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「『千年の愉楽』にみる物語の構造と生成」

中村 雅也 19890120 昭和63年度京都教育大学教育学部国語国文学科卒業論文,83p.

last update:20130722

京都教育大学教育学部国語国文学科
中村 雅也

*ルビについては単語の後ろに()書きで記した。

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 「千年の愉楽」(中上健次著)は、「半蔵の鳥」「六道の辻」「天狗の松」「天人五衰」「ラプラタ綺譚」「カムナカムイの翼」の六編からなる連続小説である。
 この六編の物語はいずれも、路地と呼ばれる被差別部落に生を受けた中本の一統の男を主人公とし、彼らのいきざまがオリュウノオバという老婆の回想の形で語られる。中本の一統の男たちは、美しい容貌で色事に長け、その高貴だとも澱んでいるとも言われる血に翻弄されるように、欲望のままに生きて、悉く若死にする。路地は紀州熊野の山を背にして他所とは境界で仕切られたよう

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な場所であり、路地でただ一人の産婆であるオリュウノオバは、路地のことなら、過去も未来ですらも、すべてを記録している。そして、路地の山の中腹で臨終の床にあるオリュウノオバの記憶をたどるように、中本の血を持つ若者たちの生死が語られてゆくのである。
 「千年の愉楽」に収められた六編の物語はいずれも、作者という第一の語り手とオリュウノオバという第二の語り手を持つ特殊な構造になっている。
 第一の語り手はどんな小説にでも存在するもので、全知の視点を持つ匿名の語り手である。匿名の語り手は、

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普通、物語の中に登場したり、自分の考えを述べたりしないため、聞き手、読み手には意識されることのない存在である。「千年の愉楽」では、物語中の現在を語る役割を果たしている。臨終の床にあるオリュウノオバの様子を描写し、臨終の床でオリュウノオバが考えていることを伝える昨日を持っているのが、匿名の語り手である。
 第二の語り手であるオリュウノオバは、物語の中の語り手であり、語る存在であると同時に、匿名の語り手によって語られる対象でもある。そのため、オリュウノオバは頭の中に思い浮かべるだけで、匿名の語り手を通じ

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て物語を伝えることができる。また、語り手でありながら、自分自身の語る物語の中に登場したり、自分の考えを述べたりすることができる。このオリュウノオバが中本の一統の若衆たちの人生を回想し、その回想によって展開される物語が「千年の愉楽」の中心軸となるのである。
 このように、中本の若衆の物語の語り手は、基本的にはオリュウノオバである。しかし、オリュウノオバが自分の記憶をたどるように語っていると考えるには、あまりに詳細に描写されすぎていると思われる箇所がしばし

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ば見られる。特に、オリュウノオバが直接立ち会ったわけではない場面で、中本の若衆を思ったり考えたり感じたりする主体として描かれている箇所は、オリュウノオバに語られているというよりは、むしろ、匿名の語り手によって語られている印象を与える。これは、オリュウノオバの語りを匿名の語り手が伝えているためである。匿名の語り手が、オリュウノオバの語る物語を補足する形で機能しているようではあるが、これらの箇所で描かれている出来事も、路地のことに関しては全知の視点を持つオリュウノオバが知っていることであり、オリュウ

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ノオバの記憶をひもとく形で語られていることには変わりはない。
 匿名の語り手とオリュウノオバという語り手を持つ「千年の愉楽」という物語において、その重層的な語りがどのような構造を持ち、どのように機能しているのかを作品に沿って具体的に検証していきたい。


 「千年の愉楽」の冒頭に置かれた「半蔵の鳥」は、中本の一統の中でも群を抜いて男振りの良い半蔵が、色欲

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に動かされるままに生き、それがもとで刺し殺される物語である。
 「半蔵の鳥」は、夜明け方に床の中で夏芙蓉のにおいにむせ、小鳥の声を聞くオリュウノオバの描写から始まる。その小鳥の声から鶯を飼っていた半蔵を思い出し、オリュウノオバは幻の半蔵と言葉を交わす。ここまでは、匿名の語り手によって語られる物語中の現在である。この後に続く、半蔵の十九歳までの生い立ちは、匿名の語り手が補足解説的に機能する形であるが、ここからすでにオリュウノオバの記憶が語られていると考えられる。
 
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 二十歳の半蔵が女と暮らしはじめるところから、オリュウノオバの視点から見た半蔵の物語が始められる。ここでの語り手はオリュウノオバであり、思ったり考えたりする主体はオリュウノオバである。ところが、しばらくすると、思ったり考えたりする主体としての視点人物が、オリュウノオバから半蔵へと変移する。
 
・・・(半蔵は)オリュウノオバの方へ身をよじり、「女ならみんなええ色じゃ言うて、この胸にすがりつくけどよ」と、いつそんなふうな男の色気そのものの

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ような笑みを覚えて来たのかとききたくなるような笑みを浮かべる。半蔵には親以上に年の離れたオリュウノオバをからかってみる気もあった。

 これがその部分の引用であるが、前の文で「ききたくなる」のはオリュウノオバであり、後の文で「からかってみる気もあった」のは半蔵である。このように、この作品では視点人物がしばしば入れ代わる。ここからは、オリュウノオバが直接立ち会ったわけではない半蔵の様子を、匿名の語り手が補足するような形で語られてゆく。

