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知的障害者の自立のために:序説

寺本 晃久 19940517

千葉大学文学部社会学研究室
『障害者という場所――自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)』
発行:千葉大学部文学部社会学研究室,375p.


はじめに

 現在、日本では、いわゆる身体障害者の自立生活のための介助サービス、制度や、運動はそれなりに進んできている。身体障害者・・つまり、知能や精神に障害がない・・の自立生活は、介助やその他車椅子、エレベーターなどの障害を補うものが整っていれば、とりあえず可能であることは容易に想像がつく。後は、彼ら自身の気持ち次第である。彼らの決定により、それら補助するものを使えばいい。
 しかし、知的な障害を持つ人々の場合、どうだろうか。例えば、CILのような所が、「障害があるからといって健常者と差別されるような違いはなく、自分の事は自分で決定できる」などと言う。だが、知的障害では、まさにこの「自己決定」が問題となる。知的障害者における問題には、「自己決定」ができないとみなされてきたことが大きく関わっている。一般に「精神薄弱者」と呼ばれている人々は、知的に障害のない人々からは、非常に違って見えるかもしれない。個人差や障害の程度にもよるが、例えば、自分で自分の体を傷つけたり、言葉を発しなかったり、話せても意味不明なことを言ったり、年令よりも幼い行動や会話など、知的障害を持たない人には理解できない事が沢山ある。自立生活など、我々には考えもつかない場合もある。親や養護学校の教師が、“意志を持たない”彼らを引っ張り回しているように見えるだけである。
 しかし、知的障害を持つ人々が自立して生活することは可能である。「ピープルファースト」という運動がある。これは、障害を持つ当事者のレジャークラブといった形でスウェーデンに始まり、1973年頃カナダやアメリカで、「知恵遅れ(mental retardation)」という呼ばれ方をされるのではなく「まず第一に人間として(PEOPLE FIRST)」扱われたいという主張から始まったものと言われている1)。現在、全米の少なくとも半分の州に支部を持ち、カナダのほとんどの州、多くのヨーロッパ諸国に支部を持っているそうだ。もっとも、カナダ以外の国では、全国的なレベルでの組織展開はされていないようである2)。
 ピープルファーストの目的として、例えば次の事が掲げられている。まず一つは、知的障害者の自立生活と生活の維持と、その実現能力を育成するに必要なサービスやトレーニング、支援のシステムが利用可能な状態であることを保障すること。そして、知的障害者はまず第一に人間であり、障害者であることは二次的な事実にすぎないことを地域社会全体に知らしめること、である。3)
 つまり、本人が本人のために権利を拡大し、守り、行使する。それを社会に認知させ、それを可能にするために、必要な援助サービスを消費する「消費者(consumer)」として、適切な援助を選択できるようにするのだ。4)
 この運動は世界中に広まりつつあるが、日本にはまだこのようなものはできていない。1993年6月にカナダ・トロントで開かれたピープルファーストの国際会議に、日本の当事者たちが初めて参加し、これからどうしようか、というところである。1994年2月12〜13日にかけ、浜名湖湖畔で、国際会議に出席した人たちが中心となって会議が開かれた。(幸いにも、私も見ることができた。)とてもささやかな会議ではあったが、ここで自分達の仕事の話をしたり、日本でピープルファーストをやろうということが話し合われ、10月をめどに、全国の障害者に呼び掛け、役員を選出することが決まった。国際会議への出席や浜名湖の会議の手配等は、当事者でない人が仕切っていたのだが、今後は当事者自身でこのような運動が立ち上げられていく事が期待されているし、そうなるだろう。5)
 私の調べが至らなかった部分も多くあり、完全なものではないが、ここでピープルファーストの方法を交えつつ、知的障害を持つ人々の自立について概略を提示しようと思う。日本では先駆的な分野であり、このようなものでも意味があるに違いない。しかし、ここで紹介した方法は、運動の誕生から20年を経た現在でも、しっかりと確立したものではないという。この運動はそれだけ時間を要するものなのだ。まして、当事者同士の結束もされていない日本においては、これから相当の研究と時間と労力が必要であろう。

