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「精神外科手術に象徴される精神医学の差別性」について

吉田 哲雄 19880207 精神衛生法撤廃全国連絡会議88.2.27学習会報告


【吉田先生のお話】
司会 精神医療・精神医学の差別性、とりわけ、精神外科手術に象徴されるその差別性をテーマに、本日の学習会を持つことになりました。はじめに、吉田先生のお話をお聴きしたいと思います。
吉田 吉田です、よろしく。かなり本格的にやるとたいへん大きな問題ですから、どうしようかと迷ったのですが、一応、精神外科・・・ロボトミーとかそういうことについては僕としても詳しく調べたり、書いたりしたことがある。そこに一番はっきり問題が現れている極端な例だと思います。
 最初に、精神科として治療とか診断とかとしてやられていることにどんな問題点があるかを大ざっぱに言っておいた方がいいと思います。やはり私は医者ですから、治療とか診断とかを実際にやっている立場ですから、そういうものを全面的に否定するとかいうことは、おかしなことになりますので、そういう点は覚悟して、責任をもったものとして考えています。
 問題があることはわかっていながら、そういう問題をあまり見ようとしない医者が多いということがある。
 最初に、治療ということが、僕らはわかっているかのように言っているけれど、そのやっていることがどこまで本当に治療なのか、ということを考えねばならない。案外はっきりしない。そのことは精神科だけに限られたことではないと思うのですが。
 医者が治療として話を聞いたり、説明したりすることが、そもそも治療としてプラスになったり、マイナスになったりするだろうし多くの科では医者が話をしないということが多いのだそうですし、それ自体も問題だと思います。
 また、治療と実験の境がはっきりしない形で進んでしまっていると思います。入院治療ということがありまして、たとえば、内科などでは、非常に具合が悪いときに安静にしていて処置を受けやすいということでは、入院ということは有利な面があるかもしれないけれど、どんな病気であれ、入院という形で生活すること事態にはストレスもあり、マイナスの面もあるわけですからそういうふつうの入院の場合でも、完全にプラスだとは言えないわけです。治療が効いたとか効かないとかいいうことも、判断がむずかしいわけです。
 本来は、患者が自分の力で治るということを僕らが助ける、というのが原則なわけだけれども、どこまでが自分の力で、どこまでが助けたことなのかがむずかしいことだと思っています。
 目にみえるはずの外科や内科であっても簡単ではないところへもってきて、精神科は、ますますそのへんがむずかしいと思います。
特に、診断して病名を付けることにかなり問題があることがあり、いろんなことを考えさせられることが多い。
 ロボトミーとかの精神外科手術とか、ショック療法とか、薬を使うこととか、さらには精神療法と言われていることとか、いろんな問題がある。さらに精神科では、外来とか入院とか、治療の場ということにも問題がありますし、診断とか検査とかにも問題があると思いました。
 そういうことについて、ひとわたり話をしてから、みなさんの質問を受けたいと思います。私も医師として20年位やっているしいろんな所でやってきたので、お役に立てればと思っています。

【精神外科】
 精神外科というのは、言葉としても問題がありますが、一般的にはロボトミーとして知られています。これは定義というものを見てみても、例えば、脳の腫瘍とか、はっきりした病気ではないのに、手術をするということが第一番目の問題ですね。精神症状を無くすという考えと、行動を変えるという考えがあって、その点が微妙に違うわけです。
 前世紀の終わり頃にスイスで、興奮する人を鎮めるという考え方で、そういう手術が行われた。しかしそれはあまりにも乱暴な手術であるという批判があって、止めになっています。ところが1930年代に入って、ポルトガルで始められたわけだけれども、要するにそのときの考え方というのは、脳を電気で動く機械のように考えているわけです。一種の線のつながり具合が悪いから、妄想とか、脅迫観念が起こるんだという考えで、そういうつながりを断ち切ればいいという考え方で、機械の故障を直すというような思想で始められたのです。その後の経過でいえば、症状をなくすというのと行動を変えるという両方の考え方が今に至るまで引き継がれていると思われます。
 つまり、妄想を取るんだということで始めたはずのロボトミーが鎮めるためにということで、形を変えて、ずっと引き継がれてきたわけです。とくにアメリカ、日本では、乱暴な手術が多かったことは事実です。脳に手術をするということを通じての実験、という性格も強かった。細かく話をする時間はないわけですが。
 ソ連では昔はなかったのですが、最近では電極を植えこんで刺激をする、というようなことをやっているらしいです。最近、世界の精神外科について詳しい本が出たので読んでみたら、それにも書いてあったのですが、日本では、これまで精神外科手術をやってきた人たちは、批判をされるからやめているんだと言われています。本当に悪いことだとは考えていません。最近でも、イギリスあたりでは、まだやっています。一部の人だそうですけれども、かなり細かい道具を使って、脳の一部に放射性同位元素を埋めるとかいうことだそうですけれど、そういうことをやっています。なぜ効くかということは、簡単には言えないけれど、他の方法ではどうしても効かなくて、非常に苦しくて自殺の危険の大きい躁鬱病とか、鬱病とかいう人に対して、かなり手続きはうるさくなってきているそうですけれど、やはりなされているそうです。日本でも、もし批判がなければそういう手術をしてみたいと考えている人は、いるかもしれない。厚生省も治療指針から精神外科を削っていないわけですから、この問題は過去のものとは言えないわけです。
 ただ、現実的には確かに批判活動も強かったわけですから、めだつところでやろうとしている医者はいないと思いますが、今後とも注意は必要だと思います。そういう中にみられた患者観というのはさきほども述べたように、機械の故障と同じようにみなす思想とかともかく暴れる行動が問題なのだから、それを変えればいい、人工的に変えればいい、というそういう非常に高圧的・差別的な思想が根底にあるわけです。いかに手続きを厳密にやったとしても問題は依然として残っていると思います。

