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キリスト教社会事業家と優生思想

杉山博昭(宇部短期大学)

Christian Social Worker and Eugenic Thought
Hiroaki Sugiyama,Ube College

last update: 20151221


1,はじめに
 1996年に優生保護法が改正され、母体保護法へと名称も変更されて、長年にわたっ
て批判されてきた、社会の発展のためと称して障害者の生きる権利を奪う優生思想
が、法から一掃された。この改正により、法的には優生思想がなくなったとはいえ、
出生前診断や遺伝子診断などの技術がすすむなかで、障害児が生まれそうだというだ
けで避妊したり中絶したりする行為はむしろますます増える勢いである。ノーマライ
ゼーションの思想の普及の反面で、優生思想がむしろ広がりをみせているといえよう
1)。また、優生保護法に女性の産む産まないの権利の是非という別の問題が絡んでし
まったという事情はあるにせよ、1996年まで優生思想が法として、強い批判がありな
がら残っていた責任も問われなければならないであろう。
 キリスト教は本来、優生思想とは相容れない性格をもつ。人間は神によって創造さ
れ、神に似せてかたちづくられたものである以上、人間として生まれたからには、人
間が立ち入ることのできない絶対的な尊厳がある。障害をもっていることは、神の業
のあらわれであって人間が勝手に価値判断をするのは神への冒涜であって許されない
とするのが聖書の思想である。このような人間の生命の価値への絶対的尊重の姿勢
は、仏教や唯物論では論理的には導き出せないものである。キリスト教社会福祉が今
日のような福祉多元主義の時代になお優位性があるとすれば、この点をおいて他には
ないといえよう。
 優生思想が猛威をふるったのは、いうまでもなく、ナチス統治下のドイツである。
キリスト教会は一部を除いてナチスの体制に屈して、犯罪的というしかない加担をし
てしまったのであるが、それでも障害者の「安楽死」に関しては、それなりに反対の
姿勢を示してきたし、具体的な抵抗もみられた。そこにはキリスト教の良心の最後の
一線がここにあることが示されている2)。
 ところが、日本のキリスト教社会事業家たちは、むしろ優生思想に賛意を表し、優
生思想が日本で普及し、1940年の国民優生法制定へとつながる流れを実践の場からつ
くってしまった。この問題を問うことなしに、優生保護法が改正されたのをいいこと
に、キリスト教社会事業の責任に頬被りして、キリスト教の立場から生命の尊厳を訴
えるのでは偽善的といわれても仕方ないであろう。脳死や臓器移植、遺伝子治療、ク
ローン人間など、生命をめぐる議論が高まり、医療によるさまざまな生命操作が可能
になり、将来が危惧されている。キリスト教社会福祉は議論をリードする責務を有し
ているが、そのためには過去の議論を総括する必要がある。
 柴田善守氏はまだ脳死や心臓移植が今日ほど話題になっていなかった1985年にすで
に 「人間の尊厳をもっとも考えなければならない医療が人間否定を行っているの
が、心臓移植手術であろう」と断じ、2人死ぬより1人でも助かればよいという数量
的発想の誤りを論証している3)。柴田氏の思索は柴田氏の人間尊重の姿勢とともに社
会福祉史への深い理解を前提としているがゆえに説得力をもって迫ってくる。柴田氏
の心臓移植についての主張がすべて正しいとすぐに断定はできないものの、柴田氏の
ような人間尊重と歴史理解を統合させた議論をキリスト教社会福祉のなかでこそ活発
に展開しなければならないことはまちがいない。
 そこで本稿では、その一歩として戦前の優生思想の議論のなかでキリスト教社会事
業の果たしてしまった役割をふりかえり、優生思想に与した原因を考察したい。な
お、本稿では、障害者について差別的に用いられてきた用語を含んだ史料を、その史
料の重要性を踏まえてそのまま引用している。
2,キリスト教社会事業家と優生思想
(1)賀川豊彦
 社会事業と優生思想との関係については、すでに加藤博史氏による『福祉的人間観
の社会誌』によって明らかにされている4)。加藤氏はキリスト教社会事業という枠組
みを用いて論じてはいないが、分析と材料として用いている『社会事業研究』の「断
種法制定に対する賛否」と題したアンケートに断種法賛成の回答をしている者には古
田誠一郎、三田谷啓、杉山元治郎、牧野虎次といったキリスト者として知られる者や