T 「ファシリテーション」 (facilitation)

 結論から言うと、知的障害とは、情報障害あるいは情報処理障害と言えるのではないだろうか。世の中には情報が溢れている。人は社会のなかで様々な情報に基づいて意志決定をし、行動する。知的障害を持つ人々は、目や耳の不自由な人々と違って、視覚情報や音声情報については受け取ることができる。しかし、往々にして言葉の「意味」のような記号的情報の理解ができない。この意味で、知的障害は情報障害と言える。「ファシリテーション」とは、そのような知的障害を持つ人々に物事を理解できるように便宜をはかることである。知的障害を持つ人々を援助するためには、“単に”情報を補いさえすればよいのである。肢体不自由者が車椅子や介助者を使ったり、目の見えない人が杖や盲導犬を使ったりするのと同じように、知的障害者の障害の機能的な側面を補うために、情報を整理することが必要となるのだ。足が動かない人は足の代わりになるものを使い、知的な障害を持つ人は頭脳の代わりになるものを使えばよい。まず、この点が他の障害者への援助の方法と違い、また動かない部分を補うという点で似ているとも言える。知的障害を持つ人は情報を得ることが苦手だが、決定することはできる。「字を読めない」「金銭の概念が分からない」「一般的な方法でコミュニケーションがとれない」ことと「自己決定ができない」ことは、分けて考えられなければならない。ファシリテーター、つまりファシリテーションを行なう人は、情報処理障害を補うために、社会と障害者との間にある情報のギャップを埋める役を演じるのである。