【ショック療法】
 ショック療法と言われるものについては、これはおそらく理論的根拠はなく、かなり経験的に始められたのではないかと思います。
 私はあまり詳細に調べてはいないのですが、例えば、電気ショックとインシュリン・ショックとが主なものだと思うのですが、インシュリン・ショックというのは、オーストリアあたりで始められたようで、インシュリンを少しづつ注射していって、意識がなくなっていくようなことを治療に使うんだといっているわけですが、その地元であるウィーンあたりでは、行われているようです。やはり、やられる側にとってみれば苦痛を伴うし、危険も大きいわけですから、日本ではやられていないと思います。ただ私たちの目の届かない病院もいっぱいありますから、断言はできませんが。どういう考えからかわかりませんが、理論的根拠もないのに、こういう危険なことをやったこと自体が問題だと思います。それに対して、電撃、電気ショック、これもかなり古くから行われたらしいですが、私の感じでは完全になくなっていないと思います。ある状況に応じてはやる、と言っている人がいます。これについては、後に出てくる薬ともからんでくるわけですが、薬を使う方が侵害が少ない、というように普通は思うのだけれども、薬がものすごく多くて副作用を長びかせるよりは、電撃の方がまだいいんだというような考え方も、考え方としてはあるようです。
 なお、非常に乱暴に昔はやられていたと思いますし、その瞬間の恐怖感とかいうようなことも含めて、あるいはそれを受けたことによって、その頃の記憶がなくなってしまうとかいうこととか、不安とか、大変な問題が多いのです。ただ、私の20年間の経験では、非常にまれではあるけれど、自分からやってくれと言って来た人も、1人2人はいる。私はやりませんでしたけれど。何らかの理由で本人から言って来たという実例はあるんですね。
 そういう、かなり激しい治療と称することがいくつかあります。
大昔から、患者さんの人権とか主体性とか、そういうことは無視してやってきたことは間違いありません。私が松沢病院にいた頃に、昔の記録とか調べたのですが、そういうことが強い。そういう裏づけがあったので、ロボトミーとか、電気ショックが行われた。最近は、本人の同意とか説明とかが行われていますが、一時代前には、そういうことは考えられてもいなかったと思います。よく言われることですが、もともと、どうせ治らないんだという見方が強かったからあらっぽい方法が行われたのではないかと考えられる。そういう問題が、はっきり見られるのです。

【薬】
 薬については、昔はなかったわけで、古い松沢病院の記録などを見ても、薬のことは書いてないわけです。大体1960年頃からはかなり薬も出てきたわけです。精神科の治療というのは、かなり試行錯誤みたいな感じが強いのです。はじめは、かなり薬は期待されたのです。ただ一方で、薬の副作用みたいなものも、慎重にチェックされながら始められたと思うのですが、その後どんどん安易に使われるようになり、注意をしないで使われてきた時期もあります。ただ一応、薬に対する反省みたいなものも、ちらほら出はじめています。その反省には、非常に長い目で見て、本当に効いているのかどうかという話が一つあると思います。根本的に治したと言えるのかどうか、そういう問題があると思います。
 それから、副作用とか作用とか言いますが、その区別ははっきりしたものがあるのか、という問題があるわけです。鎮静的に作用するということが効果だと思っているが、実はそれはよくないことであるということもあるわけで、そういうことも考えねばならないことです。副作用というマイナス作用の深刻さに関しても自覚が少ないのではないかと思います。そういうことが、今、ようやく言われていることだと思います。
 まだまだ私たちも含めて、そういう検討は不十分だという気がしています。薬について言えば、その目的の方向性みたいなことがまず問題になります。
 ロボトミーのときも、沈静化か症状を取るのかという話が出ましたが、全く同じような話があるわけです。方向性の問題もあるし。
 たとえば、元気をつける方向の薬、ということもうまくいっていない。むしろ一挙に覚醒剤程度の問題にとんでいったりしますので、どうもうまくいかない。そういう性質というか、薬の方向性の問題もあります。あと常に問題になるのは、理屈としての薬が効くとか効かないとかの問題だけじゃなくて、製薬資本の要求とか、いろいろあるわけですから、それによってたくさんの薬を使うというのは当然の話となっている。高い薬が選ばれるとか、いろんな問題を伴っているわけです。 他の科と比べて精神科の薬というのは、かなり製薬会社にとっては大きなものらしくて、次々といろんな種類の薬が出てきています。

【精神療法】
 精神療法というのは、ご承知のように一応我々の心や態度で、患者さんとの間の人間関係を通じて治していくという考え方です。これもいろんな理屈がありまして、確かに物理的な侵害を直接に伴うということがないだろうということで、従来は広範囲に批判されることが少なかったかもしれません。
 まず先にロボトミーとかが批判されたわけですけれども、やはり深く考えてみれば、かなりむずかしいものであります。
 精神療法というものを広く考えますと、一般的な人間関係においてもそういう状況というものはあるのだろうから、広げていけばまたすごく広げていけるわけですが、精神療法として行われていることに仮にしぼったとしても、これが又、基本的な考え方とか、理論・方法が違いますし、結果も当然違ってくるでしょうし、けっこう混沌とした領域だろうと思うわけです。
 やはり、何が効いたかということが問われるわけで、効かなければ、ただ色々やっただけでむしろマイナスだったということがあるかもしれないし、プラスでもマイナスでもないということがあるかもしれないし、いろんなことがあると思われます。よく言われるように、精神療法と言われるものの中にも、深く心の中に立ち入っていくやり方と、あまり深く立ち入らないやり方とに大きく分かれるということになっています。本当に深く立ち入ったことで、よくなったなら、それも許されるかもしれないけれど、立ち入っただけ害を残すこともある。ただ立ち入らなかったことが、なすことがなく終わったということになれば我々も悔やむ。そういう大きな問題をはらんでいると思うのです。
 この辺がまだまだ私にも勉強不足だし、一般的にもそういう議論が出てきたあたりだと思います。むしろ、精神療法と言われるものの、そのまた前提みたいなこととして、私たちのいろんな問題があると思います。
 僕らの立居ふるまいということがあって、僕らの個人的特徴があるし、当然相性があるわけで、その辺がなかなかむずかしいし、医者がしゃべりすぎるのも困るし、黙っていても困るということがあるだろうと思う。特に秘密をきちんと守るという態度がないと大変困るだろう。こんなことをずいぶんおろそかにしてきたと思うし、ようやく考えられるようになってきたと思います。
 いろんな話の中でその人個人の過去のむし返しみたいなことをやたらやることがいいことなのかどうか、という議論があると思います。やはり説明とか同意とかありますが、本当の説明とは何なのかちゃんとわかるようにきちんと話すことの努力がまだまだ足りないのではないかと思います。
 私たちの限界というか、役割の自覚みたいなものが、必要だと思います。医者というのは大体どの程度のものなのか、という決して責任を回避するつもりはないけれども、やたらに医者がしゃしゃり出てはよくないだろうという場面もあると思います。我々の側の自己点検ももっともっと必要だろうと思っています。

