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『障害者の働く暮らしをささえるために――講演記録集』

障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議(労働部会) 編 19960909 48p. ※r

[文献情報]

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※ KSK障大連ニュース 障害者の働く暮らしをささえるために 講演記録集 障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議 講演は19931117
※ 作業者注:人名や肩書や連絡先などはすべて発行時点のものです。


p表紙

KSK
障大連ニュース
障害者の働く暮らしをささえるために
−講演記録集−

働くことをめぐる問題…3
楠敏雄さん ノーマライゼーション研究会事務局長

障害者支援の視点について考える…11
川端利彦さん 大阪樟蔭女子大学教員・精神科医

市町村の新たな就労支援…21
河野秀忠さん 季刊「そよ風のように街に出よう」編集長

中小企業の障害者雇用…31
矢野孝さん (株)矢野紙器専務取締般・中小企業家同友会

授産施設からの就職支援…41
高井敏子さん 加古川はぐるまの家施設長

KSK増刊通巻一三九号・一九九六年九月九日発行
一九八四年八月二〇日 第三種郵便物認可 毎月一二回(二、四、六、八の日)発行

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  はじめに
  大阪府労働部職業対策課

 「障害者の働く暮らしをささえるために一講演記録集」の発刊にあたりまして、一言ごあいさつ申し上げます。
 大阪府におきましては、障害者の「完全参加と平等」の社会を実現するため平成6年3月に「ふれあいおおさか・障害者計画」を策定し、「人権尊重に根ざした障害者の主体性・自立性の確立」、「すべての人が平等に、安心して暮らせる社会づくり」、「府民の全員参加によるノーマライゼーションの実現」を基本目標として障害者の施策を総合的・計画的に進めているところであります。  その中で障害者の雇用促進は最も重要な課題のひとつであると考えられます。そのため、「障害者の雇用の促進等に関する法律」に基づき、企業に対する身体障害者雇用率の達成指導及び障害者の職業的自立を援助するため職業相談から職場適応指導までの一環したリハビリテーションサービスの提供など障害者の雇用促進に取り組んでいるところであります。
 さて、このたび障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議におかれましては、障害者の支援に取り組んでいる障害者団体、学識経験者、企業、福祉施設等の関係者からの講演をとりまとめて「障害者の働く暮らしをささえるために―講演記録集が作成されたところであります。
 この記録集は、さまざまな立場からの提起がなされていることから、府民の皆様が障害者に対する正しい理解に役立てられれば幸いです。

p2

  働くことをめぐる問題
  障害者の立場から
  楠敏雄さん
  ノーマライゼーション研究会事務局長

はじめに
戦後の障害者運動の始まり
発達保障という考え方
全障連のめざすもの
日本の障害者政策の変遷
ノーマライゼーションと地域福祉
最近の労働行政
障害者の労働をめぐる考え方
障害者の自立とは
これからの課題
−質疑応答−

1993年11月17日の講演記録

p3

はじめに

 簡単に私の略歴をいいます。私は、一九四五年ちょうど二歳のときに失明しました。流行性結膜炎ということで失明しましてそれからずっと視覚障害者ということで生きてきました。盲学校の小中学校、その後、当時は盲学校ではいわゆる普通科とか、他の科は一切なくて鍼、灸、マッサージを勉強します。理療科しかなくて、私も高等部の理療科に進みました。その後、私はどうしても自分には按摩鍼灸はあわない、英語が好きだったものでしたから、一般の大学へいって、英語を勉強しようとしたんですが、なかなか受験をさせてもらえなかった経験があります。三年ほどしましてやっと京都の龍谷大学で英語を勉強することができました。
 その後卒業して仕事をさがそう、私は教職に就こうとしたのですが、当時は点字での受験は認めないということになっておりまして、結局教員採用についても二年ほどブランクがありました。大学院に進みながら勉強していたのですが、たまたまいろんな人の応援がありまして、全国で初めて一般の目のみえる生経たちに、勉強を教える機会を得まして、講師として府立の天王寺高校の教壇に立つことができました。
 一九七三年から一三年間教壇で教えていましたが、この福祉センターが建つのを機会に障害者の福祉と人権の問題に専従的にたずさわるということで正式な職員としてはいることができました。かたわら、障害者にたいする差別を無くする運動ということで、六〇年代大学在学中から始めていたのですが、一九七六年に障害者解放運動を進める全国組織ができまして、そこで始めて事務局長という立場で、運動の統一を目指してきました。現在は全障連の代表、それから、大阪の国際障害者年をきっかけにできたこの組織ですが、ここでは、事務局長ということで活動させて頂いています。
 今日は具体的実例は、他の人から出るでしょうし、数字つまり様々な動態等については労働部の方はご存じだと思いますので、私たちが運動を進める上で、とくに労働の取り組みを進める上での基本的考え方について、整理して提起させて頂きたいと思っています。

戦後の障害者運動の始まり

 まず私が属する全障連という組織ですけれど、いま障害者の団体は全国では数百、障害別、地域別にあるのですが、全国的な組織になるとそんなにはありません。障害別ということではなくて、障害を越えた全国組織というのは限られています。
 その中で一番大きいのは日身連といいます。全日本身体障害者団体連合会、これが戦後まもなく一九五〇年に結成された団体で、一番長い歴史をもっています。ここの組織は元々傷痍軍人会の人たちと結核療養所に長期入院されていた患者さん、そういう人たちが中心になって作られた組織です。私たちからの評価で言いますと、いわゆる権利、人権の問題や差別の問題を口にするよりは障害者の利益、即時的な利益を護ること、あるいは親睦をすること、こうい

(p3下段挿入コラム)
−講師のプロフィール−
  ●楠敏雄さん
 ノーマライゼーション研究会事務局長
 一九四四年北海道生れ。二歳で医療ミスにより失明。盲学校・大学から高校非常勤講師、職安相談員、大学非常勤講師などを経て、一九八五年より(社福)大阪府総合福祉協会勤務、現在に至る。  DPI (障害者インターナショナル)日本会議副議長、「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議」事務局長。著書『わかりやすい障害者基本法』解放出版社(一九九五年)など。

−参考資料−
 「障害者の雇用就労問題とその周辺」楠敏雄 大阪府総合福祉協会研究紀要 一九九三年一〇月
 「知っていますか?障害者間題一問一答」執筆協力解放出版社 一九九二年

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うことを中心に活動を続けてきた団体です。政治的な立場は一応自民党の議員さんを組織として推薦するという、現在は野党ですが、与党政府と密接に連携をとるという方向性をとってきたように思います。それから同じく知的障害、以前は精神薄弱と言って、いまも法的には精神薄弱ですが、精神薄弱という言葉はあまり適切な言葉ではない、精神が薄いなんて人格を軽視することではな いか、ということで世界的には、mental disability 知的障害という言葉を使うようになってきています。この知的障害の団体ですがこれは当事者の運動は非常に難しいということもあって組織としては、むしろ親の会「手をつなぐ親の会」という組織とですね、いろいろ施設の関係者、職員や園長さんそういった人たち、あるいは大学の研究者等が集まりまして全日本精神薄弱者育成会という組織を作りました。これも一九五一年ですから歴史が非常に古い、戦後できた団体です。この会の性格としては日身連に近い性格をもってきたと言っていいのではないかと思います。

  発達保障という考え方

 それから次にできたのが全国障害者問題研究会、いわゆる全障研といっている団体で、一九六七年にできています。これは日教組、教職員組合の中の障害児学校群、養護学校とか盲学校とか、この先生方を中心にあとは日社労組という施設の職員組合といったところとか、あるいは大学の先生たち、それに本人たちも加わってできた組織です。研究団体としては全障研なんですが、この全障研の運動団体としてあるのが障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会=障全協です。この支部組織がいわゆる守る会という組織で、各県大体三〇都道府県くらいにできているようですが、そういう組織が作られています。全障研と障全協二つあわせて全障研運動とよんでいるわけです。
 全障研運動は、障害者のいろんな要求を権利として実現していかなければならないと主張しました。主要な要求として施設とか養護学校を充実させていくこと、その理論的根拠になっているのが、発達保障理論という考え方で、これはソビエトとか社会主義圏で体系化されたもののようです。子供の発達の可能性を引きだすことが教育の役割であるという点を強調するわけですが、この発達観が私たちから見ますと一面化している。つまり数量の部分で発達を捉える傾向、何がどれだけできたか、どれだけ伸びたか、それを発達の物差しとして見る傾向がある。そしてもう一つは、平均、私はこれを平均の絶対化と表現するわけですが、一つの基準というものがありますね、一歳の子供は大体伝い歩きができるようになるとか、一歳半になると大体二語文を話すようになるとか、そういう子供の発達段階というものの一つの平均が出されていますが、これを絶対化しますと結局それができない子は問題児である、いわゆる欠陥児である、ソビエトでは障害児教育を欠陥児、 欠陥学教育といっておるようですけれども、欠陥である。あるいは発達の途上に、もつれをもった子供たちであるというふうにみる。
 その結果この欠陥やもつれを取り除くことが障害児の課題なんだ、それをまず重視すること、障害の軽減克服を重視するそのためにまず障害の種類と程度に応じた、決め細かい科学的教育の場及び専門的指導体制が必要である、とする。したがって養護学校、施設・訓練施設の充実ということに必然的に力点がおかれてくる。これが理論的な流れになるだろうと思います。これが一つの流れとして日本の障害者運動の中で大きな影響力をもってきたと思います。

  全障連のめざすもの

 それに対して、私たちの結成してきました全障連運動、あるいは障害者解放運動といわれるものは、まず一つめとして障害者自身の主体性、運動における主人公ということを非常に強調してきました。親や教師によって代弁される運動ではなくてまず障害者自身が運動の主人公になる、あるいは親や教師は連帯者であって代弁者ではない、とくに知的障害ですとか、重度の障害者の場合は運動とか自己表現とかはしにくいことがある。そんなことで結局親や、教師が代弁せざるをえないわけですけれども、本人ではないということがややもすると忘れられて、関わっているからこそ自分たちが一番良く分かっているのだということで、代弁が非常に安易な形でなされてきたのではないかと思います。しかし如何に親がしんどかろうと、また如何に障害者運動に関わる人が熱心にやっ
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ていようと、当事者とは違うんだということを私たちは強調してきたのがーつです。
 二つめの立場というのは、隔離的な処遇、隔離的な措置というものに反対する、あくまで健常者と一緒に地域社会で生まれ育っていきたい。という考え方です。いわゆる反隔離の思想です。三つめに、そのためには地域で生きられる条件作りをしていく必要がある。地域保障ですね、地域における条件保障という。この三つの考え方を基本的な柱として作られたという経過があるのです。そのほかにもいろいろな障害者団体があるのですが、このへんにまとめられるのではないかと思います。

  日本の障害者政策の変遷

 次に日本の障害者政策を振り返ってみますと、障害者とは長い間いわば役に立たない存在、社会的な意味で脱落者としてみなされてきました。ですから放置の時代が長いこと続きました。明治時代の富国強兵の考え方の中で、障害者は廃人として位置づけられてきましたし、いわゆる貧困者、浮浪者、当時の言葉で言いますと白痴者、不具者これら全部一緒にして救貧対策、何とか救ってやろうと考えたのです。しかしこの救いというのはあくまでゆとりのあるときでして、そういう時以外、例えば戦争に突入したときとかは当然こういう施策は打ち切られてしまいます。そういう意味で、放置もしくは救貧対策だった。それからもう一つは、家族への依存ですね、とにかくみられるかぎりは家族で面倒をみなさい。みれなくなったら施設、施設とは後にでてくる政策ですけれど、家族が面倒をみるのが当たり前だという政策が続けられてきたと思います。家族主義です。戦後まもなくの議論でもはっきりしていますが、身体障害者福祉法というのが一九五〇年にできますけれども、この時の国会議論で、ある議員が「政府は社会的無能力なものにまで金を使うこれは予算の無駄使いである、金をドブに棄てるようなものではないか」と質問しているのです。これに対して当時の厚生大臣が「確かに無駄なように見えるけれどやはり彼らも生命をもって生きてきた。したがって生かしておかなければならない以上有効活用しなければならない、従って訓練をさせて社会に適応させる努力つまり更生の努力を求める必要があるのだ」というやり取りをしているのですね。表現はもう少し的確ではないけれどそういう議論になってまだまだ障害者に対する捉え方に非常な問題を含んでいたと思います。
 それが一九六〇年代になってとくに労働力が不足してきた、そうすると従来のように女性に全部介護を負わせていく訳にはいかなくなってきた。女性も労働力として使用しなければならない、という背景があります。一方で障害者をもつ親ごさんや関係者からやはり安心して親が死んでいけるためにも施設を作ってくれという運動が高まりました。そういう中で全国コロニー網構想というのが打ち出されてきます。そのあたりからコロニーとか、大規模収容施設がどんどん作られました。大阪の金剛コロニーとか、砂川更生センターとかですか。滋賀県なんかは七〇年代にかけて施設のメッカといわれるくらいたくさんの施設がどんどん作られてくるという時代になる訳です。
 ところがその頃スウェーデンではすでにもう脱施設の運動がありました。一九五九年法という法律では、知的障害を持っている人たちも健常者と同じ文化、生活を享受する権利があるんだということを法律で明記しています。アメリカでも七〇年代に入って障害者当事者から、脱施設という運動が高まってきて一九七三年にはリハビリテ一シヨン法という法律ができ、公共的機関における差別の禁止ということが盛り込まれました。しかし、その頃日本ではまだ盛んに施設作り運動が行なわれてきた。行政の方でも、障害者がじゃまだから隔離してやろうと思っていたわけではなくて、むしろ良心的な意味でもやはり施設は作らなければだめなものなのだと思い込んでやってた方もたくさんおられたと思います。私たちがその頃施設は嫌だと、養護学校は嫌だと立ち上がった。そう すると、楠は過激派だ、施設をつぶそうとしている、養護学校へ押しかけて壊そうとしている、ということをよく言われたものです。決して私たちは押しかけて物をつぶそうと、そうした主張をしたわけではなくて、方向として施設や養護学校に隔離しなくてすむ状況を作るベきだと主張してきたのです。

  ノーマライゼ一ションと地域福祉

 しかし八〇年代に入って国際障害者年と言われる中で、最初は外的な影響、外圧によって

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ノーマライゼーションという考え方が入ってきました。そのうち障害者自身の声もどんどん高まってきて、政府も一九八五、六年から地域福祉ということを文書で正式に表現するようになってきた。そしてご承知のように、一九九〇年に身体障害者福祉法の改正というのが行なわれてそこで初めて従来の更生−更生福祉論から社会参加−社会経済活動への参加という考え方に、一応理念として変わったということが大きな特徴だと思います。
 それからもう一つは今年の厚生白書でもはっきりうたわれていますが、万人による万人のための万人の福祉、どっかで聞いたことがあるような台詞ですが、それがはっきり明記されている。つまり従来は福祉というものは、弱者のため、あるいは社会的脱落者のためのものだと言われてきた、あるいは捉えられできた。それが政府自らの文書の中で福祉とはみんなのためなのだ、だからみんながやらなければならないのだ、いう考え方これがはっきりうたわれるようになってきた。そういう意味では理念的な面でかなりの変化がでてきていると思います。しかしまだ具体的な施策になりますと、残念ながら問題点がたくさん残っていると思います。
 私は省庁の中で一番遅れているのは文部省ではないかと思えてしょうがないのですけれど、理念が変化していて、政府も全体としてはそれを取り入れつつあるのに、文部省はあまり変わっていない。つまり障害というのは治すベきものなんだ、という考え方に固まっていて、先進国といわれている国の中では唯一、制度として分離教育を主張している。もちろん他の国も問題点はたくさんある。いわれているように全部が統合に行っているわけでもないし、問題点はいっぱいある。少なくとも方向性としては政府自身がはっきりと統合ということの必要性はいっているわけです。ところが日本の場合には未だに分離ということが前提になっている。そういった意味で文部省は遅れているのではないかと思います。

  最近の労働行政

 労働行政は、目の前にして恐縮ですが、最近労働省の若手の幹部の方々はかなり欧米の事情なんかも勉強されて熱心なようですが、全体的にはまだ企業の力に圧倒されがちで障害者の労働権という観点が非常に弱いという気がしてなりません。もう一つは、ご承知のように去年ILO一五九号条約がはじめて日本の国会でも採択されたのですが、この一五九条約のタイトルというのが「すべての心身障害者の就労を支援する」という目的を明記している。日本の今までの雇用促進法にしてもそうですが、理念は働く能力を持つ障害者の就労という考え方ですから、大きなギャップがあったと思うんですね。たぶんILO条約の批准の過程では相当若手の方々が勉強されたんだと思うわけです。そして去年の五月に雇用対策に対する基本方針が労働省の方からだされたんです。重度障害者の雇用に非常に力点をおいた内容で基本方針が策定されたということで、ILO条約の影響だろうと思われるわけです。
 すべての障害者というと従来の労働観からいきますと、仕事のできる障害者しか働けないのではないかということになるわけですが、ところが、発想の転換と環境の改善によって、今現実に働くことが無理だと思えている障害者の四分の三ぐらいまでは就労が十分可能になるということが、最近ますます明らかになってきている。ですから今までの日本の障害者の中での就労可能人口という分析自身が、見なおされなければならない時期に来ていると思います。就労可能人口を固定的に見るのは非常に危険だと思います。やはり発想の転換が必要になってきているのです。

  障害者の労働をめぐる考え方

 労働をめぐって、いろんな考え方がありまして、障害者解放運動が始まった当初は生きることが労働だ、障害害にとっては呼吸をしたり、腰を持ち上げたり、食事をしたりそういうことだって労働じゃないか、という主張もありました。これは人間存在に関わる鋭い告発、問題提起だったと思うんですけれど、わたしはそれをすべて労働だと主張しても、非常にこれは観念論になってしまうという気がするわけです。ですから、生きることが労働だということは障害者の人間性、存在性を強調するための一つの主張ではあるし、それはそれとして受け止めていかなければならないけれど、それをすベて労働という範疇でくくるのはやはり無理がある、説得力が非常に乏しいと思います。やはり労働という以上社会的活動を伴う、人間がいろんな関

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係を営むそういう関係性の中でなんらかの意味を、あるいは役割を果たすということでなければ、社会的労働ということにはならないと思います。
 私たちが目指すのは、あくまで社会的労働としての労働権保障であって個人の生存権を認めろというのとは別次元の問題と整理すべきです。そうしないと、混乱してしまう。例えば、一時期私も主張しましたけれど、市役所に入る、障害者がいるだけでいいじゃないか、いるだけだって健常者にとっては一つの啓発になる、これも労働だと言った時期もありましたけれど、「私はそこはちょっと無理があると思います。いるだけでいいわけではなくて、やはり労働ですから。しかしその場合従来役所にある仕事、事務処理したりという、それだけを労働と考えて、それになじめないから無理だと考える、これは狭い労働観だと思います。このあたりをどう広げていくのか、という視点で職種、職域、及び設備、そして人的体制こういったものを考えて、従来の仕事の範疇をどれだけ幅広く広げていけるかという観点で見ていく必要があるのではないかと考えます。その場合障害者のぺースをできるかぎり尊重するというのが一つの原則ですね。それからもちろん障害者自身の選択権、これも十分尊重されなければならないと考えます。

  障害者の自立とは

 大事なのは自立論の正しい理解です。従来の自立論というのは、自分でお金もうけして経済的に独立できることが自立だと考えられてきました。もう一つは、身辺自立ですね、いわゆるABLといわれることですが、日常生活動作を全部自分でできることが自立なんだといわれてきました。しかし、この二つとも狭い自立論なんだといわれてくるようになっています。
 今まさに必要なのは障害者が自分で選んで自分で決める自己選択と自己決定、これが障害者の真の自立だといわれるようになりました。アメリカのある障害者の言葉を借りれば、最初自分は施設や養護学校の中で、ともかく排泄とか食事とか衣服の着脱をできるようになりなさいと一生懸命訓練された、二時間かかっても三時間かかっても自分でやりなさいといわれてきたけれど、今はそれは間違いだった思う。そんな衣服の着脱とか排泄とか食事を食べるなんて事は誰かに協力してもらったらいいではないか、それでそんなものは一五分か三〇分でかたずけて、まあゆっくり時間をかけたい人はかけたらいいのですけれど、そして残りの時間を自分のやりたい趣味とか仕事とか人間的な、社会的活動に参加したりする、その方がよりよい生き方ではないか、というふうに提起したわけです。まさにこれが私たちが目指している自立なんです。従来のように一人でできるようにならなければならないそれが自立だ、それができなければ仕事にもつけないんだ(という:作業者)発想ではないということです。

