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PEOPLE FIRST

寺本 晃久 199503 千葉大学文学部行動科学科卒業論文


はじめに

  「この子は他の子と違うんですよ」
  「人間はみんな違っているんじゃないんですか?」
                      −−映画『フォレスト・ガンプ』より

 この論文は、主に精神発達遅滞者によるセルフアドヴォカシー(自己権利擁護)運動について紹介し、検討・分析を加えたものであるが、それは次のような問題意識のもとにある。
 この社会で、頭がうまく働かないということはどのようなことなのだろうか。この社会で、頭がうまく働かない人はどうなっているのか、またどうなるのか。
 「当たり前」とか「普通」とかいう言葉がまかり通っているが、しかし「当たり前」とか「普通」とは何だろうか。例えば学問の中には、いつの間にか「人間」や「主体」「理性」といった概念を前提としているものがあるようだが、本当にそんなことがあるのだろうか。また、私自身、「変」と言われることは嬉しくもあるが、それと同時に嫌なことでもある。「変」とは、「普通ではない」と言われることであるが、そこで「普通」という何かわけのわからない尺度、けれども場合によっては非常に重く私達にのしかかってくる何かを実感する。
 この社会で、何らかの意味で周辺部で生きる人々のところから私達の社会を見てみる。そうすることによって、今まで見ていたものとは違う何かが見えてくるのではないだろうか。私はそういう立場を取りたいと願う。少なくとも、私はそういうものを認める。「人間」という存在は様々な形を取り得ることを認める。本稿で取り上げた「精神遅滞者(知的障害者)」と呼ばれる人々とは、「人間」の取り得るひとつの形である。ただ、それだけのことではないか。「人間の標準」というものがあるとするならば、では、生まれてくる人(胎児も含む)は何なのか、病気にかかっている人や死んでゆく人は何なのか、男性と女性の間にいる人は何なのか、頭が良すぎる人や悪すぎる人は一体何なのだろうか?……このようなとりとめもない素朴な問いを、私は抱いている。それらが本稿で全部表現され解決されているわけではないけれども。
 障害者の自立生活運動における自立概念は、身辺自立や経済的自立だけを意味するのではなく、援助を受けながらでも、自分の生活を自分で決定するという「自己決定」においてのものである。この概念の導入によって、それまで自分一人だけでは日々の生活もままならなかったような人々が、自立生活センター(Center for Independent Living=CIL)のような所から援助を受けて、地域で主体的に生活するようになってきている。1)
 いわゆる身体障害者の自立生活のための介助サービス、制度や、運動はそれなりに進んできている。身体障害者の自立生活は、介助やその他車椅子、エレベーターなどの障害を補うものが整っていれば、とりあえず可能であることは容易に想像がつく。後は、彼ら自身の気持ち次第である。彼らの決定により、それら補助するものを使えばいいのだ。また、私が訪問したことのある、アメリカのとある自立生活センターでは、知的に障害のない障害者に対する特別なプログラムはなかった。知的に障害がなければ、いちいち生活技術を教える必要がなく、必要に応じて自立生活の技術のある部分を提供すればよいということなのだ。
 だが、これに対して次のような疑問が提示される。「新しい自立概念は自己決定という考え方を持ち込むことで、その対象を拡大することに成功したが、同時に自己決定できない『障害者』を排除してしまったのである。」、と。2)
 つまり、この論文で扱おうとしている精神発達遅滞者は、重度になるほどこの「自己決定ができない」といわれるが、彼らはどうなるのだ、と。一般に「精神薄弱者」と呼ばれている人々は、知的に障害のない人々からは、非常に違って見えるかもしれない。個人差や障害の程度にもよるが、例えば、物事を理解しなかったり、言葉を発しなかったり、話せても意味不明なことを言ったり、年令よりも幼い行動や会話、常識が通用しないなど、知的障害を持たない人には理解できない事が沢山ある。自立生活など、我々には考えもつかない場合もある。親や養護学校の教師が、“遅れている”彼らを引っ張り回しているように見えるだけである。
 しかし、知的障害を持つ人々の中にも自立して生活している人が少しづつではあるが、増えている。北米を中心として、既に20年以上前から「セルフアドヴォカシー・ムーブメント」という当事者運動がある。普通「ピープルファースト」として知られているもので、1967年頃、障害を持つ当事者のレジャークラブといった形でスウェーデンに始まり、1973年頃アメリカで、「知恵遅れ(retarded)」という呼ばれ方をされるのではなく「まず第一に人間として(PEOPLE FIRST)」扱われたいという主張から始まったものと言われている3)。現在、合衆国やカナダのほとんどの州、多くのヨーロッパ諸国に「ピープルファースト」やそれと同じ団体があるそうだ。もっとも、「ピープルファースト」として、カナダ以外の国では、全国的なレベルでの組織展開はされていないようである。4)
 この運動については順を追って述べていくが、結局、結論的に言ってしまうと、私達が障害者を見くびっていただけで、普通の環境に置かれることによって、また必要な時に必要なだけの配慮や支援があれば、彼らは今まで思われていた以上に自己主張することができるし、自分で決めることができるし、物事を理解することができる。できない人も確かにいるかもしれない。だが、少なくとも、彼らはできないと思われていただけで、実際はそうではなかった、という部分は相当ある。合衆国で開かれたセルフアドヴォカシー会議において、堂々と聴衆の前に立って話をした人達は、私には少なくとも障害者に見えなかった。彼らは、私達に、「障害」や「障害者」という概念の不当性、曖昧さ、恣意性を教えてくれる。だから、この論文では、ある種の「社会福祉」や「社会福祉学」等が前提としているものは取り敢えず横に置いておこうと思う。もしそうなっていなかったならば、それは私の文章の未熟ゆえである。
 至らない部分も多くあり、完全なものではないが(まず、日本語の文献がないし、外国の文献にしても、私が使ったのはパンフレットのようなものがほとんどである!)、ここで欧米(特に北米)の運動で行なわれていることを私なりに再構成つつ、知的障害を持つ人々の自立・自己主張や、彼らを取り巻く状況について、その概略を提示しようと思う。よって、本稿を読めばセルフアドヴォカシー・グループ(ピープルファースト)のほとんど全てがわかるという代物ではまったくないけれども、日本では先駆的な分野であり、このようなものでも意味があるに違いない。しかし、ここで紹介した方法は、運動の誕生から20年を経た現在でも、しっかりと確立したものではないという。この運動はそれだけ時間を要するものなのだ。まして、当事者同士の結束がようやくされ始めた日本においては、これから相当の研究と時間と労力が必要である。及ばずながら、私の研究がその一助になれるならば、とても嬉しいことである。

調査の経緯
 この論文のかなりの部分は、フィールドワークの成果である。だから、対象者を決め、それからアポイントメントを取って、1〜2時間話を聞く、といったようなフォーマルなインタヴューはあまり行なっていないし、また大規模な統計的調査も行なっていない。これは自分の聞き取りの技術が未熟なためでもある。そして、フィールドワークといっても、特に地域や対象を限定したわけでもない。日本では、「ピープルファースト」はまだまとまった形になっているものではないのだ。今あるのは、その時々のイベントにおいて、そこにいる人、またその人達を取り巻く人々同士のネットワークである。その中での公式/非公式の集まりに、とにかくできるだけ参加させていただいた。ある程度公式的なイベントとして、ピープルファーストに関する本を刊行するための会議、視察旅行、研究集会といったものがあった。その過程で、多くの方々に便宜を図っていただいたり、資料をいただいたり、その都度お話を聞かせていただいた。その多くは東京で行なわれたが、時には静岡や大阪、そして1994年7月には会議に参加するためにアメリカ合衆国まで、出向くことになった。合衆国の会議では、僅かではあるが3人のリーダー達に話を聞くことができた。(→巻末資料参照)
 また、この論文ではできるだけの文献資料に当たったが、そのほとんどはこの国で日本語で公刊されているものではなく、1991年にカリフォルニア州サクラメントにあるキャピトル・ピープルファーストの人々が『福祉労働』編集部に置いていったものや、1993年のピープルファースト国際会議に参加した人々が持ち帰ったもの等を丹念に集め歩くこととなった。その他の文献資料は、合衆国で開かれた第3回全国セルフアドヴォカシー会議で配付されたものや購入したもの、個人的に所有されていたもの、団体や集会の内部資料、パンフレット等である。また、この運動に関する1次資料だけでなく、運動とは直接関係はないが、考察のために必要と思われた資料(テレビ、ラジオ番組を含む)にも幾分目を配った。 ともかく、現時点のこの国においてできるだけのものを集めることができた。これらは必ずしも全ての領域を網羅しているとはいえないが、しかし簡単に扱うことができないほどの分量はある。こうして集められた文献資料は、最後に文献表として掲載されている。これを眠らせておくのはもったいないので、できるだけ私の所にある資料をなんらかの形で提供しようと思います。お問い合せください。

論文の構成
 本稿は、5つの章からなる本論と、結論および補によって構成されている。簡単に、それぞれの章について示しておこう。
 第1章では、北米を中心に展開されている当事者運動の歴史や組織について紹介している。ここで示された内容は、恐らくこの国では初めて明らかにされる事柄である。
 第2章では、当事者運動の中心となる理念を紹介する。
 第3章では、障害者をどのように支援するか、また、支援者はどこに立つのかについて考察している。
 次の第4章は、第3章までとは幾分趣の違う、種あかし的な章である。「障害者」と呼ばれている所以となっている、まさにその「障害」がどのように形成されているのかを明らかにする。
 第5章では、この運動の革命的な側面を、「カテゴリー」から解明している。
 終章で、結論として全体をまとめ、また、最新の日本における状況を報告している。
 最後に、補として、第3回全米セルフアドヴォカシー会議〜選ぶための声〜(The 3rd National Self Advocacy Conference−Voices for Choices− )について報告している。
 なお、この運動は、その性格や活動において国や州、またそれぞれの団体の間で幾らかの違いがあるが、この論文ではあまりそれらの相違を問うことはしない。それを性格に追うことができなかったからでもあり、またそれを問う必要性もここではあまりないと考えたからだ。


1) 自立生活センターとは、障害者が「地域の中で、社会的支援を得ながら、自らの選ん だ生活を送る」という意味での自立生活を支援するもので、障害を持つ当事者が中心に なって運営され、権利擁護・情報提供・介助・自立生活プログラム・ピアカウンセリン グ等のサービスを提供する非営利組織である。非営利ではあるが、各種サービスは基本 的に有料であり、センターのスタッフも基本的に有料で働いている。(立岩・石井・増 田・渡邊[1994])また、自立生活センターに関する文献として、安積・岡原・尾中・ 立岩[1990][1995](立岩[1995])、定籐・岡本・北野編[1993]、定籐・北野・ 中西編[1993]、千葉大学文学部社会学研究室[1994](石井・井上・寺本[1994]、 小山・石井[1994]他)等がある。
  なお、自立センターというものもあるそうだが、斉藤明子氏はこれを、「“自立セン ター”という名前をつけた作業所であったり、研究機関であったり、運動団体であった りして実態がはっきりせず、障害者が従属的な地位に置かれているものも少なくない」 として、自立生活センターと区別している(斉藤[1994:16])。
  もともと本稿は、1993年度に「社会調査実習」という大学の単位として行なわれた、 自立生活センターとそれに関連する事柄についての調査がもとになって構想されたもの である。この時の報告書は、『障害者という場所−自立生活から社会を見る』(千葉大 学文学部行動科学科社会学研究室[1994])としてまとめられた。私はその調査で知的 障害者を扱い、「知的障害者の自立のために・序説」という文章を載せている。本稿は、 それを大幅に加筆・改稿している。
2) 横須賀[1992:94]。この疑問に対する批判として、斉藤[1994:28-29]がある。
3) 「国連障害者の10年」最終年イベント実行委員会[1992]。
4) 『季刊福祉労働』61号(1993年12月)特集:話の祭典・知的障害者(ピープル・ファ ースト)の国際会議。カナダでは、ピープルファースト・オブ・カナダがオンタリオ州 トロントに事務所を開いて活動している。また、全米レベルでの組織展開として、Self -Advocates Becoming Empoweredがあるが、これはピープルファーストとしてのもので はない。(これが、カナダのものとどの程度違うかについてはよく知らない。)
 スウェーデンにおける動向については、河東田[1992a][1992b]柴田・尾添編[199 2] に紹介されている。また、カリフォニルア州でのTTSRについては、Dimity[1 991]。


第1章 ピープルファーストとは何か

 この章では、欧米、特にカナダとアメリカ合衆国の当事者運動について、以下の章を読むための最低限の概要を示す。

1 歴史
 まず、スウェーデンで当事者運動の萌芽が芽生えた。パンフレットによると、1967年に初めて「障害を持つ人々が声を上げた」とある1)。また、このころの様子を、ニリエ2)は次のように書いている。
   スウェーデンでは、精神遅滞者のための成人教育と余暇活動プログラムおよびクラ  ブの増加、さらに週末コースでの対人接触の頻繁化、あるいは各地のクラブ訪問、地  方会議の開催などから、精神遅滞者の全国会議開催の要求が生まれてきた。1968年に  は、第1回の全国会議が開かれ、20名の参加者によって、余暇活動についての話し合  いがなされた。第2回は、1970年に、スウェーデンの25郡中24郡から選ばれた各2名  づつの代表者と、デンマークからのオブザーバー2名によって、まる3日間の会議が  開催された。この会議は余暇活動、居住施設での生活、労働問題の各分野に関する討  論を目的としていた。会議は6〜8名の小委員会形式で行なわれ、各小委員会での討  論が終わると、それぞれの結論を全体会に報告するという形を取った。オブザーバー  として参加した障害を持たない人たちは、時々、議事の進行を助けたり、記録を補助  したりする以外は、委員会の審議に影響を及ぼすことは禁じられていた。」3)
これは、「ノーマライゼーション」として知られる動きのひとつだった。ノーマライゼーションとは、もともと精神遅滞者の「正常化(normalize)」の運動である4)。このような会議が、数年を経てイギリスでも行なわれた。
 アメリカでは、1969年にこのコンセプトが導入された。だが、当初は親や専門家達のものであった。当事者が自分達のために活動したのは、1973年11月の、カナダのブリティッシュ・コロンビア州バンクーバー島での会議からだった。その翌年、この会議に参加したオレゴン州の当事者達が、オレゴン州セイレムにおいて、合衆国で初めて当事者の会議を持った(この会議はWe Have Something to Offerと題された)。ここに 560人もの参加者が集まった。そして、どうやって地域で暮らすか、知恵遅れと呼ばれたときどうするか、といった分科会が開かれた。全体会では、当事者達がマイクを持ち、声を上げた。このとき、あるひとりの当事者が、「知恵遅れ(retarded)」や「障害者(handicapped)」 ではなく、「私はまず人間として扱われたい(I want to be treated like PEOPLE FIRST)」と発言したことから、ピープルファーストという名称が生まれた。ここから、ピープルファースト・オブ・オレゴン他、16のグループが発足した5)。
 その後、カナダではブリティッシュ・コロンビアの他、アルバータ州エドモントンにピープルファーストができ、1979年にオンタリオ州で最初の組織としてブラントフォード・ピープルファースト(会長になったのはピーター・パークである)が誕生している。1980年にはマニトバ州とサスカッチワン州にピープルファーストのグループができた。1981年、オンタリオ州で州レベルの組織が結成された6)。1985年、カナダでの全国組織化を目指して National People First Projectが作られ、1991年4月、世界で初めてピープルファーストの全国組織としてピープルファースト・オブ・カナダが発足した7)。ついで同じ年、全米のセルフアドヴォカシー組織としてSelf-Advocates Becoming Empoweredが発足した8)。
 元をただせば、以前にあった他の社会運動が、知的障害者の運動に影響を及ぼしてきたと考えられる。黒人による公民権運動のようないくつかの運動は、「平等」に対する要求を受け入れるような社会の流れを作ってきていた。また、身体障害者による自立生活運動は、障害を持つ人々によって構成される組織のモデルを作った。障害者に関わるサービスに消費者(つまり障害者)を参加させることも重要な要素だが、これは消費者運動やセルフヘルプ運動や住民運動に見られるものである。そして、ノーマライゼーションと施設退所/解体の考え方が理念として導入されているのは言うまでもない。1950〜60年代からのこうした社会運動の潮流が、この運動の背景としてある。
 ARC9)のリック・バーコビエンが1990年に行なった調査によると、合衆国では40の州に 374のピープルファーストやそれに類似する団体があり、10,000人が参加している。これは、1987年には 200、1985年には55の団体が知られていたにすぎなかった10)。
 1984年に行なわれた別の調査によると、合衆国とカナダで、5000人以上の知恵遅れの人々がセルフヘルプ/セルフアドヴォカシーの運動に関わっていた。そして、この調査で、約152のセルフアドヴォカシー・グループが24の州とブリティッシュ・コロンビアに存在していたことが解っている。
 そして、1994年に発行されたナンシー・A・ロングハーストによる最も新しい調査では、合衆国の43の州とワシントンDCに 505団体が活動していると報告されている。団体が存在しない州は、アーカンサス、ジョージア、ハワイ、ミシシッピ、ネバダ、サウスカロライナ、ヴァーモントの7州であるが、この内、アーカンサスとジョージアでは、グループができつつあるという11)。
 この運動は世界中に広まりつつあるが、日本にはまだこのようなものはできていない。しかし、近年、徐々に北米の運動が日本に紹介されてきているし、作られようとしている。
 日本語の文献に「ピープルファースト」が現われたのは、私が確認している範囲では、1990年の清水貞夫の『発達障害研究』掲載論文である12)。その後、1991年に、『季刊福祉労働』やノーマライゼーション研究会が開催したシンポジウム「ノーマライゼーションの現在」で、アメリカ・カリフォルニア州サクラメント市を拠点とするキャピトル・ピープルファーストのコニー・マーチネズ氏13)とそのアドバイザーのバーバラ・ブリーズ氏 14)が講演をした。さらに、1992年には「国連・障害者の10年」最終年イベントに、同じくキャピトル・ピープルファーストのトーマス・ホプキンズ氏15)とロバート・ローゼンバーグ氏16)が招待された。そして1993年6月25〜30日にかけてカナダ・トロント市で開かれた第3回ピープルファースト国際会議〜話の祭典〜(People First Third International Conference −A Celebration of Stories−)に、日本の当事者たちが初めて参加し、これからどうしようか、というところである17)。
 1994年2月12〜13日に、浜名湖湖畔で、国際会議に出席した人達が中心となって会議が開かれた。とてもささやかな会議ではあったが、ここで自分達の仕事の話をしたり、日本でピープルファーストをやろうということが話し合われ、全国の障害者に呼び掛けようということが決まった。
 そして、同じ年の7月14〜17日には、第3回全米セルフアドヴォカシー会議〜選ぶための声〜(The Third National Self Advocacy Conference−Voices for Choices− )を日本の当事者8名を含む20数名が見てきている。国際会議への出席や浜名湖の会議、アメリカへの旅行の手配等は、当事者でない人が仕切っていたのだが、今後は当事者自身でこのような運動が立ち上げられていく事が期待されているし、そうなるだろう。

2 組織
 「ピープルファースト」という名称は、正確に言うと、発達障害者と言われる人々の自己権利擁護団体(セルフアドウォカシー・グループself-advocacy group)の団体名のひとつである。この名称を冠している団体が多いのは確かだ。だが、ピープルファースト・オブ・〜や、〜・ピープルファーストと(〜には主に地名等が入る)多くの団体が名乗っていても、特にピープルファーストというものが全国単位の組織としてあるというわけではない。この運動を学んだ各地の当事者達が、勝手に自分達の組織の名称として取り入れたと言う方が正しいだろう。他の名称としては、例えば「スタンド・トゥギャザー(Stand Together)」や「スピーキング・フォー・アワセルブズ(Speaking for Ourselves)」「ピープル・オン・ザ・ゴー(People on the Go)」といったものがある。
 ところで、私は今「セルフアドウォカシー」という言葉を使ったが、この概念がこの運動を理解する上で最も重要なキーワードである。これは“自己”権利擁護、つまり、自分の権利を他の誰でもなく“自分で”守ることである。アドヴォカシー(権利擁護)自体は、別段最近の新しいことではなく、古くから親や施設関係者やその他専門家達によって、障害者の権利擁護がなされてきた。が、セルフアドウォカシーは、自分の権利は自分で守らなければならないという考え方である。これについては、後に述べる。
 この運動の目的として、例えば次の事が掲げられている。まず一つは、知的障害者の自立生活と生活の維持と、その実現能力を育成するに必要なサービスやトレーニング、支援のシステムが利用可能な状態であることを保障すること。そして、知的障害者はまず第一に人間であり、障害者であることは二次的な事実にすぎないことを地域社会全体に知らしめること、である18)。つまり、本人が本人のために権利を拡大し、守り、行使する。それを社会に認知させ、それを可能にするために、必要な援助サービスを消費する「消費者(consumer)」として、適切な援助を選択できるようにするのだ19)。そして、それを可能にするためのセルフアドヴォカシーの方法を当事者が学ぶことが、重要な活動になる。 そしてもちろん、この運動は当事者自身による運動なので、議長(president)、副議長、会計といった、組織の中核になる役員は障害を持つ当事者によって構成され、組織のメンバーによる選挙によって選ばれるのが普通だ。それに、規約を持つ組織も多い。組織の規約を当事者の手によって作ること自体が、彼らの「学習」となり、彼らに力(自信)をつける活動の一つなのである。
 ほとんどの場合、当事者の「障害」を補うために、彼らに便宜を図る人が必要とされるが、この運動ではそのような人を「アドバイザー(あるいは、ファシリテーター)」と呼んでいる。アドバイザーが、個人に対してだけではなく、組織について援助をする場合は、そのアドバイザーもメンバーの選挙によって選ばれることになる。選挙で選ばれたアドバイザーは、契約によって組織と結ばれる場合もある。組織が規約を持っていれば、アドバイザーは規約に拘束される。この、障害者やその組織に対して援助し便宜を図るということのひとつの在り方については、後の章で述べることにする。
 実際の活動内容は、主に次の四つがある。まず、自己決定や個人的な権利の擁護に関わる個人的なアドヴォカシー(individual advocacy)。これが、多くの団体で第一の活動とされている。次に、地域に対する教育活動や政治家などとの会見、そして全ての障害者のための権利擁護といった、グループ・アドヴォカシー。そして、自己認識やラベリングの変革、相互扶助といった、いわゆるセルフ・ヘルプ。最後に、レクリエーションである。その他の付随的だが重要な活動として、ピープルファースト国際会議等の会議への参加や財源獲得、会員の募集、アドバイザーの選別等のようなものが挙げられる20)。このような活動が、おおよそ月に1〜数回程度、教会や学校や作業所その他公共施設等のような場所での会合によって行なわれているようだが、この会合は独特な雰囲気を持っている。一般的な会議に比べると、ピープルファーストでのそれは非常にゆるやかである。無理をせず、自然体で進められる。会議の途中であっても、食事の時間になってみんな空腹なら、食事を取る。まとまらない話は無理にまとめない。会議の終わりの時間が来る前でも、みんなが飽きてきたらそこでやめたり、話題を変える。こうしたゆるやかな雰囲気は、この運動の特徴の一つである。
 この点で、セルフアドヴォカシー・グループは権利擁護のための「運動体」であり、同時にセルフヘルプ・グループの性格を持っているものだと言える。しかし、セルフヘルプ・グループだと言っても、アルコール依存症患者のグループ「アルコーホリック・アノニマス(Alcoholic Anonymous)」のような、自己変革と問題克服のみに中心を置く典型的なセルフヘルプ・グループではなく、積極的に社会変革をめざす運動へ繋げてゆこうとするものである21)。政治的な活動の例として、ADA22)成立のための運動に参加したり、大統領に会ったり、大統領障害者雇用委員会に組織の代表を送ったり、当事者が州の発達障害委員会に委員として入ったりする等があり、活発で具体的な活動を展開している。
 しかし、一口に「セルフアドヴォカシー・ムーブメント」と言っても、個々のグループの中には親の会や施設が強い影響力を持っているグループもあったりするように、様々な形態のグループが林立し、その意味ではあまり統一的な組織化がされている様子はない。「ある種の大同団結」23)ということなのだろう。そもそも、運動の生成から現在に至るまで、この運動は「草の根(grassroot)」をベースにしている。だからこそ、個々のグループはそれぞれに独自性を持てるし、自立的であることもできるし、また逆に、支配的体制にのまれてしまう危険もはらんでいると言える。
 次に、この運動の実態についてある程度の統計的資料が得ることができた合衆国の場合について述べよう。

2−1 合衆国の場合−統計的資料より−
 合衆国について言えば、三つのレベルのセルフアドヴォカシー・グループが活動している。まず、都市や郡などの地域ごとにセルフアドヴォカシー・グループが点在している。これは、平均約23人のメンバーで構成される。次に、幾つかの州では州単位の組織が存在する。このような組織は、州の中で新しいグループを作ることを援助したり、情報の収拾や提供を行なったり、地域ごとのグループの声をひとつの大きな力にするために統合するといった活動をしている(表1参照)。州単位の組織はアラバマ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、イリノイ、インディアナ、ミシガン、ネブラスカ、ニュージャージー、ニューヨーク、オクラホマ、オレゴン、テネシー、テキサス、ワシントンの15州にある。加えて、ミネソタとペンシルヴァニアにも組織が存在するそうだが、これらは州全体を管轄に置いているわけではない。また、このような組織は毎年増えており、現在ではさらに多くの組織が設立されているはずである。そして、連邦単位のセルフアドヴォカシー・グループとして Self-Advocates Becoming Empoweredがある。これは、各地のリーダー達が役員として名を連ねているものである。この組織の目的は、州を越えた全米単位のネットワークを作ることである。また、セルフアドヴォカシー・グループがない地域に新しい団体を作ったり、現在ある団体を維持することを援助しようとしている。24)
表1          州のセルフアドヴォカシー組織の機能
    州         Info  News  Leg StartGrps Train  Conf
    アラバマ      ○           ○   ○   ○
    カリフォルニア   ○   ○       ○   ○
    コネチカット    ○       ○   ○   ○   ○
    イリノイ      ○   ○   ○   ○   ○   ○
    インディアナ    ○           ○   ○   ○
    ミシガン      ○           ○   ○   ○
    ネブラスカ     ○   ○   ○   ○   ○   ○
    ニューヨーク    ○   ○   ○   ○   ○   ○
    オクラホマ     ○           ○   ○   ○
    オレゴン      ○           ○   ○   ○
    テネシー      ○   ○   ○   ○   ○   ○
    テキサス      ○   ○   ○   ○   ○   ○
    ワシントン     ○   ○   ○   ○   ○   ○
  Info=情報提供 News=ニュースペーパーの制作 Leg=法律策定に関する活動
  StartGrps=新しく組織を作る Train=セルフアドヴォカシーのトレーニングを行う  Conf=会議を主催する
                    (Longhurst[1994:20]Table4より)
 ロングハーストの調査により、組織の構成員を障害別で見てみると、全体の約80%が精神遅滞(mental retardation)を第一の障害として持っている。その他、学習障害が10%、脳性マヒが9%、肢体不自由等が7%、精神障害が3%、自閉症が1%としている。また、全体の約37%の人々が二つ以上の重複障害を持っている。25)日本では、この運動は知的障害を持つ人々の運動だと考えられているかもしれないが、それだけではないのだ。実際、組織の一員になる際に、障害種別による差別はなされていない。一般にこの運動は、アメリカ流の表現で「発達障害者(people with developmental disabilities)」と呼ばれる人々の運動として理解されているが、「発達障害」とは、知的障害(intellectual disability)と同義ではなく、もう少し幅の広い概念なのである。だから、この運動はかなりの数の障害者を取り込むことが可能性としてある。
 また、人種構成は、ヨーロッパ系が最も多く約85%、次いでアフリカ系11%、そしてラテン系、アジア系、その他の順である26)。
 この運動に関わっている当事者たちは、施設、グループホーム、家族同居、独り暮らし等、様々な形で暮らしている。そのうち最も多いのは16人以下の小規模グループホームに住んでいる人々で、全体の約27%。それから順に独り暮らし約24%、家族と同居約23%、16人あるいはそれ以上の規模のグループホームや施設約16%である。27)
 組織の規模は大小様々である。1人だけのものから 100人以上の大きなものまである。人数別に小規模(1〜10人)、中規模(11〜25人)、大規模(26人以上)に分類すると、ロングハーストのサンプル 271団体中では中規模の団体が 118、そして大規模の団体が91、小規模の団体が62であった28)。