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しかし、この箇所を受けて、「オリュウノオバはその話を聞き」とあり、オリュウノオバが記憶を回想している物語の中へと組み込まれてゆく。「その話(校正者注:「その話」傍点)」の中には、半蔵の細かい行動や思ったことなど、オリュウノオバが知らないはずのことまで書かれているが、これは、オリュウノオバに「その話(校正者注:「その話」傍点)」をした者が見てきたようにもっともらしく話して聞かせたか、人から聞いた話にオリュウノオバが半蔵ならああもし、こうも思っただろうど想像したことをつけ加えて、自分が半蔵の視点を持ったような話に作り上げて思い出しているのではないかと考えられ

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る。
 この後にも、半蔵を視点人物として、オリュウノオバが知らないはずの半蔵の行動や思考を描いた箇所はしばしば見られる。
 例えば、半蔵に惚れ込んでいる浮島の後家との情交場面を描いた箇所がそうである。この箇所も、「オリュウノオバはそんな半蔵(校正者注:「そのな半蔵」傍点)そのものが・・・」(傍点筆者)と受けられて、視点人物はオリュウノオバに戻る。オリュウノオバは「そんな半蔵(校正者注:「そんな半蔵」傍点)」、つまり、後家との情交場面の半蔵をやはり知っており、思い出しているのである。

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 この物語の終末近くにある、半蔵が山仕事で怪我をした仲間の医者代を貸りに後家の元へ行き情交する場面を精緻に描いた箇所も、半蔵が視点人物であり、オリュウノオバの知らないことを匿名の語り手が語っているような印象を強く与えるところである。この箇所は、オリュウノオバが直接見たはずはないし、人伝てに聞いたとも書かれていないが、この箇所の後に続く「半蔵の右頬に肉がえぐれたような傷がついたのはその頃で、(中略)オリュウノオバは半蔵が自分で自分の男振りに腹立って傷をつけたのだと思った。」という一文は、オリュウノオバ

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が、先に挙げた箇所で描かれている出来事を知っていたことを推測させる。
 このように、オリュウノオバが回想していると考えるには描写が詳細すぎたり、半蔵が思ったり考えたりする主体となっている箇所も、最後にはオリュウノオバの記憶の中へと引き入られ、オリュウノオバを語り手とする回想の物語に組み込まれてゆくのである。
 物語の最後で、半蔵は「女に手を出してそれを怨んだ男に背後から刺され」「血のほとんど出てしまったために体が半分ほど縮み」息絶える。そして、「流れ出てしまっ

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たのは中本の血だった。」としめくくられる。血がほとんど出てしまったからといって体が半分ほど縮むということは実際にはありえないことで、オリュウノオバには死んだ半蔵がそのように見えたということであろうし、流れ出た血に中本の血という意味づけをしているものもオリュウノオバであると考えられる。


 「六道の辻」は、中本の血を引く三好が、ヒロポンを射ったり盗人をしたりの生活のあげく、殺人まで犯して、

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ついには、ぼんやりとしか眼が見えなくなってしまい、「体から炎を吹き上げ、燃え上がるようにして生きていけないのなら、首をくくって死んだほうがましだ」と縊死する物語である。
 「六道の辻」も語り起こしは匿名の語り手によるオリュウノオバの描写である。寝たきりのオリュウノオバが、自分自身や路地の昔について様々に思いを巡らせてゆく。やがて、中本の血の一統についての回想に至り、この一編の主人公となる三好が呼び起こされて、オリュウノオバの記憶の中にある三好の物語が語り始められる。最初

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は、オリュウノオバの視点から語られてゆくが、オリュウノオバの夫で毛坊主の礼如さんが檀家廻りの途中で三好とその仲間にからかわれる場面で視点が移動する。

 礼如さんが立ちどまり、ひとつヒロポン売って遊び廻っている三好を説教してやろうと、晩生(おくて)なのか背が伸びきっていない礼如さんと同じくらいの背丈の三好をみつめて、「三好よ」と声を掛けると、「礼如さんらええねえ、葬式まんじゅうもろたら一日食えるさか」と言い、三好のそばにいた若い衆らは礼如

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さんを軽蔑したように鼻でわらう。
 三好は礼如さんが腹立って言おうとした言葉を呑み込むのをわかり黙ったが、三好の朋輩のサンドウやヨシキは「オジ、葬式まんじゅうばっかし食っとったら腹ばっかしふくれるだけで動きもつかんようになってくるど」とからかう。礼如さんは顔を赧らめて言いたい事がたまっているともじもじしていたが、こらえかねたように「不信心者めら」と言って来た道を引き返した。

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 これはその箇所の引用である。この引用部分の前半は礼如さんの視点から語られている。この場面はオリュウノオバが直接立ち会っていたわけではないから、礼如さんから聞かされた話を思い出していると考えられる。そのため、語り手はオリュウノオバであっても、視点は礼如さんに置かれているのである。
 一方、後半からは三好に視点が移る。ここからは、思ったり考えてりする主体を三好として、匿名の語り手が機能する形で、三好の細かい行動が描写されてゆく。
 次にオリュウノオバが視点人物となるのは、三好が盗

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人の片棒を担いだにもかかわらず当てにしていた分け前にありつけず困っている場面の後からである。この場面を受ける形で「オリュウノオバは、(中略)ヒロポンを射っている三好のなんとも生きづらいと思っている気持ちを、わかりすぎるほどわかっていた。」と続き、ここからオリュウノオバは、三好が中本の一統の血を引くことについて様々に思いを巡らせる。そうすることによって、オリュウノオバが三好の行動に解釈を加え、意味づけを行ってゆくのである。
 この後の、三好が天満の浜で出会った女を路地に連れ