【治療の場】
 治療の場ということについて、皆さんも議論されていると思いますが、精神病院が治療の場に価するかということがこの間の問題となってきたと思いますし、それは治療の場としての問題はあると。
ただそれが、どの程度のものなのかという相対的な問題としてなのかもしれません。開放にするとか、しないとかいう議論の中でも、必ず閉鎖というものが治療のためには必要だという議論が必ず出るし、ただ鍵が開いているか開いてないかというだけの問題じゃないという議論も必ず出るし、だけれどもやはり鍵の重みというのはすごいんだという議論も出るということです。僕らが治療の場に一生懸命していくとしたらそういう可能性がどの位あるのか、あるいは我々がやっていける自由度の範囲というか、どうしても構造上決められている範囲がある程度あるわけで、その辺のみきわめというか、取り組みがかなり大事だと思うのです。
 やはり古い精神病院にいますと、昔からの患者観・態度というのがすごく如実に感じられるわけで、たとえば松沢病院という病院でいえば、ともかく看護が主力でやってきた病院で、医者はむしろ影がうすい。大勢の患者さんが一つの病棟にいて、大勢の看護者がそれに取り組んでいる。そういう中で、たとえば患者さんとゆっくり話し合おうとする若手の看護者などが出てくると、それに対して古い看護者がやめろということがあるわけで、そんなふうに患者の話を聞いたりすることは甘やかすことなんだというようなことがあるわけです。せっかく入ってきた新しい人たちが、がっくりしてしまって、やる気がなくなってくるというようなことが起こっている。
ようするに、古い人の考えでは、そういうことをしないで、びしびしと取り締まるような態度でやらなければいけないんだというような考え方があって、そういう患者観なり、態度でずっときている、そういうことが抜きがたい病院があるわけです。
 そんなところで、けっこう大変な問題があると思います。
 外来ということでは、しばらく外来をやっていると、今度は混んでしまって、じっくりやれないということが出てくるし、ともかく大変です。
 保健所についても精神衛生活動というか、精神保健活動というかとにかく、そういうことをやるんだというたてまえがあるわけですから、一応どこでもやっていると思うのですが、やはり基本的態度によってずいぶん違ってきていて、保健所では患者さんと思われる人たちが地域にいるとなると、入院先を紹介するということをやっている所が多いと思うのですが、一部の保健所では、一生懸命在宅でうまくやっていけるように手伝おうとしている所も一応はあるんです。ただ、それでもかなりの限界はあります。ですから、地域管理的な方向での一種の圧力みたいなものがあるわけで、そういう中でやっていくことはかなりむずかしいと思います。
 話は少しかわりまして、診断とか、検査とかいうことにも、いろんな問題がありまして、一応医師法とか医療法とかありまして、一応医療行為をしている場合には病名がついて認められないとだめという局面があるんです。ただそこでつける病名については、ずいぶん我々の判断でいろいろに書いていますけれど、やはり診断の下には病気をどう見るかという考えが当然ある。むしろ最近は、私たちとあまり親しくない医者たちの間での流行のいわゆる診断基準とか病気の分類とかいうことがあります。それは、そういう人たちが統計をとったり、研究をしたりするときに、基準がなければ困るんだということで、そういうことが始められたわけです。しかし、そもそも根本的にはどう考えているかということが抜けてるような感じでして、たとえば、全面的にもう根本的には病気とみなしているのかどうかというようなことが、きちんと議論されていないわけです。
 もちろん、ある種の理論の人たちは健全な面があるというような言い方をするけれども、その面という言い方でも十分じゃないのではないかと思いますが、古い病者観でいいますと、分裂病となると人格が根本から全面的に変わっているというように古い教科書には書いてあります。だから自分の言動に責任も負えないんだというように話が進んでいくことは、そういう事実はあります。やはり一般の精神医学の教科書にしても、カルテにしても、書き方としてはいろいろと強く言えば、悪口みたいな言葉がいっぱい出てきて、患者さんを描写するというような傾向が残念ながらあると思います。そういう価値判断みたいなものを加えた見方が、やはり診断とか記録の仕方に出てきている。その辺の反省がもっとなければいけないと思います。

【検査】
 検査ということについては、むしろ内科などでも、僕はもっと気になっていまして、まず第一に大学病院の内科などにちょっと出入りしてみると、毎日のように血液をとって調べてみなければならないみたいに若い医者が思ってやっていることがある。そういうやりすぎが今はめだちます。それに対して歯止めをかけるべき人が内部にいないみたいで、むずかしいです。
 精神科もおそらくそれに近いようなことが所によってなされていると思います。やはり脳波とか、CTとか、血液検査などを頻繁にやっていて、未熟であるとか、感情の統制が弱いとかいうような、なんとなく否定的な、その人を否定するような見方で書く傾向が強いと思います。
 そんなことで、ひとあたりあらゆるところにそういう患者観というようなものがあらわれていると思うし、私らだいたい医者として育っていて、医者になったばかりのときに、こういう態度はおかしいのではないかと思ったようなことは事実いろいろありました。古い時代というのはすごいんですが、教授の前で患者の問診をやるわけですが、ずらっと何十人もの教授が見ている前でやる。そういう所で教授がアハハと笑ったりするわけです。そういう時に、僕は医者になって1年目か2年目だったと思うんですが、そういう所で笑わないでくれと申し入れたことがあるのですが、当時としては、普通では言えないことで、私は言ってしまったので、その時むっとされてしまいましたけれど、そういう気になることというのは当時はものすごくあったし、だけれども僕なんかもそれに染まってしまっている可能性も大いにあるわけです。人間というのは、同じ所で同じようなことをやっていると、自分の問題ということが見えなくなってくるし、お互いの問題も何となくまあまあということになって慣れっこになってしまうこともあると思います。そんなことで、いつまでも自分としては一生勉強して直していかねばならないと思って、こういう場に出て話すことになったわけです。
 最初のご希望では、ともかく事実について知っていることをできるだけ詳しく話してくれという話もあったわけですが、そういう考え方というか、実際に行われている事実ということについていろいろ聞いていただいて、話ができれば幸いと思います。
 できるだけ質問の時間をたくさんとって、一区切りとさせてもらいます。

【質疑・討論】
(質疑・討論は、すこし要約してあります)

【社会防衛論の根拠としての精神医学】
A 学としての精神医学の契機とは何か。
吉田 社会の規範から外れたとみなされる人を取り締まったり、収容したりすることは、精神医学でなくてもできたと思う。精神医学という格好をとりはじめたのは、医学全体の発展と関係があるような気がする。そういう中で、精神面についても、医学でなければならないと思う人たちが、医者のなかに現れ始めたのだと思う。
A 精神医学の目的は社会防衛ではないか。
吉田 社会防衛に理屈を与えるという役割はあったと思う。
A 厚生省もはっきり社会防衛をうたっている。それに対応して医学があるとすれば、精神医学の契機は社会防衛だと思う。例えば、電気ショックが重度の自殺念慮をもつ人に対して効果的だと思う医者がいる。しかし、自殺しないで、彼ら、彼女らは何を得るだろうか。そのとき、見落されるものは何なのだろうか。
 ぼくも薬なしでは生きられない人間だが、精神医学の恩恵にあずかっていないとはいえない。でも、それは時間の経過によるのか、薬の効果なのかはっきりわからない。むしろ、ぼくにとっては、措置入院での電気治療や鎮静系の薬の大量投与による副作用のほうが大きい。そういうことについて見落としている精神医学とは、いったい、誰のためにあるのか。
 そういうことを医者がやるとき、その背景に、権威づけとしての精神医学があったのではないか。学者の良心や治療者の良心をこえて、医者がその範囲でしか動けない枠が作られている。
吉田 その枠はたしかに作られていると思う。
 基本的には、社会防衛としての国全体の要請が強い。ほんとうの趣旨は彼の提起のとおりだが、最初はドイツの精神医学者たちは、他の医学になぞらえて作ろうとしたと思う。だから、病理学として原因や経過、結果を整理し、分類を作りだしたのだろう。それが実際もっている意味をどの程度自覚したかはわからないが、とりあえず、日本はそのまま輸入した。
A 法務省は、保安処分=治療処分としているが、そういうことが要求できる医療、まったく社会防衛のためだけにある医療を容認する背景となった医学が、そもそも差別的だったという認識は間違っていないと思う。
吉田 法務省が保安処分をいいだしたとき、医者が診断をして行動の予測ができるといったからということがある。そこに学問の装いがあったろう、たしかに。
A はじめに吉田先生がおっしゃったのは、自分は治療をおこなう側だから、全面的には医学(医療)を否定できないということで、先生の場合には、治療をされる、あるいは学生に教えておられる内容を、まったく社会防衛的なものであり、患者の利益、意志を無視したものとはいえない、ということだったと思う。
 しかし、当該であるぼくにとっては、医学とはぼくの人生を破壊するものでしかなかった。そういうことを公然と許す根底にある医学とは何なのか。その医学の差別性はどこから生まれたのか。精神外科手術は差別の象徴としてあるが、精神療法にしても、患者の家族とか、個人史の過程に問題をみつけようとする、つまり、負の面があるから発病するとする。そこに前提として差別が内在していると思う。

