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「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告

平成4年3月9日
日本医師会 第III次生命倫理懇談会



目次
I 総論
 1 問題の所在
 (1) 高齢化社会と末期医療
 (2) 末期医療とはなにか
 2 医師の延命努力とその限界
 (1) 医学・医療の進歩・発展の限界
 (2) 患者の利益とはなにか
 (3) 患者の自己決定とリビング・ウイル
 (4) 末期医療に関する患者の自己決定
 (5) 末期医療にあたる医師および医療機関の在り方
 (6) 延命と生命の質について

II 末期患者への医師・医療の対応
 1 医師の対応
 (1) 末期の告知
 (2) 在宅医療の推進について
 (3) 医師の資質
 2 医療の対応
 (1) 苦痛の緩和
 (2) ホスピスの整備

III 安楽死の問題
 1 安楽死問題の歴史と現状
 (1) 問題の所在
 (2) 諸外国での論議
 (3) わが国での議論
 2 安楽死の是非
 (1) 個別的事例での判断
 (2) 立法の是非

 おわりに
 第III次生命倫理懇談会委員名簿


I 総論

1 問題の所在

 (1) 高齢化社会と末期医療

 文明の進歩にともない、世界の先進諸国では、衛生知識や予防医学の普及、医療技術の高度化によって、これまでにない高齢化社会が生じつつある。わが国もその例外でないばかりか、平均寿命は男女ともに世界的にみてきわめて高い。そのような状況のもとで、私たちの社会生活のあり方について、さまざまな局面で多くの新しい問題が発生してきている。なかでも、対処が焦眉の急となっているのが、「末期医療」の問題である。
 高齢化社会になったこと、つまり人々の平均寿命が伸びたことは、好ましいことである。その分だけ、ひとりびとりが生を享受する可能性が増えたからである。けれども同時に、人類は、高齢化社会に到達することによって、難しい問題を背負い込むことになった。というのは、高齢化社会においては、必ずしも寿命の伸びた分だけ健康で活動力を保った者の数が増えるのではなく、そこには、高血圧、糖尿病、がんなどの慢性の疾患や機能障害に苦しみながら、ときには人工呼吸器などの技術によって人工的に延命し、やがて生を終える高齢者の数も増えてくるからである。
 問題となるのは高齢者ばかりではない。医学・医療の進歩は、壮年や青年の重症の患者に対しても、人工呼吸器などの器具やさまざな薬剤を駆使した医療技術によって、延命の可能性を拡大してきている。しかし、そのような医師の側の延命努力にもかかわらず、回復の見込みが立たず、死が不可避とされる者が少なくなく、ここにも「末期医療」という新しい医療の領域が生まれつつある。

 (2) 末期医療とはなにか

「末期医療」(または終末医療)というのは、患者が近いうちに死が不可避とされる疾病や外傷によって病床に就いてから死を迎えるまでの医療を指している。その期間ほ、人によってまちまちであろうが、6カ月程度、あるいはそれより短い期間のものが想定される。

2 医師の延命努力とその限界

 (1) 医学・医療の進歩・発展と延命努力

 患者の身を疾病から守り、健康を取り戻させて、日常生活に復帰させることは、古来、医師の最大の使命であり、目的であるとされてきた。このような目的は、医療の発達によって近年大幅に実現されるようになった。それには、科学的な医学の進歩と医師の努力によるところがたしかに大きい。しかも、科学はたえず進歩するから、仮にさしあたり治癒する見込みがなくても、延命を続けさせているうちに、なにかその病気に対する特効薬が発見されれば、治癒する可能性が出てくる。したがって、患者に対する延命努力は、医師にとって医療行為そのものであるといってもよい。
 しかしその反面、さまざまな新薬や人工呼吸器などが発達して、重症の患者の延命が可能になるにともなって、延命そのものが過大に目的とされるようになったことも否めない。ここで必要なことは、医師の患者に対する延命努力を、もう一度医療の全体のなかでとらえなおすこと、患者本人の意思や利益・幸福の観点から総合的に判断しなおすことであろう。