  これからの課題

 最後にこれからの課題ということで環境面、人的なサ一ビス面を含めてどういった制度作りをしていくのかということを、是非いろんな角度から検討をしてて頂きたいし、私たちもそのへんを抽象論をただ主張するのではなくて具体的に提起しあって一緒に考えていく。やりあうときには大いにやりあう必要もあるでしょうが、具体的に行政も考えて頂きたいし、われわれの立場からも具体的な政策提起をしていきたい。そういう中での障害者の雇用拡大というものを進めていきたい。
 もう一つは、作業所や授産施設に一〇万人を越える障害者が働いたり、訓練を受けたりしている。この人たちに是非とも目を向けて、彼らがどうしたら一般就労をできていけるのか、ということをテ一マとして検討していく必要があるのではないだろうかと思います。
 あと一つ、差別、就職差別という場合狭い意味で差別を考えるのではなくて、いったい何が差別なのか、部落差別とか外国人差別とかはもちろん大きな問題ですけれど、ある意味で障害者差別と比較してみますと、労働問題をめぐっては割と理解しやすいわけですね。つまり部落に生まれたという理由で能力があるにも関わらず就労の場から排除されている。あるいは主要な生産関係から排除されている。これはおかしいんじゃないかと。在日外国人だと、本人たちの意志ではないのに強制的な理由であるいは他の理由で日本に居住することを余儀なくされた。そのことを理由に就職差別を受けるのはおかしい。これは市民的といいますか理解されやすい考え方ですね。ところが障害者の場合

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には能力があるにも関わらずという部分でそもそも引っかかってしまうわけですね。やはり健常者と比較した場合に、一部健常者に負けないくらいの能力を発揮する障害者もいるかもしれませんが大体健常者の能力より低いわけですね。ですから能力といった点からいえば差別されえて当然だというふうに言われがちです。まして今の社会システムの中で企業の人たちは生産第一、効率第一の発想で考えたら当然これは障害者は給料が安いのは当たり前だとか、障害者が雇われないのは当然だという、これは従来の部落差別や民族差別の観点から障害者差別を考えていては理解しにくいわけです。そのあたりで障害というものをどう捉えるのかという議論、そこから入って障害者の社会参加を考えていく。つまり社会の尺度であるいは健常者の尺度で障害者をはかって社会に適応できるかどうかという適応論ではなくて、障害者を受け止めるということがまず大前提なんだという観点で、そのため何をし、何ができるかというふうに発想を転換しないと差別は解決しないということがいいたいのです。いろいろ具体的な話しもしたかったんですけれど、これで終わります。

  −質疑より−

  知的障害者の自己決定権について

 いま知的障害者当事者の立上りということが非常に強調されはじめて、世界の中でもピープル・ファ一スト、「まず人間なんだ」という意味なんでしょうか、そういうグループ、知的障害者本人のグループができつつある。今年はカナダで大会が開催されまして日本からも八〇名ほど参加したんですけれど、日本にもそういう当事者自身の流れができ始めています。大阪府の審議会でも始めて知的障害者自身の自立の必要性を強調するようになりましたし、大阪府の人事の方でも、知的障害者の雇用なんかが課題になっているようです。
 実際に自立というのをどうして進めていったらいいのか、自己選択・自己決定と簡単にいうけれど、はたしてそんなに簡単にいくのかという議論があるわけです。確かにこれは難しいのでもっともっと掘り下げなければならないのですが、私は、自己選択、自己決定へ行く前の前段階があると思うんです。それは何かというと自分で自分の要求とか思いを表現するというところから始まらなければならない、当然これは人間ですから当たり前なんですが、はなはだ表現がしにくい。言葉、言語を持たないというか、言語を口でしゃべられない人たちにとって自己表現をどう引き出すのか。これは特に教育の部分での重要な役割だと思うんです。体でもいい、どんな手段でも自分を表現するそういう力を作っていかなければならないということが一つあると思います。
 もう一つは経験の多様性を保障するということです。つまり経験しなかったら選択なんか出来ないわけです。よく言われることですが、施設で育った障害者は毎日施設から食事を決められていますね、そうするとどこか行ってもなかなか別のものを食べるということが出来ない。あるいは親ごさんで障害者を可愛がって大事に大事に育てる、あまり嫌いなものを一切食べさせない。私も好き嫌いが非常に多いんですけれど、無理して食べさせないそうすると大きくなってもお母ちゃんの作ったもの、ある一部のものしか食べないというケースがけっこうあるわけなんです。何でも食べなきゃならないと強要することもないのですけれど、やはり栄養の面を含めて色々なものを食べる経験というものも必要ですよね。ところがそれが出来なくなっている障害者がけっこういる。そうい う意味で経験を多様化させると言いますか、多様な経験を踏ませるという観点がいると思います。その中で段々選択できる力が出来てくる。
 もう一つは支援者の役割ですね。あくまで親とか施設職員とかそういった人たちは、支援者なんですね。特に一八歳をすぎた人については保護者ではないんですね。しかし障害者の場合にはいつまでも保護者保護者という事が言われます。
 私も今ある授産施設の理事をしていますが、保護者は保護者はという言葉が職員の中からも親からもでるので、その保護者というのはやめよう、保護する対象じゃない、本人も自立し

p9

ていかなければならないのだから支援する対象なんだ、と言わしてもらったんですけど、ともかく単に言葉上の問題ではなくて彼らとの間に一定の距離をおいて、親はあるいは職員は彼らを応援する。それからアメリカではfacillitateということが強調されています、分かりやすく説明する、彼らの立場に即して分かりやすく説明する、ということです。そのようなトレ一ニングを支援者の側もしなければならないですね。ただ言葉を読み上げて教えこもうとしたって無理ですし、難しい言葉を使うのではなく、もっと分かりやすい言葉でかみくだいて説明するという姿勢が大事なことなんだろうと思います。そういうあたりを進める中で、自立ということに段々近づいていくのではないかとおもいます。その程度しか私も今は言えませんが。

  自己表現出来ない障害者の問題は

 例えば特に重度の障害者ほど、会っただけでは、見ただけでは分からないというところがあるわけです。職安の方々も大変お忙しいとは思いますが、ある障害者が窓口に来た、あるいは親御さんと一緒に、その時一見したらこの人は仕事は、会社で無理かなあと思われたとしても、何かこんなふうな配慮したら出来ることがあるかもしれない。そう思ったらその障害者と目線をあわせるというか、近づいていってあるいは場合によっては家庭訪問のようなこともして頂いて生活の様子を見て、ああこのへんだったらやれるのとちがうとか、こんな援助をしたら出来るのと違うかみたいなことを、つきあう中で学んで頂く。そういう方向性とシステムが出来れば随分変わってくると思います。確かに一般的な感覚ではつきあったことがないと、これは仕事は無理やということで、まあ忙しいし、ついそういった対応がでてくるんでしょうが、健常者の側から障害者の方に近づいていって入り込んで知るということをやって頂くと随分違ってくると思います。そのあたりはまた研 修等で各職安なり窓口の人なりにご指導願いたいと思います。

  ノーマライゼーションと、施設を作って専門的能力を伸ばすということとの関係は

 僕等が一番困るのは、学校の子供たち、健常児に「障害者って何だ」と聞かれた時にどう説明するか、教師なんかよう説明していないのですね。一番安易なのは、病気だと教えているわけです。すると病気だったらいつか直るんや、病気直ったらいいのにねというぐらいしか理解出来ないのです。障害とは病気ではないのですね。確かに原因の一つに病気もあります、事故もあります、いろんな原因で出来てくるわけです。それが問題なんじゃなくて、そこで出来てくる障害をどう捉えるかという問題なんです。これを欠陥だと捉えると、欠陥者は直さなければならない。自動車がそうでしょ、欠陥車が走ったらえらいことになるから直さなければならないということになるわけです。従来の歴史ではそういうふうにずっと障害者は捉えられてきた。病気とか欠陥者だと。
 そうではなく今ノーマライゼーションのなかでいわれているのは、障害というのも一つの個性だ。どんな原因にしろ出来てきた障害は一つの個性だといっているのです。まあぼくは障害イコール個性というのは少し無理があると考えています。そうはちょっと言い切れない、だから私なりには違いの一つ、違いの一種、いろんな違いが人間にはあるその違いが著しい場合これが障害者とみなされるわけです。もう一つは個性を形成する一部分apart 、 a part of personalityです。イコ一ル個性といってしまうとあいまいになってしまう。違いの一つとして個性の一部として認めていくなら、何もどこか一まとめにして専門的なことでなおさなければならないということにはならない。かといって健常児でも教育していろんな力をつけていかなければならないように障害児も力をつけていかなければならないし、時には自分をコントロールする力も必要です。それは障害を直す、軽くするという発想ではないのです。ということで捉えていくというのがノーマライゼーションの流れです。

  生きていることが労働だという考え方が、なぜ今のような労働の捉え方になったのか
  少し詳しく、またどんな障害者も持っている働きたいという要求について

 まず、生きることが労働だという主張、これは今は亡くなりましたが、横田さんという青い芝の会を組織し運動の中心になっておられた人たちが主張し始めたのです。青い芝とは脳性

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マヒの人たちの全国組織で、日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会連合会というのが、一九六〇年代に出来ています。最初は親睦団体だったのですがだんだんいろんな思想、例えば黒人運動の思想とか、あるいは小乗仏教の思想なんかを受けて、人間の存在性を問うなんていう理論をたてたようです。その中から出てきた思想で、最初は障害児を持つ親御さんが障害児を殺してしまうという事件が、今でもありますけれど、それに対し周りの人たちが減刑嘆願運動、親御さんの刑を軽くしてやってくれという運動を起こしたんですね、それに対して青い芝の会が殺される側からの告発、つまり自分たちは殺されてもいいのか、親は嘆願されて刑を軽くされて障害者たちは殺されつづけるではないかという告発を行ったんですね。その人たちの主張の中で生きることは労働だという主張が出てきたわけです。
 それは従来の労働観というのは生産労働、特に六〇年代の高度成長のときに物をいかに早くたくさん作れるか、これが人間の価値だと労働をみなしてきた。これに対する告発として、そんな事はないよ、オムツを変えたり、呼吸したり、寝返りを打ったりすることも労働じゃないか、だからそれに対してちゃんと賃金を払えとこういうことを主張したという背景があったのです。わたしは、働きたいというと、では働けない人はどうなるんだという論争が内部でもあったわけですが、働きたいということをもっと掘り下げると、自分を認められたい、これは人間誰しも自分の存在を認めてもらいたいというのがありますよね、自己実現という言葉に象徴されますけれど、人から物をもらっているばかりでは、あるいはどこかに入れられて食事を与えられてもそれは生かされえている にすぎない。自分で生きていくというか、自分を認めてもらいたいという自己実現の要求。それから他人との関係、社会との関係こういったものを切り結んでいきたいというものです。時には他人との関係ではけんかもあってもいいわけです。
 障害者だからといってことさら大事にされることばかりでは、共にというのではないのであって、時にはぶつかることもあっていい、その中で本人が強くなっていく。周りも分かっていく。そういう自己実現と他人との人間関係作り、そして社会性このあたりを包含するのが、働きたいということの中身ではないかと思います。それをどう具体化していくのかということを、もう少し議論したらいいのではないかと思います。

  就労のとき作業能力テストという問題によくぶつかるが

 私は一般的な作業能力テストというのはほとんど意味がないと思います。もしやるのであれば、こういう会社から求人がある、この会社ではこんな仕事があるが、その仕事がやれるかどうかあるいはその仕事を進めていく上で、どんな設備改善なりどんな援助がいるのかという意味でテストするなら、まだそれは意味があると思う。一般的に歩けるかとか物が持てるかとか、よくやられる作業能力テストは意味がないし、当事者に非常に屈辱を与えることにもなりかねない。そういう形でテス卜して、その段階でチェックするのはひじょうにおかしいと私は思います。

  障害者は本当に能力がないというより、何もできないんだと育てられてきている面が大きいのではないか

 私がいったのは、既成の生産性とか効率性とかいう考え方に基づく能力論でいくと、客観的に見たら劣るといわざるを得ないのではないか。それをそれとして認めて、一方には逆に障害者でも努力次第で健常者に負けないくらいの能力があるんだ、健常者に負けずにやっていかなければならないんだという発想が今まで主流だったわけです。だから非常に無理して、頑張って頑張って健常者に近づこう、健常者に負けないだけの努力をしようとして結局体を壊したり、精神的につぶれてしまうようなケースがある。そうではなくて能力はある意味で劣って当たり前なんだ、障害を持っていたらむしろ自分のエリアの中で自分のベースの中でどれだけ自分なりに自己実現をするかというところに発想を変えなければ、そういう意味で能力を見ていかなければならないと私は言いたかったのです。

p中表紙

  障害者支援の視点について考える
  川端利彦さん
  大阪樟蔭女子大学教員・精神科医

はじめに
知的障害の理解しにくさ
「わけの分からない」行動の内にある世界
分裂病の人たちとのつきあいの中から
できる、できないということ
ちゃらんぽらんであることの重要さ
最後に
―質疑応答―

1994年3月7日の講演記録

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  はじめに

 川端です。今日のお話ですけど、大変難しい問題でまとまりにくいと思います。そこで、直前まで私なりに整理に努めてきましたが、知的障害者あるいは自閉症者と言われる場合に、特に知的障害の中で重い方とか、あるいは自閉症と言われる方について、これまで「あんな人のことはわからへんねん」とかあるいは「別だ」というふうな見方が強くありました。
 私は去年たまたま高槻へ三回も行くことになったのです。それは、最初は自閉症の人たちの行動面の問題で、難しい面がある、それを医学的にはどう思うのかということだったのです。そういう話をして、私は医学的に、むしろ生活面ではこんなことがある、仕事をしようと思ったらこんなことがある、ということが出て来るはずだったのですが、時間の都合で中断されまして、二回目に入りました。そこでいろんな話が出たのですが、今度は三回目の時には知的障害という人は何か、その中で一番場を得にくいというのでしょうか、いろんな会合にいきましても、高槻の福祉センターなら福祉センタ一という場でも、居場所が少ないのではないかというような意味で、それは一般の人たちが、そこでは例えば高槻市民というのでしょうか、そういう方が理解が薄いのではないかということです。これは広報に載せられまして、それまでは関係者の方が多かったのですが、三回目の時にはほとんどが、広報を見てやってきたという、はじめての方だったのですね。そこで、一回話したからどうってことではないのですが、そういうふうに関心を持ってもらえるということはとてもよかったなと思っています。
 そういう中でも出てきましたのが知的障害者あるいは精神障害というのを加えさせて頂きたいのですが、今日のタイトルにもなってている「何も出来ない」「わけが分からない」というふうなことがしばしば言われるということです。それで今日はその「わけが分からない」と言われる一面、そして「何も出来ない」と言われる一面、そしてそれでもなおかつそれはどうなんだろうかということについて、なるべく具体的な例についてお話したいと思います。分からない点は後からおっしゃって頂きたいと思います。

  知的障害の理解しにくさ

 まず「わけが分からない」ということですが、これは 本当に困ったことで、以前精神障害者について大変差別的な記事が新聞によく報道されるということについて、報道関係の社会部の記者の人たちと出会いました。その時にいろいろなことがあったのですが、私が「少なくともわけの分からないことを口ばしるということは書かないで欲しい」といいましたら、「わけの分からないことはやっぱりわけが分からないのだからその通りに書くのは当たり前であろう」と言われまして、そこから先はなかなか進まなかったということがあります。
そこから出てきます「わけの分からなさ」を

(p11下段挿入コラム)
―講師のプロフィール―
●川端利彦さん
 大阪樟蔭女子大学教員
 子どもに関わる精神科医。
 一九一一八年大阪市生まれ。大阪赤十字病院精神神経科医をへて一九九〇年から現職。
 神経科クリニックで診療も続けている。
 大阪市立大学生活科学部非常勤講師など兼職。

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多少医学的な側面から考えて見ますと、要するに『知的障害』は、今の医学では、脳の生理的な機能の発達障害ないしは損傷というふうに考えられているわけですけれども、その他の例えば視覚障害、聰覚障害の方が不自由であるという場合に、目に見えてあるいは聞いて判り易い、判り易さがある、そんなもの分かるものかと言われればそうなんですけれど、まあどちらかと言えばそれが擬似体験というのでしょうか、追体験というのでしょうかそういうことがしばしば試みられます。視覚障害であれば視野を見えなくして生活してみる、それがただただ一週間やったからそれが分かるかと言えばそれは分からないのですけれども、でもそうであろうなということは何となく理解できやすいですね。それに対して大変理解できにくい部分というのをはじめにお話したいと思います。
 一つは脳の問題からいきますと、脳の部分的な損傷というのがあります。これは出生時に脳が圧迫された場合、あるいは交通事故等々で脳に損傷を受けた人の場合なのですけれども、例えばどんなことがあるかと言います。ある中学生で、あれは分裂病であるあるいは情緒障害だ、また知的障害で何かわけが分からないと言われていた男の子がおりました。どういうふうなのかと言いますと、言葉は普通に言えますし、聞こえます、しかし字が少し書きにくい、でも書けるんですね。ところが運動機能で出来るはずのところが出来ない、出来るはずと周りが見てしまうのですね。そこの所ができない、おかしいではないか。で、いろんなことがあるのですが、例えば日本地図を書いてみなさいという課題に対して、能登半島から始まって全部半島とか湾は知っている、しかし書いていくと、まるーくなってしまってやっと東京湾まで来ると一循環してしまって、これはだめだと破いて又始めからやり直すということです。それから例えば私が出会いますときに椅子が置いてあ ります、でそこに掛けて下さいというと、どういうふうにして良いか分からなくて、こういうふうにするのか、(横向きに座ったりする)こういうふうにするのか、そして、しまいにはこんなふうになってしまう。(後向きに座ってしまう)ということですね。そこから入ってきてですね、じゃあ出ていきますというときになってもう出口が分からない。こういうのは普通には理解できにくいのですね、これは頭の頭頂部の損傷がありますとそういうふうになりやすいと言われています。
 昔のことですけれども、三井三池の炭鉱事故がありました、その後の補償問題で大変もめたのですね、というのは、何にも障害がないではないか、何も後遺症がないと言われた方で、今のような障害があるという方がありました。さらにその中で非常に特別なものとして、着衣失行と言いまして、例えば上着を着るのに着れないのですね。着るのに反対側に袖を通してしまうのです。いやいや違う、こうだというようなことで、どうしてもうまく着れない。やっと袖を通すことができても、正しく袖を通して着るということができないということが指摘されました。それを、たまたまその人が勝手にそういうことをやっているのだ、と言われたのですが、本人は本当に困っているのですね。そういうことは「わけが分からん」。他のことはできるのに、何故それができぬのかと言われても、そういうことはあるということです。普通にはちょっと理解しにくいのではないかと言われる問題がございます。
 それから脳の全般的な損傷、特に交通事故、労働災害等々で中途障害者の方にしばしばあるわけですけれど、最初の脳外科的な処置が遅れますと脳が全般的に圧迫を受けまして損傷を起こします、その時に発動性の低下と言いますか本当に動かなくなる方がいます、で何も周りとの関係がないのかといいますと、ここに食事を置かれるとじっとしていて、「お茶椀があるでしょ、お茶碗をとってご覧なさい」と言うととる。そして「お箸」と言うと、お箸を取られるんです。そして「それを口に近づけて食べてご覽なさい」と言うと動く。だけどそのままで止まってしまうというぐあいに、自分から自発的に物事をするということができにくい状態に陥ることがあります。これはサボっているのではないか、勝手にそうやっているのだろうといわれるのですが、本人は一生懸命なのだけれども、動かないということなのですね。
 これはそういう状態から今度立ち直っていくときが問題です。何かできるんだ、何かやりたいとなっていきましたときに、これは自分でどういうふうに動けるんだ、まだどんなところがだめなんだということが理解できていないものですから、突飛もなく動いてしまいます。

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そうすると、周りからなんかおかしい、分からない、さらには危険だというふうなことを言われます。その場合には本人はとてもとまどっておられるのです。本人がとまどっておられるということが抜きになって周りから見ますと、「わけが分からない」ということになりがちです。そういった方がそういうところから三年四年経ちますと、随分自分なりにコント口一ルできて来るんです。しかし、そういうことで七年、一〇年くらい悩む方がたくさんいらっしゃるわけです。
 そしてその中には最初のそういう段階は割合早く過ぎた、だからあなたはもう仕事に戻れるんだ、たとえば一般的なテストをやりますと能力は十分にある。しかし仕事がまったくできない。
 どういうふうかと言いますと、細かいことにこだわってしまうのですね。たとえばある方は交通機関の職員の方だったのですが、改礼で確認するときにパッと定期を見せられたのでは分からないからいちいちはっきり見せて下さいと言うものだから疲れてしまうわけです。しかもそこに一人の人がタバコの吸い殻を捨てた、そうするともう気にかかるということでそこを止めてまでこっちへもって来ないと次の行動ができない。もともと几帳面であったかというとそうではないのですね、だけれども今の自分はそういうことが大変自分の中で気になってしまうんだということです。これはその人の性格であるとか、あるいはたまたまその人がそうなんだということでもなくてそういう人がたくさんいらっしゃいました。
 そんな中で、どんなことがテストで出て来るかと言いますと、紙を四角と三角と丸に切ります、それをそれぞれ赤青黄色にしますと九枚の力一ドができるわけです。それをばらばらにしまして「分類して下さい」といいますと、まず形で分類します。三角は三角、四角は四角、丸は丸です。そしてそれを又ばらばらにして「違う分類をして下さい」というと、大変途惑われて、今ざっと分けたのを積んで、その次には丸三角四角をそれぞれ縦に並べる、次に横に並べる、それでも「まだ違う分類の仕方を」って言ったら、もう全然分からなくて、何故こんなことをやらせるんだとおっしゃいます。そこでばらばらにして「あなた今形で分けましたね。色が三つあるんです。色で分ける方法は」と言ったら、すごく怒られて、「何故、はじめにそれを言わへんのや」という。それは形ということに最初に目がいってしまうと分からないわけです。しかしこの人は色が分からないのではないのです、分類ができないということではないのです。それにこだわってしますと色に目がいかなくなる、分からないのではなくて一言いってくれたらできるのにということなんですね。そういったことが周りで配慮されていきますと、随分生活がしやすくなるといいますか、職場でもだんだん戻っていかれた方があります。