【薬と差別】
A 薬についても、製薬資本による薬の開発のしかたは、医学のありようと密接な関係があると思う。
 賦活系の薬は覚せい剤程度の問題にとんでいくから危険だといわれたが、だから、鎮静系の薬は多いけれども、賦活系の薬は選択の余地は小さい。そういう偏りはどこからきているのか。
吉田 基本的には抑えるという考えかたがあるから。
B いまの向精神薬は1949年ごろからできた。他の外科とか内科とかは、薬も毎年進歩しているのではないか。精神科だけ、なぜ進歩しないのか。
吉田 はっきりいって、精神科の場合は非常にわからないことが多すぎるからだろう。
A でも、一方では鎮静系の薬は種類もたくさんあるし、一つの薬に多機能をもたせたり、臓器に対する影響を少なくしたりする装いをしながら、どんどん発達している。効能の問題はさておいて。しかし、賦活系の薬は発達させようとしていない。
 いまの医学は、抑えることだけ一方的にしようとしている。極端なものが精神外科手術だ。そこに、いまの精神医学の体質が集約的に現れている。患者の利益を無視して、社会防衛のために患者を抑え込むものと把握して間違いないと思う。
吉田 実際そういわれても、しかたがないことがあると思う。
C 吉田先生は、何を目的に精神医学に携わっておられるか。
吉田 患者が自分の力で治るのを、一緒に考えたりしながら手伝えかどうかということで、何かやろうという主観的な目的はある。しかし、ちゃんとやれているかどうかが、かんたんにいえないのだと思っている。おこがましいことかもしれないが、私がやらなければ他の人がいるわけで、いろんな想いがある。医者になって選ぶときは、それほど深い思慮があったわけではない。よく知らないでなったという面はある。
C そこでいう"治る"ということは、どういうことか。
吉田 それも大きな問題だ。基本的には、本人が治ったと感じることだと思う。社会からみると、そうではないというようなことは当然あると思う。大きな問題だ。
D いまの精神衛生法でも、運用を、たとえば、医者や看護婦とかの数をきちんとさせたりすれば、病院が極端に儲けるということはありえないと思うが。
吉田 現実は、いまの精神病院は極端に儲けているところがある。
それに対していろいろなチェックもできていない。
A 意図的につくりだされた医学というものが、なんのために生まれてきたか、そこに、はっきりと社会防衛というものを、ぼくは見る。社会防衛の要請のなかで、閉じ込めておいたと。それは病気とみたからはじまったといった問題もあるとは思う。
 しかし、それを抜きにすると、薬にしても効いたかどうかわからない。電気ショックにしても、蓄積がないからかえって人権的ではないかといわれ、かりにそれがほんとうだとしても、逆に、蓄積がないだけ、ESはロボトミーに近いともいえる。そういう極端なことがへいきでできる医療の背景にある医学というものは、「精神病者」の人権を考慮しているとは思えない。先ほどいったとおり、完全な客観性はほとんどない、主観的であって、しかも、社会防衛の走狗であった歴史に見合ったものであり、現在的にそうである。
 実際に、どんどん薬を飲みながら倒れていくという現状のままでは、はっきりいって、ぼくは医者にメシを喰ってほしくない。医者は、自分達の受けた教育を基本から問い直してほしい、現場から。
いまの日本の医者は、百九十万人の「病者」を、みんなこやしにして太っている。
 実体面で述べたが、そういう意味でまったく主観的で、目的性として、はじめから、社会防衛ということがあって、そこで、おれたちには、なにがあるのか。そこをはっきりすると、もう精神医学はないほうがいい、とはっきりいってもいいと思う。今のままだったら。
 そういう特徴の凝縮性が精神外科手術だろうと、ぼくは思う。その性質が極端な形で表れていると、いちばんはっきり分かるから。
また、効果が確かめられない。チングレクトミーやられて、人を殺した人もいる。抗うつ剤を飲みながら自殺した人もいる。思考の混乱を訴えているのに、賦活系どころか鎮静系の薬を大量投与される場合だってある。もっとも、鎮静系の薬も適切量使えば、賦活作用があるといわれる薬もあるそうだが。

【精神科と医学教育】
A まずもって診断のことも触れ、病名の問題も触れたが、病名なんかはじめ、まず、精神科医がはじめに感じるのは、学校で習ったことが何の役にも立たない。そこから、完全に医者の恣意性がはじまる。そういう医者の恣意性すら枠組みできないなんて、学問といえるのだろうか。
 だいたい、精神科医の教育なんて、おまえら人権侵害やってもいい、ということだけのことではないだろうか、はっきりいって。精神医学は、そういう質しか持っていない。わたし、自分の体験からいっても、それ以上の質を持っているなんて思えない。
かつて、精神病は治らないといわれ、教科書にもそう書いてあったが、それは「精神障害者」に対する差別であると考えられるようにもなってきた。"治る"という表現自体については、もっと厳密な考察が必要だが、精神医療の現場では、旧態のままの考えは少なくない。
 ここに、一人の患者が「先生、頭が働かないんです」、「気分が落ち込んで暗いんです」と訴えるとき、ほんとに応えきることがあるのだろうか。一方では患者の訴えとはかかわりなく、はい注射を打って、はい電気ショック、治らん、ではロボトミーだ。三分の一は手術の失敗で死に、三分の一は「廃人」になり、三分の一は自殺する。
 学として、精神医学は別なところでポコッとあるもんじゃない。
歴史的な流れや、目的の中であるものだ。ぼくは、精神医学の持っている、そういう基本的な差別性を、具体的に、薬の開発のしかたや治療法の流れ、精神外科手術、電気ショック、科学療法を通じ、あるいは、さらに人間関係の中で治すっていういわゆる精神療法も貫き通して、はっきりと差別性を明確にしたかった。
吉田 なるほど。なかなかの大事業だ。
A それできたら、こんどは"学"になる。

