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保安処分・監獄法を貫く ねらいと対決するために 5・29刑法集会報告集

発行:救援連絡センター 1982/08/28
編集:刑法改悪・保安処分「新設」阻止!意見交換会粉砕!6・12闘争実行委員会


はじめに

五月二九日、私たちは、法制審議会答申八週年弾効するだけでなく、いまの攻撃の本質を見きわめ、これからの刑法・保安処分闘争、「精神障害」者解放闘争をおしすすめるため、なかみの理解を深めるべく、決起集会の形をとらず、問題提起の場として開きました。その提起のなかみが、このパンフレットです。
八年前、法制審議会は法務大臣の諮問に対して「刑法改正原案」を、最終答申として出しました。それ以後、各方面からいろいろな反対の声があがり、法務省は、秘密′聴会(?)といわれた「刑法改正について意見を聴く会」も中断に追いこまれました。しかし、おととしの春ころからまた刑法改「正」への動きが目立ちはじめ、八月の「新宿西口バス放火事件」をきっかけに、「精神障害」者差別キャンペーンもくり広げられました。
日本弁護士連合会は、東京、大阪でのパネル・ディスカッションを、ちょうど「意見を聴く会」を補う形で行い、その後、法務省との間で、法務省にとりこまれる形で、「意見交換会」を定期的にやってきています。
法務省は、「刑法改正作業当面の方針」、「保安処分制度(刑事局案)の骨子」を発表し、保安処分を「治療処分」といいかえ、患者の要求で患者のためになされるべき「治療」と、権力が権力のために行う「処分」とを結びつけるゴマカシを用いながら、刑法改「正」のねらいの柱が保安処分であることを、はっきりとさせてきました。
問題なのは、日弁連です。「意見交換会」のやりかたも、はじめにきめた公開の原則の約束も知らぬげに、国民の代表の顔をして、警察機動隊に守られながら「意見交換会」を続け、法務省の「国民的合意づくり」の手助けをしています。
「意見交換会」では、法務省が刑法のなかに保安処分制度の新設をというのに対して、日弁連は医療の充実をといって、対立しているかのように見えますが、日弁連が考えのもとにしている「野田報告書(精神病犯罪≠フ実証的研究)」は、「精神障害」者の「犯罪」は予測できる、強制治療で「犯罪」は防げるといっていて、法務省と実際の区別はありません。
科学的根拠をもたない「犯罪」の予測≠ふりまわしたりするのも問題ですが、何よりも、「精神障害」者をとりまいている社会的差別に目を向けず、危険だといって、「精神障害」者差別をあおりたてる側にくみしているのです。
私たちは、このような日弁連を糾弾し、名古屋のパネル・ディスカッションを粉砕しましたが、日弁連は、反省もせず、なおも「意見交換会」を続けています。
法務省は、日弁連をとりこみながら、刑法改「正」を次の国会に上程するのだと、「治療処分を考える会」をつくり、厚生省との間で「関係局長連絡会議」を開くなど、準備をすすめています。
それだけでなく、いまの監獄法の問題点をさらに改悪しようとする刑事施設法案を国会上程するにいたりました。これには警察庁も悪のりして、留置施設法案を同時に上程しましたが、「精神障害」者、「犯罪」者を対象とする刑事政策によって、いまの、矛盾にみちた社会を守ろうとするものとして、保安処分、監獄二法の問題は、根は一つです。
私たちは、これらの問題を、「精神障害」者の立場から、また、「精神障害」者とともに生き、ともに闘おうとする者の立場からの提起を通して考えていきたいと、集会をもちました。
時間がかぎられていたので、提起者自身ももっといいたかった問題も少なくなかったかと思います。しかし、提起された範囲でも、刑法改「正」・保安処分新設阻止の闘いにとって、きわめてたいせつな問題がふくまれていると思われます。
これからの闘いをすすめるにあたって、ぜひ、討論の素材として活用されることを、すべての闘うなかまに訴えます。
(文責・玉川)


「野田報告書」を糾弾する
全国「精神病」者集団(M・Y)

全国「精神病」者集団よりアピールを行いたいと思います。本日法制審八周年の五・二九集会を迎えているわけです。十年近いこの間の刑法闘争の中で、大きな位置として、あの日弁連の「要綱案」の発表ということがあったと思います。
以来、刑法闘争自身が大きな分岐を迎えてきただろうと思います。それは、「精神障害者」と共に、「精神障害者」差別と真に闘っていけるのかどうか≠ニいうことが問われてきたんだろうと思います。
そして一二・四―五「要綱案」糾弾!名古屋パネル粉砕!の闘いの地平は、刑法闘争にとって金字塔とも言うべき大きな闘いであり、私達にとってみれば殺され続けてきた怒りをもって闘い抜いた闘いでありました。日本弁護士連合会の、糾弾を受けるか否かは自分達が決める≠ニ言って私達の目の前で居直ったことに対する徹底した糾弾闘争として闘い抜いたわけです。この闘いは、刑法闘争を闘う部分においても、「病」者の糾弾を受け取めるのか否かを鋭く迫っていくものとして、今後もなお引き続いていると思います。
しかし、日弁連内差別主義集団日共は「精神病」者集団事務局を名指しで検察権力に告発するなどして「病」者を地域で生きれなくさせようとする許し難い行為を行うに至りました。私達は、この闘いに対する差別敵対を決して許さず、さらに全国的にこの闘いの意義をもってもっと波及していかなければと考えています。

保安処分推進派に転落した日弁連を糾弾する

日弁連は、「精神障害者」がおかれている差別の現実には全く振り向こうともせず、傲慢にも法務省とのやりとりの中で精神医療の改善≠持ち出しました。このこと自身が差別です。それは、日弁連阻止実の半分以上を占めている日共が、「健常者」にまで保安処分がかけられては困る∞「精神障害者」にだけ絞って問題にすべきだ≠ニいう自己の利害からのみ出された差別的な方針だということです。
そして日弁連は「要綱案」・「骨子案」・「意見書」と、まずい露骨な表現だけ取り除いて、一見スマートに見えるものへと段々と変えていったわけです。しかし、本質は全く変りありません。
時として起こる不幸なでき事をどう解決するのか≠ニいう形で依然として「精神障害者」の犯罪を特別視し、法務省のいう市民生活の安全のため∞社会の安全のため≠サういうものと全く同質の「精神障害者」は危険で、いつ何をしでかすかわからない存在∞キチガイ≠ニいう目でしか「精神障害者」を扱っていません。かわいそうな者≠セとか気の毒な人≠セとかいうのはその裏返しでしかありません。そして、自分達と対等の人間として全く扱っていないということです。
そして、さらに許し難いことには三・二七の日弁連刑法阻止実決定において、保安処分を刑法から切り離すことをもって、法務省と共に改「正」作業にのぞんでいこうとしています。これは政府―法務省が保安処分をあくまで刑法改悪作業の目玉として作るんだと言いきっていることに対する完全なる逃亡です。
なぜ、政府―法務省がこれほどまでに保安処分にこだわってきているのか。それは、彼ら自身が今の刑法体系では支配を貫徹しえなくなるというふうに思っているからです。そして再犯のおそれ≠ニいう予防拘禁制度を引き入れて「障害者」をこの世にのさばらせておくな≠ニいう形でのファシズム優生思想をばらまき、差別・排外主義を人民の中に根づかせていき、戦争にむけて身構えていっていることに他なりません。
日弁連は、そうした現在「病者」・「障害者」にかけられてきている差別・抹殺・排外攻撃と真正面からむかうことを避けたわけです。逃亡したのです。つまり、差別する側にまわったのです。「健常者」の利益だけを守りたいと必死になったわけです。ここで完全に日弁連の刑法闘争なるものが敗北しきったと言い切らなければならないし、私達はそういうものとして差別する側にまわった日弁連、差別者に転落した日弁連に対して断固たる糾弾闘争を今後も繰り広げていかなければならないと思います。