「介助者が身体障害者の日常生活の基本的なことを援助できるように、ファシリテーターすなわち自立を促す援助者は、知的障害者が情報を得たり、地域社会でのいろいろな経験をしたり、特に友達づくりをするのを援助することができます。つまり、ファシリテーターは、世界の豊かな文化への魔法の橋渡しをするものであるとも言えます。」6)
 もう少し具体的に言うと、ファシリテーターは、読み書きのできない人たちに代わって文字を読み、代筆をしたり、出産・子育てなどの時に必要な知識を噛み砕いて説明したりもする。また、金銭の価値が分からない人の金銭の管理を援助する。ただし、全ての援助が、援助される当事者の要請にしたがってなされ、情報は提供しても、決定するのはあくまで当事者であるというのが原則である。7)
 今まで発達遅滞だと言われてきた人の、「障害」とみなされた部分の多くが、このような制度がなかったために起こる「社会的不利」なのである。理論的には、どんなに重度の障害を持っていると言われる人でも、援助されることによって自己決定が可能であるという8)。もはや、障害を持つ者が問題になるのではない。むしろ、援助する者が、どれだけ彼に対して期待を持っているか、どれだけ彼の要求に応じて便宜を図れるか、彼が物事を理解できるためにどうすればよいか、といったことが問題になる。ファシリテーションにおいて、当事者には「決定」だけが残される。
 アメリカのカリフォルニア州サクラメントにある、キャピトル・ピープルファーストでは、理事会のメンバーのほとんどが知的な障害を持っている。彼らは、あまり障害が重くないように見えるらしいが、ピープルファーストに関わる以前は、今よりももっと「知恵遅れらしく」振る舞っていたそうだ。彼らはもともと「障害」が軽いわけではなかった9)。社会的にハンディキャップを負わされてきたにすぎないのだ。
 ファシリテーターが、身体障害を持つ人の手足となる介助者と異なるもう一つの点は、それがより個人的な関係の上に成り立っているという事である。キャピトル・ピープルファーストのファシリテーターの一人は、これを「多くの点で建物にスロープを付けたり、介助することに似ているけれど、ただそれはとてもデリケート、かつ複雑で、対等な人間同士のつながりと分かち合いという入り組んだ関係」であると言っている10) 。ファシリテーターは、障害を持つ当事者にとって「友人」であると言われる。分からないことがあれば相談したり、何でも言い合えるというような、介助する−される関係ではない、もっと近くて対等な関係がここでは要求されるのだ。なぜ、そのような関係が要求されるのか。今のところ明確な答えは出せないが、ひとつには、情報を持つ者と持たざる者との差が、しばしば権力の差となって現われかねないからだとは考えられないだろうか。知的障害を持つ者に限ったことではないが、自分の生活を自分でコントロールするために、情報が必要不可欠であることが、ファシリテーションという援助の技法を見る時に見いだされる。知的障害を持たない障害者の場合、どうすれば良くて、どう援助されればしたい事ができるかという情報が既に前提となっていて、しかも、普段は気付かれることがない。しかし、知的障害を持つ人は、決定するための前提の部分が援助されていなくてはならない。決定のための大前提になる情報をコントロールする者は、強力な権力を持つことになり、それだけに、ファシリテーターとの関係に注意が払われる必要があるのではないだろうか。このことは、ピープルファースト国際会議での、障害を持つ当事者の「アドバイザーは私達の前に立たないでほしい。後にも立たないでほしい。横にいてほしい。」という発言に現われている。11) カナダのアドバイザーであるビル・ウォレルも、しばしば(特に施設の様なところからできた団体において)援助する側とされる側との関係が支配的になったり、援助する側が当事者を半ば無視する形で動いてしまったり、ということがあると書いている。12)
 以上に関連して、私が浜名湖での会議に出席して気になったのが、「こうすれば?」と「こうしろ」との区別の分かりにくさである。会議は、基本的に障害者達が中心となったものの、彼らだけでは話が進まず、数人の健常者が助言を与え続けていた。だが、ここで「こうすれば?」という助言のつもりが「こうしろ」という命令の形になっていなかったか。果たして、本人の発言が彼自身のものであったか、結局、健常者の言葉をそのまま障害者が言ってはいなかったか。この点が、知的障害を持つ人々の自己決定の難しさの一つであろう。
 ファシリテーターになる条件は、ただひとつ、当事者に認めてもらうことのようだ。あえて付け加えるならば、本人の求めに応じて機能すること、自分の考えを入れないこと、本人の分からない状況を作らないこと、等があるだろう。要は「当事者主体」を尊重することだ。13)
 従ってファシリテーターは、後見人(制度)ではなく、まして親や教師ではない。確かに、親は子供と何年も一緒に生活してきたし、子供のことをよく知っている。どうしたら子供が理解できるようにファシリテートするかということも分かっているかもしれない。だが、親は最もファシリテーターに向かない人種だという。親は、しばしばその愛情のために、子供を見えなくしてしまう。親は、子供の要求を先取りしてしまい、子供は一言も自分の意見を言わなくても生活していける。だが、「子供のため」に「面倒を見る」ことは、結局、子供の意思が無視されることなのだ。親や教師の多くは、いつも、横にいるのではなく前に立っていたし、むしろ管理者(keeper)ではなかったか。14)

U 「遅れを招く環境」 (retarding environment)

 「遅れを招く環境」とは、知的障害を持つ人々をめぐる状況でよく起こっている事を表した言葉であり、ピープルファーストが最も糾弾するものである。この言葉は、キャピトル・ピープルファーストがカリフォルニア州発達障害委員会のために制作したレポート、『サバイヴィング・イン・ザ・システム〜知恵遅れと遅れを招く環境』(Surviving in the System: Mental Retardation and Retarding Environment)の表題として、初めて使われた。これについて議長であるトーマス・ホプキンスは、次のように言っている。