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て来る場面、一緒に組んで盗人をした直一郎を見つける場面は、再び視点人物を三好として、匿名の語り手によって描写される形となる。
 三好が「秋の肌寒い朝」にオリュウノオバの家をたずね、飯場に行こうと思っていることを告げる場面からはまた、オリュウノオバの視点から語られる形となる。オリュウノオバを語り手として、たずねてきた三好とのやりとり、その後の路地の様子、昔の路地の様子、一年の飯場暮らしから帰ってきた三好とのやりとりが語られ、「盆の十五日の夜半」に、殺人を犯した三好が女を連れて

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オリュウノオバの家へやってくる場面へと続く。ここでオリュウノオバは、三好から、女との出会いから殺人に至るまでの事情を聞かされる。「オリュウノオバもその話を聞いてなるほど確かに中本の一統の血だ、色事となるとどんななまけ根性のものでも天性の力を発揮するとううなづくほど…」と書き始められるその箇所は、オリュウノオバが三好から聞いた話を思い出している形ではあるが、実際に三好が自分で話した以上に細かい描写だと考えられる。特に、女との情交場面は、匿名の語り手による描写か、オリュウノオバが聞かされた話に三好ならこ

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んなこともしたに違いないと想像したことを組み込んで、三好の話として思い出していると考えられる。オリュウノオバは、聞いた話と自分が想像したことを組み立ててひとつの話として記憶しているのである。
 この後、三好は山奥の飯場に身を隠し、怪我をして、これも中本の一統の郁男に連れられて路地にもどってくる。飯場での三好の様子をオリュウノオバは郁男から聞いていて知るのであるが、その箇所を受けて、「オリュウノオバはその話を郁男から聴いた時も泣き、老呆けしてそれがいつの事なのか一瞬いまさっき郁男から話を耳にした

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ような気がして郁男に、『泣いてもしょうあるもんか、運命は運命じゃと言うたれ』と言いかけると床に横たわったきりの今も涙を流している。」という一文があり、語られている物語が、オリュウノオバの記憶をひもといていたものであるということを再認識することになる。このオリュウノオバの記憶の物語は、オリュウノオバが直接見たり経験したりしたことと、この郁男の話のように人から聞いた話が補完し合ってでき上がっているのである。
 路地に戻った三好と居酒屋一寸亭の主人とのやりとりの描写は、三好の視点から語られており、オリュウノオ

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バが立ち会ったわけではない箇所であるが、これを受けて「オリュウノオバはその三好の気持が分かりすぎるほど分かった」となり、やはりオリュウノオバの記憶の中へと吸収されてゆく。
 最後に三好は桜の木に縄をかけ首をつって死ぬ。それを思ってオリュウノオバが想像したことを描いたところを、少し長くなるが引用してみよう。

オリュウノオバはため息をついて、三好の背に彫ってあった龍がいま手足を動かしてゆっくりと這い上が

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って三好の背から頭をつき出して抜け出るのを思い描いた。これが背の中に収まっていた龍かというほど大きくふくれ上り梢にぶらさがった三好の体を二重に胴で巻きつけて、人が近寄ってくる気配がないかとうかがうような眼をむけてからそろりそろりと時間をかけいぶした銀の固まりのようなうろこが付いた太い蛇腹を見せて抜け出しつづけ、すっかり現れた時は三好の体は頭から足の先まで十重にも巻きついた龍の蛇腹におおわれてかくれていた。(中略)龍が急に顔を空に上げ、空にむかって次々と巻

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いた縄をほどくようにとぐろを解きながら上り一瞬に夫空に舞い上がって地と天を裂くように一直線に飛ぶと、稲妻が起り、雲の上に来て一回ぐるりと周囲を廻ってみて吠えると、音は雲にはね返って雷になる。

 これは、あくまでオリュウノオバが思い描いた虚像である。にもかかわらず、まるでオリュウノオバが実際に目にした光景であるかのように、精緻な描写がなされている。この描写がオリュウノオバの想像ならば、先に見てきた、オリュウノオバが直接立ち会って見たわけでは

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ないのでオリュウノオバの記憶をたどって語られているとするには描写が詳細すぎると思われた箇所も、オリュウノオバの想像したことが加えられて語られていると考えることができる。
 「三好が死んだその日から雨が降り続けた。」ことの原因を「三好の背に彫られてあった龍」に関連させてオリュウノオバが想像したとも思われるこの箇所は、オリュウノオバの記憶の中の三好の物語の実質的な結末として組み込まれている。オリュウノオバの記憶の物語では、現実と虚構が同じレベルで語られているのである。

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 このように、臨終の床にあるオリュウノオバが、自分自身で体験したこと、人から聞いた話、それに自分がこうだろうと想像したことを一つの物語に組み立てて思い出しているのが、ここで語られているオリュウノオバの記憶の物語なのである。


 「天狗の松」は、鴉天狗を見たり神隠しに会ったことがあるという文彦が、修行中の巫女を路地に連れ帰り情交中に殺してしまい、一旦は飯場に身を隠すが、最後は

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首をつって死ぬという物語である。
 「天狗の松」もやはり、匿名の語り手が、夜明け方床の中でうつらうつらしているオリュウノオバを描写する形で始められる。オリュウノオバを語り手とする文彦の物語は、オリュウノオバが文彦を取り上げた時の回想から語り起こされる。オリュウノオバの記憶をたどるように、オリュウノオバの視点で文彦の生い立ちとその間にあった路地の出来事が語られてゆく。その中の、路地に次々と起こる災いを治めるためにオリュウノオバと夫の礼如さんが経をあげている場面に「今から思えば、その

