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「知的障害児・者の親の会運動──その特質と変化」
1997年度修士論文
立教大学社会学研究科社会学専攻 修士課程
嶋崎 理佐子
目次
序論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
1.研究の目的
2.研究の方法
第1章 当事者運動のダイナミズム
第1節 当事者運動の特質 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7
(1)運動の志向──制度変革と自己変革
(2)当事者運動における戦略的矛盾
(3)当事者運動の発達的プロセス
第2節 知的障害児・者の親の会運動の特徴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14
(1)障害児と親の関係
(2)親の会運動における変革の志向
第2章 親の会運動の歴史と組織的特性
第1節 知的障害児・者の親の会運動の歴史的経緯 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 29
(1)親の会運動の誕生と活動の概要
(2)現在の運動の方向性
(3)組織化の過程
第2節 運動体の組織的特性と変革の志向 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 39
(1)運動体の組織的特徴
(2)組織構造と変革の志向
第3章 社会的相互作用と変革の志向
第1節 社会的相互作用による変革と志向の変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 55
(1)社会的相互作用による自己変革の契機
(2)変革の志向が変化する過程
第2節 運動体における第三者の役割──地域コーディネーターについて・・・・・ 60
(1)地域コーディネーターの特質──マージナリティ
(2)親の会運動における地域コーディネーターの役割
第3節 発達的プロセスからみた親の会運動の変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 65
(1)歴史的過程における変革の志向の変化
(2)新たなネットワークの創発
終章 親の会運動の新たな展開に向けて ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 73
1.親の会運動への戦略的提言
2.本研究の課題
序論
1. 研究の目的
■関心の所在
最近、知的障害をもつ人々 注1をテーマとしたTVドラマや映画が多く見られる。流行ともいえる現象かもしれない。しかし今日の知的障害児・者への関心の高まりの背後に、戦後まもなくから展開されてきた親の会の地道な運動があることはあまり知られていない。
私が本研究のテーマとしてとりあげた「知的障害児・者の親の会」に関心を寄せる動機となったのは、東京都の知的障害者の親の会が運営している作業所に働いた経験からである。親の会の活動の一端に作業所の指導員として触れるなかで、障害児・者の親が抱える問題の複雑さとそれを解決するために運動をしてきた親の会の組織的な活動の大きさを知り、その一方組織の大きさによりメンバーである親たちの世代間の意識の違いを感じることがあった。さらに育児自体が問題化している今日、より深刻な問題が生じると思われる若年層の母親への関心から、親の会について理論的考察を行いたいと考えた。
■研究の主題
障害児・者とその家族が抱えている問題は大きい。社会に根強い偏見や差別、ノーマライゼーションという言葉が広まっているように思えながらも、排除の構造は根深い。それは明らかな差別的表現だけでなく、「愛情」や「思いやり」という一見善意から発せられている行為にさえも、排除の装置が埋め込まれていることを見逃せない。むしろ、そのことの問題のほうが深刻だといえる。また現実の場面に目を移すと、地域福祉への関心が高まり、療育機関が設置され、在宅障害児・者のための通所施設も増設されるなど、障害児・者のための制度やサービスも充実してきたかに思えるが、それが体系づけられていないため、情報量の少なさあるいは逆に多さからその制度やサービスを使いこなせず、結果的に障害児・者とその家族のおかれている状況は依然として変わっていないのが現状ではないだろうか。
「変わっていない」というのは適切ではないであろう。障害児・者とその家族をとりまく状況は大きく変化している。それゆえに障害児・者とその家族──特に親がおかれている状況は、世間のまなざし、教育体制のありかた、福祉行政の方針、あるいはその時代の人々の価値観などといった要するに社会の状況により変化し、それゆえにさまざまな制度等ができているにも関わらず家族の大変さは変わらない状況にある。このような障害児・者の家族のおかれた状況を改善していくために、親たちの運動は重要な課題を背負っている。制度やサービス、社会的資源を獲得していく社会に向けての運動は過去から現在に至るまで、そして未来にかけても確実に重要である。
そこで本研究では親の会の活動・運動を社会運動のひとつと捉え、「当事者運動」としての親の会の運動がどのように発展してきたのか、さらに今後どのような運動へと変化していくのかという運動の発達のプロセスをたどり、その方向性を探ることを目的とする。1960年代末から様々の新たな社会運動が噴出し、ポスト産業社会的状況のなかで、エコロジー運動などとともに社会の周辺部に位置づけられた人々による運動が台頭してくる。「新しい社会運動論」はそのような新たな社会運動の流れを総体として提起されてきた 注2。 そしてこのような「新しい社会運動」に位置づけられる「反差別解放運動」は当事者による運動としての色彩を濃く帯びているといえよう。 具体的には部落解放運動や女性解放運動、障害者運動などがこれにあたる。ごく最近ではHIVの訴訟をめぐる患者運動もこれにあたるだろう。この社会運動のなかでも当事者による運動は基本的に「自己変革」と「制度変革」の2つの志向を併せ持つと考えられる。例えば女性解放運動や障害者の自立生活運動において、社会に対して問題を提起し公的制度の整備を求める制度変革の志向とともに、運動に参加する、あるいはこれから参加しようとする当事者の意識を覚醒する自己変革の志向が必要である 注3。親の会の運動の上記に挙げた社会に対しての制度やサービスの改善を求める運動は「制度変革」の志向であると考える。だが親の会のもうひとつの側面として、メンバーとなることにより同じ問題を抱えた他者と知り合い、問題を共有し、あるいは助言を得ていくなかで親自身が変化し、またグループ自体も変化していく運動の過程を捉えることが重要であり、これを「自己変革」の志向と考える。
同時に運動体は時間の経過に従い、集合化・組織化の過程を経て変革目標に応じた組織構造を有するようになる。自己変革の志向目標を達成するには、相互作用の機会を多く持ち直接的コミュニケーションを密にできる小規模の組織構造が好ましく、制度変革の志向目標を達成するには大規模な組織構造の方が有利である。ここでひとつの疑問が生じる。2つの変革志向を同時達成するための最適な運動体とはどのような運動体であるのか。また両方の志向を達成できる運動体がありうるのか。これまで社会運動の戦略的理論として「社会運動組織の活動量を、基本的には組織が動員しうる資源量の関数」とする「資源動員論」が提起され 注4、運動の組織者の視点に立ったこの理論は制度変革の達成については有効とされる一方、「人びとの表出的な社会的相互作用行為」5と捉える側面は薄い。特に自己変革の志向は相互作用の側面からの戦略が必要となると考えられるが、現在のところ両方の志向を総体として考える有効な理論は確立できていないのが現状である。本研究において、当事者運動へのひとつの理論的な提示ができれば幸いである。
本研究の主題とする親の会運動の特徴は、当事者運動でありながら障害をもつ子どもの代弁者としての運動であるという両義的側面をもつことである。障害者運動のなかでも親の会運動は歴史的に古く、1970年代以降の当事者運動の展開によりひとつの転換点を見せたという。だが、知的障害の場合は本人による意思の主張が困難であったという理由から親による運動が展開されてきた。親は子どもの代弁者であると同時に、障害をもつ子どもの親という当事者である。親の会の運動の難しさのひとつはこの当事者であって当事者でないという両義性に起因する。 近年、知的障害をもつ人々の当事者活動が生まれ展開し始めている。その一方、妊娠時の出生前診断等の医療技術の進展により優生思想の盛り上がりをみせている。社会的状況が目まぐるしく変化している現在、親による運動は、また新たなる転換点を迎えているといえるかもしれない。ある親の会が最近行った生活実態調査の報告書 注6 の冒頭に、次のような文章が載せられている。
以下引用
親は、この子がいるから大変だとか辛いとか言いたくない。我が子の存在を否定的にとらえたくない。しかし肯定的に受け止められるまでのハードルは高い。我が子に障害があると判った時の、『障害』という言葉が家族に与える衝撃は、家族を地域から隔離し、家族の一人一人を分断して孤独に落とし込める。「人生狂わされた」と誰しもが思う。「よし、頑張って育てていこう」と親が立ち直る明確な転換点は無いが、子と親を暖かく受け入れてくれる人の存在が、親と家族の心を和ませる。医療や福祉の専門家から地域の人にまで広がれば、勇気づけられる。同じ障害をもつ子のいる家族との仲間作りも励みとなる。話を聞き家族を見守ってくれる人の存在は大きい。
もう、障害児即不幸の図式から抜け出たい。「この子がいて良かった」「おもしろい人生だった」と素直に言いたい。しかし今そう言っている親は、「諦めてきた」「切り捨ててきた」「我慢してきた事も自覚出来なかった」とも言っている。・・・ 引用終わり
親たちの子どもの障害の受容や価値観の転換は単純なものでなく、さまざまな要因と絡みながら、また複合的に構成され何層にも重なっていくつもの局面をもっている。しかし障害児・者の親の会運動においては、新たな価値観を獲得していくこと──障害児・者の家族も普通の生活ができ、あるいはもっと言ってしまえば健常児だけでは味わえないこんないいところもあるんだといったことをアピールするという重要な側面を持っていないだろうか。それにより、世間一般の価値観をも変える可能性さえ秘めているといえよう。だが、ここには大きな矛盾があるかもしれない。生活が大変であれば、このような価値観の転換は困難であろう。障害があり大変だがそれもその子の個性として子育てが楽しいと思えるには、そのためのサポートが必要である。そのために制度変革と自己変革の両方の志向をもつ運動の必要性がある。
自己変革のダイナミズムと制度変革のダイナミズムの相互作用から、第3のダイナミズムが新たに生れる可能性があると考えられる。それがジレンマになるのか、ダイナミズムになるのかは運動体の組織構造に起因すると考える。親の会運動が抱える矛盾を乗り越えるための方向性を見出すことが本研究の目的である。
2.研究の方法
「逸脱のスティグマを貼られた人々」が政治化し集合的抗議を行う社会運動について、アイデンティティとの関係から分析している石川准 注7 は、このような制度変革と自己変革の志向を持つ社会運動は原理的に「深刻な戦略的ディレンマに直面する」として、「ネットワーク特性、組織構造、第三者からの援助、実力行使の有効性」という4つの次元における9つの仮説を立てている。本研究ではこのなかでも特に2つめに挙げられている「組織構造」についての仮説に着目し、親の会運動の2つの事例を組織構造の違いから考察し、そこで生じると考えられる問題(ディレンマ)がいかにして乗り越えられるのかということを試みる。そして組織構造のちがいから当然生じうると考えられるメンバー間の相互作用を比較し、それがどのようにメンバーに影響を与え運動体としての活動や運動目標に違いをもたらすのかを考察する。本研究では、東京都下に支部を有する東京都知的障害者育成会と横浜市内の親の会との連携する横浜市在宅障害者援護協会を調査の対象とした。2つの事例を挙げた理由は、前者が戦後まもなく結成され歴史的にも古く、一般的にもよく知られた親の会であり、全国的な組織を背景として東京を中心に大規模な運動展開を行なってきた点で、これまでの親の会運動をみるうえで重要であると考えた。これに対し、新たな展開として、1960年代後半から1970年代にかけて地域や障害の種類といった独自の問題に応じた親の会が結成され、活発化する動きがみられる。このような新たな展開の一つとして在宅障害児・者を中心とし、地域に密着した活動を展開している横浜市の事例は興味深い。この2つの都市に存在するそれぞれの親の会の事例は、同じような都市構造にあり、また親の会を中心として様々な活動や事業展開がなされながら、運動の歴史的な背景の相違とともに組織構造にも違いがあり、本研究において運動論的に有効であり、運動展開の変化を明確にできると考えた。
今回、直接フィールドワークをした横浜市の親の会は明確に「知的障害児・者の親の会」として位置づけられているわけではない。これは地域で活動を展開しており、また会の方針として障害の種類・程度を問わないとされているためだが、主に知的障害をもつ子どもの親が参加し、運動してきていることから「知的障害児・者の親の会」として本研究では位置づけた。具体的な調査の対象として今回特に調査したのは、横浜市の障害者福祉施策における外郭団体である「横浜市在宅障害者援護協会(在援協)」と関連する横浜市18区にそれぞれ存在する地域の親の会の一つ──「あしたばの会」(横浜市栄区)である。後の考察で述べることになるが、特に在援協の地域コーディネーターの働きは、親の会の機能にも大きな違いをもたらし、2つの親の会の比較の上でも注目されると思われ、今回の調査では一人の地域コーディネーターに同行し調査を行なった。また、この他の地域の親の会の活動も、地域コーディネーターの動きに応じて観察した。
調査の方法としては、横浜の調査においては1997年7月下旬から10月にかけて直接訪問したのは10回で、フィールドワークを中心として上記のように「地域コーディネーター」に同行し、聞き取りを行ないながら、地域コーディネーターを通じて親の会の合宿、作業実習などに参加し、活動内容の観察及び親の会の会長や会員への聞き取りを行なった。また親の会がまとめた資料や手記もこの分析に加える。比較の対象とする東京都知的障害者育成会についてはその運動に関して会の内部においても色々と言及されており、資料としてまとまったものを中心に考察を行なうが、若干の補足として支部の親の会の役員への聞き取りを行なった。電話による聞き取りが2回、直接面接による聞き取りが1回で合計約5時間である。なお、この聞き取り調査においては、先に述べたように調査者が1993年6月から1995年2月まで東京都育成会が運営している施設に生活指導員として勤務していたことが前提となっている。
■全体の構成
本研究の全体の構成は、まず第1章において、本研究の理論的な枠組みとして先述した「社会運動論」を参照し、先行研究を整理して事例を考察する上での仮説を提示する。これを受けて第2章と第3章で具体的な事例の考察を行う。第2章で親の会運動の歴史的な流れを踏まえ、先に述べたように2事例の組織構造の違いを時間的な組織化の過程としてみていき、組織的な特性が変革の志向にどのように作用しているのかを考察する。これを踏まえ、親の会運動における自己変革のダイナミズムを明確にするために、第3章で社会的相互作用の生起する場として親の会がどのように機能しているのかを横浜の調査から得た具体的事例を通して考察し、地域コーディネーターの役割を位置づけた後、親の会運動全体の発達的プロセスを提示する。最後に終章にて、今後の親の会運動の展開に向けて、本研究の考察から明らかとなり重要な要素と考えられるものを若干の提言として掲げ、本研究に残された問題点と今後の課題を提示してまとめとする。
■脚注
注1 以下、障害をもつ人々を「障害児・者」と表現することを了解していただきたい。
注2 似田貝香門・梶田孝道・福岡安則編 1986『リーディングス 日本の社会学10 社会運動』東京大学出版会 梶田孝道の解説(p207-213)、塩原勉 1994「社会運動」見田宗介・栗原彬・田中義久編『社会学事典』弘文堂、石川准 1988「社会運動の戦略的ディレンマ──制度変革と自己変革の狭間で──」社会学評論2-53より
注3 女性解放運動については、加藤春恵子1987「女性解放運動のエスノメソドロジー」栗原彬・庄司興吉編『社会運動と文化形成』東京大学出版会、自立生活運動については安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 1995『生の技法──家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』藤原書店や石川准 1990「自助グループ運動から他者を巻き込む運動へ──ある障害者グループの活動から」→1992『アイデンティティ・ゲーム──存在証明の社会学』新評論などがある。
注4 長谷川公一 1985「社会運動の政治社会学──資源動員論の意義と課題──」『思想』737号
p126
注5 船津衛 1995「集合行動・社会運動のシンボリック相互作用論」船津衛・宝月誠編『シンボリック相互作用論の世界』恒星社厚生閣 p178
注6 横浜障害児を守る連絡協議会「私たちが願うふつうの暮らし〜連絡橋生活実態調査から見えてきたもの〜」1997
注7 石川准の一連の研究には次のようなものがある。
・ 「逸脱の政治──スティグマを貼られた人々のアイデンティティ管理」(1985)『思想』736→1992『アイデンティティ・ゲーム』第5章所収
・「社会運動の戦略的ディレンマ──制度変革と自己変革の狭間で──」(1988)社会学評論2-53
・ 『アイデンティティ・ゲーム──存在証明の社会学』(1992)新評論
・「アイデンティティの政治学」(1996)井上俊他編『岩波講座現代社会学15 差別と共生の社会学』岩波書店
第1章 当事者運動のダイナミズム
本章の目的は、本研究の理論的な分析枠組みを提示し、当事者運動のダイナミズムがいかなるものであるのかを明確にすることである。社会運動のなかでも当事者による運動が活発になってきていることはすでに述べた。では、当事者運動の特質とは何か。ゴフマンの用語にならい、当事者運動の中心をなす人々が感じている明白なマイノリティ観、差別観を「スティグマ」と表現する 注1。そしてこのスティグマをめぐる当事者による社会運動の共通点は「制度変革」と「自己変革」の志向をもつことである。なぜならば、当事者運動への参加はスティグマを貼られた集団へ帰属することを意味し、否応なくそのスティグマを自身に認めさせることであり 注2、運動目標はそれをスティグマでなくすために政治化するものだからである 注3。
