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「『親の会』のもつ意味」

陳 怡君
『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』第17章

last update: 20151222


第17章

「親の会」のもつ意味

                                 Chen,Ichun
                                 陳 怡君

 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』第17章

昨年(1994年),「アカデミア小さな学校」を訪問した。まず,さすが小さな学校だと思った。その日に通ってきた生徒は2人しかいなかった。しかし,LD児を中心とした場所なので,2人だけといってもかなり手がかかる仕事なのである。いろいろな症状があり,2人を一緒に同じ部屋に預けることができないのである。その時頭に浮かんだのは,こうした子供の親はどのような気持ちで子供をここに送ってきたのかということであった。
それから,私たちはいくつかの塾とフリースクールを訪ねた。これらの団体はその対象を障害児ではなく,主として不登校の子供においている。その時も同じように私が関心をもっていたのは,やはり子供に関わる親のことであった。それで私は親側にアプローチしたいと考えた。そう思ってもなかなか親たちと接する機会がなかったのだが,(1994年)12月に松柏塾の吉田さんからもらった『家族ネットワーク通信』という会報のなかに忘年会の知らせを見つけた。これは親たちと話し合ういいチャンスだと思った。
12月3日忘年会の日に私は会場へ行った。不登校児の親たちが集まる会というと,私には暗いイメージがあった。また,忘年会なのに親に子供のことを質問したら失礼だろうとか,いろいろ考えながら,会場に入った。しかし,会場に入っていろいろな心配は一度になくなった。会場の雰囲気は学生のコンパと同じように自己紹介し,お酒を飲みながら話をし,少しも暗いイメージがなかった。また,親たちも遠慮なく,自分の子供のことを私に話してくれた。もちろん,なかにはまだ子供の悩みを抱えている親もいるし,過去子供が不登校児であった親もいる。しかし,彼等はお互いに話し合ったり交流したりしている。この会で私が感じたのは,不登校はもう親の悩みの中心ではなく,子供の人生の選択肢の一つでもあるということであった。親たちはこのような集まる会,「親の会」で,悩みを相談できる人たちに出会い,その中で過ごすことで意識も変化した。こうしたことから,私は「親の会」が親たちにとってどんなに必要な場所であるかがわかった。
 「親の会」は,子供が障害や登校拒否や非行などの問題にあった親たちが自分の体験を語り,互いにアドバイスし,励ましなから交流する自助グループである。「考える会」という名をつけるグループもある。そして,各地の会は情報発信と情報交換によって横のつながりができており,大きなネットワークになることもある。たとえば,「家族ネットワーク」もこのような流れのなかで形成されている。「家族ネットワーク」と「登校拒否を考える会」を具体例として,「親の会」についてもっと詳しく紹介する。