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頃は人から年寄り扱いを受ける齢になってはいたがまだ若く、」という一文があり、語られていることがオリュウノオバが床の中で思い出していることであることを確認させられる。文彦が神隠しに会った時の路地の様子に続いて、若衆たちが天狗をつかまえるのだと山の松の下で夜中に集まっている様子が描写されるが、この場面もオリュウノオバが知っていることと人からの話を合わせて見てきたように想像していると考えることができる。
 中学を卒業した文彦は飯場を転々と移り渡る生活をし、ある日、山で巫女の修行をしていたという女を連れて、

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オリュウノオバの家を訪ねてくる。この時、オリュウノオバは、文彦からその女と出会った時の様子や路地に連れて来るまでの事情を聞かされる。ここで文彦が話したとされる内容の描写は、文彦を視点人物として匿名の語り手が語っているようであるが、間々にオリュウノオバの感想がはさみ込まれ、文彦から聞かされてオリュウノオバの記憶の中にある物語の一部であることがわかる。
 ここで注目したいのは、文彦がオリュウノオバに女を路地に連れてきた時の様子を語っている流れのまま、引き続いて路地での文彦と女の生活が語られてゆくこと

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である。

 女は黙ったまま眼を伏せて、バスの窓の冷たさを確かめるように頭をこすりつけてから眼をあけ、国中のあらゆるところに一年も二年も苦しい修行を続けた後浄められて行くが、修業の途中で山を下りる苦しさを思い出すからそれを言わないでくれと言った。
 文彦からは吉野も天王寺も山の向こうだった。路地に来てほどなく特有の言い廻しを覚えたが京や大阪

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の訛のある言葉を話す女にしてみれば、熊野のここは同じように山の向こうになり、路地で、祝事をするでもなく所帯を持った二人は神隠しに会った者同士の所帯という事だった。

 この引用部分の前半が 文彦から聞いている、女を路地に連れて来るまでの話であり、後半からはオリュウノオバが実際に立ち会って知っている路地での文彦の様子が語られてゆく。これは、オリュウノオバの記憶をたどる形で語られているからこそ可能な展開である。オリュ

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ウノオバの記憶の中で、聞いたことと見たことが全く同じレベルで結合して、一つの流れをなす物語を成立させているのである。
 文彦はしばらくは路地で女との生活を続けるが、ある晩、女を情交中に殺してしまう。

女の体があつくなり喜悦に入ったまま熱の固まりのようになってその果てに熱で芯が溶けてしまったように呼吸をしなくなって、文彦は女を殺してしまったと思い二日二晩女のそばにつききりに座った。二

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晩めの明け方、女をかついで山に運び、(中略)松の下に穴を掘り緋の肌の女を埋めた。

 これが文彦がオリュウノオバに語ったと思われる内容である。ところがオリュウノオバは文彦に「何気なしに見ると文彦の家の上が昼のように明るく眩しいのが不思議だった」と言い、「文彦が実のところ女を埋めたのではない」と言う。オリュウノオバは、その情景をすべて見ていたようにこう言うのである。

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女は息も止まっていたが、光り輝くうちに生き返って文彦に丁寧に礼を述べ、戸を手であける事もしないで擦りぬけて宙に浮きあがった。さらに高く舞い上がって山の方に行き、山の上の松の木に止まった。オリュウノオバが目にしたのはその時で、女は一瞬に光の塊のようになって熊野の山々が重なった方に飛び去った。

 これは、オリュウノオバが不思議な光をみたことと関連させて、文彦とその女ならこういうことがあったかも

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知れないと想像した話であると考えられる。しかし、事実は文彦が話した通りであっても、オリュウノオバの記憶の中の文彦の物語では、この想像の方が本筋として採用されているのである。このように、事実に反することであっても、オリュウノオバが意味づけをして想像したことは、回想の物語を構成する要素になっているのである。
 文彦は女を殺して飯場に身を隠すのだが その飯場での様子は文彦の視点から詳細に描かれており、オリュウノオバの語りであることを忘れさせるが、文彦とこれも中本の一統のヒサシが飯場から金を盗んで逃げる場面で、

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「オリュウノオバは文彦がその時抱いた疑問を分かる気がした。いやヒサシの気持も分かった。」というオリュウノオバの視点が表われる。これは「路地にもどって金を オリュウノオバに預け」た時に文彦が話したことを、オリュウノオバが思い出しているからである。この後、ヒサシが天狗に裂かれて殺される場面が文彦の視点から事実のように描かれるが、これも文彦から聞いた話をオリュウノオバが思い出していると考えられる。鴉天狗やヤタガラスを見たという文彦だからヒサシが天狗に裂かれたと思い、文彦が話したことだからオリュウノオバは文

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彦の視点で思い出すのである。
 文彦が山奥の飯場へ身を隠してから路地に戻るまでの様子はオリュウノオバとは関係なく匿名の語り手に語られている印象を与えるが、まず事実があり、それが文彦によって語られる時に天狗の話などがつけ加わって膨らみ、その話をオリュウノオバが思い出す時にはオリュウノオバが目に浮かぶように想像したことが加えられて、匿名の語り手による精緻な描写の印象を支える話となり、それがオリュウノオバの記憶を回想する文彦の物語の一つの構成要素となっているのである。

