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「ワーカーズ・コレクティブ「凡」の軌跡」

山田 深士
『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』第9章

last update: 20151221


第9章

ワーカーズ・コレクティブ「凡」の軌跡

                              Yamada, Fukashi
                               山田 深士

 『NPOが変える!?――非営利組織の社会学(1994年度社会調査実習報告書)』第9章

 ワーカーズ・コレクティブが事業体としてどのように展開していくのか。その過程で起こる問題,困難はどのようなものか。そしてそれにどのように対処し工夫しているのか。
 ここでは,1984年4月に東京都町田市に設立されたワーカーズ・コレクティブ「凡」をとりあげる。理事長を務める西貞子さんにインタヴューしたその記録から,このワーカーズ・コレクティブの10年余を辿ることにする。★01

I 企業組合ワーカーズ・コレクティブ「凡」の事業経過

 ワーカーズ・コレクティブ「凡」は東京都町田市にある生活クラブ生協町田センターの敷地内に間借りするかたちをとっている。その主な業務内容は,店舗兼作業場で作られる惣菜・弁当・仕出し弁当等(「食」部門)と,地元の農業生産者から賃借した,別の場所にある加工場でつくられる,地場農産物を原料にしたジャム,漬物,シロップ等の加工品(「加工」部門)の販売である。それらの販路は,店売り,クラブ生協での共同購入,仕出しや卸売といった注文販売である。現在(94年度末)のメンバー数は16人,パートタイマーが8人,1994年度の総事業高は8060万円である。
 だが,最初からこのような事業部門の編成になっていたわけではないし,事業規模も変化(拡大)してきている(事業内容の経過については,後出の表2にまとめてある)。西さんは,「凡」のこれまでの経過を,設立から現在まで3年毎に準備期,自立期,充実期,拡大期と,とらえているようだ。

 1 準備期(84年〜86年)

 「凡」が設立された時の状況を,西さんはこう語っている。

 西「生活する,ということは消費するだけではないですよね。ですから生活する,ということの一つの分野として,働く,ということを自分たちが考えて,自分たちで働き場を創っていくのが大事なんじゃないか,ということで,(このワーカーズ・コレクティブは)生活クラブ生協の運動として提唱されたんですよ。
 そのときにこういう町田センター位の規模のセンターが都内に12,3くらいあったんです。で,そこに1つずつワーカーズ・コレクティブを作って,生活クラブの業務の一部をそこに委託させたんです。で,84年の5月だったと思うんですけど,11か12のワーカーズ・コレクティブが同じようにスタートしたんですよ。職員のやっていた仕事,注文の集計や,班の注文に合わせて荷分けしたりする作業を委託されて,その委託が,まあなんというんでしょうか,基本収入源みたいになっていて,そうしながら3年の間に自分達独自の事業を興すように,ということでした。」

 生活クラブの委託というとりあえず安定した仕事を用意してもらい,その間に自分達の仕事をみつけることになった。「凡」はどのようにして独自の仕事を探したのか。

 西「私は生活クラブに20年くらいかかわっていまして,組合員活動の中で,消費材を開  発する商品委員会という所にいたんですね。… で,最初自分たちの住んでいる町の野菜が欲しいね,ということになって,市の農業委員会の方が,この人は,と思う農家を何人か紹介してくれたわけです。で共同購入を実現して,そういうなかで,何人かの生産者との関わりができていったんです。その上で,こういったワーカーズ・コレクティブを始めて,その時に,私の所に生産者の一人が,自分の畑のナスを塩漬けにして生活クラブに出荷するのを請け負ってくれないか,という仕事が来たわけで。その時はまだ一年目ですよ,とにかく声がかかれば何でもやってみてたんです。… 」
−「では計画的に野菜を扱おうとか,そういう形ではなかったということですか。」
西「ええ,そんなのじゃないんです。」