第1節 当事者運動の特質
(1)運動の志向──制度変革と自己変革
本研究では社会運動のなかでも、反差別解放運動などのスティグマをめぐる当事者による集合的抗議・運動を当事者運動と定義する。集合行動が運動と定義されるとき、それは社会に向けて発せられる構造変革の志向が必要条件となる 注4。ここで構造と定義されるものを本研究では広義の意味での「制度」と捉え、変革の志向を制度変革志向とする。そして当事者運動に共通するもう一つの志向として自己変革の志向が重要な要素であり、その個人的な体験の共有と生き方の変革は、これまでの社会運動の流れとは異なる。スティグマを貼られた人々の政治活動を「逸脱の政治」と位置づけ、アイデンティティをめぐる相克を分析している石川准は、このような当事者運動は「多種多様であり、しかもまたそれらはしばしば互いに対立しあっている」にもかかわらず、「自我の防衛」がそれらの活動の共通点であることを指摘している 注5。
以下引用
ひとは自らのアイデンティティを管理する能動的な選択主体である。だがそれは、社会的評価や処遇とは一切無関係に、独力でアイデンティティを支えることができるという意味においてではない。それは他者と自分との相互作用のさなかに生成する。だから、ひとは自らのアイデンティティを管理するために、他者に働きかけて、彼の自分に対する評価や処遇を操作しようとする。
・・・・・・スティグマを貼られた人々は・・・・・様々な印象操作の技術を駆使する。とはいえ、彼らのアイデンティティ管理のレパートリーはそれだけではない。時には、彼らもスティグマからの解放を企図して、社会の支配的な逸脱の定義に挑戦することがある。彼らにとっては、集合的抗議もアイデンティティ管理の一戦略である。
集合的抗議に参加するスティグマを貼られた人々は、すでに解放された人々では決してない。彼らは抗議を通じて、アイデンティティ問題をこれから解決しようとする人々である。従って、「意識覚醒」(consciousness rasing)の場と機会を作り上げることが、スティグマを貼られた人々の運動の重要な目的となる。引用終わり 注6
そして「運動への参加とスティグマからの自己解放との間には密接な相乗効果がある」ことを米国の福祉権運動に参加した活動家の例から明示している。この個人の内面の変革を重視した運動は第2期の女性解放運動における「フェミニスト・セラピー」や障害者運動における「自立生活プログラム」など、運動体内でのコミュニケーションを密にすることでメンバーの意識覚醒をめざすという共通点が見出せる 注7。 その一例として挙げられる女性解放運動について江原由美子は次のように述べている。
以下引用
リブ運動は他の多くの社会運動や政治運動と大きく異なる点を持っていた。それはリブ運動が「目標達成」よりも運動する個人の「生き方」を問題にした事である。要求や目的の実現を最優先するのでなく、生き方の論理から、目標や課題を計り直した点である。
引用終わり 注8
このような個人の生き方やアイデンティティの問題が重要な課題とされてきた当事者運動の志向は、近年その活動が活発になり注目されているセルフヘルプグループ 注9の機能として分析されているものとぴったりと重なる。セルフヘルプグループの研究者はその特質を次のように示している。
以下引用
SHG(セルフヘルプグループ)の特質は、社会的に抑圧されていた人々が、アイデンティティを求めての共同作業を通して、新しい自己を発見することを意識的に追求し、アイデンティティの確立=主体的発言の足場の形成=社会的発言の自覚という文脈のなかで、他の社会諸集団と対等の発言を行なっていく点に見出すことができる。 引用終わり 注10
本研究ではこのようなセルフヘルプグループの運動 注11 も一括して当事者運動とするが、そこで当事者運動の特質として、自己変革の志向を当事者運動における第1のダイナミズム、上述した制度変革の志向を第2のダイナミズムとして位置づける。しかしこの2つのダイナミズムは次元を異にするために、その志向作用が運動体内の志向と運動体が対社会に向ける志向となることに注意しなくてはならない(図1−1)。
図1−1 当事者運動における自己変革と制度変革の志向のベクトル
■変革の過程──運動体とメンバーの相克
制度変革志向は運動体が社会に向けてアピールしていく側面であるので、運動目標の設定ができれば、運動体は結束し運動の推進は容易である。一方自己変革は個人の変革とともに運動体の変革を連動しており、変革目標は多様であるだけでなく変革の段階も非常にあいまいで不安定である。たとえば女性解放運動がめざす自己変革の過程におけるメンバーの相克を加藤は次のように述べている。
以下引用
(女性解放運動誌への)これらの投書が問題にしているのは、主婦自身の実感が声となって出てくるのを待つことなく、また、感じ方や考え方の多様性を無視して、「こう感じるべきだ、こう考えるべきだ」と押しつけ、「そう思わない人は遅れている」とばかりに経験の受けとめ方を型にはめてプライドを傷つけてしまう運動の「語り口」への不快感である。これらの女性も、自ら何らかの問題意識があればこそ女性解放の情報に接しているのではないかと思われるが、自己変革は運動側が期待するほど劇的に急激には起こらないことが多い。(中略)社会のなかで価値や生き方が対立しあいながら徐々に変化していく時代を生きる「変動期の自我」の内部は、何人もの自分がいて議論しあうフォーラムのような状態にあり、どれがホンネかタテマエか本人も判断し難い。引用終わり 注12
このような変動期にあるメンバーの自我の相克と、運動体として求める急激な変革の間で生じる葛藤も当事者運動の抱えるひとつの大きな問題点となる。自己変革の志向は運動体のメンバー個人の変革と運動体全体の変革が連動し、個人の変革なしに運動体の変革目標の達成はないのだが、運動体が時間の経過とともに推進する側の変化の速度と新たなメンバーの変化の過程が連動せず、運動体はひとつの局面を迎える。
運動体として自己変革の志向をみたとき、それは個人レベルの変革と運動体レベルの変革という2つの段階がある。運動体が先んじているときは、新たな参加メンバーの自己変革を待っていられないときに運動体と個人の間の相克が激しくなる。逆に自己変革の志向を運動体が軽視するとき、メンバーが自己変革の志向を求め、直接的コミュニケーションや相互交流を必要としているにも関わらずそれが達成できないために、個人と運動体の関係が乖離する。そのバランス自己変革の志向にとって重要となるが、それは戦略的に非常に難しい。当事者運動においてこのような局面をいかに乗り越えるかがひとつの課題となる。そのため、これまで自己変革の志向は運動の戦略論的主題になじみにくく 注13、矛盾が生じるとされてきた。例えば先に挙げた江原による「リブ運動」についての言及の中でその矛盾点として次のように記されている。
以下引用
しかしリブ運動のこの性格故に運動は内部に様々な矛盾をかかえることになった。第1に、個人の経験の重視と運動としての行動計画との接合がむつかしい点が挙げられる。各人が自分の体験を語り合い怒りや不満を確認しあうことは運動参加者個人にとってはカタルシスになり自己変革を可能にする。だがその個人的な経験の語り合いだけでは運動が空転してしまい方針も共同行動計画も決まらず、参加者はいたずらに消耗感ばかり堆積してしまうことになる。逆に運動が個別課題の闘争だけになってしまうと運動のエネルギーが低下してしまうのである。引用終わり 注14
ここで矛盾とされる2つ志向は先の図で示したように別の次元で展開されるものであり、これまで社会運動論のなかで主に分析の対象となってきた制度変革に加え、自己変革の志向を社会的相互作用の視点で分析する必要がある 注15。そこで2つのダイナミズムを総体として捉える試みとして、次に序論で挙げた石川の「社会運動の戦略的ディレンマ」についての仮説を参照し、本研究においての仮説を提示する。
(2)当事者運動における戦略的矛盾
石川は「社会運動の戦略的ディレンマ」注16 において、制度変革と自己変革の同時達成をめざす社会運動のディレンマがどのような要因により生起するのかを、「資源動員論」と「新しい社会運動論」をそれぞれ整理しながら「ネットワーク特性、組織構造、第三者からの援助、実力行使の有効性」という4つの次元に分けて考察し、次のような9つの仮説を提示している。
@「ネットワーク特性」についての仮説 注19
<仮説1>「制度変革目標」の実現にとっては、ネットワークの交換・権力機能、情緒・規範機能、情報通信機能はいずれも重要であり、また相互に代替可能である。
<仮説2>「自己変革」を重点的にめざす運動にとっては、ネットワークの交換・権力機能は不必要であるばかりでなく、時には有害ですらある。
A「組織構造の選択」についての仮説
<仮説3>集中型 注20 の単一運動組織に率いられた社会運動ほど、「制度変革目標」を実現することができる。
<仮説4>地域に根ざした小規模運動体 注21 ほど、「自己変革目標」を実現することができる。
B「外部からの資源調達(第三者からの援助)」についての仮説 注22
<仮説5> とりわけ内部資源が不足している場合には、「制度変革」を特に指向する運動体は、強力な第三者集団(たとえば既成政党や巨大労組)からの援助を必要とする。
<仮説6>強力な第三者集団から援助を受ける運動体ほど、「制度変革目標」をしばしば変更する。
<仮説7>政治体に亀裂やコンフリクトが存在するほど、「制度変革」を重点的にめざす社会運動は、大きなリスクや制約なしに、政治体の成員から資源援助を引き出すことができる。
<仮説8>とりわけ、第三者集団からの支持が得られない場合には、全体社会から自己を隔離し、ミクロ・コスモスの内部でピア・コミュニケーションに没頭する運動ほど、一定程度の「自己変革」を実現できる。
C「実力行使の有効性」についての仮説 注23
<仮説9>実力行使の選択において、各レパートリーの説得的コミュニケーション効果を軽視する社会運動は、予期した成果をあげることができない。このことは、「自己変革重視型」の運動について、より顕著にいえる。
本研究では自己変革の志向における社会的相互作用の機会的要因として、このなかでも特に組織構造についての仮説に着目した。組織構造の選択の例として挙げられているのは、女性解放運動の旧世代派が集中型で制度変革に寄与し、新世代派が分散型で「意識覚醒やピア・カウンセリング、自己教育プログラムで成果を上げている」としている 注24。集中型の単一の専門運動組織体に率いられていることが制度変革の実現に有効であるのに対し、自己変革は「直接的コミュニケーション、対面的相互作用を通じて意識覚醒、アイデンティティの相互承認、自己表現が行える」点で分散型の地域に根ざした小規模組織が有効であるとされる。そしてこの「組織構造の選択はもっとも深刻な戦略的ディレンマをもたらす」と述べている。だが「もし、状況や運動目標の転換に即応して、集中型と分散型の組織モードを適時切り替えることができるような『二重システム』(dual system)を社会運動が有しているならば、『制度変革』と『自己変革』の同時進行的達成もあながち不可能ではないのかもしれない」としている。
石川はこれらの仮説から、「『自己変革目標』の達成にとって最適であるような戦略と『制度変革目標』の実現にとって最適であるような戦略とは、一致しないのみならず相互に背反しあっている」ことを導き、「『制度変革』と『自己変革』という二つの目標の達成を、一つの社会運動体に負担させること自体酷なのではないだろうか」という。そしてこの問題を乗り越えるひとつの方法として、「例えば一つの社会運動において、「制度変革重視型」の運動体と「自己変革重視型」の運動体を、適切にリンクしネットワーク化するためのプログラムを構築すること」を提案している 注25。
石川のこの理論的な分析は、これまでの社会運動論においてあまり重視されていなかった自己変革の側面に迫っており、2つの変革志向の実現のための戦略論として非常に積極的な試みである。だが当事者運動の目的として、2つの志向を総体として捉える本研究の立場からすると、その仮説から導き出された矛盾点はあまりにも悲観的である。 ここでディレンマとされる2つの志向の間に生起するものを、逆にいえば両方の志向のダイナミズムから生れる第3のダイナミズムともいうべき、運動の総体として発達的に捉える方が有効ではないか。そもそも両方の変革の同時達成が無理であるのなら、それはひとつの変化の過程と捉える方が有効であろう。塩原勉の運動総過程論で明確に提示されているように運動は常に変容を伴い、そしてまた変革しようとする志向もいくつも存在する。そのことを次のように述べている。
以下引用
要するに複数の構成素を系統的に変革しようとする志向が複数に形成されうること、したがって複数の志向による複数の動員形態が運動過程の展開の中で交差し転化しあうこと、この認識が重要である。引用終わり 注26
またシンボリック相互作用論における集合行動・社会運動の研究においては、船津衛はR.H.ターナーを挙げて「社会運動とは、集団および個人の現実に関する見方を持続的に構成し、再構成する手段であり、それは安定したものというより変化するものである」 注27 とし、「社会運動の組織は常に変化・変容し、また新たなものを創発する過程である」注28 とする立場である。運動総過程論においても、またシンボリック相互作用論においても社会運動が展開する過程での組織形成、その後の運動の転化、発展、または解散などの変化を捉えている。この変化の過程を捉えるには、時間軸というもうひとつの要素が分析に必要となる。本研究ではこの時間軸を発達的プロセスの要素に含め、運動体の組織化の過程を発展過程として提示し、組織構造との関連から明らかにする。
(3)当事者運動の発達的プロセス
そこでもう一度石川により提示された組織構造の仮説に戻ろう。自己変革目標の達成には分散型の組織構造が有効であり、制度変革目標の実現には集中型が好ましいとされ、2つの組織形態を変革目標に応じて切り替える二重システムがあれば、同時達成の可能性があることを示唆していた。これを図にすれば、以下のようになる(図1−2)。
図1−2 運動体の組織構造の選択についての概念図
これまで2つの志向の間に生起する一つの力が運動体の──特に当事者運動のジレンマとされてきた。そして、ここで提案されている変革目標に応じた集中型と分散型の組織モードを切り替える二重システムの可能性は、果たして実際に可能なのかという疑問が浮かぶ。なぜならば集中型の運動体においては、直接的コミュニケーションの効果は薄く、そもそも集中型から分散型への移行は原理的に不可能と考えられる。一方、分散型の運動体において、時間的経過の中でネットワークが集中型の大規模運動体へと移行する可能性は大きい。しかし、その時点でいかに運動体のネットワーク機能をいかに維持していけるのかという点は、非常に大きな課題となる。この二重システムについては、慎重に考えねばならない戦略だといえる。
そこで運動体の発達的プロセスの過程として時間軸を加えると、それは組織モードの切替でなく、組織構造自体がその発達段階で変化する可能性を示すことができる。そしてジレンマは、発達的プロセスにおいて、新たなダイナミズムを生む可能性を示唆できる。これは相互連関的な変化のダイナミズムと考えられる。例えば三島一郎はセルフヘルプグループを「ひとつのシステム」として、メンバーである個人とセルフヘルプグループ全体における相互作用により生じる「変化」の過程を重要な機能とみており、その変化が「個人、グループ、コミュニティ、社会そして社会変革の各段階で同時促進的に起こり、各段階の変化は、相互連関的に作用し合い展開する」ことを指摘している 注29 が、これを当事者運動として考えると、ひとつの発達的プロセスにおけるダイナミズムの連関であり、これが運動体の発達において最も重要なダイナミズムと考えることが可能である。(図1−3)
図1−3 当事者運動の発達的プロセスにおけるダイナミズムについての概念図
当事者運動の分析においては、既に述べたように社会的相互作用の視点から運動体の中で起こり得るダイナミズムの分析に加え、運動体が対社会との相互作用を生み、それを有効な手段として導きうる組織構造の分析が必要である。更にこれに加え、歴史的な背景と運動体として発達する時間軸も不可欠な要素として、まず、この3つの次元を分けて分析しながらも、その3次元を総体として捉え、運動体の変化の過程を記述することが必要だと考える。組織構造は時間軸とクロスさせて組織化の過程をみることも必要である。そして、社会的相互作用の機会を有効にするための組織構造として、組織構造と社会的相互作用も関連づけて分析しなくてはならない(図1−4)。そこで本研究では下記の図に記した概念を軸に、知的障害児・者の親の会というひとつの特殊性をもった当事者運動を分析する。
図1−4 当事者運動におけるダイナミズムへの3要素の作用についての概念図
第2節 知的障害児・者の親の会運動の特徴
本研究で知的障害児・者の親の会運動に着眼した理由は既に述べたが、親の会運動におけるダイナミズムは当事者運動のなかでも当事者である反面、障害者運動のなかで差別者としての親──家族の愛情がいかに障害児・者を排除してきたかということを指摘されたように、親自身の位置が子どもと社会の間で非常に揺れ動くものであり、運動体が当事者運動として推進していくまでの葛藤は大きいもので、先に示した制度変革志向と自己変革志向の間に生起するダイナミズムは更に重要性をもつと考えられる。そこで親の会運動の事例を考察する前に、親の会運動の変革の志向を捉えるため障害児・者の親が抱える問題がどのように生起するのか、当事者運動としてどのような性質を持つのかについて本節で説明する。
(1)障害児と親の関係
現代の社会的な状況では、障害は明らかに「ないほうがよい」ものとされるのが圧倒的な趨勢である。あたり前のことだが、障害児の親は妊娠するまえから子どもに障害があることを判って、妊娠・出産するわけではない。よく、臨月までは男児か女児かを望んでいた両親・祖父母が、予定日近く、あるいは出産となると「五体満足であればどちらでも・・・」という気持ちに変化するという表現がされる。この「五体満足」ということばに、ここで差別的な意図があるかということはいまは問わない。ごく一般的な家族の風景を想起してもらいたい。一般的にはそのような状況の中で出産を経て、喜びと不安に満ちた慌ただしい育児の生活へと時は流れていく。そのような日常生活のなかで、子どもの障害を認識したときの親への心理的な影響については研究者の関心も高く、特に1980年代から多くの心理学的アプローチが見られる。