2−2 ピープルファースト(ハンティントン)の場合
 1994年12月に、オーストラリアのシドニーで開催されたDPI世界会議29)に出席する機会を得た際、偶然、合衆国のインディアナ州ハンティントン郡で活動している「ピープルファースト」のリーダーとアドバイザーに会うことができた。そして、数分間ではあったが、個人的に話を聞くことができた。最後に、その時の聞き取りから得られたことを紹介することにしよう。
 会議には、議長のブッチ・オーバーホルト(Butch Overholt)さん、ディキシー・ペティット(Dixie Pettit)さん、アドバイザーのトニ・ラエ・マヨ(Toni Rae Mayo)さんが来ていた。ブッチは、頭は白髪でしかもかなりはげ上がっており、小柄で、顔は四角い輪郭、そして車椅子に乗っている初老の男性である。ディキシーは、パーマでちれじれになった髪をして、大柄、背も日本人女性に比べると高めである。いわゆる知的障害者に時折見られるように、目が少し上を向いている。そしてトニは、名前からもうかがえるように、アングロ=サクソンにはないラテン的な肌の色、黒髪、そして独特な彫りのある顔立ちをしている。
 「ピープルファースト」は、1992年に設立された組織である。30人というメンバーの数は、ロングハーストの分類に従うと、大きな組織である。グループとしての会合は、メンバーのアパートなどで行なっている。その中で、ディキシーは「ヒストリアン(歴史家)」という役に就いているが、彼女は、グループのニュースレターを作るために、いろいろなことを記録したり、関連する新聞記事をスクラップブックにまとめたりといった仕事をしている。いただいた季刊のニュースレターの第4号を見ると、二人の他に役員は、副議長、書記、会計、牧師(チャプレイン)、ホスト、ホステス、守衛(sergeant-at-arms)がいることがわかる(牧師やホスト・ホステスが何なのかは不明)。そのうち、会計は複数任命されており、一人は金銭を計算し、一人は会計簿に記入するというように、仕事を分担している。
 グループのメンバーはあまり固定せず、随時新しいメンバーを迎えているため、いつも誰かが「トレーニング」を受けているという。グループの会合は、メンバーの家で行なわれる。集会所となる家は、持ち回りでメンバーの間で回される。これは、誰もが入りやすくしかもお金がかからないような場所ということで自宅が選ばれている。しかし時には、レストランで食事をしながらミーティングをすることもあるそうだ。グループの事務所はまだないけれども、トニは「10年後には事務所を持ちたい」と言う。
 具体的な活動としては、菓子を作って売ったり、パーティーを開いたりする営利活動(fund-raising)や、数人が集まって食事を作る「スープ・キッチン」、様々な会議への参加(DPI世界会議参加もこれに含まれる)、ニュースレターの発行、その他、自分達のことを地域の人々に教えるために色々なイベントに出かけていったりするということがある。
 「ピープルファースト」は、インディアナ州に登録している「パスファインダー・サービス(Pathfinder Services Inc.)」という非営利組織(NPO)の下部組織という扱いになっている(この組織がどのような組織なのか、よく説明してくれなかったが、何らかの福祉サービスを提供する慈善系のNPOのようである)。よって、グループの予算の一部はその母体となるパスファインダー・サービスから支出されているが、この予算はもともと州政府に由来するものである。詳しい予算の内容を知ることはできなかったが、ニュースレターの紙代や、会合の時にアドバイザーがメンバーを家まで送迎するための自動車のガソリン代、あるいは活動を報せる告知板がパスファインダー・サービスの事務所にあるが、それに使う写真代などは出ているそうである。また、アドバイザーのトニにも「障害者のトレーニング」という名目で報酬が与えられている。彼女はピープルファーストができる以前からこの非営利組織の職員として働いており、ピープルファーストにはパートタイムとして、いわば“派遣”されているのである。彼女は、これまで時給10ドルで週20時間働いていたが、DPI世界会議から帰ると、時給15ドル・週40時間のフルタイム職員に昇給するようである。
 そして、ピープルファーストに参加することをどう思うかという質問に対して、ブッチは「ピープルファーストは自尊心を学ぶところだ。」と言い、ディキシーは「自分が特別な人間だと思えるようになった。」と語っていた。


1) People First of Virginia,Inc。
2) Bengt Nirje。トロントのオンタリオ政府保健大臣付訓練調整官である。スウェーデ ン精神遅滞児協会(the Swedish Association for Retarded Children)の事務局長を していたとき、ノーマリゼーション原理の提唱者の一人であった。(中園・清水による (Wolfensberger[1981=1982]))
3) Wolfensberger[1981=1982:275]。
4) normalization。日本語では、正常化あるいは普通化等と書かれることもある。障害 者が隔離されるのではなく、他の人々と同じ生活を送れるようにさせるという考え方。 1950年代より、北欧で、精神遅滞者の親の会が施設解体の運動を始めたことに端を発し、 ミケルセン(Bank Mikkelsen)やニリエによる貢献があった。
 文献として、Wolfensberger[1981=1982]が有名である。他に、堀[1994]等。
5) Shapiro[1993:195-197]、Longhurst[1994:4]
6) この頃のオンタリオ州の様子について、ピープルファースト・オブ・オンタリオは次 のように述べている。
  「1979年5月、エルマー・ピーヴァー(Elmer Peever)〔ノース・ベイの「ピープル  ・アドヴォケイティング・ライツ(People Advocating Rights)」の会長〕とケン・  ネルソン(Ken Nelson)〔ピープルファースト・エドモントン〕が、キングストンで  開催されたオンタリオ精神遅滞者協会の年次集会で、セルフアドヴォカシーのセッシ  ョンを開いた。そのセッションは多くの人々を興奮させ、彼らは地元でピープルファ  ーストのグループを組織することを始めた。
   1979年末までに、オークヴィル、ブラントフォード、ノース・ベイ、フォート・エ  リー、パリー・サウンド、ミシサウガ、ブレースブリッジでグループができた。その  時、全てのグループがピープルファーストと名乗っていたわけではなかった。例えば、  「ピープル・アドヴォケイティング・ライツ」や「ゲッティング・インヴォルヴド   (Getting Involved)」が違う名前を使っていたが、他のピープルファーストのグル  ープと同じような目的と目標を持っていた。
   とりわけ、3人のリーダーが初期に現われた。ブラントフォードのピーター・パー  ク(Peter Park)、オークヴィルのパトリック・ワース(Patrick Worth)、フォー  ト・エリーのデヴィッド・リンカーン(David Lincoln)である。彼らは、グループ  が組織されようとした地域にはどこでも飛んでいって、知識を与え、援助した。やが  て、彼らは会長になった。
   州のピープルファーストを作る気運が高まっていった。1979年12月8日(土)、ピ  ープルファーストのセミナーがハミルトンのモホーク大学で開かれた。 100人以上の  人々が参加し、デヴィッド・リンカーンが(訳注:州のピープルファーストを作るた  めの)計画委員会の議長に選ばれた。
   1980年11月までに、11のピープルファーストのグループが存在していた。
   1981年3月27〜29日の第1回オンタリオ州ピープルファースト会議で、ピープルフ  ァースト・オブ・オンタリオが結成された。この会議は大きな成功を収めた。300〜4  00人の予定のところを 550人が申し込み、部屋がないために入れない人々が出た。
   ナイアガラでの1985年大会で、公式の規則(内規)を取り決めた。この内規を作る  のに2年以上かかったが、ピープルファーストの役員にとって良い学習の過程であっ  た。」(We are People First of Ontario-12Years Old and Still Growing:1-2)
7) Hutchison and McGill[1992:59]。なお、ピープルファースト・オブ・カナダの事 務所の様子は、嘉悦・村山[1993]に詳しい。
8) Self-Advocates Becoming Empowered[1994:2]。
9) この団体の前身は、1950年に発足した、全米精神遅滞児育成会(the National Assoc iation of Parents and Friends of Mentally Retarded Children)という、精神遅滞 児の親の会である。その後National Association for Retarded ChildrenからAssociat ion for Retarded Citizens、1991年に名称をARCに変更した。
10) Shapiro[1993:186]。
11) Longhurst[1994:11]。
12) 「1974年、オレゴン州で、精神遅滞者の最初のセルフアドヴォカシーである“ピープ ルファースト(the People's First International)”が結成され、各地に波及してい った。」(清水[1990:6])。
13) Connie Martinez。この時の記録は、「ノーマライゼーションの現在」実行委員会  [1992]。
14) Barbara May Brease。キャピトル・ピープルファーストのファシリテーター。
15) Thomas Lester Hopkins。キャピトル・ピープルファーストの議長。このときの資料 として、「国連障害者の10年」最終年イベント実行委員会[1992]がある。
16) Robert Rand Rosenberg。キャピトル・ピープルファーストのファシリテーター。
17) この時の記録は、国際会議旅行団[1994]。また、『季刊福祉労働』61号の特集、八 巻[1993]、堤[1994−]等。
18) Capitol People First[1984]、はじめに。
19) 前掲書の定義によると、現存の発達障害者制度に基づいたサービスを受けている障害 者を「主要な消費者(primary consumer)」と呼ぶ。また、子供あるいは法的な責任上 面倒を見なければいけない対象の者が、サービスを受ける必要から発達障害者制度に関 わるようになった人達を「二次的消費者(secondary consumer)」と呼ぶ。また同書は、 アメリカの東部に、消費者という言葉を認めず、自分達を「システム・サバイバー(制 度の中で生き延びている人々)」と呼ぶグループがある、と報告している。
20) Longhurst[1994:19-20]。
21) このようなセルフヘルプグループを、「Alcoholic Anonymous」に代表される「12ス テップ型セルフヘルプグループ」に対して「非12ステップ型セルフヘルプグループ」と 呼ぶ。(要田[1994:119])
22) 1990年に公布された、障害者に対する差別を禁止したアメリカ合衆国法。正式には、 P.L.101-336 Americans with Disabilities Act of 1990(障害を持つアメリカ人法) という。邦訳が斉藤訳[1991]他幾つかある。
  また、この法律に関連した文献として、八代・富安編[1991]等がある。(手前味噌 ながら、ADAにおける雇用についての条項を、雇用平等に関するアメリカ連邦政府の 機関「雇用平等委員会(EEOC)」と「障害者の権利に関する教育・擁護基金(DR EDF)」 がそれぞれ解説したパンフレットの拙訳が、『季刊福祉労働』64号(1994 年9月)に掲 載されている。)
23) 嘉悦・村山[1993:89]。
24) Longhurst[1994:6,19]。
25) Longhurst[1994:18]。
26) Longhurst[1994:17]。
27) Longhurst[1994:17]。
28) Longhurst[1994:15]。
29) DPIは、Dsabled People's International(障害者インターナショナル)の略称。
 「世界各国の障害者自らによる団体の障害種別を超えた組織連合として、1981年に誕生 した。『世界の恒久的平和は、社会正義に基づいて始めて可能である』との、国際連合 創立の精神により、『われら自身の声』を合言葉として、社会のあらゆる分野での計画 立案、政策決定過程へ障害者の参加と貢献の権利、完全参加と平等の実現を目指して活 動を展開してきた。」(DPI日本会議規約:前文より)



第2章 セルフアドヴォカシー(self-advocacy)

 「セルフアドヴォカシー(self-advocacy)」は、この運動の基本となる概念である。
また、社会運動の面から見れば、リーダーシップもこの運動の根幹をなす。この章では、この二つについて述べ、次に各地のピープルファーストが制作している様々なマニュアルに沿って、これらがどのように伝えられているのかを見る。

1 セルフアドヴォカシー
 「アドヴォカシー(advocacy)」という言葉は、すでに障害者に関わる市民運動の中で用いられてきた。これは、権利擁護とか代弁するといったような意味である。例えば、障害を持つ子供の権利をその親が代わって守ることであるが、それは親に限らず、障害者が関わっている施設や作業所の職員、学者、教師、あるいは自立生活センターやピープルファーストが当人達を助け、権利を擁護する場合もある。これらアドヴォカシーを行なう人のことを、アドヴォケイト(advocate)と呼ぶ。日本の知的障害者のアドヴォカシー団体については、全日本精神薄弱者育成会(手をつなぐ親の会)1)を始めとして、無数にある。また、これは障害者だけでなく、他の全てのマイノリティ・グループの権利擁護運動について用いられる言葉である。
 知的障害者のアドヴォカシーの歴史は、第二次大戦前にさかのぼることができる。例えば、障害児を持つ親によるアドヴォカシー組織が収容施設改善の目的で作られた。1932年に、最初の親の団体の一つであるカヨーガ郡精神遅滞児協議会(the Council of the Retarded Children of Cayahoga County)が設立されたのを始め、1930年代にその他2〜3の組織ができている2)。そして、このような組織がその数を増したのは、大戦後のことである。1950年に、現在のARC(→第1章)が、全米精神遅滞児育成会(the National Association of Parents and Friends of Mentally Retarded Children)として発足したことに象徴されるように、第2次世界大戦後、親の組織が、知的障害を持つ子供に対する社会的なサービスを獲得するために作られた。この動きは、それまでの専門家主導の障害者管理から、親と専門家が共に権利擁護のために手を組んでいくものであった3)4)。
 しかしこの運動は、親や専門家だけのものであったアドヴォカシーを当事者の手に戻すのである。ここでは、特にアドヴォカシーと区別して、「セルフ・アドヴォカシー」という言葉が使われる。セルフ・アドヴォカシーとは、自己権利擁護などと訳されるもので、様々に表現される。例えば、
  「自分自身のために主張し行動すること。自分にとって何が最善かを判断し、それを  得るために責任を持って行動すること。人間としての自分の権利のために立ち上がる  こと」5)
  「無力な人(障害者)が力を得る過程、その全て」6)
  「自分のために発言すること、自分の生活(人生)を自分が決定すること。メンバー  が互いに助け合い、友人を作り、自分で自分の友人を選ぶこと。」7)
  「問題を解決するために外へ出て闘うこと。」8)
  「障害者が自分自身のために主張すること」9)
  「セルフアドヴォカシーは、障害を持つ人々に彼ら自身のための権利擁護の方法や、  どうやって彼らが信じることのために声を上げるかを学ぶ方法を教える。これは、私  達がより自立できるために、どうやって私達の生活に関わる決定や選択をするかを我  々に教えてくれるものである。また、これは私達の権利について教えるが、その時私  達は権利を学ぶだけでなく、責任についても学ぶのだ。」10)
 つまり、直接的には、自己決定のもとに自分で自分の権利を主張し、擁護することである。日本語で「権利擁護」等と言うと、ともすれば大げさなことのように思えてしまうかもしれないが、要するに、自分のやりたいことをやりたいように行なったり、それができない状況にある場合は、その状況に対して自分の決めたことを通すために主張したりすること、である。したがって、例えばウォレルが言う「無力な人(障害者)が力を得る過程、その全て」とは、障害を持つ人々が自己決定により自立的に生活できるようになる過程のことであり、それに伴い、広く地域の人々と関わりを持つ過程であり、自分の権利を主張する一方、社会的な責任を他の人々と同じように果たす過程でもある。このように、セルフアドヴォカシーとは、単なる個々人の自己決定だけではない、より政治的な社会運動・社会変革へと広がる概念だと考えられる。
 ウォレルは「セルフ・アドヴォカシーは無条件の支持に値する」と書いているが、それはこれまで“セルフ”アドヴォカシーができないと考えられてきたことへの抵抗でもあるのかもしれない。彼は次のように言っている。
  「もし他の誰かがあなたを代弁するのならば、彼は簡単に間違いを犯してしまうだろ  う。“あなた”だけが、“あなた”の望むことや“あなた”の必要としていることを  知っているのだから。」11)
また、ケン・ネルソン(ピープルファースト・エドモントン)も同様に、
  「今まで、障害者が声を上げ自分の意見を表明したいと思ったとき、『待って、私の  言うことを聞きなさい』と言われたものだ。だが、もしその障害者の望むことを知っ  ている人がいるのならば、それはその人自身なのだ。」12)
と述べる。
 このように、セルフアドヴォカシーは、当事者のことは当事者が最もよく知っている、という発想に基づいている。最近、日本でも「当事者主体」が叫ばれるようになってきたが、つまりこの運動は、当事者(障害者)の、当事者(障害者)による、当事者(障害者)のための運動なのである。障害者自身で自分達の権利を主張し、擁護する。障害者自身が、自分達の援助(者)を選ぶ。障害者が、住みたい場所働きたい場所を決め、生活を決定していく。この立場に立つならば、「健常者」は障害者の決定をなるべく実現できるように支援していくしかない。もはや、他の誰も「彼らのため」に彼らのことを決定することはできないのである。
 そして、この概念が社会的な広がりを持つための手段として取られるのは、当事者による組織化なのである。セルフアドヴォカシーの最小単位は、基本的に「個人」であるが、しかしセルフアドヴォカシーとは、究極的には、「個人」ではなく「社会」に焦点が当てられるべきものである。セルフアドヴォカシーが社会運動として組織化された時に必要となるのが、次に述べるリーダーシップである。

2 リーダーシップ
 既に、知的障害以外の障害者による当事者運動では、運動や組織をまとめ、指揮していく有能なリーダーは数多く存在してきている。それと同じく、この運動でもリーダーシップが必要とされるのである。北米では、発達障害者達の中から有能なリーダーが大勢現われている。例えば、カナダでは、ピーター・パーク、ドゥニ・ラロッシュ、パトリック・ワース、ポール・ヤング、合衆国では、ナンシー・ワード、T.J.モンロー、トム・ホプキンズ、ナンシー・クリーブランド、キャシー・ジュニ、等々多くのリーダーが活躍している(これは単に私が知りえた人々のうちの一部である。だから、これらの人々だけが特に優れているということでは必ずしもないだろう)。
 リーダーシップはなぜ大切なのか。ウォレルは次のように言う。
  リーダーは、アドバイザーよりもうまく教えることができる。なぜなら、リーダーは  アドバイザーよりもメンバーのことを良く理解しているからだ。おそらくあなたは、  グループの他のメンバーと同じような生活を送ってきたに違いない。13)
 このような考えは、いわゆる自立生活運動その他の障害当事者運動に流れる考え方でもあるが、これもまた、彼らの障害についての専門家は、他でもない障害を持つ彼らなのだという発想に基づいている。
 通常、障害者(特に知的障害者)問題を考える時、障害者−健常者であるとか、障害者−介助者、あるいは施設入所者−施設職員といった、二項対立的な思考をしてしまうかもしれない。確かに、障害者にとって何らかの援助者は重要に違いない。しかし、この運動にとってさらに重要なのは、当事者のリーダーシップである。これまでのアドヴォカシー運動にありがちだった、「健常者」が障害者を引っ張っていったり、障害者の声を代弁するというようなことではなく、リーダーが意志を統合したり、代表したりするのである。この運動のリーダー達は、この国の感覚だと障害が軽いと見られる人々ではあるのだが、彼らよりもさらに重度の障害を持ち、自己主張等がうまくできない人々についても、やはり、どちらかと言うと「健常者」より、同じような障害を持つ人々の中で自己主張のできる者が重度の人々を代表する方が望ましいとされるようだ14)。
 つまり、この運動は、障害者−援助者という関係だけではなく、メンバー(当事者)−リーダー(当事者)−アドバイザーという、微妙に立場の違う三者の関係から成り立っているのだ。この点は重要であろう。この国のほとんどの場合のように、当事者の中からこのような意味でのリーダーが現われるなどとは考えられていない状況では、北米で実際に行なわれていることが想像できないかもしれない。しかし、障害者運動や公民権運動や女性運動といった他の解放運動は、その運動を担う当事者によって起こされてきたし、当然、その運動のリーダーも当事者であった。当事者の運動を当事者自身が引き受け、当事者の中からリーダーを選ぶことは至極当然ではある。これは、知的障害を持つ人々についても同様なのだ。
 メンバー、リーダー、アドバイザーとの間の関係を簡単に図式化すると、次のようになるだろう。
              リーダー  
               ↑ ↓  ← アドバイザー
              メンバー  
 この図式で重要なのは、まず、リーダーとメンバーとの相互作用によって組織が成り立つということ、そして、アドバイザーがその外側にいて、しかも上に立って指導するでもなく、下にいてへりくだるでもない、という点である。つまり、リーダーとメンバーが相互に教え合ったり協力し合ったりするということがまず最初にあるところを、アドバイザーが上からでも下からでもなく“横から”援助をする、というわけである。アドバイザーについては、次章でさらに深く見ることにしよう。

3 運動を伝える実践 −各種マニュアルを読む
 リーダーシップの重要性は、リーダーになるためのマニュアルが発行されているということでもわかる。カナダでは、「リーダーシップ・トレーニング・マニュアル」15)があり、合衆国では、ピープルファースト・オブ・ワシントンが「オフィサー・ハンドブック」16)を作っていて、とりあえずこの二つを代表的なものとしてよいようだ。その他、セルフアドヴォカシーや組織の運営やスピーチや選挙などのやり方等がマニュアル化されている。こうしたマニュアルは、多くの場合大きな文字で印刷されており、文章も非常に分かりやすく書かれている。挿し絵が多いのもこれらに共通する特徴である。
 例えば、「オフィサー・ハンドブック」には、当事者組織で役員(officer)とは何をする人のことか、役員はどうあるべきか、会議をどのようにすすめていくか、選挙をどのように行なうか、といったことが分かりやすく丁寧に説明されている。
 このマニュアルを見てみると、まず最初に「良い役員になるには」として、次のように書かれている。
  二種類の役員がいます。
  (1)ひとつは、全てのことを自分たちだけでやってしまう役員です。このような役  員は、他のメンバーに、「自分では何もできないんだ」とか「退屈だ」とか感じさせ  てしまいます。このような役員がいなくなったら、みんながダメになります。という  のも、他のメンバーは、自分達の力でどうしたらいいのか、どうすれば良い役員にな  れるのか、学んでいないからです。
  (2)もうひとつは、全てのメンバーにいろいろなことで協力してもらう役員です。  このような役員は、自分達で何かを行い、自分達のために主張することを、みんなに  教えます。このような役員なら、もしいなくなっても、グループは活動を続けられま  す。というのも、メンバーは自分達で何かを行なうことを学んだし、役員にもなれる  し、会議のやり方も学んだからです。17)
 次に、議長(president)、副議長(vice president)、書記(secretary)、会計(treasurer)、守衛(sergeant-at-arms)といった、組織や会議に必要な役員の構成について説明している。例えば「議長」には、
  1 議長は会議を進める人のことです。
  2 会議で議長は
     会議を始めます。
     書記に、出席をとるか、みんなに自分の名前を言わせるように頼みます。
     書記に、前回の会議の議事録を読んでもらいます。
     会計に、会計報告を出してもらいます。
     これまでしてきた活動についての話し合いを進めます。
     これからする活動についての話し合いを進めます。
     プログラム(訳注:学習会、レクリエーション、講演会など)を行ないます。     会議を閉会します。
  3 投票がある時に、議長は、その投票の仕方を説明します。
  4 議長は役員会議に出席し、グループの会議の議題を作る手助けをします。
  5 議長はグループの会議に出席します。もし出席できないときは、副議長に知らせ    なければなりません。その時は、副議長が会議を進めます。
  6 議長は、会議で他の役員に手助けをさせます。
  7 議長は、誰が地域の会議や何らかの大会に参加して、グループのことを発言して    いるかを知っています。18)
と、このように、副議長以下の役員についても書かれている。
 また、書記については、どのように書記の仕事をすればいいかということが説かれている。
  1 会議の議事録を書くために、
  2 テープレコーダーで会議を録音しておけば、テープを聞いて議事録を書くことが    できます。
  3 議事録は短くまとめる。
  4 議事録を書くためのノートを買い、メンバーの名簿を書いておきます。
  5 忘れないように、会議から1週間以内に議事録を書いておきます。
  6 役員会議で、議事録を読む練習をします。
  7 メンバーが会議をする部屋に来たら、名簿の自分の名前のところにまるをつけて    もらうか、サインをしてもらいます。会議では、自分の名前を言ってもらうか、    自己紹介をしてもらいます。
  8 メンバー達が投票している時、大きな紙か黒板に、メンバーの名前か、メンバー    が投票した人のところに「しるし(choice)」をつけます。書記は、票の数を書    いていきます。19)
 役員の説明の次は、「会議の手順」である。「開会の宣言」→「出席をとる」→「議事録を読む」→「会計報告」→「これまでの活動(old business)」→「これからの活動(new business)」→住所変更や仕事の報告などといった「お知らせ(announcement)」→「プログラム(権利についてのスライドを見たり、ボランティアをする計画をたてたり、友情についての議論をするなど)」→「閉会」→「お茶会」となっており、それぞれが、1ページづつ挿し絵によって紹介される。
 投票や役員の選挙についても詳しく説明されている。「組織全体にかかわるあらゆることは、メンバーの投票によって可決されなければなりません」と教え、「提案」「提案への賛成」「討論」「投票」「結果発表」という議決の手順を示す。例えば「提案」については、
  グループ全体が考える問題だと思ったら、提案をします。提案をするときには『提案  があります」と言い、その次に何を提案するのかを言います。20)
また「投票」については、
  議長が「投票の準備はできましたか」と言います。
  何について投票するのかをメンバー全員が理解するために、議長はもう一度提案の内  容を言います。
  議長は「〜に賛成の人は『アイ(aye)』と言ってください」と言います。
  (手を挙げてもらっても良いです)
  議長は「反対の人は『ノー』と言ってください」と言います。
  (手を挙げてもらっても良いです)21)
というように、説明が非常に事細かい。
 このように、内容的にはこれといって目新しいことが書かれているのではなく、私達にとってもごく当たり前の会議の方法を示しているにすぎない。しかし、このような基本的なマニュアル(知識)がまとめられて流通しているということは重要である。しかも、知的障害を持つ人がなるべく理解できるように、詳しく易しく具体的に書かれている。当然、当事者によって発行される。通常、私達は誰かから訓練されて、様々な社会生活を送れるようになるものだが、その中でもリーダーシップをとるとか会議を開くといった事柄は私達でも自然にできるようになるわけではなく、相当の訓練や経験を要するものだ。ましてや、自分達で物事を決めていくという経験を持ってこなかった人々にとってはなおさらである。
 一方、ピープルファースト・オブ・カナダ発行の「リーダーシップ・トレーニング・マニュアル」は、リーダーの心得を説いている。「リーダーは手本を示す」「良いリーダーは頼りになる」「良いリーダーはグループのメンバーを誇りに思う」「良いリーダーはよく働く」「リーダーは教師でもある」と、このマニュアルの筆者ウォレルは印象的な短いフレーズで説明している。要するに、メンバー達に対して模範形(ロールモデル)を具現化し、メンバーの成長を促すことがリーダーには求められるのである。
 また、セルフアドヴォカシーのマニュアルも作られている。自分の意見や権利をどのように主張していくかということが、この運動の根本問題だからである。私の手元にあるのは、ピープルファースト・オブ・カリフォルニアの「公で話すためのガイド(The Guidebook for Public Speaking)」や、ピープルファースト・オブ・ヴァージニアの「投票と行政の仕事について学ぶ−−有権者教育ハンドブック(Learning about Voting and How Government Works:A Voter Education Handbook)」である。「公で話すためのガイド」には、公的な場で話をするためにはどのようにすればよいか、どのようなことに注意すればよいのかが丁寧に書かれている。「投票と行政の仕事について学ぶ」は、選挙と、そのために必要な、連邦やヴァージニア州や群・都市それぞれの政府がどのような仕組や位置で動いているのかという知識を提供するものである。セルフアドヴォカシーとは、公衆の前で自分の主張を訴えることであり、主権を持つ市民として自分の意見を政策に反映させることでもある。したがって、それらをどのように実行すればいいのかという知識を提供することは当然のことなのである。
 特に当事者組織の発行によるものではないが、ナンシー・E・S・ガードナーという人が「セルフアドヴォカシー・ワークブック」を書いている(資料1)22)。これは、セルフアドヴォカシーとは何か、組織作り、組織運営、そして州や全国規模の大会(convention)を開くことまでを当事者向けに解説する総合的なマニュアルである。全部で14章からなっており、それぞれの章は、「新しい言葉(new terms)」「物語(story)」「質問と答え」「チェックリスト」の四つの項目で構成されている。例えば、第2章「セルフアドヴォカシーとは何か」では、セルフアドヴォカシー、権利、責任、個人の限界、個人の強みといった概念を解説している。まず、「新しい言葉」で、それぞれの言葉の意味が簡潔に示されている。そして「物語」では、ジェイスンという21才の男性の物語を通して、「新しい言葉」で提示された言葉を具体的な場面で説明する。父親やブラウン先生が彼のためにいろいろと決めていくが、ジェイスンはこれを拒否し、自分の意見を言っていく。その中で、自分の権利や責任、あるいは限界や強みを認識し、自分のやりたいことをするにはどうすればよいかということを考えていく。次の「質問と答え」で、さらに深められる。例えば、「質問:権利と一緒になっている責任の例を幾つか挙げてください。 答え:もし、投票する権利を持つなら、誰が選挙に立候補しているかを知る責任があります。」であるとか、「質問:自分がセルフアドヴォケイトになることがなぜ良いのか。 答え:いちばん大きな理由は、あなたのことをいちばん良く知っているのはあなただ、ということです。」となっている。最後の「チェックリスト」は、この章を終える時にやる
資料1
         セルフアドヴォカシー・ワークブック:目次
    第1章 イントロダクション
    第2章 セルフアドヴォカシーとは何か
    第3章 グループを作る
    第4章 グループを運営する
    第5章 アドバイザーとうまくやる
    第6章 アドバイザー委員会とうまくやる
    第7章 計画を作る
    第8章 役員会を作る
    第9章 法人
    第10章 他のグループと働く
    第11章 広報
    第12章 大会を開く
    第13章 資源を得る
    第14章 結論