 こうして,組合員活動で得たパイプを活かして農産物加工を扱うようになったが,それだけでは十分ではなく,問題が生じてしまう。

 西「私たちは,3年の間に事業の柱は私達の町とのかかわりあいを大事にするものにしたいと思ってましたので,農産物の加工を一つの柱にしようという合意はわりと早くとれたんです。で,1年目はけっこう農産加工のほうで売り上げをしてるんですよね。でもその翌年がひどい冷夏で,原料が手に入らないなんて状況になったんです。そこで,こんなに天気に左右されるもので1年をやっていこうというのは,ちょっと無謀なんじゃないか,ということになったんです。
 で,もう一つ,生活クラブが共同購入した牛肉の内臓が手つかずでありましたから,それを家庭で使えるスライスやブロックに加工して売るということ(副生物)を別の柱にしようと決めたんです。
 またもう一つ,生活クラブが開発した食材や地場の野菜を使って,お弁当とか,お惣菜とかを作ろうと,その三本柱でやろうと,準備期で決めたんです。最初は農産加工で行きたかったんですけどね,自分達のつくったつけものや,ジャムばかりでお店が成り立つとは,とても思えなかったんですよ。それでなんとかするために,毎日お客さんが来るものといったらお弁当とかお惣菜だ,というので,それが良いのでは,と。ワーカーズ・コレクティブは弁当屋で出発する所が多いでしょう。私はそういうの嫌だったんですけど,売り方の一つとしてやっぱりこれがないと。利益率は農産加工品の方が高いんですけど,日銭が安定して入るというところでは強いんですよ。」

 このように,3年間の準備期でどういった事業を始めるか,決まっていったのである。事業開始の背景には生活クラブ生協の支援があった。また本格的な独自事業の開始にあたっても,生活クラブ生協での活動,そこで得た人のつながりがものをいっている。その後,全国各地で設立されていく数多くのワーカーズ・コレクティブの中には,生活クラブ生協の活動とは別に活動を開始するものも多いが,それは,生活クラブ生協活動の中から出てきたワーカーズ・コレクティブ自体が一定の地歩を固め,その内部で,新しいワーカーズ・コレクティブの支援体制をとれるようになった(→第10章)ことによるのかもしれない。
 また西さんは「お弁当とかお惣菜」は「嫌だったんですけど」と述べている。ワーカーズ・コレクティブ〜女の仕事〜家事に近い仕事〜弁当・惣菜…,というつながり方に抵抗があったのかもしれない。ワーカーズ・コレクティブの仕事はそういうもの(だけ)ではないのだという意気が感じられる。ただ,事業は事業,商売にならなくては話にならない。複数の事業を並行してやっていき経営を安定させるという道が選ばれた。

 2 自立期(87年〜89年)

 86年度末で生活クラブからの請負業務が終了し,そして店舗兼作業場を賃借して,独立した事業体への期間にはいる。店頭売りに加え,生活クラブ生協の共同購入品目に漬物,ジャムが入り,また,別のワーカーズ・コレクティブが町中に移動して生鮮品を売る「市」を出していたので,そこに品物を出したり,他にも一ヵ月まとめて直接注文を取って配達を始めたりした。それ以外にも取扱いを始める商品があった。

 西「今ではクラブ生協の消費材の中にも鳥肉があるんですけど,その時(88年)はなかったんですよ。… しょうがなくスーパーや市場の市販品を使ってましたけど,一番心配なものだったんです。で,ワーカーズ連合会でクラブ生協の紹介を受けて,鳥の生産者の方と直に話をして,これなら大丈夫,と決めたんですよ。今でもクラブ生協の共同購入のとは違う,その生産者の鳥肉を使ってます。実際市販の鳥肉を使っていた時には,これは使いたくないな,というのがありましたからね。そういうのは売りたくなかったんですよ。」

 こうして,「凡」は独自で鳥肉を扱うようになった。食財の品質と生産地へのこだわりは,設立当初から現在までの一貫した「凡」の事業方針である。
 また同じ年に出資金の額を増やす増資を行っている。

 西「みんなそれぞれ最初は年5万円ずつ積み上げていたんですけど,月に5千円位ずつ徴収してね,でも資金不足になったもので,一挙に一人一律10万円にして増資しようということでやったんです。」

 また同時に公的融資を受けるために法人格の取得を89年に果たした。それまで「凡」は任意団体の形態を取っていたが,それでは公的融資はうけられないので,「企業組合」という法人格を取得し,社会的な体裁を整えた。

