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「赤堀さんは無実だ 差別裁判糾弾!!完全無罪を」

仙台赤堀さんと共に斗う会 1988/09/08〜1989/01/31の間(調査中)

last update:20110530

〒980仙台中郵便局私書箱527
(022)295ー8498


《第一章赤堀さんは無実だ》

一九五八年五月、静岡地裁は、一九五四年三月に静岡県島田市で起きた幼女殺害事件について「被告人を死刑に処す」という判決を下しました。
それから二九年後の一九八七年五月二九日、「死刑執行の停止、再審(裁判のやりなおし)の開始」を決定しました。東京高等裁判所の再度の再審開始決定を経て、昨年十月より再審裁判が始まり、去る八月九日を結審し、静岡地裁の二度目の決定が出されようとしています。
赤堀政夫さんは、この島田事件の犯人にデッチあげられました。不当逮捕されて以来、一貫して無実を叫び続けたにもかかわらず、「死刑執行」という死の恐怖と、無実を訴える声を無視、無効化され、「真犯人の身代わり」となって殺される無念さの中で、三五年に及ぶ獄中での生活「死刑囚」としての生活を、生き抜き、闘い抜いてきました。
マスコミ等は「無罪の流れ」と書き立てていますが、赤堀さんは無実なのであり、「無罪判決」以外にはあり得ないのです。「無罪判決」は当然のことなのです。むしろ検察が再度の「死刑求刑」をしたこと、裁判所が今なお赤堀さんの身柄を釈放しないことが不自然なのです。
また、赤堀さんがなぜデッチあげられ、「死刑囚」として三五年に及ぶ日々を奪われているのかについて、裁判所も検察も触れていませんが、再審公判の最後の意見陳述で、赤堀さん自身が明らかにしました。
「裁判長、この裁判は差別です」
赤堀さんは、「精神障害者」差別ゆえにデッチあげられ、殺されようとしているのです。
赤堀さんは獄中から無実を訴え、不屈に闘い抜いてきました。その苦闘の末に手にしたシャバへの生還の道も決して平坦な道ではありません。いまだに裁判所・検察は一体となって差別デッチあげと、赤堀さんの無実を隠そうとしているのです。赤堀さんの三五年に及ぶ闘いは、まさに正念場を迎えているのです。
全ての皆さん!赤堀さんの訴えを聞いてください!赤堀さんの無実を知ってください!差別デッチ上げ―差別裁判に怒りを感じてください!赤堀さんの無実を訴える闘いに協力してください!

