HOME
>
全文掲載
>
全国「精神病」者集団
>
保安処分推進勢力と対決する為に――日弁連 要綱案―意見書―野田報告を結ぶものへの批判
全国「精神病」者集団
編 19821218,『反保安処分資料集 I』,pp. 12-16.
last update:20110925
*
この文献は,「反保安処分資料集 I」(編集・発行:
全国「精神病」者集団
,2001年04月01日)pp. 12-16 所収の「復刻版」に基づいています.
**
原文中の傍点部分は、このファイルではアンダーラインとなっています。
■目次
◇
1 はじめに
◇
2 今までの医療がなんだったのか
◇
3 日弁連の方針とは?
◇
4 野田報告書とは?
◇
5 厳密な精神病理学的把握なくしていかなる治療もない?
◇
6 企業、学校、地域での「病」者狩りとは?
◇
7 「あらゆる面で正常なサイクルから外れる事態の防止」とは?
◇
8 措置通院制度とは?
◇
資料 声明文 1982年4月8日
>TOP
■1 はじめに(p. 13)
82年10月15日、坂田法相は「保安処分」の見切り発車を公言した。日本弁護士連合会(日弁連)との密室協議、推進派知識人を集めた「保安処分を考える会」、法相自らの訪欧、施設視察と、機あるごとに大キャンペーンをはってきた。
一方で、厚生省は、7月末全国衛生主管課長会議を開き8月には「激増する精神障害者犯罪への精神医療の充実」をテーマに来春にも具体策を提言するとしている。
このように、精神衛生法のさらなる改悪が目論まれ、「入退院時のチェックの強化」「医者の質の向上」が叫ばれている時私達「当事者にとって、精神医療とは何だったのか」を発せずにはおれない。
保安処分には代案などあろうはずがない。白紙撤回のみである。反対派の医者も含めて、これまでの精神医療のとらえ返しがなされていない。当事者がどう思ったか知ろうとしていない。病んだ心の傷に塩をすりこむような事をして放置してきたままではないか。
私達は、患者の立場から、保安処分以上に保安処分的に今の精神医療をかえていこうとする部分を決して許すことはできない。これ以上の拘禁−監視の医学は許せない。
もっとやられてきた側の生の声を聞け。
>TOP
■2 今までの医療がなんだったのか(p. 13)
「精神分裂病で入院、3年後、春のある日、看護人により病棟ろう下で、家よりロボトミー手術認可書を見せられ半強制的に手術する様突然いわれ、ビックリ致しました。とにかく、10人手術をして3人程しか助からないという有様でした。手術後は、全然覚えていません……自分としては、なぜその当時、手術をせねばならなかったのかわかりません」。ある人の告白(手紙)です。
このように、精神科においては、薬を決めること一つですら、自己決定権が認められていません。ましてや外科手術を、本人の意志を聞こうともせずに強制的に行う事は絶対に許し得ません。それがなぜ、いとも簡単に行われてきたのでしょうか。
それは、「たとえ生きていたって世の中のたしにはなりはしない。死んでも、もともと」という意識が医者の中にあって始めてできる事です。「精神障害者」が生きる事の否定です。鈴木国男君の国賠闘争においても、国側は「たとえ生きていたとしても逸失利益はない。労働力はない」と決めつけているのです。このような許しがたい目で、私達をながめているのです。これは、優生思想そのもので、私達の生きる事を否定する差別です。このような下で、精神医療が成りたってきているのです。
>TOP
■3 日弁連の方針とは?(p. 13)
日弁連刑法改正阻止実行委は、昨年8月末「精神医療改善に向けた要綱案」を発表、2月には「精神医療の抜本的改善に向けた意見書」を出し、3月には「専門性」で化粧直しをした「野田報告書」を発表しました。そして、ついには保安処分は刑法闘争から切り離す旨、方針決定しました。
このように弁護士会の立場から、刑法改「正」−保安処分に反対してきた日弁連が、「弁護人抜き裁判法案」の攻撃の中で、法務省への屈服をはじめていき、ついには、すさまじい「精神障害者」差別攻撃の中で、社会防衛主義の攻撃に屈服してしまったのです。