「野田報告書」(日弁連)への怒り
そして、もっと許し難いことには、自分達の行ってきたことに対して、いわゆる科学性や専門性で化粧直しをして、世論を引きつけようとして、医者を引きずりこんできたわけです。それは、三月一七日に出された「野田報告書」です。「野田報告書」は、私達は読むだけでゾッとするような目で「病者」を眺めています。人間とは全然思っていません。
単なる実験材料の一つ一つにすぎないのです。
私は、この「報告書」を読んで非常に怒りを感じました。私達は、症状∴ネ外の何ものも持ち合わせてはいないのか?! 社会で生きたいという望みも、他人と一緒に生きていこうとする努力も、症状をよくしていこうとする努力も、そして感情すらも持ち合わせていない者としか読みとれません。「野田報告書」の中においては、私達は単なる病歴をもった動物≠ニして扱われているだけなのです。私達の表現も行動も一切合財彼にとっては症状≠ネのです。こうした精神科医の目によって赤堀さんは、差別精神鑑定をうけ、獄死攻撃をうけているのです。このような精神科医の差別性を許すならば、第二・第三の赤堀さんを必ずや生み出すでしょう。私達は、このことに対して一番強く怒りを感じました。
そして、野田は自分自身を反対する立場にたって調べた≠ニ書いていますけれど、一体誰のためのものなのでしょうか? それは彼ら自身のためのものであって、けっして私達「精神障害者」の利益のためでないことは断言できます。精医研(精医研というのは野田が所属しているグループ)のビラの中ではっきり現れています。つまり、措置入院において自傷他害のおそれを判断しているのは精神科医であり、ある程度の将来予測をたてなければ、精神医療は成り立ちえない≠ニいうふうに言っているわけです。つまり、そこを認めない限り彼ら自身の存立基盤が失われると叫んでいるのです。そのために調査を待ったのです。そういった願望にもとづいて、結局のところ「事件を起こすに至る明らかなサインが危機の叫び(前兆)としてあげられている」という結論を引き出したのです。
このような調査書を誰が喜んだでしょうか? もちろん、政府―法務省です。再犯予測が可能という強い後押しを得たわけです。
意見交換会の中においても「法務省側の利益のために全面的に採用させていただく」と喜んで言っています。野田本人が言うような保安処分に反対するために=Aあるいは精神医療の改善のために=Aまた「病者」の人権のために≠ニいうような話は、あとからつけたキレイ事にしかすぎません。市民社会から追放され、虐殺され、檻と鉄格子の中に閉じ込められている私達の仲間にとって、この「野田報告書」はどういう意味をもつのでしょうか。
一つに、動機なき殺人は恐いという感情に応えるために作った≠ニ書いてあるけれど、市民社会の差別性を肯定的に煽り立てて、より私達に対して差別・偏見を強化してくる内容であるわけです。
そして二つ目には、厳密な症状把握が必要だ≠ニいうことを結論としているわけですけれど、「要綱案」の初犯の防止なる問題と全く同質であって、「より濃厚な医療の強化」を方針としているわけです。「病者」の言いなりになるなら精神科医はいらない≠ニ言って強制医療が当然であると言いきっているわけです。入院中の者にとっては、精神衛生法三八条の下で、より一層の自由が剥奪され、長期の厳格な監視体制の下におかれることになります。
三つ目には、保安処分に対置して医療の充実を≠ニ言う時に、現行精神衛生法自体が治安対策の一環として機能しているし、その下で同意入院、措置入院と言った名の下「病者」をこれまで隔離・虐殺してきた実態がさらに強化されてくるわけです。あの鈴木国男君が大阪拘置所において、厳しい寒さと疲労の中で症状悪化をなし、面会要求しても拒否され治療という名の下でコントミン注射をうたれて凍死、つまり虐殺させられていった歴史を私達は絶対に忘れることはできません。
四つ目には、調査書の結論にも書いてあるように、事件の前兆を見逃さないために学園・地域において精神衛生センターを中軸に、常に「病者」の監視体制を今よりも強力に徹底して行えということです。このような「野田報告書」に対し、日弁連が本当によかった≠ニ言っているのに心の底から腹が立ちます。どれだけ研究の成果を誇ろうと、マスコミを使ってキャンペーンをしようと、私達にとって、差別の現実は一切変らないばかりか、今より以上のもっと厳しい「精神障害者」刈りのことに対し、私達は絶対に黙っているわけにはいきません。野田本人に対しても、日弁連に対しても、マスコミに対しても徹底した糾弾行動を、あらゆる手段を使ってあらゆる場から巻き起こしていかなければならないと思います。

「病者」「障害者」「健常者」の団結で保安処分粉砕へ
政府―法務省は、一二月国会上程を狙って攻撃を深めてきています。五月二五日の新聞においても治療処分の同意を前提に意見を聴く≠ニいう大見出しで、第一回の治療処分を考える会が持たれたことが報道されています。
社会の安全のため≠ノ七月までに各人から坂田法相が意見を聞き、ヨーロッパの保安施設の見学に旅立つわけです。こうした形で、着々と保安処分の導入を狙っているのです。
こうした中で、私達は「障害者」差別と闘う刑法戦線でない限り絶対に今の刑法全面改悪―保安処分の新設攻撃と対決しえないし、勝利はありえないということを断言します。
保安処分の単独立法化攻撃も含めて、差別と対決しえない部分の屈服は、火を見るより明らかです。
私は、この場に参加された皆さんに、「病者」と共に闘い抜くことを訴えたいと思います。入院中の人に対する支援・面会、そして退院後のアパート探し、就職の時の履歴書書き、そして職場回りや地域の中での人間関係、恋愛問題。それら一つ一つのことに対して、これまで社会の中で一人ぼっちの孤独のふちに追いやられて、ギリギリのところで毎日死と背中合わせの中で生きているという「病者」の苦悩を分かち合い、そのしんどさを自分も受けもって、共に差別と闘いながら病状の悪化を防ぎながら生きていけるよう強く訴えたいと思います。そして、こうした日常の積み重ねの中で断固として刑法改悪―保安処分新設を許さない闘いの陣型を「病者」「障害者」、「健常者」の力を合わせて闘い抜いていきたいと思います。
最後に、明日三〇日ですが、関西において関西の八つの患者会が主催となって、「精神障害者」にとって保安処分とは≠ニいうテーマで反保安処分のシンポジウムを行います。
芦原橋の部落解放センターで行われます。午後一時からですのでもし参加できる方がいたら参加されることを訴えて意見にかえていきたいと思います。

「障害者」解放の立場から保安処分・監獄二法粉砕の闘いを
赤堀中央闘争委員会(M・O)

赤堀中闘委のOです。私たち赤堀中央闘争委員会は、五月二九日の法制審答申八周年にむけてさまざまなとりくみをしています。
一九七四年五月二九日の当日、法制審議会は、刑法改悪・保安処分新設の答申をした悪しき日として、私たちは怒りをこめて弾劾しなければならないと思います。私たち赤堀中央闘争委員会は、赤堀さんを奪還すること、そして、「障害者」解放の二大テーマをかかげてたたかっています。
その赤堀奪還、保安処分新設阻止を含む、「障害者」解放の立場において皆さんにあいさつを申しあげたいと思います。

強まる赤堀さんへの獄中弾圧
赤堀さんの現在の獄中情況ですが、すでに多くの方々のお耳に入っていると思いますが、赤堀さんは現在、通信の受授に対しても宮城拘置支所の監視下におかれているために、そこからの干渉も強く、現在も外部交通権の制約が行われています。そのことは全く許しがたいことであり、多くの皆さんとともに宮刑の制約を糾弾していきたいと思います。そして現在非常に緊迫した裁判情況下にあります。昨日の新聞を見られた方は、ごぞんじと思いますが、赤堀さんの裁判、第四次再審請求の特別抗告の中で、裁判長を務めている小松正富氏が高松高裁の長官として異動して行くことが決定されたといっておりました。小松正富氏が高松高裁に行くということがどういうことかというと、非常に私たちは緊張を強いられます。ということは一九七七年の再審棄却決定から五年もかけて高裁段階で事実審理を行なってきたわけですが、この小松氏の異動で、ひょっとすると「決定」が下されるかもしれないという危惧感を持つからです。これには今までの貫例、通例というものはありません。しかし時間的経過と、そしてもう一方には、保安処分・刑法のたたかいが正念場をむかえるところで、分断あるいは闘争破壊という目論みをもって?ってくるという可能性が十分にあるということです。
その意味において皆さんも、赤堀さんの裁判の情況をみつめていただきたいと思います。
そしてもし、「決定」が下りた場合、即刻本人への激励を、また、高裁への棄却、あるいは差しもどしも全くないというわけではありませんが、棄却されるような「決定事項」がありましたら、高裁へむけた抗議をはたらきかけてもらいたいと思います。勿論法務大臣の坂田にむけても死刑執行するなということをきちんと、抗議あるいは要請として出してもらいたいと思います。この場をかりて強く要請しておきます。
もっとも小松氏がかわったからといって、この異動によって即「決定」「結審」ということではありませんので誤解のないようにおねがいしておきます。

「障害者」抹殺をねらう保安処分攻撃
私たち赤堀中闘委は、「障害者」解放というテーマの中で、まずこの保安処分が「障害者」抹殺、そして「障害者」への差別の強化というところにあるということで、絶対に許しえないということを主張しつづけてきました。
四月十七日の新聞報道によりますと、法務省は「今国会上程を断念」したかのように報じられています。もっともここに集まられた多くの方々は「断念」即勝利というような考え方は一切もっておられないと思いますが、改ためてここできちんと相互に確認したいと思います。この国会上程断念ということは、即勝利では絶対ないわけです。この間の政府法務省あるいはその他のいろんな刑法戦線の動きを見ていれば当然のことです。
第一点には、法務大臣坂田は、ヨーロッパの保安施設を視察に行くといっています。おそらくこのことは保安施設の中で人権が十分に認められているとか何とかいうために、ただそれだけのために行くとしか思われません。
ですがこのことは国民を多く説得するということがあるということを私たちは自覚し、そのことを絶対に許してはならないと思います。
第二点として、現在法務省は「治療処分を考える会」というものを、法務大臣の諮問機関として成立させ、ここで多くの「有職者」をしつらえながら、国民的な世論形成を狙っているということです。このことについて若干みなさんと確認したいと思います。
「考える会」とか、諮問機関をつくった法務大臣は「考える会」として意見をまとめることはしないということですがこの中にこめられている狙いというものはあきらかなことがあります。この世論形成の一点目は、政府法務省は国民不在の中で、刑法そのものを改悪したのではないということを、国民の中に歴史的にむこうはむこうなりに説得力をもたせるための、一つのセレモニーとしてやっているという事です。
世論形成の第二点目としては、「考える会」を作ることによって、有職者の意見がそうであるということで、有職者を前面に出すことによって国民を説得するやり方です。すなわち、そういう動きの中で、私たちははっきりと見てとらなければならないことは、次期国会上程にむけた政府法務省案のレールがきちんとひかれているということです。そのことに異論をはさむ余地はないと思います。
したがって私たちはこの五・二九という悪しき糾弾の日をむかえるにあたって、赤堀中闘委として次のことをあきらかにしたいと思います。それはこの五・二九をしてさらに刑法改悪・保安処分新設のたたかいの組織化をはかりたいと思います。そして再構築の出発点を今日からしたいということです。勿論、その中では課題別、或いは法案別な内容の深化、闘争の拡大ということを十分にめざさなければならないということを私達は考えています。