 (2) 患者の利益とはなにか

 まず患者本人の意向であるが、患者が医師に望むことは、なによりも、疾病を治癒させてふたたび健常な人間として活動できるようにしてほしいということである。しかし、そうはいっても、ひとはいつまでも無限に生き長らえることはできない。不老・不死は願望としては持ちえても、それが実際には不可能なこと、人間がいつかは死ぬことは、誰もが承知している。こうしてひとは、重症の病床、とくに長い闘病生活にあたっては、死を想い、好ましいかたちで死を迎えることにより、自己の生を全うすることを望むようになる。
 そして一般的にいえば、死に臨むとき、患者として臨むことは、苦痛が少なく、清明な意識をもって、近親者に金銭的、労力的にできるだけ迷惑をかけずに、遺産や後継者などの問題を適切に処理して、人間として自然なかたちで(尊厳をもって)死を迎えることであろう。むろん、厳密にいえば、なにをもって利益とし、なにをもって幸福とするかは、ひとそれぞれによってある程度違うであろう。それは、最終的には、患者本人が自分の意思で決めることである。
 このような患者の意思は、医師としても尊重すべきものであり、医療における患者の自己決定ということがいわれるようになってきている。しかしその場合に、判断の基準になるのは、なにをもって自己の利益や幸福とするかであり、そのような患者の判断に対して、医師が自分の判断を押しつけるべきものではない。ただ、医師には、生命と医療に関わる専門職として、どういう処置をとるべきかについて裁量する権限がある。たとえば、患者が痛いから、あるいは苦しいから処置をやめてくれ、と言われても、医師として当然なすべき処置はしなければならない。しかし、ある処置が患者の真の利益や幸福に反すると思われる場合には、医師が総合的に判断して、その処置を停止することもありうる。
 患者本人の意思がはっきりしない場合にも、生前にその意思が何らかの形で表明されている場合には、医師はその意思を十分に尊重し、患者が利益や幸福と考えるところに沿うようにすべきである。
 しかし、ひとがその迎える死において、すべて、安らかで、美しくあること(たとえば意識障害、嘔吐、出血など外観上悲惨ともみえる状況が全くないということ)は、不可能である。すなわち、尊厳な死を迎えるということは、言葉の上で表現することはできても、病い一般にともなう苦痛の状態を全くとり去ることは不可能なのである。

 (3) 患者の自己決定とリビング・ウイル

 さきに見た患者の自己決定の考え方は、末期医療においてはいっそう切迫し、凝縮されたかたちであらわれる。すなわち「リビング・ウイル」(生前発行遺言)の問題である。これは、本人が、末期医療において回復の見込みが失われたと考えられるときに、治療を打ち切って(生命維持装置を付けないか、取り外して)自然に死を迎えたいということを、遺言のように文書にしておけば、医師がそれに従っても民事上・刑事上の責任を負わないとするものである。
 米国では、1976年にカリフォルニア州ではじめてこれを立法する「自然死法」ができて、各州に広がり、現在では50州のうち40余りの州がこのような自然死法を制定している。(なお、この自然死は、日本では一般に尊厳死と呼ばれている)。わが国でも、このような「リビング・ウイル」を公認する自然死法を制定すべきだという意見が出てきており、本懇談会でもそれを支持する意見が多かった。
 わが国では、リビング・ウイルと同様の内容を持った文書(「尊厳死の宣言書」)を作成してそれを登録することを、日本尊厳死協会が推進している。これは、法律で定められた手続きではないが、患者本人の意志を尊重するという自己決定の考え方からすると、法律の定めがなくても、本人の意志を尊重して、たとえば生命維持装置を止めても、医師は法的責任を問われないものと考えられる。なお、本人が署名した文書がない場合でも、本人が口頭で自分の意志を明確に表明したならば、やはりそれを尊重してよいであろう。
 本人が意志を表明できない場合には、家族や友人などがどこまでそれを代行できるかが問題となる。原則はあくまでも本人の意志表明によるべきであるが、本人のはっきりした意向が家族や友人などの証言を通じて信頼できる場合には、本人の意思表示に準ずるものと考えてもよいであろう。(米国連邦最高裁判所の1991年の「ナンシー・クルーザン事件」の判決が、そのような場合には、「明白で確信するに足る証拠」が必要だとした州法に従って処理することを認めたことも、参考にしてよいと思われる。)わが国で、家庭裁判所の審判によってこの問題の判定をするという制度を設けとことも、積極的に検討されてよい。

