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未完の〈障害者文化〉

横塚晃一の思想と身体

倉本 智明 『社会問題研究』第47巻第1号

last update: 20151221


     1.はじめに
     2.障害者運動の「新しい波」と青い芝の会
     3.鏡のなかの〈健全者文明〉
     4.〈障害者文化〉の創造
     5.自律と対抗のパラドックス
     6.おわりに

 ※校正が終っていませんので,掲載される論文はここに掲載する原稿と少し異なるものになる可能性があります。この点,ご承知おきください。

1.はじめに

 『現代思想』95年3月号に掲載された「ろう文化宣言」(1) に、とまどいをおぼえる福祉関係者は少なくあるまい。ろうとは障害ではない、ろう者とは手話という独自な言語を用いる言語的マイノリティであるとするその主張は、近代医学の言説とそれを追認する実体主義的障害観に真っ向から挑戦するものだった。専門誌とはいえ、一般メディアでこうしたマニフェストがなされたことの意義は大きい。もちろん、ろう文化運動自体はここにきて急に始まったものではない。既に欧米では、以前から多くの論客により同趣旨の発言が繰り返されている(2)。 日本でも、90年には「宣言」の著者らによるミニコミ誌『D』が創刊されており、93年にはDプロという運動体も発足している(3)。
 こうした動きを受けて長瀬修は、ろう文化もまた障害者文化のひとつであるとした上で、日本においては既に1970年代に先駆的な障害者文化運動が存在したと指摘している(4)。 日本脳性マヒ者協会青い芝の会(以下、「青い芝の会」ないし「青い芝」と略)の運動がそれである。
 本稿の課題は、このような視点から、70年代青い芝運動のヘゲモニー形成に中心的な役割を果たしたひとり、横塚晃一(1935−1978)の思想の輪郭を描き出すことにある。構成は以下のようになる。
 まず次節では、70年代の新しい障害者運動の特徴と横塚が属した青い芝の会について概観しておく。続く二つの節では、身体感覚をそのまま言語化したような横塚のテクストから、ひとつのロジックの抽出を試みる。3節では、横塚がこだわり続けた〈内なる健全者幻想〉とはなにかについて、4節では、そこからの解放の戦略について、それぞれ述べたい。その上で5節で、横塚の思想がはらむ陥穽について確認できればと思う。