■「親の心理的負担」及び「障害の受容過程」に関する研究の概要
障害児と親の問題を語るとき、これまで「障害の受容」ということばが多く使われ、実際に「障害児受容過程」に関する研究が多くなされてきた。「受容」という言葉の意味については、変革の志向として後に考えるが、これまでの研究において障害児・者と親の関係性をどのように捉えてきたのか、心理学的アプローチについて簡単に示す。
@ストレス研究
わが国では1980年頃から「ストレス尺度」というものを用いて、障害児をもつ家族の「ストレス」を測定しようとする数量的な研究がなされている 注30。 当然のことながら子どもの障害は出生時にすぐにわかるものばかりではなく、障害のあらわれ方などによっても親への影響が異なることは明白である 注31。 また、一般的に父親と比較して育児に関わる時間が長い母親 を対象としたものが多いが、父親と母親に分けて調査した研究や身体障害と知的障害に分けてそのストレスの違いを比較した研究などがあり、障害児をもつ家族の生活の状況を把握し、公的サービスを充実させるためには何が必要なのかを探る上で非常に意義深い内容のものである。また数量的な調査研究が多くみられるのは、1980年前後という時代的な背景もあると考えられる。しかしこれらの研究から感じるのは、障害児に対する否定的価値観が先行してしまうことに対する恐れである。もちろん、これらの研究が家族の生活の実態を知る上での重要性は認める上で、また「ストレス」の実態を調査した研究であるので当然のことであるが、これらの研究は既に障害児を負の要因と捉えており、あまりに否定的側面が強すぎるといわざるをえない。
このようなストレス研究の否定的側面を乗り越える点で、次に述べるような「障害の受容」から「新たな価値観の獲得」という側面に注目した親の意識に関する質的な研究が徐々にみられるようになる。
A障害の受容に関する研究
障害児をもつことによる親の意識とその受容過程についての研究は海外の研究も含め、1960年代からみられる 注32。当初の障害児受容過程研究は、障害児の誕生を「家族危機」として特に精神医学の立場からは「対象喪失」と表現し、その過程を「悲哀の過程 注33」と捉えている。「悲哀の過程」は、「@ショック、A否認、B悲しみ・怒り、C適応、D再帰」という5段階 注34に分けられ、療育関係者や精神医学・心理学の領域においては広く知られている考え方であるといえる。また、このような「障害の受容過程」と「死の受容過程」との共通性 注35を示す記述も多い 注36。
1982年に久保が障害児の家族研究をまとめている 注37が、その中で久保はこうした一連の「親の障害児受容のプロセス」の研究を「人間がクライシスに遭遇し不均衡の状態におちいったときにどのように再均衡の状態になるかというクライシス理論の適用と」位置づけ 注38、別の論文で「ただし「均衡→不均衡→再均衡」式の適応の面だけで解明することへの抵抗はあるだろう。障害児をもつことの「意味」とか「価値」「苦悩」など人間学的なアプローチからの研究は必要と思われる 注39」と述べている。このような受容過程研究の系譜の中で久保は、1963年になされた、親の手記、私信からの分析という質的研究をした鑪の研究を評価し、紹介している 注40。
久保は障害児が生まれたことにより生じるその家族の「大変さ」を「身体的影響、心理的影響、社会的・対人関係的影響、経済的影響、日常生活の中で生じる問題」を簡潔にまとめると同時に、その影響のマイナス要因ばかりでなく「障害児より学ぶこと」として「障害児をとおして親自身が自己を変革した例」に着目し「価値の転換とでも呼べるこの種の研究は、従来あまりとりあげられてこなかったが、今後重要視すべきものである」と述べている 注41。 さらに「一般的にいえば親の「大変さ」は障害の程度と比例するが、親の衝撃の度合は必ずしも重度の子どもの親のほうが強いとは限らない。ときに「あきらめ」とか「ひらきなおり」などと重度の障害児の親自身がネガティブに表現することがあるが、これは現実を直視し親が態度変容をした結果のポジティブな意味をもつ場合もあろう」という。
これらの久保による指摘は親の障害児観の変化──「価値観の転換」の重要性に目を向けた研究と考えられる。 同じ年、稲浪も同様に統計的研究に加えて「一人の親が子どもを養育していく上で遭遇する多様な情緒的変遷、価値観の変容として」親の意識を把握する試みをしている 注42。
■社会の意識と親の障害の受容との関係──「価値観の転換」から「共生」に向けて
1980年代の後半から「障害の受容」における家族社会学的な研究もみられるようになる。それまでの研究も、親の障害に対する認識と社会との関係を論じていないわけではないが、障害の受け止め方が社会の言説にいかに影響されており、親がそれに翻弄されていることを的確に捉えたのが要田洋江 注43による研究であろう。先に触れた「悲嘆の過程」について要田は次のように指摘する。
以下引用
「悲嘆の過程」研究は、それ自体、「常識」枠組でもって、障害児をもつ親たちの状況を捉えていたにすぎないのだ。「再起」といい「希望」といっても、それは「常識」の中で親たちを支えることにすぎない。それは、結果として、障害児排除以外のなにものももたらさないであろう。引用終わり 注44
この指摘は正しい。ここでの「常識」における障害児・者の社会的位置とはどのようなものなのか。要田は「ダウン症児の親子教室」での聞き取りにおける「何でこんな子を産んだの」とか「死んで生まれたら良かったのに」という否定的言説から、「障害児が置かれている社会的位置は決して、中心にはない。それどころか、明らかに障害児の生命を否定している」常識をあぶりだしている。そして常識とはそのような価値観をもつ社会の狭さを意味している。
以下引用
このような否定的な言説が示すような価値観を共有している社会では、障害児はまさに生きることを否定され、それが社会の「常識」として取り扱われ、その結果、障害児は社会の周辺に位置づけられる。引用終わり注45
出生時に障害が診断される場合、その「常識」の枠内での言説をまず最初に両親に示すのは医師もしくは医療関係者である。要田は「健全者の論理」に立った医療関係者の障害児に対する否定的価値観が、親たちの価値観に大きな影響を与え、それに加えて親族の対応もまた「常識の枠組」による障害児観から両親に対してさらなる圧力を加えることを指摘している。そして、親自身もその「常識」から免れることができず、「ショックという反応が表現する親たちの「とまどい」は、障害児をもった親たちが“差別される対象”であると同時に“差別する主体”でもあるという、両義的存在であることに由来」することを指摘している 注46。
しかし、障害児・者の親と接していると、親が単にこのような「常識」の枠内のとどまっている存在ではないことに気付かされる。親はその子とともに生活する中で、おなじ時間を共有していく中で、「障害児」としてでなく「わが子」との関係を築いていく。要田は親が「社会が持つ子ども観・能力観をそのまま受け入れるのはなく、すなわち、予め用意された物差しで子どもを測るのではなく、本来その子が持っているものに目を向けることによって初めて、本当の意味で、子どもが“生きる”ことができ、その結果、親も“生きる”ことができる」という新たな視点を持つこと 注47により、家族が開かれ、また家族が結び合い、「親は、同じような悩みを持つ人々と出会いたいと思い」、行動し始めることを見出している。そして「他の資源を活用し、周囲の人々とともに、改善を求め、社会に働きかける力を持ち始める」注48という親たちの態度は、当事者運動としての契機である。
(2)親の会運動における変革の志向
障害児・者の親のおかれている状況は、まさにこの間主観的に構成されたスティグマをめぐる葛藤の連続である。障害児・者の親はこのスティグマをめぐり印象操作を駆使する。そこで親たちは最大の差別者とされてきた。しかし上述したように、親たちは子どもとともに生きることで変革し、社会に対しての集合的抗議に向う。あるいは運動体の相互作用の中から、またネットワークを通じて自己を変革していく。この変革の志向を障害の受容ということばで表現すれば、それは一般的な意味で用いられる「受容」とは異なる。 大江健三郎は「障害の受容」という「言葉の解釈」ついてに次のように述べている。
以下引用
障害を負った人が、事故からのショックの時期や、障害がやがてなくなるものだとしてその永続を自分の上に否認する時期、また障害がはっきりした事実だと認めざるをえず、混乱する時期。そうした過程を乗り越えて障害と相対するための準備期をへた後、自分の障害を受容し、そのような人間として、家族へのまたは障害への自分の役割をしっかりと把握する時期の、その受容。
したがって、社会の側で、あるいはその社会を構成する健常者の側で、障害者を受け入れるという意味での受容よりは、もっと積極的な強い意味を持っているはずの言葉なのだ。引用終わり 注49
ここでは障害を負った人のその受容という意味で用いられているが、これは親にとっての子どもの障害の受容に重なると考えられる。しかし、受容は一回きりのものではない。それは子どもの成長とともに、ライフステージにおいて問題が生起する度に繰り返される。そしてその節目において変革の志向が生れる。例えば、次のような語りからそれは知ることができる。
以下引用
小野 自分の子どものしょうがいを受容するっていってもね、一度じゃないと思う のね。節目節目ごとに受容があると思う。いったんしょうがい児なんだってこ とを認めても、例えば学校に入るときには、もう一度あらためて健常児との違 いを認め直させられるわけでしょ。そして、そのあと入試とか就職とか成人と か結婚とか、節目節目に・・・・・・。
玉井 そう、節目節目で、しょうがい児である事実を確認してるんだよね。
(中略)
小野 おじいちゃんおばあちゃんや地域の人たちにも、節目節目で子どものありの ままを受けとめてもらえたらいいね。 引用終わり 注50
親がいったん子どもの障害を真摯に受け止め、「受容」に至っても、常に社会の言説や地域社会の既成の価値観が親の意識を障害の「否定」に引き戻す危険性を孕んでいる。だからこそ、障害の受容を社会へと広げる必要がある。再び大江の言葉を引用すると、障害児・者と家族の関係について次のように述べている。
以下引用
障害を持っている子供を、家族のなかに積極的に受け入れること。そして、障害児をふくみこんだ家族のあり方を、これから生きてゆく基本のかたちとしてとらえ、その方向で力をつくす。やがては障害児ぐるみの家族が、そのこと自体において、独自の役割を、その地域社会において果たすことになる。あるいはついにそれを、社会へのメッセージとなりうるものにまで確かなものとする。それが障害を受容した家族ということではないか。引用終わり 注51
それは新たな人間観を生む大きな契機である。 「親の立場から」として最首悟は次のように述べている。
以下引用
重い知恵おくれの場合は、一人で食っていくという意味での自立の道は最初から閉ざされている。とすれば、「知恵おくれは知恵おくれとして」過不足なく受けとめ、天真らんまんなのんびりした性質や、保守頑迷な性格から生まれるおかしみややりきれなさを、めでたり、愛したり、愚痴をこぼしたりして共に生きてゆくほかはないのである。畳は小便くさいし、食事、入浴も大騒ぎ、買物一つままならない。しんどいことにかわりない。しかしそこには、喜怒哀楽をはじめとするもろもろの感情が解放されていくドラマがある。日常のなかに非日常が、俗のなかに聖がもちこまれてくる、「大したこと」のなかに「大したことでないこと」を、「大したことでないこと」に「大したこと」を発見する、すぐには終らないドラマがある。ドラマをたのしむかどうか、ドラマが必要かどうか、これはひるがえってまた、どのような人生を選択するかの人生観にかかわってくる。
親がこのようなドラマを享受し、自分の人生は無味乾燥ではないと思う、そしてそれはこの子のおかげとどこかで意識する、そのような態度が自然にそなわって、はじめて向う三軒両隣りから地域へひろがって、子どもは人気者になったり、いじめられたり、うとまれたりして、生きてゆく条件が開けてゆくのである。
そんなに簡単かといわれようと何しようと、そして都市構造のなかでは絶望的であろうと、この土壌に思いを定めなければ、子どもの生きる空間も、親のしんどさや経済的ネックの解消もほんとうにははかれない。 引用終わり 注52
石川准(1995)は「存在証明」の理論から障害児と親の関係性を論じる中で、上記のような最首の人間観を「社会の支配的な価値を作り替えることによって、これまで否定的に評価されてきた自分の社会的アイデンティティを肯定的なものへと反転させることで、自分の価値を取り戻そうとする」「価値の取り戻し」と捉え、「何かしら価値のある行為によって、doingによって初めて価値が与えられると考える世界観とは異なり、存在することそれ自体の内に、つまりbeingそのものに価値があると考え実感する世界観」としての「存在証明からの自由」というこのような親の生き方を、「共生と多様性の祝福へと社会を向わせる変動の契機」がはらまれた「生きる様式」という 注53。だが多くの親たちにとって、このような人間観や生きる様式を獲得するまでにはいくつもの葛藤がある。全国重症心身障害児(者)を守る会会長の北浦雅子は、その運動の過程を記すなかで次のように述べている。
以下引用
このさき、ヒサ坊(北浦氏の子で重症心身障害をもつ)は生きている限り、苦しまなければなりません。私は、その姿をいやおうなく見ていなければならないのです。私は、毎日のように泣き暮しておりました。
しかし、いくら泣いてみても、ヒサ坊の病気はすこしもよくはなりません。ヒサ坊の幸せは、泣いているだけではやってこないのです。このどうにもならないぎりぎりの絶体絶命のなかから、私の固い心の扉は、少しずつ開くようにならざるをえなかったのです。
そして、泣いている自分は自分自身がかわいそうで泣いているのではないか、子どものことを本当に思ったらここで何かをやるべきではないか、ということに気づき、現実の子どもの症状に大した変化はなかったのですが、私の心は180度いや360度転換しました。このことは、物事を客観的に見、おのれをすてて事にあたる以外にこの子を助ける道はない、ということを教えられたのです。そのときの心の転換が大きな柱となり、それは、今日でも私を支えているように思われます。
しかし、さらに「この子はわが家の宝なのだ」「この子はわが師なのだ」といいきれるまでには、さらに十何年の月日が必要でした。引用終わり 注54
親たちの運動の変革の志向において、自己変革とは社会の常識・支配的な枠組みによらず、「障害児」ではなく「わが子」との関係を築いていく価値観を身につけ、更に積極的にいえばその価値観を社会に向っても伝えていけることと考える。「わが子」と自分自身の関係性を、家族の中からさらに地域にひろげ、社会にひろげることができたとき、自己変革からさらに大きな意味での制度変革への契機となるといえるのではないだろうか。そして北浦が述べているように、逆に制度変革を通し、社会とのコンフリクトも超えて新たな共生社会への実現に向けた運動を展開したとき、親の価値観が転換し運動体もまた自己変革を達成していくと考えられる。それは自己変革と制度変革の2つ志向をもつダイナミズムの総体のなかで、2つのベクトルが作用し合うなかで、総体としてのダイナミズムは運動を更なる目標の達成へと向けていく大きな力となると考える。
親の会運動は1950年代に既に誕生し、当事者運動としてみた場合、1960年代後半から台頭してきた様々な運動に比べ、歴史的な背景と時代の流れの中で社会的な価値観の変化とともに親の会のメンバーの世代が移行し、運動も変化してきた過程を見ることができる。本研究では運動が組織化に至る時間軸を時代的背景と運動の経過から考察し、組織構造の違いを一つの分析の要素として親の会の運動を比較考察する。それにより変革の志向にどのような違いがあり、運動体の当事者運動としてのダイナミズムに影響するのかを考察する。
次の章ではまず、運動目標の転機となる時代的な背景を明確にするために、親の会運動の歴史を簡単に記述し、運動体の組織化の過程を時間軸で捉える。そして時代的な運動目標の違いから生じた2つの親の会運動の組織構造の違いを分析し、その後メンバーの社会的相互作用と変革の志向について考察する。
■脚注
注1 Goffman,E.1963=1970 Stigma : Notes on the Management of Spoiled Identity , Prentice-Hall, INC. 石黒毅訳『スティグマの社会学 烙印をおされたアイデンティティ』せりか書房
以下引用
ことに人の信頼を失わせるそれの働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。・・・・・すべての望ましくない属性が問題になるのではなく、ある型の人がどうあるべきかについてわれわれがもっているステレオタイプと不調和な属性だけが問題になる・・・・そこで、スティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性を言い表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなくて関係を表現する言葉なのだ、ということである。(p12) 引用終わり
注2 Goffmanによれば、
以下引用
(同憂同苦の仲間から成り立つ)この種の集団の代弁者は、スティグマのある者の真の集団、すなわち彼が本来的に(natually)所属する集団は、この集団である、と主張する。(中略)したがって、個人の真に帰属する集団は、[彼と]同一のスティグマをもつゆえに恐らくは彼が経験しているのと同一の挫折感を味わっている人びとを成員とする集合である。すなわち、彼が本来帰属する<集団>とは、実のところ、彼に面目を失わせる原因となっているカテゴリーにほかならない。引用終わり(同p184)
これは、スティグマを貼られた人々が集合化することを難しくすることを指摘している。しかしその一方、内集団への帰属から個人の変化が生じることも事実である。これを運動参加のダイナミズムと位置づけることも可能だと考える。これは後に考察する。
注3 Goffmanは「[たとえば]究極的な政治的目標が当該の異常をスティグマでなくすることにある場合、[これを実現しようという]努力自体が自分自身の生活を政治化し、自分の生活(そもそも彼には認められていなかったものではあるが)とはいっそう違ったものにしている、ことに気づく場合がある(同p185)」とし、スティグマを貼られた人々の政治化の両義性を指摘している。しかしGoffmanは、スティグマを貼られた人々の集合的抗議には言及していない。後に参照する石川准の理論展開は、スティグマを貼られた人々のアイデンティティの相克に着眼してなされている。
