第16章「見る・見られる――メディアを通して」
last update: 20151221
第16章
見る・見られる
――メディアを通して――
Ishikawa, Kayoko
石川 佳代子
はじめに
普段意識しないで生活していると,健常者が障害者と接する機会は限られる。障害者は必ず健常者と関わらなければ生活出来ないが,健常者の場合,家族や友人が障害者であったりする以外は,ボランティア活動に参加したりして自分から関わろうとしなければ,関係を持たずに過ごしてしまうだろう。だが私達は直接関わったことがなくても,障害者について「なんとなく」は知っている。しかし,それは例えば,街で見かけたり,話に聞いたり,新聞やテレビなどのマスコミから得た知識であり,障害者の姿のある一面に過ぎない。特にマスコミの場合,作り手によって伝え方は変えることが出来る。事実ではないことを,本当の事のように伝えることもありうるのだ。
では,マスコミによって伝えられる障害者の姿は,障害者から見ても納得がいくものなのだろうか。ここではまず,実際に取材がどの様に行われているのか,そしてそれに対して障害者はどう思っているのかをインタビューから見ていき,次に,アンケートをとり,その答えから,見る側はどう受け止めるのか,二つの方向から考えていきたい。
T 障害者から見たマスコミ
1 マスコミの取材はどの様に行われているか
「(某女性週刊誌の取材を受けて)何か,取材に見えた方が書いたんじゃなくって,書く方が,なんかいるんですって。で,その方に書いてもらったらしいんですけど,内容が,私は朝起きると,あの,まず起こすときに,ブルースが私を起こしてくれて,で,新聞を持ってきたら,私がなんか,新聞の先で頭をなでるんですって。そんなことしてないし,言ってもいないんですけど。それで,取材に来て,ここ開けたらいきなりブルース君が出てきて,すごくこわい顔をしてにらんでいたとかね。訂正を書きますって言われたけどもうお付き合いしないから結構ですとかいって……。盛り上げるだけ盛り上げるっていうんですか。こんなに苦労して,今,こういう形でやって,で,こんなに幸せになってるっていう,こう流れがあるじゃないですか。それがこう,苦労した時の事とかね,そういうのが結構クローズアップにしたいということですと,ま,ほんとのことはほんとのことで書いてもらって結構ですしね。ただこう,涙ながらに言ったとかね,私がいつ泣いたんだっていう,もうすごく声を潤ませてたって,どこの画面でそれが出るのかなっていう感じがしないわけでもないですけどね。わざとらしくない限りは自然のままに映ったところを撮ってほしいし。」
このように話してくれた千葉れい子さんは,今のところ日本に1匹しかいないパートナードッグのブルース君と共に暮らしている。そして,パートナードッグをもっと普及させるためにパートナードッグの会を作り,活動を行っているが,それに関して週刊誌やワイドショーなどから取材の申し込みをよく受けている。ブルースをつれてアメリカから日本に戻ってきた時などは,取材の人たちが大勢おしかけたという。
取材については具体的な話をいろいろと伺うことが出来た。ワイドショーの撮影の時は,日中をほぼ費やして行われたという。実際に放送されるのは番組の中の一部だが,それだけの時間をカメラにおさめるのだ。しかしクローズアップされる部分というのは,千葉さんの話している通りである。
障害を持つ千葉さんがパートナードッグの会を作って活動していくことは,確かに苦労はある。だが健常者がやってもきっと大変なことのはずである。実際に千葉さんに会って,私が感じたのは,自分の出来ること,またはなすべきことを見つけて行動していて,すごくいきいきしているな,ということで,マスコミがカメラにおさめようとするような,お涙頂戴ふうの姿は見られなかった。だからわざわざポーズをとってもらおうとしたり盛り上げるような細かい演出がなされるのだろう。
他にも,マスコミのほうで作った流れに事実を合わせてしまおうとする,といった話が聞かれた。
「中学生くらいの時に女性週刊誌で,施設の同室の友達が取材を受けて,その時の書き方も何か気にくわなかったし,高校に行ってて取材を受けたんだけど,18のうら若き乙女が書いたような顔をして,感動の物語に仕立てあげたような感じになってて。絶対に嫌でしたから。何てせこいんだろうって。」(Aさん/ピア・カウンセラー)
「いや,やっぱりそれは正確には伝わってないよね。めちゃくちゃって,まあそこまでっていうのはめったにないですけれども。『こんなこと言ってないのに』と思うような事が言われてるっていう事はありますけどね。ただ全体の流れの中で言えば,まあ大筋はずれてないからいいや,ということですませちゃう。新聞記事なんてほとんどそうじゃない?」(Bさん/わかこま自立情報室スタッフ)