課題を提示する。「アドヴォカシーとは何か、セルフアドヴォカシーはあなたにとってどんな意味があるのかについて話し合う」「あなたの権利を誰かが奪おうとした時、何ができるかについて話し合う」といった課題を7つ挙げている。
 また、グループをうまく運営していくためには、アドバイザーをどのように見つけるか、アドバイザーとどのように付き合っていくか、ということも大切である。例えば、「セルフアドヴォカシー・ワークブック」の第5章は、「アドバイザーとうまくやる」である。そうしたことは、他の多くのマニュアルにも含まれている。アドバイザーに関するマニュアルについては、次章で取り上げることにしよう。
 このように彼らは、その運動の理念と実際をマニュアルという形を通して広めようとしてきているが、ここで紹介した幾つかのマニュアルは、時に非常に難しいことを読む者に要求する。おそらく、そこで描かれていることは「理想」である。しかし、だからこれはできない、このようなものは役に立たない、と言ってしまってよいものでもない。例えば、「リーダーシップ・トレーニング・マニュアル」は厳しいとも思える要求をリーダー達につきつけるが、その一方、「『完璧なリーダー』はいません。私達は全て、長所と短所を持っています。しかし、私達は長所を最大限に使えますし、新しい技術を学ぶことによって弱点を乗り越えようとすることはできるのです。」と言っている23)。ともかく、「できない」と決め付けてしまう前に、「やってみる」ことである。マニュアルは、そうした実践の現場で目指すべき指標を、具体的な形によって示そうとしているのである。
 また、こうしたマニュアルの機能は他にもある。マニュアル化することによって、メンバー間に知識の共有がもたらされる。岡知史氏によると、これはセルフヘルプ・グループに共通に見られるものである24)。セルフヘルプ・グループの基本要素の一つは、メンバー間の「わかちあい」である。「わかちあい」が可能になるためには、メンバー間に序列があってはならない。一般にセルフヘルプ・グループにおけるプログラムは、それを解消する機能を持っている。プログラムの具体例としては、アルコーホリック・アノニマス等の「12ステップ」や、「神経症」者の会である生活の発見会の「森田理論」、自立生活センターの「自立生活プログラム」があるという。メンバーによってグループに関する知識(情報)に偏りがあることが、序列化の要因の一つになるが、こうしたプログラムにより、知識(情報)が平等に普及する。明文化されていなければ、一つ一つ古いメンバーにグループでの振る舞い方を聞いていなければならない。よって、古いメンバーに依存することになり、彼らの権威が必要以上に高くなってしまう。この運動についても、同様に言うことができるのではないだろうか。

4 セルフアドヴォカシーの実際
 では、彼らはセルフアドヴォカシーを実際にどのように組織の活動として実現しているのだろうか。ピープルファースト・オブ・オンタリオの系譜によると、次のような様々な手段を通して、直面する多くの問題に対して行動を起こしている25)。
  ・手紙を書く
  ・裁判所に行く
  ・陪審を請求し、証人を呼び出す
  ・ピープルファースト・オブ・カナダのような、他の組織と協力する
  ・ラジオ、テレビ、新聞等のメディアを使う
  ・委員会や審議会に、自分達の立場を表明する
  ・抗議デモ(プラカードを持ったり、スローガンを唄う)
  ・当面の処遇を得るためには、座り込みを行なう
  ・政治家や官僚と会う
  ・会議や会合で発言する
 ピープルファースト・オブ・オンタリオは、この中から一つあるいは幾つかを用いて、様々な問題と闘ってきている。
 例えば、「イブ」のケース26)。イブは障害を持つ31歳の女性で、恋人もいたが、彼女の母親はイブが妊娠しないように不妊手術を受けさせることにした。そして、彼女の母親は裁判所に手術の許可を願い出た。初めの裁判所はこれを取り下げたが、別の裁判所は許可するという判断を下した。結局、この問題はカナダ地域生活協会27)に委ねられた。しかし、そこでも賛否両論あり、解決できずにいた。そこで、オンタリオ等のピープルファーストのメンバー達が、不妊手術をやめさせるよう立ち上がった。彼らは「イブ委員会」を結成し、この問題について勉強し、弁護士に最高裁判所へ提出させることを決定した。それから1年を経た1986年10月23日、ようやく判決が出た。判決は、「本人の承諾なしに、医療上の理由以外で不妊手術を施すことはできない」ということであった。イブのケースでは、このように、裁判(しかも最高裁)に持ち込むということを行なっている。
 こうした不妊手術に対する行動は、私の知るところでは、キャピトル・ピープルファーストでも行なわれたことがある。これは、ヴァレリー・Nの事件として、少なくともカリフォルニアのほとんどの発達障害関係者には知られている28)。ヴァレリー・Nとは、とあるダウン症の女性の名前であるが、彼女は、不妊手術に関するインフォームド・コンセントを行なう能力がないと判断された。彼女の両親は、ゆくゆく彼女が妊娠することを危惧して、代理によるインフォームド・コンセントを認めるようカリフォルニア州最高裁に請願した。この誓願は、地裁への差し戻しの後、最高裁で認められた。しかし、そこでピープルファーストの目にとまった。さっそくメンバーは請願を与えた判事に会ったが、彼の態度が変わらなかったので、記者会見を開いて多くの人々の注目を集めるという手段を用いた。そして、この件を再び裁判に戻すことに成功した。その裁判で、ヴァレリーについて適切な手続きがなされていなかったことが判明し、ついに請願は取り消された。以上が事件の概要だが、その後ローゼンバーグは、「もしキャピトル・ピープルファーストが州の制度が作り出した団体であったり、ARC(→第1章)のように親の意向が強い団体であったならば、ヴァレリー・N事件でなされた自主的で幾分非凡な介入は取れなかったであろう。さらに、キャピトル・ピープルファーストのメンバーは、自分達はヴァレリーに代わって適切な手続きを要求しただけでなく、不適切に定義づけられた弱い市民の一人として自分自身の利益のために行動を起こしたと信じている。」と結論づけている。
 ピープルファースト・オブ・オンタリオでは、その他に、1991年3月トロントで、賃金政策(the Wage Policy)案に反対する運動を行なった29)。提案されていたこの政策は、健常者と対等に働けない障害者の最低賃金を保障するもので、これが実現されると、雇用者は時給にして1ドル程度を支払えばよくなり、残りの4ドルはFBAという障害年金で賄われるというのであった。だが、結局この案は、政権が替わると廃案になった。ピープルファーストがこの政策に反対したのは、この政策が、障害者“だけ”を対象とするものだからであった。「福祉」という言葉・発想には、しばしばこのような傾向が見られる。例えば、通常「福祉」それ自体は批判されることがない。確かに、「福祉」は良いことかもしれない。しかし、それによって(権利として与えられているはずなのに)、傷つけられる人々もいる。これはどのようなものなのか。「福祉」という権力の一形態には、さらに分析の目が向けられる余地があるだろう。
 また、1992年秋には、代理決定法(Substitute Decisions Act)のガーディアンシップ(後見人)の条項に反対している30)。「ガーディアンシップ:壁のない監獄」「ガーディアンシップは告訴のない終身刑」等と書いたプラカードを手に、政府のあるクイーンズ・パークで抗議デモを行なったのである。
 「政治家や官僚と会う」という活動も広く行なわれている。合衆国の例だが、1985年、キャピトル・ピープルファーストのトム・ホプキンズとサンドラ・ヤンセンが、当時副大統領だったジョージ・ブッシュと会見した。それは当初2分間の、しかも写真撮影であったが、30分にも及ぶディスカッションになった。そこでトムは、作業所(sheltered workshop)での悲しい体験を話し、サンドラは「IQ30なので施設以外では生活することができないだろうと言われたけれど、今、一人で暮らしている」と語っている。また、当時コネチカット・ピープルファーストの議長だったT.J.モンロー(→補)も、1990年のADA法署名式で、ブッシュに手紙でメッセージを伝えている31)。1994年の第3回全国セルフアドヴォカシー会議でも、主催したピープルファースト・オブ・ノースヴァージニアの議長ブライアン・クラキーが、現大統領のビル・クリントンと握手を交わしている自分の写真を自慢げに見せていた。それは、医療政策(94年に合衆国で話題となり、結局つぶれたあれである)について彼がコメントした時の様子のようであった。
 このように、この国の私達の感覚に比べると、恐らく想像もつかないほど、彼らの活動は政治的であり、時に急進的でさえある。こうした行動の背景にある彼らの感覚、そしてそれらを支えている社会的な条件はどのようなものなのか、とても興味深い。


1) 精神薄弱の子供を持つ親を主体とする全国団体。社会福祉法人。1952年創立。都道府 県の会を単位とする連合体である。
2) Tyor & Bell[1984=1988:148]。
3) Shapiro[1993:186]。
4) 日本におけるアドヴォカシー(必ずしもセルフアドヴォカシーではないが)の動向と しては、他に、オンブズマン制度や成年後見人制度制定がある。中野区のオンブズマン 制度について内田和夫[1992]、多摩更生園の施設オンブズマンについて内田茂男[19 92]、等。痴呆性老人や精神遅滞者の後見人制度についての議論として、野田編[1993] 、奥川・高橋・田中・野田・長谷川・春山[1994]、額田[1994]、野田[1995]、等。 社会福祉協議会の下にある権利擁護センター「すてっぷ」について柏崎[1993]等。権 利擁護へ向けた問題を指摘する副島[1994b]。ヒューマンケア協会地域福祉計画策定 委員会[1994:51-53]にもある程度まとめられている。また、アドヴォカシーについ ての基本的理解については、高嶺[1993]が参考になるだろう。
5) Worrell[1987:3]。
6) Worrell[1988]。
7) Worrell[1987:3]、Michael O'Byrne(バンクーバー)の言葉。
8) Worrell[1987:3]、ピーター・パーク(トロント)の言葉。 
9) Outline of Speech by Barbara Brease。
10) Longhurst[1994:3]、合衆国の全国組織Self-Advocates Becoming Empoweredによ る定義 。
11) Worrell[1987:8]。
12) We are People First of Ontario-12Years Old and Still Growing:1。
13) Worrell[1987:46]。
14) では、「健常者」が適切でないなら、他の障害を持つ人ならば良いかというと、一概 にそうでもないだろう。知的障害を持つ人々にしてみれば、例えば視覚障害者では「健 常者」とほとんど変わらなかったりする。
15) Worrell[1987]。
16) このマニュアルは他のマニュアルにもしばしば引用されており、例えば、ピープルフ ァースト・オブ・ヴァージニアのガイドブックの中にそのままコピーされていたり、ウ ォレルの「リーダーシップ・トレーニング・マニュアル」にも、幾つかの挿し絵がその まま使われている。
17) Officer Handbook:2。
18) Officer Handbook:4。
19) Officer Handbook:7。
20) Officer Handbook:19。
21) Officer Handbook:19。
22) Gardner[1980]。
23) Worrell[1987:45]。
24) 岡[1993:196-197]。
25) We are People First of Ontario-12Years Old and Still Growing:2-3。
26) We are People First of Ontario-12Years Old and Still Growing:4。
27) Canadian Association for Community Living(=CACL)。発達障害者に対するサー ビスを行なう。1984年にCanadian Association for Mentally Retarded(=CAMR)から 名称を変更した。カナダで「協会(Association)」と言われる時はほとんどこれを差 す。
28) Capitol People First,Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護モデル
 に関するノート)、「国連障害者の10年」最終年イベント実行委員会[1992:18]。
29) We are People First of Ontario-12Years Old and Still Growing:6。
30) We are People First of Ontario-12Years Old and Still Growing:5。
31) Shapiro[1993:209]。



第3章 援助の技法

 ピープルファーストでは、知的障害を持つ人を援助する人が重要視されている。多くの団体では、援助する人のことを、「アドバイザー(advisor)」あるいは「ファシリテーター(facilitater)」と呼んでいる1)。この章では、知的障害を持つ人々に対する一つの援助の在り方を紹介しようと思う。この運動における援助の在り方は、まだこの国にはあまり存在せず、完全に把握しているとは言えないが、ここではその中心的な発想に焦点を当てることにする。

1 アドバイザー(ファシリテーター)という発想−援助をする人とは
 私は、知的障害を情報障害あるいは情報処理障害だと考えたい。これは、唐突かもしれないし、厳密に言うと間違っているかもしれない。しかし、こう考えることによって、少し見方を変えることができるはずだ。
 世の中には情報が溢れている。人は社会のなかで様々な情報に基づいて意志決定をし、行動する。知的障害を持つ人々は、目や耳の不自由な人々と違って、視覚情報や音声情報については受け取ることができる。しかし、往々にして言葉の「意味」のような記号的情報の理解ができない。この意味で、知的障害は情報障害と言える。また、情報を受け取ることに障害があるだけではなく、多くの場合、情報が受け取れる状況に置かれていなかったり、情報を与えられていないという意味で情報障害だとも考えられる。――このように考えることはできないだろうか。
 だから、知的障害を持つ人を援助するとは、人々に物事を理解できるように便宜をはかることである。知的障害を持つ人々を援助するためには、“単に”情報を補いさえすればよいのである。他には何もいらない。簡単なことだ。肢体不自由者が車椅子や介助者を使ったり、目の見えない人が杖や盲導犬を使ったりするのと同じように、知的障害者の障害の機能的な側面を補うために、情報を整理し、その人の意味理解を助けることが必要となるのだ。足が動かない人は足の代わりになるものを使い、知的な障害を持つ人は頭脳の代わりになるものを使えばよい。まず、この点が他の障害者への援助の方法と違い、また動かない部分を補うという点で似ているとも言える。知的障害を持つ人は情報を得ることが苦手かもしれないが、決定することはできる。「字を読めない」「金銭の概念が分からない」「一般的な方法でコミュニケーションがとれない」ことと「自己決定ができない」ことは、分けて考えられなければならない。だから、彼らのほとんどは、「自己決定ができない」のではない。今まで「自己決定ができない」と見做されてきたのは、そのように見做した側の「思い込み」にすぎない、と言っても言い過ぎということはない。そこで、アドバイザーやファシリテーターは、情報処理障害を補うために、社会と障害者との間にある情報のギャップを埋める役を演じるのである。キャピトル・ピープルファーストのファシリテーターであるバーバラ・ブリーズは、次のように説明している。
  「介助者が身体障害者の日常生活の基本的なことを援助できるように、ファシリテー  ターすなわち自立を促す援助者は、知的障害者が情報を得たり、地域社会でのいろい  ろな経験をしたり、特に友達づくりをするのを援助することができます。つまり、フ  ァシリテーターは、世界の豊かな文化への魔法の橋渡しをするものであるとも言えま  す。」2)
 また、もう少し具体的に言うと、アドバイザー(ファシリテーター)は、読み書きのできない人々に代わって文字を読み、代筆をしたり、また家やアパートの購入や貸借に関する知識、あるいは出産・子育てなどの時に必要な知識を噛み砕いて説明したり援助したりすることもある。そして、当事者のグループで会議がある場合等で、発言者が混乱したり、その発言の内容が脈絡を持てなかった時に、意を汲み取って話に筋を通すこともあるだろう。その他、地域で生活して行くために必要な知識を与えたり、金銭の価値が分からない人の金銭の管理を援助する。ただし、全ての援助が、援助される当事者の要請にしたがってなされ、情報は提供しても、決定するのはあくまで当事者であるというのが原則である。3)
 今まで精神発達遅滞だと言われてきた人の、「障害」とみなされた部分の多くが、このような制度がなかったために起こる「社会的不利」なのである。理論的には、どんなに重度の障害を持っていると言われる人でも、援助されることによって自己決定が可能であるという4)。もはや、障害を持つ者が問題になるのではない。むしろ、援助する者が、どれだけ彼に対して期待を持っているか、どれだけ彼の要求に応じて便宜を図れるか、彼が物事を理解できるためにどうすればよいか、といったことが問題になる。ファシリテーションにおいて、当事者には「決定」だけが残される。自身では移動に不自由な人がいたとしても、車椅子や介助者のようにそれを補う手段や、段差のない道路・スロープ・エレベーター・自動車に乗るためのリフトのような“アクセシブル”な環境があるならば、その人は「移動に不自由な人」ではなくなる。発声できない人・耳の不自由な人であれば、視覚情報によるコミュニケーションの方法を使ったり、トーキング・エイドを使うこともできる。知的障害者に対するアドバイザー(ファシリテーター)の役割も、これと同じことなのである。     
 アドバイザーは、個人に対して援助をするよりは、当事者の団体に対して援助をする場合の方が多いようである。特にその場合、アドバイザーとは、単に情報を提供するというだけの役割には終わらないもののようだ。例えば、リーダーを育てたり、メンバーの手本となったり、組織を運営を教えたりといったことが、アドバイザーの仕事として挙げられている5)。
 だが、いずれにせよ、アドバイザーの最大の目標は当事者のセルフ・アドヴォカシーを助けることである。つまり、当事者が自分の権利を自分で主張したり、自分の生活について自己決定できるようになることを助けるのである。ここで目指されているのは、成長であり発達である6)。アドバイザーは、これを常に重視することが求められる。
 そして、セルフアドヴォカシーを援助し成し遂げるために必要なのは、アドバイザーが当事者を信じること、これだけである。ピープルファースト・オブ・カナダの副議長であるピーター・パークは、NHK(日本放送協会)による1993年の取材で、今までのような「指導者」とアドバイザーとの違いを、「障害者を信じること」の違いであるとさえ言っている7)。それ程私達は、知的障害を持つ人々を信じてこなかったのではないだろうか。

2 アドバイザー(ファシリテーター)のいる位置−「教え合い」の関係
 ここで、カナダのアドバイザーであるビル・ウォレル(Bill Worrell)の『アドバイザーのためのアドバイス(Advice for Advisors)』8)を中心に、アドバイザーと当事者の間の特徴的な関係を述べる。
 第1節で、アドバイザーというものが、身体障害を持つ人の手足となる介助者等とは幾分趣の違ったものであることがわかる。自立生活センターにおいても、その活動がセルフ・アドヴォカシーにつながらないわけではないが、実際には会員の日常的な介助サービスを行なうという側面が大きく、介助者がアドバイザー程直接にセルフ・アドヴォカシーを扱うことはないだろう。
 「良いアドバイザーとは、障害者の視点から世界を理解し、これまでの経験によって作られた障壁を彼らが克服できるように常に援助を続け、また彼らの持つ長所を増大させる存在でなければならない。これは、アドバイザーと知的障害者との強力な信頼関係を打ち建てることによってしか達成できない。」9)というように、アドバイザーと当事者の関係はもっと個人的であり、指導的なもののようだ。また、バーバラ・ブリーズは、これを「多くの点で建物にスロープを付けたり、介助することに似ているけれど、ただそれはとてもデリケート、かつ複雑で、対等な人間同士のつながりと分かち合いという入り組んだ関係」であると言っている10)。一般にアドバイザー(ファシリテーター)は、障害を持つ当事者にとって「友人」であると言われる。分からないことがあれば相談したり、何でも言い合えるというような、介助する−される関係ではない、もっと近くて対等な関係がここでは要求されるのだ。なぜ、そのような関係が要求されるのか。今のところ明確な答えは出せないが、ひとつには、情報を持つ者と持たざる者との差が、しばしば権力の差となって現われかねないからだとは考えられないだろうか。知的障害を持つ者に限ったことではないが、自分の生活を自分でコントロールするために、情報が必要不可欠であることが、ピープルファーストの援助の技法を見る時に見いだされる。知的障害を持たない障害者の場合、どうすれば良くて、どう援助されればしたい事ができるかという情報が既に前提となっていて、しかも、普段は気付かれることがない。しかし、知的障害を持つ人は、決定するための前提の部分が援助されていなくてはならない。決定のための大前提になる情報をコントロールする者は、強力な権力を持つことになり、それだけに、アドバイザー(ファシリテーター)との関係に注意が払われる必要があるのではないだろうか。このことは、ピープルファースト国際会議での、障害を持つ当事者の「アドバイザーは私達の前に立たないでほしい。後にも立たないでほしい。横にいてほしい。」という発言に現われている11)。ウォレルも、しばしば(特に施設の様なところからできた団体において)援助する側とされる側との関係が支配的になったり、援助する側が当事者を半ば無視する形で動いてしまったり、ということがあると書いている12)。
 ファシリテーターになる条件は、ただひとつ、当事者に認めてもらうことのようだ。あえて付け加えるならば、本人の求めに応じて機能すること、自分の考えを入れないこと、本人の分からない状況を作らないこと、等があるだろう。要は「当事者主体」を尊重することだ13)。よって、まず第一に、アドバイザーには組織に関する決定権はない。また、アドバイザーは自ら仕事を失うように働いている。つまり、当事者が力を付けていくにしたがってアドバイザーだけに頼らなくなることが望ましいとされる。それに、アドバイザーは当事者達と契約を結ばなければならない。この契約で、アドバイザーができることとできないことが明確にされる。契約によって、コンシューマー・コントロールをしようというわけである。(資料2は、ロンドンのピープルファーストが紹介している契約書の例である14)。)
 だが、援助する時に不可抗力的に生じてしまうであろう指導的な立場と、その一方で求められる対等な立場は矛盾しないものなのだろうか。この二つの立場を、この運動がどのように解消しようとしているか見てみよう。
 伝統的な関係(例えば、教師と生徒、医者と患者、専門家とクライエント)とは、次の図のようになる15)。
                   A     アドバイザー

                M  M  M  メンバー
 このモデルは、つまりアドバイザーが上に立ち、メンバーを直接教えるということである。ウォレルはこれを、銀行でやるように、専門家が受け身の生徒の頭の中に知識を預け入れるという意味で「銀行預金方式」と呼び、「私達が常に物を教わってきた伝統的なやり方」と言う。
 このモデルがグループに持ち込まれる時、次のようになる。16)
  *全てのコミュニケーションがアドバイザーを通して行なわれる。
  *メンバーはアドバイザーから指図を受ける。
  *メンバーがアドバイザーに依存し、敬っていて、メンバー同士は頼りも尊敬もして   いない。
  *メンバーによる管理運営がない。
 こういう状況が起こるのは、アドバイザーによるところが大きい。例えば、
  *アドバイザーが、メンバーを訓練/支援せずに、自分ばかりが仕事をしている。
  *メンバーがグループを運営できるということを、アドバイザーが信じない。
  *アドバイザーがメンバーの言うことに耳を貸さず、メンバーの意見にあった助言を   しない。
  *アドバイザーが、メンバーの一人一人について個別に援助するだけで、グループと   しての進歩に時間を費やさない。
 これは、現在までの医療や教育や福祉あるいは政治(法)等に典型的に見られる関係と同じものである。全てが、アドバイザーという専門家を通してなされることになり、メンバーは、ちょうど患者が医者に対する時、患者の様々な社会的役割が一時停止され、「患資料2
                 支援者の契約
      支援者の名前
      開始日
   反省会 6ヵ月で、私はどのように物事が動いているかについて話すために
   グループと会います。グループは、私にそれ以降も支援者となってもらいた
   いかどうかを決定します。
      反省会の日付
   *私は、障害者が自分自身のために主張する権利を持っていることを信じます
   *私はピープルファーストと、ピープルファーストが行ないたいことを信じます
   *私はピープルファースト・グループのメンバーに耳を傾けます
   *私はメンバーがどのように支援されたいかを理解し、メンバーが私に望む
    ことに従います
   *私はグループのメンバーのために選択を下しません
   *私はグループのメンバーが自分たちのために何かをできるようになること
    を助けます
   私は、ピープルファースト・グループがメンバーによって運営されることに
   賛同します。私によって左右されることはありません。
      署名:
            支援者            日付
         
         ピープルファーストメンバー     日付





者」という役割として皆横並びにされるように、アドバイザーの前で没個性化する。そし
て、アドバイザー対メンバーという一つの関係しかなくなり、そこではメンバーは依存的になりやすい。
 ピープルファーストでも、ウォレルも書いているように、しばしばこのようなモデルになってしまうことが多いという。知的障害者を援助するとは、つまり教えることである。アドバイザーと当事者の関係が、教える−教えられる関係に置かれる。ということは、アドバイザーは多かれ少なかれ指導的な立場にあるのではないだろうか。教えるということ自体が、このようなモデルを必然的に導いてしまうものなのだろうか。
 だが、成功しているピープルファーストではアドバイザーとリーダー、メンバーとの関
係が次の図のようになる。


     アドバイザー  A  M  M  M  リーダー

                M  M  M  一般のメンバー
 このモデルでは、まず、アドバイザーが上に立たず、当事者の中のリーダーと同じ位置にいる。そして、アドバイザーは主にリーダーに対して援助する。リーダーは、一般のメンバーと共に教え合うことになる。ここでは、アドバイザーがグループを直接指導することはなく、逆にアドバイザーもメンバーから学ぶことができる。アドバイザーは、専門家ではなく、さまざまな考えを引き出し、まとめる役割を果たすだけである。むしろ、障害に関する専門家は当事者の方なのである。このモデルでは、銀行預金方式に存在する知識の偏りがなく、知識は共有される。よって、力の偏りや上下関係がなく、むしろ平等をもたらし、メンバー間の相互依存や協力、団結が生まれるという。こういうことが、「友人」と言われる所以である。
 従ってアドバイザー(ファシリテーター)は、後見人ではなく、まして親や教師ではない。確かに、親は子供と何年も一緒に生活してきたし、子供のことをよく知っている。どうしたら子供が理解できるようにファシリテートするかということも分かっているかもしれない。だが、親は最もアドバイザー(ファシリテーター)に向かない人種だという。親は、しばしばその愛情のために、子供を見えなくしてしまうかもしれない。親は、子供の要求を先取りしてしまい、子供は一言も自分の意見を言わなくても生活していける。だが、「子供のため」に「面倒を見る」ことは、結局、子供の意思が無視される状況が作り出される契機ともなりうる。親や教師の多くは、いつも、横にいるのではなく前に立っていたし、むしろ管理者(keeper)ではなかったか。17)
 ピープルファースト・コネチカットの議長キャシー・ジュニ(Cathy E.Juni)は、次のように言っていた。
  「1960年代前半、私は特殊学級にいましたが、親が私を連れだして、ニューヨークの  ロングアイランドの施設に入れました。親は私に自立してほしかったといいます。で  も、私の親は何でそんなことをしたのか?……わかりません。私のために良いとでも  思ったのだろうか。親は自立を考えて私を施設に入れたのです。」18)
 望ましいアドバイザーの資格として、ほとんどの文献において「アドバイザーは障害者のためのプログラムやサービスに関わっていない人が良い」、つまり、収容施設や作業所などの、障害者のための伝統的なサービスに関わっていない人が望ましいとされる19)。彼らは、アドバイザーを明確にそれまでのサービスや「代弁者」から区別している。だから、アドバイザーとはとりあえず、「以前からある障害者のためのサービスに関わる人や親を始めとする代弁者ではない人」と定義できる。これも、セルフアドヴォカシーの考えの現れと考えれば、当然と言える。アドバイザーが、ピープルファーストのメンバーにサービスを提供している機関から給料をもらっていたりする場合、まず、アドバイザーとメンバーの間で利害の衝突が起こる。グループが施設を批判したり、作業所の運営や給料について抗議しようとする時、もしアドバイザーがその施設や作業所の職員であれば、それだけでトラブルのもとになり得る。また、このようにアドバイザーが「専門家」であるならば、彼は他の伝統的なサービスでの経験に基づいて行動してしまうかもしれない。専門的な知識はしばしばリハビリテーションパラダイムに依拠することになるのだが、この運動はこのパラダイム自体を批判する。そして一度、両者の間に職員−クライエントという関係が出来てしまうと、施設などの外にいてさえ、この関係が存続してしまうこともある。学校で教師と生徒だったものは、学校の外でも、あるいは学校を卒業しても教師と生徒であり続ける、というわけである。
 徳島県松茂町は、若竹通勤寮という寮を拠点に多くの知的障害者が親やいわゆる施設から離れて地域で生活し、障害を持つ当事者のグループも誕生しているという町である。そこで地域や通勤寮に暮らす知的障害者達を「生活支援ワーカー」として支援している河野和代氏は、以前に施設で働いた経験から、施設で行なわれている「管理」「隔離」を否定し、障害者が地域で自分達で暮らせるように「援助」している。もちろん当事者グループも応援している。しかし河野氏と、彼女から日常的に支援される障害者とでは、彼女の行なう援助や援助者としての彼女自身に対する認識にずれがあるということが、NHKラジオの取材によって明らかにされている。彼女は「彼らができないことを援助する」「自分で考え自分で活動していくということを援助する」という立場をとろうとしているが、当事者グループの会議で司会を務める林孝行氏は、彼女のことを「日常のことをなんやかや言われ」、「お金を持たせてくれない」という保護者的・管理者的な「職員」あるいは「指導員」と見るのである。20)
 こうした固定的な関係性は、相当根強いもののようである。例えば、収容施設で働く職員は、そこに住む障害者から「先生」と呼ばれる。「先生」とは、つまりここで言う「友人」であるとか、障害者との契約によって働く「サービス提供者」等ではなく、障害者が職員を「自分達を指導する主体」と見ているということを示している。そのような呼び方をあまり好ましいと思っていない職員が、少しくらい「先生なんて呼ばないでください」と言っても、そうした呼び方を長い間やってきた人には受け入れられにくい。また、それまで職員だった者が、職員という関係をなるべく取り払おうとしていても、結局相手の障害者にとってその職員は結局職員以外の何者でもなかったりするのである。
 だから、アドバイザーは必ずしも障害(者)の専門家である必要はない。知識が必要な場合は、アドバイザーと当事者が「教え合う」関係の中で得ればよいのだ。この運動において(理想的には)アドバイザーは「友人」であり、したがって、それは必ずしも援助する−援助される、あるいは教える−教えられるというような非対称の関係にはない。むしろ、彼らは「教え合う」関係を指向していると言えよう。私達の「あなたのアドバイザーは“先生”ですか、それとも“友人”ですか?」という質問に対して、彼らは明確に「友人です」と答えてくれた。

