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刑法―保安処分国会上程阻止5・28 法制審答申弾劾集会

5・28集会実行委員会 19830528


基調
 日帝の戦争へ向けた攻撃が強まる中、中曽根政権が登場し、軍拡・改憲などの攻撃を激代させています。中曽根政権は発足後、すぐに全斗煥、レーガンと会談を行い、「日米運命共同体」「日本列島を不沈空母に」と宣言し、そして現在日米安保体制の中、核戦艦ニュージャージー、カールビンソンの日本寄港を画策しています。
 このような攻撃の中で、「障害者」に対しては、差別・抹殺の攻撃が更に激化し、そして刑法全面改悪―保安処分新設攻撃が、なによりも決定的に強められています。日帝・法務省は、次期通常国会の最重要法案として、なんとしても成立を狙っています。

1 刑法全面改悪―保安処分新設の攻撃
 法務省の国会上程に向けてこの間15回にわたる意見交換会を強行し、日弁連を屈服・加担させてきました。そして第15回意見交換会(4月20日)において、法務省は、今秋成案公表―次期通常国会上程という手順を明らかにし、「病者」「障害者」の怒りの声を圧殺した許し難い攻撃をかけてきています。
@改悪案の恐るべき内容
(イ)保安処分
 第14回意見交換会において、法務省は、a保安処分対象者を「心神喪失者」及び「心神耗弱者」と定め、b施設を法務省直轄の精神病院(保安施設)と決定し具体的準備にはいっています。
 保安処分は、社会防衛≠フ名の下に「精神障害者」と、権力と斗う人民、全てを抹殺しようとするものです。
(ロ)人民の斗いを根こそぎ圧殺する新設弾圧条項
 法務省がこの間明らかにしている改悪内容は、「改正刑法草案」(74年)に基づくもので、これは太平洋戦争前夜の一九四〇年「改正刑法仮案」を下敷きとしています。
 改悪に伴う新設規定として、国外犯規定、共謀共同正犯規定、騒動予備罪、準恐喝、集団反抗罪などがあり、一切の人民の斗いを圧殺しようとしています。
A差別キャンペーン
 「危険な『障害者』から社会を守れ」という社会防衛思想をふりまき、「精神障害者」への差別を強化しています。
 週刊新潮、「保安処分に反対する市民の敵は敵」などと言いたてています。
B刑法改悪の推進者に転落した日弁連
(イ)保安処分思想に屈服―要綱案・野田レポート等
(ロ)現代用語化委員会試案を対置することによって刑法改悪の本質を隠蔽しています。
(ハ)名古屋弁護士会・日弁連は、「病者」「障害者」を先頭に斗い抜かれた82・12・5名古屋パネル粉砕斗争に対して告発をもって敵対・弾圧している。
C「病者」「障害者」を先頭に意見交換会粉砕斗争を軸にして斗い抜いてきた五者実の陣形を拡大・強化し、次期通常国会上程を阻止しよう。

2 拘禁二法強行成立阻止
 法務・地方行政2つの委員会は、連休明けから拘禁二法についての審議を進めています。平行して、日弁連とは意見交換会を重ねています。日弁連は、未決処遇と既決処遇を区別し、「既決処遇、受刑者は犯罪者≠セから人権は制限される」と述べ、許し難い拘禁二法攻撃への屈服を明らかにしています。
 私達は、楽観を許さず、今国会強行成立の策動を粉砕しましょう。
@拘禁二法の攻撃は、「強制医療」の名の下に「障害者」や獄中斗争を斗う人民を抹殺し、A武器使用を許された武装看守が獄中獄外を貫く連帯斗争を押し潰し、B更に、死刑確定者を他の受刑者から切断し、抹殺攻撃を強め、C留置施設法においては、デッチ上げの温床としての代用監獄(拷問部屋)の法制代を狙ったものです。
 そして私達は、この監獄二法の先取り攻撃が激化している現実と、はっきりと対決して、斗わなければなりません。
(イ) 八王子刑務所における高尾さん虐殺、三重刑務所の集団感染3人の怪死
(ロ) 土・日・P、総官公社事件での無罪は、権力のデッチ上げと拷問を暴露しています。
(ハ) 76年大拘は鈴木国男君を虐殺し、「拘置所には、医療義務はない」と居直りをつづけてきました。これに対し、5月20日、国賠訴訟判決で、大拘の過失を認めさせ、斗いに勝利しています。

3 「病者」「障害者」への日常的弾圧
@「精神衛生実態調査」阻止
 日帝・厚生省は、今秋10月「精神障害者」の実態調査の実施を表明しました。
すでに2月16日、全国精神衛生課主管課長会議において、三、四三五万円の予算が計上されています。
 「実調」は、「精神障害者」の人権を踏みにじり、地域における差別・隔離、抹殺強化を狙うものです。又、刑法改悪―保安処分新設の動きと合わせて考える時、保安処分の、基本台帳作りを狙うものに他なりません。
 73年の実調を粉砕した地平を継承し弾圧阻止しましょう。
A優生保護法改「正」攻撃
 刑法攻撃と軌を一にして、優生保護法改「正」の攻撃が激化しています。そもそも優生保護法は、「血族の絆血」とその為の「障害者」抹殺を宣言した一九三四年「民族優生保護法」―四〇年「国民優生法」を戦後に引きついだものであり、現在、それに母性保護と経済理由を加えたものにすぎないのです。
 「障害者」抹殺思想に貫かれた優生保護法そのものと改「正」策動を粉砕しよう。
B「障害者」差別・抹殺攻撃
 「日本安楽死協会」は、「安楽死」法制化への署名を展開し、その署名をもとに、議員立法としての提出を狙っています。
 富山市においては、「障害者」解放の斗いを「集団的威圧行為」とし、全国の都市にその対策案を求めるという弾圧を行っています。
 さらに、天皇植樹祭等に伴う「精神障害者」弾圧が激化しています。5月22日の石川天皇植樹祭に際しても、権力は、斗う「精神障害者」を徹底的にはりこみ、尾行し、差別をあおりたてるという許し難い弾圧を打ち下しています。
 「障害者」との団結を打ち固め、金井康治君の就学斗争に勝利した地平を踏え、「障害者」差別・抹殺攻撃を粉砕しよう。