「遅れを招く環境とは、我々に精神的・知的障害があるとしても、州立病院や福祉作業所、そしていわゆる地域施設といった、障害者ばかりの隔離された場所において教えられる行動様式こそが、我々を他の人から引き離すものだということである。」15)

 知的障害を持つ人々の知恵遅れ的な行動が、実は「障害」によるものではなく「学習された」ものであることを、我々は確認しなければならない。彼らの「障害」の多くが、普通とは違う不自然な環境に置かれることによって「作られる」のである。ここで我々が提起する問題は、知的障害者だけに当てはまらない。いわゆる身体障害者も、閉ざされた環境におかれることによって社会化されなかったりすることがあるからだ。しかし、知的障害は、その機能的な障害(impairment)・・単に脳の一部がないだとか、足が動かない、染色体が一つ足りない等・・と、社会的不利(handicap)・・障害を持っているために、普通学校に行きたくても行けなかった等・・がしばしば混同されて扱われてきた。身体障害者の場合、「障害」が顕在化しているために、当人によっても他者によってもとりあえずこの区別を見分けることができる。だが、「知能」はそれに比べると特殊なものである。まず、知能は見えない。そして知能は属性ではなく、社会的な関係によって与えられ、作り出される。極端な例を挙げると、地球上のものについて全く知識のない宇宙人は、我々から見ると障害者のような存在であろう。その宇宙人が、自文化にいるときには全く障害を持っていなかったとしても、だ。あまりにも多くの人達が、このことに気付いていなかったために、彼らは何年もの間苦しまなければならなかった。    
 遅れを招く環境には、@養護学校や施設のような隔離された環境と、A障害を持つ人々が「知恵遅れ」として扱われることの二つの側面がある。
 まず、養護学校や施設は、少なくとも普通の環境ではありえない。大勢の障害者を少数の健常者が世話をすること、しかもこの環境が幼いときから障害者にとって当たり前であることは、通常の社会関係を学ぶ可能性を殺してしまう。そして、専門家と呼ばれる人々が彼らの発達を阻む。例えば、就学前に知能を測り、「この子供はこれ以上伸びない」と宣告する。

「よく訓練された専門家はあらゆる人々の潜在能力を予知できるという信条はなかなかなくならない。成長を予言する(障害者の「最大限の可能性」を予言する)能力を絶対的に信じる心の底にあるのは、成長の限界もまた予言できるということへの絶対的期待である。」16)

親は専門家が貼ったラベルを信じ、子供は期待を持たれないまま育てられることになる。だが、ピープルファーストはそうではない、と言う。彼らは「医者は神様ではない」と訴えている。17)
 たとえ彼らに異常行動があったとしても、それは、正常な環境で育てられてこなかったことの裏返しである。「異常」は、社会が彼らから奪ってきたものなのではないだろうか。 ただ、物理的に隔離されている状況がなくなれば良いというわけでもない。さらに、ピープルファーストが本質的な問題としているのは、「知恵遅れ」というラベルである。「知恵遅れ」というラベルは、単に「遅れている」という以上の意味を持つ。発達が止まっている、自己決定や自己主張ができない、自分をコントロールできない等といった、否定的なラベルである。

「発達障害者は自分で自分の事を考える、自己主張するっていうのが出来ないってずっと見られてきたからね。だから両親とか先生とかカウンセラーとか政府が代わりに決定を下してきたんだよね。決定をしてそれで『あなたの人生はこうです。もし施設に住んでるんだったら昼間はこのプログラムに行きなさい。』じゃなかったら例えば『あなたは毎週日曜日教会に行く』とか『あなたは毎晩9時に寝て毎朝7時に起きる』っていう感じで言われて自分の部屋に鍵が持てる場合もあるし持てない場合もある。この国に住んでる人の大部分が守らなくてもいい決まりが私達に押しつけられている。」18)
「例えば、もし、知恵遅れの人が感情面で問題があるから、地域の精神衛生プログラムに行ってカウンセリングを受けたいと思ったとします。ところが、知恵遅れの人はそんな問題を持つはずがないとカウンセラーが決め付けてカウンセリングを拒否した場合、それは(訳注:社会や文化全体が)知恵遅れの人達の価値を損ねることを容認しているということになります。」19)
「知恵遅れというラベルをはられた人々を子供のように扱うということがあります。」20)