【なにが精神医学の原点か】
A わたしは記憶障害で、記銘力が減退して脈絡がないけど、結局いいたかったことは、精神医療、精神医学の差別性なのだ。ある意味じゃ、おれに治るかもしれないと幻想を抱かせるだけ、精神医療にも意義があるのかもしれない。しかし、治ったとしても、時間の経過で治ったんだか、薬が効いたんだか分からない。ぼくの本態的な病気がどこまでで、後遺症がどこまでなのか、分からない。そういうゴッタゴッタしたところで開発するのが今の医学だが、こんなもの、何なんだろうか、いったい。もう一度、はじめから問い直す必要があるんじゃないだろうか。
 社会防衛の使命を与えてしまったものを、患者の利害を先にするという原点、医療本来の原点に立ち返らせれば、絶対、精神外科手術なんて出てこないはずだ。どう考えても出てこない、患者の利害に立ちきれば。
 精神外科手術にしても、技術的には洗練されてきたというが、ぼくにいわせれば、精神医学っていうものは、そういうものを考えだすのが必然的なことだ。始めたときの方向が、そこにいく質を持っているから。そのままいくと、ますます精神外科手術も洗練されていくだろうし、一方で、手術で新しく脳のこの部分を壊したほうがいいんだという医者も出てくる。どこに患者の利害があるのか。どこに。
 先生は、治療には自分たちに課せられた範囲があるとおっしゃったが、基本的にその人はやっぱり社会に迷惑をかけるのではないかということが、頭の片隅につねにあるのではないか。
 その人の利益になるとは、もしも、その人に薬をやったら活発になりすぎると、もし、これで突っ走ったらどうしようと、考えるかもしれないけれど、暴力的な行為は刑法で取り締まったらいい。はやい話。ほんとに困ってそういう行為をするのだから。
 なぜ、その人が暴力的になるのかということは考えない。きわめて表面的にしか見ない。その基底にあるものを見ようとしない。そういう態度を医者に植え付けたものが、精神医学という名のもとに行われた教育なのじゃないのか。あるいは、精神病院のなかで行われてきた実習のなかにあるんじゃないのか。
 本来は、ファシズムとか、社会体制から問題にしなくちゃならないが、そこは、それなりに、問題がでかすぎる。また、精神医学はアカデミズムのなかに埋没すべきだとも思わない。ここでは、精神医学の持つ差別性をはっきりさせようというのを、中心的なテーマにしたいと思っている。
吉田 まさに、そういう問題意識がないか、あるいは、そういう問題意義を抑圧してるか、無視してるか、そういったところで教育がなされている。それで、いまの流れは、むしろ、やっぱり、内科とか、体の医学になるべく近づこうというふうな願いを持っている。
あなたのいっているような問題は、あまり教えていない。
A いきなり内科にいったが、内科では、たとえば、ストレスがたまって胃潰瘍になるといった症状について総体的に対応しようとしてきた。それにひきかえ、「精神障害者」が社会から排除されてきたところを、日本の精神医学はどうしようと考えてきたのか。社会のなかで生きている情況のなかで、把握できるのか。
 開放医療はすすんでいるけど、実際、開放医療が始まったのは、ここ数十年来のことだし、精神科の場合はほとんど拘禁性のなかの観察だ。それをもって、どうやってその人の利害にたって、内科や外科に近づこうなんてできるのか。
吉田 内科で病気を診たり、説明したりする。胃潰瘍だったらストレスが・・・・・と。そういうことで、精神医学のこともやろうというふうな主観的な願望で、大学の教授は学生に精神医学を教えている。
A ぼくはそう思わない。ほかの人たちは宇都宮病院で何をやったか、聞きたい。そういうふうに主観的に、内科や外科に近づけられると思っている医者たちが、宇都宮病院で何やったか・・・・・・・・・。
吉田 それは誤解だ。ぼくは内科や外科に近づくことをを評価しているんじゃなく、内科や外科に近づけようとしているといっている意味が、それだから、問題を見えなくしているのだといっている。