4 赤堀斗争
 5月24日、無実の「精神障害者」赤堀政夫氏に対して、東京高裁・鬼塚による一審取り消し、静岡地裁差し戻しが決定しました。
 この決定は、何よりも獄中29年にのぼる赤堀氏の斗いと、それに連帯して斗い抜いた「障害者」解放斗争がかちとった地平に他なりません。
 しかしながら、100%無実の赤堀さんに対して、77年3・11第四次再審請求棄却に対する抗告から6年、あまりにも遅すぎた差し戻し決定であり、かつ再審開始決定がなされなかったことに怒りを禁じ得ません。 
 赤堀さんは、5月24日をもって、デッチ上げ不当逮捕から獄中30年めの斗いに突入しました。獄中の赤堀氏へは、監獄二法の先取り攻撃として、面会、文通の制限やパネルヒーター設置要求等に対する圧殺攻撃がかけられています。
 また宮刑は、「精神障害者」への差別、抹殺攻撃をより強めています。
 私達は、差し戻し決定は出されたものの、東京高検による「特別抗告」が充分に考えられ、楽観は許されません。
 私達は、獄中の赤堀さんと更に固く連帯し、静岡地裁に対して、再審開始をかちとる斗いを推し進めていかなければなりません。
 「障害者」解放斗争の一切をかけて、赤堀氏を奪還しよう。

人間への攻撃
【中学生による日雇労働者襲撃をうみだすもの】
 一九八三年二月十二日、中学生を中心としたグループに、横浜市内の公園や地下街・横浜球場スタンド下にいた日雇労働者が、「抵抗しないから」と、「遊び」で「おもしろ半分」におそわれて、怪我をしたり死亡したことが報道された。
 ぼくはこのことを知って胸のはりさけそうな無念さ、くやしさ、怒りにふるえた。
 なぜ「おもしろ半分」に「抵抗しないから」と殴ったり蹴ったりが人間にむかってできたのだ!
 しかもそれは中学生を中心としたグループだという。いったい、これはなんとしたことだ。
 中学生らが大人の日雇労働者をおそう、なぜか?
 「抵抗しない」からなのか。
 確かにそれもひとつの理由だろう。ぼくはこのことに対して答えねばならない。「抵抗しない」からとおそう連中に対しては大いに抵抗し、やられたらやりかえせ!と。それは防力の行使である。共に生きる社会を担うには、同じ人間であることを主張していかねばならない。
 だが、ぼくは「抵抗しない」からという理由は襲いやすさという条件にすぎず、動機ではないことを知っている。動機のない攻撃はあり得ない。なぜ襲いたかったのか?
 「おもしろ半分」であったのだろうか?
 これは多分事実であっただろう。では、その「おもしろ」さはなんだったのか? 殴ったり蹴ったりすることが「おもしろ」かったのか? 人を攻撃することが「おもしろ」いと感じられる為には、いくつかのことがなければならない。彼らはそれらをそなえてしまっていたのだろうか?
 ぼくらはこの攻撃の原因や背景を知る必要がある。明日襲われたり、未来に殺される自分や仲間を作らぬ為に。そして、自分と仲間が対立させられたり分断されて。それと知らないで仲間を傷つけたり殺したりすることのないように。

