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第17章「障害者と介助者の関係」

大石 由美子

last update: 20151222


第17章

障害者と介助者の関係

                                 Oishi, Yumiko
                                  大石 由美子

はじめに

障害者の生活を支えていく上で大きな役割を果たしているのが介助者である。障害がなければ他人を介さずに行われる行為を,介助者という自分とは別の人間が行う。介助者という感情をもった存在が障害者の生活の中の必要不可欠な場面で必要とされるとき,この両者はお互いをどのように認め,どのような関係を築いているのだろうか。器具を用いたり設備を改造したりすることと,介助者を利用することは,自分でできない部分を補うための手段としては同じものである。しかし,大きな違いもある。後者が人間相手だということである。この人間相手である介助という行為には,器具を用いるのとは違って2つの面がある。自分のできない部分を補う「手足」として扱うという面,そして一人の「人間」として関係を結ぶという面である。介助の目的からすれば前者だけでも足りるが,後者を全く切り離してしまうのは非常に難しいのではないだろうか。この後者の面,つまり人間としての関係が作られるということは,さまざまな展開があるということであり,そこでよい結果ばかりが生まれるわけではなく,トラブルが起きたりすることもあるだろう。
では,実際には介助という行為を通しての両者の関係はどのように結ばれているのだろうか。Tでは障害者側からの意見をもとに,障害者にとって,介助者という存在はどのようなものなのかを述べる。そこには,一人の人間としてのつながりを求めている部分が大きい人,そうではなく単なる手足としてとらえられている部分の方が大きい人など,大きな意見の差があった。Uでは,今度は介助者側からの意見をもとに,介助者が,介助という行為をどのようにとらえ,それを通して障害者をどのように見ているのかを述べる。こちらも障害者と友人関係がある人,ない人など,その意見に違いをみることができた。Vでは,有償介助と無償介助の違いについての意見から,介助においてお金が果たす役割はどのようなものかを考える。このようなそれぞれの立場の人達の意見の違いを通して,介助をする側とされる側の考えの違いや意識のずれや,またそのような場合,両者はその関係をどのように克服していくのかをみていきたい。

T 介助者との関係・障害者側から・

 介助によってできる介助者と自分との関係について障害者自身はどのように感じているのだろうか。一般的に,障害者は介助者に深いつながりを求め,お互いにふれあい,優しさに満ちた関係があると思われていないだろうか。だが,インタビューをしてみると,二つの傾向があった。一つは友人としてのつながりもあればよいという考え,もう一つは,逆にそういう関係を望まない,介助本来の目的が達成されればよいという考えである。
「ここで知り合った介助の方が友達だと思ってます。センターを利用すると,介助者とあんまり友人関係を作ってはいけないということを言われてるんですけど,どうしてもそういう関係にならざるをえなくなるという…なって当たり前だと思うんですね。…私としてはやっぱりそこまで(センターの意見に)束縛される必要もないし,友人関係みたいな感じになってしまうということは自然であると思います。」(Aさん)
「(有償の介助者に対して)ほとんど友達感覚ですけどね。」(Bさん)
「(介助者は介助者として割り切るか,友人関係をもつかという質問に)最初のころは,若い子が初めてうちに来たとき,どうやったら友達になれるだろうって真剣に考えたもんね。でも,それは一種余計なお世話かもしれないなと。……できればね,知り合う人みんなと友達になれたらこれほど幸せなことはないから,と思うけれども。」(Cさん)

介助者に友人としてのつながりがあるほうがよいと考える人の意見である。三者とも,介助という行為にどちらかというと優しさやふれあいを求めている感じを受ける。その一方で,次のような意見の人もいる。