T 「家族ネットワーク」

「家族ネットワーク」の創設者は故八杉晴実氏(→第16章)である。1974年に「落ちこぼれ」の問題が出てきた時,塾の先生や学校の先生や父兄などと協力して考えていこうと考え,それで「わかる子を増やす会」という民間教育機関を創設した。その目的は,学校教育や普通一般の学習塾などでは援助されにくい子供たち,それにその親たちに対して,民間の私塾で積極的に援助していこうとするものであった。主な対象は登校拒否の子や学校で落ちこぼれている子や高校中退者などである。
 そして,1985年,不登校,学力遅れを支援するため,呼びかけに応じて私塾の人達とネットワークをつくり,「支援塾全国ネット」(→第16章)という団体が結成された。それと同時に不登校,学力不振を皆で考える親の会「学校外で学ぶ子の会」も創設した。会員のほとんどは小規模で普通の補習塾としてやっている人達である。登校拒否専門の塾ではないが,不登校児を見て見ぬふりはできないから,不登校児に家庭的な雰囲気で学べる場を地域の塾で提供する目的であった。
 そして,この3つの会を統合する形で,それまでの教育の枠を超え,大人同士の豊かな心の交流を目的に1990年5月に「家族ネットワーク」が形成された。今は東京本部,関西支部,東北支部があり,全国各地に地域に根ざした「家族ネットワーク」が広がりつつある。ほかに各地で既にネットワークを作って活動している場合は「姉妹ネットワーク」として名前はそのままで参加する団体もある。これを含めて現在登録している団体は 400くらいある。
会費は年に1000円である。また『家族ネットワーク通信』という会報を年に4回出している。会の年間予算は40万円くらいであるが,ほとんどは会報の作成と郵送に使われている。各地の親の会の会員から寄せられた活動状況や予定などの情報,講演会の感想などが会報に載る。
 個々の親の会によって活動内容が違うが,多くの会では,毎月1回程度の会としての集まりがある。年に1回,あるいは春・秋,総会も行われる。例えば「秋田県南家族ネットワーク」は10月に合宿と集会を行い,会報によってネットワークのメンバーを誘うことにしている。3日間の合宿でお互いに持っている問題や悩みなどを話し合う。またその中で講演会を企画したり,その地域の観光もする。
 松戸家族ネットワーク「松柏ふれあいの会」(松柏塾については第16章)について,吉田弘子さんは次のように語っている。
 「特にここ(松柏塾)に通ってくる子どもさん達の親ということではなくて,誰でもどんな年齢の方でも,ここへ来て皆に何かこう近所でしゃべるようなことをしゃべってもらえるような,ほっとした場所が作りたいと思ったのね。ご近所じゃ話せないことも,ここでは話せるように。こんなこと悩んでるんだけど,どこに行ったらいいのかとか,子どものこととか。… お母さんたちに「勉強だけではない」ということを分かってほしいと思ったのね。また,悩んでいることもここで話してもらえたら「それならこっちの仲間がいいよ」って教えてあげられるかもしれない。そういう情報源としての場所ということもあるわね。」
 ここでは既に教育の分野から離れ,地域に広がる場として機能している。最近では,母親だけでなく父親にも参加してもらう試みを始めた。これは子供の教育や世話などあまり顔を出さない父親たちを誘う活動であった。少しずつ参加者も増えているという。地域に住むものとして,環境や福祉,市長選挙等について考える会もあり,そちらにも参加し情報をもらっている。関係者だけではない集まりは,当事者ではない新しい視点が存在するということでもある。
 また,姉妹ネットワークの「ポラーノの広場」はベトナムの人達との料理交流会を行っている。この交流会はもう5年目を迎えた。毎回30人以上のベトナム人が参加し日本人と一緒にベトナム料理を作ってダイナミックに食べる。そして1994年11月の総会では,寺田靖範監督の映画『妻はフイリピーナ』を見,監督と自分たちの気持ちを語り合った。最後に不登校や家族の問題を抱えている人達の懇談会も行った。
 これらの集まりは,子供の問題だけではなく,生活上の悩みや喜びあるいは新しい発見などいろいろなことを相談する会である。さらに,外国人との付き合いも行っている。子供が人間関係を学ぶ場も作れるし,逆に自分の親と離れて,違う文化で生活している外国人たちにとって,その心も支えるような会でもある。ほかに,親同士で合宿やハイキングや遠足や講演会や読書会なども行っている。先に記した経緯もあって,このネットワークは「子ども支援塾ネット」とのつながりで活動している部分も大きい。練馬家族ネットワーク「土曜会」の代表八杉悦子さん(晴実氏の死後,妻の悦子さんが継いだ)は,これらのネットワークの活動状況を次のように語っている。

   −ネットワークに参加している個々の人がどういうふうに考えているのか…
  「理想は高いんですけど,みんなばりばり活動しているわけじゃなくて,それぞれ自分の仕事を持っていて,その上でやってるわけですから,みんな『無理をしないでできる範囲のことをやっていこう』という考え方なんですね。」
   −最近話題になることってなんですか。
「この間は,ちょっと学校でいじめられて,教師に嫌がらせを受けた子がいまして地域外の小学校に動いたわけです。転校して,大変だったんですけど。で,その子が今度中学に上がるから,地域に戻ったほうがいいか,私立の特別のところに行ったほうがよいかで,今私立を受けているんだけれども。そのお母さんがいろいろ言っていたというところです。」
… 
   −やっぱり来ている子供たちの話題が多いですか。
「そうです。もう一人は不登校で,もう一人は卒業認定のこと。学校行ってなくって,今3年生ですから,この春卒業することについて,校長はあんまりかんばしい答えをしないんですね。親は卒業させてくれって言っても,責任がもてないからとか言って渋ってる。卒業させてくれって言えば,させなきゃいけないはずなんですよ。ですからもうちょっと強く言ったほうがいいとか,子供が自分で伝えるとか,いろいろ助言しているわけですよ。… 方針とかそういうのじゃないですけども,役割を考えている。本当に乗り出さなきゃいけない問題が起こったら乗り出しますけど。今のところは,親に対する側面援助の形ですね。… このまえ横浜の方でいじめがあったときには子供の人権相談のほうの弁護士を紹介したり,そういうときに親が働きかける方法はこうだとか,一緒に考えたり助言したりしています。」
   −この組織っていうのは,情報交換のネットワークってことですか。
「情報交換っていうか,そういう人達が活動する時の拠り所となるもので…ただ情報の交換しているわけじゃない。そういう運動をもっと広げていこうよって。… 社会や学校に働きかけるというより,親の意識を変えていくのがこの会の目的ですから。」