  「わけの分からない」行動の内にある世界

 また、ある知的障害の方で一七歳だったのですが、とにかく職場から離脱される、出ていってしまわれるので、どういうことなんだろうと私がお会いしましても、ほとんど言葉のない方でした。いろいろ私なりに言いまして、ぼつぼつとお付合をしたのですが、三回目くらいに「早せい言う」ということが出てきたのです。それで職場の方にお聞きしますとたしかに彼は仕事がゆっくりであるそれで周りの人が「早くしろ」とその人に言うことが多い、ということが分かりました。それくらいだったら「頑張ってやれ」というくらいの所なのですが、それが何かもう一つ前に進まない。周りがそれを理解して、早くしないけれどもきっちりやるから良いんだという認め方をできないものだろうかということをお話していきました。
 それが多少とも周りに理解されていきまして、半年ほど経ったときに、ちょうど冬になったのですが、お母さんがやって来られてどう言われたかと言いますと、その彼は一八歳になっておられたんですけれど、「大発見ですわ、寒いということが分かるようになったんです」といわれるのです。「えっ、今まで寒いということわからへんかったん」と言ったら、「とにかくラン二ング着て冬でもランニングで平気でいて、それで外へでも出ていってしまう、そして風邪もひかない。なのに最近はたくさん着込んで、ストーブの前で『寒い』という言葉を初めて言った」と言うのです。今まで分からなかつた。それから三か月ほどしてお母さんが、「また大発見です」と言って来られたのは、「お腹が減った」ということと「お腹が痛い」という

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ことの区別がつくようになったと言うんですね。「お腹が痛い」って言うから、どうしたんやろと心配したら「あんたお腹が滅ってんやがな」ということがあったり、心配して医者につれていっても何にもない。やっぱり空腹であるといったような。ところが同じような状態でお腹がどうこう言いますから「またお腹が減ってるのやろ」というと、本当にお腹が痛くて吐いてしまったということもあった。それがきっちり区別できるようになってきたということがありました。こういうことはしばしば経験致します。
 今の場合は内臓知覚と言われるものです。その胃などがどういうふうであるとか、寒い暑いと言うのは肌で感じる感覚です。その他に例えば私が手を上に挙げます。誰かが私の手を引っ張って上に挙げたとします。「あなたは今どんな姿勢でいるのですか」と聞かれたら私は右手を挙げていると答えます。しかし、これがなかなか分かりにくいという方がいらっしゃいます。そして例えばポンと肩を叩きます。そうするとこのようにポンと肩を叩いた場合これは触った感覚ではないのですね、触った感覚ではなくて彼が感じるのは筋肉がおされた、筋肉の感覚です。それから、手が挙げられたというのは関節が動くことによる感覚なんですね、これらは深部、深い部分の知覚と呼んでおります。知的障害の方の中には、その辺のところがずっと遅れる方があります。特に幼児、児童の時に遅れる方があるのですが、それがそのまま持ち越されて、二〇歳を過ぎて、「あっ、この辺が良く分かっていないのだなあ」と気がつくことが良くあります。そういうふうに言われて見るとああなるほどと思うのですけれども、「何でそういうふうなことが分かれへんの」とか「いったいどうなってんのこの子、ポンとやっても振り向かへん、なんで」ということになります。わーってこうやったら振り向いてくれるということになる、そういうことがよくあります。
 それからもう一つは、動物行動学の方々から言われだしたのですけれども、動物が回りの世界をどういうふうに見ているのかという研究がありまして、どういうふうに見るのかということによってその行動は当然変わって来るであろう、それを人間に当てはめた場合には、周りをどういうふうに知覚するか、視覚障害の人は見るのではなくて音とか気配とかで感じ取られます。又聴覚障害の方は音とか気配とかが感じにくい方がいます。ところがそうではなく周りの見え方が違うという場合があるということが分かってきています。誰しもがこの部屋の雰囲気をこういうふうに見ている、あなたも同じように見ているだろうと思っても全然違ったように見えてしまう、それはそこが慣れているとか慣れていないとか以前の段階で、見え方が違うということがあるわけです。
 そこで一番初めの脳の部分損傷による障害と繋がって来るわけですけれども、わたしが今ずっと見ていまして、本人は大変苦しんでいる三〇歳近い青年がいます。彼は一八歳の時に友達のバイクの後ろに乗っていて衝突しまして二〇メートルほどはね飛ばされた。運転していた友達は即死だったのです。彼は頭をひどくうち、手足を骨折したのですが手足の骨折はどうってことはなかった。頭はへこまなかったのですがかなりの衝撃がありました。その後もう助からないだろうといわれたのですが、奇跡的に彼は生命を取り戻しました。その後、どういう事が残ったかと言いますと、手も足もちゃんと動く、そしてものも見える話もできます。ところが彼は左側の半分だけが見えないのです。これは目の障害ではないのです、目の神経がずっと奥にいきまして、私たちが物を見ているのはこの後ろの方で見ているのです、彼はこの後ろの方の部分が損傷を起こしているのです。そして左側だけが見えないのです。彼は自分が見ているのが全てだと思います。人間というものはそういうものなのです、だからまっすぐ歩いていって、ガンとぶつかられたらものすごく言われるわけです。「お前どこ見て歩いていたんや」と言われます。「あ、すいません」と言うのですが、見えないということは分かってもらえない。そしてしばしばここに置いてあるものにぶつかって壊してしまう。ですから彼が仕事にいきまして、そういう失敗が多いのですが、どんなに言っても気をつけろとしか言われない。気をつけたって左側が見えない、これは本当にそうなんですね。
 ですからこういう方は廊下がずっとあって左右に部屋があるとします。例えば左側の部屋に入るということはできないのです、左側の見えない人は。ずっと歩いていっても右側のそれしか目こ入りません。こういうふうにすれば

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(左側に大きく首を向ける)いいのでしょうけれども普通に歩いていったらだめなんですね。
 そこで一旦回って歩いていくと左側にこれがあると分かるのです。そういうことが分かって彼とつきあうと、まったく日常支障がない、ですけれど外からは全然分かりませんし彼も自覚していなくって、今見えている世界が全てだと思っています。みんなもそう見えているんだと思い込んでいて、自分が見えていないことに気付かないでしまう、それを自覚するということはとても難しいことですね。彼もそれを自覚していかなければいけないのですが、周りもそれをどう理解していくかということがとても大事なことになります。

  分裂病の人たちとのつきあいの中から

 もう一つに、分裂病者の体験というのがあります。「わけの分からないことを言う」とよく新聞に書かれたり、この頃はさすがに無くなってきたと思うのですが、以前はよく書かれました。これは妄想とか幻覚というふうに医学の分野では言われてきたものです。私は以前、二〇年以上前には、何か家族からあらかじめそのようなことを聞きますと、ああこの人は分裂病であり、妄想をもっているんだ、あるいは幻聴があるんだ、幻の声が聞こえるんだということで、そう見てしまいました。そう見てしまうとその人の全てがそういうふうに思えてきていたわけです。
 これがすごく間違いなのだということに気がつきました。そしてこれは周りの人から出会うから駄目なんだ、ということに気がついたのです。どんな場合でも本人から出会うということを始めてみました。そうしますと、ある男性が入って来られた、「どうしてここへ来たんですか」、「もう、みんな気違い扱いしやがって」と怒りはります。「何でそんなことが起こるんやろね」というと ころから話していって、「まあせっかく来たんだからもうちょっと話をして下さい、あなたがつらいんでしょう」ということで、その人が今どういう病気であるかないかというよりも、どんなつらいところにおかれているかということについて話をしていってみますと、「俺、もう耐えられへんねん」。「どんなことが」と言いますと、彼は回りに何か装置があって自分の考えを全部取られてしまって、そして自分の考えを全部周りの人に放送されている、そしてテレビなどにも見えないテロップで出ているはずなんだ、ということなのです。
 その時に私をそれを妄想だとか、病的な体験だとか思わないことにしたのです。分裂病だとも思わない。そういうことが自分にあったらどうだろうか、これは追体験しにくいです。追体験しにくいのですが、もしあえて私の考えを全部取られてそれを全部知られてしまったら、実にええ加減なことを考えたり、恥ずかしいことを考えている、それを知られているなんて耐えられないから外へも出れないと思います。
 それは大変なことだと、そしていろいろ話していってみますと、「それでもあなたは日常こういうことはどうしているのですか」といったら、一人は高校生だったのですが、「学校へ時々いく、だけども耐えられないから帰って来る」と言うのです。そうすると、勉強もしたいがそういうことがあるからやってられない。そういうふうに話していると、妄想と言われるもの、幻覚と言われるものは彼の世界の全てではなくて、彼の世界の一部分にあるものである。全人格などでは全然ないことが分かってくるわけです。
 そんな問答を何回かしますと、そんな装置を見つけだして何とかしたいですとかいうことになります。私は「それよりそんなものは放っておいたらどうなんや、どうでもいいと放っといても実害ないのと違いますか」と言うと、えらい怒られるのです。「どうにもなれへんからここに来ているのに、お前何言うてんのか、放っとかれへんから来てるんだ」。最初は「気違い扱いしゃがって二度と来るものか」とおっしゃっていた方が、「放っとかれへんから来ているのに何とかしろ」というふうに変わってきます。やはりそういったように本人は悩んでいるのですけれど、本当に困っていることを家族が聞いただけで、「あれは頭がおかしいんだ」ということになるのですね。
 ある日本の大学の哲学科にいた人ですが、まだ西ドイツと東ドイツが別々になっていたときに、西ドイツに留学していた、そしてそこで西ドィッの警察が自分は東ドイツのスパイであると思って自分をつけ回していると考え始めました。そして、大使館に言っていく。いろんなことがあるということで私の先輩が出会

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って、日本に帰ろうということで日本に連れて帰って来られました。大阪の方で、私がご本人にお会いしたのですが、「とにかく日本に帰ってきた。ちょっとやれやれです、西ドイツでこんなことがあった」と、「それは大変やったね」というと、「いや、誰も信じてくれないんだ」と言うのですね。「お前それは頭がおかしかったんだと言われるんだけれどそうかな」といってました。それから二、三週間経ったときにやってきて、どう言ったかといいますと「とうとう日本にも西ドイツの警察から連絡があって日本の警察が自分を追い回すようになった。自分の家に盗聴器がつけられている、スパイが周りをうろうろしている。で、家に居れないんだ」「それは大変だ、どうしたらいいかね」と言うと、「何よりも腹が立つのは、家族がそれを分かってくれない。そういうことを言い出した途端にお前また気違いが始まったと言いやがる、家族が俺を気違い扱いするんだ」ということなんです。「で、あんたが困っているんだから、それをどうしょうか」というふうなことから話していくと話ができていきます。それがもっと追いつめられている場合にはそういうふうにはいきません。まだそこまで追いつめられていない場合にはそういうところで話し合える部分があるわけです。でも、その世界の大部分がそういう世界で占められていますから、それをちょっと放っておくということはなかなかできないです。
 ところが私は医者ですからつい「そんなんどうでもいいやん、放っといたら」「いや、放っとからへんのや、そやから来てるねん」と言われると、そしたらどうでもよくなる薬を出そうかということになってしまうわけです。私は出ておりますあらゆる精神科の薬、特殊な抗鬱薬とか操病の薬を除いて、強い安定剤から軽い安定剤にいたるまで、全て「どうでもよくなる」薬であると理解しています。そしてとにかく「そんなことくよくよせんとどうでもええやん、ということになったら寝れるがな」ということから始まって、ずっと聞こえ続けている、あるいは言われ続けている自分が追跡されている、殺されるかも知れない、どうでもええやん、ということなんですね。「どうでもええ」と言われても困るとおっしゃるのですが、不思議なんです、そういう薬がうまくその人に合いますと、どうでもよくなる部分ができてきまして二週間しますとちょっとだけどうでもよくなったとおっしゃるのです。
 ところがそこで調子に乗りまして、薬は効くんだということで、ではもう少し薬を強くしょうとつい調子に乗ります、そうすると、だいぶん楽になったと言われるのですが、その次が大変です、「自分がなくなってしまった」と言われるんです。そう言ってくださる方はまだいいんですが、何もしないままボーッとして動かなくなる方がおられます。教科書を見ますとそれは分裂病という病気の過程の中で起きてくる一つの状態だといわれていたのですが、それはその人にとって大きな部分を占めていた世界をどうでもいい、どうでもいいというこちらの勝手な考えで排除することばかり考えた、そうするとその人の世界が見失われてしまったと思うんです。
 その中間段階で私に抗議する方がいらつしやいます。「あの薬は大変な薬だ、よくもあんな薬を出したな、お前直そうとしたろう」と言われます。「直されたら困るんだ、自分を苦しめていた世界と自分がどういうふうに付き合いながら、どうでもよくなっていくということを、一緒に考えていってくれるかと思ったら、薬で変えていってしまうやないか」と言うのです。要するに、どうでもよくなり過ぎたということです。その人にとって大部分を占めるその世界というのはとても大事なものです。だから「そんなこと考えんとき、こないしたらええねん」とはいえないものなんです。
 これは分裂病の人が典型的に教えてくださるわけですけれど、その他の様々な体験、知的障害の方がものにこだわる、あるいは何であんたそういうふうにしてしまうの、だけどそうなってしまうその人の世界を、いきなり「それは駄目であってこうしたらいいんだ」ということの問題性みたいなものを感じます。ここまでが「わけが分からない」という部分についてのごく簡単なレジュメです。

  できる、できないということ

 次に「できる」「できない」という部分になりますが、今の続きの中で考えていきますと、「できない」というのはできないと思われているからできないので、これは私たち自身もみんなよく経験するところだろうと思います。「私

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とってもそんなことはできない」「でもやってみたらできるではないか」「そこまではできるんだ」ということが誰しもどんな場合でもあるんだと私は思います。その人なりに、その人なりの力が発揮できる場があるんだ、ところが大変残念なのですが今幼児から小学生くらいの小さな子どもで、例えば知的障害でうちの子どもは重いんだと、あるいは自閉的だといわれる場合に、そのお父さんお母さんが「この子そんなんはわかれしませんねん、そんなん無理ですわ」と初めから言ってしまう。じっくり話してみたら何か話が通じるんですね、そして分かってくれるという部分が大変たくさんあります。しかしそれが見逃されてしまっている。
 そのような中でずっと来ますから経験出来ていない部分が大変大きいと思うのです。今新しく経験していくということをその人なりにどう受け止めるかということが、彼にとっては大変な冒険です。今まで出来ないと言われてきたことをやってみるかと始めて言われて本当にどうしていいかわからない、そこで周りが「あんたこんなことやったら出来るかも知れない」「やってみるか」というような最初の段階での配慮というものが大変大事なのではないかと思います。
 そう考えていくとこれまでの経験の中で、『たびだちの仲間の会』にいらっしゃる二四人の方の三分の一くらいの方を幼児のときに病院で見ておりまして、「わけの分からん」「やっかいな」「大変な」子どもだと思い込んでおりました。いわゆる自閉的といわれる人たちです。その人たちとたまたま、また『たびだち』で出会い、キャンプで出会っています。そうすると、その人なりの分かり方がありできかたがあり、その中でちゃんと生活がしていけるということに大変驚いています。そのへんになりますと私の力量の範囲を越えていますので、ここではあえて申し上げません。  その中で一つは、医学的な面からこれだけは考えて欲しいと思うことがあります。今日問題になっていますのが、知的障害、あるいは自閉症、精神障害ということになりますとこれは脳の働きの問題ということになります。今脳の研究が大変進んできています。そして脳のことが分かれば人間の全てが分かるのだという学者はこれはもう昔からいたんです。学者とはそういうふうになるものです。自分の所しか見えない大変偏った発達をしているのが学者ですね。偏差値の高い人ほどそういう偏った世界しかもちえないというとまた叱られるかも知れませんが、私はそういうふうに理解しています。
 脳の働きということに関して、これまでは脳の働きだけで心の問題を捉えようとするのはおかしいという考え方がありましたし、私もそう考えていました。心とか精神は違うんだ、脳だけで説明出来るものか、ということです。人との関係の中で、生きていくという一つの実態の中でそこで始めて自分であり、自分の心なのだというように考えてきたのです。けれどもそういう考えで彼らと対峙しますと、どこまでいってもすれ違うばかりでなく、私の言っていることはユングも言っているとか、やれ大川隆法も言っているとかいうように飛躍していきそうな部分もあるわけです。そして一方は、単純なパブロフの条件反射みたいなところへ置き換えられていくような部分に両極化していってしまいます。その理解というのは間違っているんだとだんだん気付いてきました。  脳の働きを生理学者は脳の部分において見ますが、脳をとりだして見ると、鼠とかの脳をとりだして見るわけですけれど、それはその部分だけを見ているわけではなく、そこに血の循環がありそこからどんな命令が出るかということの中で脳が働いている、これは自明のことです。頭の中に収まっている脳を考えてみると、脳はここにあるのですが、ここに血をちゃんと送らないと脳は働きません。脳が働かないと心臓も働かない、というお互いの関係の中で脳は脳たりえるわけです。ということは脳は脳だけで動くのではなく、まず、体という環境の中で始めて脳としての働きをもっということです。
 ところが体というものは体だけで体なのかというと、少し暑く感じたり、いろんなことを思ったりするのは外との関係です。外に開かれた状態の中で脳は初めて脳として働く、その人なりの働きを示す。いろいろな実験があります、外からの刺激をまったく遮断してしまうという実験があるのですね、恐ろしい実験なのですが、聴覚と視覚をまったく遮断するというのは割合簡単な実験です。聴覚と視覚をまったく遮断した状態で数日いますと、必ず声が聞こえてくる、自分の考えている声が、一週間もすると外からいっぱい声が押し寄せてくるという体

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験をもつ人があるわけです。それは閉じられた状態の中で脳が働きだすとそうなるというのです。さらに触覚から痛覚まで全て取り除いてしまう装置を作って全く外の空気とも触れ合わせず、感覚をなくしてどんな状態になるかという実験をやります。そうなると脳は全く働かなくなるという実験があるのです。脳というのは体のいろんな部分との関係の中で、そして体全体が脳も含めて外との関係の中で動いている、その中で始めて脳は脳らしい働きをするということです。
 このようなところを考えないと、脳のある部分がおかしいからその部分だけ何とか出来ないのか、訓練だといわれてしまいます。という間違いが起こってくると思うのです。たとえ、脳の部分的障害であったとしても、脳が全体として動き、体が外との関係の中で動いていく中で、その人にとっての脳の働きというものがその人なりのものとして出てくるということを大事にしないといけないと思います。

  ちゃらんぽらんであることの重要さ

 知的障害の方が実際に就労されて、どの辺で難しかったかという私なりの体験なのですが、これまで申し上げたような様々なことについての、ああそうだったのかという周りの理解があれば、違ったのではないかということが一つ。そしてもう一つは、例えばある養護学校を出て就労して、大体三か月から半年してもうどうにもならなくなって家に閉じこもってしまうという方に、私は何人も出会いました。そういう方の話を聞いてみますと、「だんだん嫌になった」と。「どうして、仕事ってどんなの」と聞いてみると、ある方は、なんというのでしょうか魚の切り身だったと思いますが、それをある一定の大きさに切っていって、機械で出来にくい部分だったのですね、それを入れていく。一日中それを、初め一週間教えてもらったら何とか出来るということで行ったらそればかりやっている。ついに彼は家から出なくなってしまった。どうしてかと言ったら、行きたくないの一言です。
 聞いてみると本当にそうなのです。朝職場へ行く、自分で始める、誰も声を掛けてくれない。昼はお弁当をもっていく、一人ポツンとたべている。誰も一緒に食べようとは言ってくれない。帰りに「おい、どこか行こうか」とも誘ってくれない。そして帰ってくると疲れたと言って寝てしまう。休みの日誰も尋ねてくる人もいないし、行くところもない、ただなんとなくテレビをみて過ごしてしまう、という生活ですね。彼と話をしていて「養護学校のときの方が良かった」と言いました。何故かと言ったら「友達がいたもん、よく来てくれたし、行った」ということです。いろんな人がいたということです、しかし職場に行った途端に全く人との関係がなくなってしまって、目の前のものをどう処理するかというだけのところにおかれてしまう。
 これは彼が知的障害だかれそれが出来なかったのではなくて、知的障害だから、周りが声をかけなかった、「あいつに言ったってわからへん」ほっといたらいいという周りの人の問題が大変大きかったのではないかと思います。
 何例かそのような例がありまして養護学校の高等部の先生方とも話しました。そうしたら、「大体まじめな優等生はそんなんになりがちなんですわ、ある程度ちゃらんぽらんな子がもってますな」いうことだったのです。それを聞いたとき「なるほどな」と思ったのです。
 ちゃらんぽらんになるということは難しいことだと思います。今私は週に半日診療していますが、思春期の人たち、中高年の人たちはほとんど心身症またはストレス性の欝の方です。その人たちは働かなければならない、ちゃんとしなければならない、ちゃらんぽらんに出来ないという人たちが来られるのです。来られてよかった、もうちょっとしていたら、あんた過労死をしているよという状態でくるわけです。きっちりやろうとしている人は、やれているときはいいのですが、何かのときに躓いたら、欝で休んでしまう、あるいは過労死してしまうというような状況が世の中にあると思うのです。
 そのちゃらんぽらんさというのはみんなが身につけなければいけないことなんだなあと、これは知的障害の方だけではないと、如何にいい加減に過ごしていくかということです。そこで私が「どうでもよくなる薬」というのは効力を発揮するのではないかと考えているのですが、あまりどうでもよくなってしまうとまた困ると、そのへんがとても難しい問題であります。

