> HOME
書評:立岩真也『私的所有論』(勁草書房)
『週刊読書人』 1997
市野川容孝(いちのかわ・やすたか)
明治学院大学教員/社会学専攻
多発性硬化症という不治の病に自分がおかされていることを知った彼女は、惨め
な姿で生きながらえるよりも死にたいと言っている。彼女の願いを私たちは聞き入
れるべきなのか。子どものできないある夫婦のために、彼女は自分の身体を代理母
として使ってほしいと申し出ている。医師は彼女の申し出を受け入れるべきなのか。
移植用臓器が不足している。これを解消するため、臓器売買を合法化することは認
められるのか。――本書は、こうした「生命倫理」と呼ばれる一連の問いに根源的
な形で答えようとした力作である。
すべての論者がそうだとは言えないにしても、英米圏の生命倫理学者の多くが、
これらの問いに対して提示してきた倫理原則の一つは「自己決定」である。J・S・
ミルにならって言えば、個人は自分の身体に対する主権者であり、他人に危害が及
ばないかぎり、個人には自らの身体についてあらゆることをなす自由が認められる、
というわけだ。しかし、立岩は、この論理を内在的に突き詰めながら、これとは全
く逆の答えを導きだす。私の見るところ、立岩の試みは、誰が(何が)主体=主権
者であるかは所有の形態と不可分の関係にあるとした吉田民人の指摘(『主体性と
所有構造の理論』新曜社)の延長線上に無理なく位置づくものだが、立岩は(本書
のタイトルが示すように)誰が何についてどれほどの決定権を有するかという問い
を、誰が何をどのように所有しうるかという問いに変換する。ロックの所有論にし
たがえば、自己の身体をもとに個人が労働等を通じて作り出したものは、その個人
の私的所有物であり、それゆえ個人はその生産物=所有物に関する決定権をもつ主
体=主権者である。立岩は、この議論を大枠において承認しつつも、その前提にひ
そむ矛盾をつく。つまり、私的所有の本源となる「身体そのものは私自身が作り出
したものではない」(本書三五頁)のである。ロックにしても、J・S・ミルにし
ても、私の身体が私の所有物であるというのは、論証を書いた単なる思い込みにす
ぎない。であるならば、全く逆の前提、つまり私の身体は、私が作り出したもので
ない以上、私はその少なからぬ部分に対して主権者ではありえない、つまり決定権
をもたないという前提から出発することもできるのではないか。いや、所有物=私
の生産物という私的所有論の原則を貫くならば、むしろそう考えるべきではないか。
立岩は、身体の中にあって、私による制御も、他人による制御も正当化されないこ
の部分を「他者」と呼んだうえで、障害者や女性の運動が「自己決定」という言葉
で救い出そうとしてきたのは、この「他者」の尊重ではなかったかと指摘する。
自己決定という、今日では乱暴に振り回されがちな論理に、こうした限界を付す
立岩の議論は、社会学がこれまで培ってきた視座を十分に活かしたものだと私は思
う。デュルケームは『宗教生活の原初形態』の中で、聖なるものの特性を「禁忌」、
つまり人びとが手をつけてはならないものとして保護されることに求め、そして、
近代社会では個人が聖なるものとして崇拝の対象となったと述べた。デュルケーム
の説く個人主義は、ミル流の自由論とは全く別のものである。デュルケームが言っ
ているのは、個人の中にあって、しかし、当の個人からも保護されるべき聖なるも
のが尊重されて初めて成立する個人主義である。フランスの「生命倫理法」(一九
九四年)を準備した、八八年のブレバン報告書は「人格はその人自身からも守られ
なければならない」としながら、たとえ本人が同意していても、商業的代理母や臓
器等の人体組織の売買は認められないという方針を確認した。こうした姿勢がフラ
ンス社会に特有なものかどうかは判らないが、少なくとも、生命倫理に関する日本
での議論も、英米圏のバイオエッシクスを相対化できる視座からなされなければな
らないだろう。
◇英訳版
◇立岩が原稿をもらった直後に出したメイルの一部
◇『私的所有論』
◇立岩 真也
◇全文掲載
HOME(http://www.arsvi.com)◇