 「知恵遅れ」はラベルである、これは優れて社会学的なアプローチではないだろうか。ここではしばしば、「精神遅滞者」ではなく「知恵遅れのラベルを貼られた人」という言い換えが行なわれる。障害そのもの(impairment)やその障害を持っている人間が問題なのではなく、社会が「知恵遅れ」というラベル(しかも悪いラベル、スティグマ)を彼らに付与することが問題なのだ。しかし、社会は、この事実を見えなくしてしまう。例えば知恵遅れが病気であるかのように扱う。さらに、専門家と呼ばれる人が「科学的」な方法によって「病気」を発見し、規定するのだ。

「私達が知恵遅れと呼んでいる人々についての昔ながらの固定観念や神話は間違っているというだけではない。彼らにあまり期待せず、将来についても否定的な見通ししか持たないことは誤りであるというだけにはとどまらない。もはや知恵遅れがあるとされた人々に質の低い生活を予想することを正当化できないばかりでなく、質の高い生活に参加する能力がないとみなしてきたものは、実は我々が彼らと付き合うために考案したシステムの産物なのだということが今や知られている」21)

 彼らは隔離され、知的障害を持つ子供として「教育」され、ゆえに「知能の怠慢(inte-llectual laziness)」が許される22) 。だが、これは本人に望まれたものではない。「知能の怠慢」は、我々が“彼らのために”作ったシステムによって強いられたものなのである。
 障害者のためのシステムに関わっている人々・・親、施設職員、教師、行政、ヘルパー・・も、“彼らのため”に働いているに違いないのだ。しかし、それが結果として本人不在という状況を作り上げてしまい、保護の名のもとに本人の成長を阻み、弱くさせる。こうしてシステムは存続し続けることが可能になる。

「現実には、この人達(システムに関わっている人)の視点からは、発達障害者はお金の価値がある『物』としてしか扱われていないと見えるわけです。テレビの例で言えば、発達障害者達は、テレビを買う“消費者”(消費者は、自分達が必要だと思っているサービスを選ぶことができる)ではなくて修理屋に出された壊れたテレビとなります。お店でテレビを修理する人は、テレビ自体に何が悪いのかまた、どのように直してほしいのかを聞くわけではありません。テレビの持ち主は別にいるわけだし、当然の如く修理代を払うのもテレビではありません。テレビはあくまでも受動的な状態でなされるがままになっているわけです。」23)
V インテグレーション (integration)

 ここで、インテグレーションについて触れておかなければならない。インテグレーション(統合)は、遅れを招く環境から障害を持つ人々を救い出すことである。しかし、この取り組みは、残念ながら日本ではまだあまり進んでいないようである。特に知的障害を持つ人々の場合は、精神薄弱養護学校の数が、他の種類の養護学校数に比べて非常に多いことからもインテグレーションが進んでいないことを示している24) 。が、ただ統合教育をやれば良いということでもない。学校の教師からも、「普通の学校にいても、結局授業についていけなかったり、いじめられたりするのならば、養護学校で生き生きした生活をさせたほうが良い」という声がたびたび聞かれた。この意見は現在の日本の状況を考えると正しいといえる。現在の学校は、彼らが学べる状態にはない。
 しかし、この意見は、健常者社会の論理でしかない。では、彼らが学べる状態にないのならば、なぜ障害を持つ子供が普通の学校で学べるようにしないのか。これまで見てきたように、障害を持つ子供にヘルパーを付ける等、制度的にサポートすることは可能なのだ。むしろ、それ以外の部分、つまり「知恵遅れ」というラベルが、彼らと他の人間を引き離してしまっていたのではないだろうか。だから、これから統合教育を進めていくとしても、彼らを「知恵遅れ」として扱うのであれば、意味がない。遅れを招く環境の二つの要素、隔離されることと障害者として扱われることが克服されなければならない。
 分離されることによって、どのような影響があるか。それは、単なる分離には終わらない。人間の能力(知能)の高低で並べられた序列があるとしよう。本来、この序列は一様に連続したものである。それが、ある地点で恣意的に分けられたとすれば、能力の高い集団と低い集団で二極分化が起こるだろう。それぞれの集団の内部で、能力の差が小さくなる。障害が軽かった者は重くなり、重かった者は軽くなる。一方で、能力の高い集団と低い集団の差は大きくなる。分離されることによって、最も被害を受けるのは、二つの集団の境界線上にいた人々であろう。どちらの集団に分けられるかで、彼らの人生は大きく違ってくるだろう。このような分離の影響は、ある大学付属養護学校の副校長への聞き取りによってその一端が確かめられた。