3 アドバイザーの困難
 身体障害者を中心とするいわゆる自立生活運動でも、介助者のある種の優越性は否定できないものだと考えられる21)。だから自立生活者は、介助「される」のではなく介助を「コントロール」しようとする。(実際は完全にそうとはいかないだろうが、)介助者を機械のようなものとして扱うことができる。自分自身の少ない介助経験から言っても、介助が障害者の手足となれる部分がある。それに、特に人手でなくとも機械や道具でやっていけることがよくある。物理的な部分で、障害者を取り巻く環境が整備されれば、人間が介助として障害者に介入する割合は小さくなるはずだ。
 一方、知的障害者の場合、それがほとんど人間相手である。実際、「ファシリテーターは『芸術(アート)』だ」と言われる22)。アドバイザー(ファシリテーター)には、ここで紹介した「アドバイザーのためのアドバイス」のように、抽象的に書かれた理念・理想は提示されているけれども、明確にマニュアル化された技術というものは用意されていない。しかしこのことは、善し悪しである。むしろそこに、弱点があると思う。やはり当事者は、援助者の能力に大きく依存しなければならない。アドバイザーは、恐らく介助のように誰にでも出来るようなものではない。また、援助するためには、当事者の個人的な物語を理解しなければならないので、アドバイザーと当事者との関係は、いきおい個人的な関係にならざるをえない。つまり、アドバイザーとは、当事者のことをよく理解していて、運動に積極的に関わるだけの時間を持っていて、知恵と知識と徳があり、当事者が成長すれば手を引くことができ、それでいて当事者に認められた人々である。それに、アドバイザーは基本的に無償が望ましいとされる23)。よって私は、介助者や教師にはなれても、今のところアドバイザーにはなれないと思っているが、果たしてここまでできる人がどれだけいるだろうか? それに、アドバイザーひとりが当事者のことを理解しているだけになるならば、結局何も変わらない。ただ、物分かりのいい健常者が彼らの世話をしているにすぎない。社会の中枢に影響が及ぶことはない。
 ついつい、このように否定的な思いが浮かんでしまう。そうではない、と批判する向きもあるだろう。実際に成功しているケースも多いはずだ。しかし、こういうことを考えておくことも必要に違いない。ここで紹介した援助の形態を、「人間関係」と置き換えてもよい。人間関係には、決まった形式やマニュアルはない。だから、うまくいくこともあれば、破錠することもある。「援助する」とはそういうことなのではないか。
 また、この運動が目指す援助の形態は、「プロとしての援助」と「友人としての援助」の両方の側面を持っている。ここで、「プロ」とは、プロフェッショナル、つまりある程度専門的な技術や経験を持っている人のことである。また、「友人」には、「プロ」に対するものである「アマチュア」という意味が対置されるだろう。しかし、これは矛盾してはいないか。(普通、私達は友人=アマチュアだと見てしまうが、友人=アマチュアではないのかもしれない)。24)
 こう考えていくと、援助の形としては、援助者がでしゃばりすぎてもいけないし、単に遠慮して引き下がりすぎるのもいけない。当事者のことに口を出しすぎるのはよくない、というのはこれまでの記述でおおよそ理解されたと思う。けれども、なぜ、引き下がることもいけないのか。それはこうだ。「自己決定」が成立するには、前述の通り、前提となる「情報」がなければならない。しかし、そのためにどのくらいの「情報」が用意されなければならないのか。援助者が、でしゃばりすぎることを恐れて、次のように言うかもしれない。「あなた達は自由にやっていいんですよ。私達の価値観をあなた達に押しつけたりしませんから。」25)……しかし、これでよいのだろうか? 「他の生き方を知らなければ」、自分にとって不利益になることを「自己決定」の名の下に「選択」してしまうことがある。確かにそれも「自己決定」かもしれない。しかし、ローゼンバーグ(→第1章)は、「ここで問題となっているのは、明らかに情報を提供された上での選択であり、慎重な定義が必要だ。」と、注意を促している。援助者は引き下がりすぎても好ましくないとは、このようなわけなのである。
 この国でも、最近、北欧や北米で行われている実践を取り入れる試みがされてきているが、まだ暗中模索の状況が続いていると言った方が正しい。各地で(おそらく外国でも同様に)、こうした微妙なところでの努力がなされてきている。

4 有償
 最後に、アドバイザー(ファシリテーター)には報酬が与えられるのだろうか、という疑問を投げかけよう。例えば、CILでは介助者に介助料が支払われる。だが、「友人」関係にどれだけ市場原理を持ち込むことができるのか。身体障害者は不特定多数の介助者を使うが、障害の性格上同じようにはできないだろうし、「友人」というからにはそうもいかないのではないか。
 しかし、合衆国ではかなりの場合有償である26)。「果たしてヴォランティアのアドヴァイザーは本当のアドヴァイザーなのか」という主張が公の場で言われるほどである。有償にするのには理由がある。
 キャピトル・ピープルファーストの人々が言っていることを見てみよう。
   市場原理を導入して地域社会に根ざしたケアを拡大する場合、ふたつの問題があり  ます。まず、第一は、第一級のサービスを提供するのに必要な資金が出にくいです。  というのも多くの資金は、州立施設制度の維持に充てられているからです。自立生活  トレーニングや家族補助プログラムなどの数々の地域社会に根ざした本当に良いプロ  グラムに対するリージョナル・センターからの助成は1ドルでも惜しむかのように、  しかし一文惜しみの百文失いというように、昔から少なかったです。これは、リージ  ョナル・センターにお金がなかったということもありますが、それだけではなく、こ  ういった良いプログラムではなく今まであったサービスに資金を提供しなければなら  ないという圧力があったことにもよるのでしょう。この場合、今までのサービスが良  質のものであるかないかは、関係ないようです。
   第二の問題点は、サービス提供者がより良い仕事をすれば、報奨金が支払われると  いう制度になっていないことです。現実には、サービス提供者が人々を外に出さない  で引き止めておくことでお金を得るということが奨励されているようです。発達障害  者の、社会生活に適応できる機能が高ければ高いほど、その人が属している施設に対  する助成金が少ないのです。このため、(サヴァイヴィング・イン・ザ・システムの)  報告書制作委員会が訪れた多くの施設には今、自立した生活を送っている委員会のメ  ンバーよりも“高機能”の人々が、施設から出られないでたくさんいました。27)
 有償にする一つの理由は、有能な援助者を「選ぶ」ためなのである。弁護士として、高齢者/障害者福祉に携わっている副島洋明氏は、次のように言う。
   福祉の現場において入居者(利用者)は、福祉を提供する側にとって単なる受け身  の存在でしかなくて、あれこれと自分のやって欲しいことや、して欲しくないことを  権利として主張できる立場にないとされている。たまたまいい施設やいい人(職員や  ヘルパーさんら)に出会えれば、それこそ「運がいい」ということであって、それを  利用する方から望んだり、選んだり、決めたりすることはできないのが福祉の制度で  ある。28)
押しつけられこそあれ、福祉は選べなかった。だから、そうした現状に対し、彼らはコンシューマリズムを持ち出す。そこでは、良いサービスはさらに改良されてゆき、悪いサービスは駆逐されていく。しかし、市場原理(と言って想像されるような)を単に採用している訳でもないようだ。彼らは、非営利組織(Non-Profit Organization=NPO)の形態を取っている29)。つまり、「市場(原理)が全て」でもないし、「無償の奉仕が望ましい」でもない、ということだけは言える。もし、これが正常に作動するならば、悪いサービスが淘汰されるという、市場原理の利点を生かしつつ、営利がなくても資金的な保証がなされ(例えば税控除)、また、サービスも安く提供できる。一方、市場の不利な点は最小に抑えられるというわけである。
 しかし、合衆国では有償が一般的である一方、ウォレルは、無償の方が良いとしている30)。障害者が力をつければ、いつもアドバイザーだけに頼らずに、例えば金銭を扱えなくても銀行に金銭のことを頼めばよくなるというわけだ。アドバイザーがひとたび報酬を得られる職業になってしまうと、それを得た人は、職を手放すまいとするだろう。けれども、障害者が力をつけてきてもアドバイザーだからといって彼らを囲っておくのは良くないし、そもそもアドバイザーは「自分の仕事を徐々に失うように働いている」のである。
 日本では、精神薄弱者対象のガイドヘルパー制度が、最近になり関西の自治体を中心に整備され始めた。例えば大阪市では今のところ、自治体から障害者に介助券が支給され、本人が見付けたガイドヘルパーに渡し、後で券と引き替えに自治体からヘルパー料が支払われる、という仕組みになっているようだ31)。だが、基本的にガイドヘルパーとは、障害者が外出する時の付き添い人である。それはアドバイザー(ファシリテーター)が持つ役割の一部分でしかないし、何よりも当事者が運営に参加していない。
 こうしたことをどのように考えると良いのか、ともかく、ここでは「有償」の問題は十分に論じることができない。そのための資料もない。しかも、これは知的障害者に対するサービスだけの問題でもない。現時点では、幾つかの文献が出ているので、そちらの方を参考にされたい32)。


1) この呼称の違いはどういうことなのか、正確に把握していない。単に名前が違うだけ なのか、それとも仕事の内容が違うのか。カリフォルニアの文献では主に「ファシリテ ーター」が登場するが、キャピトル・ピープルファーストにおいても、Capitol People  First[1984]には「アドバイザー」という言葉が出てくるが、その他の文献には「フ ァシリテーター」の語が使われている。またシャピロによると、ファシリテーターにつ いては「アドヴォケイト達の決定をないがしろにせず、複雑な情報をかみ砕くのを助け る、障害を持たないアドバイザー」となっているが……(Shapiro[1993:187])。
  なお、本文中では原則として「アドバイザー(ファシリテーター)」と表記する。こ れは、まだ適当な日本語訳がなされていないためでもあり、例えば「援助者」と訳す時 に招く誤解を防ぐためでもある。
  少なくともこの国では、アドバイザーとファシリテーターの相違について注意が払わ れている様子はないが、どちらかといえばファシリテーターという語の方が多く使用さ れているようだ。これは、1991、92年とキャピトル・ピープルファーストのメンバーが 来日し、その時に使われていたのが「ファシリテーター」であったことによるものであ ろう。また、この語は日本語として定着しているものではなく、新しい概念を表すもの として、強い印象と共に受け入れられたのではないか。例えば「アドバイザー」であれ ば、これは半ば日本語として受け入れられているものであり、実際の原語の使われ方と 無関係に、日本語で通用している言葉の意味と共に取られることがあるかもしれない。 まあ、このような差異は今のところ余り気にする必要はないと思うが、中には、「アド バイス(=助言する)」と言うとアドバイスをする方が上に立ってしまうような印象を 受けるが、それに比べて「ファシリテート(=便宜を図る)」は「アドバイス」よりも 対等な関係性を表しているのではないか、という考えのもとに、意図的に「ファシリテ ーター」という語を使っている人もいる。確証はないが、キャピトル・ピープルファー ストでもこのような考えで「ファシリテーター」としているのかもしれない。
2) ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会編[1992:66](バーバラ・メイ・ブ  リーズ(→第1章注14)の講演より)。
3) 国際会議旅行団[1994:108,他]。
  また、ピープルファースト国際会議に参加した施設職員が、次のように報告している。 「私が付き添ったOさんが、会場で血圧計を紛失してしまい、事務局を訪ねたときのこ とです。遠来の客ということもあってか、ピープルファースト・カナダのアドバイザー が、ホテル中走り回って、フロントやセキュリティーなど丁寧に調べ、まだ不明とあれ ば、緊急時の対応はどうすれば良いか、事細かにOさんへ説明してくれるのです。その 熱心さには、ただ頭が下がるだけでした。私はその時、まがりなりにもOさんに通訳を していたのですが、ふと気が付くとアドバイザーの言っていることが大変わかり易いの です。……即ち、アドバイザーは、誰が聞いてもわかるように、やさしい言葉で話す訓 練ができているということなのです。……」(国際会議旅行団[1994:104])
  アドバイザーの話す英語が聞き取り易かった、というのは日本から参加した人たちが 共通に感じたことのようだ。
4) 『季刊福祉労働』61号等を参照。
5) Worrell[1988]。
6) 成長や発達であると言っても、この国の特殊教育で言われてきた「発達保障」の考え 方におけるようなものでは必ずしもない。
7) NHK教育テレビ 『あすの福祉』 1993,8,2。
8) Worrell[1988]。
9) Worrell[1988]。
10) ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会[1992:67](バーバラ・メイ・ブリ ーズ(→第1章注14)の講演より)。
11) 国際会議旅行団[1994:44,103 他]。
12) Worrell[1988]。
13)『季刊福祉労働』61号・斉藤氏(JIL事務局)からの聞き取りより。
 しかし、まだ疑問が残る。国際会議に参加した人から、「アドバイザーを完璧に使いこ なす人はあまりいないのではないか」という声が聞かれたように、身体障害者が介助者 に適切な指示を与え、自分の手足として介助者を使うようにはいかないのかもしれない。 それは、ともするとファシリテーターと障害者が、「教える主体」と「教えられる客体」 に分離してしまう危険性をはらんでいるからではないか。私はそういう実感を持った。
14) Everything You Want to Know about Setting Up and Supporting a People First
  Group。
15) Worrell[1988]。
16) Worrell[1988]。
17) Barbara May Blease,Definitions and Unique Phrases等に‘keeper’という語が使
 われている。
18) 第3回全国セルフアドヴォカシー会議中の分科会での発言。
19) 例えば、B.C.(British Columbia)ピープルファーストは、規約の「2.アドバイザー」の項において「(b)アドバイザーは、障害者にサービスを提供している会やエージェンシーに加入しているべきでない」として明記している。 
20) NHKラジオ『ともに生きる』 1994,7,24より
21) 「あることを自分はできて、かつ、それをできない人がいて、自分がその人に代わっ てそれをする、という形式である。この形式は、たとえ個人が介護という意識を消去し ても、介助行為が型として持たざるをえない構造である。……『できる人が、できない 人に何かをする』という配慮の形式は、施設や病院の制度的仕組と同形である。そこに は当事者の間に非対象性が見られる。」(岡原[1990:141-142])
22) Capitol People First,Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護モデ
 ルに関するノート)、Capitol People First,Statement regarding Unmet Needs for
 Assistance inIndependent Living of Persons with Developmental Disabilities:The
 Response of Capitol People First to the Local Needs Assessment and Priorities
 Survey of Developmantal Disabilities Area Board III、Outline of Speech by  
 Barbara Blease,USA
23) Worrell[1988]。
24) NHKラジオ『ともに生きる』 1994,7,24を参考にした。
25) Capitol People First,Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護モデル
 に関するノート)より。
26) 合衆国のピープルファーストでは、財源のかなりの部分で企業や団体の寄付あるいは 助成をあてにしているようだが、詳しいことは不明である。
27) Capitol People First[1984]。
28) 副島[1994a:64]。
29) これは、いわゆるNPOとしての資格を取っていることを意味しない。合衆国のNP Oについては、柏木[1992]等。
30) Worrell[1988]。
31) 視覚障害者を対象としたガイドヘルパー制度は既に多くの自治体で実施されているが、 この1、2年で知的障害者対象のガイドヘルパー制度が整備され始めた。なお、「大阪 市精神薄弱者ガイドヘルパー派遣事業実施要綱」には、障害者の自立と社会参加の促進 がうたわれている。大阪市の事業については、「たびだち地域センター・ゆうゆう」の 機関誌『ゆうゆう通信』等に紹介されている。
32) 例えば、ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会[1994]等。



第4章 「遅れを招く環境」(retarding environment)

 「身体の障害の種類や程度など、全ての条件が同じだとすれば、限りなく普通に近い
 生活を送ることができるのは、伝統的なサービス以外の所からの支援を受けている障
 害者の方だ」−Capitol People First Inc.
 「誰も私の将来に期待している人はいませんでした。だから、私も夢を持つことはあ
 りませんでした。」−Connie Martinez

1 環境が「障害」を作る!
 さて、これまで、ピープルファーストの実際的な面を見てきた。そこで、当事者自身による社会運動の原理や、障害者にとって本当に必要な援助について述べたが、そうしたことによって、「できなかった」ものが「できる」ようになるのだ。しかし、この章では、
まさにその「できない」ということを、彼らがどう考えているのかについて見てみよう。そのためのキーワードとなるのが、「遅れを招く環境(retarding environment)」という言葉である。
 カリフォルニア州サクラメントのキャピトル・ピープルファーストで使われている言葉「遅れを招く環境」とは、知的障害を持つ人々をめぐる状況でよく起こっている事を表した言葉であり、ピープルファーストが最も糾弾するものである1)。この言葉は、キャピトル・ピープルファーストがカリフォルニア州発達障害委員会のために制作したレポート、『サバイヴィング・イン・ザ・システム〜知恵遅れと遅れを招く環境(Surviving in the System: Mental Retardation and Retarding Environment)』2)の表題として、初めて使われた。これについて議長であるトーマス・ホプキンスは、次のように言っている。
  「遅れを招く環境とは、我々に精神的・知的障害があるとしても、州立病院や福祉作  業所、そしていわゆる地域施設といった、障害者ばかりの隔離された場所において教  えられる行動様式こそが、我々を他の人から引き離すものだということである。」3)
 ここで、知的障害を持つ人々の知恵遅れ的な行動が、実は「障害」によるものではなく「学習された」ものであることを、我々は確認しなければならない。彼らの「障害」の多くが、普通とは違う不自然な環境に置かれることによって「作られる」のである。
 この主張は、極端に思われるかもしれない。しかし、この主張に反論できるだけの資料は恐らく他にはない。逆に、私が合衆国で出会った多くの人が、これが正しいことを体現していた。だがそれでも、「事実として遅滞が存在し、自分のことを自分でできない人々がいる。だから養護学校や収容施設が必要だ。」という意見が予想される。取り敢えず、先天的器質的に障害があるために遅滞が生じている人がいることは認めよう。だが、まず、だからその人を養護学校や施設に入れるのが良いのだということにはならない。障害があるためにできないことを補うために、特別なサービスは必要だ。が、だからといって、こういった伝統的(近代的)なサービスが最善のサービスだということにはならないのだ。そして第3章で私は、彼らにとって本当に必要なサービスがないために「社会的不利」が起こっていると述べた。しかし、それは「障害」が所与の物として存在することが前提となっているが、果たして本当に彼らは「できない」のだろうか。「できない」のではなくて「できないままにされている」ことはないのか。「できない」から「養護学校や施設に入っている」ということと共に、あるいはそれ以上に、「養護学校や施設に入っている」から「できない」ということはないのか。そういうことを、この言葉は問題にしているのである。

2 隔離とラベリング
 「遅れを招く環境」には、@養護学校や施設のような隔離された「特殊」な環境と、A障害を持つ人々が「知恵遅れ」として扱われることの二つの側面があると考えられる。
 まず、養護学校や施設は、少なくとも普通の環境ではありえない。大勢の障害者を少数の健常者が世話をすること、しかもこの環境が幼いときから障害者にとって当たり前であることは、通常の社会関係を学ぶ可能性を殺してしまう。ホプキンズが言うには、これは「知恵遅れとして振る舞うにはどうすれば良いかを身につけた障害者しか、手本とする相手がいない」環境である4)。そこに「健常者」がいたとしても、その者との関係が一元的な関係、つまりそれは保護−被保護や管理−被管理の関係であったり、教える−教えられる関係であったりする。
 尾中文哉氏は、E.ゴフマンの論考をもとに、施設の「管理」・「隔離」が生み出す効果について考察している5)。それは、第一に、現実の一元性である。一般社会の住人は誰しも、「家庭生活」「職業生活」「レジャー」「政治活動」など比較的独立した複数の「生活世界」を持っている。それらは、時間的にも(勤務時間、日曜日、アフターファイブ、深夜など)空間的にも(オフィス、寝室、盛り場、学校など)区分されており、その中から一つを選び取り、部分的・限定的に関わることができる。しかし、施設での生活には、ほとんど唯一の現実しかない。
常に、施設に特有の生活パターンに従い、常に同じ入所者たち同じ職員たちとの人間関係しかない。
 第二に、避難所の不在である。一般社会の住人達は、外界の刺激や影響を遮断した避難所をどこかに持っているのが通例である。「避難所」とは、個室のように、自分達だけの世界をつくりあげ、また公的空間から退いて休息する場所である。それに対し、施設には、こうした機能を果たすような空間は用意されていない。入所者は通例、他の入所者とともに暮らし、プライバシーがない。多くの人が同じ部屋に暮らしている施設であれば、彼らのとっての隠れ家は唯一「毛布の中」だけになってしまう。避難所の不在は、障害者の安全を守るため、常に管理が要請されることによるものである。
 第三に、アイデンティティの剥奪である。一般社会では人々は、アイデンティティを獲得し、また維持しようとしている。つまり、他者に対して、自分が何者なのかを呈示してみせる固有の仕方−−身体的特徴、年齢、性格、経歴や肩書き、考え方や価値観や美意識、民族や人種や母語、日常的に担っている役割や結んでいる関係など、私を私以外から区別する、私らしい特徴の一切――を持とうとしている。またそうした努力の手助けとして人々は、装身具を初めとするお気に入りの私物をアイデンティティ管理の道具(アイデンティティキット)を様々に用意している。ところが、施設での生活は、そうした営みに重大な影響を与える。まず「施設への入所」という経験それ自体が、既に社会から隔離された入所者であることを痛感させる。またそれまでアイデンティティキットとして機能してきた「お気に入りの私物」の大半は施設には持ち込めない。次に、「障害者」アイデンティティの否定的な付与である。自己の身体を個性としてありのままに受け入れようとしても、「福祉」という営みの中で「障害者」という否定的烙印(ラベル)付与が繰り返しなされれば、人は次第に「障害者」アイデンティティを受容し、自らの身体を羞恥せざるをえなくなる。
 第四に、服従する生活である。一般社会の住人なら、少なくともその私生活においては、服従の制度は敷かれていない。もちろん、職場や学校においては、上司や教師に服従しなければならないとしても、私的な領域では、ある条件のもとで自由に行動できるのが普通である。それとは反対に、施設入所者では、施設職員との関係において生活のほとんどすみずみまで服従の要素が浸透している。職員とは、「福祉」の論理によれば、人間の基本的欲求についての知識、人間の望ましい状態についての知識を持った人間達であり、入所者達においてそれを実現し、また好ましい方向に導いていく義務を与えられた者達なのである。職員達は、人間愛に満ちたこの目的遂行のために、詳細な規則を制定し、生活のあらゆる場面で入所者をこれに従わせる。また職員は、この目的の為に、入所者に指示や許可を与える権限を持っている。そして、こうした規則や指示には、服従を確保するための報酬と処罰が用意されている。
 隔離された環境での生活はこのように独特なものであり、独特の効果をもたらすのではないか? だから、たとえ彼らに「異常」な行動があったとしても、それは、「正常」な環境で育てられてこなかったことの裏返しだとすれば、どうだろう。そうであるならば、「異常」は、社会が彼らから奪ってきたものなのではないだろうか。
 しかし、単に物理的に隔離されている状況がなくなれば良いというわけでもない。彼らは、「私達は、州立施設の終わりが、悪い意味での、つまり遅れを助長する環境という意味での施設を解体することに即つながるとは思っていません。」と言う6)。さらに、この運動が本質的な問題としているのは、「知恵遅れ」というラベルなのである。彼らは、このラベルが貼られるために、一般の人々が行なっている何でもないようなことをできずにいるのだ。「知恵遅れ」というラベルは、単に「遅れている」という以上の意味を持つ。発達が止まっている、自己決定や自己主張ができない、自分をコントロールできない等といった、否定的なラベルである。
  「発達障害者は自分で自分の事を考える、自己主張するっていうのが出来ないってず  っと見られてきたからね。だから両親とか先生とかカウンセラーとか政府が代わりに  決定を下してきたんだよね。決定をしてそれで『あなたの人生はこうです。もし施設  に住んでるんだったら昼間はこのプログラムに行きなさい。』じゃなかったら例えば  『あなたは毎週日曜日教会に行く』とか『あなたは毎晩9時に寝て毎朝7時に起き   る』っていう感じで言われて自分の部屋に鍵が持てる場合もあるし持てない場合もあ  る。この国に住んでる人の大部分が守らなくてもいい決まりが私達に押しつけられて  いる。」7)
  「例えば、もし、知恵遅れの人が感情面で問題があるから、地域の精神衛生プログラ  ムに行ってカウンセリングを受けたいと思ったとします。ところが、知恵遅れの人は  そんな問題を持つはずがないとカウンセラーが決め付けてカウンセリングを拒否した  場合、それは(訳注:社会や文化全体が)知恵遅れの人達の価値を損ねることを容認  しているということになります。」8)
  「知恵遅れというラベルをはられた人々を子供のように扱うということがありま    す。」  9)
 「知恵遅れ」はラベルである、これは優れて社会学的なアプローチではないだろうか。この運動ではしばしば、「精神遅滞者」ではなく「知恵遅れのラベルを貼られた人」という言い換えが行なわれる。つまり、障害そのもの(impairmentあるいはdisability)やその障害を持っている人間が問題なのではなく、社会が「知恵遅れ」というラベル(しかも悪いラベル、スティグマ)を彼らに付与することが問題なのだ。しかし、社会は、この事実を見えなくしてしまう。例えば知恵遅れが病気であるかのように扱う。さらに、専門家と呼ばれる人が「科学的」な方法によって「病気」を発見し、規定するのだ。
 そして、専門家と呼ばれる人々が彼らの発達を阻む。例えば、就学前に知能を測り、「この子供はこれ以上伸びない」と宣告する。
  「よく訓練された専門家はあらゆる人々の潜在能力を予知できる、という信条はなか  なかなくならない。成長を予言する(障害者の「最大限の可能性」を予言する)能力  を絶対的に信じる心の底にあるのは、成長の限界もまた予言できるということへの絶  対的期待である。」10)
親は専門家が貼ったラベルを信じ、子供は期待を持たれないまま育てられることになる。どんな人間でも、低い期待しか持たれずに、そして低い期待に見合うように育てられるならば、その結果がどうなるかは推して知るべしである。だが、この運動は「医者は神様ではない」と訴えている11)。
  「私達が知恵遅れと呼んでいる人々についての昔ながらの固定観念や神話は間違って  いるというだけではない。彼らにあまり期待せず、将来についても否定的な見通しし  か持たないことは誤りであるというだけにはとどまらない。もはや知恵遅れがあると  された人々に質の低い生活を予想することを正当化できないばかりでなく、質の高い  生活に参加する能力がないとみなしてきたものは、実は我々が彼らと付き合うために  考案したシステムの産物なのだということが今や知られている」12)
  「知的障害を持つ人達は、確かに他の人と比べて発達の速度はゆっくりかも知れませ  んが、今日私達が理解しているのは、『遅滞』とか『後退』は多くの場合、生物学的  要因よりも社会的要因の結果だということです。身体障害のみを持つ人にとっての関  心事とは、介助サービス(personal assistance service)がないこと、利用可能
 (accesible)な交通機関がないこと、不適切で利用不可能な住宅などでしょう。生活  している社会からの適切な援助が受けられないために後退を余儀なくされている人達  (知的障害者)は、友好的で、手助けのある地域社会の中では、前進していくことが  可能なのです。」13)
 彼らは隔離され、知的障害を持つ子供として「教育」され、ゆえに「知能の怠慢(inte-llectual laziness)」、つまり誰も知的能力を使うことを奨めないために、その能力を使わなくてもよくなってしまうようなことが許される14)。だが、これは必ずしも本人に望まれたものではない。「知能の怠慢」は、我々が“彼らのために”作ったシステムによって強いられたものなのである。
 障害者のためのシステムに関わっている人々−−親、施設職員、教師、行政、ヘルパー……−−も、“彼らのため”に働いているに違いないのだ。しかし、それが結果として本人不在という状況を作り上げてしまい、保護の名のもとに本人の成長を阻み、弱くさせることはないのか。例えば、施設その他で働く職員として「良い職員」とは、「障害者の行動を先取りする」職員なのである。(もの言えぬ彼らに代って、)障害者が何をしたいか、また障害者が何か問題を起こすことを予想して、彼らが望むだろうことを行ない、そして問題を未然に防ごうとする。しかし、それによって「彼らのモティーブまで奪ってしまっているのではないか」(聞き取りより)。モティーブ、つまり彼らが自分自身の決定によって主体的に行動しようとする力が、このような福祉的配慮の中で気付かれないうちに奪われているとすれば、どうだろう。
 そこにあるのは、まず「知恵遅れ」のラベルであり、次に過剰な福祉的配慮、またそれと裏腹な当事者の価値の低下(devaluation)である。その結果として、次の図のような循環に陥ることが考えられるだろう。
       「障害」の発見
         ラベリング→過剰な福祉的配慮
               価値低下(devaluation)
           ↑       ↓
           能力障害(disability)
具体(例)的に言うと、通常は「できない」から「養護学校や施設に入っている」のだが、その逆に「養護学校や施設に入っている」から「できない」という循環が生じているということである。最終的に、障害を持つ者は「障害者」になってゆき、そしてシステムは存続し続けることが可能になる。
 キャピトル・ピープルファーストでは、理事会のメンバーのほとんどが知的な障害を持っている。彼らは、あまり障害が重くないように見えるが、ピープルファーストに関わる以前は、今よりももっと「知恵遅れらしく」振る舞っていたそうだ。彼らはもともと「障害」が軽いわけではなかった15)。社会的にハンディキャップを負わされてきたにすぎないのだ。
 トム・ホプキンズは、作業所で4年半の間、コーラの自動販売機の隣に座って木材にやすりをかけて過ごしたが、そうしているうちに自動販売機の振動が好きになってきたという。つまり、彼は自動販売機の振動を好むようにさせられてしまったのだ! これこそ「遅れを招く環境」において教えられる行動様式だというわけである。彼はそれに気付き、そして、ここから抜け出さなければならないと思ったそうだ。1988年ワシントンでの演説で彼は、「遅れを招く環境」において教えられる行動様式を、バッファローの血の臭いになぞらえて、こう語っている。
  「私が思い出すのはあるとき見たテレビ番組のことで、その番組では昔のバッファロ  ー・ハンターについて語っていた。ハンター達はバッファローの血を体中に浴びるの  で、どんなに血を洗い流しても死臭が取れないというのだ! そしてこれこそ私が抱  えているものなのだ。「遅れを助長する環境の臭い」はまるで死臭と同じなのだ!」  16)