【診断基準の画一化】
E それに関連してわたし自身がいちばん恐ろしいと思うことの一つだが、参議院の社会労働委員会で、社会党の委員が精神衛生実態調査では手ぬるいと、精神疫学をやれと発言している。その前提は診断基準統一化だと思う。そうなってくると、つまり、疫学的な調査だという客観的な装いを持たせて、いわば精神疾患を撲滅するんだということを声高にいうっていうのは、前提として診断基準だとか、そういうものが画一化されていて、だれが見ても同じような診察結果が出る、そういうものが前提になければできないことは、かれら自身分かっているから、実際、そういう診断基準の研究やっている人がいると思う。そういう人たちが、先生がおっしゃった内科や外科のレベルに近づけようとしているのだろう。
 吉田先生のほうから、そういう人たちは、わたしたちとはあまり親しくないと、たしかに表現されたたが、そういうお医者さんがたがやっている診断基準の規格化とかいう問題について、最近の傾向と、どういう方向にかれらが向かおうとしているのか、ちょっと、すこし詳しく話していただきたい。
吉田 精神疫学というよりは、公衆衛生に関係してくるだろう。公衆衛生学とかいう分野がある。そういう人たちが乗り出してきているんじゃないかという感じはする、日本では。それこそ、学問としては、かなり前提が問題な感じはする。いくら基準、基準といったところで、結局、本質的なところでは規格化できないんじゃないかと思う。ただ形だけを整えてやりました、というふうにいうのではないか。で、お互い同士がそれを認めあう、疫学者と公衆衛生学者がこれでいいんだ、前提や本質に問題があっても、とにかくやればいいんだといっているのだと思う。
 それでまさに、そのことが、やはり社会防衛のために使われちゃうんじゃないかということが強いと思う。
A 使われるんじゃないかというより、歴史的にそういう使命しか負ってないから、やってこなかったではないか。
吉田 そういう疫学のような領域に乗り出してきたのは、最近のことだ。
E ある意味では。もっと具体的な話になると思うが、アメリカでいま出ている診断基準のいちばん新しいマニュアルDSM3のようなものは、日本で歓迎されるような傾向はやっぱりあるのか。
吉田 かなり歓迎というか、すごく注目されて、翻訳が出たりしていることは事実だ。
E そうすると、やっぱり、それはいわゆる一種の客観性みたいなものを与えて、社会防衛的な、患者の利益を無視した本質というのを、逆に隠蔽するような傾向を持っている。国際的な診断基準の規格化というのは、ある意味では一国的ではなくて、国際的に通用しちゃう恐ろしさがあると思う。アメリカで使われたものが、日本で翻訳されて歓迎されるという情況が、もし、あるとするならば。
吉田 国際的というと、WHOの疾病分類もある。ただ、アメリカのDSMが今後どのくらい人びとに受けいれられるかは、まだよく分からない。
 わたしがいったように、とにかく、そういうことによって基準を設け、お互いに共通のものなんだと自ら認めて、何かをやろうと、そういうパターンはある。
F お話は非常に多方面にわたって、しかもそれが全部関連しているが、もういっぺん薬のところに戻りたい。薬は厚生省が認めると使用できるが、あれは、分子レヴェルではどういう作用があるか。
そういうのは、どこかでだれかが確かめたことがあるのか。
吉田 薬を使った結果のほうなのか。薬が世にでるまでの段取りではなくて。
F そう。遺伝子への影響だとか。
吉田 それは、もう、極めて型にはまった予備実験だけだ。いまのところは、まだ。
 やっぱり、段取りのところに戻るが、薬を、薬理学とかなんとかいっていろいろ調べる時にチェックしているくらいだと思う。だから、臨床的には、もちろん、やっていないことはないだろうが十分やられてない段階だ。
F 何世代かたった後で、どういう影響が出てくるかといったことまで含めて調べる必要があると思う。
吉田 そう。それは大きな問題だが、いろんなファクターがあるだろうから、かなり判断がたいへんだ
F だから、そこらへんをだれもいままで調べてこなかったのじゃないのかということも、気になっている。
 さっきからA君が提起している問題だが、要するに、精神医学そのものが、いわば差別の理論づけだという構造になっているんじゃないか、逆に、もし、そうじゃないということになれば、だれもが病院にいくことに対して抵抗感がなくなってくるだろうと思う、逆の情況だったら。だれもが抵抗感がなくなってくるということだったら、それだけで救われる人たちが、どのくらいいるかわからないということが、一つ考えられる。
 そういうなかで、基本的には、さっきからのお話のなかで、対症療法としてこうこうなんだというお話のところは、しかも、いろんな見解があるんだということまで含めて、お伺いしたわけだが、その上で、いまいったような基本的な構造があるんじゃないか、そして、たとえば、電パチなら電パチについて、どれだけ問題意識を深めるか、その後、どういうふうに運動を開始できるかといった問題が出されていると思う。それは、もう一つ、厚生省の治療指針までいくべきだと思う。
 治療指針のなかに、精神外科手術も電気ショックも残っている。
残しているということは、いったい、どういうことなのか。それを外させるには、いったい、どういう運動をすればよいのか。ぼくらは、良心的な精神科医とともに、そういう運動を全面的に展開していく必要があるんじゃないかと考えている。
 それで、薬のことも、運動との関連のところからも、もう一度、問題にしていかなければいけないんじゃないかと思う。もともと、バルビタール系の薬は、アメリカ軍が第二次大戦で開発し、自白剤に使われていたものだ。そういうことを含めて、どういう状況のもとで、どういうふうに使われてきたのか、それが、たまたま結果的に有効だっていうことだからこういうふうに利用された、というだけではすまされない問題があるんじゃないか、と考えられる。
吉田 治療指針のことだが、精神外科を削れということを、われわれが厚生省にいいにいったことがある、何年か前。そしたら、そのときの言い分は、あれは保険の点数を出すということだけのためにあるんで、積極的な指導じゃないという。だが、やっぱり公認してるわけだろう。そういってせまった。そしたら、こんどは、保健局にいけとかいうことで逃げた。精神衛生課、いまの精神保健課は。
 そういっていたと思ったら、一時、ある本で精神外科は削除と書いてあった。で、これは削って成功したと思ったら、じつは、やっぱり、削ってないみたいだ。どうも、そのへん、われわれもねばりが足りないけど、あれは古い時代の治療指針で、内容も古いので、何年も改定していない。逆にいえば、変なものなのだ。

【妄想だけ抑える薬はない】
A 吉田先生に不愉快なないいいかたかもしれないが、さっき、患者が社会で問題を起こさないだろうかと、「かすめる」といわれた。
それこそ、まさにいまの精神医学が教えているものではないか。
吉田 よくわかる、いっていることは。ただ、わたしがわたしなりに「かすめる」といっている意味はあるが。
A ぼくはいまの精神医学が教えていることは、「精神障害者」と断定され、ラベリングされた人はバランス社会に対応しない、だから押さえ込め、患者の利害は度外視せよということだろうと思う。
 たとえば、ギブスで足を固定して曲がらなくなっても、リハビリで一定程度は治る。脳にメスを入れて戻るか。電パチで破壊して戻るのか。そういう非可逆的なことを、一方で薬が治すのかどうかも分からない状況の中で、医学の体系の中で治療体系として組み込んでいる。その人が社会に迷惑をかけるんじゃないか、そのことで、かえってその人が苦しむのじゃないかとか、そういういいかたは言い逃れだ。
 そもそも患者がだれかに対して迷惑をかけるから治療するんだ、という発想そのものが間違っている。だれに迷惑をかけようと勝手なのだ、はっきりいって。その人は刑罰を受ければよい、極端にいえば。いまの社会を前提にするならば。
 わたしはこういう症状で、わたしは治療を受けたいんです、わたしはこういうことで苦しいんです。それだけに応えるのが医者の務めではないか。それ以上のことをいっちゃいけないし、やっちゃいけないし、やろうともしちゃいけない、考えてもいけないのが、医者の立場じゃないのか。胃が悪いんですっていって、健康な臓器までとってしまう医者はいないだろう。
 妄想といっても、妄想だけ抑える薬なんてないという。妄想も一つの着想だっていわれたこともある。妄想を抑えれば、全体的にその人にディプレスがある。ディプレスした患者をどうしろと、いまの医学は教えているか。拘禁しろと教えている。三十数年間拘禁され続けて社会に戻れるのか。三十数年間、鎮静系の薬を飲んで抑えられて、その上に拘禁しろと書いてある指示通りに拘禁されて、社会に迷惑かけないようにとされて、何があるのか、その患者にとって、いったい。
 ぼくは、同じことを言葉を変えて言っているだけのことだが。
G 医者のいう通り、薬飲んでたら、とても仕事なんかできない。
吉田 そういうところが大きな問題だと思う、たしかに。いう通り飲めないということがあるから。
H 遅れてきた人がだいぶ多いんで、ちょっと説明しますか。
A 実態面とかいう面があるが、ぼくたち問題にしたかったのは、医学そのものの差別性を、具体的に薬の開発や治療のありかた、いまのたとえば、問診のしかた、あるいは、具体的なそういう医療現場でどういうことがなされようとしているかということだ。医学の内容と歴史的な方向性と、現在的にどうなっているのかという具体的な形で現れてこないもの。
 簡単なことだ、差別的だっていうのは。しかし、やっぱり、説得性もたせるのには、具体性がなければダメなのだ。一応、さきに触れているが、いまの精神医学は社会防衛のためということを背負っている。わたしはもう、それで十分いい伝えているといいたいのだが、ほかの人を理解させるためにはどうしたらいいのかということを、吉田先生にお伺いしている。