キリスト教系の施設の者がみられる5)。加藤氏は優生思想を語った論者を取り上げて
批判的分析を加えているが、対象としている賀川豊彦と竹内愛二はいずれもキリスト
者として知られている。
 賀川豊彦の場合、1980年代には著書のなかの部落差別表現を列挙して差別者として
糾弾するという、表面的な批判が中心であったために、賀川の思想全体を実証的に批
判することが十分なされなかったが6)、むしろ賀川の思想の根幹として批判的検討を
加えるべきなのは優生思想である。一連の賀川批判のなかで優生思想に本格的に触れ
たのは吉田光孝氏であろう7)。吉田氏は賀川豊彦全集の通読を通して、賀川の差別意
識の背後には優生思想があると指摘している。
 確かに賀川の著作から優生思想にかかわる部分を取り出すのはきわめて容易であ
る。たとえば1933年刊行の『農村社会事業』には「今日のやうに人間の血が汚れてき
た場合には、優生学的な選択を妊娠の上に大いに加へる必要がある。村に善い村と悪
い村があるのは、一つはその住民の性質によることは争はれない。悪質遺伝の多い村
では、将来発展する希望は非常に少ない。さうした村は衰亡するより道はない。その
反対に、優等な種を保存すれば、その村の繁栄は期して待つことが出来る」8)「私の
ゐた処の人などは実に狂暴で無智だから、さういう人は産児制限をする必要がある。
X光線を五時間くらゐかけると、絶対に子供を産まないやうになる。薬を使つたりす
ることもあるが、薬を間違へると危い。その中毒によつて後天的遺伝になる」9)と、
農村社会の改善を断種と「優等な種を保存」することで図ろうとしている。
 戦後になっても、主張は何ら変化することはない。1949年に「産児制限論」と題し
て 「善種を増殖せよ」と述べて「よい種であるならば、少しの無理はあつても、子
供を多く作つて行つた方がよいと思う」とする一方、「悪質遺伝者が、子を多く生む
ならば、それこそ大変である」とし、単なる断種にとどまらず、「善種」の増殖を説
いて、よりいっそう優生主義を強化している10)。
 「私は一年僅かに四万人位に断種を行つていては、日本に発狂者と白痴と犯罪者が
氾濫し、その為め古代メキシコのアズテク民族が滅亡したように、日本民族の内部崩
壊が起ることを私は恐れる」11)「日本の農村に於て悪質遺伝を警戒しなければ或
は、メキシコのアズテク民族やペルーのインカ民族が滅亡した如く、また、北海道の
アイヌ種族が滅亡しつつある如く、日本民族も衰退するであろうことを心配するもの
である」12)というように、敗戦によって戦時下でのナショナリズムがそれなりに反
省されているなかでなお、日本民族の盛衰を心配する議論を続けている。
 賀川の優生思想は、賀川が若い頃から進化論に強い関心をもち、やがて宇宙目的論
にまで体系化されていく思想全体に位置づけなければならず、その意味を一部の引用
から理解することは困難である。また、一方では「弱者の権利」も説いている。その
なかでは、 「優勝劣敗の思想が、世界を風靡し、人種改良の思想が世界に流布する
と共に、弱者の生存権は日毎にその影を薄くして行つた」「たとひそれが、白痴低能
者の生命であつても、我々はその生命を尊重しなければならない」と、障害者の生存
権を主張するとともに、 「劣等と見える種の中に、不思議に純系が保存せられてゐ
る」「欧州の戦争のやうな人間の組織的殺戮によつて四年八ケ月の間に、三千万人近
くの優等人種が死んでしまつたとする。生き残る者は、病弱者であり、老人であり、
白痴低能、発狂変質、反社会的道徳虚弱者ばかりであるとする。たとひさうしたこと
があつても、不思議に三四代の後にはまたまた旧に近い常態人口を回復し得るもので
ある」「宇宙進化には再生の秘義があり、切られた株から新しい芽が吹出て、病者が
癒され、精神痴能者が、その能力を回復し」というように、障害者の断種は無意味だ
と論じている13)。思考の根拠として遺伝や社会進化を重視している点では一貫して
いるものの、内容的には同一人物とは思われないほどの正反対の論旨である。著作を
量産した賀川には矛盾した論旨はしばしば見られることではあるが、それにしても、
どちらが本音なのか疑いたくなる。
 優生思想を説く引用の表現だけ見るとナチスとどこも変わるところのない悪質な優
生思想にしか読めないが、賀川が真剣に障害者の抹殺を考えていたというわけでは全
くなく、むしろ主観的には障害者の人権にも深い関心を有していた。だが、「宇宙進
