『バリアフリーの時代』
古瀬 敏 1997.04.21 都市文化社
last update: 20151221
目次
序:バリアフリーの時代
一章 住宅
1 寿命二〇年の日本の住宅
2 住まいの「常識」日本とアメリカ
3 高齢者の入浴をめぐって
4 浴用いすの効用
5 理想的な浴室は……
6 冬はいかようにも住まる?
7 人生八〇年時代、畳を考え直す
8 住宅はどこまで個人の自由か
9 住宅の改造を阻むもの
10 在宅福祉に欠ける「住宅」
11 「指針」からの広がりに期待
12 住宅重視を「政策」として
13 施工・判定評価はどうするか
14 長寿社会対応住宅を評価する
15 バリアフリーの考え方の理解が基本
16 公団住宅のバリアフリー化
17 建築基準法と階段幅員・手すり
18 さらに一歩進めたアメリカの住宅政策
第二章 まち
1 「みんなにやさしいまち」へ
2 自治体のバリアフリー化の動き
3 公共トイレを使いやすく
4 まちづくりにも「高齢化」の視点を
5 バリアフリーを阻害する官僚の過ち
6 地下鉄南北線を見学して
7 江戸東京博物館は「やさしい」か
8 非常時のバリアフリー
9 見直される「常識」
10 「イグレシビリティ」への道
11 車社会の発想の転換
第三章 高齢社会とユニバーサルデザイン
1 「すべての人」のための設計指針
2 性能か仕様か
3 設計者と「リフォームマニュアル」
4 利用者の立場から設計を
5 通信情報技術は高齢者を支えられるか
6 デザインと技術の逆立ちした発想
7 誰にでも安全な階段を
8 キッチンの高齢化対応
9 ユニバーサルデザイン
10 カナダの高齢化・リハビリテーションセンター
11 高齢者といすの機能
12 まちがえない工夫、まちがえても「安全」は原則
13 移動手段の一つ「車いす」
14 移動の自由を確保する
15 キーワードは「自立」
16 自立のための環境を
17 シルバーハウジングを考える
18 台湾の高齢化を考える
19 アジア三都市のパイロットプロジェクト
20 バリアフリーリビング
あとがき
序:バリアフリーの時代
今からほぼ一〇年前の一九八六年、厚生省人口問題研究所は将来人口推計において、わが国人口のほぼ四分の一が六五歳以上になるという「衝撃的事実」を初めて国民に示し、それに合わせるように「長寿社会対策大綱」がつくられた。
つまり、この年はわが国における高齢社会の到来を告げた年であり、その意味では一九八一年が国連の提唱した国際障害者年として時代を画する年であったのと似ている。
団塊の世代に属し、高齢化の影響をまともに被る筆者が、たまたまその一九八六年に「長寿社会対応住宅設計指針」作成に向けての長い旅路のスタートを切ることになったのも、何かの縁であろうが、それは最終的には、一九九五年になって建設省からの「指針」公表、そして一九九六年からの住宅金融公庫融資への採用となって結実した。
そしてその一九九六年に策定された「高齢社会対策大綱」は、ちょうどその一〇年前につくられた大綱の改訂版という巡り合わせになった。
この一五年の間に、世の中は大きく変わった。とくに、高齢、長寿という、ほとんどの人に遠からず訪れる事実に対する人々の意識が変わった。高齢化は、「他人の現在のこと」から「自分の明日のこと」に変わった。と同時に、バリアフリーという考え方も、少しずつだが市民権を得てきた。
もちろん、まだそれは全体として双手を挙げての賛同を得ているとはいいがたい。しかし、少なくとも完全に無視できるほど縁遠いものではなくなった。
バリアフリーの意味することの多くが「障害者」のみでなく、高齢者にも関係することが次第に知られるようになってきたからだ。自分の明日を脅かすものに対しては、誰しも無関心ではいられないのは当然だろう。
一九八一年の時点では、多くの人々の意識はまだまだ、バリアフリーは障害者、特に車いす障害者と分かちがたく結びついていただろう。
しかし、一九八六年のいわば「高齢化の衝撃」以降、高齢期が大多数の人にとって避けられない未来であることが理解されるにつれ、高齢化がもたらすさまざまな課題がクローズアップされ始め、解決策が模索されるようになった。それも、いままでは問題とも思われなかった点が鋭く指摘されるようになった。
実はそうした些細ともみえる問題が、個々人の日常の暮らしにとって超えようもないバリアであり、それらを含めてバリアフリーをめざすことなしには人としての尊厳が保障されないことが、次第に明らかになってきたのである。
従来、「障害者」に対して「健常者」ということばがつかわれてきたが、そもそもこの両者の間には質的な差があるのだろうか。
かつてはそうであると思われていただろうが、高齢者が場面に登場するに及んで事情が変わってきた。
高齢者は、たとえば転倒あるいは急性疾病などちょっとしたきっかけで、健康で全く問題がない状態から障害によって特定の能力がないに等しい状態まで、短期間に連続的に変化しうるという事実が徐々に明らかになったからである。
それは若い人が大きな事故で障害を抱えるようになるのとくらべると、まさかというほど些細なきっかけであることが少なくない。
さらに、視覚・聴覚などの感覚能力の衰えはもっと長い時間をかけてゆっくり起こるものであり、これらは「自然な老化です」という以外に説明できないことがむしろ普通だ。
なのに、なぜ、かつては、質的な差がある、いわば不連続だ、と思われていたのだろうか。
たぶんそれは、わかりやすいバリアフリーの議論として、歩行が可能な者と車いす使用者とを対比させたためではなかろうか。
車いすを持ち出したとたんに、段差、階段いずれもダメということになってしまう。現実にはその間にさまざまなレベルの歩行困難者があり得るのだが、それが見えなくなってしまっていたし、それ以外の障害である視覚・聴覚障害によってもたらされる不都合は、そのほとんどが覆い隠されてしまった。
高齢者が「障害者」と対比して異なる最大の点は、高齢者は複合障害者だということである。個別の能力を考えるとそれぞれでは障害者と認定されるほど能力が低下していないにもかかわらず、全体としてみると生活行動に著しい支障が生じる。
しかし、悪いことに高齢者はそうした自分の衰えを素直に認めたがらない。高齢者の持つマイナスのイメージが、自分はそうではないという見栄を張ることにつながってしまう。そのマイナスイメージは、実は「寝たきり、車いす、痴呆」というマスコミがつくりあげた虚構のせいなのだが。
もし、ここで高齢者が完全に発想を変え、不都合なのは自分の方が悪いからだと思い込むのでなく、生活環境の側に問題がある、そっちが変わるべきだと主張するようになると、そういった不都合な点はバリアだということになり、バリアフリーの要求が先鋭になろう。筆者が以前から主張していたこと、そして現在起こりつつあることは、まさにその現れである。
もちろんいまだに「高齢化」に対してネガティブな価値が与えられているのは事実であるが、それは少しずつ変わろうとしている。
昨今は、バリアフリーという言葉が狭い意味での「障害者」と分かちがたく結びついて受け取られるのを嫌って、「すべての人のためのデザイン」とか、「ユニバーサルデザイン」とか、それによってみんなが利益を受けるという点を強調した言い方をすることがあるが、それはこの思想が特定の人のためという従来の発想とは根本的に異なっているのを際立たせるためである。
筆者としては、住宅金融公庫融資の長寿社会対応要件が「バリアフリー住宅」という表現で代表されたことから、「バリアフリー」がより広い意味で世の中に受け取られるようになることを期待しており、現代を“バリアフリーの時代”と呼んで差し支えないのではないかと考えている。
T 住宅
1 寿命二〇年の日本の住宅
一九九三年八月に兵庫県での国際住宅会議に参加したあと、九月になってヨーロッパの三つの国をまわる機会があった。そのときに、住宅の価格に関して研究者たちから意見を聞いてみた。
前記の会議では、筆者は日本での土地の価格の高さに起因する問題はさておくという形で、長寿社会に備えて上に建てる住宅のバリアフリー化を進めるべきだという持論を展開したのだが、わが国で問題なのは、どうも土地だけにはとどまらないようだということを、そのときから感じるようになった。
もちろん、地価が高ければスペースを切り詰めることになるから、さまざまな制約が生まれるが、それ以上に住まい方の文化、家に対する考え方の問題が根本に横たわっているようだ。
その結果として、日本人は異常に割高な住宅を買わされているらしい。各国での住宅の取得価格と比べると、そうとしか思えないのである。
まず訪れたローマは大都市でもあり、さすがに年収に比較して高価で、わが国とさほど差があるという印象ではなく、どこでもそんなものかと思った。しかし、アイルランド島でそれぞれ首都であるダブリンとベルファストで質問すると、土地も含めて大体年収の二倍くらいだということだった。
これは実は一部の大都市を例外として、ほかの大部分の都市でもあまり変わらないらしい。その一部の大都市にあたるロンドンでさえ、一九九一年と九二年に訪れたとき、ドックランド開発に絡んで高騰したという住宅価格でも、都心からの距離と利便性でみると、わが国よりずっと安い水準だった。
さて、日本ではどうかというと、年収の二倍程度で住宅が入手できるところは、県庁所在地はおろか、地方中小都市でもないだろう。比較的安い土地代を別にしても、住宅そのものの工事価格が異常に高くなってしまったからである。
しかも、日本の住宅の寿命は相対的に短く、住宅金融公庫の融資を受けたものでさえ、二〇年を超えると建て替えが急増するという。ローンをようやく払い終わったころには、また次のローンを借りることになるのである。
これでは、住宅は不動産ではなくて耐久消費財扱いである。ほかの国でこんなところはない。住宅の年齢を聞けば、それが五〇年、一〇〇年というのはざらにある。
地震という天災(そして火災という人災)を常に考えなければいけない日本と、そうでない国との違いといえばそうかも知れないが、それなりによくつくられた住宅であれば、新築せずとも増改築で十分であろう。
それなのに、多くが新築に走る。住宅は新築後一〇年も経てば、建物としての取引価値はほとんどゼロだという。住宅の増改築のためのコストが新築に比べて相対的に高く、新築が魅力的に見えるのも一つの理由のようだ。
日本では、「火事とけんかは江戸の華」というくらいだから、住宅が灰塵に帰すのはよくあること、またその後で建て直せるのが甲斐性だという考え方が、形を変えながらも根強く残っているように思える。
これでは、住宅の寿命は半永久的で、既存の住宅が所与のものとして流通しているヨーロッパなどと、価格や水準面で格差が広がるばかりなのは当然であろう。長寿社会対応の住宅設計要件として提示した内容の基本が、わが国の場合はこれまで全くといっていいほど満たされていないのにくらべ、ヨーロッパではほぼ合格点がつくのだ。
しかし、今建てられようとしている日本の住宅は、面積は広く、設備もかなり立派、住宅自体の物理的な寿命も以前とは比べようもないほど長いといって差し支えない。
また、一方で、社会的条件もずいぶん変わりつつある。建て替えて広くしなければならない一つの理由である同居の可能性自体が、今後はずっと低くなりそうだし、たとえ同居といっても実態は近居・隣居が多いだろう。
そうしたなか、長寿社会に備えるために住宅のバリアフリー化を進めるのが必須という議論は、ようやく一般的になり、一部の施策はその方向に動き出しているが、住宅を実質的には耐久消費財とみなす考え方が根底にある限り、バリアフリー化の負担を公私でどのように分担するのか、判断はむずかしい。
五〇年、一〇〇年の寿命があり、何代にもわたって住まわれるからこそ、住宅という個人資産に対する公的投資の意味があるので、二〇年で壊されてしまう住宅に税金をつぎこむのはムダづかいのように思われるのだ。
2 住まいの「常識」日本とアメリカ
一九九四年三月にアメリカを訪れたとき、バリアフリー環境に関する専門家とまるまる二日間にわたって、さまざまな点について意見を交換した。
そのなかで、これまでなんとなく感じていたけれど、なぜかもうひとつ説明しにくかったことの答えを得たような気がするのは、日本とアメリカでの住宅のつくられ方の違い、そして住宅に対する見方の違いと、それがバリアフリーに及ぼす影響のことである。
現在のアメリカでは、住宅の床面積は二四〇平方メートル程度あるのが標準的だという。これは、わが国の戸建て住宅のほぼ二倍、集合住宅の三倍ということになる。それだけ広ければ、あまり細かなところに気をつかわなくても、それなりの住宅ができあがる。
したがって、つくる時にデザインに目いっぱい注文をつけるような日本的なやり方は必要ないし、壁紙を自分で選んで張ったりするなど、かなりあとから自分でいじる余地がある。むしろそうしたことを楽しむのが彼らの住まいづくりの一部のようだ。また、一定の期間ごとの壁のペンキ塗りは、自分でするのがごく当たり前であろう。
これらの住宅は、居住者の転居に伴って次の持ち主の手に渡るので、そのための価値を保つのが重要であり、特別なつくりかたは普通はなされない。
聞くところによると、そうした住宅の平面図は、あらかじめつくられて売られている標準図集から選んでくればすむという。敷地に余裕があるから、標準図面の住宅が敷地に納まらないことは滅多にないのだろう。
また、それだけ広ければ、動線部分に気をつけさえすれば、公正住宅修正法(FHAA)で求められているような、車いすで動き回るのに問題ない住宅をつくることが簡単である。そのように変更した図面集も今では用意されている。これには変更前の図面も載っていて、くらべてみるとなるほどと納得がいく。空間どうしの関係にはほとんど手が加わっておらず、いわば廊下とドアの寸法と、それらの取り合わせだけの変更ですんでしまっているのだ。
上記の公正住宅修正法というのは、一九八八年に成立した法律で、原則として四戸以上の集合住宅供給を行う場合は、住宅への車いすのアクセスを確保することが義務づけられている。戸建て住宅は直接の適用対象ではないが、四戸以上の貸家を持って事業を営んでいれば、不動産業とみなされ、その住宅は法規制の対象になる。
アメリカの住宅に比べると、わが国の場合、住宅の面積は狭いし、小さな部屋がぎっしりと並んでいるから、同じ方法はうまくゆかず、発想の転換なしにバリアフリーを達成するのは容易ではない。
ここで筆者が提案するのは、独立した廊下をやめてその面積分をリビングに組み入れて、開放的な平面計画にすることだ。こうすると使いやすくなるし、いままで狭い平面寸法の中で四苦八苦して納めていた階段も、リビングの片側を緩い勾配で昇らせることができるようになる。
が、セントラルヒーティングでない日本の住宅では、これでは冬にすきま風だらけで現実的でないとしてはねつけられることが多い。床暖房にすれば問題は解決可能なのだが、床暖房自体が日本人にはなじみがない。暖房のエネルギーコストも、日本はアメリカに比べて数倍かかるのも大きな問題だ。
もっとも、地球環境の視点からいえば、そもそもアメリカは明らかに浪費型だから、エネルギーに関しては両者の中間的な効率的な解決策が望ましい。だが、住宅を二〇年で壊して建て替えるような日本も、同じく地球環境の面から、もっと責められるべきだ。
3 高齢者の入浴をめぐって
身体が弱った高齢者が入浴しようとするとき、いままでの浴室では非常に困ることがある。それは、床に段差があることと、浴槽が深いことである。
日本では、浴槽は肩までつかって身体を温めるのに用いるだけで、身体を洗うのはふつうは外の洗い場である。そこで石鹸を使ったあと、大量の水で洗い流す。
この入浴のしかたは、ほかの国とはかなり違っており、浴槽の中で身体を洗って外は濡らさないか、またはシャワーだけですますというのとくらべると、ぜいたくという見方もできる。もちろん、わが国の入浴方法は、非常に湿度の高い夏の気候や伝統的な文化などに根ざしたものであって、それなりの合理性を持っているが、結果としては、足腰の衰えていく高齢者にとって非常にむずかしい課題を抱えることになっている。
なぜなら、広い範囲が防水でなければならず、さらに、かりに排水口が詰まって流れなくても水が外側にあふれては困るので、浴室部分を脱衣室より下げるか、さもなければ浴室入り口に高い敷居を設けることになるからである。
特に最近の集合住宅は、ほとんどが後者である。これは将来的には改修が難問で、いわば長寿社会における不良住宅ストックである。
この問題を解決するために、ベターリビングにおいて「高齢者対応浴室ユニット」の開発が検討された。ベターリビングは、集合住宅などに使われるさまざまな住宅部品が一定の品質以上になるように評価・認定を行う財団法人であるが、今回の浴室ユニットの開発条件として提示されたのは以下の項目である。
@ 脱衣室と洗い場は平坦が望ましいが、それがだめでも段差を二〇ミリ以内に納める
A 入り口敷居は飛び出てはならない
B 浴室の利用を容易にする手すりを要所に設ける
C 浴槽への出入りの際、縁に座れるようにするのが望ましい
D 浴室の中で倒れたときに救出可能なしかけを用意する
複数のメーカーがこの試作開発に取り組み、それぞれ提案を行った。いずれも開発条件はほぼ満足しており、また量産すれば目の玉が飛び出るほどコストがかかるものでもないということが判明した。その後、この浴室ユニットは一般に利用可能な商品として売り出され、使われている。
ただ、このような目標は、もちろん何も犠牲にせずに達成できるものではない。完成した状態での段差をなくすためには、あらかじめ浴室部分の床が脱衣室より下がっていないと、取り入れることができない。この条件は、住宅をつくるのにあたってかなりの制約になる。
たとえばふつうの戸建て住宅で利用しようとすると、一階ならうまく使えるが、二階にはそのままでは納まらない。下の空間の天井の高さが低くなって、頭がつかえてしまうからである。
集合住宅では各階とも同じ位置にユニットを置くことを前提としているが、それでも全体の階高がこれまでより大きくなってしまい、コストがかかる。階高が高くなると、階段ひとつ考えても、必要な面積が増えてしまうことになるからだ。
もっとも、居住性はよくなるし、あとの改修がやりやすいから、ほんとうは悪いことばかりではない。
高齢者の入浴の難問を解決するもう一つの方法は、生活習慣を変えてしまうことである。湯船にどっぷりとつかるぜいたくは、銭湯やデイセンター、場合によっては温泉で味わうことにして、自宅ではシャワーだけと割り切れば、比較的容易に対応することができ、浴槽を跨ぐことも必要なくなる。
自宅で湯船につかるのは、家族に介助のための多大な負担をかけ、結果として在宅での生活をむずかしくしている側面があることも忘れてはならないだろう。
もちろん、立ったままでシャワーを浴びるのではなく、簡単なベンチを用意し、座ったまま楽に使えることが必要である。この入浴形式では、いすに座ることさえできれば、半ば寝たきり状態になっても使える。
これは、現在の高齢者にはあまり評判がよくないだろうが、将来の高齢者、つまり今の若い人にとっては特別なことではなく、ごく当たり前になるかも知れない。
4 浴用いすの効用
日本での入浴のやり方は、浴槽の中では石けんを使わず、洗い場で身体をきれいにすることで、他の国に比べるとかなり特異である。こうした風呂がふつうの住宅に普及したのはそんなに古いことではないだろう。かなり最近まで、銭湯に行くのが当たり前だったことは、中年以上の人なら覚えていよう。
その銭湯、あるいは温泉では、確かに湯船の中で身体を洗うことはなく、洗い場で石けんを使っていた。こうしたやり方が、住宅の中に風呂をつくるようになったときにもそのまま踏襲されたわけである。が、その結果として、著しい不都合が生じたことも見逃せない。
浴室への入り口が一段下がっていたり、あるいは高い敷居を跨がないと入れないのは、狭い浴室で水をあふれさせないためであり、銭湯や温泉では、大きな段差をつけなくても湯が脱衣室にあふれてくることはない。
この跨ぐという問題に気がつくのはかなり身体が弱ってからで、浴室の改造の希望が多いのはまさにそこに由来する。ふつうの住宅浴室では、跨ぐのが苦痛な人のことなど考えられていないからだ。
また、狭い洗い場が通常であるために、元気な間は洗い場の床にペッタリと座り込んで身体を洗うことになるが、歳をとって立ったり座ったりの動作がつらくなり、いすがあったほうがよくなっても、使いやすい浴用いすを持ち込むことが、これまたなかなかできない。
その効果自体があまり知られていないのは、足腰の弱った人にとっては布団にくらべてベッドがどれほど楽かということと似ているようだ。しかも、高齢者・障害者向けの福祉用具と呼ばれるようなちゃんとした浴用いすは、目の玉が飛び出るほど高価だ。
また、いすをいざ持ち込んでも、実は必ずしも使いやすくなるとは限らないのだ。いすで姿勢が高くなった分だけ洗面器も上に上がらないと使えないし、それより高いところに蛇口がないと湯が受けられない。
このように考えると、話は簡単ではないことがわかる。つまり、ある程度高い位置に蛇口があってこそ、いすが使えるのだ。ところが、売られている浴室ユニットなどを見ると、洗い場の蛇口がひどく低い位置につけられていることがごく当たり前。
ある程度高い位置に蛇口がついているのもなかにはある。そうなっているものの一つは、蛇口が洗い場と浴槽とで兼用になっているものである。浴槽に湯水を入れるために、当然縁より高い位置についているから、洗面器を台の上にのせても十分余裕がある。なまじ浴槽用と洗い場用とを分けた高級品のほうが、かえって使いにくくなっているのは皮肉だ。
この浴用いすの使い勝手が高さによってどう変わるのか、先日ちょっと実験をしてみた。低いものから高いものまで市販品でそろえるのはむずかしいので、実験用のいすを木でつくり、座って洗面動作をしてもらったら、おもしろいことがわかった。
身長によって異なるものの、高さはだいたい三〇センチ程度がいいらしいのだが、低いいすよりも高いほうが融通がききそうなのだ。どうやら低いと腹部がじゃまになって、あまり下を向けないようなのである。これはなにも腹が出ている出ていないにかかわらず、ほぼ共通した傾向のように思えた。
また、洗面器置きの高さは、いすと同じくらいでいいらしい。つまり単純には、同じいすを二個用意して、片方に座り、もう一方に洗面器をのせればいいのである。積み重ねの出来るいすなら、そんなにスペースをとらなくてすむから案外便利になろう。
ちなみに筆者の家では、いすは一五センチくらいの低いもの、洗面器はバケツの上にのせてある。蛇口は浴槽と兼用のものなので、高さは十分である。もっとも、筆者は浴槽から手おけで湯を汲み出して使う習慣がついているので、蛇口の高さは実際にはあまり気にしないが、いすはほんとうはもう少し高いのが欲しい。身長一七八センチの筆者にとって、一五センチはいかにも窮屈なのだ。
5 理想的な浴室は……
アメリカの専門家と住宅のバリアフリーの話をしていて、おやっと思ったのは、浴室のつくり方である。お互いに相手のほうがより優れていると思っているのに気がついた。
アメリカで浴室をバリアフリーにする議論をする際のキーワードは、「ロールインシャワー」、車いすで使えるシャワーだ。西洋風の浴室はバスタブに入って中で身体を洗い、バスタブの外側には水を出さないから、確かに浴室の床が水で濡れるのを認めるロールインシャワーという概念は比較的新しいものだ。
もともとの西洋バスというのは、いわば行水のたらいなのだ。それに比べると、日本は浴槽の外側に洗い場があって、そこまでは車いすが入れるのがうらやましいといわれたのである。おや、ちょっと待って。
日本の洗い場は、湯船から汲み桶でお湯を汲んで身体にかけるのがふつうだから、脱衣室に水があふれないように大きな段差がつくられている。家庭の浴室では、その段差は一〇センチ以上あるのが当たり前だ。単に浴室の平面図だけを見れば、大きな段差の存在はわからないから、そうした誤解が生じるのだろう。
筆者の経験では、ロールインシャワーの考え方をある程度まで実現していたのは、イタリアのホテルだった。一九九二年と九三年にいくつかの都市で何泊かしたが、同宿者にはバスタブ付きの部屋が割り当てられたのに、どういうわけか筆者はすべてシャワーの部屋だった。それぞれの部屋では、シャワーと便器が同じ空間に置かれていた。
ブースになっていたこともあるが、多くはシャワーカーテンのみで、シャワー部分とそれ以外に段差がついておらず、わずかな水勾配だけということが多かった。シャワーカーテンは時には短くて床付近まで届いておらず、シャワーを浴びれば、水しぶきの一部は便器の床近くにまで飛び散る。が、しばらくすると、まるでうそのように床面は乾いてしまう。
このイタリアのシャワーに限らず、一般に外国の浴室の乾きが速いのは、湿度が相対的に低いことが多く、浴室の室温が高めに保たれ、また換気(排気)がよく行われていることがあげられよう。
アメリカの研究者が念頭に置いていたのはこうした性能を持つ洗い場だが、あいにく日本の洗い場の現状は、それからほど遠い。なにより一気に大量の湯水をぶちまけるという可能性があるので、それが脱衣室に行かないようにすることが最優先課題となって、バリアフリーから見た使い勝手は、どうしても二の次になる。
前項で述べた浴室ユニットのように、優良住宅部品としてベターリビングが認定するBLマークの試験基準でも、入り口ドアにかなり強いシャワーの水をかけても脱衣室側にあふれないことが要求されるから、設計するほうとしては安全を見ることになり、バリアフリーに配慮する余地がなくなってしまう。浴槽の栓を抜いたとき、中身がそのまま洗い場に溜まってもあふれないようにという条件もある。
また、浴室全体の使い勝手を考えれば、ドアは外開きのほうがずっといいのだが、水が外に出やすいから、まず採用は不可能となっている。
しかし、発想を変えれば、浴槽から直接排水すればすむことだし、脱衣室に出る水をふき取ることを励行すれば、内開きに固執することもない。乾燥に工夫を凝らす手もある。
「もし」「だったら」といった仮定の問題をすべてクリアするような条件を設定すれば、可能性がどんどん狭くなるのは当然のこと。この辺で、バリアフリーを前面に据えて発想し、他の条件は緩めることも考えてはどうだろうか。そうなれば、理想的な浴室は案外簡単かも知れない。
6 冬はいかようにも住まる?
