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『源思(京都市教育委員会教職員課長・薮田昇宛 1997年10月21日)』

大葉 利夫 1997

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last update: 20200320


大葉利夫,1997a,『源思(京都市教育委員会教職員課長・薮田昇宛 1997年10月21日)』.

1997年10月21日

京都市教育委員会教職員課長
薮田 昇 殿
      あらゆる差別を無くし生きる!「差無生」運動推進協議会会長
      「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会代表
        大葉 利夫(都立小金井北高等学校数学科教諭)

            「源思」

 私達は、1994年9月より、薮田さんと、薮田さんを窓口とした市教委と話し合いをしながら、互いの立場を理解し合いながら、同じ教育現場に関わる者として、一人一人の人間を大切にしていくという教育の最も基本的な理念を互いに踏まえながら、信頼を深めて参りました。
 94年9月9日の初顔合わせの時点では、互いの立場だけで、人を大切にするという基本理念をもとにした信頼関係は持てず、私が「このまま放置して、辻教諭を殺すような事はするな」とまで言わざるを得なくなり、なおかつ、その席での話し合いの限界を感じ、席を立たざるを得なくなったのは、生々しく3年も経過した現在でも、今日のごとく鮮明な記憶として残っています。95年10月には、全く逆に薮田さん自身が今度は自分達の立場が通らないと感じるや否や、権威を持った立場の人間の態度で席を立ち、部屋を出ていかれました。
 しかし、様々な紆余曲折の中で、互いの立場がある中で、私達は私達なりに、薮田さんは薮田さんなりに、「人を大切にするという立場」を優先し、互いに現行制度の上でも、辻教諭個人をいかに障碍を持つ立場でありながらも、教育現場で活躍してもらうために残すかに苦しみ、悩み、努力し、多くの難関を「互いの信頼関係」で乗り切ってきました。言葉ではその大変さは到底表現出来るものではありません。おそらく薮田さんにしても、私にしても、それぞれの立場からすれば、相当な無理をしてきたのではないでしょうか。それは、現行制度が不備である中で、今そこにいる障碍を持つ辻範子教諭を残す事のみを一時も忘れずに考えていたからこそ、成し得た事ではないでしょうか。互いの立場を優先させれば、不可能であった事は明らかです。薮田さんと私とで、周囲からいかなる雑音が入ろうとも、それに惑わされる事なく歩んできたはずです。当然私は薮田さんを高く評価し、強く信頼しております。おそらく薮田さんも私に自らの立場がある中で、私を強く信頼していたからこそ、既存の概念を生かしながら、なおかつ、既存の概念を切り崩し、私の主張を受け入れて頂いたとしか考えられません。成し得た事が多くあります。
 しかし、辻教諭は3月に復職する時点から、その診断書にも明記されているように、「持ち時間を減らす事」は明らかにそれ以前と同様に、薮田さんと私が共同で超えなければならない難関であったはずです。しかもそれは当該の心身の負担や同僚や生徒の負担を最小限度に留めるためには、「5月中の内に」難関を突破しなければならないというのが、二人の間の共通認識と目標であったはずです。おそらくそれが二人で行なえる最も大きな難関であり、しかもそれが最大の難関であると考えてよいのではないでしょうか。しかも、その最後の難関は、私が会を創設し、当該教員にもたらすべき第一条件であり、その難関「持ち時間を減らす事」を現行制度にはない中で、必ず当該にもたらす事が必要不可決と考え、その実現に邁進し続けてきた運動の核心でありました。その事は薮田さんも十分に知って頂いていたと私は考えています。当該教師にとっては、教師生命=持ち時間を減らす事である事は、私自身や、この間の運動の中でそれが実現する事によって、どれほど多くの当該教員がまだまだ他の点で条件整備が不備であったとしても、教育現場で活動を続けている事を見れば、見事に実証されている事実であります。動かし難い事実であります。それに反し、私と連絡が取れない中で、その条件を別枠として得られなかった者は、私の知る限り、教育現場で残っている者はいません。