2.障害者運動の「新しい波」と青い芝の会

 1960年代後半から70年代にかけて、先進資本主義諸国の社会運動は一様にある変化を経験した。それまでの、等質な「階級」を前提した一元的運動のなかでは、副次的でマージナルな位置しか与えられてこなかった人びと――女性、エスニック・マイノリティ、下層労働者、学生などによる新しい運動の台頭である。フェリックス・ガタリは、この微細な諸領域における対抗運動の同時多発的展開を「分子革命」とよんだが、障害者の運動もまたその連鎖のうちにあった。
 日本における障害者の運動は、近代以降に限ってみても、既に20世紀初頭に盲人によるあんま専業化要求運動として産声を上げている。その後、傷痍軍人らによる運動を経て、高度成長期には、障害児者の家族によるものをも含め、多くの運動・団体が組織されていく。そのなかで、それまで極めて限定的にしか捉えられてこなかった障害児者の発達の可能性を強調する思想なども現れてくる。しかし、1970年を前後して登場してくる障害者運動の「新しい波」は、主として福祉的援助の拡充を要求してきたこれらの運動・団体とは異なる性格をもっていた。
 「障害者解放運動」ともよばれるこの「新しい波」を特徴づけるスローガンに、「障害からの解放ではなく、差別からの解放を!」というものがある。治療や教育による障害の軽減・克服ではなく、障害を理由とする差別の克服こそがめざされるべきだとの主張だ(5)。 ここには、障害者の身体を否定的なものとしてではなく、それ自体肯定されるべき存在として捉えなおそうとする視点の転換がみられる。その上であらためて障害者に対する差別を問題化し、その解消をめざそうとする方向性は、それまでの運動に認めることのできないものだ。
 それとともに、この一連の運動は、障害者差別をめぐる認識の書き換えをも迫った。「新しい波」に属する運動の担い手たちが障害者差別と言うとき、それはなにも国家や資本などによる「上」からの差別だけを意味するのではない。民衆のうちに無自覚に潜む障害者への偏見や差別をも彼ら/彼女らは告発したのである(6) 。そこには、差別問題を階級対立へと還元してしまう既成の左翼イデオロギーへの批判が含意されている。民衆のうちにある差別性を、「上」からもち込まれた分断策の結果としてだけみるのではなく、資本制とは相対的に独立した変数として捉えようというのだ。程度の差こそあれ、この傾向は「新しい波」をかたちづくる運動体に共通して認められる(7)。
 差別をめぐる認識に関わって、「障害者解放運動」が提示したいまひとつの命題は、差別というものが単に自己の外部――健全者、あるいは、健全者のつくり上げた社会の側だけにあるのではないとするものだ。それが障害者自身のうちにも存在することを、彼ら/彼女らは自覚的に語った。客体としての社会の側に存する差別を撃つとともに、否応なく身体化された自己の〈内なる差別〉からの解放をもその運動はめざしたのである(8)(9)。
 こうしたいくつかの転換を、最もラディカルなかたちで体現したのが青い芝の運動だった。後に見る「行動綱領」に集約されるその主張は、当時、多くの障害者たちをひきつけた(10)。と同時に、車いすによるバスへの強行乗車・占拠闘争に代表される「過激」な行動や、非常に「極端」なかたちでなされる問題提起は、人びとから社会常識の逸脱とみなされ、嫌悪と批判の対象ともなった。
 ところで、1957年に発足した同会は、当初からそのような性格の団体だったわけではない。70年前後まで、会主流は茶話会やレクリエーションなど、会員相互の親睦を目的とする企画を中心に活動をすすめていた(11)。青い芝の運動が変化するのは、マハラバ村コロニーに参加した横塚晃一、横田弘、小山正義、矢田竜司といった面々が、そこを去り神奈川で活動を開始してからである。マハラバ村は、浄土真宗の僧侶だった大仏空が1964年、自宅でもある茨城県の閑居山願成寺に開いたものだ。「コロニー」などという語が付されてはいるものの、実際にはそこは、障害者らによるコミューンといった性格の場所だった。共同体では、最盛時20名を超える障害者が生活していたが、運営の主導権や労働の配分をめぐって、あるいは恋愛や子育てにかかわって、トラブルも絶えなかったという。結局、マハラバ村自体は下山者をつぎつぎと出し、69年に最終的な崩壊をみる。だが、「健全者の仲間入りをしようとすることは自分自身を否定することだ」といった、ここでなされた大仏の講話は、後の横田・横塚らの思想に影響を及ぼすこととなる(12)。
 青い芝の会全体の運動方針が公式に転換をみるのは72〜73年頃のことである(13)。しかしそれ以前、1970年5月、横浜で起きた母親による障害児殺害事件をきっかけとした運動のなかで、既に実質的な転回は始まっていた。たびたび発生するこの種の事件に対し、加害者である親に同情が集まるのは当時もいまも変わりない。横浜の事件では、町内会や神奈川県心身障害児父母の会を中心に減刑を嘆願する署名運動が起こった。これに対し、青い芝の会神奈川県連合会は、「障害者は殺されてもいいのか」「障害者の存在を否定するのか」として、減刑反対のカンパニアを展開する。この運動は、新聞報道だけでなくテレビで特集が組まれるなどして大きな反響をよぶ。そのなかには、共感の声とともに、「福祉施策の不備こそが問題だ」「母親もまた被害者だ」など、少なからぬ批判も含まれていた。しかし、青い芝の障害者たちからすれば、施設もまた、隔離・管理というかたちで自分たちの存在を隠蔽し、抹殺するものであり、告発されるべき対象にすぎなかった。施設の拡充とは「福祉」の名による棄民政策にほかならず、それを必要とするのは親や資本や国家の側であり、決して自分たちではない。障害児殺しと巨大コロニー網建設に通底する、障害者の存在を否定しようとする思想と社会そのものを彼ら/彼女らは問題にしたのだ(14)。
 こうした問いかけ・行動のなかから生まれてきたのが、横田弘起草による四原則の「行動宣言」である。

一、われらは自らがCP者であることを自覚する。
 われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。
一、われらは強烈な自己主張を行なう。
 われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起るのは自らを守ろうとする意志である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。一、われらは愛と正義を否定する。
 われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一、われらは問題解決の路を選ばない。
 われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみわれらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。

 神奈川青い芝の会機関誌『あゆみ』No.11 に独断でこの文章を掲載した横田は、当初執行部から厳しく批判されたという(15)。しかし、ここに示された、脳性マヒ者としての自らの位置を自覚し、その場所から主張し、健全者のつくり出した社会の規範を疑い、根源的な問いかけを続ける、という思想は次第に会のなかに広まり共有されていく。そして、つぎの一文をも加え、会のめざす方向をさし示す五項目の「行動綱領」として正式に位置づけられることとなる。

一、われらは健全者文明を否定する。
 われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明を告発することに通じることを信じ、且つ行動する。

