第18章 介助者と「自立生活」 「「健常者社会のなかで「「                                  Otsuka, Kayoko                                   大塚 佳代子 はじめに                                   全身性の障害を持つために日常的に介助を必要とする障害者は,これまで,施設や家庭で「保護」されて一生を送るしかなかった。また,誰もが(障害者自身も)それを当然のことと考えていた。  しかし今,その施設を,家庭を飛び出し,地域の一員として「自立生活」を送ることを選択した障害者たちがいる。それは単に施設や家庭の世話にならないで暮らすということを意味するにはとどまらず,自立生活「運動」としての力を持っている。  このような「自立生活」をしている障害者にとって,実際の「生活」を成り立たせるために絶対に必要不可欠なのが,「介助者」の存在である。介助者は,障害を持たない「自立」した人であれば当然本人が行う,そして障害者にとっては困難・不可能な様々な事柄について障害者の要求に従って「介助」する。障害者の「自立」生活は,この介助者という「他者」の存在無しには成立しないのであり,嫌でもこの「他者」と関わらざるを得ない。健常者であれば自分の思うままに行えることを他人に肩代わりしてもらうわけであるから当然ストレスや葛藤・不満などが生じてくる。一方介助者の側にしてみても,同様のことが言える。自分で選んだこととはいえ,もし介助者にならなければ無関係でいられた多くの厄介事に巻き込まれる。「何でこんな羽目に……」と思うような事態にもしばしば遭遇する。  自立生活をしていく障害者にとって,日々接する介助者は最も「近く」の「健常者」であり,つまりは「社会」である。とすれば,両者の在り方について考えることは,障害者と健常者について,ひいては現在の社会というもの,福祉というものについて考えることになるだろう。  以上のようなことから,介助者と障害者の関係を,特に介助者の側から見た部分,また介助者そのものについて考えてみたいと思う。これについては,私自身が「介助者」であるので,自分自身や周りの人々の経験を通しても見ていきたい。この問題に(小さい部分ではあるが)実際に関わっている当事者として,実感を持ってとらえていきたいと思う。 T 私の体験から  私は大学1年の6月から,ある障害者夫婦(夫をAさん,妻をBさんとする)のお宅に介助者として通っている。介助の内容は,定期的なものは月1回でBさん(車椅子使用)の入浴介助と家事援助,その他にご夫婦の必要に応じて外出の付添いなどが不定期に入り,旅行(泊まりがけ)やキャンプに同行することもある。介助料は入浴介助の時は1800円とその日の夕食,その他は無償だが旅行の時の宿泊費などはあちら持ちである。やはりそのご夫婦の介助をしていた友人のKさんに誘われたことがきっかけで,私は「介助者」になった。  福祉に関心があったとはいえ,それまで障害者と接したこともなく,友人に誘われて軽い気持ちで始めてしまったので,最初の頃は言われたことをするだけで精一杯だった。そもそも2人とも言語障害があるため,何を言われているのかを理解するのも一苦労だし,聞き返しては失礼だと思っていたので分かったふりをして曖昧に返事をすることもしばしばだった。それに何といっても,別に親しくもない,それこそ他人(それも親と同年代)の家の皿を洗ったり布団を敷いたり,ましてやそこのおばさんと一緒に入浴して私が体を洗ってあげるなどということは,普通ではまず起こらないだろう。だからとても不思議な感じがしたし,大変だったけれども自分の世界が広がったようで嬉しかった。「もしかしてとんでもないことを始めてしまったのでは……」と思うこともあったが,新鮮で楽しく介助をしていたし,他人にも「今度こんなことを始めたの」と気軽に言っていた。  しかし夏休みに一緒に2泊3日のキャンプに行った時に,障害者に関わっていくとは大変なことなのでは,と思い始めた。いちばん大変だったのは夜中で,Bさんに一晩に何度もトイレに行くとか(テントは山の上で,そこからトイレのために下の広場まで降りなければいけなかった)虫刺されの薬をつけるとかで起こされるのでおちおち眠れないし,昼間は昼間で初めて会う何人もの障害者とも仲良くしないといけないし,やりたくもないカラオケはさせられるし,とにかく24時間気の休まる時がない。