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第20章「社会的経験の特異性とコミュニケーション」

渡邊 和宏

last update: 20151222


第20章

社会的経験の特異性とコミュニケーション

                               Watanabe, Kazuhiro
                                 渡邊 和宏

T はじめに

 障害者は一般的に純粋だ,純情だ,という印象やイメージを持っていないだろうか。あるいは,悪い言い方ではあるが,幼稚とか甘えているなどの印象やイメージを持ったことはないだろうか。おそらく,そのような印象やイメージを障害者に対して持ったことのある健常者は少なくはないはずである。そこまではいかないまでもコミュニケーションの仕方に健常者とは違った一種独特な雰囲気があるように,健常者のほとんどが感じているのではないだろうか。事実,私もこの調査を行う以前は,数少ない障害者への接触経験や,障害者に関する話題,障害者を取り上げたメディアなどから,知的であれ身体であれ,ある程度重度の障害者に対しては,漠然とそのようなイメージを持っていた。また今回調査を行った自立生活をしている身体のみに障害を持つ障害者の中にも,コミュニケーションに幼稚さや甘さを感じさせる者もいた。
 このようなイメージや印象を障害者が持たれてしまうのはなぜだろうか。また,このようなイメージや印象を与えてしまうことが,障害者のコミュニケーションにおける特徴であるとすると,この特徴はどのようにして生まれるのだろうか。この疑問への一つの答えとして,身体のみに障害を持つ場合と知的障害を持つ場合とを区別せず,そのような特徴を障害者であれば誰でもアプリオリに持っているものだ,と考える人もいるかもしれない。
実際,漠然とそう思っている人も健常者の中には多いのではないだろうか。だからこそ,養護学校の教師を含めて健常者が障害者に接する際,幼い子どもに対しているような接し方をしてしまうのではないだろうか(この事実については後で述べる)。確かに知的障害を持つ人に関しては,その障害の特性が原因となって上のようなコミュニケーション上の特殊性を持つことになった場合も多いだろう。しかし,今回の調査で我々がインタビューを行った身体のみに障害を持った障害者に関しては,一部コミュニケーションに幼稚さや甘えを感じさせる者もいたことは先に述べたように事実だが,上のような特徴が顕著であるような障害者はあまり見られなかった。従って,こういった特徴は障害者なら誰でも持っているものだ,とするこの考え方は事実に反することがわかる。
 今回の調査によると,先の疑問への答えとして,大きく分けて二つの要因があるようである。一つは,施設や家庭,あるいは養護学校といった,特殊な社会の中で育ったことによる,社会的経験の少なさや特異性によって,一般の健常者社会におけるコミュニケーションがうまくとれなくなってしまっていることである。もう一つは,障害を持つことからくるコンプレックスによって,独特なコミュニケーションの取り方をしてしまうということである。そしてさらに,このようなコミュニケーション上の特徴は,純粋さや幼稚さといったイメージや印象を他者に与えるだけではなく,人間関係がうまくいかないという事態を引き起こしてもいるのである。今回インタビューを行った障害者の中で,こうしたことからくる,健常者社会での人間関係に対しての苦手意識について語る人は多かった。また,家庭や施設,養護学校などを出て暮らそうとする障害者にとって,健常者社会の中での人間関係がうまくいかないということは,もっとも大きな問題であるとする人もいた。
 以上のことをふまえて,上の2つの要因のうち特に前者については多くの事例が集まっていること,また,後者についてはE.ゴッフマンの『スティグマの社会学』(Goffman[1963=1970])などに詳しく述べられていることから,本論文では,前者,つまり,社会的経験の少なさや特異性からくる,障害者のコミュニケーションにおける特徴を中心に述べていきたいと思う。

U 社会的経験の少なさからくる,社会的スキルの不足について

 我々は成長していく過程において,他者との関わりの中で多くのことを学習,内面化し,その社会に適合した行動パターンを身に付けていく。これは一般に「社会化」と呼ばれているものである。そのようにして内面化されるものに,人と関わる技術,関わり方のルールといったものがある。我々はこういったものを内面化していることによって,他者と関わる際に,相手の考えていることを察する,言葉の裏を読む,相手が自分をどう見ているか判断する,さらに,その「場」に合わせた振る舞い方をする,といったことができるのである。そして,このような技術は,個人差はあれ一般的には,年を重ねるごとに熟達していくと考えられており,「年齢相応」な技術力の水準といったものがあるとも考えられている。ここでは,このような技術のことを「社会的スキル」1)と呼ぶことにしよう。
 障害者はこの社会的スキルがなかなか身に付かない。それは長いあいだ,施設や養護学校などで生活をし,その中の障害者と教師や施設職員としか接する機会がなかったり,家の中に閉じこもり家族以外とほとんど接触する機会を持たなかったりした場合である。これは,彼らが関わる人間の数が絶対的に少ないことによって,年齢相応の技術を身に付ける機会を持たなかったことによると思われる。施設,養護学校,家のどこにいたかによって,あるいはそれぞれの形態によっても違いがあるだろうが,いずれにせよそういった機会が絶対的に少ないことは確かなのである。
 ここではまず,家庭,施設,養護学校の順に,そこでの社会的経験や人間関係について語られたインタビュー結果を載せることにする。

  <家庭について>
Aさん2):「そうねえ,本当町田に来るまでごく限られた人間関係内で生活してるじゃない,家にいれば親と弟だけだしね,自動車学校行ったって言ったってねえ,同じ地域の生徒達ってなると20人ぐらいの範囲くらいで,町田に来ていよいよいろんな人と会うようになったから,人間関係に慣れてない状態だったでしょう。」
質問者 :「人間関係に慣れてなかったってのは大きいんですか?」
Aさん :「うん,大きい,それもやっぱり最初の,あれじゃない?障害者が出ていくときの一番の大変さじゃない?」
(中略)
質問者 :「自分が長い間家の中にいたから苦手になっちゃってるんじゃないかなってのはありますか?」
Aさん :「やっぱ,親としか接触しないでしょ。私怪我してから10年くらい家から出なかったから,その間に育つ社会性は全然ないところから始まったよね。」

<施設について>
Bさん :「今までにいた施設にいると全部施設の職員が,行政的な手続きやあるいは,身辺処理とかそんなもの全部,向こうからやってくれることが多かったんですが,今度は独り暮らしをして自立したわけですから,自分が介助者あるいはボランティアの方に指示をしなければいけないということがあるんで,長いこと施設暮らしをしていたんで,何をどうやっていいか分からなかったんですけど,今もう4か月経ったんで見えてきたかな。」