高齢者にとって暮らしやすい住まいを考えるとき忘れてならないのは、暑さ寒さへの対処方法である。これは住宅をつくった当座だけでなく、のちのちまで使われるかどうかの問題もあり、一筋縄ではいかない。なにしろ、エネルギーの費用を賄い続けることができるかという経済面での要素も大きいからである。
まず第一に、わが国では、冬の寒さの問題をどう解決するかは、非常にむずかしい。日本は幸か不幸か、北欧諸国とは違い、住宅全体を集中暖房しなければならないほどは寒さがきびしくない。よく知られているように、大昔は火鉢やこたつで身体の一部だけを暖めるのが一般的であり、それでなんとか冬をしのぐことができた。したがって、暖房というよりは「採暖」、暖をとるという表現がぴったりしていた。
しかし、これは逆に、冬は住宅の中での生活が非常に困難になることを意味している。部屋はそこそこ暖めるが、廊下や洗面所、便所、そして浴室など、むしろ裸になったり水を使うところは充分な暖房がなされず、より寒い。この結果、冬の間は居室に閉じ込もってあまり活動せず、かえって急に寒さにさらされるという、生理的にはもっとも悪い条件で住まっている。
冬の死亡原因が心臓発作や脳卒中であるという、きわめて日本的な傾向は最近ずいぶん変わってきてはいるものの、居室以外は暖房しないのが高齢者の住まいとしてまだ一般的であり、また、まさかのときを考えて、ふだんの生活費はできるだけ切り詰めるという傾向が強いため、暖かい居室と冷たい廊下や洗面所が隣り合っている状況はなかなか改善されそうにない。日本のエネルギーがほかの国に比べてひどく高価であることも、それに拍車をかけている。
住宅そのものの暑さ寒さに対する備えも、ごく最近まで十分ではなかった。なにしろ、冬の寒さが厳しい京都ですら、「家のつくりようは夏を旨とすべし、冬はいかようなところにも住まる」といわれたくらいなのだ。
そうした問題を少しでも少なくするために昔からの知恵として言われてきたことに、「年寄りには一番風呂は良くない」というのがある。なぜなら、浴室全体がまだ暖まっていないからで、誰かが入ったあとは、壁も床も少しは暖かになっているということが経験的に知られていたのである。どうしても最初に入るときには床と壁にお湯をかけて、温度を上げてから入るようにしたほうがいいというのも、これまた先人の知恵である。
入浴することと浴槽につかるということは必ずしも同じではなく、シャワーだけならかなり虚弱な高齢者でも自立して入浴できるし、介助の負担も少ないと指摘したが、実は浴室が暖房されていないと、冬にシャワーだけで風呂をすますことができない。
使ってみればわかるように、シャワーの場合にはどうやってもある瞬間には身体の一部にしかお湯をかけることができない。したがって、お湯がかかっていないところはどんどん冷えていってしまうような部屋の温度では、身体が十分に温まらず、カゼを引いてしまう。シャワー浴を実現するには、暖房もまた大きなハードルである。
一方、便所に関しては、暖房便座というものが簡便になってきているから、少なくとも以前よりはずっとましである。この暖房便座用のコンセントは、今では公営住宅にもつけるようになってきている。健康上もっと望ましいのは温水洗浄便座だが、これはまだちょっと高いし、慣れないと違和感があるようだ。
これまでのように高齢者が家族といっしょに住まうのでなく、一人あるいは夫婦だけで暮らすようになると、急に部屋の温度が下がったときに暖房をいれるタイミングを失して、凍えて死んでしまうかも知れない。わが国ではまだあまり報告例がないようだが、日本同様に全室暖房までは必要がない気候条件の国であるイギリスでは、これは大きな問題になっている。
7 人生八〇年時代、畳を考え直す
住宅内のバリアフリーについて論じるとき、必ず議論にのぼるのが日本的な伝統との折り合いをどうつけるかだ。その代表が「畳」である。フローリングの流行で、畳がなくても平気な世代が増えつつあるが、それへの反動からか、かえって畳を見直そうという風潮もあるようで、いささか気になる。
高齢化社会を控えている今、ただ「見直す」のでなく、これまでの観念に縛られない発想の畳空間を考えていく必要があるのではないかと筆者は考える。
もちろん、畳が日本で重宝されているのはそれだけの理由がある。まず、部屋をいろいろな目的に使うのに床材料として違和感がない。居間、茶の間、応接間、作業場、そして寝室。極端な話、一間ですべてを兼ねることもできる。もともと家具をあまり置かないのが和風の住まい方で、それも融通がきく理由となっている。また、日本は湿気が高く、家の中では履き物を履かない。畳は他の材料に比べれば冬には冷たすぎず、夏にもべたつきを感じさせないなど、気候に適した材料である。
このようなこともあり、わが国で住宅をつくるときは畳の部屋を用意することが現在に至るまで一般的で、特に高齢者はベッドの生活に不慣れなこともあって畳にこだわる人が多い。
有料老人ホームでも、高齢者専用住宅でも、畳の部屋があるほうが先に入居者が決まるという。
しかし、畳はその上にじかに座ることを前提とした仕上げだから、だんだん足腰が弱ってくると、立ったり座ったりが次第に困難になっていく。この変化は、体調を崩したことなどを契機としてかなり急速に訪れる。一度そうなると、なるべく動かないようにしようとして、よけいに足腰が弱っていくから悪循環だ。
また、畳の部屋の敷居は、つまずきのもとになる段差の元凶でもある。昔と違って空間の序列などかまわず、無造作に畳に足を踏み入れるようになったから、転ぶ危険もはるかにふえた。
段差があったほうが日常的に訓練になってかえっていいとか、段差をなくすような改造をすると環境が変わってボケるといった議論が、建築家や一部のリハビリの専門家の間に根強くある。筆者はこの議論には賛成しない。
住宅は弱っていく高齢者の最後の拠り所であり、そこの使いにくさと危険を認めてしまえば、かえって日常の行動を制限して悪い結果をもたらすからである。何も住宅の中で訓練しなくても、一歩外に出ればいくらでも訓練の場がある。
完全に平らな道路はどうしてもできないし、地形のために解決できない建物のバリアも必ず残るだろう。外出せずに生活することはできないのだから、それで十分なのではないだろうか。
環境を変えるとボケるという議論に関していえば、精神的にも肉体的にもかなり弱ったぎりぎりのところで大幅な変更をするからだと反論しよう。生活に対する前向きな態度が残っているうちなら、改造の悪影響はまず生じない。
さて、畳が厄介なのは、家具などを載せるのに適していないこともある。身体が弱ってきて、ベッドといすの生活に切り替えようとすると、結局、床の改装工事が必要となり、費用のことからあきらめてしまう高齢者も現実に少なくないのである。
しかし、一方では前述したような畳の持つ特性もあり、心情的な側面からも、筆者がかかわった「長寿社会対応住宅設計指針」では、畳を追放するのではなく、「敷居の段差を取り除く」と盛り込むにとどめている。
ところが、このようにしてつくった住宅を見ていて、単に段差を取り除くだけでは、畳の空間の納まりが悪くなって、かえって中途半端なのではないかと最近は思うようになった。
そこで、人生八〇年時代の畳の空間のあり方として、積極的に発想の転換をはかってはどうだろうか。
つまり、住宅をつくるときに初めから畳の空間をほかから四〇センチほど上げてしまうのである。
これは奇異に感じられるかも知れないが、なんのことはない、昔の土間と畳部屋との段差、庭と縁側との関係を、板の間と畳の間に持ち込むだけである。高い空間は静かに座っている場所、下の空間が動き回る場所、というはっきりした仕分けをするのである。
畳の上にそのまま寝転がっても、蹴飛ばされる心配はない。考えようによっては広々としたベッドを用意して、そこの部分のマットレスを畳にしたということもできる。つまり、ベッドの効用のかなりの部分が満足されるのである。
集合住宅では階の高さがぎりぎりなので、このやり方は天井高さの確保がむずかしいが、戸建て住宅では比較的簡単で、どうしても畳が欲しければ試してみる価値はあろう。
8 住宅はどこまで個人の自由か
今の日本では、住宅をつくるのに個人の努力に頼っている部分が多い。戦前の都会では借家住まいがわりあいに一般的だったのだが、戦後は住宅建設が経済復興の一翼を担ったこともあり、自分の土地に自分の住宅を建てることが当たり前のようになった。現在の住宅政策をある意味で代表するといってもいい住宅金融公庫、住宅・都市整備公団、そして公営住宅のうちで、戦後もっとも早く動きだしたのは自分の家を持つための資金を貸す住宅金融公庫であるということがこのことを示している。
しかし、このために、住宅を建設するにあたって、個人の好みと判断が最優先され、全体としてあるべき姿の追求が軽視されることにもなった。
住宅の寿命(耐用年数)がほかの国と比べると非常に短く、住宅の売買でも土地の価値だけが評価され、中古家屋の価値はほとんど省みられない。むしろ逆に、取り壊す手間がかかるだけめんどうだと言われることすらある。この結果、住宅のデザインの問題点などは建て替える際に直せばいい、健康なあいだは全く関係ないのだからという認識が今に至るまで根強い。たぶんほとんどの人がそう思っているのではなかろうか。
しかし、急速な長寿社会への移行、高齢者割合の急激な増加によって、住宅デザインの不都合が大きな問題として浮かび上がってきた。 つまずきやすいちょっとした段差、回しにくいドアノブ、急勾配の階段、小さくて見にくいスイッチなどは、往々にして骨折やヤケドなどの事故を招いており、このような問題点がもたらす社会的な不経済は、実は非常に大きい。
高齢者の問題というと、寝たきり・車いす・ボケという言葉が反射的に思い出されるが、これらは必然ではなく、むしろ住宅デザインの不都合によってもたらされ、また加速された側面が強い。
また、やや生活行動能力が衰えた際に、手すりのない急勾配の階段が使えなかったり、家の中が段差だらけであるために部屋から部屋への移動もままならず、浴室・トイレも使いにくいといった状況が生まれると、それに対してその行為をやらずにすませたり、周りの人間が「大事」に扱おうとして気を回しすぎて、かえって高齢者の能力低下に拍車をかけている。さまざまなシルバーサービスを導入しようとしても、住宅が長寿社会対応でないと、持ち込めないものもある。入浴介助はある程度の広さが必要だし、簡易車いす、階段昇降機、リフターなど、いずれも廊下が狭かったら無理である。
このような悪循環を断ち切るには、高齢者が自分でなんとか使えるように住宅デザインを変えていくことが重要であるが、必要が生じての改修ではなく、住宅の新規建設の段階でそのような問題の発生を防止できるように住宅をつくっておくことの重要さが、住宅政策としても認識されてきている。あとから組み込むのとくらべると、最初からやっておくのがより効果的であり、かつ安くてすむのである。
建設省では、一九九一年度から公的に供給されるすべての住戸に長寿社会対応の基本を最初から組み込むことを考え、その手始めとして公営住宅ではすでに長寿社会対応を国からの補助金の条件とした。
民間住宅には住宅金融公庫が、その時点ではわずかな金額とはいえ高齢化対応割増融資を用意し、また既存住宅の高齢化対応改修にあたって利用しやすいマニュアルなどもつくられた。これによって、バリアフリーが専門ではなかった工務店でも比較的容易に改修設計と工事が手がけられるように工夫された。
一方、福祉政策では、一部の自治体、たとえば東京都江戸川区などで、在宅で介護される高齢者に手厚い住宅改造の費用助成を開始した。こうした本格的な動きは、まだその範囲が限られるが、住宅が単なる個人の所有物ではなく、社会的な意味を持っているという側面を認めたことにほかならない。
そろそろ住宅施策と福祉施策とを統合させて、シニア住宅やシルバーハウジングなど「特別な」住宅にのみ予算を投入するのでなく、一般の住宅に対して高齢化対応費用を助成することを考えるべき時期である。それによってはじめて、一時的なフローではなく、社会的なストックとしての住宅が位置づけられるだろう。
9 住宅の改造を阻むもの
住宅を高齢化に対応させようとするとき、当然のことながら新規建設の住宅だけを考えるのでは片手落ちである。たとえ強力な公的な支援があっても、新しいものですべて置き換えていこうとすれば数十年が必要であり、差し迫った高齢化による需要に応えることはできない。
しかし、従来の養護・特別養護老人ホームか、民間の有料老人ホーム、シルバーマンションかという選択肢をとらないでも、今の住宅を改造できればそれで十分ということが現実にはもっとも多いであろう。住み慣れた住まいを離れずに「終のすみか」とすることは、さほどむずかしいようにはみえない。ところが、改造は思ったよりきびしい。なぜか。
まず何が改造のポイントか、的確に把握することができないことがあげられる。とくに、建築施工に対する知識と、高齢者の身体状況や介護の問題の両方を的確に把握することは現実にはむずかしい。
一九九〇年につくられた工務店向けのリフォームマニュアルは、この点への回答をめざしたものである。しかし、現場経験を積まないと、せっかくの改造も不成功に終わる場合も少なくない。しかも工事着手の前の相談などの時間・人件費が予想外に大きい。従来の慣習ではこれは無料サービスだと思われており、実態とかけ離れてしまうので工務店では引き受けたがらない。
次に、改造の費用が妥当なものか、支出可能な程度か、というのも判断がむずかしい。改造の実際の経費ははじきにくく、この疑問も無理からぬところがある。特に見栄えを気にすると、壁の仕上げの統一など、およそ本質ではないところでひどく高価になる。それを含めて、いざ(病気になったら)というときのための蓄えを使ってしまえるだろうか。同居家族を含めてこの点には非常に消極的、というのが実態である。
最後に、賃貸住宅の問題がある。住んでいる住宅が自分のものでないとき、所有者である大家さんが改造を承知するだろうか。次の借り手にとって問題が起こるのではないか。あるいは、ホンネでは高齢借家人には出ていって欲しいのかも知れない。などなど、借家における改造は、さまざまな問題の中でも一番むずかしいところであろう。
これらの課題に対応するため、自治体で行っている住宅改造にはさまざまなやり方があるが、もっとも熱心に効率よく行っているのは東京都江戸川区のものであろう。
江戸川区の場合、これまでの成功は以下の決断によると考えてよい。
まず、積極的に対象住戸を掘り出した。受け身の申請主義でなく、逆に行政側から必要そうな家庭をさまざまな経路で探した。次に、所得制限を設けず、住宅の最低居住水準を保証するという立場をとった。また、必要な改造に関しては費用の上限を設けなかった。もちろん暗黙の了解はあるだろうが。
これらの方針をとったことで、住民同士のやっかみ、陰口などが起こる余地がほとんどなく、スムーズにはかどったといえよう。また、費用制限を設けなかったことで、枝葉末節の帳尻合わせから解放されて有効な手段を手際よく選択でき、時間のロスが大幅に節約され、工務店側での経験の蓄積にもつながったのではないだろうか。
だが、江戸川区の住宅改造でも、借家の改造はまだ積み残されている。制限を設けない住宅改造は持家世帯が対象で、民間借家世帯の住宅政策は立ち退きの場合の家賃助成を柱としている。
また、公営・公団・公社の賃貸住宅については、公的資金を投入した住宅に二重には公的資金を投入しない、居住水準の保証はあくまで大家の責任であるとして、改造事業は行っていない。しかし、これは正しい判断だろうか。
ここで公営というのは、都営・県営・市営あるいは区営住宅というものであり、大家さんが自治体で、入居者の所得に上限が設けられており、その代わりに家賃も上限が定められ、本来あるべき家賃との差額は公が補助している、いわば政策に直結した住宅である。
一方、公社・公団住宅というのは、上記の公営住宅入居者層より上の所得階層を対象とした住宅として、公的な施策に沿ってつくられたもので、分譲と賃貸とがある。発足当初は公的な住宅として考えられたが、近年の「民活」議論の中で「独立採算」を要求されながら、公的主体であるがゆえのしばりはそのまま(土地の先行取得は困難、特定の性能を確保するための随意契約もむずかしい)という窮屈な状況にあり、とくに賃貸住宅においては地価高騰のあおりを受けるなどして、公的であるがゆえのメリットを居住者はあまり享受していないと指摘されている。
そもそも、借家の改造のネックになっているものは退去の際の現状復旧である。民間はもちろん、公営・公団・公社の賃貸でも、改造に対しては原則的に退去時に現状復旧を要求される。実際には、鉄筋コンクリート構造だと制約が多く、いざやろうとしても大したことはできないのだが、「住み替え」などほかの選択肢が少ない中では、改造は合理的な手段であり、復旧を「前提」に改造を進めることも考えるべきであろう。
費用の上限を設けていない江戸川区のケースでも、一戸当りの改造費は案外安い。多くの改造は手すり設置のように比較的単純であり、復旧もさほど高価ではない。そのような改造はそのままにしておくか、あるいは下地はそのまま、手すりだけ取り外すということで差し支えないことがほとんどである。
もちろん、その復旧費用を居住者が負担するとすれば、改造に二の足を踏むのは見えている。「在宅」を支援していくのであれば、これもあくまで自治体の責任のうちとして実施するしかないだろう。それは、公的な住宅でも同じであると思うのだが、公営はともかく、公社・公団については一般に議論の分かれるところである。
しかし、高齢化対応の住宅改造は、本来どういう目的のために行うのかに立ち戻り、賃貸住宅、特に公的賃貸住宅に対しては改造助成を行わないというのは見直してほしい。その理由を以下に述べよう。
持ち家に対する改造助成は、平たくいえば個人資産への現物追加支給であり、それを社会的に共有する手段は、現在のわが国では存在しない。住宅は社会ストックであるという認識が一般的であるスウェーデンにおいてさえ、個人所有の住宅に改造給付を行うのは、資産価値が上がることによって相続人が得をするとして、異議があったと聞いた。それは、いずれ社会資産として還元されるからという論理で乗り越えたと説明を受けた。あいにく、日本ではその論理も通用しない。
江戸川区の場合は、住宅を捨てて特別養護老人ホームに入所させれば年間三〇〇万円かかる、改造で三〇〇万円かかっても、それによって一年在宅を続けられれば元がとれるという説明をしている。いわば、福祉予算を介護の人件費に振り向けるか、それとも住宅改造に投入するかの違いだという。
かなり単純化した説明ではあるが、問題は居住者個人の高齢化、身体弱化にあり、住宅がそれに対応できなければ、それまでどこに住んでいようと特別養護老人ホームが必要になるのには変わりないという説明はわかりやすい。
だとすると、あくまで高齢者個人をどのように支えるかの選択が課題であって、住宅の供給や所有形態、つまり、公営・公社・公団か、自家所有か賃貸かは、差をもたらさないはずである。
持ち家であっても、その多くは建設時に住宅金融公庫の資金を利用しており、その意味では個人住宅の改造助成も公的資金の二重投資と言えなくもない。少なくとも、質が異なるほどではない。だとすれば、公的賃貸住宅を別に考えようとすることは逆差別になりかねない。
そもそも賃貸住宅の改造に対する承諾は、たとえ現状復旧を条件としても、民間よりは公的な賃貸住宅におけるほうが容易であることも考慮すべきだろう。社会的ストックとして残るという意味では、持ち家対象よりもはるかに効果が高い。
したがって、賃貸住宅の居住者に対して高齢化に応じた改造を考えないことは、住宅の高齢化対応の有力な手段を捨て去ることに等しい。この結果、非常に多数の高齢者に転居を選択させることにでもなれば、コミュニティの崩壊、人的ネットワークの断絶など、その社会的マイナスだけでも莫大なものとなる。
公営住宅では、先に述べた所得制限の結果、居住者に占める高齢者の比率が高いために、改造の必要性は大きくなっており、いずれにせよ大家である自治体が改造することになろう。
これに比べると、公社・公団住宅では、肝腎の大家が高齢化の問題をまだ重要とは見ておらず、全般には改造への動きは鈍い。このため、公社・公団の責任のもとでの改造は、現状では望み薄であるし、また、それを実施すべき権能も予算も持たないと反論されよう。改造するとすれば、それは必然的に家賃にはねかえらざるを得ない。
したがって、それを補完できる自治体が、助成の道を自ら閉ざしてしまうと、結果として長期入院や特養入所者がふえていく。
それでは、持ち家に対しての所得制限なし、費用上限なしの助成を決断したのが片肺飛行になってしまい、十分な成果が得られないのではなかろうか。
10 在宅福祉に欠ける「住宅」
施設ケアから在宅ケアへ、これが今もっともホットな議論のテーマのようである。厚生省が打ち出したゴールドプランの中心でもある。しかし、どこかおかしい。「在宅」といいながら、住宅そのものが持つ重要性について、ほとんど議論されていないからである。
ゴールドプランでは、在宅福祉を実現しようとするときのサービスを支える仕組みの欠如、マンパワーの不足が指摘され、その充実のための努力を自治体に要請し、国もできるだけの援助をするということになっているが、それぞれの高齢者の城である住宅自体のあり方については、ほとんど述べることがない。
このゴールドプランを受けて、全国の自治体で老人保健福祉計画が策定された。筆者も建築の立場から、ある自治体の計画づくりとかかわったが、ゴールドプランで欠落した視点が自治体での議論でも復活しそうもないことに驚いた。つまり、福祉サービスを担う自治体職員たちが、住宅の物理的条件を改善する重要性についてほとんど理解していないようにみえたのである。
この自治体で議論をしていて気がついたのだが、福祉関係者は高齢者の精神的・肉体的ハンディキャブにばかりとらわれすぎて、そのほかのことが見えにくくなっているように思える。しかも、ここは障害者対応の施策では全国に先駆けて踏み出したところ。「まちづくり」などハード面の整備の経験が蓄積されているはずなのに、それがほとんど生かされていないように思える。
ゴールドプランで求められていることは、まず第一にケアニーズを把握することなので、ケアを必要としている高齢者に対しての詳細な調査が行われ、本来ならば必要になるであろうサービスが細大もらさず拾われ、一覧表にまとめられた。それをもとに、ある高齢者にとってこれこれのサービスが必要だ、それはこの程度の回数・時間で、したがってヘルパーの人数は、といったことが議論できる基礎データがつくりあげられた。
ところが、その検討の過程で、何がその高齢者の行動を阻んでいるのかといった基本には誰も言及しなかったし、一覧表には、それを注記する場所すら用意されていなかった。
あたかも、住宅は自動的に福祉サービスが導入しやすいようになっているものとの暗黙の前提があるように受け取れるが、現実がそうでないことは、ちょっと考えれば誰もがわかる。
これまで福祉サービスが入っていた住宅の圧倒的に多くは劣悪な条件の住宅であって、実質的なサービスを行う前に克服しなければならない物理環境の問題が、非常に大きな部分を占めている。このことの認識は、まだまだ福祉では遅れていると思えるのである。
したがって、その物理的障害がなければ、サービスをするのに人手はずっと少なくてすむこと、場合によっては高齢者が自分でやってしまえることもあるという、きわめて単純だがもっとも重要な点に目がいかない。
その障害を取り除くのに欠かせない住宅改造も、江戸川区などごく一部の自治体の自主的努力を除けば、所得制限・費用制限という、どうしようもないハードルがじゃましている。
この意味では、ゴールドプランでも恩恵としての福祉から一歩も出ていない。ほんとうは、長期的な視点から、もっと積極的な事前介入の方策を考えなければ、老人保健福祉計画は絵に描いたモチとなり、ほとんど意味をなさないであろう。これは新ゴールドプランでも依然として同様のようだ。少なくともバリアフリーな環境として住宅の果たすべき役割の基本は、しっかりと把握しなければならないのに、出し遅れの注文では困る。
一〇年後、いや二一世紀を見すえた計画づくりであればこそ、物理環境としての住宅整備にもっと踏み込んだ内容であってもらいたい。
11 「指針」からの広がりに期待
一九九五年六月、長寿社会対応住宅設計指針がようやくのことで建設省から出された。おおもとになるプロジェクトが終了してから、丸三年かかったわけである。ハートビル法(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)に合わせる形で一九九四年中には出したいということだったが、いろいろな事情からずれ込み、最後には阪神・淡路大震災で担当者が被災者用の応急住宅供給に関連する仕事も同時にこなすという事態になったが、なにはともあれ通達にまでこぎつけた。