「野田報告書」(日弁連)を許さない
 政府・法務省、あるいは権力側の推進攻撃が激しくなっているさなかにあって、先程、「病」者集団のYさんからも言われていますが、野田レポートというものがあります。これは四・一六の中では多くの方々が語られ、多くの方々が批判して明確にされていると思いますが、改めて赤堀中闘委としても次のように考えたいと思います。
三月十六日、関西の毎日新聞の一面トップに出たものです。タイトルは「精神病者の犯罪は貧困な医療がその前兆を見のがしたため」といいきっている、レポートです。そしてこのレポートは日弁連が滋賀県の長浜日赤病院の精神科医野田正彰氏に依頼した調査結果をまとめたものです。
そしてレポートが主張するのは、一見「動機なき殺人」として突発したかの様にみえる事件は、「精神障害者」が悪い、「精神的危機のさけび」これはクライシスコールといっていますが、これなどの前兆があって、それを事前にキャッチできなかった精神医療に欠陥がある。大きな原因があると言っています。
それをもう少し要約しますとこの医師は、「精神病者」はあらゆるサイクルからはずれないよう、犯罪などを行わないよう監視が必要であると断定し、そうした医療をおこなってこなかった精神医療こそ問題があると分析し、動機なき殺人を恐怖している人々に対し「精神障害者」の犯罪問題をあきらかにしつつ、保安処分は不必要なものだとのべていることです。そしてこの論調で阻止しているかのように野田はしつようにいうのです。ですがこの医師の主張は大きな決定的なあやまりを含んでいます。私たち赤堀中闘委も保安処分反対闘争とは相容れないものとして、この問題を糾弾し、粉砕しなければならないものと考えております。
この医師のあやまりを私たちは次のように批判したいと思います。
第一点目はこのドクターは「精神病者」を「犯罪者」視する医師であり「病者」を犯罪を起こしやすい者と決めつける差別的な「病者」観を固定させています。これは誤解を恐れずに言うと、私たちが言っても、市民大衆が言っても影響力はあまりありません。ところがこの野田医師は精神科医、専門職であるがために、一定の効果性と影響力があるということを私たちは恐れているわけです。
第二点目に犯罪と病気との因果関係があると決めつけることによって、「病者」は病いと差別と偏見とによって日常的に追いつめられ、その結果として犯罪行為に至るのであり、それをあっさり捨象し、「病者」の環境・生活背景など一切を考えようとしないというあやまったところに立っています。
第三点目には、それにもかかわらず「精神医学」を絶対視しそうした錯覚に陥りながら「精神病者」の監視を強化すれば犯罪を防止し得ると明言しています。
第四点目には、病人を擁護することを最大の職務とすべき医師がその責任をあっさりと放棄しながら、「動機なき殺人」は恐いという大衆の意識におもねり終始しているこのレポートは、もはや発想のところで医療の原理原則を逸脱しているといわねばならないのです。
第五点目には、「精神障害者」の犯罪には前兆があるといっていますが、保安処分で問題とされ今も最大の焦点となっている再犯予測、つまり将来も犯しうる恐れのある再犯予測は可能だということを副次的に言っているのです。つまりこの人は、再犯予測が精神科医の手にかかればできるということをもって、保安処分・賛成論者に転落しているのだということを皆さん方ときちんと確認していきたいと思います。
第六点目には、こうした医療観によってみちびきだされるものは必然的に社会防衛的観点からなされる医療となり、そしてこうした医療が治安的に行なわれるということは火を見るよりあきらかです。そして結果としてはこの保安処分イデオロギーと私たちが申しています、精神衛生法を中心とした今の保安処分体制が強化され、われわれは地域のすみずみまで追いつめられ、監視され、病院の中では管理を、というすさまじい弾圧状況がさらに深まります。
そして最も恐ろしいことはこのレポートが、私たちが今のべた事案だけでなく、一つには法務省も諸手をあげて賛同していることです。
法務省はこの論理が再犯予測をすることができるといっているわけですから、彼らは諸手をあげてむかえるでしょう。日弁連も「要綱案」を出した自分たちは正しかったんだと、ホッと胸をなでおろしているわけです。
全くナンセンスな話でして、私たちは法務省と日弁連、つまり刑法改悪・保安処分新設の推進者である彼らに力を与えたというわけで野田を絶対に許すわけにはいきません。
それがこの間の私たちの問題であり、私たちが多くの潮流を含みながら、今こそ「精神障害者」解放闘争にむけて私たちががんばり、たたかいつづけていく中で言うべきことはきっちり言う、批判すべきことはきっちり批判するというはっきりした姿勢をださない限り、どのような組織化も住民闘争もないということを皆さん方と確認したいと思います。
第二、第三の赤堀さんを生み出す監獄二法案粉砕しよう
次に赤堀さんに非常に密着した関係となっている刑事施設法案、留置施設法案の問題です。赤堀中闘委は次の主張をのべたいと思います。
一つは赤堀さんが自白を強要されたところが代用監獄であったという点、したがって、第二、第三の赤堀さんを生みださないということ、「障害者」解放を主張している私たちにとっては、この代用監獄は赤堀さんの運命についで、将来第二、第三の赤堀さんを生みださないという点においても、絶対に認めるわけにはいきません。
第二には強制医療です。すでに赤堀さんにも強制医療はたびたび行われています。しかし何度もいいますが、医療とは本人の利益のために、本人が求める権利を有するものであり、けして強要されるものではないということを再度皆さんと確認したいと思います。
第三には、最も重要なことですが、死刑囚処遇がかわります。そのことによって現在、外部交通権が保障されていることが一方的に、通信も面会も、そういう外部との交通権については、親族あるいは弁護士以外に認められず急速にせばまります。現在多くの無実の死刑囚の「えん罪」が晴れつつあります。その晴れつつある「えん罪」は、その獲得した勝利の根幹には本人達が、自分の主張、あるいは自分自身の訴えを外側に向けて発信し、そのことを外側の協力関係にある支援団体に訴え共同闘争を行なった結果であることが多くみられます。
したがって今度の刑事施設法案の死刑囚処遇がかわれば赤堀さんをはじめ、多くの「えん罪」事件の方々、そして死刑囚の外部交通権をぶった切り、ひいては再審活動に対する大きな妨害であるということを改めて皆さんと確認したいと思います。赤堀中闘委は刑法改悪・保安処分新設とのたたかいと同じに、刑事施設法案とのたたかいを力の限りみなさんとたたかっていきたいと思います。
第二点には、これと並列して出してきた留置施設法案です。この問題については赤堀さんの問題としても大きな問題でありますが、私個人のことで少し話したいと思います。
この留置施設法案は非常に「病者」解放の視点から見ますと絶対に許しえないものとなっています。というのは日常的なことで申しますと、私は実は赤堀さんだけでなくたくさんの救援をやっています。これは「病者」にかけられている問題であって今まで十七年ぐらいやってきました。そして今も週に一回ぐらい獄中の人と手紙のやりとりをやっていて非常にシビアな問題として考えられるわけですけど、自分の経験も含めて若干お話ししたいと思います。
最も重要なことは、この留置施設法案は自白をとるために代用監獄を恒久化していくという問題と、さらに弁護士との接見交通権に新たな制限を加えて、被収容者の防禦権を著しく侵害するということです。どこにいても防禦権というものはあるのです。
この留置施設法案を結論から言いますと、この問題が多くの弁護士によって語られているのは、憲法に違反している、そして刑事訴訟法に違反しているということです。防禦権と接見交通権に制限を加えるというところの矛盾を若干の条文を読むことで皆さんと確認したいと思います。
憲法第三十七条を読んでみます。
  刑事被告人の諸権利
一、 全て刑事事件においては被告人は公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
二、 刑事被告人は全ての証人に対して尋問する機会を充分与えられ、又公費で自己の為に強制的手続きにより証人を求める権利を有する。
三、 刑事被告人はいかなる場合にも資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自ら依頼することができない時は国でこれを附す。