 施設における社会的経験については,『生の技法』のなかで,施設の特徴の一つとして以下のように述べられている。「第一に,現実の一元性である。一般社会の住人はだれしも,「家庭生活」・「職業生活」・「レジャー」・「政治活動」など比較的独立した複数の「生活空間」を持っている。それらは,時間的にも(「勤務時間」,「日曜日」,「アフターファイブ」,「深夜」など)空間的にも(「オフィス」,「寝室」,「盛り場」,「学校」など)区分がなされており,その中から一つを選び,部分的,限定的に関わることができる。これとは全く対照的に,施設での生活には,ほとんど唯一の現実しかない。常に,施設に特有な生活パターンに従い,常に同じ入所者たち同じ職員たちとの人間関係しかもつことができない。」3)

<養護学校について>
Cさん :「私たちって,育ってくる間に耳で情報を聞いて,社会性を身につけていくというところがあるでしょう。でも養護学校って,それほど刺激がねえ,全入4)になって,よけい(障害の)重い人が入ってくるし,言葉も出ない人が入ってくると刺激ってないじゃない。そういう点で純粋だし,真面目だし,健常者の友達の不足というのが多々あるんじゃないの。普通の社会の中で健常者と言われる人たちは段階を追って学んでいって,吸収してきたことが障害者の,特に養護学校に行っている人たちって,狭いから,学校と家とか,学校とボランテアとか,そういう関わりしかないでしょ。」
(中略)
質問者 :「養護学校から普通学校に移られたということですけど,たいてい,そのまま行ってしまうと思うんですが。」
Cさん :「何人か出たし,何人か残ったけど,私はそのまま行こうと思ってたから,勉強もしてなかったけど,中学から出ると言ってた子は勉強してたから,前から。で,私はそんなことはなくちゃらんぽらんに遊んでたから,余計ついていくのが大変だったんだけど,先生に「同じ泣かすなら、ここにいるより早く泣かせちゃったほうが,いい。」って言われたらしいのね,親が。六年の二学期だったから大変だったけど。そのあと養護学校に行っている友達とも今でも付き合ってけど,サイクルが違うのよ。学校から帰って,宿題をやってとか,遅いからね,私の場合。そういう時に電話とかかかってきちゃうと,理解できないじゃない,相手はそういう場面を。だから,喧嘩になったりとかありますよね。差別をしているわけじゃないんだけど,刺激が多いじゃない,普通中学に行くと。いじめられたけど,それだけの刺激。で,そういう人たちと遊んでいる方が楽しくなってくるのよ。養護学校の友達と遊ぶより。」
(中略)
Cさん :「(普通中学で)ああ,私もやりましたよ。鞄つぶして行ったりとか。学校指定の紺と白とグレイのセーターしか着て行ってはいけないと,みんな紺を着ているから,私は白かグレイにしようとか,みんな黒の靴はいているから,私は茶色にしようとか,そういうことを結構やってたから,いじめられながらも。で,結構不良の友達も多かったんだ。そういう点で刺激あったね。だから合わないのよ,養護学校の友達としゃべっていても。「これ知ってる?」って言っても「知らない。」とかさ。違うんじゃない,養護学校の友達は学校に行って,帰ってくるというぐらいでさ。学校でも先生いるぐらいで。でも,普通学校そうじゃないじゃない。「あの人がかっこいい。」とかさ,「あの先輩がすごいすてき。」とかさ。クラブ活動がああだこうだとかさ。そういうたわいもないことの話題が通じないと,(養護学校時代の友人とは)疎遠になってくる部分てあるでしょう。」

Dさん :「養護学校に通学といったって,スクールバスだったんで,ほとんど社会的なそういう楽しみをしてなかった。中学校を卒業するまではしてなくて,高校に入っていろいろな自分の趣味が広がりますよね,そしてだんだん外に出て行くにつれて自分がしたいような,そういう気持ちがわき出してきた。」

 家庭の中に閉じこもることや,施設や養護学校での生活をすることで,いかに他者と関わる機会が少なくなるかわかる。関わる人間の絶対数が少ないだけでなく,生活領域の狭さから,多様なタイプの人間と関わる機会が持てないという状況もある。また,養護学校や施設といった,家庭に閉じこもるよりは人と関わる機会の多い環境においても,社会に出て暮らすことに比較してはるかに人と関わる上での刺激が少なく,いずれにせよ,社会的経験が健常者社会で暮らす者に比較して少なくなってしまうことに変わりはないのである。こうした環境の中での長期間に及ぶ生活は,社会的スキルが年齢相応に身に付くのを妨げ,コミュニケーションのうまくとれない障害者を生み出すのである。
 さて,ここからは,コミュニケーションを構成する要素を「他者理解」と「自己表現」の2つに大きく分類し,それぞれに対応した社会的スキルの不足について,そして,そこに付随したいくつかの社会的スキルの不足について,それぞれを分けて細かく述べていくことにしよう。

Aさん :「(他人の言葉の)裏を見るってことが全くできないで,後になって,あれはああいう意味だったのかってのがよくある。あれはいたわりだったのかとか,さりげなくその仕事を他の人にやってもらいたいってことの表示だったのかとか,後になればいっぱいあるでしょ。あと,会社に行くようになって初めて健常者の人,会社ぐるみの,好ましい行為ってものに出会ったのも初めてだったんじゃないかな。」
質問者 :「それはどうしてなんだろうかっていう。例えば人の考えていることを推し量っていくことが苦手って人もいますよね。」
Aさん :「乏しい知識で推し量ってもそれが見当違いなことが続くっていうの,私の場合は。」
質問者 :「例えばどういう見当違いですかね。」
Aさん :「よくあるんだけど,向こうはこっちに命令したいことがあって,だけど言葉としても譲ったしゃべり方って仕事の場でもするじゃない。そうすると私は譲られたもんだと思って,向こうから見ればいい気になったような受け答え方をしてて,私は悪気はないんだよ,やってあげます的ニュアンスで言ってしまった時に向こうにしてみれば変なわけじゃない,会社の仕事の命令なんだから。その通りに,善意も悪意もないように受け取ればいいものを,そんなふうに,特別扱いされて喜んでるんじゃないのかこの人みたいに思われるような細かいことはいっぱいあった。」
質問者 :「特に日本ってそういうのが多い社会だって一般的には言われるんで。」
Aさん :「その訓練ができてないんだよね,今もってだめだ私。だめだなあ。」
質問者 :「そうなんですか? 一番だめそうに感じないんですけど。」
Aさん :「いや,だめなんだ。もっと鍛えていかないとまともな人間関係作っていけないんじゃないかってくらいだめなんだ。」