「自分のところに入っている介助の人間というのは,介助をしに来るのと同時に話をしに来る人というのが結構いるんですね。で,うちの中ではそういうのをできるだけ排除しようとしてるんですけど。介助に来る人間たちというのはあくまでも空気のような存在でいてほしいということで,誰かと常に共同生活をしているということはしたくない。ところが,話しかけようとする人はたくさんいるんですね。」(Dさん)
「だんだん仲よくなってくると,わたしのプライベートなことまで聞きたがる人がいたっていうか,例えば,普通のただ単に男の人の写真がとってある,部屋に置いてあるだけでも,ねえねえ,この人誰なのって始まりますよね。そういう部分とか,電話してても,仕事やっているけど聞き耳をたてている様子とかなんとなくわかりますよね。でもそれって,すごく仲良くなってからすごく言いづらい部分があるから,始めにある程度,ここまでは入って来ないで,とか言っておいたほうがいいかもしれないと最近は思います。」(Eさん)

Dさん,Eさんは,介助者とは一つの区切りをつけて接しているようである。この意見は,先に挙げたAさんやCさんとは逆で,介助にそのようなつながりをもちたくないと考えている。このような意見は,私の予想に反し,意外と多かった。Dさんはまた,介助者の存在を次のようにたとえている。

「近視だとか入れ歯だとかあれも障害のひとつだと思うんですよ。そういうふうに見ると,近視はメガネがあると,使うことによって軽減しますよね。で,生活は普通にできるわけですよね。その辺の考え方を発展させていくと,例えば生活に介助が必要な人は介助を保証することによって,生活が同じレベルになるわけです。完全に同一かどうかというと不便な面もありますからそういう面は残りますけど。マイナス面というか,社会的な不利益を,介助を得ることによって同じレベルにできるという…」
このように介助者に対する考え方や求めるものには違いがみられるが,その違いはどこから来るのだろうか。これは個人の性格によると片付けられるものではなく,要因としては,外部との接触の頻度が影響していると言える。
友人関係になるのが自然だと言っていたAさんは,インタビュー当時東京に移って一人暮らしを始めてから数カ月の比較的期間が短い人であり,仕事や趣味を通して知り合った仲間はまだいない,と言っていた。介助という関係以外で知り合う人が少なければ,介助者に友人としての関係を求めるのも理解できる。また,Cさんも,自立生活を始めた頃と現在とを比較して,社会に出て働くなどして知り合いが増えるにしたがって,介助者との付き合い方がみんな友達にという考えから,友達になる場合もあるし,そうではない場合もある,というふうに変化したと語っている。
 友人の中の一人として介助者がいるなら,介助者に友人としての関係を求めることに問題はない。そうではなく,介助者=友人的存在を望む考え,つまり介助に来る人間すべてと友人関係を持とうとする考えが問題となる。たまたま自分と気が合う友人的要素をもった人が介助に来た人だったのなら,そこで介助関係以外の付き合いも出てくるかもしれない。しかし,介助に来る人全てに友人としての関係を求めるのはどうだろうか。介助のために接している介助者に,最初からそれ以上のつながりを求めても,それは一方通行でしかないし,それはただ単に介助者の負担になるだけの気持ちなのではないだろうか。実際に,後に挙げるように介助者の中ではそう感じている人もいるようだ。そのようなことにならないためには,介助者以外の人と接する機会が必要であり,それによってできた多くの人間関係の中から,友人として付き合える人を見つけていくという方法があるだろう。
ただ,このような人,つまり先に挙げたAさんのような人は少なく,多くの自立生活者は仕事をもっていたり,趣味をもっていたり,外の場で人間関係を結んでいる。介助者との関係だけで人間関係が終結していることはほとんどないと言っていいだろう。
 仕事や趣味をもっていれば,多くの人と接する機会は当然存在するのだ。そこで,介助者を必要とする諸作業に人間関係を望まないのは,よく考えれば当然のことかもしれない。例えば,仕事を終えて疲れて帰ったとき,一人でゆっくりしたいと思うことは誰にでもあるだろう。それは,健常者のみではもちろんなく,障害者にとってもそうである。一日中,自分の行動に人間関係が伴うことがそれだけで大きな負担となるのは,誰にとっても言えることなのだ。もし,障害者がいつでも皆,優しい人間関係を求めていると考えている介助者がいるならば,それは違うという認識を持つ必要があるだろう。実際にDさん,Eさん共に仕事をもち,その場面で多くの人と交流をもっている。だからせめて日常の介助くらいは作業としてやってくれたほうがいいというような考えをもっていると言える。