▲攻撃▼
 人が、人を殴ったり蹴ったりする攻撃の本体はどんなものなのだろうか?
 アルフレッド・アドラーという精神科医は、劣等感のおぎないとして(補償)、権力への意志をもつようになり、この表現が攻撃「本能」だと考えた。アドラーの説に従うなら、中学生らのグループは劣等感があり、権力への意思をもっていて、日雇労働者に「権力」をふるったことになる。弱いこと、劣っていることが避けられようとして、より強く、より優秀になろうとする動因となることは確かに事実である。だが、これは「権力」が最も価値あるものとみなされる価値体系をもった社会でのみ、わずかに妥当するにすぎない。もともと権力体制を文化としてもたないブッシュマン社会などでは攻撃は権力をもたらさず、逆に嫌悪される。
 アドラーの説は、劣等感を、アドラー自身の価値体系にそって、強弱、優劣の上下関係に位置づけるゆえに、劣等感の本質をとらえそこねている。劣等感の本質は劣っているというところにあるのではなく、疎外にある。つまり、疎外感が、疎外の理由としての劣等性をも自覚して生じる場合があり、これを劣等感というのだ。疎外なきところに劣等感はない。
 ジグムント・フロイトという精神科医は、「本能」という概念を乱発したが、攻撃についてはふた通りのことを言っている。
ひとつは性欲の満足の為、性的支配を可能とする征服本能からでるものというものであり、もうひとつは自己保存や防禦という自我本能からあらわれるとしている。フロイトは晩年になってから、死の本能(タナトズ)というものを考えつき、生の本能(エロス)というものとの二元論で攻撃を、死の本能が優位となってあらわれるものとした。
 フロイトの説に従うなら、中学生らの行為は全て彼ら自身の本能のせいであり、この本能をうまく社会が承認する形で表現できなかったことになり、死にたかったことになる。
 フロイトの説はこじつけであり誤りである。なぜならば、男女の「性」的な関係を、支配=征服の関係として把握しており、人間関係を「力」による征服、支配という上下関係でとらえるからであり、男女相互間の尊敬や互いを自己と同じ人間として尊重する感情などにある平等(水平)の関係を認めていないからである。人は、強制や支配によらずとも、自ら敬服するすることによって人間関係の秩序を保とうとするし、それは男女の「性」的な関係においても同じなのだ。また、自己保存や防禦においてもれは反映されるのだから。フロイトの説はあまりにも個人の内に全てを見いだそうとしすぎている。個人の行動は、内的動因と共に、他者との関係の中からあらわれるのに、フロイトはこれを見ない。死を踏しても守る価値のあることを社会の集団が認めるならば、この集団に所属していると実感している者は、その価値の侵害に対して戦うのであり、そのような価値を認めぬ者は戦おうとはしない。ここには「死の本能」などないのである。「死の本能」にかられたように見える「自殺」は、どういう時に自殺するのかという文化に従って行動してしまうことであって、後天的に獲得される行動なのだ。
ましてや中学生らは「抵抗しない」からと、自己の安全性を確保して攻撃しているのであり、ここに「死の本能」などはないのである。
 コンラート・ロレンツや、ティーンベルヘン、あるいはデズモンド・モリスといった比較生態学や動物行動学者。あるいはこれらの追従者、主流は、攻撃を生得的にプログラムされたものととらえ、その攻撃性は同種に対する種内攻撃として人間を進化させてきたように主張する。生活上のなわばりを守る為とか異性獲得とかあるいは、集団内の順位などをめぐって仲間を攻撃し、生物はその攻撃を色々な「なだめ」行為をあみだして進化してきたというのだ。
 ロレンツ一派の説に従うなら中学生らの攻撃は、明確な利得をもっていた上に生得のものとされる。特に彼らが他の中学生らと突った行動をとることの説明には、しばしば「突然変異」としてとらえられるのである。勿論、現実にロレンツ一派自身がこう言っているのではないが、彼らの理屈でいうとそうなるのである。攻撃を生得的にプログラムされたものとしてとらえることは、その「プログラム」に組み込まれる環境要因は一度とりこまれたら修正のきかないものとみなされてしまうことになるのだ。保安処分推進派のいう「突然変異」者の社会からの隔離とは、このロレンツ一派の、攻撃生得プログラム説をひっぱり出してきているのである。
 ロレンツ一派の説は動物での知見を、ただちに人間にあてはめ、人間のもつ他の動物との違いを正しく認識していないところに危険な誤りがある。人間と他の動物との違いは、言葉をもち、社会環境によって行動を変化させていく可変性が大きいということであり、行為基準を世代を越えてもっていることにある。このゆえに人間は、生育する社会の環境により、そのモラルとしての行為基準を学ぶことによって、自分の必要をいかなる行為によって満足出来るかを知るのであり、これにそって行動しようとするのである。
 従って攻撃もまた、必要を満たす行動形式として学ばれるのであり、攻撃性そのものが生得的にそなわっているわけではないのである。
 中学生らは、どこかで攻撃を学んだのである。攻撃のプログラムが作られて、それが中学生らを自動人形のように攻撃にむかわせたのではない。
 クルト・レヴィンやドラードら心理学者は、欲求が阻止されたり、欲求不満の時攻撃が生じるという攻撃説を主張する。
 確かに多くの例にあてはまる。欲求不満を生じさせられるものへ直接攻撃がむけられるか、あるいは、恐れや抵抗が強い対象をさけ、関係のないものへ、あるいは関係性の弱いものへ、攻撃をむける八つ当たり(置き換え)の例は多い。
 しかし、レヴィンらもまた全てを言いだしてはいない。それは、社会にある人間関係の態度というものにそって行動を選択する人間というものや、自己をどのような者として社会に要求するかという自己実現の問題が抜けており、攻撃を抑制する連帯感の攻撃に対する相互関係が抜けているからである。
 世界一たらんと欲する自己実現をもつ者は、世界第二位では欲求不満になるだろうが、十位以内でよいと思う者には満足をもたらすと同時に、新しい願いとして、ここまできたのだから世界一へと思わさせるかも知れない。
 親友の拒否には平気でも見知らぬ他人には、同じ据者に対してカッと怒る人もいる。レヴィンらの考え方はこの点で攻撃について、人間の実存性や、疎外と自己同一性の諸点を抜いていると言える。
 さて、以上のことを手がかりに中学生らの行為をとらえてみるとどうなるだろうか?
 色々な欲求不満があり、それを直接相手にぶつけられず、抵抗しない。自分より弱い者と思う人々へ八つ当たりし、それが同時に攻撃グループとして、自分と共に攻撃に加わっている人間を仲間として再認識させて、自己の所属する集団を形成するいっぽうで、欲求不満を対人攻撃によって解消しようとする行為基準をグループ内で育てていたということになる。本来むけられるべき、欲求不満の対象にむかっていないから、この攻撃は、欲求不満をひきおこさせる相手と新しい関係を築く方向を作り出さず、むしろその抑圧関係の安全性として働き、保守固定化を作り出す。そして、抵抗しない者へ攻撃をむけるということは、その中学生らが権威や権力をもって自分を抑圧する者へ抵抗できないでいることも示している。つまり権威主義の社会の中で、八つ当たりは自己より弱い者にしか出来なくなった人は、自己より弱い立場にある者を攻撃することによって、ますます、より強い者が権力を弱い「弱者」を作る社会を前進させているのである。

