がその場に存在すると、他に介助者がいても自らが主体となって行動することは難しいということが語られる。
 またKさん(四十七歳 女性)も、母親と二人で暮らす家に介助者が入っているが、それについては上手くいっていないと話す。

 「…やっぱり入ってくれる人のやり方があるじゃないですか。今までお母さん一人しかやってなかったから、何か一つにしても、やっぱり今まで自分がやってたやり方じゃないから…」
 「ついつい口を出しちゃう…」
 「…し、その人が来てるときにはその人に全面的にまかすっていう形を最近やっと出来てきたかな、っていう。それと、その人のやり方と自分のやり方が違うぶん、見えてしまう。まかせてしまえばいいんだけど…、っていう。それと私自身に来てくれてる方のやり方っていうのを、私はその方におまかせしてやってもらっていい、それで《私だけならそれですむ》。…」

 Kさんが語るのは、Iさんと同様、母親が他人の介助のやり方に口を挟むことの問題である。やはり「私だけならそれで済む」ことが、母親の存在によって問題として現れてくるという。それは次のOさんの言葉に集約されているような母親の気持ちに因るものであろう。

 「《せっかく人を頼んで(いるのに)、うちの母親にほとんどやってもらってる》ので、腰やっぱり痛めてる、だから人に入ってもらうけど休めない…。まぁ、母親に言わせると、《母親だから見ちゃうっていうのね、どうしても。できれば自分のできるかぎり面倒みたくなっちゃうって言うんだけど》…」

 親は当然のように、子どもの成人後も変わらず介助をし続ける。そのためある日突然、介助者として「他人」がその空間に介入してくると、自らの領域に対しても抵抗感が起こる。それまでの自らのやり方と比較し、ついつい口出し、手出しをしてしまう。つまり子どもの側が親の労力を軽減しようと人を頼んでも、「やっぱり親は休めない」というOさんのような状況に陥る。
 そこには母親の「母親だからどうしても自分のできるかぎり面倒をみたくなってしまう」という思いがある。しかしもちろんその背景には、「母親がやらなくてはならない」環境、つまり「障害者のことは障害者の母親がやるんだという形」がある。しかし障害当事者が「自立」を目指して他人の介助者を頼る場合、この親の思いは文字通り「障害」となる。

4.小括
 本節では「介助という行為が介在するときの親と子どもの関係性」を、便宜上、三つ(二つ「親が単独で介助を行う」+一つ「親と他人が介助を分担する」)の場面に分けて考察してきた。2.2では、閉塞的な空間において、親が絶対的な存在となる権力関係が存在すること、またこうした関係において、子どもが行為主体となることが困難になること、さらに一対一の介助関係であるため、親も子供もお互いに依存する関係が生じること、子供の障害が重いほど依存関係は強くなることを見た。これは、他人介助であっても、おそらく一対一であれば生じてくる問題であろう*28。もちろんそこに「親という存在」という要素が加わることによって、これがより強固なものとなることは考慮されなくてはならない。
 2.3では、特に子どもにとって「親」という存在が介助を担うことについての問題に重心を移して考察した。ここでは介助の行為の性質の種類によっては、子どもにとって「親」という存在では都合が悪い場合があることが確認された。一つは身辺ケアに関して、親子の間で「身体規則」が成立しないことによる問題、もう一つは性的ケアに関して、親の介助では子どもの「性」に対応できないという問題である。
 3.では、他人の介助者が家へ入ってくる場面の想定の段階で、かえって「親密圏としての家族」の場が逆照射されてしまい、ここへの介入に対して親の側から強い抵抗感が示されること、また実際に介助者が入ってきても、親がいる場面においては、親が介助者の行う介助行為に介入する事態が起こることが示された。
 ここで、「介助という行為が介在するときの親と子どもの関係性」が、ある程度整理され、そこでの問題が明確にされた。重要なことは、子どもである障害当事者が、これを「問題」としてとらえているということ、そしてこれが共通して語られたことである。これは次節の「家族を維持する技法」とも深い関わりを持つ部分であるため、その後の第4節において改めて論じることにする。


第3節 「家族」を維持する技法
 前節では介助という行為が介在するとき、それが親子関係をどのように規定するか、どのような「問題」が生じる(と介助を受ける側の障害者が感じている)かを考察した。これを受けて第3節では、こうした多くの危うい関係にある障害者が自ら、親子関係を「よいものにしていこう」、「うまくやっていこう」と考え、そのために様々な試みを行っていることに注目する。こうした試みは、障害者とその親の間で幾度も繰り返され、時には親の方でもこれに挑戦する。この試みは充分に熟考され、また日々の生活において実践され、さらに熟練を要するものである。これは障害者の側からの、親との良好な関係を維持するための主体的で能動的な行動である。またある価値観に基づいて意図される、戦略的な要素を含むものであるという意味において、こうした試みを「技法」と呼ぶことにする*29。

1.場面の設定
 議論に先立って場面を設定しておく。聞き取りを行った障害者の生活形態は、「親と共に住む」という軸と、「親の介助を(全面的に)受けている」という軸を使用して、次のように類型化できる。
                                       
│            │  親による介助有り   │   親による介助無し  │   共住       │     T       │     U      │
│   離住       │    ( W )     │     V      │


 Tは親と共に住み、親の介助を全面的に受けている形態、Uは親と共に住みながら、介助を全面的に受けない形態、Vは親と離れて住み、介助も受けていない形態、Wは親と離れて住むが、親の介助を全面的に受けている形態である(しかしこの生活形態を取っている人には今回は出会わなかった)。
 さらにこの図を用いて前述した重度障害者の「自立」への道すじを示すことができる。まず、養護学校などを卒業した後の「在宅」の生活形態はTである。ここから「自立」へ向かうという試みは、Vへ向かうことになる。つまり親と離れ、親ではなく他人の介助を受けて生活する形態が目指される。しかしUの形態を経る場合もある。この場合親と共に住みながら、介助サービスなどを利用して部分的に他者の介助に頼り、親のみが自分自身の介助を担う状態から脱出することを意図するものである。しかし第二節で見たように、こうした試みには困難が生じ、結局Vの形態をめざす方向へと変化する。つまり、重度障害者の「自立」の試みは、T→(U)→Vという方向をたどるといえる*30。
 ここではWの形態を除いた三つの場面における技法を見ていくことにする(障害者側の技法のみに注目する)。第一に、親子関係に介助を介在させた場面(T)においての技法である。ここでは精神的に親子離れをする、お互いに思いやるなどの技法が語られる。第二に、介助を親子関係から部分的に排除した場面(U)においてのものである。この場合、具体的には家族と住む家の中に部分的に介助者が入るという形態が取られることになる*31。第三に、親と別居することによって、親子関係から介助を排除することが選択された場面(V)においてのものである。これによって多くの人は長い期間(少なくとも二十数年間)の、親との介助を介在させた関係から、介助を排除した関係へという変化を経験する。このために新しい親との関係性を創出し、また維持していくための様々な技法を採用されることになる。
 ここでは個人の経験を深く掘り下げるライフヒストリー的な手法を援用して論じる。個々人が自身のライフヒストリーを語る中に、様々な場面で「親子関係」(または「家族」)を維持しようとする技法がみえる。これに焦点を当てて見ていく。

2.介助と親とうまくつきあう(場面T)
 ここでは介助という行為を親子関係に介在させた場面において、その関係をよいものにしようとする技法を、三人の語りに沿って見ていく。

2.1 精神的な親子離れ
☆「障害者家庭の、この子のためにっていうのが、まぜこぜになってる部分がありすぎるんだよね。もっと、お互いに知らないところがあっても、おもしろいんじゃないかと思うんだけど。」

 既出のIさんは母親と二人暮らしである。きょうだいは結婚して家を出て、父親は亡くなっている。自宅近くに職場があり電動車椅子で通っている。五年間ほどグループホームへ入居した経験がある。

◇「自立」の契機
 五年前に父親が脳梗塞で倒れ、後遺症が残ったことで、母親が父親とIさんという「二人の障害者」を介護をしなくてはならない状態になった。これとグループホームβが設立される時期がちょうど重なり、その時に「自立」ということを考えた、とIさんは語る(グループホームについては第三章参照)。

 「(作業所ではなく)別の方向を探さなきゃいけないと思ってた時期と、親が倒れた時期とが重なって、その(グループホームの)設立に関わって入居者として僕も入った。そうこうしてる間に、その中で親ともけっこう、入ることに関してね…。ちょうど、僕はそういうのも見ながら、このままだと親子心中しちまう、と。そうなるのはもう、目に見えてたわけだから、しちゃうと思って、《自分の独立》ということも、《親離れ子離れ》っていうことも考えたし。親から干渉されたくない、それこそ普通の人だったら二十歳前後、高校卒業したり大学卒業すると、必然的に親と離れるわけじゃん。就職するなり仕事を持つなり、人によって結婚していて、違う社会なり違う情報の中で生活していくっていうのが普通の流れだと思うんだけど、どうしても僕らっていうと、親子っていう、一体化してるっていう部分があるわけでしょ。たとえば親と僕は別のものだけど、僕はそう思ったとしても、実際に介助を受けて生活を支えてもらってるわけで、そうすると親にとってはいつまでも手のかかる、歳はいくつになろうが、子には変わりないわけよ。親にとってはね。それで僕はだんだんだんだん、誰でもそうだけど、親に干渉されるのはいやだし、親の都合で介助のやり方とか介助の時間とか、自分の寝る時間とか、自分のやることを、決められるのはやだと思うのは自然でしょ。こうなったときに、そういう思いと、βができあがるっていう思いと僕の中では一緒だったのね。だからこの機会を逃すと、親からほんとの意味で独立はできないだろう、精神的にも肉体的にも独立はできないだろう。逆に言うと百歩譲って、親が亡くなったあと、親以外の人に必ずみてもらわなきゃいけないわけだから、生活するとなると、そういう人たちとつきあうつきあい方を、この機会に覚える、言葉は悪いけど、人の使い方、人を使って自分が生活する生活の仕方を学べるいい機会だと思ってたわけ。」

 Iさんはここで、グループホームに入所することになったいきさつと、「自分の独立」を関連づけて語っている。直接のきっかけは、父親が脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残ったことにより、「二人の障害者」を母親が介護することになったことだった。「このままだと親子心中」することになりかねないと、Iさんは強い危機感を抱いたという。同時に親に干渉されたり、親の都合で自分の生活が決められるという生活に対して、それを拒否する気持ちが「自然」と起こってきていたこと。また、親が亡くなった後(そしてその時は必ず来るのだが)、「人を使って自分が生活をする」ためのノウハウを取得する機会になると考えたことが、入所を決意した理由であった。
 Iさんは障害を持つ子どもと親の関係について、「普通の人」とは違い「一体化」している部分があることを指摘している。「たとえば親と僕は別のものだけど、僕はそう思ったとしても、実際に介助を受けて生活を支えてもらってるわけで、そうすると親にとってはいつまでも手のかかる、歳はいくつになろうが、子には変わりはない」という言葉は、介助という行為が重度障害者にとって「生活を支える」ものである限り、その担い手が親であることは重要な意味を持つことを示唆している(第2節参照)。幼児期には、子どもの生活を支える担い手が親であることには、おそらく疑問を持つ人は少ない。しかしそれが成人後も続くとなると、そこにさまざまな問題が現れてくる。一つには親が子どもを「子ども扱い」し続けるということである。親はいつまでも子どもに干渉する。そのように意識はしなくとも、介助という行為を担うことで同時に、また必然的に子どもの生活に関与し、また時にはその活動を制限することになる。またこれは、こうした物理的(肉体的)な依存だけではなく、精神的にも親と子どもがお互いに依存するという結果を生み出す。
 こうしたことがIさんにとっては、苦痛なことであったと語られる。つまりIさんにとって、「独立」とは「肉体的にも精神的にも」、親が自分の「生活を支える」存在であることからの脱出であったといえる。そうして、あるきっかけを得てグループホームに入所することで、つまり物理的に母親と離れることによって、「精神的にも肉体的にも」独立することを試みようとしたのである。

◇「自立」後の関係の変化
 しかし、実際に入所したグループホームは「代表者と言われている人達が思い描く障害者像に近づかないと、「いい障害者」じゃないっていうような」施設的な面があった。また、やはり介助に関しても、「生活するとなると、いくら自分がこうやりたいと思っても、親と同じで逆らえないようになってきてて、ちょっとまずい」ような状況になりつつあった。こうした不満を抱きながらも五年間「我慢」して入所していたが、一昨年電動車椅子の転倒事故で足に怪我を負ったことをきっかけに(「その対応があまりにも悪かったため」)、βを退所して自宅へ戻ってきた。親元へ帰るという事態に際して、「五年間離れてると、親が自分のことを介助できなくなってるんじゃないか」という不安もあった。しかし戻ってきてむしろ感じたのは介助の技術的なことではなく、感情の面での難しさであったという。

 「帰って来られてから、どうですか。」
 「親子関係?やっぱり確かに、親子の関係の中では非常に帰ってきてやりにくい部分もあるね。どうしてもやっぱり《親にとってはいつまでたっても息子》なんだよね。普通三十八の男だったら、結婚して家族を持って子どももいて、もう子ども小学校とか早い人になると中学くらいになってるのかな、それくらいの息子なんだけど、障害持ってるっていうことでいうとと、いつまでたってもそういう目では見てもらえないよな。《一番大事なところを家族なり、母親なりに握られてる》ってわけだ。」

 「五年くらい前にβに入られたときに、親の干渉がすごく耐えられなかったていうようなことをおっしゃっていたんですけど、その時と比べて今はどうですか。」
 「今も干渉されてるよな(笑)。でも、しょうがないと思ってるし、でも俺自体の気持ちも変わってきたのかもしれないけど、親も一人になってしまったから…。そうすると、やっぱり最終的には、俺が、介助を受けながらにしても、母親と暮らしていかなきゃいけないのかなと思うし、母親が、親父が亡くなって一人になって、じゃあ俺に頼ってるかっていうとそうでもないけど、ある部分、親子二人だからっていう部分もあるからね。
 逆に言うとその当時は、俺は俺の人生だよ、俺は《出来るだけ俺の好きなように自分の意志を通して暮らしが出来る》のが目標だったけど、でも親がいざ亡くなってみると、母親一人だっていうことも俺の中にあるわけだから、まして俺は、一応男だし、普通だったら親をみなくちゃいけない立場だからね、そうすると、実際俺が養えるわけじゃないけれど、親と一緒に暮らして行くのも、俺の役目だと思ってるし。」

 Iさんは五年間のグループホームでの生活を経て、自宅へ戻ってきた。しかしやはり「親にとってはいつまでたっても息子」であり、干渉される状態は五年前と変わらない、と言う。
 しかし明らかにグループホームでの入所経験によって、Iさんの中で何かが変化している。それは、以前の「出来るだけ自分の好きなように生活したい」という考え方が、五年間の間に父親が亡くなり、きょうだいも家を出て行き、一人になってしまった母親を目の当たりにして、「自分は、普通だったら親をみなくちゃいけない立場」にあり、「一緒に暮らしていくのも自分の役目」だと考えるようになったということだけではない。
 Iさんは現在、母親の全面介助を受ける中で、以前のように物理的に母親と離れ、日常生活の面でまったく母親に頼らないことによって、「親子離れ」を達成しようとするのではなく、母親と同居しながら「精神的な親子離れ」を模索していこうとしている。つまり、Iさんの中での「自立」(親子離れ)の意味が変化したのである。

◇具体策も出されるが… 〜他者の介入への抵抗
 Iさんと母親の関係は、介助という行為が大きな比重を占めている。また近年母親の加齢により、その負担は増している。五年間のグループホームを経験した後、Iさんから、具体的な解決案が提示され、母親と話し合いがなされたことが語られる。この中で他人介助を入れる提案についても触れられている。

 「母親も、口ではもう三十八なんだから、こんな親が七十すぎの親が、三十八の息子の面倒を見るのは辛くてしょうがないって言いながら、じゃあ完全に、βの時みたいに一軒借りて、アパート借りて暮らせるようにしようとか、人をもっともっといっぱい入れて親ばっかりしなくてもすむようにしようとか、いうことを言っても、親からすると、なんでそんなことするのか、お金もいっぱいかかるし、私が動ける間は私がする、と。ましてこういう仕事してるから介助者入れるのはまぁ普通だと思ってるし、どうしてもやらなきゃいけないところには入ってもらってるけど、いざそれ以上のところは、自分が出来る場合は自分がやるし、《赤の他人に自分の家の家族の生活を見られたくない》っていうのは…、僕の母親でも思うね。だから、普通だって、僕ら…ほんとにだめになって、動けなくなって来て下さいよって言っても、行政でもなんでもそうなんだけど、四、五ヶ月来ない、動かないことってざらじゃない。そうすると、そんなこと分かってるから、元気なうちに入れましょう、こうしようっていうと、そんなお金がどこにあるの、そんなことやったら、家が崩れてしまう、ということは未だに言うよね。だから入れなきゃいけないのは頭で解ってるんだけど、無理だっていうのも解ってるんだけど、じゃあ理屈として入れるかっていったら、入れたり、家を改造してお互いに干渉しない生活を選ぶかっていったら、そんなことないよな。そのへんはまして、難しいよな。
 まして二十四時間介助を受けないと僕なんかは動けない。例えば四年間僕はβへ入っていたから人を使うノウハウは自分なりに解ってるし、使えると思ってるけど、いざそれを家で実践できるかっていうと、やっぱり親子関係の中で実践できてないよな。それこそ逆に親が周りにいちゃうから、親も余分なこと思っちゃうし、余分なことに手を出すのが癖のようにはなってるからね。子どものときから。それこそ子どもの時から、障害者のことは、障害者の母親がやるんだという形になっちゃってるんだよ。まして今の若い人っていうのは、行政にやってもらえばいいって思う人が多いけども、僕らの年代の母親っていうのは、自分が動かないと何もやってもらえなかったっていう、それこそ、学校にはいるのも当番ができるかできないかで合格が決まってた時期だから、まして他人にやってもらうなんていう頭がないんだよな。言葉は悪いけど、《土足で他人に家庭の中を覗かれたくない》という、そういう部分も持ってるわけじゃない。だから逆に僕が思ってるやり方と、母親が持ってる思いとは違うんだよ。その辺はあんまり僕のもってるものを押しつけちゃうと、僕の今後の生活にもあの、関わってくるわけだから、ある部分、いくら解ってるといいながら、大事なところは一番握られてるわけだから。その辺の、親の気持ちを考えながら、僕のやりたいこと、僕の生活を組み立てていくという、せめぎあいは非常に、今の僕の課題だね。」

 母親が年齢的、体力的に介助を行うことが困難になってきた。Iさんはそれを実感として受け止めているし、また母親からも「辛い」という言葉が聞かれる。こうした事態に対して、Iさんによって二つの提案がなされる。
 一つはIさんが母親と別居し、グループホームに入所していたときのようにアパートを借りて、生活保護を受給しながら一人で暮らすこと。もう一つは現在の状態(「どうしても無理なところだけは」部分介助が入っている)よりも多く介助者を入れ、母親の負担を軽減することである。それは突然母親が倒れるなど、緊急の事態が発生した時の備えの意味も含んでいる。
 しかし、この提案に対して母親は反対する(第一の提案はIさん自身も抵抗があるのだろうが)。特に二つめの提案である、現在の状態以上に、介助者を家に入れることに対しては非常に強い抵抗が示される。それは「赤の他人に自分の生活を見られたくない」というものである。これに対して、物理的な解決策、つまり家を改造して、介助者はIさんの領域において介助を行えるようにし、母親の領域には干渉しない生活を選ぶ、という選択もある。しかしIさんはそれはしない、と明言する。緊急時に備えて、今から介助者を入れておいた方がいい、また母親の体力にもいずれ限界が来るということを頭では理解していながらも、実際にそれを行う段階にまでは至らない。それはIさんの「親の気持ち」も組んでやっていく、という姿勢のあらわれでもある。
 また介助者を自宅に入れた場合には、グループホーム入所時に覚えた、Iさんの人を使うノウハウを、母親のいる前では実践できないという事態が起こる。母親は「子どもの頃から障害者のことは障害者の母親がやるんだという形」が身についており、「余分なことに手を出すのが癖のようになっている」。つまり他者のIさんへの介助行為に手を出してしまう。これは結果としてIさんが介助者の手を借りて、行為主体として行動することを制限してしまうことになる。
 こうしてIさんの具体的な提案は母親には受け入れられず、ある面では、Iさんの意志が通ることが困難な事態も生じている。しかし同時にこれは、日々のIさんの「親の気持ちを考えながら、自分の生活を組み立てていく」という「せめぎあい」の実践でもある。

◇「精神的な親子離れ」 〜親と上手くやる技法
 他方で、Iさんが母親と同居をし、母親の介助を受けつつ(他人の介助も入れないで)、「精神的な親子離れ」を目指す技法が次のように語られる。

 「…僕は思うんだけど、自分一人で生きてはこれなかったっていうのがあるわけだよ。生きてこれないし、これからも生きていかれないと思ってるからね。まして僕の体の状態がよければまた、障害の状態がよければまた違った感覚も持てたのかもしれないけどさ、常に誰かの介助がないとやっぱり生活できないわけだから、だから逆に言うと、食べることも、飲むことも、おしっこも、うんちも、着替えも、風呂も、全部自分でできないような体で生活しなきゃいけないという状況がある中で、親をどの程度まで遠ざけて生きていけるのか。だからといって親子べったりじゃなくて、親と、特に僕は最近思うんだけど、親子の肉体的なものじゃなくて、《精神的な親子離れ》、がうまくできないかな、できるのがいいのかな、と思ってはいますけど。なかなか難しいけどな。でもそのなかで生活の部分の介助ということが入ると、僕の思いとやっぱり僕がこう思ってても、実質的に母親に介助を受けてるわけだから、そうすると僕がひかなきゃいけない部分もあるわけさ。」
 「精神的な親子離れっていうのは…。」
 「だから、特に《親は親の時間を持つ、親は親の趣味を持つ》ということがやっぱり必要だと思うんだよね、何から何まで、障害者と、障害児者と、親が何をやるにも一緒にやらなきゃいけないし、どこに行くんでも一緒にいなきゃいけない、どこにいるときも、一心同体、ではなくて親は親の時間を持つことは必要だし、親に干渉されない時間を障害者もある時間持つことは必要だと思うよ。それを僕は今で言うと、職場にいる時間は俺の時間だし、母親は家で家事やってるのかもしれないけど、あと何やってるのか知らないし、俺は仕事やってて俺がどこか行ってる時間は、お袋も自分のことをやればいいと思って、そのときに例えば、ケアを入れて、俺は親に介助を受けない時間をここでエンジョイできるような形をとればいいし、親は好きな買い物、どっか行ったり、お稽古ごととかをやればいいと、思ってるんだけど。
 いかんせん障害者家庭の、この子のために、とかね、この子のためにがんばらなきゃっていうのと、いっしょくたに、まぜこぜになってる部分がありすぎるんだよな。逆にそれがお互いの重荷になって、お互いの成長がなくなってしまう部分なんじゃないかなと思うんだ。だから俺がお袋の、たとえば、趣味のこととかお稽古ごとでつきあってる人のことは知らないし、僕は仕事でつきあったり、こうやって話してることについては、お袋はお袋で僕のことを知らない。ある部分お互いに知らないところがあっても、おもろいんじゃないかと思うんだけど。逆に言うと、障害者の親子関係っていうと何でも知ってる、逆に親子なんでもそろって死ななきゃいけない、っていうのが当たり前だというのような感覚の中で親子関係をつくっていると、いざ、どっちかができなくなったり、どっちかが倒れたりすると、どっちかがパニックになってしまう。
 だから僕が五年間やってきて、βにいてよかったなと思うことは、確かによく考えると、なんであんなに面倒くさいところに入ったのかって思うけど、逆にそういうことに気づけたっていうのはやっぱり、親に介助を受けないで、他人の介助を受けて、まがりなりにも五年間生活してきたっていうことで言えば、《親には親の時間があってもいいし、俺には俺の時間があるんだなっていうことがお互いにわかった》ことによってそれは五年前に親と離れる前のつきあい方と、今のつきあい方っていうのはちょっと違うと思うよ。母親もたぶん違うと思うし、僕も違うと思う。」

