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ドイツ視察・交流旅行を終えて

四十物 千鶴子(河上) 1995



  私は生まれて初めて、海外へ行って来ました。8月18〜25日までの予定でドイツのフランクフルト、ケルン、バーデンバーデンで障害者団体との交流施設の視察という目的でした。私がぜひ行ってみたいと思ったかというと、始めの計画ではオランダ・オーストリアとか行けるかも知れないという事だったからです。
  私は、ずっと医療問題に関心があって「安楽死」とか「脳死・臓器移植」の事について聞きたかったのです。オランダでは「安楽死」が法的に認められており、オーストリアでは「脳死」状態になれば、明確な拒否カードを持っていないと臓器移植の提供者になってしまうという事を聞いています。実施されている国の障害者がどのように考えているのか知りたいと思っていました。そして、今、日本でも「脳死・臓器移植」が法制化されようとしています。しかし、オランダやオーストリアの障害者団体とのコンタクトが取れなかったのと日程的に困難とのことで今回はドイツだけになり、ちょっと残念でしたが、オランダ・オーストリアはドイツと近いから何か分かるかも知れないという期待を持っていきました。
  23日の予定ではフランスにあるストラスブールの強制収容所へ行くことになっていましたが、時間的に無理だという事でケルンとバーデンバーデンの間にあるハダマー記念館に行きました。
  ナチスの「安楽死」計画、「生きるに値しない生命」として大量に障害者が殺された。1941〜45年までの間に。「安楽死」施設は全部で、6つあったそうです。ハダマーはそのうちの一つであるそうです。
  第一期は40年1月〜41年の8月24日まで一酸化炭素ガスが使われていた。
  ハダマーでは、41年1月〜8月24日までの期間ガスによって殺害が行われたとのことでした。第1期では1万人。
  例えば、障害者はバーデンバーデンの病院から中間施設に10日〜2週間置かれ、その後、ここで殺された。
  何故中間施設が存在したかというと、
  1、経済的に成り立つように、それは書類上殺された日より遅く書くとそれだけ長く中間施設にいたという事になり、その期間の経費が施設側に入るから。
  2、関係者、親・家族が対応できないようにするため、中間施設にいるものと思っているうちに殺されている。
  何で障害者を運んだのかというと、郵便局のバス(灰色のバス)は昔は人も運ぶこともあったのだそうです。ハダマーの中庭にはその灰色のバスが3台まで駐車でき、大きなガレージがあり、そのガレージから通路を通って建物の中に入れたので、外部の人には知られずにすんだと言う。40年後半にガス室その他の施設ができた。病院の半分はベットもあり、患者さんが治療を受けられるように外見は整っていた。しかし、到着すると、みんな着替えさせられ、軍隊のマントのようなものを着せられ、医者の診察を受けた。カルテを作るのは医者が、死亡原因を60種類のうちから選んで書くためのもの。人体実験はここでは行われていなかったが、脳の摘出が行われていたので、脳を摘出する患者の肩に×印を付けられた。(摘出された脳は研究所、大学病院に送られた。)そして、別室で写真を撮られ、体重測定が行われた後、地下のガス室へ連れて行かれた。
  41年8月にハダマー閉鎖され、ガス室は痕跡を残さないように壊された。
  第2期、病院として42年の夏〜45年終戦まで新たに患者を受け入れていた。殺害の方法が変わって薬の大量投与と、食事を与えないで餓死殺害していた。第2期だけで5000人以上が殺された。第1期は、知的障害者(ダウン症)、精神障害者が対象だったのが、第2期には、障害者の範囲が拡大されて、知的障害者、精神障害者のみならず老人、病弱者、身体障害者も含まれた。また脳性マヒ者は身体障害と精神障害の二重障害者と見なされていたので、第1期から殺されていた。そして、安楽死計画の以前に不妊手術の対象にもなっていた。