 (4)末期医療に関する患者の自己決定

 リビング・ウイルだけにとどまらず、広く末期医療に関して自らの意志を示しておくことは、その人の人格に基づく自己決定として尊重されるべきである。
 患者の自己決定としては、民法との関係から、15才以上の者が自ら書いたものであることが本来は必要とされようが、自らの意志決定をする能力がある場合には15才未満の者でも差し支えない。なお、次に掲げる場合には、その指示は効力を失うと考えられる。

 患者がその指示を取り消したこと、あるいは取り消す意志のあることが判明した場合
 患者がその文書を作成したときに、指示の内容およびその結果を理解する能力がなかったと判断される場合

 末期医療に入った者がその文書に基づいて指示を行い、その治療に責任をもつ医師がその指示を正当なものと認めたときは、医師はそれに従って行為することが望ましい。

 (5)末期医療にあたる医師および医療機関の在り方

 末期医療にあたる医師および医療機関は、末期患者にたいしての疼痛緩和療法に習熟していなければならない。とくに麻薬の使用に関しては、例えばWHO方式や厚生省と日本医師会で作成した「がん末期医療に関するケアのマニュアル」(日本医師会雑誌102巻6号<平成元年9月15日号>付録)を参考にして実地の診療を実践しておくことが適切である。また、医師が診療録に病歴を記載することは当然であるが、とくに末期医療に関しては正確・詳細な記録を残さなければならない。
 組織的な医療を行う医療機関では、看護婦(士)、ケースワーカーなど、コメディカルな担当者を加えた医療意志決定組織を設け、とくに末期医療に関する決定を行う必要がある。この決定に際しては、討議の内容を記録にとどめ、自らの医療の質の確保に努力しなければならない。それとともに、患者のプライバシーに配慮した上で、他の医療機関の求めに応じてこれを掲示しなければ
ならない。
 以上の要件がみたされている場合には、一般的な医療において、末期患者に尋常な手段を越えた医療を行わないことは正当な行為として認めることができる。
 ただし、次の場合には、尋常な手段を越えた治療を行うことも、適切である。

 脳死の判定が確実になされ、その患者の臓器提供の意志が確実なものであるときに、身体諸臓器を移植に適応できる状態に維持するため、尋常な手段を越えた医療を行う場合
 死者が妊婦であったときに、胎児の生命を保全する目的の医療を行う場合

 ひとの治療において尋常な手段が何であるかについてはなお今後、討論を必要とするであろうが、栄養の補給、感染防止、褥瘡の予防・治療などは、生命を維持する必要にして最小限の基本的療法と考えられる。なお、これにともない、このような治療を受けている末期患者に対する精神的な看まもりも、当然強調されるべき治療といえる。