おまけに歯まで痛くなって,本当につらかった(この歯痛の原因は疲労だと歯科医に言われた)。そして何より,他の健常者の人たちは,そんな状況を別に大変だと思っていないようなのだ。厄介なことを頼まれても,楽しそうで生き生きしていて,自分とは大違いだった。やっぱりボランティアはああいう人がやるべきなんだ,それに較べて自分は何て心が狭いんだろう……などと思い,心身共にくたくたになって帰ってきた。  その後は精神的にどんどんつらくなり,月1回の介助すら苦痛になった。行かなければとにかくその日は苦痛を感じないで済むので,そのための言い訳をいくつも考えたりした。ちょくちょく「今度の日曜,空いてないかな……」などという電話がかかってきて,断ると「一体何があるの」とか「ちょこっとでもいいから」とかいろいろ言われるし,行けば行ったで酒を飲む相手をさせられたり,私生活について根掘り葉掘り聞かれて説教されたり,セクハラまがいのことをされたり……相手の言うことに全て従わなければいけないと思っていたので,いろいろ嫌なことも我慢してやっていた。これは要するに,介助自体が嫌なのではなく,それに付随してくる部分が嫌だったのである。お金をもらう時だけが嬉しい時期がかなり長く続いた。Kさんもほとんど同じ状態だったらしく,2人で文句を言い合って気晴らしをした。この後,Kさんは結局介助をやめてしまった。  この,本当に「つらい」,袋小路に追い込まれたような時期が私の場合2年ほど続いた。そしてその間ずっと考えていたのは,一言で言えば「どうしてこんなにつらいのか」ということである。自分が「やりたい」と思って始めたことなのに,なぜこんなに嫌になったのか,どうしてよりによって自分だけがこんなにしんどい思いをしないといけないのか,何で世の中の人はやりもしないくせにつべこべ言うのか,そんなことばかり考えていた。確かに被害者意識が先走っている面もあったが,それもそのような「つらさ」の中に追いやられていたからである。ボランティアは楽しい,素晴らしいなんて絶対ウソだと思ったし,社会とか人間関係とかがとても理不尽なものに感じられた。  この,「どうしてこんなにつらいのか」,何が介助者を悩ませ,それはどうすれば解消できるのか。このことを考えるために,「自立生活」そして障害者に介助者がどのように関わっていき,その中でどのように「つらく」なってしまうのか,そのことと社会はどう関係しているのかを考えてみたい。 U 介助者と障害者,その現状  1 「自立生活」とは  障害者の「自立生活」とは,単に施設や親元を離れて1人で暮らせばいい,というものではない。今まで常に他人の管理下に置かれ従ってきたのを,そこから離れることによって,自分の事なのだから自分で決め自分で考えて生活していこうというものである。インタビューでもしばしば聞かれたのだが,「『自立』と『自律』とは違う。我々は『自律』を目指してやっていかなくてはいけない」ということである。  つまり,自立生活とは言っても,始めから「『自律』した生活」ができるわけではないのである。彼らは「自律」してから,あるいは「自律」への条件が整ってから自立生活を始めるわけではない。とにかく始めてしまうのである(そうしなければ彼らはいつになっても望むような生活はできないだろう)。だからまず最初にあるのは「自律を目指しての生活」であり,そこから最終目標である「『自律』した生活」に至るまでには,日々の暮らしの中で様々な人や出来事に出会い,そこから少しずつ経験を積まなければならない。  そしてこの流れの最も始めの部分から障害者そして自立生活と関わっていく健常者が,介助者なのである。障害者の「まだ自立していない生活」の部分から付き合っていく介助者の存在は,単に働き手というだけではなく,障害者が最初に接する「社会」であるという意味で大きなものである。特に自立生活を始めて日が浅い人では,人間関係のほとんどを介助者が占めるという場合もありうる。障害者にとって,この介助者との付き合いが,自立生活への第一歩なのである。  