  最後に

 知的障害者の方が、たとえば養護学校にいた

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あるいは作業所にいたそして新しい職場にいくという時、一番そこで困られるのは自分をどう表現していいか分からない、「思うように言ったらいいねん、出来んもんは出来んと言ったらいいねん」それが言ったらあかんといわれている、あんたはこれが出来るのやから行きなさいといわれたら「これは出来ない」と言えなくなってしまう。そして言われたらまじめに本当にきっちり受け止めてしまう人の方が多いということです。また周りの人がそういうのに対して近づかないというか、声をあまり掛けないということを、どこの職場でも経験します。「言うたってちょっと難しなったら困るしな」というふうな敬遠のされ方が多いように、私は思います。
 そこで、結論的に言いますとこういった知的障害、精神障害の方全部そうですけれど、これまで日常生活の中で周りとの関わりが大変少ない状況におかれています。それは自分から関わっていっても十分受け止めてもらえない、「わかれへんねん」という形でかわされてしまう。かわされるということがどれだけ大変なことかと私は思うんですが、そういうことです。もう一つは、周りからちゃんと関わっていかない、関わっていかないからわからない、話してみたらわかっているやないかということを家族から聞くということは大変残念なことです。家族がどうこうというのではなくて、周りで「この子はわからへんのです」言われてしまうと、そうかなと思って見てしまう私たちのこれまでの生活がそこに現われているのではないかなと思われます。そういうことで、あまり「どうでもよく」考えたらいけないのでしょうが、少し気を抜いてどうでもいいということも含めて考えなくては、この問題はぎくしゃくして大変難しくなるのではないかということです。失礼致しました。

  ―質疑より―

 三二歳になる弟が、六年浪人して大学に入ったが学校にもいかなくなった。仕事を勧めてもままならない。家族としてはちゃらんぽらんにというふうになかなかならない。その問題は大いに関係はある。問題としてよく出されるものに登校拒否というものがあります。私が登校拒否の人たちとよく出会って、最近増えてきているのが大学生の登校拒否です。大学を結局八年間過ごしたけれども卒業出来切れなくて、二八歳、三〇歳で閉じこもっている方。それから、大学は卒業したけれども仕事につかなくてその間に周りに勧められて医学部へ行き直して、そんな試験は簡単だったし 医者になった。だけど仕事をするのは嫌だ、出来ないといって閉じこもっておられる方とか、何とかしてほしいといわれるのですがこれは大変難しい。
 その中でその人たちが負わされている部分があります。それは、登校拒否の子どもたちは学校へいくべきだというということで強制されるわけです。「義務教育なんだから行くべきである」「せっかくいい高校へはいったのだから行くべきである」「大学まで行ってるのになぜ行かへんの」「いい職についたのにどうして」「医者になったのになんで働かへんの」なにか、あなたはこうなんだからこうなるベきだ、こうだからこうなるべきだという論理でしか周りはみないのです。それが一番しんどいことなのだと思います。」

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 ある、医者の資格はとったけれども働けないという人が私の家にやって参りまして、たまたま私の家の近くで道路工事をやっておりました。アスファルトを引く工事ですね、そこを通りながら彼が立ち止まってじーつと見ますから「どうしたん」と尋ねると「ずーっとこの仕事をやっていたんですわ、あのときが一番気が楽やったなあ」と言われまして、「や、そうか」ということですね。ところが周りが許さないのです。「何で医者の資格をとってて道路のアスファルト敷きをやらなあかんねん」「その方がおれ、気が楽やねんからそうしたいねん」。しかしそれは許されへんという枠の中に自分を閉じ込めはるのです。そうするとそれは誰も理解されないという、理解されなさは精神障害の方、知的障害の方の理解されなさと同じだと思います。そしてそういう時に登校拒否の人たちがしばしば自分をぶつけるのですね、自分はこんなふうなのに何で分かれへんねんということで、一番ぶつけるときはいわゆる家庭内暴力ということがあります。変な言葉ですがあります。登校拒否の人たちで家庭内暴力をきちんと経験しなかった人はまず少ないぐらいです。よく、知的障害の方、あるいは自閉症の方が中学生から高校生くらいの時にパ二ックになるといわれます。中には一七、八歳頃にパニックになるのは自閉症に特有なものだという学者もいるぐらいです。それは私は全部間違っていると思います。
 登校拒否の子どもが、あるいは登校拒否でなくってもある時期家庭内暴力を起こすというのと、知的障害あるいは自閉症の人たちがある時機にパ二ックを起こすのと本質的には同じものだと思うのです。それ迄、周りの言われたとおりにちゃんとやってきた、みなそんな人なのです。言われたとおりにきっちりやってきた、だけど自分はということをなんか言い出した途端にずれがある、それを確かめようとして「わかってほしいねん」と言えば言うほど周りとずれてくる。ついに爆発してしまうわけですね。その登校拒否で家庭内暴力を経験した人たちが言いますのは、「そうやってぶつけていっているときに一番かなわんのはかわされることである。ドンとぶっかってきて欲しい」と、何を言うてんのやそやけどこうやろ、こっちはこうやん、できるか、というところでのぶっかり合いがなかったら、もう一歩外にいかへんというのですね。そうする前に周りが萎えてしまって「しゃあないなあ」という形で見られてしまうとそのエネルギーもでなくなって、閉じこもってしまうという人が多いです。そういう問題であろうと思うのですね。どうでしょうか。

  そうだとは思うが、どうしたらそうなるかというころを
 そういう場合、本人が一番気が楽になるときはどんな時かということですね。今気が楽に居れる場所がないのですよ。高校で登校拒否をやっている人、大学生でそういう人、知的障害で仕事をやめてしまっている人、家に居て家が一番居にくいというのです。それでいて家に閉じこもっている。他にないからです。その中には家にいたたまれない、家族の顔も見るのも嫌だということで精神病院に入院する人があるのです。ところが、精神病院もかなわん、気使うといわれるのです。看護婦さんに気使わななあかん、周りの人に気使わなならん、で周りの患者さんはきちんと理解せえへんかったらあかんしと、そうなったらそんな真面目なことを言っていたらあの世界というのは大変なんですね。おれ一日ここに居ってもええねんという気にならん限り過ごしにくい場ですね。だからどうやったらそんな気になれるのかというのが私の今の課題です。
 少しつけ加えますと、言われた通りにきっちりやる方、知的障害の中にまたそういう人が大変多いです。そのままでいきますと、知的障害であろうと、どんなに偏差値が高かろうと優秀であろうと躓き方は同じだということですね。いい加減さを持たないと生きていけないのに、いい加減に生きにくい世の中、それがものすごく大きな課題ではないかと私は思います。

p中表紙

  市町村の新たな就労支援
  雇用につなぐ可能性と課題
  河野秀忠さん
  季刊『そよ風のように街に出よう』編集長

はじめに
箕面市障害者事業団の設立
作業所の抱える矛盾
行政投資の有効性は
行政の狭間で
障害者雇用のイメージ転換を
障害者雇用の方向
1995年1月23日の講演記録

p21

  はじめに

 紹介のありました河野です。雑誌の編集長をやっておるのですが、たまたま住んでいるところが大阪府の箕面市というところで、今日の話はお手元にある黄色い表紙の本(「障害者雇用促進制度調査研究最終報告」箕面市心身障害者連絡協議会)をべースに話させて頂きます。
 今日のタイトルは市町村自治体は何が出来るのかということですが、箕面市というところはみなさんもご存知の通り、人口一二万人強の大阪府の北の山沿いにあります小さな町です。特筆すべきは箕面の滝と猿と紅葉のてんぷらと笹川名誉会長であるというようなそれぐらいが記憶に残るような町です。その町でも二五年ほど前から、障害をもった市民の就学運動が盛んで、障害をもったこどもたちの九〇%が地域校区の学校に、一〇%が養護学校に学んでいる。中学校を卒業してくる生徒についていえば、ご存知の通り公立高校が門戸を開いていないのでほとんど養護学校の高等部へ進んでいます。高等部の卒業生は毎年、五〜六名です。箕面市内には民間の作業所が三力所、公立の身体障害者の授産施設が一力所それから知的障害者の授産施設が一力所、それと卒業後ということでは明光ワークスというものがあるわけです。取り立てて珍しいという町ではない、どちらかといえば典型的な町ではないかと思います。
 以前、障害をもった人たちに対する行政の考え方というものは、今でもその陰は色濃くあってわかって(作業者注:かわって?)いない部分があるのですが、通所の授産施設を拡充していこうということでした。障害者のための就労施設、民間であったものを格上げして、授産施設「ワークスササユリ」というものをつくっています。しかし授産ということでいいのだろうか。授産というものは法律的にもそうですが、障害をもつ市民に保護のようなものを施すということ、民間で三年という入所期間です。しかし実際は通所年限をはるかに越してしまっている。開所以来そこにおるという人がいるのですね。そのような状況の中で僕たちも作業所をつくったりしてきたのですが、いかんせんわれわれが何ぼ頑張っても限界があることは目に見えているわけです。
 障害をもった人たちが就労の場を持たないということに対して、以前から言っていたことがあって、授産施設みたいなものを膨らませれば膨らませるほど入り口は増える、大きくなりますがところが出口がないわけです。出口がないのだから詰まるしかない。という非常に奇妙な構図になっていく。本来はその入りロを通過して民間の会社なら会社に就労していくべきなのですが、入り口ばかり増えていくのだが出口がないという状況になっています。
 問題点というのは様々あって、たとえば養護学校の卒業生が職業安定所に求職票をとりにいくというときに、それをまとめるのは学校長なのですが、学校長があらかじめ「この子は、働ける」とか「働けない」とか判断して、これは働けるなと思った人間だけ、職安へいって登録をする。とこんどは「職適を受けてください」

(p21下段挿入コラム)
―講師のプロフィ一ル―
●河野秀忠さん
 障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』編集長
 一九四二年大阪市生まれ。箕面市在住。
 一九七九年に『そよ風のように街に出よう』発刊。障害児教育創作教材『ゆっくり』など編著多数。障害者文化情報研究所事務局長。

―参考資料―
 「障害者雇用促進制度調査研究最終報告」
 箕面市障害者雇用促進制度調査研究部会
 一九九三年十一月

p22

といわれる。そこからまた職適でおっこちると、登録は出来ないというように、障害をもった人たちが職業につく前には二重三重に関門があるわけです。

  箕面市障害者事業団の設立

 このようなことをわれわれはトータルに考えて、何とか方策はないものかいろいろ考えました。一方ではいわゆる公的なものに頼らずにわれわれ自身が企業をつくる。たとえば、パン工場をつくって障害を持つ人と持たない人が一緒に働いて給料を獲得していく、という方法も、片一方ではやっていく。その時、壁になるのは労働行政なのです。
 労働行政というのは全部全国単一なんですね。たとえば、こんなことはめったに起こらないことですが、大阪に住んでいる人が何かいい仕事がないかと探す、鹿児島県に自分にあういい仕事があるということになればこれはいけるわけです。しかし実際の市民生活の中ではそんなことは不可能なんですね。大阪に住んでいて鹿児島に通うことはできない。もっといえば大阪府下でもたとえば池田の職業安定所に求職登録して、東区の職安を通して(そこがキーステーションになっていますから)、「堺に働くところがあるよ」といわれても、池田周辺から堺まで通えるはずがない。そういうふうに割と労働行政が広域に行われてしまう。広域にわたりますから当然のこととして各市町村の責任というものが希薄になるのです。
 はっきり言うと、市町村の窓口には労働行政の窓口がないわけです。事業所にアプローチしていくような権限を持った窓口が全くないわけです。観光と兼ね合わした、何というか商工観光課というようなものはありますが、各事業所をどう監督していくかといった機能を持った窓口はない。これは大阪府の場合と市町村とは若干違いますけれど、そういう傾向にあります。  そういうことで僕たちは、入口はあるけれども出口がないという状況、このことはみんな知っているわけです。特に障害児をもってる親なんかはよく知っているんだけども、「とりあえずは預かってくれるところがあればいい」というほうになだれ込んでいきます。「通所授産でも何でもいいから、預かってくれたら、特に行政がかんでいるところなら安心だ」ということで、そこで止まってしまうのです。そこから先は要求しないわけです。そこがよりいい授産所になってくれればいいのです。
 しかしよりいい授産所とはある意味でジレンマなんですね。よりいい授産所はいかんわけです、本来的には。より悪くて早くそこを出ていかないかんのにそこのところをきれいにしようとする。そのために毎年膨大なお金をかけるということに僕たちは非を鳴らして、障害者自身の団体、父母の会、農協、商工会議所、たぶん関係あるだろうというところ全部に呼びかけて、一〇年くらい前に障害者の就労に関する懇談会というものをつくりました。親の会とか父母の会という組織は、僕たちと若干考え方が違うのだけれども、少なくともどう考えても毎年毎年「一〇人前後の障害者たちが学校を卒業し、先行きもなくずっと何もしなければ、たまるわけです。一〇年すれば一〇〇人、二〇年すれば二〇〇人たまるわけです、死なない限り。この状況は漫然とした不安感を親や関係 団体に与えている。
 何とかしようということでその関係団体が集まる中で、行政としてもわかるわけです。今自分達がやっている授産施設を増やす、拡充していけば破綻することが、わかるのだけれどもやめられない。
 ここがわれわれと行政との違いなのです。われわれは、マッサクなんかもそうだけれども、こういう事業をやっていて「あかんこれは、やめよう」といってやめれますよ。しかし、行政は一度手をつけるとやめれないわけです。やめれない部分はやめれないとしておいたとして、この状況を打ち破る方法は何なのかということを考えて、障害者事業団という財団法人をこしらえました。
 労働部の指導も受け、財団法人ということで事業所として設立、最賃の適用、労働法の適用も受けるという組織です。われわれの方も金を集めましたけれど、行政の方も一〇億の金を出しました。一〇億の金というと一時バブル華やかなりし頃は八%くらいの利子があったのだけれども、最近は二%くらいまで下がって非常に苦しい。われわれは行政、箕面市に対し色々いっているのですが、市の税収も落ちていてなかなか補填もきかない状況なので、そのうえ、

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今回の地震ですから非常に頭の痛い状況です。その補填がきかないという状況を行政と話し合って、市の委託業務を受けるということをやっています。啓発事業であるとか公園の緑化であるとかいわゆる特別な障害者市民に対する就労援助ではなくて、一般行政施策の委託です。公園の緑化というのは一般施策で何も障害者のためにやっておるわけではないですから。それからカン・びんのリサイクルこれも一般施策、そういうものを障害者事業団が委託を受けることによってやっています。

  作業所の抱える矛盾

 皆さん方もご存知だと思いますが、もともと小規模作業所は矛盾を抱えた存在として生まれてきた。つまり社会が障害をもった人間を受け入れない、片一方は何とか受け入れてほしいといって網引きだけがあって、現実としては障害をもった市民は社会的に存在するわけですから、それは何とかしなければならないということで、いわゆる民間のミニ授産所というものが生まれてきた。ものすごい数の作業所が出来ているのだけれども、それだって良くいえば公的な法律に基づいた授産施設の民間版にしかすぎない。だから本来的な意味あいからは当然作業所にきている障害者も作業所というところを媒介にしながら働きに行けるという体制を組まなければいけない。ところが実際は公的な授産施設と同じように、どの作業所もたまってきている。つまり出口がない。出口がないともうやっていられないというのがあって、西淡路希望の家なんかもそうですが就労活動をみんなやらないかんと思っている。しかし状況からすればやってられないわけです。企業を回って、なんとか雇ってくださいなんてやってられない。
 もう一つは作業所などを経営していく上で、「この人なら民間に働きにいったって充分いけるじゃないか」という人ほど、作業所にとって必要な人なんです。この矛盾を抱えている。この矛盾はいったい何からきているのかというと、労働行政の枠外だということなのです。作業所というものはいってみれば労働へのある種のステップであるのに厚生行政、厚生省の管轄であるということです。だからあくまで訓練という位置づけ、訓練だからその達成度などはわからないということになる。それを判定していくのはそれぞれの作業所にかかっている。しかし実際作業所は日なが一日作業をやっていかないと成り立たないわけだからそこのほうにエンジンをかける、だからそこをステップにして地域や職場にはいっていこうとすることはなおざりにならざるをえない。なおざりに しているわけじゃない。就労に向かいたいのだけれどもしている余裕がないという状況になってしまう。こういうのが全国津々浦々それぞれの作業所の状況です。
 僕たちはそういう意味では、財団法人障害者事業団というものを作業所とネットさせながら、新しいやり方は出来ないかと模索している。つまり労働行政と厚生行政との谷間に橋を渡そうとしているわけです。
 厚生行政からは一定程度の金は出てくる、しかしそれは充足した金額ではない。かろうじてやっていける金額です。そこで労働行政に頼ろうとすれば、労働行政の中に障害労働者の概念がないのですから当然制度がない。職場や職域の拡大云々はあっても、実際に一人の障害者市民がちゃんと働きにいって賃金を獲得して云々ということにはならない。ここのところは難しいところで、箕面市にある要求をしますと箕面市は、「そういう制度は府にもないし労働省にもない」という、「援助していく制度がないのだ」と。府や国のことを待っていたらやっていかれへんから「市単独でもやれ」というと「市単独でやったら府が嫌みをいうんですよ『お金があっていいね』なんて嫌みをいうんですよ」といわれる。単独事業というものがものすごく打ちにくい、府の応援がないと。

  行政投資の有効性は

 われわれは労働行政の抱える矛盾の中で、少なくとも事業団というものをステップにして民間企業と結びついていこうとしている。わたしたちも保護雇用という概念を何とかして導入していきたいと思っているのですが、また箕面市内の様々な団体もそのことには注目していたのですが、なかなか単独事業にはならない。一般行政施策の委託を受けつつ、同時に研究部門を置き、どうしたら障害者の雇用の問題は前に進むのかということを考えていきたいということで始めた結果がこの冊子なのです。
 まず、制度上からいきますと、現在の制度の