3.鏡のなかの〈健全者文明〉

 フーコーによれば、「狂気」とはそこにそれを見い出し、排除しようとするところにのみ存在するものである(16)。青い芝の人びとが言う〈健全者文明〉とは、さしずめ、そこに「本来あってはならない存在」として障害者を見い出し、排除を図ろうとする文化(17)のありようだと考えることができよう。〈健全者文明〉のもと、障害者は社会の中心部から閉め出され、周縁へと追いやられる。
 横塚晃一の思想の起点には、障害者と健全者の間に穿たれた溝の底深さへの洞察がある。先にみた横浜の事件に関わって横塚が書いた、「差別以前の何かがある」と題する一文にはそれがよく示されている。

「普通、子供が殺された場合その子供に同情が集まるのが常である。それは殺された子供の中に自分を見るから、つまり自分が殺されたら大変だからなのである。しかし今回私が会った多くの人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった。ここで思うのだが、これをひと口に障害者(児)に対する差別といってよいものかどうか、そう簡単には片付けられないものがあるように思う。これを説明するのに私は適当な言葉を知らないが、差別意識というようななまやさしいもので片付けられない何かを感じたのである。」(18)

 それが望ましいことであるか、あるいは普遍的なものであるかどうかはともかく、私たちは通常、同質性や共通の価値を担保に想像力を喚起し、他者への共感を抱く。ところが、横塚とこの件について語った健全者は誰一人として殺された障害児に対し、同情という素朴な感覚すら抱くことができなかった。つまり、彼ら/彼女らは、自己と被害者の間に想像力を喚起するに足る共通項を見い出しえなかったのである。裏返せば、無意識のうちにであれ、そこには健全者と障害者をわかつ決定的な差異が発見されたことになる。
 もちろん、実際には、障害者と健全者の間にも多くの共通点が存在する。むしろ、共通点の方がはるかに多いはずだ。にもかかわらず、「障害」/「健常」というカテゴリー化は、それらをすべて隠蔽し示差的な表象のみを前面に押し出してしまう。そこで、オーソドックスな反差別論は、近代が発明した「人間」や「市民」といった概念を使って、両者の共通性を強調しようとする。ところが横塚は、上記のように、健全者と障害者の間にはたらくこの力を十二分に理解し、その不当性を告発しつつも、こうした近代主義的な立場には与しない。それどころか、積極的に差異に拘泥し、「同じ人間である」との言説を拒否しさえする(19)。ここに横塚の独自な視点がある。だが、その検討に入る前に、横塚が執拗なまでに繰り返し言及している〈内なる健全者幻想〉についてみておく必要がある。
 1970年代の「障害者解放運動」が、外的な差別や抑圧を断罪するとともに、〈内なる差別〉をも問題にしたことは既に述べたとおりだ。とりわけ、青い芝の運動は、障害者自身の自己規定の変容を促す運動という側面を強くもっていた(20)。横塚は、仲間たちにこう語りかける。

「脳性マヒ者としての真の自覚とは、鏡の前に立ち止まって(それがどんなに辛くても)自分の姿をはっきりとみつめることであり、次の瞬間再び自分の立場に帰って、社会の偏見・差別と闘うことではないでしょうか。」(21)

 なぜ横塚は、鏡の前に立ちどまって自分の姿を見つめる行為を「脳性マヒ者としての真の自覚」と結びつけるのだろう。鍵はそれが「辛い」行為だという点にある。健全者の場合、鏡に写る自分の姿を見つめることに、特別辛さを感じることはそう多くあるまい。普通、どこかに不満をおぼえる、といった程度ではないか。ところが、脳性マヒ者にとってはそれが辛いことだというのだ。なにごとにつけ、マジョリティである健全者が範型となる現在の文化のもとでは、身体の美醜もまた、健全者のそれが判断の尺度となっている。健全者の身体からの偏差が大きければ大きいほど、その身体は、「醜いもの」、「異形のもの」として忌避され、排斥されることとなる。もし横塚が言うように、鏡を覗く行為が辛いものだとしたら、それは鏡のなかの「凝視しがたい存在」が己であることを認めざるをえないからにほかなるまい。そしてそのとき、鏡のなかから不快げにこちらを見つめる視線は、紛う方なき〈健全者文明〉のそれなのである。自己の存在を否定する〈健全者文明〉を自分自身の内部に発見し、それがなにものかをからだで感じること、そうした体験をともなうが故に、鏡の前に立ちどまるという行為は「脳性マヒ者としての真の自覚」につながるのだ。
 このような身体化された〈健全者文明〉のことを、横塚は〈内なる健全者幻想〉とよぶ。〈健全者幻想〉は内側から障害者によびかけ、彼/彼女を〈健全者文明〉へといざない、従属させる。それはもちろん、美意識についてだけのことではない。ありとあらゆる記号が、そのコードにしたがって整序されていくのである。