化」が思想の根幹にあるなかでは、いつでも極端な優生思想に転換する要素があり、
事実しばしば断種を主張した。賀川の影響力の大きさや賀川の周囲に多数の人物がい
たことからすれば、賀川流の優生思想はキリスト教社会事業のなかに強く存在してい
たと疑わざるをえない。
(2)生江孝之
 優生思想はキリスト教社会事業の指導的立場の者や実践者に広く浸透していた。社
会事業界の指導者であるとともに『日本基督教社会事業史』を出版するなどキリスト
教社会事業のリーダー的存在でもあった生江孝之は1920年にすでに「精神異状者の生
殖不能に関する法律の制定」を唱え、「白痴、精神病者、犯罪者、特殊の疾病あるも
の等に対し国法を以て生殖不能者たらしむる事、米国にては既に連邦中の十三四州に
於て実施せられて居るのであつて何も其の可否を云々すべきことではない。我国の如
く人口の増加率旺盛なる結果一方に粗製濫造の嫌ある場合に於ては前記のものに対
し、医学上の判断を待つて精系切除等の方法を行ふが宣しい」と述べて、早くも断種
について当然のこととして賛成していた14)。
 1923年の『児童と社会』では「受胎制限の是非」を論じている15)。そこで生江は
受胎制限を日本としてどう取り組むかについて3つの案を提示している。第一案とし
て「徹底的社会政策の実行」を掲げているが、「特種の犯罪者、精神病者、精神異常
者、高度のアルコール中毒者等の如きは、医師の診断の結果、精系切除の方法に依
て、受胎可能性を失はしめ、又病弱者若くは特別の多産者は医師の診断に依て、受胎
制限を可とすべき」として、一般国民については社会政策の優先を提起しつつ、精神
障害者らに関しては受胎制限を容認した。
 『児童と社会』で生江は「不良児、盲唖児、低能児、白痴児及び病児の保護の如
き、亦素より必要ではあるが、これ等は今や多くの専門家に依て徹底的に紹介せられ
てあるを以て、その方面に譲るを寧ろ適当と信ずる」との理由で障害児の保護につい
ての論及を避けている。ほかに専門家がいるというのなら、児童保護の他の分野もす
べて生江以外の専門家による詳細な啓蒙は行われているのであり、『児童と社会』の
著作全体が無用なものになる。障害児についての熱意がことさら乏しいとみなさざる
をえない。
 障害児について言及を避ける姿勢はその後も変わらない。生江のもうひとつの主著
の 『社会事業綱要』でもほぼ同じ文章を書いて、障害児について深く触れていない
16)。『社会事業綱要』は2度にわたって全面的に改訂されて内容に緻密さを加えて
いくが、この部分にはほとんど変化はない17)。児童保護を専門の柱とした生江が、
障害児だけは他に専門家がいるとして扱おうとしなかったのは、意図的に障害児から
眼をそらそうとしたわけではないにせよ、生江の早くからの優生思想とあわせて考え
れば、障害児には情熱を捧げる意欲が高まらなかったと考えられるのではないか。
 生江の優生思想は年とともに強まっていく。1928年には「優生学上の見地からは悪
しき遺伝因子を有する母胎は受胎阻止を行ふべきだと云ふので、これまた最早議論の
余地はなからうかと思はるゝ」と述べる18)。当時、まだ優生思想には懐疑的な空気
も残ってはいたが19)、生江は議論の余地なしといい切っていたのである。
 1937年には芸妓について「悪質遺伝の結果、多数の精神病者及び変質者を生み、引
いては種属の素質を底下せしむる等、優生学上由々敷大事を招来する」とした20)。
芸妓の女性が皆「悪質遺伝」をもっているかのような乱暴な前提は生江の芸妓への人
間的偏見でしかないのだが、さらに問題なのはその「悪質遺伝」によって「由々敷大
事を招来する」という見方である。
 1939年には「先天性弱質に関する限り優生学的に考慮することが必要である。優生
学上の問題としては最近我が国に於いても亦慎重にその利害を考慮し、来年度より予
算に計上して之が得失を研究せんとしつゝあるのである。断種法の是非については欧
米既に定説があり、各国共夫々多少の実証を試みつゝあると看てよいのであるが、我
が国に於いても亦政府自ら研究せんとするに至つたのは優生学上の立場からすれば一
つの進歩であると思ふのである」と断種法の実現に向けて動いていることに期待を表
明している21)。
 そして、1940年に「非常事変下の現時に於て、人的資源の確保の極めて切実なるに
も拘らず、事実年々三四十万の人口低減を見るの秋、如何にして優生多産を実現し得
べきかゞ国民に課せられた重大な問題である」と述べて、戦時体制下での人的資源の