U 障害者との関係・介助者側から・

「人の世話をするって,特に障害をもってる人とか病人とかそういう仕事をしてるってことでは,偉いわねっていう反応が返ってくる。周りの人達が,すごく偉いわねって言ってくれるの。でもね,それは違うのよ。周りの人はそういう目でいまだに見てるけど。」(介助者:Iさん)

Iさんが周りの人から言われたように,私たちは介助をすることは偉いことである,優しさが第一であるなど,介助を行っている人達に特別な思い入れをしたり,障害者と介助者の間には何か美しい絆が結ばれているというように,かなり偏った見方をしているのではないだろうか。Iさんが,それは違うと言ったのは,介助という行為が,すべてそのような奉仕的精神や優しさだけで成り立っているのではないということだ。では,介助者側は,介助という行為をどのようにとらえているのだろうか。

「障害をもっている人が指示してくれて,自分がそれを,彼女ができない部分を補っていけばいいっていう考えで,今は動いています。…私たちのやってる仕事っていうのは,彼らのできない部分を補佐していけばいいっていうところだから。」(Hさん)
「(介助を始めたころと現在の意識は変わったかという質問に対して)うーん,変わりましたね。というのは,あれもしてあげよう,これもしてあげようって気持ちがどこかにあったけれど,でもやっぱり彼女が望むことだけをやればいい。それ以上のことは,私はもう,付き合いないです。……(介助の)SOSがはいったら,もう,自分の関わった人達には全面的に協力しようと思いますが。」(Iさん)

基本的には障害者の指示に基づいて動くという考えのようだ。それでは,介助をしている障害者と友人としての関係を結ぶことを介助者側はどう考えているのだろうか。こちらも2つの意見があった。

「精神的に関わりが濃くなってくるとすごく介助って結構疲れるところってあるでしょ,ほら,全面的に自分が影になんなければならないから。会社と違って,ノルマをこなすっていうよりも,その時その時に向こうの全部引き受けてやるでしょ。だから同じ人を週3回やるのはきついとか,っていう意見を聞いたこともあるし,……お互いにメンタルな面で親しくなると,生活にまで入り込んでしまいなかなか難しいと思う。」(Jさん)
「(障害者と対等に友人として付き合えたりできるか,に対して)私はなるべくね,それをやってしまうとどこかで崩れていくなと思うので,最低限におさえています。……長い付き合いをしようと思ったら,やっぱりどこかでですね,(一線を)引いていきたいなって気持ちはあるのね。」(Iさん)
「(障害者側も)自分の手足になって,自分のやってほしいことを消化してしまえばあとはもう,自分の時間にしてほしいってところがあります。もう入浴させてもらえばかえって自分の仕事をしたいっていうようなね,気分がありますのでそういうところでは,私的な付き合いっていうのは好まない人はいます。それぞれの分野で付き合う人が決まってて,……身辺介助の人はこういうところでって。」(Iさん)
「例えば,私が夕飯作って,たまたま近くなもんで持ってったりするでしょ。そうするとやっぱり回数重なると,(障害者側の)彼女の負担になったんじゃないかと。もらってばっかりでって。でも彼女は返すのね。自分で手作りの物で返してくれるの。……自分で歯くいしばって作ってくれたものを返してくれるのね。だから,こちらの好意は過ぎてはいけないなって思いますね。」(Iさん)
このような考えはどうして生まれるのだろうか。それは,介助という関係において,本来の目的である介助に親しい人間関係が伴うことで,さらにもう一つの目的が課せられたように感じられるからではないだろうか。そしてそれを負担と感じてしまうのだ。介助者の声の中の,精神的に疲れるというのはそのようなことだと思う。自分自身が精神的に疲れるからという理由だけでなく,Tでみたように,自分の行為がかえって障害者の負担になってしまった経験からも,介助にあまり深い関係を作らないようにしており,障害者とは一線をおいて付き合っていったほうがいいという考えをもっている介助者は多いようだ。その中で,次のような人もいた。

