第8章「働く「声」を聞く」
last update: 20151221
第8章
働く「声」を聞く
Ishimasa, Shinichiro
石政 信一郎
疑問
障害者が「働く」ということにはどういう意味があるのだろう? また,障害者自身は「働く」ということをどのように考えているのだろう? 現在,「働く」場面が限られている状況下で,なおも「働こう」というパワーとは,一体何なのだろう? また,障害者が就労する際には,実際にどのようなことがあるのだろう?
そして,「働く」っていうことは一体どういうことなのだろう?
T まず外へ出よう!
障害を持つ人々が働いている場の一つとして「作業所」がある。この「作業所」とはどういうものなのだろうか。「作業所」で働くということはどういうことなのだろうか。
【インタビューの相手:Aさん(作業所「若駒の家」所長)】
「15年前というと,まだ閉じこもった仲間達がいたんですよ。だから,その障害者達をなんとかね。表へ出そうという目的で……」
(「若駒の家」はどうしてできたか?)
Aさん「はじめのうちはね,ボランティアと,障害者がね,一緒になってね,どこかでたまり場みたいなところを作ろうかということで…」
質問者「たまり場ですね。」
Aさん「うん。作ろうか,ということで。それで作られたとこが,ユメトピア(「若駒の家」の前身)。……とにかく何でもいいから集まって,みんなで何かやろうかなって集まったのがユメトピアって…。それで,まず何をやったかというと,15年前というと,まだ閉じこもった仲間達がいたんですよ。だから,その障害者達をなんとか表へ出そうという目的で,それで少しずつね,(障害者達が)ユメトピアに出てきて。だんだん仲間が集まって,何か仕事をやりたいということで,何の仕事がいいかみんなで考えたんですけどね,今ここにいない○○とか,一応,前,印刷の仕事をやってましたから,じゃ印刷の仕事をね,ちょっとやろうかなということで,始めました。」
(中略)
質問者「これからも重度の障害を持つ方を若駒の家の方に受け入れていきたいと…」
質問者「やっぱり,この場(若駒の家)っていうのは,引きこもりがちな障害者の人達に…こう,人間関係っていうか,みんなで集まってやっていこうと…」
Aさん「そう。そしてもう一つの目的は,これはまだ具体的なことと言えないんですけれども,今まで自分達が何かをやってもらってばかりいたけど,もうここらで自分達の役に立つ何かね,逆にね,ボランティア的意味あいでいいから,何か役に立つ。」
質問者「役に立つっていうのは,社会に対して?」
Aさん「何でもいいですよ。役に立つような活動をしていこうかなっていうような計画を,今立てています。」
次は,「若駒の家」に行くようになった人の声である。
【インタビュー:Bさん】
「ずっとこのまま家にいたのではなんにもできなくて,親とじーっとしていて,ずっと助けてくれる人を探していて…」
質問者「ここの若駒の家に来るようになったきっかけは何ですか?」
Bさん「家にずっといると,友達がいなくて,親との関係っていうか,かかっちゃうでしょ,負担が。で,何とか,友達とか,遊びに行きたいとか,飲みに行きたいとか,恋人が欲しいとか,いろいろ普通の人と同じような生活がしたいと20歳頃から思っていて,ずっとこのまま家にいたのではなんにもできなくて,親とじーっとしていて,ずっと助けてくれる人を探していて…。20(歳)か21(歳)の頃からずっと。で,たまたま八王子ヒューマンケア協会をテレビで知って,手紙を書いた時に,八王子ヒューマンケア協会から1度八王子に来いと言われて,ヒューマンケア協会に行って,『自立がしたい』と言ったら,『ただ自立してもしょうがないから若駒の家に通ってきてやりたいことをやればいいですよ』と言われて,紹介されました。」
「作業所」は「作業」をしない「たまり場」だとしても,障害者を外に出すという機能がある。また,次の段階として「何かの役に立つ」(非常に漠然としていて「何か」が「何」かわからないが)ことを模索している。もう一つ別の作業所をあげてみよう。
【インタビュー:Cさん(「作業所いろりん」スタッフ/健常者)】