「私達障害者の意識構造は、障害者以外は全て苦しみも悩みもない完全な人間のように錯覚し、健全者を至上目標にするようにできあがっております。つまり健全者は正しくよいものであり、障害者の問題は間違いなのだからたとえ一歩でも健全者に近づきたいというのであります。」(22)

 〈健全者文明〉は、なにも健全者だけによって支えられているわけではない。〈内なる健全者幻想〉を介して、障害者もまたそこに加担していることに変わりはない(23)。しかも、家族をはじめとして、社会のいたる場所にしかけられた装置を通じて、この〈内なる健全者幻想〉は絶えることなく再生産されていく(24)。〈健全者文明〉の支配圏内にいる限り、そこから 100パーセント自由になることは誰にもできないのである。

4.〈障害者文化〉の創造

 しかし、そうであるが故に、なおさら横塚は〈内なる健全者幻想〉にこだわり、それとの不断の闘いを決意する。そこにはどこか、悲愴な響きすら感じるほどだ(25)。
 それにしても、その闘いがそう容易なものでないことは想像に難くない。前にみたように、横塚は、障害者に対する健全者の感覚を「差別意識というようななまやさしいもので片付けられない何か」と表現している。そのことは障害者自身が自己に対して抱くものにも共通して言えるはずだ。家族をはじめとする支配文化の装置を介して、幼い頃から培われてきた〈内なる健全者幻想〉は、「差別意識というようななまやさしいもので片付けられない」ほど、身体の奥深くに根ざした存在となっている。これと対峙するには、相応の戦略が準備されなければなるまい。横塚はつぎのように言う。

「障害者は一般社会へ融け込もうという気持ちが強い。それは『健全者』への憧れということだが、君達が考える程この社会も、健全者といわれるものもそんなに素晴らしいものではない。それが証拠に現に障害者を差別し、弾き出しているではないか。健全者の社会へ入ろうという姿勢をとればとる程、差別され弾き出されるのだ。だから今の社会を問い返し、変えていく為に敢えて今の社会に背を向けていこうではないか。」(26)

 横塚は、〈内なる〈健全者幻想〉〉からの解放と、それを生み出し再生産する〈健全者文明〉の変革を、メインストリームからの撤退をとおして実現しようとする。健全者の身体を前提として、ヒエラルキーが構築された現在の社会では、障害者の身体とその行為の多くには、あらかじめ否定的な意味が付与されている。そのため、障害者が主流社会に食い込み成功する確率は必然的に低くなってしまう。無理にそこへ参入しようとすれば、待ち受けているのは挫折と敗北だ。結果、劣等感の裏返しで、〈内なる健全者幻想〉はますます肥大化することとなる。そうした状況のもとでは、障害者を排除しようとする側は、もはやなんらの強権を発動する必要もない。障害者は、より強力となった〈内なる健全者幻想〉のよびかけに応え、「自発的」に服従を誓うからだ。横塚は、〈健全者文明〉の支配力が比較的弱い周縁領域へとあえて退却することで、この悪循環を断ち切ろうとしたのである。
 しかし、メインストリームから撤退したとして、自動的に〈内なる健全者幻想〉が収縮するわけではない。その影響力が相対的に小さくなるとはいえ、そこもまた〈健全者文明〉の勢力圏であることに変わりはないのだ。〈健全者文明〉から完全に逃げきるためには、比喩としてではなく、その領土から隔絶された空間を実際に確保する以外にない。それは横塚の望むところではないし、現実的にも無理な話だ。第一、仮にそれが可能だとして、そこに暮らすのは既に〈健全者文明〉を身体化した人びとなのである。だとすれば、どうするべきか。横塚がめざしたのは、〈健全者文明〉から自律したもうひとつの強力な文化の創造だった。

「私達脳性マヒ者には、他の人にない独特なものがあることに気づかなければなりません。そして、その独特な考え方なり物の見方なりを集積してそこに私達の世界をつくり世に問うことができたならば、それこそ本当の自己主張ではないでしょうか。」(27)

 人がある規範から逸脱して、それでもなおかつ自身の正当性を確信するには、それを追認する他者の視線が必要である。そこにそうした視線が複数存在し、相互承認が繰り返しなされるならば、慣習的な行為やアイデンティティの変容も可能となる。もしそのような事態が、ある集団のなかに持続性をもって生じたならば、そこに新しい文化が生まれたと言うことができよう。横塚が長征の果ての地に築こうとしたのは、そうした新しい文化だった。ここではとりあえず、それを〈障害者文化〉とよんでおく。
 横塚は、社会とはさまざまな価値観が混沌と寄り集まったものにすぎず、「世間一般」などという中立的なものは存在しないと言う(28)。そして、それらさまざまなもののひとつである脳性マヒ者の「独特な考え方」「物の見方」を基礎に、独自の〈障害者文化〉を創造しようとする。そうした「独特な考え方」や「物の見方」は、〈健全者文明〉のもとでは異端視され、冷ややかな扱いを受けてきた。そのため障害者は自己をさいなみ、健全者にあこがれもしたのだ。横塚が欲したのは、これまで否定されてきた障害者の身体とその意識・行為を受け入れ、肯定してくれるもうひとつの規範・秩序だったのである。つぎのような言葉に、そのことが示されている。