 (6)延命と生命の質について

 患者本人の医師が表明されず不明な場合に、医師はいつまで最大限の延命努力を続けるべきであろうか。このことも、医学・医療の進歩・発展によって極限までの延命が可能になった今日、医師に問われる大きな問題である。
 これに関連して、欧米では人間が送る生活の基本として「クォリティ・オブ・ライフ」(生命の質)ということがいわれている。こえは、人間を人間たらしめるものとしての人格を重視した考え方に基づいている。この場合に、人格はなによりも精神的活動の現われとされる。
 これは、ある意味であまりにも欧米的で割り切った考え方であり、多くの日本人には抵抗を感じさせるが、今日の医療の本質に触れる問題なので、無視するわけにはいかない。
 むろん、ある人の精神的な活動あるいは意識が失われたときに、その人を人間として死んだ者とただちに同一視できないことは、いうまでもないし、病者や弱者へのいたわりや奉仕に高い価値を置くキリスト教的な考え方が、欧米でも人格についての割り切った考え方に対抗するものとして厳存し、片寄った見方が出るのを防いでいる。
 さて、ここで、私たち日本人も避けて通ることができないのは、精神的活動の失われた者あるいは苦痛だけで悩まされている患者について、ただ延命を図ることが、果たして人間的であるか、倫理的であるか、という問題である。回復する見込みのない重症の患者については、状況に応じて、延命のために最大限の努力を払うのをやめて、治療の方法を変えたり、治療を打ち切ったりすることをどにように考えるか、また、そのことを問題にする場合に、それぞれの処置をとるにあたって拠るべき基準が考えられるかどうか、ということが具体的な問題として出てきている。
 回復する見込みのない重症の患者に対して治療の方法を変えたり、治療を打ち切ったりして、自然に死を迎えるようにさせることは、諸外国の例を見ても容認されるべきであろう。このことを客観的に基準化して、広く医療チームの同意を求める方式に、次のクラス分けがある。これは、意思を表明できない小児について、先天異常あるいは疾病によって生命維持の望みのない場合に、どこまで治療を行うか、について定めたものである。すなわち、
  A 全く制限なく最大の治療を行う
  B 治療方法に選択的な制限を置く
  C 生命維持の治療を止める
の3クラスに分けて対処することによって、さまざまな状況のなかで難しい選択に基準を与えようとしたものといえよう(イェール大学のR.S.ダッフ教授による)。実際の運用に当たっては、先天性異常児をその性状によってどのクラスとするかという治療上の決定基準が別に定められており、家族の同意を得つつ、またさまざまな医療専門職の合意のもとに、これによってチーム医療を行うことになっている。このようなクラス分けは、小児についてだけでなく、一般の患者、とくに末期医療の患者についても考えられることである。
 こうした治療の限界に関する判断についても、原則的には患者の意思にもとづく自己決定によるべきであるが、それができない場合には家族などの近親者の同意を得て行うべきである。ただし、その際の医療上の判断の責任は、あくまで専門職としての医師が負わなければならない。
 医師としても、いまやただ単に、最大限の延命を図るという治療方針の上だけに立つのではなく、患者や家族が置かれている状況からして、なにが患者にとって最良の選択になるかを考慮し、ときにはただ延命を図るよりも安らかな最後を迎えることが望ましいことに思いをいたすべきである。
 なお、最大限の延命努力をやめるとき、医学・医療の発達を損なうのではないか、という懸念がある。しかし、ここで問題にされた延命努力の停止は、きわめて特別な状況に限られたことであり、したがって、それが医学・医療の発達を損ない、医師のモラルを低下させるというのは、思いすごしであろう。


II 末期患者への医師・医療の対応

 ここで末期患者というのは、末期医療の対象となる患者のなかでも末期がんなど、死期の近づいて狭義の末期医療あるいは緩和ケアの対象となる患者のことである。このような末期患者への対応を、医師と医療の両者の立場に立って考えてみることにする。

1 医師の対応

  (1) 末期の告知

 この告知は、その後の治療の方法を考え合わせると、説明と同意(インフォームド・コンセント)の問題の一部である。
 まず、病名については原則として患者本人に告知すべきものと考えられる。それは、本人の同意と協力を得てその後の治療を行うことが望ましいからであるが、本人に財産の処理や後継者の問題などについて家族や関係者に対し必要な指示をするためにも望ましいことである。
 がんの病名については、患者に衝撃を与え希望を失わせて悪い影響を及ぼすか告知すべきでないとされ、これまで長い間医学教育の上でもそう教えられていた。しかし、自分の運命については自分で知り自分で考えたいという、自己決定につながる考え方がひろがってきているので、医師の対応も変わっていく必要がある。
 この問題については、前掲「がん末期医療に関するケアのマニュアル」に述べられている(6−8頁)。そこでは、告知によってもたらされる利点が大きいから、従前のように告知を敬遠することなくこの問題に正面から取り組まなければならないと原則を述べたあとで、一律にすべての末期患者に告知をするのが適当なわけではないとし、末期状態の告知の際、十分考慮すべき状況として、次の4点をあげ、その内容を具体的に説明している。
 [1] 告知の目的がはっきりとしていること
 [2] 患者・家族の受容能力があること
 [3] 医師及びその他の医療従事者と患者・家族との関係がよいこと
 [4] 告知後の患者の精神的ケア、支援ができること
 ここに示された考え方は、病名を告知することが原則であるが、その告知にあたっては具体的な状況に配慮し、総合的に判断しなければならないという基本的な点で、適切なものである。ことに、4の告知後の支援態勢を整えることは、ぜひとも必要である。
 次に、病気ががんだと知った患者としては、自分の余命がどれだけあるかを知りたいことになるので、これに対して医師がどう説明すべきかが問題となる。これは患者の状況にもよることではあるが、医師としては、患者に希望を失わせないように十分に配慮した上で、患者が生前に計画を立てられるように、ともかく生存が可能と考えられる期間を示すことも必要と考えられる。