【治療指針をめぐって】
H 治療指針の話で、もう一回戻してほしいが、やっぱり、外さない理由というのがあるのか。それは、もちろん厚生省は公にはいわないかも知れないけど。公にはいわないけど、おそらく、こういうことじゃないかとかいうふうに、吉田先生は考えておられることがあると思うが。
吉田 まったくの推測としては、やっぱり、外国なんかで一応やっているから、残しておこうというふうな考えはあると思う。治療指針としていらない、というところだけについていえば。
 ただ、あの指針に、すこし考えても、どうなのかなという疑問はある。それだったら、毎年改定したりするかもしれない。ふつうに考えるとするなら。
H それで、当然だと思う。
吉田 なぜしないかというあたりが、問題なのだ。
F 毎年改定しないというのは治療指針だけじゃない。
 たとえば、こんど、精神保健法についての政省令ができるわけだが、あの政省令のなかみが二〇年以上も前に出た通達類の書き直しだ。基準やなんか含めて、なかみはほとんど変わっていない。
 なによりも、宇都宮病院みたいな病院は、外国ではおそらく存続できないだろうといわれる。日本だったら、まだ五〇〇人も患者がいる。しかも、いまだに外に電話もかけられない状態にある。なにも変わっていない。
 そういうようなことを具体的にどういうふうに問題にしていくのかということがあるわけだが、その前に、医学そのものが、いったいどういうことなのか、さっきからいろいろと出されたように、治るというのがどういうことなのか、そういうことを含めて、もう一ぺん整理しておく必要があるんじゃないかと思う。
A はっきりいって、わたしが、もしも、ここでいまの精神医学そのものが個別的であると、医者はここまでしか動けないんだといわれたら、逆にいえば、いまの医者を免罪することになるだろう。
吉田 わたしのいいかたは、ただ動けないといっているんじゃなくて、枠にはまっているという自覚があるということだ。はめられている面があるという・・・・・・。
A 吉田先生はそうお感じになる。しかし、全然対象化できていない医者のほうが多い。
吉田 わたし、かっこうよく、わたしの立場が他の医者と全然違うとはいっていない。
A 吉田先生は、がんばっておられると思う。精神外科手術の問題も、脳死の問題もがんばっていらっしゃる。
 しかし、いまの精神医療は許せない。その医療を、そういう非常に言い逃れ的に話されたのは、やっぱり、問題だと思う。基本的にいまの医療にできることは、社会防衛でしかないとはっきりいってよい。

【「治療」による後遺症】
A わたしの場合、後遺症が残っている。ほとんどが後遺症だといわれている。医療過誤です、医療被害です、と主治医からいわれている。記憶障害、逆行性健忘、思考障害、離人症、セネストパティー・・・・・・、いままた、セネストパティーをもっているけど、それで、異種の感覚があって、つらかった。生理的に苦痛だった。それが出たのは、全部、電パチと、鎮静系の薬を大量投与されたあとだ。はじめから脳機能を破壊しておいて、さあこれから復活させましょうという。破壊してしまっておいて、慢性化してほっとけないから社会復帰ですと。いきなりそれを、思考力や集中力や感情を奪われている患者に、ものを作らせたり、あるいは、作業をさせたりして、何やろうとするのか、いったい。
 なにより、ぼくがいいたいのは、電パチ以降、生命感がまったくないということだ。自分は生きているという自覚が、まったくなくなってしまっている。自分という、生きているという、自覚がないから、他人に対して自分が存在しているという意識が吹っ飛んでいる。自分がどこにもない。そういう情況にいったん追い込んでおいて、こんど、同じ医療が同じやりかたで取り戻そうとする。こんな陳腐な話があるだろうか。
 やはり、どこの大学が生物学派で、どこの大学が社会学派で、どこの大学が折衷派でなんて色分けはできない。だけど、共通項はあると思う。共通項をきいてほしかったわけだ。
 だから、吉田先生はどういう意味でおっしゃったかわからないけど、医者が納得いかないで、患者に対し社会に迷惑かけるんじゃないかと「かすめる」と。そのことを、いまの医学が教えていることの全部だといってよいと思う。あと、具体的に何ができるかということについては、先生自身、薬が効果あるかどうかわからない、電パチなんて効果あるかどうかわからない。精神外科手術に関していえば、はっきりいって、統計的にもだいたい三分の一は手術の失敗で死んで、三分の一は自殺して、三分の一は「廃人」。そういうように、わたし以上に生命感も感じられなくなり、神経中枢を浸されたり、あるいは、生命活動が衰えたり、どうにもなんないというなかで呻吟する。
 一方で知能が衰えていないんだっていういいかたもするが、知能を抑えないなんて、何を根拠にいうのだろうか、いったい。知能って、いったい何なのか。そういうことを考慮したことあるのか、いままで。精神外科手術、先生の主張によると、精神外科手術は批判的なことでやめる方向に向かう、より洗練すれば、よい方向に向かうといわれた。なぜ、洗練すればよい方向に向かうのか。

【原因と治療】
I 「精神病」というもの、あるいはそういう状態に対する治療や診断があるからには、原因があると思う。いくつか挙げてほしい。
吉田 最初、目を向けたのは感染症で精神症状が出る場合。それがぼくのほんとうの専門。それは少なくともやらなきゃいけないと思う。ほかには、よくわからないほうが多い。正直いって、かんたんに分かるとはいえない。
A よく分かっていないのに、症状があるから対処せざるをえないのが精神科の問題。なんのためにそういう対処をするのか。それは社会を守る側からなのか、それとも本人のためによい症状にもっていくためなのか。いま、厚生省などは社会防衛の観点でやっているが、そういう中で、患者のための治療をやる余地があるのか。
吉田 「ためになる」ということが問題になってくると思う。
A わたしが「ためになる」ということを、あえてわたしの問題意識で問題にすると、疎外状況についてとなる。ぼくだって自分の症状が物理的、科学的な力で押し切られたものもあるし、本態的なこともある。やっぱり、それで「病者」が拘束されている。それを、人間の本来の姿から離れたという意味で疎外といえば、疎外状況の克服が、精神科が求めなくてはならないものではないだろうか。
吉田 余地があるかという話については、やっぱり、かなり限定された相対的な問題だろうと思う。余地が100%あるとか楽観的にはいえない。でも、全然ないといってしまったんでは、何の努力もしなくなっては、やっぱり問題だ。
A わたしも、それは分かる。でも、一五年もたってみれば、薬のせいか時間のせいかは分からない。薬だったら効くはずだ。一五年続いてとれない症状とは何なのか。これは薬なのか。はじめから、医者はぼくになにもしなければよかった。
J ぼくはリハビリテーションの施設で働いている。リハビリテーションは、純粋に社会のためという観点で生まれてきている。「社会復帰」は患者に負担になる。「五体満足」に合わせていかなくてはならない不安。ぼくはそういう社会を「障害者」に合わせていくことが自然だと思う。「精神障害者」を「治す」、社会に合わせていこうととするように、「治療」が行われているんじゃないか。
吉田 ご指摘の点だけは、少なくとも分かる、といえるつもりだ。
A ぼくは何が原因か分からない。その後にいろんなことをやられている。電パチとか、三分の二は全く正反対のことをやられた。
 ぼくは治療可能性を信じざるをえない。可能性ない状態で落ち込んだら死ぬだろう、はっきりいって。医者はいえない。何のためにやっているのか分からない、だが、やってみなくちゃ分からない。
こういういいかたしかできない。治ったといっても、薬の効果なのか、時間の経過によるのか、確認できない。そういう意味じゃ、はじめから何もせずに野ばなしにしておいたら、その人は別の形で落ち着いたかもしれない。
 それでも、残る問題もある。ぼくは、いま、本も読めない。
吉田 さっきの話の中で、社会のほうを合わせさせるということが出た。そこのところだが、いままでは、個人のほうに問題を返していく傾向が非常に強い。
A そういう社会防衛的な発想ばかりを見ているから駄目だ。それとまた別に、たとえば、集中困難なんて症状は、作られたものかも本態的なものかもしれないが、あるわけだ。そういうニーズにどう応えるのか。
C はっきりいって、「障害者」という概念は、「健常者」が作ったものだと思う。個性のある人間がこの世の中にいてもいいじゃないか、個性だよ、一つの。
A 個性じゃない。具体的な、生理的な苦痛だ。セネストパティーをとってみても・・・・・・。そんなふうにばかりとるのは間違いだ。「病者」は苦しんでいる、困っているのだ、具体的に。「病者」の症状を抽象的にいうのは、やめてほしい。