「我々障害者は、一束かつげなくても落穂を拾うだけ、あるいは田の水加減をみているだけでもよしとすべきであり、更にいうならば寝たっきりの重症者がオムツを変えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです。」(29)

 これは、あくまで一例に過ぎないが、つまりは〈障害者文化〉とはそのような場所に他ならない。個のレベルではなかなか抗しきれない〈内なる健全者幻想〉も、〈障害者文化〉というもうひとつの求心力を前にその力を弱めざるをえない。否定的な規範の呪縛から解き放たれることで、障害者はアイデンティティの管理権を取り戻し、自分自身への信頼を回復することができる。横塚はそう考えた。

5.自律と対抗のパラドックス

 こうした、負の烙印を貼られた人びとのアイデンティティ管理をめぐっては、既に少なからぬ議論がなされている。それらを踏まえ、石川准はそこに、1.印象操作や補償行為といった「私的戦略」と、2.逸脱の定義そのものの変更をめざす「逸脱の政治」という、二つのベクトルが存在する旨を指摘している。さらに、石川によれば、レイベリングやサンクションが強力かつ斉一な状況下では二つの戦略は共に充分な功を奏しえず、そうした場合、スティグマ共同体は、「スティグマからの救済」を求めて安全地帯としての下位文化の形成にむかう公算が大きいという。そして、下位文化が全体社会の慣習的リアリティを無効化し、自己のリアリティに妥当性を与えるようなさまざまな仕掛けを発達させるなかで、人びとは慣習的世界からのレイベリングの影響を物理的・認知的に遮断し、スティグマを共有する仲間と、それぞれが請求する肯定的アイデンティティを、ささえあうようになるという(30)。
 青い芝の場合、このような相互承認を可能とする場所づくりと、全体社会における逸脱の定義変更をめざす闘いとは一体のものとして捉えられている。両者がどのようなかたちで結びつくかについては必ずしも明らかでないが、先に掲げた「行動綱領」の第5項からもそれは確かだ。いずれにせよ、青い芝の運動は、アイデンティティの管理をめぐる集合行為としての性格を色濃くもった運動だったと言える。とりわけ、横塚のテクストからは、この問題への強いこだわりがうかがえる。杉野昭博は、このことに関わってつぎのように述べている。

「たとえば、横塚晃一が闘っていたのは、外なる健常者社会よりも『内なる健全者幻想』だったのではないか。自分の中にある『健全者へのあこがれ』を払拭し、自ら「障害」のアイデンティティを引き受けない限り、彼にとって自己の解放はなかった。」(31)

 杉野の指摘が正しいとすれば、横塚の文章の随所にみられるどこか頑なな決意めいた発言は、身体というアリーナで闘う彼自身への叱咤激励だったのかもしれない。〈障害者文化〉の創造とは、なによりもまず他ならぬ横塚自身の自己解放のための場所づくりだったのである。
 では、その試みは成功したのか。〈障害者文化〉は本当に、障害者にとって自己解放の場たりうるのか。例えば、つぎのような問いに横塚はどう返答するだろう。

「障害はかけがえのない個性だから、治したり補ったり克服したりする謂れは一切ない、という規範を杓子定規に考えすぎると、障害を肯定しきれないときには――そうしたことは十分ありうることだ――そんな自分を再度否定しなければならなくなる。」(32)