《第二章赤堀さんにはアリバイがあります》

赤堀さんには無実を示す証拠があります。それはまず第一に明白なアリバイが存在していることです。赤堀さんは、必死に記憶を思い起こし、事件前後の足取りを一日も欠けることなくはっきりと主張しています。まず赤堀さんの主張に基づき、足取りをはっきりさせていきたいと思います。
(図A参照)
○ 一九五四年三月三日
静岡県島田市の自宅を出て、島田駅から静岡駅まで列車に乗り、その後徒歩でいき、夜は東田子浦の小さなお宮で寝る。
○  三月四日
三島市郊外まで歩き、智方神社で泊まる。
○ 三月五日
小田原市内の松林の中の物置小屋で泊まる。
○ 三月六日
平塚まで歩き、そこから列車に乗り、上野で降りる。上野駅前の松竹映画館に「濡れ髪の権八」という映画の大きな垂れ幕が下がっているのを見る。
七日の朝まで雪に降られる。
○ 三月七日?八日
上野駅周辺でクズ鉄拾いをする。
○ 三月九日
歩いて島田へ向かう。夜は神田駅そばの常磐公園に二人で泊まる(つれの人は不明)。
○ 三月一〇日(事件があったとされている日)
品川のパン工場でパンの耳をもらう。夜は横浜市保土ヶ谷の外川神社で泊まる(第四次再審請求中に発見)。
○ 三月一一日
藤沢市内の妙善寺正宗稲荷の床下に南京袋を敷いて寝る。
○ 三月一二日
西へ向かって歩いている途中で横浜生まれの岡本佐太郎という人と一緒になり、大磯町にある小さなお宮で泊まる。お宮の中の古いちょうちんや額を燃やして暖をとったが、失火容疑で大磯署に留置される。
○ 三月一三日以降
島田方面に向けて野宿をしながら歩く。
○ 三月二〇日
掛川署に立ち寄る。
以上のように赤堀さんのアリバイは明白です。これ一つ取ってみても赤堀さんの無実はゆるぎないものとなっています。
これらの足取りは、赤堀さんがお兄さんや弁護士、支援者に手紙と詳細な絵地図を書いて送り、それを基に実際に足で歩き回り、探し出し立証したものです。
図Aを一見して分かるように、非情に無理のない、自然な足取りとなっています。
さて、一方裁判で認定されたウソの足取りはどうでしょうか。
デッチ上げられた足取りによれば三月三日に家を出た赤堀さんは四日には東京につき、五日に東京を離れ、六日に島田に戻っていることになっています。更に十日に「犯行」を行い、そのまま島田を離れ、十二日に大磯署に留置され、再び島田方面に向かい、二十日、掛川署に寄ったとなっています。図Bを見れば分かるように、全く不自然極まり無いものです。
この足取りについて裁判所は次のように説明しています。
事件が起こったとされている十日の二日後、大磯署に拘留されたのは、赤堀は犯行後直ちに島田を離れた≠スめ、二十日に掛川署に立ち寄ったのは、いったん島田を離れた赤堀さんが、「犯行」後の島田の様子を見るため再び島田に戻り、そのまま通過して掛川署に出頭したとなっています。
裁判所の認定によれば、「犯行」のわずか十日後に自ら掛川署に立ち寄るという、およそ信じがたい足取りになるわけですが、この理由を裁判所は赤堀は精薄だからこのような行動を取っても不自然ではない≠ニしています。
これは赤堀さんを「犯人」にするための、意図的で差別に満ち満ちたこじつけであることは誰の目にも明らかだろうと思います。
裁判所の「認定」がこのように、不自然で矛盾に満ちたものになったのには理由があるのです。検察は三四年前の一審における冒頭陳述では、この認定されたものと全く違う「足取り」を主張していたのです。三月三日から事件当日までは島田市周辺にいたことになっていますし、三月一二日は大津静岡大学分校近くの農具小屋に泊まったことになっていたのです。
裁判が始まってから赤堀さんの必死の記憶の喚起と、それに基づいたお兄さんや弁護士、支援者の独自の調査によって三月上旬に上野周辺にいたことと、三月一二日大磯署に立ち寄ったことが、検察さえも否定できないうごかし難い事実として発見されました。従って裁判所も、この足取りを採用せざるを得なくなり、そのためこのような矛盾極まりない「足取り」が「作り上げ」られたわけです。
その不自然さをごまかすために、「犯行後島田から逃亡し、再び島田に戻って様子を見て、掛川署に出頭」という理由を後付けけしなければならなかったのです。もっとも、五日から六日にかけて、東京から島田までどうやって一日で帰ったかについては、こじつけることすらできていません。
もちろん赤堀さんは「逮捕」直後からこのアリバイを主張したのですが、警察は初めから赤堀さんを「犯人」ときめてかかり、アリバイ主張を無視して、拷問に次ぐ拷問で警察が想定した、架空の「足取り」を赤堀さんに言わせていったのです。

〈赤堀さんの無実の証拠〉

この足取りの問題だけでも赤堀さんの無実は明らかなわけですが、これ以外にも無実の証拠は存在します。例を挙げれば、
○「犯人」の物とされている、死体発見現場近くの大井川原に残されていた足跡と赤堀さんのそれは一致しないこと。
○「犯行」時に赤堀さんが着ていたとされる赤堀さんの衣類に血液の付着がないこと。
○「事件」直後の目撃証人のいう「犯人像」と赤堀さんの姿が似ても似つかないこと。
[この「目撃証人」たちの多くは、赤堀さんが逮捕されたのち、その証言内容を赤堀さんに似た「犯人像」に変化させていきます。ここにも警察・検察のデッチあげの意図が見てとれます]
これらに示されるように、赤堀さんの無実はもはや揺るぎないものとなっています。しかし、裁判所・検察は、デッチあげに都合の悪いことは無視するか、「精薄の赤堀が・・・・・・」という差別に貫かれためちゃくちゃな「論法」をもって切り捨て、赤堀さんに「死刑」を強制してきたのです。