「大学だからということで重度の障害を持つ子供が増えていって、知らず知らずのうちに軽度の子も、重度の子の影響を受けていってしまう。重度の子に対する先生の態度が影響したり、重度の障害を持つ子供が先生に甘える様子を見て甘えるようになる」

W 疑問・課題 

 最後に、今回疑問に思った事について、幾つか並べておく。
 まず、ファシリテーターは実際にどのような働きをしているのか。そして、ファシリテーターには報酬が与えられるのか。例えば、CILでは介助者に介助料が支払われる。だが、「友人」関係にどれだけ市場原理を持ち込むことができるか疑問である。身体障害者は不特定多数の介助者を使うが、障害の性格上同じようにはできないだろうし、「友人」というからにはそうもいかないのではないか。アメリカのピープルファーストでは、財源のかなりの部分で企業や団体の寄付をあてにしているようだが、詳しいことは不明である。日本では、精神薄弱者対象のガイドヘルパー制度が、最近になり関西の自治体を中心に整備され始めた。例えば大阪市では今のところ、自治体から障害者に介助券が支給され、本人が見付けたガイドヘルパーに渡し、後で券と引き替えに自治体からヘルパー料が支払われる、という仕組みになっているようだ25) 。だが、基本的にガイドヘルパーとは、障害者が外出する時の付き添い人である。それは「ファシリテーター」が持つ役割の一部分でしかないし、何よりも当事者が運営に参加していない。
 障害を持つ人々が自立するために必要な次の課題は、ロールモデル、あるいは運動を引っ張っていくリーダーを持つことであろう。つまり、すでに自立生活を成功させていて、他の障害者が自立していくための手本になるような人が存在しなければならない26) 。身体障害者の場合、すでに自立生活をしている人がかなりいるし、そのためのノウハウもある程度確立されている。だが、知的障害を持つ人々については、ロールモデルとなる人が日本にはまだあまり存在しないようだ。彼らに関して言えば、今のCILがアメリカの自立生活運動を手本にしていたときと同じく、外国の運動がロールモデルになっている状態にある。CILでも知的障害を持つ人々を受け入れてはいるが、CILのリーダー達は彼らにとって同じ障害を持つ「仲間(peer)」ではない。 
 最後に、自立はどこまで可能なのか、疑問の残るところである。理論的にはどんなに障害が重くても自立が可能なのだが、アメリカやカナダにおいても、まだそれは未知数のようだ。しかし現時点でこうは言えるだろう。重度の人の自立が不可能と結論を出す前に、まだ我々は経験していないし 27)、また、最重度を救うという発想はそれはそれで良いのだが、「今」できる者を最重度と同じように扱い、できない状況に置いておくべきではないのだ、と。ピープル・ファーストという運動は、このような発想を持つものなのかもしれない。国際会議に参加した方が、次のように話していた。