 −「公的融資というのは誰でも受けられるものではありませんね。」
 西「ええ,法人格のないときに融資を受けにいったんですけどね。そうしたら合う制度  がないと言われてしまって。ですから企業組合という法人格を取ったんですけど。」
 −「申請はいつごろでした。」
 西「その年(89年)です。東京のワーカーズ・コレクティブでは5,6番にうけました  ので。」
 −「わりとすんなりと?」
 西「神奈川の「にんじん」が企業組合を申請したときは却下されてすぐにできなかった  んですよね。その後東京の「道」が企業組合を申請したんですけど,東京ではわりあいスムーズに通って,その後神奈川の「にんじん」も通ったんです。だから,そういう意味ではわりと私達の時は問題もなく。」

 この時期に入ると,準備期に徐々に総事業高に占める割合を減らしていった生活クラブ生協からの請負業務(84→85→86年度,54→51→27%)をやめ,店舗を持ち,また独自の事業展開を始める。また増資を行い,法人格を取得する。店舗の賃貸や加工品の生協での取扱いなど,生活クラブ生協とのつながりは続くが,生協への依存からは脱していく。

 3 充実期(90年〜92年)

 こうして,ワーカーズ・コレクティブ「凡」は独立した事業体として活動していくが,さらに,90年前後から事業の効率化を図り,計画性を持った働き方を考え始める。90年からはパートタイマーを導入している。

 −「パート導入のきっかけは何でした。」
 西「(メンバー数が設立当初の)20人からだんだん減っていって労働力が不足したんです。また,すぐにメンバーにはなれないけど短時間でもこういう場所で働きたいと言う人が出てきたのもありますよね。」
−「それに対応するために。」
西「だからメンバーになるには,やっぱりある程度出資金とか会議とか,パートさんは 時間で帰ってもらうけど,メンバーには残って仕事をやってもらうということがありますよね。メンバーにはなりたくなくてパートならばいいという人がいて。それでこちらもとにかく働いてくれる人が必要だというのがあって。そしてパートから次第にメンバーに変わっていった人もけっこういるわけなんですよ。」
−「パートの方々はどうやって探したんですか。」
西「店の前に広告を出したり,全体でワーカーズ・コレクティブの説明会をやるときに,募集していますとかいう話をしていますけど,あとは口コミというか。うちのメンバーの知っている人が,紹介を受けて入ってきたり,たまたま,隣の弁当屋にパートで入ろうかと思っていた人でうちに知り合いがいてここに来たとか,その人が今度は自分の友達に声をかけて。」

 また,事業の効率化のために副生物(牛肉の内蔵加工品)の取扱いを92年度から中止した。86年度には総事業高の18%を占めていた副生物の売上げが,89・90・91年度には6・3・2%と減少していたのである。

 西「副生物というのはなかなか手に負えないというのがありましてね,レバーとかタンとか,ポピュラーで皆さんの使い勝手のいい部分はわりと売れるんですけど,そうでないモツや胃袋なんてのはなかなか売れないんです。ところが,仕入れというのは,一頭単位で頭からテールまで何頭分として仕入れるやり方なんですよ。で,貴重な冷凍庫を売れない在庫で埋めるのは,やっぱり整理しなくちゃいけないんじゃないか,ということで(事業高に占める割合が)減ってきてましてね,それでやめたんです。」

 この他にも,90年には,製品の販路拡大の1つとして,ジャムを瓶詰めにすることを始めた。それまではジャムをポリ容器に入れて冷凍保存していたので,店頭以外の場所で売ることができなかったためである。さらに91年には,生鮮の野菜や果物の取扱いを始めた。これは計画的,というよりも状況がそうさせたようだ。

 西「果菜類なんか,どっと出来たものが食べきれなくて,例えばトマトをトマトソースに作ってみたりとかね。そんなことを組合員活動の中でやってたんですね。もう一方で売れないと生の野菜を円滑に流通させていかれないんじゃないか,というのは組合員の活動で知ってたことなんですよ。だからそれを最初から仕事にしようと思ってたわけじゃないんです。… 農産物を受け取るにしても,私たちの場合はそれを加工して売ろうというのがありましたから,ほとんど生で流通しない格外品や出来すぎて食べ手がいないのを引き取るとか,という形で漬物やジャムとか作ってきましたので。生野菜は,3年か4年位前(91年)にすごく野菜不足の年があって,天候不順で野菜がすごく高くなって,その時漬物用として採った野菜を,そんなにみんな野菜が無いものだから,大根の葉っぱとかも,葉っぱだけどうぞお持ち下さいなんて店先に出したんですよ。お金とるつもりは全然なく,そしたらそれこそあっという間にそれが無くなったんですよ。それで野菜も出してみようか,と始めたんです。」
−「では,計画的に野菜を売ってやろうとか…」
西「そんなんじゃないんです,全然。」