育成を推進するための多産の奨励をするとともに、その単なる多産では無意味であ
り、優生多産でなければならないという議論を展開した22)。生江は社会事業家とし
て終始優生思想に関心をもち、「優生多産の奨励」が最終的な到達点となったのであ
る。
(3)三田谷啓
 知的障害児への療育で知られる三田谷啓は、キリスト教社会事業家のイメージには
やや欠けるが、青年期に信仰に導かれ、社会事業へとつながっていくキリスト者で
あった23)。先に紹介した『社会事業研究』のアンケートにて「断種法は断行するの
がいいと思ひます。本人のためにも、社会のためにも、はた民族衛生のためにも」と
回答している。
 三田谷は1928年に『社会事業研究』産児制限の問題について寄稿して「よい子を生
むには少くとも悪い子の生れる予想のつく場合にはこれを予防する必要がある。例え
ば精神病、酒毒患者、梅毒病者、癩病者、白癡、癡愚などの場合です」と述べて、
「悪い子の生れる予想の就く場合」の産児制限に賛成する意思を示した24)。ここに
は「癩病者」までが含まれている。ハンセン病が遺伝病ではないにもかかわらず、戦
前から患者への違法な断種手術が強要され、戦後は優生保護法に明記されるにいたっ
た。ここには、背後にハンセン病患者を人間として見ない発想が流れていることが指
摘されている。三田谷もまた、同じ立場に立ってしまっていた。
 三田谷は自身が行っている治療教育の事業を「消極の社会事業」に位置づけ、「弱
い子や頭脳の悪い子や、性格異常の子などが生れないようにすること」が積極的な社
会事業であり、具体的な方法として「優生学的断種法」を挙げた25)。自身による事
業の価値を落としてまで、「優生学的断種法」に意義を見出したのである。
 三田谷が主宰する月刊誌『母と子』では、戦時下において、人的資源育成の主張を
鮮明にして、そのための婦人の役割を説き続けたが、断種法の推進も説いている。
「不具、廃疾、精神薄弱、精神低格等の如きものゝ出産を削減することは、人口政策
の上から申して大層必要のことです。この種の出産制限は、人口増加の目的に矛盾す
るかの観がありますが、決してそうではありません。不具とか、廃疾とか、精神異常
のために、年々国家の負担すべき額は実に巨額に上るのです。米国の如きは、この点
から、断種法といふ結婚許可制の如きものを制定したのです。既に生れてきた斯種児
童の教養の必要なることは別の問題です。国家の負担となる斯種の児童を、未然に予
防する目的で、断種法なるものゝ制定ができたので、これは早くより米国、後にはド
イツで強行して居ます。つまり優生学的の立場からであります」と、国家の負担軽減
の見地を強く押し出して、断種法の実施を迫った26)。
 もっとも、三田谷は同時に一方では「間違つては困ります。これは薄倖児や不具児
出生を予防する策です。既に生れて来た異常児に対しては『不慮の珍客として待遇』
しなければなりません」と述べている。だが、国家の負担になるからと出生を拒否さ
れた者について、すでに生れているから保護するというのは論理的には矛盾してい
る。障害児への国家の負担を削減する発想は生存している障害児についても削減し、
ついには生存権そのものの否定にだどりつかざるをえないことは、ナチスが実証した
通りであるが、三田谷はそれに気づかず、障害児に愛情を注いでいるつもりになって
いる。
 しかも、三田谷はナチスへの親近感をもち、『母と子』のおいて繰り返しナチスを
紹介し、日本が見習うようすすめていた27)。三田谷にとって、統制のとれたナチス
の体制が理想のひとつの姿であった。三田谷はナチスによる障害者「安楽死」やユダ
ヤ人虐殺についてはこの時点では全く知らないであろうから、今日の常識的ナチス像
と三田谷の見たナチス像は異なることに留意すべきではある。だが、三田谷の統制へ
の賛意や健康への過剰なまでの執着は、統制や健康になじまない者の排除へとつなが
る要素をもっている。もちろん、三田谷の根幹にあるのはひたむきな療育への情熱で
ある。だがそれは戦時下に容易に人的資源育成へと結びつき、断種へと向かってし
まった。
(4)セツルメントの人々
 キリスト教社会事業を先駆的な実践として支えたのはセツルメントであった。セツ
ルメントは、社会問題の発生について環境の側面を重視し、人間の変革の可能性への
深い信頼をおく。社会事業のなかでも優生思想とは最も距離のある分野であるはずだ
が、セツルメントに携わったキリスト者も優生思想を支持していく。