では,その自立生活の大きな支えである「介助者」とは,そして介助者の「つらさ」とは,について具体的に見ていきたい。  2 「介助者」という人  「介助者」とは実際どのような人々だろうか。介助者になるには別に何の資格も専門的な知識も特に必要とされない(あるならあるに越したことはないが)。ある人が「介助をしよう」と思って,介助を偶発・単発的にではなくある程度継続性を持って行えば,その人は「介助者」である。ではどんな人が「介助者」になるのだろうか,つまりどんな人が「介助者になろう」と思うのだろうか。  例えば,車椅子の人が駅でホームの階段を上れずに困っていたとする。その時どうするか。自分には何の関係も無いとばかりに通り過ぎるか,あらあら大変と思いつつも見ているだけか,「手伝いましょうか?」と声をかけるか。介助者になるのは,3番目のパタ−ンの人であることは明白である。では,この人達はなぜ「声をかけずにはいられない」のだろうか。  このような人,つまり「介助者になる」人とは,困難な状況に立たされた人に遭遇した時,それを「他人の問題」と片付けず,ある種の切実さを感じて行動する人である(本人がそう認識していることは無いと思うが)。「介助者になる」人にとって,「自分とは関係ない人」はこの世に存在しないのである。これがどういうことか,少し話を大きくしてみよう。  全て世界中の人々は,住んでいる国や生活レベル,職業・人種・その他諸々にかかわらず,地球という限りある生活空間を共有しているという意味で,密接な相互依存関係によって結ばれている。従って,全人類は互いに協力し合って生きていかなければならない。当事者ではないからといって,アフリカの飢餓や共産主義体制の崩壊などに知らん顔はできないのである。そして,その相互依存関係を実際の生活レベルでもより強く感じとっている人が,「介助者になる」人である。困難を抱えている人に直面した時,その人との間に直接的な関係が無くとも,その人とは相互依存関係によって結びついているので広い意味では自分自身もその問題の一部分として存在しているのだという,そのような相手への関わり方を自ら選択する人が介助者になるのである。1)                 3 ボランティア・イン・スピリット  「ボランティア」volunteer の語源は,ラテン語の「意思する」voloという言葉にある。(voloは英語のwillに当たる言葉である)。このvoloから,「自由意思」を表すvoluntasという言葉が生じ,これに人称を表すerがついてvolunteer になった。2)「志願者」「篤志家」「義勇兵」など,また変わったところでは(種をまかないのに)自生してきた植物,という意味を持つ。3)  またボランティアの三原則というものがある。これは   @自主性・主体性の原則   A社会性・連帯性の原則   B無給性・無償性の原則 から成り立っている。4)そしてこの3つの中でも@が最も重要かつ基本であるとされているが,これはその語源から考えても当然であろう。ボランティアとはつまりは「自発性」の問題なのである。また最近新聞などでも話題になっているが,「ボランティア」の日本語訳として「奉仕」という言葉が何となくそぐわない感じがするのも,Bのみを強く連想させるため,また「奉る」「仕える」という上下関係的な要素を含むためである。  言ってみれば,ボランティアとは「自分がやってみようと思った,みんなの役に立つことを,お金なんていらないからやる」人である。困難を抱えた人に直面した時,相互の「つながり」を感じてそのような関わり方をする人のことである。  先に介助者について述べたが,介助をすることによっていくばくかのお金(「賃金」とは呼べないほどの)を得ているという理由で「ボランティアではない」と言われる人がいるのであれば,その介助者たちはまさに「ボランティア・イン・スピリット」(精神としてのボランティア)5)であるといえよう。  4 介助者の「つらさ」  先に述べたように,介助者は誰かに強制されてなるものではない。自分で「やりたい」と思ってしまうからやるのであり,だからこそボランティア(・イン・スピリット)なのである。  ところがこのボランティアの生命である「自発性」が,実際にはボランティア自身を逆に「つらい立場」に立たせることがある。