Eさん :「日本文化のもつ,回りくどい言い方,言葉の裏を読むとかそういうこと,その人にとって,当事者(=障害者)にとって,いかにわかりにくい社会になってるかってことよね。」

 まずは,「他者理解」に対応するものからである。我々はコミュニケーションにおいて他者を理解しようとする際,相手の発する言葉の表面的な意味を理解するだけではなく,相手の言葉,態度などをその場の文脈に照らし合わせて,相手が考えていることを推測する。我々の社会には,「本音と建前」といわれるような,表面的な言葉や態度の裏に本音があるとか,ものを頼むときにわざと腰を低くして頼むといった状況がたくさんある。このような状況の中で,他者とうまくコミュニケートしていくためには,相手の考えを推測する能力は不可欠となっている。こういった推測は,相手に関する情報を過去の経験に基づいてその場の文脈に照らし合わせることを,無意識あるいは意識的に行なうことによって可能となる。だとすれば,他者と関わる経験が少なかったり,色々な「場」の経験を持たない,つまり,「文脈」の知識が少なかったりする障害者にとって,このような推測は大変困難なものであるのは当然であろう。実際,上のインタビュー内容の他,例えば,不動産屋などで,親切を装った対応をうのみにし,結局余計なお金を取られてしまった経験なども語られた。
 次に,コミュニケーションのもう一つの要素である,「自己表現」に対応する社会的スキルについて述べることにする。

Aさん :「やっぱ,言葉のコミュニケーションがものすごいへただってことがよくわかった。簡単に,課長を前にしてこれだけの話をするっていうのは考えられないよね,ほとんど,ハイとイイエしか言えないんじゃないかってくらい。長いセンテンスで話せないっていうか,この仕事に対して自分はどういう心構えでいたいかってことを説明できない,説明する内容は持ってるんだよ,それを相手がどう理解するかななんて考えてしゃべってるうちに,しゃべれなくなっちゃうんだよね。そういう,ちゃんと自分の意志をちゃんと表明して,事務的に話すってことの訓練をして来なかったせいかなあ。」

 言葉による表現の能力というものは,多くの他者との言葉によるコミュニケーションの繰り返しによって経験的に身に付いてゆくものである。思い通りに自分の考えなどを表現するためには,何をどのように話せばどう伝わるかある程度わかっている,あるいは推測がつく必要があり,そのような理解や推測は過去の経験に基づいてなされるのである。ここでは,閉じた社会で暮らしてきたことによる社会的経験の少なさによって,言葉による表現の能力を弱くしているということがわかる。
 ところで,この自己の表現能力を応用し,さらに先に述べた,他者や「場」に対する理解を組み合わせてなされるものに,「状況に対応した振る舞い方をする」ということがある。例えば,我々は,私的な場所と公的な場所とでは話題や話し方,態度など「振る舞い方」を使い分けているものである。こういったことも,人間関係の「場」の経験や知識の少ない障害者にとってはなかなか身に付いていないものなのである。家庭を出て生活を始めてから一般企業にアルバイト就職をしたある障害者は,就職当初を振り返り,「社交辞令などというものを全く知らないし,なかなか言えるようにならなかった。」と語ったが,これも「状況に応じた振る舞い方ができない」ことの一例であると言える。

質問者 :「話題とかで困ったことってありますか?」
Aさん :「あるよー。映画も行かないしディスコも行ったことないしね,野球観戦コンサート絶対行かないしね,寒いからスキー嫌でしょ,溺れちゃうから泳がないでしょ,そんなようなとこあるよ。だって美容院だってはやりだから行けるとかじゃなくって,車椅子で行けるところ選ぶじゃない。だから生活の仕方が違うじゃない,生活にかかる時間とか。病院に行く数は他の人の何十倍も行ってるし,かと言ってお金の入り方はこっちは年金という税金で入ってくるわけだから,自分で獲得したペイじゃないからそういう感覚の違いって微妙にあるけど。話題なくなることはしょっちゅうあるよね。」
質問者 :「家にいた時ってのはテレビとか?」
Aさん :「うん。テレビ見るか本読むか。」
質問者 :「わりと,どんなものが流行ってるかとか,こんなタレントが人気があるとかってのは。」
Aさん :「案外強いかもしれない。でも逆に他に興味が出てきたら,今の音楽ちっとも興味なくなっちゃたから,今の方がとろいかもしれない。」

 コミュニケーションを円滑にしたり,「場」に応じた振る舞いをするための重要な要素として「話題」の選択がある。ところが,社会的経験の少なさは,そのまま話題の少なさをもたらすのである。また,健常者とは違った,障害者独特の社会生活によって,社会経験が健常者とは異なってしまい,健常者と共通の話題が少なくなってしまう場合もある。こうして「話題の選択」以前に話題自体が少ない,という問題が起きるのである。Aさんの例では,閉じた社会を出て自立生活を始めた後さえも話題についてのこのような問題が起こっており,そういった生活をしていてさえ,話題の少なさという事態をもたらすことを物語っているが,これが養護学校や施設など,閉鎖的な,しかも,特異な社会環境の中で生活していた場合,さらにこの事態が深刻になることは容易に予想できるであろう。
 ところで,これまで社会的スキルの不足について述べてきたが,こういった状況をもたらした社会環境について,特にそのような社会環境を作り出している人々の意識について,障害者がそれらをどう評価しているかをもとに考えてみよう。

Dさん :「父がすごく古風な考え方でね,一般的に障害者に対する考え方ってありますよね,障害者は家にいるべきだ,人に手を借りて生きるのは甘えだっていう。」
(中略)
Dさん :「父がすごくあまりにも人の世間体というのを気にするので,人の手を借りてまで外に出なきゃいけないとか,あとやっぱり家族の手を借りて外に出なくちゃいけないっていう部分があったんで,駅まで出てくるにも,第一に迷惑みたいな,そういうふうに考えなくちゃいけなくて。」
質問者 :「その厳格なお父さんは,娘を外に出さないことで,社会的経験が少なくなってしまうのでは,というようなことを考えてはいなかったんですかね。」
Dさん :「全く考えてはいなかったと思う。できるだけ人様に迷惑をかけないようにして,うちの中にいる方が,むしろ自立だと考えていたかもしれない。私もそうすることが「いい子」だと思ってたし。」