 冨田象吉は石井記念愛染園にて長年セツルメント活動を行い、大阪では社会事業界
の中心に位置していた。冨田は1928年に「米国にては、一般国民の態位の低下を防止
するがため、態々法律を制定し、精神病者、精神薄弱者、痴鈍者、白痴者及癲癇者と
の結婚を禁止し、犯す者には千弗以内の罰金又は三年以下の禁錮の刑を科すとの明文
を設けて居る多くの州さへあるのである。法律を以てこれ等の結婚を禁止することの
可否は別として、かゝる場合に於ける避妊行為を是認すべきことは、寧ろ当然中の当
然なることではあるまいか」として、法律の制定については保留しつつも、障害者が
子どもを産むのを避けるのは当然であると強調した28)。
 1929年には『社会事業研究』による「不良少年と遺伝」と題する座談会に出席し、
「私は不良少年といふことを考へて見るときに、教育者も実際家も不良少年から遺伝
の働きといふものを全く除外して、不良悪化の原因を考へるといふことは、固より間
違つてをる事だと思ひます」と述べて、「不良少年」について考える場合、遺伝を基
本におくべきとの考えを示した29)。もっとも、冨田はこの座談会では同時に、遺伝
がすべてではなく、環境の要因も大きいことを指摘はしていた。
 しかし、1936年に冨田は『社会事業研究』の断種法の特集に寄稿し、「我等は民族
浄化のため一日も早く断種法の実施せられんことを熱望する」と断言し、「国家も民
族自衛上の立場よりして、その個人の自由を束縛し、生殖行為を将来に禁絶する国家
権力を有することは当然すぎる程当然」とまで述べて、断種法の制定を強行に主張し
た30)。1928年の段階では法律の制定については保留していたのが、明確に法による
強制断種を主張するにいたったのである。しかも、民族浄化や国家の利益ばかりが理
由として全面にでている。
 冨田は「貧しい子どもたちの友であり父であることに徹した人」であると評され、
人格的接触を重視していたとされている31)。スラムで生活するなかで自分の子をた
びたび伝染病で失って、一時スラムを離れたものの、思い直して再びスラムでの生活
をはじめる。そこにはスラム居住者の人格の改善を確信すればこその信念が感じらる
にもかかわらず、冨田は最後まで信念を確信するのではなく、一日も早い断種法の実
現を主張するようにな
ったのである。
 『社会事業』に「基督教社会事業の現状」を寄稿したことのある日暮里愛隣館の大
井蝶五郎は32)、優生学的産児制限を主張した。大井は産児制限を推進する主張をす
るとともに、宗教的立場からの産児制限反対論について「多産した子供が、人間らし
く養はれ育てられなくて、且つ悪質遺伝児変質児犯罪常習児、精神病、低能、不良少
年少女として社会炎禍のパチルスと為ることが、本人自身にとつて、社会にとつて何
で自然であり天意なのですか」と反論している33)。そして、社会の改善の根本策を
「優種優生運動」に見た。大井が訴えようとしているのは、スラムの厳しい生活実態
と、それを真剣に考えない知識人の無責任さである。だが、大井は最終的な解決策と
して、優生思想にすがる形になった。 セツルメントからスタートして当時新進気鋭
の論客であった谷川貞男は「優生学的な見地に立つ結婚の相談所ならびに媒介の施設
の普及」を説いている34)。戦前は主としてマクロな社会事業の議論を行ってきた谷
川は優生思想について詳細に論じることは少なかったものの、谷川の戦時厚生事業論
は「生産増強」や「人的資源の保全育成」がキーワードとなって展開されており、優
生思想の背景なしでは成り立たないものである。
3,優生思想傾斜の原因
 何名かのキリスト教社会事業家と認識されている主要な人物の議論をみてきた。キ
リスト教社会事業が全体の統一した意思として、優生思想を推進したというわけでは
ないし、全員が優生思想に賛成したというわけでもない。たとえば、山室軍平は、筆
者は山室の全著作を熟読したわけではないが、少なくとも禁酒の必要を論じるときに
賀川のように「悪性遺伝」は持ち出さないし、廃娼について生江のような娼婦の性質
が遺伝するかのような主張はしていない。
 また、キリスト教社会事業家が主張したのは、あくまで医学的な出生の予防であっ
て、ナチスのような障害者の抹殺とは違う。障害者の出生予防の思想が、障害者の生
存権を脅かすことにつながる危険について、当時はまだ認識されていなかった。もし
日本でも障害者の殺害が行われたならば、キリスト教社会事業家たちは当然に体を
はって抵抗したに違いない。
 しかし、優生思想のとらえかたに甘さがあったことは明らかであろう。リーダー的