《第三章拷問とデッチ上げ》

〈作り上げられた事件像〉

事件が発覚すると、マスコミは一斉に事件を「変質者」の犯行と報道しました。これは、幼女誘拐、強姦・殺害という残虐な犯行は、普通の人間には出来ない、即ち「変質者」の犯行に違いないという、全くの偏見に基づいたものです。そして警察はこのような事件像をまず作り出したうえで、それに沿って誰しもが犯人と認める犯人≠探し出すために、「精神障害者」、「浮浪者」、被差別部落民など、差別され、排外されてきた人達を中心に二百数十名をリストアップし、捜査を行っていったのです。初めから「変質者」の犯行という事件像を勝手に作り出してから、それに合った犯人を捜すというやり方で進められたこの捜査は、差別と偏見に満ち満ちた見込み捜査に他なりません。この捜査の過程では、あまりに苛酷な取り調べによって数名の「自白者」が出たと言われています。しかし、それでも警察は犯人を特定できず、市民やマスコミから激しい非難を受けることになりました。

〈赤堀さんの逮捕、そして強制自白〉

こうした中、一九五四年五月二四日、岐阜県で二人の「浮浪者」が窃盗容疑で逮捕されました。その一人が赤堀さんでした。赤堀さんは何の説明もなされないまま島田署へと連行されました。そして島田で赤堀さんを待ってたのは「島田事件の犯人逮捕」を報道するマスコミと、島田事件の犯人としての取り調べだったのです。
赤堀さんは、起こったことさえ知らない島田事件について連日連夜苛酷な拷問を加えられ、「自白」を強要されました。
「力イッパイツヨクゲンコツデナグラレタノデス」「クビノドヲシメツケルノデス」
殴る蹴る、首を締める、トイレに生かせないといったすさまじい拷問を赤堀さんは怒りを込めて告発しています。
こうして警察は、事件のことを何にも知らない赤堀さんに、自らが作り上げた犯行ストーリーを聞かせ、それを繰り返し言わせるという卑劣極まるやり方でウソの「自白」をデッチ上げていきました。そして捏造された自白調所を唯一の拠り所として、赤堀さんは「犯人」へと仕立て上げられたのです。

〈唯一の物証〉

この事件において唯一の物的証拠とされているのが凶器とされている「石」です。警察は赤堀さんの「自白」によって初めて凶器が「石」であることを知り、その後の捜索によって現場からこの「石」が発見されたとしています。
しかし、死体発見当時の詳細を究めた捜索でも発見されなかった物が、「自白」後の捜索では現場付近で造作もなく発見されいうのはあまりにも不自然です。また、後の裁判の中で「自白」がなされる以前に島田署でその「石」を見たとする証言が登場しています。それに加えて、胸を殴打したとされる石に血液等の付着がないことが鑑定の結果明らかになっています。さらに、この石では胸の傷はできないという法医学鑑定も提出されています。
裁判では「自白」に基づいて発見された(とされる)凶器とされる「石」の発見が、真犯人しか知りえない秘密を明らかにしたものであるとして「自白」調書に決定的な「信用」を与えてきました。ところが「自白」以前に石が発見されており、さらには、「石」がそもそも凶器であるかすら疑わしくなっているのです。
こうした事実は、この「石」とその発見が、嘘の「自白」信用を与えるために警察がデッチ上げた証拠に他ならないことを示しています。警察は何とか赤堀さんを犯人にするために、このような卑劣極まりないデッチ上げを行ったのです。