 だからこそ最大の難関であり、最初の難関でありながら、薮田さんと私との間では、逆に当該をこの上なく厳しい立場に追いやってしまった「最後の難関」と私は捉えています。今まで越えてきた難関の最後の難関を克服する大事な大事な時に、なぜ薮田さんは私を突き放し、自分だけ安全で、しかも権威を保持出来る場所に逃げてしまわれるのですか。越えるなら、今まで幾つも難関を越えてきた事を、周りに自慢話としてするのは拙速で、きちんと最後の難関を越えてから、あれもやってきた、これもやってきたと言われるならば、それはそれでその人の成し得た成果として、話されるのも結構でしょう。私はその気はありません。最後の大きな難関が5月中に越える事が出来ず、その間に保護者から教育委員会に対してクレームがつき、教育委員会の責任と安全を守るように迫られた経過については、私は理解しています。しかし、7月に入り、授業の負担も減り、約2か月の間に別枠の予算措置を得る行為は許される長期的な時間がある中で、薮田さんは自らの立場を遂に優先させてしまい、私と越えようとした最後の難関を放り出し、「権威」を持てる薮田さんは「権威」を持たない私を放り出し、当該を放り出し、ひたすら保身的に教育委員会の中の一員になり下がってしまわれました。あまりにも卑怯で卑劣と私は思います。やるなら最後まで、どうして苦しく厳しい所を歯を喰い縛ってでも、周りから何と言われようとも、私を信じ、その可能性にチャレンジしなかったのですか。薮田さんの心の中に、本当に心残りはないのですか。私が目茶苦茶な事を言った事がありますか。薮田さんに否定をされた事はありますが、結果的には私が言った事が実現しているではありませんか。薮田さんは、その結果を見て私を評価し、信頼していたのではありませんか。96年2月当時の岡田校長に、私が恥ずかしささえ感じるくらい、岡田校長に対し、私を評価していたではありませんか。94年9月からの一連の私と、私の言動・行動をよく振り返って下さい。また、薮田さんの行動も同時に振り返ってみて下さい。昨年10月、私の家庭の事情で、要休養審査会へ、当該の必要な診断書が届かなかった時も、私の立場を代弁して頂き、11月へ審議を先送りしてくれた事は、それほどまでに私を信じていてくれる薮田さんを知り、有難くもあり、感動もいたしました。私の薮田さんに対する信頼も、より深くなりました。それが、なぜあと一踏んばりの所で私を振り切り、当該を窮地に追いやり、自らだけ安全な立場を維持する行動が出来るのですか。そんな薮田さんを私は考えてもおりませんでした。また、そんな薮田さんを目の当りにしたくもありませんでした。私の事が信頼出来ないならば、最初から信頼して頂かなかった方がよかったと考えるほどです。なぜなら、当該をここまで窮地に追い込んでしまう結果が生じたからです。
 私は、7月1日に電話でお話をした通りに、9月に間に合うように現実に出来る方法を探し、取り付ける行動を責任を持って果たしました。6月までの事は、二人で行動し損なっていたのであるから、7月中の短期的な時期および学期末による実質的な持ち時間の減少でしのぎ、9月までの間に二人で最後の難関を突破しましょうという私の声に、耳をどうして傾けてくれなかったのですか。また、私を信ずるならば、それまでと同様に、自らの立場にありながらも、もっとねばり強く周囲への説得が出来たはずです。私は薮田さんに突き放されましたが、約束通り、府教委との間で9月からの勤務の中で「持ち時間を減らす事」が実現出来るように、最後の難関を一人で突破しました。しかし、二人から一人になって成し得たその成果さえ、薮田さんは無視し、当該の給料を止め、更に危険な段階にまで動こうとしているのを知り、私は一人の人間として、今の薮田さんを許す事は出来ません。障教連という会の立場でもなく、都立高校の教員という立場でもなく、一人の人間として、今の薮田さんをこのまま許す事は出来ません。私は47年間の人生の中で、最も大きな怒りと悲しみを感じています。この感情は、私の理性では抑える事は不可能です。私は自らの人生の中では、身分に捕らわれる事なく行動する時があるかも知れないと考える事が時々ありましたが、まさに今はその時であると私は思っています。一人の人間として。



*作成:安田 智博
UP: 20200320 REV:
障害学 全文掲載
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