3 正しいことは良いこと?
 もう少し、例を挙げて述べよう。
 現在、一般に人は危険や失敗と共に生きている。必ずしも、皆が生命に関わるような危険や失敗に常に直面しているというわけではないが、この世に生きる人ならば誰でも、危険にさらされる可能性や失敗を冒してしまう可能性を常に孕んでいる。また、成長していく段階で沢山の失敗にあっているはずで、こういうことは誰でも知っているであろう。が、それがこと障害者になると、なぜか通用しない。障害者が人間として認められるためには、人一倍「良いこと」をしなければならないのだ。例えば、子供を産み育てる場合にも、彼らは「良い親」にならなければならないのだ。いくつか例を挙げよう。
   スティーヴは娘二人と息子一人の、三人の子供を持っている。彼は『発達障害者』  だと考えられている。スティーヴの妻が彼と別れたとき、彼女は娘達を引き取った。  彼はとても良く息子の世話をした。彼の部屋は非常に清潔で、父親と子供は一緒に色  々なことをする。そこには強い絆がある。一方、妻は娘達の世話ができなかった。ス  ティーヴが良い父親であることを証明しているにもかかわらず、娘は育児施設に入れ  られた。17)
   シャノンは軽度の知的障害者である。彼女には子供がいるが、「児童保護局は子供  を里親に預けることを決定」し、「現在彼女は1日に2時間しか子供に会えない」。  彼女のケースワーカーであるフォークナー氏によると、「彼女には母性本能が無いよ  うに感じたので、子供が危ないと思ったのです。……彼女には無理だと思いました。  赤ん坊にさわったこともなかったから」。シャノンは、子供を産んだことについて、  「両親は反対したけど、私ひとりで育てようと思ったの。」と語っている。
   「子供を取り戻すために、シャノンさんは知能障害者には無理だといわれているこ  と」、つまり「良い親になる勉強」に「挑戦」している。彼女が子供と暮らすことが  できるかどうかは、カリフォルニア州立大学のアレクサンダー・ティムチャク博士に  よる「2日間のテスト」の結果に懸かっている。「彼が納得すれば、裁判所も納得す  る」のだ。かくして、テストが行なわれた。彼女の自宅で2日間子供と暮らし、博士  が彼女の世話の様子や事故が起こった時(ガラスを落としてしまった場合等)の対応  の仕方を採点する。博士は、「積極性、優しさも見る。…子供が泣いたときの対応の  仕方、子供が危ない環境に置かれないかをチェック」する。結局彼女はテストに合格  し、こうして、彼女は子供を取り戻すことができた。18)
「健常者」と言われる人々の中にも、良い親もいれば悪い親もいる。「・・・発達障害を持つ親達は、事実上、専門家の偏見にさらされます。・・・皆が判断を下しています。・・・子供の世話をすることができるのだと、いつまでも証明し続けなければなりません。中にはできない人がいますが、多くは可能です。・・・私達は、良い親と悪い親がいることを信じています。そして、『知恵遅れ』や『発達障害者』というラベルを貼られることは、必ずしも悪い親になることを意味しないと堅く信じています。」19)というように、それは「障害者」の場合でも同様のはずだ。しかし、それに関わらず、「子供のため」に子供を親から引き離すことが許される。自分で子供を育てるためには「良い親」にならなければならず(それがシャノンの例では、専門家や裁判所が“客観的に”判断するものとされている)、スティーブの例のように「良い親」であってもそれが不可能な場合もある。20)
 そもそも、なぜ障害を持つ親が、親としての能力をいちいち問われなければならないのだろうか。これは、考えてみるとおかしいことではある。むしろ問題は、彼女達の能力の方ではなく、彼女達をサポートする方、つまり「その親が子供を育てるためにはどんな援助が必要なのか」21)という問題の方ではないのか。
 また、障害者は「正しいこと」しか教えられない、と保育所聖愛園園長の枝本信一郎氏は指摘している。枝本氏によると、
   例えば食物は、『美味しいから一緒に食べよう』ではなく、『栄養上必要だから食  べるべき』となる。着る物も、周りの人の好みや天候・気候に合わせた服を押しつけ  られ、自分の好みで服を選んで、出先で人々に誉められたりけなされたり経験を持て  ない。急に寒くなって寒さにふるえる経験もさせてもらえない。・・中略・・人々の  言う『正しいこと』だけをするべきとされるから、自分の中に『正しいこと』はない  と信じてきた知的障害者は、ますます自分で考えて決めることが出来なくなる。そも  そも、自分の外に『正しさ』があると思っている限り、自己決定は自己決定にならず、  生活経験の積み重ねも有り得ない。…(中略)…多分、知的障害者の周りの人々は、  たくさんの正しさを与えたら彼は混乱するだけだと思い、何か一つの客観的正しさだ  けを教えようとするのだろう。22)
枝本氏は、それが普通なら、多様な正しさが自分自身の中にあり、その中で悩みながら自ら一つの正しさを選びとるはずが、障害者の場合、「正しさ」は常に外にあり外から与えられるもので、しかもそれが一元化されている、と批判している。知的障害者は、大人になっても、あれやったら駄目、これやったら駄目だと言われ続けられることもある。金銭に関しては、他人がいろいろと判断して、「この人のお金は誰かがあづかっていた方がいいから」親や施設職員があづかる、となる。障害者も、それが善なのだと判断してしまうかもしれない。
 以上に見られるように、危険なことや悪いことを前提とせず、常に一元的な「良いこと」「正しいこと」を求められ、それだけを内面化してしまうような状況に置かれる場合が存在するのである。そして、このような状況こそ、キャピトル・ピープルファーストが批判する「遅れを招く環境」の一つの例なのだと考えられる。
 あるいは、障害者が周囲のこのような状況に対して「諦め」や「気遣い」をしてしまう場合があるようだ。車椅子を使っている人が、鉄道の駅にエレベーターがなかったり、ラッシュアワーの際に電車に乗れなかったりすることに対して、「駅員もたいへんだ」とか「混んでいるのに車椅子の人が乗るのは迷惑だろう」と考えてしまう。収容施設の部屋が大部屋で、しかも子供達の中に交じって暮らさなければならない状況や、就寝や食事の時間などが決まっていて、しかも夜8時に寝なければならないというような状況に対しても、そしてそうした状況は良くないと少し感じていたとしても、「寝る時間が遅いと、夜勤の職員が大変になる」とか「仕方がない」という諦めや気遣いをしてしまったりする。また、彼らが何かを話す時行動する時に、いつも誰かの顔色をうかがいながら話したりふるまったりといったことは少なからずあるし、そばにいる施設職員や私に向かって「次はどうするの?」「みんなはどうするの?」といつも聞いてくる人や、「△△をやっていいか」「▲▲へ行ってもいいか」といちいち聞くような人々に出会ってしまったりするのである。これはどうしたことなのだろうか、非常に気になることではある。これも、ここで述べてきたような過程の結果なのだと言えないだろうか。

4 教育におけるインテグレーション
 最後に、インテグレーション(integration)について触れておいた方がいいだろう。インテグレーション(統合)は、この章で述べた物理的な隔離を解消することである。しかし、この取り組みは、例えば教育に関して、この国ではまだあまり進んでいない。特に知的障害を持つ人々の場合は、精神薄弱養護学校の数が、他の種類の養護学校数に比べて非常に多いことからもインテグレーションが進んでいないことを示している23)。が、ただ統合教育をやれば良いということでもない。
 この国では、統合教育と分離教育の是非について様々な意見がある。学校の教師からも、養護学校(特殊教育)擁護の意見として「普通の学校にいても、結局授業についていけなかったり、いじめられたりするのならば、養護学校で生き生きした生活をさせたほうが良い」という声がたびたび聞かれた。また、「養護学校で展開されているような手厚い教育がいかに必要か」「障害児教育は、その子にあった素晴らしい教育」24)と言われるように、養護学校の方が設備や制度が整っているかもしれない。「障害児の教育さらに充実を」という方向が生まれる。
 こうした意見は現在の日本の状況を考えると正しい。現在の学校は、彼らが学べる状態にはない。
 しかし、この意見は、健常者社会の論理でしかない。では、彼らが学べる状態にないのならば、なぜ障害を持つ子供が普通の学校で学べるようにしないのか。これまで見てきたように、障害を持つ子供にヘルパーを付ける等、制度的にサポートすることは可能なのだ。むしろ、それ以外の部分、つまり「知恵遅れ」というラベルが、彼らと他の人間を引き離してしまっていたのではないだろうか。だから、これから統合教育を進めていくとしても、彼らを「知恵遅れ」として扱うのであれば、意味がない。「遅れを招く環境」の二つの要素、隔離されることと障害者として扱われることが克服されなければならない。
 そして、マイナスへの差別/排除だけが問題になるのではない。「知恵遅れ」として扱うことが、あからさまな排除として現われないこともある。「原学級といっても、その中身がどうなのかってこと。障害児が入学してくると、途端に障害児を中心にしたクラス作りというふうになって、それだけならともかく、親の子育ての苦労話を聴きましょうなんてことになってしまう。つまり、子供を通り越して親になってしまう。で、それで教師は統合教育を達成したと思ってしまうんだよね。」(聞き取りより)この場合、障害児はいじめられたりはしないけれども、それとは正反対の方向へと排除されている。つまり、ここでも“普通の子供”ではなくなってしまうのである。
 教育を受ける権利の一つとして、養護学校も含めて多様な選択肢があって良いと思う。実際、私達は、どのような教育を受けるかについて、ある程度の選択肢を持っている(地理的・経済的な面等での制約はあるけれども)。しかし、養護学校があるから、その方が設備や体制が整っているから、そこへ行った方がその子のためになるから、等という理由で、事実上統合への道が断たれているのではないか。また、分離は「隔離」「差別」だという批判に答えて、確かに今まではあまりにも「普通」ではなかったと反省され養護学校やいわゆる施設の充実・改善が図られるかも知れないが、それは一方で、普通の学校は変わらなくても良くなってしまうというジレンマを生み出すことにもなるするだろう。
 分離されることによって、どのような影響があるか。それは、単なる分離には終わらない。人間の能力(知能)の高低で並べられた序列があるとしよう。本来、この序列は一様に連続したものである。それが、ある地点で恣意的に分けられたとすれば、能力の高い集団と低い集団で二極分化が起こるだろう。それぞれの集団の内部で、能力の差が小さくなる。障害が軽かった者は重くなり、重かった者は軽くなる。一方で、能力の高い集団と低い集団の差は大きくなる。分離されることによって、最も被害を受けるのは、二つの集団の境界線上にいた人々であろう。どちらの集団に分けられるかで、彼らの人生は大きく違ってくるだろう。このような分離の影響は、ある大学付属養護学校の副校長への聞き取りによってその一端が確かめられた。
  「大学だからということで重度の障害を持つ子供が増えていって、知らず知らずのう  ちに軽度の子も、重度の子の影響を受けていってしまう。重度の子に対する先生の態  度が影響したり、重度の障害を持つ子供が先生に甘える様子を見て甘えるようになる」

1) 「遅れを助長する環境」と訳されることもある。また、堀[1994]では、「遅滞環境」 とされている。
2) Capitol People First[1984]。
3) 「国連障害者の10年」最終年イベント実行委員会[1992:20]。
4) 国際会議旅行団[1994:140]。
5) 尾中[1990:106-110]。
6) Capitol People First[1984]、第3章
7) Capitol People First[1984]、定義(当事者へのインタビューの部分)。
8) Capitol People First[1984]、定義。
9) Capitol People First[1984]、第2章。
10) Capitol People First,Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護のた
 めのノート)より。
11) ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会編[1992:55]。
12) Notes for chapter on Facilitation of Persons with Cognitive Disabilities。
13) Notes for chapter on Facilitation of Persons with Cognitive Disabilities。
14) Notes for chapter on Facilitation of Persons with Cognitive Disabilities等に
 「知能の怠慢(intellectual laziness)」という語が使われている。
15) 斎藤[1993:46]。
16) 国際会議旅行団[1994:141]。
17)Dimity[1991:134]。
18) TBS CBSドキュメント 1994,7,17。
19) Dimity[1991:133]。
20) これと反対に、「親は障害を持っているけど、この親子は強い絆で結ばれている」云 々というものがある。これはシャノンの例が放映された時と同じ番組に見られ、また一 般に流布している言説でもあろう。シャノンの例において、「彼女には母性本能が無い ように感じたので、子供が危ないと思ったのです。……彼女には無理だと思いました。 赤ん坊にさわったこともなかったから。」とケースワーカーが語っているが、ここでは 「母性本能」がないから「子供が危な」くなり、「彼女には無理だ」という論理が構成 されている。つまり、母親には「母性本能」や、子供との「強い絆」が要求されるので ある。そしてこれは、障害者だけに起こるものではないはずだ。当たり前というかもし れないが、彼女はこれがないと言われている“だけ”で親としての権利を奪われたのだ。
21) Dimity[1991:135]。
22) 枝本[1994:32]。
23) 文部省「平成4年度特殊教育資料」によると、肢体不自由養護学校 189校、生徒数  12,966人に対して、精神薄弱養護学校 464校、生徒数29,083人である。また小中学校の 特殊学級では、肢体不自由 552学級、 1,299人に対し、精神薄弱14,566学級、50,037人、 情緒障害は 3,731学級、11,116人である。
  また、統合教育論としては、堀[1994]という大作がある。
24) 朝日新聞1994,10,24、朝日新聞1994,10,19 「声」欄。
第5章 運動における「アイデンティティの政治」

1 言葉を変える
 この運動が、特に自分達を指し示す「言葉」について敏感に対応していることは興味深い。「言葉」を変えることがグループの、また運動全体としての、ひとつの目標になっているのである。そして、実際にそれを成し遂げてきている。
 例えば、ピープルファースト・オブ・コネチカットでは、1992年に採択された「決議(resolutions)」の第4に「“精神遅滞局(department of mental retardation)”という名前を変える」ことが目指されている。また、ピープルファースト・オブ・オンタリオでも、“mentally retarded”という「ラベル」を変えようと努力してきており、実際の活動として9年間かかって、オンタリオ精神遅滞者協会(Ontario Association for Mentally Retarded)をオンタリオ地域生活協会(Ontario Association for comunity living)というように、「精神遅滞者(mentally retarded)」から「地域生活(comunity living)」へと名前を変えている。1)
 キャピトル・ピープルファーストが制作した『システムの中で生き延びる−遅れを招く環境』2)では、その最初の方に「この報告書によく出てくる言葉の定義」とひとつの章を設けて、発達障害者とそのサービスにかかわる言葉について問題にしている。一例を挙げると、一般的に発達障害者に関するサービスを受けている発達障害者は「主要な消費者(primary consumer)」と呼ばれているそうだが、この報告書の製作者達(9人中、「健常者」は2人しかいない)の中には、この言葉を使うことを非常に不快に思っている人もいたようだ。なぜなら、彼らが本当の意味で「消費者」であるのならば、サービスを選ぶことができるはずだから。少し引用しよう。
  「……お店に行ってテレビ等の商品を買う消費者という意味で『コンシューマー』と  いう言葉をとらえている発達障害者は、自分自身を『コンシューマー』として見るこ  とができません。この人達の考え方によれば、もし発達障害者がコンシューマーであ  れば、自分達が浴している、必要だと思っている、あるいは有益だと思うようなサー  ビスを選ぶことができるようになります。」3)
 ……といった具合である。このような、言葉に対する敏感な対応は、直接的には、日本語で言う「知恵遅れ」や「精神薄弱」のような、彼らにとって否定的に受け取られる言葉を、自分達が受け入れられるような言葉に変更させることであったりする。しかしなぜこのようなことが重要なこととされるのか、「カテゴリー」と「アイデンティティ」に注目しつつ考えてみよう。
 「カテゴリー」であるとか「語彙の様式」といったものが、私達の思考に少なからず影響を与えている、ということはないだろうか。私達は、その社会の中で認められた語彙の様式に従って、物を認識し、思考し、行動するのだと言っても良いかもしれない。このカテゴリー化の作用は、私達にとって私達を左右する権力として働くけれども、一方で私達は、その作用を通して外界で起こる事象を容易に理解することができるのである。    典型的な西洋音楽を例に採ると、「西洋音楽の語彙の様式」とは、単純化してしまうと、まず倍音に基づいて半音づつに区切られた12音階の音の基本単位であり、そしてかなり厳密に作られている和声についての法則である。こうした様式によって、西洋音楽は西洋音楽として成り立っているのである。人がこの様式−−ピアノという楽器はその最たる物だろう−−に乗っ取って演奏したり作曲したりするならば、彼はその他の多種多様な音楽を表現することや創造することは出来ないだろう。例えば、4分の1音のような、半音階よりも細かい音階が使用される音楽(民族音楽と言われるものには、しばしば12音階では表すことの出来ない音が使われる)を表現できないということになる。4)  
 このように、私達の「アイデンティティ」も、私達の社会の語彙の様式によって決まってくる。なぜなら「私とは何であるか」とは、典型的には言葉によって認識されるからである。少なくとも、「私」というもののある部分が、その社会に流通している「語彙」や「言語」や「意味」や「知識」といったものの編成のされ方によって作られると言えるのではないか。こうしたことを前提としよう。

2 カテゴリーの自己執行
 次のハーヴェイ・サックスの文章は、ある種の論文では既によく引用される一節だが、ここでも挙げておこう。
  たとえば黒人や子どもに対していだかれている自立性の概念は、明らかに非社会学的  である。彼らは、かっこつきの「子ども」や「黒人」として、常に自立しなければな  らない。つまり、支配的な文化によって定義された仕方に従うことによってのみ自立  するのである。良い子になりなさい、子どもじみたことをするな、身ぎれいにしなさ  い、良い仕事につきなさい。あなたにはそれができる。それはあなたの問題だ。自立  性につきまとうこうした表現は、明らかに、大人が押しつけたものである。5)
 この一節が書かれている論文は、障害者に関するものではなく、アメリカの若者の対抗文化についてのものであるが、私がここで問題にしていることと共通する部分があるだろう。大人−若者の対比で書かれているサックスの文章では、だから自立性の表現については「大人が押しつけたものである」となっているが、障害者が「自立する」という場合でも、それは「かっこ」つきの「障害者」として「自立する」ということを意味するだろう。そして、そこでの「自立」は、支配的な文化によって定義された「経済的自立」や「身辺自立」を指すであろう。しかし、障害者の自立生活運動が「自立」という概念を用いる時、それは経済的に「自立」することや、日常生活に関わることは他人の手を借りずに自分でやれるという「身辺自立」だけにおさまらない。そこで「自立」とは、例えば、生活のあらゆる場面で他人の援助を必要としていても、自分の生活を自らコントロールすることなのであり、経済的に自立しているかどうかや身辺自立ができているかどうかは関係ない。
 このように、「自立」という言葉ひとつを取ってみても、その言葉が実際に社会で使用される場合、それは辞書的に何かを単に指し示すだけに終わらず、何らかの社会的な背景や知識を伴ってしまうといえる。つまり、ある集団が「自立」という概念を使用する場合それに伴うのは、例えば、「自分ひとり」で、生活するための費用を「稼ぎ」、誰からの「援助もなく」「ひとりで」移動したり、身の回りのことを処理することができる、といった「知識」であるかもしれない。しかし一方、同じ「自立」という言葉であっても、「自立生活運動」において使用される場合、この言葉の背後にある、「自立」とはこれこれであるという「知識」の体系が、ある種支配的なカテゴリーに付随するそれとは違ってくる、ということである。したがって、そこで問題となるのは、誰(どの集団)が、どのような知識を、この社会(集団)に通用する語彙としてどのようにカテゴリー化し、管理しているか、なのではないか。そして社会運動、特にそれが当事者達を差別/排除する支配的な権力への闘いという要素を持つ場合においては、カテゴリーの自己執行(self-enforcement)ということが重要な問題となると考えられる。
 この運動では、当事者を表す言葉として、しばしば「セルフアドヴォケイト(self-advocate)」が使われる。「セルフアドヴォケイト」は、主に、この運動に関わっている障害者のことを指している。「アドヴォケイト」という呼び方は、障害者運動以外でも、自分や仲間の権利を主張し擁護する者を指すものとしてしばしば使われる言葉である。だが、「セルフアドヴォケイト」は基本的には障害者運動において自分(達)自身の権利を擁護する「主体」としての障害者=当事者というものを表す呼称である。この言葉は、より当事者性を表現し、当事者の側から発するものとしてとらえられている。そして特に、発達障害者によるこの運動、つまりセルフアドヴォカシー・ムーブメントを司る「主体」を表すカテゴリーとして「セルフアドヴォケイト」が用いられているようなのである。これを邦訳すれば「自分で自分の権利を擁護する者」と言えばいいか、しかし取り敢えずそのような言葉の意味は置いておくとして、重要なのは、当人達を指し示す呼び名をその当人達が「管理している」ということである。
 ピープルファースト国際会議に参加したある当事者(S氏とする)が、その時の道中で興味ある論を語っている。S氏の論理は、「健常者は弱いから、我分を強く見せなければ、生きていけない。だから、我々に知的障害というレッテルを貼って、自分の方が強いんだぞと言っていないと不安なんだと思う」というものである6)。私は、これを聞いて次のようなことを考えた。
 まず、「健常者」という認識は、「障害者」というカテゴリーがあることによって初めて理解されるものではないか、ということ。S氏の論に従うと、彼らに「知的障害者」というラベルを貼ることによって、ラベルを貼った者は「健常者」としてのアイデンティティを持つことができ、その結果「強く」なれるのだ。
 次に、「健常者」と「障害者」の区別の絶対的な基準はない、ということ。S氏自身は障害を持っているといわれるけれども、知的障害としては「軽度」であり、「知的障害の境界線上にいる」ということのようだ。しかし、だからこそ、いわれのないラベリングについて冷静に分析することができたのではないだろうか。
 ここで私達は、「遅れを招く環境」の章で見たラベリングについて再び確認することができるだろう。ラベリング理論は、何が逸脱(犯罪)で何が逸脱(犯罪)ではないかを判断する基準を、人間の行為の本質的な差異に求めない。つまり、「逸脱行動」と「逸脱行動でないもの」を区別する絶対的・客観的な基準というものはおそらく存在せず、社会の中でカテゴリー化を行使できる人々がある行為を「逸脱」だと言うからそれは「逸脱行動」になる、としか「逸脱」を定義することができないのだ。それと同様のことが、「障害者」と「障害者でないもの」との間についても言えるだろう。私達が北米で出会った人々には、おそらく現在のこの国の一般的な人々が持っている、「(知的)障害者とはこれこれである」という知識が通用しない。しかし彼らは現に「障害」を持っているのだ。ヴァージニアで会議に参加していた「障害者」達を私は障害者らしくないと感じたのだが、それは、あらかじめ私の中にある「障害者とは何かという知識」に彼らが当てはまらないから、障害者らしくないと感じてしまったのである。

3 「できる」「できない」 −「能力」の解体
 そして、「できる」とか「できない」とかいう「能力」についても、同様に言うことができるだろう。
 「能力主義」や「業績原理」というものがある。人々を個人の「能力」や「業績」「達成」によって計り序列化する発想であるが、こういう問題は、この論文のように障害を持つ人々に関わる問題を考える時に重要なことだと思う。「何が差別なのか」という問いに対して、「能力主義」や「業績原理」はどのようにたち現われるのかという問題がある。例えば雇用についての差別の告発が行なわれる場合、その告発に対して、「それは差別ではなく、能力に基づいた正当な処分だ」というようなことが言われたりする。特に障害者が雇用される時、学校に入る時、こういうことが問題になる。ここでは、彼らは能力によって、“正当に”排除される。だからこれがいけない、「能力主義」や「業績原理」が問題なのだ、という意見もあるだろう。こうした意見は、確かに理解できる感覚ではある。しかし、これは簡単に否定できるのか。社会学において、近代社会を捉える一つのタームとして、取り敢えず前近代社会の「身分」「属性原理」から「能力」「業績原理」への移行が言われているが、少なくとも「能力」「業績」の方が平等なのではないのか。「属性」で待遇が最初から決められてしまうよりは、「業績」によって判断される方が良いことだという感覚もあるのではないか。
 実際この運動も、「能力主義」「業績原理」を否定してはいない。むしろ肯定していると言った方がいいかもしれない。「我々には力がある」「我々に能力があることを人々に示そう」「あなたの可能性を信じなさい」「できないことは何もない」等という主張がしばしばなされる。これはしかしどういうことか。彼らは、その能力ゆえに排除されているのではないのか。けれども彼らは「能力主義」を否定する方向へ向かわずに、このように「能力主義」を肯定するのは何故なのだろうか。
 以下は私の仮説、思いつきではあるが、この疑問に対して次のように説明できるのではないだろうか。
 これを、「能力」をめぐるカテゴリー化のせめぎあいであると考えよう。
 まず、彼らが「能力(主義)」を肯定する場合、それは「能力主義」を逆手に取るということである。実際、彼らは「できる」のだ。一見すると、いや、二見三見しても知的障害者だと見分けのつかない人が合衆国にはいる(もちろん、合衆国だけではなく、カナダにもいるし、ヨーロッパやアジアにもいるかもしれない)。一人暮らしをしている人もいる。何千人もの観衆を前にすばらしい演説をする人もいる。自分の運転免許証を持っている人もいる。一人で飛行機に乗って旅行できる人もいるのである。こうしたことができない人も確かにいるのはいる。しかし、かなり多くの者は「できる」。それは、必ずしも一般的な意味で「できる」のではないかもしれない。合衆国には「ジョブ・コーチ」という制度があるが、その役割のひとつは、普通健常者が一人でできるような一連のひとつの仕事、例えば「配達する」という仕事があるとすれば、「自動車を運転する」「荷物を車に載せる」「荷物を車から降ろす」「荷物の重さを計る」「伝票を貼る」・・・というようにジョブ・コーチがその仕事を分業化し、できる人ができることをする、というものである。そうでなくても他人に気遣ったり、人を楽しませるといったような「能力」も、「能力」には違いない。つまり、本当は「できる」のに何故我々を不当に扱うのだという論法なのである。
 一方、これまで見てきたように、「遅れを招く環境」によって障害が重くさせられるのだと言ったり、本当に必要な社会資源(サービス)がないあるいは使えないために施設で暮らさなければならないと批判したりして、自分達の不可能な部分を個人の故障として扱うのではなく、社会や環境のせいにする。彼らは、自分の「障害」に没頭せず、どこかにそれを転嫁してしまうのである。「能力」をその個人のものとして問わないということである。
 つまりこの運動は、「能力」というカテゴリーの解体を指向しているのである。支配的な文化において「できない」と言われていることに対しては「できる」と言い、反対に「できる」と言われれば「できない」と言うのだ。「障害者は能力が低いのでそれに見合った待遇を受ければ良い」という考え方に対して、「我々はできる」と主張するが、同時に、「一人で何でもできるのが自立であり普通の人間である」という考えに対して「できなくても良い」、「できないところは援助を受ければ良いのだ」とする。このように二つの意味で、彼らは社会批判をしているのだと考えられる。
 そもそも知的機能の障害というものは、必ず、他者によって発見され認知される。このような場合、「障害」は、他者を媒介にして初めて当人にとっても知覚されるのである。 ということは、恐らく当事者にとって何かが「できない」という時、それは、他者達と比べて「できない」ということであり、しかも、何故か分からないけれども「できない」という感覚があるのではないだろうか。身体障害等であればその障害(不可能性)を自分ではないものとして客体化することによってふっ切る、または不可能性を直視することも可能かもしれない。だが、精神的な障害を持つ人々にとってのそれは客体化しようとしてもしきれない「自分自身」として現れるであろう。したがって、当事者にとっての不可能性まで含めたものをその人の個性として、とりあえずは認める(肯定する)しかないはずであるのだが、彼らは、「彼らではない者達」によって「精神遅滞者」という否定的なカテゴリーに一元化されてしまう。
 第一、「できる」「できない」には絶対的な基準や尺度があるわけではなく、それはどこかで恣意的に能力の高低を計る基準が設定されなければならないのだ。一般に「できる」とか「できない」とは、「彼らではない者達」の文化によって定義され認められた方法で「できる」とされたり「できない」とされるのである。そして、要するに「自分の限界というのは自分で決めるもので、他の人が自分のために限界を押しつけるものではない」ということであろう7)。