「書き方によるとね,気の毒な人だからお手伝いしなきゃいけないんだみたいな記事になる可能性だってあるわけでしょう。もっと皆さん手伝って,不自由な人達を助けましょう,みたいな記事になってしまうと,僕達は困るわけですよ。だからそのあたりはね,本当に慎重にやらないと。」(Cさん/町田ヒューマンネットワークのスタッフ)
「私もあの,テレビに何回か出させて頂いたり,新聞とかにねえ,やっぱり出た時に『障害者の女性の実態』とか書かれちゃって。まあこれインパクトありますよね。だからそういうもんなのかなって感じはありますけど,それだから聞くっていうものでもありませんし。テレビのドラマなんか見てるときれいにかけてる。現実はねぇ,現実を出しちゃうとドラマにならないからアレだけど,あんなにきれいなもんじゃないなって思います。」(Dさん/おもちゃ図書館に関して取材を受ける)
実際に取材を受けた時の話を聞いてみると,ほとんどの人が「自分の思ったように伝えてもらうのは難しい」と言っている。記事や番組を作る人が既に偏った見方になっていて,その見方に合わせて作ろうとしているからのようだ。極端な場合,例えば千葉さんの,ゴーストライターが勝手に話を作ってしまったというような事も現実にあるようである。そこまではいかなくとも,作る側の方に「こういうものを作ろう」という構想はもちろんあって,それで取材をするわけだが,取材をしても,作る側の意図に合うような部分だけを扱ったり,強調したりする。それがひどいときには,事実としては無いことであっても,作り上げてしまうといったことが行われる場合もあるのだ。
インタビューでの話から考えると,マスコミが好むのは「障害があって苦労したけどそれを乗り越えてがんばってる,すばらしい」といった姿であり,もちろんそれも本当の姿ではあるのだが,その面だけを伝えられるのは障害者の望む形ではないようである。
2 障害者が望むのは
障害者側も取材を受ける場合,ちゃんと目的を持っていて,伝えたいと思っていることがあるようだ。それはどんなことで,どんな風に伝えようとしているのか。そしてそのためにマスコミに対してどの様に対処しているのだろう。
「事前に,お互いのことがわからないですからね。こちらの資料を読んで頂いて,向こうの物を私が読んで,それで話合いでってことでやって頂いてるんですけど,やっぱり失礼なやつはいますよね。(ワイドショーの取材で)全然わかってない人だったんで,3回くらい断ったんですよ。あと,テレビなんかでいうと,例えばどんなシーンを撮りたいっていうのがありますよね。そうすると,やっぱりやらせじゃないですけど……。そういうことは基本的にはしたくないんで,違うことが載ってれば訂正して頂くようにはしてますけどね。基本的にマスコミはあまり好きでないんでね,出来れば逃げたいんですけどね,まあ(パートナードッグの会を)広めていただくっていうことで,仕方なくお仕事でお受けしてますけど……。反響はすごいですよ。で,その中で,何人残っているかっていうのが……。これだけマスコミに取り上げられているのに,やはり,いないっていうことは,やっぱり一つ一つやっていかないとならないんだと思うんですよ。」(千葉さん)
千葉さんは,パートナードッグの会をもっと広めて,一緒に活動していく人とそのための資金を集めるという明確な目的のもとに,取材を受けている。それを伝えてもらうために相手には自分のやっていることをわかってもらおうとしているし,理解していない人からの取材は断っている。そうやって宣伝して,一緒に会をやりたいと来る人は多いが,ずっと残って活動する人は少ないのだという。反響の割に,効果は小さいようだ。
「僕達は恩恵的にいろんな援助を受けようとしているんじゃなく,当然の権利として要求しているんだし,それをみんなに知ってもらいたいから,というようなことを強調していく形にして話していくようにしていますからね。」(Cさん)
「私は当たり前のこととしてやってるんだし,変にかわいそうとか本当に嫌だったから,旦那さんに全部断ってくれって言った。ニュージーランドでの体験で,向こうがどういうのを書きたいかって応じるんじゃなくって,こっちから売り込みたいことだけを言えばいいんだと,こっちが言いたいことを書いてもらうように変わっていった」(Aさん)
というように,取材に対しては,自分が言いたいことを主張していこうとしている。また,「取材で話そうと思うのは,いろんな人に活動を知ってもらいたいというのが大きいです。」(Dさん)といった,マスコミを使って宣伝することが,一番大きい目的のようである。
「テレビのドラマに出たりして,そういうマスコミを利用して活動するということも肯定的に捉えていて,アピールしていくことが必要。一度,テレビドラマの製作に協力を頼まれた時,ドラマのあらすじが,歩けない人が努力して最後に歩けるようになるというものだったが,歩けないことを認める方向でしてくれということで,歩けないんだから,誰か他の人の手を借りてでも自分のやりたいことは実現すべきだ,というふうに変えてもらった。」(Eさん/ピアカウンセラー)