今では、マスコミさえも「初犯から問題にする日弁連」といわれるほどに、「精神障害者と犯罪者を切っても切りはなせない存在」と位置づけ、批判には居直っています。
「精神障害者」を「犯罪素質者」とする誤った差別的「障害者」観に立つ限り、いくら「いい言葉」を並べたてようとも、いきつく先は「精神医療により、障害者から社会を守る」という路線に落ち込んでしまうのは明らかです。
これは政府の保安処分思想と同じものであり、今以上に精神医療を治安的に刑事政策(犯人を見つけだす)の役割を負わせようとする許すことのできないものです。
>TOP
■4 野田報告書とは?(pp. 13-14)
日弁連の依頼で、滋賀県長浜日赤病院の野田医師によって「『精神病による犯罪』の実証的研究」が3月に出された。調査趣旨を「『動機なき殺人は恐い』という感情に答える事」(P159)としていることに対し激しい怒りを覚える。
「精神障害者」を取り巻く市民の差別意識が根深い中、それを肯定的に認めている。私達の怒り、>p. 14> を自殺にまで追いやられる日々の苦闘を一切見ようともしていない。
政府−法務省が「障害者」への差別の強化と抹殺をねらってかけてきている保安処分攻撃に、医療を対置するとは何事か。犯罪防止の目的を医療に負わせ、治安の道具として落としこめてしまおうとしているのだ。
「事件の前には必ず前兆がある。今の医療が見落としているだけ」という結論は、保安処分推進派をどれだけ喜ばせたか。法務省に「治療処分新設の論拠とするために、その全部を法務省側の利益に援用させていただく」と言わしめた責任をどうとるつもりか。
開放医療をすすめてきた医者をちぢこませ「何かあっては」と外に出させなくなったことにどう責任をとるのか。
「いつも誤診をおそれながら診療している」(P.10)医者に、私達の将来の生き方まで決められる決定権(再犯予測と、その結果の拘禁)を、決して与えるわけにはいかない。
>TOP
■5 厳密な精神病理学的把握なくしていかなる治療もない?(p. 14)
野田は「犯罪行為を行った精神病者の行為前に、その予兆を示す『叫び』がある」と説明する。それに「厳密な病状把握」で医療的介入を行えば、犯罪防止が可能という。
一体、どこから「病者の苦悩の病的世界」を分析するのか。「病者に対するやさしさや、病者の要求に対していいなりになるなら精神医学は不要」(P.156)といいながら……。
貫かれているのは「専門性」の徹底した美化と「精神医学」に全ての解決能力があるかにいう傲慢性、誤りである。
そもそも「厳密な病状把握」は、少なくともその前提として、医師と病人との信頼関係とその上に立つコミュニケーションの成立は、さけることのできない命題としてある。
この、医師と病人の信頼関係は、おおよそ、現行の精神医療では成りたちがたい。なぜなら、病状に苦しむ私達に対し、医療は、医師を先頭として、たいてい、病人の自己決定権や、言葉を無視し、まったなしの強引さで、介入してくる。
第2に、その強引さで、病院を選ぶ余裕すら奪われ一方的に、収容所化している病院に強制連行され、すさまじい管理下におかれる。
第3に、医師は、治療場面において絶えずなりふりかまわぬ問責を加え、断罪を迫り続ける。私達は、すでにどうやら「犯人」らしい。
こうした原体験を持つ私達病人が「厳密な症状把握を主張し犯罪防止」に一役かおうとしている専門家を信頼し、本音を洩らすとでも思っているのだろうか? 「人」をふみつけておいて、専門家だから心を開くと錯覚する傲慢性や一方的な主観主義に陥っている医師ほど、恐ろしいものはない。赤堀政夫さん(島田事件)や那須さん(弘前大教授夫人殺害事件)への誤った精神鑑定もここに根をはっているのだ。
こうした医師は「病人擁護」が医師の原則である事を放棄し、「犯罪防止」に奔走する警察官の姿を思わせる。
差別的な社会と「精神医療は信頼に足りず」と断定し、孤立化し「違法行為」で、最後の抵抗を示さねばならなかった病人の痛みに対し、今、専門家に問われているのは精神医療の自己切開と、やられる側にたった自己批判以外に道はない。
>TOP