内容的には基本的な項目を主に押さえていて、今ではさほど目新しくは見えない。むしろ重要なのは、世の中の最近の急速な変化がこの指針の精神を織り込むような形で動き出したことだろう。
まず、住宅金融公庫の融資のうち、設計に関してなんらの担保もなかった高齢者同居割増に対して、これまでの三〇〇万円が四五〇万円に増額されたのと引き替えに、一九九五年度には基本的なバリアフリー要件が打ち出された。
公庫の担当者と話をしたら、公庫融資のかなりの割合が同居割増制度を活用しているので、あまり一気にハードルを高くするわけにはいかないが、同居するといえば割増を受けられたこれまでのような尻抜けは許さないという立場で、項目を選んだということだ。
具体的な住宅の立地や家族の意向も念頭に置いて、住宅全体としての水準が妥当なものとなるよう、いくつかの考え方に沿って選択できるように仕組まれた。それでも依然として規定が細かすぎる、もっと自由度を与えるべきだという意見もあるが、これまでの流れを急には変えられないということもあろう。
さらに、工業化住宅評定でも、高齢化対応の要件がほぼ同じ水準で決まろうとしている。この評定を受けていれば金融公庫融資に当たって個別審査が不要になることから、メーカー側としては何としても調整を取らなければならないこともあり、思ったより早く対応がなされそうである。
もうひとつの動きは震災のいわば後始末。公的供給となる「復興住宅」では、入居者の多くが高齢者であることが予想されたためもあって、指針をにらみつつバリアフリー要件がかなり前面に打ち出された。
こうした点から見ると、「指針」の一歩は大きいが、しかし、一夜にしてすべて変わるわけではない。
一つには使える建築部品がまだまだ少ないことや、たとえあったとしても選択の余地がないという、流通のあり方の問題が残されている。たとえば指針では、室内建具の有効幅員の目標値を七五センチ以上としたが、実はそれを満たすものは現在はほとんど出回っていない。
あるいは、浴室にシャワーを設ける場合、シャワーを置く高さを自由に選択したくても、今はほとんどが上と下の二カ所にしかフックが用意してなく、スライド式で上下できるようなバーをつけようと思うと、特注としてよけいな出費を強いられる。メーカー側の説明だと、二か所のフックが標準品になっているので、取り替えるとそれらがむだになるという。
これは特別な例ではなく、ふつうの水栓金物でさえ選べないこともある。さまざまな建築部品が、自由に選択できるオープン部品として扱われていなくて、メーカーのお仕着せになっているといったところが変わっていけるかどうかが、今後の鍵であろう。
12 住宅重視を「政策」として
一九九六年一〇月から住宅金融公庫の融資制度が変わった。政策的に誘導すべき基準に適合した住宅にのみ、基準金利を適用しようというもの。これまではおまけである割増融資での対応だったものの一部が、融資の基本条件に織り込まれた。
省エネルギーかバリアフリーを満足していなければダメだという今回の基本方針は歓迎だ。もっとも、民業圧迫だといって住宅金融公庫不要論の大合唱が起こっていたから、政策連動を義務づけることで住み分けて生き残りをはかったという皮肉な見方をすることもできるが、とりあえずは褒めておこう。
「長寿社会対応戸建て住宅設計指針(案)」を発表して、民間住宅のほとんどを支えている住宅金融公庫はいつになったら高齢化に伴う問題をほんとうに考え始めるのだろうかと論陣を張ってからほぼ四年、そのときには、長寿対応(バリアフリー)設計の住宅に対して一%低利でより有利な融資制度を導入すべきだと提言したが、まったく無視された。
この点で動きの早かったのは厚生省サイドの年金住宅融資。貸付利率を一般のものより一%低くした「在宅ケア対応融資」の創設を、指針(案)公表の翌年から要求し始めた。
人づてに聞いたところによれば、最初の予算要求時に大蔵省は、年金住宅融資に一%低利を認めるかどうかの判断を建設省にゆだねたという。しかし、建設省としては住宅金融公庫の制度への跳ね返りも気にしたのだろうか、首を縦に振らなかったようだ。建設省が基礎研究から地道に議論を積み上げてようやくここまできた成果を横取りして、という反発の気持ちもわからないではないが……。
一九九六年度の予算要求を客観的に見くらべれば、基本的に同じ考え方に基づく基準を、一方は最低基準として義務づけ、一方はより低利で優遇したいというのだから、当事者以外が見れば、つじつまが合いにくく、年金住宅融資の在宅ケア対応融資だけ一%低くするのは、やはり無理があった。
結果として住宅金融公庫は、予定どおり基準金利適用の範囲を政策主導にしぼることが認められ、長寿対応などの条件のいずれかを満たさなければ貸付利率が割高(中間金利)になることになった。
一方、年金住宅有志は、基準金利より一%低い利率を適用するという、より有利な融資制度は認められなかったが、融資額の条件が「住宅ケア対応」の場合には「一般」の倍近い額に引き上げられ、バリアフリー住宅をつくって欲しいという厚生省の希望が一応外に見える形になった。ただ、この用件は住宅金融公庫のものと若干異なっている。
筆者としては、年金も公庫も同一基準・同一利率として、在宅ケア対応とバリアフリー対応をそれぞれ基準金利よりさらに〇・五%下げ、その他一般を〇・五%上げるのが現実的・効果的な対応だと考える。現状の低金利では公庫融資も基準金利と中間金利が同一になっており、当面、バリアフリー化による効果は期待できないからだ。
厚生省がほんとうに在宅ケア対応を考えるなら、公庫、年金合わせて、より一層の低利を導入すべきだ。その場合、公庫融資の利率を下げる分についても、バリアフリー化で結果的に恩恵を受ける厚生省が予算を獲得してまかなうという、より積極的な「政策」としての展開をいずれ考えていくべきだろう。
これは、省庁ごとの予算要求・政策実施というこれまでの暗黙の大前提を超え、「最高度」の政治判断に値する問題と考えている。
13 施行・判定評価はどうするか
前項に述べたとおり一九九六年度の予算では、住宅金融公庫と年金福祉事業団の年金住宅融資、いずれも長寿対応設計が目玉になった。
有利な基準金利で借りるためにはいずれにせよバリアフリーが要件になるのだから、放っておいても自然にそっちに流れるだろうというのは、いささか甘い考えのようだ。
一九九五年秋のことだが、ある地方自治体の人と話をしたら、次のような状況だといわれた。
住宅供給のかなりの部分を占めているのは戸建ての在来木造住宅で、地場の大工、工務店の手による。しかし後継者がなく、この代限りという人が多く、世間の動向に関心を示さないという。つまり、融資制度が大幅に変更になっても、自分に関係がないということか、あまり気にしないのだそうだ。
これまではそれでも大きな影響がなかったせいもあって気にしなくてもすんでいたが、今回の変更はそうはいかない。これまでどおりの設計施工だと、いざ借りようというときになって、利率が高くなってしまっていることに気がつくはずだ。
今のうちにちゃんと勉強してくれれば無理なくバリアフリー設計施工のこつが身に付くのに、そうはならないのが頭の痛いところ。講習会参加を呼びかけても、めったに乗ってこないのだという。
それ以外でもう一つやっかいな問題は、バリアフリーの理念を踏まえた設計施工がなされているかどうか、末端でそれをちゃんと判定評価できるようになるまで、これまた時間がかかりそうなことだ。
もともと住宅金融公庫では、融資を申請した住宅が要件にあっているかどうか審査するのだが、最近はふつうに建てられる住宅はさほど問題がなくて、きびしい審査をしなくてもトラブルは生じなかった。住まい心地も耐久性も、そこそこ確保されていたのだ。
ところが、バリアフリーとなると話は別だ。これまでの審査経験はほとんど役に立たない。
よくわかっていないときには唯一の拠り所は仕様基準であり、それを満足していないものは認めないことになる。そういった場合には、ほんとうは細かな差に拘泥せず、全体をとおしての総合的判断で処理すべきなのだが、それはバリアフリーの理念を熟知していなければ困難だ。たぶんこれができるようになるまでには、何年かかかるのではないだろうか。
この状況は、プレハブ住宅には有利かも知れない。「工業化住宅評定」といって、最終的に達成されるであろう性能を総合的に評価してランク付けする制度がある。今回の金融公庫融資で基本要件となる高耐久性、省エネルギーは、プレハブ住宅ではすでに基本性能としてかなり以前から織り込まれており、バリアフリー要件を満たした長寿社会に対応した工業化住宅の評定も、一九九五年から始まっている。手早く低利融資が受けたければプレハブにという動きも出てくるかも知れない。
14 長寿社会対応住宅を評価する
長寿社会対応戸建て住宅設計指針(案)が出てしばらくして、一九九二年夏から秋にかけ、それに準拠したモデル住宅が完成した。これらのモデル住宅は、建設省総合技術開発プロジェクト「長寿社会における居住環境向上技術の開発」にもとづいた建設省建築研究所との共同研究に参加した住宅メーカー二社によって、それぞれ建てられたものである。
指針案そのものが、主として建築研究所と先のメーカーとの共同作業により作成されたものであるが、そこでめざしたのは特定の少数の高齢者のためではなく、誰でも住めるものでありながら高齢者を排除していない住宅であった。
この「指針案」が現実を無視した砂上の楼閣なのか、それとも十分に利用可能なものなのかは、その実用化をはかるにあたって関係者のもっとも重大な関心事であり、指針案にもとづくモデル住宅の建設は、その検証を行うのに最適な方法であると考えられた。
もちろん、具体的な建築の評価は一般にかなりの時間がかかるものだが、ここに組み込まれた設計内容は、それ以前の蓄積をもとに選定されたものであり、その時点でおおまかな評価を下すに足るだけのデータは得られたと筆者は判断しているので、ここでそれを述べようと思う。
その前にまず、長寿社会対応戸建て住宅指針(案)でめざしたものは何かをはっきりさせておく必要があろう。
それらは、
@ 三〇年先にも基本的には住み続けられ、
A 安全性・快適性・使い勝手が保証され、
B 過重でない要求水準であり、
C 加齢に伴う要求変化に対応した可変性を備え、
D 必要に応じて選択できるオプションが用意されていること、
といった項目である。
具体的な住宅のデザインとしては、「床の段差解消」「手すりの設置」「安全な階段」といった特徴を備え、「部屋の用途変更が容易」で、かなり大規模な改築が構造に影響を与えずに可能という設計になっているものを念頭に置いている。
要件はすべてが同一の重要性を持つものではなく、対応の肝要さの程度(特に安全性や使い勝手)、経済性、妥当性などによって、基本・標準・推奨の三つにランク分けされている。
実際に建てられたモデル住宅は、基本をすべて取り入れ、標準・推奨要件を適宜採用している。しかも、指針作成に当たって一部の設計者などから表明された懸念、つまり「高齢者対応のものは、非高齢者にとって使いにくいのではないか」という根拠のない疑問に対してみごとに答えている。
これから新しく住宅を建てようとして住宅展示場にやってくる人が、予備知識を持たずにこれらのモデルに足を踏み入れたとすれば、ごくありふれた設計の住宅だと感じ、ことによると長寿社会対応デザインに気がつかずにすんでしまうかも知れない。まさにそこが指針のねらっているところともいえるのである。
和室と洋室の間の敷居に段差がないことは、そこの戸が全部開放されていなければ気がつかないであろう。段差は、従来は伝統的な空間序列の表現として必要と考えられていたものであるが、実際には部屋の相互の関係が変化してしまっていたりして、段の存在は意味を失いつつある。また、トイレの入口段差がないのも同様に気がつきにくい。これらは単に水処理の便宜のためにあったからである。
トイレと浴室に手すりがついていても、子どもや高齢者には便利であり、しかもほかの居住者にじゃまになるほど目障りではない。タオル掛けだといわれればそうかと思うくらいのものだ。
さらに、やや緩く設計され、手すりがつけられた階段は、誰にとっても使いやすい。特に一部三階建てになっているモデル住宅は、三階は高齢者対応ではないという想定になっているので、二階から三階への階段は一階から二階への階段とくらべて勾配がきつく、また手すりの直径も若干だが太い。その二つを使いくらべると、手すりの握り易さも含めて、使いやすさがもたらす差が体験できる。
一方、部屋の用途変更や改修工事を思い立ったとき、ふつうはじゃまになるような柱や壁は注意深く避けられている。
住宅メーカー二社でかなり対処方策に差が出ているのは、浴室の床の処理であろう。A社のモデルでは、洗面所から浴室まで、すべての床レベルを平らにしている。浴室の洗い場で流される水は、入口ドアの手前のグレーティングのところで捕捉され、あふれることはない。
一方、B社のモデル住宅では、浴室洗い場のレベルは少し下がっており、段差の存在は必要に応じてすのこを持ち込むことで対処される。これはベターリビング(BL)仕様の高齢化対応浴室ユニットの基本的な考え方に相当する。
この浴室の床は、指針案に組み込まれた中ではもっとも処理がむずかしい中身であり、経済性や実用性をどう評価するかで、選択された方針が異なったものである。(最終的に建設省から出された指針では、緩和規定はこれよりもっと甘いものになってしまった。)
コストについては、採用する要件項目の選択によってかなり左右されるが、おおまかにいえば、基本のみなら総額でほぼ三〇〜五〇万円の上乗せ、推奨まで含めれば二〇〇万円と算定された。この程度のコストで将来の致命的な欠陥を避けられるとすれば、安いものではなかろうか。
15 バリアフリーの考え方の理解が基本
一九九六年一〇月、仙台で開催された国際住宅都市計画連合(IFHP)の主テーマである「バリアフリーリビング」にあわせて、宮城県は住宅供給業者がそれぞれ長寿社会対応モデル住宅をニュータウンに建てる機会をつくった。
宮城県住宅供給公社による開発の一部を、バリアフリーをうたい文句とするモデル住宅の建設に充てたのである。結果として、プレハブ六棟、ツーバイフォー六棟、そして木造一五棟の合計二七棟が軒を接して建ち並んでいる。
長寿社会対応戸建て住宅設計指針(案)が公表されてからまる四年、通達となってから一年経っているが、果たしてごくふつうの住宅供給業者がどこまで理解し、咀嚼して設計できているのか、地場の工務店がこぞって参加しており、成果を見るのにこれほど適当な場は考えられないと言えるだろう。
結論を先に言おう。指針は名目上はかなり満足されている。しかし、指針の基本的考え方は十分理解されていると言えない。
ただ、ちょっと酷な面もある。現場を見ると、住宅を建てる前の問題があるのだ。それは敷地の造成上のミス。全体としてなだらかな勾配がついているのだが、取り付け道路と敷地の高低差がひどく大きいままで、数段の階段を通ってでないと玄関ポーチにたどり着けない。
車いすになっても大丈夫であることを示そうと、外部に斜路を設けたモデル住宅が少なくないが、そのほとんどは勾配がきつすぎてとても使えそうにない。こういうふうにコミュニティとの接点が断ち切られていては、いざとなったら結局、転居するしかない。住宅内部のバリアフリーだけしても、実質的に空念仏だ。
これは、土地を造成した住宅供給公社の今後の課題であり、たぶんどこの供給公社でも同じではなかろうか。
では、玄関に入ってからはどうかというと、こちらもいくつか問題がある。玄関ドアの敷居に段差がありすぎることもあれば、出来あいの浴室ユニットで段差をなくそうとして洗い場の蛇口が使えないほど低いところに埋まってしまったモデル住宅もある。
こうした中には、指針についての理解が十分行き届いてないためのミスもあれば、部品が市場で入手できないための妥協もある。
後者はいわばやむを得ない事情だが、前者は基本思想をちゃんとわかっていない点でより重大だ。バリアフリー改修の考え方もあまり現実に即していなかったりして、長寿社会対応といいながら首を傾げたくなる。
一言で言うと不勉強なのだろう。やはり、住宅金融公庫がバリアフリー対応をこんなにすぐに導入するとは思わず、準備できていなかったのではなかろうか。
これからは公庫のバリアフリー融資要件を満足するのは大前提、それ以上のよさを備えていなければバリアフリー対応といううたい文句は当てにできないようだ。
16 公団住宅のバリアフリー化は
一九九六年に筆者が住んでいるつくば市のすぐ近くに、住宅・都市整備公団が中層の分譲集合住宅をつくった。地区のショッピングセンターに隣接したそれなりに便利な場所だが、つくば全体の中では中心からやや外れ、むしろ閑静といったほうがいいところで、退職後もつくばに住み続けたいと考える人には悪くない立地だ。
住宅・都市整備公団の住宅は建設省の意向もあり、高齢化を念頭に置いた設計が徐々にだが織り込まれているので、どこまで進んでいるのか気になって、モデル住宅の公開をのぞいてきた。
印象を一言でいうと、配慮のあとは見られるが、まだ設計者にはほんとうの意味での切実感がなさそうだなというところだ。
五階建てだがエレベーターが設置されているのは、数年前に別のところに建てられた賃貸住宅がエレベーターなしで将来に不安を残しているのとくらべると、隔世の感がある。また、住棟のアプローチは数段の階段とスロープが併設されている。しかし、スロープには手すりが用意されているのに、階段のほうは手すりがない。雪が降ったりしたら両方とも使えなくなってしまうだろう。
もっと問題なのは、アプローチ廊下から住戸のポーチに近づくと仕上げがタイルに変わるが、そこに三センチほどの段差があること。設計者がどのように図面で指示したのか、施工者のミスなのかわからないが、現実には人をつまずかせるのにかっこうの仕上がりだ。さすがにまずいというのは、説明に当たるべく現場に派遣された公団の担当者もモノを見て気がついたようだが、公開が終わるまでの二週間、有効な対策はとられなかったようだ。
もう一つ、どう考えてもわからないのは、玄関につけてあった水平手すり。下から六〇センチくらいの高さで水平につけてあるが、使い方が理解できない。かまちに座って靴を着脱したあとで立ち上がるときに使うのだと説明されたが、そんな手すりはその目的には全く役に立たない。ちょっと想像すれば、おかしいことくらい気がつきそうなものだが、あまりにも無造作だ。
室内でも、妙なことはいくつかある。たとえば浴室の入り口ドア幅は六五センチを確保しているのに、そこに入るために通らなければならない洗面所へのドア幅は、六〇センチもない。これを改造しなければ浴室にたどり着けない事態が起こるかも知れないわけだ。一階の浴室は原則平らになっているが、上階では入り口に立ち上がりができていて、バリアフリー設計ではない。つくばという土地柄からいっても、退職後に官舎から住み替える公務員が購入する可能性は高いのだから、もうちょっと工夫して平らにして欲しかった。
その後、ある研究者(建築は専門ではない)と話をしたら、彼は「住宅・都市整備公団は業者の言いなりだ」と憤慨した口調で文句をいった。筆者はその指摘の当否を判断する材料を持っていないが、少なくとも住まい手の意向を代弁して施工業者と交渉してくれない場面がままあることだけは、容易に想像できた。居住者の立場に寄り添う姿勢がなければ、ほんとうの意味でのバリアフリーは実現しないだろう。
17 建築基準法と階段幅員・手すり
以前は、住宅といえば平屋だったから、階段を家で使うことはまずなかった。もちろん実際には屋根裏というのがあったが、そこを使うのは元気な成人だけだといってほとんど差し支えなかったから、建築設計者が自分の持つひととおりの常識にそって住宅をつくっておいても、なにも問題は生じなかった。
それを如実に示すのが、建築基準法施行令における住宅階段に限っての例外規定で、そこでは踏み面一五センチ以上、蹴上げ二三センチ以下、勾配でいえば六〇度近い、ほとんどハシゴと呼べそうな、非常に急勾配な階段を認めている。この規定の原型ができたのは、なんと明治時代末期で、六尺進むうちに九尺昇ろうという発想である。
実際には、今どきこの規定にかろうじて合格するだけの貧弱な階段をつくっている例は、ほとんど見られない。では、現在は満足できる状態かというと、あいにくそうはいえない。
住宅階段の安全性に関する研究は、過去数年かけて筆者が精力的に研究したテーマであるが、その過程で検討した結果、踏み面・蹴上げそれぞれについて、この程度という推奨できる寸法を得ている。それは、おおまかには、踏み面二一センチ以上、蹴上げ一八センチ以下(勾配七分の六以下)、角度では約四一度という条件で表わされる。これは、一見簡単なようで実はそうではない。
普通の小さな街中のビルでも、この勾配条件を満たしているものは少なく、これを実現しようとすると、ずいぶん「余分な」面積を階段に割く必要が出てくる。現在の住宅であと少し、九〇センチ四方の面積を階段のために使うことができる人は少ない。多分たいていの住宅では、押入などをつぶさないとうまくいかないはずである。新築の場合ならまだしも、増・改築では階段をさわるのがほとんど不可能だろう。
また、たとえ前記の推奨に従って階段の勾配を緩やかにしても、階段での転落事故を完全になくすことは不可能なことも事実である。
そこで、事故による被害をできるだけ減らし、軽くする手段として、もう一つの安全策が浮かび上がってくる。それは、手すりの取り付けである。ここで手すりというのは、しっかり握れるものをいう。
しかし、この手すりの問題は比較的最近になってクローズアップされてきたものであり、階段幅員と手すり設置との関係が、まだ十分に議論されずにきた。そもそも手すりがないと困る人々が住宅の階段を使うなどとは、現在の法規ができた昔は予期されていなかった。
このため、二階に上がる階段に現実に手すりをつけようとすると、法規に抵触するとして建築確認の際に拒否される事例も少なくなかった。これは、階段幅員の条件が七五センチとなっており、もし安全のために手すりをつけた場合でも、手すり内側から対面する壁までが七五センチなければならないとの「統一解釈」が建築主事会議から出されており、これを満足させるのが困難な住宅が多くつくられているためだった。
この問題について、筆者は十年以上前から「安全性と今後の高齢化を考えれば、手すり幅員の解釈のほうを変えるべきだ」と建設省に要請していたのだが、聞いてもらえなかった。また、四年前には、階段昇降機の後付けに関連して、やはり幅員の議論がなされたのだが、そのときも幅員をどう考えるか、決着がつかなかった。
これに対して、ようやく一九九六年三月末になって、建設省から一つの通達が出された。手すりを持った階段の幅員の考え方について、大きな変更がなされたのである。具体的にいうと、住宅の専用階段では手すりをつけたときに片側で一〇センチまでの飛び出しは、手すりがないものとして階段の幅員を考えてよく、両側に手すりがついている場合には、手すり内法寸法(手すりから手すりまで、じゃまされない有効な寸法幅)の最低要件を六〇センチにまで緩和したのである。
通達が出されたのには、それなりの理由がある。
一九九六年度から住宅金融公庫の融資制度が変わり、基準金利が適用される高齢化対応(バリアフリー)設計では、階段手すりが少なくとも片側設置が義務化されたので、従来のように内法とすると不合格になる住宅が続出する。
ほかの条件は合格なのに、階段幅員要件が満足されないために、高齢化対応の住宅金融公庫融資が受けられないというのは、非常にまずい。しかも、不合格になる条件が本質的ではないとすれば、条件のほうを変えるのはごく自然な判断である。
筆者は以前から、「手すり内法で七五センチを要求する必要はない。たぶん七〇センチあればふつうの利用には十分だし、その条件のもとで安全のための手すりもつけられる」と、実験結果を根拠に主張しており、結局はそうした見解が通ったというわけである。
今回、通達が作成される段階では、筆者はまったく相談にあずかっていない。こうしたことはわが国ではごく当たり前なのだが、数年経てば建設省は問い合わせに対して決定の根拠を答えられなくなるだろうと懸念している。わが国では規定の見直しは定期的にはなされず、何か起こったときにのみ行われるのだが、そのときには判断根拠資料はすべて雲散霧消している可能性が高いからだ。
判断根拠が不明になったものを変更するのは、判断根拠が明示されているのとくらべると格段にむずかしい。もっとも、今回の場合はよりいっそうの緩和を必要とすることはあり得ないから、まだしもだが。もちろん、具体的な根拠もなくつじつま合わせのために規定を見直すことが論外なのは、いうまでもない。
18 さらに一歩進めたアメリカの住宅政策