八王子ヒューマンケア協会のFさんもマスコミに関する事をいろいろと話してくれた。
「ヒューマンケアみたいな障害者のためのサービス組織というのは日本で初めてだったものですから,これはもうぜひ取り上げてほしいということで,最初に作るときにタウン誌を通じて交渉して,いくつかの新聞に載せてもらったんですよ。一度載せてもらうと知り合いが出来るから,時々書いてもらったりすることもあるんです。」
「記事を書いてもらうときに,こういう書き方はしないでほしい,こういう文章は使わないでほしいということはかなりしつこく言いますよね。記事の書き方にこちらからかなり積極的に注文付けていけば,そんなに我々の考え方と違う記事が出るってことはないと思います。」
「テレビなんかは断片的なことしか伝えませんよね。だからその活動の全部,活動の意義とか内容とかが 100%までいかなくても,おそらく9割とか8割くらい伝わるといいんだけど,1割とか2割しか伝わらないということはありますよね。(テレビでの)日本の報道の仕方というのは,障害者というのは非常にまあ立派な人が多くて,一生懸命努力して,社会に適応しようとしている,周りの人もみんな理解があって,だけどかなり大変で苦労していると。要するに美談として取り上げるんですね。だけどぼくらが目指しているのは美談ではなくて,ごく当たり前に地域の中で生きていけるようにしたいということですので,そういう美談とは一線を置きたいなと。新聞に載る場合も美談として載る場合はやめてもらうことや拒否はするわけですよね。」
「(ターザンという雑誌で障害者の特集が組まれた事について)あれが作られた事は非常に素晴らしいことだけれども,あちらの側から見た障害者問題なり,障害者運動だと思うんですよね。それに対してやはりこちら側が,こういうものを知ってほしいとか,こういうのがほんとなんだよとか積極的に訴えていくことも必要でしょうね。」
Fさんはヒューマンケア協会を広める,障害者のためにこんなことをやっているというのを知ってもらって,もっと理解してもらい,障害者が暮らしやすい地域を作りたい,と取材を受けている。ただ,「美談」として語られるのではそれで終わってしまう。そうならないように,自分たちの言いたいことをアピールしていこうという姿勢だ。
以上のように,障害者も「自分の行っている活動を広めることが出来る」というメリットがあるからこそ取材を受けるのだが,マスコミが求めてくるのはその活動をしていく上での「苦労」であり,それを見たり聞いたりする人が感動出来るような「美談」として扱いたがるようだ。そしてそういった扱いはしないでほしいと要求し,場合によっては取材も拒否して,出来るだけ納得のいくように伝えようとしている。
確かに,障害者が独り暮らしをしたり,何らかの活動をしたりするためには,健常者はすることの無いことをやらなければならず,それは健常者からしてみれば「苦労」ではある。だが,障害者はそういった取り上げ方に対して不満であり,拒否している。
「人間必要に迫られれば,そういう境遇になればやるんですよ。そんなにかっこいいことでも,偉いことでも,なんでもないですよ。みなさんがもし交通事故とかで下半身不随とかになって,車椅子の生活になれば,一時は絶対落ちこむけど,絶対なんとか生きていくもんですよ」(Gさん/筋ジストロフィーの障害を持つ)
「偉いね,がんばってるわねって言われることに前は腹立ってたけど…」(Dさん)
障害者が望んでいるのは,ほめてもらったり同情してもらったりすることではない。障害があってもなくても同じように生活していける社会にしたい,そのためにもっと自分たちのことを知らない人にも理解してもらって,協力してほしいと思っているのだ。
インタビューで,マスコミに対してあまり良い印象を持ってるという話が聞かれなかったのは,マスコミ側が「障害を持っている人」に求めたがるものが,障害者が「そうじゃないんだ」と否定している姿をアピールすることだからだ。マスコミが一人の人間のすべてを伝えきることは不可能で,必ず障害者の人の生活の中のある部分を切り取らざるをえない。その切り取った部分は事実だとしても,それに対して障害者とマスコミでは見方にずれがあるのだ。
U 見る側はどう見ているのか
では見る側は,マスコミによって切り取られた面から何を読み取るのだろう。
インタビューでの話では,女性週刊誌,新聞などの記事に対する不満が聞かれた。やはり記事を書く人の主観によって左右されてしまうところがあり,書き手がきちんとわかっている人でないと,いろいろトラブルが起きる。それはテレビで報道する場合も同じだろう。最初から同情をひくように作られていると,ある程度そういう見方になってしまうかも知れない。