Aさん :「まあ,それより根本的な,障害者はそもそも可愛がられて当然だって思ってるってのはやっぱり間違いだと私は思うしね。お金なんて取れるだけ取っていいんだぜって思うのも間違いだと思うしね,だからそういうような人とは根本的には話が食い違うかも知れないね,障害持ってもね。」
質問者 :「例えば養護学校行ってたような人と,Aさんみたいな人とで考え方の違いみたいなものってありますか?」
Aさん :「まあ,人それぞれだとは思うんだけどね。そういう生まれてきてから育ってきた環境はやっぱその人作るしね。違いが出るんだよね。そこのところを,間違ったものにとらわれて,勘違いしてるんだったらそれを振りはらうのはその人の努力しかないんだよね。だからそういう努力することを親が教えてないことがあるんだ,これが一番恐ろしいかも知れないね。」
質問者 :「努力することを教えてない。」
Aさん :「本人が,やっぱり,親のせいだけじゃない30,40にもなって30,40じゃ遅いんだけどね,少なくとも18,19の段階で自分の人間性自分で作るんだってことに目覚めてゆくじゃない,でも,そこに至るまでに親が教えてきたことってのは,障害を持つ子にとっては圧倒的なもんだよね。親としか接してないような場合には。」

Fさん :「親が(障害を持つ子どもに対して)社会的なそういうの,学ばせんでもいいと思ってる。自分の娘が誰かと外出するなど1回も考えたことないって親が多いんや。それからさあ,中学校ぐらいになれば,誰だって1年に1回くらい人を好きになるよな。だけど,障害者の親ってのは,自分の娘が恋愛して,娘が誰かと付き合うなんて全く考えないねん。養護学校の先生さえ,そう考えてないねん。」

 こう見てみると,障害者は家にいるべきだと考え,障害を持った子どもを家庭からできるだけ出さないようにするようなタイプの親の中には,そうすることによって子どもの社会的経験が少なくなり,社会的スキルが身に付かず人間関係を築く上で支障をきたすかもしれないということに,全く気づいてない者もいるようである。あるいは,気づいてはいない親の方が多いのかもしれない。また,こういった親の中には,子どもが家庭を出て自立し,様々な人間関係を築くようになるということなど全く考えもしない者もいるのである。この場合,社会的経験や人間関係についての問題に気づいていないというよりは,むしろ,子どもにとって年齢相応な社会的スキルが必要だとは考えていないのである。さらにまた,障害者の教育についてのある意味での「専門家」であるはずの養護学校の教師でさえ,これらの親と同様に,そうは考えていない者もいるようである。このことは,自立生活をしている障害者側と,健常者の考え方に基づいて作られた養護学校側との考え方が,根本的に違うということを物語っている。

Aさん :「それはあったね,やっぱり。関わり方がわかんないってのは今でもあるよね。一人一人別個なんだよね,さっき一般論で話せないって言ったけど。でも自分以外の人ってのは一般人なんだよね,ひとからげで。その人の生活がどうかってのは,その人に直接聞かないとわからないわけだよね。まあ,みんな友達作るときそうだと思うんだけど,探りながらじゃない。その探りながらってのは同じなんだけど,一つ違うのは自分の方が大変だっていう思い込みがまだ私なんかにはあるから,その人が言うことで,その人の言うことに,まして気の合わない人だったら反発することになりかねないんだよね。」

 これまで取り上げてきた人との関わり方における問題は,確かに,障害者だけのものではない。健常者であっても人とどう付き合ったらいいかわからないということはあり得るのである。しかし,社会的経験が圧倒的に少ない障害者が健常者社会に出た場合,この問題にぶつかることは確実なようである。

V 社会的経験の特異性からくる,他者への特異な対応について

 我々が,成長過程,日常生活のなかで,人との関わり方の技術,ルールといったものを内面化していくことについてはUの初めに述べた。また,U全般にわたって,多くの障害者にとっての成長,日常生活の場である,家庭,施設,養護学校といった環境が,彼らの社会的経験を少なくし,そのことによって,人と関わる技術やルールの内面化,つまり社会的スキルの会得が十分になされない,ということについて述べてきた。
 Vでは,障害者をとりまく,家庭,養護学校,施設といった環境における人間関係の持つ特異性についてと,そういった特異な人間関係の中で長期間過ごすことによって,その環境に特有な人との関わり方,ルールを身に付けてしまい,他者に対しての,健常者社会においては「特異」とされるような対応の仕方をするようになってしまう,ということについて述べていくことにする。
 ところで,本報告では,コミュニケーション上の問題を「社会的スキルの不足」と「他者への特異な対応」との二つに分けてしまっている。しかし,実際人間関係がうまくいかなかったり,健常者から違和感を覚えられてしまうという状況は,これらがそれぞれ独立して起こるばかりではなく,重なって起こる場合もあるので,この分割はあくまで理念的なものにすぎないことを断っておく。
 それではまず,障害者を取り囲む環境における社会的経験,人間関係について語られたインタビューを,家庭についてのもの,施設についてのもの,養護学校についてのもの,の順に前項では取り上げなかったものを取り上げて見て行くことにしよう。

<家庭について>
Eさん :「お母さんが全部してあげる,おかあさんとあうんの呼吸で生きてるわけでしょう。この状態を普通はね,子どもが越えて行くんだけど,障害者はそのまま行っちゃうわけよ。親はさあ,自分が子どもの要求を先取りしちゃってるってことに気がつかないんだよね。」

<施設について>
Gさん :「(町田ヒューマン)ネットワークの人(介助者)も来たときに,はじめに言うんですよ,今日はこれとこれとこれをやってくださいって。今慣れた人が来てくれたからいいけど,やっぱりこれから新しい学生とか来ると,事細かに言わないといけないみたいですけど,でも言えばやってくれますから。ただちょっと漠然と,これやって,あれやって,じゃなくて,細かく気配りできるように,自分自身も介助に慣れないとっていうか,介助を理解してないと。今まで,特に施設だと,一言言えば全部やってくれますよね。それと今は違うんだって認識してないといけないなって。」
質問者 :「そういうときは,やっぱり施設の方が楽だったなって思いますか。」
Gさん :「いや,楽だってことはない。でもやっぱり,やってくれる人に自分を合わせなくちゃいけない。」