注4 塩原勉によれば「社会変動の原因ないし結果として生起する社会的ストレンを、特定の構造(諸)構成素の変革という新秩序志向にもとづいて解決することを意図して行われる、集合的または組織的、非制度的または制度的な動員」と定義される。このなかでも構造構成素の変革の有無が運動の定義の要素となる。(塩原勉 1976「運動論パラダイムの整備」似田貝香門・梶田孝道・福岡安則編 1986『リーディングス日本の社会学10 社会運動』東京大学出版会 p52-59)
注5 石川は犯罪者や非行少年に限らず、「民族的人種的少数者、女性、同性愛者、障害者、精神病者なども、属性規範や能力次元の行動規範に抵触するとされ、スティグマを貼られる人々」であり、「これらの人々こそが今日の逸脱の政治の主たる担い手である」とする。 そして「自我の防衛」すなわち「自分たちのアイデンティティを防衛」するための逸脱の政治とは、「社会の支配的な逸脱の定義を修正することで、自我に刻印されたスティグマを拭い消そうとする」ことである。 (石川1985「逸脱の政治──スティグマを貼られた人々のアイデンティティ管理」『思想』736号 →1992『アイデンティティ・ゲーム』第5章所収 p196-197)
注6 同上 :p213-220
注7 女性解放運動におけるコミュニケーションの実践については加藤春恵子( 1987 「女性解放運動のエスノメソドロジー」栗原彬・庄司興吉編『社会運動と文化形成』東京大学出版会p185-212)がエスノメソドロジーやシンボリック相互作用論の枠組みで分析しており、女性解放運動における自己変革作用を明確に位置づけている。また、障害者の自立生活運動については安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也 ( 1995『生の技法──家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補・改訂版』藤原書店)、石川准(1992前掲)よりその詳しい実践の内容が明らかにされている。
注8 江原由美子1983「乱れた振子──リブ運動の軌跡」→似田貝他編1986:289
注9 セルフヘルプグループ研究においてはアルコール依存症者の匿名の会(Alcoholics Anonimous:AA)がその典型的なモデルとして研究の対象とされてきたが、現在では慢性疾患の患者のグループや女性の意識向上グループを始めあらゆる分野の様々なグループが誕生しており、日本においてもその先進国ともいえるアメリカに数量的には及ばないものの、「断酒会、糖尿病、リウマチ、パーキンソン病、血友病、こうげん病などの<友の会>、人工透析、ストーマ、心臓病、肝臓病などで苦しんでいる人々のグループ、精神障害者家族会、てんかん協会(波の会)、さらに視覚・聴覚・肢体障害といった身体障害、知的障害、自閉症、重症心身障害など、様々な障害を持つ本人の家族の会(家族会)」(三島一郎 1997「セルフ・ヘルプ・グループの機能研究に関する批判的再検討」日本社会事業大学編『社会福祉システムの展望 日本社会事業大学創立50周年記念論文集』中央法規出版 p400)があるとされる。
注10 窪田暁子 1991 「Self Help Group論の検討 成立の社会的背景からみたその特質」東洋大学大学院紀要第28集 p155
注11 セルフヘルプグループの機能は、個人の変化のレベルから社会の変化のレベルへとその過程が相互連関的になされるものとして、社会運動として捉えることも可能であろう。実際、Gartner. & Reissman (Gartner, A. & Reissman, F.1977=1988 SELF-HELP GROUP IN THE HUMAN SERVICES, Jossey-bass INC.,Publishers, San Francisco 久保紘章監訳『セルフヘルプグループの理論と実際』川島書店)を始めセルフヘルプグループの研究者は社会運動──特に1960年代以降の社会運動との共通性を指摘している。たとえば平野かよ子は米国で1960年代に反戦運動や「住民運動、消費者運動、女性解放運動」と同時にセルフヘルプ運動が展開されたとし、「地球規模での民主的な生き方を実現する運動が起こり、この流れの中でさらに多くのSHG(セルフヘルプグループ)が発展した」としている(平野1991「Self Help Group論の検討 研究の現状と課題」東洋大学大学院紀要第28集 p137)。また、岡知史は「日本におけるセルフヘルプ」についての研究において、「自立=解放運動」の流れから分析している(岡1990「日本におけるセルフヘルプ──そこにみられる相互扶助の伝統と自立=解放運動の流れをめぐって──」上智大学社会福祉研究 1990.3:p4-31)。 三島はセルフヘルプ運動が「グループのネットワーク、イデオロギー、社会への対抗(現実に、あるいはそう知覚されて)、共通の目的の感覚、個人と社会との両方の変化の欲求、力の獲得」という点で「いくつかの社会運動の基準を満たしている」(三島 前掲:p411)としている。 また窪田は、「セルフヘルプ運動は、米国やカナダにおける、(そしておそらくヨーロッパ諸国の大部分において同様の)社会運動としての意義と可能性を大きく持っていると考えられて」いることを示し、そのあり方を次のように記している。
以下引用
社会運動といっても、社会の構造を基本的に変えることを意味してはおらず、それは社会の諸制度、専門職やそのシステムのあり方へのチャレンジ、いわばそれぞれの立場からの現状批判、「異議申立て」を意味し、民主主義社会における議会活動とそれを通しての制度改革を意味している。引用終わり(窪田前掲:p154-155)
しかし、セルフヘルプグループ研究においては「社会変革運動としての質についてはかなり議論がある」のが現状のようである。(岡 1994b「セルフヘルプグループの援助特性について」上智大学社会福祉研究 1994p16)
注12 加藤 前掲:p198-199
注13 石川によれば、新しい社会運動論においては制度変革と自己変革の両方の志向を社会運動の要素と捉えた分析がなされているが、戦略論的にはあまり言及されていないとされる。石川はここで高橋徹の次のような指摘を引用している。「現実に(個人変革と社会変革の同時実現という)この目標を達成しえている組織は希有に近い。短命と合目的的な自己解体を恐れない組織を除くと、新しい社会運動も道具的合理性と価値合理性の乖離に身を引き裂かれているようである。・・・・」(高橋徹 1985「後期資本主義社会における新しい社会運動」『思想』737より)
注14 江原 前掲:p289 また加藤(前掲)はコミュニケーション過程の立場から女性解放運動における困難さを次のように記している。
以下引用
認識や発言の機会を多くもつ者が、送り手として、一方的に受け手の状況を切ろうとすると、往々にして次のようなことが起こる。受け手が自尊心を傷つけられたと感じ、防御の姿勢を固め、自我のなかに在る複数の「自分」のなかから相手に最も敵対的なものを選んで立ち向かい、相手と共感できる部分を抑圧して、一枚岩の反対者として立ちあらわれるという事態がそれである。(中略)働きかけた側が「私のおかげでわかったんじゃないか」という態度をみせると、またもとの意見に戻るケースもある。相手の「状況の自己定義権」を尊重し、相手自身が問題を語り出すまで待ち、相手の自己変革を相手自身の立場に立って「自尊心」を大切にしながら共に喜ぶ姿勢を鍛えない限り、運動主体自ら運動を痩せ細らせていくという結果が生じることは避け難いといえるであろう。引用終わり p201
注15 石川はそれまでの社会運動論が提示してきた運動の要因の他に「運動への媒介項として機能する社会的ネットワーク」に注目し、そのような集合的抗議を「微視的相互作用における権力の問題と、逸脱の政治の巨視的社会構造的規定の問題を、総体として把握」していく「戦略的好地」としている。(石川准 前掲1985→1992:219-220)
注16 石川 1988 「社会運動の戦略的ディレンマ──制度変革と自己変革の狭間で──」社会学評論2-53
石川はこのなかで社会運動を次のように定義している。
以下引用
筆者は社会運動を圧力集団のロビー活動から区別する基準として、『自己変革』視点を導入したい。 社会運動は、「制度変革志向」と共に「自己変革志向」を持つ。社会制度や社会意識を変えていこうとすると同時に、自分達のアイデンティティやライフスタイルを変えていこうとする集合行為だけが、社会運動である。どちらの要素を失っても、社会運動は他の集合行為へと変質する。 引用終わり
また、自己変革を次のように定義している。
以下引用
一言でいえば、「自己変革」とは、効用関数ないしは選好順序の変更に伴う選択行動の変化のことである。言い換えれば、(1)同一の状況において、かつてとは異なる選択を行うようになる。(2)しかもそのような変化が複数の状況にまで及ぶ。(3)さらに、新しい角度から状況と選択を意味づける評価枠組みが形成される、という条件が満たされたときに、「自己変革」が起きたと判断できる。引用終わり
この論文の主題は、自身が行っている「障害者の自立生活運動」に関する調査研究が背景となっている。
注17 私自身は「社会運動論」について十分に学んだわけではないので、ここではそれぞれの社会運動論を詳細に検討することはできず、石川(1988)による整理を引用するにとどめることしかできない。それぞれの社会運動論について学ぶことも今後の課題としたい。
石川によれば、「資源動員論」は「運動の組織者の観点に立って、運動戦略の有効性を分析する」以下に石川論文からの要約を記す。
■「資源動員論」の基本枠組み
@人々の運動への参加や運動からの離脱を説明する理論として、不満、剥奪感、信念、イデオロギー等の感情や着範囲式を重視する社会心理学的行為論を放棄して、合理的選択や効用計算を前提としたミクロ経済学の行為論に準拠した、「動機の理論」を展開する。
A参加者一人一人よりも運動組織に焦点を合わせ、圧力集団や企業体の組織分析と同じ手法を用いて、運動体の財政、組織効率、外部資源の調達と運用、他集団との組織連関を分析、評価する「組織の理論」を展開する。
B社会運動体の動員力、敵手の社会統制力、第三者集団の動向を戦略的変数とする狭義の「運動の理論」を展開する。
「資源動員論」の理論関心→運動体が目標とする「制度変革」を達成するために運動組織はいかにして人々を動員し、どのような組織構造を作り、いかなる運動戦略でどのような敵手と戦うのかを分析
注18 石川は「新しい社会運動論の問題提起」を次のように位置づけている。「経済政治システムの生活世界への進入(生活世界の植民地化)という後期資本主義的状況ないしテクノクラートによって制御されるポスト産業社会的状況において沸き起こるエコロジー運動、反原子力運動、女性解放運動、反民族差別運動などを緩やかにまとめて「新しい社会運動」と呼ぶ。」
以下に要約を記す。
■「新しい社会運動」の目的
@「新しい社会運動」は生活世界の植民地化に対抗して、日常生活における意味の防衛、エコロジカルな環境の保護をめざす運動である。国家が提示するプログラムを拒否し、代替的ライフスタイル、行為の意味の自己定義、政治的意思決定への直接参加、平和、エコロジー、性の解放などを追求する運動である。
A教育、福祉、交通、環境、文化などは市場化が弊害をもたらしやすい財である。「新しい社会運動」は、国家に、これらを公共財として供給することを、市民の権利として要求する運動である。
B「新しい社会運動」は文化的規範、社会的規範の改革をめざす運動である。即ち、市民社会の内部に働きかけ、自分達自身の生活世界の文法を修正し、新しいライフスタイルを獲得しようとする運動である。
→「新しい社会運動」の本質的特徴・・・国家の市民社会への介入に抵抗しつつ、市民社会への国家の奉仕機能の充実を求め、さらに、市民社会の規範秩序の自己批判的再編をめざす点
■「新しい社会運動」の形態的特徴
@運動スタイル──自発的、非制度的、直接的
A運動組織──分節的、多中心的、分権的
B政党・労組を媒介せずに国家と直接交渉し対決する
C行使できる実力のレパートリーから極力暴力を排除
■「新しい社会運動論」の本来的関心→社会運動を社会変動の弁証法的動力因と捉える
社会運動のマクロな力量を見極めることに傾注
注19 この仮説では資源動員論から導き出された「協力して集合行為をおこせば集合財が獲得できるにもかかわらず、個々人が参加コストを惜しんで、ただ乗りをきめこむ結果、十分な選択的誘因が参加者一人一人に提供されない限り集合行為は不発に終る」というマンカー・オルソンの「強いただ乗り仮説」からのただ乗り問題を打開するための方法として挙げられている「ネットワークの機能特性」に着眼した3つの主張を紹介している。
3つの主張点とは次のようなものである。
@アンソニー・オーバーシャル──「ネットワークの交換・権力機能」
→連帯集団によるただ乗り抑止
・・・「連帯集団」=選択的誘因を産出する構造的ユニット→「利害のしがらみ」
Aファイアーマン、ギャムソン、ジェンキンス──「ネットワークの情緒・規範機能」
→連帯集団においては情緒的コミットメント・規範的拘束力がただ乗り抑止
Bウォルシュ、ウォーランド──「ネットワークの情報通信機能」
しかし、石川はここで「ただ乗り問題は「自己変革」の観点からはそもそも成立しない」ことを指摘し、「運動への参加を、「制度変革」のための手段=コストと前提する」資源動員論の視点と、「「運動」への参加は肯定的アイデンティティの相互承認、フレームワークが共有されていることの相互確認というようなそれ自体が自己目的的・消費的であるような」「自己変革」をめざす運動に着目する視点の違いを明確にして、ネットワークの重要性を示しながら機能的特性に関する仮説を提示している。3つの主張が着目したネットワークの機能とは、「交換・権力機能」、「情緒・規範機能」、「情報通信機能」であるが、「制度変革」をめざす運動と「自己変革」をめざす運動のどちらを重視するかによりネットワークの最適な特性が異なるとしてここで2つの仮説を提示している。
注20 補足すると「「集中型」、「公式組織型」、「大衆基盤型」の単一の専門運動組織体」とされる。
注21 補足すると「「分散型」、「多中心型」、「地域密着型」の小規模組織」とされる。
注22 ここでは「第三者」「第三者集団」による援助、及ぼす影響についての3つの仮説を提示している。「制度変革」をめざす社会運動が、資金や人材、情報等(外部資源)の必要から、政治体メンバーやあるいは政府からの資源援助をうけ、そのことにより運動体が圧力集団化したり、方針を転換せざるをえなくなる点を指摘している。一方「自己変革」をめざす社会運動においては、必ずしも第三者からの援助を必要とはせず、しかしそれは「オーディエンス抜きの「自己変革」は、ミクロ・コスモスの壁を越え出ようとした瞬間に外的脅威に曝される」危険性を意味することを指摘している。
注23 ここでは変革をめざす手段として「実力行使」と「説得的コミュニケーション」という変数があげられ、状況依存的な実力行使は判断が難しく、戦術論的問題を抱えていることをあげており、特に、「自己変革」をめざす社会運動の場合は「「自己変革過程」のどのような段階にあるかによって、また周囲の状況によって、実力行使の意味や有効性は異なる」としている。そして、「自己変革指向型」の運動の大きな目標が「対抗的フレームワークないしはカテゴリーを自己執行し、延いては敵手や第三者集団からそのようなフレームワークの承認を取り付けることにある」ために「説得的コミュニケーション」が重要になることを示唆して仮説を提示している。
注24 ここではフリーマンによる旧世代派・新世代派の女性解放運動の組織特性が例として挙げられている。
注25 同:162-163
注26 塩原 前掲p57
また、「運動は、その総過程を幾重にも反復的にくぐり抜けて変転しながら、かつまた複数の諸志向の交差によって離合集散しつつ、意図しない結果を社会生活に与えることが少なくない」と述べている(同:p68)。
注27 船津衛 1995 「集合行動・社会運動のシンボリック相互作用論」船津衛・宝月誠編『シンボリック相互作用論の世界』恒星社厚生閣:p175-186
注28 同上 184
注29 三島前掲 :400-408 また岡も「セルフヘルプグループは組織的に成長する(1994b:67)」とする立場をとっている。
注30 橋本厚生1980 「障害児を持つ家族のストレスに関する社会学的研究──肢体不自由児を持つ家族と精神薄弱児を持つ家族の比較を通して──」特殊教育学研究17-4、新美明夫・植村勝彦1980 「心身障害幼児をもつ母親のストレスについて──ストレス尺度の構成──」特殊教育学研究18-2、稲波正充・西信高・小椋たみ子 1980「障害児の母親の心的態度について」特殊教育学研究18-3などがあげられる。
注31 久保紘章は、「障害児が家族におよぼす影響」の要因として、子どもの「障害」を中心に考えた場合「@障害の程度(軽度、中度、重度)、A障害をうけた時期(出生時、中途障害)、B予後の問題(どの程度長期化するか、改善の可能性はどうか)、C障害のあらわれ方、など」をあげている。そして子どもの障害のあらわれ方を「(a)出生時から専門家にも両親にも障害が明らかにわかる障害(たとえば二分脊椎、水頭症、サリドマイドなど)、(b)出生時に両親にはっきりとわからず、ときに専門家にもわからない障害(たとえばダウン症候群、染色体異常、一部の脳性マヒ、小頭症など)、(c)(出生時にすでに障害がある場合が多いが)発達の途上で明らかになる障害(たとえば精神遅滞、てんかん、聴覚障害など)」の3つに分類したヘベットによる研究をあげている。(久保1982「障害児をもつ家族」加藤正明他編『講座家族精神医学第3巻 ライフサイクルと家族の病理』弘文堂:148-149)
注32 久保によりなされた「障害児をもつ家族に関する研究と文献について」において、詳しく整理されている。(「障害児をもつ家族に関する研究と文献について」『ソーシャルワーク研究8-1』相川書房)
注33 渡辺久子1982「障害児と家族過程──悲哀の仕事とライフサイクル」加藤正明他編『講座家族精神医学第3巻 ライフサイクルと家族の病理』弘文堂:p237
注34 同:p238