「 100人に呼び掛けて、1人しか自立に成功しなかったとしても、それを失敗だったと言うんじゃなくて、1人でも成功したらいいじゃないかと言うことです。」28)



1) 「国連障害者の10年」最終年イベント実行委員会[1992]。
2) 『季刊福祉労働』61号(1993年12月)特集:話の祭典・知的障害者(ピープル・ファ ースト)の国際会議。スウェーデンにおける動向については、河東田[1992a][1992b] 柴田・尾添編[1992]に紹介されている。また、カリフォニルア州でのTTSRについ ては、Dimity[1991]。
3) Capitol People First, Surviving in the System、はじめに。
4) 前掲書の定義によると、現存の発達障害者制度に基づいたサービスを受けている障害 者を「主要な消費者(primary consumer)」と呼ぶ。また、子供あるいは法的な責任上 面倒を見なければいけない対象の者が、サービスを受ける必要から発達障害者制度に関 わるようになった人達を「二次的消費者(secondary consumer)」と呼ぶ。また同書は、 アメリカの東部に、消費者という言葉を認めず、自分達を「システム・サバイバー(制 度の中で生き延びている人々)」と呼ぶグループがある、と報告している。
5) この日集まった当事者は、私が見た中では障害が軽い方だと感じた。とりあえず全員が話すことができるし、一般的な方法でコミュニケーションを取ることが可能である。国際会議の他の国々の参加者にも、いわゆる「重度」の障害者は見られなかったようだ。しかし、我々が想像する「軽度」「重度」は、「障害」そのものの程度とは必ずしも対応するものではないかもしれない。
 また近年、「当事者主体」を尊重する動きがでてきた。1991年、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)大会で初めて「知恵遅れの仲間」分科会が持たれた。そして全日本精神薄弱者育成会で「さくら会」という当事者の会が発足した。1993年には、育成会が東京都から補助金を取って、ピア・カウンセリングの講習を始めた。CILの講師を呼んで、数回の講習会が開かれたが結局親が主導の体制だったので、JIL(全国自立生活センター協議会→第1章)が抗議したようだ。
6) ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会編[1992:66](バーバラ・メイ・ブ リーズ Barbara May Blease・・キャピトル・ピープル・ファーストのアドバイザー・ 促進者として創立に参加・・の講演より)
7) 国際会議旅行団[1994:108,他]。
  また、ピープルファースト国際会議に参加した施設職員が、次のように報告している。 「私が付き添ったOさんが、会場で血圧計を紛失してしまい、事務局を訪ねたときのこ とです。遠来の客ということもあってか、ピープルファースト・カナダのアドバイザー が、ホテル中走り回って、フロントやセキュリティーなど丁寧に調べ、まだ不明とあれ ば、緊急時の対応はどうすれば良いか、事細かにOさんへ説明してくれるのです。その 熱心さには、ただ頭が下がるだけでした。私はその時、まがりなりにもOさんに通訳を していたのですが、ふと気が付くとアドバイザーの言っていることが大変わかり易いの です。……即ち、アドバイザーは、誰が聞いてもわかるように、やさしい言葉で話す訓 練ができているということなのです。……」(国際会議旅行団[1994:104])
 アドバイザーの話す英語が聞き取り易かった、というのは日本から参加した人たちが 共通に感じた事のようだ。
8) 『季刊福祉労働』61号等を参照。
9) 斎藤[1993b:46]。
10) ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会[1992:67](バーバラ・メイ・ブリ ーズ Barbara May Blease(→注6)の講演より)。
11) 国際会議旅行団[1994:44,103 他]。
12) Worrell[1988]
13) 『季刊福祉労働』61号・斉藤氏(JIL事務局)からの聞き取りより。
 しかし、まだ疑問が残る。国際会議に参加した人から、「アドバイザーを完璧に使いこ なす人はあまりいないのではないか」という声が聞かれたように、身体障害者が介助者 に適切な指示を与え、自分の手足として介助者を使うようにはいかないのかもしれない。 それは、ともするとファシリテーターと障害者が、「教える主体」と「教えられる客体」 に分離してしまう危険性をはらんでいるからではないか。私はそういう実感を持った。
14) Barbara May Blease,Definitions and Unique Phrases等に‘keeper’という語が使われている。
15) 「国連障害者の10年」最終年イベント実行委員会[1992:20]。
16) Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護のためのノート)より。
17) ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会編[1992:55]。
18) Capitol People First, Surviving in the System、定義(当事者へのインタビュー  の部分)
19) Capitol People First, Surviving in the System、定義。
20) Capitol People First, Surviving in the System、第2章。
21) Notes for chapter on Facilitation of Persons with Cognitive Disabilities。
22) 前掲書等に「知能の怠慢(intellectual laziness)」という語が使われている。
23) Capitol People First, Surviving in the System、定義
24) 文部省「平成4年度特殊教育資料」によると、肢体不自由養護学校 189校、生徒数 12,966人に対して、精神薄弱養護学校 464校、生徒数29,083人である。また小中学校の
特殊学級では、肢体不自由 552学級、 1,299人に対し、精神薄弱14,566学級、50,037人、 情緒障害は 3,731学級、11,116人である。
25) 視覚障害者を対象としたガイドヘルパー制度は既に多くの自治体で実施されているが、この1、2年で知的障害者対象のガイドヘルパー制度が整備され始めた。なお、「大阪市精神薄弱者ガイドヘルパー派遣事業実施要綱」には、障害者の自立と社会参加の促進がうたわれている。大阪市の事業については、「たびだち地域センター・ゆうゆう」の機関誌『ゆうゆう通信』(544 大阪市生野区巽東2-19-26、Tel:06-751-9767)に紹介されている。
26) Capitol People First, Statement Regarding Unmet Needs for Assistance in
 Independent Living of Persons with Developmental Disabilities:14、嘉悦・村山・ 石毛[1993:96]
  また、リーダーについてはWorrell,Leadership Training Manualがある。
27) 嘉悦・村山・石毛[1993:94]。
28) 斉藤氏からの聞き取りより。