〈犯行順序の問題〉

デッチ上げ「自白」調書での犯行順序は、姦淫―胸の殴打―頚部絞扼(首締め)となっています。そして、第一審では御用学者として悪名たかい古畑種基の法医学鑑定をもって犯行順序を「自白」通りと認定し、有罪=「死刑」判決の大きな要素となりました。
しかし、久子ちゃんを解剖した鑑定医は、当時犯行順序を頚部絞扼(首締め)―陰部への加傷―胸部殴打としていました。そして、再審請求審の中で行われた数々の法医鑑定の結果もほぼこの鑑定と同じものとなっています。
第一審において、「自白」調書と法医鑑定の結果が全く食い違っていることに恐れを抱いた検察は、急きょ当時の権威者であった古畑に再度の鑑定を依頼したのです。古畑は他の数々の冤罪事件の中でも明らかになっているように、常に自白内容に合致するような鑑定を行ってきた人物です。
検察は、こうした古畑の「権威」と「特徴」を利用して、早くもほころび出したデッチ上げ「自白」をとりつくろおうとしました。警察は強姦目的の幼女誘拐殺害事件という事件像を勝手に作り上げ、その通りの「自白」を赤堀さんに強制しました。そして検察は裁判において、この事件像と「赤堀=犯人」という図式を守るために古畑の権威を利用した再度のデッチ上げを行ったのです。
しかし、デッチ上げでデッチ上げをとりつくろおうとした検察の「苦肉の策」も数々の法医鑑定が登場してくる中で大きく破綻し、「自白」と事実(法医鑑定)の食い違いが次々と明らかになってきました。これが、一九八六年五月静岡地裁が再審開始決定を出した大きな要因になっています。

《第四章この裁判は差別です》

〈「精神障害者」差別裁判〉

裁判の過程で、赤堀さんは一貫して自らの無実を訴え続けました。そして赤堀さんのアリバイが明らかになり、デッチ上げ「自白」の破綻、矛盾が明らかになってきたにもかかわらず、第一審の静岡地裁は一九五八年五月二三日、赤堀さんに対して「死刑」の判決を下しました。
この判決の中で裁判所は、赤堀さんのアリバイ主張を知能程度の低い赤堀が覚えているはずがない≠ニして差別的に切り捨てるなど、赤堀さんの無実の主張のことごとくを無視しています。また、数々の「自白」の矛盾点についても赤堀が精薄のため≠ニ、全てを赤堀さんの責任に転嫁していったのです。
その上で裁判所は「かような行為は、恐らく通常の人間には良くなし得ない悪虐、非道、鬼畜にも等しい」即ち「「精神障害者」故の犯行である、「被告は・・知能程度が低く、軽度の精神薄弱者であり、その経歴を見ると殆ど普通の社会生活に適応できない」だから「死刑」にせよと言い放っています。(カッコ内一審死刑判決文より抜粋)
この判決文を見てもわかるように、この裁判は「精神障害者」は社会に適応できない危険な存在≠ニいう差別的な偏見に基づいて、「危険な」「精神障害者」を社会から排除―抹殺してしまえという「精神障害者」差別に貫かれた差別裁判に他ならないのです。こうした差別裁判の構造は現在の再審公判に到るも変わらずに引き継がれています。
静岡地裁は自らが行った「精神障害者」差別に居直ったまま、また再び赤堀さんに判決を下そうとしています。

〈差別精神鑑定〉

第一審以降、現在に到るまで連綿と続いてきた差別裁判。
「赤堀=精薄=犯人」という差別裁判の構造を「科学的」に裏付けているのが第一審で行われた精神鑑定です。
この鑑定は、警察の資料のみに基づいて、最初から赤堀さんが犯人だという予断のもとに行われました。そして、その方法たるや、鑑定医はただただ赤堀さんに犯行を認めることだけを迫り、否認を続けると自白剤を注射してまで「やった」と言わせようという卑劣極まりないものでした。
こうして作られた鑑定文は、赤堀さんを精薄と決めつけ、幼女誘拐―強姦を行いかねない性格として、あたかも赤堀さんが犯人であると言わんばかりの内容となっています。
さらに、鑑定医は裁判に証人として出廷して「精薄には幼女強姦が多い」という証言をし、鑑定書と合わせて、「赤堀=精薄=幼女強姦」と裁判長に強く印象づけています。
この精鑑は、第一審から続く差別裁判の中で一貫して語られてきた赤堀さんに対する差別的人格規定そのものであり、この精鑑が、「赤堀=犯人」とする差別裁判の骨格を支えてきたと言うことができます。
赤堀さんは一貫して、この精鑑を糾弾し続けています。
そして鑑定人鈴木医師本人からの取り下げの上申書が裁判所に対して提出されています。さらには精神科医の学会などからもこの精鑑に対する批判が行われています。それにもかかわらず裁判所は、再審公判に到るもこの差別精鑑を証拠として採用し続けているのです。ここでも裁判所の差別裁判継続の意図を見て取ることができるでしょう。