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中ではなかなか機能しない制度の乗り入れみたいなことを考えています。あまりどでかいことを考えても、箕面市がなんぼ金があるからといってむやみと金を投資するわけにもいきません。われわれが一番言い続けてきたのは行政の投資効率の問題なのです。それはわれわれの中にも矛盾があるし、行政の中にも矛盾があります。
 ぼくはたまたま箕面市内に住んでいるということで、ワークランドや豊能障害者労働センターという障害者を雇用するための事業所の代表をやっています。一方でミニ授産「そよ風の家」というのをやっているのですが、片一方は何とか最賃をクリヤーしようとしている、片一方は一万・二万と毎年賃金を上げるようにしたいが非常に恥ずかしい話だけれどもだんだん苦しくなってくるとなかなかそうはいかない。それでも五年おって五万円、一〇年おってやっと一〇万円。片一方は事業所だから事業所として給料を払っていかなければいけない。事業所として色々な仕事をしているけれども、その事業所には行政的に援助する手段は何もない。「魚屋や八百屋と同じで、もし河野さんところの障害者労働センターに援助したらそこらの八百屋や魚屋がうちにも援助してくれいうてきたら援助せざるをえないですよ、行政としてはそれは出来ない」という。まあ、独自に過渡的な措置として障害者の雇用を目的とした事業所に対する助成はするが、制度として確立したものはないというようなことで何とかクリアしている状態です。
 そこで、僕らは行政に、公的な授産所にかけている金と障害者事業団、あるいは障害者事業所にかけている金と比べてくれといっています。端的な例をいいますと、ある通所授産施設これは定員が今六〇名です、僕らはこれを通所ズサン施設ムカツキ園とよんでいますが、その職員は一日何もしよらん。ぼくはそこの職員とけんかするわけです。「君達は朝歩く方向が違う、君達は朝園生と一緒に駅から歩いてくる、そして一日囲いの中でのんびりしている。何をしているんだ君達は。園生が駅からここへ来たら職員はここから職を求めて出ていかなければいけないのに、一緒に入ってきて一日ぼーっと何をしてんねん」とけんかしている。そこへ二億何ぼですよ、国、府が負担している上に箕面市が独自に積み上げていますから。二億四千万かが毎年ですよ、今年は、ではなくて毎年です。しかしそこに通っている障害者、園生の手にお金が乗っているかというと乗らない。そこへ来て授産でやる報奨金は一万円、少ない人で二千円、そこに交通費、食費、施設利用費これは親の負担です。これでは一万円もうてもはるかに持ち出しのほうが高いです。だけども親はそれでもいいというのです。ぼくはそれはあかんのやと強く親には言っています。年間二億何千万か毎年毎年、見返りも何もない。そこに働いている人、訓練を受けている人が就労したという話もなければ、そのうちの何人かが外へ出てという話しも何もない。そしてその人たちが手にしているお金が増えたということも聞かない。
 そのことと、片一方で、少なくとも障害者事業団は最初の段階で一〇億というお金を出した。市は「一〇億出しました、一〇億出しました」というけれども、その一〇億のお金が減ったのか。一円も減っていないんです。この一〇億というのは積立でその利子で運用している。この一〇億を出したといいながらその一〇億は滅っていないのです。減っていないのに行政からの委託事業あるいは独自に開拓した事業、色々やっています、スッポンの養殖やったろかいうてやったけれど夏ひなたおいておいたら亀が中でうだってしまった。まあパイロット事業というのか。これは障害者の仕事に向いているのではないかというものをやっています。
 それでどちらが行政投資として有効なのか、そこで働いている障害者は最賃をクリヤーしているのですよ。一〇億の基金は減っていないし、そこに働いている障害者の賃金をちゃんと払っている。片一方は、職員の月給は上げなければいけない、障害者が得る金は一つも積み上がらない、未来に希望も何もない。これはどちらが行政として投資効率が高いのか。言うまでもなく、障害者事業団の投資効率のほうが高い。
 私がやっている障害者の事業所、先ほどもいいましたが年間二千万ちょっとの過渡的な援助をうけていますが、ほとんどの障害者が少なくとも平均賃金一〇万円を得ています。こういう試み、マッサクなんかが典型的だと思うのですが、行政に何の手も煩わせずに補助金だけ出しておけばその事業所はちゃんとその補助金で事業を起こしてやる。投資効率の問題として

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どうなのか。というある種の脅迫みたいに「投資効率を考えなさい」と行政にいってきたわけです。

  行政の狭間で

 もうひとつは雇用促進法の矛盾です。箕面の場合は他のところと少し違いはあると思いますが、大企業がない。箕面市はもともと住宅が中心、住宅と農家が中心の町ですから、三%つまり障害者を一人は雇わなければいけない六三人以上の従業員の企業がない。ほとんどの場合が一〇人とか二〇人とかの小さな企業が多い。最近は繊維団地が出来まして、そのあたりは企業群としてかたまっているというところです。だからほとんどの場合障害者を雇用しなくていい企業なのです。しなくていいと言ったらおかしいですが法律的にはです。
 もちろん、だからといって障害者雇用が必要でないかというとそんなことはない。事業団の調査ではだいたい障害者を雇用している企業というのは、六三人以下の企業です。少ないですけど、障害者を雇っている。ここでわれわれ研究活動の中でも議論になったのですが、たとえば矛盾があるのですね、更正通所授産みたいなところへ通所している人の制度は厚生省の、市町村行政でいうと健康福祉課か民生部の管轄です。それで働きに行くというのは労働部の分野です。ここに橋を架けないとどうにも状況が切り拓けない。
 その方法にどういうことがあるかといろいろ考えてみたのですが、例えば六三人以下の企業というのは一般的におとうさんおかあさんががんばっている企業なのです。たまに一〇人くらいでやっている縫製工場とかもありますが、そういうところでは総務能力というものがないわけです。税理士さんなんかと相談しながらやっている。
 そこで箕面市の商工観光課というところがあるのですが、その中に労働福祉部というのができたのですけれど、そこで障害者の就労の問題もやる。そこの仕事が何かというと、大阪府の労働部から下りてくるポスターとかチラシとかをそれを増刷りして企業とかにお渡しする。もちろん市町村自治体の力が弱いですから自分たちの市町村の企業に障害者を雇っている企業、雇っていない企業を職業安定所に問い合わせても絶対に言ってくれない。僕らは納得できないのだけれども見せてくれない。そうすると自分たちで調べなければ仕方がない。わかっているものをまた改めて調べなければいけないから二重手間でしょう。企業だって市町村の内情を知ってますからつれないものです。
 われわれとしては労働行政と厚生行政が立っていてその狭間に障害者の就労問題が落ち込んでしまっているという事実に気づかざるを得ない。しかしそこへどうしたら橋が架けられるのか、大阪府から嫌みをいわれるかもしれないが、市町村がちょっとがんばって金を出して、一定の手だてをすれば橋が架かるのではないかということでこの研究を進めたわけです。
 先ほどいいましたが、六三人以下の企業で総務能力がないわけですから、例えば障害者を雇用する場合、労働省とか職業安定所からは「障害者を雇ったらこんな制度がありますあんな制度があります、障害者がいると税金がこないなります」といっぱい言うけれども、その申請書たるや厚みが五センチくらいになる。あれもこれもいっぱい書かなくてはいかん。そんなことができる企業というのはよほどの大企業です。書類を書き納税証明を付けて、それで、はいって出してくれるのは月高々二、三万円。なんぼそれがあるから障害者を雇ってくれと言われてもそれをとる手だてがないのです、そういう総務の仕事を代行できないか。
 また、これは労災の関係もあります。職場の中で怪我をしたりすれば労災の認定とかになりますが、通勤途上に怪我をした場合には労災の認定がなかなか難しい。最近は少し緩やかになってはいますが、非常に難しい。
 こういうものを整備しないと、障害を持った人たちが家にあるいはグル一プホームそういうところから企業に行く、交通アクセスのところにも人が介在しないと、通えないわけです。そこで例えば身体障害の人の場合は公共機関を使うということももちろん大事ですけれども、送迎用のバスとかもいるわけです。しかし一社で送迎用のバスを持っているところなどまずないわけです。われわれとしてはそのことを何とか、例えば第三セクターのような形で通勤バスを運行する数社からお金を集めてバスを運行するというようなことはできないのか。実際はこれは難しいのですが。まあ、考え方としてどういうふうに金がでるかということ

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で、僕らが出すのか、企業か大阪府の労働部や政府が出すのか、あるいは更正授産の一つの柱として金を出してくるのかこういうところが非常に折り合いが悪い。しかし、そこはあまり深く考えずとも、各市町村が本気で少し金を出すとかすれば解決すると思います。
 現在ミニ授産所は箕面市の場合は三ヵ所ですが、隣の豊中市では四〇ヵ所を越えている。四〇ヵ所です、どないするのか将来、全く展望がない。全くこの作業所というものがどのような役割、いままでであれば障害をもっていくところがないから困っているから、やむなく作業所をつくった。でも今はその作業所の経営が非常に難しい。大変だ、だから行政に向かって豊中市や池田市に向かって補助金を増額してくれと要求してきた。これをずっと続けていけばどうなるのかというと、青天井というかどんどん補助金を積み上げていくというかそんなことは考えられません。どこかで考え方を変えなければいけない。
 そこで考えたのが、考えるのはタダやからね、「作業所にそういう能力を持ってもらうことはできないか」ということ。作業所に何人か職員がおる、その職員にもう一人労働行政の側が金を出すことが出来ないのか。職種開拓とか就労のために民政部ではなくて労働行政から障害者就労の職種開拓のために金を出す。その能力、例えばうちの障害者を雇っていただいたら税金、税務上の手続きあるいは雇用促進法に基づく設備改善の申請もするというような機能を作業所に持たすべきではないか。
 そのためには、今までは溜まるにまかせたまま厚生行政から金が下りてきていたのを、積極的な側面を持つのなら、労働行政から金を引っ張ってくるのは不可能ではない、と思うのです。今ある資源、作業所とかいうものをマイナス要因と見るのではなく社会的資源と考えて、その資源をどう活性化するかということが二つめのポイントです。

  障害者雇用のイメージ転換を

 もう一つはいままで障害者を雇用するというのは何となく、どう言ったらいいのかマイナスのイメージだった。「かわいそうだ、何とか働き口はないのか、行政の皆さん何とかお願いします」といったようなことで状況は推移してきた。しかし本当にそうなのか、今の労働に関する社会状況の中で、例えば『信楽から吹く風』という映画をご覧になったかたがいらっしゃると思いますが、この映画は信楽という町が障害者雇用を援助しているというものです。まあまあ信楽はいい町だというような、そういうイメージでつくられています。
 だけどあの映画をじーと見ていると、明らかに障害者があの町を助けている。泥をこねて焼き物を焼く、何度か体験しましたが爪の中にも泥が入って、きたないというとおかしいが汚れる仕事なんです。映画の中に出てきた町工場なんかでも近代的な工場とはいいがたいところで働いている。ああいう職種には今のシティボーイとかシティギャルは来ませんよ。来ないからじいちゃんばあちゃんの仕事になっている。そこに障害を持った人たちが働きにきよるのです。あそこは就業率は高いですよ。焼き物、窯業という産業における障害者の就業率は非常に高いです。だから信楽焼を支えているのは明らかに障害者市民だといえるのです。
 また、京都でも京都市がやっているカン・ビンのリサイクル工場、淀の競馬場よりちよっと向こうです、河川敷きのところにありますが、これが汚いのなんのって、奴隸工場みたいで、音もすごい臭いもすごい。そこでみんな一生懸命働いている。あんなとこ募集しますといっても健全者は誰もきませんよ。京都の観光地から排出される力ン・ビンを処理しているのは障害者市民です。明らかに障害者が京都の美観を保つという役割を担っているのです。そこの戦力性みたいなものをわれわれは言うべきだし、ましてや箕面のようなあんな紅菜のてんぷらと滝と猿しかおらんような町に巨大店舗を建てるようなことはおかしいといっています。
 箕面のような小さな町でも大手スーパーが進出してきていますから、小さな商店がつぶれかけている、働き手がない、さびれてきているのです。いままで町の中でやっていいた中小の商店などがどんどんつぶれていっている。百貨店などがばーんと建つとどうしてもその周辺の市場などはさびれる。店をたたむその理由は、買ってくれないということもありますが、店を支えてきた若手がいなくなっていることが大きい。そこで、障害を持っている人を雇用することがある種の町の活性化、具体的な中小の商売人

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とか小さなお店を支えるのではないか。町の活性化のためにも障害者雇用というものを考えていかなければならない。これが三つめの視点です。
 ぼくのところの近所に半分つぶれているような市場があるのですが、そこにクリーニング屋さんがいる。そこに去年から障害者が実習にきている。ズボンプレスをしている、プレスの仕事は一日同じ作業です。きちんと並べて、プレスして、これの繰り返しです。こんな仕事ならなんぼでもできる人はいるわけです。ここにもし障害を持った人が採用されれば、そこのクリーニング屋はまだ何年かはもちよる。というようなことは考えられる。しかし先ほどもいいましたように、そこのクリーニング屋のおっさんは書類書くのが苦手だ。「そんなもん書くくらいならいやや」といいよる。だからみすみす自分達がやっている事業をやっていく方法があるにも関わらず、「そんなぎょうさん書類書くならとてもじゃないがいりませんわ、そら障害者は雇いたいよ、でもかんにんしてくれ」ということがあります。
 それをそこにいく作業所や事業所が行政の応援をえて、そういう手続きを代行できるならば、また送迎用の車ならば一社ではなくて何社が共同して購入したものを運用する第三セクターを行政が金を出して応援すれば、一台の車で十何人かの障害者を職場に送り届けることが出来る。

  障害者雇用の方向

 職場というのはある意味では非常に過酷な状況にありますから、差別というものはあるわけです。ほとんどの場合就職して敗退してくる障害者心理というのは何が問題かというと人間関係です。これが第一です。仕事そのもので敗退することはまずない。そしてそれは工夫の問題なのです。
 ある障害者で、彼は時計を見る習慣が身についていない人で、一つの工程をずっとやる。時間がこようが来まいが、どんどんやる。ある程度したら溜まるから次の工程に移らないといけない。しかし時間の概念がないものだからそのひとつの工程でいっぱい積み上げてしまってライン自体が動かなくなってしまう。企業としてそれを解消するために大きな砂時計を買ってきて、それを彼の前に起き、この砂がなくなったら次の行程へということにしたらスムーズにいくことが出来た。
 あるいは、月火水木という曜日の概念がない人もいます。ある人は徹底的にあるのだけれどもない人は徹底的にない。その人たちがわりと他のことで有能な場合がある。阪神電車阪急電車など電車の形式をバッチシ覚えているとか、新聞の名前はきちんと覚えているとか。だから月曜日は朝日新聞、火曜日は毎日というようにカレンダ一に新聞名を張り付ける。毎日新聞でというとこれはもう火曜日となる。そういう部分で工夫をして仕事をやるというふうにしていけばよい。
 それをやるためにも一定程度の慣れというものが必要になる。つまり、仕事がありますはい来てくださいといったって、すぐにはいかないわけです。そこで、一人で行ける力のある人に一人でいってもらいますけれど、一人でいく力のない人には誰かがついていく。サポートするという制度も必要だろうと思う。ただそのことを一つの企業に求めても、つまり一人の障害者を雇うために一人がくっつかないけませんといったら、誰が雇うかということになる。それを第三セクタ一方式で憤れるまで人をつけるというようなやり方をすべきなんです。ということをいってすったもんだしてできたのがこの冊子なのです。
 この中味を皆さん熟読玩味してほしいのですが、この長大な中間報告とこの最終報告中に書いてあることで、今実現していることは二つです。それは職場実習事業これは職業安定所がやっています。これは三ヵ月、最長三ヵ月です。まあ三ヵ月で職場の状況がわかるかわからないか、難しいところです。この箕面の事業団でも障害者の職場実習事業をやっている。事業団は障害者を受け入れてもいいなと思っている企業を公募します。受け入れてくれるかどうかは別です。まあ一度実習を受け入れてもいいなと思っているような企業を公募します。そして登録してもらいます。片一方で障害者市民に呼びかけて、職場実習事業に参加してみませんかといい、登録します。両方登録するわけです。登録するのだけれども、企業とお見合をしても

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そんなにうまくは行かないのです。特に身体的な条件であるとか、職種によって、知的障害の人に全然あわないということも現実の問題としてあるわけです。
 お見合してもあかんということがよくわかった。ここでもう少しきめ細かくやろうということになって、お見合をする前に障害者事業団の担当職員が相手の職場に入ってどういう仕事なのかということをざっと点検します。「こういう仕事ならあの人にいけるのではないか」というふうにまず点検する。みなさんもこれは経験があると思いますけれども、ある日突然見も知らぬおっさんがおって親に連れられてきて、「今日からここに働きに行きます、おじさんがついて行くから」といわれても不安で不安でしょうがない、なにされるのかと思いますよ。ここでもう一段何かおけないか。事業団も仕事をやっておるわけです。そこでちよっと慣れの仕事をしてもらう。顔も覚えてもらう。二週間か、それからおもむろに企業に行く。一緒についていくサポーターは先に調査していますから職場のことがわかるわけです。働く人も「だいたいこういう人とやるのやな」ということがわかるわけです。
 こういうことで職場実習事業を最長六ヵ月、最長六ヵ月ですけれど、最後に重複は可能ということつまり、六ヵ月やってあかんからもうあんたダメよということではなくて、また違うところはないかということで、やれるというような形のものを職場実習事業ということで箕面市が単独で、大阪府も制度がありませんから、箕面市が単独で予算化して障害者事業団がやっています。
 もう一つは先ほどもいいましたように、まだ過渡的な措置ですが、いわゆる市内の障害者を雇用するために事業をしているところ、大阪市内でいうとマッサクなんかがそれに当たるでしょう、障害者を雇用するために事業をやっているところに助成、補助金を出す。これも箕面市単独です。これも府の制度ではありません。これはなんぼか、ミニ授産への補助と同じランクにしてあるのですけれども、補助金を出しています。僕らももちろん就労の問題を頑張ってやらなければいけないということはあるのですけれども、将来そのようなサポートを本格化させたいと思っていますし、箕面市の方からもたぶん就労支援センターの構想があがっていると思います。積極的にそれにも関わっていきたい。他には大阪と枚方と茨木で動き始めていしかし、こんなのができたからといっても、希望が生まれてきたとは思えない。それは試行錯誤の一つだと思うのですね。それでは箕面市内の障害者がみんな就労できるかといえばそれはできない。それでも就労に向けての入りロの、入りロばつかりで溜まっていたのが出口のドアをノックする、まだノックですよ、ノブは回していない、ましてや開いてはいないのですが出口のドアをノックする施策として市町村自治体としてできることではないかと思います。そんなに大した金ではありません、両方の制度をあわせても五千万円いってないでしょう。もちろん現在の状況の中で五千万円というのはそれぞれ今の状態の中では難しいと思いますが、これにもし大阪府が市町村でもできそうだなという制度として紹介して、もしやっていただけるならと一〇〇分の一でもいい、一〇万円でもいい大阪府が予算を付けてほし い。これはどこの市町村の担当する部署の窓口の人が必ず言います、大阪府のその制度がないのだ、制度がなくて我が市が単独で事業費を計上したら議会でむちゃくちゃやられます、「この厳しい折に新規事業とは何事だ」と。まあ中身なんか議員さんは考えてないですからね、それがどんな重要なことであっても考えてくれへんのやから。
 そういう意味では府がたとえ一〇〇分の一でも、月一〇万円でも出すグロ一バルな視点でやってくれたら、市町村は大変動きやすい。わずかですけれどの府の予算も付いていますというと通るのです。箕面市でこれを新規事業として、大阪府にもない中で通すのにどれだけ苦労したか。もっとひどいこともいわれました、「他の実習事業と競合する」と。競合するって、競合した方がいいじゃないですか、どちらを選ぶかは障害を持つ人自身が選んだらいいことなんですから。何で一つでないといかんのかというようなことをすったもんだしてやっと実現にこぎつけたのです。
 こういう先進的とはいいませんが、あるアイディアを持った一つの施策ができるということを大阪府はもっと研究してもらって、他の市町村に伝えてほしい。これは、僕たちは障害者

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の自立と解放という理念を持ってこのような活動をしていますけれども、僕たちが一〇〇万枚ビラをまくよりも行政がそういう施策を提示することの方が、伝達力が早いわけです。行政の方々に、われわれも運動するけれどもあなた方も行政自体の運動のスタイルを確立してほしいと、箕面市だけが苦労してつくるだけではなくて、箕面市でつくることによって、池田にも豊中にも広げてほしい、それはわれわれにはできないけれども行政にはできるのだということを言ってきました。これは他の市町村、東京の町田市にも調査に行きましたけれども、共通のテ一ブルというものがまだできていないのです。
 東京の二日市安さんという電動車椅子で生活している人が言っていたのだけれども、人間の生活圏は今日的な言い方をするならば電動車椅子で行って帰れる距離なんだ。それが人間にとって最大の距離なんだと、その中で仕事がなければならないし、市民生活がなければならない。この視点ですね、箕面市という小さな町ですからそういうことができたということもありますけれど、冒頭にいいましたように漫然とこのままいったら将来とんでもないことになるぞという状態、今ゴールドプランであるとかそういうものもありますけれども、進めていくためには障害者団体がしっかりしなければと思います。行政にも頑張ってもらわなければならないですが、自分たちから積極的な提案をしていかなければいけない。
 まだまだみなさんの場合は緒についたところだけれども共通のテ一ブルはある。障害者事業団の理事会、評議委員会には全障害者団体が入っています。そういうところが共通の基盤になりますから、心身協、これが障害者基本法の成立で障害者市民施策推進協議会となりましたが全部の団体が顔をそろえています。そこならば戦うことができますし、いろんな意味で共通のテーブルが必要だと思います。
 しかし、まだドアをノックしたところだし、これからもっと制度が充実して立ち上がったとしてもそこから一歩が始まるにすぎない。障害者市民があまりにもそういう意味では無権利状態におかれてきたし、現在もおかれている。そういうものが整って初めて、やっとこれから「普通の市民」として選択できるということになる。
 しかしそこにも矛盾したものはありますよね、あの過酷な資本主義社会のなかに入っていかなあかんのか、そんなとこ行かんとこっちのほうでじっとしてた方が楽なんではないかとかいう思いもあるけれども、やはり選択できるものがあってそれを拒否できるのか、選択するものが全くなくてこっちにおるのかは全く意味が違いますから、労働の問題は運動の側ももっと真剣に考えていかなければならないと思います。労働という概念をもっと深めていくためにそれぞれの市町村で共通のテ一ブルをつくっていく必要があると思います。