このネットワーク自体が統一した活動をしているわけではなく,各地域の会が自ら活動している。つまり,情報交換の形でつながっている。「どんな問題が起こった時にも,一人では解決できないかもしれない。人との出会いの中,情報の交換と収集があれば,お互いに問題を解決したり励ましたり交流したりするとよい方向になるのである。」このような発想で活動をしている。したがって,各地域の家族の距離が近くなっているように感じ,親自身も成長して充実し,モノサシも共に変わっていく。今回の阪神大震災に対して何かできることがあるかという声があって,活動をした八杉さんが次のように語ってくれた。

「今度の運動なんかも,非常に参加してもらって。友情ノート運動ですね。それは何かっていうと,向こうの子供たちのために何かできることないか,そのためにこっちの子供たちが,結局,人の立場をわかったり,あったかい思いやりの心を持ってもらいたいっていうのもこっちの狙いなんです。両方のことを兼ねて,手近にある文房具を1人分ずつ袋に詰めて,お手紙を添えて向こうで渡すっていう運動なんです。今回は2千人分できたんです。各地のネットワークで集めて,こちらに送ってくる。」

U 「登校拒否を考える会」

「登校拒否を考える会」の代表者は奥地圭子さんである。奥地さんの長男は小学校2年の時転校でいじめられ,登校拒否が始まった。最初,奥地さんも多くの親と同じ「子供は学校へ行くもの」という固定観念で,学校へソフトに強制して行かせ続け,ついに子供は拒食症になってしまった。2年間,あちこちの医者をまわったが,子供の状態はひどくなる一方で,病院から国立国府台病院への紹介状があった。そこで国府台病院の渡部位氏との出会いがあり,その病院の中にあった親の会の「希望会」と出会った。

「私は渡辺先生にカウンセリングを受け続けたわけじゃなくて,子供が1回しか会ってないんだけど。ただね,希望会という親の会が意味をもっていたというか,親自身が自発的に,病院のなかにあって,渡辺先生が責任をもっておられたというか。親がやってるんですけど,時々昼休みなんかになるとバッときてね,ちょっと必要な話をされたりね,そういうことがあってそういう渡辺先生のような専門家がやっていたというのが,非常に偶然的なんだけれども,非常に意味を持ったというかね。だから登校拒否を考える会っていうのは希望会のなかの有志が言い出しっぺなんですよ。」(奥地さん)

「希望会」は集団カウンセリングの場として1972年に始まった。「登校拒否は医者に直してもらうというような問題ではない。子育ての責任は親にあるのだから,親が学びあって乗り越えていきましょう。」という趣旨で,自立的な会として歩んできた。奥地さんは会に月に1回か2回出席するようになった。希望会での話と活動は今の「登校拒否を考える会」と同じように,親の体験をだしあいながら,本音で話し合うものだ。
「…真夏に雨戸もカーテンもしめ,電気もつけずうずくまってる話,トイレにいくたびに母親がきれいに掃除しないと承知しない話…。今まで知らなかったすさまじい話とともに,「あなたがそういうことを言ってるから,子供は余計辛くてそうするのよ」とか,「よくそこまで待ってあげましたね。もう大丈夫じゃないかな」とか,親のありかたをはっきり批判したり,はげましたり,古い方と新しい方が一緒になって経験を出しあって,意見交換していた。」(登校拒否を考える会編[1987:31]奥地さん)

そして希望会10周年を記念して,本を出版しようという話が持ち上がった。会の歩みを本にして,もっと多くの親に知ってもらいたいと考え,渡辺氏の監修で,足掛け3年ぐらいかけて『登校拒否――学校に行かないで生きる』(登校拒否を考える会編[1987])という本を完成させた。本がでると,反響が大きく「希望会に入れてほしい」という声が殺到した。しかし,希望会は病院内の会だから,病院にかかっていない人は入れない。そこで,病院の外に会を作る必要があると考え,希望会の有志と協力者の人々で「登校拒否を考える会」をつくることにした。1983年から準備し,1984年に発足した。