 現在の生活を、ほぼ母親の全面介助を受けた「母親に大事なところを握られている状態」であるとIさんは表現する。「実質的に母親の介助を受けているわけだから」、「僕がひかなきゃいけない部分もある」と言いながら、そうした中での「精神的な親子離れ」を、Iさんは模索している。それは次のようなことが必要であると語られる。言い換えればこれを取得すれば「親離れ子離れ」は可能であることになる。
 第一に、親は親の時間を持つということ。これはすなわち、子どもである障害者が、親に介助を受けない時間を持つということを意味する。現在Iさんは、職場にいる時間が「自分の時間」であるという。その間、母親も「自分のことをやる」時間ができる。これは「どこに行くにも一緒、何をするにも一緒」という状態ではなく、それぞれが「自分の時間」を持つことが必要だということを意味している。
 その上で、第二に親も子供も自分の趣味を持つということ。このことによって、親には親の世界が出来、「たとえばお稽古ごとでつきあっている人のことは知らないし、僕が仕事でつきあってる人のことは親も知らない」というお互いに「おもしろい」状態をつくることが出来る。このことは「障害者の親子関係」が「何でも知っている」「なんでも一緒」になりがちなことへの批判を含んでいる。これが当たり前の状態の中では、どちらかがバランスをくずすと、最終的には共倒れする事態になってしまう、とIさんは言う。また親の「この子のためにがんばらなくちゃ」という気持ちが、親自身の時間を持つことを制限していると指摘される。子どもを介助することと、「子どものために」親自身や親の時間を犠牲にすることとは、混同してはならない、とIさんは指摘する。この混同が「お互いの重荷になる」と言う。これをなくした上で「お互いに成長すること」が必要である、と述べられる。
 実はIさんが、こうした「親離れ子離れ」についての、いわばノウハウを獲得したのは、五年間のグループホームでの経験によっている。「親に介助を受けないで、他人の介助を受けて、五年間生活してきたっていうことで、親には親の時間があってもいいし、俺には俺の時間があるんだなっていうことが、お互いにわかった」とIさんは語る。
 またIさんはこの経験によって、「今までだったら親に逆らうなんていうのはあり得なかった」が、人を使うノウハウを学んだことにより、「昔だったら言えないなと思ってかみころしてた部分も、つい言葉として出ちゃう部分」が出てきたという。これはそれまで絶対的であった親と子どもの権力関係(→第2節)の変化であるといえる(「だから、この間おふくろがびっくりしてた。あんた、そんなこと私に言えるの、とか言って。」)。こうした関係の変化を基盤にして、Iさんは「精神的な親子離れ」を模索している。

◇小括
 Iさんがグループホームに入所するまでの三十余年間というのは、母親は、息子であるIさんの介助を担う存在として、自分以外には考えられなかったし、Iさんにしても母親以外の介助は考えられなかった期間であっただろう。Iさんと母親の間には、「何をやるにも一緒、何処へ行くにも一緒、何でも知っている」という状態があったと思われる。そうした状態を回避しようと、グループホームに入居したIさんが、そこで母親ではなく、他人の介助を受けて感じたのは、「自分の介助は母親でなくても出来る」という素朴な事実であった。そこから「母親には母親の時間があり、自分には自分の時間があってよい」ということを気づくまでに至る。またおそらく、母親もIさんの介助から解放された五年間でそれを感じているだろう、と言う。
 またIさんにとっての「自立」とは、五年前には「一体化」していた親子の状態からの脱出であった。実はこの状態は、五年たった今でも表面上には変化がない。Iさんは母親と同居し、母親の全面介助を受けながら生活を営んでおり、また相変わらず「干渉されている」と感じる。しかしIさんの内面においては大きな変化があったと言える。それは「親は親の時間を持ち、自分は自分の時間を持つ」ことが当然と思えるようになったことである。これはつまり、「親と子どもは別々の人間である」という、「親子離れ」の前段階的な理解が得られたと言うこともできる。また、五年間のグループホームへの入居により、母親にも同じ理解が得られるようになったことも重要である。
 こうした前提となる共通理解をふまえて、「親は親の時間、趣味を持ち、子どもは子どもの時間を持つ。そしてお互いに知らない世界を作る」、つまり「一心同体」や「親子の一体化」を避けるための、そして同時に母親と「精神的な親子離れをして、うまくやる」技法がIさんに採用されることになる。これを実践する中で、「母親の気持ちを考えながら、自分の生活を組み立てる」という、さらに具体的な策を検討する次の段階への模索をIさんは始めようとしている。

2.2自己決定と割り切り
☆「心配するのが親っていうものなのかな、って思えてきたから、今は気楽だよ。」

 Aさんは三十三歳の男性。母親と二人暮らしであり、家にいるときは母親がすべての介助を担っている。きょうだいはすでに結婚して家を出、父親は単身赴任で不在であるが、二年後に帰ってくる予定である。現在は自宅からαへ通っている。

◇「一人暮らし」と父母について
 Aさんは初めに「一人暮らししようと思ったことないですか」という質問に対して、「思ってます。あと二年くらいしたら、いずれは一人暮らしして…って考えてます」と答えている。以前は母親の加齢や亡き後を考えた結果であったが、最近は、「三十も超えていい歳になって、もういいんじゃないか」と、自然の成り行きで思うようになったと語る。しかし、その後に、単身赴任の父親が二年後に帰ってくるが、「一緒に住みたくないっていうのはあるかもしれない」、「やなんですよ。おやじと性格合わない。それが一番大きな理由なのかな。…それで出たいって思ってるのかな」と言いかえている。
 父親とはほとんど直接話をしない。母親経由の父親は「将来的にはお前は施設に行くんだって決めつけてるみたいで…」という。母親を通して会話を成立させているというところがあり、意志の疎通があまりないとAさんは感じている。
 実はAさんは以前にも一度家を出ることを考えたがあった。それは当時はまだ困難であった「家を出る」ことを、周囲の人がだんだん始めたことにも影響を受けたものであった。

 「…僕はここへ来て、二十三とか二十五の時も一回出たいって言ったんですよ。その時母さんも、両親とも反対だったから、まぁ押し切れなかったっていうのがあるんですよ。最近は、母さんはけっこう理解してくれて、もう、三十じゃない、母さん楽にさせてくれよみたいなかんじで言ってくる。父さんは知らないけど、情報交換しないといけないから、また悶着があるんだよね、ては思うけども。それだけでも。だってさ、見てればいいと思うんだけど、ちゃんとしないって言われるんだよなって思うよ。まだまだだって。どこがまだまだなのって言うと、てめーで考えろって。って言われたときがあるから、また同じパターンなのかなって。」

 十年ほど前に、Aさんが家を出たいと言い出したとき、両親は頭から反対した。最近になって母親の方は「けっこう理解してくれて」、態度が変化してきたという。父親は「まだまだちゃんとしてない」と言い、今回Aさんが一人暮らしの話を切り出せば、前回と同様な悶着が起こるだろう、とAさんは考えている。
 十年前にAさんが一人暮らしを考え、結局実行しなかったこと、そして今回「二年くらいしたら」家を出ようと考えていることとは、どのように関連づけられているのだろうか。十年前の一人暮らしを考えた理由について、Aさんは次のように言う。

 「あこがれ。っていうか、その時一人暮らしっていうのは今より盛んじゃなくて、出るのも一生かかって出来るか出来ないかっていう時だったから、自分で介助者見つけて、ボランティアに来てもらってっていう…。なんか今までの生活っていうか自分の好きな時間っていうのがつくれて何でもできるんだっていうのがあって、いいなあって、俺も出るーって…。」
 「その時はお父さんもお母さんも反対なさって…」
 「ずっと反対。(母親は)今でも…あきらめなんだろうな、あきらめっていうか、手放しで行け行けとは言ってない。向こうも歳くってきたし、いろいろあるんじゃないのかなって。そういう感じにあこがれだったから、説得する材料もなくて、材料っていうか、こうやってこうやってこういうやり方っていうのがなくて、とにかく家借りてやればなんとか出来るんだっていう感じで、おしてさ、出来るわけないじゃないのっていう感じで。今回っていうのはそういう感じじゃないし…。過ぎちゃうと、あの頃のあれは、なんかむちゃくちゃだったなって思う。言い方が。一人暮らししたらいいことがあって、なんかあるんじゃないかなと…。」
 「その時はあきらめた…」
 「…なんだったんだろうな。自分でできないと思ったのかな。うちで、好きなことをやって自分でやりたいことを言って決定権がこっちにあればいいんじゃないかなんて思ったのかな。親がこうしろああしろっていうんじゃなくて、僕がこれをやりたいからやらせてくれっていうのが…。それで納得したのかな。その時は。」

◇自己決定権を持つこと
 ここでは十年前の「一人暮らし」をあきらめた経緯から、Aさんの生き方に対する考えが語られている。あこがれていたのは、「自分の好きな時間がつくれて何でもできる」ということであった。それをあきらめたとき、Aさんは「親が決めるのではなく、自分でやりたいことを言って決定権がこっちにあればいい」、つまり自己決定権を持つことが、「家を出る」代わりになると、自分を納得させたという。つまりここでは、Aさんの「自立」に関する考えが述べられていると言える。それは、自分は何がしたいのかという意志を親にきちんと伝えていくことであった。
 実際、この出来事と前後してAさんはそれを実行し始めている。このことは養護学校時代と対比して、次のように語られる。

 「…養護学校は、親が送ってバスで行って、先生がいて、バスで帰ってきて、親とか先生とかに決められてたことが多かった。ま、それだけのせいじゃないかもしれないけど、自分の性格っていうもあると思うけど、自分で決めるってことなくて、すんじゃうじゃないですか。日々生活が。
 だから一番、ここにきて思ったことは、たとえば親が送ってやろっか、って言ったんだけど、やめてくれっていう感じで出てくる、ってことは道を選ばなきゃいけないとかそういうことで、なんかおちおちしてたら、いけないんだぞっていうところのへんから、自分で自己決定ってのが始まったのかな。ごく小さなことかもしれないけど。普通の人は小学校からやってる、っていうことがさ、俺ら卒業してからやり始めたのかな。…」

 養護学校に通っていた十二年間の日常の生活は、朝、自宅から学校までの送迎のバスが止まる箇所まで親が送る、バスに乗る、学校へ着く、夕方またバスに乗る、親が迎えに来ている、自宅へ着く…というように、自分で何かを決定することがなく過ぎていった。毎朝親に連れられて、決められたバスに乗り、学校に着くということ、それは単に公共の交通機関を使用しないというだけではなく、Aさんにとっては「自分で決めることがなく」日常生活が過ぎていくことを意味していた。
 しかし卒業後、Aさんは「自分のことを自分で決める」という生活に切り換えていく。それは親の送迎を拒否し、朝家を出て、どの道を通って駅まで行くかを自分で決め、電車に乗って一人で通うことから始まる。「道を選択する」という、ごく僅かなことであるが、Aさんにとっては高校を卒業して初めて体験する「自己決定」であったといえる。

◇母親との関係の変化
 こうした日々の積み重ねによって、Aさんは自分が「変わった」と語る。また母親との関係も変化したと言う。

 「小さい頃のAさんにとってお母さんってどういう存在でした?」
 「小さい頃…。やっぱいい意味でも悪い意味でも絶対的な存在。こうしろって言ったらきかないし…、今は反発するけど、絶対的だね。こう決めちゃうと、逆らうとやってもらえないんですよ。何でも。お風呂にも入れてもらえないし。だから、逆らわない。」
 「今は…。」
 「今はいい関係だよ。いい関係っていうか、自分ではあんまり気づかないんだけど、お母さんとかは言うんだけどさ、だいぶたくましくなったっていうか、まだまだだけどねって。自分では変わったって、たぶん変わったんだろうなとは思うんだけど、それほど、自分では意識なくて、ただ自分で決定することが、多少できるようになったかな、って思ってはいるんですけど。」
 「お母さんとの関係が…。」
 「変わったかな。いつまでも絶対的が変わらないようだったら、やばいと思う。いつまでたっても母さんに相談して決めたりとか。そういうことを自分で決定していけるようにしてかないと、いつまでも母さんを家で待ってるようじゃだめなんだよ。事実そういうのがなくなったし、今は。今までは、αでこういうことあったんだけど、いいかなやっちゃってとかさ、そういう感じだったけど、今ならαで何やってるかわかってないと思う。ただ朝行って帰ってきて、部屋行って寝ちゃうっていう、さ。そういうαのことを話す機会がなくなってきたね。だから、冗談言いあったりはするんだけど。αでやってることはあんまり聞かないし、言わないし。ほんとに困ったこととかは、これどう思う?とかその程度になってきた。まぁ今、ようやくだよね。」

 母親が幼いときの「絶対的な存在」から、現在は「いい関係」に変化した。Aさんは「いつまでも絶対的が変わらないようだったら、やばいと思う」と言う。かつては母親と離れたαでの行動も、母親に相談して決めていた。しかし現在では「朝行って、帰ってきて、部屋行って寝ちゃう」という生活に変化し、αでの行動は「何やってるかわかってないと思う」というように、母親とは関係のない世界としてAさんの中で確立したものになっている。
 「いつまでも母さんを家で待っているようじゃだめなんだよ」という言葉に集約されるように、ごく小さなことでも自分で決定すること、そこからAさんは生きていく姿勢を変化させていったことがわかる。現在ではαにおける生活を確立し、それについて母親は関与しない。本当に困ったことのみ相談するという関係である。おそらく母親もこの変化を感じており、それがAさんについての「たくましくなった」という評価にもあらわれているのだろう。

◇親との関係を上手く保つ技法
 そして現在、Aさんは母親と二人暮らしの生活で、母親の全面的な介助を受けながら、よい関係を維持するための自覚的な努力を試みている。

 「…去年だったな、電動車椅子でよく転倒したりするわけじゃない。でも転倒したとか言わないんだよ。今日転倒したとか言うと、心配して暗くなって帰ってきたときによく言われるんだけど、こんな暗いときに事故ったらどうするんだ、って。事故らずに帰ってきたじゃないっていうと、わからない、今日事故らなくても明日事故るかもしれないって言われると、ふーん、何も言えませんっていう感じで。車にぶつからない実績ってあっても、今日ぶつかるかもしれない、明日ぶつかるかもしれない、だから早く帰って来いって…。最近は言わなくなったけど、時間どおりに家に帰ってこなくても。あんまり暗くなると言うね。でも《そういうのが親なのかなって思っちゃったから、楽なことは楽》なんだけど。そこで反発してたらさ、なんか疲れるだけって感じするから。いいや、っていう。
 それは、だいぶ歳を重ねて二十七、八になって、なんだよ、疲れて帰ってきてそんなこと…っていうのが出ちゃうと入れて貰えないことがあるから、そういうのがしんどくなっちゃったりするんだよ。我慢することが当たり前になっちゃってたから、言い方変えてみようかなって、《言い方変えたらけっこう気楽》よ。二十一、二では分からないからね。一つの小言でも、けっこう沸騰しやすいんだよ。おれってけっこう、瞬間湯沸かし器なんだよ(笑)。だから一言いわれてさ、ぷちっていう感じでさ、(「切れちゃう」)・・・切んないで、切んないで、ほいで、どうして言ったらいいんだろう、ってふっと考えて、結局心配してくれてるんだなとか、電話で言わなかったからだろうか、とか、そういうかんじで、もうちょっと考えて…。だけど、こっちが疲れてると、考えられなくなるけど、自分も悪いと思って帰ってきてるのに、そこを言われるとむかっと来ることもあるけど、そういう関係ってけっこう面白いかなって。
 お母さんも機嫌が悪くなると喋らなくなるんだ。僕もなんだけど、完璧に僕が悪かったらなんとかして取り繕うと、前はしてたの。ぶすっとしてるからさ。だけど、それをやんないで、時間をおいてやれば、お互いにね、俺が怒ってるときにも時間をおいて言われると、さっと会話ができるからね。疲れるんだけどね。時間をおいてさっと会話をすると、いい感じになるときもあるけど、間違ったかなっていうときもあるけど。自分も怒ってるときにさーって言われても、なんだこのやろうってなっちゃうからさ、そこを五分とか十分とかおいてやって言うと、あ、なにーって言えると思うんだ。僕とお母さんの関係はそうだなぁ。いろんな人の関係はあると思うけど。その時にお互いに解決させるっていう関係もあるんだろうけど。うちの場合で言えばちょっと違うんだろう…。僕は今この手を使ってるっていうか、向こうも使ってくれてるから、お互いに…。無理に喋ることはないかなって思うと、気はけっこう楽になると思うんだ。
 …だからこれはおすすめ。時間をおくのは。二人で喧嘩の内容じゃなくて、離れて話す。これどうやんの、とか。これ作ってみたんだけどとかって母さんは来るんだけど。ぜんぜん喧嘩の内容と違うことをいう。なおるときはなおる。なおらないときはなおらないけど。俺、しつこいんだよね。しつこいタイプは…。わかんないけどね、いろんな人がいるから。どうやって仲直りするかっていうのはそれぞれあるから。」

 Aさんは、親との関係を上手く保つための技法を自覚的に獲得しているうちの一人である。母親が、電動車椅子での事故を心配し、「暗くならないうちに帰って来なさい」と繰り返し言う煩わしさに、Aさんは単純に実際に転倒した時でも母親には言わないことにしている。しかし母親にとってそれは有効ではなく、Aさんを心配する言葉は繰り返される。そこでAさんが、母親との関係を「いい感じ」にする技法として採用したのは、第一に「子どもを心配し続けるのが親なのだ」と、割り切るというものである。母親の言葉に対して、「そこで反抗してたら、なんか疲れるだけっていう気がするから」とAさんは言う。この「割り切り」という技法を使えるようになってきたのは、つい五、六年前であるという。
 これを使い始めたきっかけは、「我慢が当たり前になっていた」状況を変えようとしたことであった。疲れて帰宅し、母親から言われる言葉に対して、「なんだよ、疲れて帰ってきてそんなこと…」という思いを抱き、それを口に出してしまうと、母親に「(家に)入れて貰えない」ということがあった。従って、そういった思いをを抱いても、母親との関係に亀裂が入らないよう、「我慢することが当たり前」になっていた。ここには第二節で指摘した、介助を媒介とする時の親と子どもの間の権力関係が存在している。Aさんは「逆らったらお風呂に入れてもらえない。(何でも)やってもらえない。」「(家に)入れてもらえない」と言い、母親が介助行為をたとえ一時的にでも拒否することのないよう、母親との関係を保つために、自分が「我慢する」ことが当然だと見なしていた。しかし「そういうのがしんどくなっちゃったりするんだよ」とAさんは言う。この「我慢」の仕方を変える具体的な技法として、「言い方を変えてみる」というものを使い始めた。母親の言葉を自分の内で解釈し、「電話で言わなかったからだろう」、「結局心配してくれてるんだ」、と変換するようにする。また直接に感情をぶつけることをやめ、時間をおく。そしてまったく違うことを話してみる、すると「いい感じになる」時もある。Aさんは自覚的にこうした技法を使っているが、母親も同様であるという。その結果としてお互いに「楽」になっていると語られる。「僕とお母さんの関係はそうだなぁ。…僕は今この手を使ってるっていうか、向こうも使ってくれているから、お互いに…。無理に喋ることはないかなって思うと、気はけっこう楽になると思う」。

◇小括
 Aさんは養護学校時代には、自分で決定するということがまったくなく、母親は「いい意味でも、悪い意味でも絶対的」な存在であった。しかし卒業後、「家を出る」ことを考えたことをきっかけとして、自己決定することが「自立」であると考え始める。そして身近なところから、親ではなく自分が決めて行動することを実践し始める。その結果、現在のAさんは昼間の活動は、母親とはまったく離れたところで行い、母親とは関係のない世界を確立している。こうしたことが母親が絶対的な存在ではなく、「いい関係」に変化させたとAさん自身も自覚している。
 しかし介助関係が介在する場面においては、Aさんの「自己決定」は困難なものとなる。介助に伴う、母親と上手くやる技法を、Aさんは「自己決定」とは別のものとして自覚的に取得している。それは「心配するのが親」だという割り切りに基づき、言い方を変えたり、ある程度時間をおいてみたりなど、細部を熟練していくことを要するものである。
 このような、ある関係を維持する努力は日常的に、誰もが意識的・無意識的に使用していることだと言えるかもしれない。しかし重要なことは、これがAさんにとっては、「我慢することが当たり前」になってしまうような状態を打破するための技法であるということである。この根底には、前述したような介助関係に伴う権力関係の問題が存在している。こうした権力関係の中でAさんは母親との「いい関係」を維持しようと、また母親の方もそれを維持しようと、日々その熟練者としての技法を磨いているといえる。

2.3 思いやりと遠慮
☆「お互いが遠慮しちゃう状態って、精神的によくないでしょ。」

 既出のOさんは三十三歳の女性。自宅に父母と同居している。日常の介助は全面的に母親が担うが、公的な介助を一部分受けている。

◇よい関係でいるために…
 母親の介助についてOさんは、「ほとんど全部、何から何までやってもらってきてるし、二十四時間近く一緒にいるわけだから、言葉で言わなくても目の視線だけで意味が通じちゃう。何をしてほしいとか、なんでそう頼んでるとかわかってるだけに楽は楽」と言う。しかし一方で、「母親の慣れ過ぎちゃうと、人に頼むのが下手になる」とも言う。「逆に他の人がいいとか、ありますか」という質問に対しては、次のように答えている。

 「…例えば一緒にどこかに遊びに行くとかっていうなら、あれだけど、自分の用事で出かけたいときにも母親に全部ついてきてもらわなくちゃっていうと、普段の生活だって、食事作ってもらったり、食べる手伝いから、トイレから着替えからって全部やってもらってて、その上にどこか行きたい、友達に会いたいから、じゃあ一緒についてきて、っていうんじゃ、行きたいところに行きづらくなる。向こうが拒否するわけじゃなくて、やっぱりお互い自分の時間がどうしても持てなくなっちゃうと、こっちも向こうに悪いなって思うし、向こうは向こうで体力的な問題で、例えばどこか私を連れていきたいって思っても疲れてるから、外出をさせられないとか、私に悪いって思っちゃう。お互いそう言う意味で精神的によくない。お互いが遠慮、っていうとおかしいんだけど、自分たちの用で出かけたいときはそれでいいんだけど、それぞれ自分の出かけたいところに出かけられなくなっちゃう。例えば私が今日はあそこに行きたい、あの人に会いたいからついてきて、っていうと、疲れちゃうでしょ。と、違う人に頼めて、その間に、母親は違うことができるし、ぜんぜん私と関係ないことができるし、そうすれば私も行きたいところに行けるし。だから外出なんかはとくに、とても助かるっていうか。
 …だから、《いい関係でいるにはお互いがあんまりべったりしすぎちゃうと…。まぁ母親に言わせると、母親だから、みちゃうって言うのね、どうしても》。できれば自分のできるかぎり面倒みたくなっちゃう、ていうかみちゃうって言うんだけど、こっちはあんまり、一緒にいれば疲れてる顔も分かるし、ああ、疲れてるな、でも出かけたいんだけど、こんな時に頼むのはちょっとしんどいな、っていう、そういうところは、今日みたいに出かける時には、人を頼んで出かけたいときに出かけられる、その辺がすごく、人を頼むときには助かるかな。」

 Oさんは母親の介助自体には、何も不満は持っていない。しかし「母親と一緒に遊びに行く」のではなく、「自分の用事で出かけたい」という時に、母親に「一緒に来て欲しい」と言えないことがある。それは、Oさんの普段のすべての介助、「食事作ってもらったり、食べる手伝いから、トイレから着替えから…」を母親が担っていることから、それ以上の介助を言い出し辛いことが一番の理由である。しかしそれは、母親が介助を拒否するということではなく、Oさんの母親への「思いやり」気持ちからくるものである。つまり「母親を、自分の都合で必要以上に拘束したくない」、「母親の時間がなくなってしまうから悪い」という気持ちである。また母親の身体を気づかう気持ちもある。
 しかしこうした母親への「思いやり」の気持ちは、実はOさんが自らの意志で行動することを困難にしている。疲れている母親を見て「…出かけたいんだけど、こんな時に頼むのはちょっとしんどいな」と、行動を躊躇する。また母親はOさんを「自分の出来る限り、面倒みたくなってしまう」のだという。しかしOさんとしては「一緒にいれば疲れてる顔もわかる」ために、外出を言い出すことを「遠慮」する。また、母親もこうしたOさんの気持ちをも汲みとって「向こうは向こうで私に悪いって思っちゃう」。こうしたお互いに「遠慮」した、「精神的によくない」悪循環の状態に陥ることになる。
 こうした経験からOさんは「いい関係でいるにはお互いがあんまりべったりしすぎちゃうと」が良くないと言う。つまり「お互い自分の時間を持つことが大切」であり、「それぞれ自分の出かけたいところに出かけられる」という状態がよい、という。そのためには、自分自身の外出介助を他人に依頼することが出来るということは、「母親はぜんぜん私と関係ないことができるし、私も行きたいところに行けるし」という、理想的な状態を保つことができる、重要な手段となっていると語られる。

◇小括
 Oさんの場合は、親と子どもの間に、介助という行為が介在する時に、お互いの「思いやり」が悪循環を生み出すことがあることを示している。Oさんの中には「母親の時間を拘束したくない」という強い思いがある。お互いに「思いやる」こと、そしてある意味で「遠慮」しあうこと。一見すると、このOさんと母親の間には介助行為に必要とされる「気持ち」があり、関係は良好であるかのように見える。しかし介助という行為には、こうした「思いやり」の気持ちだけでは解決できない問題が含まれていることに注意しなくてはならないだろう。「お互いがお互いのやりたいことをする」、「お互い自分の時間を持つ」ということは、特に重度の障害を持っている時には容易なことではない。
 また母親が同居している場所に、他人の介助が入ることも、実はある困難が伴う。それは、Oさんが将来的には「一人暮らし」を考えているという文脈で語られている。これについては後で述べる。