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箕面市障害者雇用支援センターの業務の流れ

 一九九六年七月から開始した。十二万人規模の単独の自治体での設置は全国初。

p中表紙

  中小企業の障害者雇用
  矢野孝さん
  矢野紙器K.K.専務取締役
  大阪府中小企業家同友会

はじめに―私たちを取りまく経営環境
中小企業家同友会の精神と活動
障害者問題全国交流会
第七回交流会での記念講演から
私の経営体験から
経営理念が障害者雇用から見えてくる
知的障害者の雇用から
さいごに
―質疑応答―

1995年7月12日の講演記録

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  はじめに―私たちを取りまく経営環境―

 今日はこういう機会を与えていただいて感謝しています。みなさんとお話できるのを楽しみにしていました。
 最初、姜さんからこういう会があるのだと話があり、障害をもっている人の雇用について話しをしてくれといわれて、はいわかりましたとつい安請け合いをしてしまいました。友人にもおまえはすぐ安請け合いをするとよ<言われるのですが、いろいろ話したいこともありますし、この問題については今まで考えてきたことも多くあるのですが、最近の経営環境は経営者にそういう問題について考える時間を与えてくれません。
 今私たちを取りまいている経済環境は大きく変わってきています。不況だというばかりではなく、最近の急激な円高で大手をはじめ、私たちなど中小企業のレべルでも海外シフトということがされていっています。私の会社はいわゆる段ボール形成屋でして、使ってくださる大手のユーザーさんがどんどん海外にシフトしてきているのですね。仕事量は減っていく、同時に川上の産業といいいますか、僕らからいいますと素材産業も国際戦略的なことをとりだしているのです。円高の利益を被って本来なら原料は安く買えなければならないのですが、残念ながら僕らが直面している問題は、原材料は高くなり製品が安くなるという非常にきびしい状態にあります。海外に向けて輸出する、特に東南アジアの需要が非常に大きくて原材料がなかなか手配しにくい、外からはいってくるものは高くなるという状況の中で、紙メー力ーもどんどん海外に行って多国籍化という戦略をとるということになっています。そういう状況の中で非常に苦しい状況に追い込まれています。
 しかし、経営者としてそういう環境を苦しい苦しいといっているばかりではあきません。社員もいて生活を確保する必要もありますし、ちょうどボーナス時期で払わないという訳にはいきません、少なくとも昨年並みは出したい、できうれば若干でも上乗せしたいということで、最近、無理してというか、いままでやっていないシンドイ仕事もしなければいけないと、今日も一件まとまりかけたというところです。
 今日はいろいろな立場の方が来られているとお聞きしています。こういう厳しい環境の中で障害をお持ちの方を雇用していくということは、大きな課題ですし、大きな問題点があると思います。そういう大きな問題点は、いろいろな立場を越えて、共通の課題として分担していくというのがいい方法だと思いますし、いろいろな業種の人と話すことによって、自分自身の問題点がはっきりしてくる。いろいろなアドバイスを受けることによって、自分の課題がより明確になってきます。そしてその中で共通した課題も見えてくるし、自それを分担することもできるということです。そういう意味でこの会は障害をもつ人の雇用について色々な立場の中で何ができるのか、そしてその立場を越えて共通の課題の解決に向けてどういうことが

(p31下段挿入コラム)
―講師のプロフィール―
●矢野孝さん
 矢野紙器株式会社専務取締役
 一九五一年大阪市生まれ。大阪市天王寺区在住。大阪府中小企業家同友会の「障害者雇用接討運営委員会」委員長。

―参考資料―
 「今からでも早くはない今でも遅くはない」(一九九五年一〇月)「就労へのためらいにこたえる」(一九九六年八月)
 ともに、副題「就労による社会参加を進めるために」全日本手をつなぐ育成会発行。
 矢野さんは前者の専門委員会委員、後者で執筆協力。

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できるのかがみえてくると思うのです。

  中小企業家同友会の精神と活動

 同友会という会がありまして、頭に中小企業家とついています。中小企業家同友会というのは大阪では三千社くらい、今少し景気が悪いと言うことで三千社を切っているかもしれません。全国ではおおよそ四万社の会員を有する組織です。その理念というのは異業種の経営者が集まり、互いに智恵を集め学び合うことによって、よい会社を作ろうとそしてよい経営者になろう、よい経営環境を作ろうと活動している組織なのです。
 何故その会が、障害を持っている人の雇用なのかと不思議に思われるかもしれません。それを説明させていただきたいのですが、お手元の資料に「国連の障害者の一〇年の最終年に向けてのアピール」というのがあります。これは僕が非常に大好きな文章なのです。実はこの文章は同友会という会が互いに経営経験を交流する中で生み出してきた文章なので、この文章が同友会の普段の活動ないしは理想をよく表わしていると思っています。
 途中からですが、少し読みます。「この一〇年の間日本経済は、まさしく前進を続けてきました。しかしながら国際的には摩擦を生じ、国内的にはGNPが示す豊かさと生活実感とのギャップが盛んに論じられるという矛盾をはらんでいます。人間を尊重する企業作りを標榜してきた私たちは、企業内のみならずそれぞれの地域において、真の豊かさを追求し実現するために活動してきました。人間として生まれた以上すベての人は、あてにしあてにされることで濃密な人間関係を築き、出番があることで自分の存在を確かめ、働くことで成長できることを願っています。人間が人間らしく育つとは一人一人がもつ無限の能力を開花させていくことです。人間らしく育つことができる家庭・学校・企業・地域などの環境があってこそ豊かな社会といえましょう。私たちは経営に責任をもつ企業家として、まず企業の中で共に育ち合う土壌を作りたいと思います」と書いてあります。
 この文章は余り洗練されていないというか泥々という感じで書いてあるのですが、これはまさしく経営体験の中からでてきた言葉なんだということです。同友会の基本の理念というのは最初に書いてあるように「人間を尊重する」ということ。「人を大切にする」という経営をめざしているのです。そしてここで、「障害者年に向けて」ということですけれど、今読んだ文章の中には障害者という言葉はでてきません。それは「すべての人は」という中に表されていると思います。「すべての人は」というなかに障害をもっているまたはもたないということにかかわらず、これは普遍的なことであるということなのです。
 もう一つ僕が好きなのはここにいう「あてにし、あてにされるという人間関係」ということです。そして出番があるということで自分を確かめていく、働くことが成長につながるということを経営者がのべているわけです。そしてひとりひとりが持つ無限の能力を開花させていくことが人間らしく育つ、または人が幸せになることだろうと言っているのです。後でまたお話ししたいのですが、人材、企業では人材教育ということがいわれているのですが、人材というのは企業にとってまさしく戦力となる人間のことをいうのですね。企業にとって戦力となる人間を人材というのですが、実は今までの社会が受け入れていた価値だけでは色々な能力が開花するということができないのではないかということを、企業家自身が、気がついてきているのです。
 ひとり一人は色々な能力をもっている、そして違った能力がある。それは個性だと思うのですが、しかしその個性がすべて社会に受け入れられるか、極端にいえばそれでご飯が食べていけるかということになると非常に疑問なのですね。いままで社会が受け入れてきた能力というのは、例えば作業能力、効率ということが入ってきます、つまり作業性といった価値は今の日本の経済の中ではまさしく行き詰まってきているのですけれども受け入れざるを得ない価値でもある。しかしそれ以外の価値を受け入れていかなければいけない。新しい人材、可能性というものを私たちは開拓していかなければいけないということが、この中に含まれていると思います。そういう意味で好きな文章です。
 また、地域という言葉がでてきます。「地域と共に」とよくいわれます。「地域に根ざす」「地域の暮らしづくり・町づくり」ということがよくいわれます。
 中小企業は地域の発展がなければ生きてい

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けない。地域の中から例えば勤めていただく人たちを確保する、あるいは自分たちの作った製品・商品を地域の中で使ってもらう。考えてみれば地域が発展しなければ企業というものは発展しないという感覚をもっています。しかし僕が、経営者として一七、八年になるのですが、地域の中で生かされているということに気付いたのはごく最近なのです。今までは競争社会に生きていると、競争社会というのはゼロサム、つまり誰かが得すればその分だけ誰かが損するであろう、たして0ということです。そういう競争社会であるという認識をしていたのです。ところが、企業活動をしていたり、色々なところですばらしい経営者の話しを聞いたりする中で、その考え方はまちがっている、競争社会があっても共に利益が得れる方法というものはあるだろう。そのかわり、共に損をするという方法もあるのですが、今の環境破壊というのいつかは損をするというものだと思うのですが、いままでは地域を単なる市場だというとらえ方できてたのですが、そうではなくて地域といつしょに成長していくという企業を作ることが、これからの日本経済に大いに役に立つ、いやそれをしなければ日本経済はダメになると思います。
 だから今進められているように安易に海外シフトしていくということは、地域に対しての寄生性というかそこへ移っていってそこで市場を開拓する、そこで利潤をあげる。そこでペイできなくなれば違うところへシフトしていく。根無し草というかそういうやりかたよりも足元を固めて共に利益になるというようなものを作っていく必要があるのだと思います。これが今まさしく日本に突きつけられている大きな課題だと思います。そういうこともこの文章の中に含まれていると考えています。

  障害者問題全国交流会

 このアピールは、第五回障害者問題全国交流会で発表されています。なぜそのようなところで発表されたかというと、障害者問題全国交流会というのは、障害をお持ちの方を雇用している企業ないしは雇用しょうとしている企業が全国から集まって互いに意見交換をする場です。そこでアピ一ル文として発表されているというのは、先ほどから申しております同友会の基本理念が明確化されてきたのが、障害者問題に関る中で明らかにされてきたということなのです。
 資料に簡単な歴史、同友会の障害者問題への取り組みの歴史が書いてあります。実は一九八〇年に第八回青年経営者全国交流会というところで京都の会員の方が、「心身障害者と共に生きてきて」というテ一マで発表されました。この会は経営者の経営体験を交流する場だったのですが、そこで非常な感動をみなさんに与えたわけです。それは、「実は経営とは何かということがその中に見えるというか、障害をもっている人と働く中で、同友会の今まで言ってきた基本的なもの、経営の原点のようなものががよく見えてきた」という発表だったのです。これが引き金となって全国へ広がります。その後二年に一回全国大会を開けるようになりました。ぞれも障害者問題の全国大会ということ開かれるようになっていくのです。そこにメインテーマとしてあげられている文章を見ていただいたらわかると思うのですが、「すべての人が働く喜びを」とか「すべての人が共に生きる喜びを」とか「豊かな人間的発達をめざそう」「障害者と共に育ち合おう」「見つめよう人と経営の原点を」これが、東京で行われた第五回です。このときに今読みましたアピール文が発表されるわけです。

  第七回交流会での記念講演から

 そして昨年一二月に第七回の交流会が千葉で行いました。一五年の歴史をもっていることになります。こういいますと、なぜ中小企業のおっさんが、若い人もいるのですが、なぜそんなことを考えるのか、非常に奇異に思われるかも知れません。
 第七回の千葉での全国交流会は二日にわたって行われました。記念講演がふたつありまして、「車椅子からの旅立ち」実際車椅子で生活されている方の発表ともうひとつは「どの子もみんな花咲く未来がある」ということで知的障害をお持ちの方の学園の園長さんがしゃべられました。分科会形式で第五分科会までもって二日間にわたって行われました。第一分科会ではパネルディスカッションで「送り出す側と受け入れる側―共通理解をするために」というテーマで、第二分科会では「みんないっしょにを社風に」、第三分科会が「共に生きる生き方を

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学んだ」ということで行いました。
 そのときに私が感じたこと、記念講演の中で知的な障害をもつ人をお世話している学園の園長さんのお話しの中で心に残ったことがあります。その中で、「共に豊かな社会をつくろう」という言葉は、本当に耳にタコができるくらいいろんな場できかされるが、自分が生きていくことにしっかり置き換えて動いていくということはそんなに簡単なことではない。しかしそれを乗り越えていかなければ共に豊かな社会を論ずる資格はないでしょうということをいわれました。私はまさしくそうやと思います。
 まさしく同友会の歴史の中でも「共生」ということが一五年間、障害者の問題以前では労使関係、一緒に働いている人たちとの関係という視点では三二年の会の発足の当時から言ってきました。これは難しいことで自分が生きていくということにしつかり置き換えて考えなければ語ることはできないということですね。相手の立場にたって考えるということだけではありませんね、それよりも自分がしっかり生きなさいということなんですね。自分がしっかり生きていないのに、共に生きるなんてことを言うなといわれているのですね。これは経営者としてはとても耳の痛い言葉です。どんな問題があっても常に自分に置き換える、どうやっていくかを課題としていきたいと思っています。
 ある視覚障害者にこんなことを聞きました。私たちの障害者に対する態度は五段階に分かれていると。まず第一はwithout them排除ということですね。第二にfor them同情ですね。三番目はto themでこれは積極的になります。そしてその次はwith themだ、これは共に生きようということです。最後がweわれわれということです。
 そういう流れがあるといわれた。これは障害を持つ方とそれを受け入れる社会との関係、歴史の流れであろう。私達の企業というのは、障害者からみると、without themに見えていると思います。それをweと語れる、われわれと語れるというのがこれからの課題です。それは自分自身が生きていく態度、自分ががどう生きるかが問題になってきていると思います。こういう視点がこれから、われわれも、子どもたちも必要になってきていると思います。ほかにもこういうことがいわれました。共に生きるということは、まず、分けないことが第一歩、前提であろう。障害をもつ子と障害をもたない子を分けないこと。しかし、今の教育、今日は学校関係の方も来られているかも知れませんが、今の教育では相当はやい時期から障害を持つ子どもとそうでない子どもたちを分けて教育するということも行われています。これは共に生きるということではないだろう。もちろん専門の教育は専門の教育でやらなければならない、しかし共に生きるのだから分けずにいこうということを言われました。そして人間をはじめたのだから、いい生き方というか、元気な生き方、楽しい生き方をしょうではないか。親ならば子どもにそういう生き方をさせたいのではないか。それはハりのある暮らしにつながっていくと言われています。
 生き生きとした生活をするだめには、まず目的を持つこと、そして緊張感。落語家の桂枝雀さんが、「笑いとは緊張と緩和だ、人間はその中で活性化していく」とよく言っていますが、緊張感を持つということでは、仕事をすることがいいといわれています。仕事はわれわれに緊張感を要求しますし、緊張をもって仕事をしていると、出番が出てくると言うか、生きがいというものにつながります。しかし緊張ばかりしていられない。体がもたない、緊張の後には安らぎがいるでしょう。それは家庭であり地域であるわけですね。このふたつが大切なことですが、もっと大切なことは、実はその社会が共に生きるということを受け入れているか受け入れていないかということです。この視点は経営者にとっても非常に役に立つ。
 いきいきと働く、生き生きと生きるにはそういう社会、あるいは会社・組織が必要だと言うことです。つまりそういう会社作りをしなければいけないということですね。話を聞いてなるほどなと感じました。最後に非常に含蓄のある言葉を言われました。「人類の母親は人以上に人を生まず人以下に人を生まず」これもまさしくそうだなと思いました。
 以上のようなことを経営者が、その時は全国からは千五百人以上の者が集まってその話を

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聞き、自分たちの経営の中に生かそうと思って参加していたのです。
 第七回の障害者問題全国交流会(千葉)ではもう一つ、実際に障害をお持ちの方自身、車いすで生活している障害者自身が発表されました。その中で、「人の幸せは障害のあるなしでは決まりませんよ、それをみなさんしっかり押さえて下さいよ」と言われた。よく障害を持つ人とお話しさせていただいていると、自分が大きな課題を乗り越えてこられているなかで、人の痛みとか大変さとかがわかっておられるのだと思うのですが、「だって同じ人間ですものね」と言われるのですね。そう言われるとき、この人の言っている人間という者は、ぼくら自身が考える人間よりもずっと大きい人間のことを言っているなと思いますね。もう一つは、「福祉の対象となるよりも、福祉の担い手になりたい」、と言われていた。
 …と、こういうことをずっとしゃべっていくとどれだけ時間があっても足りませんが、こういうことを実は経営者が集まって学びあっているのだということをみなさんに知っていただきたかったのです。そういうことをご存じない方が多いと思いますが、同友会ではオープンにやっていますので、全国交流会でもどこでも、誰でもいつでも参加していただけますし、参加していただきたい。その中で意見交流したいし、中小企業の経営者が何を考えているのか知ってほしいと思います。

  私の経営体験から

 なぜこんな考えが経営の中から出てくるのか。私の経験の中からお話ししたいと思います。
 私の会社は、ダンポールケースを製造しております。テレビの箱とかミカンの箱なんかをつくっている。会社を創業して四四年です。昭和二六年に創業したのですが、その当時、人たちはよく働いていたと思います。私の記憶でも、父とはいっしょに飯を食ったことはありませんでしたし、母は寝ないものだと思っていました。当時はそういう社会的な環境もあったのだろうと思います。
 昭和四〇年に法人化しています。売り上げがだいたい二億八千万円くらいです。従業員は私ら経営者もふくめて一六名、そのうち聴覚に障害をお持ちの方が四名、そのうち三名の方はしゃべることができない、一人は難聴の方です。知的障害の方が二人おられます。私が入りましたのは昭和五五年、親孝行のつもりで入社したのですが、企業経営はそんな気持ちではとうてい出来ないということを後々教えられたり、学んだりするわけです。
 私が入社したその当時は、業績はあがらず難しい所にきていました。大きな社会の流れの中で変換期といいますか、同時に人材が不足していました。生産性というものに行き詰まっていて、機械化は必要だが使える人はいない、そういう状況で私が入社した。
 しかし、入ったその年に一千万以上のほど赤字が出た。当時の売り上げが一億五千万くらいですから、会社の存続にかかわるくらいだったのでしょう、大変な時期だった。何とかしなければいけないと、現場改革に取り組んでいくわけです。ミーティングをしたりとか、ルール作りをしたりとかですね。当時、アットホームでいい雰囲気だった。朝、八時に始まるのですがそれまでに出てこられて、思い思いに新聞を読んだりとか、みんな和やかな話をして、印刷機械がセットされるのが九時頃、ラインが動き出すのが、九時三〇分、それまでのんびりした雰囲気の中で仕事をしていたのです。これを変えざるをえない。また、多機能化といいまして一つの仕事だけではなくていろいろな仕事が出来るようにしょうということで、やって行くわけですが、残念ながらそういうことをきいていただけない。職人さんで、私が小学校の頃からそういった仕事をやっておられるのですから、プライドもあるし、また昨日今日入ってきた若造の言うことは聞いてもらえない。
 何とかしなければと、とりあえずうちにあった機械を全部マスターし、より早く動かそうと思った。意地みたいなものですが、ところが、それが簡単にできてしまった。私たちがやっている作業というのはそれほど複雑な作業ではなかった。高度な知識.技術は必要なかった。そういう中で、能率化をすすめる。むだ話はやめようと会話も省いていく。5W1Hさえも省いて、何をいつまでだけ、他は省くという方向

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にいった。じつはこの影響は後に、コミュニケーシヨン障害という形で出てくるのですが。しかしこれはやらざるを得なかったと今では自分に言い聞かせているのですが、利益を出す会社の体質をつくるという方向にやらざるを得なかった。その結果、赤字を解消し、黒字の体質もできあがってきたのですが、同時に弊害も出てきました。
 当時、自分で今思っても、よく働いたと思います。当時私は昼休みはなかった。五〇分の昼休みも、一〇分で飯を食って後はすぐに仕事をやっていましたし、日曜も会社に出てきて、仕事をしていました。嫁さんによく言われました、寝ているときも寝言であれせい、これせいと仕事の段取りをしていると。
 そんなしんどさよりも、いちばんしんどかったのは、人材教育というか、人間関係が非常につらかったですね。会社でトップ二人、社長と私なんですが、現場に入って右往左往し走り回っている、そうすると肝心の経営の舵取りというものがなかなか出来ない。だから現場をまかせられる人間を育てようというので、育てていこうとするのですが、これが難しかった。私どもの会社でもやはり仕事を覚えるのに二年はかかる。二年間かかって育てても、私には無理ですといったり、やめていってしまうということの繰り返しでした。
 九十の士(くじゅうのさむらい)ということを言います。つまり九月〜十一月はともかく忙しい。かき入れ時でともかく忙しい。私たちの業界というのは、食べ物屋さんでいうと、ラーメン屋さんです。フランス料理店ではない。予約を受けて何人さんのお客さんがいつ何時来られて、食事を作る、技術もいります、そういうフランス料理ではない。ラーメン屋さんを思い浮かべていただければわかりますが昼時が一番忙しい。昼時間をクリアしてはじめて一日の売り上げが確保できる。ラ一メン屋さんでまずければ話になりませんが、そこそこ食える店で、昼の休み時間中に食わせる店でないとダメですよね、昼休みを過ぎて一時になるのにまだ出てこないというのではダメ。なんぼうまくたって一時過ぎて出てくるような店には行かない。同じようにわたしたちもその時その時の仕事をクリアしなければならない。無理をしいられる。それをやらないとどうしょうもないということを強いられるのです。しかしここでリタイヤする人間も出てきます。
 忙しい時期は仕事が重なると一〇、一一時の残業もザラでした。五年計画で機械を入れ替えたのですが、生産性を上げるということで何とか切り抜けてきた。作業性はよくなったのですが、その機械というのは何千万、トータルしたら億近い投資ですから、それに対する期待というものもかかってくる。成果も期待される。同時にどんどん機械化は進みますから、今までとはがらっと変わった新しい技術、やり方も覚えなければならない。そこでリタイアする人間が出てきます。
 これを乗り越えるには、経営者もそこに働いている人たちも一丸となってやらなければならない。お互いに共通に出来る目標をもたなければならないということですね。同じ目的があれば少々しんどくても我慢できるのですね。今日お集まりの方も、障害者の雇用を進めようと同じ目的で集まってきていらっしゃる。共通の目的があれば少々しんどいことも我慢できるのですね。労使関係もまさしくそうなんですね。同じ姿勢が必要で、それが同友会のいう「共に育つ」という理念もでてきているのです。経営者は職場で一番の人材にならなければいけないから進んで勉強しましょうというのです。それが出来なければいい企業にはならないのです。企業自身の存続もおぼつかないという認識を持っています。では「共通する目標」とは何か、ということなのですがそこが見えてこない。昔は、私の父や母の時代は社会としての目標があったのです。戦後の荒廃した世の中で安定した生活を作り、少なくとも子どもや家族を守っていこうと、戦争を体験しているから、平和な 社会をめざそうという共通の課題、認識があった。今はそれがむずかしくなってきている。では今は何なのか。