アメリカでは、機会均等が重要であり、差別は不当なこととして排除されているが、公正住宅法の改正(FHAA)によって住宅の供給にあっても今回その趣旨が盛り込まれ、身体障害を理由に入居を拒むことも基本的には違法となった。そのため、障害があっても居住できる住居とはどういうものか、設計の基本要件を定めたものが必要になるわけで、設計指針が作成されて一九九一年三月に官報で公表された。これは新たに建設される四戸以上の集合住宅に適用される。
この指針では、七つの項目が基本要件とされている。それは、
@ バリアフリー(アクセシブル)な入り口へのバリアフリーな通路
A 共用部分でのバリアフリー
B バリアフリーな住戸ドア幅員
C 住戸内部での移動の確保
D 照明スイッチなどの操作のための設置位置
E 手すり設置のための壁下地補強
F キッチンと浴室・トイレの利用可能性確保
である。
上記の要件は、一言でいえば車いす利用者のための条件ということができるが、なぜそうなのか、視覚・聴覚などほかの障害は考慮しなくてよいのかという質問が当然出てこよう。これに対しては、ほかの障害対応に比べると車いす対応、とくに、段差の処理と開口部(出入口)の幅員、そして物理的な面積の確保は、あとからの対処が非常に困難だからであり、それが議会での立法趣旨であるとの説明がなされている。
この指針で述べられている内容は、ある意味では単純明快である。専門家によってはこの要件だけではどうしようもないと主張しているが、このような規制は政府の住宅政策と連携させるのが通例なのに、ここでは公的な補助・助成などとまったく無関係に自動的に四戸以上の集合住宅に適用される要件であり、むしろ非常にきびしいということができる。
もちろん、バリアフリーと、操作部の移動・手すり設置などを容易にする可変性とを住宅に組み込みながら、経済性や市場性とどう整合させるかが具体化に当たっての最大の問題であるが、車いす障害者を含めて誰でもが知人の家を訪問できるというのは当然の要件となってしかるべきだ、もはやこれを排除することはできないというのが、本指針作成に関係した人々による趣旨説明である。
FHAAの指針の記述それ自身は、義務とはされておらず、他の寸法、手段などで同等のバリアフリー性能を確保できればそれで差し支えない。いわば七面倒くさいことをしたくない場合、これに従えば自動的に要件を満たすという意味での例示である。このような形での自由選択は、設計者にとっても非常に望ましいことであろう。
なお、既存の住戸では当然、条件が満たされていない場合が多いわけだが、ではそこに障害者が入居したいといった際にはどうなるのだろうか。ここで法的に認められている解決手段は非常に参考になると思う。
まず、大家は必要な改修を居住者が行うことに対して承諾を与えなければならない。基本的に拒絶できないのである。ただし、費用は居住者が負担する。そして、退去の際には大家は現状復帰を要求でき、その費用負担も居住者である。もっとも、改修した部分のうちの共用部分にあっては、居住者は退去時の現状復帰を行う必要がない。住戸の中とくらべると、共用部分はバリアフリー対応の必然性が高く、より多くの人に効果があるからであろう。
最初に述べた七つの基本要件の中で、もっともむずかしいのは第一の要件、住戸入り口までのバリアフリーな通路だといわれている。なぜなら、それは敷地自然条件という課題を相手にしているからであり、傾斜地や洪水に対する配慮をしなければならない土地では免除せざるを得ない場合も少なくないと覚悟されている。
とはいえ、法律の趣旨はきわめてはっきりしており、ご多分にもれず急速に高齢化していくアメリカが、住宅のバリアフリーに向けて重要な一歩を踏み出したということができる。
U まち
1 「みんなにやさしいまち」へ
バリアフリーというとき、最初に思い浮かぶのは何だろうか。多くの人にとっては、それは「車いす」であろう。
障害のないまちづくりをめざすときも、分かりやすく目に見えるということから、車いすがそのシンボルになった。しかし、今やそこからもう一歩踏み出すときがきている。
アメリカ障害者法(以下ADA)の制定にあたっても問題になったようだが、現実の場面においては障害の異なる障害者間の利害の対立が、設計において表面化することもある。
端的な例をあげれば、道路と歩道の段差は車いす利用者にとっては致命的であり、できれば完全に平らなほうが望ましい。一方、視覚障害者にとっては、ここの段差は手がかりとして重要であり、平らでは困る。
そこで現実には、施工の困難さを含めての両者の妥協点が三センチまでに段差を押さえるという解決策になっている。
ほかにも似たような状況は少なくない。情報を入手するという面では、視覚障害者と聴覚障害者とではまったく異なったバリアが存在する。間に人がいれば、文字やシンボルと音声とを必要に応じて使い分けたり、付加的に使ったりして比較的簡単に伝達可能なものが、機器だけで対処しようとすると非常な困難が生じるのである。
これは、実は高齢者にとっては場合によっては同一人の問題として浮かび上がってくる。障害者とは違って、高齢者では多くの機能が、時間的な差こそあれ、いずれも衰えていく。視覚情報、聴覚情報のいずれも不十分で、両方合わせても内容が把握しにくいという場面に出くわすことはまれではないだろう。
また、歩行環境については、歩けるが長距離は無理で途中で休みたい、階段は使えるが緩やかで手すりがあることが必要、わずかな段差はつまずいて転びやすいので危険、というのが高齢者にとって普遍的な問題としてある。これらは、従来の車いす中心のバリアフリーの視点からはなかなか出てこない問題である。
東京都町田市など一部の自治体では、高齢化の進展とともにこの問題が噴き出てくるのをかなり早い時点で認識し、障害のないまちづくりにおいて対象とすべき利用者像の範囲を、車いす利用者よりさらに広げている。同時にバリアフリーを示すシンボルマークを、車いすだけから子供とお年寄りも含めたものに変えているところも出てきた。
この考え方こそが、「アクセス・フォア・オール」(誰にとっても使えるものを)といわれる新たなバリアフリーの概念である。
単純化していえば、スキーで骨折して松葉杖をついている若い人、大きな旅行カバンを両手で引いている人などは、跳ぶように歩いている通勤・通学客に比くらべれば明らかにハンディを負っている。ことによるとあなたはそんな人を、「こんなところに来るな、じゃまだ」と内心ののしったことがあるのではなかろうか。しかし、それは明日のあなたの姿かも知れないということを考えたことがあるだろうか。
もしそうなれば、あなたはバリアフリーの重要さを身をもって知ることになり、ものごとをあだおろそかにしなくなるだろう。その意味で、できるだけ多くの人がこのような体験をすることが望ましいということもできる。
現在は、障害の状態をある程度再現できる装具がつくられているので、それをつければ疑似体験は可能であり、実際に骨を折るまで待つ必要はないし、骨折以外にもさまざまな障害の状況が身をもって体験できる。男性にとってはなかなか想像しにくい出産直前の女性の苦労も体験できる。
少なくとも、政策形成過程にかかわる国会議員や地方議会議員、国・自治体の職員などにはこれらの装具をつけさせて必ず実体験させるべきではなかろうか。
なお、一九九五年の春から、建設省は新規採用者に対して初任研修でこうした体験をさせることにした。これは一歩前進だが、ほんとうは予算配分権を握っている大蔵省職員も含めて公務員全員が体験すべきだろう。
また、建築設計は芸術だと思っている設計者は、多くの場合利用者の視点を欠いているが、これは教育課程の問題でもある。これをただすため、現在はほとんど皆無といっていい設計者に対するバリアフリーの実地教育も、同様に導入すべきであろう。それによって初めて、親身になった設計ができようというものである。
2 自治体のバリアフリー化の動き
一九九一年ごろから九三年にかけては、自治体の建築条例にバリアフリー条項を取り入れるのが流行のようであった。
建築条例というのは、建築基準法の四〇条にもとづいて、地方の特性に合うようにその地域だけに適用される規定を定めるもので、法律にある建築物の安全・衛生・防火についての最低基準では、求められている建築の性能を確保できないときに発動されるように用意された条項である。
それがなぜバリアフリー要件導入のために用いられるのかというと、今の建築基準法にはそれ以外に高齢者・障害者の要求を取り入れるすべがなかったからである。
もともと四〇年以上も前に、それ以前からあった法律を受け継ぎながら新たにつくられたのが現在の建築基準法であるが、当時は高齢者は人口のわずか五%程度、平均寿命は五〇歳代、また身体障害者の存在もほとんど見えないという時代背景のもと、建築物の利用者は健康な成人であるという暗黙の了解があったのは疑えない。
想定された利用者像から大きく外れていたのは子どもも同様だったが、子どもはそれこそあっというまに成長する。建築物を子ども用として設計する意味がある場合はほとんどない。わずかに子どもへの言及があるのは小学校の階段だった。多分ここだけが子どもが自分ひとりで使うところ、あとは必ず保護者がついているという発想だったのだろう。
そのような前提でつくられた法律であるから、高齢者が増加し、障害者が自立して活動するという事態になっても、対応することができなかった。
そうしたはざまで苦労した自治体担当者たちが二〇年以上前に編み出したのが、「福祉のまちづくり指導要綱」という手法であった。
かたちとしてはお願いであるが、実際には指導に従わないとなかなか建築確認が下りないなど、それなりに効果をあげるようにいろいろの方策が援用されたし、趣旨に対しては住民の応援が得られることから各地に広がった。
しかし、あくまでお願いであるから、必ずしも思うようには成果が積み上がっていかない。そうした限界を乗り越えようとして一九九一年ごろから試みられるようになったのが、先ほども述べたように建築条例にバリアフリー要件を取り込み、必ず守らなければならない最低基準とすることであった。
最初に動いたのは神奈川県で、通路やドアの幅員、斜路の設置などの条件を最低基準より引き上げた。これはかなり建築基準法の精神を幅広く解釈することにより、高齢者・障害者による建築物の使い勝手を向上させるのを目的とするものである。
ただし、建築基準法にもとづくことによる最大の制約は、対象が不特定多数が利用する一定規模以上のものに限られることで、この点はどうにもならない。
神奈川県に続いて建築条例にバリアフリー要件を導入した大阪府は、その制約を乗り越えようとして地方自治法にもとづく「福祉のまちづくり条例」を合わせて制定し、網の目からこぼれ落ちる部分をできるだけ少なくしようとした。
小さな建物だけでなく、道路、交通機関関係施設なども広く取り込むことができるこのまちづくり条例は、以前の指導要綱に法的な強制力を与えようとしたものであるといえよう。
こうした先進的な自治体のバリアフリー化の動きは、建築基準法の不備を補完するかたちで進められてきたが、それは一九九四年になって「ハートビル法」として結実した。
3 公共トイレを使いやすく
わが国のトイレ事情は、日本住宅公団が集合住宅に洋式便器を導入しはじめてから、急速な変化を遂げた。住宅のトイレに関する限り、床にしゃがむ和風便器は圧倒的に少数派になりつつある。
これは、その使い勝手と、そして実際的には男子小便器が不要になるという面積節約の面から、洋式に軍配があがったということだろう。
が、その中であまり変わってないものがある。それは、公共の場のトイレ(大便器)である。そこでは、いまだに和風便器が多数派だ。オフィスやデパートなどでは洋式が主流になっているところも増えてきたとはいえ、依然として不特定多数相手のところでは、和風便器が大きな顔をしている。
それには、さまざまな理由があげられている。まず、和風でないとだめな利用者がいるという主張がある。それなら、洋式便器と和風、いずれかを選べるように二種類用意するのが筋だろうが、実際には洋式便器を選べない場合が少なくない。
次によくいわれるのは、他人の使ったトイレの便座に座りたくないという潔癖症の人がいるという理屈だ。これは若い女性に多い反応のようだ。そしてまた、万が一汚されたときの清掃が追いつかない、和風のほうが一気に水洗いしやすいともいう。
確かに、洋式では直接肌に触れるのだから、便座が汚れていてはまずい。清潔にしておくためのメンテナンスのコストがばかにならないから、つくりたくないというホンネもあろう。
しかし、汚れやすいという議論については、むしろ和風のほうが距離があるし、身体が不安定になりやすいから、かえって周りを汚しやすいという反論もできる。筆者が経験した限りでは、床がひどい状態なのは和風に多いように思う。公共物利用にあたってのモラルの問題ということもできようが、使い勝手の悪さが汚れの一因とはいえないか。
利用者の視点からよく考えると、外出先でトイレを使うのは、体調を崩したときなど、かなりせっぱ詰まったことが少なくない。とくに男性はそうだ。体調が悪く、長い時間かかって用を足す場合、和風だと足がしびれるし、疲れ果てることも起きる。和風でしゃがんだ姿勢から立ち上がれなくなって、あやうく大事件になりかけた事例も報告されているようだ。
また、歳をとるにつれて脚が不自由になり、膝をうまく曲げられなかったり、立ち上がる力が出せなかったりということが、ごく頻繁になる。和風でも手すりがついていないことが一般的だから、きわめて使いにくい。どうしても身体を支えようとして配水管を手すり代わりに手がかりにしたために、壊してしまったということも起きている。
はじめに述べたように、公共の場でもデパートやオフィスでは洋式便器が増えている。そこでは、トイレを清潔に保つこと、また、利用者により使いやすい環境を提供することが、その店や会社のイメージを高めるうえでも必要だと認められているからであろう。
遅れているのは、不特定多数が利用する公共トイレ、公園や駅のトイレなどである。一部にはずいぶん立派なトイレもできてきたが、一時的な流行のようなところもあって、バブルが崩壊したあとでは、はかばかしくない。
ほんとうに必要なのは、一部のぜいたくなトイレではなく、どこのトイレも使いやすくなることである。健康な成人しか使えないというトイレの設計が望ましくないことは、いうまでもなかろう。まちに出ている高齢者が急増しているいま、体力の弱った高齢者が、数少ない車いす者対応のトイレを探しまわらなければならないような現在のあり方は考え直すべきであろう。
その意味からは、身体の弱ったときに安心して使える洋式便器は、絶対必要である。それまでは、せめて身体を支える手すりぐらいは、どのトイレにも早急に設置してほしいものである。
4 まちづくりにも「高齢化」の視点を
公共トイレのアクセシビリティ(障害などをもっていても建物に入れるようになっていること。バリアフリーであること)について、車いす対応ブースを男女それぞれに設けよという要求条件はよく出される。アメリカではADAにもとづくガイドライン(ADAAG)でもそう書いてある。
プライバシー配慮の視点からは共用とするより一歩進んだものと考えられがちだが、大きな問題が見過ごされている。それは、介添え人が介助される人と性が違うとどうなるかということだ。
従来の障害者対応デザインでは、とにかく自立障害者対応をという前提があり、介添え人がいることはあまり考えていなかった節がある。しかし、とくに高齢者夫婦が移動する場合、配偶者が介助をする役を担っていると、便所が男女別だと問題になる。どちらにも入りずらいだろう。
したがって、男女共用というのは水準が低いようにみえるが、実は重要な意味あいを持っていることがわかる。従来の障害者対応デザインの発想では顕在化しなかった問題の一つだ。
最初に述べたアメリカの場合、ADAの成立のためには個別の障害者団体だけでは力不足のため、それらが大同団結し、しかも高齢者の問題でもあるという説得によってようやく多数を得た。
高齢者を含めた問題をできるだけ普遍的に解決する方向は理解されているはずだが、実際に細かな点を議論して決める段階では、その時点までに大きな問題となっていなかったものは積み残されている。その小さな例が、男女共用トイレの必要性の過小評価であろう。
介助者の手を借りずにすべて自分でやるとすれば、共用トイレでないと困る事態は思い浮かばない。高齢者の視点は、「自立した強い障害者」によってみえにくくなっているともいえる。
現実を的確に把握している識者は、こうした問題は解決しなければならない過渡的な課題として捉えている。たとえば、ノースカロライナ州立大学のロン・メイス教授は、障害者対応が前面に出すぎたものは誰にでも使える「ユニバーサルデザイン」ではないと指摘している。
一九九四年にわが国で成立した「ハートビル法(高齢者、身体障害者が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)」は、その名称が示すように高齢者を前面に立てているが、実際の細かな基準は従来の障害者対応を主として取り入れており、とりあえず「高齢者」は見えなくなっている。
この法律が対象としているのは「不特定多数」の利用が見込まれる場所だから、実際には障害者も高齢者もカバーするようにしていかなければならないのだが、高齢化に特有のニーズはないか(たとえば歩道に沿って一定間隔ごとにベンチが必要とか、視力・聴力がともに衰えてもちゃんとメッセージが伝わるようになっているか)という視点は、わが国の「福祉のまちづくり」でもまだ十分には考えられているようにはみえない。
高齢者といった場合、寝たきり・車いす・痴呆という決まりきった発想しか出てこないことも影響していると思われるが、これをどう変えていくかが今後の大きな課題であろう。
5 バリアフリーを阻害する官僚の過ち
バリアフリーな環境をつくろうとするとき、もっとも重要なのは上下交通の手段をどうやって確保するかである。
歩行になんら支障がない人の場合、手近に階段があればためらいなく階段を使うであろう。しかし、階段がバリアだとエスカレーターやエレベーターの出番である。いまやごく日常的なものとなったエレベーターは、高さを克服するのに非常に有効な手段であり、階段がバリアである人々の問題を一気に解決するはずである。
もっとも、係員を呼んで操作してもらうものは使いものにならない。筆者は経験したことはないが、東京駅のエレベーターは不便な位置にあって、駅員に頼んで実際に目的を達するまでにはかなり時間がかかると聞いている。車いすの人がエレベーターに閉じこめられて問題になったこともよく耳にするが、たぶん設置者の意識としては使ってほしくないエレベーターなのだろう。
しかし、もしいちばん便利な場所でなくても、また、ボタンを押してから降りてくるまで少し待ち時間が必要でも、お年寄り、ベビーカーを押している親、スキーで足を折って杖をついている若い学生、あるいは両手で大きな旅行カバンを引きずっている中年紳士などは、エレベーターを使うのではないだろうか。
最後にあげた二つの利用者像は、一般の人の頭の中にはほとんど浮かんでこないだろうが、バリアフリーを考えるときには誰にでも可能性があるということから、重要な視点である。
ただ、エレベーターに関しては、輸送能力が限られるということ以外に、もうひとつやっかいな問題がある。建築基準法施行令に、エレベーターに出入口が二か所以上あってはいけないという規定があるために、設置できる場所が非常に制約されている。しかも車いすについては前から車いすで入って上の階でそのまま前進して出るということができず、中で向きを変えるか、後ろ向きに出入りするしかなく、不便を強いていることにもなる。
現実にエレベーターが設置されている場面では、上に昇ってそのまま前向きに移動するのが進行方向であることが少なくなく、この場合は入ったときと出るときとでドアが逆のほうがかえって自然なのである。そうでないと、後ろにまわり込むためにエレベーターロビーにスペースが余計に必要になったりする。
先日あるところで話をしていて、鉄道関係者もこのタイプのエレベーターを切望しているということがわかった。これさえあれば、もっとプラットフォームにエレベーターをつけられると言われたという。駅舎は建築基準法の適用が除外されているのだが、メーカーがつくっていなければ手の打ちようがない。あるいはここだけは、運輸省でも建設省の無用なお節介を追認しているのかも知れない。
また、エレベーターを止めたい階と階とのレベルの差がほんの一メートル程度しかない場合には(上下の階のドアがつく場所が重なってしまうので)、ドアを別の壁につけるしか方法がない。公団の四階建てアパートなど、階段を五段くらい昇って一階に入る住宅では、このタイプのエレベーターがないと、地面から一階までの長いスロープを用意しないと車いすに対応できない。逆に、積極的に左右の住戸を半階分ずつずらすスキップフロアも、このエレベーターがあればバリアフリーとして計画可能になる。
海外では、ドアが二方向にあるエレベーターは、ロンドンの地下鉄などではごく一般的であるし、小さな近代的ホテルでも見かけることがある。また、後から設置する場合に大きく威力を発揮している。計画に際して、出入の方向の制約がかなり軽減されるからである。
しかしわが国では、例外的に病院の寝台用エレベーターとホームエレベーターでしか認められていない(後者は一部のメーカーしかつくっていない)。それ以外は、「反対側のドアが不用意に開くと危険だから」という理由で禁止されているのである。
エレベーターのドアは出口がある階でしか開かないし、反対側が開いたからといって転げ落ちる人なんているのだろうか。「小さな親切、大きなお世話」の典型で、しかもそのために、前記のようなきわめて重要な問題を作り出してしまっているのである。
しかも、この禁止規定はアメリカの規定の誤訳だということを指摘された。そういわれれば、「訴訟社会」のアメリカでも二方向ドアのエレベーターは堂々と認められているのに、しかし建設省はいまだにその誤りを認めていない。これを「特別に」認めるための委員会作業が一九九五年度行われたと聞いているが、一九九六年三月までのところ結論が出ていないということだ。
事故が起きた際の責任の議論がわが国よりずっとめんどうな欧米の国でごく当たり前に使われているエレベーターを認めない理由など、どうひっくり返っても筆者は思いつかないのだが。
こんなことの結論を先のばしにするのは、程度の差こそあれ、血友病治療薬に非加熱製剤を使い続ける決定をした厚生省の役人と同じ過ちだ。そのために多くの人がこうむっている不都合は、考えている以上に大きいのだ。
二方向ドアのエレベーターなら、極端な話、車いすがすっぽり納まりさえすればそれで利用できるのだ。回転半径がどうのという議論など、一切無用である。これを実証する例が現に存在する。
一九九六年、JR四谷駅の中央線プラットホームにエレベーターが設置されたのだ。古い駅、しかもプラットホームの幅員がさほど広くないところだから、実行するまでにはかなり議論があっただろうと推察する。
このエレベーターの開発はJR東日本が主導権をとったようだが、もし建築基準法施行令が二方向ドアのエレベーターを禁止していなければ、とっくの昔にもっと多くの駅についていたのかもしれないと思うと、憤懣やるかたない。
四谷駅のものは改札口の中なので、鉄道運行の用に供する施設という扱いで建築基準法の規制自体は及ばないが、ほかに買ってくれるところがあるかどうかは未知数だし、結局は特別注文、特別設計だから、法令で認められていたら全く不要だったに違いない余計なコストがかかっている。そのコストは、最終的に国民が負担させられるのだ。
6 地下鉄南北線を見学して
一九九二年の秋に、東京の営団地下鉄南北線を見学させてもらった。この路線はその少し前に一部が完成したばかりで、車両に最初から車いすスペースが用意されているなど配慮があると話題にもなった。この路線は九六年春には四谷まで延長されたが、全体計画ではもっと南まで予定されていて、だから南北線というわけである。
まず見せてもらったのは駒込駅。JRの駒込駅と乗り換えできることになっているが、構内通路での連絡ではなく、わずか五メートルほどだが一度外に出なければならない。たまたま土砂降りの雨だったので、傘をささないととても渡れない。せめて屋根が差しかけてあればこんな苦労はないのにと、高齢者や障害者のことを思うとうらめしい。
改札口から地上までエスカレーターがつながっているが、昇りだけ。改札口まで階段で降りて案内板を見て、初めて地上からの車いす対応エレベーターが駅の反対側にあることがわかった。しかし、こちら側からそこへは構内階段を経由しないとたどり着けないし、そもそもJR駅からの連絡も遠くて不便である。