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 「天人五衰」は、若くして大陸を放浪したオリエントの康が、路地に戻って南米に新天地を作るための会を結成するが挫折し、単身ブラジルに渡って革命運動に巻き込まれて行方不明になるという物語である。
 「天人五衰」は、床に臥ったままのオリュウノオバの霊魂だけが路地や山や海を自由に駆け巡っている様子から始まる。ここですでにオリュウノオバの意識の中を覗き見ている形になっている。そのまま、オリュウノオバ

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の回想の形で、オリュウノオバの視点から路地でのオリエントの康にまつわる物語が語り始められる。
 オリエントの康が、復員船で一緒になった炭焼きの斎藤の家に立ち寄った場面は、オリエントの康の視点で描かれているが、この箇所を受けて「オリュウノオバはオリエントの康の気持のあせりが分かった。」となり、オリュウノオバの感想が加えられて、オリュウノオバの記憶をひもといているのだということがわかる。
 この後も、オリュウノオバもある程度は知っているがオリュウノオバが思い出しているというより匿名の語り

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手が語っている印象を与える描写で、オリエントの康を視点人物として、路地でのオリエントの康の様子が語られている。しかし、これらも「・・・生まれる子らを取り上げるのに忙しかったが決して見つめる眼をそらしたわけではないオリュウノオバにも、ひとつオリエントの康の真意がわからない。その時も今も、ああではないかと類推するが、・・・」と受けられるように、オリュウノオバが「見つめ」ていて記憶の中に持ち、「今」床に臥って回想している物語ということになる。オリエントの康から木箱ごと芋飴をもらって路地の女にやった日「オリュウノオ

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バは自分の生命が消える日を考えて火に手をかざしながら涙した。」とある後に続いて、「それは今日だった。」と突然、匿名の語り手の視点が現れて物語中の現在に引きもどされる。これによっても、ここで展開されている物語は、今日まさに死んで行こうとするオリュウノオバの回想を匿名の語り手が覗きみるような形で語られていることが確認させられる。
 オリエントの康がダンスホールで地廻りの者にピストルで射たれる場面はオリエントの康の視点で語られているが、病院での様子からは手下の若衆の視点に変って語

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られてゆく。病院から路地にもどってから単身ブラジルに渡るまでの様々な場面も、オリエントの康の視点を中心に、オリュウノオバの視点、時には手下の譲治の視点になって語られてゆく。例えば、譲治がオリエントの康をピストルで射ってしまう場面には、譲治の視点が取り入れられている。視点が移り変わるのは、オリュウノオバが直接立ち会っていない場面はオリュウノオバの記憶にあることでもオリュウノオバの視点が取れないからで、オリエントの康の視点にならざるをえない。オリエントの康に意識がなくその視点も取れない病院の場面では、

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手下の若衆の視点で語ることになるのである。
 オリュウノオバが他の者の視点を取って、立ち会っていない場面も見てきたように思い出せるのは、その場面がオリュウノオバの推測によって見ているように頭に描かれたものであるからだと考えられる。それを表している箇所を引用してみよう。

・・・ 椅子に坐ってテキーラを口に含むそのオリエントの康を見て、誰もが(中略)近寄るとケガをするが近寄らずには行かない露骨な誘惑を感じた。オリ

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ュウノオバはそう思い、あるがままにあるという形になった中本の一統の一人、オリエントの康が世の中の尋常な者らにどのくらい凶暴な力になるかと思い、オリエントの康が神仏に伍する力を身につけて椅子に掛けた姿を想像し、身体の毛穴という毛穴から人の性を誘う甘い芳香を発し地面には流した愉悦の滴とも血ともつかぬ黒々としたかげをつくりそれが青い光になってオリエントの康の周囲にただよっているのを視た。

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 この引用の最初の「露骨な誘惑を感じた。」までは、オリュウノオバの視点を離れて、客観的な事実のように語られているのだが、実はオリュウノオバが「露骨な誘惑を感じた」だろうと推測したことなのである。オリエントの康が「椅子に掛けた姿を想像し」て頭に描がいたことが「視た」ことになってしまうのである。
 このように、オリュウノオバは直接立ち会っていない場面も想像し見たように頭に思い浮かべて、回想の物語の一部として組み入れ、オリエントの康の物語を一つの流れに仕立て上げてゆくのである。

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 「ラプラタ綺譚」は、人づき合いもせず義賊のように盗人をしていた新一郎が、銀の河が流れるという南米に渡り、路地に戻って来て水銀を飲み自殺するという物語である。
 「ラプラタ綺譚」は、「オリュウノオバは或る時こうも考えた。」と語り出され、オリュウノオバの記憶の中へと入ってゆく形になる。その記憶の中で中本の一統の新一郎の思い出が蘇り、オリュウノオバの視点から、当時の

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路地の出来事や新一郎の思い出が語られてゆく。
 新一郎の視点が現われるのは、ある夜新一郎の家の中から三味線の音がきこえてきて、「『昨日はどうした』と人に訊かれるままに仲之町の呉服屋の内儀を連れて来たと言った。」ところからで、ここからは新一郎が話したことであるから、視点は新一郎になっているのである。新一郎が話したと思われるところは「女は言われるままに弾いてから、(中略)それで旦那が商いに熱中しなくなったと言った。」と終わるがその流れのまま「女とは二ヶ月ほど、呉服屋と路地の家で逢引をかさねてつきあったが、」