 これは、直接、横塚や青い芝の運動にむけられた問いではないが、解放の方途をオルタナティブな文化の創造にさぐる横塚にとって、決して無関係ではいられない問題かと思われる。
 横塚の戦略は、いわば、既にある規範に対し、より強力なもうひとつの規範を対置し、そちらへの乗り換えを促すものだ。この新しい規範は、確かに障害者の現実に依拠し、その存在を肯定しようとするものかもしれない。しかし、規範と個人との間には、たとえそれがどれほど親和性をもつものであったとしても微妙なズレが生じうる。もし、誰一人としてそこにまったくズレを感じないような状況があるとしたら、それはファシズム以外のなにものでもない。特に危惧されるのは、〈健全者文明〉との対抗関係のなかで創造される〈障害者文化〉の規範が、支配的な規範に抗するために、より拘束的で、逸脱に対して不寛容なものとなる恐れがある点だ。そのような強力な規範のもとでは、障害者が再度の自己否定へと追い込まれる危険性はいっそう高くなる(33)。
 しかも、さらに憂慮されるのは、そうした先鋭な対抗関係があるところでは、往々にして、対抗それ自体が自己目的化する傾向がみられることだ。〈障害者文化〉の創造は、既存の文化のもとで逸脱ラベルを貼られてきた障害者の生と、なるだけ親和性をもった新ルールの構築をめざしてなされるものだ。しかし、その作業は、どうしても〈健全者文明〉との摩擦をともなうものとならざるをえない。そうなると、敵対する勢力の攻撃に対抗するため、それを打ち消すだけのインパクトをもった反撃が必要とされることになる。だが、〈健全者文明〉への反撃として有効性をもつものが、障害者の生と親和的なものであるとは限らない。〈障害者文化〉創造の本来の目的を外れて、対抗そのものを目的とした方策が前面に現れる可能性がそこにはある。
 実際、横塚には、そうした傾向が認められる。例えば、横塚はある箇所で、障害者が示す「社会性のなさ」といった特徴までを、肯定すべき「ありのままの存在」として取り扱っている(34)。だが、それは、彼自身が別のところで指摘するとおり(35)、〈健全者文明〉のもとで培養された負の特性ではないのか。むしろ、新たに築かれる文化のもとでは、障害者はそこから解き放たれるはずだ。「社会性のなさ」などというものが、そこにもち込まれたのは、それが支配文化のもとで否定的な意味をもつという一点からだけに他ならないだろう。
 おそらく横塚は、さして意識することなく、そうした扱いを行ったのだろう。しかし、一旦そこにもち込まれたものは、それがいかに障害者のありようと無関係であろうとも、他の価値とまったく同様にやがて規範性をもち、個に対し服従を要求するようになる。そうなると、〈障害者文化〉は、当初構想された障害者の自己解放の場とは程遠い、〈健全者文明〉と対抗する主体を産出するためだけの場に変質してしまう。横塚の思想には、自律した文化の創造よりも、支配文化を否定することを優先させてしまうような危うさがつきまとう。
 ここで、いま一度、石川の議論に耳を傾けてみたい。彼は、アイデンティティの政治に潜む陥穽について、ジャック・ダグラス、エドウィン・シュア等の諸論をひきつつ、こう述べている。人は、自己の価値を支えるにあたって、ただ他者に理解を求めるだけでなく、時として他者の価値を否定し、剥奪することでその達成をはかろうとすると(36)。横塚が陥った罠は、こうしたアイデンティティ・ポリティクスのアポリアと重なりあう。横塚もまた、他者から価値を奪い取ってでも、自らにより望ましい意味を付与しようというゲームに参加してしまったのだ。そうしたゲームにのめり込むなかで、他の参加者を出し抜けそうな場面ではとりあえずそれを実行しておくべきだといった心理がはたらき、結果、上述したような倒錯が生じたのではないか。
 それでは、どのようにすればこうした陥穽を回避しうるのだろう。この問いに答えるヒントを提供してくれるのが、杉野昭博が提示する固有文化という視点である。杉野は「障害の文化」を、1.〈名づけ〉としての障害(従属文化)、2.〈名づけ〉への反作用(対抗文化)、3.〈名のり〉としての障害(固有文化)という三つの層からなるものとして捉える。このうち、彼が特に注目するのが3.の固有文化である。それは、健常者の役割期待に応えるものでもなく、対抗すべき他者の存在を前提する必要もなく、独自に存立可能な様態にある文化である(37)。例えばろう文化。ろうコミュニティの成員は、手話を中心とする音声メディアを排した固有なコミュニケーションの様式を共有している(38)。盲文化にも、それを認めることができる。盲の場合、ろう文化のような独自言語こそもたないが、やはり盲界の成員間に点字などの固有なメディアとルールが確立している(39)。
 では、これらとの比較を手がかりに、横塚が抱え込むこととなった問題を再度検討してみるとどうなるか。気づくのは、横塚ら脳性マヒ者の場合、ろう者における独自なコミュニケーション様式や、盲人の場合の固有なメディアといった、共同性の根拠となる明確なコアが存在しないことだ。ろう文化や盲文化は、、これらを有するがゆえに、横塚が示したような倒錯にたやすく陥ることなく、自律した文化として踏みとどまりうるのではないか。
 ろう者や盲人は、集住やギルドの形成を通じて、近代以前からそうした共同性を培ってきた。一方、脳性マヒ者の場合、そうした共同性を育む場としてのコミュニティをずっともつことができずにきた。ようやく、それらしきものを獲得したのは青い芝の会発足以降のことだ。文化の基盤となる共同性を確立するには、その歴史はあまりに短かすぎる。確固たる共有項の成熟をみぬままに、対抗のパトスのみが肥大化した結果、敵対者が否定するものこそが自らの固有性であるかのような倒錯が生じたのではないか。横塚が示す限界は、こうした状況と無関係ではあるまい。