自分がしたいことをしているはずなのに,ボランティアが「つらくなる」のは,なぜか。  金子郁容は,『ボランティア「「もうひとつの情報社会「「』(金子[1992])の中で,この状況を「自発性パラドックス」と呼んでいる。介助者がしばしば「つらい,もうやめたい」と思い,そして実際に活動をやめてしまうことが多々あるのは,例えば障害者に嫌なことを言いつけられるとか,やっぱり「収入」になる仕事をしたいとか,周りの理解がないとか,そればかりが原因なのではない(もちろんそれらは重大な原因ではあるが)。「ボランティア」の中には,そもそも喜び・楽しさ・豊かさなどと共に,「つらさ」が内包されているからなのである。  その「自発性パラドックス」とは,いわゆる「言いだっしっぺは損をする」ということである。つまり,自ら進んで行動を取った人は,その後もいっそうの自発性を発揮することを期待され,しかも,傍観しているだけの人の分まで負担を負わされて「わりを食う」というものである。例を挙げよう。ある人が赤い羽根の募金を求められたとする。その時にもしそれを断れば,確かに多少良心は痛むかも知れないが,それで一応事態は収まる。しかし,もしその人が 100円募金したとすれば,事はそれだけでは終わらない。隣の人が 500円募金しているのを見れば「自分ももっと募金すべきなのではないか」と思うし,「そういえばこの間募金を求められた時は断ってしまった」と過ぎたことを考えるかも知れない。「 100円ぽっち募金したところで何の役に立つわけ?」と悪態をつく人もいる。「ユニセフの募金もお願いします」と言われたらどうするか。「自分は所詮金さえ出せばいいと思っているのだろうか」とか,「福祉活動への関心が低かった」とか……。  これが,「自発性パラドックス」である。ボランティアとは,自発性パラドックスの渦の中に,あえて自らを巻き込む人であると言える。この「自発性パラドックス」と,先に述べた相互依存関係によって,自分がしたいと思ってした1つのことが,思ってもみなかった様々なことへと広がっていく。だからこそボランティア活動は楽しいのであるが,同時にやはり「つらい」ものなのである。世界中のあらゆる問題に自分がつながっていて,その全てに手を出すことにもなりかねない。しかし,することを決めたのは自分だから,誰のせいにもできない。ボランティアが「つらい」のは,それが自分が決めて始めたことであり,そして問いが自分の中から発せられ,自分に返ってきて自分自身を問うことになる,というところにある。6)  そして実は,皆(そうとは自覚していないが)これらのことに気付いているのである。だからこそ人は面倒が起きるのを避けてボランティア活動から遠ざかるのであるし,ボランティアは寡黙になり防御的になる傾向にある。そしていったん介助を始めてしまえば,「つらい」と思うからこそ手を引けなくなってしまうのである。他人から「つらいとか嫌だとか言うんなら介助なんてやめてしまえばいいのに」と言われても介助者がなかなかやめることができないのは,そう割り切れない性分だからこそ介助者になってしまった,ということなのである。  実際に介助を始めると,このような内面からの「つらさ」を実感することになる。そしてそこにさらに外からの,つまりTで述べたような介助者との実際のやりとりの中での「つらさ」が加わってくるのである。人と人との関係であるから,いつもいつも楽しいというわけにいかないのは当然だが,自分が「嫌だ」と言うことによって,大げさに言えば相手の生活が成り立たなくなるということを痛感させられてしまう。この2つの「つらさ」は互いに作用し合い,ますます介助者は「つらさ」へと追いやられてしまうのである。  5 世間のまなざし  介助をすることについて,そして介助者の「つらさ」について述べてきた。そして,そこにさらに周囲からのプレッシャ−という「つらさ」が加わってくるのである。次に現在の社会における両者の存在について考えてみたい。  障害者の自立生活運動を知る健常者はまだそれほどの数ではない。障害者を排除して成り立ってきた現在の社会であるから,大多数の健常者(すなわち社会一般)にとっては,障害者は「いない」のと同じである。