「(障害者との友人関係は)ありますよ。どちらかといえば,同じ年齢ならお互いに遊びも一緒飲むのも一緒……だからさあ,要するにどこの国行ったってみんな,障害もった人もいるしね,普通の人もいるし。普通の人だってわかんないよね,僕なんかだって若干,こっちのほうに(自分の頭を指さしながら)障害あるかもしれないしね(笑)。誰でも,外に見えるか中にあるか障害もってるわけよ,だからそれがすごく当たり前のような社会になればね。」(Kさん)

このように,障害者と介助者という枠をこえてうまく付き合っている人もいる。Tでみたように,障害者にはいろいろタイプがあり,そのような親しい関係を望まない人もいることを理解したうえで,このようにお互いに負担にならない,いい関係ができるのは,すばらしいことではないだろうか。Kさんは60代の男性であり,障害者が同じ年齢くらいなら友人として,年下で年齢が離れていたら父親のように接していける人なのかもしれない。

V 有償介助,無償介助・その意識の違い・

これまでは,介助を受ける側と行う側に分けて話を進めてきたが,ここではもう一つの視点から,介助という行為をみていきたい。私たちは,障害者の介助というと,無償で善意によって行われているものをまず始めに想像するのではないだろうか。お金を払って介助を受けるよりも,無償の介助のほうが,金銭的な負担もなく,良いものだと簡単に考えているような気がする。しかし実際には,障害者,介助者とも,有償であることに意味があると感じている人が多く,またお金が果たす役割は予想以上に大きいことが分かった。
介助を受ける側からは,まず「介助を有償にすることによって割り切ってものを頼める」という意見があった。その他にも,無償介助だと不安定になりがちな介助者の確保も,有償にすることで安定するなど,お金が果たすメリットは大きいようだ。このようにお金を媒介にすることによって,介助自体がスムーズに行われるのなら有償介助としての意味は十分にあると言える。では,介助を有償にすれば,すべての問題は解決するのだろうか。
無償で行われる介助の問題点がどこにあるのかを考えてみたい。それぞれの意見を聞いて言えることは,無償で行われる介助は,その行為が「やってあげる」,「やってもらう」という上下関係を容易に生み出してしまうということだ。
 有償介助と比較したときの無償の介助における自分たちのやってあげる的な意識を挙げる介助者側の声をみてみよう。下に挙げるHさんJさんとも,無償介助をした経験がある。
「やっぱ,ええかっこしいっていうか,自分はこれだけやってるみたいな,結局自分に全部返ってくるんですけど,見栄っていうか,自尊心っていうんじゃないんですけど,自分がしんどい目したらいいみたいなところちょっとありましたね。」(Jさん)
「(有償と無償の介助で意識の違いはあるかという質問に対して)やっぱり気持ちが違いますね。ボランティアやってた時ってお金もらわないし,交通費とかかけて行っても,お金ないわけじゃないけど,やっぱりこう時間さいて来てるのよみたいな思いがあったような気がするんです。有償の介助を始めてからは,ある程度お金をもらってるっていうのがあったから,すごく緊張してたし,……それは普通のアルバイトと同じですよね。」(Hさん)
「お互いに介助する側もされる側もお金出し合って会費制にしているのは,同じ同等の立場でね,……どちらもいえる立場にして,っていうことでやってるんで。気兼ねをなくすために有料介助制にしてるっていうのもあるんで,責任をもってその時間やってもらうみたいなことで,頼むほうも気兼ねなしで頼んでくださいって。……不思議なんですけど,ボランティアだとまあ20分,30分遅れてもいいかみたいなね,わりにそういうとこってね,お金って使いようだと思うんですよ。それできちっとなるなら有料がいいんじゃないかと思うんですよね。自分の気持ちも楽だし。」(Jさん)