注35 佐々木正美は親が子どもの障害を受容する過程を、アルフォンス・デーケンによる身近な人の死を体験するときの「悲嘆のプロセス」を引用し、その共通性を示している(佐々木1992「親や家族が子どもの障害の「診断」「状態像」を適切に受容し、機関と家庭内教育の連動を進めるために」『発達障害児・不登校児の親・家族への援助と相互協力』安田生命社会事業団 p12-35)。同様に井原栄二は、キュブラー・ロスの『死ぬ瞬間』から死の受容の段階を引用し、「障害の受容と死の受容、両者にまつわる深い思いには、明白な共通点がある(井原栄二・菅原廣一・大石益男・鷲尾純一編 1995『障害を持つ子どもと家族』明治図書出版:69-84)」としている。
注36 私見だが、障害の問題と死の問題は酷似していると私も思う。しかし、「受容」はともかく「段階」として研究されている久保も指摘しているように「クライシス理論」にはやはり何かしらの抵抗を感じている。死と悲嘆の問題についても障害の問題と同様に、人間学的なアプローチが必要だと思う。
注37 久保前掲1982a,b
注38 同1982b:p149-152
注39 同1982a:p51
注40 鑪幹八郎( 1963「精神薄弱児の親の子供受容に関する分析的研究」京都大学教育学部紀要)からの引用は次のようなものである。
「(1)子どもが精薄児であることを認知するまでの紆余曲折があり、(2)この間の親自身の苦悩、不安、絶望があり、(3)次に、何とか現状を打開しようとする数々の努力があり、(4)その後、漸く、このような子をもつのが自分一人ではない、同胞がいることを発見し、(5)これに伴って、精薄児としての子どもへ本格的な努力を行うようになり、(6)これまでの苦悩と絶望の種子であった子どもへ、努力するすることの出来る道を知ることによって、希望を見出し、(7)このような努力のうちに、親自身の人格的成長、もっとこれまでより広い視野に立って、ものをみることができるようになったのを感謝し、(8)これらの喜びや感謝を、未だ悩み苦しんでいる人々に知らせるために努力していく」
注41 久保前掲 1982bp147-148
注42 稲波正充 1982「障害児に対する親の意識」発達障害研究4-2 p 10-15
注43 要田洋江 1986「<とまどい>と<抗議>──障害児受容過程にみる親たち」井上輝子他編1995『日本のフェミニズムD 母性』岩波書店、同 1991「揺れ動く家族──障害児の親となるとき」上野千鶴子他編『変貌する家族第5巻:家族の解体と再生』岩波書店、同1992「障害児を排除する実践的推論の様相」好井裕明編『エスノメソドロジーの現実 せめぎあう<生>と<常>』世界思想社
注44 同 前掲1986→1995p:242
注45 同 前掲1991p:66
注46 同 前掲1986:p234-242
注47 同 前掲1991:p85
注48 同上
注49 大江健三郎 1995『恢復する家族』講談社:p126-127
注50 ぽれぽれくらぶ 1995『今どきしょうがい児の母親物語』ぶどう社:p123-124
注51 大江 前掲:p127
注52 最首悟 1984 『生あるものは皆この海に染まり』新曜社:p96-97
注53 石川准 1995「障害児の親と新しい親性の誕生」井上眞理子・大村英昭編『ファミリズムの再発見』世界思想社 p:25-59
注54 全国重症心身障害児(者)を守る会編 1983『この子たちは生きている』(ぶどう社):p13-14
第2章 親の会運動の歴史と組織的特性
本章では、親の会運動の展開を発達的な過程として捉え、その変化の過程の中で変革の志向の総体をどのように捉えられるか、前章で提示した歴史的背景と組織構造の違いから具体的な2つの事例を挙げて考察する。
第1節 知的障害児・者の親の会運動の歴史的経緯
(1)親の会運動の誕生と活動の概要
親の会が最初に運動体として正式に発足するのは1952年である。それ以前、戦前の障害児・者のおかれた状況は、近代の学校教育制度の制定や富国強兵政策下の思想的な背景のもとに、差別と排除の対象であった。冷遇的な政策レベルの対応に対し、民間の社会事業団体において施設が創設され、社会的、医学的、教育的な研究がなされるが、親の立場は世間の障害に対する偏見からわが子を家族・親族の恥とするものであった。戦後、終戦の混乱の中で戦災孤児問題などの取り組みのなかで知的障害児の問題も顕在化し、戦前に起こっていた民間団体の活動も活発化する。そのような時代の変化のなかで、特殊学級の絶対数の不足という問題に直面していた3人の母親の問題意識から、親の会としてのちの全日本手をつなぐ育成会となる運動体が発足したことは、なかば神話のように語られてきた注1。
運動は当初、とにかく教育の機会も平等に与えられない状況のなかで人として尊重されるための人権を確立することを目的としての啓蒙運動であり、法的な整備を通して何らかの公的な援助の確立のための請願運動だった(資料2−1)。
資料2−1 精神薄弱児育成会の趣意と運動目標
[最初の趣意書]
趣意(要旨)
精神薄弱児育成会
本会は精神薄弱児を守りその福祉を図ることを目的として、その両親保護者と、深く関心をもつ者とが堅く手をつなぎ合って発足した団体であります。
本会は中央の組織として、全国的な立場から「手をつなぐ親の会」の運動を普く展開していきたいと思います。そして又全国の地域団体と連携し一体となって、具体的な活動を推進いたしたいのであります。
会則概要(抜粋)
一、運動目標
1、精神薄弱児のための養護学校及び特殊学級設置義務化の速やかなる実現
2、精神薄弱児施設の増設及び内容の拡充
3、精神薄弱児のための法的措置の整備及び職業補導施設の設置
一、組織
本会は全国の代表機関として、中央における組織活動をするものであります。(全日本精神薄弱者育成会1991:56-57 「手をつなぐ親の会運動40年の歩み」より抜粋)
会発足の翌年、1953年に精神薄弱児対策基本要綱が制定されることにより、知的障害児・者を対象にした国の施策として打ち出され、親の会運動は「それまでの手当り次第の陳情から組織的な施策推進活動へと脱皮」注2する。組織的な活動展開のなかで法人化し(1955)、機関誌が発刊されるなど会員の意識の啓発にも力が注がれるようになる。そして1960年にようやく精神薄弱者福祉法が制定され、政策的な動きが展開するようになる。この間、運動体の名称は「児」から「者」へと変わり、運動を推進する親の問題認識が子どもの成長とともに変化していることと時間的な経過による運動体の運動方針も変化していくことがわかる。
精神薄弱者福祉法の制定をひとつの区切りとし、1960年代には具体的な制度の実現に向けての運動が推進され、例えばコロニー構想が具体化し設立の気運が高まる反面、在宅者への対策に対する要求も出てくる。理念的な側面の確立の後、具体的な活動展開を有効にするために、都道府県の運動体を組織化していく時期となる。一方、具体的な問題が浮上するにいたり60年代半ばから様々な障害者団体や親の会が生れ、障害者問題としてより抜本的な運動を展開するために、1965年に全日本育成会をはじめ親の会と専門団体の16団体により全国社会福祉協議会の中に心身障害児福祉協議会が発足し、これらの運動により1970年に心身障害者対策基本法が成立する。
社会福祉施策そのものが在宅福祉・地域福祉型へと転換した1970年代、国レベルの法整備から地方の地域行政における施策の発展へと親の会運動も変化していく。例えば1973年に制度化された療育手帳制度や1979年に実施された養護学校教育義務制においても、運動目標の到達と現実の制度の問題点や矛盾が明確となり、運動体自体も葛藤を生み、更に現実の問題にいかに取組むかという運動の方向性を模索する。この時期から「要求の多様化」や「選択」という課題が運動の質を問うことになり、運動体としての運動方針とともに組織的な転換も図られる 注3。尚、後で具体的な事例として考察する横浜市在宅障害者援護協会が発足するのは1973年であり、この時期の地域福祉施策の理念的な推進が背景であったことが伺える。
1980年代の国際障害者年を中心とした運動展開の中で、会の運動は盛り上がりを見せ、ノーマライゼーションの思想により中央から地方における施策も推進されていく。一方身体障害者の運動の主張にも影響を受け 注4、親の会運動としてはこれまで見過ごされきた本人の意思の尊重というテーマに取組んでいく。1990年代に入り、運動は本人部会が発足し 注5 全国的な活動が展開されている。
(2)現在の運動の方向性
1995年に名称を「全日本精神薄弱者育成会」から「全日本手をつなぐ育成会」へと改め、同年12月、総理府の障害者対策推進本部が「障害者プラン──ノーマライゼーション7ヶ年戦略」を発表したことを受け、1996年に次のような「育成会21世紀プラン──インクルージョン戦略」を決定し、将来へ向けての運動の基本的な方向と内容を提起した 注6(資料2−2)。
資料2−2 育成会の今後の運動方針
──「あたり前の生活」を求めたノーマライゼーションの考えは定着し、そのことを前提として「包み込む」インクルージョンの思想へと発展しようとしています。新しい動きに対応し、来るべく21世紀に向けて、あるべき理念を確認し、施策(すなわち、問題解決の戦略)とその
実現のための行動計画を明らかにするため、ここに「育成会21世紀プラン──インクルージョン戦略」を提起します。──
(出所 全日本手をつなぐ育成会1996:p8-20)
「行動計画」(行動目標)
@ 組織の近代化とネットワークの確立
A 「事業」と「運動」の結合
B 本人参加の促進
C 家族支援活動の強化
D 権利擁護活動の強化
E 地方(市町村)運動の充実
F 法改正運動の強化
G 国際的な動きとの連動「具体的な施策」
@ 命と健康を守るために
A 自立生活の実現を目指して
B 地域で包み込まれて生活するために
C 豊かな生活の実現のために
D 法制度の整備が必要
運動体としての組織的な課題として行動目標に掲げられているものをいくつか詳しく見てみると、@組織の近代化とネットワークの確立として、「各種規定を制定・改正し、組織を近代化」すること、「中央(全日本)と地方(都道府県・市町村)の団体の役割を明確にし、その連携(ネットワーク)体制の充実」を図ることとされている。また、E地方(市町村)運動の充実として、「親を中心とした、若い人材の入会を促進」するため、「各種の自主的なグループ活動と積極的な連携を」もつことを掲げている。運動体が半世紀近い歴史をもつなかで、その運動が着実に成果を挙げた反面、世代が代わり運動目標の多様化とともに地域での普通の生活をめざした更に具体的な問題解決に向けて、全国規模の中央組織としての運動体は地域のネットワークの強化を目指し、組織の活性化を図ろうとしている。
このような組織的問題はすでに10年前に指摘されていた。
以下引用
親たちが行政まかせ、一部の役員まかせになっていっていると、親の会の発展を危惧する声も聞かれる。事実、組織率の低下、役員の老齢化と、地方の末端組織では創設時からの参加メンバーの焦りも大きいものを感ずる。
そして、その背景に、『ノーマライゼーション』『インテグレーション』思想や施策が進んでいく中で、『あえて、障害を意識して特定の団体に加入しなくともやっていけるので必要ない』と考える若い親たちがいることも確かである。引用終わり 注7
運動体の組織的な停滞は発達的プロセスから考えると、運動の発展の過程におけるひとつの転換点であり、新たな運動の志向へと向う契機と捉えることもできる。運動の基盤が地域に遷り変ってきたことは歴史的な背景から明らかである。それでは地域活動はどのようなプロセスをだどり組織化していくのかを次にみることにする。
(3)組織化の過程
1)中央組織の下部団体としての組織化──東京都知的障害者育成会の例
先にみたように、「全国精神薄弱児育成会」の結成(1952 )の当初がそもそも東京の親たちの活動によるものであり、必然的に全日本育成会のもとに東京の育成会が設立という経緯をたどっている。むしろ歴史的な経緯からも明らかなように、当初は東京の親たちの活動が全日本育成会としての運動であり、都育成会が正式に発足するまでは、その活動自体が渾然としていた 注8。
■設立の経緯
詳しくその設立の経緯を追ってみると、「都育成会設立以前は、全日本育成会が、都庁をはじめ都内の各機関、マスコミ関係等を訪ね歩き、中央の問題とは別に、都内の問題解決等に当たっていた 注9」が、それでは十分な機能が発揮できず、また国の行政のしくみに対応するために都道府県段階の中間組織を結成していこうという動きが出てくる 注10。具体的には全日本育成会に直接加入していた親の会があっても、都としての単一組織でないために東京都の補助金が出ないという問題が生じていた 注11。その間、1961年に東京都の育成会として正式に発足するまで、都内の小学校や市区を単位とした親の会が設立されるが、それは直接全日本育成会の支部として形成されていた 注12。そのような背景から都育成会の設立に際し、全日本育成会の助言を仰ぐ形で準備を進め、千代田区、中央区、新宿区、中野区の5区を除いた18区と武蔵野市、調布市の2市と他に7施設の親の会の参加で結成された 注13。
設立時に着手された主な運動は、@未参加地区への啓蒙と支援、A相談事業の開設、の2点であり、「精神薄弱者相談所」という表札を作成し「参加地区の有志宅に委託して相談所23ヶ所を設置」された 注14。設立当初は運営資金の獲得に苦慮し、東京都に助成金の支給を要求する運動も起きてくる中で運動のもりあがりもみせるようになる 注15。このような状況から、全国組織である全日本育成会と地域や学校・施設等の支部をつなぐ中間組織として都育成会が動き始める。
■運動体としての動きから事業運営へ
その後、結成の翌年(1962年)教養講座を開催し、また1963年には都育成会の会報を発行する一方、都に対して施策や制度の充実を望み請願や陳情を行う運動体としてさらに地区の支部を束ねる格好で、都育成会は急速に組織化し運動も大きくなっていく。それは前節で触れた全日本育成会の組識改正の動きに伴なったものである(図2−1)。都育成会独自の動きとしては、全国的な制度としての「療育手帳制度」の発足に先立ち、1967年に東京都「愛の手帳制度」が発足している。都育成会は1972年に社会福祉法人となり、この前後から東京都の知的障害関係の対策予算が増大し、先にみたように1970年代の在宅福祉推進の潮流の中で通勤寮や民営授産事業の運営が委託され、事業体としての色彩を濃くしていく。そして、現在では国・東京・市区町村から年間47億円以上の委託・補助を受けている 注16。
都育成会全体の現在の会員数は正会員9000名、賛助会員300名の合計9300名と登録されており 注17、都育成会のもとに都内の千代田区を除いた22区と三多摩地区といわれる地域と大島を合わせ、46の支部がある 注18。
図2−1 全日本育成会と支部の組識構成
(出所 全日本精神薄弱者育成会 1991:p79)
図2−2 東京都知的障害者育成会の組識図
出所:東京都精神薄弱者育成会発行 「平成7年度 東京都手をつなぐ親の会しおり」)
資料2−3 東京都知的障害者育成会の事業
(出所:東京都精神薄弱者育成会発行「平成7年度 東京都手をつなぐ親の会しおり」)
2)地域レベルの運動体からの組織化──横浜の場合
横浜でも1953(昭和28)年に横浜市育成会が結成され、1959(昭和34)年には「横浜市精神薄弱者育成会連合会」として県親の会から独立している 注19が、都育成会のような経過はたどらず、事業運営においても「横浜市在宅障害者援護協会」(以下在援協と記す)という団体がその多くを担っており、親の会の成り立ちもまったく異なっている。また、「横浜障害児を守る連絡協議会(連絡協)」という団体が運動体として在援協との関わりを持ちながらも独自の活動を展開しており、横浜における親の会運動の展開は1970年代前後の地域福祉の推進と連動し、その時代の親の会運動の転換として東京都育成会の組織化と比較すると興味深い。
■運動体の設立の経緯
横浜は障害者施策において独特の展開をしている。横浜のそれぞれの団体の歴史的な資料がないため、入手できた資料や聞き取りをもとに簡単にまとめると、まず、在宅障害児・者の福祉施策が未整備であった1970年前後から運動が芽生えている 注20。当時の状況としては、保育園も幼稚園も障害児をほとんど受け入れておらず、養護学校の義務制が1979年であることからも、在宅障害児への施策が立ち後れていたことがわかる。そこで、何らかの形での集団保育を求める声が高まり、また地域社会での生活を求める声から1971年に親たちが自ら動き「自主訓練会」を作った 注21。これが親の会へと発展し、現在横浜市内で活動している61の地域訓練会の発端となった。また、訓練会は「障害や程度を問わない画期的なもの 注22」だった。これは後に考察する在援協の特徴として「障害の種別、程度を問わないこと」という目的と通じている。
<連絡協の流れ>
そしてこのような訓練会が横浜市内の各区に誕生してきたころ、1973(昭和48)年5月に、8つの自主訓練会が「横浜市電機労連、訓練会指導者、療育相談機関専門ワーカー等訓練会をとりまく人々の支援を得て、『横浜障害児を守る連絡協議会』が結成」された 注23。その後、全員就学の署名運動(1973年)、訓練会助成金の増額、訓練会場の提供、統合保育の促進及び通園施設設置の陳情(1974年)などの運動を展開していく 注24。その後1977(昭和52年)、「子供の年齢によりニードや運動内容も異」なるため、「その時点で適確な学習や運動を行っていくために、保育部会、就学部会、学校部会の三部会」をつくり、1978(昭和53)年には「訓練会にかかわっているボランティア、及びこの運動の周辺にいる協力者達」が連絡協に加盟し「協力者部会」がつくられ、ともに運動を進めていく 注25。
<在援協の流れ>
一方、連絡協が結成された年と同じ1973年の11月、「在宅心身障害児とその家族の福祉向上を図り、ともに生きる地域社会づくり 注26」を目的として、こちらでもやはり「親が中心となり、心身障害児問題に深い関心をもつ有志と共に 注27」「横浜市在宅障害児援護協会」が設立された(資料2−4)。先にも触れたが、横浜市の育成会はこの頃、入所施設の増設を目標とした運動を展開しており、在宅福祉推進の運動に対する関心は薄かったようだ 注28。
資料2−4 横浜市在宅障害者援護協会の設立の趣意書
(出所 在援協の配布用リーフレット「お元気ですか」)
この趣意書にある「地域で暮らす」ことを最大の目的とし、同時に「自主自立」「親の研鑚」「地域を耕す」という目標をかかげ29、「事務室は開港記念会館の二階の薄暗い一室で、市役所から古い机と椅子を借りて30」在援協が設立され、まず最初の仕事して「障害児に対する公的サービスを一覧してわかるように整理して」「在宅障害児のための手引書」をつくった 注31。