▲社会環境▼
 人間の可変性、学習性を見ると、中学生らに対し社会全体がどのようにあったかが関係となるし、中学生らに日雇労働者への攻撃を数えた人々が誰が問題となる。
 色々調べているけれど、主婦の友社(東京都千代田区神田殿河台一−六)発行の月刊誌「ギャルズ・ライフ」五月号の記事にある記事内容が許し難いので一部分糾弾の意味で引用してみる。二〇頁より二五頁にかけて
 「努力しないで出世するクラス内人脈活用法教えます。」という表題で、人と人との関係を利用主義としてすすめる。
 「女に友情はない、あるのは利害関係だけ・・・。学校だって、ディスコだって仲間がいるから楽しい。だけど、どうせ群れて生きるなら、思い通りに自由につきあいたい。ちょっとばかりインケンに見えたって人脈を利用しなけりゃ損だよ。で、人脈のつくり方、利用のし方をお勉強。」
とあって。「人脈を二〇〇倍うまく利用する八カ条」という記事で実にむかつくようなことを言っている。そのひとつ
 「その六。スケープゴート(人格)をつくろう
 クラスの中には、ときどきいじめられる役のコがいる。本人は全然悪くないんだけれど、みんなの欲求不満のハケグチみたいな存在で、からかわれたりするコだ。クラスに一人、そういう人柱的な役員をするコこだわってしまうと。クラスの機能がとてもスムースに貫く。ちょっと弱そうで、からかわれてもムキにならないコだななんて思ったら、さっそくみんなでいじめよう。そうすると、クラス全体もそんな雰囲気になる。こうなればしめたものだ。なんか、つまんないことがあっても、すぐにやつあたりできて、何かと都合がいい。人柱がいるあいだは、ケンカは起こらないし、いやな仕事も人柱に全部まかせることができる。一人の犠牲で、みんなが楽しく過ごせるわけである。」
 あなたはこの文章をどのように受けとめるだろうか?
この文章の中には、民族学や人類学の発見した人身犠牲の社会効果(人柱)。欲求不満=攻撃説という心理学の知識。一定の社会的圧力(抑圧)によっていやがられる仕事(行動)をさせようとするブルジョア論理の社会科学と経済学の知識。一人の犠牲でみんなが楽しくというブルジョアの民主主義と同じ論理、多数による勢力の正当化という政治学の知識が含められている。そしてこれらを応用して自分の欲求不満を解消する為に「弱い者」を作り「弱い者いじめ」をしろとそそのかす。
 クラスを社会と読みかえてみると、一層はっきりする。嫌な仕事をより下の者へと押しつけ、八つ当りし、いじめるという構造。そういう社会の疎外構造によって、部落差別がおこなわれてきているのであり、「精神障害者」が作られ、社会からの排除・抑圧が公然と、保安処分や差別としてもちだされてきているのだ。勿論、日雇労働も同じ抑圧下にある。
 ギャルズライフに代表されるこのような記事は中学生らにとって、社会教育となるのではないだろうか。ギャルズライフのような、「弱い者いじめ」の論理を、形をかえてテレビやラジオ、あるいはコミック雑誌等がその情報伝達の中で伝えてはいなかっただろうか? ちはら書房(千代田区神田岩本町一)から、法政大学漫画研究会が著者となって「THE大学生 キャンバスど真中」八六〇円の本が出版されている。その二五〇頁に、仲間の学生に対する態度をすすめ、「嫌なやつ」と思う相手へ、「強いやつで殴れない場合は、デタラメな悪い噂を流し、世論の力で隠蔽へと追いやってしまえばよいでしょう。人類皆兄弟。」真剣に受けとめることはないかもしれない。しかし、先のギャルズライフの中に「その八、噂を利用して敵対派閥をつぶせ」と題し、次のように言っている時、私は考えてしまう。
 「女同士のつきあいに欠かせないのがウワサ話。人前で堂々とはなしては効果のない悪口でも、口から口へのウワサだと案外相手にダメージを与えることがある。「あのコ、なんだか最近○○みたいよ」とウソの話をでっちあげて、敵の人間を仲間割れさせることもできる。ただし、すべてをくわしくはなしてはウソだとすぐバレルし、ウワサも広がりにくい。よくは知らないというフリでウワサの真相は聞いたコにさがさせるという方法がもっとも効果的だ。こんなときも、人脈を利用して、ネクラ、半ツッパリなどのマイナーグループから火をつけていくとよりいっそう真実味が増す。」
 私は自分の殺人者としての立場と「精神障害者」とされたり、詐病者とされた立場への自覚から、目的実現の為にデタラメな噂ほどでやろうとする論理や「いじめの論理」に承認を与える社会環境を糾弾する。殴られたら殴りかえそう。殺人に到ってはまう前に、「抵抗しない」からと、殴ることを「遊び」にすることがないように中学生らに教えてやろう。
 
