HOME > 全文掲載 >

「優生問題を考える(一)──クローン羊が意味するもの」

松原 洋子 『婦人通信』463(1997-8):36-38

last update: 20151221



     優生問題を考える(一)──クローン羊が意味するもの

                  『婦人通信』463(1997-8):36-38
                  松原洋子

 一九九五年一月、イタリアで二年前にすでに亡くなっていた女性の子供が生まれ
ました。不妊治療のため生前冷凍保存してあった亡妻の受精卵を用い、夫の妹が代
理母となって出産したのです。またその前年、あるイギリス人医師は、中絶胎児の
卵の培養がうまくいけば将来体外受精に利用できるだろう、と語って物議をかもし
ました。韓国では子宮などの病気で摘出した卵巣から採取した卵を体外受精して、
第三者の不妊女性に移植し、赤ちゃんが生まれたといいます。
 このように、近年急速に拡張しつつある人工生殖技術は、人間の誕生のありよう
に大きく揺さぶりをかけています。体外受精による「不妊治療」では、卵や精子の
入手から受精、妊娠、出産に至る子づくりの全過程が、医療の管理下に置かれます。
また、卵、精子、受精卵に対して実験室で直接手を加えることも可能となりました。
ですから、医療が人工生殖の成果の向上を目指して医学的管理を徹底しようとすれ
ば、遺伝子診断による受精卵の選別や、好ましい性質を受精卵に導入するための遺
伝子操作に向かうことは必至といえます。もともと体外受精は、畜産学において人
間が求める品質をそなえた家畜を効率的に殖やすことを目的として発達してきた技
術です。遺伝子操作技術と生殖技術を組み合わせた様々な試みは、すでに畜産業や
医薬品産業等で多くの実績を積んでいます。もし、倫理的歯止めがなく条件さえ整
えば、いつでも人間に応用される状況にあるのです。今年の二月末に世界中をかけ
めぐったクローン羊誕生のニュースが、クローン人間の出現に対する警戒感と一体
となって報じられたのもこのためです。
 「クローン」とは同一の遺伝子を持つ複製生物のことです。イギリスのロスリン
研究所のウィルムット博士らが誕生させたクローン羊のドリーは、遺伝子の提供者
である六歳の雌羊のクローンにあたります。もっともクローン動物自体は、特に珍
しいものではありません。受精卵の核や細胞(胚)からのクローン動物づくりは、
すでに商業ベースにのっています。日本でもこの方法によって一五〇頭以上のクロ
ーン牛が生まれ、一部は食肉として市場に出荷されているそうです。
 しかしドリーは別格でした。ドリーの遺伝子は受精卵ではなく、成獣の乳腺細胞
に由来していたからです。動物の受精卵は細胞分裂を繰り返して身体をつくりあげ
ていきます。発生が進むにつれて細胞たちは、あるものは筋肉細胞へ、あるものは
乳腺細胞へ、といった具合に次第に特殊化、つまり分化していきます。分化した細
胞も基本的には受精卵の遺伝子をそっくり引き継いでいますが、分化していく過程
でDNAの構造に不可逆的な変化が生じ、受精卵の頃のような全能性は失われると
考えられてきました。しかしドリーの誕生は、成獣の乳腺細胞のように分化が進ん
だ細胞の遺伝子でも、条件によっては全能性を取り戻し、発生現象を振り出しから
再開する能力を発揮しうることを示したのです。二七七分の一と成功率が低かった
という問題はありますが、ドリーは史上初の成熟した動物からのクローンとして認
められました。これは生物学の教科書を書き換えるような画期的な出来事であり、
ノーベル賞級の成果であるともいわれています。
 このように基礎科学的に価値の高い業績が、トランスジェニック家畜の開発で実
績のあるベンチャー企業、PPLセラピューティクス社との共同研究から生まれた
ことは大変象徴的です。トランスジェニック(遺伝子組換え)家畜とは人間に有用
な性質を新たに獲得させるために、受精卵に外来遺伝子を組み込んで遺伝的性質を
改造した、羊、山羊、豚などのことです。PPL社は、肺気腫の治療薬となるAA
T1というヒトタンパク質を、ミルク中に高濃度で分泌するトランスジェニック羊
を開発しました。この方法はコストや効率の点で大型の細胞培養設備を使うよりも、
はるかにメリットが大きいとされています。ロスリン研究所がPPL社の出資をう
けて取り組んだ今回のクローン羊作製は、この種の医薬品の生産を軌道にのせるた
めに、トランスジェニック家畜をクローン化によって安定的に繁殖させることをに
らんだプロジェクトであったといえます。雌羊の乳腺細胞が使われたのもそのため
です。なお、ロスリン研究所はクローン羊の特許をすでに申請しました。
 このようにクローン羊を通して、現代の生物学と医療と産業が制度・学問・技術
の面で、密接に絡み合っていることがよく見えてきます。クローン羊の誕生をクロ
ーン人間の可能性という観点から、生命倫理的問題として議論し、検討することは
重要です。しかしそれにも増して重要なのは、制度的対応を実際にデザインするこ
とでしょう。科学技術研究開発の暴走に具体的に歯止めをかけるには、生命倫理に
抵触しうる科学研究や技術開発が、産業・経済・国家経営のシステムに組み込まれ
て展開している現状を踏まえて、科学技術研究を規制する法律やガイドラインなど
を策定する必要があります。この側面を欧米諸国並に強化することが、日本の緊急
課題といえます。
 ともあれ人類が前代未聞の事態を迎えており、しかもそれが次第にエスカレート
していることは事実です。このコラムの冒頭に挙げた例は極端にみえるかもしれま
せん。しかし、生殖技術の裾野は身近な産婦人科医療にまで広がっています。特に
問題なのは出生をめぐる様々な先端医療技術が、障害や疾病をもった子の出生を排
除し、より望ましい子供の出生を賞揚する優生思想と結びつきやすく、社会におけ
る差別や人権侵害を助長する傾向を備えていることです。次回からは現代日本の優
生学的な諸問題について、歴史的背景を振り返りながら考えてゆきたいと思います。
                     (早稲田大学人間科学部非常勤講師)


  ◆松原洋子

  ▲↓このホームページの最初の頁*へ
  *http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/1.htm

REV: 20151221
全文掲載
TOP HOME (http://www.arsvi.com)