地下鉄駅事務室で資料をもらって説明を聞く。この駅では、地下二階のプラットホームから改札のある地下一階へ昇るにはエスカレーターを利用するしかない。ただ、駅の反対側のエレベーターにつながるエスカレーターは車いす対応の新型で、ステップが三段分まとめて水平になり、速度も遅くなる。もっとも、そのためには駅係員が必要なたびごとに利用者の流れを止めてエスカレーターを操作しなければならない。
また、地上につながっているエレベーターは金融機関のビルのもので、営業時間外には地下鉄の駅係員が専用のカードを持っていかなければエレベーターを利用できない。
次いで見せてもらったのは王子駅。ここでは二台のエレベーターが地上と改札口、そして改札口レベルとプラットホームをつないでいる。エレベーターは改札の外側のずっと離れた場所に二台がやや距離をおいてあった。
地上からは公園から誰でもこのエレベーターを利用することができるが、プラットホームへの乗り継ぎのエレベーターは「身体の不自由な人専用」の表示があった。利用する場合は駅員に来てもらうようになっており、車いす専用の感は否めない。
切符が必要なのは誰でも変わらないのだから、多少離れてはいても、改札口まで来てもらい、改札内に設置した誰もが利用できるエレベーターに乗ってもらうのが本来の姿ではないだろうか。車いすトイレは改札口の中にあるのだから、よけいに残念だ。
すべての駅、すべてのエレベーターをチェックしたわけではないから、これまで述べたのはあくまで一般的な印象であるが、小さな配慮が欠けていたり、車いすだけが特別扱いを強いられるなど、全体にぎくしゃくとしていて、まだ本当のバリアフリーとはいえない。
努力のあとは確かに見えるが、改修でなく新設でこれだけ苦労するとなると、バリアフリーへの道は依然として遠いと考えざるを得ない。
7 江戸東京博物館は「やさしい」か
東京都墨田区に開館した江戸東京博物館がある。ここは、江戸時代から現代までの東京の歴史が一目でわかる博物館としてつくられた。江戸の町、暮らし、文化、首都東京の誕生、都市生活、戦争と復興などといったテーマのもと、模型や資料を展示している。延べ面積は四万平方メートルを超える非常に大きな建物で、四本の巨大な柱で支えられた屋根の形をした外観のデザインが力強い。
展示の内容になじみやすいこともあって観客に高齢者も目立つらしい。高齢者が以前にくらべて気軽に出かけられるような施設が増えることは望ましいが、はたして使いやすいような設計になっているかが気になるところである。
オープン間もないころの新聞の報道で、この江戸東京博物館は順路や表示がわかりにくいという声が利用者から絶えず、そのため管理者側は困って、応急手段として順路などの表示をあちこちに加えたとあった。
それに対して設計者側のコメントとして、表示がなくてもわかるのが文化的施設で、そのように設計した、利用者が慣れれば混乱も解消するだろうという趣旨のことが述べられていた。
建物自体の使いやすさと表示の重要性について、来日したアメリカの研究者と議論したこともあって、いささか野次馬根性もあり、さっそく出かけてみた。
さて、この博物館は最初にも述べたように非常に大きい。駅から歩いて行くと、斜めに昇る動く歩道につながり、舗装された吹きさらしの広場に自然に導かれるが、そこはほかの建物では三階の高さにあたる。この広場から出ている四本の柱が巨大な屋根を支えるようなデザインで、見上げると圧倒される。「屋根」の最上階はレストランと図書室、その下の二層が常設展示室、そのまた下には収蔵庫がある。一方、広場の下はホールと企画展示室、ミュージアムショップ、映像ライブラリーになっている。
ここでの問題は、建物規模が大きすぎて、空間を把握するのに慣れた建築家ならともかく、ごくふつうの人にとっては複雑すぎることだろう。
特に、常設展示室などと下のホールやミュージアムショップとは、吹きさらしの広場で切り離されており、広場でいったん建物の外に出るかたちになるため、その意味で順路が見つけにくいこともありそうだ。最上階のレストランに行く方法も限られていて、これまたわかりにくい。
手元の案内パンフレットを見ると、注意として、常設展示室に入る場合に、あらかじめ入場券を買ってこなければならないと書いてある。だがこのパンフレットは、入場したあとで手にしたものである。入場券の提示を求められるのが、エレベーターやエスカレーターを延々と乗った後の常設展示室入り口で、そこでは券が買えないのも、仕組みとしてはうまくない。計画と運営との間のずれだろうが、これも不評の一因かも知れない。
バリアフリーの観点からは、博物館の場合、建物自身の一般的要件に加えて、展示物が誰にでも容易にアクセスできるかが重要である。
この博物館ではどうかというと、展示は説明も含めて比較的低い位置、車いすの人や子どもでも十分見える高さになされている。
ただ、現物がかなり展示されていて、その損傷を防ぐために照明が暗くしてあり、鑑賞をむずかしくしている。しかも、明るさの割には説明の字が小さいせいか、読みやすいとはいえない。
電話・トイレなどの必要な表示もよく見えない。設計者の意図した順路どおりに歩けばさほど問題はないのかも知れないが、何しろ場所が広いので、途中でトイレを探すために順路から外れたり、近道をしようとすると、とたんにまごつくことになる。
一般的に設計者は、デザインをぶちこわすものとして「表示」を避けたがる傾向がある。わかりやすいように設計で配慮するのは当然すべきことだが、それだけですべての人間の行動パターンをカバーできると考えているとしたら思い上がりだろう。人間の行動パターンはさまざまだから、建物のデザインで配慮した上に、さらに表示をつけてわかりやすくすべきだというのが筆者の見解である。
設計者がデザイン不足(利用者に対するやさしさの欠如)を問われてひともんちゃくあったのはこの建物に限らないが、そのときの設計者(建築家)の反応が、第三者から見るとほとんど例外なく「傲慢」なのはなぜだろうか。
8 非常時のバリアフリー
ADAに関連して、アメリカでは建築の設計ガイドラインが官報で告示され、その運用が開始されている。その内容は、細かな点を別とすればわが国でも従来から福祉のまちづくりなどの形で実際に使われていたものとさほど大きな違いはない。
もっとも大きな違いは、その遵守が公的な助成などの有無とはかかわりなく強制され、違反行為には罰則が伴うという点にあるのだが、その遵守を実質的に軌道にのせるために、モデルコード(建築基準)を作成している複数の団体が協調して、ADAにもとづく建築のバリアフリー要件をそれぞれのモデルコードに盛り込みつつある。
アメリカでは、国全体として統一された建築基準法はなく、各自治体がいずれかのモデルコードを採用する。したがって、モデルコードに取り入れられることで、わが国で建築基準法ならびにその施行令が改正されるのと実質上は同じ効果を発揮する。
ADAに関連してもう一つ見逃せない重要なことは、建物へのアクセスがその中心であったバリアフリーに、避難安全要件が盛り込まれた点である。
これまでは、バリアフリーで入った建物について、「もし中にいるときに火災が発生したら」と質問するのはほとんど禁句であった。なぜなら、バリアフリー要件を整えることそれ自体が建物側にかなりの負担を強いており、それを上回る要求を口にするのはとてもできない相談だったからである。
仮に障害者がその建物の中の企業で働くことになっている場合、職場としての条件をその個人だけのために改修したりしており、もっと費用がかかるぐらいならと、雇用をキャンセルされる危険が高かったのである。障害者にとっても、日常のバリアは除去してもらわなければ動きがとれないわけだが、非常時の問題は数十年の間に一度起こるかどうかもわからない。優先順位の面での主観的な判断もあいまって、お互い不問に付してきたのである。
ところが、バリアフリーが当たり前になってみれば、非常時の避難の問題を議論しないわけにはいかなくなるのは当然の成り行きであった。障害者の割合はさほど高くはないとはいえ、避難階段をやすやすと利用できない人の数は無視できるほど少なくもないからである。とくに、今後高齢者の割合が増えて社会参加も活発になると、事態はもっと深刻になり得る。
したがって、手をつけやすい新築の建物から少しずつ実行に移そうという意思統一ができたのである。それも、小さな一歩といえるところから開始されることになり、具体的には避難階段を利用できない障害者のために階段踊り場に一時待避場所を設けて、助けを待つことができるような設計が要求されるようになった。これは、車いすが二台、ほかの避難者の流れをじゃましない状態で設置できればよい。もちろん、そこに避難するのは車いす利用者には限らず、杖を使っている高齢者ということもあるわけである。
なお、スプリンクラーの設置されている建物では、この要件は免除された。この免除に関しては、反対論も強い。その理由は、一つには障害者に対して安全確保手段を切り詰めているという意味で差別だという議論、もう一つは、スプリンクラーのある建物でも危険なほど煙が発生した例があり、現実に生命の安全が保証されないという議論である。
スプリンクラーがついていない建物も少なくない現実からすれば、いずれかを要件として課すことで一歩前進といえるが、バリアフリー要件自体、規模規定ですでにかなり譲歩しているということも考えれば、スプリンクラーか一時待避場所か、いずれかでよいというのは甘すぎるともみえる。もっとも、それでもわが国の一般的認識よりは先をめざしていることは間違いないが。
9 見直される「常識」
前項ではADAにもとづく設計ガイドラインに導入された火災の際の一時待避場所という考え方の技術的な意味について説明したが、ここでは別の視点から火災安全を考えてみたい。
そもそも、われわれは建物に何を期待し、何を当然と考えているのだろうか。たぶん、安全、健康、衛生、利便、快適、経済というのが、万人に共通な評価尺度ではないだろうか。その中でも、安全は第一に挙げられるべきものだろう。ただ現実には、いつのまにか、その安全評価の基準が、「平均的な利用者にとって十分に安全」というふうにすり替えられていたように思われる。
ひとつには、平均的な利用者以外はほとんど目に見えなかったこともあるし、また一方では、従来の建物のつくられ方が歴史的検証に耐えて、その程度の安全を十分に確保していると考えられていたからでもある。
ところが実際には、建物のつくられ方が近年急速に変化し、高度な技術が持ち込まれるにつれ、往々にして安全の本質が見失われてしまうようになった。常識的に考えれば自然につけられるはずのものが、「法規に書いてないから」という理由でつけられなかったりするようになったのだ。階段に手すりがなかったり、複数ある非常階段の配置場所がバランスが悪かったりというのは、すべてこうしたことのためだ。
これには、わが国の建築ならびに消防法規が、あるべき「かたち」を事細かに仕様で規定する性格を持っていて、本質的にどうなければならないかという「性能」を明確に記述していないところにも原因がある。したがって、「在館者(居住者)の生命が危険にさらされてはならない」というのがもっとも基本的な要件であるということすら、設計者が十分理解していないようにみえる建物がつくられてしまうのだ。
何しろ、日常時のバリアフリー要件にしても、法規にならないと施主を説得できないという体たらくだから、火災安全の面でも規制項目さえクリアすればいいと決め込んで、書いてないことはすすんでやろうとしないし、施主も当然同じ発想をする。
それを是正してほんとうに安全な建物をつくるように誘導すべき建築・消防当局の側でも、規定に合致しているかどうかがほとんど唯一の判断の拠り所になることが大多数である。
「建物は通常利用するような人々の安全を十分確保するように設計され、管理運営されなければならない」とだけ決めるとどうなるだろうか。その答えの手がかりが、イギリスの最近の考え方にうかがえる。
数年前につくられた指針で、障害者にとっても最低限の火災安全を確保するためには、ある階の平面を完全に二つに区切れるようにすればいいと記されている。逃げるよりも、救助されるまでの間の安全な場所を確保するという考え方だ。その区切り方が火と煙を完全にシャットアウトするものであれば、片方で火災が起きても、もう一方は安全ということになる。
仮想的にみると、まったく独立な建物を壁を共有するようにつくって、その壁にドアを設けたということである。平面の区切り方次第で、比較的柔軟に応用がきく。その片方をどんどん小さくしていけば、付属するロビーを持つ非常階段という極限になるはずだ。ADAにもとづく一時待機場所の考え方と同じだ。
こうした発想は、実はわが国でもないわけではない。避難が実質上不可能な病院の集中治療室などでは、他の部分の火災から防火・防煙区画で守り、篭城する方式を以前から設計している例が多い。電源系統などを独立にしておけば、これはいわばまったく独立した建物ととらえることができ、十分な安全性を持っている。逆に、仮にその部分が火災に脅かされている場合には、水平に移動して別の区画に避難するという選択が可能なわけだ。
もともと、非常階段を利用して避難するという発想は、階段をふつうの速度で歩いて降りられる在館者のみを前提にしている。今問われているのは、まさしくその常識なのだ。
10 「イグレシビリティ」への道
一九九五年四月の末にアメリカで開かれた「エレベーター、火災、そしてアクセシビリティ」と題したシンポジウムに参加した。これは四年前に開催されたものの第二回目であるが、筆者が実際に参加するのは初めて。この四年間に、ADAの思想が普及したことから、避難の問題はごく当たり前に語られるようになっている。避難安全に関してADAが義務として求めているのは新築の建物だけだが、できればそれ以上を考えておきたいのは当然の成り行きだ。
とくにアクセシビリティが確保された結果として、エレベーターで建物に入ることが容易になれば、そうやって入ってきた人の生命の安全をどうして守るべきか、エレベーターメーカーの立場では無関心ではいられない。
そこで、前回同様今回の会議も、エレベーターの基準をつくっている米国機械学会が主催したわけだ。筆者も、わが国の考え方といくつかの設計例を紹介した。余談になるが、ここで「イグレシビリティ」という新語を提案してみた。アクセシビリティに対して、障害者などの避難安全性を意味することばとして、論文でつかった。辞書にはないが、ちゃんと韻を踏んでいる。この提案は幸いにも好感をもって迎えられたので、運がよければイグレシビリティという単語は市民権を獲得するかも知れない。
さて、今回の会議の議論は、前回の到達点から考えると飛躍的な発展というわけにはいかなかった。しかし、技術的には問題点をひとつずつ検討しながら着実に進展していて、何より社会的なすそ野の広がりを実感した。
また、建物のオーナーや管理者の意識も少しずつだが進んでいるようだ。アメリカはわが国よりはずっと車いす障害者が社会参加しているという事実も、そうした対応が求められる背景として考えられる。とくにエレベーターに議論の主点をしぼらない論文も、今回発表されたなかには交じっており、こうした議論や動きの積み重ねが、社会的認識を上からだけでなく草の根からも変えていくのにあずかっていると思われた。
とりまとめの時間になったとき、ある参加者が、「今やビルの垂直交通はほとんどエレベーターのみといってもいいのだから、全く階段なしで処理するという究極から逆に発想してもいいのではないか」と発言したのはなかなか刺激的で、なるほどと思わせた。
ひるがえってわが国はとみると、一九九四年秋に施行されたハートビル法では、アクセシビリティのみを求め、イグレシビリティには言及していない。しかも、建築基準法とは違って従うのが義務ではないこともあり、まだ関係者にも十分伝わっていないようだ。それでも、講習会や研究会では必ずといっていいほど避難安全に関する質問が出されるらしい。
アクセシビリティも不十分な段階で、イグレシビリティを要求するのはとても無理というのが行政側の判断だろうが、法律をつくるときに安全の思想に言及していないのは、客観的にみればやはり片手落ちというべきだ。しかし、現実にはそこまで到達するのは、やはり容易ではないのだろう。機をとらえて地道に訴えつづけていきたいと思う。
アメリカの最近の動きでは、ADAのガイドラインであるADAAGの一時待機場所の要件をスプリンクラーのある新築建物にまで広げるのは、一九九六年半ばの時点にあっても成功しておらず、見直しの提案は拒絶されたということだ。
ただし、エレベーターを避難手段として使うことについては、飛行場の管制塔に限っては認めるように規定改正がなされたようだ。たぶん、車いすを使っている航空管制官が現にいるのだろうが、これがこの問題の今後の突破口になるだろう。
11 車社会の発想の転換
筆者は一九九五年から新たに、研究所のあるつくば市近くの自治体の「人にやさしいまちづくり」の議論にかかわっているが、ここでは、あらかじめこの街でのバリアフリー上の問題点を洗い出しておこうということから、市の職員が高齢者や障害者と一緒に中心商店街を歩いて、要所要所で問題点を指摘してもらっていた。
歩きにくいとか、雨の時は滑りやすいとか、さまざまな意見が出たが、いかにも現代的だなという印象がするのは、車で来て用事をすまそうとする場合に、うまくいかないという指摘があったことだ。ここは古くからの街で、場所によっては伝統的な建物も残っているが、そのかわりに道路は狭く、駐車スペースはなかなか見つけにくい。
いきおい、車を足代わりにしている人は郊外型のショッピングセンターに出かける。そこは、駐車場が完備しているし、建物も新しくて車いす対応も怠りないからだ。
こうして客足が遠のくことは、商業関係者にとっては大問題である。昔は徒歩範囲と、バスや鉄道を利用する商圏が主だったから、商店街に駐車スペースはあまり必要なかったのだが、今では地方都市やその近郊では車が一家に二台、三台あるのはざら。今日において車を使うなということでは、高齢者や障害者にやさしいまちとはとても言えない。
だからといって、今さら駐車スペースを十分確保するのは困難だ。このような場合、外国では、街の中心部を歩行者天国にして車を閉め出し、周りに駐車させているケースがあるのが参考になるかも知れない。特に伝統的な街並みがある都市でよくみられる。
路線バスだけが通行でき、ほかの車は行き止まりになってしまうような専用レーンを設けることで、車を近づけず、渋滞を解消するしかけになっている。場所によっては障害者の車だけは通行を認めているようだ。また、店舗などへの物品の搬入は、基本的に早朝と夜遅い時間のみ貨物車の進入を認めており、それ以外は手押し車などによることになっている。
こういう仕組みにすれば、歩行者天国の部分はバリアフリーにするのが比較的たやすい。自動車と競合しないから、歩道と車道の段差が不要になり、車を通す幅を確保するために歩道をせばめることもない。日本では、屋根を掛けたアーケードなどはこのイメージに近い。
足を確保するためには、駐車場との連絡をバリアフリーを念頭に置いて計画すれば使いやすくできる。場所があれば、隣接して建てた駐車場ビルからエレベーターなどで移動できるし、離れたところであれば、連絡バスをバリアフリーのデザインにするという手もある。建築物の細かな基準を決めるだけでなく、「移動」を大きくとらえた発想の転換も必要だろう。
V 高齢社会とユニバーサルデザイン
1 「すべての人」のための設計指針
先日ある雑誌に頼まれて原稿を書いた。そこに、たぶんこの号の中では、私の原稿がもっとも即物的だろうと書いた。それは「老人と共に暮らす」という特集号だったし、他の執筆者の名前を見ても、コミュニティなど人と人とのつながりを大事にしようと書かれることが予想でき、それに比べて筆者のものは「長寿社会対応住宅設計指針」の具体的な紹介だったからである。
ところが、できあがってきた雑誌を読んでいて何となく不愉快になった。それは、他の著者たちの何人かが、「手すりと段差解消だけではどうしようもない、もっと人と人とのやわらかい関係を」と頻繁に言及するからである。
「設計指針」が即物的であることは認めているから、そういわれること自体はどうということはないし、やわらかな関係も確かに必要だろう。しかし何か引っかかるのだ。
ちょっと考えて謎が解けた。どうやら大きな誤解があったのだ。「段差と手すり」を非難するところに、「高齢者の住宅で」という限定句がついているからだ。
筆者は、指針を高齢者住宅のためにつくったつもりは毛頭ない。「すべての人の」安全と使い勝手を考えて提案したものだからだ。高齢者にとって段差と手すりが問題なのは当然だが、それだけで十分とは一言もいっていない。むしろすべてはそこから始まるという認識なのだ。
それを、これらの執筆者は勝手に「高齢者用住宅」だけのためと思い込んで非難しているといった風情なのだ。
ごく最近まで、マスコミが伝えていたのは、寝たきり、車いす、あるいは痴呆という問題を抱えた高齢者像ばかりであったから、「長寿社会対応住宅設計指針」が高齢者用住宅設計指針と間違えられて受け取られても無理ないかもしれない。また、むしろこうした執筆者のように高齢者の専門家と自称している人たちは、そもそも「高齢者」に向けて発信することで自らの地歩を築いてきたのだから、すでに「高齢者向け」の発想しかできなくなっているということもあろう。
長寿社会対応住宅設計指針をまとめる段階で、「手すりと段差解消」だけではどうしようもないという意見は、障害者向けなどの特殊な設計を専門とする人からも多く出されたもの。しかも一方で、高齢者の居住問題を研究している人からは、設計なんかで問題は解決しないとけちをつけられた。
前者は、基本的に個別解でしかない設計者の発想だから十分予想できていたが、後者は日本の高齢化の前例のなさを甘く見ている、いわば牧歌的のどかさの抜けきらない見解で、これまた説得に苦労し、議論を最終的に「長寿社会対応」に集約するのは大変だったことを思い出す。かえって「専門家」のほうが頭の切り替えがむずかしいのかも知れない。
バリアフリー、長寿社会対応、高齢化対応という言葉は一般にもよく使われるようになってきたが、さて、どこまでその内容が理解されているのかと、気がかりに思えてきた。
2 性能か仕様か
少し専門的な話になるが、設計に対する制約条件のあり方、なにを「必要」とすべきかが最近頻繁に議論される。
なぜ問題になるかというと、一方では設計者の自由度をなるべく制約すべきではないという主張があり、他方では一定の水準を確保させるには事細かに決めておかなければうまくいかないとする主張があるからである。前者は設計者・建築家などの、後者は研究者や行政担当者の見解とほぼ相場が決まっている。
世界的に見れば、規制に対する全体的な流れは自由化の方向にあり、「性能」を満たせばよいとする考え方が主流だといえる。
建築物の例でいえば、地震や火災で壊れるときに、最終的に居住者に危害を加えないという条件さえ満足させれば、その要件を満たすための手段については深くは問わないという立場である。
「性能」を満足させるやり方はさまざまあって、標準的・伝統的なやり方というものは考えられるが、技術の進展はそれ以外の多くの可能性を同時に示しているということである。
ところが、バリアフリーに関しては、「性能」を満たせばいいという立場を厳密に取る人は多くない。時代の流れに反して、「仕様」で細かな取り決めを規定しておきたいという主張のほうが大勢を占めるといって間違いない。なぜなのだろうか。
それにはさまざまな理由が考えられる。まず、設計実務の立場からは、設計時に考慮すべき事項が多すぎて、むしろ具体的な寸法条件など「仕様」がはっきり提示されていたほうが、機械的に処理でき、あれこれ考える必要がないのでめんどうがないという場合が少なくない。
「性能」を考えるといっても、バリアフリーに関する専門教育を受けておらず、また、実社会で再教育を受ける時間が取れなくて知識を得ることができないという事情もある。
一方、バリアフリーの専門家は、結果としての設計ミスの実例をたくさんみており、最低限の要件をクリヤーさせるには、「性能」ではなく「仕様」で提示することがよりよい選択であることを経験的に知っている。このようなことから、どうしても仕様条件を提示することになってしまうのである。
この方面の能力があると見込まれて設計を依頼されたデザイナーでありながら、致命的なミスを犯した例は少なくない。ある高齢者専用住宅において、トイレにL型手すりを付けるに際して、設置方向を間違えたものを見たことがある。その住宅の説明パンフレットには、その部分のイラストと写真が併記され、みごとに違ったままほとんどだれも気がつかなかった。情けないが、これが現場の実情だろう。