このような過程で、先にあげた訓練会のグループが横浜市に助成を請願し、横浜市が運営費の補助を開始するにあたり団体を通すことになり、在援協がその団体となる 注32。その後、1978(昭和53)年財団法人として認可され、その前年に県の補助事業として作業所が運営されていたものが県事業から在援協に移行される。訓練会が増え始め、地域作業所が生まれてくるなかで、助成事業を行う団体の必要性が出てきて在援協が担っていくのは育成会が法人としてそれを担っていった過程と同様であるが、明らかに違うのは「在援協」=「親の会」ではないことである。このことは組織構造との関連で次に考察するが、運動展開における変革の志向へ影響するため、注意しておく必要がある。また全日本育成会が出発の時点から子どもの成長にともない、「児」から「者」へと法人名を変更したように、在援協も1984(昭和59)年、「横浜市在宅障害者援護協会」に法人名を変更する。
資料2−5 在援協の事業内容
(出所 在援協の配布用リーフレット「お元気ですか」)
第2節 運動体の組織的特性と変革の志向
(1)運動体の組織的特徴
組織化のプロセスと運動体の運動目標を掲げた時代背景が異なることは以上からも明らかであるが、そこで事業展開や事業内容などについてそれぞれの組織的な特徴について述べる。
1)東京都知的障害者育成会
育成会の組織は先に示したように全日本育成会を頂点とした中央集権的組織であり、その傘下に都道府県育成会が会員となり、さらにその下に地域(地区)の支部を統合する。そして会員の多くは養護学校入学時に地区の親の会に入会する。これは先にも歴史的経緯のなかで触れたように法整備等を実現する上で必然的なものであり、このような運動の形態はわが国で戦後展開された社会運動の特徴である 注33。ここでは東京の運動を中心に考えるが、運動を進めていく中で、「当時、社会的にもほとんど人間として認めてもらえなかった 注34」ため、まず人権を確立するために知的障害者のための法律をつくることを目的とし、制度化に向けての運動を展開するため資金作りや会員の強化のために、一丸となった組織化が必要であった。その意味で制度変革の志向における目標は明確であった。
■組織化と事業展開
前節の組織化の過程からわかるように、都育成会の運動は、事業運営の推進とともに発達的プロセスをたどる。事業活動としては、施設の建設・運営、委託事業である通勤寮・生活寮・委託施設の運営、民営授産指導事業(作業所)や相談事業、啓発事業があげられており、そのなかでも民営授産と生活寮の充実が最も大きな活動の柱とされている 注35。これは中央からの指導を受け、事業も委託されるという組織構造であるために、自然な過程であったといえる。だがこの事業運営を強力に進める過程は、現在の親の会運動の直面するひとつの問題と関わってくる。事業体となって発展してきた親の会の歴史について、1988年度から都育成会の理事長を務めた春山廣輝(1991年度より全日本育成会理事長)はその運動の実績と矛盾を次のように語っている。
以下引用
これはほんとうに難しい問題なのですが、いまの育成会の運動の柱が地域生活の確立ということになってまいりますと、いままでの歴史の中で育成会がやってしまったから行政がかえって手抜きをしたとみられる点もありますが、しかしやらざるを得なかったという歴史があったと思うのです。
というのは、とにかく全員就学の子どもたちの卒業期を迎えて、その受け皿が未整備であった。親は、民営授産が事業としてこれほどまで膨張するなどということはだれも予想していなかった。とにかく三月に卒業する子どもたちを路頭に迷わせてはいけない、絶対に在宅化だけは避けたいということで、どこかに部屋はないだろうか、どこかに建物はないだろうか。そこでとにもかくにも子どもたちを来させて働かせることによって生活の安定をはかっていきたいという思いから、民営授産が始まったと思うのです。
そういう出発点から親の会としては大きな成果をあげたのですが、反面、その結果として、行政側が公の責任で通所授産の整備を怠ったということが起きてしまった。これは指摘されてもやむを得ないと思うのです。現実にそうなっていますから。われわれとしては、このままどこまでも大きくなっていいとは思っていません。ですが、やはり運動体として大きな柱を築き上げたことだけは確かだと思います。(中略)運動体としての部分と事業体としての部分をどう調和を保ちつつ進めるか、大きな課題であると思います。 (中略)
事業体としての部分が強くなればなるほど、若い人たちからみた場合に、巨大な象でしかなくなってしまう。自分達の親の会でありながら、その事業があるが故に、ものすごく近寄りがたい団体、あるいは指導者になってきていると思うのです。 引用終わり 注37
春山がいうように運動がそのまま事業展開と結びつくようになり、都育成会が事業体としての活動が大きくなるに従い、その支部団体である地域の親の会は必然的に都育成会の下請け的な存在となっていく。地域の親の会の地道な活動が運動として実績を積み、福祉施策を推進する事業として行政から委託されて実際にその活動を担うのは地域の親の会であるが、その親の会も作業所運営や生活寮の運営を組織として上の都育成会というから任される形へと変化していくわけである。特に東京都と特別区の行政的な制度により、事業運営の形態においても公設民営型の事業を配分する方向がとられ、さらに都育成会の場合は、役員構成においても都育成会と地域の親の会(支部)の関係が密接なため、民営授産事業(作業所)の運営を都育成会が直轄的に管理する形となる。また職員構成においても、作業所の指導員の多くは知的障害児・者の母親であり 注38、それは先にみたように地域の親の会が中心となって作業所をつくることに邁進してきた過程と不可分であるのだが、その一方、実質的な経営として見た場合に、都や区・市からの補助金で運営されており、非常勤職員を多く配置することで人件費を押さえるなどの要因も十分に考えられる 注39。
このような親の会運動の事業展開にともなう矛盾について、1989年当時国際障害者年日本推進協議会広報委員長だった大野智也は次のように語っている。
以下引用
本来は親の会の事業は、自分たちの目標とか制度の実現のための先駆的な事業、あるいはモデル事業だと思うのです。そういう民間の実践を経ないと、どうしても制度化されない部分が必ずあるものだから、それでみんなやってきているのですが、それが次に制度ができた時にうまくつなげられない部分があるのでしょうね。事業規模が大きくなってくると、その事業の方が次第に大事になってくる 引用終わり 注40。
都育成会においては歴史的にも古く、また数多くの親の会のなかでも最も大きな典型的な団体として小規模作業所などの先駆的な活動を展開し、それが制度として確立されるなど、小さな活動の積み重ねが実績となり強力な会員数をバックに制度化を推進してきた点が特徴である。
2)横浜市在宅障害者援護協会と親の会運動
東京の場合は親の会が法人格を持ち、事業を運営するようになり、事業体と運動体の部分がひとつになっているが、横浜市の場合は形態が異なる。そこで事業運営を行なっている在援協と親の会運動に分けて述べる。
■在援協事業の特徴
在援協は明確に横浜市の外郭団体のひとつとして位置づけられ、横浜市の障害児者施策の一部を担っているが、民間の団体としての自由さを生かしたサービスを作ってきている。そして親の会との関わりにおいては、地域活動・団体活動の支援事業の一環として密接に関わっているものの、在援協はあくまで事業運営を助成するひとつの団体であり、親の会は独自に運営され、親の会との関係はネットワーク、あるいはリゾーム的である(図2−3)。ちなみに在援協が行っている助成事業は横浜市18区の地域活動ホーム・地域作業所・グループホーム・地域訓練会などで、その財源は99パーセント横浜市から出され、在援協を通して配分されるという形態がとられている。
図2−3 横浜市在宅障害者援護協会と親の会の関係
在援協は事業の特徴として、@地域生活の援助、A自主自立、B障害の種別・程度を問わない、C地域を耕す、の4つをを掲げている。このなかで特に「B障害の種別・程度を問わない」という点にまず注目したい。その内容とは次のようなものである。
以下引用
障害者施策はほとんどが障害の種別・程度別になっています。しかし地域で普通に暮らすことを目標にする在援協では知的障害、身体障害などの種別を問わず、又障害の重い人も軽い人も共に活動を進めています。活動ホームでは年齢層の違うグループの相互交流も深めています。 引用終わり
障害者運動の展開において、1960年代以降障害の種類により様々な親の会や障害者団体が生まれたが、個別の対策が重要であると同時に「地域」に主眼をおいた活動という点では分けてしまうことによるデメリットがあることも事実である。その点において、在援協のこの視点は歴史的な背景でみたが、障害の種別を超えた抜本的な問題解決に向けた新たな展開として位置づけられる。またここに記されている「活動ホーム」という拠点があることも非常に大きな利点であると思われる。4番目の特徴として挙げられている「地域を耕す」とは、施策・制度の整備だけでなく、一般地域住民の理解をすすめるために、「積極的に地域を拓いて」ゆくこととされている。そしてこの地域を耕すことを担う専門のスタッフとして「地域コーディネーター」が位置づけられている。
在援協でなされている事業については先にまとめたが、そのなかでも特にここで注目したいのは、障害児者福祉に関する相談活動を日常的に実施している「地域活動支援事業」、親の会活動などを助成する「障害者福祉団体活動支援事業」、そしてそれらの活動の拠点づくりとしての「障害者地域活動ホーム助成事業」である。「地域活動支援事業」は地域コーディネーターとの関連で触れたい。「障害者福祉団体活動支援事業」の特色はここではその関係があくまでも「支援」としてなされる点は特筆すべきことであろう。
「活動ホーム」は在援協の事業の特徴においても記されているように、非常に特殊な施設である。親の会運動にとってそれはまさに活動を生む有効な「場」であると同時に、設立までの過程そのものが地域社会とのコンフリクトを超えて地域に共にくらす社会づくりに向けての運動といえる 注41。一般的に障害児・者、親、ボランティアなどの活動の場が定まっている地域は少ない。そのため、毎回その活動の場所を確保することが負担となる。それだけでなく、場所を借りての活動は地域社会で理解が進んでいない場合、障害児・者やその親、援助者にとっても苦痛であり、その結果活動が活発になされないということもありうる。「活動ホーム」はこのような問題を乗り越える点でも大きな意味がある。地域訓練会や地域作業所をはじめとした様々な「活動を伝え合い、互いを知り合う場、そしてもっと広く、地域に暮らすみんなが出会える場をつくりたい」という想いから「活動ホーム」づくりとなり、現在は横浜市内に23ヶ所のホームが存在し、「それまで活動の場を求めて転々としていた団体の活動も安定」した 注42。
活動ホームには「地域交流室」があり、さまざまな活動や地域のふれあいの場としてこのように共有できる空間の存在 注43は、後に述べる親の会における社会的相互作用に影響を与え、同年代の子をもつ親同士だけでなく世代の違う親たちとの交流が可能となり、地域活動を行う上でも非常に重要である(図2−4)。この在援協と親の会運動の関連として横浜のひとつの親の会の事例を次に述べる。
図2−4 活動ホームの間取図の一例
(出所 さかえ福祉活動ホームリーフレット)
■親の会運動──「あしたばの会」の事例から
横浜市栄区の親の会「あしたばの会」は、横浜市内の先に示した幼児の訓練会をきっかけに発展した親の会とは異なり、養護学校のPTAによる「地域活動ホーム」の設立に関する勉強会(1982年)が発端となった。現在の栄区は1986年に戸塚区が3つに分区されて生まれたもので、会発足の当時は戸塚区の本郷地区とされており、当地区への活動ホームの必要性を感じた親たちの集まりであった。それが会の準備委員会となり、会活動の目的とした「地域活動ホーム」建設に向けて動き始めた。会の特徴としては会の設立に関してPTAとしての強制ではなく、あくまで「任意参加の会」とした 注44。
1983年4月、会の趣旨を説明し会員を募集した結果102名が入会して5月に発足した。会の目的として掲げた「活動ホーム構想」は右のようなものだった 注45。この活動ホーム建設が実現するのは1988年であるが、目的に向けて地域訓練会の活動などが始まり、1984年に会の活動の拠点としてプレハブ2階家を借りて「あしたばの家」を開所し、そこで「一時預かり」(1985年)などの先駆的な活動を展開し、また1987年には地域作業所を開所する。そして念願の「活動ホーム」開設後は拠点を活動ホームに移して現在に至っている。 親の会としての目的を「子供たちの将来を考える運動と共に」地域のなかでの日常活動を大切にし、わが子とともに自分自身をみつめていく運動であると位置づけている 注46。
<会の組織>
会の活動は主に、幼児部・学童部・青年部・成人部に分かれてなされている。それぞれの部が年代に合わせ独自にプログラムをつくり、合宿や作業実習などの様々な活動を展開するとともに新たな活動を生み出している。 この他広報部が会報を発行するなど、独立的な動きをもちながらも連携をとりながら、一時ケア活動や訓練会活動などを行っている。
特に、子どもが年少の幼児部・学童部はそれぞれ25名と44名の会員が参加しており、同年代の母親たちが活発に交流の時間を持っているが、これには訓練会が単に子どもの訓練にとどまらず、その活動を通し親の会として親たちがともに励まし合い、支え合いながらともに歩んでいる背景がある(資料2−6)。そして同時に、先に述べたように活動ホームという場を拠点にして一時ケア活動やバザー活動を通し、部会を超えて異世代間でも相互交流できる点においても注目すべき点があるように思われる 注47。
あしたばの会の例から分かることは、横浜の親の会は地域の親の会が自ら組織化されてきたことである。そしてこのような親の会が市内の各地域に生れ、また現在も訓練会や既にできている親の会の中の活動を通して新たに生れ、それぞれの親の会が連携をとりながら活動を展開している点が特徴である。この各地域の親の会を他の親の会とつなげ、ネットワーク化に貢献しているのが、在援協や連絡協である。
資料2−6 あしたばの会の活動報告
(2)組織構造と変革の志向
親の会運動は障害児の施策の遅れに対して親たちが立ちあがり、運動の展開の過程で子どもの成長とともに、ライフステージで生起する問題に対応しながら「児」から「者」へと解決目標が移行し、親たちの世代もともに変化してきたという共通点がある。さらに都育成会の運動展開と横浜の親の会運動のにおいては、1970年前後から在宅障害児・者のための対策を進める中で、作業所やグループホームなどを親の会の運動から作ってきた。そしてその活動の過程でそれぞれの自治体に対して在宅福祉施策の拡充を求めて運動を展開し、またその実績が認められ、親の会活動が助成事業という形態に変化してきたという類似点がある。
その一方、両者は組織的な特徴において明らかに違いがある。上記の事例から組織構造の違いを比較することにより運動における変革の志向も違いが明らかになると考える。そこで親の会運動の組織構造について分類し、それぞれの変革の志向に着眼すると次のようになる(表2−1)。
表2−1 都育成会と横浜の親の会の組識構造と変革の志向の違い
■ツリー型の組織構造と変革の志向
全日本育成会と支部育成会の組織構造は全日本育成会を頂点としたツリー型の構造である。全日本育成会の当初の運動は目的が明確であった分、結束力も強く、容易に組織化への過程を歩んだと思われる。また、特に国レベルの政策を求める大規模の署名運動や請願運動においては、組織として結集しやすい「集中型」のヒエラルキー的組織の方が好都合であり、上の組織から下の組織への情報の伝達や目標達成のための啓蒙活動において、官僚制的組織構造は非常に有効である。これにより全日本育成会をはじめ都育成会は大きな会員数を背景に、制度変革を達成してきた。これを変革の志向として考えると、当初の運動目標のための統一的な運動体のなかでは、制度変革の志向に向けて運動を展開する中で、また組織的にもさほど大きくない運動体でメンバーのコミュニケーションも活発であり、メンバー個人の意識が変革し、また運動体としても運動目標を達成するなかで自己変革の志向が起こっていったと考えられる。それは先にみたように、知的障害に対する偏見から親自身が子どもを恥として隠していたような時代においてみれば、運動への参加自体がひとつの自己変革とも捉えることができる 注48。
だが運動目標が達成されてくるに伴い、一方で運動体のあゆみとは別に新たに親の会に参加したメンバーにとっては、既に制度やサービスがある中で、何を運動目標とするのか明確ではなくなり、先に引用した春山の発言にもあるように若年層の親たちが親の会の組識に積極的に参画しなくなっていくことが現在の大きな問題点として浮上してくる。 このような問題は都育成会ばかりでなく、歴史的に長い親の会に共通する課題となっている 注49。
それは運動体の構成素としてのメンバー間の役割関係が上下関係となるにつれ、新しく参加したメンバー、また会の活動に積極的に参加しているかいないかで、運動体の組織構造も複層的になり、情報の交換や直接的コミュニケーションが希薄化することによると考えられる 注50(図2−5)。
図2−5 集中型の運動体における構成メンバーの複層化
aの層は運動体の直轄的な層として全国組織と直接的につながり、運動目標や運動方針を具体的に設定して政府や自治体、また外部の組識と直接的に交渉するメンバー群となり、bの層は地域や支部の活動においてaの層から伝達された運動方針に従い目標を達成するための強力な活動を推進する層として構成される。それは例えば地域の親の会の役員や作業所の指導員として会の活動を積極的に支える層である。 活動に積極的に参加するbの層ではメンバー間の交流や直接的コミュニケーションの機会も比較的多いと考えられるが、活動に積極的に参加できない層はaもしくはbの層から一方向的に情報が流れ、構成メンバーとしては単に名目上の入会となるような層が生れる(c)。このような層は特に歴史をもつ運動体においては新しく入会する若い世代や、また運動に積極的に参加するための時間的・経済的な余力がないメンバーと考えれる。運動体としてみるとこのようなcの層では「ただ乗り問題」が起こりやすい。しかしcの層は本来、当事者運動のダイナミズムを最も必要とする層であるともいえる。
組織構造は変革の志向に大きく影響する。 集中型の運動体が特に自己変革の志向において戦略的に弱いのは、歴史的な展開の中で上のような複層化によることが明らかになるであろう。そのため直接的コミュニケーションがとりやすい分散型の運動体とは確かに構成メンバーの関係にちがいが生じる。
■ネットワーク型の組織構造と変革の志向