「(いろりんに来ている人は,家にこもっている人に比べて)生活のリズムがきちんとつくよね。それがないとね,だらだらだらだら遅くまでなんか起きてて,朝起きないとかなんかになって,結局親共々ね,本当に悪い方向へ進んでいる人もいるもの。」
「(いろりんに)出てきたら出たきたで,トラブルがあるんだけど,これはこれで僕はいいと思うんだけどね。本人がわがまま言ってるけど,それはいろんな人とのつきあいの中でさ,こうわがままであったりさ,それを我慢しなくちゃいけないっていうのを学んでいったりすると思うの。」
作業所「いろりん」は,障害者(おもに知的障害者)の職場づくりとして,リサイクル活動を行っている団体である。知的障害者の場合は,身体を動かす分には支障がないので,「作業」自体に特に問題はない。
(「いろりん」はどのようにしてできたか。)
Cさん「いろりんってグループは今みたいのじゃなくて,もっと大きなさ,グループだったの。もっとたくさんいろんな人達がいて,そんなしっかりした目的もなく。年齢層もいっぱいいろいろあって,何をするってわけじゃなく,障害を持った人達がいろいろ集まって,メシ食ったり,泊まったりする形で,1軒の家を借りてたの。みんなでお金を出し合ってね。その中に誰かが常時いるってわけじゃなかったの。そういう家だけを借りているグループがあって,じゃ,そこでその(障害者の)子受け止めようよって。そのかわり,誰か人がいるよって感じで。で,その人が誰って言ったときに,僕が,じゃ,やるって言ったのね。そうこうやりながら,みんなお金出し続けてるんじゃ,みんなお金ないし,福祉,社会の福祉の責任を放棄すること,行政側の責任をね,放棄することになるから,何らかの形でお金をとろうって話になって,いろんな制度をつついてみたけど,結局この通所訓練事業っていうのかな,それが一番お金が出やすいだろうということで,じゃ,作業所という形態をとってやっていこうって,そういう形でいろいろな人がその作業所のメンバーになってもらいながら,実績積んで,行政と交渉して,お金が出てくるようになる。で,1回こうやってお金が出てくるようになると,いろんな人が,私も入れてくださいってふうに来るわけね。」
(中略)
(「いろりん」で働くこととは?)
質問者「これはやっぱり,これは本当にここにいて障害者の人と接してみて気付くことだと思うんですけど,やっぱり,何もしない家にこもっちゃってる人っていうのもいますし,その人達に対して,障害の程度なんかは同じなんだけれどもここへ来て,ここでなくともいいんですけれども,働いている人っていうのは,やっぱり,こう,見てて違いますかね。違いますよね?」
Cさん「違うと思うよ。」
質問者「何かを考えたりとか,そういう機会みたいのが絶対多いと思うんですけど。」
Cさん「考えてるかどうかは知らないけど,まず,生活のリズムがきちんとつくよね。それがないとね,だらだらだらだら遅くまでなんか起きてて,朝起きないとかなんかになって,結局,親共々ね,本当に悪い方向へ悪い方向へと進んでいる人もいるの。でもそこまでは,僕らもちょっと手を出せないようなところがあって,ま,いろりんの人じゃないんだけど,そういう人がいるって話があってさ,いろりんでなんとかできないんですかなんて言われてるんだけど,いろりんは今そこまではできなくて,だからとにかく普通に朝に起きて,普通の仕事に出てく時間に身支度してくる。本人にとっては,ここは一応仕事の場だって考えているから。やっぱり,多少気分が悪くても,朝は行くっていうふうに言ってるって親は言ってるから。ま,それはそれでいいんだろうなと思っているけどね。だから,出てきたら出てきたで,トラブルがあるんだけど,これはこれで僕はいいと思うんだけどね。本人がわがまま言ってるけど,それはいろんな人とのつきあいの中でさ,こうわがままであったりさ,それを我慢しなくちゃいけないっていうのを学んでいったりすると思うの。それを何にも人との関係がなきゃ,全然そういう,こう,豊かな感情っていうかさ,わがままも一つの豊かな感情なんだから。で,それを我慢するとかね。…やっぱり,いろんな人がいて,関係があるっていうのは,彼等にとってもいいし,僕等もああいう人達と一緒に働いていると,そういうのは楽しいんだよね,見てて。だからここは好きなんだけどさ。」