  傷痍軍人も第2期からは殺害の対象となっていた。東ヨーロッパ(ポーランド、ロシア)の労働者が強制連行されてきて、結核などで数カ月で治らないとここハダマーに送られてきて殺された。
  43年にここに教育施設、養護施設が作られ、子供が送られてきた。両親のうちの片方がユダヤ人の子(42人のうち37人)2、3才〜17才までが殺されたが、どういう基準で殺されたのかはわからないと言う。書類が残っていないとのこと。5000人の遺体は集合墓地に埋葬されている。
  45年にアメリカ軍によって解放され。この施設の責任者3人は裁判にかけられて死刑判決が出された。(アメリカ人による判決)
  47、48年の安楽死裁判では(ドイツ人による判決。フランクフルトで)25人のハダマー関係者(医師、看護婦)が裁かれたが、2年半から8年半の懲役刑で、2人の医師に死刑判決が出たが、連合軍がドイツでの死刑を禁止したので、恩赦によって終身刑(25年)に減刑され、最後には10年で自由の身になったという。腹立だしい気持ちで説明を聞き終えて、地下のガス室跡に行く。地下室に入る階段は狭くて、車椅子がやっと通る位でした。ガス室は階段を下りて狭いホールがあり、ここでみんな服を脱がされて、ガス室に入る。今は、当時のままではないが一酸化炭素ガスが人の腰より少し上から出されたという穴の跡がかすかに残っていた。部屋の大きさは6畳あるかないかで、私達が入っただけであまり隙間がなかった。この狭い部屋に50〜60人一度に押し込まれて殺されたという。一酸化炭素ガスは死に至るまで30分位かかり、意識がはっきりしていて窒息死するのでみんな苦しんでいたという。部屋の上の方に小さな窓があり、ときどき医者がその窓を覗いてガスが足りないと分かるとガスを送っていたという。みんな死んだら、部屋を空けて空気の入れ換えをした後、遺体を奥にある焼却炉まで運んでそこで焼いた。脳を摘出する遺体は隣の部屋に移されて行われたという。遺体を運ぶ人は、暇な時には上で、遊んだり、酒を飲んでいたという。今は解剖室も焼却炉もふさがれていて焼却炉のあったところには実物大の写真が貼られてありました。一酸化炭素ガスの次に開発された毒ガス(ツィクロンB)は死に至るまでの時間が短くて運ぶのも簡単だという事で、第2期から使われたそうです。何故こんな跡が残っているところに今も精神病院がなされているのかという質問に対して、当時、安楽死に関わっていない精神病院はほとんどなかった。それをみんな壊して新たに建てるというと莫大な経費がかかるのと、ここにあるという事で、もう二度と同じ事を繰り返してはならないという、いましめの意味もあるので、わかって欲しいとのことでした。
  これでハダマーの説明と見学を終えましたが、ここに行くまでは人から聞いたり、TVで見たり、本を読んだりして、ある程度知識としては持っていました。今回実際に行き、そこにいる人から説明され見学して身に差し迫るものを感じてきました。今年はちょうど戦後50年だという事で、いろいろな行事や問題提起がなされてきていますが、その中で、ドイツナチスのやったユダヤ人の大量虐殺の問題は「シンドラーのリスト」「SHOAH」等、話題を呼んでいますが、ここでも抜けているのが、私達障害者(全ての)が大量に安楽死させられたこと、そして、その関係者が、罪に問われても減刑されて自由に生きていることを追及されていないし、問題にされていないと言うことです。そして50年前に起きた事が、もう二度と起こらないという保障はどこにもないと言うことを感覚的に感じました。やはり「生きるに値しない生命」として、今問題になっている「脳死・臓器移植」につながっていくと思います。本人が生きる事よりも他人の為になるということで、殺さ れて行くのが進めば、私達の命も危なくなるのです。これから、声を大にしてこの問題を一人でも多くの人に知らせ、私達と一緒に考え優生思想と闘えたらと思います。


UP:20060624
安楽死・尊厳死:ドイツ  ◇優生・ナチス安楽死・尊厳死  ◇Archive
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