▲教育▼
 攻撃は欲求阻止からあらわれるとすると、中学生らはどのような欲求阻止にあったのだろうか。一口に欲求といっても様々な学説があるので困る。フロイトではリビドーという性的エネルギーだし、マレーでは行動の準備性と欲求は考えられている。
 マスローという心理学者は低次の欲求から高次の欲求という五段階を主張している。@生理的欲求。A安全欲求。B所属と愛情の欲求。C評価の欲求。D自己実現の欲求。ということになり互いの欲求は少しづつ重なり、より低次の欲求が満足されないと次の段階の欲求は発動しないという。そして人はこの欲求段階の発達を経過することによって性格も成長するともいう。
 さてここで中学生らの欲求を知る手がかりは、攻撃ということともうひとつ「遊び」ということ「おもしろ半分」ということにあるのでそこから考えてみる。
 ゲームセンターなどで知りあって「遊び」で攻撃という彼らの「遊び」はいったいなんだったのか?
 自我心理学者のクリスは、「自我のための退行」として遊びを、芸術、愛、創造的慈悲、宗教とともにあげている。現実志向的な考えから遊びなどで意図的に自分を解放することによって自我の成長、豊かさがもたらされるというのだ。
 逆に言えば、遊びを必要とする人は現実から離れたいわけである。一方、攻撃は警察の逮捕という未来の結果をもたらす可能性があるのだから、彼らは、自分の行為の帰結について充分考えていたとは言えない。なぜなら、彼らにとっては「遊び」であり、刑罰を加えられることは「遊び」ではないからである。
つまり、彼らは、今と、ここのことに対応していくことに精いっぱいの状況だったのだろう。この現実志向と未来を考えた行動をとれないのは、そこに強く不安があったことを示している。
不安は帰結を充分に考えさせない圧力となるからである。
 欲求を阻止され、それをその相手に表わせない一方、不安もたち、現実の苦痛からのがれて心の緊張を解く為に遊びにむかい、集団となることで攻撃を安全に加えられる中学生ら。
 マスローで言うと安全欲求と所属と愛情の欲求の段階である。
 様々な緊張を解く為に、意識的に自我のための退行、すなわち解放を出来ない人々は、その強度を増すことによって解放感、愉快さを手にいれようとする。自己統制を弱めれば現実から解放されやすくなるので、たばこ・シンナー・アルコール薬物・覚せい剤などといった、自己統制を薬理的に弱めるものを使ったりする。
 さて、教育問題について考えてみると、教育とは社会的有用性の付与であり、獲得ということになる。しかもそれは教育学者G・S・カウンツによれば
 〈学校はすべての真に重要な事柄については「実際に社会を支配している集団あるいは階級の意志に従っており」つまらない小さなことがらについてある程度の自由をゆるされている〉
ということの中でである。
 このことは、教育からの「落ちこぼれ」は、落ちこぼされたと言うべきことを示していると同時に、学生にとっては常に、社会的な認知をうけられるか否かという不安を強くもたらすことを容易に推認させられる。つまり、社会的所属に対する不安がかきたてられる。この不安は、社会的有用性を自分がもっていないというところにある。では学校の教育はどんなものか。
それは次のような形が最も大きい。
一、成績が良くないと一流の高校・大学に入れない。
二、一流の大学を出れば一流の会社や官庁に入れる。
三、一流の会社・官庁で出世すれば、富や支配力をもてる。
あるいは、
一、成績の良い子は頭が良く、真面目に勉強するからだ。
二、真面目に勉強する子は良い子だ。
などという成績評価に連動した価値観や人間評価を教育する。
このような教育の中で成績が悪かったりすると、社会の評価から、ごく低い評価しかされていないと感じるだろう。マスローでいうと、評価の欲求不満が生じるわけである。欲求不満は攻撃性をたかめるから結果は明らかだ。学校の教育についてゆけない子供は苛々するのである。そこへ、「弱い者いじめ」を教えるマスコミがある。
 強い者に抵抗する勇気や価値を教えるのではなく、権威や権力にはさかわらず、安全な相手へ攻撃をむけさせる。つまり、自分より弱い者へ矛先をむけるよう社会と学校は教育しているのだ。そしてもう一方ではミリタリズムも教育する。
 ものの道理や、個人の叫びを無視し、力ずくで問題を解決しようとするのはミリタリズムである。成績が良ければ社会の階層の上位にのぼれ、人を支配できるというのは、知識をひとつの力としている。その知力を真の問題解決に使わず、人を抑圧し支配することに使うならば、その抑圧に使われる知力はミリタリズムに奉仕する。ミリタリズムの知力となる。
 同じく、ミリタリズムには暴力がある。肉体的な強さ、武器使用の強さといったものを、道理より上位に置く価値観、これが暴力である。道理を失った抑圧形態は暴力である。
 「抵抗しない」からと遊びで殴ったりするのは暴力である。
これに対し、やられたらやりかえすのは防力であり、道理を守る力である。正義の力と呼ばれるのは危険だけれども、防力は正義の力とよく似ている。防力はミリタリズムを否定する。
 腕力や権力を握った者が、支配者となる。このような現実は子供らにミリタリズムを教育するのである。力ずくでおさえこんだほうが勝だという倫理等が育つもうひとつの原因は管理主義にある。権威・権力を動員して管理を貫く教育は、そのまま力の強い方が勝だというミリタリズムとイコールする。
 田中軍団などと呼ばれる者共を見よ!数の多さによってゴリ押しをやりたいほうだいである。管理には権威と権力の行使が使われる。管理主義は権威主義と同じことだ。そしてミリタリズムとも同じなのだ。
 教育の中に管理主義をもちこんで、髪の長さや服装といったものから、学校外での遊びほど、こと細かく制限し、授業内容はびっしりとつめこむようになっているゆとりのなさで進められるから、ほんの少し覚えられなかった子供はどんどん増える。
これを補習や塾によっておぎなうのだけれども、問題は、こうして一日の大半を大人に管理された状況ですごした子供の、自らの興味と、その満足への行動という、子供自身の時間がないこと、これが問題である。
 管理される時間が多くなればなる程、子供らはふたつの方向へ分裂させられる。ひとつは、自らの興味とその満足の為の時間を奪われた子供は、その欲求の阻止による苦痛から、自ら興味を抱くことを無意識にさけようとする。つまり、自発性の放棄であり、受動的人間になることだ。
 もうひとつは管理される時間の否定であり、自らの興味とその満足へむかう子供である。この代表が教師の言うことに従わない子供であり、反抗したり、登校しないで遊びにいってしまう子供である。勿論、分裂させられているとはいっても両極端を恒常的にもつ子供は少ない。多くの子供はなんとか肉親や教師らの期待にそっていこうとし、管理された時間の中で、そこからはみ出さない範囲において自らの興味をもち、行動する。
 さて、結論を出そう。管理の強化された学校で学ぶ子供らは、教育という社会的有用性の押しつけにより、この有用性をもちえない場合、これを劣等感としていく。いわゆる「落ちこぼれ」と呼ばれる。これは社会的所属について、落第や留年といった同年令集団から、その所属をはぎとられる不安、欲求不満を生じさせる上、社会的地位の低いところへの所属という不満を作る。力ずくの倫理観・権威・権力に依拠した管理主義と権威主義は、強い者に反抗せず「弱い者いじめ」を必然化する。丁度天皇制の権威・権力が大手を摂っていた戦前の日本の軍隊における内務室で、新兵が古参兵にいじめられたのと同じ構造である。いじめられた兵隊は、戦争の中でどうふるまったか。抵抗するすべをもたぬ人々を虐殺したのである。 
 管理された時間の中で主体性を奪われた少年は、「遊び」において主体性をとり戻し、自分を成長させようとする。自分の興味と行動によって自分を実現しようとする。だが、「自我のための退行」としての「遊び」が、娯楽機械という管理された「遊び」の中では解消しない。
 中学生らは、その年令にふさわしい人間関係をうまく作れぬような環境におかれていた。管理主義の教育、「弱い者」はいじめられ、服従させられる権威・権力主義の差別社会。その社会の有用性とは、力をもつ者であることであり、それを実証することによって承認を与える。中学生らは、「抵抗しない」大人、日雇労働者を攻撃することに、自己主張の「傷」を見つけ、仲間の中学生らにかく力をもつ自己であることを示した。
劣る者ではなく優れた者であることを。また、いじめられる側ではなく、いじめる側にいることを、彼らが教育された価値観に従って自己証明したのである。彼ら中学生をして、このような行為に追いこんだのは誰か。
 また、野宿しなければならないような状態に労働者を負いやったり、その日暮しを強いて、労働の「場」から排除してきたものは誰であり、なんだったのか。
 それは、私たちであり、あいつらである。私たちは、私たちのこの社会の誤りを改築する力が、中学生らの日雇労働者攻撃を発生させないような社会にするのには、まだたりないことを認めよう。そして、正にその事実が、人が人をおそい、傷つけ、殺してしまうことを防げないのだということをもって、私たちの責任というものを受けとめよう。
 あいつらというのは、ミリタリズムに従い、権威・権力をカサにきて、管理を押しつけ、差別し抑圧を加え、人間が人間を疎外する考えをばらまく奴らのことである。