 (2) 在宅医療の推進について

 患者としては、最後は病院ではなく自宅で家族に看とられて死を迎えたいと望む者が多いといわれる。これには、その患者の住宅事情や家族関係から困難なことが少なくないが、医療として、あるいは医師の立場からは、可能な限り、患者の希望に沿うべきであり、その意味で在宅医療の推進を図る必要がある。
 そのためには、在宅医療を可能にする条件を整備しなければならない。それには、医師の定期的往診、在宅医療に従事する看護婦など医療補助者の充実、そのための組織づくりや費用の負担など、解決すべき問題は少なくない。これについては、スウェーデンなど外国の事例も参考にして、条件整備の努力をしていくことが必要である。

 (3) 医師の資質

 すべての医療においては人間への愛、勇気、誠実などの美徳が求められる。これらは医師という専門職にたずさわるものにとっては、その資質として求められるのは当然である。
 医学生として入学した時にこの資質を強くもっていなくても、可能な限り身につけるように努力しなければならない。医療において人間的な配慮ができるようになるためには卒前・卒後の医学教育がこのような資質を高めるように学問として系統的に行われなければならない。
 とくに末期医療においては、死をめぐる問題が重要となる。このためには初等・中等教育における死の教育の問題が重要である。医科大学・大学医学部においては先に述べたような資質を養う教育とともに、いわゆる死をめぐる学問(サナトロジー)が教育されることはさらに重要である。

2 医療の対応

 末期患者への医療の対応としては、苦痛(疼痛)の緩和等とホスピスの整備が考えられる。

 (1) 苦痛の緩和

 がんについては、末期の苦痛が激しく、これをコントロールして苦痛を緩和(軽減)することが求められる。わが国では、モルヒネなどの麻薬の使用について、死期を早めるおそれがあるとして、抑制的な考え方が、医師の間に強かったが、近年では、経口モルヒネ剤の活用や麻薬投与方法の検討によって、副作用が少く効率のよい苦痛緩和方法がとられるようになってきている。米国には苦痛緩和を専門とするペイン・クリニックが普及しており、わが国でも、それが行われてきている。このような苦痛緩和の方法を医師の間にさらに普及させるとともに、医学教育においてもその推進を図って末期患者の苦痛緩和の努力をすることが必要である。

 (2)ホスピスの整備

 ホスピスは、末期患者を収容して、苦痛緩和の治療をするとともに精神的にも不安を除き、患者が安らかに死を迎えることができるようにする施設のことであり、英米で1960年代から発達してきたが、わが国でも20の施設ができており、国立病院でも緩和ケア病棟としてホスピスにあたる施設を置くものが出てきている。
 ホスピスは、病院の一種であり、ホスピス病棟として病院に併置される形をとるものも少くない。そこで、医療保険上の取扱いが問題になるが、厚生省では1991年から緩和ケア病棟入院料として、一日当たり25,000円(1992年4月から30,000円)を、診療費を含めたものとして保険で認めることにし、基準に合った緩和ケア病棟として7施設が大臣認可を得ている。この緩和ケア病棟は、主として末期の悪性腫瘍の患者を収容して緩和ケアを行うものであって、そこでのケアは前掲「がん末期医療に関するケアのマニュアル」を参考とすべきものとされている。
 このようなホスピスの需要は今後さらに増大していくものと思われるが(英国では273、米国では1,745の施設がある)、高齢化社会における末期医療の施設として、その推進・充実を図ることが必要である。
 なお、ホスピスの一形態としての在宅ホスピスの考え方も進めるべきで、開業医の往診、訪問看護、ホームヘルパー制度の拡大、家族の介護有給休暇、勤務時間短縮を含め、在宅福祉事業の充実を真剣に考えるべきであろう。