3.他者と親との狭間で(場面U)
 ここでは、親と同居する家に他から介助者が入る際、その関係をよいものにしようとする技法を見ていく(ただし、以下で見る事例はT→Uの移行の段階であり、場面の「想定」の域を出ていない)。

3.1 母親の解放
☆「親には不満はないんです。でも、親元にいつまでもいたとしても、もう私は子どもじゃないんだってことを認めてほしい。」

 Yさんは二十九歳の女性。寝起きから就寝まで全面的な介助を必要とする。今年の四月から週に三日働いている。
 両親と同居する自宅のYさんの部屋には、浴室とトイレと洗面所が併設されている。養護学校高等部を卒業する時、「うちにいる生活が中心になるから」と家を全面的に改造した際、Yさんが使いやすいよう独立した形で造られたという。また同じ敷地内の離れに祖母が住んでおり、母親はYさんの全面的な介助に加えて、身体の弱ってきた祖母のこまごまとした面倒もみている。
 十代の頃から「自立願望」はあり、一時は制度が整っている地域へ行って、一人暮らしをしようかと迷ったった時もあったが、最近になって家の中にボランティアの介助者を入れる形での「自立」生活を始めることを決意したという。

◇Yさんにとっての「自立」
 現在Yさんは、「母親の全面介助というかたち」で生活をしている。これはYさんが生まれてから三十年弱の間変化がない。一方でYさんの「自立」願望は高く、十年越しでこれを考えている。「アパートを借りて始める自立」、つまり一人暮らしをし、そこでの生活の環境を整え、公的なサービスやボランティアを使って介助者を得ながら自分の生活を組み立てるという、自立生活運動の流れにおいては一般的になりつつある形態*32を行うことも一時は考える。しかしそれは、一つは経済的な問題によって諦められる。Yさんはワンルームを借りたと想定して、介助料なども含めた必要な額と、年金などを貯めてきた額とを比較し、試算してみたところ、それが「三年しかもたないことに愕然とした」と語る。しかしそれ以上に、Yさんには「余裕をもった自立」をしたいという強い思いがある*33。
 Yさんが重視するのは、「人生を楽しむ」ことである。「生活だけに追われて、介助をしてもらうことだけに追われちゃうっていうんじゃなくて、施設ではなくて地域にいるから、自分で決められるから遊びにも出られるんだっていう部分を残した自立の仕方」をしたいと語る。友達とお茶を飲みに行く、映画を見る、旅行に行くなどの自由があることが、Yさんにとっての「自立」の要件なのである。従って一戸建ての、交通の便もよい、親が改造してくれた部屋もある現在の自宅から離れて「自立生活」を行うことは、「生活を楽しむ」という目的が本末転倒になりかねない。「アパートを借りることだけが、自立生活ではないと思う」とYさんは語る。
 そこで、Yさんは「家に介助者を入れる、親がいながらの自立」を決意し、聞き取りを行った、翌月の十月からそれを実行することを決意している。現在のところ、介助の体制はまだ完全に整ってはいない。しかし、とくに重労働である入浴介助だけでも、介助を募ることから始めたいとYさんは語る。「とにかく埋まった日だけでも来てもらうっていうことが私の自立の第一歩」であり、それがそのまま母親の労力の削減につながると考えている。

◇母親の労力の限界
 他方で、現在母親の介助についての心配はないが、今から十年後には「確実に自分を持ち上げるという介助は出来なくなるだろう」とYさんは言う。さらにその時になっても、どこかから介助者を得られるという保障はない。「親がほんとに介助ができなくなるまでに、一人暮らしが出来る土台をつくりながらやりたい」、親の労力の限界が見えてきたことが、Yさんの今回の決意のもう一つの理由である。
 さらに、「いつか」は始めようと思っていた、「自立」を実際に始動させる潜在的な理由として、別棟に住む祖母が、体力的に弱ってきて母親に手伝いを求めることが増えてきたということがある。ここには老人と成年後の障害者の介護の両方を担う、「女性の問題」がある(川池[1986])。ここにおいて、祖母と障害者である自分の介助を行う、母親の労力を軽減することがYさんの明確な目的となる。

◇「家庭環境の良さ」と、しかしその限界
 ところで十年近く「自立」を考えながらも、それを踏み切れなかった理由を、Yさんは「家庭環境がよかったので」という。また親が「障害者だからといって、別に特別なふうにみなかった」ことや、姉が友達に「自然に紹介してくれたり」して、養護学校に通ってはいたが、「姉の友達が自分の友達だと思って幼少時代育ってきた」と言い、姉の結婚に際しても「障害者だから隠された」ということもなく、結婚式にも当然出席し、それ以前の顔合わせにも、妹として当然のこととして同席したことも、その理由として挙げている。
 こうしたことからYさんは、「自分が障害者であることを認識したのは遅かった」と語る。「歩けなくて不便だとは思ったんだけども、でも歩けないっていうことが障害っていうふうに結びつくのはすごく遅くて、中学くらいまでは、ほんとに自分は、物理的にやれないことはたくさんあるんだけど、その中にいるから自分はやれたような気分になって、すごい楽しかった」。「私だって別にみんなと同じよ、みたいな気分でずっといたんで、障害を意識したことは非常に少なかった。あんまりいじめられた経験とかもないんですよ。まわりの人もけっこういい人ばっかりで」。こうしたYさんのおかれた場所は、自らが語るように「他の人と比べてめぐまれた環境」であったといえるだろう。
 また金銭面においても、自分の年金は自ら管理し、食費や電話代も家に入れるという生活を行っていた。また親と暮らしているが、外出も外泊も自由で、「束縛されるとかっていうのは全然ない」と言う。しかし、Yさんは「逆に家に帰ってきたらごはんは出来てるし、疲れたって言ったらベッドに倒れ込んでしまって生活は回って行くし、っていうかんじですごく楽に生きてきちゃった」というこれまでの生活に対して、「これじゃあいけない」という思いを切実に感じている。その一番の理由が、前述した母親の労力の限界である。

◇母親の解放 〜「母に自由時間をあげたい」
 母親の労力や介助に関連して、さらにYさんは次のように語っている。

 「お母さんの労力というお話をなさってたんですけれども、お母さんの介助っていうのが、自分としては楽なんだけれども、他人の方が楽な時もあるって仰る人が多かったんですけれども、そういうことっていうのは…。」
 「親にやってもらうより、他人にやってもらったほうが楽だっていうのはあんまりないですけど、上手く言えないんですけれども、母に今まで私の介助に関わってきた時間じゃなくて、例えばいつでも気が向いたら…、というか、母は母の人生を楽しんでもらいたいな。このままでいくと祖母と私の介護をして、それに疲れた頃には母の人生ていうのは終わっちゃうんですよ。それで今までは、考えられる能力がなかったし、《子どもだった時は子どもの面倒を親がみているのは別に普通のことだ》けども、三十になろうっていう時になってまで、私と祖母の介護をして母が介護にあけくれて、とにかく家をきりもりするだけに親が終わってしまったら可哀想だから、私の部屋に泊まり介助の方が入ってるってわかる日が何日かでもあればね、その間に母に少し遊んで…。母の生活を見ていると、なんだか可哀想かなと思って。ますますこれから祖母も老齢化が進んで、母にずっと頼りっきりになっちゃって、て言ったらなんかね、っていう感じで。お母さんには自由時間あげるから好きなことしてねって、今一生懸命言ってるんです。
 私はやっぱり正直なことを言えば、親が高齢になるとか、今やってることがそうそうもうこれから長い年月やっていけなくなるぞっていう思いがなければ、《母に介助しきってもらうっていったら、非常に、好きなことだけしてればいいんですよ。私はね。やなこともしなくていいし、極端なことを言えばずっと遊んでいたければこんな、自立の世界なんか探求しなくったって、遊んでたってもいいことになっちゃうんだけれど》も、そういうわけにはやっぱり行かないんだし、それで《母が、いつも家族のためにってばっかりなっているのが何となく可哀想になってきて》、今まで十分やってきてもらったんだから、もう大人になってある程度分別もつくようになったら、私は大変であっても親を解放するのが…。普通は結婚して親から独立することによって、親をすべてから解放しますよね。だけどそれはなかなかできそうもない現状の中では…。だから普通の人でも最近晩婚になってきてて、三十過ぎてもおうちにいらっしゃったりする世の中ですけど、《普通の人が独立するように私も独立して》、母が私のスケジュールを中心に母の生活が決まってるみたいな生活を少しやめたい…。」

 Yさんは、母親を「祖母と私の介護をして、いつも家族のためにってばっかりなっているのが可哀想」であると評している。また「子どもの時には親が面倒をみるのは普通」だったが、三十歳になろうとしている自分の介護を行っていることに対しては、「普通の人が独立するように私も独立して」母親の役割を解放したい、と考えている。また幼い頃の母親という存在について語る文脈でも、このことに言及されている。

 「…やっぱり第一の理解者であり、協力者であり、二十歳になるまでは、親がうんと言うまでは何も自分のしたいことはできなかったんだけれども、けっこうしたい放題してたし、まぁ親に対してはよくやってくれたとは思います。だから今までに逆に今、やりすぎなくらいやってるんだから、そろそろ自分のことも自分で考えられるようになったから、お母さんがやらなきゃできないってことはないんだから、そろそろ自分の時間を作ったらっていうくらい…。別にやってあげてるっていうのは言わないんだけれど…。」

 幼い頃は第一の理解者であり、協力者である反面、親がすべての決定権を握っているような状態にあった。しかし「今までよくやってくれ」、「自分のことは自分で考えられるように」なり、「お母さんがやらなきゃできないってことはないんだから」、今度は母親自身の時間を作って欲しいとYさんは考えている。こうしたことの実践が、家の中に介助者を入れることによって母親の介助の負担を軽減し、「自由時間をあげる」というものである。
 しかし、Yさんは正直なことを言えば、母親が高齢になり、彼女の手による介助が永遠に続くものではない、という現実が見えてこなければ、「自立」を追求しないで「遊んでいてもいいことになっちゃう」と言う。また介助について、母親に全面的に頼っていれば自分は「好きなことだけしていればいい」とも言う。つまりYさんにとって、家にいながらの「自立」を目指すことは、現在の生活に対する不満の現れというわけでは全くないということである。この点は重要である。母親の介助は心地よいものであり、他人による介助の利点はあまりない。母親に頼ることができれば、それに越したことはない。しかし、「そういうわけにはいかない」のである。やはり親は黙っていれば高齢になっていき、いずれは自分を介助することが不可能になるという現実があり、さらに母親が自分の介助を引き受けている限り、母親自身の自由な時間は存在しない。「母は母の人生を楽しんでもらいたい」とYさんは話す。「親を自らの介助から解放したい」というのが、Yさんの願いである。
 しかし一方で母親自身は、次のように言っているという。

 「母は、まぁそれが普通のコメントだとは思いますけど、毎日のことで、一歳すぎて歩くことがなかった時から、こんなもんだと思ってやってきたから、そんなに負担だと思ってやってるわけじゃないっていうふうに言って、だからそうやって考えてくれるのは有り難いけど、別にそう言われたからって、急に行きたいところができるわけでも…。ようするに《子育てが生き甲斐みたいになって生きてきた人になっちゃった》から、っていうことはありますけど。でも自分がみられなくなったときに、私はこうやって生きていけるんだっていうことを見られたら、この上ない安心だとは言います。だから自立を試みたいっていうことについては母は本当に協力的です。お母さんも気の小さな人でけっこう人に頼むのに恐縮しちゃったりとかして、それなりに努力して介護者を受け入れるっていうふうに思ってると思う、母は。」

 母親は「子育てが生き甲斐みたいになっちゃって生きてきた人」であるとYさんは言う。だからYさんが「可哀想」に思い、「自由時間をあげる」と言うことに対しても、「そう言われたからと言って急に行きたいところができるわけでもない」と、困惑をみせ、手放しで喜ぶということはない。しかしやはり母親も自分自身の体力に不安を感じており、Yさんの「自立」に関しては基本的に協力の姿勢をみせているようだ。

◇介助関係の介入の拒否
 Yさんは姉と自らの「自立」との関係について次のように語っている。

 「…やっぱり自立っていうことを思ってるおくには、姉のこともあります。姉は結婚もしましたし、子供もできましたし、姉も家族を支えていくっていうことがあるので、きょうだい仲はものすごくよくて、結婚する時にはすごく悲しかったんですけど、それは普通なのであって、そう思ったときに、《姉には幸せになってほしいと思ったので、姉の生活に支障が出るような、私が負担をかけるようなことにはなりたくない》、っていうのがありましたね、自立をしていこうって考えたときに。姉に、少なくとも物理的な介助までおぶさるようなことは何があってもしないように。仲もよかったから、精神的にはこれからも親がいなくなれば相談役としては、あの人しか考えられないと思ったり、財産の管理とかそういうことについても姉たち夫婦に頼っていくことを考えているような感じなんですけれども、物理的なことだけは自分でするか、自分でできないんだったら、公的なところにお願いするかということでやっていこうと…。」
 「将来的にはお姉さんと一緒に暮らしたりとかはしたくない…。」
 「そう、したくない。しない方がきっと、このままきょうだいとして仲良く助け合いながらみたいな感じができるだろう、と。やっぱり精神的に負担だと思いながらやってることになると、非常に…。せめて物理的な部分は努力して、それでも頼らなくちゃいような状況であったら地域で生きることを望むことそのものが難しいっていうふうに考えようって思ってます。」

 Yさんにとって、姉は頼れる存在であり「仲はものすごくよい」姉妹であるという。しかしだからこそ、自分の介助に関して、物理的な負担を背負わせるようなことはしたくないと考えている。そうしない方が、「このままきょうだいとして仲良く助け合いながら」上手くやっていけるだろう、と言う。姉に精神的に負担を感じさせるくらいならば、施設に入ったほうがよい、というYさんの決意からも、その思いが非常に強いことがわかる。
 これはどういうことなのだろうか。母親の介助については、加齢と体力的なことのみを心配していたYさんが、「姉」という存在に対しては自身の介助そのものを背負わせたくないと考える。「介助」という行為が媒介されると、これまで仲良く上手くやっていた姉との関係が悪化すると考えているようだ。しかしこれは母親への思いと、ある面では共通するものである。母親の負担を軽減しようとするYさんの試みは、すなわちYさんにとっては「大変」になると分かっていても、「母親の解放」につながる。母親は自由時間を得、好きなことが出来る。一方で姉は結婚して子供もおり、すでに自身の生活を確立している。そこに自分が、地域で生きることを選択し、他者の介助を家の中に入れるとはいえ、もし母親が倒れるようなことがあれば、姉にも「介助」という行為を担わせないわけにはいかない。その場合、程度の差はあれこれまでの母親が置かれてきたまったく同じ状況に、姉が位置することになる。姉には物理的な負担だけではなく、精神的な負担も負わせることになり、そのことは姉の現在の生活を壊してしまうだろう。これは決して現在より望ましい状態にはなり得ない。つまりYさんにとって「介助」という行為は、母親や姉(介助の担い手になりうる人びと)との関係をうまくやっていく上で、差し障りになるものとして位置づけられており、おそらく無意識のうちに、これを介在させることを拒否する方法を選択しはじめたといえるのではないか。

◇小括
 Yさんにとって母親は、幼い頃には「第一の理解者で、協力者」でありながらも、「お母さんがうんと言うまでは、何もできない」という、Yさんに関する行為の決定権を握っていた存在として位置づけられている。しかしそれは、Yさんが二十歳を超えてからは、「家族のために」労力を費やして日々を過ごしている母親に対して、「可哀想」だと思う気持ちに変化する。また、同時に自分自身の介助についても、おそらくは日々のボランティアなどの介助を受けるうちに、また介助スタッフの派遣の仕事に携わるうちに、「お母さんがやらなきゃできないっていうことはない」ということに気づいていく(こうした過程は前出のIさんと同様であるといえる)。
 現在のYさんが目指すのは、第一に「母親の解放」である。今まで祖母や自分や家のことのために使ってきた時間を、今度は母親自身のために使って欲しい、という思いがある。しかしこのことにより、おそらくYさん自身も同時に、「自分で決める」こと、つまり自己決定が可能になることを求めているのではないか。これは次の言葉に集約されている。

 「お母さんが、父もそうですけど、両親が私の生活のことを考えるんじゃなくて、子どもの頃から二十歳になるくらいまでのことは親が考えなくちゃしょうがなかったかもしれないけど、二十歳を過ぎたそのあとの人生については《自分で考えて、自分にとってこれが一番向いてるんだって思うようなものをやっていくようにするので、親は決めないでねっていうことだけは言ってるんです》。
 将来的にも支えきってもらってるし、親には不満はないですね。不満はないけれども、最近は、自立ということをめぐって親が過保護になりすぎることを、私はもう、子どもではなくて、親元にいつまでもいたとしても、大人なんだから、大人としての扱いをしてほしいという、私自身の主張が出てきたという…」

 つまり、Yさんにとって、「家にいながらの自立」を行うということは、介助という行為からの「母親の解放」を目指すと同時に、これまで子どもの頃から二十歳すぎまでの延長として、「人生も親が決めていた」状態からの脱出を目指すものであると言える。「親に不満はない」が、これまでの過保護の状態から、家にいても「自立」を目指すことによって、「大人としての扱い」を受ける状態をめざす、そうすることによってYさんは、新しい家族との関係を模索していると言える(しかしYさんの試みは、全面的な「解放」ではないことに注意しなくてはならない。これから十年の間に「徐々に自立を果たしていく」試みとして位置づけられている)。

4.介助の介在の拒否(場面V)
 ここでは親子関係から介助という行為を排除した場面において、離れて住む親と上手くやっていく技法が語られる。しかし、ここで見ていく二人の語りにおいて、親と同居して介助を介在させていた時(場面T)のことが、現在と比較し、過去に経験した事実として語られている。

4.1 「甘え」からの脱出                    
☆「家族の間の、とりきめだとか遠慮だとかっていうのをとっぱらってみたら、どろどろした部分がなくなって、さばけてきた感じがするんだよね。」

 Mさんは二十三歳の男性。身辺介助や食事介助を部分的に必要とする。今年になって一人暮らしを始めたきっかけを次のように語っている。

◇一人暮らしのきっかけ
 「(一人暮らしを始めるまでの期間は)…俺なりに言えばたくさんあったんだけど、外から見れば何もないね。踏ん切りだけの問題だったと思う。僕自身ね、障害者が、ほんとうに外へ出て生活できるものなのかっていうのがね、いまいち見えてこなくて、何が自分と周りの人の違いなんだろうっていうのが掴めなくて、自分自身でね、きっかけがつかめないでぐるぐるいたっていう感じ。…やっぱり踏ん切りがつくまでの間は、どっかで家に行けば、がみがみうるさい親がいっぱい、いっぱいじゃないや(笑)いるけど、あったかい風呂があって、あったかい飯があって、布団が敷いてあって、っていうような感じだったのね。それにどうしても未練があって。どうしても家出れなかった。
 …お酒飲んだりしてると、例えば電話とか入れるよね。親元だから。で、飲んで帰って遅くなる、何時になるかちょっと見当つかないから、先に寝てていいよ、っていうふうに。寝てていいって、確かに寝てるだろうなって思って、戸を開けると、カギが開いてるの。で、部屋に明かりもついてて、おふくろがお吸い物作って待ってる。ちょっとやめてくれ、俺は寝ててくれっていうふうに言ったんだ、それはねよけいな気を使って、嫌になる。親に負担をかけないように、自分一人で寝るから寝ててくれっていうふうに言ったのに、わざわざ負担のかかる方法で。俺はそこまで頼んでない。それがちょっと苦痛なんだよね。でもその反面、酔ってふらふらになって帰ってきたときにお吸い物作ってて、ああ、有り難いと思っちゃうのも事実なんだよね。
 それで親元にいるかぎり、絶対それからは抜けられないって思ったから、それで色々うだうだ考えて、そういえば去年の今頃同じようなことがあったな、去年の忘年会、もうすぐだな、一か月ちょっとだな、っていうふうに考えたら、ああ、俺家出ようって。もうあれ嫌だと思った。今年も同じことあるんだと思ったら、嫌だと思った。」

 親(「家」)はMさんに、常に居心地のよい環境、すなわち「あったかい飯」や「あったかい風呂」を与えてはくれた。しかし、Mさんが行為主体となって行動しようとするとき、それは柔らかな抑圧となって拒絶する。その一つがMさんにとって、一人暮らしの契機となる出来事であった。
 負担をかけたくないという思い(おそらく就寝時にベッドに移る、着替えるなどの介助を母親が行っていたのだろう)から出たMさんの発言を、母親は受け入れず、寝ないでお吸い物まで作って待っていた。Mさんはそうした母親の行動に、自分の意志が通らない苦痛を感じる反面、もちろんその善意に対して有り難さも感じてしまう。こうした関係から抜け出したいと思い、家を出ることを決意する。これは障害の有無に関わらず、親と同居する子どもが一度は経験する、「心配は有り難いんだけど…」という思いかもしれない。しかし、Mさんの意識の中では、自分自身の「障害」が「自立」の契機となるもう一つの重要な要素であった。
  
 「…例えば、僕くらいだったら自立できるからいいけど、一昔前で、子どもが大きくなって、親も歳をとって身体動かなくなってくるでしょ。子どもと親の体の動く差が縮まってくると、もう面倒見切れないって自殺しちゃうとかね、極端な場合、そういうケースもあったんだよね。そこまではいかなくても親と自分がセットになっちゃうっていうのが、とくに母親の場合はあるんじゃないかな。この子がいなきゃ、生きていけないし、この子も私がいなければ生活なんかできないって。事実俺の場合は、おふくろじゃないけど親父がそういうことを言ったことがあって、おまえはお父さんお母さんがいなければ生きていけないんだぞ、っていうふうに言われて。それがずっと引っかかっていて、じゃあ、俺は出てやるぜ!っていう、感じになったってのはあるね。」

 Mさんは、障害児と親の関係について、特に母親が子どもと自分を一対とし、子どもと自分を切り離して人生が考えられないことがあると指摘する。そして「一昔前」の、親自身の加齢により介助が不可能になると、子どもと心中してしまうという「極端な場合」について語っている。
 父親に、「おまえはお父さんお母さんがいなければ生きていけない」と言われた言葉の中に、Mさんは、こうした子どもを一体視する親の危険性や、親の庇護のもとにあることの抑圧を感じ取ったのではないか。だからこそ、その言葉が長い間心の中に「引っかかって」おり、ある出来事をきっかけにして「家を出る」こと、つまり親の元から抜け出すことを実行させる源となったのではないか。

◇同居していた時の親との関係
 親と同居していた時の関係を、Mさんは「一人暮らしはどうですか?」という質問に対する答えの中で次のように語っている。

 「うーん、やっぱりね、親元にいると、まぁ誰でもそうなんだけど、《べたべたしてた》でしょう。でね、やりにくいことは全部親にやってもらってたでしょう。で、僕らの場合でも日にちを決めて、介助者に入ってもらってるから、どうしてもできないことはやってもらってるんだけど、親元にいるとね、《考えることまで親任せになる》から。介助者を使うのと、親元で生活しているのとじゃ、全く違う。たとえば食器を洗うにしてもさ、言わないと介助者は絶対に動かない。親元に生活してると、食い終わればさ、勝手に片づけてくれて、洗ってくれる。で、時間になれば布団敷いてくれるっていうのがあるんだけど、基本的にはこっちの指示がない限り動かないから、全部自分の考えで、判断しなくては…。それがちょっと大変かな。」
 「よかったこと、っていうのは…」
 「うん、強いて言えばそれがよかったこと。要するに、いかに自分が生活の中で頭を使ってなかったかっていうのが自覚できたね。」

 Mさんは親元にいた時の状態を、「べたべたしてた」と表現している。そして「やりにくいことは全部親にやってもらっていた」だけではなく、「考えることまで親まかせ」にしていたと語る。一人暮らしをしてみて、生活に関わるすべてのことを自分で判断し、行動し、介助者に指示を出さなくてはならない。それは親元にいた生活とは百八十度異なるものであった。しかし親ではなく、自分の頭で考えることの重要性に気づいたことがよかったことだとも言う。
 また「今は一人で暮らしていて、何か変わったことありますか。お父さんとお母さんとの関係とか…」という質問に対しては次のように答えている。

 「ようするに家族の、家族って今も家族なんだけどもちろん血縁上は、ひとつ屋根の下で暮らしていた時に見ていたような、どろどろした部分っていうのがね、なくなって、《さばけてきた》感じがするんだよね。だからね、親とかもね、ボランティアとかいろんなことしてたんだけど、たとえば、僕が、ごはんの時間までには帰らなきゃいけないとか、あんまり遅くまで外にいられないとか、あと僕が家にいるときは、今は改造してあるけど、親に風呂入れてもらってたから、だからお風呂の時間までには帰らなきゃとか、お風呂は一日おきだとか、そういう《家族のあいだでのとりきめだとか、家族同士での遠慮とかそういうのがあったけど、さばけてきた》ね。」