そのような中,しかし本当は存在している障害者たちが「自分たちも健常者と同じように生活する」と言い,実際に生活を始めたのであるから,多くの健常者にとってそれが理解の範疇を越えたことであるのも当然であろう。そして理解できないので,「あれはただの物好きの戯言,あんなの放っておけばいいよ」とばかりにそのことについて考えようとしない。そしてもしかしたらそれは,もし考え理解してしまうとこの現在の社会の根底が揺らいでしまうということに薄々気付いていて,だからこそあえて考えないようにとの無意識の規制が働いているのかも知れない。どちらにせよ,大多数の人々は,自分と障害者,ましてや自立生活運動とは何の関係もないというスタンスをとっている。  そのような健常者社会の中にあって,障害者の社会的「存在」を理解し感じ取っている健常者が介助者である。介助者は言わば今まで分断させられてきた両者の橋渡し的な位置にいる。彼らは単に障害者の生活場面での介助をするだけでなく,現状においては,健常者(社会)に向けての障害者の「存在」そのものを「介助」していると言える。  しかし介助者のそのような立場は,見方によっては非常に不安定なものである。確かに障害者と健常者が互いの方を向いているのであれば,介助者は両者の間を取り持ち,関係をスムーズにしていくこともできよう。しかし両者が互いを疎外し合っている場合では,介助者はどっちつかずのはみだし者でしかない。健常者からは障害者なんかと関わっているうさん臭い奴とか,偽善者だとかあるいは「立派な人」だとか言われるし,障害者からは「介助者だって所詮健常者は健常者。どんなに一生懸命でも,俺たちのことを本当に分かるはずなんかないんだ」などと言われてしまう。やればやるほど結局損な立場の様な気がしてくるし,それこそどんどん「つらく」なってしまうのだ。その結果介助をやめ,「世間の人」に戻ってしまう人も大勢いる。そうすれば辛い思いをすることもなく,好き勝手なことを言っていられるまさしく気楽な立場になれるからだ。  もちろん世間の人々にしても,福祉に全く関心がないわけではないし,誰もが平等な社会が理想だとも思っている。もし「障害者にも健常者と同じように生活する権利があると思いますか」「障害者の手助けをするのは良いことだと思いますか」「障害者の社会進出をもっと進めるべきだと思いますか」などという質問をすれば,ほとんどの人は「そうだ」と答えるだろう。しかし実際に介助をするかというと,「忙しいから…」。また本当に介助を始めようとする人が,周囲の人の反対にあうというのも,決して珍しいケースではない。「自分の世話も満足にできないくせに…」「何もあんたがやらなくても…」「専門家に任せた方が障害者のためだ…」等々。どうしてなのだろうか。  問題は,この問いをどれだけ自分の身に差し迫ったものとしてとらえているかということだろう。障害者の問題というと,どこか遠い世界のお話のような感覚しかない人が多いはずだ。だから現実にそのような場面につきあたると,全く違った行動に出る。誰かがやってくれるだろうとばかりに身を引いてしまったり,忙しさのせいにしたり,「理想と現実は違う」と言い訳してみたりである。しかし本当は非常に身近な問題のはずだ。誰もが,明日にでも障害者になる可能性があるのだから…。  このような状況の中に置かれるので,介助者は物理的にも精神的にも孤立無援といった感じである。障害者とだけでなく,健常者との関係にも疲れ,「つらく」なって,まさしく「もう介助なんてやめてしまいたい」状態になる。しかし,介助をやめるということは,そこに向かって開かれていた心を閉ざし,無かったものにするということである。我慢して我慢して,そして「つらさ」に耐えられなくなって,大本から切り捨ててしまう。そうしてその人がもう介助,そして障害者に目を向けなくなってしまうのであれば,それはとても寂しいことではないだろうか。  介助関係を切り捨てる(それは,介助者が切り捨てられるということでもある)のではなく,介助関係の中で,この八方塞がりの状況の方を何とか打破していくことを考えていかなくてはならないだろう。そうしなければ,どこまでいっても「良い介助関係」などあり得ないし,介助者の数も増えていかない。そして何より,介助者が「つらい」ことに変わりはないのだ。どうしたら,介助関係を保ったまま「つらさ」を乗り越えていけるのだろうか。 