4 拡大期(93年〜現在)

 この時期になると 100万円の壁(→第8章)を越えるために,さらなる事業の拡大を考えるようになる。そのために,事業高をもっと上げる必要から,農産加工場の独立拡充が行われた。そのために大幅な増資も実施された(93年度)。設立当初の84年度は 100万円だった出資金は,86年度から92年度にかけて200〜400万円の間で推移してきたが,93年度は1100万円と,92年度からいっきに 742万円増え,94年度は1650万円になっている。

 西「新しい加工場を独立させるためにかなりの資金が要るので,出資金の増額を図って,700万くらいの増資をしているんですね(1人当たり50万円)。この時(1993年度)は全員一律だったんです。最初から関わっている人の差はないようにしていたんですが,それではなかなかお金が集まらないので,出せる人は出そうということにしました。企業組合には出資額の4分の1以上を1人が出してはいけない,という上限があるんですよ。それでその範囲内でやれるだけやろう,差がついてもしょうがないと皆で確認したんです。」
−「その額は個々の意思に任せてあるんですか。」
西「ええ,最大 200万から,入ったばかりの人は5万円で始めますからね。平均出資額 は 100万円で合計が1650万円ですから,そのぐらい出資できてるワーカーズ・コレク
 ティブは他にはあまり無いんじゃないかと思います。」

 この増資でも充分ではなかったため,公的機関からの融資も受けている。

 −「今の融資の総額がどのくらいですか。」
 西「今は町田市の制度融資を 500万受けています。それと国民金融公庫からも 500万借りています。制度融資で1000万位借りたかったんですけど, 500万しか借りられなかったんで,(国民金融公庫に)申請したんです。それが93年度。(それから)94年度,今年ですね,(東京)ワーカーズ・コレクティブ連合会が労働金庫から貸してくれるんです,生活クラブ生協が保証人になってくれて貸してもらうんですけどね。そこからも 500万借りてます。」
−「やはり主に設備投資のために。」
西「そうですね。」

 給与の体系や働き方のローテーションの内規も整備した。91年には1人が 100万円の枠を越え,月給制を採るようになり,94年度時点ではメンバーの内5人が月給制で200〜250万円の年収を得ている。さらに95年度からメンバー全員を月給制にする予定である。また,時給も,経験の年数によって差をつけるようになった。(表1)

 西「しばらくはずっと時給でやっていたんですけど,やはりある程度は扶養範囲を越えられるような収入を得る人もでてこれるようじゃないとね。夫の収入の範囲で適当にいいことやってる,というそんなものと批判されても致し方ない状況ですから,そうじゃなく,そんな中でもある程度の収入が得られるものにしていきたいね,というのが高まってきまして,それもいろいろ意見の対立とかありました。そんなふうにしなくていい,という人達とか,辞めていく人達とか,そういうことがありまして。それでもだんだんそういう方向にきまして,事業高も上げていかないともちろん収入も上がらないということで,とりあえずは1人扶養範囲を抜けてみようか,月給制を採ってやってみようか,と。それで91年に私が1人だけ月給制を採って,1昨年(93年)から5人月給制に入って,あとは時給で…」
−「100万を越えたくないという人は。」
西「やっぱりいましたよ。それは夫との関係で,扶養控除,税の控除だけじゃなく家族手当とかありますでしょう。そういうのが無くなるのは経済的デメリットにもなるし,今度は夫の方が,妻を働かせている,ということに抵抗がある。でも多くは経済的理由でしたね。」

扶養枠を越えたことで,様々な義務も生じた。

 西「月給の人も,まだ「凡」として社会保険を払うことが出来ませんから,各人が国民健康保険,年金を払っているんです。あとの人達も去年からは 100万円以内ということは言わないようにしようと, 135万円以内のものはオープンにして,それに対する税はきちんと払おうと決めました。今時給の人は社会保険に関しては扶養枠(135 万円)の範囲内になっているんです。それも来年度からメンバー全員月給制になるということに決めたんです。」
−「全体の話し合いでですか。みんなで扶養枠を越えようと。」
西「ええ。必然的に扶養枠を越えるんですけど。とにかく月給と時給の2通りあるのは共通の判断をしかねるのがあったりするんで,それを1つにしたいのがあったんで。」