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と新一郎の視点を離れた客観的な描写にひきつがれて語られる。
 この後、新一郎の家に鶯のフンをもらいに男がやってくる場面などは新一郎の視点であるが、おおむねオリュウノオバの視点で話は語られてゆく。新一郎が芸妓の家へ忍び込んで芸妓を強姦する場面は、新一郎の視点で、オリュウノオバが知るはずもない細かさで描かれているが、これも「オリュウノオバは新一郎の胸の中にこの時、(中略)弦を思い出しているのだと思った。」と受けられてやはり、オリュウノオバが見ているように想像してい

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ることがわかる。
 新一郎が山仕事の人夫となり、そこで知り合った男と南米に行く決心をする場面は、客観的な描写で進められているが、この箇所も「最初に新一郎からその話を聞かされた時、オリュウノオバは・・・」とオリュウノオバが新一郎から聞いた話を思い出して語っているものとされる。
 新一郎が南米から送った六通の短かい絵入りの手紙を受け取って、「オリュウノオバは言葉にすればほんの少しの事だが絵を見て考え南米で新一郎が何をしているのか想像し、解読したのだった。」とされるのだが、この南米

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での新一郎を想像して解読する様子は、オリュウノオバが立ち会っていない場面を想い考えて語る形式とつながっている。個々の事実を関連させて解釈し、想像でその隙間を埋めるようにして一つの流れを持つ話に組み立ててゆくのである。
 新一郎の南米での様子は、路地に戻ってきた新一郎からオリュウノオバが聞く形で描かれているが、これも新一郎が作り話も混じえて語った話であり、これをまたオリュウノオバが思い出す時には想像も加わって相当事実から歪んだ話になっていると思われる。しかし、このよ

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うな話であっても、オリュウノオバの記憶の物語の中では、まるで事実のように本筋としての役割を果たすのである。


 「千年の愉楽」の最後に置かれた「カンナカムイの翼」は、オリュウノオバと情交したとされる達男が北海道の鉱山に行き、アイヌの若い衆と知り合って暴動を起こそうとするが失敗して殺されるという物語である。
 「カンナカムイの翼」は、「千年の愉楽」という物語全

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体の構造を読み解くのに重要な手掛かりをいくつか含んでいる。
 先ず、語り起こしから前の五編とは明らかに異なる形を呈している。

  床についたきりのオリュウノオバが、日がな一日、眠っているのか目覚めているのか定かでない状態で、死んだ者やまだ生きている者をあれこれ思い浮かべているのだろう、と路地の者が想像したのは、そもそもオリュウノオバが達者な時に、過去から今にい

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たるまでいや未来の姿のまで頭の中に畳み込み、折りにふれて話していたからだった。
 オリュウノオバの通夜の今日は、到るところに散った路地の出の者だけでなく、誰もが、どんな時代に生きた者も集まる。達者な時は小さなまるまげを結い、寝込んで体が衰えはじめてからは手入れもままならぬと髪をザックリと切ってしまったオリュウノオバの頭に、どんなものがつまっているのかと話をした。到るとこその土地とあらゆる時間、それはまるで都会の摩天楼のように入り組んだ景色だと誰

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もが噂する。

 前の五編はすべて床についたきりのオリュウノオバが昔の路地を回想する形で物語が始められるが、この一編は床についたきりのオリュウノオバを「路地の者が想像し」ているところから始まるのである。
 物語中の現在として匿名の語り手が伝えるのも、前の五編は臨終の床で昔を回想するオリュウノオバであったが、この一編ではオリュウノオバの通夜に集まってオリュウノオバの話をする路地の者たちである。そして、こ

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の後に展開してゆく話は、路地の者たちが語るオリュウノオバの思い出であり、オリュウノオバが「折りにふれて話していた」ことを、こんな話も聞いたことがあると話し、こんなことも考えたと聞いたと言い、オリュウノオバならああもしこうも考えただろうと思い巡らして、意識の中まで見透すように頭につまった「摩天楼のように入り組んだ景色」を想像して話し合っているものだと思われる。
 達男の物語は生まれる時の事情から始まり、十五歳の達男の路地での様子が語られてゆくが、石をかつぐ遊び

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をしている達男にオリュウノオバが見とれてしまう箇所を受けて、路地の者たちが通夜でオリュウノオバを語り合っている場面が描かれる。

 思えば、その時産婆をやっていたから路地ではオバと呼ばれていたが、オリュウノオバも色気を棄てる齢ではなかった。路地の者は思った。月のものもたっぷりとあり、乳首は桜色のままで、月のものの始まる前は若い女のように体がうずく。路地の者らはそう想像して笑った。

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 これは、展開されている達男の物語が、通夜の場で路地の者たちの話題にのぼっていることであることを示すものである。この後すぐに続く、若衆小屋にたむろしている達男にオリュウノオバが薪割りや水汲みを頼みに行く場面も、この箇所の中頃に「路地の者は思った。」という一文があり、この場面も路地の者たちがオリュウノオバを想像して語り合っていることである。
 オリュウノオバと達男の情交場面も、細かい描写で事実のように語られているが、やはり路地の者たちが想像

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して語っていることなのである。

 その光景を誰も見たものはなかった。今、横たわったオリュウノオバの体を前にして、中本の男らが実のところオリュウノオバから産み出され、オリュウノオバにその体を愛撫されていたと、路地の者は考える。横たわったオリュウノオバに花を供えるように、路地の者らは達男を見ている若い女のように体の疼いたオリュウノオバを想像する。

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 この後、路地の者たちが想像した情交場面となり、夫の礼如さんに見つかって夫婦喧嘩になる箇所を受けて、次のように書かれている。