 一緒に暮らしていたときは「べたべた」した「家族の関係」が「どろどろした部分がなくなって、さばけた感じがする」と言う。つまり同居していたときと、「家族」に対する認識が変化している。これは介助に伴う、「家族のあいだでのとりきめだとか、家族どうしでの遠慮」がなくなったためだと解釈されている。具体的にはMさんの食事や風呂の介助に関わる、親とMさんとの間の約束事である。Mさんにとっては、特に風呂介助がその最たるものだったと言う。

 「やっぱりね、お風呂が一番あれだったね、僕は入りたいんだけど、ようするにおふくろとか親父とか腰痛があったりとかして、今日は駄目とかね。とか、いろいろあるね。風呂に関しては。
 …今だったら、今日だれだれさんは来ませんけど他の人を見つけておきますので、って。どうしてもこられなきゃ、そりゃ、僕も風呂我慢しなきゃいけないけど、《僕と他人の間で我慢するっていうのはできるけど、そこに親っていうのが絡んでくると、なんで入れてくれねぇんだよって、甘えが出てくるでしょう。どうしても》。で、親は親で私だって入れてやりたいと思ってるわよ。そんな二日も三日も垢だらけのきったないままでいろって言ってるわけじゃないんだからって。で、それでぐわーっとなるでしょ。」

 現在Mさんが住んでいるアパートは、風呂を自分専用に改造してあり、介助者に依頼して入浴を行う。それが「他人」との間の約束事である限り(また雇用関係を含んでいるということとも絡むが)、どうしても介助者が来られない事態に際しても、「我慢」することができる。しかし自宅にいた頃は、親に対する「甘え」から、「腰痛」持ちの父母に対して入浴介助を強要してしまうということがあった。またそれに対して、親の方もおそらく子どもに対する「甘え」から、感情的に対応してしまい、悪循環が起こる。ここでいう「甘え」とは、「自分の方をより気にかけて欲しい」「思いやってほしい」というお互いに要求する感情、つまりMさんとしては「風呂に入れない自分を気にかけて欲しい」、親の方からは「入れてやれない自分を思いやって欲しい」という、またそれをお互いに許してくれるだろうという感情から出たものだと言えるだろう。これについては後で詳しく論じることにする。

◇経済的に解決できない、割り切れない
 「親だとね、フランクな関係が作れないのね、いい意味で。ほんとだったら親でもなんでもね、もっと親しき仲にも礼儀っていうんじゃないけど、きちんとしなくちゃいけないんだよね、介助っていうのが入ってくると、しなくちゃいけないとは思うんだけど、身内だと感情がそこに入るから。ほんとだったら親が、普通の家事とか洗濯とかでもそうだけど、いくらいくらで賃金計算してやったほうがいいかな、くらいには思うんだよね、やっぱり。家のことをやってもらうって。まして介助っていうふうになると重労働になってくるし、お金で割り切っちゃったほうがいいかなって思うこともあるんだけど、割り切るわけにいかないでしょう。っていうか、割り切れなくなってくるでしょう。その辺まぁ悪い部分もあるけど、お金払ってるのはこっちだし、介助にはいってくれる時間を決めてるのもこっちだし、で、どうしても合わないなっていうような人だったら、こっちからリコールできるし、状況に応じて人を選んだり時間を選んだりすることができるでしょう。親だとどうしてもね。自分のしてほしい介助っていうのはあんまりできない。」

 家族の間の介助をめぐる感情的なトラブルに対して、Mさんは経済的方法による解決を提案している。これは岡原のいう、「介助者とのトラブルを解決する技法」の一つである(岡原[1990b:131])。Mさんは家族の間においても、「普通の家事」やそれ以上に重労働である介助行為は、賃金として換算して割り切る方が、「親しき仲にも礼儀」がある状態を作ることができるのではないか、と考える。しかし、「割り切るわけにはいかない」のが、家族であると、Mさんは言う。「…っていうか、割り切れなくなってくるでしょう」。
 「身内だと感情がそこに入るから」とMさんは言う。つまり他人であれば、「お金を払っているのはこっちだし」、どうしても合わない人だったら解雇すること、また状況に合わせて人や時間を選ぶこともできる。しかし、親による介助はこれらすべてが可能ではない。結局のところ、「自分のしてほしい介助」ができないということになる。この理由は前述したような「家族の間の甘え」である。これがあるために、金銭が介在しても、「割り切れない」。つまり、自分も「甘え」によって割り切れない要求を行うであろうし、また親という存在であるからこそ、「リコール」することも、時間を選ぶこともできない。こうした状態がMさんの言う「どろどろした」状態であり、こうした状態から脱出することがMさんの目的であったともいえる。

◇現在の親との関係
 家を出てからの、現在の両親との関係について、Mさんは「さばさばした関係」と表している。そのことについて次のように語る。

 「…たまに実家に帰ると、お野菜とかちゃんと食べてる?とかね。食べたいもの言って、とかそんな感じだよね。親元にいて今日は何が食べたいとか、俺が言うと、そんな冷蔵庫の中の残り物だって片づけるの大変なんだから、なんて言っておいて、《距離をおいてつきあうようになった》ら、食べたいもの言いなさい、大変なんだから、ってそんな感じになっちゃってね、なんか狐につつまれたような感じ。親も親で子供に時間取られることがないから、芝居とか行ってるみたい。芝居とかね、映画とかね、あと土日使って旅行行ったり、平日とかも行くのかな、親父が有給とれれば平日とかも平気で旅行とか行っちゃうみたい。」

 「さばけたいい関係」に関してMさんは、たまに親元へ帰ると「食べたいもの言いなさい」と健康を気づかわれたりすることを挙げている。これは同居していた時にはなかったことであった。Mさんはこれを、「距離をおいてつきあうようになった」結果としてとらえ、「狐につつまれたような感じ」と表現している。さらに子どもに時間をとられることがなくなり、行動を制限されることのなくなった親が、芝居や娯楽や旅行に出かけているらしいということが語られる。

◇よい関係の維持のために
 Mさんは一人暮らしをすることで、結果的には「家族」がさばさばしたよい状態になったと認識している。そしてこれを保つために、「あまり顔を見ないようにしている」と語る。

 「そんなに頻繁に(親元に)帰ったりはしないんですか」
 「そうだね、あまりね、子供も僕一人だから親元に帰ると親もべたべたになっちゃうし、僕の方もまだ甘えが出てくると思うから、あまり顔をみないように、電話くらいで抑えるように自分で考えてはいるんだけどね。もっとあの、時間がたってね、親とかも家に呼んでっていうような余裕ができればいいけど、まだ親に頼っちゃうし、親の顔見るとね。まぁでも、お盆休みは帰ってきなさいって言われてるし、さすがにお盆休みは帰るかなぁと思っているけど。」

 Mさんは「甘え」という状態に陥らないように、次のようなことに留意している。すなわち、親元にあまり頻繁に帰らないよう、親の顔をみないように電話くらいで抑え、親に頼らないということである。

◇小括
 Mさんは親に可愛がられて、愛情をたっぷり受けて「べたべた」されてきた。しかしそれが「柔らかな抑圧」に感じられたとき、そしてそれが自分の障害に関わることだと自覚したとき、家を出ることを決意した。
 親への依存状態から抜け出した時感じたのは、自分がいかに「自分の頭で」判断して、生きていなかったかということであった。また実際に、親と物理的な距離をおいてみたところ、その関係が「べたべた」から「さばけた」、良いものになったことを感じている。親の側では子どもにかける時間が減ったことと、すなわち行動を制限されることがなくなったことと気持ちに余裕が出来たこと、Mさんの側でも、やはり気持ちに余裕ができたことが良い関係につながっているらしい。「家族の間」という意味では、その介助関係が排除されたことで、「とりきめ」や「遠慮」がなくなった。その結果としてお互いの「甘え」がある状態がなくなったと言えるだろう。
 親と共に暮らしていると、生じる問題がある。「顔をつきあわせていては駄目だ」というのが、一人暮らしを果たした現在のMさんの実感である。またMさんは「障害者には精神的な余裕が必要だよね」と言う。「《家から出て親から離れたから、親とか周りの人間からもある程度離れたところで自分の生活を作っているから余裕が出てる》」とも言う。つまりMさんにとっては、「余裕のある生活」すなわち、「自分がありのままでいられる」ためには、親から少なくとも物理的に離れたところで、自分自身の生活を営むことが重要であったことがわかる。これがMさんにとっての、「家族」との良好な関係を維持するために選択した技法であったと言える。
 もちろん、これはMさんによって意識的になされた行動の結果とはいえない。しかしこうしていったん獲得した「さばさばした関係」を維持することに対しては、Mさんは自覚的である。「甘え」が出ないように、良い関係を維持するよう、「慣れれるまでは親の顔を見ないようする」、「電話くらいで抑えるようにする」「親に頼らない」という、より具体的な技法をとっているのである。

4.2 「娘」を演じる
☆「父の前では娘を演じなきゃいけない。やっぱり父親にとってみれば可愛い娘だし、ある程度子どもを演じてあげないと可哀想でしょ。」

 Tさんは三十六歳の女性。今年施設を退所し、一人暮らしを始めた。寝起きから就寝まで全面介助を必要とする。週に二、三回の泊まり介助を含むサービスを利用している。
 Tさんは施設を出た経緯を次のように語っている。

◇一人暮らしのきっかけ
 「…いろいろ考えることがあって、でもう、このへんで施設を出ないとなんか自分の心がだんだんすさんでくるのが分かったのね、でなんかやーな人間になってくのがわかったのね。これは駄目だ、もうこれで限界だと思って、私に何ができるかなと思って、ま、最初は何もできないと思ってたんですよ。だけど、ある人が、Tさんにしかできないこともあるんだから、そんな小さくいじけるっていうか、卑屈になってばっかりじゃなくて、もっと前を見ろって、言葉じゃないんだけどそういうことを教えてくれたんだよね。で私も気づいて、じゃあ一人暮らししようって。」

 Tさんの入所していた施設は管理や制約が強かった。「だから結局、我慢、我慢になって、それがだんだん大きくなって、しまいには身動き取れなくなるっていうのがあった」と言う。施設を出ることを決意をした後、自立生活センターに関わっている人に勧められて、一週間研修を受け一人暮らしをすることを決めた。しかしその後、準備期間として二年という時間を要している。これは親、とくに父親の反対が大きな理由であったという。

◇父親の反対
 「…Tさんが一人暮らしをするときにお父さんやお母さんが、やっぱりすごく反対なさったっていう…」
 「大変でしたよね。でも、ねぇ、分からないんじゃないんですよ。家はすごい田舎だから、働かざるもの食うべからずみたいなもので、何もかもがそういう調子で、動けないんだから施設とか家とかに閉じこもってればいいっていう、一人暮らしなんかとんでもない、おまえにできるわけがない、周りの迷惑考えろっていうのが、両親っていうか父親の考えだったんだけど。まぁ私ははっきり言って、父がどう反対しようと屈することはないっていう意志だったから、父がどんなに反対しても計画はし続けたんですよ。幸い兄弟がすごく理解があって、話したら、それは私の人生なんだから私が決めればいいし、自分たちは応援するよって言ってくれたんですよ。それで父を説得し続けてくれて、みんなで応援してくれて…。今では父親もうるさいくらい色々…。あそこはああしなきゃいけないとか、ここはこうしなきゃだめだとか、あんなものあんなところに入れてどうするんだよとか、…うるさいけど、許されてよかったなって思ってるんです。」
 「お母さんは何かおっしゃってました?」
 「お母さんも兄弟と同じで、私の人生なんだから、私が選べばいいって。だけど、最初はとんでもないって言ってたんですけどね。でもやっぱり母親は、娘のことはすごくよく理解してくれて、分かってくれて、早かったね、許してくれるのが。で、父親に内緒で協力してくれたり、かなりしてくれたんですけどね。」

 Tさんの一人暮らしについて、最初は父母共に反対であった。しかし「家はすごい田舎」にあることなどから、障害者である娘が、施設を出て一人暮らしをすることに反対するのは無理もないことだった、とTさんはとらえている。
 特に父親は当初、「動けないんだから、施設や家に閉じこもっていればいい」という考えのもとに「一人暮らしなんてとんでもない、周りの迷惑を考えろ」と、まったく反対の姿勢をとっていた。こうした父親を説得したのはTさんの四人のきょうだいと母親であった。しかしTさんは、「説得してもわかってもらえないことがわかっていた」と、父親には黙って準備を進めた。その後どのような経過があったかをここでは測ることはできないが、最終的には父親もTさんの一人暮らしを許し、現在ではうるさいくらいTさんや住居に干渉するという。尋ねてくる度に、入り口に車椅子で出入りしやすいようにコンクリートを敷く手配をしたり、部屋の押入の整理をしたりする、というエピソードが語られる。
 Tさんは、まだ毎日の生活に精一杯で余裕はない、という。しかし「ただ言えることは、あのまま私が父の言うことを聞いて、施設にいたらたぶんずっと後悔し続けただろうね。だから結果的には後悔しないためにはよかったんじゃないかな」と語る。

◇一人暮らしを選択した潜在的な理由  〜「一人の人間として生きたい」      
 実はTさんは「施設を出る」ことを決意したが、実家に帰るという選択肢はそこにはなかった。アパートで一人暮らしをすることを選んだもう一つの理由を、次のように語っている。

 「施設にいらっしゃる時って、年に何度かはお家に帰ったりなさってたんですか?」
 「うん、夏期と、冬季と。…ただ私が家に、というか、《実家に帰るっていうことは、家族の時間を拘束することになるんですよね。ま、その代表的なのが母親で、次に今でいうと父親とも…。それをしたくないがために帰りたくない》…。やなんだよね。自分のために誰かが犠牲になるって。犠牲っていうと言葉が大きいけど、意味的にはそうなんだよね。どこにも行けなかったり、一、二時間のところだと、私を一人にすることもあるけど、でもほとんど、お母さんの方は、私はいいから、私はS(Tさんの名前)といるから、ってどこにもいかない状態なんですよね。でやっぱりお母さんはお母さんで、うちにいるばっかりだから、欲求不満になると思うんだよね。私が今もそうだけど、やっぱり《同じ生活を同じリズムでやってると、たまには違うこともしたくなるし、どっか行きたいし、美味しいものもたまには食べたいし。でも私が家にいる以上、お母さんにはそれが許されない》。だからお母さんは私一人にしたら可哀想だっていう面と、心配だっていう面と両方あるんでしょうね。そんなふうに思われるよりは、帰らない方ががいいかなって思ったんですよ。
 でやっぱり、施設にいると自分の意志がほとんど出せない。自分の意志で生活するには施設を出て一人暮らしをしないと…。やっぱり施設にいると、私たちは一人の普通の人間だと認めてくれないんですよね。保護されてるから。でも一人暮らしになると、全責任を自分で負うっていうことだし、っていうことはもう、自分を認めて貰えるし、一人の人間として見てくれるんですよね。私はやっぱり幾つか大きいことがあって、卑屈になってどうにもならなくなって出てきたんですけど。だからやっぱり私が一番したかったことっていうか、一番の私の願いは、相手に、私に対しての相手に、人間として認めて欲しかったんですよ。」
 「そうするには、一人暮らしが一番…」
 「一番というか、それしかない。だって家族といると喧嘩するし、あんな子がいるんじゃね、どこにも行けないよなって言われたり…。でまぁ実際そうなんだけど、お母さんが例えば何か、近所のおばさんたちとどこか行くっていっても、私がいるからっていう理由で断るんですよね。で、実際自分が行きたくなくても、私がいなくても行かない予定でいても、理由は私のせいにされるんですよね。いい口実にする。そういうのもいやだった。近所の人たちも、しょうがないね、あの子がいるんじゃね、ってその裏にはあの子がいて可哀想だな、って《あの子が可哀想じゃなくて、あの子のお母さんが可哀想》だっていうのがあるんだよね。ていうのは時間を拘束されるから。だから、そういうのをひっくるめて家族と一緒に暮らさない方がいいかな、って。」

 ここではTさんが母親との関係について語る中に、「一人暮らし」に何を求めていたかを知る手がかりを得ることができる。
 施設に入所していた間、毎年、何度かの長期の休みには家へ帰っていた。しかし、「実家に帰るってことは、母親の時間を拘束することになる。それをしたくないから帰りたくない」とTさんは語る。日常生活の動作に全面介助が必要であるTさんが家にいることで、母親は家に拘束され、外出ができない状態になる。家に閉じこもる生活の中では、たまにはどこかへ行きたい、美味しいものを食べたいという欲望が出てくる。しかし「私が家にいる以上、お母さんにはそれが許されない」と言う。もちろん母親はTさんに対して、「一人にしたら可哀想」と「心配」だという気持ちの両方を持っているのだが、そのような思いを母親に抱かれるくらいなら、「帰らない方がいい」と語る。これらの言葉だけでは、これが施設に入所する以前の在宅生活を送っていた時のことなのか、施設に入所していた時のことなのか、また施設を出て一人暮らしをするときに考えていたことなのかは測りかねる。しかし少なくともTさんは確実に、こうした母親と自分との関係を規定する、介助を介在させた場所から抜け出したいと考えていたということがわかる。
 また、Tさんの願いは「相手に一人の人間として認めて欲しい」というものであった。近所の人が母親に向けた、「あんな子がいるんじゃどこにも行けない」という言葉に、母親に依存しきった自分自身の生活を認めながらも、「あの子じゃなくて、お母さんが可哀想」という、Tさん自身は「人間として」認められない視線を感じていた。こうした状態から抜け出し、全生活の責任を自分で負い、他者と一人の人間として接することがTさんの願いであり、そうするためには、物理的に「一人暮らし」という状態への転換を図ることが唯一の方法であった、とTさんは言う。

◇家族と上手くやる技法 〜「娘」を演じる
 こうしてTさんは施設を出て、一人暮らしをスタートさせた。Tさんは家族との関係について、以前と比べて特に変化はないと語っている。それはTさんが家族との関係を上手くやっていく技法を、施設に入所しているときから自覚的に収得していたからだと思われる。特に父親との関係について次のように語られる。

 「ただ、親には悪いことしてると思ってる。やっぱり施設にいれば安心じゃん。親としては安心でしょう。…やっぱり父にすればかわいい娘、娘は娘だし。…《父の前ではやっぱり娘を演じなきゃいけない》から。ある程度子どもを演じてあげないと可哀想でしょ。でも私ね、(父親が)歳とってるでしょう。自分がもう必要ないって思ったらどんどん歳とってくのね。だから、私には父がまだ必要なんだっていう風に思わせておいたほうが便利なんですよ。だからある程度言いたいこと言って、ある程度甘えてっていう…。ゆるめたりきつくしたり、母の場合はもう完璧に離れてくれたから。子離れ出来てるから。私がさせたって言った方がいいんだけど、父の方はまだできてないし、それをやってたら父の精神的なものが、ちょっとまずいから、それはしないようにとは、父にはそれはできないだろうとは思ってる。」

 「こっちにいらしてからと、ご家族の関係とかってけっこう変わりました?」
 「うーん、《前と変わらないね。娘は娘だし、妹は妹だし、姉は姉だしっていう》。あの、まずだから私はここにいるときの私と、実家に帰ったときの私って、なんかたぶん二重人格じゃないけど、ぜんぜん違うのね。だから家の人からみると、全く変わらない私がいるの。それに演じてないと、私もちょっときついし。相手も私以上にきついし。《本来の私はここにいるんだけど》。けっこう精神的にきついものはあるけどね。特に《両親に娘を演じることって難しい》。」
 「ずっとじゃないから出来るってところは…」
 「ちょっとだから出来るって。きついかなぁ。」

 Tさんが父親と上手くやる技法として採用しているのは、「娘を演じる」ことである。歳をとってきた父親の前では「子どもを演じてあげないと可哀想」と言う。またこれは父親に、Tさんにとって「父親」は必要な存在であると思わせようとする意図がある。そうすることによって、父親が年老いていくことを防ごうとするものである。だからTさんは「ある程度言いたいこと言って、ある程度甘えて」という技法を駆使して、「親離れしていない娘」を演じている。
 しかし、演じるのは父親の前だけではない。家族に会う時のTさんはつねに何かの役を演じている。両親には「娘」を、おそらく妹には「姉」を、姉や兄には「妹」を。Tさんにとって「家族」は演じていないと成り立たない場所である。両親に娘を演じるということ、それは「求められる娘」像を演じるということでもある。「父にとって、私は十歳にも満たない、多分五、六歳なんですよね」とTさんは言う。父親はTさんが電話をかけただけで、小さな子どもに話しかけるように「よくかけてきた」と喜ぶと言う。しかし父には、「二重の面」がある*34。一方で子どものように可愛がる反面、親戚にはTさんの存在を知らせていない。「父の親戚にとって私はいない存在」であり、きょうだいの結婚式にも出席させてもらえなかったとTさんは言う。「その時によってすごく冷たいし、娘を娘だと思っていない」。これに対して母親方の親戚はまったく逆である。

 「…だから、お父さんの方の知り合いが来ると、私は他の部屋へ移されて、声一つ出せない状態なのね、今でも。だけど、母の場合はまったくその逆で、K、こっち来て一緒にお茶飲むか、って呼んでくれるのね。だから、どうなんでしょうね。父にとって私ってなんなのって、考えるときありますね。」
 「でもお父さんがTさんをかわいいって思う気持ちも…。」
 「それは、それは嘘じゃないね。嘘じゃないって思うけど、ただ、やっぱ娘として許せない部分っていうのもある。《娘だからこそ許せない》っていうところがやっぱりあるのは事実だね。父と母って、一口で言えないですよね。やっぱり時代もあるし、父の年齢もあるとは思うけれど、やっぱりお母さんのこと考えるとやっぱり性格が大きいと思うのね。私も決してお父さんが私を大事にしてないわけでもないし、可愛いくないわけでもないと思うけど、でもなんか違うんだよね。それが何なのかは分からないけれど。」
 「でも、お父さんがTさんが一人で暮らすのを許して下さったのは、一歩前進な気がしますよね。」
 「そうですね。まぁほんの少しだけどわかってくれたのかなぁって。でも私も許せない部分はあるけど、《父は父だし、母は母だし。これからも娘を演じていく…》。ただ心の中で、心の奥で、お父さんお母さんって呼べる日がくるのかなぁって。お母さんは心から言えてるんだけど、心からお父さんありがとうって、嬉しいよって言える日がほんとに来るのかどうか分からないね。私の場合は、身体の障害を負う人は、やっぱり何らかの傷は持ってるから、私も、その傷の中の一つだと思ってるから。」

 父親の片側の面は、Tさんが一人暮らしをすることに関しても、「そんなことをしたらお父さん達がなんて言われるか、なんて思われるか」を、何よりも懸念した。このような父親に対して、Tさんは「父にとって私ってなんなの」という思いを抱いている。もちろん、父親がTさんを可愛がる面も嘘ではないことを認めながらも、「娘だからこそ許せない部分がある」と言う。しかしこうした部分を、「身体の障害がある人なら誰でも持っている傷」として、「父は父だし、母は母だし、これからも娘を演じていく」ことをTさんは決意している。

 娘を演じることは、Tさんにとって「家族」を維持する一つの技法である。父親の望む「娘」像は、まだ五、六歳であり、可愛くてしかたのない、また同時に何もできない、電話をかけることすらやっとの、子どもである。しかし実際に私が出会ったTさんは一人で何処へでも電車に乗ってでかけ、買い物やショッピングを楽しむ行動的な女性であった。しかしTさんは「今の私と、実家に帰ったときの私って全然違う」と言う。
 おそらく父親の求める「娘」像は、何もできない子どものままに、積極的な行動や自己主張は行わない存在なのであろう。これは父親の障害者への見方とも一致する。つまり「動けないんだから、人に迷惑をかけないように施設や家に閉じこもっていればいい」というものである。しかしTさんが望むのは「一人の普通の人間」として生活すること、つまり行為の主体として行動することである。そして「本来の私は、ここにいるんだけど」と言う。
 こうした中で家族と、あるいは父親とうまくやっていこうとする時、「娘」を演じる場所、「家族」という空間に「一人の人間として普通に生きる」ことを持ち込まないことが必要条件になってくる。これは介助関係を家族に持ち込んではならないということを意味している。なぜならば、ほぼ二十四時間介助の手を必要とするTさんが、「一人の人間として」生きようとするとき、日常生活における自己主張は当然必要なものである。しかし父親の望む「娘」像はそれを許さない。仮にTさんが私が出会ったWでのように、介助に関わる当然の自己主張を行えば、周りの家族はおそらく困惑し、その対応に困ることになる。それがわかっていたからこそ、Tさんは介助が必要な日常生活の場面と、家族という空間とを切り離さなければならなかったのである。こうした場所においてはじめて、Tさんが「人間として」生きていく基盤が出来上がるといえる。