では仕様で規定すれば問題が解決するかというと、実はさほど簡単ではない。最大の理由は、個人ごとに要求が異なる場合が少なくないことである。典型的なのは、例えば手すりの高さである。これは、厳密に使いやすさを追求しようとすると、個人の身長・手の長さに大きく依存し、ほかに設置の目的などによってもかなり条件が変わってくる。標準的な仕様では、ここをあまり厳密に定めることはできない。許容範囲の広いものはあり得るが、万能ではない。
結果としてみると、「性能」を基本として要求し、それを満たす例が「仕様」で示されるという仕組みになっているのがうまくいくようである。
一九八五年に英国の建築法規が改正されたのは、まさにそれをめざしてだった。あとの裁量を認めることは、設計者の創意を生かせるだけでなく利用者の立場に立つうえでも重要なことだと認識する必要がある。
ひるがえってわが国の建築基準関連法規はといえば、「性能」に委ねてしかるべきところも「仕様」で金縛り状態。しかも、仕様としてもバリアフリー条件は要求されていない。ハートビル法はできたが、これは義務要件ではなく、その意味では不十分である。
設計に対する制約条件のあり方については、設計者の自由をどの程度認めるかといった議論とすり替えられがちだが、建築物は芸術作品ではない。原点に帰って、利用者の立場に立った議論が必要ではないだろうか。
3 設計者と「リフォームマニュアル」
一九九二年初夏のことだが、筆者も参加して作成した「高齢化対応住宅リフォームマニュアル」に対する批判報告が出て、一部の新聞にも取りあげられた。
取り寄せて目をとおしてみたが、批判点は「木を見て森を見ない」内容。改めて設計者の不勉強にため息をついた。この場を借りて批判への回答をすることは、「設計者」の立場を浮き彫りにするとともに、もう一度「リフォームマニュアル」の内容を再認識してもらえるチャンスであると思った。
新聞の記事のあと、マニュアルの執筆者のうちのひとりと顔を合わせたときに期せずして出た言葉は、「設計者ってのは不勉強で身勝手だね」ということだった。なぜか。「リフォームマニュアル」には、その目的と限界が記述してある。多くの「批判」の内容は、その前提を読まずに書いたとしか思えないものだった。
リフォームマニュアルは、一九八七年から九二年まで五年間継続した建設省の「長寿社会プロジェクト」の終了を待たずに、先行して別途企画・作成されたものであるが、それでも一九八九、九〇年当時において利用できた情報・知見を基本的に盛り込んでおり、現在でもそれほど修正を要するとは考えていない。
ここで再度強調しておきたい。リフォームマニュアルの本来のねらいは自立生活、そのために段差解消と手すり設置が要請されている。段差解消は車いす用ではなく、転倒事故防止である。なぜなら、それは寝たきり・車いす・痴呆へのプレリュードだから。
批判を見て気がつくことは、指摘内容の多くが実は、当初の住宅設計のまずさ、あるいは無思慮から出てきているもので、その責任はむしろ設計者自身が負うべきものであるということである。リフォームマニュアルは、ある意味ではその問題の尻拭いをしなければならない時のためのガイドで、万能の特効薬ではない。
設計者は誰のほうを向いて仕事をしていたのだろう。グラビア建築雑誌の編集者? また、その住宅の寿命を何年と見積もって設計しているのだろうか。そのとき、居住者も高齢化するという視点はあったのだろうか。批判をまとめた建築士の方々にもぜひ自分のこれまでの仕事を振り返ってほしい。
高齢化を見越して設計するのが本来の姿であるはずなのに、施主の認識が薄いのをいいことに安易に住宅設計をし、さまざまな罠を住宅に仕込んだのは、さて誰だろうか。
手すりのない階段、無造作な段差の連続、曲がりくねった狭い廊下、目に見えないほど小さかったり、デザイン優先の使いにくい建築金物など、居住者を無視し、時代の変化を読まなかった設計者の虫のいい要求に、そう簡単な答えは出ない。
また、鉄筋コンクリート集合住宅の改修の情報がないと指摘があったが、基本的には狭小でバリアだらけの住戸では、「手すりをおつけなさい」「建築金物を使いやすいものに取り替えなさい」という以外は、ほとんど手の打ちようがない。
とくに床スラブをコンクリートで水平に打って、その上に配管をころがした住戸は、室内段差解消はほとんど無理、極めつけの不良ストックであるということも、この際ぜひ知っておいてもらいたい。
もう一つ、住宅を完全にバリアフリー改修してしまうとかえって刺激がないから、住宅の中も適度(?)に不便にしておくべきだという意見が複数の設計者から出されているようだが、住まいから一歩外に出ればいくらでも不便・危険な場所がある。
住宅の中で「リハビリ訓練」を強制するのは、介助の手が有り余っているという幻想に過ぎない。人口のわずか五%が六五歳以上で同居率も高かった時代には有効かも知れないが、平均寿命八〇歳になろうという社会に適用しようというのは無謀だろう。
さらに、批判の中でいろいろソフトな面(設計のディテールなどではなく、住まい方などの考え方)での対応などについての記述がないといわれているが、そのようなことはむしろ設計者が居住者と相談しながら知恵をしぼってつくりあげていくもの。マニュアルに書いてなければならないものでは決してない。そこまでマニュアルに頼るのであれば、設計者はいったい何が仕事なのだろう。
最初にも述べたように、リフォームマニュアルは、本来は対症療法が必要になる前の予防疫学の発想の普及を目指したものである。一〇年以上前、日常安全性と建築人間工学の研究をしていたとき、そんな研究は必要ないと公言した研究者や設計者は多かった。高齢者のために、より安全な住宅を提供するにはどうすべきかをテーマにして研究費を申請したりしたときも、特別養護老人ホームの研究や寝たきりの研究にばかり金は流れ、住宅の水準を向上させるための研究にはまわってこなかった。
今になって世の中が求めているのは、当時切り捨てられた研究の積み重ねにほかならないのは、実に皮肉といえようか。
4 利用者の立場から設計を
三年ほど前、ある委員会が終わってエレベーターに乗ったときに、肝腎の行先ボタンがほとんど読めず、どこを押したらいいか判断できないくらいだったので、カバンの中からカメラを取り出して写真を撮り始めたら、委員会で同席していた建築家に「なぜ写真を撮るのか」」と聞かれた。
「ごらんになればすぐわかるように、われわれですら押すべきボタンがほとんど見えないでしょう。これでは高齢者にはとても無理でしょう」と指摘したら、「なるほど、研究者は建築家とは違いますね。われわれ建築家は、いい建物、いいデザインだと思ったときに写真を撮るけれど、悪いときには写真を撮らない」という答えだった。
このエレベーターボタンは、本当にうす暗い色のもので、押して緑色のランプがつくまでは、どのボタンを押せばいいのかまったくわからない。もちろんボタンが悪いのは困るが、筆者はむしろ、建築家が使い勝手のよしあしにかかわるデザインのミスについて無頓着なのにびっくりしたのだ。
一般に建築家は、自己満足のために建築を設計するのではない。施主のために設計し、最終的には利用者のために設計しているはずだ。ところが、その利用者に不便をもたらしている設計ミスを見ても格別の感想を抱かないことを知らされると、職能の責任をさほど自覚していないのではないか、絶えざる努力を怠っているのではないかと疑わざるを得ない。
建築家は、往々にしてデザインに自らの思いを優先させがちだが、アメリカにおいては二五年ほど前に、建築家が利用者の存在を必ずしも第一に置かず、結果として利用者は多大な不利益を被っていることに対して強い疑問が出され、研究者が学会を組織して、建築などの設計に対する評価手法を確立することをめざした。
その中で特筆すべきなのは、ポスト・オキュパンシー・エバリュエーション(POE)、利用者が建物を使用し始めて後の使い勝手の評価を行う手法が組み立てられていったことであろう。これは、単に見栄えのみで判断されがちな建築を、利用者からの意見を取り入れて体系的に評価しようとするものである。
このPOEがもっとも有効に機能するのは、同一の建築家がほぼ同じ目的を持つ建物を引き続いて設計する場合である。
自らの設計がどういう観点から有効であり、一方どういった点で失敗であったかを、利用者からのフィードバックを得て、当初の意図と比較しながら具体的に検討することで、よりよい建物をつくりあげるための経験が蓄積されていくわけである。
建築家が同一でなくても、同一目的の建物であればいいともいえようし、場合によっては同一機能の部分だけの比較ということもあり得よう。いずれにせよ、過去の経験を、成功と失敗とを含めて新しい建物に生かすというのがPOEの本質なのである。
これは、建築家の意図にはかかわりなく、設計ミスをえぐり出すという点で、建築家に手きびしい。
残念ながらわが国では、この手法は十分活用されていない。同一の建築家が引き続いて同種の建物を設計する機会がさほど多くないことが一つ、他人の設計した建物を含めて以前のまずかった点を他山の石とする謙虚さが欠けていること、あるいは第三者の立場で採点するという公正無私なやり方が一般的ではないことが、もう一つの問題であろう。
とくに、たとえ知人でもだめなことはだめと明確に指摘するのをためらうといった、日本人特有の性格に依存する部分もあるように思われる。
また、日本では、POEに類似した多くの研究が、その成果をいかに現実の場面に応用するかという視点を欠いたまま実施されていることにも原因がある。
さらに、社会的影響力を行使することに慎重であるべきだという意見を述べる研究者が多く、そのことが設計者の恣意に歯止めをかけるのをためらうのにつながっている。
しかし、現実には利用者の立場に立って考えるという積極的意識が建築家に薄いのだから、ふつうの建築家にとってはこれまで無縁だったバリアフリーデザインを普及させるには、POEのような評価手法の活用が欠かせないはずだ。
5 通信情報技術は高齢者を支えられるか
一九九四年一月下旬に、東京で「高齢化対応住宅における情報技術の可能性」と銘打って、小さな国際会議を主催した。
予想を超える急速なわが国の高齢化によって、従来考えていたような人の援助による高齢者支援がとても機能しないだろうという時代が到来する。その時、技術的な手段がどの程度まで人の代わりを果たせるかを考えようというのが開催の趣旨だった。
高齢者のための緊急通報システムはわが国でも導入が進んでいる。しかし、虚弱な独居高齢者を念頭においてシステムが組み立てられ、さらには協力員として近隣に住む親戚や知人などを登録しておくことが要求されるのが一般的で、右を向いても左を見ても高齢者ばかりという可能性を考えているとはいえない。
高齢化先進国のスウェーデン、デンマーク、イギリス、フランスといった国々、そしてそれらを含めたヨーロッパ連合のこの分野での動きはどうなのか、あっという間にわが国よりもずっと出生率が低くなってしまったイタリア、そしてもう一方の潜在的な高齢者大国であるカナダとアメリカでは現状は、といった点の情報を提供し合い、ある国での過去の苦い経験を繰り返さないためにはどうすればいいかを学ぶのがねらいだった。
参加した専門家からは各国での高齢化の状況と、緊急通報システムの運用を始めとする通信情報技術が、高齢者にどのように受け入れられているかの報告が行われた。
特徴的だったのは、参加者が純粋な技術者ではなく、かといって毎日高齢者のケアに携わっている実務者でもない、むしろ行政官と研究者との両面を備えた立場の人々が多かったことで、客観的な議論が交わされた。
いちばん悲観的な立場からの論を展開したのは、スウェーデンとイギリスの参加者であった。スウェーデンから参加したスヴェン・ティーベリ教授は、通信情報技術そのものが軍事技術から生み出されたものであって、効率的に人を殺すためのものであったこと、したがって、無批判に導入すれば高齢者を疎外するのは半ば必然的であることを忘れるべきではないと指摘した。
一方、英国のビル・マレー講師は、地方自治体において長年公的住宅管理に携わったという現場経験を踏まえて、緊急通報システム導入のそもそもの由来が福祉予算とスタッフの不足にあること、周りが期待したようには機能しないことなどを、英国での調査結果を交えて報告した。
もう少し前向きな立場をとる専門家も、そういった点に代表される問題点を無視しているわけではないことを、ほぼ異口同音に述べた。特に新技術の開発に走ることが、往々にして肝腎の利用者を置き去りにする結果となっている日本にとっては、耳の痛い指摘であろう。
もし、問題の発生を防ごうとすれば、だいたい次のような点が必須だろうということで、まとめがなされた。
まず、当事者である高齢者が開発と評価の過程で参加すべきであり、当事者を抜きにしたあてがいの技術は使えるものにはならない。次いで、通信情報技術を使いたくないという選択の自由が保証されなければならない。さらに、技術が人やグループを差別するために用いられてはならない。実はこれは、たとえば「スマートカード」の発行に際して現実に起こりつつあることで、きわめて重大な問題である。
最後に、技術は特定の人々に向けて開発されるのでなく、すべての人に使えるように開発されるべきである。それによって技術の一般性が保証され、また、コストも格段に下がる。
われわれがいずれ迎えようとしているのは、特殊な機器を購入するための費用がどこからも出ないきびしい経済の社会なのだ。
ある参加者があげたのは、緊急通報のペンダントよりは携帯電話のほうがほしいと答えた高齢者の例である。確かにこれは一般技術であって高齢者専用でなく、便利で安価である。こうした視点がもっと強調されるならば、実際に手にはいる技術手段は、ずっと使いやすいものとなるだろう。
もっとも、小さくすることばかりを競っている日本の状況では、ボタンの押しやすさなどをデザインのうえで十分チェックしなければ、高齢者にも使いやすい製品であることは保証されないが。
6 デザインと技術の逆立ちした発想
一九九五年三月下旬に、イタリアのボローニャで小さな会議に出席した。テーマは「高齢者・障害者と住宅・支援技術」。できるだけ自立した生活を送るための方策を考えようというものだった。一九九四年一月に日本で行った会合の第二回目である。
主催国のイタリアのほか、イギリス、フランス、スウェーデン、デンマーク、アイルランド、ノルウェー、アメリカ、カナダ、そして日本からの参加者がそれぞれ現状を報告したり新たな提案を行い、今後のあるべき姿を議論した。
浮かび上がった論点は、基本的に前回と同一であった。人口構成の変化、在宅ケアへの流れ、といった問題は先進国どこでも共通であるにもかかわらず、バリアフリーデザインが重視されていないこと、このために使いにくいだけでなく日常安全性が確保されていないなど、高齢者や障害者が不適切なデザインの被害者になっていることが異口同音に指摘された。
しかし、一方で、研究者や技術者がいかに技術開発を行おうとも、その成果が利用者が真に望むものであると決めてかかることはできず、居住者側にはその利用を拒否する権利が残されるべきであることも強調された。たとえそれがいいものであっても、権力主義的に上から押しつけられるべきものではない。
しかし現実には、十分に情報が公開されず、押しつける側がいいと思いこんでいるだけということも少なくない。それは、研究や技術開発が倫理的にどうあるべきかという問いかけを引き起こすのだ。
たぶんこれは、その問題を自身に関わることとしてとらえるところから始めなければならないのだろう。その意味では、障害だけでなく高齢化という話題が一般的になったのは幸いである。
なぜなら、同世代として生まれたうちで、六五歳に達する前に死ぬのは全体の二割にすぎないのだから、ほとんど誰でも高齢期を経験するわけで、それは他人の問題ではなく自分自身の将来の問題だからだ。それが理解されれば、誰でも無関心ではいられまい。
このほかには、統合か分離か、さらにはデザインと技術とケアの関係をどう解決すべきかの課題も提起された。ある参加者が指摘したように、「まずよいデザインの建物をつくってから、技術(支援技術)のことを考えよう」というのが、最初に宣言されるべきことなのだろう。たしかに、これまでの多くの提案をみると、悪いデザインの建物を当然の前提として、高度な技術で不都合を解消しようという逆立ちした発想が支配的だったようだ。これは利用者の立場に立ったものではない。
最初に処理しておけば問題がまったく生じないものを、無思慮につくると大きな障害になり、それを前提とした解決技術を目指すというきわめて視野の狭いアプローチの結果が、これまで提案された高度技術の正体だったのではなかろうか。
圧倒的多数の居住者に不都合をもたらしているのは、そんな高尚な問題ではない、もっと水準の低い技術ですむことなのだ。
その証拠に、高度技術を持ち込んだデンマークの未来志向デモンストレーション住宅は、一般的なバリアフリーデザインの水準にも達しないお粗末なものだという指摘がなされたくらいだ。それが日本でなくデンマークの例だというところに、現在の技術の立脚点の危うさが見られると思う。
7 誰にでも安全な階段を
階段でちょっと踏み外した、あるいはつまずいたといったことで落ちた経験を持っている人も少なくないだろう。この階段から転落する事故というのは、ほんとうはどのくらいあるとお考えだろうか。
われわれがふだん新聞などで目にするのは交通事故や火災の記事ばかりなので、それらが事故としていちばん多いものだと思いがちである。
しかし、事実はそうではない。自動車交通事故による死者は確かに多い。だが、日常災害と呼ばれるもの、つまずいたり、転んだりという事故による死者が交通事故に次いで多く、しかも、ケガ人を含めれば交通事故よりもずっと多いことは、あまり知られていない。
なかでも、階段転落事故は日常災害の中では件数も多く、死亡だけでなくケガの面からみても重要な事故種類ということができる。統計を見てみると、階段転落による死者数は、年間約五〇〇人から六〇〇人程度、そのうちの六割ほどは住宅での事故となっている。その被害者の半数ほどが高齢者である。
かなり以前、住宅における日常災害事故を調査したことがあるが、階段での転落事故は、重度なケガから軽微なケガまで、まんべんなく発生している。日本人全体の発生数で見ると、死亡が年間数百人、医者などの手を煩わす程度のケガが五万人、もっと軽いケガは年間九〇〇万人程度と見積もった。これは非常に多い数である。
一方、一九九〇年に行った高齢者と住まいに関する調査で、階段利用について聞いたところ、住宅の中で階段を使うのがつらいという回答が、高齢者とより若い世代とではほとんど差がないという不思議な結果が得られた。高齢者でもそんなにやすやすと階段を使えるのだろうか。
これは、実際の使用頻度と照らし合わせてみて謎が解けた。高齢者は、歩行能力が衰えるにつれて住宅にある階段を次第に使わなくなり、杖・手すりに頼るくらいになると、三分の二の人がほとんど使っていない。使わないから苦痛に感じることがないので、アンケートに答えが出なかったのである。
これはまさに、「高齢者の居室は一階にするように」という住宅金融公庫の融資にあたっての「高齢者配慮」の指導と符合している。しかし、現在の住宅事情で日当たりなどを総合的に考えれば、湿っぽい一階の部屋が高齢者に適しているとは限らない。
もともと狭いスペースに階段を無理やり突っ込もうとするため、わが国ではきつい階段がつくられることが多い。「高齢者は論外、若い成人居住者だけが使えればいい」という設計者の安易な判断が、それに輪をかけているともいえる。
しかし、階段事故の発生自体は、高齢者のみに多いわけではない。死亡につながらずにケガでとどまった事故を含めれば、より若い世代の事故の割合はずっと多い。勾配のきつい階段は、誰にとっても「悪い」デザインであり、階段をより安全に使いやすくという点で、高齢者と若い世代の利害は一致している。
諸外国に比べると、日本では階段に関する規定が一般に甘く、利用者の視点からは当然あるべき手すりが、いまだになくても許されているなど、かなり不備である。しかし、これからの高齢社会では、この点は変えていくべきであろう。いまや「長寿社会対応住宅設計指針」では手すりは必須になっているし、また住宅金融公庫の基準金利融資も、それを受けるなど、よりよい階段の方向を目指している。
8 キッチンの高齢化対応
加齢に伴って体力が低下したり、多少の障害を持っても安全で使いやすい、いわゆる高齢化対応の住宅設備には、すでに浴室ユニットがあり、ベターリビングが認定しているが、一九九六年に行われた、キッチンを新たに認定対象にするための議論に筆者も参加した。
いろいろな意見が出たが、とりあえず「必要に応じて作業台高さを変えられること」「いすやスツールに腰掛けて使えるようにすること」など、いくつかの条件を満足させるものを認定してみようということになった。その誘いに応じて、複数のメーカーがそれぞれの考えにそって商品を申請してきた。売れるためにはコストアップをできるだけ伴わないという条件がつくので、考えられる選択範囲は狭く、メーカーも苦労しているようだ。
その中でかなり思い切ったデザインは、流し台のシンクをできるだけ浅くするとともに、座って作業しやすいように下部を完全に開放にしたもの。収納がなくては困るという場合のためにキャスター付きのワゴンを使うか、あるいは棚板と扉を取りつけるという選択肢を用意している。
このデザインはすでに実際の高齢者住宅で採用済みで、申請されたものはそこでの使い勝手を見てさらに改良したという。これは従来の使い方から思い切った発想の転換をユーザーに強いるものでもある。こうした提案は現実にはなかなか受け入れられにくいことを個人的にも痛感しているだけに、今回の申請のデザインを評価したい。
なぜ新たな提案が受け入れられないのかというと、それは使い続けてきた台所の形状や使い勝手がいいものだ、ほかのデザインはいやだという先入観を、なかなか打ち破れないからだ。そうした理由には納得できるものもあるし、実際には意味がないものもある。
たとえば、先ほどキッチンキャビネットの下部を開放したつくりでは、下部に収納を設けないと、ものが納まらずにあふれると必ず文句をいわれる。なければないでほかの方法を考え出せばいいというふうにはならない。
一方、深めのシンクをほしがる人に、なぜ深めがいいのかと質問すると、汚れた食器をたくさん置けるから、あるいはスイカを冷やせるから、さらには浅いと水が周りに飛び散るからという理由が挙げられた。しかし、これらの理由はいずれも絶対のものではない。むしろ使うほうからいえば、シンクが浅いほうが実際には使い勝手がいいものだが、時として文化や慣習は合理性など意に介しない。
台所に関しては、「しゃもじ」を持っている人の意見が絶対だ。味付けをめぐっての嫁姑の争いがまれではないように、こと台所に関しては女性陣は案外保守的だ。
もっとも、数年前は外国製の数百万円もするシステムキッチンがけっこう売れたし、伝統的な魚焼きのためのグリル付きのガス台よりも外国風のたくさんコンロがあるタイプが普及しつつあり、絡め手から攻めれば意外に簡単にものごとが変わる可能性もなきにしもあらずだが。
9 ユニバーサルデザイン
二年ほど前になるが、あるところで、高齢者には使いやすいが他の人にはだめな建築部品があるのでは、といわれた。いまだに高齢者対応イコール車いす使用という思い込みが一般的なのかと、愕然とした。しかも、その発言をした人は、この分野をある程度知っているはずの人なのだ。
確かに、しばらく前のように車いす障害者対応のデザインが主な検討対象だったころは、車いすに座った状態で使えるという条件が最優先されたので、それ以外の人には不便というデザインがなされたことがたびたびあった。有名なのは、洗面台の鏡を前傾させたために普通の背の高さの人が使えなくなったり、急勾配の階段はそのままにしてスロープを加えただけの結果、高齢者はどちらも使えなかったりという例である。
しかし、こうしたことが望ましい解決策でないことは次第に理解されるようになり、最近ではできるだけ双方を満足させるようなデザインがなされるようになった。
先の例でいうと、垂直に取付ける鏡をもっと大きくして、目の高さがどこであってもはずれないようにするのが正しい方法だし、スロープをつける場合でも、階段は勾配を緩くしてかつ手すりを付けるのが、どうしても必要なのだ。
これらの解決は多くの場合、若干の費用増加を伴うが、ものによっては最初のデザインから設計条件として織り込んでおけば、コストアップの要因にはならない場合もある。
しばらく前に、日本の企業各社もバリアフリーに向けて積極的に取り組もうとしており、それを紹介する本をまとめたところだ、と教わった。そのグループは、そうした新しい概念にもとづくものを「共用品」と名付けているということだ。これは、国際的には「ユニバーサルデザイン」と呼ばれているものにほぼ等しいと感じた。