4 「障害者」カテゴリーと付き合う
 黒人達による公民権運動(civil rights movement)や身体障害者を中心とする自立生活運動においても、カテゴリーの自己執行が見受けられる。カリフォルニアで最初に自立生活運動を始めた障害者の一人であるエド・ロバーツは、次のように説明している。8)
  「(公民権運動以来の市民運動では)必ず言葉が変わっていきます。……市民運動を  通して、それぞれのグループに特有の言葉が変わっていきましたが、例えば黒人の運  動では“ニガー”という言葉があります。これは黒人を指して言う言葉でしたが、そ  れを他の人々には使わせないようにしました。しかし、他の人々(白人等)はこの言  葉を使わないようになりましたが、その言葉自体は今でも残っていて、黒人同士で愛  情を持って話をしたりする時の愛称として使われています。でも、絶対に他の人には  使わせません。私はそれからヒントを得て、障害のある友人らのことを、“clippled  (かたわ)”という(否定的な)言葉を縮めた“clips”という言葉で呼ぶようにし  ました。“clips”という言葉を肯定的に使うようにして、今では愛称としてお互い  を呼び合っています。」
 これはまさに、運動における一つの戦術としての、カテゴリーの自己執行の良い例である。ここでは、「ニガー」や「clippled(clips)」といった、当事者でない者達によって使用されてきた否定的なカテゴリーを、積極的に当事者の間に取り入れて使用しているのである。当事者自身によって、当事者の間でそうした言葉が使用される時、それは他の者によって押しつけられた否定的な言葉ではなく、逆に仲間であるということを当事者の間で確認し合うことができるような非常に肯定的な言葉へと変更されるのである。だから、当事者を定義するその言葉を使用する権利は当事者達にしか与えられず、その他の人々が同じ言葉を使って彼らを定義することは許されないのである。
 また、こうしたことは女性による解放運動についても言うことができるようだ。「『女性解放の理論』と『障害者解放の理論』とはいたるところで思いがけなく出会う」9)とは言うが、江原由美子氏は次のように、フェミニズムが自己決定権を問題にしたということを言っている。
   女性が自分の経験に即して、他者だけでなく自己に対しても責任を持ちつつ判断で  きるためには、自分の経験を表現できる語彙が必要なのである。だからこそ第二波フ  ェミニズムの出発点において、フリーダンやミレットは、自己決定権というよりむし  ろ、自己定義権を問題にしたのである。無論、自己定義権とは法的権利ではない。そ  れは社会的に共有された経験を表現する語彙と、他者の表現を尊重する人々の相互行  為形式において確保される社会成員としての権利である。女性の「植民地化」とは、  このような自己定義権が奪われていることを意味するのである。10)
 この運動も、自己決定権を問題にしつつ、しかしそれと同様に、あるいはそれ以上に、自己定義権を問題にしているのではないかと考えられるだろう。
 この運動は「我々は障害者というより先に人間である」と主張し、それが組織の、そして運動の名称になっていたりするが、つまり「障害者」や「知恵遅れ」という、既にそれ自体ある特定の文化によって定義づけられたカテゴリーを押しつけられるということに抗し、自分達を指し示すカテゴリーを自分達自身によって管理していこうという側面を持っているのである。
 最後に、ひとつ紹介しておこう。S氏は、ピープルファースト国際会議から帰国した後、会議に参加したこと等について話すよう、研究会等様々な場所に呼ばれることが数回あったそうだ。もちろん、S氏に「講演」を依頼する側は幾らかの報酬(S氏が会社で働いて得る金額に比べると、少なくはない額である)を彼に支払うのだが、それ以来、逆にS氏は自分が「知的障害者」であることを言い始めたようなのである。つまり(これは皮肉ではあるが)、「知的障害者」であると言った方が、お金を貰えるのである。彼を知る人は、そのことについて苦笑しつつも、「自分の障害との向き合い方として、哲学的なことをいろいろと考えてというような方法もあるけれども、でも、それよりもむしろ信用できる!」と語っていたが、私もそれを聞いて感心してしまった。「障害者」と言う語彙それ自体は支配的な文化によって定義づけられたカテゴリーであるのだが、S氏がそれを使う時、そのような支配的なカテゴリー化の作用は一旦相対化され、軽く越えられてしまっていると言えるのではないか。……自分の障害と向き合う時、ともすると、自分の「障害」をことさら悲観的・否定的に考えてしまうということがあるかもしれないが、しかし既にそのことは支配的な文化にとらわれてはいないだろうか。つまり、本来ならばその「障害」を個人の否定性として「障害」たらしめている支配的な文化と向き合わなければならないのに、その方向には向かわず、自分の「障害」とだけ向き合ってしまうし、また向き合わされてしまうのである。だが、そうしたことを越えたところにある別の選択として、S氏の行き方は「障害」との向き合い方のひとつの形を示しているとも考えられるだろう。確かに、これはごく稀な場合であり、実際のところ彼がどのように考えているかも掴めていないが、それでも、ひとつのエピソードとして非常に面白いと思う。


1) We are PEOPLE FIRST OF ONTARIO 12Years Old...And Still Growing:3-4。
2) Capitol People First[1984]。
3) Capitol People First[1984]。
4) また、私達は英語を日本語に翻訳しようとしたりする時に、このような語彙のでき方 を実感するものである。英語では適確にある事象を表すことのできる言葉があり、一方 日本語にはそれを表せるだけの良い言葉がない場合に、私達はどうにか適切な訳はない かと苦心する。
5) Sacks[1979=1987:28]。
6) 安里[1993:82]。
7) エド・ロバーツへの聞き取りより(→注8)
8) Ed Roberts。4才の時ポリオにかかり四肢マヒ、鉄の肺を使用。1960年代にカリフォ ルニア州バークレーで世界で最初に自立生活運動を始め、以来バークレーCIL所長、 カリフォルニア州リハビリテーション局長官を経て、現在、国際障害者研究所(World  Institute on Disability=WID)所長。本文に掲載したものは、1994年11月に日本の弁 護士を中心とした人々がWIDを訪ねた時のインタヴュー記録による。彼は、その他に も言葉に関しては非常に神経を使っているようである。
  「私はアドヴォカシーです。二義的には政治家です。三番目に少し障害があります。  人からラベルを付けられるとすれば、『父親』というのは認めます。」
  「people with disability(障害を持つ人)という言葉について言わせてください。  これは、『人(people)』が先に来て、『障害(disability)』がそれにくっついて  います。このように考えることはとても大切なことです。」
  「ハンディキャップ(handicap)という言葉は、手にカップを持って物乞いをするこ  とから来ているので私は嫌いです。」
  ……このように、彼は語っている。そもそもアメリカの文化として、言葉というもの に日本人よりも重要な意味を持たせるということがあるのではないかと思う。日本人に してみれば、枝葉末節と思えるほど彼らは言葉とその定義付けに関して注意を払う。こ のような発想の違いに関しては、後の機会に考察したほうが良いかもしれないが、ここ では、次の言葉を紹介するにとどめよう。
  「アメリカの社会がどのような仕組で動いているかということについての基本的な理  解なのですが、他の国と違って、アメリカはいろいろな文化や習慣を持った人々、元  の言語も違う人々が一つの所に集まってきているのですから、規則というのは、もし  作られれば、非常に明確にされ、『お互いこうだろう』という前提というものがある  けれど、それを言葉として書き表さなければなりません。言葉として書き表されたも  のは、言葉通りに理解されるものとします。そうでなければ、収拾がつかなくなって  しまいます。あまりにも違う解釈をしがちな人々が集まっているのですから。これが、  アメリカの社会の、何をやるにしても基本的なやり方です。」(WID訪問同日、ト  ッド・グローブス(Todd Grobes)の発言より)
9) 石川[1992:137]。
10) 江原[1993:198-199]。 



終章

1 「障害」をどこに位置付けるか−結論にかえて
 本稿、特に第4章で提起された問題は、知的障害者だけに当てはまらない。他の障害者も、身体が不自由であるために閉ざされた環境におかれ、社会化されなかったりすることがあるからだ。いや、それだけではない。先天的に知能に関する障害がない「健常児」でも、その子供を取り巻く環境次第で、結果的に「障害」を持ってしまうケースがある1)。
 古くは、「アヴェロンの野性児」として知られる例がある。1800年1月9日に、南フランスのサン=セルナン村近くの森から、奇妙な生き物が出てきた。直立歩行しているにもかかわらず、それは人間よりも動物に見えた。それはすぐに11〜12才の少年とわかったが、彼は鋭く奇妙な叫び声だけを発した。明らかに身の回りの衛生観念はなく、したい時にしたい場所で排尿や排便をした。それから孤児院に入れられたが、絶えず逃げ出そうとしたり、服を着るのを嫌がったりした。彼は徹底的な医学検査を受けたが、たいした異常は何もなかった。……その後、この少年はパリに移され、「野獣から人間へ」変えるための努力がなされた。その努力は、用便のしつけが身につき、一人で服を着られるようになったというように、部分的には成功したが、言語の修得はほとんどできなかった。しかし、少年のこうした行動や反応は、彼の知能が遅れていたからではなかったのだ。
 また近年では、ジーニーという1才半位から13才過ぎまで一室に閉じ込められていたカリフォルニアの少女の例がある。……父親は、ジーニーが生後20ヵ月の時に、知恵遅れと決めつけて、ジーニーを、カーテンも扉も締め切って外部との接触を断った部屋に放り込んだのである。彼女は、その後11年間その部屋の中で過ごし、食べ物を与えに誰かが入ってきた時のみ他の家族の者に会うだけであった。彼女はトイレの訓練がなされていなかったため、裸のまま幼児用の便器にくくり付けられたまま過ごすことが多かった。たまに夜間は便器を取り外されたが、それは監禁のために両腕を縛る寝袋にに押し込めるためでしかなかった。このように拘束された上に、さらにまたジーニーは、側面が金網で、頭上も網で覆われた小児用ベッドに閉じ込められたのである。ともかくこうした状況の中で、ジーニーは何時間も、何日も、何年も、自分の人生を耐えたのである。……1970年に、ジーニーの母親は、彼女を連れて家から逃げ出した。ジーニーは、ソーシャルワーカーによって小児病院のリハビリテーション棟に収容された。最初病院に入院した時、彼女は直立できず、走ることも飛びはねることもよじ登ることもできなかった。ただ、足を引き摺り、ぎこちない格好で歩くことができるだけであった。精神科医は、彼女を「社会化されておらず、未発達で、人間らしいところはほとんどない」とした。彼女はリハビリテーションに入ると、急速な発達を遂げて行ったが、それでも笑い声は甲高く不自然であり、笑う時以外はほとんど黙っていた。しばしば、しかも人前でも自いを行ない、その習慣をやめさせようとしても聞き入れなかった。そして、3才児ないし4才児の言語修得段階以上には決して進歩しなかったのである。……ジーニーの行動は徹底的に研究され、様々な検査を受けたが、その結果、彼女は精神薄弱ではないし、他の先天的異常も全くなかったことが証明された。
 これらの例はごく稀なケースであり、極端かもしれない。しかしこれらのように、先天的な障害がなくても、ある一定の言語修得年齢までに言語を覚えなければ、結果として「言語障害」になるし、環境次第で人間社会への適応能力が大きく制限されたりすることがわかる。
 このような事例を、「障害階層構造論」をもとに考えることができる。「障害階層構造論」の最も代表的なものは、世界保健機構(WHO)が1980年に発表した「国際障害分類試案」に見られる障害の分類の枠組である。これは、「障害」と一般に言われているものを、インペアメント(impairment)、ディスアビリティ(disability)、ハンディキャップ(handicap)の三つの階層に分けて考えるものである。ここでインペアメントとは、「心理的、生理的または解剖的な構造または機能の何らかの喪失または異常」、ディスアビリティは、「人間にとって正常と考えられるやり方または範囲において行なう能力の何らかの制限または欠如」である。そしてハンディキャップとは、「インペアメントあるいはディスアビリティの結果としてその個人に生じた不利益であって、その個人にとって正常な役割を果たすことを制限あるいは妨げるもの」である。これらはそれぞれ、機能障害・能力障害・社会的不利と訳される。この「障害階層構造論」の功績は、ちょうどフェミニズムにおいて、性がセックスとジェンダーに分離されたように、「障害」をハンディキャップという社会的側面で捉えたことである。WHOのこの定義については、全く問題がないとは言えないが、このように「障害」を幾つかの階層に分けるという見方を提示したことは、私達が障害者問題を捉える時に非常に有効である。
 この枠組に従うと、アヴェロンの野性児やジーニーは、もともとインペアメントがなくてもディスアビリティが生じることを証明している。しかし、「知的障害」の場合、その機能的な障害(impairment)と、能力の限界(disability)や社会的不利(handicap)がしばしば混同されて扱われてきた。「障害」が顕在化しているような身体障害者の場合は、当人によっても、あるいは他者によっても、とりあえずこの間の区別を見分けることができる2)。だが、「知能」はそれに比べると特殊なものである。まず、知能は見えない。そして知能は属性ではなく、社会的な関係によって与えられ、作り出される。極端な例を挙げると、地球上のものについて全く知識のない宇宙人は、我々から見ると障害者のような存在であろう。その宇宙人が、自文化にいるときには全く障害を持っていなかったとしても、だ。あまりにも多くの人達が、このことに気付いていなかったために、彼らは何年もの間苦しまなければならなかったのではないだろうか。
 そもそも、この社会の障害者を取り巻く状況は、「障害」とは個人のみに帰属するものであり、かつ「障害」をその個人の故障や否定性とする、という発想を根底的に持っているのではないだろうか。しかし実際には、これまで見てきたように、「障害」は個人のみに帰せられるようなものでは決してなく、「障害」を「所有」する当の個人だけがその否定性を受入れ、その個人だけの責任において処分しなければならないというものでもない。したがって、知能は属性でもないが、達成でもない。しかし、この社会は、「知能」であるとか「(否定性としての)障害」を一方で「属性」へと、そうでなければ「達成」へと、振るい分けする。
 具体的には、優性学やそれを“科学的”に裏付ける統計学、心理学、知能テストといったものが、各々の人間を決定論的に位置付け、内面(内部)を測定することを可能にし、内面(内部)が遺伝するということを統計的・科学的に証明したのである。それらはとりもなおさず、人間には他者によって正確に把握されることのできるような確固とした内面(内部)というものがあり、それが各個人に同定されているものとして理解するための道具であった。そうした内面(内部)の一つの形式が「知能」であり、それが人々の間で相対的に設定された物差しの中のある地点から下に位置した場合は「障害」だとされ、知能指数は個々人を識別するための「属性」として付与された。そして、「属性」を付与された者は、その「属性」が表示する「役割」を担わされ、「役割」に従うことになる。もしそれに従わなければ、彼はその「役割」から「逸脱」しているとみなされ、時に制裁を受けるかもしれない。
 他方で、近代は「達成」を新しい社会の原理の一つとして打ち立てた。自分のふるまい、社会的地位、能力、人生、運命、果ては生死までも、そういったものは王に代表されるような権力(者)によって決定されるのではなく、各々が自分自身で決定していくものとなった。そしてそれらは自分自身の「達成」によって獲得されるものなのであり、「達成」により獲得されたものは自分自身の責任によって処分しなければならないのだ。ある意味で、個々人の能力や状況や人生は、個々人の「努力の結果」になったのである。だから、頭が悪いのは、頭が悪い人に責任がある、それは勉強しなかったから、努力しなかったから、頭が悪いのだ、となる。伝統的にリハビリテーションと呼ばれてきたことの中には、こうした思想が含まれている。つまり、「日常生活動作(Activities of Daily Living=ADL)」という客観的な基準があり、「問題のある人々」の問題は当の「問題のある人々」のものなのだとして、ある基準に近付けさせるように「努力」させるということを、リハビリテーションは行なう。
 しかし、「属性」であれ「達成」であれ、その結果を受け入れなければならないのは、唯一、その結果を招いた、あるいはそれを「所有」するとされる、「その人」である。いつも問題になるのは、他の誰でもない「問題のあるその人」なのである。
 トム・ホプキンズは次のように言う。
  「我々の成長と発達を助け、自分の問題は自分で解決する技術を学ぶことを援助すべ  き専門家達が、そうする代りに、我々自身が問題であるかのように我々を管理しよう  とする。」3)
 ここで私は、何が問題なのかということをあえて言うならば、このような、人間の内面(内部)の個人化こそが問題なのだ、とでもしておく。上手く表現できないが、結局、問題はこの辺りに帰結するであろう。
 このように見るならば、「障害の自己認知」とは、内面(内部)の個人化を強力に求めるものだと言える。自分は「障害者」なのだ、自分の「障害」はこれこれこういうものであって、だからこれができない、あれができない、と認識することをこの「障害の自己認知」は個々人に迫る。こうした自己認知の必要性を説く人々は、その人にとって必要な援助を得るためには、その人が自分のできないことを知っておかなければならないと主張する。しかし同時に、それは個人の中に「障害」(これは個人の否定性として受けとめられる)を内面化させることになるのではないだろうか。それは結局、「障害」を受け入れなければならないのは「問題のあるその人」なのだというように、支配的な文化によって押しつけられていることになるのである。
 よって、何がこの運動の「主体(当事者)」かと考えると、それは、「知的障害者」という確固たる自己認識に基づくものではなく、「知的障害者と呼ばれる」経験が取り結ぶ連帯であろう。そうであるならば、運動の主体(当事者)は、自分のことを「知的障害者」だと認識していなくても、「知的障害者と呼ばれる経験」という事実(認識)さえあればいいことになる。第一、「知的障害」というのは健常者にとっても捉えにくいものであり、まして自分を「知的障害者」だと認知することは、おそらく困難を要するであろう。彼らに、「障害者ってどんな人のこと?」と問うと、ほとんど最初に上ってくる答えは「車椅子を使っている人」であったり、その次に「目の見えない人」や「耳の聞こえない人」であったりするのであるから。
 結論的に述べよう。
 私達が本稿で見てきた彼ら自身による運動は、まず、インペアメント・ディスアビリティ・ハンディキャップをそれぞれ明確にする。しかし、それらを明確にする作業の過程で、支配的な文化において定義されているそれを否定し、彼ら自身による定義の仕方でそれらを明確にするのである。いうなれば、“ねじれている”のだ。WHOは、ハンディキャップの原因を「インペアメントあるいはディスアビリティの結果」に求めているが、この運動において、それはねじれている。彼らは、インペアメントそれ自体を、あるいはディスアビリティそれ自体を解体するのである。−−つまりこういうことだ。「遅れを招く環境」が問題とするのは、「果たしてその『障害(ディスアビリティ)』はどこまでその人の『障害(インペアメント)』によるものなのだろうか」ということである。また、アドバイザー(ファシリテーター)に代表される独特な援助その他によって、障害(インペアメント)を持つ人は障害(ディスアビリティ)を持つ人ではなくなるのだ。加えて、「セルフアドヴォカシー」とは、こうした彼らの作業を根底から支え、その作業を社会的・政治的な運動へと広げていく理念=スローガンとなる。
 そして、何をもって「障害」とするのか、誰がそれを決めるのか、が問題なのだ。そもそも、「障害」という実質は存在しないのかもしれない。あるとすれば、それは言説の中にある。彼らの身体は、二つに分裂する。一つは、実身体あるいは「表象されるもの(所記)」としての身体。そしてもう一つは、言説の中にあり、言説によって語られる、「記号化された身体」とでも呼ぶべき身体である。「障害」は、後者において語られる。しかし、あたかもそうではなかったかのように、二つの身体は接合されるよう仕向けられる。これはちょうど、「障害」というものがインペアメントから始まるように見えてしまうことと同様である。しかし、そうではない。「障害」のあるべき場所は、ハンディキャップの方なのである。
 以上が、本稿で述べてきたこと、述べようとしたことの大まかな図式である。


2 日本にて
 さて、この論考もひとまず終わりに近づいた。しめくくりとして、急いで、日本における最近の試みについて、直接/間接に私の知ることのできた範囲でまとめておこう。
 育成会(手をつなぐ親の会)では、すでに1980年、岡山県や広島県の大会で本人達の声を取入れ始めており、同じ頃、神奈川県小田原市の親の会では、本人会員が実現していた。しかし、この試みが盛り上がってくるのは、1990年頃からである。まず最初に目立った動きを見せたのは、育成会であった。
 1989年、金沢での全日本精神薄弱者育成会全国大会で、初めて本人の意見発表が行なわれた。また、日本精神薄弱者愛護協会の通勤寮部会でも、当事者による意見発表が取り入れられた4)。また、1990年のパリ国際精神遅滞者連盟世界大会(International League of Societies for Persons with Mental Handicap=ILSMH)に5名の当事者が参加している。
 1991年の育成会全国大会の本人部会から、本格的に当事者の企画・運営への参入が試みられた。そして、この時の本人部会に参加した当事者によって、「さくら会」が結成された。また、彼らは本人部会の発表原稿をもとに、本を作っている。5)同年、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)でも、初めて「知恵遅れの仲間」分科会が持たれた。この部会をきっかけとして、関西の「たびだち作業所」「西淡路希望の家」「クリエイティブハウス・パンジー」等の福祉作業所に通う人達らが、翌年9月に「なかま会」を結成している。さくら会やなかま会のような当事者グループとしては、他に北海道伊達市の「わかば会」、札幌の「みんなの会」、徳島県松茂町の若竹通勤寮を拠点とする「ともの会」といったグループが誕生し、活動し始めている6)。
 1992年8月、ダスキンの海外研修として、8名の知的障害者がスウェーデンに行き、北欧での実践を見てきている。これに、河東田博氏も付き添っている7)。
 そしてこの間、第1章で述べたように、1991、92年と、キャピトル・ピープルファーストのメンバーとファシリテーターが来日し、東京、大阪、奈良等を講演して回っている。
 1993年6月には、カナダで開催された第3回ピープルファースト世界会議に、当事者約20名を含む、総勢80名が日本から参加した。その年末の『季刊福祉労働』61号に、数名の当事者が、この会議で発表したことを報告している。そしてこの旅行に参加した人々の多くが、各地の研究会に招待される等して、ピープルファーストのことを語っている。8)
 この年、東京都の育成会が、CILのカウンセラーを講師としてピア・カウンセリングの講習会を数度持った9)。この試みは独自に続けられている。
 1994年5月、東京都北区にある障害者スポーツセンターにて、「さくら会」「なかま会」「わかば会」「みんなの会」他の人々が集い、本人達による企画・運営のもとに交流会がもよおされた。このような全国的規模の交流会は、おそらくこれが初めてであると言われている。10)
 4月には、神奈川県精神薄弱者愛護協会は、その名称を神奈川県知的障害者施設協会に変え、6月、東京都の育成会に本人部会ができた。        
 10月27〜29日、大阪で全国知的障害者交流会が開かれ、大阪の人々を中心に、東京、広島、静岡、兵庫等からの参加者も含め、百人規模の参加があった。11月の育成会全国大会では、これまでなかった、全体会での本人決議が持たれ、その決議はそこで可決された。この時の本人部会等は、地元徳島の「ともの会」が中心になって行なわれた11)。なお、同月、NHK厚生文化事業団により、9日間のスウェーデン本人研修旅行が行なわれている。
 自立生活センターの中では、ヒューマンケア協会が、積極的に知的障害者に対応しようとしている。ヒューマンケア協会は、93年度に「知的障害者のためのコミュニティ・サポート・プログラムの研究」として、河東田氏や武蔵野障害者総合センターの柴田洋弥氏、民間通勤寮の高橋寮の人々らを講師に、数回の学習会を取り持っている12)。94年には、ヒューマンケア協会の境屋うらら氏が中心となって、「知的な障害を持つ人をより良くサポートするための勉強会」を開いた。
 大阪のノーマライゼーション研究会も、93、94年度と、合同研究において「知的障害者の自立とファシリテーター」と題した研究集会を、これまで3回開いている。
 また、たびだち地域センター・ゆうゆうが、障害者の余暇活動を促進することを目的として、1992年よりガイドヘルパー派遣・コーディネート事業を行なっており、ヘルパーの養成に努めている13)。93年には、大阪市でガイドヘルパー制度が制定された。
 94年から95年にかけて、さくら会が作ったように、当事者の声を本にするための「つくる会」が計3回、各地を点々としながら開かれている。ここでの発言は、まとめられて近々出版されることになっているが、それはおそらく、「ピープルファースト日本・準備会」の名で公表されることになるだろう。また、静岡でも、ピープルファーストを作ろうという動きがある。
 そして、95年度から、以前からのキャピトル・ピープルファースト他との交流をもとに、日米間での知的障害者の提携が始まろうとしている。そして千葉県の愛護協会で、当事者主体を掲げ、本人達が集えることのできるようなサロンを作り、試験的に新しい試みを始めると聞いている。
 こうした中で、障害当事者も変わってきている。たしかに、その歩みはゆっくりかもしれない。けれども、確実に変化は起こり始めている。例えば、国際会議に参加したある施設職員は次のように語った。
  「ピープルファーストの人達が、3年前はこうじゃなかったとか、5年前は違ったと  か言ってて、その時はよく分からなかったんだけど、(施設の)Oさんを見ていて、  この頃それが本当なのかなって思うようになった。彼女は、前は今よりも全然自分か  ら話そうとしてなかったんだけど、アメリカにみんなと行ってからは、少しずつだけ  ど、どんどん話すようになってきてる。2ヵ月ぐらいでこれだから、5年もすれば   (キャピトル・ピープルファーストの)コニーさんみたいになってもおかしくないん  じゃないかな。」
 浜名湖集会(→第1章)以来、私も、機会がある度に「つくる会」をはじめ、こうした様々な会に参加させていただいているが、回数を重ねるごとに、司会の取り方や発言に進歩が見られてきている。同時に、同席する「健常者」の方も、控え目になり、口を出すにしてもそれが適切になってきているように思える。もちろん、これには非常に個人差がある14)。けれども、自分の思いを発言する機会が増えたこと、そして、そうしたなんらかの集会があることによって、自分のために(仕事・作業所以外で)外へ出る回数が増え、交際の世界が広がる、そのようなことだけでも、今までとは状況が全く違ってくるのだ。特に、入所施設の中でしか生活してきていない人の交際と言えば、他の利用者か、そうでなければ施設職員との全面的で限定されたものである。そのような人々にとって、施設の外での部分的な交際があることの意味は大きい。最初は、会議等とはお世辞にも言えない混乱した状態であったが、ここ2、3回の会議では、人によっては発言にまとを得るようになってきたし、本人達の間でも話が通じるようになってきている。これも最初は、「健常者」がとにかく質問を投げかけたり、「健常者」の顔を見て話をしたりという風景しか見られなかった。また、大阪での全国知的障害者交流集会では、最終日、「健常者」はほとんど締め出されてしまった。
 日本で、知的障害を持つ人々が自己決定への運動をもりあげるために必要な課題は、ロールモデル、あるいは運動を引っ張っていくリーダーを持つことであろう。つまり、すでに自立生活を成功させていて、他の障害者が自立していくための手本になるような人が存在するのが最も良いのではないだろうか15)。身体障害者の場合、すでに自立生活をしている人がかなりいるし、そのためのノウハウもある程度確立されている。だが、知的障害を持つ人々については、ロールモデルとなる人が日本にはまだあまり存在しないようだ。このことは地味だが、重要だと考えられる。CILでも知的障害を持つ人々を受け入れてはいるが、CILのリーダー達は彼らにとって同じ障害を持つ「仲間(peer)」ではない。
 いずれにせよ、まずは「当事者主体」だと考える。だから、(善し悪しではあるのかもしれないが、)本人以外の周りの人々が騒ぎすぎて、肝心な当事者達を置き去りにしてしまうようになるのは、あまり賢いとは言えないだろう。


1) Giddens[1993=1993:65-67]。
2) 逆に言えば、肢体不自由者などは自分の障害が否応無しに顕在化してしまっている。 「知的障害者は健常者に見えるから、うらやましい」という言葉を、どこかで聞いたこ とがある。また、本当の「知的障害者」よりも、脳性マヒ者の方が知的障害者のように 見られてしまうこともあるかもしれない。このように、人が他者を判断したり、人が他 者達の中でどのように扱われるかということに、外見は非常に大きく影響する。そして そうしたことが、E・ゴフマンが「損なわれたアイデンティティ」と呼ぶ、自己の価値 が大きく損なわれているという感覚を生じさせることもあるようだ。
3) 国際会議旅行団[1994:141]。
4) 日本精神薄弱者愛護協会は、精神薄弱関係施設を会員とし、施設の当面する課題に取 り組み、施設運営・処遇の充実を目指す財団法人。
5) 河東田[1992a:136-145]参照。また、こうした本は現在まで2冊(さくら会編集委 員会[1992][1993])刊行されている。「さくら会」については、河東田・多田・本 間・花崎[1994]等。
6) 松茂町における結婚生活について、河東田・河野[1994]。
7) 河東田[1994:57]。なお、終章第2節中の多くの記述、特に育成会方面の箇所は、 氏の資料によっている。
8) この旅行団の一人だった菅井一朗氏は、『季刊福祉労働』65号(1994年12月)より、  4回の予定で連載をしている。
9) ヒューマンケア協会[1994:61-66]参照。
10) この時の模様は、NHK教育テレビ『あすの福祉』 1994,5,19で放映されている。
11) この大会は、NHK教育テレビ『あすの福祉』 1994,12,15により、当事者による準 備段階から、その模様が放映された。また文献として、河東田[1995]がある。
12) ヒューマンケア協会[1994]参照。
13) 堀智晴・月川至・染川博子・香山よしの[1994]、麻窪[1992]、今井[1992]、松 上[1992]、月川[1993]、『ゆうゆう通信』等参照。
14) しかし、長い間入所施設で暮らしていたような人にとっては、精神的に不安定になる というような場合もあるらしい。ある施設職員は、「30年40年つちかった行動様式は、 そうたやすく変えられない。急に自由になるとかえってよくないことも起り得る。」と 語っていた。
15) Capitol People First,Statement Regarding Unmet Needs for Assistance in
 Independent Living of Persons with Developmental Disabilities:14、また、嘉悦・
 村山・石毛[1993:96]。