ということで弁護人は必要なわけです。そして三十四条を見ますとやはり正当な理由がなければ拘禁されず、病気があればその理由をただちに本人及びその弁護士に告げなければならない。三四条においてもただちに弁護人を依頼する権利を与えられなければならないのです。
刑訴法の三十九条にも大きく矛盾します。
三十九条は被拘束者との接見・授受です。
 この法案は治安法規を非常に弾圧的に整えるものだ。そして戦後民主主義の統治形態を権力側が根底的に否定するところに、この法案があるというように叫んできました。であれば憲法そのものをゆるがすこの問題を私たちがたたかわずして一体だれがたたかえるでしょう。
したがって私たち赤堀中闘委は留置施設法に対してもきっちりとした闘いを組んでいくことを皆さんに約束したいと思います。

保安処分粉砕・「障害者」解放へ共に闘おう
二月二十七日だったと思いますが、日弁連は「当面の方針」という権力と同じ言葉を使って自分達の方針を明らかにしました。その中で全く許しえないのは、日弁連の方針の中に保安処分を刑法から分離させるといっているわけです。そしてこの分離をするといっている中で、私たちはすでにこれは日弁連が、いかなる口実をもつけて強行しようとしているのだと考えています。それは次のようにいえると思います。
私たちは保安処分・そして刑法改悪そのものをたたかうとき、保安処分イデオロギーそのものを柱とした刑法であり、保安処分と刑法一体のものと位置づけたにもかかわらず、ここで分離するということは一体どういうことなのか。分離すべき問題では絶対ないということです。
そしてもう一つ、保安処分とたたかうということは現段階まで「障害者」差別、分断を行なってきた人民の側が、相互の関係に目ざめ、「障害者」を分断せず、差別せずという、保安処分そのもののイデオロギーとたたかってきたし今日もそうした闘いが必要です。したがって私たちの闘争原理から言いますと、日弁連は保安処分だけは「有職者」、あるいは特定の個人で専門委員会を作ってやるといいますけど、少なくともそうした考え方はわれわれと全く相容れないものです。
なぜなら分離・分断というのは我々が先程から申し上げた通り、我々の視点にはありません。これ程、大きなうらぎりを日弁連がくり返しているということで、私たちは日弁連を徹底的に糾弾しなければなりません。
細かいことについてもたくさん皆さんと確認したいと思いますが、最後になりますけど、今後も日常的に「障害者」差別を行なう精神衛生法を中心とした保安処分体制とたたかい、刑法改悪・保安処分新設を命の限り阻止し、そして刑事施設法、留置施設法案を赤堀中闘委は赤堀さんと共に、皆さんと共に国会上程阻止、廃案になるまで闘っていきたいと考えます。
赤堀さんと共にたたかうことを皆さんに最後に再度要請し、刑事施設法、留置施設法案とたたかう方は、赤堀さんの既得権としてある通信、あるいは面会をこのまま継続していく為にも赤堀さん個人を激励するためにもぜひ、通信、面会をしていただきたいということをおねがいしまして、私からのアピールにかえたいと思います。


赤堀さんと文通・面会をしよう!
(住所)
  宮城県仙台市古城二−二−一
     無実の「死刑囚」・赤堀政夫

(注1) 文通する場合は返信用切手を同封して下さい。
(注2) 初めて面会する場合は、刑務所の不当な弾圧により、事前に二?三回の手紙のやりとが必要です。

パンフレット
  「赤堀さんと保安処分」を読もう!

(申込み先)
  仙台市小田原二丁目二−四三
    佐幸ビル四〇三号
       赤堀中央闘争委員会教宣部

差別と対決しぬく共生共闘の内実を
全国障害者解放運動連絡会議(J・H)

全障連のほうから、刑法改悪・保安処分新設阻止にむけた闘い―とりわけ私達の「障害者」解放にむけた闘いの中からいかに刑法改悪・保安処分新設の攻撃に対決していくのか―ということで、この間の刑法改悪・保安処分新設をめぐる攻撃が「障害者」に対する様々な形での差別キャンペーン、あるいは具体的な日常的な攻撃の中で一体となってかけられているのだということを踏まえながら提起していきたいと思います。
赤堀さんとともに
私達全障連は結成当初から、29ヶ年にわたる獄中生活を強いられ、なおかつ無実を訴えつづけて不屈に闘いぬいている赤堀政夫さんを生きて奪い返す闘い。更には、79年度養護学校義務制阻止の闘い、そして大きな課題として全国各地における「障害児」の普通学校への転校を実現させていく闘いを軸にしながら、この約6年間の闘いを闘い抜いてきましした。
赤堀さんに対する攻撃が、あの第一審の判決文の中にはっきり貫かれているように、赤堀さんに対する不当逮捕と裁判の全過程をめぐっても唯一赤堀さんが精神薄弱者であるからやったに違いない≠ニいう予断と偏見に基づいてデッチ上げられ、それに基づいて死刑判決が下されていったわけです。更には、そうした赤堀さんに対する攻撃が、赤堀さんのみならず、赤堀はとうてい通常の生活に適応できない≠ニして赤堀さんの出生過程から地域で精薄∞低能≠ニして排除されていったそうした差別状況までもこれは、赤堀が通常の生活に適応できないから殺人を犯したに違いない≠ニして死刑判決が下されているわけです。私達は、こうした赤堀さんに対する攻撃をみながら、すべての「障害者」を社会生活に適応できない≠るいは社会的不適合者≠ニして差別・排除・抹殺していく攻撃を許さず、何としても赤堀さんを生きて奪い返さなければならないし、赤堀さんへの虐殺ということを許して「障害者」の解放がありえないということで、獄中の赤堀さんと固く連帯しながら闘ってきました。
さらには、養護学校義務制阻止闘争における、あるいは全国各地の就学闘争における政府・行政はもちろんのこと、そしてそれと一体となった日共系の教師集団による徹底した私達の闘いに対する攻撃―それは障害者は地域の学校・普通の学校では適応できないんだ∞障害に見合った教育を≠ニしながらそこに貫かれている「障害者」に対する見方―「障害者」を結局のところ「健全者」にいかに近づけるか、あるいは、いかに社会に適応できるのかということでしか「障害者」を見ることができず、そのところで障害に見合った教育を≠ニして私達の闘いに対しては非科学的な運動だ≠るいは健全者にひきまわされている障害者・患者≠ニして徹底して差別的な「障害者」観に貫かれて私達の闘いに全面敵対をやってきているわけです。
しかし私達は、こうした差別敵対の中に、単に日共系の教師集団のみならず、この差別社会にある「障害者」に対する見方や日常の差別攻撃が、障害者は役に立たない≠るいは家族をも不幸にする≠ニいった形で「障害者」の生活保障や権利保障といっても、結局のところ同情や恩恵の枠内であって、それをこえる「障害者」自らの闘いに対しては徹底して排除していく、そういう「障害者」に対する差別攻撃が今日も増々強まっていると思います。