  経営理念が障害者雇用から見えてくる

 その答えが、障害者問題、障害者を雇っている会社の経営体験から、おぼろげながらも見えてきているのです。企業にとってはデメリットであるかも知れないと思われていた障害を持っている人たちと一緒に働く中でこういうことが見えてきている。
 それは何かというと僕は、「人として幸せに生きていく」ということだと考えています。企

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業の目標は利潤追求や、と、よくいわれるのですが、利潤追及はもはや目的として選択する時代は終わりました。利潤追求というのはあくまで手段で、その利潤によって企業として何かをするということがあるからこそ、利潤を追求する意味があるのですね。その何かというのが「共通の目標」であり、会社の理念であるわけです。そしてその理念を企業家は模索している。新しい理念を模索しているのです。それが、私はどうも「人として幸せに生きていく」ということだと、経営体験の中から特に障害を持っている人たちと働く中で教えていただいたと思っています。
 うちの会社で働いている障害をもっている方たちの雇用の経緯を、少しお話しします。
 今、聴覚に障害をもつ人が四名おられるのですが、僕が入ったときはおられなかった。私が入る前に聴覚障害の方が二名おられた。実は個人的なことになりますが、私の妹が障害を持っていたこともあり、父の知人の子が聴覚障害をもっていて雇っていた時期もあったのですが、私が入る時にはいませんでした。そして一四年くらい前に一人はいってこられたのですが、これは私の失敗というか、お互いつらいしんどい思いをした経緯があります。
 その当時、人材を募集しているときで、印刷もできるし、技術を持っている人がいるということで、どうですかということがあってお会いすることになりました。喫茶店で待ち合わせしてまして、今でも思い出すのですが、片手にちょっと難しい国際情勢など書いてあるような本を持っておられる、すわってしゃベりだすなり国際惰勢とか、政治とかお話しされる。割としっかりしたことをしゃべられる。それで雇いましょうということで雇ったのですが、一緒に仕事をする中で僕が期待していたほど仕事は出来ない。第一、指示がうまく伝わっていないようだった。
 気がついたというかしばらくしてわかったのですが、難聴の方だったのですね、それも相当の難聴の方だった。最初喫茶店でお会いしたときも僕のいっていることは余りよく聞き取れなかったらしく、だから一方的に自分からしゃべった。彼との失敗というのは、これはお互いにつらい思いをしたのですが、彼自身も障害を隠す。僕たちもそれを知ろうとしなかったという中で、非常に難しい期間があったのです。今から考えるとそんなに時間をかけることもなかったと思うのですが、印刷が出来るということで、印刷機械を担当してもらうということで指導した。当時でも最新鋭の機械だったものですから、デジタルというのか操作性がだいぶ変わってきていた。その操作をいくら教えてもうまくいかない。どうしても教えたように仕事ができない。
 ある時、お互いに頭にきて、僕もやり出したら割とねちっこい方で、機械を止めてでもやる。彼は頭にきてもういい、やめたという。なぜ同じことを毎回毎回説明しても一向に覚えへんのかと、そして、「お前引き算もできへんのか」というと「できへん」と言う。「え…」絶句しました。実は彼は小学校のころに、難聴ということで普通教育を受けていたらしいのですが教えてもわからないという扱われ方で、引き算もはっきり学んでいなかった。だから僕がしゃベりかけていたというか指導していたことがわからないであたりまえだったのです。実は僕は五年間そんな状態をつかめず、いろんな要求を出していた、お互いつらい思いをしていた。
 それからいろいろと工夫をしだしまして、出来ることと出来ないことをお互いに見定めながら、ここはこうしようと今は取り組んできています。今では最新鋭の機械を扱っています。もっともっとデジタル化してきてコンピューター入力ですね。そうすると、耳の不自由な方は大変なんですね、僕らが簡単に出来る「聞きかじり」というものができないので、情報量が少ない。コンピューター用語というのはなかなかイメ一ジできなくて、それを一つづつていねいに指導していく必要があります。今は非常にすばらしい人材となってきてくれています。こんなことがあったのでやはりできるだけ情報というものを提供してほしいと思います。知り合うということが必要と思います。
 その後、彼の知り合いが二名うちの会社に来てくれることになりました。そのうちの一人、兄貴分の人がすばらしい能力を持っている。彼は聴覚障害者です。彼がいてないと僕がこういう場でこういう話もできないであろうし、彼がいてくれるから障害を持っている人を雇用するという話もできるのです。
 彼がきたときのエピソ一ドなのですが、ある日二人で来て、「雇って欲しい」と言う。聴覚

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に障害を持つ人はこの業界に多いので受入れてもいいのだけれども、でも二人はシンドイから一人にしてくれ、と言うと兄貴分であっち彼は隣を指して「では彼を雇って欲しい」と言う。
「私はどこでも仕事ができる、彼は僕が仕込んだ人間やから、ぜひ彼を雇って欲しい。僕はどこでもいけるから」と言うのです。それで、弟分にあたる方を雇ったのですが、兄貴分がいうように仕事が出来るのです。
 それから一年くらいして、またその兄貴分がやってきた。募集も何もしていなかったのですが明日から来るという。そして手紙を見せる。その手紙というのはその時彼が勤めていた会社の社長のもので、やめないでほしい。彼がいてないと困るから、という手紙を僕に見せるのです。そして、「俺は首になったわけはない、ここの会社に来る」というのです。強引なところがあるのですが、弟分の彼があれくらい仕事が出来るのだから、彼も仕事が出来るであろうということで、社長と相談して雇ってみようということで雇ったのですが、まさしく仕事が出来る。その結果、彼がいてくれるからさらにもう一人障害を持つ方を雇うことになるのです。最初は彼らも若干休みがちだったのですが、実はポー卜が好きで、ボートレースは平日ある。それで当時は平日会社を休むことがあったが、ある時からまったく休まなくなり、休んだ人間のカバーまでしてくれるようになっています。
 よく社長と話をするのですが、僕らはよく障害を持っている人を雇用していると、すばらしいことをやってはるなといわれますが、とんでもないと。支援されているのは僕たちの方だということをよく話します。障害をお持ちの方でも十分に企業として戦力になるということですね。そのことを踏まえて、障害の部分では出来ないこともある。それを補わなければならないということです。障害者の機能障害が、能力障害となって、それが社会的不利となるとよくいわれますが、その社会的不利とは企業の中でいえば、まさに企業の中で解決できる課題なのです。企業の中で解決できることは、企業で取り組んでいけばいいのです。それをこなしていけば充分戦力となる、育っていくんだということを聴覚に障害を持つ方を雇用する中で学ばせてもらったと思っています。

  知的障害者の雇用から

 もう一つは、知的な障害をお持ちの方なのですが、彼らとつきあう中でいろいろと学ばせてもらいました。知的な障害をお持ちの方を雇用するきっかけは、大阪市リハビリセンターの関所長と、同友会を通じて知り合って、その中で研修生を受け入れてほしい、よければ受け入れて欲しいという話があって、実習に受け入れました。卒業生である会社に行っていたのだがうまくいかないで実習させてよければ採用していただけないかということで、一、二週間で、明らかに成長するのが見えてくる。でもじゃ、企業として戦力になるかどうかはわからない。ともかく一度実習として引き受けて、よければ採用しましょうと受け入れることにしました。
 最初きたときは、わーっという感じで、目の前真っ暗になったというか、本当に前に段ボール屋さんでつとまっていたのかなという感じだった。人間関係というのは非常にいろいろなところまで影響してしまうというのは、前の会社でも人間的なトラブルや何かで本人がひどく落ち込んでいた。表情も暗かったし、動作も緩慢だった。一日のうち三分の一くらいは対話が出来るが三分の二くらいはどこか心の中をさまよっているという感じでした。どうしようか、聴覚障害者の社員に相談した。「きっちりついて教えないといけない」という。ラインになっているので、戦力になってもらわないと困るという思いで、心配しながら忙しい印刷の部門に入れたけれども、それが良かった。一緒に働く、また周囲から励ましの言菜をうけて、変わっていった。表情が目に見えて明るくなり、それにつれて動作が機敏になっていく。これだったらいけるだろうと思い、雇用に踏み切る。
 その後、一年間の成長の度合は、会社でいちばんだった。現在到達している作業レベルというのでは上の者もおるけど、成長はナンパーワンです。彼もうちの会社ではなくてはならない人材になってきてくれています。忙しいときに、健常者といわれる人間がいっぱい休むなかで、僕自身、少しパニックになって目がっりあがっているとき、そばにやってきて「だいじょうぶですよ、僕がついていますから、まかしといてください」と励ましの言葉をかけてくれる。ふと気がついて、自分が励ましてきた、勇気づけしてきたと思っていたのですが、本当は、勇気づけられていた、励まされていたのは僕らの方

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やなということが、わかりました。本当のパートナーを得た気持ちでした。
 もう一人H君も昨年の四月同じくリハビリテーションセンターから入ってきてくれた知的障害をもつ人ですが、彼もいろいろなことを教えてくれた。僕自身どこかで、「できないであろう」という固定観念を持っていたのですが、それをくずしてくれた。彼は何でも、とんでもないことまで、やってしまう。
 ちょっと複雑な工程なんですが、自分で考え、自分で判断してやらなければいけない部署があります。例えばそこでばアルファベットもわかっていなければいけないし、具体的にいいますと、印刷しているハンコを何千個も出し入れする作業で、僕か僕の次の者がやっていた仕事なのです。何故かというと、おかしな所に直されると訳が分からなぐなってしまう。何千という中に入れてしまうと探し出すのに半日かかる。H君に何がやりたいか聞くと「その仕事をやりたい」と言い出したので、やらせてみた。
 そうしたら未だかって、一回もまちがえたことがない。新しいハンコが来ると自分で考えてある場所になおして、それを用紙に記入して事務所にあげてこなければならない。どの仕事がおもしろいか聞いたら、「それがおもしろい」という。なんでと聞くと「自分で考えることがおもしろい」と答えた。「単純作業が知的障害者にむいている」という固定観念は間違っている。誰でも自分でイメージして自分で決める仕事がおもしろいのですね。

  さいごに

 もう一つおもしろいのは、次の日にどういう作業があるか作業工程表があって、それをH君は必ず見て帰る。僕も回りの人間も一回も指導したことはないのですが、健常者は言うとやるが、じゃまくさいのでしなくなる。H君は自らそれをやり、仕事のイメージをつくっている。彼が教えてくれたことは、働くということは自分たちが考えるよりもいろいろなことがあるのだなということ。僕らは働くということは苦役だと考えていた、ただ単に生活の手段だというように考えることがよくあるが、知的障害を持つ人と一緒に働く中で、働くということの中にもっと大きな意味があるのだということを教えてもらった。働くことの意味、つまり、あてにし、あてにされ、出番があることが実は幸せ、生き甲斐につながっていくということを教えられたのです。
 チルチルミチルの青い鳥は、自分達で見つけ出していかなければならないことを、感じさせられた。企業家も、そういうことに取り組む中で、僕ら自身が変わっていける、そのことが大切だと思います。行政ということでいったい何ができるか、自分が生きてる中で何ができるか共通の課題を見出して、取り組む中で成長していけるから、それぞれの課題を共有してやっていくという意識を持つことが大切だし、そうしていろいろな意見を出し合えば解決できることも見えてくる、新しいことも生まれてくるのではないかと思います。

  ―質疑より―

  • 実習はどのように進めているのか
  • これはという企業の実践例をききたい
  • 従業員の障害者の親と連絡はとっているか
  • 重度障害者雇用について考え方をききたい
  • 作業所から就労につなげる時にどのような指導が必要か
  • いったん就職しても離職者が多い。ソフト面のケアについてアドバイスがほしい
  • 企業が障害者を雇用しようとする最初のきっかかけがつかめないので、なぜ雇用してみようと思ったか教えてほしい

      質問にこたえて

     障害をもつ人の雇用は今まで社会的責任、社会貢献、責務やという意識だったが、今はそれが企業にとってメリットなのだということが言われている。
     坂戸工作所(鉄骨を切断する機械の製造)は、障害者雇用をしたおかげで一五倍くらいもうかっていると断言している。作業工程の分析、安全への対応、いい習憤を教えてもらうことになるため。どの会社もそれをやれば、一〇〜一五倍の利益が出るのだと断言できる。
     海外取り引きがふえる中で、障害者が働いている姿を海外から来る人が見て、「もうけ」だけやないと思ってくれて、契約がとれる。つまりそういうことをクリアしている企業こそ、「弱い人が働ける職場」「いい会社」と評価さ

    p40

    れ、もうかるのだと坂戸工作所は言っている。
     親との連絡はない。親は本人とまったく違うことを語る場合があって、本来企業の中で解決できるものは親に言ってもしかたがないという考えでいる。
     学校は、何かを資任もってやる経験、達成感を障害者に与える教育をしているだろうか。その人がいなくては困るという場所を与えているか。やらせるばかりで、その人の場というものを奪っていないか。「やらせられることをできる子」が「資任感がある子」だ、という教育をしていませんか?と、先生方に言いたい。それで教師が喜びを感じているかかが問題。社会で自立するというのは、「頼り、頼られ」る中で資任感が意欲を生み、達成感を得られることだと思う。
     今年は中小企業家同友会では、障害者の実習バンクのようなものを作ろうと取組を進めている。受け入れ先は確実に増えてきている。就労支援事業とのかかわりで受けいれることもある。そういう雇用先を広げていきたい。雇用したらやめさせられない、という気でやはり最初は慎重になる。だが、障害者を採用する意思がある、採用したいというのが雇用していない会社のともかくも五〇%あることを評価したい。ただし「どうしたらいいかわからない」という回答が多いので、障害者と経営者のつながりを強めること、体験して下さいということ、障害者の側からいうと職種の選択ができ経験をつむチャンスをつくれるという「実習バンク」づくりを考えている。
     企業家が進んで、皆さんに、「障害者を雇いたい」と言って歩くことはない。障害者自身が積極的に門戸をたたいてほしい。会にも出てきてほしい。
     愛知同友会のアンケートでは、障害者雇用を考えるときにまず必要なのは「本人の意欲」だという回答。これは学校の教師に問われることだと思う。「あいさつをしなければいけない」と教えるのではなく、「あいさつが自然と起るような人間関係をどうつくるか」が大切。「あいさつ」の意味をわかれば、教師に「あいさつ」するでしょう。しないのは、しないような学校になっているのでしょう。「あいさつ」など、会社で一ヶ月もすればするようになる。あいさつにこだわるのならば、なぜあいさつをしないか、の中に意味を見つけ出さないといけないと思う。
     人間関係は難しい。経営者として、それを解決できるのなら教えて欲しいです。人間関係で離職するというのは障害者だけでなく、健常者も同じではないか。定着率ではむしろ障害者のほうがいいと思う。
     重度の障害をもつ人、人それぞれの能力、それを受け入れるだけの社会を求めるが、作業能力、作業効率、作業意欲にこだわらざるを得ないのは、そのような社会になっているから。仕事がていねいでも、コストにあわなければ、雇用につながらない。それは、それを受け入れられない社会の価値観である。今受け入れざるをえない価値観の中で、企業にとってコストにあうかどうかが、企業にとっての重度の障害者の位置。それでどうするか、を考えている。重度の障害者にとっては、今の労働で得られるものでは生活できない。それは企業だけでなく社会全般の問題としてとりくんでいかなけければならない。
     企業に活かせる能力、市場に活かせる能力、新しい人材として成立するようなありかたを産み出すことが必要。
     企業家は、新しい人材の発掘を努力している。そういう方向で、障害者も支援者も考えてほしい。そのような障害者雇用を進める企業を、一般市民としてどれだけ支援しているか、そういう意識があるか。そのような企業を育てようとする一般市民の意識を、育てることができるのか。
     その中で、重度と呼ばれている障害者の就労もクリアできる部分が出てくるだろうと思う。
     それができない場合は、行政やその他の方法も考えていかないといけない。
     同友会では月に一回委員会を開いている。年に一回大阪での集会もあって分科会もある。ぜひ参加してください。
     次のステップに移っていけるような、話し合いを持ちたい。こういう話し合いを続けていきましょう。

    p41

      授産施設からの就職支援
      高井敏子さん
      加古川はぐるまの家施設長

    施設の紹介(見学案内状より)
    はじめに
    「はぐるま」のモットー
    障害者ひとりひとりにあった仕事さがし
    事業所等との関係づくり
    工賃について
    JOB訓練課の取組
    課題と今後について
    1995年11月9日、見学時の講話記録
    於:精神薄弱者通所授産施設加古川はぐるまの家

    p42

      施設の紹介(見学案内状より)

     兵庫県加古川市にある「加古川はぐるまの家」(定員五〇名)は、知的障害をもった人が地域の中で働き暮らすことをめざす、通所授産施設です。地域の口ータリークラブにより、一九八〇年設立しました。アメリカの援助つき雇用の成果などに学び、一九九〇年から「JOB訓練課」をスタートしています。「JOB訓練課」は、施設利用者の特性を活かせる適職を一般の事業所の中に求め、その事業所に指導員と利用者がいっしょに出向して、実社会の労働を体験しながら訓練を進めていこうとするグループです。
     見学の時点で、「はぐるまの家」から巣立った人は、五六名(短期訓練からの卒園を含めると七一名)にのぼるということでした。障害者を保護的な環境の中で守ろうとばかりするのでなく、障害者が自己主張し主体的に生きてゆける環境をつくること、その意味において、働く力を発揮できる環境をどうつくるかを、いつも課題として活動されています。

      はじめに

     日頃の取組を紹介させていただき、又それぞれの活動を教えてほしい。
     この施設は一六年前(一九八〇)に建てられた。障害者の家族・行政が建てるのがふつうだが、ロータリークラブの方が、七〇人くらいの会員が三年間毎月三万円積み立て、この施設をプレゼントしてくれた。その時の職員は福祉のことをわからずに集まった。私もその一人。障害があってもなくても大人になったら働くものだという思い―施設完結型ではなく通過する施設としていこうと考えた。
     ここへ来るまで(一六年前)までは障害者の問題に何もかかわらず生きてきた。それまでは知的障害者に教えてもらうなんて考えていなかったが、一緒に働く中でいろいろ教えてもらった。それもあって、この施設の中に障害者を閉じ込めていてはダメだと思った。障害者を支える親や教師が大切に保護するあまり社会との間に壁を作っていることがある。施設から出て行くことが重要だ。ここから出て行きたいと思う人には必ず就労支援する。しかし施設を選ぶ人は学校を出る時に就労することのできない人、また「できない人」として育てられてまわりも自分もできないと思い込んでいる人だから、できることを引き出したい。そして働くことにつなげていく。ここでの目標はひとつ。「働くことを通じて普通に生きていく」そのためにも、働く力を伸ばすことが重要。

    (p42下段挿入コラム)
    ―講師のプロフィール―
    ●高井敏子さん
     精神博弱者通所授産施設「加古川はぐるまの家」施設長
     一九四八年東大阪市生まれ。一九七九年より「はぐるまの家」に勤務。
     一九九六年、「加古川市立知的障害者総合支援センタ一」センター長を兼職。