▲「浮浪」について▼
 新聞や週刊誌は、「浮浪者」狩りと表現しているが、私は腹が立って仕方がない。なぜなら、彼らは労働者だからだ。
 「浮浪者」とは、広辞苑によると、一定の住居や主業をもたず、方々を徘徊する者とある。
 ここには自らその状態を盛んでそうしているというニュアンスがこめられている。一定の住居や生業を、もとうとすればもてるのにそれをもたず、方々を徘徊するというニュアンスである。確かに自らそうしている人もいる。しかし、多くの人々は「職にありつけない」とよく言われるように、労働の「場」を奪われた人であり、収入の低さから安住の費用。つまり、家賃などが払えず、そのような中で生きるすべを求めて移動するのである。このような経済要因のない人は、多くはつらい葛藤からはなれようとすることからあてどもなくさすらう。
 横浜で「浮浪者」と呼ばれた人々は、日雇労働者である。自由労働者である。定職を得られない為に日雇いとならざるを得ず、日雇いにアブレたら宿賃を払えないから青カン、すなわち野宿するのだ。この人達を「浮浪者」と呼ぶ人々は、この人達に労働力を売る「場」を与えない社会の関係性を見ないのである。仕事と住居を用意しない社会が、彼らを追いつめて野宿させるのであり、彼らが好きこのんでそうしているのではない。
 私の母は、私が小学校三年生の時、日共の党員だった父、小山内健久と離婚してから、日雇労働者となった。いわゆる「ニコヨン」である。私自身も、山谷のサンライトハウスや赤城柱に泊ったりして日雇労働をしたこともあるし、マスコミのいう「浮浪者」の仲間となって、浅草のアーケード下でダンボールをベッドに。新聞紙を毛布がわりにして何日か青カンをしたこともある。だが、一度だって好きでそうしたわけではなかった。
 母の場合は他に働く「場」が得られなくて、職安にゆき日雇労働者とならざるを得なかった。私は義父と折りあいがつけられなくて、家から逃げてのことだった。着のみ着のままの少年を、どこも雇ってはくれず、唯一労働力を売れたのは日雇労働しかなかったのだ。
 多くの日雇労働者の理由ではないかも知れない。現金収入の必要から、季節労働者として都市にやってきた人も多いことと思う。だが、その人達も家族との別離は望んでいないだろう。
 ではなぜ私達は日雇労働者となるしかなかったのか?
 なぜ、労働の場が、家族と共にある地域で得られないのか?
 