「障害者」差別攻撃のつよまり
とりわけ、この刑法改悪・保安処分の攻撃とまさに一体となった形で、「障害者」に対する排除の攻撃が、母子保健センターの建設の強行や遺伝相談あるいは胎児チェックの徹底強化として具体的にすでに推進されており、「障害者の完全参加と平等」をテーマとした「国際障害者年」においても、こうした具体的な「障害者」に対する排除・抹殺の性格を文字通り背景化させながら、政府の十ヶ年計画の中でも徹底して「障害者」を排除・抹殺していく政策が提起されているわけです。私達はこうした「障害者」に対する排除の攻撃を許さず、「障害者」が自ら起ちあがり、日常の差別に対して文字通り「障害者」間の団結を強めながら、政府・行政そしてあらゆる差別者に対して徹底した闘いを強化していかなければならないと思います。
「国際障害者年」の中でもはっきり表われたように、政府は「障害者」自らが、まさに『障害』からの解放≠ナはなく差別からの解放≠掲げながら闘っていく「障害者」団体に対しては徹底して排除していく、そしてあらゆる「障害者」団体をはじめ「障害者」の家族団体や様々な地域の団体を体制内的に打ち固めていく、そうした攻撃がとりわけ強化されていると思います。そういった状況をみるときに、「完全参加と平等」というものが同情や恩恵の枠内での―政府あるいは国家の規律の枠内での―「完全参加と平等」であって、「障害」をもつ「障害者」の自主的な解放闘争に対しては徹底して弾圧をかけてくる、あるいは多くの「障害者」団体から排除していくということとして表われてきていると思います。
そして今日においても軍事予算の増大と引きかえに福祉予算の大幅な削減がはかられながら、その具体的な展開の中では、地域で自立生活をかちとっている「障害者」あるいは地域の中で「健全者」と共に生き抜こうとする「障害者」に対しては、徹底して差別をあおりたてながら、文字通り「障害者」の自立生活、日常的な生活基盤そのものを破壊しながら進めていくというのが現状だろうと思います。だからこそ私達は、「重度障害者」を軸にしながら地域で共に生きる、地域で共に生き共に闘い抜いていく、そのことを「障害者」解放運動の大前提にしながら一つ一つの具体的な差別攻撃と対決していかなければならないと思います。
私達はそういう「障害者」解放の闘いを進めながら、この刑法改悪・保安処分攻撃に対しても、何よりも「障害者」「精神障害者」との強固な団結を形成しながら、獄中の赤堀政夫さんの闘いを自らの闘いとして連帯し引き受けながら、保安処分新設を許さない闘いを進めていかなければならないと思います。
あの日弁連の「要綱案」あるいは「意見書」の中にもはっきりと示されているように日弁連は、あのような形で今や完全に政府・法務省に屈服しながら私達の闘いに敵対しているわけです。そういう日弁連の屈服の中にみられるように、日弁連は結局のところ、政府・法務省の差別キャンペーンやあるいは、いわゆる「通り魔殺人事件」として大々的に展開されたあの差別キャンペーン、そして今日においてもすぐに「事件」が「精神障害者」に結びつけられ、語られ、あおられていく、そういう状況の中に結局のところ屈服しながら自らもまた「精神障害者」に対する何をするかわからない∞また犯罪を犯すかもわからない≠ニいった予断と偏見が根深いがゆえに、安易に法務省の攻撃に屈服していったんだとはっきり言えると思います。
そしてそうした状況が、私達の闘いに対する差別敵対をますます強くしていっていると思います。この間の様々な形での差別キャンペーンの中に、あるいは差別キャンペーンを通して形成される世論といったものの中に、ナチスドイツによる「精神障害者」や「障害者」そしてユダヤ人が大量に虐殺されていったすさまじい歴史を私達はみることができると思います。
あのナチスドイツにおける「障害者」やユダヤ人の大量虐殺に至った過程―それはそれまで多くの人々が同情や融和の枠内であったにせよ様々な形での市民運動などが展開されていっているわけですけれども―、ヒットラーのアーリア人種の血の純潔を守るために≠ニいう叫びの中で、「障害者」に対する、まさに病原菌≠ニしてすら語られるような代名詞として語られるような状況になっていく、そしてそうなる状況の中で、多くの人々が―敵のすさまじい攻撃もあったわけですけれども―結局、「障害者」やユダヤ人の虐殺というものを許してきた歴史というものを私達はハッキリと見ておかなければいけない。
それはこの間、徹底した糾弾の闘いを行なってきたわけですけれども、例えば、あの悪名高い週刊文春に掲載された渡辺昇一の差別論文―それはもし母親が「障害児」とわかっていながら生むということは社会的な犯罪行為だ≠ニいうことを公然と言いながら、「障害者」に対する排除をあおっていく、またそういうことが社会の中に浸透していく、そういうことを考える時、私達は一つ一つの「障害者」に対する差別攻撃やキャンペーンというものを徹底して糾弾して闘っていかなければならないと思います。
そしてこの間の刑法改悪・保安処分阻止にむけた闘いにおいても、日弁連をはじめ、あるいは日共などが差別的な「障害者」観にもとずいて、結局敵の攻撃にも全面屈服していくという中で、私達はハッキリ差別を差別として糾弾して闘っていかなければならないと思います。

共生共闘の団結で国会上程阻止へ!!
 今日のこの刑法改悪・保安処分新設にむけた闘いの中で問われているものこそ、「障害者」とかたく団結しながら日常的な「障害者」との共生共闘を原則にした闘い、そしてその中で生み直されていく「障害者」「健全者」「病者」のかかわりや関係、そういうことがあらゆる差別を許さず「障害者」と「健全者」が共に生き共に闘っていく中身というものを生み出していくだろうと私達は確信しています。
したがって私達は、赤堀中央闘争委員会をはじめ、とりわけ「精神障害者」との交流や団結を基軸にしながら、すべての差別を許さず、闘う仲間のみなさんと共に、刑法改悪・保安処分新設の国会上程を絶対に阻止していく闘いの先頭にたって闘い抜きたいと思います。
そして不当逮捕から二九ヶ年目をむかえた獄中の赤堀さんを未だ私達の手に奪い返しきれていないという現実を痛苦にかみしめながら無実を訴えつづけて、そして獄中の「障害者」「病者」の仲間に支持・激励の言葉をかけながら闘い抜く赤堀さんの闘いに学びながら、赤堀さんを生きて奪い返す闘いと一つのものとして、この刑法改悪・保安処分新設阻止にむけた闘いを進めていきたいと思います。
以上で全障連からの提起を終わりたいと思います。

刑事施設法・留置施設法粉砕にむけて
弁護士 一瀬敬一朗

 四月二八日、刑事施設法案と留置施設法案が国会に上程されました。両法案は監獄法改正作業の中から生まれたものですが、実は今、日本の刑事司法は全面的に改編されようとしています。四年前にはいわゆる弁護人抜き裁判法案が国会上程されました(七九年五月廃案)。刑法、少年法、刑事訴訟法そして監獄法が改悪されようとしていますし、またスパイ防止法(機密保護法)を制定しようとする動きもあります。両法案の国会上程は政府・自民党そして財界と右翼が望んでいる刑事司法の全面的改悪の突破口としての意味をもっています。
さて両法案の中味ですが今日は未決拘禁の問題にしぼって問題提起します。
未決拘禁については刑事施設法案の第一編総則、第三編被勾留者の処遇、第五編雑則と留置施設法案(本文38ヶ条と附則6ヶ条)に規定がありますが、これらの規定は主要に三つの部分からなっています。第一が弁護権・防禦権の侵害・第二が拷問復活、第三が代用監獄の恒久化です。以下この三点について検討を加えることにします。
弁護権・防禦権の侵害

 一番の問題は、被拘禁者と弁護人(弁護人となろうとする者を含む)との面会を大幅に規制していることです。
現在、逮捕・勾留されている被疑者・被告人と弁護人との面会は原則として自由であり、ただ「捜査のため必要があるとき」に「公訴提起前に限り」「日時・場所及び時間」が指定され制限されるようになっています(刑訴法39条)。この接見交通権は憲法34条前段の「何人も、理由を直ちに告げられ且つ直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ抑留又は拘禁されない。」という基本的人権を具体的に保障したものです。最高裁判所も国賠事件に関する判決の中でこの接見交通権が「身体の拘束された被疑者が弁護人の援助を受けることができるための刑事手続上最も重要な基本的権利に属する」ことを認めています(最判昭53・7・10)。したがって「捜査のため必要があるとき」とは、現に被疑者を取調中とか実況見分、検証等に立ち会わせる必要がある等捜査の中断による支障が顕著な場合に限られるのです。これが学説の確定した通説ですし、最高裁の判決自身この解釈を支持しています。
ところが、両法案は、「罪証隠滅の防止」と「施設の管理運営」を理由に接見を制限できるようにしています。(刑事施設法案108条1項、留置施設法案24条、28条)先程現在の法律と判例を紹介しましたが、周知のように実務的には警察の接見妨害が横行しており、とくに公安事件では本来例外であるべき接見制度があたかも原則のように運用されています。そこへもってきて両法案が成立したら接見交通は完全に否定されてしまうでしょう。
西ドイツでつくられた一連のテロ対策立法の一つに、一九七七年九月成立の通称接触遮断法があります。その法律は、拘禁中の者相互間ならびに弁護人との書面および口頭による交通を含む外界との一切の連絡を阻止するために、収容者を接触遮断の固定措置に処することを認めています。西ドイツではこの種の特別立法を七四年ころから制定し、西ドイツ赤軍などを弾圧していきましたが、両法案の接見制限規定はこの西ドイツの接触遮断法と本質的に同じものです。むしろ両法案の方が制限の要件があいまいで一般的であるだけにより危険な性格をもっています。
両法案が成立すれば、被逮捕者・被勾留者が黙秘したり否認したりしている場合―この時こそ弁護人との接見が重要なのですが―に警察が「罪証隠滅の防止」を理由に接見を制限してくることになります。そして接見妨害を抗議すればこん度は「施設の管理運営」を理由に接見を制限するという具合です。警察のまわりを宣伝カーで激励行動することも事実上できなくなるでしょう。
このように両法案は刑訴法39条自体を実質上否定するものですが、現行刑訴法とちがう次の二点を補足します。一つは、起訴後の被勾留者にも接見制限を及ぼしていることです。
二つめは、接見制限を準抗告で争うことができず救済の途を奪っていることです。この二点とも重大な権利侵害になっていますから注意を要します。
その他両法案は、弁護人等との信書の発受を制限し、また弁護人に対する身体検査を認めています。
前者は、現在被拘禁者と弁護人との信書の発受について禁止・削除・抹消などの制限規定はないのですが両法案は大幅な制限を認めています。とくに被拘禁者の弁護人宛て信書について差止・削除・抹消を認めたこと及びその要件があいまいで且つ制限の必要のない場合にまで及んでいるのは重大です。
後者は、現在弁護人に対する携帯品検査は行われていませんが、両法案が成立しこれが実施されるようになると弁護活動用の手帳や文書も検査されることになり弁護活動の中味を警察が把握するという事態さえ出現してきます。