III 安楽死の問題

1 安楽死問題の歴史と現状

(1) 問題の所在

 現在の社会では、過剰な治療を避けて、リビング・ウイルにもとづく自然死を容認しようという考え方が次第に高まりつつあるが、この考え方をさらにおし進めるものとして安楽死を求める新たな動きがある。
 ここで安楽死とは、苦痛を訴える末期患者の求めに応じて、医師その他の他人が注射などの積極的な方法を用いて、患者を死に至らしめることである。この安楽死の是非をめぐっては、古くから論議が行われてきた。わが国の現行の刑法上では、安楽死は、殺人罪または嘱託殺人罪(あるいは自殺幇助罪)として処罰されるが、状況によっては違法性が阻却されて無罪となる場合も考えられる。そこで、安楽死をどういう場合にどこまで認めるか、さらに安楽死を立法によって公認するかどうかが、問題となるわけである。

 (2) 諸外国での論議

 西ヨーロッパでは、安楽死論議が盛んで、裁判所の判決の中にも、安楽死について無罪としたものがあるといわれる。とくにオランダでは、安楽死を無罪とする判決が多く、ことに1984年に最高裁判所の判決で安楽死の基準が明らかにされてからは、この基準に合うものは、検察が起訴しないようになり、安楽死が実際上年間3千件から6千件も行われているという報告もある。さらに、一定の条件の下で安楽死を認めるという法案が、オランダの議会に提案されたが、通らなかったといわれる。同じような提案は、1991年に米国ワシントン州で州民投票にかけられたが、否決されており、いままでに安楽死を正面から合法化した国は、見当たらない。

 (3) わが国での議論

 日本においては、戦前から、安楽死の主張が一部でなされ、戦後になって1976年に日本安楽死協会がつくられたりしたが、正面から安楽死を認めるという学説はほとんどなく、安楽死の公認は見込みのない状態であった。日本安楽死協会も、1983年には日本尊厳死協会と名称を改め、従来の積極的安楽死に対して、尊厳死を消極的安楽死とし、「尊厳死の宣言書」としてのリビング・ウイルの登録・普及を図る活動を行っている。
 わが国の判例で、安楽死を認めて無罪とした事例は見当たらないが、名古屋高裁の昭和37年12月22日判決は、安楽死を合法と認めるための要件として次の6つをあげている。

病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること
病者の苦痛が甚しく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること
もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと
病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること
医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること
その方法が倫理的にも妥当なものとして容認しうるものなること

 これは、きわめて厳しい基準であって、とくに 5 と 6 の要件をみたすことは、現状では不可能に近く、その後の判決もその点から安楽死について合法性を欠くとするのが通常である。
 なお、前に触れたオランダ最高裁判所の1984年の判決では、安楽死の基準として、次のものがあげられている(日経メディカル1989年9月10日号173頁による)。

安楽死の要求は、唯一患者が求めているものでなければならない。そして、その要求は、患者が完全に自由な意思に基づいて自己決定したものでなければならない。
患者の安楽死の要求は、十分に熟慮したもので、永続的かつ持続的でなければならない。
患者は改善する見込みがなく、耐え難い苦痛を体験していなければならない。耐え難い苦痛には、身体的な苦痛ばかりでなく精神的な苦痛も含む。
安楽死は、最後の手段でなければならない。患者の苦痛を緩和する方法を追求した結果、安楽死の他には方法がないことが分かっていなければならない。
安楽死は、医師によって実施されなければならない。
安楽死を実行する医師は、安楽死の経験があるもうひとりの医師に相談しなければならない。

 これは、名古屋高裁があげた6要件と似ているように見えるが、3 で精神的苦痛をも患者の苦痛に含めるなどの配慮がされており、やや緩やかともいえよう。いずれにしても、最終的には患者の意思と医師の判断に委ねられることになるであろう。オランダでは、これをもとにして、安楽死についてかなり緩やかな運用がされているようである。これに対して、英国医師会は、「患者には治療を拒否する権利はあるが、医師が行ってはいけない行為を求める権利はない。医師が患者の生命を終焉させるために、積極的に介入することは、医師が行ってはいけない行為に属する」として、オランダの行き方を批判し、これに反対しているといわれる(前掲日経メディカル175頁)。
 わが国の刑法の学説も、安楽死を容認するものはなく、かりにそれを認めるとしても、名古屋高裁のあげた6要件に近い厳格な条件の下においてであるにすぎない。したがって、わが国において実際に安楽死が容認される事例はまずないだろうといってよい。

