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「私の手記(京都市教育委員会教育長 崎野隆宛 1997年12月7日)」

辻 範子 1997

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last update: 20200320


辻範子,1997b,「私の手記(京都市教育委員会教育長 崎野隆宛 1997年12月7日)」.

1997年12月7日

京都市教育委員会
教育長 崎野 隆 殿
                         京都市立松原中学校
                           教諭 辻 範子

    私の崎野隆教育長への訴え

 私は現在、学校で勤務が出来ない立場に追い込まれ、また、自宅においても安心した毎日を送る事が出来ません。更に、職場での服務を不可能にしている原因と理由を一切考えて頂けない中で、本年8・9・10・11月の給料の支給停止が「教育長の命により」行なわれているようです。このままでは、私は懲戒免職に教育長によりされてしまうのですか。また、無給のため、給与の補填を共済互助組合から補填される事もなく、逆に支払う財源のない私に対し、組合員の権利さえ奪おうとする動きがあるようです。私の所属する会は、この事態打開のために、教育長に話し合いを求めてくれましたが、教育長不在のため、その実現が叶えられませんでした。現在、議員、組合、市民、府民、全国の方々に京都の思わしくない事態を知らせると共に、正常な方向への全国署名を会としては、行なってくれています。私も、会の方と一緒に、命がけで教育長にお会いしに行くしか方法はない、と決断致しました。私は仕事を奪われ、生活の糧も奪われ、結局、死に至るのであれば、生きている内に直接、教育長に真実を聴いて頂き、私の命を救って頂くよりありません。遅くとも12月半ばまでには会の方に同行して頂き、お伺いしたいと考えています。学校長には「私は教師を続けたい!!」で事態打開の要望を夏以来、文書を以て粘り強く行なって参りましたが、全く応えて頂けないので、今回の命を懸けた行動を取らざるを得ません。学校教育の現場において、このような悲劇が私と同様に多く起きている事もお聴き下さい。
 尚、お伺いする前に、教育長には「私の手記」として、この間の事を書き綴り、お送り致します。どれくらいのものになるかわかりませんが、書いた分からお送り致しますので、ご熟読をお願い致します。

1997年12月7日(字句修正版)

京都市教育委員会
教育長 崎野 隆 殿
                  京都市立松原中学校
                    教諭 辻 範子
                   支援者代表 古賀皓生
                  (熊本学園大学教授、障碍:視覚)
            私の手記
       −− 心臓に障碍を持つ教師の悲痛な叫び −−

1.はじめに
 私は、心臓に障碍を持つ障持者です。心臓の手術や、その後の後遺症に悩まされ、苦しんでいましたが、職業的身分の期限切れが目前のため、1994年8月に、市立滋野中学校に復職せざるを得ませんでした。私は真 因性の心臓の発作が起こりやすく、全身が凍りつくような冷たさになり、その対処を間違えれば、死に至る立場にあります。仕事に対しては、人から言われるほどに、生真面目で熱中し、とことんまでやらなければ気が済 まない性格のようです。そのわりに気質的には弱く、これまた人から言われる事ですが、ガラスのように純真すぎ、ダメージに弱く、不誠実な言動 行動をされると、ガラスのように粉々に砕けてしまうタイプで、心因性の心臓の発作を避けにくい難点があります。生徒とは、いつまでも気が若いせいか、うまくやっていけるのですが、大人の不純な言動行動には耐えら れません。更に、1994年に復職後は、過労を避けなければなりません。「いわゆる通常同質・同量・同形態の」の勤務は不可能な状況に置か れています。既に、私が所属する会からの文書を通じて、私のような障持者が勤務継続出来る「働く権利を保障する制度」が京都で働く教職員のために作られていれば、現在のように私が窮地に追い込まれずに済んだはずです。様々な経過は、所属の会の文書や、私が所属長の永田紀彦学校長に宛てた「私は教師を続けたい!!」等に述べ続けてきていますので、子細 は省略させて頂きます。

2.放置された私と学校現場
 多少振り返ってみます。1994年8月に復職の時点で、当時の下田学 校長との間で、制度的に裏打ちされていない中での、私の勤務の負担を削減するために、同年4月、復職に向けての話し合いの中で、同僚への負担 転嫁という方法ではありましたが、話し合われた具体案が8月復帰の際には、いつの間にか消滅してしまい、4月の約束とは違い、持ち時間が3時 間増とされていました。私は、必死に自らの勤務継続のために、同年4月 段階に持ち時間を減らすように嘆願致しましたが、無駄な結果を得ただけでした。危機感を感じた私が知り合ったのが、私の所属する会であります。会の方々は同年9月9日、市教委の当時の薮田係長と花嶋課長と会い、世界や日本の障持者の置かれている現状と遅れている日本の教育情勢の中で、東京都を初めとする他の道府県の前向きな事例を示し、私の持ち 時間を減らすための実現に向けて、強くしかも熱心な要望をしてくれました。しかしながら、その当時も「現行制度にない事は出来ない。講師配当の財源が保障されてない」と言い切り、私の起こり得る危険を市教委は放置されました。東京都においては病気休職後であれば、半年間は勤務時間や持ち時間を含め、勤務内容を半減出来る事になっているのとは、あまりにも対照的であり、対応出来る制度を作っていない事への反省も当面の暫 定対処をする意志も全く示されませんでした。そればかりか、逆に京都市においては、「長休」があり、しっかり体を回復してもらうための休める 制度がある、を強調されましたが、これは通常の同質・同量・同形態の勤 務が不可能な者は、教育現場にはいさせないという、回復の可能性のない私のような障持者排除の理論である事さえ、気づかずに市教委が考えていた事であり、その事は今も全く変わっていないのでしょうか。
 結局、半年後の95年2月に、私は過労による狭心症と急性膵炎で倒れ、即時入院を医師に命じられる事となりました。わかっている事を市教委の方にして頂けなかったために、起きた、明らかにこれは人災であり労務災害であります。なおかつ、2月に倒れるまでの数カ月間、私は有給休暇を頻繁に、過労対策のため、使わざるを得なくなり、結局自習時間を多くしてしまい、生徒や保護者の心配や、生徒の教育を受ける権利の侵害、代行による同僚等への負担を避ける事が出来ない状況が起きていた事も明 白な事実であります。加えて、私の精神的・肉体的負担は大きく、いつ倒れてもおかしくない状況にありながら、勤務をしていました。残念ながら、それに対し、管理職から、その状況を適切に対処する動きもありませんでした。




*作成:安田 智博
UP: 20200320 REV:
障害学 全文掲載
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