拷問の復活
もちろん両法案が明文で拷問を合法視することを謳っているわけではありません。しかし両法案の内容は明らかに拷問につながるものです。
まず留置施設法案16条は警察が留置施設(留置場にあたる)に収容中の被拘禁者に対して、懲罰を加える権限を与えています。現在、警察の留置場では懲罰を行われてませんし、被疑者留置規則にも懲罰の規定はありません。
もともと警察は被拘禁者を自分らの手もとにおいて―弁護人との接見を妨害して―取調べをやっているのですから、警察に懲罰の権限を与えた場合、懲罰が自白獲得の手段に使われるようになるのは当然のなりゆきでしょう。
16条は「刑罰法令に触れる行為」「自己の生命身体に危害を加え、又は加えようとする行為」があった場合のほか「遵守事項に違反する行為」に対して懲罰を加えるとしていますが、この遵守事項は各警察署長が総理府令で定める基準に従って定めることができるものですから、広範な事項をもりこめるものです。
現在の「留置人心得」のようにこと細かな内容になるのは必至です。したがって被拘禁者をいためつける目的で遵守事項に違反したことにひっかけて懲罰にかけることが横行するにちがいありません。
16条は懲罰の種類として「戒告」だけを定めていますが、国会上程前の試案であった「警察拘禁法」では「自弁停止、図書閲覧禁止、閉居」も認めていました。したがって将来はこれらの懲罰にまで広げることが狙われているのは明らかです。
刑事施設(未決の場合、拘置所にあたる)に収容中の被勾留者には、刑事施設法案132条ないし139条に定める懲罰の規定が適用されます。
さて拷問につながるもう一つのものが、拘束具の使用と保護室への収容です。留置施設法案17条、刑事施設法案41条、42条に規定されています。
拘束具として、捕縄・手錠・拘束台そして防声具が使用できるようになっています。
とくに留置施設における拘束具の使用等は従来の扱いを明らかに改悪したもので問題です。現在被疑者留置規則の中に拘束具の使用を認めた規定がありますが、国家公安委員会の規則で人身の自由に対する重大な制約を加えることについては憲法三一条との関係で違憲説が有力なのです。それを法律上明文をもって認め且つ要件を非常にあいまいにしようとしているのです。未決拘禁中の人達は刑事手続上の権利として無罪の推定を受けています。彼らに対する人権の制限は最小必要限度のものにとどめなければならないのです。しかし、拘束具の使用や保護室への収容は、そもそもこの限度を超えるもので許されるべきではありません。まして自白獲得のための手段として懲罰を使う―これは明らかに拷問です―ことなど絶対認めるわけにはいきません。
現在でも警察は被疑者を「やったことを認めなければ兄貴は会社を首にしてやる、妹が離婚になってもいいのか」と脅迫するのはざらですし、なぐる、けるや指の間に鉛筆を入れてしめつけ骨を痛めつけるなどの暴行を加えることもあります。さらに一日一〇時間から一五時間の長時間取調べを平気でやっています。すべて自白をとるために警察はやっているのですが、両法案が成立したら警察は何の後ろめたさも感じることなく拷問的手段を使って自白を得ようとするでしょう。戦前の特高警察が、思想犯さらに宗教家・学者・文化人に対して警察署内でテロをはたらき、虐殺行為すらやってのけた事実を忘れるわけにはいきません。拷問の復活に道をひらく両法案は、日本を再び暗黒と反動の社会にするものです。絶対に廃案をかちとりましょう。

代用監獄の恒久化
未決拘禁中の被疑者・被告人は本来拘置所に収容すべきなのです。ところが現行の監獄法1条3項本文は「警察官署ニ附属スル留置場ハ之ヲ監獄ニ代用スルコトヲ得」と規定しており、実際には、ほとんどの被疑者は警察の留置場に入れられています。(これは拡大解釈で実は法的根拠はないのですが。)これを代用監獄と呼んでいるわけですが、起訴前の被勾留者の約九割は代用監獄に入れられています。
代用監獄が何故使われるかというと、言うまでもなく警察の取調べの便宜のためです。
つまり被拘禁者を自白においこむためです。
警察庁や法務省は拘置所数の不足を代用監獄の理由にあげることがありますが、それはデマゴギーです。監獄法改正作業をやった法制審議会の中では警察は本音をハッキリ言っています。代用監獄を廃止したら捜査に支障をきたし治安維持に責任がもてない、と。
この代用監獄の存在が前提となってはじめて先程述べました接見交通権の実質否定や拷問の復活が意味をもってきます。つまり自白追求が効果をあげうるわけです。
代用監獄は明治四一年に監獄法が施行されて以来すでに七十余年の歴史をもっていますから、日本人の中には警察につかまれば留置場に入れられて毎日取調べを受けるのは当然だと思っている人も少なくありません。しかし代用監獄は欧米の先進国にはもちろんありませんし、世界的にも珍しい制度なのです。現行刑事訴訟法はアメリカの刑事手続を大幅にとり入れ、日本の刑事手続の民主化に貢献したと言われています。たしかに刑事訴訟における被告人の地位を強化し、裁判所を検察官から引き離しました。しかし捜査手続は全く遅れています。被疑者から証拠をとることを中心とした捜査のやり方が基本となり、それが公判でも自白偏重となってあらわれています。日本で取調べと称されているものは本当は拷問と言っても間違っていません。黙秘したりしている人間に、脅迫と暴力をおりまぜ、長時間「やったら、認めろ」とせまり、あげくのはては「おまえは、こうやってやったんだよ」と自白のストーリーまで教えてやる―これは取調べなどというものではありません。アメリカでの警察の取調時間は普通三〇分、殺人などの重大事件でも二、三時間が限度です。しかも弁護士の立会いを求めることが可能です。代用監獄の?久化(刑事施設法案163条、留置施設法案)は、警察の拷問の横行をまねき、ウソの自白を生み出し、誤判・冤罪の温床をつくります。代用監獄は憲法に違反する制度です。両法案を廃案に追いこみ代用監獄の恒久化を絶対に阻止しましょう。
*   *   *
 両法案について未決拘禁を中心に、問題点を述べてみました。両法案の成立は憲法改悪につながります。両法案の成立は日本を再び侵略戦争への道に引きづりこみます。
刑法改悪・保安処分新設に反対する声をひろげると同時に、刑事施設法案・留置施設法案に反対する断固とした運動をおしひろげ、両法案の廃案をかちとりましょう。私もみなさんと力をあわせて反対運動を続けていきたいと思います。

監獄支配をうちやぶるために
監獄法改悪を許さない全国連絡会議

監獄法改悪を許さない全国連絡会議から連帯のあいさつと刑事施設法の内容について若干の提起を行いたいと思います。
まず最初にですね、議事進行の方法として留置施設法の後に刑事施設法をやってもらうということになっていたらしいんですけども、私の個人的な事情で遅れてしまいましたことをおわびしたいと思います。
刑事施設法のこの間の闘争を若干報告しておきたいと思います。
刑事施設法と留置施設法の閣議決定―国会上程が迫る、そういう情勢の中で、四月二四日参二八日まで連続闘争を行いました。
これは、政府・自民党の攻撃が、四月の月末にも国会上程があるという情勢の中で、それを待って、我々がそれに対する抗議闘争を展開していくということでは、ひじょうに取り組みに立ち遅れがあるし、この五日間の連続闘争は、獄中―獄外のハンストを軸にして闘う、とうふうな戦術内容をもっていたので、特に赤堀中闘委の方からそういうハンスト闘争を闘うには、敵の攻撃があってから、
さて次の日からやるというような形では絶対にできないんだと、それは、かなり準備期間をきちっとおいてそしてハンスト闘争に突入する、というそういう形での闘争を組まなければだめだという提起がありまして、その提起の内容がすごくもっともだということから、先制的に敵の攻撃がある前に、われわれは五日間の獄中―獄外を結ぶハンスト闘争によって、刑事施設法―留置施設法の閣議決定―国会上程に反対していこうという形で、四月二四日?二八日まで連続闘争が闘われました。
この連続闘争は、全国連を基軸にしたわけですが、特に、山谷の日雇労働者、それから寄せ場と監獄、そして「障害者」を結ぶそうした闘争として展開されました。
獄中では東拘を中心に二十名の獄中者がハンストに入り、獄外では、山谷争議団・獄中者組合・共同訴訟人の会、そして赤堀中闘委からそれぞれハンスト者が出て、五日間の闘争を断固として貫徹したわけです。
そうした闘争にもかかわらず、敵は二七日に閣議決定を行い、二八日に国会上程する、という形になったわけです。
われわれの闘争が、いわゆる国会上程を阻止できなかったということでは力が及ばなかったわけですけども、この五日間の連続闘争で、われわれはひじょうに多くの学ぶところがあったし、この刑事施設法をつぶしていく、そうした闘いは、何も国会に上程されたからそれでおしまいとだということではなくて、まさに、そうした闘いの第一歩であるんだ、これまでの闘いをさらに団結をひろめて国会での審議をやめさせ、そして、監獄法をつぶしていく、留置施設法をつぶしていく、という闘いをやろう、そういう形で総括しました。
それで、本日、この刑法の五・二九集会に全国連として発言の場をもらったということは、ひじょうにうれしいけど、その点お礼をいいたいと思います。
こういう機会を利用して、われわれの闘争の内容とそれから敵の攻撃の質がどこにあるのかということを共通の認識としてもち、それを基軸に闘争を大きくしていこうではないか、そういう願いをこめて提起をしていきたいと思います。
それで、その後の闘争なんですが、今月の二七日・二八日両日かけて国会議員にアンケートを行いました。
刑事施設法と留置施設法について、どれだけ国会議員が知っているのか、上程されたことを含めて知っているのか、それから両法案にかかわる、警察留置場・刑務所・あるいは拘置所を、参観・実態調査等をしたことがあるか、というようなことを含めて二五項目のアンケートを行いました。
ところが、この正当なわれわれの活動に対して、議員会館では、警備体制を厳重に敷いて弾圧をしてくる、ということがありました。
これは、何よりも、やはりわれわれの闘争に、かなり相手が恐れをなしている、そういうことの現れじゃないかと思います。
われわれは、そうした弾圧が強まれば強まるほど、この闘いの正しさ、正当性というものを確認するわけですけれども、今後とも多くの仲間達と共に、いろいろな戦術をもって刑事施設法、留置施設法を粉砕するために闘っていきたいと思います。