◇小括
 Tさんが施設を出ようと思ったきっかけは、そのままでは自分が嫌な人間になってしまうと感じたことであった。そして求めたのは「一人の人間として普通に」生きることであった。しかし、それを実行する空間として「家族」は不適切な場所であった。なぜならTさんが行為主体として、「普通に生きる」ために必要不可欠な、介助行為の場面において「自分を主張すること」は、家族、特に父親の前では実践できないからである。それは、父親の望む「娘」像を演じることによって、「親子」の良好な関係を作り出していたTさんにとって、非常な困難を伴うからである。したがって、Tさんにとっては「普通の一人の人間として」生きることへの欲望と、「家族」(父親)と上手くやっていくことの、両方を成り立たせるぎりぎりの選択が、「施設を出て一人暮らしをすること」であったといえる。そうして日常生活においては、家族の間の介助行為を排除しておき、非日常の「少しの時間」で「娘」を演じ続ける。そうしておいた方が、お互いに楽になれる。「演じていないと、私もきつい。相手も私以上にきつい」という状態が続くことになる。
 しかし、Tさんの(当然ともいえる)自己主張が、時に親のいる前で出てしまうことがあり、その時には関係に摩擦が生じる。しかしTさんは、またそれを回避する技法を駆使しながら(「父親がすごく怒ってたんだよね。お寿司でも買って、花でもあげようかな」)、こうした危うい関係を続け、また「娘を演じる」という技法を使い続けていくのだろう。

5.小括
 本節においては、「家族を維持する技法」について見てきた。
 Tの場面(親と共住、介助有)において、よい関係を保つ技法として、三人がそれぞれの技法を語った。介助を「親でなくともできる」ものと認識し、親の介助を受けながらも「精神的に自立」することを目指すというIさん、また「自己決定を行う」ということによって「行為主体として生きること」を実践しているAさん、さらに具体的な方法として「親と子どもが自分の時間を持つということ」を挙げたOさん。これらの人びとは、さらに具体的な技法を熟練させていくことを、日々の生活において要請される。そして介助を介在させた関係において、その困難な状態を充分に認識しながらも、うまくやっていこうと日々努力を重ねている。
 Uの場面(親と共住、介助無)においても、同様のことが語られた。YさんはT→Uの途中段階(を目指すまたその途中段階)にあるため、現在の母親の全面介助を受けている状態を脱出し、「母親を解放する」と共に「自らが人生を選ぶ」主体となって生きるための技法として、「家の中に介助者を入れる」という実践をするつもりだと語っている。
 またVの場面(親と離住、介助無)においては、現在一人暮らしをしているMさんとTさんが、現在の親や家族との関係を上手くやっていく技法について語っている。Mさんは「物理的に離れてみたらよい関係になった」という経験を語る。そして現在は親に甘えないように、やはり距離をおくよう努力をしているという。Mさんに比べてTさんは、自分が母親の負担にならないよう、また「一人の人間として」認められるよう、戦略的に「一人暮らし」を選択し実行した。そして現在は「娘」を演じることによって家族との関係性を保つことを実践している。この二人の語りは、「家を出る」ことそのものがTの場面から脱出するための、技法となったことを示している。
 次節においては、こうした技法が第3節においてみた「問題」構成にどのように対応しているかについて、合わせて考察していく。


第4節 介助に伴う問題と対処法
 ここでは第2節と第3節の議論を合わせて論じていく。
 第2節においては、親子関係に介助という行為が存在するとき(基本的に親と共住、介助有というT場面において)、どのような関係性が生じるかということを考察した。これは三つの「問題」構成から成っていることが確認された。一つはマンツーマンで介助行為が行われることに関するもの、二つめは、介助を担うのが「親」という存在であることに関するもの、三つめとして、他者が「家族」という親密圏に介入することに関するものである。第3節では、これらに対応するためのさまざまな技法があることが確認された。ここではこれらが、それぞれどのようなことに対応出来る、あるいは出来ないものであるのか、それは何故かについて考察を加える。

1.介助に伴う「問題」構成
 第2節において、親子関係に介助という行為が介在するとき、どのような関係性が生じるかを考察した。以下は介助に伴う「問題」構成について、三つ(@−a、@−b、A)に分けて整理する。これは介助される側が感じるという意味において「問題」であるとみなす(以下は単に問題と記す)。

@−a 「閉ざされた空間で」
 まず一人の人間の介助を一人が背負うという事態に付随する問題がある。この場合介助される側は「逆らえない」、「行為主体として生きられない」、「自分が介助者の負担になっている」という関係が生じているという感覚を抱く。これは、第一に多くの時間を二人きりで「囲い込まれた空間」において過ごすことから生じるものである。こうした中で障害者は、介助者に依存することが多く、また逆にそうであるがために介助者に逆らえなかったり、行為主体となることが困難になったりする。
 これが親子の間で行われている時、ほとんどの場合は母親が介助を担っているということから、この問題はさらに助長される。第二章においてみたように、母親は罪責感を持ち、子どもと距離をおくことに対して、嫌悪感や不安感を持ち、子どもの生活全体に対して配慮を行うことを自らの使命とするような観念を抱いている(岡原[1990a:86])。これがより子どもとの閉鎖的な空間を作るよう作用する。また愛情を表す行動を母親に強制する社会構造が存在しているため、ますます子どもを囲い込む*35。つまり一人で介助を背負うという事態が、そもそも問題を孕むものであること、またそこに「母親が担う」という要因が加わるために、問題が助長されていくのである。このような状態は、囲い込む親も囲い込まれた子どもも、お互いに辛いものである。従って既に見たように、双方が何らかの技法を用いて関係をよい状態にしようとする努力が行われることになる。

@−b 「「親」の限界性」
 次に介助を担う存在が「親」であることに付随することがある。一つは「恥ずかしさ」がなくなる、つまり「身体規則」が親子の間で成り立たないという問題、もう一つは親が子どもの「性」を認めず、子どもは性的ケアが得られないという問題である。
 岡原も、身辺ケアが「身体規則を侵犯し、その結果、感情規範にも抵触しかねない行為」であるため、介助者との間に摩擦が起こりやすいことを指摘している(岡原[1990b:126])。第2節で見たように、親子の間で身辺介助が行われる際には、身体規則が成り立つことと成り立たないことの両方が共に問題となる。これが成り立つ場合には、異性の親による身辺ケアが不可能になり、例えば父−娘であった場合、介助の手が足りなくなるなどの問題が生じる。しかしこれが成り立たない方が、問題はより深い。それは親が子どもの身体を一体視したり、子どものプライバシーが認められないという事態が起こるからである(しかし子どもがこれを「問題」だと感じるまでは表に現れては来ない)。これは介助を行うのが「親」であるからこそ生じるものである*36。
 これは、先ほどの「親によるの囲い込み」とも共通するが、「親にとってはいつまでも未成熟なままの子ども」の状態が続くということ、つまり親にとっては「育児・子育て」と「介助」の区別がないままに、成人した子どもの世話を続けていることから生じる問題であるといえる。赤ん坊と親との間に身体規則が成り立たないことは問題ではなく、また赤ん坊が「性」に関して主張することはない。こうした親の「子ども」扱いに対して、障害者側から「一人の人間として接する」ことへの要求がなされるのである。この状態については、子どもの側から意義申し立てが行われることが多い*37。

A 「親と他者の不協和」
 最後に、親と共に暮らしている家へ他者が介助者として入る時に生じる問題が挙げられる。一つは、親による他者の介入への抵抗である。これは、他者が家に入ってくることそのものに対して「他人に家に土足で上がられたくない」とする抵抗であり、「親密圏としての家族」の空間を維持するためのものである。もう一つは、実際に他者が何とかその空間に入ってきた時に、その他者の(子どもへの)介助行為へ、今度は親が介入するという事態が生じる。これは子どもとの親密な空間に、突然他者が入ってくることへの抵抗であるといえる。
 こうした抵抗は、障害当事者の側では、他者の介助に頼らないと生きていけないという切実な「割り切り」により、ほとんど生じない。しかし、親の側ではそうした「割り切り」が出来ず、大きな抵抗が生じることになる。これは障害者が介助者との関係を築く上でも障害となる。つまり、親の辛さが結果的に子どもにとっても辛い状況を生みだし、問題を構成しているのである。

2.問題への対応としての技法
 第3節では「家族」を維持するための技法について論じた。ここでは上に述べた問題構成に対応する形で述べていく。

@−aへの技法
 @−aに対応する技法は、主にTの場面(親と共住、介助有)で述べられている。ここでは権力関係、主体として生きることの困難、依存関係に陥りやすいなどの問題が示されたが、これに対応する技法としては、次のようなものがある。
 権力関係が生じることに対しては、「親でなくとも介助の手は得られる」ことを認識することによって、「精神的な親子離れ」を行う技法。行為主体になることの困難に対しては、「自己決定を行う」ことによって、自分の行動を主張していく技法。また「自分が負担になっている」という思いを抱くこと、依存関係に陥りやすいことに対しては、「親の時間を拘束しないこと」、具体的には親と自分のそれぞれの時間を持つよう、努力する技法などが採られていた。
 またUやVの場面においても、過去を振り返って@−aにどのような技法を採っていたか、採るつもりかということが語られている。Uの場面(親と共住、介助無)においては、介助を排除する移行段階にあるYさんが、現在の行為主体になれない状況に関して、「自立を果たして、一人の大人として認めてもらう」ことを目指すと語る。つまりYさんのいう「家の中に介助者を入れての自立」を行うことが、親とよい関係を築くために選択する技法である。またVの場面(親と離住、介助無)に移行したMさんとTさんによって、Tの問題を解決する手段は「家を出て一人暮らしをする」こと、つまり親子関係から介助を排除することそのものであったことが語られた(従って、当然のことではあるが、現在はこの問題は解決されている)。

@−b、Aへの技法
 しかし@−bに関しては、技法はほとんど語られない。第2節において、安積や丸山が、これに関わる問題が「家を出る」きっかけとなった、と述べているのみである。つまりここでは親と別居して、親子関係から介助を排除するという技法のみが選択されることになる*38。Aの問題についても、@−b同様、「技法」というべきものは語られない。「仕方がないから家を出ようと思う」というのが採られる唯一のものである。

3.技法により解決され得ない問題
 第2節の問題構成に対応する技法を見てきた。@−aで生じる問題については、ある程度解決可能なものとして、多くの人によって多様な技法が語られている。しかしこれに対して@−bおよびAの問題に対して、対応する技法としては「家を出る」つまり、親と別居して介助を物理的に排除するという技法(と言えるのならば)のみしか提示されていない*39。
 結局のところTの場面(親と共住、介助有り)において生じる@−aの問題については、技法を駆使して、有る程度解決可能な状態まで行き着けるが、それでも、親と共に住んでいる限り@−bの問題が残されており、根本的な解決には至らない。さらに親と住む家に、部分的に介助者を入れるというTからUへの移行の段階においても、やはり解決されないAの問題が残る。以下ではなぜTの場面において問題が残されるのかについて考察を加える。
 三つの問題は、@−a/@−b、Aのように分けることが出来る。前者は技法により解決できるもの、後者は出来ないものである。これは前者と後者の問題が、質的に異なっているためである。
 @−aは繰り返しになるが、親や家族でなくとも問題と成り得る。たとえば一対一で介助行為が行われていれば、介助者が被介助者に対して、ある権力を握りやすいこと、またそれゆえに被介助者が主体になりにくいこと、さらに介助者の負担となっているという気持ちから、そのような権力関係や主体化の困難が強化され、介助者に依存しやすいことなどは容易に予測しうる。この状態を回避するには、立岩が指摘するように「距離」をとればよい(立岩[1997:4])。具体的には可能ならば、複数の介助者によって、部分的にあるケアを分担し(外出介助など)、親と「距離」を取るように努力することによって、こうした問題はある程度解決するだろう。実際に、Tの場面において選択されている技法は「精神的に独立する」や「それぞれの時間を持つ」など、親との「距離」を意識したものが多いことはこれを裏付けるものである。
 しかし@−bや、Aの問題はより困難なものである。@−bのように身体規則がなりたたないことや「性」の問題は、親との「距離」を取ることによって回避できるものではなく、@−aとは異質な問題性を有している。それは家族のアイデンティティに関わることである。@−b、Aそれぞれについて考察する。

3.1 「性」は「家族」へ持ち込めない
 聞き取りにおいて次のような言葉が聞かれている。これは、身辺ケアについて語る文脈上のものである。

 「…家族って、私達障害を持つ人たちが介助がらみで考えると、すごく、区別しにくいものだよね。なんて言うんだろ、《家族じゃなくなっちゃう》んだよね。他人とも違うんだけど、家族とも違うの。だけど一番近い存在なのね。その「家族愛」を超えた何かがここに生まれてるかな、みたいな。…それこそ、親子の愛がすごくべったりな。下手をすれば、この二人から子どもが産まれてもおかしくないような、そういうところの手前。」

 ここでは、家族の中に身辺ケアが介在すると、「家族じゃなくなっちゃう」と語られている。他人とも違い、一番近い存在であるが「家族ではない」、「家族愛を超えたものが生まれる」場所となる。そこにおいては「親子の愛がべったり」で、下手をすれば「子どもが産まれて」しまう、つまり身辺ケアによって、「家族」という場にセクシャルな関係が生まれるおそれが出てくると語られる。
 これらの言葉からわかることは、「家族」であるためには、その場所に「性」を持ち込んではならないと考えられていることである。いいかえれば「家族」というリアリティを生きるために、「性」は含まれなてはならないのである。しかし身辺ケアがそこに介在すると、「親子べったり」になり、「家族」ではなくなり、性的な関係が生じやすくなる。だからこそ性的ケアは「ふたをしなければならない」問題であり、「寝た子は寝た子のままで」と語られるものとなる*40。身辺ケアについても同様のことがいえる。例えば上の例で語られたのは、父親による成人した娘の入浴介助や、親と子どもがスプーンや箸を共有することであった。こうした「家族ではなくなる」、性的な関係を連想させるようなケアは、敬遠されるべきものとして位置づけられる。これが旭の「一定の線」を越えてはいけない、と論じる内容にあたるものであろう。
 つまりここでの問題とは、家族のアイデンティティ(「家族が家族たるゆえん」(山田[1994:33]))を保つために、いいかえれば「家族」というリアリティを維持するために、回避されるケア(ここでは身辺ケアと性的ケア)が存在することであり、家族の間に介助という行為が存在し、それを親が一人で担う場合には、構造的に生じるものであるといえる*41。

3.2 「他者」は「家族」へ介入できない
 またAについて、親と共に暮らす場面に他者が介助者として介入することに対して多大な抵抗が生じるということは、第二節でも見たとおりであるが、これも@−bと同様、「家族」のリアリティに関わる問題である。
 これは第一に「プライバシー空間としての家族」、第二に「親密圏としての家族」を維持するための、親の抵抗が問題となっているものであり、「家族」のリアリティを保つために、冒されてはならないものとして「プライバシー」と「親密性」が位置されているのである。それは例えば、次のように語られる。

 「…うちの母なんか、《家族だから面倒みてきた》のに、いくら有料だからといって、思うようにやっていけるわけがないって言ってたんですよ。」

 「…まぁ、母親に言わせると、母親だからみちゃうっていうのね、どうしても。できれば自分の出来る限り面倒みたくなっちゃう、ていうかみちゃうって言うんだけど…。」

 前者は、ある男性が一人暮らしを始めるときの母親の反応を語ったもの、後者は、ある女性が母親と上手くやっていくためにはどのようにしたらよいか、を語る文脈において、母親の気持ちを代弁したものである。ここには「家族だから」「母親だから」出来る、みてしまう、という言葉が出てくる。つまり身辺的なことに関与する介助という行為は、家族という「親密さ」のある集団であるからこそ出来る、あるいはするものとしてとらえられている。佐藤は「親密圏」を「身体的コミュニケーションを前提にしながら、親密さの感情を共通の基盤とする協同的空間」と定義している(佐藤[1996:113])が、先にみた親の抵抗の一つは、こうした身体的な介助を介在させた、親子の「親密さ」の空間へ、他者が介入してくることへの抵抗であるといえる。さらにこれは「プライバシー空間としての家族」への抵抗へも繋がる。
 つまり、Aの問題は身内以外の介助者(他者)が家に介入してくることによって、「家族」のリアリティ(ここではプライバシーや「親密さ」が存在するものとしての「家族」)が壊されるおそれがあるとして、彼/女の介入を妨げようとする、親の抵抗であるといえる。この問題も、@−aとは質的に異なり、親がこれを保持しようとする限り、構造的に生じるものであるといえる。
 これに対応する技法としては、とりあえずは「家を出る」すなわち、物理的に親と「別世帯」を構成し、親の「家族」に関するリアリティを変更することが手っ取り早いものとなる。

 親が子どもを介助し続ける時に生じる特殊な関係性と、それに対応する技法を整理してきた。親と共に住むTの場面では、技法によって解決され得ない問題があること、また親と共に住み、部分的に介助を分担するTからUへの移行の場面においても問題が残されることを見た。これは共に親の持つ、「家族」のリアリティに関わる、構造的な問題であることが示された。したがってこの当然の帰結として、障害者側の「自立」を希求するベクトルはTからUへ、そしてVの親と離住し、親の介助を全面的に受けない形態へと向かうことになる。
 次節では家族のリアリティ構成について、詳しく論じていく。


第5節 「障害者家庭」*42と「普通の家族」、そして「私の家族」
 これまでは介助という行為に関わる議論を行ってきたが、ここでは少し離れて「家族」についての「語り」方というところから議論を進める。その中で個々人の家族に関するリアリティ構成について論じていく。

1.主観的世界の多様性
 何人かの人に話を聞いていくうちに、彼らから「障害者のいる家庭はね…」、「普通の家族はさ…」という言葉が多く聞かれることに気づいた。それと対比して、自分自身の家族の状態や、家族についての思い、親子関係について語られることが多くあった。これは「健常者」である聞き手に対して、意図的に使われたタームであったかもしれないが、しかしそれでも彼らの意識の中で、「障害者家庭」と「普通の家族」と「私の家族」が別個に位置づけられているということは否定されるべきではないだろう。
 これは、「リアリティが多層的に存在している」という現象学的な認識を裏付けるものである。田渕は主観的家族論は、家族に関するリアリティ構成における「個人的定義(主観的な経験の構成)」と「社会的定義(社会的に許容された知識体系)」という水準の間における相互作用を問うことを分析課題としていると述べる。さらにこうした問題構制は、これまでの研究法にない分析を可能にすると指摘する。つまりこの方法に依拠することにより、個々人の主観的世界の多様な側面(リアリティの多元性)を示すことが可能になるのである(田渕[1996:33])*43。ここでは主観的家族論に依拠し、聞き取りから得られたデータから、「家族」に関するリアリティ構成についての試験的な考察を試みる。

 はじめに「障害者家庭」、「普通の家族」、「私の家族」という三つのキーワードをもとに、これらが相互に作用していることを見る。次に特に公共の場面で定義される「家族」、最後にもっとも明示的に現れる制度上の「家族」について、それぞれ個々人の経験としての「家族」のリアリティ定義と関連づけながら考察を行う。
 具体的に見ていく前に、分析の一応の基本となる枠組みを措定する。ここでは田渕[1996]の分析枠組みを一部修正した、下のような表を作成した。
                                       
│         │ 「障害者家庭」 │ 「普通の家族」 │  「私の家族」 │ 
│ 対 親     │         │         │         │ 
│ 対 家族    │         │         │         │ 

 田渕の分析枠組みでは「一般的な見解」としての家族と「自身の家族」、また「二者間の関係(またはその累積)」と「複数の成員を持つ家族の相対的特質」について述べるもの、という2×2のクロス表であった。ここでは「障害者家庭」について、「普通の家族」について、「私の家族」について、という三つの言明に区分した*44。
 障害当事者が「障害者のいる家族」について語るとき、「一般的に社会からはこう思われている、「障害者家庭」」についてと、「障害者である私が所属する、私が経験する家族」について、という二つの水準があり、この二つを区別しなくてはならない。つまり「障害者家庭」についての社会的定義が当事者の認識において存在する一方で、「障害者である自分自身の経験する家族」は、個人の経験するリアリティ構成のバリエーションの一つであるといえる(もちろん、明確に区別されない場合もあるが)。したがって、障害者の家族についてのリアリティの多元性を論じる際、家族についての「一般的な見解」と共に、「障害者家庭」を分析対象とすることが必要となる。
 前二者は田渕のいう家族についての「リアリティの社会的定義」(客観的だと個人が認識する定義、「類型化された知識」)、後者は「個人のリアリティ構成」(主観的な経験の構成)にあたる。これに対応してその言明が親(または対父、対母)についてであるのか、複数の成員から成る「家族」についてであるのか、という軸を設けた(「きょうだい」については今回は特に聞かれなかったため削除した)。すると、上のような2×3のクロス表ができる。これに対応して幾つかの「語り方」のパターンが考えられる*45が、実際はこれらが複雑に交錯し、時には「家族」や「親子関係」の区別もなく言及されることになる。類型化が可能であることを前提とした上で、ここでは個人の「語り」に沿っていかにして「家族」が認識、解釈されているかを見ていく。

2.リアリティの相互作用
2.1 「家族」の位置づけの変更
◇「私の親子関係」
 Hさんは自分の父親との関係について「うまくいっていなかった」という。父親は幼い頃から「厳格で、甘えられない存在」であった。Hさんのことは会社の人や親戚には隠しており、そういった人達が家にやって来るとHさんは部屋に隠れていなければならなかった。父親の田舎には一度も行ったことがないという。また父親は母親や姉やHさんに対して暴力をふるうことが度々あった。こうした父親に対して「…ようするに私にとっては父親は敵であるみたいな…。すごく悪意を抱くっていうか、一番身近な存在で、なんで父親に目の敵にされなきゃいけなんだろうか」という思いを抱いていた。しかしHさんは幼い頃は常にこうした父親の言うことをよくきく「優等生」であったという。「逆らわなかった。…父親の顔色ばっかり窺ってた。いつも父親といると否定されてたのよね、お前はだめな子だ、って」。このように父親から否定され続けたことに関して次のように語る中に、「他の家族」の中の父親と子どもの関係について言及している。

 「私自身を認めてもらうことって…。何をしても誉めてもらったことが一度もないから、大変だったかな、と思って…。他の家族とかを見てると、なんであんなに父親に甘えられるんだろう、ってすごく不思議だった。私はほんとにだめだったのね。」

 Hさんは自分自身が父親に甘えることができなかった経験から、他の家族の子どもが父親に甘えることが不思議だったと語る。現在は、父親とも世間一般的な話はするようにはなったが、「一番守って欲しかった時に突き放されていたから、けっこう敵意を未だに持っているっていうところ」があるという。現在もHさんは、父親と接する際に、幼少期からのイメージを持ち続けていることが分かる。父親に甘えられず、否定され続けたことと共に、Hさんの現在の親子観に影響を与えているのは、仲の良くない両親と、暴力をふるわれていた母親が「されるがまま」であったことだ。それは次のように語られる。

 「…人に好意を持つ相手って、父親と母親像があって、すごく子どもはあこがれるわけでしょう。お父さんのお嫁さんになりたいとか、お母さんのことが好きとか。…二人で喧嘩してて、ああいうふうになりたいとは思わないもんね。…うちはすごく過激だったよ。」 「殴られたりとか、お母さんも…」
 「そうだよね、うちの母親は日本女性を代表する人だったから、されるがままだったのね。私自身の中では、ああいう母親像っていうのになりたくはなかった…。」

 Hさんは、一般的な親子関係においては、子どもが父親と母親の姿を見て憧れ、それが将来に繋がっていくとしている。「お父さんのお嫁さんになりたい」と父親に憧れる女の子が、父親に似た男性に好意を抱き、やがて「両親のような理想的な夫婦になる」という具合である。これと比較して、父親に暴力を振るわれてもじっと我慢し続けていた、「日本女性の代表のような」母親像にはなりたくないというのが、Hさんの母親への評価である。それではHさんの理想とはどのようなものか。

 「…私が家族を持ったとして、例えば旦那さんとは死ぬまで一緒じゃない。子どもはさ、産んで育ててはいくけど、離れては行くからやっぱり一番大事なのは旦那さんっていうか、パートナーであって、やっぱりその人とどうやって仲良くしていくかの方が…。子ども自身もそれを見て、勝手に成長して行くわけだよね。」

 Hさんが理想とするのは、「パートナー」との良好な関係である。「それをみて子どもも勝手に成長していく」、つまり夫婦関係さえ良好であれば、子どもも真っ直ぐ育つというわけである。

◇「普通の家族」と、「私の家族」
 Hさんは幼い頃を振り返って「私自身もすごく冷めているっていう家族」であったと表現している。それが、Hさんが一人暮らしをするようになってから「家族がけっこうまとまりだしたかなみたいなのがあって」という。母親がHさんがいなくなることによって、他に「生き甲斐」を見つけなければならなくなり、また父親もようやく「自分のことは自分でし始めてきた」と語る。しかしそうした中でも「父親との関係が前より良好かって言ったら違う気もするんだけど、もちろん母親とか姉とかも、今はいい関係であるし、父親ともすごく険悪なムードではないんだど、そういった意味での理解力がない」と語られる。それではHさんにとって「家族」とはいかにあるべきものと位置づけられているのか。次の言葉の中にそれが表れている。

 「…でもほら、成田離婚とか、簡単に子どもを産んじゃって育てきれなかったりとか、簡単に中絶をしてしまうような、この社会的な…。どうやったら家族が仲良くなれるの?って。逆にうちのようにごたごたが日常茶飯事あって何かやってる方が、まだいいのかなぁって。…家庭環境を否定し続けてきた自分はいたんだけど、「あ、そうなんだ」って受け止められる自分がいればいいのかな、って。」