ユニバーサルデザインは、今までのデザインが実際には若い人による若い人だけのためのものになっていたのに対する拒絶であり、さまざまな立場から評価していくことで、結果として使いにくさを排除しようとするものだ。電子レンジや電話の操作ボタンを大きくして、子どもや高齢者にも使いやすいようにしたものなどがその例だ。
アメリカではアメリカ障害者法(以下ADA)の成立以来、このことばが頻繁に使われていて、そのものずばりのタイトルの広報用のビデオもつくられている。
日本で出版されたその本によれば、わが国ではシャンプーとリンスの区別やヘッドホンの左右を識別する小さな突起など、視覚障害向けの取り組みが先行していることがわかる。
日本は、視覚障害者の社会参加は他の先進国とくらべても進んでいるし、高齢化は世界の先頭を切っているから、わが国が世界に貢献できるのは、視覚障害と高齢化を主たる観点にして使いにくさを減らすことだと筆者は思っている。ほかの視点は、残念ながらバリアフリー先進国にかなりおくれをとっているが。
高齢化対応は、従来の障害者対応がある単一の機能の欠落を前提にして、他の能力でそれを補おうとしていたのとは異なる。そもそも高齢者は、どの機能もそれぞれ少しずつ低下しているというのが大きな特徴だ。したがって、複数の可能性を持たせておくというのも一つの方法だ。こうした視点を具体的な製品にどう取り入れていくか、各メーカーの創意工夫が待たれるところだ。ただし、それが一社の占有特許で他社を排除するようでは困る。無料とはいわないが、正当な使用料で公開しなければ社会悪といわれよう。
10 カナダの高齢化・リハビリテーションセンター
一九九四年の春、機会があってカナダを訪れた。その際、ウィニペグにある高齢化・リハビリテーションセンターという名称を持つ組織を訪問した。そこでは、とくに次第に障害が出てくる高齢者の生活を支援するためのさまざまな製品が展示されていた。このセンターは、もともとはアイデアから製品を開発し、それを製造するためにつくられた。つまり、高齢者のための技術の可能性を現実にすると同時に、地元に雇用機会をつくり出すことをねらったもので、国と自治体が出資して設立された。設立後、一定期間が過ぎると民間に移行する約束になっている。
本来の目的である雇用機会の創出は、せっかく開発された製品をつくることができる製造業が地元になかったりして必ずしも思ったようにはいかないようだが、それでもいくつか新たな製品をつくり出し、それが展示会で優秀賞を受けるなど奮闘している。
ここのもう一つの機能が、高齢者の生活を支援するための製品展示である。自分のところで開発したものばかりでなく、市場に一般に出回っているものの中から選び出したものも含めて、使いやすい製品がショールームに並んでいた。
たとえばボタンが大きめにつくられた計算機や電話、電子レンジ(この電子レンジは日本のメーカーのものだった)、使い勝手を考えて棚が設定された冷蔵庫、クッションがやや硬めのソファなどの一般商品が選ばれて置かれている一方で、シャベルなどのハンドルを握りやすくするためのアタッチメントやベッド用の補助手すりなど、現在持っているものにつけられる補助部品が置かれていた。
ここに展示されるものの選択基準は、特別な商品ではなく、できるだけ当たり前に見えるものという点にあるように思われた。補助部品にも、よくあるようなおしつけがましさが見られない。
われわれが市場で購入する製品の多くは、若い健康な成人の利用を主として念頭に置いて設計され生産されている。残念ながら、これはほとんどの国でそうなってしまっている。北欧では若干は事情が違うが、それでもすべての製品が合格点というわけではない。
高齢者では、年齢とともに徐々に忍び寄る身体機能の低下によって、若い世代向けの製品が使いにくくなっている。しかし、これまではこうした高齢者の潜在的な需要に見合うような、使いやすさを十分考えた製品はほとんど存在しなかった。
もしあるとすれば、それは障害者向けと銘打ってあったりするが、他の国と同様にカナダでも、高齢者は障害者と同じグループに入れられることを嫌うので、受け入れられにくい。自分はまだ若いという思いもあって、なかなか切り替えがきかないこと、障害者向けに開発されたものは特別仕様という性格が前面に出ていることが多く、一般商品との価格差がひどく大きいことにもよる。
先ほども述べたように、このショールームで並んでいたのは、ほとんどがふつうの市販品、そしてふつうの市販品につけ加えるアタッチメントの部類なので、その気になれば「特別なもの」を用意するという意識なしに選択することが可能だという事実を消費者に示していた。
高齢者は現在でも、可処分所得では若い年齢層よりむしろずっと豊かな人も多い。自分の家があって、住宅ローンはもう払い終わっているのがふつうだ。急速な社会の高齢化によって、今後は数の上でも無視できないターゲットになろう。
いわば特殊解としての高齢化対応の発想だけでなく、すべての人にとって使いやすい製品の開発にわが国でも積極的に取り組むべきときだ。
使いにくいボタン類を使ったらJISと認めないという新たな基準などは、こうした動きを加速すると思われる。
(その後聞いたところでは、高齢化・リハビリテーションセンターは民間化がうまくいかず、閉鎖されたそうだ。カナダは経済状況が厳しいためもあろう。)
11 高齢者といすの機能
どんないすが「よいいす」と思うかと質問されたとき、深々と身体が沈みこむソファのことを考えた人は、健康そのもので何不自由ない人ではないだろうか。
確かに、座るように勧められたときには、贅沢なソファは立派だと思う。しかし、いざ座ったあとでは、身体が沈むようないすはあまり座り心地がよくないうえに、立ち上がろうとする際にはことのほか苦労するものである。それがなぜかともう一度考えてみれば、いすとしての機能を必ずしも満足していないからだということに気がつく。
いすの歴史の浅いわが国では、「いすの機能」に注目する人は、まだ少ないのではないだろうか。そこで、見栄えのよいふかふかのソファが一種のステイタスシンボルになり、応接セットという形で住宅に入ってきて居座ってしまっている。だが、そこに大きな落とし穴が潜んでいる。
柔らかないすは、座り心地がよさそうだが、身体を十分に支えてくれない。また、こんなソファにたまたま座ってしまった高齢者は、立ち上がるのにひどく苦労することになる。高齢者はいすから立ち上がるために肘掛けを利用して身体を支えることが多い。ところが沈み込むソファだと、肘掛けがちょうどいい高さになくて腕でつっぱれなかったり、あるいは脚の力を利用して反動で立ち上がろうにも、脚がいすの下に差し込めないなど、柔らかいソファは使い勝手から考えると、およそどうしようもない。
それに対して、クッションが硬めで、座面の高さが相対的に高いいすは、ソファにくらべると座り手を歓迎していないように思われるが、実際には非常に座りやすく、また立ち上がりやすい。それでも、体力、特に脚力が衰えてくると、立ち上がるのが大変になる。立ち上がりやすさは健康な人には軽視されがちだが、高齢者にとっては大切ないすの機能だ。
問題を解決する方法は、立ち上がる際に下から支えて押し上げることで、こうすれば力がなくても比較的に容易に立ち上がることができる。この機能を最初から組み込んだいすは、輸入が活発になっているだけでなく、国産品も徐々に増え始めており、日本でもよく見られるようになってきた。
前項で紹介したウィニペグの高齢化・リハビリテーションセンターには、最初からこうした機能が組み込まれている特別ないすだけでなく、基本的にどのいすでも使える簡単な補助具も展示されていた。
この補助具は、ちょっとしたバネが組み込まれている二つ折りの座布団のようなもので、それを座面に置けば、立ち上がるときにバネが高齢者の身体を下から支えるようになっている。座っているときは全体重がかかっていてバネはおとなしくしているが、立とうとして腰を浮かすと動き始める。
手持ちのいすにのせられるので、それがないと困る人を特別扱いせずにすむわけである。もちろん、この程度の支援では十分でなくなった高齢者には、特別なものが必要となるかも知れないが、そこに至る手前の段階ですんでしまう高齢者が圧倒的に多いことを考えれば、さりげなく生活を支えてくれる簡単な補助具の効用は実に大きいはずだ。
同じように座り込むトイレでも、洋式便座が低くて立ち上がりにくく、使いにくいという不満を持っている障害者や高齢者はたぶん少なくないと思われる。ただ、これはなかなか実態がつかめない。
なぜなら、排泄行為はそれこそプライベートなものであって、よほどのことがなければ他人がうかがい知ることができないからだ。これに対しては、あまり知られていないが、便座を高めにするための補助具という、非常に効果的なものもつくられている。
12 まちがえない工夫、まちがえても安全は原則
一九九三年の春、ある会議に参加するためにアメリカに出かけた。非常にあわただしい日程だったので、見たいと思っていたもののほとんどは見る機会を得られず、知人との話をする時間も十分とれなかった。
しかし、建物のバリアフリーを考えるうえで参考になりそうなことに気がついたので、それを紹介してみたい。
いちばん気になったのは建築金物の使い勝手である。泊まったホテルはいずれも最新のものではない。たぶん一〇年から二〇年くらいは経ったものだろう。ただし、いずれも「超」とはいえないが、高級ホテルである。
入り口ドアはカード錠に変わっているものがほとんどで、ドアノブではなくレバーになっていた。これは目につきやすいからであろう。しかし、中に入ると必ずしも変化が見えない部分がある。
たとえば、電気スタンドのスイッチなどは回して明滅させる形になっていたが、スイッチは小さなままで、ひどく使いにくいし、どこを操作するかも見やすくない。ADAによるアクセシビリティガイドラインでは、建物金物は規定しているが、建物に固定されていない電気器具などは規制していないこともその一因かも知れない。
洗面器の水栓についても問題があった。温水と冷水とが組になっているのはふつうだが、あるホテルでは左側の温水は左に回して出すのに対して、右側の冷水は右に回して出すようになっている。
レバーがついた水栓なら自然に手前に引くのでこれでいいのだが、あいにくごくふつうの丸いものなので、ちょっと経つとすぐ忘れてしまい、不便この上ない。冷水を出すときにどうしても左に回そうとしてしまうのである。イギリス婦人も、これは使いにくいと嘆いていた。閉めようとして、逆に熱湯が飛び出してしまうということには多分ならないだろうというのがわずかに救いもの。
ここではシャワーも少し古いタイプで、かなり大きなレバーを左に回すと、水が蛇口から出始め、もっと左に回していくと次第に温かくなり熱くなるというしかけ。ところが、サーモスタット式ではないので温水の温度が不安定だ。何かの加減でちょっと温度が高くなったので、少しぬるくしようとして何気なくレバーを動かしたのが大誤算、逆の方向に動かしてしまい、もっと熱くしてしまった。大した量ではなかったが背中に熱湯を浴び、少し赤くなった。
別のホテルでは、全体を引っ張りだして水を出す水栓がついており、微調整がしにくいものだった。使い慣れた人が使い慣れた自宅の蛇口を使っている間は、こうしたデザインでも大きな問題が起きないのだろう。しかし、旅に出れば話は別だ。
こういうことを考えていて、ADAで議論され、アクセシビリティガイドラインの作成に当たって議論になったことのひとつは、そもそも障害者がどのくらい旅行するのかということだったことを思いだした。
もちろん、これまでは車いすで旅行しようとすれば大変だから、あまり多くの人が出かけてはいない。その障害を取り除いたらどうなるかということが議論の焦点だった。
ホテル業界はできるだけ障害者の旅行の割合を低く見積もろうとし、障害者の意向を代弁した人々はそれに反論した。その経緯も、ガイドラインの公布に当たっての解説文には記録されている。
現実には、ちょうど両者の間をとるような割合でバリアフリー要件が求められている。これには、高齢者の割合が増えていくという点の認識も加えられている。
障害の種類を幅広くとらえれば、高齢者が増加することによって障害を持つ人の割合は急速に増加するのである。使い勝手や安全性への配慮はこれからますます重要だろう。
先にあげたことは、たまたま筆者がああいったタイプの水栓を使い慣れていない外国人であり、しかも建築人間工学の専門家だから問題として指摘したのであり、ふつうの人なら自分の使い方が悪かったですましてしまうかも知れない。しかし、これからはそうはいかないというのが筆者の見解だ。
高齢者や障害者も利用するという視点が入れば、こういう細かなところにも、フェイルセーフ(間違っても問題が起こらない)、フールプルーフ(間違えることがないように工夫されている)の原則ははずせない。
いずれにせよ、これからは改修の機会ごとにホテルは試練にさらされよう。特に高級ホテルは長くても数年ごとに改装を繰り返しており、その必要性は高そうだ。
日本の旅館業界団体の人からも、長寿対応バリアフリー設計に関する問い合わせがあり、その後、旅館やホテルの「シルバーマーク」が考えられたようだが、さてほんとうのところどうなるだろうか。
13 移動手段の一つ「車いす」
これからの長寿社会において、高齢者の使う車いすが従来の延長線上にあっていいのだろうか。建設省で実施した研究プロジェクト「長寿社会における居住環境向上技術の開発」で、高齢者に安全で使いやすい設計を考える際にしばしば議論になったのが、この点、車いすへの対応のしかたである。
実のところ、これまでの車いすの議論は、若くして障害者になった人のことをおもに念頭においてなされていた。移動障害者が車いすを使いこなすための、バリアフリーな空間と設備の議論が中心であった。
一方、高齢者は千差万別であると言われている。歩行(移動)の能力を考えると、高齢者が次第に衰えていく過程で、周りの状況によって、車いすを手段として選択する場面が出てくることまでは考えられよう。しかし、その人が住宅の中でも立てない、歩けないという場合がそれほど多いとは思えない。
仮に車いすを使っていてトイレに乗り移るとすると、かなりの腕の力が必要であり、それができるくらいなら、手すりと杖とで自宅の中を動けるのではないだろうか。寝たきりの人を移動させる場合には、車がついていて後ろから押せるいすが必要だろうし、健康でも、台所作業など、いすに座ってのほうが楽なことはいくらでもあるが、それが「車いす」でなければならない理由がない。
そう考えてみると、高齢者の車いすというのは、住宅の中での使用よりは、むしろ外に出るときの杖代わりであり、自分でならば電動、誰かが押してくれるなら手動ということになろう。
仮に、自宅の中でも車いすを使うとした場合、それは外出用をそのまま使うのだろうか、それとも「履き替える」のだろうか。外の汚れを持ち込まないために履き替えるのであれば、住宅内部の「車いす」は軽量でコンパクトな「キャスター付きのいす」でも十分まかなえる。屋外用の車いすは、急勾配でもバランスを崩しては困るが、住宅の中は完全に平らにすること(ほんとうのバリアフリー)が可能であり、「キャスター付きいす」で手すりをたぐって、あるいは床を蹴るなど、さまざまな移動方法がとれる。
では、自らの脚や腕の力を頼れず、電動でなければだめな高齢者ではどうか。「単に移動手段を考えるなら、子供のおもちゃの電池式汽車にまたがれば十分です」と喝破したのは、深い経験をお持ちで当時は中銀マンシオンに勤めていた人だった。けだし、名言であると思う。
いままで、最適の移動手段とは何かを考えた選択がほとんどなされてこなかったのは、やや長め歩行ができなくなった高齢者が、車いすを補助手段として利用して積極的に外出するという発想がなく、また一方では住宅の中の移動が段差のために阻害されてきたためだと考えられよう。
わずかな段差が大違いなのに、寝たきりやボケになって初めて対策がとられる。住宅に関する予防医学の発想が欠けていたわけである。
また、車いす自体の開発に関して、経済的なインセンティブやユーザー要求が働かなかったのも原因であろう。実際には、住宅の中では、その物的条件に応じて、もっとも適した「車いす」のデザインが考えられるし、それによって居住者に最大の効果を与えることもできるはずである。決まりきった仕様にしがみつくのでなく、性能を最大限目指せば、これまでの制約を打ち破ることもできよう。
また、車いすを移動手段と割り切って考えれば、街の中では乗用車を運転するのも同じこと。これからの高齢者にとっては、車はいわば下駄代わり、慣れている分だけ電動車いすより使いやすいかも知れない。
14 移動の自由を確保する
これまで長寿社会に向けての住宅のあり方をずいぶん議論してきたが、住宅がよくなっていくと高齢者も障害者も社会的活動をするために家から外に出て行くことになろう。そしてさまざまな店舗や公共施設を使う機会が飛躍的に増大する。それはまず、八百屋やコンビニエンスストア、スーパーマーケット、銀行、郵便局など、もともと頻繁に利用される施設から始まる。その次には、週に一回くらい用事があるところへと広がっていく。
ただ、そうした店舗や施設が歩いていける距離にあるとは限らない。ある本によると、苦痛を感じずに歩いていける距離は二〇〇メートルまでだということだが、周りを見まわして、二〇〇メートル以内にこうした基本的な店舗や施設があるところは、大都会の中心部ならともかく郊外の住宅地などでは、むしろ数少ないのではなかろうか。
その郊外では、スーパーをはじめ車での移動を前提とすることが多く、結果として移動手段を持っていない人々はひどく不便を強いられ、とくに高齢者や障害者がしわ寄せを受ける。建物や道路の整備とともに、今後は移動手段の確保がますます重要になる。
これまでは、こうした移動の問題を解決するのに、主に「スペシャルトランスポートサービス」と呼ばれる方法がとられてきた。いわゆる移送サービスで、リフトの付いた特別の車両を特定の人のために走らせるもので、ボランティアを中心にしたハンディキャブの運行やデイセンターへの送迎などもこの範疇に入る。
しかし、その絶対数の少なさや手続きの煩雑さ(思い立ってすぐ電話で頼んで来てもらうというわけにはなかなかいかない)など、むずかしい問題を抱えてきた。少なくとも、普通の人がすぐ利用できるような公共交通機関に匹敵するような便利さは、望むべくもなかった。
もちろん、理想的には、すべての公共交通機関が障害者・高齢者を受け入れられるようにすべきであるが、これは一朝一夕には変えられない。単に時間的な問題だけでなく、社会経済的な視点からも、満点の解決は難しいのだ。
まず、大量輸送交通機関がカバーする部分だけでは移動が完了しない。現状では出発点と交通機関までの移動、交通機関から目的地までの移動が必ずしもちゃんと準備されていない。もう一つは、病院に行く、買い物に行くなど、移動の目的や行き先が個人ごとに異なっていて、大量交通輸送機関ではそもそも対応が不可能なことが少なくないことである。これらの場合には、個別に対応できる手段がないとどうしようもないのだが、ボランティアや行政サービスでは、柔軟にニーズに応えるのはむずかしい。
こうした個別対応に、もっとも適しているものが、実は潜在的にはすでに存在している。なぜ潜在的にというかといえば、車両のデザインの変更が必要だからだが、それはタクシーである。
一九九三年秋に英国を訪れたとき、例のロンドンタクシーに乗ったのだが、その際、車の中に面白いものが積んであるのに気がついた。それは、アルミでできた伸縮式の車いす用スロープだった。
これさえあれば、車の背が高く、ドアの開く角度が大きいので、あとは何もなしで、そのまま車いすが乗り込める。客席が対面式になっていて、前にある後ろ向きの座席は、ふだんは畳んであるので広々としていて、車いすから座席に移らずにすむし、当然車いすを畳むなど必要なし。乗り込むための勾配は少しきついが、必ずいる運転手が押し手になるから、まず問題は生じない。車を改造してリフトをつけたりといったやっかいな追加費用は、いっさい不要。客の方でもそれができるタクシー車両を選ばなければならないというめんどうもない。目から鱗が落ちる思いだった。
最近は日本でも背の高い車がいくつか出され、けっこう売れているから、こうしたタクシーデザインにも抵抗は少ないはずだ。
移動の自由を確保するためには、「スペシャル」なサービスを考えるのでなく、今あるものを違った目で見直す発想が重要ではないだろうか。
15 キーワードは「自立」
「なぜ寝たきりではいけないのか、寝たきりの高齢者を介護してあげて感謝されるときに、仕事をしているという充実感を覚えるのだが」と、介護を職業としている女性に質問されて瞬間戸惑ったと、住宅問題の専門家が雑誌に書いていたことがあったが、ここにわが国の高齢者問題の本質があるように思われる。
住宅分野では、「長寿社会対応」の住まいづくりがようやく本格的になりそうだが、これはなるべく自立した生活を送れるように配慮された住まいで、介護しやすい住宅づくりを視点として第一に置いているわけではない。
筆者としては、研究の過程で、高齢者にとってQOL(Quality of Life)とは、自立とは、と突き詰めてきたわけだが、現実の高齢者介護の場面での介護者側の問題意識が、「高齢者の自立」というところからははるかに遠く、ギャップがまだまだ大きいことを痛感させられる。
感謝されるのは、恨まれるよりはいいには違いないが、人の助けがなければ何もできないという状態、寝たきりでいることは、本人にとって果たして幸せなのだろうかということを、もう一度考えるべきではないだろうか。しかもその寝たきりの多くは、実は避けることができたはずなのだ。
高齢者にはまず自立を求め、それを周囲が支えるという発想はますます重要になっている。昔は高齢者の割合は少なく、一方でそれを支える人手はふんだんにあった。六五歳以上の高齢者ひとりに対して、一二人の労働力世代がいたのである。医療事情も現在ほどではなかったから、寝たきりで何年もということも少なく、重度の介護が必要な期間も限られていただろう。
今は、支える側の割合がずっと少なく、平均すれば高齢者一人に対して五人になってしまっている。家族、隣人も少なく、嫁に集中的に負担がかかる。幸か不幸か、医療事情がよくなったことで、寝たきりの期間も以前よりはずっと長くなっているから、ほんとうに重度の介護が必要になる前にくたびれてしまう。いちばん大切な精神的なふれあいは、これでは望みようもない。
もし、期待どおりしてもらえなかったら、あの嫁は酷薄だ、鬼だと陰口することになる。それがこわいから、つい手を出して手伝ってしまうということもあるかも知れない。高齢者のほうでは、楽には違いないが、皮肉なことにそれが依存を生み、老化が加速することにもなる。
高齢者のQOLという視点から見れば最悪だ。障害があっても、ある程度時間をかけて努力すればできることを、必要もないのに代わりにしてあげてしまうのは、ほんとうは避けるべきなのだ。しかし、同居していて、しかも嫁という立場ではむずかしいのが現実だろう。
とにかく、まずは高齢者の側に自立への堅い意志がなければ、ほんとうの意味でのQOLなど夢物語だろう。このへんは、独立した個人の人格が最大限尊重される文化を育ててこなかったつけが、今になってまわってくるのかも知れない。
一九九四年の国民生活白書では、「高齢社会とは自立した高齢者の社会である」とした。同居率は今後も回復しないだろうが、同居より重要なのは精神的距離であり、憂慮する必要はないともいう。
同居のみが幸せの条件という従来の発想を、今や否定せざるを得ないということだろう。いわば、「日本型福祉社会」なる幻想が、ここに来て初めて否定された。長寿時代が他人事ではなく、自身の問題である団塊の世代が、ようやく官庁において政策の主導権をとれるようになったということだろうか。今後は、福祉サービスだけでなく、社会保障全般にわたって、「自立」がキーワードになろう。
16 自立のための環境を
バリアフリーはどこまでやればいいのだろうか。これはたぶん多くの人の心の中にある疑問である。
これに対する答えとして、「ノーマライゼーション」や「統合化(インテグレーション)」ということばが語られる。ほかの人と同じようにすべきだという理想である。そこで考えられているのは、自立、自分でできることは自分でやれるような環境を整えるということであろう。
理想が自立であるとすれば、物理的な側面でそれを支えるバリアフリー環境の役割は、介助・援助の必要性を実質的にどこまで減らせるかで決まるということもできる。手助けを受けずにどこまでやれるかは、サービスの供給側からすればどれだけ人手が少なくてすむかということに帰着しよう。
しかし、人手を少なくすること、手間を減らすことはいいことだと考える発想は福祉サイドでは少なく、それが本来的な意味での自立を阻害しているのではないかと思われるふしがある。