▲職業とは▼
 私たちは、生活に必要な物品を入手するのにお金を払う。そのお金は基本的には働くことで手にいれる。つまり、自分の労働力を誰かに売って、金をそのみかえりとして手にいれ、金を払って生活物資を手に入れる。
 これは、労働力を誰かになんらかの形で売ることが職業だということになる。
 すると、日雇労働というのは、私たちがそのような形でしか自分の労働力を売ろうとしないか、あるいは日雇労働という形でしか誰かが私たちの労働力を買わない為に、仕方なくそういう形で労働力を売っているのだ、ということになってくる。
大半の人は後者だろう。では、このような形でしか労働力を売れないことは仕方のないことなのだろうか? そんなことは断じてない!なぜならば、私たちの肉体と頭脳は、スコップやつるはし、あるいはハンマーしか使えないのではなく、車のハンドルを操作したり、ペンを握って字も書けるし、仲間が病気で苦しんでいたら看病するのである。また、農業をやっている人は、種のみわけ方や植え方、育て方、収穫のやり方から地力のつけ方など、農業高校で教えることをすでに知っている。
人の看病が出来るのだから、看護夫になれるともいえるし、運転手にだってなれる。知識や技術は誰だって最初からあったわけではないのだから。その必要な知識、技術は学べるチャンスを与えられれば私たちにだって身につけられるのだ。
 私は中学校をいいかげんに出た「落ちこぼれ」だったから、教育漢字すらまともに書けなかったし、精神病院では「低能」とすら言われた。ところが友人が獄中の私に関わり応援してくれたおかげで、教育漢字は全部書けるようになったし、当用漢字は全部読める。精神鑑定では、知能指数一二七で優秀ということになった。知能指数はいいかげんな尺度だからあてにならないけれど、漢字の読み書きは確かなことである。
 さてこうなると、私たちの労働力は、知識や技術が必要な仕事につけるだけの教育を十分に受けられなかったことによって、その労働力を売るにあたり、様々な壁が作られているのだということにはならないだろうか。
 そしてそのことは逆に、労働力を買う連中が、労働力に一定の条件や資格をつけて、この選別の枠を通った者からのみ買うということでもある。
 すでにみてきたように、教育とは、社会的有用性の押しつけである。この有用性としての知識・技術をもち得ないと、この私たちの住む社会は、労働力に条件や資格をつけることで、その条件や資格をみたせない私たちを排除しだすのだ!
 生活物資が、労働力を売ることで手に入る社会では、労働力を売れないということがそのまま生活物資を入手できないということになる。つまり、生きられない。
 もう読者は私がなにを言いたいのか見当がついたと思う。私もクドクドしく言うのはやめよう。
 社会は、否・労働力の買手は、自分にとって有用ではない人間の生活がどうなっていこうと知ったことではなく、私たちを排除し続ける。私たちはこれを、自分の能力がないから仕方のないことだと言って認められるだろうか!
 私たちは、買手の勝手な有用観によって、社会から排除されても仕方のない人間なのか! そんなことはないのだ!
 仕事を用意せよ! 社会は私たちが生きられる仕事を用意せよ! そして、知識や技術が必要だというなら、私たちがその仕事を自分の意志で選択した後に教育の場を用意せよ!
 買手の有用観、価値観で私たちを選別するな! 有用性の選別このことこそ、中学生らの攻撃を作りだし、日雇労働者を作りだして事件に到らせた背景であり、原因の中心なのだ。これを許すことはできない。
  
▲「障害者」差別▼
 人間を、労働生産性に対する有用性で選別する。労働力の買手の価値観が、具体的に実行されると、その多くは「障害者」差別となる。
 「精神障害者」を、「うすのろ」とか「のろま」「役立たず」とののしる奴らは、そのののしりの中に、仕事が遅いとか、なにかの役にもたたないという有用性の価値観を使っている。
 問題は色々あるけれども、その中で重要なのは、赤堀政夫さんに代表され、鈴木国男さんに継続している「精神障害者」抹殺の思想でありその行為である。
 赤堀さんは島田事件をデッチ上げられて死刑判決をうたれた。
鈴木さんは大阪拘置所の「保護室」で、刑務官の観察のもとに凍死させられた。
 「精神障害者」への徹底した差別があったればこそ、このようなことをやれるのである。赤堀さんへのデッチ上げを許した原因のひとつは「市民」の「精神障害者」差別である。このことによって警察は、安心してデッチ上げることができた。鈴木さんの凍死も同じである。同じ差別観をもつもの同士の共犯感情に支えられているのだ。
 このような差別も、根本には有用性で人間にランクをつける価値観とその体系があって出てくる。生産手段を私有するゆえに労働力の買手となっている奴らを資本家というけれど、こやつらをうちたおしたからといって、有用性で選別しランクをつける価値の文化も解体しないかぎり、「障害者」差別はなにかの形で続くのだ。

▲最上の価値とは▼
 最上の価値とは、生命である。生である。これを超える価値は存在しない。生命は、それ自身が独立して価値をもつ。この観点のない思想は、生命より上になにかの価値をすえている。
そして、その最上の価値としたものから、生命を評価するのだ。
有用性、つまり、労働生産性に最上ないし、それに準ずる地位を与える資本家や支配者の思想は、その有用性への奉任の度合で生命をランクづける。これはさかだちした価値観である。
 無上の価値それ自身である生命を下位に置ける価値観は、観念論であって、それゆえ生命を抑圧する。
 優生保護法の思想はそのひとつである。
 生命が最上の価値をもつゆえに、その生命を十全に展開することが価値をもつのだし、生きがいや自己実現といったことが生命の次位に置かれる。ひとつの生命表現として、一回きりの人生を精一杯生きることの大切さが、生命の価値として展開されるし、これらの抑圧は非難されるのだ。
 中学生らの攻撃は、他者の生命の上に、自分の遊びを置いた価値のさかだちがあった。
 最上の価値である生命が、企業のもうけよりも低く置かれたところに、「公害」による死亡事件が生じる背景があった。
 原発推進の結果、「障害者」が生れてもいい、という態度の高木考一教員市長。これも金亡者の価値観であり、とても許せることではない。
 生命の、再上位への復帰。この観点を突きだし、有用性で人間を選別する考えを糾弾し、差別を許さず、疎外構造を解体して、共に生きられる社会を建設しよう。
 「全国「精神病」者集団会員 東拘 飯田博久(文責)