路地のものは横たわった物言わぬオリュウノオバを前にして、元気だった頃の産婆のオリュウノオバと毛坊主の礼如さんの姿を思い浮かべておかしさというよりほほえましさを感じ、息をひきとる間際のオリュウノオバの清澄な意識を想像する。

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 このように、展開されている話は路地の者たちが想像して話している形に収められ、引き続いてオリュウノオバの意識を想像したこととして話が展開されてゆく。ここで展開されている話はすべて「路者の者らはオリュウノオバなら臨終の床でそうしていただろうと口々に言う、」とされているように、路地の者たちがオリュウノオバの意識の中まで見透すようにしてオリュウノオバを想像し、通夜で語り合っている話なのである。
 十九歳になった達男がアイヌの若い衆を連れて北海道の鉱山から路地にもどってきて、「オリュウノオバは一時

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二人から北海道での暮らしを耳に」する。「オリュウノオバは二人が居なくなった後も、路地と同じような条件で生きている未知の人間(アイヌ)を識っていい知れぬ衝撃を受け、」様々に思いを巡らせる。ここにある「二人が居なくなった後」とは、オリュウノオバの家から立ち去った後ということではなく、再び北海道へ行ってしまった後という意味であろうと思われる。そう取らなければ、この後にある達男とアイヌの若い衆が鉱山で暴動を企てる話が、路地にもどってきた達男からオリュウノオバが聞いたもののようになってしまうからである。そうなると、この

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話の最後に達男は死ぬのだから、達男は自分が死んでしまう様子を語っていることになり、大きな矛盾が生じてしまう。暴動を企てて達男が殺される話は、二人が再び北海道にもどった後に起った出来事であり、この物語の最後でオリュウノオバが思い出すのだが、三年後に一人で路地に現われたアイヌの若い衆がオリュウノオバに話したことである。
 この、達男が北海道で殺される時の様子は、先ずアイヌの若い衆がオリュウノオバに話し、それにオリュウノオバが自分の想像や感想を交えて路地の者に語り、それ

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を路地の者たちが思い出して語り合っているという重層的な語りの構造になっている。
 例えば、達男になり切ったアイヌの若い衆が、アイヌの若い衆のことだとして達男の最期をオリュウノオバにこう語る。

 その若い衆は、人間(アイヌ)の路地で達男がウップノオバと話をしていた時、人間(アイヌ)の自然・神(カムイ)が翼を広げて翔び上るのを見て、(中略)若い衆は達男だけをそこに置いて、(中略)敵の陣営に行き(中略)大勢にとら

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えられ、刺された。

 オリュウノオバはこれを「達男は一瞬、うさぎ沢(イセポナイ)の川から光りの魂が翔び上るのを見た。若い衆にそれを言おうとしたが、ウップ老婆(フチ)と立ち話しているので声を掛けるのをあきらめた。(中略)また歩いて一人鉱山の町に行った。(中略)達男は方々から殴りつけられ、(中略)誰か小刀で刺した者がいるらしく、腹が流れつづける血で染っている。」と解釈する。このオリュウノオバが解釈した達男の物語を聞いていた路地の者と、アイヌの若い衆が

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達男になり切って路地に来たことをオリュウノオバから聞いていた路地の者が、お互いの聞いて知っている話を出し合って、一つの流れに組み立てれば、この一編の最終部分のような話が出来上がるのである。
 オリュウノオバの体験した時間の流れに即せば、アイヌの若い衆が達男になり切って現われ、その後で達男の死ぬ様子を聞くのだが、ずっと後で思い出して語られているこの物語では、達男が死に、それからアイヌの若い衆がやって来るという、事実の時間経過に沿って語られている。

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 この物語は、路地の者が実際に見たオリュウノオバの様子、オリュウノオバに聞いた話、路地の者たちがオリュウノオバを想像して作った話などの断片が、通夜の場で出し合われ、一つの時間的流れを持つように配置されて組み立て上げられていると考えることができる。


 「千年の愉楽」に収められた六編の物語を、語り手と視点人物を中心に見てきたわけだが、それによって浮かび上がった物語の構造を整理してみよう。

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 先ず、「千年の愉楽」という物語のすべてを覆う形で、作者である中上健次と同等の位置を持つ匿名の語り手が存在する。匿名の語り手は、物語中の現在にある人物の様子と思考を読者に伝えている。物語中の現在にある人物とは、「カンナカムイの翼」を除く五編では臨終の床にあるオリュウノオバ、「カンナカムイの翼」では通夜に集まった路地の者だちである。
 その次に、物語の中の語り手としてオリュウノオバが存在する。オリュウノオバは、臨終の床での思考を匿名の語り手に描かれることによって、路地の昔や中本の若

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衆についての記憶を読者に伝えている。この臨終の床での思考は、直接立ち会ったこと、人から聞いたこと、推測して思い浮かべたこと、それらに対する感想で構成されている。直接立ち会ったことと感想はオリュウノオバの視点で語られ、人から聞いたことはその話をした者かそこで語られている中心人物の視点で語られ、推測して思い浮かべたことは思い浮かべられている人物の視点で語られる。このため、オリュウノオバを語り手とする記憶の物語の中で、しばしば視点が移り変る。人からきいたことと推測して思い浮かべたことは混然一体となっ

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て詳細な描写を持つ形となり、オリュウノオバの記憶の外にある話のような印象を与えるが、すべてオリュウノオバの記憶の物語の中へ吸収されてゆく。
 「カンナカムイの翼」では、匿名の語り手とオリュウノオバとの間に、路地の者たちという語り手が介在する形で、語りの構造がより重層的になっている。
 それでは、「千年の愉楽」が持つ重層的な語りの構造は、一体どのような機能として働き、どのような効果を生み出しているのだろうか。
 「千年の愉楽」という物語の中心核にあるのは、中本