管理のための法律
それでは、刑事施設法の問題点について、若干の提起を行いたいと思いますけれども、この刑事施設法が、その名称にあらわれているように、いわゆる収容者の人権を守り、そしてその人権を認めたうえで何が規制できるか、そういうような内容をもったものではなくて、まさに施設管理運営のための法律である、ということがひじょうに大きな問題じゃないかと思います。
内容は皆さんも十分お読みになっていること思いますけども、刑事施設の長が被収容者を管理する、そして、処遇を行う、処遇ということばの概念は、治療・強制ということを柱とした国家処遇権のことで、そうした処遇を柱とした国家処遇権のことで、そうした処遇を被収容者に対して行っていく、そういう内容をもっている法律であって、そもそも根本においてまったく逆転した発想のもとにつくられている。
それは、とりもなおさず、政府・自民党・資本家階級が、労働者階級を支配・搾取していく、そういう内容をもったものだ、ということが端的にあらわれていると思います。
それから、現在の監獄法が、七十何条かでなり立っているのに対して、今度の刑事施設法は、百何十条近くになっているわけです。
たとえば個別の問題も含みますが、懲罰の内容は、現在各施設によって、刑事施設の長が別々に違反行為を指定して、それに対する懲罰をかけるという方法をとってるわけですが、それが、すべて法的に一律に指定されようとしている、というようなことにも端的にあらわれているように、被収容者、つまり獄中者の一挙手一投足に至るまで、管理を強化しようというふうな内容になっている、これが二番目の問題点だろうと思います。

監獄法にみる保安処分思想
それから、この法案の全体の思想の問題ですけれども、先ほども若干いいましたが、さらにつけたしますと、処遇という概念の中には、治療ということが含まれていて、支配階級は、「犯罪者は病気なんだ」というような認識をもっているわけです。
それは、「病気だから社会から隔離して治療しなければならない」という、そういう思想であるわけです。
これは、「精神障害者」、それから「薬物中毒者」あるいは反社会的な人間の隔離を骨子とする保安処分思想が如実に法案の中にあらわれている。ということです。
そういう意味で、この刑事施設法が、刑法や刑事施設法、そういった刑罰制度の強化の一環であるということが、はっきりとよみとれると思います。
それで、受刑者に対しては、強制と治療を骨子とする処遇を行い、資本家に奉仕する従順な労働者に改造していく、そういう内容を含んでいるわけです。
これは、法案との対比でいえば第四七条以下にそうした規定がもうけられています。
で、そのために段階的処遇を実施するということで、これは五七条以下に規定されているわけですけれども、従順で何んでもいうことをきく、そういう受刑者、あるいは被収容者に対しては、開放施設という名のオリのない監獄、現在でもおこなわれていますけども、そうした施設に収容して、そして外部通勤などをさせる、外泊などをさせる、ということになっているわけです。
しかしながら、これは、今もいいましたように、まったく彼らの支配に屈服してその通りに動く、まさに資本家に奉仕する従順な労働者・獄中者でなければならないわけです。
現在の監獄の支配体制というのは、「級」が一級から四級まであって、四級から順次いわゆる処遇をよくするという累進処遇制をとっているわけです。そういう、今は、一つの刑務所中に一級者いれば二級者もいる三級者もいる四級者もいる、というそういうごちゃまぜの支配になっているわけですけども、こんどは先ほどいったように、一級になるような従順な労働者、何んでもいうことをきく獄中者は、開放施設に移してやる、しかしながら、四級あるいは三級その辺の人はかなり違反行為をして懲罰ばっかり受けている人なんですけども、そうした人間はそういう人間だけを集めて徹底的に働かせよう、そういう段階処遇を実施しようとしているわけです。

死刑囚の処遇改悪
それから、これはひじょうに大きな問題点であって、先ほどの保安処分思想の問題とも関係するわけですけども、死刑確定者については、「矯正不可能な者」であると、これは裁判でもたびたび宣告されているわけですけども、そうした「矯正不可能な者」として抹殺される、という対象として規定されているわけです。
そうした死刑確定者は、一般社会とのつながりをもって、死刑確定後も社会的活動をするなどということは断じて認められない、というのが今回の刑事施設法に規定されている死刑囚処遇の改悪であるわけです。
これは、先ほど全障連の方からも提起がありましたが、赤堀さんや、それから多くの確定者の仲間達が、東拘においてはすでに全く受刑者なみで、現在の監獄法すら破る 外部との接見交通を許されない、という構造になっていて、仙台拘置所においても日々年々改悪されてきていて、全面的に交通接見を断絶しようという形に進んできているわけです。
これは、刑事施設法の第115条以下に規定されているわけですけども、具体的には今いいましたように接見交通権の実質的な剥奪、現行監獄法では未決収容者と同じあつかい、つまり一般の人間がいつでも面会に行けるし、いつでも手紙を発受できるという形になっているのに、それを既決なみにして、弁護人あるいは親族しか接見交通権を保証しないというふうにしているわけです。しかも、接見交通権については、これは一般的な規定の中に含まれているわけですけども、いろいろな形で外部に支援をたのんだり、再審のために救援をたのんだり、事実関係を調べてもらったりということについて、施設の職員が、  これは管理運営上支障をきたすというような内容でむこうがそういうふうに判断したものについては、面会を一時差止めたり、あるいは打ち切られたりするという内容を含んでいます。
また、死刑囚とされている仲間達は、たとえ親族がいたとしても、そうした関係を断たざるをえない、そういう関係におかれているわけで、また、弁護人というのはやはり確定後は、私選という形になるわけですけども、そうした弁護人をたのむ金さえもない、外部とのつながりもない、ということになれば、実質的には接見交通権を全面的に剥奪され、まさに外部との連絡がとれないという形になるわけです。
そういう社会からの隔絶を狙うということが120条に規定されていて、さらに社会からだけではなくて、現在的にこれも先取り実態化されているわけですけども、昔は死刑囚どうしが野球のチームを作って野球をしたり映画をみたりお茶をのんだりということがあったわけですが、数年前からそういう形での死刑囚相互の接触もさせないということが、行なわれてきています。それを今度は、施設内における死刑囚相互、あるいは、死刑囚と他の受刑者、未決収容者との接触もさせない、単独処遇、単独独居拘禁にして外部につれだす場合も、運動・入浴等についても、他の囚人と接触させない、そうした厳正独居という処遇をするんだという規定が116条にあります。
さらに問題なのは、そうした社会、あるいは囚人から隔絶して、安らかに死ね、おまえらはもう矯正不可能だ、資本家の用にたたない、そういう人間は死ぬんだ、そのために安らかに殺されることをまて、ということが115条117条に規定されています。
ただこの中で宗教という問題がひじょうに大きな問題としてとりあげられていて、たとえば宗教行為のためにいろいろな教悔に出たり、それから篤史家との面談を許すというようなことはあるんですけども、それは自分のやった行為について悔い改めて日々、宗教いろいろありますけども、キリスト教でも仏教でも神道でも、とにかく神だか仏だかしりませんけども、さういう対象にむかって祈り悔い改めるそういう人間については、死刑囚相互の接触もさせるという規定もあります。
しかしそれはきわめて例外的な規定ではないかと思うわけです。

獄中者の人権を無視
それでは、死刑囚処遇以外の処遇に入ります。先ほどもちょっと出しましたけども、懲罰、それと武器使用、それから強制医療そういったものを骨子とした規律と秩序の維持ということを前面に打ち出しているわけです。
たとえば、獄中者が最初に施設に収容された時に告知しなければならないというふうにされている事項があるわけですけども、それは第一番目に宗教に関する事項、それから二番目に書籍。書籍には自弁とそれから拘置所なり刑務所なりで用意する官物があるわけですけども、それの自弁にかかる書籍等の閲覧に関する事項、それから、先ほどいいましたようにいままで刑務所長や拘置所長の裁量、判断によって決められていたものを統一した遵守事項、それから四番目に面会及び信書の発受に関する事項、それから五番目は、審査の申請、六番目が苦痛申し立てというふうになっています。
しかしこれは、本来、被収容者の地位、それからいついつまで拘禁されるんだ、ということを一番最初に告知する規定がなければおかしいのです。それを、基本的人権をまったく無視して、被収容者は管理される容体でしかないんだ、黙っていうことを聞け、というわけです。おとなしく言うことを聞かない人間に対しては、懲罰規定をこと細かにして弾圧し、強制補給を含む強制医療で人間性を破壊し、なおかつ獄外の人間にも武器を使用して、絶対に規律と秩序を維持していくんだ、と表明しているわけです。
法案の告知事項は、第一に精神的なものを規制し、第二に読んだり知ったりする自由を規制し、第三に行動を規制するという、被収容者の全人格を支配するものなんです。
さらに個別的な問題を共に考えていきたいのですが、時間がないのでこれで終らせていただきます。
今後とも、刑事施設法・留置施設法を粉砕するために共に闘っていきましょう。
ありがとうございました。

