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「3-3-4 遺伝的リスクの高い血縁者への情報開示 [新しい遺伝学の倫理的・法的意味:議論されるべき問題]より」

玉井 真理子・中澤 英之・阿部 史子 19970901 『遺伝医療と倫理』(バイオエシックス資料集 第1集)
信州大学医療技術短期大学部心理学研究室

last update: 20131127

◆3-3-4

遺伝的リスクの高い血縁者への情報開示 [新しい遺伝学の倫理的・法的意味:議論されるべき問題]より

Dorothy C. Wertz 1992 Ethical and Legal Implications of the New Genetics : Issues for Discussion, Social Science of Medicine 35-4:495-505

上記論文中の「遺伝的リスクの高い血縁者への情報開示」(Disclosure to Relatives at Genetic Risk, pp.499-500)の全訳

 西洋社会での医師・患者関係は、カトリックの告解の場合と同様に、個人情報を もらさないことが伝統的に義務づけられている。しかしながら、第三者に対する深 刻な危害が予想される場合、守秘義務がくつがえされることがある。公衆衛生局 (NIH)が、医師に対して伝染病の報告を義務づけているのはこれに該当する。性 病や(徐々に)HIV感染症も報告の対象とされている。そして報告を受けた公衆衛 生局は、感染の恐れがある人に対して警告を発する(あるいは発することになって いる)のである。
 遺伝疾患は、他人、この場合には子どもに伝わる、という点で伝染病と似ている。 しかし、伝わるといってもすぐにではないところが伝染病と異なる点である。そこ で、遺伝性疾患を公衆衛生上のリスクとみなすかどうか、例えば梅毒検査と同じよ うに、結婚前の検査を政府が義務づけるべきかどうかについても議論の余地がある。 キプロスでは、事前にサラセミアの遺伝子検査をしておかないと、ギリシャ正教会 が結婚式をさせてくれない。アメリカでも、ユダヤ教のラビがテイサックス病の遺 伝子検査を義務づけている場合がある。配偶者あるいは配偶者になる人に遺伝子検 査を行ったり、またはその人に自分の遺伝情報を開示したりすることに関して論点 になる倫理問題は、配偶者は生まれてくる子どもの健康に対して利害関係を持って いるから、パートナーの遺伝情報についても知る権利がある、といえるかという点 にある。
 個人情報の開示には賛否両論があるが、もしも血族内に遺伝性疾患を発症するリ スクの高い人がいる場合、あるいは遺伝性疾患をもった子どもが生まれるリスクが ある人が血族内にいる場合、話しはさらに複雑になる。時には、ハイリスクの本人 が親族に開示することを嫌がり、説得にまったく応じないことがある。この場合、 医師は個人の秘密を守る義務と、第三者に危害の警告を伝える義務との間で板挟み になってしまう。この問題は活発に議論されているが、合意には至っていない。我 々が行った調査によると、ハンチントン病の場合、遺伝学者の32%は患者個人の秘 密を守ると答え、34%が親族には尋ねられれば開示すると答え、24%は尋ねられな くても開示すると答え、10%は患者の担当医に判断を委ねると答えている。疾患を 血友病Aとしても結果は似たようなものだった。遺伝学者の中には、遺伝学におい て、本当の患者は、個人ではなく家族だ、という人もいる。遺伝子は家族に共有さ れているため、家族はお互いに遺伝情報を開示し合い、研究に細胞サンプルを提供 しなければならないという道徳的義務があるというわけである。遺伝学の倫理問題 研究で指標となるものの中に大統領委員会があるが、そこではさらに一歩進んで、 医師が個人の遺伝情報を本人の意思に反して親族

      [資料集p.86]

に開示することを認めている。ただし、医師が守秘義務を免れるのには、次の4つ の基準を満たす必要があるとしている。すなわち、

(1)患者本人から自発的に開示するようにという説得がすべて失敗したとき (all attempts to persuade the patient to disclose voluntarily have failed)

(2)開示しないと被る危害が大きい場合(there is a high risk of harm from nondisclosure)

(3)その危害は重篤だが、情報を開示すれば緩和される場合(the harm would be serious and the information would be used to prevent or mitigate the harm)

(4)親族の遺伝問題に直結する情報のみを開示する場合(only information directly relevant to the relatives' genetic status would be disclosed)

という条件を満たしたときである。また、大統領委員会やその他の専門委員会も、 親族に対して開示することを医師に法律的に認めてはいるものの、義務づけてはい ない。ハイリスクの親族の居場所がわからない場合もあり、仮に法的な義務にして しまうと、医師に不当な負担を課すことになるからである。しかし、遺伝性疾患に よる危害の場合は、医師に開示する法的義務を課すべきだ、という議論も成り立つ。 Tarasoff vs Reegents of University of Californiaの裁判例がそのもっとも説得 力のある前例だろう。裁判になったのは、精神科の患者が治療の間、自分は元ガー ルフレンドを殺す気でいると発言していたのにもかかわらず、医師は元ガールフレ ンドに警告を発せず、患者は後に殺人を実行したという事件だが、判決ではその医 師の責任が認められた。遺伝性疾患を持った患者の親族が担当医を相手取って訴え ることが仮にあったとしたら、そのときはTarasoff判決が前例になるだろう。この ような場合、親族への開示が本人に与えた損害を訴追金額として算出することが難 しいため、患者自身が医師を相手に守秘義務に違反したと訴えることは少ないとい える。もっとも、1985年から1986に行われた最近の調査では、遺伝カウンセラーお よび遺伝学者は親族への開示に反対する傾向が強い、という結果が出ている。
 親族への開示という点で他に問題になることは、(法律上の)未成年者に対して、 年を経てからでなければ発症しない遺伝性疾患について検査を行うべきか、という 問題である。現在のところ、アメリカおよびカナダの遺伝学者は、未成年に対する 成人病の遺伝子検査は、たとえ両親と本人から要請があっても行わないという場合 が大半である。検査から得られる利益よりも、検査から受ける害の方が大きいから である。(未成年者が妊娠中だったり、妊娠する可能性がある場合は例外だろう。) また、その利益がどんなに小さくても、子どもの時に検査を受けることが医学的に 利益があるという疾患(例えば、発症は成人してからだが、高血圧や脳卒中を起こ す多発性嚢胞腎)と、検査をしても、それが人生設計に役立つかリプロダクション (家族計画)に役立つこと以外にメリットがないという疾患(例えばハンチントン 病など)とを、はっきり区別しておく必要がある。
 またこれらに絡んで、親自身の遺伝情報は開示せずに胎児だけに遺伝子検査を行 ってもよいかという問題もある。例えばハンチントン病の疑いが高い親が、自分の 遺伝情報を知るのは希望せずに、胎

      [資料集p.87]

児の検査だけをしたがる場合がそれにあたる。仮にその検査で胎児のハンチントン 病の発症の可能性が50%だとわかった場合、生まれた子どもにとってみれば同意な しに検査を受けさせられたという状況が生じてしまう。そして親がその後発症した 場合、子どもにしてみれば頼んでもいないのに自分の将来の病状を親から見せつけ られるという状況が起きるのである。ここで問わねばならない倫理問題は、このよ うな状況が子どもにとって公平といえるかどうか、そして医師は出生前検査を断る べきだったのか、という点である。



*作成:小川 浩史
REV: 20131127
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