「いろりん」は障害者を「外」に出すと同時に,「働く場」・「作業する場」という側面をもっている。このことは,次のような効果をもつ。
Cさん「本人は,ここは一応仕事の場だって考えているから,多少気分が悪くても,朝は行くっていうふうに(本人は)言ってるって(その)親は言ってるから」
つまり,生活のリズムがしっかりつくということであり,生活のリズムというもの自体,
社会で生きていく上で必要な社会性といえるようなものなのではないだろうか。
さらに,「外」に出て,他人と接するということで,重要な社会性である人間関係をも学ぶ場という意味も作業所は持っているということが言えるだろう。
U 一般就労へ
「障害者の雇用の促進等に関する法律」があり,一定規模以上の事業主に一定の割合の身体障害者の雇用が義務づけられている。その現状は一体どうなっているのだろうか。
【インタビュー:Dさん(CIL立川代表)】
質問者「一般の企業に行く考えとかはなかったですか?」
Dさん「あまいっ!(笑)行けるものならいいけど,雇ってくれると思う? それはそうでしょ。だって 1.6%の雇用率を達成していない企業,今年企業名出なかったじゃない。実際の雇用率,今年度で1.34だったかね。達成してない会社で,日本経済新聞に障害者のみなさん働きたい人来て下さい,なんて応募出しても,積極的な努力をしたということで企業には好評価,免れるっていうことがあるのね。……上肢に障害がなければね,組立班とかね,オペレーターとかっていうのは,就労場面があるんだけれど,脳性麻痺だとか,上肢に障害があるとか,アゼトーゼがあるとか,いわゆる知的障害があるとかね,知的障害でも,3度とか4度とかならいいけれども,2度とかそうなったらほとんど就労場面がないでしょ。だから,今全国で,20何万人の,働きたいなあと思う重度の障害者がいるんだけれども,なぜ残っているかと。働きたいと職業安定所に登録している人が20何万人まだ働く場がなくているわけだよ。働きたくても,『あんた無理だよ』と言われるのが,ほとんどの職業安定所の今の状況なのね。『更正相談所で働く能力があるかないか判定してきて下さい』。ところが,更正相談所の中に行くと,『あんたは知的障害があるからダメだよ』といって,働く力がありませんと。一般就労では,ほとんどそういう…。アゼトーゼで,あんたは無理だよ,っていうかたちになる。だから,そういう面からいけば,そういう人っていうのは,何十万人まだいる。だから,そういう部分からいくと,一般就労なんて,私にはほとんど不可能。その上に就学免除じゃねえ。健常なところは口だけとかね。顔と口だけ,これじゃあ無理だよね。俺が,雇用主だったら,こんな口の悪いやつは…。」
障害者の一般就労は,現実的にはかなり厳しい。また,一般就労といっても,採用の時点で健常者とは区別されている。実際に次のような話がある。
【インタビュー:Eさん】
質問者「今のところ,(進路を)どのようにお考えですか?」
Eさん「保険会社に入りたいな,と。」
質問者「じゃあ,一般企業で?」
Eさん「そうですね。」
質問者「今,(専門学校)2年ですよね。今,就職活動を?」
Eさん「今,してます。」
質問者「大変でしょう! 今,大変でしょう! ふふふ,『しょう!』とか言っちゃったけど。」
Eさん「そうなんです,そうなんです。」
質問者「もうそろそろ決まりそうなとことかあります?」
Eさん「ないです。」
質問者「やっぱり!? 本当に大変なんだ。」
質問者「そういう時に,体が悪いとかいう部分で…」
Eさん「障害者雇用枠? ああいうのでやってみようかな,と。もちろん,一般じゃちょっと難しいけど。」
質問者「そんなこともないですよ。一般で是非。」
Eさん「それも考えました。っていうのは,12科目試験あるうち,9科目再試験やらされたんですよ。ちょっとそれは難しいなあ,と。」
質問者「障害者雇用の方になるとだいぶ基準が変わったりするんですか?」
Eさん「そうです。」
質問者「同じ試験でも時間が変わったりとか。」
Eさん「そうですね。」
【インタビュー:Fさん(銀行嘱託などの翻訳業)】
質問者「(就職する際)面接とか,そういうのありましたか,断られたこととか?」