それならば,制作者が障害者側の思いが反映されるように作っているものならどうだろう。そういうものは障害者が望むように伝えられるのだろうか? 感動的に盛り上げたりしようとしていなければ,障害者の嫌う見方にならないのだろうか。
そこで,テレビの障害者番組を5年前から毎年作ってきている方の手掛けたあるドキュメンタリー番組を7人の健常者の学生に見てもらい,どう感じたかを書いてもらった。
1 番組について
まず,番組の内容について説明しておく。タイトルは「家族のきずなをみつめて」。NHKスペシャルで,1993年12月10日にNHK総合で放送された。障害者と暮らす三つの家族を通して,家族のきずなについてあらためて考えていこうとする番組である。
制作者の意図として,この番組のディレクターの熊埜御堂朋子さんの文章をあげておこう。
「この10年で何よりも注目されたのは障害をもつ人自身による自立生活,社会参加への試みではなかったかと思う。しかし一方で,社会の無理解,無関心など人々の心の壁は依然として厚いのが現状ではないだろうか。また,共に生きる社会,ノーマライゼーション等の言葉はかなり広まってきてはいるが,その実感というものが私たちの暮らしの身近なところにどれ程あるだろうか。今回は,社会を構成する最も基本的な単位である《家族》にこだわり,『共に生きる』ということを改めてみつめ直してみたい。
番組の中では三つの家族を取り上げる。長女の徳子さんが重い脳性マヒの障害をもつ家族の話では,障害児の兄弟が,他の家族との違いに直面し悩みながらも,一緒にいることの楽しさを発見し,共に育つ中で生まれてくる家族のきずなを見つめたいと思う。耳の聞こえない母親の茂代さんと二人の息子との生活からは,『聞こえない』というハンディがあるからこそ,より親子が正面から向き合ってお互いの気持ちを伝え,理解しあおうとする,そんな中から生まれてくる親子のきずなを見つめたい。脳性マヒの,双子の弟の康太郎さんが自立しようとしはじめた中田さん一家の様子からは,親離れ・子離れを意識し始めた中で,初めて家族から一歩飛び出し介助者を求め,自分の青春を模索しようとする,そんな中に生まれてくる家族を越えた新しいきずなを見つめたい。
今回家族を見つめなおすことで,家族ってなんだろう,幸せってなんだろう,人と人とが正面から向き合うってなんだろう,など見てくださる人それぞれの心の中に,そんなメッセージを投げかけることの出来るような作品にしたいと思っている。」
(熊埜御堂[1993:39])
次に,番組のあらすじをまとめてみよう。番組はまず,「障害者と共に暮らす三つの家族の中から,人と人とのきずなのありかた,家族とは,社会とは何か。障害を持つ人と『共に生きる』ための,より確かなきずなの可能性が見えてきます。」というナレーションで始まる。案内は山田太一氏と最首悟氏である。最首さんは「今まで当たり前と思ってきたことが全くそうではなく,大変だと思っていたことが何の抵抗もなく受け入れられるところがある。地に足がついてきたと思います。」と語る。一つめの家族は,青森県の大場さん一家である。16歳の長女徳子さんは,脳性マヒの障害を持っていて,しゃべれないし,歩けない。徳子さんの世話をするのはお母さんである。
妹の貴子さんが小学生の頃書いた作文が紹介されている。「姉の目は本当にきれいです。14年間生きてきて一回もうそをついていないし,いじわるをしていないので目が澄んでいます。」徳子さんのその目がアップになる。お母さんが「徳子が笑ってるよ」といって,そんなような表情の徳子さんが映される。弟のゆきひさ君は,徳子さんとあまり目を合わせない。母は徳子さんをだっこしながら「はやく徳子のことをうけいれてほしい」と語る。 ある日,お母さんが「休みください」と言い出して,ゆきひさ君の提案でくじびきで徳子さんの世話をする人を決めることになった。母と父は,ゆきひさ君に「姉の世話をしろ」とは言わない。「出来ることを自分で見つけてほしい」と言う。「一人で何も出来なくても,のっこは貴子とゆきひさのお姉さんなんだと,二人にそう素直にうけいれてほしい」
そう願っているのだ。
その後,ゆきひさくんは父の仕事の手伝いをして,その時のことを作文に書いたのだが,その中で初めて姉の事を紹介した。「友達にのっこのことを自然に話せるようになってほしい」と母は思う。「のっこ姉さんがいることが大切。のっこ姉さんがいることの意味を見つけていかなければならない。」とナレーションが入る。
二つめの家族は,耳の聞こえない古木茂代さんとその長男の啓介君が,大声でどなりあってけんかをしているところから始まる。言い争いになると唇を読み取れないので,「わからない,教えて」と,けんかもままならない様子である。その後,朝のあわただしい風景が映り,古木さんの母としての苦労が語られる。また,長男が電話の取次ぎをしている姿が映される。これは3歳のころからやっているという。
ある日,古木さんが買物にいっている間に兄弟げんかが始まった。帰ってきた古木さんがたしなめようとするがうまくいかず,悲しそうな表情である。