な者たちがこれだけ鮮明に優生思想に立つとき、そうでない者の存在はあったとして
も傍流でしかなかっただろう。また、キリスト教社会事業のなかで、優生思想につい
て明確に否定的見解を示し、断種法制定に反対した動きを筆者は今のところつかんで
いない。キリスト教社会事業が全体として優生思想を押しとどめる方向ではなく、す
すめる方向に力をもったことは否定しがたい。本来優生思想と相容れないはずの立場
の者たちが逆になったのはなぜか。
 理由のひとつは、優生思想の隆盛が戦時体制によって人的資源育成を重視する時期
と重なり、基本的に戦時厚生事業の立場に立ったキリスト教社会事業家は、優生思想
に流れていったことがあげられる。つまり、優生思想そのものの支持というより、戦
争を容認し、戦時体制の維持に腐心したこと自体の問題である。だが、戦時体制が構
築される以前にも、また賀川の場合戦後になっても、優生思想を鼓舞しているのであ
るから、キリスト教社会事業の戦争責任の問題にとどめることはできない。個々の社
会事業家が優生思想に到達した過程は異なるであろうし、ひとりひとりについて実証
したわけではないので、仮説にとどまる面もあるがその原因を考えてみたい。
 第一はキリスト教社会事業家たちが思考の軸として「民族」を重視したことであ
る。日本の近代初期よりキリスト教が国家ひいては民族に反する宗教であるととらえ
られたことから、逆にキリスト教が民族にとって有益であると力説され、極端な場
合、聖書によって日本民族に特別な役割が与えられているという主張さえみられた。
 確かに聖書は明確に民族の存在を認めている。日本統治下の朝鮮では多くのキリス
ト者が抗日運動に参加していくのは、信仰と民族とを関連させた信仰理解がみられ、
果敢な民族闘争を展開していくことになるし、それゆえに朝鮮のキリスト者たちは過
酷な弾圧を受けていく。
 だが、聖書が民族の存在を認めているといっても、それは自民族も他の民族もいず
れも神が創造の業のうえて必要なものとしてつくったものであり、優劣はない。しば
しば民族主義は他民族に対する優越性を強調するものとなり、キリスト教との関連で
とらえる場合、自民族が旧約聖書のユダヤ民族と同一視されて、優越性が正当化され
た。日本でも同様であり、飯沼二郎氏は戦前の体制を「民族エゴイズム」と規定し、
キリスト教とは異質であるにもかかわらず、戦前のキリスト者が民族エゴイズムに縛
られていた歩みを論じ、民族エゴイズムは他民族の基本的人権を認めないものである
と分析している35)。
 キリスト教社会事業家もこうした雰囲気のなかで思考するしかなかった。「民族浄
化」の議論が出てきたとき、安易にのってしまって、同じ民族のなかでも、民族の
「発展」の足を引っ張るかに見える障害者らの存在を認めることができなくなってい
た。これは、ハンセン病においても、キリスト者を中心にして日本MTLが結成され
「民族浄化」を掲げて、隔離政策を率先して推進したことにも通じるであろう36)。
 第二は優生思想が思想というより、「優生学」という科学的装いをして流入してき
たことである。キリスト教社会事業の先駆的意味は、その隣人愛による精神的営みが
すぐれていただけではなく、海外の知見を積極的に取り入れて、科学的、理論的実践
を展開したところにある。賀川や富田はまさに実践力と最新の理論をともにそなえた
実践者であった。それゆえに「優生学」もまた導入すべき最新の理論とうつった。生
江は何を論ずるにしても、海外の最新の動向をふまえていたが、優生思想について発
言する際にもしばしば海外の状況を説明する。生江にとって、優生思想は客観的な学
問であって、その背後のイデオロギーに気づくことはなかった。
 竹内愛二や竹中勝男といったキリスト者の社会事業研究者も基本的に優生思想の支
持に傾いていく。竹内は曖昧ながら断種を容認するし37)、竹中も「優生学から観た
戦争」を論じる38)。竹内や竹中が戦時厚生事業の論客であったために、時流に迎合
したのだろうか。確かに竹内の断種法についての論文では、時流と自らの信仰者とし
ての立場の矛盾のなかで揺れ動きつつ現実に妥協していく様子が感じ取れるが、むし
ろ真摯な学問的態度がかえって優生学の受容につながったとみるべきであろう。なぜ
なら、「優生学」はすでに社会事業の周辺で「学問的蓄積」をもっており、社会事業
研究のなかで無視できない存在になっていた。
 たとえば、安部磯雄はすでに1922年の『産児制限論』において「優種学より見たる