Fさん「銀行に入る前にいろんな会社行ったんですよ。就職活動で。それは障害者ということを限らない会社だったから(実際に,障害者不可という企業がある)…。で,やっぱり面接に行きますと,『どうやって通うんですか?』とか,それから『うちにはトイレ置く場所がないですけど,どうするか?』とかね。それから,『火事になったとき,あの,逃げられる場合とかどうしたらよいか』とか,そういうこと聞かれましたね。そういうふうにして受けたところ,みんな駄目だったですけど。」
(中略)
質問者「はっきりと(断られた)理由とかは言われなかったんですね?」
Fさん「ええ。」
採用試験において,明らかに健常者と区別されている。また,仕事内容の他に通勤などを問題にされるということも,健常者との区別がみられ,明らかではないにせよ,それが障害者の就労を困難にしていると考えられる。このことは,雇用主側の問題である。
さて,次は実際に一般就労した障害者の声である。一般就労するということは,必然,健常者の中へ入って行くこととなる。そしてそこで,どういうことがあるのか。また,どういうことを感じたり,考えたりするのだろうか。
【インタビュー:Gさん】
「一般就労の方が,自分のお金が得られるし,精神的にも変わるんじゃないかっていう,ちょっと甘いイメージがありますよね。」
「一般就労は夢で,働いたんですけど…」
質問者「一般就労されたと言いましたけれど,仕事はどういう?」
Gさん「やっぱり,一般事務の仕事で,あとあの,食品を扱っているところだったので,発注とか電話の応対とか,そういうのが主だったんですけど。」
(中略)
質問者「それで,一般就労されて,1年余りで辞められたということなんですけど,やっぱり体力的にとかそういうことですかね?」
Gさん「まず,体力的にというより精神的にという部分で,やっぱ障害者故に,いじめというか嫌がらせをされたり,ちっちゃい子会社だったんで,私1人のためにという部分が結構いくつか問題点が出てきたので,で,自分がやりたいのは,本当はこれじゃないなと思ったんで,で,昔から一般就労は夢で,働いたんですけど,実際的には厳しくて,就業時間が普通決まってますよね,基準が。それ以上に働いても,月に少ししかもらえないというので,そういうのでも不愉快な思いをしたという部分があって。それで辞めたんですけど。」
(中略)
質問者「それではまたさきほどの一般就労されたときの話に戻りますけれど,その時に,一番自分の中で変わったなと思ったことはなんなんでしょうね。」
Gさん「つまり,一般就労の中で?」
質問者「ええ。」
Gさん「でも,いい思い出が何一つないんですよね。自分の中では,一般就労したっていう満足感はあるんだけど,でも結果的には何かが残ったってことがなくて,それがずうっと積み重なっていって爆発したっていうか,『やめちゃえ。』みたいなところにね,ぶつかってしまったんですけど。」
健常者の中に入ることで,人間関係が難しくなるであろう。一般就労するには,障害者に社会性が必要である。また,肉体的な問題も重要である。障害者が健常者と同じ時間・同じ能率で仕事をすることは困難である。この点も健常者と障害者を隔離するものであろう。
しかし,このように障害者が健常者の中で一般就労することはマイナスの面ばかりではない。一般就労することのプラスの面を次にあげてみる。
【インタビュー:Hさん】
「(仕事をしてよかったと思うこと)仕事ができるってわかったことかな。」
質問者「現在,何かお仕事とか,今までに職業についたご経験は?」
Hさん「一応ですね,ここへ来て1年後,平成3年から今(まで)通っているアルバイト先の生命保険会社ですけど。そこで週2回は。」
質問者「どういう形で働いて?」
Hさん「週に2日,午後から。午後1時から6〜7時くらいまでの間の時間給バイトで,事務とかそういう…」
質問者「生命保険とかそういうのって,きつくないですか?」
Hさん「仕事始めた頃は,やれるとか言って,週に4日ぐらい入ってたら,案の定,体壊しちゃって入院しちゃったから,週に2日にして…。」
(中略)
質問者「仕事を始めるってことで大体どんなことが変わりましたか? 自分の中で。」