〈差別裁判を支えて来たもの〉

赤堀さんは幼いころから「テイノー」「マー公」とさげすまれ、差別され、生まれ育った地域から排除されてきました。それ故に放浪生活を余儀なくされたのです。そして精薄の赤堀ならやりかねない≠ニいう差別的偏見の中で島田事件の「犯人」とされ、「死刑」を宣告され、今なお、拘禁生活を強いられています。多くの人々は赤堀さんが逮捕され「犯人」とされて、自分たちが(偏見を通して)思い描いたとおりの犯人が捕まったとして、警察のデッチ上げを諸手を上げて受け入れ、安心していきました。「死刑囚」として死と背中あわせの三五年間。赤堀さんにこのような生活を強制してきたのはただ一点、「精神障害者」差別に他なりません。「精神障害者」は何をするかわからない∞危険な存在だから社会から排除してしまえ℃ミ会に根強く存在する「精神障害者」差別故に赤堀さんは三五年に及ぶ長きにわたって人生を奪われてきたのです。
赤堀さんの無実を、奪還を語るとき、私達はこのことを抜きに語ることはできません。本当の意味で赤堀さんを奪い返すということは、この社会から「精神障害者」差別を、そして、あらゆる差別をなくしていくということなのです。

《第五章再審公判》

〈再審公判への流れそして再審公判〉

一九八三年五月二十三日に出された、第四次再審請求の差し戻し決定以来三年を経て、一九八六年五月二九日、赤堀さんは再審開始決定、(再審の開始と死刑執行の停止)をかちとりました。これに対して検察は即時抗告を行いましたが、これも一九八七年の三月二五日に棄却され、赤堀さんの再審が決定したのです。しかし実質的な再審開始決定ともいえる差し戻し決定から再審開始決定までに四年近くもかかったのは、検察の許しがたい引き延ばしによるものであることを忘れることはできません。
昨年一〇月一九日より始まった再審裁判は、一二回の審理を経て今年八月九日に結審しました。
私達は、すでに赤堀さんの無実は明らかであり、無実の赤堀さんを「死刑囚」にしてきたものは「精神障害者」差別であることを訴えてきました。そして、再審裁判は、無実の赤堀さんが、赤堀さんをデッチ上げてきた警察―検察や、裁判所に対し、怒りを露にし糾弾していく場にしていかねばならないと訴えてきました。
そのためには、まずなによりも赤堀さんのアリバイ立証が重要となります。事件前後に赤堀さんが、事件のあった島田近辺にいなかったことは明らかであり、裁判の中でそのことを認めさせねばなりません。
そして、差別裁判の根幹を成す精神鑑定を証拠からはずさせなければなりません。鑑定人本人である鈴木喬医師が自ら誤りを認め、裁判所に取り下げ上申書を提出していることを考えれば、そのことはむしろ当然ともいえます。
もう一つ、警察によるデッチ上げ、拷問も明らかにせねばなりません。そのためには赤堀さん以外の「自白者」の供述も含まれているであろう、検察の手持ちの全証拠開示を求めなければなりません。
そして赤堀さんは再審裁判の中で、力強く「この裁判は差別です」「私は無実です」と訴えました。しかし、再審裁判全体としては、これらのことにはほとんど触れられなかったのです。