「登校拒否を考える会は,初めはわが家でやってたわけですよ,事務局を。それはもうたいへんで,電話だって,朝の5時から,夜の2時までかかってくるからね。不登校の子っていつ寝るかっていうのがいろいろあるでしょ。子供の前では電話できなかったりするもんだから,やっと寝たから電話してきたとかね。それから,家の中ではできないから,早朝に抜け出して,電話してきたとかもあるから,もう電話だって本当にご飯の用意をいつするかっていうぐらいにできない。それから,6畳の間で広げ回してね,プリントを綴じたり…」(奥地さん)

「登校拒否を考える会」は,初め8名ほどで出発したが,どんどん増えて2年半で 450名を超えるまでになった。その時,地方でもところどころ不登校の問題があった。しかし,学校信仰が強く,また専門家が今よりずっと理解していなかったから,病気と見たり,情緒障害と見たり,親の育て方と見たりしている時代であった。それで,親たちは専門家の言う通りにしてよいのか,どうしたら子供にとって一番いいのかということを掴みたい気持があった。そこで奥地さんの本とマスコミから情報を得,北海道や四国や九州などから飛んでくる親が大勢いた。会の主な活動は月に1回の例会で,講演会,シンポジウム,参加者による懇談会,体験発表,子供たちとの対話集会などさまざまな企画をしていったことによって,4年目には1000人をこえた。5年目に,各地からきた親の中から自分の地域で会を始める人達が次々と出てきた。親の会は燎原の火のように各地に広まっていき,大きなネットワークになっていった。

「親として,あるいは市民運動としてやってきたものがすごい大きな力になったっていうのは予想以上ですよ。10年後にどうしてるかなんて分からなかったけどね,これだけの広がりになるっていうの予想してなかったですから。自分達の地域でいろいろ悩んでいるお母さんとか,あと自分達がどうしたらいいか考えあうとか,そういうことをしようと。… 非常に,現実に必要だったことなんじゃないですか,広がっちゃったってことはね。だから二側面あるわけですよ。親の運動と,親の会の運動と,子供の場,学びの場を増やしていったっていうのと二側面私達は持ってるわけです。」(奥地さん)

悩みを相談する場と共に学校に行かない子供達にとって本当にいきいきできる居場所,友達づくりの場所が求められていた。そのため,奥地さんは1985年6月,学校に行かない子供達の学びと交流の場である「東京シューレ」を開設した(→第15章)。

「親達で経験をつきあわせると,いろいろなことが見えてきた。専門家を選ぶ目や,理解をしない学校の先生と子供の側に立ってはなしができる自信や,何より世間に流されずに自分の頭で考え,子供とつきあう中で何が大切かつかんで主体性を持って生きることなどが育ってきたと思う。「学校へ来ないような子は,将来がありません」とおどされ,「家庭教育が間違っているのですから,よく反省してください」と,ひたすら専門家や学校の先生の指導の対象だった親たちが,今や自立自助の学びあい,必要な支えあいを始め,安心し,子供を信じて待つゆとりを持つようになった。そして,自分の狭い教育観や学校信仰を問い直す人々の輪が広がった。」(登校拒否を考える会編[1987:42] 奥地さん)

今,各地の「登校拒否を考える会」はそれぞれの独自性をもって,自分たちで自発的に講演会を開いたりするようになってきた。各地の会は大体地域名が付いている。つまり,東京と横並びな関係である。春,秋には世話人の交流合宿をし,夏には一般参加ができる全国合宿研究会を開催している。
そして,東京の考える会は毎週水曜日に電話相談を実施している。また,年1回の合宿研究会,月1度の例会を開催し,勉強会や情報交換も続けている。『登校拒否を考える会通信』は年10回発行している。「登校拒否を考える会」は,「東京シューレ」が開設されて以来,今も一緒に発展している。

「シューレの中に考える会の事務局を置いてやったために,よけい親の会も発展したと思いますよ。親の会が土台になってるから,東京シューレという子供の場も発展したという,お互いに相乗効果で支え合ってきた関係ですね。」(奥地さん)

