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「優生問題を考える(二)──優生保護法の「消滅」」

松原 洋子 『婦人通信』464(1997-9):38-39

last update: 20151221


優生問題を考える(二)──優生保護法の「消滅」

 『婦人通信』464(1997-9):38-39
                 松原 洋子

 去る六月十七日、脳死の人からの臓器移植を条件付きで認める「臓器移植法」が
成立しました。この法案をめぐって賛否両論が連日のようにマスコミを賑わし、人
の「死」の問題が大きな注目を集めたことは、私たちの記憶に新しいところです。
ところで、奇しくもそのちょうど一年前の一九九六年六月十八日に、人の「誕生」
に縁の深い法律が国会を通過したことをご存じでしょうか。「優生保護法の一部を
改正する法律案」です。これにより優生保護法は実質的に廃止され、名称も「母体
保護法」に改められました。臓器移植法案とは違ってほとんど話題にならなかった
ため、今回の改正に気づかなかった人も多いようです。
 優生保護法は、人工妊娠中絶に関する法律というイメージが強いのですが、実は
文字通り「優生」の「保護」を第一に掲げる法律でした。優生保護法の第一条には、
「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生
命健康を保護することを目的とする」とあります。今改正では、優生思想に基づく
条項や表現が条文から徹底的に削除・追放されました。削除された分量は全体の約
六割にのぼり、優生保護法において「優生」の比重がいかに大きかったかがわかり
ます。遺伝性疾患、精神障害、ハンセン病を背負う人々が子供を残すことを、優生
上の見地から「防止」する──障害者差別を明文化したこのような法律が、ついこ
の間まで効力をもっていたことに愕然とします。
 さて、長年批判にさらされながらも生き延びてきた優生条項ですが、その幕引き
は意外とあっけないものでした。一九九五年十二月に、自民党社会部会が突如とし
て優生条項を検討する勉強会を始め、その後半年ほどで優生保護法は消滅してしま
ったのです。もちろん優生条項の削除・追放は画期的で歓迎すべきことです。しか
し、自民党議員を中心に展開した今回の改正劇は、あまりにも唐突で性急でした。
これまで中絶の規制強化には熱心でも、優生条項問題を国会に持ち込むことのなか
った議員や官僚たちが、今回に限ってなぜこれほど迅速に動いたのでしょうか。主
な理由としては以下の三点が挙げられます。
 第一は、国連国際人口開発会議のNGO会議(一九九四年)という国際的舞台で、
障害者の不妊化を正当化するものとして、優生保護法が非難されたことです。リプ
ロダクティブヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康・権利)をスローガンとする
この会議で、日本が先進国にあるまじき法律を抱え込んでいることが露呈してしま
い、日本の政府関係者をあわてさせました。
 第二点は、一九九六年三月の「らい予防法」廃止です。国会での提案理由説明や
患者代表に対する謝罪の中で、厚生大臣はハンセン病患者に対する「優生手術」
(不妊手術)を人権侵害的行為として明確に位置づけています。同法廃止に伴い優
生保護法の「癩疾患」に関する条文は削除され、優生保護法の優生条項の一角が崩
れることになりました。
 第三点は、厚生省の障害者政策の路線転換に伴う機構改革です。障害者のノーマ
ライゼーション(地域での生活自立と社会参加)を推進する障害者基本法が一九九
三年に公布され、国の障害者政策の方針と、優生保護法の「優生保護」という理念
との矛盾が決定的になりました。そこで、それまで優生保護法を所管してきた精神
保健課は、精神保健福祉課への改組を機に優生保護法を手放し、母子保健課に同法
を委ねることになったのです。一方母子保健課は、こうした問題を抱えた法律をそ
のままの形で引き継ぐことに難色を示しました。移管予定は、一九九六年七月。厚
生省としてはこのタイムリミットまでに、できれば決着をつけておきたい状況にあ
ったわけです。これが今回改正が急がれた、最も切実な動機だったかもしれません。
 ともあれ古色蒼然とした悪法が放逐され、生殖をめぐる法律の土俵は仕切り直さ
れました。すでにポスト・母体保護法をにらんで、論争の焦点は中絶の自己決定や
出生前診断に基づく中絶の是非などの現代的課題に移っています。ただし、膠着し
ていた優生条項問題が一挙に片づいたからといって、過去が精算されたわけではあ
りません。今改正ではスピード通過優先で国会審議が行われなかったため、優生政
策の批判的総括が「省略」されてしまいました。そのため優生保護法下での人権侵
害の実態すら十分に検証されないまま、優生保護法問題は決着済みとして葬られそ
うな気配です。しかし現在は過去と地続きです。現在の生殖をめぐる価値観や生活
様式には、優生保護法をはじめとする戦後の生殖統制政策が色濃く反映しているは
ずです。戦後の子供二人の標準家庭の形成と障害者の強制的不妊化は、共に優生保
護法に支えられてきました。先端医療の現状、女性の権利、障害者の生活のノーマ
ライゼーション等を踏まえた生殖のあり方が模索されている今こそ、優生保護法の
本質を探る必要があるのです。次回は障害者と優生保護法の関係についてです。
                    (早稲田大学人間科学部非常勤講師)


以下by立岩

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