古木さんの今心配している事は,ずっと母を手伝ってきたので外にはあまり出ない啓介君の事である。啓介君が手伝ってくれることを当然のように受け入れてきた自分。「耳がわりになってきたことが啓介をしばっているんじゃないか」,そんな風に思ってしまうのだ。ある夜,古木さんはそのことを啓介君に話した。
「遊びにいきたいんやったら家におらんでもええんだよ?そんなに心配せんでもええよ。」「別に遊びにいかんでもええやろ。」
最後にはまたどなりあいになり,わからないので筆談になった。二人とも泣きながら話している。
「耳が聞こえれば啓介にこんな思いをさせずにすむのに」と思った古木さんは,補聴器を買ってきた。試してみたのだが結局聞こえない。古木さんは泣いてしまったが,啓介君は「お母さんと一緒に生活してきたから,慣れてる。聞こえても聞こえなくてもどっちでもいい。」と励ました。古木さんと息子たちが笑いあっている様子で終わる。
三つめの家族は,21歳の中田康太郎さんの家族である。脳性マヒの康太郎さんの世話は,お母さんがつきっきりでしている。その様子が紹介される。双子の兄の健太郎さんは電鉄会社に就職していて,「康太郎さんは兄の広い世界に憧れている」という。お風呂にいれるのは父の役目であり,子供のころから一日も欠かさないで続けてきたという。
最近康太郎さんは,自分だけの世界を持ちたい,つまり独立したいと思っている。一人で電動車椅子で,独り立ちした障害者の集まりに出かけていったり,独り暮らしをしている友人の部屋を訪ね,彼女のどうやって独り暮らしを始めたかの話を聞いて,夜父母を説得した。「親が死んでからじゃ遅いんだよ。」これに対して,父は「やりたきゃやれば」,兄は「頭で考えるだけでもすごいよな。おれなんか独立しようなんてこれっぽっちも思わないよ。」
結局「自分で出来るとこまでやってみればいい,出来なかったらそんときだ」と父に言われ,翌日康太郎さんは町中で声をかけて,介助者を探し始めた。だが引き受けてくれる人は見つからず,がっかりしている。相談にのってくれる友人が,ビラ配りを提案した。ビラを一生懸命作っている姿が映る。父母の話。
母「何もそんな急に出ていかなくてもいいじゃないって思う。」
父「康太郎の生き方は康太郎が選ぶしかない。親が死んでからも,いろんな人の手をかりてしか生きられないんだから。」
出来上がったビラを配っている康太郎さん。
「このビラを見てもらえばぼくのことが良くわかります。自立したいんです。」
山田太一さんのコメントが入る。
「人に迷惑をかけないで生きる,というのは日本的な自立ですが,障害者の自立とは他人 にめいっぱい迷惑をかけていくという宣言なのです。彼らは必要な迷惑を共有しないと
自立出来ないのです。誰もが人に支えられなければ生きていけない,うんざりしながら も毎日顔を見て暮らしているんです。」
作る側も,障害者が社会の中で共に生きていくことを目指して番組を作っている。そしてそれぞれの家族の障害者と暮らすようすに注目して,多くの人に,人と人との関わりについて考えてもらおうとしている。また,この番組は,例えばくじびきで世話をする人を決めたり,独り暮らしをしようとしている息子に対して家族は手助けをしようとしなかったりと,ただきれいな面を映すだけではなく,他人から見れば「あれ?」と思ってしまうようなことも一緒に伝えている。
2 視聴者の見方は
見てもらったのは7人の学生である。そのうち障害者と付き合いのある人が2人で,あとの5人は周囲に障害者はいない。ただ小学校や中学校の時に,同じクラスに障害を持った人がいた,という人は何人かいた。また,付き合いはないが,これから関わっていくという人もいた。
手話サークルに入っていて,障害者と普段から接している2人は,障害者に対して「特別な目」というものを持っていないようである。
Hさん(看護学校3年)「最近だいぶ同じ人のように見えるようになってきた。彼らは人よりも一生懸命生きているわけでもないと思う。ただ私達と同じように,与えられた人生を自分なりに生きているのではないかと思う。」
Iさん(千葉大学看護学部2年)「障害者には強情で現実をわきまえない人が多い(健常者にもそんな奴はいるけど)。だって番組の中の青年は一人で車椅子で街中に出ていきなり若い女の子にばっかり声かけて,番組では涙ぐましい努力という感じでとらえてるけどただのあやしい奴じゃないか。自立しようというのは大切だし行動に移すのも偉いけど,現実を知らないよね。私の知ってる障害を持った人というのは,聾,聾唖,盲聾ですが,やっぱり強情というかわがままというか子供のようというか……。ひどい人は自分の気に入らないことがあると暴れます。それもつまんないことで。小さいときから障害を持ってると家族には丁寧に扱われて,他人にはやさしくされて,だから仕方ないそうだ。やっぱり障害者は障害者というか,特別視してしまうんでしょう。親切にしたり世話したり,ボランティアという言葉があるのもそのためと思います。でも話を聞いてたらみんなすごいというか,いろいろ苦労してるし乗り切ってるからすごいです。勉強になります。」