V 親の学校観の変化

 自分の子が不登校になった時,その事実にだれも明るく接することができない。先が真っ暗になって,何も手がつかなくなる親が多い。子供が学校へいかなくなった親たちは,まずどのように子供を学校へ戻すかと悩んでいる場合が多い。なぜこんなことになってしまったのかと。近隣や学校関係者や社会からは,自分の育て方が悪い,過保護だという視線で見られる。親たちは学校を絶対化し,学校という価値を通してしか子供がみえない。
 親が明るく元気になって子供の状態を受け止められるようになると,子供も落ち着き,明るくなってくる。ただ,難しいのは親が元気になるためにはどうしたらよいかということである。本,ラジオの教育相談やテレビの特集番組もある。しかし,親の話から聞くと,一番よいのはやはり親の会の仲間たちである。
 まず自分のことを同じような経験を持っている人に話せる。そして,同じような経験をした人,している人の話を聞ける。

「様々な経験談を聞ける「親の会」,そして自分の経験を語れるまでに成長した人々との出会いで,私の輪はたくさん広がっています。一人で悩んでいたことがウソのようですが,やはり出会うためには自分から一歩踏み出さないと向こうからはきてくれませんでした。… 同じ問題を抱える「登校拒否を考える会」でたくさんのお母さん,お父さんと会ったことが大きな支えになりました。足を運ぶごとに悩みを話せる人ができました。何年もこの問題を引き受けている方々のお話しは,とても参考になりました。会の方々に会わないで家の中にとじこもっていたならば,今の私たちはないと思います。親の会に出席して救われたというのは,私からすれば別に大げさな表現ではありません。」(樋口監修[1992:35,38])

 有益な情報,経験談,よくわからない者同士の意見のなかで手探りしながら自分の考えを明らかにしていける。親たちは,自分の子供が不登校になり,怒って,苦しんでいる。そのショックの原因はやはり「学校への信仰」にある。しかし,それは,親個人の問題だけではなく,現実の社会環境がまだ学歴社会のままなのである。「子供は学校へ行かないとこれからの人生はどうやって生きていくのか」,また,「社会人にもなれないだろう」というような心配を背負って,苦しんでいる。だから,親たちが暗い日々から抜け出せたのはやはり自らの意識の変革,要するに学校信仰という観念と価値観の変革によってであると言える。それは,親の会や家族ネットワークなどの仲間からの学んだ重要なことだと多くの親は言っている。

「子供が学校へいかなくなってから十か月がたっていた。それまでに教えられた登校拒否に対する見方,考え方はすべて,子供を学校へ戻すことが唯一の価値であり,子供と親の関係のみにその原因を求めていた。「親の会」はそうではない。登校拒否は単に学校へ戻せばすむ問題ではなく,学校や社会の問題であり,人間の生き方の問題であり,直そうとしないでよいものであった。子供の心により添い思いやることを忘れ,学校にしがみつき,振り回されている自分はいったいなんなのだろうか。子供を少しもわかっていない自分に気付いて愕然とした。何かとてつもない課題を背負わされた感じがしたのだった。それはまた,子供を否定し,自分たちを否定したあの袋小路からの出口でもあった。… 日本の多くの子供たちは,そして親たちは,学校は行くことに何の疑いも抱かないだろう。だが,今の私には,どんな学校よりも子供のほうが大切である。なぜこんな簡単なことに気付かなかったのかと思う。学校を肯定し,子供を否定する社会状況は健康とはいえない。学校自身はそれに気付く力を失っているかのようである。私は,学校の価値より子供の感性・生き方により添うようになって,私の目では見えぬものが子供の目を通して見えるようになってきたと思う。」(樋口監修[1992:169-170])
親の心配は学力だけではない。たとえば子供が学校へ行かなくなると,友達とのふれあいがなくなるという問題もある。子供が家族としか顔をあわせていないので,社会性が発達せず,いつか外へ出られるようになっても人とうまくやっていけないのではないかと考える。それにつれて集団のなかに入りにくくなると思うし,協調性も育たず,将来が心配になる。そのために,やはり親が送ってでも学校にいかせなければならなくなる。このように同じ問題を抱える親たちは多い。しかし,こうした親たちも親の会に参加し,意識がかわった。

「親はかわいそうと思うけれど,子供自身は,「そのときは一人のほうが楽しい」「ホッとできる」「そっとしておいてほしい」といっております。まず大人の側の,「集団を通らなければ人間になれない」という考え方を問直す必要があります。親の側の理解とささえがあれば,やがて自らの力で「とじこもり」を脱却して,他人とのふれあいを求め,かつ引き受けていく時期がやってくるのです。… 子供が不登校になってからやっとわかってきました。」(登校拒否を考える会編[1987:138])