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の一統の若衆たちの人生である。しかし、彼らは若死にするということだけで、特に人と異なった波瀾万丈の人生を送るわけではない。中本の若衆の人生に起った事実だけを取り出し列挙しても、とうてい物語にはならない。それがオリュウノオバに受け止められた時、初めて物語性を帯びてくるのである。
 オリュウノオバは、自分が産婆であり夫が坊主であるという仕事柄も手伝って、狭い路地に広まる噂話ならたいてい知ることができる。しかも、長年路地に住み続けているので、路地に関する情報は存分に持っている。よ

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って、オリュウノオバは、中本の若衆について自分が知っている事実と人の話を統合して、若衆の行動の概略をほとんど把握することができる。これをもとに、豊富な情報から推測したことで隙間を埋めるように一つの流れを編成し、逞しい想像力で詳細な描写を施して、見てきたように若衆の人生を記憶の中に持つのである。
 しかし、これではまだ、若衆の人生は物語とはならない。これにオリュウノオバの視点が加わって初めて物語となるのである。つまり、オリュウノオバが、美形で若死にという若衆たちの共通点の原因を中本の血に求め、

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高貴だとも澱んだともいわれる血を持つ若衆という観点から、もう一度彼らを見つめ直した時、初めて血の運命に翻弄される若衆たちの物語が立ち現われるのである。
 オリュウノオバは中本の一統の若衆をこの世のものではない仏の生まれ変わりのように思っている。このような視点で若衆の行動を見つめ、想像し、その行動に解釈を加えてゆく。若衆たちの人生は、オリュウノオバの目を通して意味が与えられ物語となるのである。これは六編の物語それぞれの最期のしめくくり方に最もよく表われていると思われるので引用してみよう。

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 「半蔵の鳥」
  流れ出てしまったのは中本の血だった。
 「六道の辻」
  オリュウノオバはその雨が、中本の血に生まれたこの世の者でない者が早死にして夫にもどって一つこの世の罪を償い浄めてくれたしるしの甘露だと思い、有難い事だと何度も三好にむかって手をあわせた。
 「天狗の松」
  二十四になった鉄人のような胸をした中本の血でも

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変ったところのある、生れた時すぐにオリュウノオバが思ったように異類と通じた果てに生まれたような不思議な子だった。
 「天人五衰」
  また一人、この世から中本の一統の若衆の命を取る事で血の澱んだ中本の血につぐないをさせた。死んだ年齢は二十四歳とし御釈迦様の生れた日を命日とした。
 「ラプラタ綺譚」
  また一つ中本の高貴な穢れた血が浄められた。

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 「カンナカムイの翼」
  祥月命日をつくらぬまま中本の高貴な澱んだ血が仏の罰を一つ消したが、オリュウノオバは雷の鳴った夜、ふくろうの鳴いた夜に生れた達男らしい人生だと胸の中でつぶやいた。

 このように、すべて、オリュウノオバが中本の血という観点から若衆の人生を解釈し、意味づけを行っているのである。
 ここで注意しておきたいのは、若衆たちの物語を根底

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で支えているこの中本の血という観点は、「元々、中本の血の者は滅びるというのは路地の中で広がっている確たる証拠のない噂だし当て推量の類だとも言えた。」(天狗の松)とあるように、無根拠なことだということである。
「千年の愉楽」は 無根拠の上に成立した物語であるとも言える。
 中本の一統の若衆の人生は、無根拠な観点、言いかえればオリュウノオバの主観から見つめられて、初めて意味を持つ物語へと変わってゆく。事実が主観的な認識を経て物語へと作り上げられてゆく。

p80
 このように、「千年の愉楽」は、中本の一統の若衆の物語が存在してそれをオリュウノオバが伝えているのではなく、オリュウノオバが、先に述べてきた一連の作業を通じて、若衆の物語を紡ぎ出してゆく物語なのである。しかも、「カンナカムイの翼」では、路地の者たちという、オリュウノオバを認識し語り合う存在を得て、オリュウノオバの人生も物語へ変成してゆこうとしている。
 このように考えてくると、「千年の愉楽」が持つ重層的な語りの構造が、どのように機能しているかが明らかになってくる。

p81
 「千年の愉楽」という物語の中に、オリュウノオバという語り手を存在させるという構造は、物語の中で物語を作ってみせることを可能にしているのである。「千年の愉楽」は、物語が生成してゆく過程そのものを、物語の中に組み入れた構造を持つ物語なのである。
―了―


 一九八九年一月二十日

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 〈テクスト〉
「千年の愉楽」 著者 中上健次 河出書房新社
「文藝」発表誌年月
 「半蔵の鳥」 昭和五十五年七月号
 「六道の辻」 昭和五十五年九月号
 「天狗の松」 昭和五十五年十一月号
 「天人五衰」 昭和五十六年二月号
 「ラプラタ綺譚」 昭和五十七年新年号
 「カンナカムイの翼」 昭和五十七年四月号

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 〈参考文献〉
 「貴種と転生」 著者 四方田犬彦 新潮社
 「國文學 中上健次と村上春樹」 60年3月号
 「國文學 現代小説の方法的制覇」 63年8月号
 「物語の行方」 三浦雅士 (「新潮」83年一月号)



*作成:小川 浩史
UP: 20130722 REV:
中村 雅也  ◇全文掲載
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