横浜の親の会においては地域に独自の親の会が分散しており、個々の活動は独立している。1970年代から生れ時間的にもまだ新しく、世代間の意識の違いもまだそれほど歴然としていないことも一つの要素ではあるが、組織構造から変革の志向をみると、コミュニケーション手段や場の共有という点でその組識内における直接的コミュニケーションがとりやすい状況にある。そして親の会の活動目的に位置づける地域訓練会を通し、親が子どもの障害の受容に最も心理的な葛藤をもつ時期に親の会として関わっており、地域密着型の自己変革の志向に対して非常に有効な組織構造であるといえる。
その意味では全国規模の運動体と直接につながる大規模運動体ではない。だが、歴史的な背景からみると、既に大枠の障害者福祉施策が打ち出された後、地域に密着した形で地域で暮らすことを目的として身近な直接的な課題を運動目標としてそれを徐々に実現している。そしてこれらの地域の運動体をリンクし、行政に対して分散的にではなくまとまって運動を展開する上で、在援協という団体が果たしている機能は大きく、横浜の親の会運動の展開は前章の石川の組織構造の仮説において提示された変革目標に応じて組識形態を切り替える二重システムに近いといえる。それはまた相互の運動体の交流を通し、それぞれの運動体を活性化する上で大きく作用していると考えられる。
このような小規模の運動体におけるメンバーの関係と当事者運動としてみたときの変革の志向におけるダイナミズムを分析するために、運動体の社会的相互作用をみることが必要と考える。組織構造により、変革の志向に違いが生じることは以上のとおりである。それでは、運動体における社会的相互作用がメンバー間に具体的にどのような要素として自己変革をもたらし、変革の志向がどのように発達的プロセスをたどるのかを、横浜の親の会を事例として次に考察し、社会的相互作用と変革の志向の関係を明らかにする。
■脚注
注1 中野敏子 1987 「障害者運動の展開」一番ケ瀬康子・佐藤進編『障害者の福祉と人権(講座 障害者の福祉1)』光生館:p136 拙稿 1997 「知的障害者の親の会運動の歴史的考察」立教大学大学院社会学研究科論集第4号:p44-46
注2 全日本精神薄弱者育成会 1991 『手をつなぐ親たち(号外) 創立40周年記念全日本精神薄弱者育成会全国大会資料集 地域福祉と権利擁護』:p58
注3 中野は次のように指摘する。「養護学校教育義務制の実施がもたらした“要求の多様化”“選択”という課題は、親の会活動に新しい運動の質を問うことにもなったといえる。1973年には、組織上2度目の再編期を迎えた。 (前掲:p138)」
育成会の資料には1973年は「会にとって重要な段階を画した年」であり、会の運営組織を改め、「ブロック協議会、単位団体としての都道府県の会を主眼に責任体制の確立をはかった」過程が次のように記されている。「人数の多きは決して民主性の象徴とはならない。かわるがわる出席でしかも委任状出席の高い多数よりは、代理者も固定した全員出席の少数の方が運動の強化を与えるものと考えられた。(全日本精神薄弱者育成会前掲:p78)」
注4 例えば1982年の運動の動きについて次のように記されている。
以下引用
厚生省の「障害者生活保障問題専門家会議」が始まった。所得保障から日常生活の質の向上まで協議は巾広く行なわれる。所得保障において、慈善から権利保障へと対策の基本姿勢を変えること、成人になれば独立の個人であることを認めて家族の負担を廃止すること、年金や手当の所得制限、福祉施設の費用徴収の在り方をめぐって激しい論議が進められた。関連する各審議会でも同様の議論が行なわれた。精神薄弱の分野では、生活を維持するにたる額の年金を権利の保障として獲得することは長年の念願であったが、20歳になれば独立した個人として認め家族の所得から縁を切り、家族を費用徴収の対象から除外するという点については実感の上で直ちにぴったりとは来なかった。ある程度はやむを得ないのではないか、金の切れ目が縁の切れ目とはなりはしないか、施設入所の長年の経験からある種のためらいがあった。民法の規定が根拠にもなった。それを打ち破って前進させたのは身体障害者本人団体の強烈な主張だった。親は代弁者であっても本人ではないことを嫌というほど味あわせれたのである。引用終わり(全日本精神薄弱者育成会 前掲:p87)
注5 全日本手をつなぐ育成会 1996 『手をつなぐ(号外) 第45回全日本手をつなぐ育成会全国大会 第30回手をつなぐ育成会関東甲信越大会 第34回埼玉県手をつなぐ育成会大会資料集 ふつうに生きたいな──本人意思の尊重と、家族の安心を求めて──』:p54-61
注6は誤りのため削除しました。
注7 中野 前掲:p139
注8 「全国精神薄弱児育成会が出来たのが昭和27年7月、それも東京都の先生や親たちが中心でした」
(東京都精神薄弱者育成会 1991 『どこに住み どこで働き だれが支えるか──東京都精神薄弱者育成会30年のあゆみ──』:p19)そのため、全日本育成会の創設メンバーと都育成会の当初の役員は重複している。
注9 同:p19から。
注10 「中央の仕事が多くなると、全日本育成会は人手不足に苦しみ、かつ国の行政が、国・都道府県・市町村の三段階に分かれて行われているので、育成会の仕事も、同様に三段階に分業する必要に気付き、都道府県段階の中間組織結成に努めはじめたのです。」同:p19
注11 同:p25
注12 「全日本育成会が社会法人化し・・・・昭和31年から発刊された指導誌『手をつなぐ親たち』がようやく、特殊学級や施設の親たちの教育に利用され、急速に親の会が設立されるようになりました。だが、施設単位や特殊学級単位の親の会がおおく、県、市、区単位のものは名称だけで事実はかなり異なり、さして強力なものではなかったようです。/全日本育成会自体が、現在のような都道府県の全国統一連合体ではなく、各細胞単位の親の会を直接支部として形成されていました。/昭和34年の記録によれば、東京都全域で32支部が加入、その中で区親の会の名称で加入していたもの9区であるが、実際に区全体を一応まとめたかに思われた会は4区に満たなかったと考えられます(都育成会結成呼びかけの反応から推定。県単位のものは指導誌『手をつなぐ親たち』の購入数から推定)。 (同:p21)」というのが、都育成会「設立当時の一般状況」となっている。
注13 「東京都育成会の設立準備」の過程で「全日本育成会馬場事務局長に再三出席をおねがいして、草案から定款の作成、資金づくりの構想など細部にわたり助言をうけて、全日本育成会の推せんと第五ブロックの選出で(下線引用者)」役員候補を決定する(同:23)など、全日本育成会の直属組織として出発したことがわかる。これは、後の組織的考察のなかで具体的に述べるが、育成会組織の特質である。また、結成の時に参加しなかった親の会の状況として次のように記されている。「昭和35年参加を呼びかけた当時、各区の実態は千代田、中央は未組織、新宿は学級単位であり区として存在せず、文京は1学級あるのみで応答なし、中野は愛育会があったが全障害が含まれており精薄部門を独立させることは無理でした(下線引用者)。(同:23)」これも後で述べることと関連するが、育成会の特徴は当初からかなり厳密に知的障害に限定した運動を展開している。本研究の段階では、障害者運動の展開のなかで障害の種別に分裂した過程は考察できないが、やはり当初「精神薄弱」という用語にこだわり、自ら会の名称に用いたことも考え合わせると、知的障害へのスティグマ観は強かったと察せられる。参加した施設を挙げると「青鳥養護、信楽東京班、不二愛育会(無認可施設)、旭出学園、日向弘済学園東京班、七生学園、国立白百合学園」で、当初の会員総数3826名だった。「東京精神薄弱者育成会」結成大会は朝日新聞社講堂にて開催され、出席会員は560名だった。
注14 運動の当初から関わった石毛氏の寄付金により石毛基金を設け、相談所表札を作成したとある。(同:p24)
注15 「会を結成したが、金がありませんでしたね。金不足の苦しみは大へんなものでした。/都育成会で集まるときは、どんな会合でも費用はすべて自費でした。・・・このことがバネになりまして、都育成会に対する都助成金・市区町村助成金の運動がもり上がりをみせましたね。(同:p27)」元都育成会副会長の談話筆記による。
注16 「都道府県・市町村等から委託・補助を受けている都道府県・指定都市育成会事業(1996年度予算)」として東京都育成会が受けている事業費は次にように示されている。(全日本手をつなぐ育成会 前掲1996:p73)
注17 同上:p33 1996年7月1日現在 都育成会の支部にあたる地域の親の会の会員数は一例として葛飾区で現在約400名とされる。
注18 東京都精神薄弱者育成会 前掲 1991:p149-155「各支部のこれまでの主な活動」から。このほかに、施設・学校の親の会を支部としているものもある(聞き取り)。各地域ごとの分類はある程度はっきりしているが、学校単位や施設単位の支部の会員数は卒業などで移動があるために明確ではない。
注19 全日本精神薄弱者育成会前掲 1991:p207 年表より
注20 幸福花江 1979 「共に歩む──横浜障害児を守る連絡協議会の歩み──」『療育の窓』1979.No.29 全国心身障害児福祉財団
注21 当時訓練会の指導員であった幸福はその様子を次のように記している(幸福前掲1979:p7)。以下引用「親が自ら、我が子の保育の場を築くために会場捜し、子どもの保育訓練を担当してくれる専門家やボランティア捜し、遊具、教具の購入や寄附依頼、更に会運営に必要な補助金助成の陳情のために市長交渉や民生局長との話し合いを、子供を背負いながら行ってきました。活動する中で、今迄の閉じ篭りがちな気持が少づつとれ、障害児の親であるひけ目や疎外感から解放されていったのです。」引用終わり
尚、幸福は後に在援協の地域コーディネーターとなるので付け加えておく。
調査中の聞き取りから、1972年前後にまず「さくらんぼ会」(現緑区)、「さつき会」(磯子区、青い鳥愛児園の活動から生まれる)が生まれ、つづいて「ひよこ会」(鶴見区)、「つくしんぼ会」(戸塚区→現栄区・戸塚区・泉区)が生まれている。
注22 横浜障害児を守る連絡協議会:1997 『私たちが願うふつうの暮らし〜連絡協生活実態調査から見えてきたもの〜』「はじめに」より
注23 幸福前掲 1979:7 会員は100名で発足した。
注24 同上
注25 同上7-8 部会発足の年度については滝沢コーディネーター作成の資料より引用した。
注26 在援協の配布用リーフレットより
注27 同上
注28 その後、急速に地域福祉へと運動の目的は転換する。1961年から70年ごろの親の会運動の特徴について中野(前掲1987)は「一方で、コロニー構想が具体化していく反面、施設に入らず、教育制度からも行き場を失った人々が、地域に在宅者として暮らしていくことにともなって在宅対策の要求が聞こえ出す」としている。
注29 同上
注30 大森 1996:p148
注31 同:p149 現在も関係団体、地域活動ホーム・作業所・グループホーム・地域訓練会等の名簿を1冊の冊子にして作成している。私見だが、このような情報は個人レベルでは非常に集めにくいものであり、意義深い活動である。かつて障害児保育に関する調査を行なった際、聞き取りのなかである母親が「障害に関する情報が非常に入りにくい。パンフレット1つ作って行政の窓口に置いてくれるだけで親の負担は違う」ということを語ったことがあり、意外にこのような情報をまとめたものは少ないのが現状である。近年、少しずつ行政がまとめたものも見られるようになり、またインターネットの普及などのメディアの発展により情報も入手しやすくなったとはいえ、たとえば、パソコンにしても一部の利用者に限られるのが実状だといわざるをえない。
注32 滝沢コーディネーター作成の資料と聞き取りから(未公刊)
注33 例えば日高六郎は次にように述べている。
以下引用
1960年前後からひろがりを見せた市民運動は、戦後の日本の民衆のがわの運動のなかで、ひとつの質の転換を」もたらそうとしていると思われる。敗戦による日本社会の民主化が、戦前の民主主義的あるいは革命的伝統をうけつぎながらも、大きくは、いわゆる「外から・上から」の「民主化」過程であったことは、やはり否定しにくい。(中略)<民主集中>は<集中>に傾いた。日本国家の体質そのものである中央集権的性格から民主的であるべき政党や大衆団体もまた解放されることはできなかった。「国民」運動のすべてが中央の指令と方針によって運営されるという事態は改められないばかりか、むしろ年を追って強められていった。市民運動が、もしいくらかでも自立性を確保しながらその運動をすすめようとしているとすれば、それは戦後の民衆運動史のなかのひとつの画期、あるいは画期への出発となりうるであろうと思われる。国家→都道府県→市町村といった保守的中央集権制からも、本部→県本部→地区という革新的中央集権制からもはなれて、どこまでも徹底的に民衆の底の底から運動をくみたてなおすということが、そこでは自覚されはじめているからである。引用終わり(日高 1973「市民と市民運動」→似田貝香門・梶田孝道・福岡安則編 1986『リーディングス日本の社会学10 社会運動』東京大学出版会:p138-139)
注34 春山広輝・有田孝・大野智也・手塚直樹 1989 <座談会>「親の会、その役割と今後の課題」『療育の窓 1989.9 No.70 特集 親の会の役割を考える』全国心身障害児福祉財団:p3
注35 全日本手をつなぐ育成会 1996:54-61
注36は誤りのため削除しました。
注37 春山他 前掲1989::2-17
注38 1991年当時の都育成会専務理事(現都育成会理事長)緒方直助は「授産事業の歴史と活動」に次のように記している。「一番大切な事は、作業所の中心となる主任指導員の資格として、ちえ遅れの子どもを持つ親か兄弟姉妹であることが原則として守られてきたことです。・・・・育成会民営授産グループの成果はこの母親集団を中心とした指導グループによるものだと思います。(東京都精神薄弱者育成会 1991:73-74)」この成果は充分評価されるべきものである反面、作業所における上下関係等を生み出すなど、インフォーマルなグループとしての親の会の機能に影響を及ぼすと考えられる。
注39 ここでは全日本手をつなぐ育成会 1996:p313-378の資料をもとにした。
注40 春山他座談会前掲1989:15
注41 古川孝順・庄司洋子・三本松政之編 1993『社会福祉施設─地域社会コンフリクト』によれば、横浜市の障害者施設建設において地域住民とのコンフリクトを超えて地域社会に受け入れられていく事例が示されている。
注42 横浜市在宅障害者援護協会 1995:10-13
注43 活動ホームの図参照。後に触れる栄区の活動ホーム建設の運動の過程について、瀧澤コーディネーターは次にように記している。以下引用「『活動ホームとはなんだろう』という問いから始まり、活動ホームには、作業所だけではなく、訓練会や一時預かり等の様々な活動と、地域のふれあいの場であり、多面的な利用が出来る場である事を毎回20名以上の参加者で話し合いました。」引用終わり(資料:地域作業所「草の実」「第二草の実」1991年発行『くさのみのなかま』より)
また、活動ホームが完成した時に発行された会報には、「幸福追求の拠点」と題して寄せられた文章に次のように記されている。以下引用「・・・活動ホームの誕生は、私たちにとって、年齢や立場を超え、さらには『エゴイズム』を昇華する『心の太陽』の存在としましょう。」──あしたばの会 会報「明日葉」31号(1988年9月28日発行)より抜粋──
注44 会発足の初年度から平成4年度まで会長を務めた三橋は次のように記している。「準備委員会は、会の設立にむけてあらゆる話し合いをしました。例えば、会はPTAとして取り組むか、任意の会にするかです。これは、活動ホームが地域に根ざした多様な活動の展開を必要とするため、任意参加の会とすることで衆議一決しました。」(あしたばの会 1993「10周年記念誌『明日葉』:p5-9より)
注45 同上
注46 「一人一人の出来ることには限りがありますが、皆んなの力を合せる時、きっと大きな実りがあります。我が子をみつめながらも、やがては子供たちを、そして自分自身をみつめながらも、やがては子供たちを、そして自分自身をみつめながらもやがては仲間たちをみつめ、“みんな一緒”共通の問題として考え助け合う、そんな仲間づくりと活動が出来たらと心から願うものです。」(同上 1993:p65)
注47 三橋会長は次のように述べている。
以下引用
活動ホームが出来て良かったと思うことの一つは、年令や障害の差を越えて、人と人とのつながりや交流の輪が広がったことではないでしょうか。お互いが何をしているのか、どんなことを考えているのか、さまざまな障害を抱えた人や家族、そしてそれを支える人達が大勢いるということが分かり合える距離にいます。そのことが今、とても大切に思えます。(略)引用終わり
──会報「明日葉」40号(1989年6月23日発行)より抜粋──
注48 中野(前掲1987:139)は次のように述べている。
以下引用
30年前、親たちが「第一の関門、匿すことからの脱皮、第二、障害の特性の理解と障害の克服軽減のための実践、第三、家庭に中に社会の中にこの子が満足できる場をつくる」ことを目ざして歩んできた道は、自分の子どもの成長とともに歩む中から発見してきた問題解決の道であった。それ故に、自覚された要求として運動エネルギーになりえたのであろう。引用終わり
注49 例えば前掲の座談会の中で、大野は次のように述べている。
以下引用
昔は(中略)唯一のよりどころが親の会だっただろうと思います。いまは(中略)社会資源が地域の中にたくさん増えてきて、必ずしも親の会だけではない。親の会も一つの社会資源であるけれども、親の側からすると選択肢の一つになってきているのかもしれない。引用終わり
また、前全国肢体不自由養護学校PTA連合会長の有田孝は次のように述べている。
以下引用
親の会活動の停滞化の理由の一つは、裏返してみるといままでの運動の成果が表れてきたんだ、という見方もできると思うのです。長年の運動の成果によって、いま大野さんのおっしゃった施設的、あるいは人的、物的に満たされてきているわけで、過去の要望が実現した分だけ父母の会の役割りの評価が少しずつ小さくなってきた、というとらえ方もあります。
また、現在、100%満足はしていないにしても、たとえば60%、半分以上、まあこんなものだろうという妥協できるところの満足感を味わっているのが、たぶん障害者の親だろうと思います。そうしたところにもう一つ上の段階を目指そうというエネルギーが足りないのだと思います。(中略)