Hさん「いや,これがまた今度は会社という人間関係がつかめなっくて,ものすごい大変だった。だって周りはエリートばっかりなんだもの。障害者を見たこともないエリートばっかりでしょ,ま,障害者といっても男の人が1人働いているんだけれど,ちゃんと朝から晩まで,残業もやるしっかりした勤務体制で入ってる人だから,障害が働く事にはあまり邪魔にはなってないだろうなって人だから。」
(中略)
質問者「仕事をして,よかったなぁって思うことはなんですか?」
Hさん「あぁ…,仕事ができるってわかってことかな。」
質問者「仕事をして,仕事ができるんだって。」
Hさん「仕事ができるんだってわかって,納得した事かな。」
質問者「逆に,嫌な事っていうのは?」
Hさん「嫌な事? 自分が至らないって事がよくわかった。やっぱり,人間関係が下手だってことがすごくよくわかった。だって,向こうは好意で迎えようとしてくれるのに,こっちから何も言わなきゃね。私が何考えてるんだかわかるわけないじゃない。だけど,私,それを薄々知ってながらさ,話しかけなかったりするわけじゃない?ああ,これはいけないな,何で私できないんだろうなとかって,今も思ってるけど。」
【インタビュー:Iさん】
「(考え方は)すごい変わりました。嬉しかったですよ。私でも役に立つこともあるんだということ…。」
質問者「最初に就職したところはどういった関係の仕事ですか?」
Iさん「デパートだったんですけど,一応,事務をやってた。」
質問者「これは,目とも…」
Iさん「いや,(目は)悪かったんですけど,あんまり視覚障害者という意識を持たなかった。近眼じゃないとはわかる。病名は知ってたんだけど,まだ就職したときは,ちょっと試験の文字がよくわからなくて…悲惨だったんですけど。歩くにもまあまあ,まあまあ注意すれば,そんなにぶつかんなかったので,一応就職して。それだけど,だんだんまずくなって,一応マッサージの学校行こうかなと思って…やめたんですけど,結局,それよりも(視覚障害者の)女の人は電話交換,男の人は電算と聞いて,そこ(国立身体障害者リハビリテーションセンター,埼玉県所沢市)と大阪だったらありますよ,ということで,所沢の方へ行ったんです。」
質問者「そこで電話交換の訓練を受けて,電話交換士になったんですよね?」
Iさん「はい。……どうしても就職の種類だとそういうマッサージ系とか電話交換か,そこ(国立身体障害者リハビリテーションセンター)だとね,ないんで…。」
(中略)
質問者「(仕事・職場で)不自由なところはありませんか?」
Iさん「そこ(職場)で区別はされてないですね。」
質問者「スピードとかの面でも?」
Iさん「ないと思います。」
(電話交換手は設備も整っており,仕事そのものに不自由や区別はないそうだ。)
(中略)
質問者「何のために働いているんですか?」
Iさん「何のために働いてる?」
質問者「原動力みたいな。」
質問者「パワーですね。」
質問者「社会のためとか。」
Iさん「目が悪いから何もできないだとか,全部否定的に考えてたんですよね。そういうセンターみたいなところがありますよって言われても,来るのもすごく抵抗あったんです。イメージがあって,暗いとか,私に合ったところじゃないって。でも行ってみたら,みんなすごい明るくて,それなりに考えて,一生懸命やってたんで,すごい。自分が一番目が悪くて大変だと思ってたんだけど,あそこに行ったら,自分より良い人もいるけど,悪い人もいるから,お互いにできるところ…助け合うというか,…前向きに考えられるようになって,そこで,すごい体が悪いから何もできないなというのが,悪くても何でもできるし,そこで考え方は全然変わりましたね。」
質問者「変わりましたね。そうですね。」
Iさん「すごい変わりました。嬉しかったですよ。私でも役に立つこともあるんだということ。それまでは,私は何もできなくて,助けてもらう方の立場しかないんだと思ってて。嫌で。だけど今度は,助けてもらうこともあるんだけど,自分が(誰かを)助けられる時もあるんだって。失敗したって,笑って済ませられるというか。」
質問者「そうですね『暗い』から『明るい』になって,否定的から肯定的になって。」
Iさん「そうですね。性格はね,もっともっとこんな(今みたいじゃなくて)…もっと変に堅かったんですよ。こうあるべきなのにできない,みたいに考えて。全然できないというか,(そういう)感じで…,変わりましたね私は。大体,男の人と話すことは全然できませんでした(笑)。すごい変わりました。」