 近年は「成田離婚」や、子どもを中絶したりなどの出来事が多くあり、これは「社会的な」風潮であるようだ。しかしこのような「家族」の状態は良いものではない。そこで「どうやったら家族が仲良く」なれるのだろうか、がHさんの中で自問される。つまりHさんにとっては、「家族は仲良くあるべきもの」として位置づけられている。しかしここにおいて初めて、「成田離婚」をしてしまった家族と比較して、Hさん自身の家族は日常的に「ごたごた」があるが、「それでもよい」とその位置づけの変更がなされる。これまでずっと自ら否定し続けた自分の「家庭環境」であるが、ある「家族」と比較することにより、受けとめ方が変えられる、そういう自分がいればいいのではないかと、肯定的にとらえる方向へ変化したのである。

 Hさんにとって、父親は「絶対的で、厳格で、甘えられない」存在として認識されておおり、長い間不満を抱いていた。この不満を基に、Hさんは自らの家族を「冷めている家庭」と表現している。一方でHさんにとっての「家族」とは、「夫婦仲がよく、子どもはそれを見て憧れる」べきものとして位置づけられている。Hさんが見た「他の家族」や「他の親子」と比較して、「普通の家族(親子)は〜でしょう」とも語られる。ここに、Hさんの「家族」に関する、社会的なリアリティ定義を見ることができる。
 こうした社会的なリアリティ定義と比較して、個人の家族経験が位置づけられる。つまり、Hさんがこうした「家族」についてのある確立された社会的なリアリティ定義を持っているからこそ、実際に経験した、父親は母親に対して差別的であり、母親はなされるがまま、暴力は日常茶飯事であった「家族」が、常に否定されるべきものとしてHさんの中で位置づけられてきたといえる。
 しかし、最近では「社会的な」状況は、「成田離婚」や「子どもを中絶」することが日常的であり、それらの家族と比較すれば、これまで何とかやってきたHさんの自分自身の「家族」は、肯定されるべきものとして認識が転換されつつある。ここに家族に対するリアリティの社会的定義と個人的な定義が、相互作用しながら変更されていく様子がうかがえる。

2.2 「私の家族」の肯定
◇「障害者の親子関係」と「普通の親子関係」と「私の親子関係」
 Iさんは、「普通の」という言葉を何度も使いながら「親子関係」について語っている。

 「…《普通の人》だったら、二十歳前後高校卒業したり大学卒業すると、必然的に親と離れるわけじゃん。就職するなり仕事を持つなり、人によって結婚していて、違う社会なり、違う情報の中で生活していくっていうのが《普通》の流れだと思うんだけど、どうしても僕らっていうと、親子っていう一体化してるっていう部分があるわけでしょ。…」

 「…《普通三十八の男》だったら、結婚して家族を持って子どももいて、もう子どもも小学校とか、早い人になると中学くらいになってるのかな、それくらいの息子なんだけど、障害を持ってるっていうことでいうと、いつまでたってもそういう目では見てもらえないよな。」

 Iさんは「普通の親子」について、子どもが二十歳を過ぎた頃になると、違う情報や社会の中で生きていくものであると位置づけている。それは就職したり結婚して家族を持ったりすることによって、「必然的」に行われるとされる。しかし「僕ら」、つまり障害者は、介助という行為が介在していることで、そうした「普通の親子」のように、親と子どもが離れることが当然ではなくなる。そして自分自身も「普通の三十八」の息子として、親からは見てもらえない、と言う。
 また「障害者の親子関係」と、現在の「私の親子関係」については次のように語る。

 「障害児者と親が何をやるにも一緒にやらなきゃいけないし、何処へ行くにも一緒に行かなきゃいけない、どこにいるときも、一心同体、ではなくて親は親の時間を持つことは必要だし、親に干渉されない時間を障害者もある時間持つことは必要だと思うよ。僕は今で言うと、職場にいる時間は俺の時間だし、母親は家で何をやっているのか知らないし、俺は仕事やっててどこか行ってる時間は、お袋も好きな買い物、どっか行ったり、お稽古ごととかをやればいいと思ってるんだけど。いかんせん、《障害者家庭》の、この子のために、とかね、この子のためにがんばらなきゃっていうのと、いっしょくたに、まぜこぜになってる部分がありすぎるんじゃないかと思うんだ。だからある部分、お互いに知らないところがあってもおもしろいんじゃないかと思うんだけど。逆に言うと、障害者の親子関係っていうと、何でも知ってる、何でも親子そろって死ななきゃいけない、っていうのが当たり前だという感覚の中で親子関係をつくってると、いざ、どっちかができなくなったり、どっちかが倒れたりするとパニックになってしまう。」

 Iさんがこうした「障害者家庭」のリアリティの社会的定義について言明を行うとき、特徴的なことは、これを否定し、現在の自分自身の家族の状況を肯定するために持ち出しているということである。Iさんは「障害者と親が一心同体」という事態を批判し、「親は親の時間を持つことが必要で、親に干渉されない時間を障害者もある時間持つことは必要である」と述べた上で、現在は自分の、母親に干渉されない時間を有していると語る。つまりここでは、「障害者家庭」に関する一般的なリアリティ定義と、自分自身の経験する家族のリアリティは異なっていると語られる。しかし、「普通の家族」と「自分の家族」のリアリティもまた異なるものとして位置づけている。Iさんにとっては、「普通の家族」と「障害者家庭」、「私の家族」のリアリティはすべて異なっており、そして第3節において既にみたように、これらを注意深く区別しながら、「私の家族」のリアリティを構成しているのである。

3.公的な場における家族定義とのズレ
 ここでは特に公共の場でなされた「家族定義」に対する個々人のリアリティ定義との相互作用を見ていくことにする。公共の場とは、病院であったり、ホームヘルパーがいる場所であったり、また配布物(パンフレット等)であることもある。

3.1 「限界まで努力する家族」とのズレ
 Uさんは二年半ほど前から一人暮らしを始めている。しかしワンルームタイプの部屋についているユニットバスやトイレは、改造されていないため使用できず、週末は「お風呂に入りに」実家へ帰る「自立生活の単身赴任」を続けている。ここではUさんが感じる行政の姿勢とのズレが次のように語られている。

 「…私、ここで生活を始めるにあたって、ホームヘルパーが週に二回来るんですよ。そうするとね、ヘルパーさんが帰るとき何時から何時まで何を仕事を、掃除洗濯とかしますよね。そういうのを記入して、私が印鑑を押すわけですよ、でね、《印鑑を押す前になんて書いてあるかっていうと、「家族確認」なんていうふうに書いてある》わけですよ。これは象徴的だなと思ってね。私一人暮らしですよね。家族なんかいないですよね。それでも当事者が確認をして印鑑を押すという考え方が行政にないんですね。…
 例えば、家族がいるって、たとえば私に、母親、私がここから実家に戻ったとしたら、おそらくホームヘルパーは来ないと思うんですよ。申請しても。来て貰えないと思うんですよ。母がいるから母に面倒見てもらえばいいっていう形になっちゃうと思うんですよ。たまたま、一人でいるから言葉は悪いけど、仕方なく行政は手を貸してるみたいなところがあってね…」

 ここではホームヘルパーが来たときに、印鑑を押す書類から例を挙げて語られている。書類にはヘルパーの仕事に対して確認の印鑑を押す欄がある。しかしそこには「家族確認」と記されているという。このことをUさんは、行政が社会福祉の対象者の当事者能力を認めないという基本的な姿勢の象徴的な表れであるという。
 ホームヘルプ事業を統括する厚生省がこの書類を作成したとするならば、この事業において想定されているのは、「他の家族の存在がいる」障害者、または高齢者であると言える。またおそらく、Uさんが母親と同居していたら申請をしたとしてもヘルパーは派遣されないだろうという。これはUさんのいう、「とことんぎりぎりままでできるだけ家族が面倒見て、どうしても面倒みられなくなった時」の状態の家族が、ヘルパーの派遣される家族像であることのあらわれであろう。Uさんが感じているのはこうした家族像とのズレであるといえる。

3.2 「一緒にいるのが家族」とのズレ
 また既出のIさんは、幼少時長い間病院に入院していたが、ある時一旦退院することになった。その時の経緯を次のように語っている。

 「病院は、小学校一年くらいまでで一回退院するわけね。その頃でいうと、病院のケースワーカーが、ある時期に親と離れてしまうのはまずい、と。で母親もやっぱり僕がうちの家族の一員でなくなっちまうのをやっぱり一番恐れたと。どうしても《障害者の親子っていうのは、家族なんだけど、たいてい病院に入れられて、その子がいない生活が当たり前になってしまう》っていうのは、その当時から多かったんですよね。」

 ここでは病院という公的な場に属するケースワーカーが、幼少時から長期入院していたIさんについて、ある時期に親と離れて生活するのはよくないという発言をしたことについて語られている。このことに関連して現在のIさんは、「障害者の親子」は、「家族」であるのだが、長期間の入院などによって、その子どもがいない生活が当たり前になってしまう、つまり一緒に暮らさないことによって「家族の一員でなくなってしまう」事態は多かったと語っている。
 このケースワーカーの発言は、公的な場所における、「(この場合は特に小学校入学前の幼児は)親と子どもは共に暮らすものだ」という家族像の提示であったといえる。母親はこれを受けて、離れて暮らすことで「家族でなくなる」ことを恐れ、そしてIさんを病院から退院させ一緒に暮らすことで「家族の一員」に引き入れようと試みる。このことは、ケースワーカーによって示された、家族に関する社会的なリアリティ定義に対して、自分自身の家族のリアリティを再構成する試みであったといえるだろう。

3.3 「不幸な家族」とのズレ
 Sさんも公共的な場でなされた家族についての定義について言及している。それはある成人式で配布されたハンドブックの中に書かれたものであった。

 「…成人式にM市で「不幸な子どもを産まないためのハンドブック」っていうのが配られたの。私は成人じゃなかったんだけどね。そのハンドブックを見て、家出る必要があるなって思ったの。その内容はね、医学的な病気とか書いてあって、将来結婚するんだったら、障害児を産まないために医学的に、何世代までさかのぼって確かめましょうっていうの、問題なんだけどね、そういうことが書いてあって、…どうしても腹が立ったのは、普通の結婚するでしょ、子供が産まれるでしょ、障害児だったりするでしょ、そうすると《障害児を持ったカップルが不幸になる》って書いてあるの。それで《障害児を持っている家族が不幸になる》って書いてあるの。でそれを支える社会が不幸になる、それを支える国が不幸になる、だから障害児を産まないように…。それを見てて背筋がぞーっとして、うち不幸だったのかなって考えるじゃん。自分を否定されてるわけだけど、そこまで考えが及ばなくて、《単純に自分がいると不幸になっちゃう、そうだったのかなって考えたの、家族が。でうち不幸じゃなかったよって思ったの。けっこう楽しくやれてたよなって思ったの。ぜんぜん不幸じゃないよなって思ってた》の。それで、でもね、だから怒りに変えられたっていうかな。その記事がおかしいっていうふうに思ったんだし、医学的にこういう原因からってなってるけど、私の障害はお産の時の誘発剤だっけ、時間をコントロールするための、そういうのとかいろんな手落ちでなったわけね。だからさ、これもあてはまんなかったのよ。だから怒りが爆発しちゃったのね。
 それで、ほんとに不幸になるっていってみんなが納得しちゃうの何でだろうって思ったの。…子供の頃は家族に世話してもらうの別に苦じゃないし家族も苦じゃないけど、大きくなって普通の健常者はみんな手がかかんないていうかな、なるじゃん。障害があると手がかかるじゃん、どうしたって。それを家族単位でみてるから不幸になるだけじゃないかって思ったの。だから今は幸せだけれど家族単位でみていたらお母さんお父さんだって歳とればね、肉体的にできなくなるし、子供の体でなくなっていくわけでさ、肉体的に、大きくなるし、あと精神的に子供とは違うから、家族だけで障害者の介助を支えるのは不幸になるって思ったの。だからある程度たったら一人で生活しようって思ったの。」

 Sさんが見たハンドブックには「不幸な子どもを産まないために」というタイトルがついていた。その内容は、「障害児を産まないために」医学的な指導をすることを目的としたものだった。Sさんが「どうしても腹が立ったこと」は、「障害児を持ったカップルが不幸になる」、「障害児を持っている家族が不幸になる」と書かれていたことだった。自分自身が否定されていることよりも、「単純に自分がいると不幸になっちゃう、そうだったのかな」と考えたという。しかし、Sさんは「うちは不幸じゃなかった」、「けっこう楽しくやれてたよな」と思った。だからこそ、その記事に対するショックを「怒りに変えられた」と表現する。
 これは公的な配布物の中の言明であり、公の場でなされた「障害者のいる家族」に対する定義づけであると言える。「障害児を持っている家族が不幸になる」というこの定義をSさんは「みんなが納得しちゃう」と位置づけている。これはSさんの社会的なリアリティ定義であるといえる。しかし、Sさんの家族経験から構成する個人的なリアリティとはズレがあった。「障害者のいる家族は不幸だ」とする言明に対して「うちは不幸じゃない」と感じた。先のUさんのようにズレを一致させる方向に向かうのではなく、それを「怒り」に変換させ、さらにこのズレがなぜ生じるのかを考えるに至る。そして「障害者のいる家族が不幸になるのは、家族だけで障害者の介助を支えるからだ」という結論を出し、それをさらに「いつかは家を出て一人で生活をしよう」というエネルギーに転換させていく。このことは重要であろう。

4.制度が定める「家族」への対処法
 第三章において「障害者と家族」を規定する制度について述べた。家族の「自助原則」「扶養義務」を基本とし、世帯を単位として定められたものであった。またこれによって親による障害者(子ども)の扶養が義務づけられていた。ここではそうした明示的に示された「家族」像に対して、障害者が実際に経験する「家族」のリアリティとのズレを感じたり、あるいはより戦略的にズレに対処する技法があることを見ていく。これは広義の社会的なリアリティ定義に対して、自分自身の実践する「家族」を変更する、相互作用の一つとして位置づけられる。

4.1 「世帯単位」の壁
 前出の、家の中に介助者を入れての「自立」を目指すYさんであるが、一時は公的な制度を利用して「自立」しようと考えた。しかし経済的な問題などで断念したことを次のように語る。

 「公的な制度を利用しようとした場合、家族と住んでいたりするとあまり、時間的に派遣して貰えないとかってありますか」
 「ホームヘルパーの申請をしたときにも、私が今の親と一緒に生活をしてるところにホームヘルパーを入れると、一時間920円。で、一回が二時間単位で週に二回とういうことなので、それだけでかなりの金額…。《ホームヘルパーは本人の所得が低ければ、私ももちろん無料で来て貰えるくらいしか収入がないんですけれども、親の収入に見られちゃうと、ということがあって》。…最初、祖母の家に住む可能性があればと思って、いろいろ試してみたんですよ。だけどやっぱり祖母の家は老人向け住宅として最低限いろいろ考えてはあるんですけど、車椅子が入り込めるというのとトイレの間口なんかがぜんぜん違うので、実際に住むのは無理だなって思いまして、やっぱり自分の部屋っていうふうに話が戻って来てるのが今の現状です。
 老人と障害者ということになると、ホームヘルパーもその時点で申請に行ったときには、一人二回と考えれば週に四回来て貰えるだろうと、私は単純に思ったんですけれども、週に三回という可能性はありますねと言われたんですよ。で、《世帯分離していますので、所得がないということで、もちろんゼロか920円の違いになっちゃう》とずいぶん、大きい金額になっちゃうので、と思ったんですけど。…とにかく私が暮らせる物理的な条件がなかった。」

 ここではYさんが「自立」を目指すための試みに際して、利用可能な制度としてホームヘルプ事業について語られている。Yさんの住む地域ではこの事業は、世帯単位で時間や派遣回数が限定されている。また第三章においてみたように、Yさん本人の所得で決定されるのであればヘルパーは無料で派遣されるが、「生計中心者の所得に応じた費用負担」が定められているため、一時間あたり920円という負担額が科せられることになる。
 ヘルパー制度の派遣回数や時間数増について行政交渉を行うノウハウが、自立生活情報センター[1996]に示されているが、そのモデルとなっている生活形態は「一人暮らし」である。Yさんの場合は「家にいて、父母と同居をしたまま、自立を模索する」という状況であるため、独自の戦略が考え出されていく。まず、同一敷地内の祖母の家で暮らし、親と別居する形をとる、「世帯分離」を行い、ヘルパーを無料で確保しようとするが、結局物理的な設備が整っていないということで断念している(またそういった形をとっても週に三回しか派遣されないという。Yさんは寝るとき以外のすべての動作に介助を必要とする。従って、ほぼ二十四時間体制の介助が必要とするのだが、これをカバーする制度が整っていないという。これは交渉の余地があるかもしれないが)。
 こうした中でYさんにとっていちばん使える制度がガイドヘルパーである(ホームヘルプ事業に組み込まれている)。ガイドヘルパーは派遣回数や、時間に上限がなく、またYさんの済む地域の場合は本人の所得で費用が決定されるため、Yさんに対しては無料で派遣される。

 「…今の生活の中で毎日、外出しない日は数えるほどしかないんですよ。週休二日があってもリハビリに通っていたりとか、月に二回の巡回入浴サービス、家の近くにある特別養護老人ホームで、機械浴でお風呂に入れてもらうというのをやっています。それで出かけるときはまったく玄関まで出かけるように支度は母にしてもらうんですけど、家を出てから家の玄関まで戻ってくる間は、ボランティアもしくはガイドヘルパー。ガイドヘルパーも公的なものとして一時間に時給が出て、市役所に申し込んで来てもらうものなので、使ってるのと、あと運転ボランティア。それをフルに利用してリハビリに通ったりとか。
 行政の方から怒られたんですけど、「あなたの外出のガイドヘルパーの派遣の金額だけで百万かかった」って。でも百万使うくらい出なきゃ行けないところもあるし、別に毎日遊んで歩いているわけではないので、そんなことで怒られても…。結局、ここだけの話なんですけれども、《ガイドヘルパーっていうものしか、制限がつかないで来て貰える制度がない》んだから。例えば今まででも母がちょっと今日は腰の調子が悪そうで、抱えるのが大変だなと思った場合に、ガイドヘルパーで親しくなった人とかに、ほんとはね、出かけるんじゃないんだけど、出かけたっていうことにして、悪いんですけど朝起こしに来て、着替えたりとか大変なところ手伝って下さいって頼んだんですよ。それで来てもらったりしてたから、それは毎日のことになりますし…。ホームヘルパーが二十四時間でないっていうんだから、頼めるものには頼まないわけにはいかないから、行政の方がいくらなんでも朝から晩まで出かけてるわけがないって、ちょっとつつかれて怒られたんですけど。怒られても人がダイレクトに来てくれる。ガイドヘルパーに頼めば、お金は払わなくていいわけだから。」
 
 「ここだけの話」だが、Yさんはガイドヘルパーをホームヘルパーの代替物として利用している。しかしYさんには「ホームヘルパーが二十四時間でないっていうんだから、頼めるものに頼まないわけにはいかない」という切実な事情があり、「人がダイレクトに来てくれる」というガイドヘルパー制度はYさんにとっては生活の頼みの綱となっている(これは親しい人(しかも「理解」のある人)が近所にいるという前提条件が必要ではあるが)。

 Yさんが家の中で父母と同居しながら「自立」を目指そうとするとき、まずその壁となるのが経済的な問題である。Yさんの収入が年金のみであることから、介助者を雇用するためには十分な収入がない。そのためまず介助の手をボランティアに頼ることが考えられる。それは「…介助を入れられる状況をつくったとしても、(Yさんの住む地域には)派遣組織もないっていうのが実態ですけど。お金もなければ人もない。行政交渉もがんばってるんですけど。…厳しいんですけれどもボランティア、ボランティア、という」事情もある。
 また世帯単位を原則とし、生計中心者(Yさんの場合は父親)の所得に応じて費用負担が義務づけられるホームヘルプ事業に対処する戦略として、Yさんは「世帯分離」を考える。父母と別世帯を構成し、さらに祖母と同居することによって、「老人と障害者」世帯を作り出す。そこへ無料で、少なくとも週二回二時間以上のサービスが受けられることを期待したのである(実際は「週に三日の可能性はある」という返答だった)。さらにホームヘルパー制度が整っていないため、ほぼ二十四時間体制の介助を必要とするYさんは、ガイドヘルパー制度をこの代替物として利用する。「頼めばダイレクトに来てくれて、時間の上限もない。しかも無料」であるガイドヘルパーはYさんにとって、頼みの綱でもある。しかしYさんの場合はたまたま「親しくなった人」が近くに住んでいたという幸運な事情もある。すべての場合に通用する戦略ではない。
 結局のところ、行政側が描く「障害者と家族」像は、子どもである障害者は親が扶養し、またその介護・介助は基本的に親が担っているというものであり、これがYさんの「自立」を妨げている。この家族像を前提とした時、ホームヘルプ事業は家族(親)の「手助けをする」という形でのみ行われることになる。これはYさんが考える「家にいながら、家族(親)の介助を受けない形の自立」とは真っ向から対立する。したがって経済的な理由からヘルパーを無料で派遣することを望むとき、逆説的ではあるが、「世帯分離」をなす、つまり表面上は「家族」という形を解体し、「障害者と老人」という「家族」(世帯)を構成することがYさんにとっては有利に働くことになり、そうした戦略を採用する。しかし物理的な要因などからこれを断念せざるを得なくなり、結局は主にボランティアに頼るという困難な「自立」の形を選択している。

4.2 「同一居住」の壁
 OさんはG県に養父母とともに暮らしていたが、二年ほど前に制度が整っており、生活がしやすいということで、東京の実父母の家へ移った。現在は実父母と三人で暮らしている。ほぼ母親の介助に頼っているが、毎朝身体を起こす介助と、入浴介助を公的なものに頼っている。しかし現在の居住形態であると「受けられるサービスに限界がある」と語る。

 「扶養は養父母の方になってるんだけど、同居人っていう、面倒見てるのはこっちの、今の両親っていうことになると、父親がまだ働いているので、そうすると《ある程度収入があると、私が受けられる市の制度の限界っていうのがあるのね》。父親がサラリーマンで、社会保険の問題も出てきちゃうから、私は完全に一人っていうことにしておいて、世帯主は別にしてあるのね。でも、福祉課の方に出すのにどういう生活をしてるかっていうのに、どうしても私が一人で暮らせるわけはないんだから、それが親じゃなくても、同居してる人に面倒をみてらってるっていうことになる。そうすると《一緒に住んでる人の収入によって、制度が変わってくる》。また私の場合どうしても一応親なわけだから、これが遠い親戚ですっていうことになると、また違って来ちゃうのかもしれないけど。例えば私が一人になっちゃえば、完全に私の収入がないわけだから、もっといろんな介助が入れるようになって、派遣される時間が増えることになるんだけど、私が同居してると、その人に面倒見てもらってるっていうことになるんで、時間的にもうちょっと入ってもらいたいな、って思っても制度的に無理だったり、そういう意味で、逆に独立しちゃった方が親の負担が減るっていうのがある。」

 Oさんの経歴はやや複雑である。小学校一年生の時に養女になり東京を離れたが、「父親同士が兄弟だから、行ったり来たりをしてて、旅行に行ったりして、両方をお父さんお母さんって呼ぶ生活をしていた」という。現在の扶養は養父母ということになっており、世帯はOさん一人で構成している。しかし、実際には実父母と同居しており、「一緒に住んでいる人に面倒を見てもらってる」ということになるという。
 ここでも、先ほどのYさんのように、行政側が定める「家族」とのズレが見られる。「両方をお父さんお母さんって呼ぶ生活をしていた」Oさんにとっての「家族」は、現在共に暮らしている実父母だけではない。また実父の社会保険の問題もあり、Oさんは一人で「世帯」を構成している。この意味ではOさんに「家族」は存在しない。しかしながら、行政が定めるOさんの「家族」は「同一居住」をしている実父母であり、彼らがOさんの扶養義務を負っていることになる。したがって実父の所得によって「制度が変わってくる」、つまりOさんが受けられないサービスが出てくるという。このためOさんは「独立しちゃった方が親の負担が減る」と言い、一人暮らしをすることによって実質的な「独立世帯」を作る戦略を考えている。

 ここに登場する二人は共に、親と住む家の中に介助者を入れるときの困難、つまり行政側が描く「障害者と家族」贈とのズレに関する困難にあたっている。これは第2節で述べた「親密圏の逆照射」とはまた別のものである。こうしたことも、第4節で指摘した、「自立」の過程がT→(U)→Vを辿ることを促しているといってよいだろう。