というように,変に同情したりただただ偉いと思ったり,そういった言葉は聞かれなかった。かえってIさんなどは,苦労していてそれを乗り切っている,そういう点は認めているが,それだけではなくわりと厳しいことも言っていたりするのだ。表面上ではなく,その人個人というものまで見ているからだろう。そういう見方が出来るのは,障害者に対して余計な気を遣っていないということではないだろうか。人間なんだからもちろんいい面ばかりではないはずで,そう言えることは,障害者が望むように,同じようにつきあっていると言えるのではないだろうか。
では彼女たちの番組の見方はどうなのだろう。
Hさん「家族の中の障害者を見るのは初めてだった。今まで接してきた障害者は入院している人か自立している人であったため,新鮮な印象を受けた。家族の中では誰もが障害者を受け入れて共生しているように思いがちであるが,一緒に暮らしていくこと,援助の必要性が高いほど共生していくことの難しさを感じさせられた。血のつながりがあっても難しいのに,血のつながりのない者が介助し関わっていくことの難しさを感じた。(自分がそういうことを仕事としていくので。)私は番組の伝えようとしていることをそのまま受け取るのではなく,自分なりにその人というものを見てしまう。テレビに映ってない生活行動や思いなどを自分なりに考え,自分の学びとしている。普通の人は同情を売るような番組に惑わされて,障害者全体をその内容のようにとらえがちになってしまうのではないかと思う。家族のきずな,ということに関しては,今一つ主旨と合っていないような気がした。家族から社会のきずなへともちかけていたが,その辺をもう少し具体的に問題として考えられるようなものを画像として見せて欲しかった。あの三話では家族の中だけしか見せられず,社会へと結び付けられなかった。」
Iさん「聾のお母さんの話で,弟は手話がうまいのにどうしてお兄ちゃんは手話をしないんだろうか。お母さんは話せるし読唇も出来るから,その方が好きなのかもしれない。小児麻痺の青年の話は,双子の兄はいろいろ葛藤があったことでしょう。よくぐれなかったと思います。のっこ姉さんの話で,お母さんが手伝ってと言い出して,いきなりくじびきを始めたときにはおぉっと思ったけど,これが現実,ってやつでしょう。お母さんは一人でやるのは大変だからという意味もあるだろうけど,みんながのっこ姉さんに触れてほしいと思ってやっているんだと思う。周りで見たり話しかけてみたりするだけじゃわからないもんですから。(家族のきずなに関して)この番組の中での家族と私達の場合の家族とでは意味が違うのではないでしょうか? もちろん障害の度にもよると思うけど,のっこ姉さんのような場合家族は一生のものでしょう。独り暮らしを始めたって,やっぱり家族の心配は並大抵ではないと思うし。私達が独り暮らししてもたいした心配じゃない,そのうち結婚したら親とはたまに会うだけ。だから家族のきずなは人によって違いますね。」
二人とも,番組の中の一人一人についてそれぞれ自分なりに考えている。自分の知っている事と重ねて見たり,照らしてみたりしているようだ。テレビの中の事としてではなく,やはり知っているだけに身近な事としてとらえることが出来るのではないだろうか。そういう点でも,あまり素直には見ていない。番組で伝えようとすることをそのまま納得するのではないのだ。
だが,障害者と接触がある人がみな同じような反応なのではない。中学校の時に障害者の知り合いがいたというJ君(千葉大学工学部3年)は言う。
「僕の知ってる障害者は,障害者だから何をやっても許される,と思っていたらしく,ずいぶん自分勝手だった。そのために障害者に対してすごい偏見を持ってしまっている。番組については,障害者が一人で生きていくというのは無理であり,本人がそう思うのはわがままなのではないか。障害者は家族の中で育ってきたため,あまやかされてきて,それが社会の中では,一人で生きていけないだろう。」
本人も言っているように障害者すべてをかなり偏見を持って見ている。彼にとっては,その知っている障害者がすべての障害者なのであり,テレビを見てもその人とだぶらせてしまうらしい。だが,これも考えようによっては素直に説得されないで自分なりに番組を見ているとも言えるのではないだろうか。どんな人に対しても偏見を持って見ては正しい見方とは思えないが,障害者だから特別な接しかたをしなければ,というのではなく,むしろそういう風にするからわがままになるんだ,と彼は考えており,気を遣ったり障害者を感動的な姿ととらえたりしていない,という点では,前の2人と同じだと考えられる。
さて,それでは,障害者とあまり接触のない他の人たちはどうなのだろう。まず,番組を見て,障害者に対してどんなふうに考えるのかを聞いてみた。