V これからに向かって  1 介助者と「介助」  前述のKさんは,結局介助をやめてしまった。それ以前からそりが合わなかったAさんと激しい口論になったあげく,「もう絶対来ない!」と言い残して帰ってきてしまい,それっきりだそうである。  Kさんと同じような目に逢いながら私が介助をやめなかったのは,実際のところは,ただ単にKさんのような「やめる」と切り出すためのきっかけが無かったから,ということだろう。何か特別な理由がない限り,「やめる」と言いだすのはいけないことだと思い込んでいた,それだけのことである。  けれども,そうして「やめる」と言えないという理由にせよとにかくやめずに続ける中で,私は以前より「つらく」なく,少しは楽になることができてきた。それは,Tで述べたような切羽詰まった状態の中で,もう投げやりな気持ちで「我慢なんかするもんか,もしそれが気に入らなければ私なんかクビにしろ」と開き直ったのと,もう1つはまさにこの調査実習でお会いしたコーディネーターの方に,「本当に嫌だったら断ればいいのよ」と言われたのとが重なって,もし「えっ!?」と思うようなことがあれば言っていいし,要は介助をするだけでいいんだということに気付いたからである。私は私のできることしかできないし,それで不満なら他の人に頼んでもらうしかない。介助者は召使でも下働きでもなく「介助」者なのだから,それこそ「手助け」しかできなくて当然だし,それがやるべきことなのだ。それに所詮,自分と相手の関わりなんて,時間にしてみたらほんの僅かのことなのだ。考えてみれば自分1人が相手の全てを背負っているわけではないのだし,その必要もどこにもない。それだったらそんな「ささいなこと」に悩むことはないではないか。  こう(いささか開き直り気味ではあるが)思うようになったのは本当に最近のことである。それならば自分は介助だけをすると決め,なるべく短時間で帰ってくるように心掛けた。入浴介助に行くと,それ以前は何だかんだで4時間位いたのであるが,夕ご飯も断って本当に「入浴」介助しかせず,1時間で帰った時もある(このときはさすがに「今度はもっとゆっくり来てね」と言われたが)。すると,精神的負担が驚くほど軽くなったのである。自分は「介助」者である,という当たり前のことが分かるまでに,私は2年半もかかった。  私の場合,途中の「迷い」の時期が2年近くも続き,この時は本当に「つらい」思いをした。まさしく「やめられないからこそ介助者になってしまった」という状態だった。こうなったのは誰のせいでもないし,でもつらいものはつらい。けれど私がやめてしまったらあの人たちは…その外に向けることのできない「つらさ」のために,ますますつらくなっていった。そして更に,それを「つらい」と思うことからしていけないこと,恥ずかしいことだと思っていたのだ。人は皆助け合って生きているのに,その助けることが苦痛だなんて許されないこと,自分は何と浅ましいんだろう…。そのような中で苦しんでいたのだった。  確かに実際には,本当に「この私」がいなければ,相手の生活が続かないという場合もあるかも知れない。他にいくら介助者がいても介助のその場面ではほとんど1対1であるから,「嫌だ」と言えないことももちろんある。しかし,「嫌だ」と言ってもいいんだ,という,悪い言い方をすれば「逃げ道」があるということは,実は介助を行う上で非常に重要なことなのではないだろうか。この事は次に述べる,両者の対等な関係ということにも関わってくる。  2 「対等な関係」とは  前述のKさんが介助をやめた表向きの理由は「忙しい」ということであるが,実際のところは,やはり介助以外の部分で,特に一方的にいろいろ言われるのに我慢できなかったらしい。Kさんの最大の不満は,「Aさんはいつも『俺たち障害者は主張しないと生きていけないんだ』と言う。それはその通りだけど,自分が主張するばっかりで,こっちの主張はいつも全然聞いてくれない」という点であった。また彼女は,「いくらお金をもらってもやりたくないことはやりたくないんだ」とも言っている。それらの積もり積もった思いが爆発して先に述べたような事態になったのだろう。Kさんがやめた後,さすがにAさんも気にしていて,「あの時は機嫌が悪くてついカーッとしてしまった。