このように,無償での介助においての意識は,やってあげるとか,遅れてもいいなどマイナスの方が強いことが分かる。そして逆に有償介助は無償での介助のマイナス点を緩和することもHさん,Jさんとも言っている。このようなことから,まず土台として介助を有償にすることは,意味のあることだと言っていいだろう。
しかしこれは,有償介助がすべてを解決していることを言っているのではない。というのは,Jさんの言うように,有償であることの意味の一つに,お互いを対等な立場において何でも言えるようにするということがあるのだが,障害者との対等感については,お金がすべてを解消しているわけではないようなのだ。

「(お金をもらっていることで障害者を雇用主としてとらえたことは)残念ながらないんですね。あの,例えば対等っていうふうなうたい文句でやってるんだけど,どうしてもやっぱり,私的に,介助者側からみると,そういう意味では雇用主っていう感覚では仕事,できてないのね。……対等っていうことにおいては,私が労働力を提供する代わりに,障害者の方からパワーを感じてくるっていうのは,そういう意味では対等だなって思います。」(介助者:Iさん)
「(やってあげるという感じの人もいるが)僕は,それでいいんじゃないかなって思う。そういうようにしか考えられない人もいるんだと思ってるし。最初はね,誰でもそうなのよ,結局。最初はね,同情なのよ。何だかんだ言ったってさ。『してあげる,してもらう』みたいなさあ,関係なのよ。それを,『たまにはしてあげる,たまにはしてもらう』みたいなね,対等の関係にもっていくのは障害者自身なんだろうって思ってんの。僕がしっかりしてればっていうんじゃないけど,そこらへんの健常者の意識を変えていけたらいいなと思ってるんだよね。」(障害者:Gさん)

これらの意見は,両者が対等な関係に近づくためには,介助を有償にすればいいという簡単なものではないことを言っている。先にも述べたように,有償にするというのはその中の一つのステップであり,必要ではあるが,それと同時に両者の意識のうえでの心掛けがやはり必要となってくる。では,やってあげるといった意識が有償の介助においてなくなるのかについて,介助者はどのように考えているのだろうか。

「スタッフの人達はみんなボランティアから始まっているから,ボランティア的意識はすごく強いです。だから時給を上げるときに,すごくみんなね,介助者の側が反対したの。いらないって,そんなに。(この意識は)なくならないんじゃないかと思うの。そこから発してるっていうような気がするのね。みんなそういう意識は根底にあって,こういう仕事で関わりたいと思うんじゃないかと思うのよ。そういう意識がない人はきっと離れていくし,目をつけないと思うの。もっとお金になって,効率のいい仕事にぱっと目をつけると思うの。」(介助者:Iさん)
「ボランティア的な意識っていうのはやっぱり多いと思う。」(介助者:Hさん)

Iさんの言うように,有償だからといってただお金を稼ぐつもりで介助をしている人は少ない。数ある仕事から「介助」のを選んだ背景には,やはりボランティア的意識があるように感じる。インタビュー中の「ボランティア的な意識」という言葉は,介助者も障害者も「やってあげる的な意識」として使っているような感じを受けた。障害者,介助者とも,ボランティアに対してそのような認識をもっているのかもしれない。確かに「やってあげる」という気持ちは,行き過ぎると押し付けがましくなってしまうが,その意識をまったくなくしてしまうのは不可能であるし,またなくすべきものでもないように感じる。
これは,始めに述べた,有償にする意味の一つである,無償の介助に特にみられるやってあげるといった意識をなくすということに矛盾することではない。有償でも存在するその意識は,介助を行う上で絶対に必要な要素なのだ。問題は,その意識を押し付けがましい,先回りし過ぎて障害者自身の意見を聞かないなどのマイナス面に傾くのを防ぎ,障害者の要求を聞きながら,お互いに納得のできる関係にするようにプラスの方向に向かわせるということではないだろうか。そして,そのプラスの方向に向かわせるのは,有償介助のほうが向いているということなのではないだろうか。この問題は,介助者だけ,また障害者だけが考えればいいというものではなく,お互いが考えなければならないものだろう。