■6 企業、学校、地域での「病」者狩りとは?(pp. 14-15)
野田は最後に「企業内、学校内における精神衛生体制を地域精神医療センターと連携していく」(P.171)必要性を説く。野田は、保安処分の反対理由を「(1)精神病者の犯罪は少ない(2)再犯予測は不可能(3)病者以外に拡大される」などと捉え、(1)(2)については「有効な反対理由とならない」とし、(3)のみが正しいという。
そして、自分は「日頃、病状の把握と自傷他害のおそれに常に気を遣っている」(P.9〜10)「法や制度の不備を言う人たちが、日常の臨床においては、適当に法(精神衛生法)を無視するようでは……」(p.157)。
ここに一貫して流れているのは、私達の現行精神衛生法に対する憤り、恐ろしさ、怒りを全く見ようとしていない。29条(編注:措置入院)も30条(編注:現在の医療・保護入院)も私達にとっては強制入院だ。通信、面会の自由も保障されていない。それを、意図的に精神衛生法下での実態的保安処分の現実を無視しようどしている。>p15> そして精神衛生法体制を賛美しているのだ。
医療は本来、本人が求めるべきものであって、他人から常に監視されたのでは、よくなるものも悪くなる。これは医療の本来的姿から「監視の医療」へと、治安主義的に、変質することを提起したものである。それを受けて、8月の厚生省の「精神障害者犯罪の重点政策」が打ち出されて生きていることを、はっきりと捉え、野田報告書の果たした差別的役割を決して許すことはできない。
この中に描かれている「病」者像とは「いつ、何をするかわからない危険な存在」という見方である。
そして、言葉では「外来精神医療の時代にあって、精神病者も、責任をとってもらわないと困る……が本音」(P.169)と、今の医療の拘禁性、世の中の欠格条項、差別条項など、まるで差別の実態がないかのように描き出し「もっと拘禁を徹底管理体制の下行え」といっているのだ。
このような「企業、学校、地域で『病』者狩りを徹底して行え」とは、身の毛のよだつ話だ。今の差別の大合唱の中で、専門家の位置から言う事を絶対に許せない。
さらには、この間の精神医療の拘禁性、非人間性(自己決定権のハク奪、文通、面会の自由等)を告発し、変革しようとしてきた開放化の流れの意義も、その主体であった「病]者自身の願いも踏みにじり、逆に、こうした流れが「犯罪の根拠」ど言い放っているのだ。
私達は決して、このような野田報告書、日弁連を認めることはできない。今までの医療が「受ける側」にとって、どんなものであったかを捉え返してもみよ!
>TOP
■7 「あらゆる面で正常なサイクルから外れる事態の防止」とは?(p. 15)
日弁連は81年8月31日「精神医療の抜本的改善について」(要綱案)を公開した。
その内容は「精神障害者」を「犯罪素因者」と決めつけその上に立って社会防衛的に「精神医療の改善」を主張、「再犯ばかりか初犯も防げる」と差別的に「精神障害者」監視策を示したものである。
かつて、日弁連は、刑法準備草案を批判した意見書で「『精神障害者』の犯罪の実行ないし、その危険性との結びつきを明らかにし、保安処分の必要性を根拠づけるような科学的資料は何も提示されていない」としていたが、その言葉をひるがえした裏切り行為の産物である。
「要綱案」の中味は、私達が窒息するような危機感を与えるさまざまな策が並べられている。その一つに「あらゆる面で正常なサイクルから外れる事態の防止」が打ち出されている。
私達の多くは「変わった人」「ちょっと違った人」と言われ、いわゆる「ふつう」から抜け出た(出させられた)病態をもつ。それを「精神障害者」という名で呼ばれている病人の一群に過ぎない。
病人に「健常者」の「正常」を望めないのは道理であり「日常性」には、しばられていない存在である。
「あらゆる面で正常なサイクル」が押しつけられようと慢性的不眠に悩む病人に朝寝は自然であり、サイクルである。
また、「正常」を強要する健康人が「正常社会」から、私達に差別条項や欠格条項を押しつけ、人権を奪い、いまわしい差別で意図的に「あらゆる正常な人間関係」から拒絶しているが、それを問わないのはどうしてか?