【病者のニーズにこたえるとは】
D さっき、集中困難とか具体的なニーズにどう応えられるのか、といった質問があったが。
吉田 どう応えるか、というと。
A 要するに、集中困難な状態がなくなるか、と。
吉田 成功していないから。
A 成功していないから、というわけじゃない。そもそも、そういう質をもっていないからだ。精神医学というものは、はじめのモチヴェーションがそもそも社会防衛だったから、そういう質を含まない。客観的な流れはあっても、消えてしまう。周辺にうろうろしている者はいるが、大きな流れの中で、小さなものだ。
 脳の機能そのものが分かっていないなかで、鎮静系の薬は多様化し、洗練されてくる、一方、賦活系の薬は選択肢が少ない。そういう偏りはどこからくるのか。差別としかいいようがない。製薬会社は資本の利害だけで動いているとしても、資本の利害で動くからには、そう要求するものがあるからだろう。行政なり、医療福祉、そういうかたちで学問が研究され、薬も開発されるのではないか。
 ぼくは、十五年間苦しんできたが、生命感の問題一つあげても、措置入院され、電パチやられ、鎮静系の薬やられるまで、躍動するような生命感があった。湧き上がっていた。それが全部壊された。
 後から、治療可能性があるから、という形で治療を続けている。信じるほかない。でなければ死ぬしかないから。
 ある程度、治った。一五年かかって。繰り返しになるが、薬のせいか、時間のせいか分からない。治ったかどうか、拘禁しながらの観察だし、薬を飲ませながらの観察だし。
 薬についてだが、よい薬ができたと聞いている。もともと十二指腸の薬だったそうだが、賦活系と鎮静系の二つの作用をもつから有効だ、便利な薬だと使われている。最近、慶応大学で80の症例を調べて、セネストパティーに有効だったと報告されている。いまの精神医療の流れからいって、それはかなり異端だと思う。しかし、ほんとうは、それが大筋にならなければならない。楽観的にいうなら、こんな薬も開発されたのか、ここまで来たのか、という感じもある。セネストパティーに効いた、治せるんだな、と。
 しかし、それにしても、時間がかかりすぎる。ぼくの場合は、また、繰り返しになるが、精神科がなかったほうがよかった。はじめから、ほったらかしにしてほしかった。
K おれもそうだ。家族にしくまれて強制的にぶち込まれ、いきなり電気ショックやられ、それでその病院を信用できなかった。で、薬飲まなかった、うまくごまかして。あるとき、看護婦長がにらみつけ、薬を飲ませた。しかたがないから飲んだが、吐き戻した。それから暴れ出したくなった。猛烈な抗うつ剤をもりこんだと主治医はいっていた。看護婦も看護士も、看護人も、おれが薬を飲んでいるなら、ノーマルでいるというのは不思議でならなかった。ほんとうに薬飲んでいるんですかって何回も聞かれ、はい飲んでますよって。それでノーマルで通した。
A おれは、もとに戻ることより諦めだった。諦めるのに一五年かかるのだったら、なにもされないほうがよかった。少なくとも、生命感と、子供のころのたいせつな想い出は、なくならなかっただろう。奪われたのだ、そういう記憶を。絵葉書のような風景を思い出すことはあっても、それに伴う情緒や想い出はない。精神医療が存在せず、一五年間ほったらかしにしてくれれば、子供のころの想い出と躍動する生命感は保持していたかも。
C 精神医療によって、治ったということはないのか。
吉田 "治った"という意味が問題になるが。
A 疎外状況からの克服だ。
吉田 いろんな意味あいが入る。そこは。
E 向精神薬はざらにあると思うが、後遺症が残らないということは、チェックされるのか。
吉田 厳密に、といわれると難しい。薬のことは、精神科にかぎらない。
E たとえば、覚せい剤にはアンフェタミンとメタアンフェタミンがあり、日本で主に使われているのはメタアンフェタミンだが、覚せい剤の場合は、何人かの人たちには後遺症が残る。向精神薬の場合、後遺症が出るかどうかチェックされないか。
吉田 いわゆる副作用は残ることがありうる、と思っている。だから、チェックといっても、相対的に、ということだ。何回チェックしても、やっぱり、あとで分かる場合もある。だから、ある範囲の手続きでやっているのだろう、現実は。厳密なものではない、必ずしも。すべての薬について、ぜひ調べたほうがよいと思う。
A わたしのセネストパティーの苦しさ、いま脳の機能が麻痺しているという状態の苦しさは、別のことによっている。薬が自分にあうかどうか分からないのに、あれこれ押しつけられた。あとになって、主治医から、はじめの「治療」は医療過誤、医療被害だといわれた。少なくとも、五つか六つの症状は、措置入院によってつくられている。
(ここで、吉田先生は、時間切れのため、再度の討論を約束されて帰られました。)


発 行 精神衛生法撤廃全国連絡会議
連絡先 東京都港区新橋2−8−16 石田ビル4階 救援連絡センター気付


*作成:桐原 尚之
UP: 20110315 REV:20110731
吉田 哲雄  ◇精神障害/精神医療  ◇精神外科:ロボトミー  ◇反保安処分闘争  ◇全文掲載 
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