             表1 給与表(95年度)
労働 月給 年収 ボーナス有 労働  労働時間   時 給
パターン 万/月 万/年 万/年 日数 時/月 時/年   円/時
 a b=a*12 c=a*14 日/週  d  e a/d c/e
A−1 16 192 224   5 140 1680 1140 1330
A−2 14.5 174 203   5 140 1680 1035 1210
B−1 13.5 162 189  4.5 126 1512 1070 1250
B−2  12 144 168  4.5 126 1512 950 1110
C−1 11.5 138 161   4 112 1344 1025 1200
C−2  10 120 140   4 112 1344  890 1040
D−1  9.5 114 133  3.5 98 1176  970 1130
D−2   8  96 112  3.5  98 1176  820  950
    A=一日7時間で週 5日働く    1=経験年数が2年以上
    B=一日7時間で週4.5日働く 2=経験年数が2年未満
   C=一日7時間で週 4日働く
   D=一日7時間で週3.5日働く

 月給制を採ったのにはもう1つの理由がある。

 西「96年度から社会保険に加入していこうと,「凡」が企業体として,事業体として入る,ということです。… 事業体が半分持ち,個人が半分持つ厚生年金とか,そういう社会保険です。それは当然事業体であるならやらなければならないことだったんですが,なかなか出来ない状態だったのを,今年皆で月給制を採って社会保険に入る準備を整えて,その上で96年度から入っていこうと,そういうことなんです。これは段階として,私は非常に画期的なことだと思っています。」
      表2 事業内容の経過(95年度の数値は予算案による)
年 人 出資 総事 請  加工 (%) 食 総分 総労働 実質    
度 数 額 業高 負 農産 副 その 配金 時間 時給    
(万) (万) (%) 生 他 (%) (万) (時間) (円)    
84 20 100 840 54 18.5 − −− 27.5 430 10400 410  準 
85 17 153 1030 51 5 2 −− 42 600 11300 530  備 
86 13 254 1480 27 15.5 18 −− 39.5 790 14800 530  期 
87 12 208 2380 − 33 15 −− 52 950 16900 560  自 
88 13 350 3200 − 25 12 11 52 1120 18300 610  立 
89 15 400 3320 − 20 6 12.5 61.5 1120 18500 600  期 
90 16 383 4260 − 27 3 9.5 57 1435 19950 720  充 
91 12 294 5050 − 29 2 12.5 56.5 1700 20900 810  実 
92 12 358 5820 − 29 − 13 58 1910 23600 810  期 
93 15 1100 7200 − 35 − 13.5 51.5 2800 26700 1050  拡 
94 16 1650 8060 − 37.5 − 13.5 49 3200 31000 1030  大 
95 16 −− 8952 − 39 − 13 48 −− −−− −−  期 

 1994年度の総事業高は,8060万円(内訳:食部門3900万円,加工部門3000万円,その他1100万円),前年度比12%の増加となった。その販路の割合は,店頭57%,クラブ生協の共同購入23%,卸売等の注文販売20%となっている。
 またメンバーは16名,パートタイマーが8名となり,それぞれの時給は,メンバー平均が1030円,パートタイマーが 650円からである。
 メンバー内でも年収に差があり,135万円(社会保険の扶養枠)以上が5人,135万円未満100万円以上が9人,100万円未満が2人となっている。
 事業高,分配金,実質時給ともに,着実に,もちろんこれまで見てきたような様々な苦労があって,伸びている(表2)。また,ワーカーズ・コレクティブ全体の事業実績(→第10章)をみても,「凡」は事業規模,労働生産性,等,かなり高い水準にある。それでも100万円から135万円の壁を抜けるのに,相当の苦労を要している。この壁を抜けるためにはかなりの経営努力が必要であること,そしてその努力があった上でも,この壁の存在が大きいことがわかる。それでも,95年度の給与表(表1)の通りに実現されると,週4日以上働けば,年収が 135万円を越えることになる。「凡」は,この壁をなんとか越えられた,あるいは越えつつある,というところにある。