 どんなにいじめられても,「学校へは行かせなくては」と親,教師が考えてしまっている。登校拒否の子にとって学校とはまるで地獄のようである。追い詰められたら,自殺や精神破壊になることもある。命を守れるかどうかの問題にまでなっているとき,学校にこだわっていてはとりかえしのつかないことにもなる。学校にあう子は学校でいきいきと学べばよいが,学校にあわないで苦しんでいる子は,その子が育つにふさわしい道を,学校にとらわれずに見つけていけばよいというように親の意識が変わってきた。
 親たちは自分の持っていた学歴,学校へのこだわりを問直すことによって,子供を受け止められるようになったのである。それで,そのことによって子供との関係が開かれ,子供が安定して,自分に自信を持って歩むようになって行くのだということも,はっきり見えてくる。
 そして,繰り返すと,こういう活動が,実際に話したり聞いたりできる場所としてあること,そういう場所にあることが・・国の政策に関わったりすることだと,それだけでは済まないことがあるにしても・・まず大切なことなのである。八杉さんは家族ネットワークの活動を次のように語っている。

「一生懸命やってますよ。成果がでてるか分からないけど。くいとめるところまでも行ってないかもしれない。でもやらないわけにはいかない。効果から考えるとばかばかしくてやってられませんよ。でもね,この前川越の家族ネットワーク行ってきたんですけども,数は少なくてもそういうことを分かってくれる人が千人に一人でもいれば強力な味方ですよ。だからやってる人達もそれでまた頑張ってゆこうっていう気持ちにもなれるし。そういう人達とも少ないけれどつながっていって,一人一人足で稼ぐっていうか,そうやって仲間を増やすしかない。社会的に呼びかけていくっていうのはダメですね。」
−今家族ネットワークに参加している親たちは意識が変わってますか
「ずいぶん変わってますよね。子供はこうしなきゃ幸せになれないとか親が思い込んじゃいけないとか,やっぱり子供信じて待つしかないとか。最初は子供にいうこと聞かせて勉強させてこうとか,でも,挫折してみて初めて本当のことが分かってきた。それは雰囲気でわかってもらっていると思うから。大々的に社会に働きかけてという性質のものではないですね。」

 そして,こうした活動があることによって,外側に対して強くなれる。さらに,一つだけだとつぶれることがあるが,ネットワークがあることによって,危機を乗り越え,もっと強くなることができる。

  「子供の生涯の責任を持っている親だからね,やっぱり歯に衣着せずに皆さん経験から言えること言ったりしてますよ。それから,本当に親がそれで分かったりしていくと,子供も変わってくるから。1か月後に出てきた親なんかの言うことが全然もう変わってきてる。子供がこういうふうに口きいてくるようになったとかね。本当に打てば響くような,本当の学びってのはこうだなっていう感じ。それで,私たちはそこで勉強したことがもとになっているから,ここで始まったときに,初めての人とかいっぱいいろんな,今までの学校にこだわる考えの中で,いろんな状態になっていたり,いろんな質問や話やありますよね。ちょっと会が地方によっては,続かなくなっちゃったりするところもあるんですよ。かなり会をやるってことはしんどいことで,すごいいろんな状態があった。…地域は地域で偏見があったりすると,せっかく会を始めたけど結局つぶれたっていう会をいくつか知ってますよ。私たちは幸いそういういろんなケースをいっぱい勉強して,こういう方向でやることが必要なんだなということを掴んでいたしね。で,私たちの子どもは元気になっていたわけだからね。だから,どんな偏見でも,それは偏見だなって感じられるような土台にはなっていた。」(奥地さん)

 いろいろな人と出会い,子供の問題のアドバイスを得,自分自身の人間関係を広げていくことができる。自己主張できる場ができる。それによって自分の失った子育ての自信が戻り,やるべきことが見つかるなど,子供も親もともに成長していく。多くの親が次のように語る。「子供が登校拒否をしていた時期,まさに私の人生の転換期だったとも言えます。」このような親の会の活動があって,子供を持つ親の間で,以前より登校拒否を特別視することが少しは薄らいできた。登校拒否はどの子にも起こりうるし,現在元気に通っている子供でも登校拒否の可能性を持っているという見方も増えてきたのだと思う。私は「家族ネットワーク」の忘年会の楽しい風景を思い出し,それが親の会や家族ネットワークが親にとって最高の成果をもたらしている証拠のように感じている。


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