Kさん(千葉大学教育学部1年)「とても強いと思う。根性,忍耐があるように感じられる。でもどこかに『私とは違う』という意識があるし,障害者もそれを感じているんだろうなあ。そう思ってしまう自分を恥ずかしいとも思うけど。小学校の時下級生で一人知り合いになった子がいたけど,普通にしなきゃ,という思いが強すぎて,かえって不自然になったかも……。」
L君(千葉大学法経学部3年)「かわいそう,と思ってごく普通の対応をしてもらえないってのが,障害者は気をつかうんだと思う。普通に冗談言ったり怒ったり励ましあったりという間柄が必要だが,相手にもそういう心がけが必要だと思う。でも実際障害者に対面すれば,それはとまどいはあると思う。」
M君(千葉大学文学部3年)「はっきり言って,障害者と出くわしたら一瞬ひいてしまう。自分の知ってる障害者はすごく障害の軽い人だったんで,普通につきあっていた。障害の度合によってつきあいかたも変わってくるというのが本音だが,出来るだけ思いやりを持って接していくのがいいと思う。」
Nさん(看護学校3年)「苦労とかあって大変だけど,根性あるよなあ。でも,よくないってわかってるんだけど,やっぱりちょっとこわいな,とかあんまり近寄りたくないってのはある。好奇心の目でみたりとかしてしまうし。皆の視線を感じてるんだろうなあ。」
みんな,「こう接するのがいい」という理想というかタテマエとしてはわかっているのだが,では実際に接する,となるとなかなかそううまくつきあえる自信はない,と言っている。障害者に対して構えてしまっている感じがする。つきあいのある2人に比べて,個人のそれぞれに持ってる面はあまり見ていなくて,障害者,とひとくくりにして,その苦労してる部分に注目していて,だから「偉い」「根性ある」「かわいそう」という言葉が聞かれるのだろう。
番組の内容については,どう受け止めるのだろうか。
Kさん「今まで当然考えるべきことであったはずの問題に,無意識に,もしかしたら意識的に,目を逸らしてきたと思う。番組の中で,『障害者の自立は他人との関わりを増やすことになる』と言っていたが,まさにその通りで,いつ私も障害者とともに暮らしたり,自分が障害者になったりするかわからない。いつまでも他人ごとのように思っていてはいけないと,すごく感じた。家族は障害者にとって一番の理解者だと思うけど,親が介護するとかいう場合は必ず限度がでてくると思うし,『自分のせいで家族が犠牲になる』と思うようになったらつらいのではないか。家族だけではなく,世間の理解も大切だろう。」
L君「人間の自立とは一体何なのかということを考えさせられた。2作目が,親子のきずなが感動的に表れていたと思う。障害者の自立ではなく,逆に他人(息子)の自立を考えるという点が印象的だった。親子のきずなが手にとるように感じられ,深い愛情を感じた。」
M君「障害者の自立には,家族や社会の人々の理解,協力が必要だと感じた。障害者も温かく受け入れていけるような社会をつくっていくことが大切だと思う。家族のきずなは大切ではあるけれど,それにこだわりすぎてもいけないと思う。厳しいかもしれないが,家族のきずなというものが,家族に対する甘えとなってしまっては自立していくのが難しくなるのではないか。」
Nさん「多くの人がこうであろうという障害者と家族の生活を見せてくれたのではないだろうか。障害者もつらいけど,周りの関わる人も同じようにつらく,傷ついてるんじゃないか。葛藤や自問自答,傷ついて,家族のきずなを手に入れても,自立となればあまり力になれない。プラスして社会のきずなが必要になるだろう。そのためには周りの人々の見方をかえ,理解してもらうことと,自身をもって生きようとする障害者の意志のバランスが大切。差別用語なくすとか,見た目だけ変えたってだめ。きれいごとで終わらない,意味のある番組だった。」
番組からのメッセージを,きちんと受け止めようとして,みんないろいろ考えている。制作者側の意図通り,タイトルでもある「家族のきずな」について,それぞれに考えているし,障害者がより良く生活していくためにはこうしなければならないんだ,というところまで,しっかり考えている。特にNさんの場合,看護学生なのでこれから関わっていかなければならないということもあって,今回に限らず障害者について考えることがあるそうだ。
だがそうやって考えいても,Nさん以外はその後に障害者と接する機会というものがほとんどない。番組を見て問題意識を持っても,現時点で直接関係しないことなので,「社会や自分の意識を変えなければ」と思いつつ,結局は障害者に対して「とまどい」があり,「ひいてしまう」ことになるのだ。
まとめ