質問者「変わってもらわないと,今のインタビューは聞けないですよね(笑)。」
Iさん「はい。はい,とか言って(笑)。」
このように,一般就職することによって,「自分にできること」を認識したという人がいる。今まで障害を否定的にしか捉えられなかったのが,肯定的に考えられるようになったという,内面で非常に考え方に変化が起こったということから,一般就労は障害者自身にとって,自分の能力を評価してもらえるという喜び(のようなもの)を得ることができるのではないだろうか。また同時に,社会に貢献するという意味もあるだろう。
では,GさんとHさん,Iさんとはどこが違うのだろうか。人付き合いとか,その職場の雰囲気などのような個々の問題があると思われるが,その他に,障害の種類とその仕事との関係にも問題があるように思われる。作業のスピードが障害によって健常者と比べて劣る場合や,健常者と同じ時間作業ができないといった場合がある。しかしながら,Iさんの場合,仕事をする上で,障害がハンディキャップとなっていない。
このように,障害者が仕事をする場合,プラス・マイナス両方あって,一概に「仕事」はどちらかだとは言えないようである。したがってVでは,「仕事」に対するさまざまな見方を,2人の障害者の「声」から見てみることにする。
V 「仕事」って? 「働く」ってどういうこと?
【インタビュー:Fさん(前出)】
Fさん「僕はね,以前はね,その仕事をする,それでお金をもらうということがいいことだという考えがずっとあったんですね。」
質問者「それはあの,能力による…」
Fさん「そうですね。自分の能力が,まあ,普通の人と同じように評価されて,それでお金をもらえるということが,いいことだと思っていたんですよね。でも,例えば,アメリカでですね,すごい重度の障害をもっているんですけれど,やっぱり1人暮らしをしていて,どんどん地域の活動をしているっていう人に何人か会ったことがあるんですが,そういう人を見ているとね,必ずしもそういう人達が能力を評価されて,お金をもらっているわけではないけれども,一応生活の糧は年金という形でもらっている。暇を作っておいて,それで仕事をしていないから,地域でいろんな活動に従事していく。そういう生き方もね,障害を持っている人が非常に不利な状態を強いられている今の日本ではね,すごく意味のあることだなと思ったんですよね。で,このヒューマン(ケア協会)なんかで一緒に仕事をしている人達の中にも,やはりいますしね。そういう人達は,全くもう非常に生き生きと活動していますし,仕事してないから,という負い目は全くないですね。そういう生き方も素晴らしいな,とここ何年かは感じてきてはいますよね。ただ僕は,まだ古い人間なんで,やっぱり生活全部を,例えば,生活保護は全部全面に受けていて,それであの,ヒューマンとかハンディキャブとかそういう地域活動だけに自分でやっていくという,そういう選択肢もありますけれど,そこまで自分はどうしても踏み切れないですね。やっぱり,何らかの形で自分にしかできない事をやって,それで評価される。そういう仕事を持ちたい。簡単にいうと,僕はすごく職人志向が強くて,職人というのに憧れるんですよね。」
(中略)
質問者「あの,仕事についての意見みたいな,まあ個人的な意見は聞かせていただいたけど,一般的な見解というか,もうちょっとこう,地域活動だけで暮らしていくという方々の,あの,仕事観みたいのはこういうのじゃないかなっていうのが,何かちょっとありませんか?」
Fさん「仕事観ですか?」
質問者「Fさんの中でも,変わられたと思うんですよね。その辺を…」
Fさん「要するに,仕事というイメージというのは,それが例えば,モノを売るとか買うとか,なんかこう形のあるものを生み出す,あるいは誰かに喜んでもらうようなサービスっていう形で何かこう1つの売買というのが当然というか,そういう観念があると思うんですけど,そうではなくて,例えば,障害者とか老人とかそういう人達,あるいは地域の中で環境問題でもゴミ問題でもいいけども,そういう問題を訴えて,現状を改善していこうという形で活動していくと,そういうものも「仕事」であると認めるべき時代にもう来ていると思うんですよね。だからそういうのは,大きな意味で大きな利益を人類全体に非常にもたらすけれども,小さい目で見ると,特に誰かに利益をもたらすわけでもないし,そういう人もさらさらいるわけでもないから,売買という観念からは全く外れてしまうんですよね。でも,それでも,それは一つの重要な仕事として認めるべき時期に来ていると。で,そういう仕事をする人が,別の形で保障してもらうということは十分正当性をもつ,と僕は考えています。」