U 地場野菜・コスト・組織の規模

 ワーカーズ・コレクティブ「凡」は,利益や効率だけを追求せず,自分達が提供したいと考えるものを提供する。しかし,他方で経営を無視するわけにはいかないし,この仕事で働き手が暮らしていけるようになることも重要な目的の一つだ。両者を両立させるには,様々な困難があるだろう。またメンバー全員で決めていくという理念と,事業体としての効率性をどうやって両立させていくかという問題もある。「凡」のこれまでを追ってきたTで,これらに関わる苦労と工夫を見てきた。Uでは,「凡」の活動の中で,自分達の仕事へのこだわり,コストの問題,そして組織の規模と決定をめぐる問題について,西さんにうかがった部分を採り出す。

 1 地場野菜にこだわる

 「凡」は弁当,惣菜,仕出し等の「食」部門と農産加工の「加工」部門に分れて活動している。特に農産加工品は地元でとれた地場野菜を主に使用している。地場でなくとも良い素材は手に入れられるかもしれない。あえて地場にこだわる理由とは一体何か。

 −「なぜ地場野菜にこだわるのですか。」
 西「やはり,町中に農地が残って欲しい,というのがありますね。町田もどんどん農地や農家が減ってきていますし,それを止めるには食べ手というか消費者が,作る人や売手とよく分かり合った関係でいるのが大切だろう,というわけです。その間を野菜がそのまま流通するのが大切ですけど,余った物や規格外品も使って加工したものが地域で流通することに私たちが手を貸す,そこに働き方を見つけるのが,地域のなかの小さな経済を担ってという意味も大きいのではないかな,と思うんですけど。」
−「地域の中で流通させて,新たに雇用をつくっていく,ということですね。」
西「そうですね。やはりそんな広域のことをやるつもりはないし,自分の住んでるまち の中で経済活動が出来たらいいな,というのがありますね。うちはジャムを作っていますが,基本的には町田の物を使いたいと思っていても,農地の減少という状況は私たちの願望だけではどうしようもないんです。たとえばイチゴを作る人が減って,それで町田では手に入らないからジャムを作るのをやめるか,それとも少し範囲を広げて作り続けていくのか,それはこれからの私たちの方針にかかってくるんですよね。」
−「例えば,出来るだけ,というスタンスで町田のものを使うというのはどうですか。」
西「でもね,私たちの考えとして,遠くのものを運んでくれば鮮度が落ちるのは当たり前だし,それから作られてる場所が確かめられないという一番大きな不安がありますよね。それと,世の中の加工原料がいかにグレードの低いものであるか,というのも分かったんですよ。それで,そんな材料を使うのなら,作りたくはない,と。見た目を良くする方法はいくらでもあるんですけど,私たちはそうしようとは思わないんで,材料はいいものしか使えないんですよね。それを確保するためには,余り物を使う,という考えではなく,契約栽培とか,一定面積の買い取り,という方法も来年度あたりから考えなければならないな,とも思っているんですよ。」
 −「今はまだ買い取りは行ってませんね。」
 西「はい。生活クラブの共同購入の余りを使っている,というかんじなんで。契約栽培をすることが事業的な目から可能かどうかも考えなければいけませんね。」

 「凡」が地場野菜にこだわるのは地元に農業を残し,また地域の中で働く場所を作り,地場農産加工品を作ることで,農地の必要性を訴えるためである。

 2 製品のコストの問題

 例えば,弁当の場合,「自分たちの食べたくない物は売らない」ので,市販より高い生協の原材料を主に使っているが,一方では「高い物も売りたくない」し,他店との競争もあるので,どうしても利益が薄くなってしまう。

 西「( 550円の弁当の内容は)大体見てみますと,肉とか魚,それから米,調味料,あと乾物の類,そういうのを含めて,今だいたい原価率は40〜45%位になっちゃいます。で,今これを見直している最中なんですよ。肉なんかはワーカーズ・コレクティブ用仕立てということで,直接牧場から取り寄せたりするんですけど,(それ以外は)ほとんど全部,生活クラブの材料を使っているんですね。それは組合員向けとグレードが同じなんですよ。調味料なんかは18リットル缶で多少は単価が安くなっているんですけど,それでも市販の物に比べたら相当高いんですよ。… 結局今まではこの材料があるからそれで自分たちで作って,そしてこの値段じゃないと売れないから,というやり方で値段を付けているんですよ。だから原価を積み上げて例えばそれを3割に収めるという仕方をしていないんですよ。だからこの約半分が材料費になって,あとの半分は人件費だと思うんです。そうするとあと運営に必要な間接経費も食関係からは出ないんですよ。まして利益なんかとても出ないんです。でもそれは高いから使わないというわけにはいかなくて,こういうちゃんとしたものを使います,と言って始めているわけですから。例えば豚肉はもっと安いものを仕入れようと思えばいくらでもあるんですよ。」