産児制限」の章を設け、「私共の義務は私共より優秀な子孫を社会に送り出すといふ
ことであります。これに反して私共が自分よりも劣等なる子孫を社会に送り出すとい
ふことになれば、これよりも大なる社会的罪悪はない」という価値観のもとで産児制
限の目的の第一は優秀なる種族を得ることだとしたうえで「優秀なる性質を遺伝する
には必然的に産児制限をしなければなりません」と述べていた39)。安部が『社会問
題解釈法』などで社会事業界にも影響があったことはいうまでもない。
 やはり社会事業界に影響のあった建部遯吾は、1932年の『優生学と社会生活』にお
いて優生学と社会との相互の関連について強調している40)。建部の議論は表面上、
個人の問題を個人のレベルでとらえずに社会全体でとらえていく点で、社会連帯思想
をはじめ社会事業の理念と類似している面がある。
 「社会事業の根本方針は優生学的考慮」だのと、学者によってもっともらしいデー
タとともに語られるなか41)、そこに巻き込まれていくのは避けがたいことであっ
た。
 第三は、社会の底辺とされるなかで地道な実践をしたことがかえって優生思想を魅
力的に感じさせたことである。彼らの実践はとかく成果ばかりが美談仕立てで紹介さ
れがちだが、現実はそんな生易しいものではなかった。さまざまな努力は何の効果も
あらわさず、共に生きようとした人々からは裏切られることの連続であった。実践が
長期間にわたると、スラム居住者の子どもが再びスラム居住者として底辺の生活に一
見自らおちこんでいく姿を直視することにもなったであろう。禁酒も廃娼も、理屈で
は明らかに正しいのに誰も実行しない。それでもなお、現場を放棄することなく、実
践を続けたところにキリスト教社会事業家たちの真価があるのではあるが、自分たち
がなしえないことへの特効薬として登場した優生学は、魅力的であり飛びついたのも
無理はない。
 無産者の産児制限を唱える富田はスラム住民の生活実態に基づいて思考している
し、大井は産児制限反対論に対して「余りに現実を思はなさ過ぎる架空高説」「学者
といふものは勝手な熱を吹く者」「驚くべき神秘的原始的楽観説」等、感情的ともい
える表現で徹底して非難している。これも、現場を知らない、知ろうともしない者へ
の現場で苦闘するなかからの反発である42)。
4,おわりに
 キリスト教社会事業家たちは悪意をもっていたわけではないのに、優生思想に陥っ
てしまった。それには前述したように時代のなかでの理由があると考えられるのであ
り、個々人を弾劾する意図は筆者にはない。しかし、キリスト教社会事業家のなかに
隣人愛の真意をとり違えて、愛するべき人たちを結果的に圧殺するような思考をして
しまった人がいた事実は明白である。
 さまざまな事情はあるにせよ、キリスト者として社会事業に携わったからには、結
局は信仰理解や聖書理解が乏しかったといわざるをえない。それは彼らが不信仰だっ
たとか不勉強だったということではなくて、日本でのキリスト教の受容が、信仰者と
して世と対決してでも真理を貫いていくことにまで達せず、実利的な部分にとどまる
面をもち、社会事業家もその枠を出ることはなく思考してしまったのである。
 しかし、信仰の世界にのみおしとどめていくことはできない。優生思想について、
個々の社会事業家の評価、あるいはキリスト教社会事業全体の評価にあたって、賀川
豊彦についていくらか問題にされていることを除けば、ほとんど看過されてきた。キ
リスト教社会事業の影の部分になるのかもしれないが、そこに向き合うことで、生命
倫理軽視の風潮に立ち向かわなければならないであろう。
 キリスト教社会福祉と社会とのかかわり、関係諸科学との向き合い方、何より信仰
のあり方が厳しく問われている。生命そのものの揺らぐ今こそキリスト教社会福祉の
役割は大きい。

 注
1)天笠啓祐『優生操作の悪夢[増補改訂版]』社会評論社、1996年。
2)小俣和一郎『ナチスもう一つの大罪』人文書院、1995年。ヒューG.ギャラ
ファー著、長瀬修訳『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』現代書館、1996年。河
島幸夫「ナチズムと内国伝道」『基督教社会福祉学研究』第29号、1997年6月、5
頁〜20頁。
3)柴田善守『社会福祉の史的発展−その思想を中心として−』光生館、1985年、14
頁〜15頁。
4)加藤博史『福祉的人間間の社会誌』晃洋書房、1996年。