Kさんには悪かった」と話していた。  障害者の側からすれば,介助者がどんな頼みでもやってくれればやってくれるほど,自分の希望通りの生活ができるわけである。何でも言うことを聞いてほしいというのが本心であろう。しかし介助者からすれば,それは非常なプレッシャーなのである。相手がそのように思っているのが分かる時に,はっきりと断るのは難しいことである。介助者が(つまり,自分が)やらなければこの人は…と思うと,余程のことでないかぎり文句は言えないし断れない。ましてやお金までもらっているのであるから。そうして介助者は少々の無理はしてしまい,それが積み重なってどんどん「つらく」なっていくのである。  障害者が盛んに主張することの1つに,「障害者と介助者は対等な関係であるべきだ」というのがある。してあげる「「してもらうという上下関係ではなく,互いが等しくぶつかり合っていけるのが本当だというものである。有償という形式も,障害者が雇用者になることで立場が強くなり,対等になるようにというのが理由の1つである。  両者が対等であるべきだというのは全くその通りである。しかし,では「対等」とは一体何なのか,ということが,本当は問題なのではないだろうか。  障害者が介助者に介助料を支払えば対等になるという考え方は,裏を返せば,障害の有無を除けば両者は対等であり,しかし障害を持っている以上障害者は健常者よりも下である,ということを意味する。だが実際の社会では,年齢・性別・社会的地位・収入・経歴などの様々な要因によって関係は形作られる。当然障害者も介助者もその枠の中に存在するにもかかわらず,それらを顧みず「障害」という部分だけで問題をとらえるのは危険なことなのではないだろうか。例えば45歳の男性で長年自立生活をしてきた障害者と,18歳の世間知らずの女子大生とで,どちらが立場が強いだろうか(介助者の多くが大学生である現状からして,これは珍しいケースではないはずである)。「対等」にするための介助料を支払うことによって逆に上下関係ができてしまう場合すらあるのではないか,と思われる。  特に障害者の側にはそれまでその障害ゆえに対等に扱われてこなかったという意識が強くあるため,その被害者意識から「自分は障害者なんだ,だから自分のほうが相手より下に決まってる」という点のみに固執してしまうのではないだろうか。またそこから逆に「なめられたらいけない」との思いが強すぎて威圧的な態度をとったり,介助者の方もそれこそ「対等な関係」を実現しなければとばかりに変に下手に出てしまったりする。互いがあまりにも「対等」という点にばかりこだわって関係を作ろうとするのは,かえって「良い関係」への足かせになってしまうのではないだろうか。  文字通りの「対等」な関係は,必ずしも人間関係の唯一最上のあり方というわけではないのである。だったらそれにとらわれているよりも,互いにとっての「良い関係」を作っていくことを考えた方が遥かに良いだろう。  ではその「良い関係」を作っていくにはどうすればよいのか。良く言われるのは,「コンフリクトを恐れるな」ということである。介助者も障害者も自分の中だけで悶々とせずに相手にぶつかっていけば,そこから新しい関係ができていくのだというものだ。確かに相手にぶつかっていけば2人でどうにかすることはできるし,どちらかだけが一方的に我慢するという状態からは抜け出せるだろう。  ただこれも,実際の場面では難しいことも多い。ぶつけ方を間違えればただのわがままの言い合いで,子供の喧嘩と変わらない。下手をするとKさんの例のように物別れに終わってしまう。また,そもそもコンフリクトの状態に持っていくのが難しい状況・関係もあるだろうし,介助そのものが忙しすぎる場合もある。勇気を持って言ったとしても,それが逆に相手に不信感を抱かせたり,もっと遠慮ばかりし合う間柄になってしまうかも知れない。  それでもやはりコンフリクトは必要だと思う。自立生活運動はまだまだ始まったばかりで,介助関係におけるモデルというものも確立していない。今は模索段階なのであるから色々試すことが許されているし,試していかなければいけないだろう。「コンフリクトがあってもいいのだ」という意識を互いが持ち,そして「自分たちが介助関係の,自立生活のモデルを作っていくんだ」くらいのつもりでコンフリクトを起こしていく必要は,確かにあるのだ。  