補 第3回全国セルフアドヴォカシー会議
  (The Third National Self Advocacy Conference)

 1994年7月14日から21日(日本時間)までアメリカ合衆国のヴァージニア州アレクサンドリアで開かれた第3回全国セルフアドヴォカシー会議(The Third National Self Advo-cacy Conference)に出席してきた。日本からは23名(内、知的障害者8人)が太平洋を渡り、現地で6人の日本人と合流し、総勢29名が出席した。
 忙しく、面白く、感動した。というわけで、当初予定していたようには、「調査」としてはうまく行かなかった。例えば、アドバイザーに話を聞けなかった。ただし、ひとつ言い訳を言うと、アドバイザーが誰だかわからなかった。後でビデオを見直したりすると、確かにアドバイザーが動き回っていたのがわかったりしたのだが、アドバイザーは裏に回り、しかも障害者が障害者らしくなかった。今まで持っていた「障害者」像がどこかへ消し飛んでしまった。とにかく、大勢の前でしっかり話すし、自己主張するし、それでいて人に気を使うし、……。私は、マイケル・ジャクソンのコンサート以来、久しぶりに興奮して我を忘れてしまったようだ。とにかく、私達の想像を超えている。こういう状況をうまく言葉にしていきたい、と思うし、それができさえすれば、それだけで意味のあることだろう。日本にいて考えているだけでは恐らく理解できない世界だとも思うのだ。しかし、少しでも雰囲気を感じ取っていただくために、「そこで何が行なわれたか」を記述していこうと思う。1)
 成田空港への集合時間は、14日の午前11時だった。私がこの空港をまともに使うのは、この時が初めてであった。私は時間ぴったりに、前もって指定されていた第1ターミナル南ウイングGカウンターに到着した。既に、一緒に合衆国へ行くメンバーのほとんどがそこにいた。私の他は、東京の多摩地区や静岡や大阪から来ていたので、早めに来ていたのだろう。ここから出発する23人の中には、石毛さん2)や斉藤さん3)等以前から知っている方々もいれば、1週間ほど前に会った方々、そして今日初めてここで見る顔もあった。東京から見送りにきた方々もいる。送りに来たYさんから、NHKのディレクターの方に頼まれていた取材用の8ミリビデオカメラを渡される。
 出発の飛行機は、13時15分のノースウエスト航空NW86便である。搭乗手続きをしてから、しばらく時間があった。登場口の前の「日本だけど日本じゃない」ところのカウンターで、石毛さんに勧められるままにビールを飲んだ。こんな真っ昼間にアルコールを飲むことは正月以来だ。飛行機は、予定より少し遅れて、13時30分近くになって動きだした。これで、まずはデトロイトまで飛ぶことになる。私の横にはSさんが座った。
 飛行機の中で最初に出てきた昼食だか夕食だかわからない食事は、照り焼きチキン定食のようなものだった。結構こってりしている。これはシュリンプ(海老)かチキン(鳥肉)からどちらかを選べることになっていた。しかし、スチュワーデスの言う「shrimp or chiken?」がよくわからず、緊張する。取り敢えず「チキン」という言葉はわかったので、私はチキンを注文するが、横にいるSさんにもわからせなければならない。幸いにも、窓側に座っていた中年女性の方(バイリンガルであった)に聞いて、その場はなんとかなった。結局、Sさんもチキンを注文した。
 機内では、映画「メジャーリーグ2」が上映されていたが、当然字幕なしなので、何を言ってるんだかわからない。日本時間では夕方だが、アメリカでは夜なので、飛行機の中も僅かにオレンジ色のライトが点いているだけで暗かった。しかし、やはり寝ようにも寝つけない。機内放送でブルーノート・レーベルの名曲集を聴いたりしているうちに、アメリカの朝を迎えてしまった。リー・モーガンの「サイドワインダー」やホレス・シルバーの「ソング・フォー・マイ・ファーザー」等を3回は聴く羽目になった。
 機内での二番目の食事もまた朝食だか昼食だかわからないようなものだった。オムレツとそば(omelet or soba?)のうちからそばを注文して出てきたものは、もりそばと甘いパンとオレンジジュースだった。これだけはヤメデグレ……。
 
 デトロイトで乗り換えて、ワシントンDC近郊のダレス空港へ。しかし、はやトラブルが起きた。飛行機から降りてから、Sさんがパスポートがなくなったと言いだしたのだ。結局すぐに見つかって、ほっとする。通関を通り抜け、国内線の方へ移動するバスに乗るために、一旦外へ出る。さすがに、成田等に比べるとだだっ広い空港である。先月ここでサッカーのワールドカップがあったのだろう、コカコーラのロゴが入ったワールドカップの旗がたくさんなびいていた。
 次の飛行機は、14日の13時45分発NW1404便であった。今度はかなり小さい飛行機だ。端から端まで見渡せる。予定より少し遅れて、14時ちかくに出発した。機内で飲み物とピーナツが出された。また隣に座ったSさんは、横にいた白人の老ビジネスマン風な男の人に、自分で書いておいた即席の名刺(アメリカの当事者たちと名刺を交換することもあるだろうと、名前を書いたカードを用意していた)を見せ、「YS(名前のイニシャル)・トーキョー・ジャパン」等と声をかけていた。だが、向こうからも(もちろん)英語で話し掛けられ、「この人何言ってるかさっぱりわからない」と言われた。なんだかわからないけど、呑気なおじさんだ。そして15時10分、ダレスに無事到着した。
 ダレスに着いてからも、ハプニングに見舞われた。最初に、幾つか荷物が降りてこなかった。そして、今回の会議出席に通訳として同行してくださるという合衆国に住む日本人の方々と待ち合わせのはず(実際の所はどうなっていたのかわからないけれども)だったが、その人の姿は見えず、ここで1時間半以上足止めされてしまった。しかしちょうどよく、同じ会議に参加する当事者達に会い、彼らのバンに便乗させてもらうことができた。私は静岡の作業所で働いているOKさんと二人だけで、車椅子に乗った黒人達の車に乗ることになった。空港から会場まで、ハイウェーを走ってもかなり距離があったように感じられた。まわりは皆、英語で何か盛んに話し合っていたが、さっぱりわからない。一回、助手席に座っていた黒人の中年女性に「英語を話せるのか?」というようなことを聞かれ、「少しだけ。英語を聞く方が難しい。」と言おうとして「A little. I'm difficult to hear English.」となんとか答えたが、理解してくれたかどうかはわからなかった。結局、会議の会場であり宿泊するところでもあるラディソン・プラザ・ホテルに着いたのは、開会式(opening ceremony)が始まる1時間程前になってしまった。
 開会式が始まる前のホテルのカフェは、会議に参加するらしい大勢の人で埋め尽くされていた。カフェには、ピアノの生演奏が流れていた。ここで初めて、イリノイ大学の発達障害研究所(Illinois University Affiliated Program in Developmental Disabilities)の博士課程に所属している八巻さんとその家族の方々や、カリフォルニア州にある日本太平洋資料ネットワーク(Japan Pacific Resource Network=JPRN)というNGOで働いている秋山さんと合流した。同時通訳用のレシーバーとイヤホン、それに会議のプログラム等資料一式が入った手提げ袋が配られたり、いろいろと手続きや準備をしているうちに、19時30分の開会式が始まってしまった。急いで地下1階の会場に入る。会場の前の広いスペースには、天井から「WELCOME TO THE '94 SELF ADVOCACY CONFERENCE ☆VOICES FOR CHOICES☆」と描かれた垂れ幕が下がっていた。
「セルフアドヴォカシー会議へようこそ!」
 そう掛け声が鳴り響いて始まった最初の入場行進は、国旗を持った車椅子の人を先頭にして、スネアドラムとピッコロの楽隊であった。その後、前方の壇上に上がっている司会のブライアン・クラキー(Brian Clukey)達が、9つに分けられた合衆国の地域を順に読み上げ、それに答えて次々とその地域の代表者達数人が会場に入ってくる。既に会場で座っていた人々は、自分達の地域が呼ばれると、大騒ぎして地域の代表の入場行進を見守る。それぞれの地域の代表の人々は、縦1メートルぐらいのボードを持っている。このボードを全部合わせると、片面はアメリカ合衆国の地図になり、もう一方の面には「SELF ADVOCACY CONFERENCE」の文字が書かれていることがわかるのであった。このボードを持つ人の後から、棒の先に赤と白と青の3色のリボンを付けたものを上にかざしながら、2〜3人が行進していた。
 4日間の会議の間、開会・閉会式や全体会、選挙演説、食事やパーティー等が行なわれるこのメインの会場は、千人は余裕で収容できるぐらいの広さがある。フロアには8人程度が座ることのできる円形のテーブルがたくさん置かれ、会場の入り口から入ると正面の壁側にステージが設けられている。ステージの両端には大きなスクリーンが下げられていて、壇上で話している演者達の姿がプロジェクターによって逐一映し出されるようになっている。ステージの中央に合衆国の国旗が立ち、その壁の方には今回の会議の主催者であるピープルファースト・オブ・ノースヴァージニアの旗が掲げられている。
 全地域の入場が終わると、国歌斉唱である。市民運動の大会で国歌を歌うなんていうことが、日本と違うよなあと思う。けれども、何を歌っているのかよく分からない程、みんなの歌は伴奏とずれていた。手話通訳の人が、手話で歌っていたのは面白かった。私は手話をまったく知らず、もちろん英語の手話も分からないが、彼女が手で旗のはためく様子を表していたのである。彼女は、その後もみごとな手話で表現し、ついでにスタイルもよかったので、日本から来た人達の間で評判になった。
 ブライアンによる開会の辞が謳われ、「今から紹介するのはノースヴァージニアのジェームス・ミラン……」という紹介によって、ジェームス・ミランがマイクの前に立った。
「みなさんは地域の何千人もの人々を代表してここへ来ています。すべての人達がここに集うことができなかったと思います。多くの人々が、みなさんを代表としてここへ送ったのです。皆さんは、選ぶための声を上げなければなりません。みなさんがリーダーシップを取ることは大切です。なぜなら、この運動がリーダーシップにかかっているからです。」
 彼が何か言うたびに、拍手が起こった。周囲の過熱ぶりに影響されて、OYさんも「ヒューヒュー」と言いながら腕を振り回して騒いでいた。
「……多くの人達が、障害を持った人達がどんなことができるかについて誤った考えを持っていました。そうした偏見を持った人達は、まったく大きな間違いを犯してきました。例えば、町中にグループホームができると、その周りの人々は、土地が下がると言って反対しました。
 しかし、今では、多くの人達が、グループホームよりも自立に近い生活を地域で送っています。そして、そうした人達が住むことによって、土地が下がっていないということが分かりました。」
「あなた方には大事な使命があります。あなた方一人一人がこの使命を達成します。また、多くの職員達、家族にも重要な使命があります。あなた達は、多くの人々を代表してここへ来ているのです。」
次に、ARCの役員らしき中年女性が「ここで話せてとても光栄です」等と、少し話し、最後にトニー・コーエロが長めに演説をした。
 疲れていたのか、日本から来た当事者の方々は半分寝ていた。
 開会式は約1時間で終わった。
 この夜の食事は、数人で、開会式が行なわれた所と同じ階のレストランで食べた。そこは、10ドル95セントで食べ放題のメニューを出していた。一応ホテルのレストランなのに、食べ放題もさることながら、大きなカップになみと注がれたアイスティーが1ドル50セント程度だったのには驚いた。
 食事が済み、ようやく部屋に入ろうとするのだが、部屋がどこにあるかよくわからない。しばらく歩き回って、 134号室を見付けることができた。ここにいる間私と同室するのは、SさんとMさんである。部屋に入って、まず驚いた。3人泊まるのに、ベッドは2つしかない。確かに、ダブルベッドなので寝ようと思えば4人まで平気で寝られるのだが、これで6日間寝るのかと思うと少し気が重くなった。どうやって寝るか案じた末、毎日ジャンケンをして勝った者が一人で寝られるということになった。
 その夜、私と同室の彼らが「飲みにいきたい」と言いだした。私は明日も早いし、寝たかったので「行きたくない」といった。だいたい、初日で私も店でどうしていいかわからないし、彼らはもっとわからない。しかし、彼らは飲みにいこうとする。「疲れているし、どうせわからないんだから早く寝ましょう」と思ったのだが、一方で「普通の大人も寝る前に少しぐらい酒を飲むこともあるじゃないか。」と自分に言い聞かせ、ここで行くなとも言えないので、「上の階の石毛さんに声をかけるとなんとかしてくれるんじゃないか」と言って、出かけさせた。しばらくして、私が念のために、石毛さんの部屋に彼らが行ったのかどうか確かめにいくと、彼らは来ていないという。結局、彼らは2階の石毛さんの部屋を見つけられず、何故かフロントに行って、たぶん名刺を出しながら、「マイネーム・YS・トーキョー・ジャパン」とか言ったのだろう。それで、私が部屋に戻ってみると、見知らぬ外人がいて、「彼らの言っていることワカラナイ。ユーはイングリッシュわかるのか?」等と英語で聞かれた。……、何が起こったのかよくわからなかったが、ともかくその場は何とかなった。
 
 アメリカ第2日目の朝、私としては早く、6時に起きてしまった。7時半から朝食であった。この日から二日間は、会議に三食の食事が付いているのである。時間ちょうどに、SさんMさんと会場に行ったのだが、その時点で日本から来たほとんどの人が来ていない。
 朝食は、これまた甘いパンと、スクランブルエッグ等であった。朝食を食べていると、8時ぐらいにスピーチが始まった。日本の自立生活センターの人にはお馴染みのジュディ・ヒューマン登場である4)。昨年カナダで開催されたピープルファースト国際会議でもそうだったようだが、ここでも同じく、食事をしていると何時の間にか誰かのスピーチが始まるという段取りなのである。話には聞いていたが、とてもいいなあと思った。
 ジュディ・ヒューマンのスピーチが終わると、同じホールでSelf-Advocates Becoming Empoweredの報告になった。壇上にSelf-Advocates Becoming Empoweredの役員達が上がり、議長のナンシー・ワードが、これまでの成果を報告し、この大会に間に合わせて作られた全米組織の内規(By-laws)を配った。
 10時半から分科会がそれぞれの部屋で行なわれるので、私達は3つのグループに別れて移動した。3つに別れたのは、通訳が3人しかいないからである。私は、アドバイザーのための分科会を見に行くことにした。
 その分科会は、テキサスから来た人々が取り持っていた。彼らは、特にピープルファーストの人間ではないということだった。そこで印象的だったのは、ものを言えない気持ちをロールプレイして見せていたことであった。客席の方から一人(健常者)を前に出して座らせ、その人の口にガムテープを貼ってしゃべれないようにした上で、司会者が「この人はどんな人でしょう」とか「この人はどんなことをしたいと思っているでしょう」と観客に問い掛ける。その人のやることを観客が勝手に決めるが、彼は反対できないのでたまったものではないという顔をしていた。
 午後は、リーダーシップ・トレーニングの分科会に出席した。ここでは、車椅子に乗った講師が、一人で進めていた。「一人」というのは、厳密に言うと、彼女は言葉がはっきりしないので、通訳が代わりにしゃべっていた。資料はOHPで映されるようになっていた。
「リーダーの要素として大切なのは、話ができること、人を集められること、働ける、いろいろなことを組織だってできる、権利のために働けること、仕事に関心を持っていること、それから会議の時に議題をきめなければなりません。とにかく覚えておいてもらいたいのは、(リーダーは)何が起こっているのか分かっていなければならないということです。適切な配慮(reasonable acommodation)という言葉がありますが、ノートを取ってもらったり、手話通訳を使ったり、わからないことがあればわかる人に聞いても良いのです。結局、何が起こっているか把握することが大切です。」
「もしメンバーの中に車椅子に乗っている人がいれば、必ず車椅子で行けるところで何かをやります。空を飛ぶことができない人は飛べるように(笑)。字の読めない人はテープに録音してもらいます。」
ここで、通訳が講師の発言の先のところを読んでしまった。通訳は、講師の言う通りにしていなかったということで、注意された。
「もし耳が不自由だったら、手話通訳を頼む。……会議の時は、アクセシブルであるべきです。」
「グループホームで、自分は映画に行きたいとします。でも他のみんなは買物に行くって言っている。こういう時、どうしたらいいでしょう。」
と、彼女が問い掛けた。すると客席にいた人が、次々に手を挙げ、いろいろと言い出した。こうなると、もう大変である。
「私には映画に行く権利がある。」
「映画に行って、それから買物はどう?」
「映画には期限があるけど、買物はないから、映画の方がいい。」
「グループホームの管理人と意見が違う」と言い出す人もいた。
 次に、彼女はもう一つ質問した。
「障害者は仕事につけないから、作業所を作るという意見がありますが、どう思いますか ?」
するとまた、皆手を挙げて議論になった。
「障害があるけど、私は働いていた。」
「私は働いている人を知ってる。」
「私は6年間働いてる。」
「昇給もした」
 終始大騒ぎで、とにかく彼らの自己主張がすさまじく、私達は圧倒されっぱなしであった。
 15時からは、地域会議(regional meeting)といって、各地域ごとに集まってそれぞれに話し合うというもののようであった。本来ならばこの時間は日本の人達は関係ないのだが、特別に空いている部屋(その部屋は、本当は報道関係の人達のための控え室のようだった)で全員集まって、自己紹介をしつつ今日の感想を語り合った。
 17時から全体会としてリック・ダグラスのスピーチがあったのだが、私はここへ来て時差ボケなのか、眠くなり始め、スピーチが終わるや否や部屋に直行しそのままベッドの上に倒れこんで寝てしまった。(だから当然リック・ダグラスのスピーチの内容はあまり覚えていない。ADAについて話していたような気がするのだが……。)そして部屋の扉をノックする音で起きると21時であった。扉を開けると、それは八巻さんの、中学2年生の息子さんであった。ビールを仕入れてきたので買ってくれと言われた。しかもビールは「キリン・イチバン」であった。これは、日本でいう「一番絞り」の輸出仕様である。
 16日も、私は6時半に起きた。しかし、SさんとMさんはさらに早く起きていて、ホテルの中を散歩して7時ぐらいに帰ってきた。朝に弱い私としては、元気だなあと感心してしまう。
 この日の朝食のスピーチでは、まず、オレゴン健康科学大学特殊教育教授であるハンク・ベルソニがスライドを使いながら、収容施設と、そこから出て自立生活をしている彼の友人達のことについて語った。
「デイヴィッドも施設で育ちました。デイヴィッドは施設から出て、ボランティアと一緒に、…これは今仕事をしているところですが、彼は州議事堂で法律に関する仕事をしています。自分の家を持っていて、奥さんもいて、奥さんと自分の面倒は全部自分で見ることができます。あまりアドバイスは必要ありませんが、お金の管理だけを少し手伝ってもらっています。もちろん、お金の使い方は自分で選ぶことができます。」
スライドが変わり、Tシャツを着た中年の男性がソファーでくつろいでいるらしい様子が写し出された。
「これはメリーランドのエリックです。自分の家に住んでいます。」
ここで拍手が起きた。
「多くの知的障害を持った人々が規則ばかりの所に住んでいました。しかし、そんな所に住みたいと思う人間がいるでしょうか。自分で自分の住む所を選べるのが人間というものではないでしょうか。例えば、この写真にしても、彼が写真を撮ってくれって言ったんです。(笑)何かやっているところじゃなくて、Tシャツを着てだらしなくしているのも自分なんだと言うのです。もちろん、お金の管理とか、買物には手伝ってもらっていますが、自分の選択を生かして暮らしています。」
「これは友人のピーターです。私は、シラキュースの施設でボランティアとして働いていました。そこで、いわゆる訓練をやらされていました。彼とはその時に知合いました。そこで言われたことは、個人に関わるなということでした。個人に関わらず、グループとして扱えと言われました。それから、絶対に電話番号を教えるなとも言われました。電話番号を教えたら、施設の人が君に電話するじゃないかと言われました。『当たり前じゃないか』と私は言いました。電話してもらいたいと思うから電話番号を教えるんじゃないか。でも、彼は施設の中だけで満足せずに、私に外のいろんな情報を持ってきてくれと言いました。電話番号を教えてくれと言われたので、もちろん教えました。一緒に晩ご飯を食べに行ったりして、私達は本当の友人になりました。
 ピーターは家族を知りません。彼は2才の時に施設に入ったのです。彼は兄弟がいるのか、両親がいるのかどうかも知りませんでした。でも、地域にはたくさんの友人がいるのです。28か29歳の時に、彼は自分の家族を探しました。そして、とうとう弟を見つけました。」
そう言うと、ピーターが弟と肩を組んでいる写真に変わった。
「これは弟と撮った写真です。彼は自分で妹も見つけましたが、兄弟がいるかどうかも知らなかったのです。施設とはそういうことをする所なのです。私達はそういうひどい所で障害者を暮らさせていました。障害者は何ができるか分かっていなかったんです。でも今は地域社会で暮らし、プライバシーも持ててますし、最新の技術も使うことができるし、自分の家族を見つけることができました。
 セルフアドヴォケイト達が、この生活を勝ちとったのです。専門家がこういうことを成し遂げたのではありません。知的障害者自身が、自分で自分の権利を主張することによって成し遂げたのです。」この最後の言葉を聞いて、会場の人々は盛んに拍手をしていた。 ハンク・ベルソニの次に、T.J.モンロー(T.J.Monroe)がマイクの前に立った。彼は、以前コネチカットのピープルファーストにいたのだが、1993年にピープルファースト・オブ・テネシーに移り、現在はそこを拠点にして活動している当事者である。
 ハンク博士がスライドを使ったために落ちていた照明は、T.J.が壇上に昇っても薄暗いままであったが、彼は話し始めた。
「OK、私が言いたいことはひとつです。みなさんこう言ってください。……お早ようございます(Good Morning)!!」
「お早ようございます!!!!」と観衆が繰り返した。そうすると、天井の照明が一斉に点いた。この仕掛けに、もちろん会場にいた人々は大喝采であった。
「私はトーマス・ジェイムス・モンローです。私には3338という番号が与えられていました。州立施設に11年いました。コネチカット州の施設にいました。サウスベリー・トレーニング・スクールという所でした。私は8才の時にフォスター・ホームに入れられて、そして州の役人の目にとまって、『この子は施設に入れられるべきだ』と言ったのです。グラッデンというソーシャルワーカーは、施設に行くべきではないと言ってくれましたが、私は8才から19歳まで施設にいました。それからグループホームに行きました。トーレントン・ノースウエスト・リージョナル・センターという所でした。
 施設を出たときには、どういった支援を得たらいいのかと、いろいろなことを自分で選択してどうやってせいかつしたらいいのか、そういった発想もありませんでした。私はプロテクション&アドヴォカシー5)というのが何だか分からなかったのですが、……これは障害者の法的権利を教えてくれるものですが、そこに電話して、私の権利が何であるかを聞いたのです。『あなたはもう施設に住んでいないんですよね』と言われました。
 私はコネチカットでピープルファーストを作ったんですが、1989年に会議を持ちました。これは、 375人以上の人が参加した最初の会議でした。私はみんなにこれをやりたいんだと助けを求めましたが、私は、助けを求めるということを恐れてはいませんでした。コネチカットのブリストル(Bristol)に住んでいましたが、1993年にテネシー州のナッシュビルに移りました。そこでは、友人もたくさんいますし、私は自分の意志によって、コネチカットからテネシーに移ることを決めたんです。
 私は、みなさんそれぞれがどのような経験をし、どんな思いをしているかがとてもよく分かるような気がします。この中で何人の人が、ラベルを貼られるということがどんなことか、どんな気持ちになるか、どのように思われ、それをどのように言っているのでしょうか? 私の名前を知っていますよね。私はT.J.モンローですよね。私は知恵遅れというラベルで呼ばれるのではなく、T.J.モンローという一人の人間ですよね。(会場拍手)……とにかく、何事にも恐れないで下さい。制度を変えるのはあなた方一人一人だと私は思っています。
 ピープルファーストのメンバーが施設で死んだという事件がありまして、それは裁判に持ち込まれ、現在係争中なんですけど、テネシー州の司法省は施設をチェックすることにしました。(会場拍手) ニューハンプシャーにはもう施設がありません。ですから、これ以上は施設に住みたくないということを一人一人が声に出して言うことです。(拍手)あなた方それぞれがどのような人を雇うのかを自分で決める、ということを覚えておいてください。」
ここで彼は、会場の人々に向かって質問をした。
「自分の家に住んでいる人は何人いますか?」
「自分のことを自分で決めている人は何人いますか?」
「自分の運転免許証を持っている人はどれくらいいますか?」
少なくない人達がそれぞれに手を挙げた。
「私も自分の運転免許証を持っています。私は自分のことを自分で決め、自分の人生を自分で決めます。」
再び拍手が起こった。ここで彼は、横に置いてあったノート型パソコンを持った。
「みなさん、いろいろな支援を受けると思うんですけれども、やっぱり、私が今持っているようなコンピューターをみなさんが持てば、いろいろ役に立つと思います。みなさん一人一人が。このような助けになるものを持てれば良いと思います。このようなものを使えば、あなた方が何をやっているか、他の人がもっと分かるようになります。あなたにとって役立つものにお金を使うべきなのです。私達は1950年代に生きているのではないのです。1990年代に生きているのです。みなさんの中で、何人が私のようにコンピューターを持っていますか?」
T.J.のスピーチが終わると、ブライアンが出てきて言った。
「T.J.どうもありがとう。トートバッグとポスターを差し上げます。」
彼はブライアンから品物を受け取った。また会場から大きな拍手が沸き起こった。
 二人のスピーチが終わり、しばらくすると、Self-Advocates Becoming Empoweredの選挙が始まった。選挙で選ばれるのは議長、副議長、書記、会計の4役で、それぞれに立候補者とその支持者が演説をした。途中で、応援演説をする人が、自分も立候補したいと言い出し、ナンシーにさとされる場面もあっておもしろかった。
 10時40分頃、部屋で寝ていると、斎藤さんが「今、そこにT.J.がいるよ」と、私を呼びに来た。私はレコーダーを取り、急いで中庭の方へと翔んでいった。中庭の池のほとりに幾つかあるパラソルのひとつに、スーツを着こなし立派なあごひげをたくわえた大男が座っていた。それがT.J.であった。私は斎藤さんとともに椅子に座った。
 私は、こう切り出した。「あなたは障害を持っているけれども、アドバイザーとしての役割も持っていますが、あなたはどのような立場にいるんですか?」と。しかし彼は、斎藤さんの通訳を聞いた途端に、「確かに私は障害を持っているけれども、私に知恵遅れのラベルを貼ったのは州だ。私に貼ったラベルを私は認めない。私は自分で障害があるとは思っていない。」と答えた。すごい!と思った。彼は続けて言う。
「私は、アドヴォカシー・コーディネーターとして、知的障害者に関わって、障害者が自分で自分の権利に目覚めて、自分のことを話すのを手伝っている。」
私「『No Pity』という本に、モンローさんのことが出てて、93年にコネチカットからテネシーに移ったということで、その時に、モンローさんはヴォランティアではなくてプロフェッショナル、つまりお金をもらう仕事として障害者と関わるというようなことが書かれていましたが、そうなんですか?」
T.J.「そうです。しかし、給料といっても、現物支給のような形で、住む家と水道光熱費を出してもらっている。もし講演を頼まれたときは、必ず契約書を取り交わして、何人の前で、どれくらい話すかを決め、1講演 375ドルで仕事をしています。」
私「どこからお金が出ているのですか。」
T.J.「州とか連邦とか、とにかく講演等を頼んだ人が払う。
 州や政府そのものがやるのではなくて、州や政府が、どこかのエージェンシー、例えばリハビリテーションセンターのようなところが行なう活動に対してお金を出して、直接にはそのエージェンシーが払います。
 そして、私は大学へも行き、施設における11年間の生活と、地域でどうやって暮らすかという事を話します。」
続けて、彼はこんなことを言い出した。
「あなた達は、他の講演者を呼んだりするのですか?」
斎藤「よくやります。時々、アメリカからも人を招いて、話しています。」
「講演に呼んだ人を、ちゃんとホテルに泊めるのか、それとも外に寝かせるのか?」
彼は冗談を言っているのか、まじめなのか
斎藤「わははは、ノーノー、私達はそんなことしてない。」
T.J.「テレビを見ていると、中国人は紙でできた家に住んでいるが……」
斎藤「ノーノー(笑)」
T.J.「ノー?」
斎藤「ノーノー、私達はベッドでねることももある。」
T.J.「施設にいた時は、何か悪いことをすると、寝ている時に冷たい水をかけられることもあった。床に寝ていても水をかけられたし、だからベッドで寝ることに恐怖感を持っていて、施設にいた時は風呂桶で寝ていました。お笑いになるでしょうけど、施設にいた時の恐怖感が強くて、地域の中で自分の家に暮らすようになってからも、風呂桶で寝ていました。それが私の安心なのです。今でも新しいところに移ると、自分の家でも、恐くなって、最初は風呂で寝ます。でもたくさんの人が周りにいる時は、ベッドで寝ることができます。」
私「私には、今あなたが障害を持っているようには見えないんですけれど。でも、施設にいた時は、今よりももっと障害者らしくふるまっていたと思うんです。」
T.J.「施設に19才ぐらいまでいたのですが、その時は、ひげを伸ばしたいと思っても、施設では許してくれなかったし、嫌でも髪の毛を短く切られてしまって。施設を出て、ひげを伸ばして、自分の好きな髪型にしました。」
私「で、施設にいる時と、施設を出てからは、何が変わりましたか?」
T.J.「地域社会には権利があって、施設にはない。選ぶこともできるし、いつでも誰とでも話すことができるし、外に出れば女の子に触れたり、セックスもできる。でも、施設では男と女が分けられて、私は関係の取り方が分からなかったんです。(施設でも)男女いっしょにするので、あなたの国のやり方は好きです。施設にいる人はセックスのやり方が分かりません。やってる人もいるけど、あまり見ません。」
こう言ったところで、もう時間がなくなってしまった。彼はこう言った。
「まだまだ聞きたいこともあるだろうけど、私はこれから分科会でスピーチをしなければならない。私を会場で見つけた時には、いつでも“ピック・アップ”しなさい。」
そして彼は名刺を取り出し、私に見せながら、名刺の下の方に印刷してある言葉を指差して言った。「I am thunder.I make people think.(私は雷。私は人々に考えさせる。)」と。これは彼のスローガンである。
 私達は、彼にさよならを言ってこの場は別れることになったのである。
 私が行った11時からの分科会「施設から地域社会へ」では、ピープルファースト・オブ・コネチカットのメンバーがホストを務めていた。6人のメンバーが前方横一列に並んで座り、横の壁にアドバイザーが寄り掛かっていた。メンバー達がそれぞれ自分の体験を話す。彼らは口々に施設がいかにひどいところかを言った。そうして、
「あなたができないことは何もないと思う。」
「今は自分のアパートを持っているし、自分で服を買うこともできる。誰も世話人がいない。」
「夢は小さな工場を持つことです。」
「他の人があなたのために選んではいけない。」
「安全で保護された環境。職業訓練校の職員がこういうことを書いて、施設がいいんだとみんなに思い込ませる。」
「誰もレッテルを貼られるべきではない。誰だって出来ないことがあります。」
「知的障害というラベルを貼られた人に会ったことがあるけど、とても素敵な人です。彼はラベルを貼られたくないと言っていました。」
「自分で、施設には入りたくないと言わなくちゃ。」
と語っていた。 
 その分科会では、彼らが取材されたテレビ番組も見せられた。そこにはピープルファースト・オブ・コネチカットの議長キャシー・ジュニや、まだコネチカットにいてひげのない頃のT.J.モンローが映し出され、雄弁に語っていた。
 昼食の時には、怪しげなお兄さんが出てきた。頭に、細いバネのようなものが何本かついたかぶりものをして、黒縁の眼鏡をかけていた。全体的な印象は、昔教育テレビに出ていた「のっぽさん」のような格好である。実はこの人、ニューヨークのあるグループのアドバイザーである。彼は、「セルフアドヴォカシーにはユーモアが大切だよね」とか言いつつ、幾つかゲームをした。
 セルフアドヴォカシー・フェアということで、地下1階のスペースで、全国のセルフアドヴォカシー・グループの幾つかが、長卓を持ち出して即席のブースを作り、そこでそれぞれのグループのパンフレットやマニュアルであるとか、バッジやTシャツ等(これはファンドレイジングの一環なのであろう)を置き、無料で配布したり販売したりしていた。 15時ぐらいから、ピープルファースト・オブ・ノースヴァージニアの議長であり、今回の会議の総合司会を務めているブライアン・クラキーと会えることになっていた。何時の間にか根回しがされてあったのだ。日本から一緒に来た人達の中で、彼と話したい人は、来ることができるようになっていた。10人程の参加があった。スポーツは何が好きかと聞いたり、この会議を開催するのに1年かかったとか、また、「ピープルファーストをやるにはどうすればいいか」というこちらの質問に対し、「私の経験だと、まず、パーティみたいなのを開いて、とにかくみんなに集まってもらって、みんなで楽しいことをして、仲良くなったら、『じゃあ、これからピープルファーストを作ろうよ』ともちかけるんです」といった話をした。Oさんはブライアンの似顔絵を描いて見せた。これはとても上手かった。彼には二人のアドバイザーがいることも分かった。一人は、会議も一緒にやっているジェニーと、ピープルファースト自体のアドバイザーがいるとのことであった。
 植民地時代の古い港町アレクサンドリアのしばしの観光から戻ると、程なくして、「25周年記念宴会(25th Anniversary Banquet)」というパーティーが行なわれた。これは1994年が、セルフアドヴォカシーが合衆国で始まって25年目だというためらしい。
 はじめに、セルフアドヴォカシーの25年の歴史が読み上げられた。
 次に、小太りのおじさんがすごく早口で、しかもアメリカンジョークを交えながらスピーチをした。秋山さんも理解するのに大変そうであったが、一生懸命に通訳してくださっていた。こちらは何がおもしろいのかよく分からなかったが、アメリカ人達は、大爆笑して聞いていた。
 その後、食事が終わると、ステージの前の辺りにあったテーブルが退けられ、この日のために呼んだのであろう何やらというDJが出てきて、レコードをかけ始めて、ダンスになった。大柄な白人女性にダンスが行なわれているフロアに連れていかれて、なんと私も(!)踊る羽目になった。(おまけに、Tさんにビデオを撮られていることに気付かずにいた。日本に帰ってきてからその時のビデオを見ると、ヒジョーに恥ずかしいものである。このビデオは門外不出にしよう。)しばらくそこにいてみんなが踊っているのを見ていたが、なかなか終わらず、夜の10時頃、飽きてきてもいたところに、上でお酒を飲もうと誘われた。
 私が1階のラウンジに上がった時には、既に何人かの方々がソファーに座って飲んでいた。私は、おごっていただいて、ワインを飲んだ。たった一杯だったが、酒に弱い私には、酔うに十分だった。
 12時になり、私達が部屋へ帰ろうと、ダンスをしていた会場の前を通ると、なんとまだダンスは続いていた。アメリカ人はダンスが好きなのであった。
 最終日は、9時からの幾つかの分科会と、閉会式だけであった。
 私は友人関係の分科会を聞いたが、そこでは軽い脳性マヒの女性が一人で司会をしていた。なんと彼女は、話し始める前に、その分科会で通訳をする斎藤さんに向かって、「機械の準備はいいですか?」と、こちらの送信機のことに気を配ってくれたのである。
 10時30分から、閉会式(closing celemony)が始まった。天井の照明は消されており、ステージに当てられたスポットライトだけがやけにまぶしい。ブラスによるファンファーレがスピーカーから流れる中、司会者がリージョン1から地域ごとに州の名を読み上げる。開会式の時と同じく、呼ばれた地域の代表者達がボードを持ちながら入場してきた。違うのは、ボードを持つ人の後について入場してくる人々の持っているものが、赤・青・白の三色旗ではなく、三色風船であるというところである。代表者達が入場してくるたびに、大きな拍手が沸き起こった。
 9番目の地域の代表者達がステージに立ち、再び「VOICES FOR CHOICES」と描かれた大きなボードができあがると、ブライアンが、今回の選挙で選ばれた役員達を紹介した。
「新しい役員が決まりました。ナンシー・ワード議長。」
再選を祝福する拍手が起こった。
「ティア・ニルス、共同議長。」
その後にも書記に選ばれた人の名前も発表されたが、会場からの拍手が大きすぎて、何と言っているのかよく聞こえなかった。
 新しい役員がみな発表されると、各地域の代表者達がステージを降りた。
 そして、議長のナンシーが演台の方へ進み、スピーチを始めた。
「1996年にどこで会議をやるか、選挙をします。オクラホマ州が名乗りを挙げています。他に会議をやりたいところはありますか?」
すると、会場から「インディアナ!」「カンサス!」と声が上がり、観衆は急に騒がしくなった。ナンシーは、まあまあと言うように両手をばたばたさせながら、
「みなさん静かにしてください。」
「会議を開くというのがどんなに大変か分かっているのですか?本当にこんな大変なことをやりたいのかよく考えてください。それでもやりたいんですね?」
と、ナンシーが騒然となった聴衆を必死に押さえようと注意を促した。そう言った途端、「オクラホマ!!!」
と会場の中央の辺りで誰かが叫んだ。
「OK、96年の会議はオクラホマがいいと思う人は拍手をしてください。」
と、ナンシーは言った。大きな拍手が大きな会場に響き渡った。オクラホマ州から来たらしい男性が、勝ち誇ったように両手を振り上げてアピールした。
 「私達の感謝の気持ちを表すものです。」
と、ナンシーは先程の興奮が収まらぬうちに記念の盾を会議の裏方達に贈ろうと、名前を呼んだ。
「ジョー。」
「ダフニ。」
「ラッセル・ダニエル。」
……呼ばれた人が次々にステージに上り、盾を受け取った。そのたびに拍手が贈られた。最後に、
「ノース・ヴァージニアのブライアン。」
と呼び掛けがあると、彼は一層大きな拍手によって迎えられた。
 彼は盾を受け取り、それを高くあげて全ての観衆にひととおり見せると、そのままマイクの前に立って、閉会式でスピーチをすることになっているゲストの紹介をした。
「トニー・レコード!」
彼のイントロダクションに導かれて、ヒューマンサービス・コンサルタントという肩書きを持つ、口ひげの中年男性が演台に立った。彼は話し始めた。
「今日ここへ来て、いろんなことを話せました。私がここで見たことをお話したいと思います。そして、ビデオを見ていただきます。」
スクリーンに、彼が今回の会議の間中撮影したビデオが映し出された。
「……仕事がないということ。幾つかの州では、今日いまだに多くの人々が施設に住んでいます。それから健康保険の問題。知的障害者が逮捕されたこととか、ホームレスの障害者がいること、いろんな問題があることを聞かされました。」
「故郷に戻って人に何を言うでしょうか。例えば一つの問題を取り上げようと言うこともあるでしょう。施設とか、健康保険制度とか、あるいは(障害者)サービスの出し方の問題かもしれません。どうやって組織を作るかを学んだと言う人もいるでしょう。」
「私は様々な会議に参加しましたが、会議の成功不成功は、会議が終わってからです。家に帰って何をやるか。この会議の成功は、会議が終わった後に何をやるかです。」
 彼のスピーチが終わると、壇上にいた役員達が二つに別れてそれぞれ固まった。
「立ち上がって歌を歌いましょう。」
 歌が流れる。レコードにそって皆歌いだす。二人の司会者がろうそくを持ち、新しい役員達がそれぞれ手に持っている花火に火をつけた。
 しばらくして、火花が散り始めた。燃え盛る花火。既に全ての照明は消され、見えるのは六本の花火の火だけだ。拍手が鳴り響く。しかし歌はまだ続く。
「One boy,singing in the darkness...」
次第に消えていく花火。最後の一本が消えた。再び大きな拍手。それはいつまでも鳴り止まなかった……。
 以上が、私が見、現時点で記録に残すことのできるおおよそのあらすじである。
 結局、今回の会議で直接話すことができたのは三人だけだったが、その三人はみな、私が今まで見てきたようないわゆる「知的障害者」達とは違っていた。その他の人も、「どこが障害者なのだ?」と聞いてみたい人はたくさんいるのだが、皆施設や特殊学校に行っていた経験を持っている。話をした3人も、ブライアンは司会の間絶えず横にいるアドバイザーから助言をもらっていたし、ナンシーも横に誰かがいないと満足に話せないというし(実際はとてもそういふうには思えないほど満足に話していたが)、またT.J.も同様である。そして、口をそろえて「5年10年前はこうじゃなかった」と言う。
 ピープルファーストに対して、自立生活センターのようなものを想像していたが、一概にそうとも言えず、むしろ運動体やサークルといったような側面がかなり強いようである。カリフォルニア州のキャピトル・ピープルファーストは自立生活センターに準じているようだが、それでも運動としての要素が強く6)、またピープルファースト・オブ・ノースヴァージニアは月に1回程度の集会を持つにすぎない。他の団体にしても、CILのようなある種のサービス業の匂いは感じられなかった。(これは印象にすぎないが、)日常的なサービスが必要な場合はそれを行政等から得て、それとは別に、当事者のセルフヘルプ・グループとしてピープルファーストが存在する、といった構図なのかもしれない。
 アドバイザーも、おおよそは団体に対して付くという場合が多いようだし、当事者の「リーダー」と「アドバイザー」の違いも微妙であったりする。アドバイザーは、私が聞いた範囲では有給である。その財源は州やARCのようだ。このような有給のアドバイザーの立場がどうかといったことについては、明確なことが聞けなかったが、だからといって問題があるというわけでもなさそうだ。ナンシー・ワードは側についてくれる人を「友人」と言っていた。
 アメリカでは、(意外にも)ピープルファーストとARCとの関係は強いようである。今のところ詳しくはわからないが、ピープルファースト・オブ・ノースヴァージニアについて言えば、パンフレットやインタヴューの端々から、それらは密接なな関係にあるように感じられる。まず、会議のプログラムはノースヴァージニアのARCが印刷しているし、会議の開催にもかなり関わっている。しかし、キャピトル・ピープルファーストのファシリテーターのロバート・ローゼンバーグは、このような状況には基本的に賛成していないし、また、カナダ・ピープルファーストやオンタリオ・ピープルファーストは、今では親の会から完全に独立している。
 また、一つ考えるに、やはり、知的障害とは外国にいるようなものだと思うのだ。言葉や生活習慣をよく知らない私がアメリカに行くと、私はアメリカで重度の障害者と同じ部類に入ってしまう。最初のうちは、金銭の感覚もわからなかったし、スチュワーデスの簡単な呼び掛けも満足に分からなかった。肌の色であったり、日本国籍を証明するパスポートがあることによって、私は「障害者」ではなく「外国人」でいられるのである。
 会議が終わった日の夜、ホテルの一室に集まって、感想を言い合った。次は、4日にわたった会議に参加しての、日本参加者達の感想である。
「自分のために自分の意見を言うことが、本当に勇気がいるんだなあ、それがいちばん大切なんだなあ、ということがわかりました。」
「これからピープルファーストをどうやってやっていったらいいだろう。静岡のTさんとかとピープルファーストをやっていきたいなあと思います。でも、どうやってやっていったらいいか、私はわからないので、みんなの話を聞いたりしてやっていきたい。」
「生まれて初めて飛行機に乗れて良かった。」
「スケールの大きさも違うし、リーダーシップの分科会に出て、学ぶことがいっぱいあるなと思って、参考になりました。」
「自分達の人権の権利をああいうふうに言っていて素晴らしかった。また機会があったら来たいと思います。」
「外国人と話せて、お友達になりました。ちょっと寝ることもあったけど、話を聞くことができました。」
「みんなの5年後を期待します。」
「アメリカのピープルファーストの会を、とてもうれしいです。ピープルファーストの出会いを頭に(入れておきます)。」
「結婚したいです。」
「ピープルファーストの手話(をやっていた女性)とても良かった。大変だった。汗出てた。ブライアンさんの話も良かった。」