6.おわりに

 横塚晃一は、自己の内側にある〈健全者幻想〉からの解放を求めて、彼ら脳性マヒ者の身体をどこまでも肯定してくれるもうひとつの文化の創造を提唱した。それは、主流社会への参入のために、福祉や医療や教育の拡大を求めてきたそれまでの障害者運動とは、一線を画する新しい課題と戦略の提示であった。しかし、それまで自明視されてきたものに異議申し立てを行うというその思想は、対抗自体の自己目的化という転倒を帰結してしまった。このことの背後には、長らく過酷な抑圧状況にあった彼ら/彼女らが、文化のコアとなる充分な共同性を育む機会をもちえなかったという事情が関与している。しかも、当時盛り上がりをみせていた対抗運動の熱気は、彼ら/彼女らが対抗的で急進的なパトスに身をゆだねることを大いに促進したことだろう。もしかしたら、そうしたものに身をまかせることによって、彼ら/彼女らは、そこに一瞬の快楽を見い出したのかもしれない。私は、このこと自体が無意味であるとは考えない。彼ら/彼女らにとって、それは新しい世界の発見だったかもしれない。けれども、そうした快楽は決して持続的なものとはなりえない。新しい世界は、いつしか見慣れた世界になってしまう。現に、社会を覆っていたラディカルな運動の波がひくとともに、青い芝の運動もまた、その求心力を失っていったのである。
 横塚らの轍を踏むことなく、なおかつ、彼らの提起した問いとむきあっていくためにはどうすればいいのだろう。私は、障害の固有文化という視点からのアプローチにその可能性をさぐりたいと思う。ろう文化や盲文化の研究は、そのためのひとつの鍵となるだろう。ろう文化や盲文化とて、マイノリティ文化のひとつである限り、自律と対抗がせめぎあう局面を幾度となく経験してきたはずである。そうした経験から学ぶことで、横塚が積み残した課題に答えていくことができるかもしれない。

[注]