<養護学校について>
Bさん :「やっぱり養護学校の先生っていうのは幼児感覚ですね,幼児感覚で接してました。まあ,その先生方もその障害者に合わせてそういう態度をとらざるを得なかったと思いますよ。それにしても,僕としては,なんでこんなにも幼児感覚で接するんだろうと,腹立たしさが強かったですね。」
質問者 :「小学校から中学校に移って,今までいた養護学校の社会とここは違うなと思ったことというのはありますか。」
Cさん :「サイクルが速かったですよね。日常生活のサイクル。養護学校なんて今全入ですけど,私たちのころは試験制度でしたから,試験に受からなければ入れないということもあって,1クラス7,8人ですから,で,先生でしょ。知的障害の方も何人かいたりすると,見てあげるといったらおかしいですけど,ご飯を食べさせてあげたりとか,勉強をちょっと手伝ってあげて,お帰りがその人達の方が早いんで,バスまで送ってって,午後,自分達の勉強をするとか,そういうのを私はやったんで,だから私は知的障害の関係をやっているのかなっていうのはありますけど。で,ぜんぜん普通でもなかったし,差別もなかったし,こういう人も同級生にいるのかなというだけでしたから。養護学校なんて電車通学ですから地域にお友達もいなかったわけで。いきなり全然知らない中学にポンと入れられて,普通クラスに。そうすれば,周りの人たちも障害の人がいるとは話には聞いていても,現実に見たことはないから,やっぱり抵抗はありますよね。で,45人ぐらいいれば,学校の授業も速いし,養護学校の先生と言いながらも友達みたいな関係のところもありましたから,そういう点でポンと入ると,速いんですよ。前は,「先生,ここわかんない。」とか,「ちょっと教えて。」とか,わかるまで,そういうのが職業の先生でしたから,ありますけど,今度普通学校に行くと,わかろうがわかるまいが進んでいっちゃうわけですよね。それはすごいことで,体育でも着替えなきゃいけないとか,階段を上ったり下りたりしなければいけないとか,そういうのでサイクルが速いなって。今から考えると,小学校からずっと上がっていけば別でしょうけど,いきなり中学から入っていったりしたら,「ちょっと構ってやろうかな,つっついてやろうかな。」というのはそれもしょうがないことかな。それって結構苦しいことで,でも先生達も初めてだから,どうフォローしていいかわからないし,結構いろいろありましたよ。」

質問者 :「養護学校に行ってどういうところがよかったなあって思いますか?」
Hさん :「ん……(考え込む)よかった? あんまりないんだけどね。養護学校時代にやっておきたかったなってことはいっぱいあります。養護学校っていうのは,先生方とかお母さん方とかに守られちゃうんですよ。だからどこかに行きたいとか言っても,『あなたは障害が重いんだから』って言われて。あたしは1回友達と3人で新宿に遊びに行こうって計画たてたんですよ。でもそのときに友達のお母さんがうちのお母さんに電話してきてダメになっちゃった。」

 障害者を取り巻く環境の特異性のうち,家庭,施設,養護学校の3つに共通しているものとして,まず,一言言うだけで,あるいはほとんど何も言わなくても,相手の方が自分の意志,したいこと,して欲しいことなどをくみ取ってくれる,そして,常に守られ,保護された状態にあるということなどが挙げられる。このような環境は,幼児期には障害者でなくとも置かれるものであるが,多くの場合子供は成長するにつれてそういう環境を脱し,親や学校も,子供がより厳しい環境に適応できるよう,徐々にそのような環境を作らないようにしていくのであって,ある程度の年齢をこえてもそのような環境のなかだけで生活をする障害者の状況は特異だと言える。また,この3つに共通するもので,たびたび言われているものとして,「介助する側」と「される側」という関係が固定してしまっているということが挙げられる。ところで,こう見てくると,これらは皆「一方通行な人間関係」ということに抽象できるのではないだろうか。して欲しいことをくみ取ってくれる,守られる,介助される,どれも一方的に「される」関係なのである。
 次に,特に,普通学校と比較したうえでの養護学校における人間関係の特異性として,教師と生徒という関係というより友達感覚であるとか,常に面倒を見てくれるなどといったことが挙げられる。

Aさん :「人の目を気にする,自分が世の中で一番不幸だと思い込む,守られて当然だと思い込む,女扱いされてないと思い込む,世の中の役に立たないと思い込む,そんなような,自分に対する認識の違いというか,勘違い,それが長い時期あって,最近やっとものがわかりかけてくるといろんなことが見えてきて,自分のことも見えてきて。」
(中略)
Aさん :「17,18なら分かるけど,その時(自立を始めてアルバイト就職した時点)すでに20(代)の後半になっててなんて情けないことだろうとは思うけれども。やっぱり甘えってのはあるよね。権利ばっかり主張して,義務を完全に放棄した障害者の姿ってものがそこにはあったかも知れないね。やってくれたことを,なにもありがとうございますって受ける必要はないんだけど,当然会社が雇うって決めた人間に対してするサービスだから当然受けていいんだけど,当然の挨拶もしなかったって感じ。」

Fさん :「障害者の好きな言葉にな,仲間になろう,ってのがあるん。ボランティアになってるだけで,仲間だ,とかな。仲間ってのはさ,普通は関係がある程度親密になってから,結果として仲間になるんやろ。そういう障害者ってのはさあ,外に出たとき,どれくらい私を助けてくれる人がいるだろう,という見方をしてしまうん。」

Iさん :「自立,養護学校で自立,たぶん言ってると思うのね。で,やってたってこんな程度の結果しかないって言うか,自立してくために何が必要か,やっぱりその社会性を身に付けることとか,そういうことってのは小学校中学校の中で障害のある人とかない人とか付き合いながら,障害持ってる人ってのは,健常者ってのはこういう人だなとか,こういう風に言えばこう返ってくるんだなとか,こうすれば手伝ってくれるなとか,まあ,障害持ってればいじめられるなとか,そういうのっていろいろ経験して社会的な,社会性ってのは身に付くと思うんだけど,養護学校行けば親とか教師しかいないわけだ。ずっと保護されて,自分から何も言わなくても全部やってくれる…」
質問者 :「その社会性みたいなものに気が付かないままに大きくなってしまう…」
Iさん :「だから世の中に住んでいるのは,もう自分たちの周りにいるのは,教師とか親とかそういう人たちみたいな人ばっかだと思ってれば,それは大間違いだし,障害者だっていったって殴る奴がいるし,蹴落とす奴はいるし(笑)全然違う奴はいるし。」