5)『社会事業研究』第24巻第10号、1936年10月、46頁〜52頁。
6)倉橋克人「賀川研究の現在、そして課題」『雲の柱』第13号、1996年6月、27
頁〜29頁。
7)吉田光孝「討議資料の欺瞞性を撃つ 賀川豊彦は差別者か」『資料集『賀川豊彦
全集』と部落差別』キリスト新聞社、1991年、212頁〜233頁。
8)『賀川豊彦全集』第12巻、キリスト新聞社、1963年、
9)『賀川豊彦全集』第12巻、30頁。
10)『賀川豊彦全集』第10巻、1964年、381頁〜383頁。
11)『賀川豊彦全集』第12巻、430頁。
12)『賀川豊彦全集』第12巻、467頁。
13)賀川豊彦「弱者の権利−宇宙生命の可能性と最後の一人の生命の尊厳−」『社会
事業研究』第16巻第10号、1928年10月。
14)生江孝之「避妊公許の和蘭」『生江孝之君古稀記念』生江孝之君古稀記念会、
1938年、251頁〜252頁(同論文の初出は1920年)。
15)生江孝之『児童と社会』児童保護研究会、1923年、87頁〜107頁。
16)生江孝之『社会事業綱要』巌松堂書店、1923年、404頁。
17)『社会事業綱要』(改訂版)1927年、432頁。同三訂版、1936年、407頁。
18)生江孝之「産児制限問題私見」『社会事業研究』第16巻第12号、1928年12月、27
頁。
19)加藤博史氏の前掲書でも触れているが、1929年に北村兼子は人道的理由や今後の
医学の発達の可能性を挙げて、優生思想を批判している(「優生学ちよつと待つて」
『社会事業研究』第17巻第1号、1929年1月、86頁〜89頁)。
20)生江孝之「淫蕩の弊風を一掃せよ」『廊清』第27巻第10号、1937年10月、7頁〜
8頁。21)生江孝之「統制下に於ける乳児死亡率減少の問題」『済生』第16年第1
号、1939年1月、8頁。
22)生江孝之「優生多産の奨励とその検討」『社会福利』第24巻第1号、1940年1
月、28頁〜34頁。
23)「三田谷啓」『福祉の灯』兵庫県社会福祉協議会、1971年、371頁〜381頁。
24)三田谷啓「条件つき賛成」『社会事業研究』第16巻第12号、1928年12月、69頁。
25)三田谷啓「予防的の社会事業」『社会事業研究』第25巻第2号、1937年2月、33
頁〜34頁。
26)三田谷啓「人口政策は女性の直接問題」『母と子』第20巻第2号、1939年2月、
2頁〜8頁。
27)たとえば、「他山の石−婦人生活に関して−」『母と子』第22巻第12号、1940年
12月、2頁〜7頁は、ナチス婦人団を紹介し、日本の婦人団体が学ぶべきことを説い
ている論稿であるし、戦時下に三田谷が書いた一連の論稿にて、たびたびナチス体制
を先進的なすぐれたものとして紹介している。
28)冨田象吉「新マルサス主義是非に就ての私見」『社会事業研究』第16巻第12号、
1928年12月、53頁〜60頁。
29)「座談会 不良少年と遺伝」『社会事業研究』第17巻第4号、1929年4月、38
頁〜49頁。
30)冨田象吉「断種法に就て」『社会事業研究』第24巻第10号、1936年10月、36頁〜
40頁。31)宍戸健夫「冨田象吉」岡田他編『保育に生きた人々』風媒社、1971年、
166頁〜184頁。32)大井蝶五郎「基督教社会事業の現状」『社会事業』第9巻第10
号、1926年1月。
33)大井蝶五郎「街頭人の見たる産児制限論議」『済生』第6年第1号、1929年1
月、23頁〜35頁。
34)谷川貞夫「新しい日本の社会事業」『社会福祉序説』全国社会福祉協議会、1984
年、105頁(同論文の初出は1940年)。
35)飯沼二郎『天皇制とキリスト者』日本基督教団出版局、1991年。
36)藤野豊『日本ファシズムと医療』岩波書店、1993年127頁〜142頁に日本MTLの
「民族浄化」論について論じている。
37)竹内愛二「断種法の研究」『社会事業研究』第26巻第6号、1938年6月、23頁〜
33頁。38)竹中勝男「長期戦下に於ける保健問題の位置考察−優生学から観た戦争
−」『社会事業研究』第26巻第6号、1938年6月、18頁〜22頁。
39)安部磯雄『産児制限論』実業之日本社、1922年、81頁〜100頁。
40)建部遯吾『優生学と社会生活』雄山閣、1932年。
41)小関光尚「社会事業と優生学」『社会事業研究』第17巻第1号、1929年1月、83
頁。
42)大井、前掲稿。


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