5.小括
 本節では、障害者が家族を語る「語り方」から、家族に関するリアリティ構成について考察してきた。
 ここでは、田渕の分析枠組みを一部修正し、「障害者家庭」、「普通の家族」、「私の家族」という三つのキーワードから、前二者を家族に関する社会的定義、後者を個人的定義と措定した。また、特に公共の場面において定められる「家族」、また制度上において定められる「家族」が、「障害者家庭」の社会的定義、すなわち「障害者家庭の社会的イメージ」と関連していることを見た。公共の場面においては、病院のケースワーカーの言葉、またパンフレットに書かれた「障害者のいる家族」についての言及などが、多大な影響を与えていた。また制度上明示的に定められる「障害者と家族」像に関しても、当事者は非常に自覚的であり、時にはこれらに戦略的に対抗して、自身の実際の「家族」を変更していることも示された。
 ここにおいて、個人が日々経験し、生きられている「家族」が、複雑、多層的に絡み合ったリアリティで構成され、またそれが、社会的なリアリティ定義と相互作用することによって、変更されて行く様子が明らかにされた。こうした社会的なリアリティ定義を明らかにすることは、次章において言及する「家族イメージ」について論じる上で有効な方法となる*46。

(註)
*01 ここでは、「言説」とは障害者へのインタビューから得られた言葉や、障害者が著した文章などを言う。また「言説」を、単に彼らの談話や語られた言葉、書かれた言葉を示す他に、「社会生活の諸側面に意味を付与するだけでなく、同時にそれらを組織化し、操作し、つまりは統制する」(Gubrium & Holstein[1990=1997:342])という意味を含有するものとして使用する。
*02 その中でも、「生まれながらの、あるいは幼少時からそのような障害を負っているため、社会的自立を営む可能性をもちながらみ自立生活を営むための諸条件から疎外されている人びと」(河野[1988:3])と限定する。
*03 障害の概要は以下のとおり。
・脳性マヒ(CP:cerebral palsy):受胎から新生児(生後四週間以内)までの間に生じた脳の非進行性病変に基づく、永久的な、しかし変化しうる運動および姿勢の異常である(厚生省研究班による定義、1968)。痙直型、アテトーゼ型、二種を主に失調型なども合併混合しての多種多様化した型がある。痙直は筋肉が緊張して固く動かなくなる。アテトーゼは、筋肉が動く古語は動くのだがコントロールができない、随意運動ができない不自由といえる。障害の特徴は方麻痺などの肢体障害のほか、咀嚼、呼吸に関連しての言語障害、軽視などの視力障害、聴覚障害、感覚障害、口腔障害、てんかん、小人症など症状は全身におよぶ。(内野・原口・前田[1987:18-19])
・脊髄損傷:外傷によって脊髄に障害が起こり、その障害の起こった部位以下の神経が損傷されることを言う。この場合には二つの形があり、一つは完全損傷であり、その損傷部位以下の神経機能は完全に損傷されてしまって、完全な麻痺に陥る。これに対して不全損傷は、受傷部以下に一部機能が残存している状態を言う。すなわち、その程度はさまざまであるが、受傷部以下の筋が随意的に動く部分が残っているものを不全損傷という(大川[1987:162])。
・進行性筋萎縮症(筋ジストロフィー症):「遺伝的基盤のもとに、一時性に骨格筋の進行性変性をきたす傷病群の総称」とされている。この全体の八割が、最も重度であるデュシャンヌ型という。しかし原因が遺伝性というほか子細は未確認であり、難病指定がされている。男性に多く、女性に少ない。進行も同じ方であれば男性より女性が遅い。症状を外見からいうと筋肉が衰え、やせて細る。動かすことはできるが力はでなくなる。CPのようなねじれ、奇形化はない。デュシャンヌ型の他にベッカー型、肢帯型、顔面方甲上腕型、先天型、眼力ミオパチー、眼筋咽喉ミオパチー、末梢型(遠位型)といった型をがあり、類似疾患や関連疾患をも伴う。(内野・原口・前田[1987:49-51])
 私が出会った人びとは、障害の種別(原因)では脳性マヒが一番多く、等級は一級がほとんどであった。しかし同じ一級であっても、二十四時間介助が必要な人から、身辺的なことはほとんど一人でできる人まで様々であった。ほとんどの人が日常の移動に車椅子を使用。また言語障害を持つ人も多く、機械や指文字を使用する人もいるが、大半は慣れるまでは聞き取りにくいという程度であった。
*04 年齢階級別の身体障害者数の構成比を見てみると、60歳以上の高齢者が62.7%を占めている。そのため介助者として配偶者、子供が多く挙げられるという結果になっている。また十八歳以上の身体障害者の総数285万人のうち、在宅者272万人に対して施設入所者13万人となっており、圧倒的に在宅者が多い(総理府[1997:251])。
*05 おそらくこのことは、Gubrium & Holsteinのいう米国の状況と同様であるといえるだろう。また障害者だけではなく高齢者や、短期間の介助を必要とする人にもあてはまる。例えば「風邪を引いたときに家族の大切さを実感する」など。
*06 αにおいて、個別に聞き取りを行うという形ではなくとも、雑談の中で「家族」や「障害」についての話が聞けたことは、幸運なことであった。直接に本論文には引用されていないが、多くの示唆を受けた。二十一名の内訳はここで十名、Wの所員に紹介して頂いた方、人づてに紹介して頂いた方などが十一名である。
*07 対象者二人に対して聞き手が一人という状態が、合意のもとに一度だけあった。しかしこの時は一人の話に触発される形での話がなされた、という点においては、一人ずつ話を聞くよりも、データとしての優位さがあったともいえる。今回はそういった利点を生かすまでの議論にはなっていないが。自助グループでの「語り」を取り上げることの利点について春日[1989:13])。
*08 しかしこれらのことは方法論上問題にはならない。また、再度聞き取りをすることは行わなかった。その時々に話された言葉から読み解くという方法に依拠すること、また私が話を聞かせて頂いた相手を、「対象」として見ているという誤解を、なるべくなら避けたいという個人的な思いがあった。
*09 前述→谷口[1988]参照。
*10 DPI:Disabled People' International:「障害者の国連」と訳される、障害者の当事者団体。1981年シンガポールで結成され、現在全世界で90カ国以上が加盟している。国内会議としてDPI日本会議が位置づけられ、セミナーなどの活動を行っている。世界会議は四年に一度開催されている(DPI日本会議パンフレットより)。
*11 仲村は「自立生活の基本的要件」を次のようにまとめている(仲村[1988:5])。
@自立生活は、隔離・差別から自由な地域社会における生活でなければならない。
A生活の全体性に目をむけなければならない。
B真の自立とは、人が主体的・自己決定的に生きることを意味する。
C自己実現に向けての自立が追求されなければならない。
D福祉への依存ではなく、福祉の主体的利用でなければならない。
*12 しかし、これはすべてが「親と離れて一人暮らしを始める」ことを意味しない。聞き取りにおいては「精神的な自立」や「親元にいながらの自立」という言葉が聞かれ、その意味するところは様々である。しかし日本においては、この言葉には「親からの」という側面が共通しているとみなしてよいと思われる。
*13 特定の状況における「語り」を分析することに対して、赤川は「よくも悪くもクセがあることを意味する」と言う。しかし「偏った(状況定義がはっきりした)言説」を分析対象にしたことで、「ある特定の言説が社会的に配分され、組織的に埋め込まれたローカルな知識をもとに生産されるという現実が如実に見える」とし、これは長所となると述べる(赤川[1997b:3])。
*14 英のケア概念についての整理はThomas[1993]参照。
*15 岡原正幸は「介護」という言葉は、一般的ではあるが、「弱き者を護る」という観念が潜在しているため、多くの障害者は「介助」を用いると述べている(岡原[1990b:122])。当時者側として小山内美智子は、「ケアの教科書」として著した著書において「特別難しい医学的なこと以外は、ケア(介助)と書きたい」と述べる(小山内[1997:7])。また今岡秀蔵は、「介護」と「介助・援助」を明確に区別している。すなわち「介護」とは「誰かが、私なら私の生命を維持し、その安全を保障しうる範囲内で私の意志に配慮するという、生活の主体者であるはずの私自身を客体化してしまう」ものであり、「私の意志への配慮が少なくなれば、それは私にとって「抑圧」となり、逆に増大すれば「自由」と錯覚し、実は客観的には「オンブにダッコ」となる」という。これに対して「介助・援助」は「生命の維持を含めてその結果、責任が私自身に帰するものであると同時に、私たちと援助者の間で常にその質的向上がはかられ、私たちの生活の発展に結びつくものとして規定」されるものであるという(今岡[1984:90])。つまり障害者が主体として存在するためには「介護」ではなく、「介助・援助」が必要であるとする。
*16 また広井良典は、「ケア」という言葉に関して次のように論じている(広井[1997:7-50]。広井によると、「ケア」という言葉は、@狭くは「看護」や「介護」、A中間的なものとして「世話」といった語義、B広くは「配慮」「関心」「気遣い」というきわめて広範な意味を持つ概念であるという。また、ケアには以下の三つの場面があるという。
1)臨床的/技術的レベル
2)制度/政策レベル
3)哲学/思想的レベル
 1)は個々の現場的な場面での「ケア」のあり方であり、同時に介護、看護技術といった技術論の側面を持っている。2)は個々の現場を超えた、制度やシステムに関わる次元(介護保険制度、ケアメジメント・システムなど)であり、3)はそもそもケアとは何か、それは人間にとってどういう意味を持つものなのか、という基本的な問いに答えるものであるとする。
 本論文における障害者に対する「ケア」とは、主として広井のいう@臨床的/技術的レベル(看護・介護)であるといえる。しかし広井が指摘するように、三つのレベルは互いに深いところで結びついており、その一つだけを他と切り離して論じることは不可能である。例えば、介助を受ける側がそこに人間関係を求めるというのならば、Bを含むことになるが、あくまでも自らの「手足」として動いて欲しいという時には、@のレベルに留まる(立岩[1997]参照。経験的には障害者が介助者と接するときには、「介助者以上友達未満」の関係を保つ努力を行っているように思われるのだが)。また小山内も次のように言う。「ケアとはいったい何なのか。…気配り、優しさ、思いやり、愛することなど、すべて精神的ケア(心のケア)である。」(小山内[1997:17])
 広井の「ケア」の定義は、従来の「介護」「介助」「ケア」概念をすべて包括するものであるが、これらの用語に対する議論が、しばしば技術的な側面や言葉の持つイメージを強調していたのに対して、制度レベル、哲学の概念レベルを区別して論じている点で、従来のものにはなかった視点を有している。特にここで重要なのは、「ケア」には「配慮」「関心」「気遣い」という面があるという指摘である。この点において「ケア」は「障害者がいる家族」や「高齢者世帯」の、「世話・介護」的な問題として論じられるのみではなく、これ以外の「家族」の普遍的な問題として論じられる可能性を持つといえる。
 また広井は、近代科学(「サイエンス」)と、「ケアの科学」との違いを、前者は「対象との切断や、自然支配・統御」により、「経験的・実証的な合理性(帰納性)」を求めるのに対し、ケアはむしろ「対象との共感・一体性や親和性」を要素とし、「対象の個別性や経験の一回性を指向する」ものであると述べ、ケアを近代科学の枠組みではなく、「ケアの科学」として論じることの必要性を説く。つまりケアのような個別性が強い性格のものを論じる際には、個別的なケースを深く掘り下げ、記述することが必要になるのではないか。ここに方法論としては、ライフヒストリー研究との接点を見いだすことができる。
*17 岡原は介助という行為に伴うトラブルは、「近代社会のもっとも根底的な価値に関わる問題である」ため、「障害者と介助者が日々の生活を円満にしていく」ための、自立生活運動において残された問題であると述べる(意志決定をめぐる対立や身体接触やセクシュアリティをめぐる感情レベルの問題、これは近代科学のもつ「合理性」や「実証的な帰納性」で分析することが困難であるという点において広井と問題意識を共有していると言えるだろう)。これを解決するための、障害者と介助者(ほとんどの場合は身内以外の他人)が用いる「知恵・生きる技法」について論じている(岡原[1990b])。障害者と介助者との関係で具体的に発生するトラブルは、大きくわけて二つある。第一として、意志決定をめぐるトラブルがある。障害が重度であればあるほど、介助者との共同作業が必要とされるが、そうした場面において、自由に身体を動かせる介助者の善意や「必要と思って」行う行動が、障害者の意志や思いを侵害することがあるという。第二に、感情・身体をめぐるものがある。排便・入浴・着替え等の活動は、社会的文化的に共有されている身体規則(身体距離や身体接触に関わる規範で、その多くは人々にとって自然に感じられるように身体化されたものとしてある)を侵犯し、その結果感情規範(その場の社会的状況において、経験すべき感情状態を社会的に規定する規範)にも抵触しかねない行為だということである。つまり「他人の排泄行為を見る(他人に見られる)、他人の裸体を見たり触れたりする(他人に見られたり触られたりする)」などの身体的関わりは、不快、嫌悪感、羞恥、不浄感などを喚起しやすいと述べる。
 このトラブルに対処する方法として岡原は三つ挙げている。第一に理念的方法、第二に経済的方法、第三に感情的方法である。理念的方法として障害者側としては、健全者を自己の身体の延長とみなす考え方がある。つまり、「健全者は障害者の手足なのだから、健全者が介助するのは当たり前だ」と考えることにより、身体を統括する主体を障害者のみにおき、「他者」に触れられるという、否定感情を回避するというものである。介助者側としては、「社会の役に立ちたいし、必要なことだからやっているので、あたりまえだ」と考え、理念的な社会正義へのコミットメントをさらに強化するやり方がある。経済的な方法の典型的なものとして、介助への雇用関係の導入が挙げられる。しかし介助者側としては、それがすべでではなく(また、それが十分な収入となることも多くは不可能であることもあり)、やはり理念に頼る部分がある。
 感情的方法については、「親密な感情関係、恋人、夫婦、友人などの関係が安定した相互作用を導く場合がある。これらの関係の中では、他人同士の介助関係では得られない心理的安定感を障害者は得ることができる。…夫婦関係や恋人関係と他人どうしの関係とでは、身体規則も異なるから、身体接触や身体の露出が引き起こす規則侵犯なども多くは回避できる。」と述べられる。これについてはさらに考察が必要である。ほんとうに「回避」になり得るのだろうか。岡原は「「恋人や友達には、介助してもらいたくない」というのも障害者の本音かもしれない。親密な感情的関係は、それ自体に価値があり、そこでは介助関係という意識はノイズなのだ。」とも述べている(岡原[1990b:135])。これをどのように考えたらよいかという問題が残る。ここでは子どもとしての障害者と親との関係に焦点を当てているため、これ以上深く追求することはできないが、今後再考すべき重要な課題として残しておく。
 また第二の経済的な方法は中西正二によっても示されている(中西[1988])。中西は、施設や家族から出て、自立生活をはじめる障害者にとって、ボランティアやヘルパーとの介助が介在する関係において、対等な人間関係をつくっていくことは困難であると述べ、「最低限、生活の基盤にあたるトイレ、風呂、衣服の着脱、車椅子の乗降など」の場面で自らが雇用主になる必要性を説いている。中西は「そうすることによってようやくボランティアにたいしても、対等に話せるバックボーンをもったことになる」と述べる。中西は介助料によって、ケアする側の気持ちが変化すると述べる。「「彼らはかわいそうな存在だからお手伝いしてあげる」という優越感に満ちた健常者的発想から、「お金をもらう被雇用者だ。しかしいつかは私も人のお世話になる。その時にみじめな気持ちで世話を受けたくない。人生はお互い様ではないか」という発想に変わっていく…。このときはじめて障害者と健常者という垣根は取り払われ、対等な人間関係が生まれるように思います。」(中西[1988:128-130])。障害当事者である中西がこのように述べていることは重要であろう。介助者との関係については、他に大石[1994]。介助者の立場を述べたものとして大塚[1994]、両方の立場が述べられたものとして福島[1987]参照。
*18 この立岩による重要な問いについて、ここでは答えることが出来ない。第三章において「家族に義務が課されている」という事実を記すに留まっている。これについてはここでの議論と合わせて考察していく必要があるだろう。
*19 浅野千恵は摂食障害という現象を理解するために、摂食障害を経験している当事者である、女性達自身の経験に耳を傾けていく必要性を説き、実際にインタビュー調査を行っている(浅野[1996])。
*20 この「問題」として、親が高齢化し介助が不可能になること、親が亡くなることも語られたが、ここではこれについては言及しない(従来よく論じられていることでもある)。特に介助行為が介在する親子関係における「問題」に限定して論を進めていく。
*21 しかしこれは、実は単に「慣れるまでは大変」であるという事実へ帰結する。初めに登場した男性は続けて次のように語る。「慣れるまではとまどったり、っていうことがありますけど、慣れてしまえば、別にそんなにどうってこともない。慣れるっていうのはお互いに慣れるっていうことだと思うんですよね。変な言い方ですけど、お互いに扱い方に慣れる。その人の癖とか特徴とかっていうものをつかんで、っていうふうにお互いになりますから。
*22 この女性は、「障害者にも、疲れたときに休める、挙げ残据え膳の保養所があればいいのに」と興味深いたとえをしている。常に介助者を必要とする者にとって、疲れたときに休める場所、つまり介助の指示出しなどに気を使わなくても良い場所は少ない。
*23 もちろん、全面介助を受ける前提となっている、親との「同居」に限定すれば、そのメリットは、「あったかい飯」「あったかい風呂」「あったかい布団」である。このことは幾人かによって指摘されている。
*25 プライバシーは、現代の「家族」に特徴的なものであることをShorterが指摘している。Shorterによると、伝統的な世帯では親族や親戚、使用人、下宿人、他人同様の人が同じ住居の中におり、「引きこもる」ことは不可能であった。例としてドイツ農民の住居では家族全員が同じ部屋で寝ていたことが述べられている(Shorter[1975=1987:40])。
*26 Aries[1960]、落合[1985]、山田[1994]など参照。
*27 佐藤和夫は、「親密圏」を「身体的コミュニケーションを前提にしながら、親密さの感情を共通の基盤にする共同的空間」と定義している(佐藤[1996:113-129])。  
*28 福島[1987]には、マンツーマンで介助者と向き合う関係の困難さが述べられている(福島[1987:163-186])。
*29 主体の持つ「内実や意味世界の豊かさをとらえる」ことを目的とした分析法として、「家族戦略(family strategy / strategies)概念」を用いたものがある。これについては、田渕[1995]が論じている。田渕は従来の家族研究においては、たとえば社会制度と家族との関係について論じる際、「家族は諸制度に拘束された受動的な存在である」という仮説が存在してきた。これに対して、今日の家族研究には、「家族ないし世帯がどのような「戦略」的行動をとるかという問題設定を採用する中で、家族の積極的ないし主体的な側面を考察しようとする流れ」があり、家族戦略概念はこうした流れの一つであるとする。これは「個人の諸戦略が、通常は日常的な共住や家計共同の単位である家族という場において、特に意志決定の過程で相互に綿密な影響を与えつつ生起することを把握しようとするもの」であるという(田渕[1995:12])。この概念を用いる理論的意義として、家族という主体が、諸変数の影響を被るだけの受動的な存在なのではなく、主体的・能動的・自立的な行動を行いうることを示すことができるという点が挙げられている。これによって、従来の構造主義的な説明様式による、個人の判断過程を捨象した分析に対して、戦略を用いた分析では諸個人の行う意味判断作用や、諸行為間の交渉過程に媒介される側面を強調することで、構造概念の持つ決定論的・静態的側面を批判的に照射するものであると述べる。つまり、戦略分析は、「諸主体の織りなす社会の動的「過程」の持つ内実や意味世界の豊かさを捕らえる」こと、=「主体の復権」を意図するものであるとされる。
 ただし田渕は「個人の利害は、個人が所属する他の集団(ジェンダー、階級、国家、地域)や社会関係との関連で決定され、諸家族員はそのような個別の利害を持ち、家族の中で戦略的に振る舞うこともあると考えるべき」であること、また「家族内部の権力関係、具体的には、家族内部には意志決定過程や分配過程における不平等や抑圧などの権力関係が存在する」のであり、行為選択の帰結である報酬が、「家族そのもの」に帰属するということはありえないということに注意すべきであると述べる。
*30 施設から「自立」を目指す場合はT→V(施設)→V(一人暮らし)ということになる。この表ではうまく説明することができないが、この場合もT→Vの過程に注目したい。
*31 TとUは区別しにくいものである。なぜならば障害者が家族や親と行動を共にしないとき(例えば外出するとき)、介助は部分的に他者の手に委ねられることになり、まったく他者の介助がないというTの場面は実は想像し難い。しかしここでは特に被介助者が意識的、積極的に家の中に他者の介助者を入れることを試みている場合をUと定めることによって、Tと区別することにする。なぜならばこの場合被介助者の意識が重要な意味を持つからである。
*32  自立生活情報センター[1996]など参照。
*33 生活保護制度や公的ヘルパーなどを上手く利用するか、もしくは労力を必要とするが、制度を変えていくよう努力すれば、Yさんの言うように、「もたない」ことはおそらくない(第三章、自立生活情報センター[1996]参照)。しかしYさんの「余裕をもった自立をしたい」という考えを、を「恵まれた環境にいる」ととらえるのではなく、そうした暮らしを許さない生活保護制度などの問題に目を向けるべきだろう。
*34 これについて、要田が親の側の「健常者の論理」として指摘している(要田[1986])他参照。
*35 岡原が指摘する「外部は外部で、障害児と親が密接な同一体となることを、障害者やその親に向けた期待の中で、はっきりと表現している」(岡原[1990:82])という「外部の強制」について、当事者も感じている。例えば電車に一人で乗る時にも、外部から何らかの反応がある。ある男性(四十五歳 男性)は、次のような体験をしている。
 「…十六年くらい前から電車に乗ってるんですよ。今だったらそういうこと言う人はあんまりいなくなりましたけど、一人で外出して電車に乗ってたりすると、「へー、一人で乗ってるの?親はいないの?」ってね。だからいくつになっても親とか、家族の庇護のもとにいるのが障害者だっていう意識が、社会全体に、社会的な文化的なこととしてそういうことがしみついちゃってるなって、感じたりした…」
*36 「身体規則がなりたたない」、「性が認められない」ことについて、他人が介助を行う場合においてもこうした関係は生じる可能性はある。しかしこれは岡原が指摘するように施設や病院といった特殊な状況においてのことであり(岡原[1990b:127])、通常は身体規則が侵犯されることに対する抵抗感が問題になる。これに対して幾つかの技法が示されている(ただし、岡原の場合は親ではない介助者とどのように関係を築いていくかということに重点をおいている)。
*37 谷口明広は、河原正実との対談において、障害者の性の問題は、まず「知らない」ことであると語る。すなわち「自分の身体の変化に気づかない。なぜ変化するのかわからない。この世の中に、たとえば性行為というものがあるということすら知らない。…だから性の情報というのが全然伝わっていない、ということです」と言う(障害者の生と性の研究会編[1994:205-206])。この障害者の側から「異議申し立てがなされないことの問題性」についてはここでは詳しくは触れないが、今後の課題としたい。
*38 実は@−bに関しては、あまり語られていない。聞き手が積極的に「性」について聞かなかったという問題もある。近年、障害当事者による「性」についての著書が出版されている(障害者の生と性の研究会[1994]、小山内[1995])。また1997年の「全国自立生活問題研究会全国集会」においては「結婚・性」が一つの部会として設けられた。しかし前書は「このようなテーマで本格的に取り組んだ本が出版されるのは、日本ではきわめて稀であろう」(同:6)と述べ、小山内も「この本の出版は日本では十数年はやいのかもしれない。」(同:10)と述べる。この話題についてはまだ広く語られていないということであろう。
*39 ただし、Aについては、UからTへの逆向きの方向へ戻るという選択もある。つまり「他者の介入」に対して親が示す抵抗が問題を構成しているため、「親による介助」のみの状態へ戻るという技法である。しかしT場面における問題が残される。
*40 前出の対談において河原正実は、障害者の性について、「誰も望んでなくて、ましてや親はそんなものは望んでなくて、「寝た子は寝た子のままで」ということですからね。」と語っている(障害者の生と性の研究会編[1994:202])。 
*41 しかし『障害者が恋愛と性を語り始めた』(1994)には、重度障害者の二十歳の男性の子どもが「性をお金で買う」ことが出来るよう、子どもの友人に協力を頼んだ母親が登場する。その友人は「親も障害者の性についてとても悩んでいる」と話す(障害者の生と性の研究会[1994:155])。このように、親が「性的ケア」(と言ってよいかという問題は保留にしておくとしても)の手助けをする、つまり他からの「ケア」を受けるよう協力することも可能性としては考えられる。しかしこの際、もちろん「家族」の中に「性」を持ち込むことはタブーであるだろう。また、こうした親の行為には、「子どもを一人の人間として扱う」という意識が必要とされる(→親の意識の変革については要田[1996]参照)。
*42 「障害者のいる家庭」「障害者のいる家族」と言い換えられることはあっても、「障害者家族」と言い換えることはできない。なぜならば「家族」は「生活を共にする家の人個々か、家の人全部を集合的にさす語」(森岡・望月[1993:2])であり、この場合は後者の意味で使われているからである。また当事者が「障害者家庭」という場合には、特に「自分を含まない、一般的な障害者のいる家族」を意味し、客観的に語る場合が多い。
*43 またこれによって、親族関係や共同生活などを指標とする「客観的」な家族定義を自明のものとしてきた従来の家族社会学に対して新たな枠組みを提示することができる(田渕[1996:27])。
*44 このような分析枠を提示することで、はじめて「家族概念の社会的定義と個人的定義のズレ」というテーマが提示できることになると田渕は言う。
*45 表と聞き取りから得られた「語り」を照らし合わせると、幾つかのパターンに分類することができる。「家族」を語る際には、前述したように「一般的な家族」と比較した「私の家族」や、「(一般的にこのようだと思われている)障害者家庭」と比較した「私の家族」というように、二つ以上の「家族」や「親子関係」について言及がなされることが多い。聞き取りに基づいて、家族についての言明を以下の六つのパターンに分類した。
 まず、@「対親」についてである。
1)「普通の親子関係」と、「私の親子関係」についてのもの
2)「障害者の親子関係」と、「私の親子関係」についてのもの
3)「普通の親子関係」と「障害者の親子関係」と「私の親子関係」すべてに言及するもの
である。本来ならば「一般的な親子関係」と「障害者の親子関係」というパターンも生じるはずであるが、これはほとんど、自身の親子関係と比較するという形をとっていたため、3)に組み込まれるとみなす。同様に、A「対家族」については次のように分類される。
4)「普通の家族」と「私の家族」についてのもの
5)「障害者家庭」と「自身の家族」についてのもの
6)「普通の家族」と「障害者家庭」と「私の家族」すべてに言及するもの
*46 また、ここでは言及されなかった他の家族成員、親や兄弟の側の「家族」、「障害者家庭」についての、リアリティ構成について論じることが課題として残されている。これについて考察してはじめて、「複数の家族成員による家族イメージ」を論じることが可能になるだろう。これについては今後の課題としたい。
 兄弟については全国障害者と共に歩む兄弟姉妹の会東京都支部[1996]が参考になる。この中には「私は自分の現実の家族構成がたまらなくいやで、図画や作文で自分の家族のことがテーマになると、それを書くことを厳しく拒否したり、健常な兄弟姉妹を持つ友人がみな幸せそうに見えてきてとてもうらやましいと思ったり、ときにはねたましいと思ったこともありました。」(同[:22])など、「障害者家庭」を経験した兄弟、姉妹の声が綴られている。