    ―参考資料―
     「今からでも早くはない今でも遅くはない」(一九九五年一〇月)「就労へのためらいにこたえる」(一九九六年八月)
     ともに、副題「就労による社会参加を進めるために」全日本手をつなぐ育成会発行。
     高井さんは専門委員会委員としても執筆に協力。

    p42

      「はぐるま」のモットー

     この施設では働く力を育てる環境づくりとして五つのことを考えている。
    @それぞれの人に得意な仕事を用意する。
    A「できない」という言葉はいわない。その人にとってできるような工具や手順を工夫する
    B絶えず、一二〇%の仕事量を確保して、伸びる力を保証すること。
    C働くことによって、お金が貰え、それで生活していくという意識を育てる。
    Dその人の精一杯の活動を認め、ほめ、自尊心を育てる。
     @について…非常に難しいが、その人に仕事を合わせると、かなりス厶ーズに入っていける。だから五〇人の利用者に五〇通りの仕事を用意しょうという構えでやっている。
     Aについて…たとえば目が見えない人に、紙とハサミを渡してまっすぐ切るように言っても切れないけれども、固定した台にハサミを取り付けて、三辺当たる補助具を作れば、見えなくてもまっすぐ切れる。そんなふうに、その人にとっての作業の円滑化や効率化を、機械、補助具も含めて工夫する。
     Bについて…施設というのは、仕事がないところが多い。福祉を前面に出して、障害者のつくったモノはただ一つ、などと言って買ってもらえるのは一回かぎり。製品を作る、納期を守る、工賃は世間なみ、この三つを守り続けることにより、不況時でも仕事はいっぱい確保できる。それぞれの人にとって得意な仕事が、いつでもいっぱいあれば、積み重ねの中で自信がつく。
     Cについて…特に知的障害者は家庭でもお金から遠ざけられ、無関心になっている。または、何か与えられて当然という意識になっている。ここでの労働は、額に汗して油にまみれて働くことが多い。今も午前中は焼肉屋の清掃をし、昼食事に帰り、午後ビルの清掃に行く子がいる。しんどい仕事で、施設の工賃も安いが、この環境の中で「働いてそのお金で生活していくこと」を実感し、ステップにしてほしいと思っている。
     Dについて…顔を洗うこと、鼻をかむことなど、一般的にはできて当たり前のことでも、その人の精一杯の努力を認めほめてあげることを細かく行う。他の人と比べて評価するのではなく、その人自身をみるという視点を徹底し、「あなたがいないとこの仕事はできないのですヨ!」というような関わりかたをすることで、だんだん自信がもてるようになってくる。
     この五つのことを、毎日心掛けてやっていると、「自分もやったら出来るのだなあ」という自信が持てるようになる。仕事をしていると、経験が格段に増え、自分が役立っているという気持ちをもつことができる。「働くということがすごいこと」という感情を持てる。そして自分に自信を持てた人は、もっと頑張ろうという気持ちが出てくる。そんなふうに思うようになったら、さらに、ここよりもっと自分が働ける所があるのではないか、本当の会社で働きたいという気持ちをもつ。外で働いている時は、つらいことがあっても、自分に与えられた仕事を一生懸命やれば何も言われないが、ここでは職員から箱の上げ下げまで細かくうるさくいろいろと言われる。だから早く働きたいと思うようになる。「職員はもっと給料もろてんのに、ぼくらはこんなに働いても一万五千円しかない…」ということも出てくる。
     五〇人のうち四〇人は、外で働きたいと思っている。「スーツも買った、早く乾杯したい」と訴えられる。「僕はへルメットの会社で働きたい。」それを探せと、職員に要求するようになる。

      障害者ひとりひとりにあった仕事さがし

     最初に、その人の得意なこと、何をしたいかを聞く。「セ一ルスマン」とか「モデル」とか言う人もいる。「車のセールスマン」とか言ったら、パンフレットを持ってきて、実際に練習してみる。「あかん」と思ったら、何か他は、とかいろいろさぐる。頭ごなしに「あかん」と言うのではなく、希望を出させる。
     この人はこれができそうや、という主観と、科学的評価(新版K式発達検査など)の両方から、得意なものを見つけ出していく。しかし、適職というのは、実際の会社で働いてみないとわからないことが多い。
    時には「やめよう」「無理せんでいいよ」と

    p43

    連れて帰ってくることもある。私は五回も職を変わったが、自分に合ったところでは頑張れるし、合わなければできないのは誰しも同じ。「次を見つけよう」と言うこともある。
     あまり施設で抱え込んではダメ。職員が動いて、会社へもいっしょに行ってつきあっていれば、重い障害者も出て行くことも可能。
     本に書いたA君は、非常に重い自閉症だったが、六年も勤めている。昨年は、うらやましいことに、私が行ったこともないカナダへ一一日も行ってきた。
     暑いとき、上司が怒ってA君が飛び上がった拍子に、上司の鎖骨を折ってしまった。社長は「クビや」と言っている。いろいろと話し合う中で、会社も「障害者を雇って一五年になるが、少し注意を怠ってきた」ということになり、定期的に勉強会をすることになった。
     A君は親と一緒に暮らしているが、次の課題としては、地域生活ができるようになること。

      事業所等との関係づくり

     ハロー・ワークにロータリークラブ、青年会議所、商工会議所、ライオンズクラブ、など、夜歩き回って、名刺を配り歩いている。異業種交流も二ヶ月に一回行っていろんな話をしている。ゲストを呼び、何とか運動にまきこんでいる。
     企業同和研修会なんかもここでやってもらって、その名簿や、新聞の折り込み広告を集めて、労働部にも動いてもらっている。何とかいっしょに動いてもらえる人脈を広げていくこと。行政も動いてもらっているうちに同調してくれ、積極的になっていく。青年会議所の人達も紹介してくれる。ハローワークの人も、広域の異動がある。加古川で行き尽くしたら、異動した人の後を追っかけて、探してもらう。加古川―姫路―明石へと広がっていく。先に人が行っている所に入れるのでなく、新しい職場を開拓するために、こちらから情報も出し、せっついて、あつかましくやっていく。初めから理解してくれる事業主は、ないに等しい。

      工賃について

     日給制で、基本給(四〇〇円)と評価給(最高三六〇円)、通所手当(ニ〇〇円)、外勤手当(一五〇円)と時間外勤務手当の合算額。日祝日出勤手当一〇〇〇円現金支給でボーナス年三回。今月はこれこれで何円の収入だよと、伝えていく。自分で自分の財布を開け、使うということ、お金を貯めるということもできる人が出てきている。
     ここでは有給休暇もある。ヒカルゲンジのコンサートに行く人もいる。働き消費生活をする、生活―労働の概念を伝えることを課題としている。
     実習で、手当がない場合、本人に対しては、この施設から障害者本人に工賃を出している。

      JOB訓練課の取組

     あるダウン症の人は、清掃作業する中でどんどん変わっていき、「早く外へ出て働きたい、会社へ行きたい。ヘルメットの会社で働きたい。」と言うようになった。「そのために名前を書けるようにならないと」と言ったら、毎日自分の名前を書く練習をして、求職票に名前を書けるまでになった。「次は自分の名前をきちんと言えるように」と言つたら、二ヶ月かかって言えるようになった。これができたら会社探す、と言ったらやった。でも、探せなくて、こしどは「太っているので五kgやせたら探す」と言ったら、少しやせ始めた。それで、こちらも必死になってへルメットの会社を探してきて、今そこへ働きに行っている。
     今残っている人は、諸制度を使っても行けない人だが、しかしそれでも外に出して働かせたい、また本人も働きたいということで、アメリ力の援助つき雇用の方法を採用した。つまり、いろんな会社を徹底的に回り、その人に得意な仕事をみつけだして、その事業所で訓練をさせてもらう。本来七.五人に一人職員が配置されているが、一人がついて行って、残りの職員の負担が増えてもやろうということになった。
     会社は障害者を雇うとなると、会社としてはどう関わったらよいかわからない、あるいはその障害者の全生活を面倒みなければならないという気になって、障害者雇用に二の足をふむ。そこで、マン・ツー・マンで仕事に入っていく作業班をつくり、会社には負担をかけない方法をとっている。発作や「問題行動」があったりして今まで仕事につけなかった人も、得意な仕事を三ヶ月間も安心できる人としていたら、誰でもうまくいくようになる。仮にパニックがお

    p44

    きたとき、職員がその人にうまく対応する姿を周りの会社の人がみて、こんなふうに対処したらいいんだなということをだんだんわかっていただける。そういうことを、このJOB訓練課で取り組み始めた。
     施設はやはりニセモノの働く場で、本当の会社に行き、職場のまわりの人もようすがわかるようになり、三ヶ月くらいして慣れてきたと思ったら、会社に「どうでしょう、様々な制度を活用して受け入れてもらえませんか」と交渉するようになる。一歩二歩三歩と私たちはその人から離れていって、最長二年くらいかけて就労に結びつけていったケースもある。
     それ以降、どんなに障害が重くても、就労に結びつけようという動きになっている。一人一人をはぐるまの家の利用者として位置づけ、仮に就労に失敗しても、施設が責任をもって支援することで、本人も家族も企業も不安が減少する。
     一〇年ほど前から、企業の中にはぐるまの出張所をつくって、働かせてもらっている。現在はべビ一服の物流センタ一と、肥料を作っている会社の二か所。これは野積みしている肥料のカバーを整理する仕事。当初は利用者五人に二名の職員をつけ、今は一名の職員がついて、訓練の場になっている。
     今五〇人障害者がいるが、半分くらいは常時作業に出て行っているようにしたい。今は七名が清掃、五名が出張所の仕事、二名がその他で、常時出ている。他の三六名は施設の中で仕事をしている。
     JOB訓練課には専任の職員を置いている。専任の職員は男性一人に決めていたが、今は男性一人、女性一人に決め、対象者に合った人が行くことにしている。
     専任の職員は、対外折衝できる中堅職員を出している。仕事に行く対象者がちゃんと電車に乗るかというところから始める。そして仕事が終わって家に帰るまで見届けて、ここへ報告しに来る。  施設の職員は、就労による社会参加を支援する担い手。今支援している障害者は二〇〇人を越えている。法定人数は五〇人だけれども、不況で増える傾向がある。

      課題と今後について

     兵庫県養護学校高等部卒業生で就労している人のうち、半数以上が五年以内に離職している。何度も何度も支援するということも必要。
     平成五年から、加古川市心身障害者短期訓練事業(三ヶ月)を相談も含めて実施し、一五名が就労に結びついている。これは加古川市の委託事業として行っている。
     このような取組は、はぐるまの家だけで終わらずに、もっと大きく展開したい。就労支援に加えて、暮らし全般を支えるシステムが必要。通所のみで支えるのは少し難しい。
     公務員への就労については、加古川市としては知的障害者は採用していない。知的障害者が受験できる状況にはない。公務員として働ける職種は限られてくる。市として労働の場を創り出して欲しいと思っている。
     今、加古川市が総合支援センターを建てて、就労・生活すベてにわたる支援態勢をつくっていこうとしている。その入所施設は四〇人。センターの中に自立生活訓練をするため三LDKの部屋と一Kの部屋を各ひとつ作っている。これらを通過点として、地域で蕃らしていくことにつなげていきたい。通所施設―施設内住宅―地域へという道をつくる。将来は、前に建っている市営住宅も利用したい。
     障害者の親も六〇歳になったら定年にしてあげられるようなものにしていきたい。いいと思うことを一歩踏み出すこと、制度をつくるだけでなくそれを利用しつつ、実践を通して使えるものにしていきたい。
     この施設で見た中で、よいことは、それぞれの場所で生かしていってください。

    ※以上5つの講演録は、記録テープやノー卜にもとづき、見出し・文責は編集者にあります。

    p45

      平成7年の大阪における障害者の雇用状況について
      資料大阪府労働部

     「障害者の雇用の促進等に関する法律」により障害者雇用が義務づけられている大阪府内の民間企業(常用労働者数63人以上規模)5,049社の平成7年6月1日現在の雇用伏況は、実雇用率は1.49%となり、4年連続の上昇となった。全体の常用労働者数は減少(前年比0.6%減)しているが、障害者の雇用数は30,655人と前年に比べ7.65人の増加(前年比2.6%増)となっている。
    第1表民間企業における障害者の雇用状況(平成7年6月1日現在)
    区分企業数常用労働者数 障害者の数 実雇用率 雇用率未達成
    企業の割合
    重度障害者
    (常用)
    重度障害者
    (常用)以外
    の障害者
    一般の民間企業 (1.6%)企業 5,049 (5,004)2,053,723 (2,066,007)人 7,333人 15,989人 30,655(29,890)人 1.49 (1.45)% 49.1 (49.8)%
    (注)
    1.常用労働者数とは、常用労働者総数から除外率相当数を除いた法定雇用身体障害者数の算定の基礎となる労働者数である。
    2.障害者数とは、身体障害者と知的障害者の計である。
    3.障害者の数の計については常用の重度障害者をダブルカウントしてある。
    4.()内は平成6年6月1日現在の数値である。

    >(参考)実雇用率の年別推移 (各年6月1日現在)

    S53S54 S55 S56 S57 S58 S59 S60S61 S62 S63H元H2H3H4H5H6H7
    全国1.111.12 1.13 1.18 1.22 1.23 1.25 1.261.26 1.25 1.311.321.321.321.361.411.441.45
    大阪府1.041.09 1.14 1.18 1.23 1.26 1.28 1.291.30 1.35 1.351.351.351.351.381.441.451.49

    p46

      各種助成金制度について

     障害者を雇用する場合、作業施設や設備を改善したり、職場環境の整備を必要とする場合ばある。このため企業にかかる経済的負担を軽減することを目的に、各種の助成金制度の活用を図っている。
       身体障害者雇用調整金法定雇用身体障害者数を超えて実際に身体障害者及び知的障害者を雇用している常用労働者数301人以上の事業主超えている人数の
    1人につき月2.5万円 身体障害者雇用報奨金一定数を超えて身体障害者及び知的障害者を雇用している常用労働者数300人以下の事業主超えている人数の
    1人につき月1.7万円 重度障害者特別雇用管理助成金重度障害者等の通動を容易にする措置や適正な雇用管理を行う
    事業主助成率はすべて3/4 重度障害者多数雇用事業所施設設置等助成金重度障害者等を多数雇用する特別の事業施設、設備の設置、整備を行う事業主助成率2/3(第三セクタ一方式3/4)
    限度額1.5億円(ケースによって2億円) 中途障害者作業施設設置等助成金作業を容易にする施設・設備を設置する事業主。作業を容易にする施設・設備を賃貸する事業主(対象 いずれも身体障害者)助成率2/3
    身体障害者1人につき限度額450万円
    助成率2/3
    賃貸限度額月20万円(3年間) 重度中途障害者職場適応助成金一定額以上の費用負担を伴う職場適応措置を実施する事業主(対象重度身体障害者、45歳以上の身体障害者)重度障害者1人につき月3万円
    (短時間2万円)、3年間 障害者作業設備更新助成金障害者作業施設設置等助成金の支給対象となった障害者を継続雇用し、かつ当該作業設備を更新する事業主助成率2/3
    1人につき限度額450万円
    主な助成金制度の概要
    助成の種類支給対象事業主内 容
    大阪府身体障害者 (脳性まひ)職場適応助成金府内公共職業安定所の紹介で府内の事業所に脳性まひによる身体障害者3・4級(45歳未満)を雇用する事業主1人につき月3万円(3年間)
    障害者作業施設設置等助成金障害者の作業を容易にする措置や適正な雇用管理を行う事業主助成率2/3
    1人につき限度額450万円
    賃貸限度額1か月20万円(3年間)
    重度障害者職場適応助成金公共職業安定所の紹介により、重度身体障害者、重度知的障害者、45歳以上の身体障害者、重度障害者である短時間労働者、精神障害回復者等を雇入れ、職場適応のための一定額以上の費
    用負担を伴う特別の措置を実施
    する事業主1人につき月3万円(短時間2万円)、3年間
    〔ただし、重度知的障害者等については、さらに2年間1人につき月額1.5万円(短時間1万円)を支給〕

    (注)上記助成金制度のうち、大阪府身体障害者(脳性まひ)職場適応助成金は大阪府が支給し、他の制度は障害者雇用促進法に定める雇用納付金制度の一環として障害者雇用促進協会が支給する。

    p46

     規模別の雇用伏況は、前年と比べ500〜999人規模企業で実雇用率が0.13ポイントの伸びを示し、次いで1,000人以上規模企業が0.06ポイント、300〜499人規模企業で0.04ポイント増加している。しかし、63〜99人企業規模と100〜299人企業規模については、前年よりいずれも0.03ポイントの減少となっている。
    第2表 規模別障害者の雇用状況
    事項企業数常用労働者数 障害者の数実雇用率未達成企業の割合
    重度障害者
    (常用)
    重度障害者
    (常用)以外
    の障害者
    63〜99人
    1,612
    (1,586)

    128,514
    (125,875)

    538

    1,780

    2,856
    (2,828)

    2.22
    (2.25)

    37.4
    (38.3)
    100〜299人2,294
    (2,277)
    379,063
    (377, 074)
    931
    3,205
    5,067
    (5,157)
    1.34
    (1.37)
    48.4
    (47.9)
    300〜499人497
    (484)
    190,516
    (185, 657)
    563
    1,425
    2,551
    (2,414)
    1.34
    (1.30)
    61.6
    (64.9)
    500〜999人347
    (369)
    237,711
    (253,563)
    836
    1,785
    3,457
    (3,346)
    1.45
    (1.32)
    70.0
    (70.5)
    1000人以上299
    (288)
    1,117,919
    (1,123,838)
    4,465
    7,794
    16,724
    (16,145)
    1.50
    (1.44)
    72.9
    (76.4)
    5,049
    (5,004)
    2,053,723
    (2,066,007)
    7,333
    15,989
    30,655
    (29,890)
    1.49
    (1.45)
    49.1
    (49.8)

     産業別の雇用状況は、特に「電気・ガス・熱供給・水道業」で実雇用率が0.10ポイント、「卸売小売業、飲食店」で0.07ポイント、「製造業」で0.05ポイントの増加となっており、また、「農林・漁業」、「製造業」、「電気・ガス・熱供給・水道業」、「運輸・通信業」の4種類については法定雇用率を上回っている。
    第3表 産業別障害者の雇用状況 (平成7年6月1日現在) 
    事項企業数常用労働者数 障害者の数実雇用率未達成企業の割合
    重度障害者
    (常用)
    重度障害者
    (常用)以外
    の障害者
    農、林、漁業
    2
    (2)

    290
    (268)

    2

    1

    5
    (5)

    1.72
    (1.87)

    50.0
    (50.0)
    建設業198
    (204)
    104,641
    (105,004)
    335
    667
    1,337
    (1,298)
    1.28
    (1.24)
    52.5
    (53.4)
    製造業2,013
    (1,978)
    930,819
    (930,831)
    3,926
    7,917
    15,769
    (15,303)
    1.69
    (1.64)
    35.0
    (34.8)
    電気・ガス・熱供給・水道業10
    (9)
    35,676
    (34,742)
    141
    300
    582
    (532)
    1.63
    (1.53)
    50.0
    (55.6)
    運輪・通信業296
    (285)
    109,159
    (107,506)
    356
    1,042
    1,754
    (1,720)
    1.61
    (1.60)
    40.5
    (37.2)
    卸売・小売業、飲食店1.295
    (1,304)
    432,051
    (452, 485)
    1,140
    2,459
    4,739
    (4,654)
    1.10
    (1.03)
    68.8
    (70.3)
    金融・保険・不動産業212
    (201)
    183,222
    (180,737)
    600
    1,379
    2, 579
    (2, 546)
    1.41
    (1.41)
    67.0
    (70.1)
    サービス業1,023
    (1,021)
    257,865
    (254,434)
    833
    2,224
    3,890
    (3,832)
    1.51
    (1.51)
    50.1
    (51.3)
    5,049
    (5,004)
    2,053,723
    (2,066, 007)
    7, 333
    15,989
    30, 655
    (29,890)
    1.49
    (1.45)
    49.1
    (49.8)

    p47

    (空白)

    p48

      おわりに

     障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議(障大連)では、1993年より、「障害者雇用促進政策づくりのための勉強会」を、府労働部(職業対策課)と合同で6回、開催してきています。
     毎回、府関係機関職員や一般希望者のご参加をいただき、充実した講演とともに、障害者自身からの体験レポート、施策に関する議論、企業見学会等も行われました。
     このパンフレット「障害者の働く暮らしをささえるために―講演記録集」は、その中での講演を収録し、お読みになられる方それぞれの立場から、今後に活かしていただくことを願い、刊行いたします。
     なお、最後になりましたが、ご協力いただいた講演者の方々、テープ起こしなど冊子となるまでの作業を担って下さった皆様に、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

    1996年9月1日
    障害者の自立と完全参加をめざす大阪連絡会議

      (障大連について)
     府下の障害者団体、労働団体、市民団体など、現在51団体による連絡会です。各課題の部会、学習会、企画、行政協議、調査研究などを行い、障害者が中心となって運営しています。

    p裏表紙

    KSK増刊通巻一三九号・一九九六年九月九日発行
    一九八四年八月二〇日 第三種郵便物認可 毎月一二回(二、四、六、八の日)発行

    領価二五〇円

    この冊子内容についてのお問合わせ等は下記にお願いいたします。
    編集人/障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議(労働部会)
    担当者連絡先/〒537 大阪市東成区東中本2-3-8岩本コーポ705
    TEL06-981-1720 FAX06-981-1764

    この冊子作成は1996年度大阪府福祉基金地域福祉振興助成を受けています。


    *作成:臼井 久実子青木 千帆子
    UP:20100408 REV:20141231, 20150908, 20150915
    障害者と労働  ◇全文掲載 

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