障害者と介助者,そして障害者と健常者が望ましい関係を築いていくためには,健常者側の意識の変革がもちろん必要であるが,障害者の側も視野を広く持ち,「自立」していかなければならない。互いが少しずつ歩み寄り,確かめ合って「良い関係」を築きあげていく。それこそが,本当の「対等」な関係なのではないだろうか。  3 「総介助者」社会  境屋純子さんは,著書『空飛ぶトラブルメーカー』(境屋[1992])の中に,大学時代のこんなエピソードを載せている。リストを提出すれば,その登録した「介助者」について部外者であっても図書館の出入りを認めるという大学側に対し,あくまでもその場にいた学生に介助をお願いするという「総介助者」的な考え方にこだわったため,これを断ったというというものだ。  この「総介助者」という考え方こそが,これからの社会の理想であると言えないだろうか。誰もが介助者であれば,介助者1人1人の負担はずっと小さくて済むし,もちろん周りからとやかく言われることも,変にプレッシャーを感じなければならない場面もない。障害者にしてもそれこそ生きやすい社会であろう。誰に何を頼んでも,それがことさら「介助」を強調するものでない,普通の会話として成り立つのであるから。現状のような,少数の介助者だけが全てを負担して「つらく」なり,それ以外の大多数の人は知らんぷり,「障害者? ふーん」という状況は,本当は介助者や障害者でなくとも憂うべき,とてもひどいものなのではないだろうか。  このような現状を考えれば,総介助者社会などまだまだ夢物語でしかない。それをかなえるためには,まず障害者が「いる」ということを,障害者と介助者が自分たちの枠に閉じこもることなく周りに伝えていくこと,色々な人がみんな今ここで一緒に「生きて」いるんだということを感じてもらうことだろう。もちろん総介助者といっても,何も全員に同じ負担を強いるとか,誰もが手話を覚えなくてはいけないとか,そういうことではない。大切なのは総介助者「意識」である。この社会には障害者もいる,一緒に地域で生活している,そして生活するためにはみんな誰かを助け,誰かに助けられている,その意識を普段から持っていればいいという,それだけのことではないだろうか。そして手伝える時にはみんなが何かを手伝えばいい。要はみんなが少しずつ介助者の部分を持てばいいのである。それはお金という形で表される場合もあるし,実際に何か見える形ででもいい。誰もが「自分もあの人達に何かをしている」と感じるような社会,これは何も障害者の自立生活だけの話ではなく,「福祉」そのものではないだろうか。  もちろん,「介助者」という強い存在は絶対に必要である。そうでなければ実際の生活はやはり成り立たない。しかしそれはどこまでも障害者のためにあるべきで,健常者が自分の無関心の言い訳に使っていいはずがないのだ。  度合いは違っても,人間1人1人が万能でない以上,本当は,誰もが介助者でそして誰もが障害者なのである。その事に目を開き,互いを感じ合い,声をかけ,触れ合っていく。それこそが真に生きている,そして自然な社会なのではないだろうか。  私自身のことに関して言えば,もちろん,今は全く「つらく」ないというわけではない。前にも述べたとおり,それは介助者である限りなくならない。ただ,その「つらさ」と上手に付き合っていく方法は分かったのかも知れない,ということだ。そしてつらくなったり楽しくなったりしながら,私はこれからも何かの形で介助を続けていくつもりである。 おわりに  障害者と介助者,そして社会というテーマは,私が介助を初めて以来ずっと考えていたものである。厳しい環境の中で,障害者もまた介助者も頑張っている。改めて介助というものを考える機会が与えられたことに感謝したい。そしてこれからも多分介助を続けていくわけであるが,目の前の事だけにとらわれず,広い視野を持って取り組んでいきたい。一歩一歩,ゆっくりと,着実に「「。 注 1) 金子郁容[1992:85-88] 2) 巡[1987:17] 3) 金子郁容[1992:2] 4) 大野[1988:199] 5) 金子郁容[1992:147] 6) 金子郁容[1992:105-106,111-112]