第五章 結論  〜「自立」の意味するもの 
 本論文は、主観的家族論を援用し、障害者の語る「家族」から、当事者が認識し、解釈し、経験する「家族」を描き出すことを目的とするものであった。第四章において「介助」と「自立」をキーワードとして、障害当事者が語る「家族」について論じてきた。主観的家族論を援用したことによって、当事者の家族に関わる言説や経験に注目することの有意味性が示され、また当事者が家族に対して持つリアリティが、多様な側面から構成されていることが示された。個別的には、当事者の視点に立つことによって、従来の「障害者と家族」研究が見過ごしてきた側面が明らかになった。具体的には、当事者の視点からの介助に関わる問題構成が整理され、その問題に対して対処する方法を駆使しながら、親子、家族関係を維持する努力がなされていたことが示された。
 本章ではまとめにかえて、障害者の「自立」という試みが、何を目指したものであるのかを主題として論を進める。その中において、個人が家族に対して持つのリアリティの多元性と関連させて考察していく。

第1節 介助という「しがらみ」からの解放
 第四章第2節において、親と子どもの間に介助が介在する時の関係性を考察し、その問題構成を整理した。また第3節において、こうした関係性の中で「家族を維持する」ために、様々な技法が採られていることを、個別的なライフストーリーから明らかにした。この技法は「親とのよい関係性」を求めるものであったが、では「よい関係性」とは具体的にどのような状態を指すのかについてここでは考察する。

1.「精神的な距離」を保つこと
 まず技法の具体的な内容をふりかえってみよう。@−aに対して語られた技法は、親と子どもが別の人間であることを認識し、「精神的な親子離れをする」こと、また「自己決定を行い、行為主体となる」こと、「親子がそれぞれ別の世界を持つ」こと、具体的には「親は趣味を持つなどして、親の時間を持つこと、自分は親に介助されない時間を持つ」などであった。これらは第一に、「親は親、自分は自分」という認識を保つこと、つまり「親子一体」の状態を避けるために、出来る限り共に過ごす時間を減らすなどして、その距離をある一定に保つための技法である。しかしながらこれらに従って、親と子どもがお互いの時間を持つ努力を行ったとしても、完全に介助という行為が親子関係から排除されるわけではなく、この技法によって親子関係に物理的、時間的な距離をおくことには限界がある。したがって、これは精神的な距離を求める技法であるといえる。いいかえれば、介助を介在させながら、「精神的に親との距離を保つ」ための技法である。
 これに対して、@−bやAに対して語られたのは、親子関係から介助を排除し、親と離れて暮らすという、「物理的に親と距離をとる」技法である。しかし、物理的な距離をとるということは、すなわち精神的な距離をとることにもつながる。それは、一人暮らしを始めたある男性が「家から出て親から離れて、周りの人間からもある程度離れたところで自分の生活をつくっているから、余裕が出てきた」と語ったことに如実に表れている。
 ここで重要なのは、意識的であれ無意識的であれ、障害者のとる技法が、親との「距離」をとることを目的としていることである。さらにこの際、最終的に目指されているのは「精神的な距離」であり、この距離間を適度に保つことが、すなわち彼らのいう「親との関係がよい」状態ということになる。

2.「家族だから辛い」
2.1 「距離」を保てない
 親との「よい関係」とは、その精神的な距離を適度に保つ関係であると述べた。逆にいうと、この「距離」を上手く保つことが出来ない状態が、「家族だから辛い」状態である。ここではこうした状態について考察する。
 ある男性は親との「距離」について、介助に関連して次のように語っている。

 「親だとね、《フランクな関係が作れない》のね、いい意味で。ほんとだったら親でもなんでもね、もっと、親しき仲にも礼儀っていうんじゃないけど、きちんとしなくちゃいけないんだよね、介助っていうのが入ってくると、しなくちゃいけないとは思うんだけど、《身内だと感情がそこに入る》から。ほんとだったら親が、普通の家事とか洗濯とかでもそうだけど、いくらいくらで賃金計算してやったほうがいいかな、くらいには思うんだよね、やっぱり。家のことをやってもらうって。まして介助っていうふうになると重労働になってくるし、お金で割り切っちゃったほうがいいかなって思うこともあるんだけど、割り切るわけにいかないでしょう。っていうか、割り切れなくなってくるでしょう。」

 「(入浴介助に関して)僕は入りたいんだけど、おふくろとかおやじとかは腰痛があったりとかして、今日はだめとかね。…今だったら、どうしても(介助者が)来られなきゃ、僕も風呂我慢しなきゃいけないけど、僕と他人の間で我慢するっていうのはできるけど、そこに《親っていうのが絡んでくると、なんで入れてくれねぇんだよ、って甘えが出てくるでしょう》、どうしても。親は親で、私だって入れてやりたいと思ってるわよ。そんな二日も三日も垢だらけの汚いままでいろっていってるわけじゃないんだから、って。で、それでぐわーっとなるでしょ。」

 この男性は「フランクな関係がつくれない」こと、また「身内だとそこに感情が入ってくる」こと、「割り切れない」ことが、親との介助に関するトラブルになっていたことを語っている。「他人と自分」の間では我慢できることが、親に対してはできない。また経済的に解決することも出来ないという。

 ある女性も、やはり介助が介在する場面と関連させて、「家族だから辛い」という状態について語っている。

 「さっきちょっとお話なさってた時に、旅行に行くときに、介助者は親兄弟はだめっていうっていうふうに…」
 「(笑)ありましたね。だめっていうか、結局気を使わないで言えちゃうぶん、なんていうのかな、友達関係でも、《兄弟身内以外の方だとやっぱり、一線を引いてる部分で、逆にそこまでは言わないでいいところを親兄弟だとやっぱり言えちゃう》んですね。言葉一つも荒くなったりとか。今だから母と話していてもやっぱり強く言っちゃう自分がわかったりとかね。でも他の人が入ってくれる時にはそこまで言わないし、言えない、やっぱり言えない。母だから言えちゃうっていうところがありますね。だから、そういうときには特に兄弟とかじゃなく、私なんかの場合はいい関係を保って、(旅行に)行きたい。介助するにしても逆にその方がお互いにね、潤滑していけたらいいな、と。」

 この女性が語っているのは、家族に対しては、「言葉が荒くなったり」「言わなくてもいいことまで言ってしまう」ことの辛さである。他人の介助者であったら「言えない」ことが家族に対しては「言えてしまう」。これは、「一線を引」くことができない、つまり精神的な距離をうまく保つことができない状態であるといえるだろう。

 二人の話に共通しているのは、「他人と私」であれば、成り立つあるいは問題のない、介助に関わる行為が、「家族だと辛い」ものになってしまうということである。家族の間に介助が介在することにより、家族との精神的な距離が上手く保てなくなるのである。とくにここで問題になるのは、「他人」とは違い、「結局気を使わないで言えちゃう」、「甘えが出る」という親子や家族の関係である。

2.2 愛情規範のぶつかり合い
 これまで「脱家族」論等で指摘されてきたのは、主に親の側の子どもに対する「制度的な愛情」であった。「愛情」の存在の証明としての行動を強制する社会構造があり、また「愛しているから当然だ」と親が自らも囲い込むと論じられてきた。しかしここでは、逆に子どもの側から要求される「愛情」を見ることができる。他人の介助者であれば我慢する入浴を、腰痛持ちの両親に「どうして入れてくれないのだ」と責めること、また「他人には言わないのに、身内には言えてしまい」言葉や態度がきつくなることが語られている*01。これは、「家族だから〜してくれるはずだ」という、山田のいう「記号としての愛情」を求めるものだといえる*02。また、親の側でも同様に「家族だから(我慢)してくれるはずだ」という、「記号としての愛情」を子どもに求めていることも語られている。こうした双方の主張がぶつかり合うところに、「辛さ」が生まれる。これを先の男性は「甘え」、「どろどろした関係」と表現している。
 介助という行為の性質から、それが介在するところには、構造的に問題が生じやすい(岡原[1990b])。さらに何らかの要求が家族に向けられる際、介助される側の「一人では何もできない」という気持ちが、「家族であるから(このような自分のために)〜してくれるのは当然だ」という感情をより強めることになる。ここに「家族だから辛い」という状態が生じるのである。
 しかし介助を担う人物が他人であれば、反対に「家族でないのだから〜するのは当然ではない」という規範が存在するために、こうした状態は回避される。さらに他人との間に社会的な雇用関係がある場合、こうした感情に基づいた価値規範は通用しない。「家族」という場と、公的な場では適用される価値規範が異なることは、第四章第2節において見たとおりである。
 介助を介在させた「家族だから辛い」という状態は、「家族だから〜して当然である」という家族の中での規範(「記号としての愛情」)のぶつかり合いであるといえる。多くの人たちが目指すのは、物理的な介助という行為を排除することによって、この「家族だから辛い」、「しがらみ」から脱出し、親子、あるいは家族関係を、精神的な距離を保った「よい関係」にすることである。


第2節 「障害者家庭」から「ケア」の関係への転換
1.親が固持する「家族」からの脱出
 彼らは、何からの「自立」を目指しているだろうか。それは具体的には「障害者家庭」である。親が子どもの介助を行う、つまり親子関係に介助が介在する状態、これが一般的には「障害者家庭」と呼ばれるものである。「障害者家庭」には様々なイメージが付随している。
 当事者が抱く「障害者家庭」の社会的リアリティ定義については、第四章第5節で言及した。それは家族の「自助原則」や親の「扶養義務」に基づいて、「親がとことんまで子どもの面倒を見る」というものであった。
 一方で親の「障害者家庭」のリアリティについては、先行研究からうかがうことができる。例えば岡原は、親が「常にがんばることを要請されている」と感じることを指摘している(岡原[1990a:87])。また最首悟は、障害を持つ子供の親として、「第一に家族の絆を強めなければならない」と述べている(最首[1986:158])*03。聞き取りにおいても、親が「外部の視線」を感じていることが語られ、その中に親の「障害者家庭」に関するリアリティを垣間見ることができる。ある女性は、外出に関して親ともめたことがあると語る。それは次のようである。

 「はじめ喧嘩になったのは、外出するときにね、私は電車で行きたいって言ったのね。そしたら親は車で送ってやるって言ったのね。私は電車を使うのが夢があるんだからって言ったのね。そしたら親は行くなとは言ってない、送ってやるって言ってるんだって。で、《世間で親が何もしてないって見られるだろうってことを言って》、私が電車に乗って出かけるのをやめさせようとしたよ。迷惑かけるし、世間からあの親は何をしてるんだって言われるって思ったらしい。…もちろん電車だと心配だとは言ってたけどね。」

 こうした親の、世間の目を感じるということは、家に介助者を入れることに関する抵抗として語られることもある。また違う女性は次のように語る。

 「…親としては、自分がまだ介護ができない状況になってるわけじゃないのに、人に頼んだら、来て欲しいって《私が頼んだ人は何と思うだろうとか、自分ができるのに、人にやってもらったら悪いとかそういうことを言って》、…」

 これらは、親の持つ「障害者家庭」のリアリティに含まれる、期待される「障害者の親」像を示している。またこれらの言葉から、親は「障害者家庭」という社会的なリアリティ定義を、自らの家族のリアリティとして構成し、維持しようとしていることがわかる。そしてこの家族のリアリティ(つまり、期待される障害者の親像を含む「障害者家庭」)からはみ出す、あるいははみ出すと思われるような行動は、親自身はもちろん回避する。それだけではなく、子どもがそうした行動(たとえば一人で電車に乗るなど)を行おうとする際に大きな抵抗となって現れる。それが「世間で親が何もしてないって思われるだろうってことを言って…やめさせようとした」という言葉で表現されているといえる。
 子どもの側は、「障害者家庭」の社会的なリアリティ定義を、自らの切実な状態から否定する。なぜなら「障害者家庭」は、親の愛情によって囲い込まれ、自らの存在を否定され、行為主体として生きることが困難な場所であるだけでなく、自分が求めるケアを得にくい場所であるからだ(性的ケアなど)。これが障害者にとっての「辛い」状態である。これに対して親の側は、「家族のきずなが強い障害者家庭」というリアリティを自らも構成し、維持することによって、「愛情深い障害者の親」として認められようとする。また、そうした親であることを強制する構造がある(岡原[1990a:85])*04。

 さらに付け加えなくてはならないのが、親の持つ、「障害者家庭」に関するものとは別の、「家族」についてのリアリティである。この親の持つ「家族のリアリティ」は、第四章第4節においてみたように、「プライバシー性」と「親密性」を持つ空間であり、また「性」は持ち込んではならないとされるところであった。これは(私的な空間として位置づけられる)「近代家族一般のリアリティ」であるともいえる。親がこうした「近代家族のリアリティ」を保持しようするために、性的ケアや身辺ケアに関してトラブルが生じたり、また「家族」への他者の介入に対して、多大な抵抗が示されるため、子どもの目指す「自立」や、親との距離を取ることが妨げられる*05。
 子どもの側はこうした「障害者家庭」と、「近代家族」の双方から脱出することを目指す。ここから脱出するために、まず、そのエネルギーは外から規定された二つの「障害者家庭」と「近代一般家族」を体現する親、すなわち、「社会のエージェントとしての親」(石川[1995:35])に向けられることになる。

2.「ケア」の関係性へ
 繰り返しになるが、こうした親の固持する「家族」から脱出するために、子どもは「家を出る」ことを選択する。「家を出ること」、すなわち「自立」することは、第一に親子関係から、介助という物理的、時間的に制約される行為を排除することを目指すものである。そして、介助を排除するための手っ取り早い手段として、「障害者家庭」から世帯分離を行い、親と別世帯を構成する、つまり一人暮らしを始める。これによって、「障害者家庭」という実体がひとまず消滅する。
 これは、親の固持する「障害者家庭」のリアリティを変更することを目指すものでもある。これがすなわち「精神的な距離」につながっていく。第四章において登場したMさんが語っていたように、まず「介助に関わるとりきめをとっぱらう」こと(=介助行為を親子関係から排除すること)、このことによって親の持つ、「常にがんばる」、あるいは「家族のきずなを必要とする」という「障害者家庭」のリアリティを変更し、親に「精神的な余裕」を得させることを目指しているのである*06。

 外から規定された「障害者家庭」から脱出し、介助関係を排除すること、これは親子関係を、「介助(ケア)」の介在する関係性から、「ケア(気遣う)」する関係性へと転換することを目指すものである。正確にいえば「(お互いに)気遣う」という意味においてのみの、「ケア」の関係性が目指されている*07。
 ここにおいて「家族のきずな」は所与の前提ではないこと、また「「家族のきずな」があるから介護ができる」ものでなく、さらに「介護をすることによって「家族のきずな」が生じる」ものでもないこと。逆に、「家族のきずな」と結びつけられる介助という行為を、親子関係から排除することによってはじめて、お互いに「ケア(気遣う)」し合うという部分だけが抽出されることが示されたことになる。

3.共生へと向かうベクトル
 「ケア」には「世話する」「介護する」と、「気遣う、思いやる」という二つの意味がある(広井[1997:10])。そしてまた現在の家族には、「ケア」(「労働力再生産」「感情マネージ」(山田[1994:43-48]))という機能が求められている。つまり「家族」という場所には、「気遣う、思いやる」という意味での「ケア」と、「世話をする(介護する)」という意味での「ケア」という、二つの要素が含まれている。さらに、後者には常に結びつけられて語られるものとして、「家族のきずな」が付随している。既に述べたように、「家族のきずながあるから世話をする」、あるいは「介護をしていることで、家族のきずなが強まった」という具合である。家族という場所には、(「家族のきずな」+「世話・介護」)、「ケア(気遣う)」という要素が混在している。
 「世話をする(介護する)」という意味での「ケア」が、量的に大部分を占めている場所が、「障害者家庭」あるいは「高齢者世帯」である。ここにおいては、「介護・介助」という行為の持つ性質上、家族の間の「距離」が保ちにくい構造が生まれ、「辛い」側面が突出してしまう。また一般的な家族よりも「家族のきずな」と結びつけて語られやすいことは、既に述べた通りである。ここにおいて「世話をする(介護する)」ことの辛さ、大変さに隠れて「ケア(気遣う)」という要素は見えにくいものとなる。
 本論文で見た障害者が目指したのは、こうした状態からの脱出であった。具体的な技法として、一つは、介助を介在させたままの関係において、家族との「距離」をおき、お互いを思いやる「ケア(気遣う)」という部分を強調することである。これによって「家族」を維持する努力が行われていたことは既に見た*08。
 二つめとして、介助(「世話をする、介護をする」という部分に当たるもの)を、家族から排除することによって、「世話・介護・介助」と「家族のきずな」との結びつきを断つことである。介助が物理的に排除された関係においては、「ケア(気遣う)」という要素だけが残されることになる(「介助(世話・介護)」行為が排除されたところには、「家族のきずな」も存在しない)。つまり、「自立」を行うことで障害者が目指したのは、この「ケア(気遣う)」という要素だけが抽出される関係であったといえる。

 すべての家族が、「世話・介護」という意味での「ケア」の占める割合が、ある日突然増大する可能性を持っている。これが「家族のきずな」と結びつけられるものである限り、ここに見たような、家族のリアリティに関わる問題が構造的に生じるといえるだろう。
 この意味において、障害者が「自立」を目指す試みは、そうした「家族」(「家族のきずな」が存在する「障害者家庭」)からの脱出であり、家族という枠のない地点において、共に「ケア」し、気遣いながら生きることを目指すものである。つまり、ここで見た「自立」を目指す全身性障害者達は、共生の世界へと向かうパイオニアであるといえるのではないだろうか。

(註)
*01 こうした介助される側の「甘え」については、当事者らによる著書で述べられている。内野・原口・前田[1987]は、障害当事者が、自らへの批判も含めた視点から記述されており、興味深い。この中において「身体障害者はその体と同時に、精神的にも内面的にも欠けていく。心が未発達のまま欠落となっていく」(同[:1])と指摘されている。また小山内[1997]、安積[1990]にも同様の指摘がある。
*02 山田は、感情社会学の手法を用いて、「愛情」を次のように分析する(山田[1994:90-103])。現在「愛情(LOVE)」とレイベリングされる感情は、きわめて曖昧な感情であるが、この言葉には二つの意味が含まれているという。一つは、コミュニケーションとしての愛情、もう一つは記号としての愛情である。前者は感覚的に楽しい、かわいい、面白いなど、他者との関わりの中で生まれる体験であり、もう一つは「こうすることが子どもへの愛情となる」「子どもを愛さねばならない」といった、規範としての言葉で語られるものであるという。「愛情」は、「相手への依頼」を「相手への義務」に変換する言葉となる。相手に何かしてもらいたい場合、「〜してもらいたい」「〜してほしい」という代わりに、「愛しているなら〜して当然だ」と言う方が、相手に対して圧力となるからである。人は「〜する」行為によって「愛情」の存在を証明しなくてはならない。この言葉の裏には「コミュニケーションとしての愛情体験」があったはずであるが、この言葉だけが取り出され、価値づけられ、記号としての愛情によって、コミュニケーションとしての愛情が疎外されるという事態が生じるという。
*03 しかし続けて最首悟は次のように述べる。「…次に絆を強めてもどうしようもない、むしろ地縁を大事にしなくてはいけないと思い、そして地縁ともなれば、これは社会的経済的な損得勘定の外に、どうしても抽象的な絆が必要になります。」(最首[1987:158])
*04 これが先行研究において指摘された「母親による囲い込み」を生み出す。特に母親に顕著であることに注意。
*05 しかし子どもの側も、「性」は「家族」には持ち込んではならないと考えているようだ。これについてはさらに考察する必要がある。
*06 同時に自分自身が、親の「障害者家庭」のリアリティから抜け出すことで精神的な余裕を得ることは、当然目指されている。
*07 よく使われる「介助というしがらみからの解放」という言葉はこのことを示している。
*08 石川[1995]や要田[1996]の示す、親の側の認識枠組みの変革による解決策はこれに当たる。つまり「親は社会のエージェントとして愛情によって子どもを囲い込む」という、介助と「愛情」(「家族のきずな」)が結びついた状態を、親の認識枠組みの変更によって結びつきを断ち、そこから脱出しようとする試みであるといえる。しかし介助行為が親子関係に存在する限り、解決されない問題が残されることは、既に述べたとおりである。


†参考・引用文献一覧

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好井裕明編 1992 『エスノメソドロジーの現実 せめぎあう〈生〉と〈常〉』世界思想     社
全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会東京支部編 1996 『きょうだいは親にはなれない
     けれど』ぶどう社


                    
                   謝辞


 まず、この論文を書くにあたって、貴重なお時間を割いてお話を聞かせて下さった二十一名の方に感謝したいと思います。みなさんに出会ったこと、時間を共有できたことによって、この論文には書ききれないたくさんのことを学び、示唆を受けました。また、こうした機会を与えて下さった、ヒューマンケア協会事務局長の中西正二さん、柏木雅枝さん、Joy Projectの渡邊啓二さん、第一若駒の家所長の池田孝一さんをはじめとする職員の皆さん、船橋障害者自立生活センター代表の宮尾修さんをはじめとするスタッフの皆さん、自立生活センター・立川代表の高橋修さんをはじめとするスタッフの皆さん、新宿ライフケアセンターのスタッフの皆さん、そして知人を紹介して下さった斉田貴史さん、井上智志さんには大変感謝しています。
 こうした人びとと出会う、一番初めのきっかけを作って下さった信州大学医療短期大学部の立岩真也先生には、構想を練る段階でも相談にのって頂きました。この場を借りて御礼を申し上げたいと思います。
 また平岡公一先生には、特に社会福祉制度、社会保障制度について詳しくご指導頂き、資料なども貸して頂いたりと、大変お世話になり感謝致します。
 それから、時には厳しくも鋭いコメントを与えて下さった天野ゼミ、平岡ゼミの皆さん、お茶の水女子大学社会学研究会(S研)の皆さん、さらに個別に丁寧なコメントを下さった村尾祐美子さん、守如子さん、私的な読書会のメンバーでもある鈴木崇之さん、佐藤剛さん、和田環さん、友人の佐野剛士さん、野口咲子さんに感謝の言葉を述べたいと思います。また、お互いに励まし合った大学院の友人たち、行き詰まり落ち込んでいる時に、励ましの言葉をかけてくれた周りのすべての人びとに、ありがとうを言いたい。
 そして指導教授である天野正子先生には、お忙しい中多大な時間を割いて、私の稚い話を辛抱強く聞いて下さり、そこから的確なご指摘、アイデアを与えていただきました。とくに聞き取りという調査を行う際には、先生のご指導や著書から多くの示唆を得ました。また、とかく理論部分を飛ばして、実証や実践的なものに向かいがちな私の研究姿勢に対して、方法論や先行研究の批判的検討を行うことの重要さを繰り返し指導して頂いたことは、この論文を書くにあたっての基盤となるものでした。この一年は、振り返ってみると辛いものでもありましたが、時には厳しくそして常に暖かくご指導下さった先生に大きく支えられたものだったと思います。この場を借りて心より御礼申し上げます。


                              1998/1/19
                              土屋 葉



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