おわりに

 Tでは,障害者が介助者に求めるものは何かをみてきた。人によって単なる手足としての役割を望んでいる人,友人としての関係を望んでいる人など,求めるものに違いがあること,そしてその違いは,外部との接触の頻度が少なからず影響していることが分かった。Uでは,介助者が障害者とどのように接しているかをみてきた。障害者とある程度距離を置いて付き合っている人,そうではなく友人のように付き合っている人というように,こちらにも違いがあることが分かった。また,Vでは介助に関わる金銭的な面をみてきた。有償化するすることで得られるメリットは大きいが,そうすれば両者の関係がうまくいくということではなく,それだけでは介助という行為自体も成り立たないことを述べた。
 このように,「介助」という行為に対する意識の違いがある中で,両者の間にはさまざまな行き違いやトラブルが起きるのはある意味で仕方がないことかもしれない。そこで,最後に,実際にはどのようなことが問題になっているのか,またそれがどのようにしたら解決できるのかを考えてみたい。
 まず,障害者側の「若い介助者は経験が少ないから大変」という意見。これは,「習うより慣れろの気持ちで,相手に聞いたり」(介助者:Jさん)と言うように,経験を積むしかないだろう。その上でやはり問題となるのが,T,Uで挙げた,お互いの考えや求めるものの違いから生じる問題,Vでみた,やってあげるといった意識にからむ問題だろう。
 介助者側のIさんの話によると,「求めるものの違いからくるトラブルはある。人それぞれだが,(作業が終わっても帰ってもらいたくないという)時間の引き伸ばしなどはある。」ということだ。これは,両者の意識の違いが招くトラブルだと言えるだろう。また,障害者のGさんは,「たまにだけど,介助者としてふさわしくないなあという人が来たりする。……ボランティアということを勘違いしてね。なんていうのかな,やってあげるみたいなこととか。」と言っている。このような意見が出るということは,やはりやってあげるという意識がまだマイナスの方に向いている場合があるということであり,Vで述べたように,意識を変えていかねばならないだろう。
 また「介助者への注文などは,はっきり言えるようなタイプの人と言えない人がいる。」(障害者:Gさん),「(時間どおりに来なかったり,さぼったりする人もいるそうだが,そのような介助者への不満に対し)ぼくは,口に出してきつく言うが,友達の中ではそのようなことができない人もいる。」(障害者:Fさん),「きつく言うとやめてしまうかもしれない。」(Gさん)という意見もある。
 このように,実際にトラブルは多いことが分かる。しかし,それを避けるために努力している人もいる。Cさんは「うまく介助者とコミュニケーションをとるには,自分のポジションをはっきり決めることが大切」,Bさんは障害者自身の注意点として,「施設とは違うという認識をもって,ちゃんと指示を出したりする。自分自身も介助に慣れることが必要だ。」ということを挙げている。Bさんの言うように,介助者への不満は,はっきり口に出して言わないとうまくコミュニケーションがとれなくなるのではないだろうか。
 介助者のJさんは,お互い長く続けられる介助関係は,信頼関係に基づく」と言う。これは,友人関係になるということではなく,相手が何を望み,何をいやだと思うのかなどを知ることではないだろうか。そしてそれを知るためには,やはりそれなりの期間が必要であるし,お互いに思ったことや意見を言い合うことも重要なのではないだろうか。
 思ったことや意見を言い合えるということは,対等な立場になって初めて意味があるものであろう。最終的に言えることは,どんな場合でも,ちゃんと自分の意志を相手に伝えることが必要ということである。その前提として,対等であるということは非常に重要なことだ。だが,対等になるというのは,介助者の意識にも伺えたように,一番難しいことかもしれない。ただ単に障害者が介助者を有償で雇えば,対等になるといったような簡単なものではないということは,両者の声からも伺えたことだ。対等な立場で意見を言い合うこと,またそんな関係を作ること,これはある意味ではエネルギーのいることかもしれない。しかしそうすることによって得るものは非常に大きいものではないだろうか。


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REV: 20151222
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