【インタビュー:Dさん(前出)】
質問者「障害者の労働なんですけど,数人の人に話を聞いてきまして,やっぱり,お金になんなくていいから,やれることをやろうっていうふうに考えているっていう方向なんですけど…。」
Dさん「え,どんな奴がそんなこと言っているの? そんな奇特なこと言う。」
質問者「かっこいいことですよね。」
Dさん「かっこいい,かっこいい。(笑)」
質問者「本音のところどうです?」
Dさん「本音のところはやっぱり,それは少し,働く意識とか,働く意義とかいってさ,それはもらうもんよ。もらう量よ,それはやっぱりそうだと思うよ。」
質問者「お金ですかね,やっぱり。」
Dさん「いやまあ,でもね,例えが悪いけれども,こういうのも1つの仕事なのね。家でわーとテレビを見ててね,『あー,6時だなあ,みんな飯を食う時間だなあ。』と思ってね。これは俺の意見だよ。俺の関わっている連中からすると,『お前は裏切りもの』って言われることもあるけれども。『あー,今日,5時に仕事が終わった』と。で,帰りにみんなでビールの一杯でも飲もうかとかさ,家に帰ってさ,ビールをくーッて飲んだときに,『あー,おいしかったな。』と,そういうことと,テレビずっと見てて,時間だから,ビール飲もうかなっていった時の,どっちがうまいかっていうのは,これは,ゴロゴロ…,まあ,ゴロゴロもいいよ。それも仕事で,労働と認めることも,俺もあるけれど,個人の気分としては,やっぱり,体動かして,いいじゃない,一日,外でさ,車椅子,電動でぐるぐるまわっていたっていいじゃない。それが仕事だ,って。立て看板付けてまわったっていいし。そういう仕事あるじゃない。夜ね,いかがわしい…(笑)あるんだよね,電動車椅子,こうやってぐるぐるまわってさ,いいじゃない。あれは生産性あるとはあんまり思わないもんね。」
質問者「能力的にも同じようなもんですよね。」
Dさん「そうでしょ。ティッシュペーパー渡したっていいでしょ。あ,でも受け取らないっていう奴もいるか,気持ち悪いあんな手じゃとかいう奴(笑)。だから,そういう面でさ,あれやってさ,ああ終わったなって,思ってさ,で,ビールでも,コーヒーでもいいんだけどさ,ずっと家にいてさ,『なんか俺,なんのために生きてんのかなあ』って思いながらビール飲むのとは違うでしょ。これは,気分が,でも,これは自分のなかで思うことであって,人に『おまえは,働け,これは有意義なんだって,だから,やれ』って『でも,8時間働いて,でも,給料(月給であろう)は5000円だよ』って。『ああ意義があるかな』とは…。」
質問者「体を動かしたあとのビールはうまいっていうわけですね。(笑)」
Dさん「そりゃそうだよね。」
(中略)
質問者「健常者が例えば10の仕事をするときに,障害のある方が半分しかできなかった。とすると,やっぱり,社会に貢献したといったら,負けちゃうわけですよね。」
Dさん「だから,ものを生産する限りから言えばね。生産性じゃない労働っていっぱいあるわけでしょ。」
質問者「あ,そういうのを含めて。」
Dさん「だから,パソコンならパソコンをバーって打ってると。Jさん(Dさんの知人で,自宅でワープロの入力をしている方)かなんか,行ったらわかると思うけれども,Jさんが打つのと健常者が打つのとじゃ,スピードが違う,2倍,3倍違うわけね。……だから,特に生産性っていうかね,ものを作り出すとか,印字するとかいう部分で,比較されると,きつくなるし。」
質問者「あと,スピードもありますよね。」