 これに対して,どのような対応を取ろうとしているのだろうか。

 西「私達は健康な肉だったらいいわけで,加工に使うものまで共同購入と同じグレードでなくてもいいんじゃないかということで,今までの材料費を2割位に軽減出来ないか,そういうことをようやく1つずつ詰めてね,やりだしてるところなんです。
−「この弁当を値上げしようとは考えませんか。」
西「ええ,もちろん値上げしたいんですけど,世の中不況で皆買い控えている状況がありますよね。そういう状況の中でうちの材料に見合う原価率で値を付けることも多分できないんじゃないかと思います。まあ,すこし,せいぜい 100円位の線で値上げしていこうかと。」

 3 全員による決定と規模の問題

 −「今の運営に何か問題を感じていますか。」
 西「全員が平等に運営にあたると言いながら,経験の差によって役割分担のようなもの  が出来ています。経営の効率を考えればそうなって当然ですが,効率を追求するだけじゃ駄目で,ワーカーズ・コレクティブとしての志と事業のバランスをうまくとるにはどうすればいいか。その辺にも合議制でやる限界があるように思えますけどね。」
−「経営の規模が拡大して,人数も多くなって出てくる問題ですね。」
西「それとやっぱりね,素人としてはやっていけなくなる段階にきていると思うんですよ。ある程度見通しの立つ,平均年収が 200万位の線になるための規模というのが,今みたいな素人集団で運営していけるのかな,と今感じ始めているんです。もちろん皆で話し合って決めていく,というやり方はゆっくりだけど確実にそれぞれの能力を上げているんですよ。でもこのスピードで世の中やっていかれるのかな,という不安はすごくあります。」
−「かといって,ヒエラルキーを作りたくはないでしょうし。」
西「運営にもうちょっと工夫が必要じゃないかと。15〜16人が直接民主制の限度だと思います。それ以上規模が大きくなったらもう無理でしょう。例えば,うちの食と加工の2種類の事業を分割して,それぞれ独立採算としてやろうか,というのも議題として出ているんです。」
−「せっかく規模を拡大して,収入が増えても,そのことが原因でワーカーズ・コレクティブとしての運営が難しくなってしまうし,もし分割するとなるとせっかく大きくしてきたものが半分になってしまいますね。」
西「個々の組織の大きさ云々というよりも,これからはワーカーズ・コレクティブが互 いに関係を持つのが大切ですね。」
−「それぞれの規模が小さくても,横のつながりがあれば」
西「そう,だから系列じゃないけれどね,そういう感じで関連ができて,事業的にも互いにバックアップしあうような関係が出来ればいいと思うんですけどね。それがなかなか難しい。」

 ワーカーズ・コレクティブは共同出資者が同時に事業主でもあるのが特色だが,メンバー全員が同じく事業主であるために,組織の運営の方針を決定するのに手間がかかる。例えば「凡」の場合は,その活動方針を決定するのに合議制をとっているが,メンバーが増えるにつれ,会議で多くの意見が出るため,それをまとめるのが困難になっているようだ。共同経営のデメリットといえる。
 しかし,ワーカーズ・コレクティブが経済的自立の手段となるためには,その経営規模を拡大し,収入を増やさなければならない。そのためにもメンバーを増やすことは必要だが,それが原因で活動方針が紛糾してしまっては何にもならない。実際問題として,西さんは15,6人がその限度と感じているようだ。そのために,個々のワーカーズ・コレクティブが独自に拡大し続けることよりも,大きくなったらそれを分割し,適当な規模のワーカーズ・コレクティブが多くあって,それらが横のつながりであるネットワークで連携,協力しあっていくという形を,西さんは理想としている。



★01 「凡」についての文献として,西貞子[1987][1995],天野正子[1988],中道仁美[1990]がある。また高杉晋吾[1988:150-154],神奈川ワーカーズ・コレクティブ連合会の機関紙『うえい』7(1995.7):6-7にも紹介がある。


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REV: 20151221
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