 上で述べたような人間関係の中だけでの生活を長期間続けた障害者は,そこでの独特な他者への対応の仕方が身に付いてしまっており,それ以外の人間関係の形態を知らないため,その外に出ても同じような人間関係の形態を求めてしまいがちになる。そしてその結果として,他者へのそういった対応の仕方が,健常者社会においては「特異」とされてしまうのである。ここでは,その特異な対応として,過度に依存的であるとか,守られて当然だと思い込むとか,自分の考えを一方的に相手に押しつけてしまい,相手の考えとの兼ね合いのなかで人間関係ができ上がっていくということを理解できない,などを挙げておく。
 もちろん,上で述べたような人間関係の形態だけではなく,他のタイプの,健常者社会に見られるような多様なタイプの人間関係の形態が存在する環境にも触れることができるのであれば,「他者への特異な対応」という問題は,そう深刻なものにはならない。しかし,Uでも述べたように,在宅の障害者で家庭が障害者を積極的に外の社会に触れさせようという考えである場合以外,彼らにとっての生活の場はその中だけなのである。従って,彼らの触れる人間関係の形態もここに挙げたようなものだけ,つまり一元的であるということになり,「他者への特異な対応」が深く染み付いてしまうのである。

Dさん :「私たちは,養護学校や家庭の中で,優しくされたことがないんです。だから,優しくされたり親切にされたりすると,その優しさにどっぷりと浸かってしまったり,甘えたり,それの相手が異性なら好きになってしまったりということがあるんですよね。相手は特別な感情を持っているわけではないのに,一方的にそうだと思いこんでしまう。で,結局相手に負担をかけてしまう。逆に,優しくされたときに,優しさに慣れてないものだから,「えっ、この人いったい何?」って拒絶してしまう場合もある。そうやって結局,いい人間関係を作る前に崩れてしまう,みたいな。」
(中略)
質問者 :「優しくされたことがないってことをおっしゃってましたよね。それはどういうことだろう,ちょっとイメージがわかないんですけど。」
Dさん :「例えば極端から言えば,障害者って近寄りがたいかなって思う人もなかにはいるし,かといって,さっきの施設の話でしてたみたいに,「もう,早くしなさいよ」みたいな,「介助してあげてるんだから」みたいな,早く何して何してって命令口調で言われる。」
質問者 :「養護学校ではどうでしょうかねえ?」
Dさん :「養護学校でも,どうでしょうかねえ,意地が悪くて,根性が悪いって人はいないでしょうけど,でもやっぱりこうって部分かなあ。」

 これまで述べてきたのは,「他者への特異な対応」のなかでも,その原因が守られることや,保護されることなど,「優しさ」や「いたわり」からなっているものが中心であった。ここでの例は,逆に,優しくされたことがないことによって特異な対応をしてしまうようになってしまったものである。いずれにせよ,「守られてしまう」あるいは「優しくされない」といった特異な人間関係の形態そのものも問題であるが,それと同時に,彼らの触れる人間関係の形態が,これまで挙げてきたようなものだけの一元的なものになってしまっていることも問題なのである。

 さて,これまで,特異な社会環境の中で暮らしてきた障害者の,他者への特異な対応について述べてきたわけだが,ここではそういった事態の具体的な発現の場として,「介助」そして「恋愛」の2つを取り上げ,これらに関する障害者の特異な行動について述べることにする。

質問者 :「最初の頃は?」
Aさん :「多少あったね。若い子が初めてうちに来たとき,どうやったら友達になれるだろうって真剣に考えたもんね。でも,それは一種余計なお世話かも知れないなと,相手だっていることだから,相手の微妙な気持ちがわかりもしないのにこれは余計なお世話だなとか思うけど。できればね,知り合う人みんなと友達になれたらこれほど幸せなことはないから,と思うけれども。」
(中略)
Aさん :「両方できる。さすがに年月を重ねてくると。友達にもなれるし,さっき言ったように,依存しちゃってこっちにむりやり引き入れようとすることもないし。」

質問者 :「介助者の中には,障害者の方とある程度一線を置いて付き合いたいって方もいらっしゃるみたいなですけど,そういう方をどう思いますか」
Jさん :「あんまり好きじゃない,同じ人間だし」

 介助者に対して友達関係であることを求める,あるいは,友達関係であると思い込むのは,一つには,依存的で親密な人間関係を好み,他者に対して一方的に自分の望む関係を求めてしまうことによるものといえる。この場合,介助者が,障害者との関係をあくまで「介助者と被介助者」という関係にとどめようという考え方であれば,障害者からのこのような一方的な求めや思い込みは負担となってしまい,介助者と障害者の快い人間関係は望めない。5)
 しかし,介助者に友達関係を求めるからといって,その障害者すべてが上のようなタイプであるわけではない。例えばJさんは,介助者にはボランティアも多く使い,介助者とは友達になる方が好ましいと語ったが,障害者の友人,あるいは介助者である健常者からも人間関係に関する相談を持ちかけられると語っており,人間関係にかなり精通しているらしく,おそらく他者に対して一方的に自分の望む関係を求めてしまうこともないだろうから,友達関係が望ましいという考えであっても問題にはならないのであろう。要するに,人間関係の求め方が依存的であるかないか,一方的であるかないかが,問題なのである。

Fさん :「性のこととか恋愛についてとかさあ,普段から同性と話したことがないんだよ。ないって言うか,そういう機会がないって言うか,友達と二人っきりになったことがないもんな。いつも介助のお母ちゃんが隣にいたら,女の話なんてできんやろ。そういう,だから,日常的なことに原因があるわけよ。普通ならな,同性とそういうこと話すことで学習していくんやけどな。」
(中略)
Fさん :「例えばさあ,障害を持つ男で,女の子とちょっと親しくなっただけやのに『俺の彼女や』って言い張って,その娘の家にしょっちゅう電話かける奴がいる。普通な,ちょっと親しくなったり,仲良くしたくらいで『彼女』なんて言わないやろ。例えば介助に来た女の子が,親切にするやろ,介助やからって。そしたら,毎日のように電話かかってきて,お父さんが何やあれって怒ったっていう話があるん。毎晩毎晩とんでもない時間にそんなわけもわからん男から電話かかってくりゃ,そりゃ心配するわな。」
(中略)
Fさん :「この前さあ,30歳くらいの女性から手紙もらったんだけど,初めてのな,それも男に出す手紙にさ,自分は30になっても性体験がなくてどうのこうのってことをずらずら書いてくんのや。普通書かないだろ,そんなこと。相当の仲になっても書かんよな。キッツイだろ,そんな事いきなり書かれたら。でもそんなんや。」