ごく簡単な例をあげよう。ある自治体の担当者たちと意見を交換していた時に、給食サービスの理想として、「一日三食、三六五日」という表現が出てきた。ほんとうにそうなのか、出席者の間でも議論があった。そもそも給食サービスの目的はどこにあるのだろうか。
最低の水準は栄養不足をきたさないことだが、日常生活のめりはりをつけ、在宅での生活を満喫することも必要である。だとすれば、すべてあてがいぶちというのはかえって自立を阻害することにもなりかねない。軽い朝食などは、たとえそれがジュースとトーストだけであっても、自分で用意するほうが自立とはいえまいか。
もちろん、それができないほど弱った高齢者を援助するなと主張するわけではない。ただ、筆者が聞き及んでいる限りでは、北欧の給食サービスでもあらかじめ調理して冷凍したものを高齢者の自宅にまとめて配達しておくというのが主流のようにみえる。時間になったら解凍して、レンジやオーブンで加熱する。
新鮮な材料からつくったものでなければと思いこんだり、手抜きと考えたりするのは非常に日本的な感覚といえる。わが国の場合、施設の職員でも、できるだけ自分の手でするのをベストとして、身体に無理がかかるのにもかかわらず往々にして福祉機器の使用を嫌う感覚にも似ている。
もともとわが国では、人件費がどれだけ高価なものであるかというコストの意識が少ないから、家族やボランティアをただ働きの労働力として無邪気に期待できるのかも知れない。しかし、力仕事としての労働と精神面でのふれあいとをはっきり区別し、前者は極力ほかで代替しないと、結果としては共倒れになるのは避けられない。
環境を整えることによって人手が少なくてすむ顕著な例として、入浴がある。入浴介助は家族にとって負担の重いナンバーワンにあげられているが、それは寝室から浴槽への移動もほとんど全部人手に頼らざるを得ないからである。
しかし、途中の経路が平らで、ある程度の幅が確保されていれば、車いすやキャスター付きのいすの移動が可能であり、それに加えて浴室をちょっと改造したり機器を活用することで、負担は大幅に軽減できる。
そうすれば、ようやく座ることができるような人でも、シャワー浴ぐらいなら少ない介助ですむし、場合によってはほとんど一人でできる。
現在の、人手も設備も重装備の入浴サービスは、既存の住宅内部がバリアフリーでなく、移動もままならないことが前提になっているのではないだろうか。
バリアフリー環境とすることによって自宅の浴室を使う人が増えれば、ほんとうに密度の高いサービスを必要とする対象者が減り、重点的にサービスができるようになるはずだ。
自立という点でも、ポータブル浴槽や機械浴と、使い慣れた自宅のお風呂に入るのとでは、どちらが幸せか自明だろう。
このようなバリアフリーとサービスの議論は、既存の福祉サービスの枠組み自体を問い直すことなしには、なかなかむずかしい。毎日の業務に追われていると、現状の制度がいいかどうかを考える機会が少ないと思うが、はたしてほんとうに有効に機能しているか、第三者の立場に立って考えることも重要であろう。
17 シルバーハウジングを考える
より良き高齢化社会に向けて、現在わが国ではさまざまな試みがなされているが、それらのうちの住宅施策の一つに、シルバーハウジングがある。
これは、高齢者のために特別にデザイン上配慮された住戸とし、加えて「良き隣人」の役を果たすライフサポートアドバイザーという管理人を置く、二〇戸から四〇戸程度の高齢者専用集合住宅である。
デザインにおける配慮は、厳密に定まっているわけではないが、玄関・便所・浴室での手すりの設置、室内段差のできる限りの解消、ノブに代わるレバーの使用など、従来一般に指摘されてきたものはほぼ例外なく採用されている。一九九一年度以降に設計されたものは、公営住宅の建設基準が高齢化に対応すべく変更されたので、それを踏まえていることはもちろんである。
また、アドバイザーのところには緊急通報システムがつながっており、本人が作動させる通報ボタンと、トイレ利用のような基本的生活行動パターンの有無から緊急事態を検出するパッシブセンサーがついていて、いざというときのすみやかな対応が可能になっているなど、一人で暮らす高齢者のための配慮は万全である。
シルバーハウジングは、住宅供給は建設省、福祉施策は厚生省というこれまでの仕切りを取り去ろうという試みで、その原型は英国のシェルタードハウジングである。
これが当初の期待どおり成功しているかどうかを探るため、一九九〇年に、いくつかのシルバーハウジングのハード面を中心とした調査を実施した。このように入居後に設計の良否を追跡することは、それ以降の事例で同じ問題を繰り返さないために重要であるにもかかわらず、なかなか行われないことであり、その意味からも注目された。
結果を見ると、自立高齢者(自分で調理ができる)という基準で入居者を募集していることと、入居からまだ日時がそれほど経っていないことから、比較的丈夫な高齢者が、思ったより配慮デザインに頼ることなく、はつらつと暮らしているというのが第一印象であった。
では、成功かというと必ずしもそうではなく、いろいろな点で問題を抱えていることが、少し細かにヒアリングすると出てくる。
まず、肝腎のデザインに際して、住宅設計者がまだ十分に高齢者の特性を理解できておらず、ほとんど初めての設計経験であるために、設計配慮点の重要度の判断を誤ったりしてミスが少なくない。
たとえば、キッチンの収納棚が高すぎて使えない、特殊なランプを使ったため照明が切れても自分で取り替えられない、機器が複雑すぎて操作できない、バルコニーの垂直避難ハシゴは使う自信がないなど、指摘事項がいくらでも出てくる。
これらの点は、配慮項目としては比較的に定性的なものであり、高齢者以外の居住者であればなんとか適応してしまうためにあまり問題としては浮かび上がってこないもので、逆に言えばこれまでは居住者に我慢を強いていたものといえる。たいていは居住者自身が悪いものと納得してしまいがちであり、設計者のミス、あるいは機器デザインの悪さという問題の本質の指摘にはなかなかつながらなかった。
今回も、直接居住者に面接したり、さらに近くに住む家族の方からのコメントをいただいたりして初めて、一人ではどうしてもエレベーターを使えない、新型のガス給湯器でフロを使えるようになるまでに数カ月もかかったといった問題点が明らかになった。
一方、配慮ミスとしては、不要な段差がまだ残っている、手すりの位置やデザインが時として不適切で使いにくくじゃま、コンセントが低すぎる、玄関の引き戸の鍵穴の位置が低すぎるなどがあげられよう。
これらは、設計者が本来の趣旨までさかのぼって理解せず、寸法や取り付け位置など、表現された内容をうわべだけなぞっていること、信頼できる自立高齢者向けの設計指針が存在しておらず、車いす対応とごちゃまぜになったものに頼ったことが原因としてあげられる。
このようなハードの問題に加え、実はソフト面での対応の課題も無視できない。
シルバーハウジングのソフト面での最大の問題は、ライフサポートアドバイザーの役割が明確でなく、また、高齢居住者から望まれている仕事が必ずしも含まれていないことであろう。
アドバイザーには、特に資格が要求されず、基本的には「良き隣人」という立場の管理人である。非常時に速やかに対処するとともに、ふだんは相談相手になるというのが仕事なのであるが、では実際に何をお願いできるかがわかりにくい。このため、居住者にとっても、アドバイザーにとっても、手探りの状態になっており、お互いが不満を抱えているようだった。
居住者は、自立できる高齢者とはいうものの、自らの体力や能力のみですべてを解決できるわけではない。また、先に指摘したように、高すぎる台所棚、複雑で操作できない機器などの設計上の問題もある。
もし、居住者が「切れたランプの交換を助けて」、「高い天袋からものを出すのを手伝って」などとアドバイザーに頼めるとすれば、それも良き隣人のありがたさであろう。しかし実態は、アドバイザーに頼むか、それとも家族やヘルパーの訪問まで待つようにするか、居住者によって判断がまちまちであった。アドバイザーが手伝ってくれるのが当然なのに、と主張する居住者も見られた。
以前住んでいた住居では、最初からダメとあきらめていたが、シルバーハウジングでならどうにかなるはずという期待もある。それがうまく行かない現実に対して不満が多く出るとは、ほとんどだれも予想していなかったといえる。少なくとも、そうした期待に対応するソフト面は、現在のところ十分ではない。
そこには、依頼にいちいちつき合っていたら身体がいくつあっても足りないという、アドバイザーに大きな責任がかかっている現実がある。入居者は二〇世帯から四〇世帯にもわたるのだから、一軒に一〇分ずつでも毎日何時間もかかってしまう。どこまでやるかは、本人の情熱にかかっている。
自分の家事だってしなくてはならないので、普通はそんなに時間の余裕がない。また、いつ緊急通報が鳴り出すかわからないので、うかつに家を空けられず、ちょっとした買い物もままならない不満もある。
さらに、パッシブセンサーからの「誤報」だけで振り回されているのに、これ以上はとても、というアドバイザーも多かった。センサーや緊急ボタンは、新型機器、設置場所の改善などで少しずつよくなりつつあるが、すべての問題が解決されているわけではない。
シルバーハウジングのモデルとなった英国のシェルタードハウジングで、管理人(ワーデン)はどこまで対応する義務があるのかという、まったく同じ問題を抱えているとの指摘を本で読んだ。結局、問題点まで同時に日本に移植してしまったことになる。
高齢化に伴う問題のうち、設計や機器で解決できることは、コストはかかるとしても明快であり、また、適切に評価すれば以後のデザインに反映させることができる。
しかし、高齢者が「自立」して生活するという場合、ほんとうは精神的な自立という意味合いが強く、程度の差こそあれ何がしかの手助けが必要なのである。そのことがあまり認識されていないために、せっかく創設された制度の良さが生きていない。手助けを求めるのは甘えだとする意見があるが、筆者はその立場をとらない(昔から、管理人は居住者の相談相手の役を果たしていたし、住人どうしがお互いに助け合うこともごくふつうだったからである)。
今のようにアドバイザーに頼るとすれば、住戸の数を減らすか、あるいはアドバイザーを複数にするしかないが、それでも資格を問わないアドバイザーにすべてを委ねるわけにはいかないであろう。それよりはむしろ、ホームヘルパーを含めて相互に役割を分担した機動的なバックアップ体勢を充実させることで、ソフト面での対応を目指すのが望まれよう。
以上の原稿を書いてから五年すぎた一九九六年になって、最近の例を見る機会があった。さすがにこの数年の間にいくつも建てられ、前車の轍を踏まぬようにとさまざまな反省がなされたせいもあろう。デザイン的に設計ミスを指摘するようなところはほとんどなくなった。公営住宅自体の建設基準が変わってからでもすでに五年経っているから、さすがに基本を踏み外すことはなくなったというわけだ。さらに、設計だけでは織り込みきれないソフト的な対応にも苦労の跡がある。
見せてもらったのは福島県郡山市の市営住宅だが、傾斜地の勾配をうまく利用して三階建ての二階へも階段を使わずに直接入れるようにして、五〇戸のうち二四戸がシルバーハウジングということになった。住戸の南側に「縁側」をつくって、ひなたぼっこしながら茶飲み話ができるようにしたりといった、さりげない工夫も多い。
シルバーハウジングの二四戸は四棟に分散し、高齢者世帯以外との混住がなされているので、たぶん住人同士の非公式な助け合いは目に見えない形で成立していると推察できる。もっとも入居者は市内あちこちから来たわけだし、さらに人間関係の形成のややこしさもあって、当初は三つのグループに分かれてしまい、管理する側は大変だったと伺った。ライフサポートアドバイザーは依然として正式資格はないが、実際にはほとんどのところでケアの経験のある人を選んでいるようだ。
シルバーハウジングが一般住戸と違っている最大のポイントである緊急通報システムは、たまたま隣接している総合病院が在宅介護支援センターを併設しているので、夜間はそこに自動転送する方式をとっているということだ。ただ、緊急事態がめったに起こらないせいか、先般、実際に緊急事態が発生したときには対処に手間取って、ひやりとしたそうだ。やはりこうした夜間の通報へのスタッフの対応には、まだ改善の余地が残されているということだ。
最大の問題は、絶対的な人員不足であろう。厚生省のゴールドプランや新ゴールドプランでは、こうした要員養成の必要性が具体的な目標の数字をあげて指摘されているが、現実には要員は厚生省の思惑どおり増えていないし、そもそも厚生省の考えているより実態はずっと深刻なのだ。
18 台湾の高齢化を考える
一九九三年一一月末から一二月にかけて、機会があって台湾を訪問した。筆者がアジアの国を訪れるのは、一九九二年の中国に次いで二つめであった。
訪問の目的は、日本における高齢化対応住宅の動きについて講演することで、台湾での高齢化対策のさまざまな展開に関して意見を交換したのだが、状況はずいぶん異なるとはいえ、参考になるところもあった。
まず、人口の高齢化については、六五歳以上の割合が一九九〇年に七%を超えており、日本より二〇年ほど遅れて高齢化が進行しつつある。現在の予測では、今後の増加傾向は日本ほど急速でないとされている。ただ、台湾では、一九九四年から国民皆保険を導入したので、それに伴って寿命が延びることも予想されている。
台北では、市立の高齢者施設(安養院)を見せてもらったが、これは二人用寝室と浴室からなる施設で、食事は食堂で供される。
いかにも台湾の歴史的事情を示していると思われたのは、入居者に男性のほうが多いことで、これは共産党に抗して大陸から移ってきた国民党の兵士らが、ちょうど高齢期にさしかかっているからであるという。家族を本土に残したまま一人で台湾に来たり、あるいはそのまま結婚しなかったために、通常であれば頼れるはずの家族がなく、公的な施策として対処しなければならなくなったものだ。戦争の影響は長期にわたるという事実が、ここにも出てきたわけである。
ただ、それ以外は、昔のとおり家族に頼るという考え方がごく一般的であることは、議論をしていてもすぐわかった。「わが国の伝統的家族制度」とか、「儒教的伝統は」という表現が出てくるのである。これについては、みな自信があるようだ。しかし、はたしてそれでいいのだろうかというのが筆者の印象で、この点は再度関係者に伝えた。
伝統的な家族制度を支えるのは、基本的に子どもの数が多いという点にある。それによって、経済成長も、高齢者支援も、いわばあらゆるものが拡大再生産されるというのがその基本であろう。しかし、客観的に見ると、台湾の場合にはそこがむずかしくなりつつあるようだ。日本のたどった途を歩む可能性が高い。
第一に、高齢者の寿命が長くなって、年金などの財源にいずれしわ寄せがくる。労働力人口からはずれて、消費者の側にまわる人の割合はじりじり増えるのである。
第二に、教育レベルの向上とともに女性の社会進出が進み、結果として子どもの数が減る。
第三に、教育レベルの向上は教育コストの増加、競争の激化に直結するから、これまた子どもの数を減らして少数精鋭主義に傾く。
第四に、台湾ではアメリカに留学する人の割合は、日本よりはるかに多い。これはまた西欧合理主義がとくに若い人の間に定着することにつながり、大家族制度の基盤をある意味では揺るがせる。
こうしたことは、ほかの国の高齢化の進み具合をみて、自国の抱えている問題を冷静にみつめなければわからないことである。残念ながらわが国においては、こういった長期的視点からの意見がほとんど省みられなかったことは事実として認めざるを得ない。
だからこそ手遅れにならないうちに対策をとるように台湾に助言することは、高齢化で先を行くわれわれができる数少ないことだろう。
逆に、台湾でうらやましい好条件だと思ったことがいくつかある。それは、台湾ではベッド就寝が当たり前で、日本の住宅における「諸悪の根元」である畳と布団の問題が存在しないこと、それから浴室の形がこれまた日本式でなく西洋式であり、高齢者の入浴介護にあたっての大きなネックがないことである。
実は筆者は、この二つこそがわが国における高齢期の住居の問題点だと考えているので、その意味では台湾は基本条件をクリアしているということができる。
19 アジア三都市のパイロットプロジェクト
一九九三年にちょうど国際障害者の一〇年が終わるのと入れ替わりに、アジア太平洋障害者の一〇年が提起され、国連のアジア太平洋経済社会理事会(ESCAP)がその重責を担い、日本が牽引車の役割を果たすということになった。
一九九一年にブダペストで開催された「障害のない建築・都市環境づくり」で会ったESCAPの担当者がこの仕事の中心になり、わが国からESCAPに加わっている二人がそれを支えている。その一人は車いすを使っていて、もう一人は建築研究所から出向している研究者。筆者は彼を脇から支える役を務めている。
このアジア太平洋障害者の一〇年を推進するには、バリアフリーデザインの事例を実行に移すのが目に見えてわかりやすい。そこで、アジアの都市の中から、北京、バンコク、ニューデリーの三都市が選ばれて、バリアフリーのためのパイロットプロジェクトを実施することになった。
わが国の先進事例調査を行いながら具体的な内容を議論しようということで、一九九五年一一月には横浜でワークショップが開催され、各国からいろいろな組織に属する関係者がそれぞれ五人くらいずつ来日した。
日本側は、横浜市と、横浜に本拠を置くシティネットという非政府機関とが軸になって、それに兵庫県と建設省とが知恵を貸すという形になった。容易に想像されるように、パイロットプロジェクトに取り組んでいる各都市はそれぞれ背景が異なっているが、バリアフリーとなっていないことでさまざまな不都合が生じていることは、ご多分に漏れない。
ただ、制度面ではかなり先進国にならっており、新規の建設に対してバリアフリーデザインであるように求めるという点では、(強制力はさておき)、さほど遜色がない。問題はやはり既存のものである。
各都市がパイロットプロジェクトとして選定した場所を見ると、北京が郊外の高層住宅地区の問題解決をめざし、バンコクは中心ショッピング街のバリアフリー化、一方ニューデリーは官庁街に隣接した地区のバリアフリー化と、それぞれ異なる。
パイロットプロジェクト自体の計画と実施については、ほかの都市の考え方を聞き、また横浜などでのわが国のこれまでの進め方を知ることで、ネックとなりそうなことの予想はついたのではないかと思う。
しかし、経済的な背景を含めて考えれば、バリアフリーデザインがもたらす「ごくわずかな」費用増加が、わが国以上に議論の的になる可能性は高い。
たぶんその課題を突破するのは、バリアフリーデザインがペイするのを示すことによってであろう。たとえば、外国からの観光客がバリアフリーであるホテルやショッピング街のみを選択するとすれば、そうでないところとの差は大きい。
今後の先進国からの観光客のかなりの割合が、金と時間に余裕のある年金生活者であろうことを考慮すれば、そういった選択がなされても不思議ではない。
バリアフリーは人権問題であるという正論を側面から補強するインセンティブとして、こうした長期的なそろばん勘定の議論を用いるのもあながち不可能ではないと思う。
20 バリアフリーリビング
一九九六年十月に、仙台で国際住宅・都市計画連合(IFHP)世界会議が開催された。英国の田園都市運動がその始まりという、非常に歴史のある組織だが、今回はちょっと変わっていて、主テーマが「バリアフリーリビング」。宮城県と仙台市が開催事務局を務めた。遠からず世界一の超高齢社会になるわが国で行われる会議として、まさにタイミングを得たものであろう。
会場の仙台国際センターには世界五三カ国から一〇〇〇人を超える参加者が集まった。うち四〇〇人ほどが国外から。
大会議場でも会議室でも、議論の多くは主テーマに沿って設定され、住宅・都市・交通のバリアフリーが、物理的のみならず社会的・心理的バリアの除去も含めて議論された。
具体的な事例を挙げながらの報告、あるいはむしろそういった事例から導き出される、国や地域を問わない問題点の議論などが活発に行われた。
やや残念だったのは、いまだに家族や周囲の献身的な努力に期待する意識が抜け切れていない発言が、わが国側からままみられたことだ。これまでの流れを冷静に分析すれば、物理的な意味でのバリアフリーを除去するのを値切って、当事者の努力に甘えてうまくいった事例はどこにもないはずだが、まだまだ事態の深刻さがわかっていない人も少なくないようだ。
そうした中で、とくに筆者の記憶に残った発表が二つある。一つはコペンハーゲンで都心から自動車、特に自家用車を閉め出すために、過去二十年以上にわたって継続的に実施されてきた努力の報告。
交通渋滞を減らそうとして道路をつくればその分だけ車が増えてしまい、結局いたちごっこだから、逆療法を施したというもの。要は、都心部で歩行者天国がどんどん広げられたのだ。
車道がじゃましなければ、歩道橋や地下道をつくる必要性がなく、昇ったり降りたりしなくていいから、移動のバリアフリー化はさほど難しくない。お金をかけて整備し直すよりも安いと報告者は言ったが、一年に二%ずつ駐車場を減らして中心街をほぼ歩行者天国にするのには二〇年がかりという気長な計画は、せっかちな昨今の日本ではとても続きそうにない。
いかに歩行者が隅に押しやられているかを豊富なスライドで示す、ユーモアとジョークをたっぷり交えた報告は、非常に印象的でもあった。また、専門家がごくふつうの人に説明して納得してもらうのには、この程度のわかりやすさは不可欠だと納得させられた。
もう一つ、感銘が深かったのはアメリカコロンビア大学ピーター・マルクーゼ教授によるバリアフリーに関わる問題点の定義。バリアフリーは「人権」か、「公民権」かというものだった。
われわれにはちょっとわかりにくいが、「人権」が犯すべからざる普遍的権利であるのに対して、「公民権」は主張して闘いとる権利ということのようだ。
一九九六年六月に開催されたイスタンブールのハビタット2の決議では、日本はアメリカと協調して、「居住は人権である」という主張を葬り去っているが、そのアメリカではバリアフリーは「公民権」という位置づけ。
それを考え、わが国でのバリアフリーへの動きを見れば、まだ当然の権利というには早すぎ、闘いとらなければならないものなのかも知れない。
あとがき
使いやすい建物、使っていてけがをしない建物をつくるためにはどうすればいいだろうか。
歳をとったら住宅が住まいにくく、建物が使いにくいのは冷厳な事実だ。しばらく前までのように、それが障害者の問題と捉えられている限りは、「そんなの一部の人の不都合でしかないじゃないか」と、あっさり片づけられてしまう。
しかし、よく考えてみると、実は高齢者に問題であるだけでなく、ごく普通の人にとっても住まいやすくない場合がほとんどで、ときには安全ですらないということが、徐々に明らかになってきた。
つまり、少なからざる割合の人々にとって、これらはバリアになっているのだ。それを放置するのは世の中にとって計り知れないマイナスであることから、筆者は、そんなバリアをなくそう、ほんとうのバリアフリーを実現しようといつも訴えてきた。
これらをただす方法は、バリアフリーでないところを指摘するという、いわばもぐら叩き。これは理論的であるよりは実戦的な方法であり、下手をすれば戦線は広がるばかりで収拾がつかなくなろう。が、叩かれた事例が、第三者にとっては他山の石になるということもある。また、その数が増えれば自ずから水準も公知のものとなる。理論派ではなく実戦派をもって任じ、鳥瞰よりは虫瞰を得意とする筆者としては、もぐら叩きを実行するのが性に合っている。
運よく、高齢者福祉関連の専門紙「シルバー新報」にたまたま縁があって、月に一度ずつ「老いと住まいと――バリアフリー考」というコラムを発表する機会を与えられたので、ひたすら実践にこれ務めた。
ここにあるのは、この六年ほどのうちに実行した、まさにそうしたもぐら叩きのいくつかの例である。テーマはバリアフリーに関すること全般で、論点はそれぞれの時点での筆者の関心事を反映している。
結果として実を結んだ指摘もあるが、ほとんどはまだ現在進行形である。そういう意味では十分ではないが、全体に目を通していただくことでバリアフリーに向けての新たな途も開けるかも知れないと思い、あえて読者のご批判を仰ぐことにした。忌憚のないご意見をいただければ幸いである。
こうした形でまとめるのを許してくださった「シルバー新報」の関係者に謝意を表したい。とくに編集担当としていつも朱を入れてくれる川名佐貴子さんに。
また、本書は筆者の二冊目であるが、前著同様、都市文化社の竹添通徳社長と編集部の吉井恵子さんに大変お世話になった。深く感謝したい。
一九九七年一月
古瀬 敏