2 安楽死の是非

 安楽死を認めることの是非については、個々の事例での判断による場合と一般的に適用のある立法の場合とに分けて考える必要がある。

 (1) 個別的事例での判断

 安楽死が問題となる個別的事例においては、検察としてそれを起訴するかどうか、そして起訴された場合に、裁判所がそれを有罪とするか無罪とするかが、問題となる。具体的に生起する事件は、いわば千差万別であり、一概にどちらと予め決めることはできないが、他人の行為で患者が死亡したのであるから、原則としては有罪であり、とくに違法性を阻却するような特別の事情があれば、例外的に無罪となる場合があることになる。その特別の事情としては、名古屋高裁のあげた6要件のようなものがいちおう考えられるわけであり、その意味でこの考え方は基本的に支持することができる。しかし、最終的な判断は、それぞれの具体的事情に応じて決めれらることであり、予めそれを予測して基準を定めることには困難がある。

 (2) 立法の是非

 立法によって安楽死が許される要件を予め明らかにしておくことは、予測によって将来の行動のしかたを定めることを可能にするという点では、望ましいことである。ただ、それは、一定の要件があれば安楽死を合法的に認めるということであり、違法性を阻却するだけの特別の事情がある場合に限って例外的に安楽死を認めるという現状よりは、合法的な安楽死の範囲を広げることになる。また、合法的な安楽死の要件を明示すれば、それに合わせるようにしてそれが濫用されることも起こりうることを考えておかなければならない。こうしてみると、立法によってこの問題の解決を図ることには疑問があり、大方の参道を得ることには困難がある。諸外国で安楽死の立法の試みが成功していないのも、この疑問を特に至っていないことを示すものといえよう。
 なお、安楽死の立法については、従前と異なる要因が生じていることを指摘しておきたい。
 安楽死の立法の必要を少なくする要因としては、近年、モルヒネなどの適切な使用によって、末期患者の苦痛の軽減が可能になってきていることが挙げられる。それでも、まだ苦痛は解決されていないともいわれるが、死にもまさる苦痛をなくすことが安楽死を認める大きな理由とされてきたことを考えると、この苦痛の軽減は、安楽死の必要性を低くするものといえよう。
 他方において、安楽死の立法を促進する要因としては、自然死の進展に見られるような自己決定の尊重ということがある。自己決定という点からすれば、生命維持装置の取り外しという、いわゆる消極的安楽死と、積極的行為による積極的安楽死との違いは、質的なものではなくなり、量的な差にすぎなくなるとも考えられる。リビング・ウイルによる自然死を認めるならば、本人の意思に基づく安楽死を認めない理由はない、ということにもなりそうである。
 このように、安楽死を認めるか否かについては、新しい要因が生じており、状況が変化していることを考えなければならない。しかし、それらを含めた現在の状況の下では、安楽死の立法をすることは、やはり不適当であり、特別の事情がある場合に個別的に例外として安楽死を認めるという現状を維持するほかはない、といわなければならない。

おわりに

 わが国では、これまで長い間死を口にすることは、不吉であり、避けるべきものとされ、一種のタブーのようになっていた。そのために、末期医療のあり方についても、あまり議論がされなかった。
 しかし、今日では、末期医療の問題は、事柄が重要な上に、現実にさしせまった問題でもあるので、あいまいなままに放置しておくことはできない。近年では、わが国でも、死についての学問や、死についての教育の必要性が多くの人々によって説かれるようになってきている。人の生命に係わりをもつ医師としては、死をめぐる諸問題についても、率先して合理的な対処の仕方について考察を深め、広く国民に周知させていく必要がある。この「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告が、そのための一助となることを期待したい。


第III次生命倫理懇談会委員名簿

座 長  加藤 一郎(成城学園学園長)
副座長  坂上 正道(北里大学看護学部教授)
委 員  川上 正也(北里大学医学部教授)
 〃   鈴木 永二(三菱化成株式会社相談役)
 〃   曽野 綾子(作 家)
 〃   中根 千枝(民族学振興会理事長)
 〃   中村 雄二郎(哲学者・明治大学教授)
 〃   堀田 勝二(弁護士)
 〃   永瀬 正己(日本医師会代議員会議長)
 〃   杉本 侃(大阪大学医学部教授)



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