番組を作るにあたって,映されるのは,制作者が伝えようとするものが伝わるようなエピソードや場面であり,それは障害者ということで,例えば足をひきずって歩いたり,手話をしたり,手が不自由なので口で筆をくわえて絵を描いたりといった,健常者ならばする必要のないことである。そしてそれは,「見習うべき姿」という感じに伝えられる。だからテレビの中の出来事は,たとえ日常を映したものであって,それは実際はたいしたことではなくても,「美しいもの」に見えてしまう。感動的な場面でなくても,映される障害自体が,見る人にある種の感動をおこさせるのだ。だから見る側は,本当は「障害者に対してとまどいがある」が,「偉い」,「すごい」人だから,彼らのためにこう対応すべきで,社会もこう変えていかなければ,と,頭の方は考えることが出来るのだ。だが,障害者はみんな大変なんだし,変な目で見ちゃいけないと思ったり,「気を遣っちゃいけない」という気を遣っていたりすると,結局それは障害者が望むような状態ではなくなってしまうのではないだろうか。
マスコミが障害者について報道するときにクローズアップしたがる面というのは,千葉さん達の話にあったように,苦労してきたことなどの,何かしらの感動を起こさせる部分であった。たとえ障害者の側が「そんなことはない」と否定しても,マスコミの多くが取材で聞き出して報道しようとするのはそこなのだ。もし事実がないのなら作ってまでも伝えたいと思っている。そしてそれは,番組を見る視聴者としての健常者が求めているものでもあるようだ。
例えばテレビでも,週刊誌でも,番組や記事を作るなら,情報の受け手がそれを見たい,読みたいと,まず思わせなければいけない。だからタイトルや見出しで興味をひこうとする。マスコミは,見る人が興味のあるものを提供しようとするものなのだ。しかし,それだけではない。障害者についてちゃんと理解している人が作った,変に感動的には出来ていないドキュメンタリー番組についても同じなのだ。
そうした番組でももちろん,ポイントとなるものを伝えるためにある程度は話が組み立てられている。それを障害者を良く知らない人が見ると,どうしても苦労してがんばっているという流れに目がいってしまう。マスコミがことさら「感動的」に描こうとしなくても,健常者も「障害者の姿」に最初から感動的なものを求めているのだ。
マスコミ,そして障害者と関わっていない健常者が求める障害者の姿と,障害者が望む見方は,以上のようにくいちがっている。そうしたマスコミの報道は,アンケートの答えで,それぞれが「こういうふうに接しなければならない」,「考えなければならない問題だ」というようなことを言っていたことから考えると,障害者に関する問題の提起になってはいるようだ。逆に言えば,普段障害者と接していない視聴者の関心を引くことが出来るのは,視聴者の好きな感動的な場面を盛り込んでいるからなのだ。しかし,そうするとどうしても「偉い」「すごい」障害者,となってしまい,それを否定する障害者にとっては望ましくない伝えられ方しか出来ない,ということになる。
そもそもテレビなどで特集を組んで番組にしてしまうところからすでに,障害者を特別な存在に見せているように思う。障害者というと,主人公が障害者のドラマや,今回扱ったようなドキュメンタリーなど,特別な番組で取り上げる事が多い。そういう番組でなければ問題提起は出来ない。だがそうやってスポットをあててしまうから,いまひとつ身近に感じることが出来ないのではないか。
障害者と関わりを持つ人は,そういう番組でも「いろんな人がいる中でこういう生き方の人もいる」,と考え,「障害者だから特別」という見方にはならない。障害者が「特別な人」ではない,と意識的にではなく思える,そういう見方は接していくうちに自然となっていくのではないだろうか。しかし多くの健常者は,普段障害者と接する機会がないので,「特別と見てはいけない」と考えるだけにとどまってしまう。マスコミの報道を通して問題意識を持ったとしても,そこからどうしたらいいのかというと,やはり実際に関わらないと何も出来ないのである。見方を変えようとするなら,障害者が自分から遠い存在だと思っていてはだめなのだ。
マスコミは主人公としての障害者を求め,そうでない障害者の姿をあまり伝えない。だが今回調査をして,独り暮らしをしたり,車椅子でいろんなところに行ったりして活動している障害者の人はたくさんいることを知った。彼らの暮らしぶりは,もちろん障害を持っているから,健常者の生活とは違う点がたくさんあるのだが,考え方や,やっていることなどは,基本的に健常者と同じようなものだ。それならば,特別な存在としてではない,「主人公の周囲にいる障害者」という扱い方もしていいはずである。問題を提起する目的の番組はそれはそれとして,とくにメインとして取り上げるのではなく,例えばテレビで,何でもない街の映像の中に,ただ通り過ぎていくだけの障害者の姿があってもいいと思うのだ。
cf.
◆障害(者)・と・メディア・芸術
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