附記
 アール・ミンデル(ビタミン・バイブルの著者)が、校内暴力、家庭内暴力などの少年非行の原因は食生活にあるという主張をしています。
 ビタミン群の欠乏に加えて、食品添加物の過剰摂取などにより、ニューロエピネフリンという神経系の物質が欠乏し、注意の幅が狭くなって、集中力もなくなり、学校の授業に追いつけなくなってゆく。そして、人のいうことに耳をかさず、他人に無理強いをしたり、すぐ興奮したりして暴力化する症状を、ハイパーアクティビティと言うと述べます。
 人文書院から出版されている「なぜあなたの子供は暴れん坊で勉強嫌いか」(B・Fファインゴールド著、九八〇円)という本は、このハイパーアクティビティを「暴れん坊で勉強嫌い症」(HILD症)と呼んで、食品添加物・着色料が関係していると指摘しています。
 日本の食品衛生法では三三四品目の食品添加物が許可されていますが、確かに、ミンデルらの主張は一部正しいと言えるでしょう。しかし、誤りもあります。
 炭水化物・砂糖などは、体の中で分解されてゆき、分解される時にエネルギーを出して、水と炭酸ガスになります。この分解を解糖といい、ビタミンB1と呼ばれるチアミンが使われます。実際には、コカルボキシラーゼと呼ばれる酵素として、ほう酸などと結合しているのですが、このビタミンB1が不足すると栄養で十分エネルギーを得られない為、体がだるくなったり、すぐ疲れ、あくびや眠気がするようになったりします。ひどくなると脚気となるのですが、このビタミンBT不足でもミンデルのいう集中力の低下は生じます。また、ビタミンBTばかりではなく、ナイアシンあるいはニコチン酸と呼ばれるビタミンも、不足すれば、無気力や、不眠、すぐ興奮しやすいなど、精神症状が発生し、ひどいものはぺラグラ精神病と呼ばれます。
 サリチル酸の影響、あるいはカルシウムやマグネシウムの不足といったものが、人間にとって一定の生理的現免をひきおこすのは確かでしょう。
 しかし、校内暴力、家庭内暴力などの「少年非行」の原因は食生活にある、と言うのは誤まりです。もしこれが正しいのなら、人間関係の問題は「少年非行」の原因ではなくなるからです。食生活上の栄養の過不足は、社会環境の中で評価されることによって人間関係上の欲求不満を作ったり、生理的欲求不満を作りますが、それは「少年非行」の諸々の原因の中にあるひとつの原因ではあっても、原因の主要なものではありません。
 更に、食生活についていうなら、そのような食生活を構成してしまう原因こそが、ハイパーアクティビティの原因のひとつと言えるでしょう。ミンデルが、加工食品のテレビCMについて述べ、加工食品ではビタミンが失われると指摘しているように、私たちの食生活をとりまく、経済要因と一体となった。商品となっている加工食品と、それを売って利益を得ようとする会社の宣伝が、私たちを知らぬ間に栄養の過剰、ふとりすぎや不足にむかわせているのです。ここでも生命の健康より利益を上に置く価値観がのさばっています。


要請書
 私は、仙台拘置支所に拘留中の「死刑囚」赤堀政夫氏の無実を確信する者です。
 赤堀氏は、一九五四年五月二四日に二四才で不当逮捕されて以降、実に本年で三〇年目を迎えています。
 社会の荒波の中で必死に生き、職を求めて放浪の時、突然いわれもない「殺害事件」の犯人にされ、いくら「やっていない」と叫んでも「精神障害者だからやったに違いない。アリバイは信用できない」ときめつけられ、国家の名の下、殺されようとしている事実を私たちは断じて許すことができません。
 赤堀氏は、二九年間もの長きの幽閉生活で、健康な身体はひどくむしばまれながらも、「ウラミハラスマデ 死ンデモ死二キレマセン サイゴマデタタカウ」と訴えているのです。
 現在、東京高裁刑事第三部にて、第四次再審請求ー抗告審の審理中ですが、貴職が赤堀氏の血叫びを充分うけとめられ、死刑執行せぬことを切に要請します。
 又、宮城刑務所で「精神障害者処遇研究会」が設置される等、新たな管理強化の動きがありますが、貴職が宮刑の処遇改善を正しく行なわれるよう要望します。
一九八三年 月 日
住所
氏名
法務大臣 秦野 章殿
送り先 
東京都千代田区霞ヶ関一ー一ー一

要請書
仙台拘置支所長 高橋勉殿
 私は、「障害者」差別により「島田事件」の犯人にデッチ上げられ、「死刑囚」として仙台拘置支所に在監中の赤堀政夫氏の無実を確信する者です。
 拘置支所当局は、赤堀氏にたえず精神的・肉体的圧迫を加え続け、当局への屈服を強要しています。また面会・文通の制限などによって、赤堀氏と支援者とを分断しています。
これは、赤堀氏を孤立させ再審闘争を妨害するものです。
 さらに、「精神障害者処遇研究会」を発足させ、赤堀氏を含む獄中「精神障害者」にたいする差別の強化、処遇改悪を行おうとしています。
 これらの行為は、一貫して無実を訴え続ける赤堀氏の声を圧殺し、当局への屈服を強要すること以外の何ものでもありません。
 これに断固抗議の意志を表らかにするとともに、以下の項目を拘置支所長の責任をもって実行されんことを、強く要請します。
1.不当な文通・面会制限を行わないこと。赤堀氏発信および受けとりの郵便物の、妨害、黒ぬりつぶしを行わないこと。
2.冬期期間中のパネルヒーター設置を認め、獄中医療を改善すること。
3.「精神障害者処遇研究会」を、すみやかに解散し、差別的処遇を行わないこと。
住所
氏名
 
本当に死刑制度は必要なのでしょうか?
6・11「死刑廃止にむけて」
映画と講演の夕べに参加を!

*採録:桐原 尚之
UP: 20121105 REV:
反保安処分闘争  ◇全国「精神病」者集団全文掲載 
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