 ※ピープルファースト、キャピトル・ピープルファースト関連の文献、パンフレット等 については、一部を除き発表された年、発行主体等を確認することが出来なかったため、 本報告書末尾の文献表には掲載していない。表題等を以下に記しておく。

 ・Barbara May Blease,Definitions and Unique Phrases
 ・Bill Worrell,Leadership Training Manual
 ・Capitol People First,Notes for Self-Advocacy Model(本人による権利擁護モデル  に関するノート)
 ・Capitol People First,Statement regarding Unmet Needs for Assistance in
  Independent Living of Persons with Developmental Disabilities :The Response   of Capitol People First to the Local Needs Assessment and Priorities Survey
  of Developmantal Disabilities Area Board III
 ・Capitol People First, Surviving in the System: Mental Retardation and
   Retarding Environment(秋山愛子の訳あり)
 ・Notes for Chapter on Facilitation of Persons with Cognitive Disabilities(高  山敦子による抄訳が「認識障害を持つ人のファシリテーションの問題についてのノー  ト」が『季刊福祉労働』61:98-102に掲載されている。)

  最後に、資料を戴いたJIL事務局の方・『季刊福祉労働』編集部の方々・国際会議旅行団、その他インタビューに応じてくださった方々に感謝します。ありがとうございました。
  また、現在(1994年5月)本稿を広げる形で卒業論文を書こうと思っています。このテーマに関連する分野(ピープルファースト、その他知的障害者の権利養護運動、当事者組織、自立生活プログラム、ピア・カウンセリング、民間ガイドヘルパー派遣団体等)で何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、御一報ください。些細なことでも結構です。


UP:1996 REV:20081126
寺本 晃久  ◇Archives
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