1) 木村晴美・市田泰弘,1995,「ろう文化宣言――言語的少数者としてのろう者」,『現代思想』Vol.23-3,青土社.
2) 例えば、Andersson,Y.,1994,Deaf People as a Linguistic Minority, Ahlgren,I.& Huyltenstam,K.(eds),Bilingualism in Deaf Education, Signum.や Lane,H.,1992,The Mask of Benevolence,Alfred Knopf.などがある。
3) ろう文化運動の推進者たちは、自らを手話という固有言語により結ばれた民族であるとし、一般名詞の“deaf”ではなく、固有名詞の“Deaf”を用いる。「D」とは、この大文字のDeafを象徴するものである。
4) 長瀬修,1996,「〈障害〉の視点から見たろう文化」,『現代思想』(臨時増刊総特集「ろう文化」)Vol.24-5,青土社. ただし、ろう文化が障害者文化のひとつであることを論証する際、WHOモデルを援用する長瀬のやり方は、すべてを文化に還元することで〈ろう〉概念を脱構築しようとするろう者たちの根源的問いかけを、無化する危険性をはらんでいる。
5) 楠敏雄,1982,『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房.
6) 斎藤光正,1977,「告発型の運動」,津田・木田・山田・斎藤,『障害者の解放運動』,三一書房.
7) 例えば、関西「障害者」解放委員会などは、資本制を障害者差別の重要なファクターのひとつとして位置づけながらも、そこにのみすべてを帰することはできないとの立場をとっている。これに対し青い芝の会は、〈健全者文明〉という資本制とは独立した変数を差別の淵源と位置づけている。
8) 金井淑子,1989,「『障害者』問題と女性解放運動」,『ポストモダン・フェミニズム――差異と女性』,勁草書房.
9) しかし、こうした障害者運動の「新しい波」が示す諸特徴は、一部から、「人間としての『発達権』の否定」、「資本制社会と差別の関係を見誤った『別仕立て差別論』」、「変革主体の内部に対立をもち込む『運動の分断者』」等々、多くの批判を招く。例えば、田中昌人,1977,「障害者教育に対する攻撃と撹乱の諸潮流批判」,五十嵐顕ほか(編),『講座 日本の教育 別巻 教育諸潮流の批判』,新日本出版社. などにそれらをみることができる。
10) 現在、日本の障害者運動をリードする人たちのなかにも、青い芝の活動を経てきた者が少なくない。例えば、安積遊歩,1993,『癒しのセクシートリップ――私は車イスの私が好き!』,太郎次郎社.や 金満里,1996,『生きることのはじまり』,筑摩書房.にはそうした経験が語られている。
11) この時期にも、会内部に社会活動部というセクションが設けられ、生活上の諸問題に取り組んではいる。しかしそれは、青い芝の会全体のものとはならなかった。
12) マハラバ村と大仏空については、横田弘,1975,『ころび草』,自立社.および岡村青,1988,『脳性マヒ者と生きる――大仏空の生涯』,三一書房.を参照。
13) 72年の総会では、それまで主流を占めていた「親睦派」が後退し、横塚らのグループが執行部を掌握する。そして、翌73年には、規約第3条「目的」に、「『本来あってはならない存在』として扱われている脳性マヒ者の実状を十分にふまえて非人間的な差別と偏見と闘い、生活と権利、社会的地位の向上を図るために必要なあらゆる問題と要求をとりあげ社会全体の問題との結合のなかで運動をすすめる」との文言がもり込まれることとなる。
14) この事件と当時の社会状況、青い芝の活動については、横田弘,1979,『障害者殺しの思想』,JCA出版. 横塚晃一,1981,『母よ!殺すな(増補版)』,すずさわ書店. を、障害者殺害一般については、生瀬克己,1993,『《障害》にころされた人びと』.千書房. を参照。
15) 前掲[横田 1979]
16) フーコー,M.,1975,『狂気の歴史――古典主義時代における』,田村俶(訳),新潮社.
17) 「文化」という概念は非常に多義的に用いられている。さしあたり本稿では、これを、@慣習化された行為・行動様式、A@を産出するもの(ハビトゥス・イデオロギー etc.)、Bそれらが対象化されたもの(芸術作品・建築物 etc.)の総体を表すものとして用いる(橋本健二,1991,「文化としての資本主義・資本主義の文化」,宮島喬・藤田英典(編),『文化と社会――差異化・構造化・再生産』,有信堂高文社.)。
18) 前掲[横塚,1981] p.67
19) 前掲[横塚,1981] p.45
20) 立岩真也,1990,「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」.安積・岡原・尾中・立岩,『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店.
21) 前掲[横塚,1981] p.72
22) 前掲[横塚,1981] p.51
23) 前掲[横塚,1981] p.94
24) 前掲[横塚,1981] pp.16-19
25) 前掲[横塚,1981] pp.48-49
26) 前掲[横塚,1981] p.95
27) 前掲[横塚,1981] pp.52-53
28) 前掲[横塚,1981] p.75
29) 前掲[横塚,1981] p.44
30) 石川准,1992,『アイデンティティ・ゲーム――存在証明の社会学』,新評論,pp.226-227.
31) 杉野昭博,1997,「『障害の文化』と共生の課題」,青木保ほか(編),『岩波講座 文化人類学 第8巻 異文化の共存』,岩波書店.
32) 前掲[石川,1992] p.13133) 現実の障害者運動のなかでは、こうしたことは頻繁にみられる。例えば、スティグマ・シンボルでもある白杖をなかなかもてない弱視者が、仲間の盲人から、「お前が白杖をもてないのは、白杖をもってる者を差別しているからだ」と批判され、当人も「その通り」だと思いつつ、それでもやはり抵抗感を拭いきれずに悩んでいる、といった事例などを上げることができる。
34) 前掲[横塚,1981] p.76
35) 前掲[横塚,1981] p.103
36) 前掲[石川,1992] pp.217-219
37) 前掲[杉野,1997]。ちなみに、先にもふれたように、杉野は、横塚ら青い芝の運動についても若干の言及を行っている。そこでは、横塚らの運動は固有文化の確立をめざしたものとして位置づけられている。ただ、言及箇所は非常に短く、論拠は必ずしも明確ではない。本稿で検討してきたように、横塚のテクストに限って言えば、そうしたものへの「意志」を読みとることは可能かもしれないが、現実にはそれは果たされなかったとみるべきだろう。
38) ろう文化については、先に上げた[木村/市田,1995][Andersson,1994][Lane,1992]などのデフ・カルチャー・ムーブメントに関わる文献のほか、Higgins,P.,1980,Outsiders in Hearing World,Sage. Sainsbury,S.,1986, Deaf World,Hutchinson.などを参照。
39) 盲文化については、先の[杉野,1997]のほか、同じく杉野による、1990,「障害の文化分析――日本文化における盲目のパラドックス」などがある。なお、近代以降の盲文化については、盲人自身の手になる自伝その他の史料・資料は決して少なくないが、研究書・論文の類は極めて少ない。


UP:20070728 REV:
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