Kさん :「だからさ,施設の男って,好きになったボランティアの女の子に,一発目のプレゼントでいきなりダイヤの指輪送っちゃう。相手の女の子はとりあえずありがとうって受け取って家帰るでしょ,で,家に帰ってそれがダイヤだってわかったら,ものすごい驚くよね。1回目のプレゼントでいきなりダイヤだもんね。本人まさか相手がそんな気持ちだなんて,そんなこと考えもしないわけじゃない。そうしたら彼女どうすると思う? その後二度とその施設には行かなくなっちゃうんだよ。」

 「恋愛」における他者との関係は,年齢相応な社会的経験をしてきた健常者にとっても,わかりにくい人間関係であり,「恋愛」について悩む健常者は大変多い。この健常者であってもわかりにくい関係は,社会的経験が少なく,特異である障害者にとってはさらにわかりにくいものとなることは想像に難くない。また,一方的に自分の望むような人間関係を相手に求めてしまうことは,異性との関係においては,相手に全くその気がないのに「恋愛」という関係を求めてしまい,相手に負担をかけてしまうという状況をもたらしがちになるのである。

W 自立生活のなかで・おわりに・

 これまで,障害者が養護学校,施設,そして閉鎖的な家庭といった環境に長期間過ごすことによって,コミュニケーションの技術やルール,つまり,社会的スキルが十分に身に付かなかったり,コミュニケーションにあたって特異な反応の仕方をしてしまうようになったりする,ということについて述べてきた。しかし勿論,これまで述べてきたことが,障害者のコミュニケーションに関する問題を全て網羅しているわけではない。そこでここでは,これまでとは違った二つの事柄について簡単に触れておくことにする。
 まず一つは,多くの障害者が,コミュニケーションの仕方に健常者とは違った一種独特な雰囲気があるように感じられてしまったり,コミュニケーションがうまくとれなかったりする原因は,社会的経験の不足や特異性だけによるものではない,ということである。

Aさん :「(Aさん自身がしているアルバイトの仕事場で)そう。だから,お給料もらって仕事してるわけだから,ましてアルバイトの仕事なんだから,できることとできないことはっきり言えばいいようなものじゃない。できないと向こうが判断して他の人に回しても致し方ないことじゃない。だけどそういう当たり前な考えができなくて,できなきゃいけないんだとかね。障害者と見られるのが嫌だって意識は元々ないんだけど,自分の評価を落とされるのを我慢できないって言うの。いいんだよ,やったことない仕事なんだから,できないんならできないで。でもなんか,やります,みたいなさ。向こうだって迷惑してたんじゃない,できる人がやれば2時間で済むものを私が受けちゃうと1日かかるとか,きっとあったと思うんだ。」
質問者 :「そういう,自分はできるって見られたいって気持ちは,会社入ってすぐと,しばらく経ってからとではどっちが大きいですか?」
Aさん :「最初の頃。もうこの頃ないもんそういうの,あんまり。」
質問者 :「そうなんですか。」
Aさん :「受けた仕事を 100パーセントやって,他の人に任されるよりはいいとは思うけど,できないものはできないって言うもんね。前みたいに,強烈になんでもかんでも私はできるんだとは思わなくなった。」
質問者 :「それは,実際できることとできないことがはっきりわかったってことだけじゃなくてってことですか?」
Aさん :「できることとできないことがわかったってのもあるけど,前はわかったわからないってより,できることできないことってのを自分の中で認識するのもいやだったんじゃない。恨みつらみもあったかもよ。私がちゃんと健常者で,ちゃんと大学出てたらこんな仕事できて当たり前よとか思ってたかも知れないけどね。」

 今回の調査でも,上のようなことが語られた。これは,「できない」というコンプレックスから行動が必要以上に積極的になってしまうという例である。このほか,これとは逆に,コンプレックスによって行動が卑屈になったり,消極的になったりしてしまうといったことは一般的によく言われていることである。このように,障害を持つことのコンプレックスによって,コミュニケーションが独特になってしまうのも事実のようである。とはいえ,これまで本論文で述べてきたように,社会的経験の特異性や少なさと,それらによる社会的スキルの不足や他者への特異な対応をしてしまうということが,障害者のコミュニケーション上の問題の大きな要因であることは間違いない。
 次にもう一つは,障害者も多くの健常者と同じように,年齢相応の社会的スキルを身に付けなくてはならないのだろうか,健常者から違和感をもたれないように他者へ対応しなくてはならないのだろうか,という疑問である。この疑問は,健常者の生活の仕方を自分の生活の目標,基準とするのではなく,障害を持つ者としてありのままに生きるという,自立生活運動の一つの理念6)から導き出される。

Cさん :「(他者との関わり方について)それってやっぱり身をもって体験して,打ち砕いて行かないとわからないんじゃない。いくら言われてても,障害者だってみんな人格違うわけだから,みんなそれぞれうまい人はうまいし,健常者の人だって下手な人は下手だし,人それぞれ違うんじゃない。裏を読めるのがいいのか,読めないのがいいのかそれはわからないけど。それは人それぞれ感じ方が違うし,私がショック受けたことを別の障害者の方はあのぐらいと思うかもしれないし,それは人によって違うでしょう。」

 Cさんは,「他者理解」の一つの技術である「言葉の裏を読む」ことができることがよいとは限らない,と語っている。確かに,これまで述べてきたようなことが身に付いている方がよい,あるいは,身に付けなくていはならないと言い切ることはできないかも知れない7)。しかし,このこととは逆に,以下のようなことも語られている。

Eさん :「普通学校には差別もある。ここは行ってはいけない,これは言ってはいけない,やってはいけないって言われるでしょ。これを社会性と言えば言えるし,トラブルが減ることも確かだよね。ピア・カンでは,そのままでいい,ありのままでいいんだよって教えるけど,ありのままで生きると,(人間関係に関しての)トラブル多いしね,ストレスになりますよ,みんないやになってますよ。」

 やはり,ありのままに生きる,つまり健常者社会においての「社会性」を身につけずに生きることが,人間関係がうまく行かないという事態を引き起こすことも事実なのである。少なくとも,健常者社会に出て暮らす場合には,年齢相応な社会的スキルを身につけ,特異な対応をしないようにすることが,心地よい人間関係のなかで生活できるようになるための条件であることは確かである。