1) この章に登場する日本人の名前は、数名を除き仮名とする。
2) 石毛えい子。ある時は飯田女子短大教授、ある時は『季刊福祉労働』編集長、ある時 はアビリティ・クラブ・助けあい理事長等々という、様々な顔を持つ。
3) 斎藤明子。全国自立センター協議会(Japan Council of Independent living Center =JIL)の常任委員。委員の中で唯一の「健常者」であり、江戸川橋にあるJILの事 務所に常時詰めている。
4) Judith Heumann。特殊教育・リハビリテーション局(Office of Special Education  & Rehabilitation Services)副長官。
5) Protection & Advocacy Inc.(PAIあるいはP&A、T.J.は「P&A」と言って いた)。厚生省発達障害局と厚生省全米精神衛生研究所からの補助によって各州に設立 された非営利の団体。発達障害者の権利擁護、発達障害者対象サービスに関する情報提 供、教育分野におけるオンブズマンの提供、等を行なう。
6) 大賀[1993:75]。
★日程
14日19:30 開会式 Brian Clukey(司会者、People First of Northern Virginiaの議長)         Tony Coehlo(障害者の雇用に関する大統領委員会)のスピーチ
15日 7:30 朝食  Judith Heumann(特殊教育・リハビリテーション局)のスピーチ
   9:00 Self-Advocates Becoming Empoweredの報告
  10:30 分科会1
  12:00 昼食  Robert Williams(発達障害局)のスピーチ
  13:30 分科会2
  15:00 地域会議
  17:00 全体会 Rick Douglas(障害者の雇用に関する大統領委員会)のスピーチ
  18:30 夕食  
  20:00 ヴァラエティ・ショー
16日 7:30 朝食  Dr.Hank Bersoni(オレゴン健康科学大学特殊教育教授)、
         T.J.Monroe(People First of Tennessee)のスピーチ
   9:00 選挙
  11:00 分科会3
  12:30 昼食  Steve Holmes(Self-Advocacy Association of New Yorkのアドバイ        ザー)のスピーチ 
  14:30 セルフアドヴォカシー・フェア
  16:30 自由時間
  19:00 25周年記念宴会とダンス
17日 9:00 分科会4
  10:30 閉会式 Tony Records(ヒューマンサービス・コンサルタント)、
         Justin Dart(障害者の雇用に関する大統領委員会)のスピーチ

★分科会のメニュー
■交通
   ・障害者のための交通をアクセシブルにする
   ・The Squeaky Wheel Gets the Wheels
■私たちの教育と学校
   ・学校におけるセルフアドヴォカシーは個別教育計画の会議をもたらした
   ・高校でピープルファーストを始める
   ・学校に入る
   ・スマートにする
   ・皆が入れる学校を作る
■セルフアドヴォカシー・グループを強くする
   ・セルフアドヴォケイツを支援し助ける
   ・あなたたちの州でセルフアドヴォカシーをもりあげる
   ・役員のためのリーダーシップ・トレーニング
   ・役員のためのリーダーシップ・トレーニング(2)
   ・ただひとつの声
   ・アドヴォカシーの実践
   ・プレミア・ショー:選択のための声
   ・言葉を広げる
■国内問題
   ・政策立案のパートナー
   ・地方の政治的権利擁護
   ・調査・訓練計画におけるアドヴォケイトの体験
   ・権利養護のための手紙を書く
   ・あなたとADA
   ・ADAと雇用
■アドバイザー
   ・話す、話す、話す、私たちはいつ食べる?
   ・アドバイザーのための討論会
■刑事司法制度(Criminal Justice System)
   ・裁判所で正義はあるか
   ・逮捕された場合の権利
■施設から地域社会へ
   ・あなたはあなた自身で行く用意ができているか
   ・施設から地域社会へ:その戦略
   ・人々を出させよう
   ・州の施設でピープルファーストを始める
■健康と安全
   ・芸術とセルフアドヴォカシー
   ・選ぶ:自由時間にする興味深いこと
   ・自分で健康上の選択をする
   ・自己防衛
   ・家庭の安全
■人間関係
   ・大人同志の関係
   ・友人関係のガイド
   ・結婚



あとがき

 ―――昨日夢を見てね。将来もし、今は知的障害者と言われている人達がもっと世の中に出てきて、彼らの方が主流になったら、私の方が「あなたはいろいろと考えすぎですね、カウンセリングでも受けたらいい」なんて言われるんじゃないかって……。
 ―――「普通」というのは、勝ち続けている人達の基準だと思う。

 この論文は直接的には、1993年の末に京都で出会った1冊の雑誌から生まれたものである。12月28日のことであった。私は長崎へ中学校時代からの友人・先生達と旅行し、そして新門司港から夜行のフェリーを使い、神戸・大阪を経由し、旅の最終地点である京都へとやって来ていたところであった。私達は、(どうしてだったかは覚えていないが)ふらっとそこにあったジュンク堂という大きな書店に立ち寄った。私は幾つかの棚を見て回ったが、最後に社会福祉の棚を見た。そしてしばらく何冊かの本を物色していたのだが、ふと、『季刊福祉労働』の最新号が出ているのに気が付いた。これは、つい数日前に刊行されたもののようであった。その号は、知的障害者の国際会議に日本の人達が参加したことを特集していた。ちょうどその頃私は、社会調査実習の自分のテーマとして知的障害者を取り上げようとしていたが、あと2ヵ月程で書き上げなければならなかったにも関わらず、方向を見いだせずにいたのである。書店でその本を買った時には、参考資料程度のものとして取り敢えず購入してみたという程度であった。なにしろ、頼るだけの資料もまったくなかったのだ。しかし、結果としてこれが当たりであった。
 それからが早かった。旅行中に特集を読み、すっかりピープルファーストの虜になってしまった私は、1月3日に千葉の下宿に帰ってきた。幸いにも、『福祉労働』に文章を寄せていた方々のうちの何人かは立岩先生がご存じであったので、電話番号を聞き出し、その日のうちに何人かの方々に電話をかけ、ピープルファーストに関する資料について問い合せたり、幾つかのインタヴューのアポを取り付けた。そして、新学期が始まるまでにある程度の情報を得ることができ、英語のものは翻訳し、2月12日には浜名湖畔にいたのである。『福祉労働』によって、まず何とか社会調査実習用のレポートを書くことができたのである。
 しかし、これは「旅」のほんの始まりであった。それからこの「旅」は1年近く続き、これを書いている現在も続いている。論文を作成する旅の先々で、いろいろなことを学ぶことができたし、考えることができたし、体験できた。そして、今までとは比べものにならないくらい多くの方々を知ることができた。この「旅」は、私にとって得がたい経験となった。
                    *
 最後に、意地悪な質問をすると、ピープルファーストは、実際にどのような体制をとっているのだろうか、本当に当事者が組織を運営しているのだろうか。やはり、実際、どのように動いているのか。これは、もちろん全ての組織に当てはまることではないであろうが、中には、一応当事者が表に出ているように見えるけれども、結局誰かが管理しているという場合もあるのではないか? 合衆国の場合、ARCの影響力がかなり大きいらしいが(例えば資金面で)、今回の調査ではそのあたりの事情がよくつかめなかった。
 それに、「自立」はどこまで可能なのか、疑問の残るところだと思う。理論的にはどんなに障害が重くても自立が可能なのだが、アメリカやカナダにおいても、まだそれは未知数のようだ。しかし現時点でこうは言えるだろう。重度の人の自立が不可能と結論を出す前に、まだ我々は経験していないし、また、最重度を救うという発想はそれはそれで良いのだが、「今」できる者を最重度と同じように扱い、できない状況に置いておくべきではないのだ、と。ピープル・ファーストという運動は、このような発想を持つものなのかもしれない。国際会議に参加した方々の一人が、次のように話していた。
  「 100人に呼び掛けて、1人しか自立に成功しなかったとしても、それを失敗だった  と言うんじゃなくて、1人でも成功したらいいじゃないかと言うことです。」
 ……ここまで長々と書いてきたが、結局セルフアドヴォカシーは、「とにかくやってみる」のである。自分をせめずに、何か新しいことをやってみる、少し世の中に逆らってみる。ローゼンバーグ(ボブさん)の言葉をかりると、「It's ok for you to feel in a certain way.(あなたの感じることはみんなすばらしい)」だ。しかし、これは私自身にもあてはまることではある。
                    *
 多くの方々が、私のような怪しげで役に立たない者に少しでも付き合ってくださったことに、改めて、有り難く思います。
 また、自分で考えるということがなんて難しいんだと実感した1年でもありました。本稿は、社会学の論文としては物足りないかもしれない。私には、まだ社会学は手におえるものではない。しばらくは、修業を積もうと思います。
 1995,1,14                           寺本 晃久 



文献
 ※配列に関しては、次のようにした。今回使用した資料には、未公刊の資料、著者・発  行年の不明な資料が多いため、それらは文献表とは別に併記した。それぞれ、第3回  ピープルファースト国際会議配付資料、キャピトル・ピープルファースト関連、アメ  リカ合衆国で入手した資料の順に配列した。また、文献表は:英文…アルファベット  順、邦文…50音順、である。

1,第3回ピープルファースト国際会議配付資料
 ・Everything You Want to Know about Setting Up and Supporting a People First
  Group(ロンドンのピープルファーストの当事者向けマニュアル)
  “What Happens When a Local Group Gets Money”
  “Support for Your Group”
  “Things to Think About for Your First Meeting”
  “Jobs to do for the meetings”
 ・Marilyn Heintz,Labels Hurt People 
 ・Peter Park,A Real Home
 ・People First of Ontario,We are PEOPLE FIRST OF ONTARIO  12Years Old...And
  Still Growing(ピープルファースト・オブ・オンタリオの系譜)
 ・People First of Ontario's Position on the Closure of Sheltered Workshops
2,キャピトル・ピープルファースト関連
 ・Barbara May Blease,Definitions and Unique Phrases
 ・Capitol People First,Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護モデル
  に関するノート)
 ・Capitol People First,Statement regarding Unmet Needs for Assistance in
  Independent Living of Persons with Developmental Disabilities :The Response
  of Capitol People First to the Local Needs Assessment and Priorities Survey
  of Developmantal Disabilities Area Board III
 ・Notes for Chapter on Facilitation of Persons with Cognitive Disabilities(高
  山敦子による抄訳「認識障害をもつ人のファシリテーションの問題についてのノート」  が『季刊福祉労働』61:98-102に掲載されている。)
 ・Outline of Speech by Barbara Blease,USA
 ・Outline of Speech by Connie Martinez,USA
 ・「「国連・障害者の10年」最終年イベントでのロバート・R・ローゼンバーグによる  プレゼンテーション」

3,アメリカ合衆国で入手した資料
 ・By-laws(Self-Advocates Becoming Empoweredの規約)
 ・The Guidebook for Public Speaking(People First of California,Inc.のマニュア
  ル)
 ・People First of Virginia,Inc.(People First of Virginia,Inc.のマニュアル)
 ・Learning About Voting and How Government Works A Voter Education Handbook
  (People First of Virginiaの投票のためのマニュアル)
 ・Programs Operated by Persons with Disabilities(People First of Virginia Bea  ch,Inc.のパンフレット)
 ・People First of New Hampshire Issue Eight(People First of New Hampshireの
  ニュースレター)
 ・Officer Handbook(People First of Washingtonのマニュアル)
 ・Transition to Independence Program(Endependence Living Centerの発達障害者用
  自立生活プログラム)
 ・Youth Leadership Training Curriculum(Project P.I.E.のリーダー養成プログラム
  &資料集)
 ・第3回全国セルフアドヴォカシー会議の全ての分科会のテープ
 ・第3回全国セルフアドヴォカシー会議のプログラム
 ・その他、いくつかの団体(People First of Nothern Virginia、Advocating Change
  Together,Inc、Oklahoma People First)のチラシ等
 「ピープル・ファースト(知的障害者の当事者団体)の資料」(斉藤明子・訳)


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中邑 賢龍・太田 茂・笠井 新一郎 1994 「電子機器を利用した知的障害を持つ人々の生活支援に関する研究――電子機器利用可能性の検討」 厚生省心身障害研究[1994:184-191] 
額田 洋一  1994 「成年後見法制度要綱「私案」」,『ジュリスト』1055:101-108
ノーマライゼーションの現在シンポジウム実行委員会 編 1991 『「ノーマライゼーションの現在――世界の到達点は」資料集』,ノーマライゼーションの現在シンポジウム実行委員会(福祉労働編集委員会内 03-3261-0778)
ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会 編 1992 『ノーマライゼーションの現在――当事者決定の論理』,現代書館
野田 愛子 編 1993 『新しい成人後見人制度をめざして――意思能力が十分でない人々の社会生活を支えるために』,東京都社会福祉協議会東京精神薄弱者―痴呆性高齢者権利擁護センター
野田 愛子  1994 「成年後見制度の展望」,『ジュリスト』1059:163-170
長谷川 泰造 1994 「精神薄弱者福祉法の問題点」 厚生省心身障害研究[1994:015-021]
久田 則夫  1994 「知的障害ケア現場におけるインフォームド―コンセントの導入に       関する研究――知的障害者の自己決定―自己選択を支援する社会環
境を目指して」,厚生省心身障害研究[1994:192-198] 
ヒューマンケア協会 1994 『知的障害者のためのコミュニティ―プログラムの研究』,ヒューマンケア協会(〒192 八王子市寺町23 0426-23-3911   fax:0426-23-7348)
ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会 1994 『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』,ヒューマンケア協会
細川 速見  1992 『92年後期ガイドヘルプ活動第1回ガイドヘルパー研修会 テーマ:知的障害者の理解のしかた――保育―教育の現場から』,たびだち地域センターゆうゆう
堀 智晴―月川 至―染川 博子―香山 よしの 編 1994 『知的障害者のガイドヘルプ活動その考え方と実際――たびだち地域センター―ゆうゆうの試み』,たびだち地域センター―ゆうゆう
堀  正嗣  1994 『障害児教育のパラダイム転換』,柘植書房
松上 利男  1992 『92年第2回ガイドヘルパー研修会 テーマ:知的障害者の理解のしかた(U)――青年期―大人の時期』,たびだち地域センターゆうゆう
八代 英太―冨安 芳和 編 1991 『ADA(障害をもつアメリカ人法)の衝撃』,学宛社
安里 芳樹  1993 「施設職員としての座標をゼロから確認させられた体験」,『季刊福祉労働』61:78-86
八巻 純   1993 「ピープルファースト」,『社会新報』1993,9,7
山田 富秋・好井 裕明・山崎 敬一 編訳 1987 『エスノメソドロジー――社会学的思考の解体』,せりか書房
『ゆうゆう通信』 たびだち地域センター・ゆうゆう機関誌
要田 洋江  1994 「福祉社会へ向けてのアメリカ市民の取り組み」,『解放社会学研究』8:109-141
横須賀 俊司 1992 「「障害者」の自立と自立生活センター」,『ノーマライゼーション研究』1992年:


UP:1996 REV:20081126
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