〈検察の有罪立証〉

再審裁判は、そのほとんどが法医鑑定論争に費やされました。前述のとおり、再審開始前の段階で、赤堀さんが強制されたウソの「自白」と法医鑑定の結果では犯行順序も胸部、陰部の傷の凶器にも食い違いがあることは明らかになっているにもかかわらず、検察は新たに2人の法医鑑定を出してきました。
さらに検察は、第一回公判で、三五年前と同じ起訴状を読み上げ、有罪を策してきました。そして赤堀さんが有罪であるかの如く印象づけるために、死体発見現場の検証を行ったり、これまで一切話を聞こうともしなかった赤堀さんに対し、尋問を行ったりしています。そして、これらのことを行ってもなお検察は赤堀さんを有罪とするような立証はできませんでした。にもかかわらず、論告求刑では再び「死刑」を求刑してたのです。

〈差別裁判の継続〉

静岡地裁は、検察の暴挙を許しただけでなく、意図的に裁判の中での論点を挟め、都合のいいように裁判を行ってきました。静岡地裁は二六年前、第一審において赤堀さんに「死刑」判決を下したところです。その判決は「精神障害者」に対する差別と偏見に満ちたものでした。
そして再審においても、静岡地裁は、差別精神鑑定を証拠採用し続け、アリバイ、拷問など、差別を暴露する証拠については切り捨ててきました。また、弁護団が検察に対し、隠し持つ証拠の開示を求めたのに対し、裁判所はその請求を退けています。
結局、再審公判は、あくまでも赤堀さんを有罪にせんとする検察と、「公正さ」を装いながらも自らの差別に居直ろうとする静岡地裁によって進められた、無意味な、許しがたいものだったのです。

《第六章赤堀さんの即時釈放を》

〈赤堀さんは未だ「死刑囚」としてとらわれています〉

現在の日本の再審制度では、再審開始の要件に「無罪を言い渡すべき新規かつ明白な証拠」が発見された場合と、厳格な要件を課しています。それ故再審は「開かずの門」「らくだを針の穴に通すより難しい」などと言われています。赤堀さんは不屈の闘いによってその再審の門を開きました。
「再審の開始」と共に「死刑執行の停止」が確定し、これによって赤堀さんの無実は明らかとなり、赤堀さんは「死刑囚」ではなくなりました。「死刑執行」のための身柄の確保は一日たりとも必要なくなったのです。
再審公判に向け、体調を整え、弁護団と打ち合わせをするなど、万全の体制で臨むため、私達は赤堀さんを始め、全国の仲間と共に赤堀さんの即時身柄釈放を要求してきました。ところが静岡地検は、昨年八月三一日未明に赤堀さんを宮城刑務所から静岡刑務所へと、極秘のうちに移管を強行したのです。赤堀さんを再び「死刑囚」として静岡刑務所に閉じ込めたのです。こんなことは絶対に許されないことです。
また弁護団も、昨年十月再審公判が始まるとともに、静岡地裁に対して身柄の釈放を要求してきました。ところが地裁はそれには一切答えず、検察同様赤堀さんを「死刑囚」として拘置し、再審公判が結審した今も、態度を明らかにしません。地裁、検察ともに、差別裁判を維持するために赤堀さんを「死刑囚」として閉じ込めているのです。
計十二回開かれた法廷に赤堀さんは自らの体調を整えることすらままならず、手錠・腰縄つきで引き出されています。
私達はその赤堀さんの悔しさを思うと、これ以上一日たりとも不当な拘禁を許すことは出来ません。

〈赤堀さんの即時釈放を〉

また赤堀さんはこれまでの長期の獄中生活によって健康を著しく害してきました。特に宮城刑務所の劣悪な処遇、医療は赤堀さんの体の至るところを傷つけました。仙台の冬に暖房は夜間の湯タンポだけ。そして寝具は毛布を二枚しか認めず、充分な医療体制もありませんでした。そんな中で赤堀さんは長年リュウマチ・シモヤケ・胃腸の不調・入れ歯が合わないなどによる食欲不振・「ぢ」などの獄中病に苦しめられてきたのです。一時は風邪を悪化させ生命の危険さえ心配されたこともありました。赤堀さんの健康面から考えても、これ以上の不当な身柄の拘禁は許せないのです。
赤堀さんは今獄中で、年内にも出るだろうと言われている判決を一日千秋の思いで待っています。面会に入った仲間に「一日が長い」と話しています。権力に奪われた三五年間の日々にもはや一日たりとも獄中生活を加えることはできません。
一日も早い無罪判決と共に、即時の身柄釈放を再度要求していきたいと思います。皆さんの御支援を訴えたいと思います。