Dさん「そうそう。電動車椅子の競走なんていいと思うんだけどね(笑)。俺ね,考えたんだよ,車椅子の競輪みたいのをやろうかなと思って(笑)。で,ハンデをつける,タイヤ5本付けるとかね。頚椎(損傷)の奴にはなんにも付けないとか…。馬にだってあるじゃない,砂袋いれるだとか,ハンデ付けるじゃない。それとおんなじで。それを賭博にやってね,ひと儲けできないかなって(笑)。これは,あくが強すぎて誰も賛同する奴はいないね。ちょっとえげつない(笑)。でも,障害者プロレスってあるんだよ,知らない? この間大阪でやってたよ。この間大阪に行ってたのね。もう5つの会こなして頭痛くなっちゃった。で,書いてあったの。障害者プロレス。障害者がプロレスするわけ。そういうの見に行く奴の気がしれない,あんな,みにくい姿見てさ,金払って行くなんてさ(笑)。だから,結構,競輪じゃなくて,車輪とかね。絶対俺は当たると思ってるんだけどね。」
質問者「で,あの,そろそろまとめに入ろうと思うんですけど。(一同爆笑)…」
まとめ
「働く」ということはどういうことなのだろうか。生きていくために,「お金」がいる。その為に「働く」という一般的な図式がある。単に,「働くこと」を「お金」を稼ぐ手段として考えている人もいるし,さらに,社会のために自分の能力を使うとかいったような付加価値を重要に考えている人もいるし,それは個人個人によって異なる。
障害者が「働く」場合,大きく2つのパターンに分けられる。
1つは,設備を整備することによって,障害者も健常者と差がなく「仕事」ができるパターンである。Iさんのような電話交換手がいい例である。この場合,一般就労したとしても,その障害者の「能力」に応じて賃金が支払われても健常者との差がないので,障害者自身も自分の「能力」を評価されて「仕事」ができる,自分にも「何か」ができるんだという満足感というか充実感というか「喜び」みたいなものを感じることができるだろう。 しかし,簡単に設備を整えるといっても,なかなかそうはなっていないのが現状である。実際に,設備の問題で障害者の働く「場」がより限られたものになっている。このことによって,障害者の「働く権利」が奪われている。「働きたい」し「働ける」のに働けていない。こうした状況に置かれていることに対する不満,状況の改善への訴えが,この調査でよく聞かれた。
だがもう1つのパターンがある。設備を整えたとしてもやはり,健常者とは同様の作業ができない場合である。「働かざる者,食うべからず」の論理でいくと,2つ目のパターンの障害者の場合,「食うべかざる」者になる。食わなければ生きてはいけない。こういう考え方をとると,これらの人達には「生存権」がないことになってしまう。
このような人達のことを考えると,「働く」ということについて違った考え方が出てくる。「働ける障害者」であるDさんやFさんは,自分が働けるのに働けないこと,働けるのに働けない人がたくさんいることにいきどおりながら,同時に(他の人と同じようには)「働けない障害者」がいることを知っている。それもまた同じ障害者であることの現実の一つである。Fさんが,ボランティアなどで生き生き活動しているような人も「仕事」をしているのだと言っている。これはまだ,「社会的貢献」としての「仕事」として,受け入れることができるかもしれない。けれど,Dさんは「ゴロゴロ」しているのも「仕事」だと認めてよいのだと言っている。「ゴロゴロ」しているのが「仕事」だとは,普通,到底受け入れられない考え方だ。だが,比喩的に捉えてみるとそれは,「働く」ということを「生きる」ことの第一義的なものとは捉えないというスタンスの現れではないかという気がする(勿論,働かなかったら,お金は稼げないのだが)。「働くことがナンボのモンやねん」というノリがある。
だからといって仕事に全く価値を認めないかというと,そういうわけでもない。Dさんは,やっぱり「仕事」をすること,「身体を動かすこと」はいいことだ,「気持ちのいいこと」だと言っている。「働く」ということをある型どおりに捉えるのではなく,この「気持ちよさ」のようなモノが結局大事なのかなあ,とも個人的に感じた。「働く」ことを肯定するわけでもなく,否定するわけでもない,一歩引いたようなスタンスでとらえている。これはやはり,私のような健常者ができにくい考え方であるし,そしてまた,新鮮な「声」であった。
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