 これまで,社会的スキルの不足や他者への特異な反応といったコミュニケーション上の特性について述べてきたのだが,Fさんは,「実際,そういったことに気付いている障害者は少ない。」と語る。確かに,ここで取り上げた障害者は皆,自立生活をして外に出ることで徐々に気付いていったのである。

Aさん :「どういうのかね。独学しかないよね。言葉で言われてきたこと,さっきの(私のことを)子供扱いしてるLさんなんかに言われたことが最近やっとわかるようになったから,言われただけではだめなんだと思う。これはもう,本人の意志,努力の積み重ね,自分をほめるわけじゃないけど,知ってる事実を本当に認識するまでの期間てのはいるよね。」

 Aさんも,こういった問題については,自らが身を持って気付いていく以外はないと語っている。
 ただ,この「気付いている障害者は少ない」ことについては,障害者だけに問題があるのではなく,彼等と接した時の健常者の態度にも問題があるように思われるのである。我々は,障害者とのコミュニケーションの中で,例えば相手の対応に違和感を感じたらどうするだろうか。おそらく多くは、「障害者だから仕方がない」と考えて,それっきりにしてしまうのではないだろうか。しかし,もしそこで一言「あなたの対応の仕方はおかしい」と指摘できれば,その障害者は自分の問題に気付く糸口がもてるのである。つまり,そこで「仕方がない」と考えてそれっきりにすることは,彼にとって,自分のコミュニケーションの問題に気付くチャンスを失ってしまうことになるのである。この「障害者だから仕方がない」と何気なく考えることの裏には,「障害者のコミュニケーションは特異なものだ」という背後知識が付随しており,障害者がそういったコミュニケーションのとり方をしても,それは「当たり前のもの」,「自然なもの」とされてしまうのである。しかし,これまで述べてきたように,障害者のコミュニケーションに関する問題は,その社会的経験の少なさや特異性によるところが大きいのであって,障害者をもつことによる必然なのではなく,そうあることが「自然」なわけではない。このことを健常者が理解することによって,障害者が自らの問題に気付くことを助けることができるのである。
 そしてまた,このことを,障害者を取り巻く環境,つまり,家庭,施設,養護学校などに関わる人々が理解することは,そこに暮らす障害者の社会的経験の改善につながるはずである。障害者が自立生活の中で快適な人間関係をつくっていくためには,障害者自身が自らの問題に気付くことはもちろんだが,その周囲の人々が,この報告でこれまで述べてきたようなことを理解することが必要なのである。繰り返しになるが,多くの障害者は,その社会的経験の少なさによって社会的スキルの会得が不十分となり,社会的経験の特異性によって他者に対して特異な対応をするようになってしまうのである。



1) 谷口[1993:4]
2) インタビュー対象者の属性と略歴は以下の通り
    Aさん:31歳/女性/頚椎損傷/17歳の時に頚椎損傷となり,その後10年ほど        自宅にこもりっきりの生活を送る/一人暮らしを始めて約4年
    Bさん:33歳/男性/脳性麻痺/小中養護学校,施設暮らし,高全寮制養護学校        /一人暮らしを始めて4ヵ月
    Cさん:31歳/女性/脳性麻痺/小養護学校,中〜短大普通学校/親元を離れ妹        と二人暮らしを始めて約3ヵ月/CIL有給職員、ILP担当
    Dさん:22歳/女性/脳性麻痺/小中高養護学校/家庭を離れ,一人暮らしを始        めて約3年/CIL有給職員,ピア・カウンセリング・リーダー
    Eさん:41歳/女性/脳性麻痺/小中高養護学校,施設暮らし,23才から普通大        学/施設をでてから友人との同居,出産,結婚を経て,現在母子生活/        CIL有給職員,ピア・カウンセリング・リーダー
    Fさん:?歳/男性/脳性麻痺/経歴については不明/障害者の自立生活に関す        る問題の研究を行い,相談等も受ける
    Gさん:31歳/女性/脳性麻痺/小中高養護学校/卒業後施設で暮らし,1ヵ月        前に施設を出て一人暮らしを始める
    Hさん:32歳/女性/脳性麻痺/小中高養護学校/親元を離れ,一人暮らしを始        めて約5年
    Iさん:42歳/男性/進行性筋ジストロフィー,発病は20才ごろから/小中高養        護学校,就職後発病、退職/現在に至るまで親元で生活/CIL有給職        員(幹部職)
    Jさん:39歳/男性/脳性麻痺/小中高養護学校/家庭を離れ,一人暮らしを始        めて約6年
    Kさん:?歳/男性/健常者/ボランティア介助者である一方,Fさんと共に障        害者の自立生活についての研究も行う
    Lさん:Aさんの会話の中だけに登場し,本文とは無関係なので詳細略/CIL        職員
3) 尾中[1990:107]
4) 養護学校義務化の意。詳しくは浅倉・松丸の報告(第7章)を参照のこと。
5) この事とほぼ同様な内容を,障害者の自立生活における問題について研究し,自らも脳性麻痺者である谷口明広氏は以下のように述べている。
「障害を持つ人達は,自分に近づいてくるすべての他者に対して精神的な利益を期待しているように感じられる。その他者が同性であれ異性であれ,ボランティアという表面的な関係性を表す言葉を嫌い,『友達』とか『仲間』とか精神的に依存し合える関係に固着する傾向があるのではないか。ボランティアとの関係性においても,ただちに『友達』や『仲間』,異性に対しては『恋人』という名称を求めてしまう行為が,要介助者に対するサービス提供に徹している考え方と交錯してしまい,時間が経過するにつれて介助者側の精神的負担が増大していくのである。このような交錯というものが,障害を持つ人達の社会性の欠如を反映しており,正当な人間関係を築いていく壁になっているのである。」(谷口[1993:3-4])
6) このことについては,岡原・立岩[1990:157-162]に述べられている。
7) このことから逆に,健常者のコミュニケーションの仕方を相対化することができる。つまり,障害者の社会的スキルの不足などの問題を見ることで,逆に,健常者社会一般の人々が,いかにたくさんのコミュニケーションに関するルールや技術を身につけているか,ということがわかるのである。我々は個人差はあれ,ある程度は相手の考えていることを推測することはできるし,少なくとも,異性への一回目のプレゼントでダイヤの指輪を贈ってしまうことはまずないのである。


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REV: 20151222
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