関係性のいびつさの中で「正常」を押しつけるのは、差別者特有の体質であり、傲慢そのものである。
広大な自然界に息づいていたインディアンを居留地に押しとどめ、白人社会の「正常」を強要する多数は白人の強引ざと同じ匂いを、私達はかぎ出す。
それを理不尽とし、私達が、日弁連の意識性に差別を感じ、激怒するのはごく自然なことである。
少なくとも、「正常」――「日常性」を主張し合えるのは、互いに自由を享受する人間関係であることが前提であり、それを問うことが、まず、何よりも現在先決である。
>TOP
■8 措置通院制度とは?(pp. 15-16)
日弁運の裏切りの産物である「要綱案」は、私達がもっとも恐れる措置入院と並列して、措置通院の導入を主張した。
措置入院とは、精神衛生法29条で「自身を傷つけ、また他人に害をおよぼす
おそれ
があると認 >p16> めたとき……」と鑑定医に判断された時、行政命令によってなされる強制入院であり病人の自由や人権を著しく侵害する差別条項である。
その弊害や人権侵害は、措置された病人の平均在院日数が2000日以上に及ぶ、その拘束の長期化にしめされる。
先行した保安処分そのものである。そして「自傷、他書」は、差別、偏見、抑制、社会矛盾の結果として生じる必然的な現象であり、病人特有のものと決めつける根拠など、どこにもない。
人権意識に過敏であるべき日弁運が、精神衛生法の根幹に流れる「精神障害者」への差別を問うこともなく、その差別に屈服した姿をここに露呈する。
さらに、措置通院を示した根本には、治療を拒絶し中断する病人に対する差別的危機感がひそみ、それへの対応策として強制的処置がうかがい知れる。そうであれば、私達にとっては、目に見えない手錠が思い浮かび、心に強い痛みが走る。その痛みに対処しうる医療が、はたしてあるとでも言うのであろうか。
そもそも治療とは、与えられるべきものでも強制されるべきものでもなく、自ら求める権利として法に明示されている。それを意図的に切り捨て、「精神障害者」差別に加担する日弁連の姿を私達は許すことができない。
医療過信におちいり、法務省の保安処分と同じ土俵にのり、社会防衛策に奔走する日弁連は「策」としての「有効性」を法と制度と自己過信の医師にゆだねる。
もともと粉砕すべき対象としての保安処分に、対置させるべき「策」など、どこにもない。
>TOP
■資料 声明文 1982年4月8日
滋賀県長浜日赤の野田医師によって「『精神病による犯罪』の実証的研究」なるものが、日弁連に提出され、3月17日の第6回意見交換会で、法務省とどちらが保安処分的か競い合おうとしていることに対し、私達は怒りをこめて糾弾する。
この「野田報告書」を巡り、法務省は「治療処分新設の論拠とするために、その全部を援用させていただく」と諸手をあげて、受け入れ、日弁連側は「精神障害と犯罪と精神医療にかかわる……対応策を具体的に提起することができて本当によかった」と、この事態に全面的に納得していることを、私達は正視し、この10年間に及ぶ保安処分阻止の闘いにかけて、決して許してはならないと考える。
この「報告書」は「『動機なき殺人は恐い』という感情に答えるため」作られたものであり、「厳密な病状把握」を結論とし、「あらゆる面で、正常なサイクルからはずれる事態の防止」をするために医療を監視−治安の道具としようとするものである。
その内容は「『精神障害者』=危険」を増長し、保安処分の推進動力となるばかりか、意見交換会に「科学的」実証を与える危険きわまりないものといわねばならない。そして開放医療を追求しようとしてきた日本精神神経学会の保安処分阻止の流れに敵対し、日弁連の昨年8月以来の「要綱案」−「意見書」(2月20日)に免罪符を与え、社会防衛の観点から「徹底管理の医療」を唱え、それを地域、学園にまでおよぼそうとする恐ろしい「精神障害者狩り」の体制を敷こうとしていることを断じて許す事はできない。
「精神障害者」に対して市民社会の持つ差別を肯定的にあおり、現行精神衛生法の中で呻吟させられている差別の現実を無視し、この間私達の願いをこめて精神医療の拘禁性非人間性を変革しようとしてきた事こそが「犯罪の根拠」と断罪してきている事に対し、決して容認しえない。
私達は、病を持ちつつ他人との関係(環境)の中で、必死の思いで生き抜こうとしている。そういう私達の願いを踏みにじり「病的世界」のみから「厳密な病状把握と徹底化」していくことは、私達の言動の一切を「病的」と無効化し差別の目で決めつけ、結果「医療」の名の下「社会外社会」へと拘束するという許すべからざるものであり、赤堀さんへの精神鑑定−獄死攻撃を更に生み出す事につながる。こうした、差別主義的精神科医による「精神障害者」差別を断じて許さず、神格化された「専門性」の仮面をはぎとり、「精神障害者」解放の未来にかけて、私達は闘い抜く。
1982年4月8日
全国「精神病」者集団事務局
UP: 20110925 REV:
◇
反保安処分闘争
◇
全国「精神病」者集団
◇
全文掲載
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