《第七章完全無罪判決をかちとろう》

すでに何度も触れてきたように、無実の赤堀さんをデッチあげ、「死刑」判決を下してきたのは「障害者」差別です。八月九日の結審の時に、最終意見陳述で赤堀さんが裁判官に力強く主張したとおり、「この裁判は差別裁判」なのです。赤堀さんの三五年間の闘いは、この裁判の差別を一つ一つ明らかにし、糾弾する闘いでした。
しかし、裁判所・検察は赤堀さんの明らかにしてきた差別裁判の一切をおおい隠し、責任の全てを、判決を限り無く「黒」に近づけることで、赤堀さんに押しつけようとしています。私達は判決までの残された時間に、赤堀さんと共にこうした裁判所・検察を糾弾し、必ずや完全無罪判決を勝ち取っていきたいと思います。
差別見込み捜査を行い、全くの無実であった赤堀さんを不当逮捕した責任は誰にあるのか。拷問で「自白」をデッチ上げたのは誰なのか。赤堀さんの必死のアリバイ主張を「精薄の赤堀が覚えているはずがない」と切り捨てたのは誰なのか。「かかる残虐な行為は常人にはなしえない、社会不適応者には死刑がふさわしい」と無実の人間に死刑判決を下したのは誰なのか。
そして弁護団からの新鑑定によって、警察の作文である「自白」と犯行順序などに食い違いが生じるや「食い違いは精薄の赤堀の記憶違い、しかし自白は全体としては信用できる」と再審請求を退けたのは誰だったのか。
私達はこの最初から最後まで差別に貫かれてきた島田事件の責任の全てを明らかにし、赤堀さんと共に完全無罪を勝ち取っていきたいと思います。
また、この闘いは赤堀さん個人の闘いではありません。
「我々はシャバの赤堀だ、赤堀さんを殺して私達に明日はない」とたちあがったシャバの「障害者」、「精神障害者」の闘いでもあります。「役に立たないもの」「危険なもの」として赤堀さん同様に、職場、地域から排除され、今また「精神障害者」を「危険な存在」として隔離・拘禁する法律である「保安処分」の新設がもくろまれるなど、「障害者」「精神障害者」に対する差別の強化、地域からの狩りだしが激化しています。
こうしたシャバでの「障害者」差別は三五年前の赤堀さんのデッチ上げと決して無関係のものではありません。
私達は、赤堀さんに対する差別裁判を糾弾する闘いを、赤堀さんと共に、そして全国から立ち上がった「障害者」「精神障害者」のなかまと共に「障害者」差別を許さない闘いとして最後まで闘い抜いていきたいと思います。全ての皆さんの御注目を訴えます。

(事件から現在までの年表)

54・3・10 佐野久子ちゃん行方不明となる
   3・13 山林中で死体発見
   5・24 赤堀さんの別件逮捕、翌日釈放
   5・28 赤堀さん再逮捕される
   7・ 2 初公判
55・12・5 「精神鑑定書」提出
58・5・23 「死刑判決」下される―控訴
60・2・17 控訴棄却―上告
   12・15 上告棄却
61・9   第一次再審請求
64・6・6 第二次再審請求
66・4・17 第三次再審請求
69・7・29 第四次再審請求
77・3・11 静岡地裁請求棄却
83・5・23 東京高裁 差し戻し決定
86・5・30 静岡地裁 再審開始決定―検察抗告
87・3・25 東京高裁 検察抗告棄却―再審開始確定
87・10・19 再審公判開始
  ?       ?
88・8・9 再審公判結審
?・? 再審公判判決

*作成:桐原 尚之
UP:2010528 REV:
全文掲載 ◇島田事件 
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