私は、親の会というのは、福祉活動の運動団体であると同時に親睦団体であるという、二つの要素を持っている団体だと思っています。そのバランスをどうするか。いままでは、おそらく運動団体としての要素が非常に大きなパーセンテージで占められていた。これからのことを考えていきますと、バランスをもう一度、考え直していかなければならないと思います。引用終わり
有田がいうところの親睦団体と運動団体の要素とは、本研究の立場からすると制度変革志向と自己変革志向と捉える。
注50 聞き取りのなかである親の会の会員であり、役員も務めた母親は「(親の会の)役員になるのは、はっきりいって情報が少しでも早く欲しいから」であることを語り、情報が平等に伝わりにくいことを示唆した。
第3章 社会的相互作用と変革の志向
本章の目的は運動体の内部の相互作用、外部との相互作用により、運動体が発達的なプロセスをたどって当事者運動に生起するダイナミズムを明らかにすることである。
第1節 社会的相互作用による変革と志向の変化
本節では当事者運動における自己変革の志向の意義を明確にするために、当事者集団の社会的相互作用によってもたらされる変革のダイナミズムを、具体的事例を通して考察する。第1章で述べたように障害児・者の親は障害をもつわが子との関係の中で、子どもの障害の受容という自己変革をライフステージにおいて幾度か経験する。そのライフステージにおける周囲の対応は親にとって重要な契機となる。
今回調査を行なったあしたばの会における母親たちの交流や新たな活動展開は非常に興味深く、合宿や作業実習等の活動に参加する中で、運動体としての変革の志向とともに、運動体におけるメンバーやスタッフの相互作用により変革の契機を得て、その変革の志向も変化していく過程を観察することができた。
(1)社会的相互作用による自己変革の契機
障害児の親の葛藤については前に触れたが、親はわが子と社会との間で常に揺れ動いている。それは子どもが幼いときばかりでなく、子どもの成長のさなかでおこる些細な出来事から不安が爆発することもある。この時の周りの受けとめ方が親の認識に影響を与え、時には自己変革の契機として作用する。特に当事者として同じ立場にいるメンバーの作用は、非常に大きな影響を与える。次の事例はこのような当事者集団のグループ活動が、親が障害児としてでなくわが子と向き合い共に成長する自己変革の契機となりうるひとつの例である。
■作業実習──青年部の夏期活動から
青年部は中学・高校の年代で、夏休みを利用し、作業所にて「絞り染め」などの作業実習が1989年から毎年行われている。今回は8月11日から13日に行われた。 作業実習のプログラムやボランティア 注1の組み合わせなどは地域コーディネーターが助言を与えている。実習には母親も積極的に参加することが慣例となっている。母親たち全員が作業場面に参加するわけでなく、人数調整やプログラムの遂行にあたり、昼食やおやつの準備をする母親と作業をする母親にわかれて協力しながら行っている。
私は作業実習の最終日に参加させてもらった。その際、最終日ということで実習に参加した子ども達と母親、ボランティア、地域コーディネーターに加え会長も出席し、反省会が行われた。反省会の直前、活動のメインメンバーである母親とその子どもとの間にちょっとしたトラブルが生じた。母親はわが子がマナーを守らなかったことに怒りを表わし、その場で「この子には何を言っても、何度やっても同じなんです。私が一生懸命やっても通じない」と嘆き落胆し、当然、場の雰囲気は気まずくなった。しばらくして母親が落ち着きを取り戻し、反省会が始められ、作業実習全体についての個々の感想・意見を述べた。その席での会長の発言は次のようなものであった。
以下会長の発言の要約
毎年この時期に作業実習を行い、それを積み重ねることによって、子ども達は少しずつ成長していることが分かります。薄紙を一枚一枚はがすように、それは非常に見えにくいものであるけれども、着実に経験を重ねる中で成長している。確かに、間近にいる親にはわかりにくく、もどかしい成長ではあるでしょうが、1年ぶりに実習の様子をみると、それがよく分かります。先ほど、Oさんは、Kちゃんのことを「何をやってもだめだ」と怒っていたけれど、確かにその気持ちも分かりますが、親がそれを言ってしまってはいけない。一番身近にいる親が、自分の子の成長を認めなくて、誰が認めてくれるでしょうか。親が積極的に子どもの成長を見つめて、それを認めていかなくては・・・。本当に薄紙をはがすような成長だけれども、確実に成長していることを親がしっかりと受け止めることが大切で、そのような機会をもつことができる作業実習をぜひとも、今後も続けていってほしいと思います。 要約終了
ボランティアとして参加していた母親も、同じように子どもの成長を認めていくことの大切さを語った。これらのことばが先輩や仲間から発せられることにより、「自分だけが」という思いが溶解していく。そして更に地域コーディネーターは、この活動が始まった当初から関わっており、毎年夏休みの時期にそれぞれの子どもの作業実習の様子を見てきていることで、第三者の視点から単に作業の進み具合だけでなく、毎年少しずつでも経験することによりそれぞれの子ども達の生活態度が変化してきていることを以前の記録と合わせて述べた。そこで大切なことは、障害の差、個人の差により作業能力の違いは当然ながらあるものの、前年との比較や3日間の実習のなかで、それぞれの子が生活の中の「作業」という一つの場面において落ち着いていくことであり、「生活経験の差」が大きいことを指摘した。
そして最も重要な点は、「作業実習」の場が子どもの経験の場としてだけでなく、親にとっても重要な経験の場であると位置づけられていることである。反省会のなかで、ボランティアとして参加していた学生が作業場面に母親が参加することは好ましくないこと、母親がその場にいることにより子どもが作業に集中できないのではないかということを述べたのに対し、地域コーディネーターが「作業実習の目的の一つは母親がともに協力しながら活動する機会を作ることである」と応えた。作業実習は、親が子どもと共に成長していくことを意識づけるため契機であり、親子で参加する意味がそこにあるという。そして親の会の「仲間で協力して行う中でその大切さを認識できる」ひとつの契機でもある。
このような先輩の助言や世代間の交流ととともに、同世代の親たちが気楽に語り合い、同じような悩みや不安をどのように解決しているのかという情報交換や交流も重要な側面である。次の事例はそのような「グループ・ダイナミクス」としての側面を見るひとつの例である。
■学童部の親子合宿
今回、私が直接参加した合宿は活動ホームにて夏休みの8月23日・24日に行われ、学童部の小学校2年生から5年生の親子が10組以上参加した。土曜日のお昼過ぎから各親子がそれぞれの都合に合わせて活動ホームに集まり、そのなかでボランティアの参加による子どもの遊びの時間があり、母親が共同で食事の準備や保育、また遊びのセッティングや片づけ等を行いながら、子どもが寝付くまで慌ただしい時が流れた。父親が参加した家族も3組あり、子ども達との遊びの時間をもったり、母親がいろいろな作業を行っている間保育を受けもち、また仕事帰りに立ち寄って帰宅した父親もいた。子どもの体調や母親自身の体調・都合で宿泊できない親子もいたが、出入りは自由で夜中に突然母親だけ参加して明け方に帰宅したりという開かれた合宿だった。
この合宿の目的は、母親たちの交流の場をもつことである。母親達は、子どもを寝かしつけた後、あるいはいつもと違う様子になかなか寝付けない子ども達を抱いたり常に気をかけながら、朝までそれぞれの自分の思いや日ごろ抱えている様々な問題を語り合っていた。
学童期の母親は30代が多く、また、障害を知ってからの様々な葛藤をまだ最近のこととして強い印象を持っている。最も大きなショックを受けやすい乳幼児期に比べて、多くの親の会の交流などを通し母親同士が友人となり多くの人間関係に囲まれ、ある面で生活も安定してきているが、同時に社会や学校教育に対して多くの疑問を感じ、焦燥感や不信感を抱いている。例えば運動会の練習の場面をみて感じた教師の対応への疑問や、年毎にかわる学校の方針にどのようについていったらよいのかという不安といったものである。このような不安や疑問を母親同士で語り合うなかで同じ立場にいる母親が助言したり共感することばが、母親たちの負担を軽くしていく。また、自分の子どものことだけをみているとどうしてもマイナス面ばかりが大きく見えてきてしまいがちだが、他の子どもや親と接することによりそれぞれが子どもの違った面を見ることができる。例えば、自閉傾向のある子どもがいつもと異なる状況で落ち着かず、パニックを起こしたとき、母親はその子のパニックの原因は理解していても周りへの気兼ねなどから怒りはじめたとき、同じ自閉傾向の子どもをもつ母親が「いいじゃないの、いつもと違うから仕方ないよね」と声をかけることにより、その場が和やかになった。そして、そのように止めた母親自身が「同じ事をしてもよその子は腹が立たないのよね。自分の子だと『何してんのー!!!』って怒鳴ってしまうんだけど・・・。だからみんなが別の子をみたらいいのよ!」と冗談を交えて語った。 また「同じ仲間の中だから」という安心感もあるといえる。
子ども達が寝静まった頃、地域コーディネーターが参加し、朝まで地域コーディネーターを中心に自由な話し合いがされ、また地域コーディネーターから母親たちが現在抱えている身近な問題についての助言とともに公的サービスや民間活動についての様々な情報が伝えられた。その場での地域コーディネーターは母親たちにとって専門家としてでなく、家庭での些細なトラブルから子どもをめぐる生活上の不安や将来について、率直に語ることができる一人の心強い相談相手であった。
このように、一晩でも寝食をともにする合宿を通したメンバーの相互作用のなかで母親たちは連帯感を感じ、自己がおかれている状況を捉え直すことができる。それはもちろんグループの活動によるものだけではないが、このような変革の過程を共有できるグループの存在はメンバーの自己変革とともに運動体としての自己変革の志向に作用すると考えられる。そして会報にもこのような親の変革の過程が次のように記されている。
以下会報より引用
「このところ・・・・・」幼児部
・・・・・Sもそのうち大きくなるということを実感として感じたのである。すぐに座り込んで、靴を投げ、ねころんでほとんどパニック状態になってしまうS。大きくなってからも続いていたら、私はもう見ているしかないだろう。今のうちに歩くことだけでもしっかりしつけておかなければ・・・・。そんな不安と恐怖がまざったような感情に支配された。
あせればあせるほど、Sのパニックが増える。今できることを確実に身につけていけばいいのだと心に言い聞かせても、将来への不安はつきまとう。
そんな時は、Sの生まれた時のことを思い出すようにしている。5分も泣かなかったよな。8時間後には息が止まっちゃったけ。あの時は生きてさえいてくれれば・・・・と祈ったよなあ・・・・。はじめて立った日のこと。「ママ」と言ってくれたあの瞬間。私はSとともに成長してきた。5年半、いつもいつも一緒に歩いて来たんだよね。これからも同じだよね。私が落ち着くとSも落ち着く。道のど真中でワーワー泣いているSを見ててももう大丈夫。そうだよね。歩くのが嫌なんだよね。でも、もう少しだから頑張ろうか・・・・。と何分でも待っていられるようになった。私の気持ちを察したのかSの立ち直りも早くなってきた。見通しがつく。(略) 引用終わり
──会報「明日葉」64号(1992年11月26日発行)より抜粋──
第1章で自己変革の志向における運動体と個人の相克について述べたことをもう一度繰り返すが、運動体が先んじているときは、新たな参加メンバーの自己変革を待っていられないときに運動体と個人の間の相克が激しくなり、逆に自己変革の志向を運動体が軽視すると、メンバーが自己変革の志向を求め、直接的コミュニケーションや相互交流を必要としているにも関わらずそれが達成できないために、個人と運動体の関係が乖離すると考えられる。そこでこのバランスを適切にとる戦略があることが望ましいと考えたのだが、この事例は現在のところ、そのバランスが適切にとれていると考えられる。
(2)変革の志向が変化する過程
以上のような個人レベルの自己変革が運動体の変革志向に至り、運動体のダイナミズムのなかで制度変革の志向に向けて、志向の総体として運動体は発達的プロセスをたどる。親の会の活動は個人レベルの自己変革の志向が運動体としての変革の志向へと高まり、また制度変革の達成から次の世代の新たな運動へと発展していく。そして自己変革の達成は、その前の世代の制度変革の志向が達成されたことで容易になり、時間軸を追う中で新たな変革の志向を総体として、運動体が発達的な過程をたどっている。 運動体の発足時から関わっている地域コーディネーターは親の会のこれまでの足跡について次のように記している。
以下引用
あしたばの会と出会って14年。会が発足してから半年後の幼児グループの立ちあがりの時でした。当時のあしたばの会員は小学生以上で、幼児のメンバーはいませんでした。子どもが小さい頃、障害が判ってからの、親の不安やあせり、落胆は、いつの時代でもかわらないし、子どもの育ちの場と親のつながり、支えあいは大切なので、是非幼児グループは作った方がよいのでは、と会員の何人かから強力な発言がありました。
親子3組、親の会の役員さん、私も含めて3人の支援者が集まり、グループが始まりました。その1年後、一時預かりの菜の花ホームが発足しました。1年間、勉強会や見学、研修を重ねました。この一時預かりも、中高部の子供を育てている仲間には、必要とすることが少ないけれど、兄弟を育てている時、せめて授業参観や病院に行くことができたら・・・ 兄弟との時間が持てたら、自分達が辛い思いをしたけれど、少しでも後輩達が生活しやすくなるようにとの思いから始めています。
その後、あしたばの会として応援しながら地域作業所、活動ホームと活動場所を拡げてきました。長いこと、あしたばの会として行っていた一時預かりも、現在は活動ホームのメニュー事業として位置づき、ホームの職員が支援しています。
親の会は地域で暮らすのに必要な場や支援を試行しつつ、形として位置づける働きをしてきました。14年前に比べると援助の内容も、少しずつ充実してきています。 (後略) 引用終わり
──会報「明日葉」92号(1997年7月7日発行)より抜粋──
これは運動体の発達的プロセスにおいて変革の志向が変化してきた過程を表わしている。運動体はその運動における志向の総体のなかで、運動体の中の相互作用と社会との相互作用により常に成長し変化していく。それがこのような運動のダイナミズムといえる。それは制度変革の志向だけでなく、自己変革という一種戦略的には非常に難しい志向を持っている。本研究で事例としてみてきた「あしたばの会」においては現在のところ、会が有効に機能していると認められる。それを戦略的にみてみると、ひとつには組織構造が自己変革の志向において有効な地域に密着した小規模運動体であり、メンバーのコミュニケーションが密にとれていること、第二に在援協という第三者集団により他の運動体とリンクしてネットワーク化が可能であること、第三に運動のリーダーシップをとる人物の牽引力が挙げられる。さらにその3つの要素に加え、上記の事例の中にも幾度か登場した地域コーディネーターという存在が運動体における社会的相互作用に大きな影響を与えていることに気づかされる。先にみた知的障害児・者の親の会運動として古い歴史を持つ都育成会の事業活動においては、この地域コーディネーターのような専属スタッフが地域の親の会活動に関わる例は見られない。地域コーディネーターの存在は運動体においてある種の特質を持っていると考えられる。 そこで地域コーディネーターが障害児・者の親にとってどのような役割を果たし、また親の会の活動においてどのような位置づけから影響を与えているのか、次節で地域コーディネーターの特質とその役割について考察する。
第2節 運動体における第三者の役割──地域コーディネーターについて
地域コーディネーターという職種は業務内容も多岐にわたり、非常に特殊である。社会福祉の分野においてもまだ明確に位置づけられておらず、今後家族援助や家族福祉の中で十分に検討すべき課題であるが、本稿では親の会運動の中で地域コーディネーターが果たしている役割に着目し、地域コーディネーターの特質を明らかにすることを目的とする。
(1)地域コーディネーターの特質──マージナリティ
地域コーディネーターの親の会における役割について述べる前に、専門職としての特質を明確にしておく必要があると考える。今回調査に協力して頂いたのは、10年間養護学校の教師を務めた後、在援協の巡回相談員を経て地域コーディネーターを任されている瀧澤久美子氏である。それではまず地域コーディネーターの仕事についてその概要を記述する。
■地域コーディネーターの仕事について
先に在援協の事業の中で述べたように、地域コーディネーターは在援協の地域活動支援事業の一環として平成2年度に発足した 注2。昭和52年から「巡回相談員派遣事業」として地域訓練会や作業所、グループホームなどの運営などの相談に応じる「巡回相談員 注3」が設置されそれは現在も継続されているが、その巡回相談員の業務をさらに拡張した形で現在の「地域コーディネーター」が配置されて現在6人で横浜市18区をそれぞれ分担している。地域コーディネーターの配置の目的を在援協は次のように位置づけている。
以下引用
地域活動を活性化するためには地域に密着した応援が必要です。平成2年度から、地域コーディネーターが配置されました。より身近な、より継続した相談に応じることができます。又、将来は人権擁護や財産管理の相談にも応じられる組織づくりを目指しています。 引用終わり 注4
また、ある地域コーディネーターは自らの仕事を次のように述べている。
以下引用
『地域コーディネーター』というのは、困っている人のところへどこにでも飛んでいく、いわば“お助けマン”なんです。在援協の地域活動支援事業として、これまで派遣されていた巡回相談員の手に余るところ、当事者ともっと密着するためには巡回型の相談では充分にこなせないといったところと対応するためにつくられた職種なんです。地域で暮らす障害をもつ子や、その親にサービスを提供するのではなく、さりげなく寄り添いながら、その人たちが暮らしていく力をつけるための様々な支援をする、それが地域コーディネーターなんです。引用終わり 注5
その具体的な仕事の内容について地域コーディネーター自身が整理していることをまとめると次のようになる 注6。
1 自主活動の訓練会や作業所を中心としてその活動の場を広げ、指導者としてでなく支援者として、本人の成長だけでなく、地域住民の理解をひろげ、共に支え合う社会をつくっていく。
2 親が学んでいくための場を設け(