【パンフレット紹介】
つぶせ!監獄法改悪
   監獄法改悪を許さない全国連絡
   会議 編集・発行
   頒価 五〇〇円
知られざる拷問
   代用監獄の実態をあばく
   救援連絡センター 発行
   頒価 四〇〇円
拘禁二法の構造的問題点
   拘禁二法を考える会 発行
   頒価 一〇〇円
他にもたくさんパンフあります。
いずれも救援連絡センターで取扱っています。

問題提起
「障害者」と「健常者」の真の連帯のために
関東「障害者」解放委員会(H・W)

本集会の企画の一つであった、I弁護士の「留置施設法案批判」の講演の中で、「メクラ判を押して・・・・・」という発言があった。I弁護士の講演内容は全体として留置施設法案の反動的性格を解き明かす内容のものとして提起されていたが、講演終了後、司会者がこの差別発言の部分について指摘し、集会の場でI弁護士も自己批判して全体で確認された。
しかし集会に参加していた関東「障害者」解放委員会の仲間(『視覚障害者』)に与えたこの差別発言の打撃は大きかった。私達の運動の不充分性を克服していくものとして、以下に掲載する関東「障」解委からの「問題提起」を共有していきたい。

問題提起
「法制審答申八周年糾弾、刑法改悪・保安処分新設阻止、五・二九集会」は、次期通常国会上程へむけて本格化する保安処分新設・刑法全面改悪攻撃、また、今国会に上程されている、留置施設法・監獄法改悪案に対する重大な反撃のたたかいとしてかちとられた。
だが残念なことに、集会においてI弁護士の講演の中で「メクラ判」という「視覚障害者」に対する差別発言がおこなわれた。私は、差別言辞「メクラ判」による「視覚障害者」差別を、怒りをこめて弾劾する。同時に、これをとおして、刑法闘争をたたかう仲間すべての「視覚障害者」差別とのたたかいへの決起を訴える。
脳天をなぐりつけられたような思いだった

I弁護士は、彼の講演「警察留置施設法案批判」のなかで、「拘置所の所長が、メクラ判をおして」と発言した。瞬間、私は、脳天をなぐりつけられたような思いだった。
「メクラ判」「メクラ」―街頭で、職場で、家庭で、施設で、日々「視覚障害者」になげつけられる差別的蔑称を、私はまたここでも耳にしなくてはならなかった。「障害者」差別の現実ゆえに決起した他ならぬたたかいのなかで。そして、ともにたたかう仲間から。
怒りとくやしさで、頭と心がいっぱいだった。
私は声を大にして、たたかう仲間に訴えたい。
第一に、「メクラ判」という言葉は、徹頭徹尾「視覚障害者」をさげすみ、人格をふみにじる絶対に許しえない差別言辞だ。
「メクラめっぽう」「あきメクラ」「メクラへびにおじず」と同様、それは、「視覚障害者」を「物事の分別のつかない人間」と差別的に規定した前提のうえに成りたっている。
そして、「書類の内容を見もしないでおされた判子」という、本来、書類の法的社会的価値を規定するはずの判子が、にもかかわらず無価値であることをさして、その否定的事態を「まるでメクラがおしたも同然の―」と「視覚障害者」になぞらえることで表現した正真正銘の差別言辞に他ならないのだ。

「視覚障害者」をとりまく厳しい差別の現状
こんにち、われわれ「視覚障害者」に対して唯一の生業である三療業(あんま、はり、きゅう)をさえはく奪しようとする生業破壊攻撃が、おそいかかってきている。
三療業界への「健常者」の激しい進出、理学療法士の新設(「重度」の「視覚障害者」は事実上なれない)そして昨年においては、六月の医療保険点数の改定を契機に、全国で病院マッサージ師からの「視覚障害者」の追放・首きり攻撃の嵐がふき荒れた。職業選択の自由をうばわれている「視覚障害者」にとって、唯一の生業ともいうべき三療業をうばい去ろうとするこうした攻撃は、「視覚障害者」の生存そのものをおびやかすに至っている。
街にでれば、「障害者」の存在を全く無視し否定した危険きわまりない交通環境の中で、プラットホームからの転落死(電車によるれき殺)や、マンホールへの転落事故などがあとをたたず、死ととなりあわせの危険の中におかれている。ある「視覚障害者」が囲いの不充分な工事現場をとおりかかり、工事穴に転落して鉄骨にくしざしとなって死亡するという無惨な事故も、おこっている。
またわれわれは現在の隔離分断教育体制のもとで、幼い時から、盲学校に隔離され、社会から隔絶されるとともに、きわめて貧困な点字出版物の中で、社会的情報からもしゃ断され、「盲界」という閉された世界の中でのみ、生きることを強いられてきた。
そしてそのような中を、歯をくいしばって必死に生きぬくわれわれ「視覚障害者」に対して、あびせられるのが「メクラ」「分別のつかぬやつ」「わけのわからぬやつ」という人間的誇りの一片までもをうばい尽そうとする差別言辞なのである。これまでの人生で、何度私は、歯ぎしりする思いで、この言葉を聞いたことだろうか。
帝国主義の「障害者」差別―人民分断支配のもとで、これに屈服し加担した労働者人民が、「障害者」に対してなげかけてくる差別言辞の数々は、もとより絶対に許しえない。
しかし、かかる差別的現実ゆえにこそ、怒りをもやし、解放をもとめてたちあがったたたかいの中で、なおかつわれわれになげつけられる差別言辞ほど、「障害者」にとって許せぬものはないのだ。差別発言にあらわされる帝国主義の「障害者」差別への屈服と加担は、たたかいの主体としての「障害者」の決起をふみにじるものであり、たたかい全体の真の勝利をうらぎるものである。
 第二に、I弁護士の発言に対する私の糾弾に対して、I弁護士、主催者を含めた真摯な討論と、この問題についての集会全体での確認をおこない、集会は、これを決して切りすてたり、あいまいにしたりすることなく、たたかいの内部にある「視覚障害者」差別との対決におけるたちおくれを、全力で克服する立場にたって、意義ある成功をかちとったことを確認しておきたい。
たしかに、たたかいはこれからであり、いまだ出発点にたったにすぎない。しかし、われわれは重要な一歩をふみだした。私は、差別言辞とのたたかいについて次のように考える。

プロレタリア革命通して差別の廃絶へ!共に闘おう
差別言辞に対するたたかいは、「障害者」差別の物質的根拠をなす帝国主義の支配を打倒し、プロレタリア革命の勝利をとおして、階級なき社会を実現し、差別そのものを(したがって差別言辞をも)窮極的に廃絶するたたかいとして展開することによって、真の勝利をかちとることができる。
そして労働者人民の「障害者」差別に対する糾弾のたたかいは、徹底的な差別への糾弾をとおして、労働者人民の自己変革をうながし、労働者人民みずからの自己解放をかけた帝国主義打倒への決起をかちとること、差別と一切の非人間的抑圧の根源である帝国主義の打倒へむけた、「障害者」と「健常者」の真の連帯、階級的団結の形成をめざして、たたかいとられなくてはならない、と。
もし、差別言辞糾弾のたたかいが(またそれをうけとめて自己変革をかちとろうとする「健常者」の側のたたかいが)、差別の元凶である帝国主義に対するたたかいを、より強力に推進することと切断されたところでおこなわれるとするならば、それは何ら「障害者」解放の勝利をきりひらくものではありえない。
その意味で、今集会が、「視覚障害者」差別との対決におけるたちおくれを克服する立場にたちきるとともに、そこにおける思想的深化を、敵・権力に対する反撃の力にかえて、攻撃との対決をより強化してゆく方向性を鮮明にしてかちとられていったことは意義があった。
第三に、この秋いよいよ正念場をむかえた刑法・保安処分、警留法、監獄法攻撃との対決を、「障害者」を先頭にたたかいぬこう。
私は、すべての仲間とともに、とりわけ獄中の赤堀政夫氏と連帯して、最先頭でたたかいぬく決意をあきらかにしておきたい。また集会でもアピールのあった三里塚闘争と、固く結合してたたかいぬこう。
「侵略」を「進出」と言いかえる教科書検定、軍事費のGNP比一%枠の突破を宣言した五六中業、福祉をきりすて、国鉄労働運動を解体し(ブルートレイン手当返上に率先して応じ攻撃の尖兵となっているのがカクマルだ!)、侵略への総動員をねらう行革・臨調の攻撃―日帝はいまやここまで、侵略戦争の意図をむきだしにしている。
そして、こうした軍事大国化・憲法改悪攻撃を、それに対する人民の反撃を力でたたきふせ、おしとおそうとしているのだ。とりわけ反戦・実力闘争の砦・三里塚の破壊によって、人民の抵抗力をうばいさり、全面的な人民圧殺に道をひらこうとしていることに注目しなくてはならない。
刑法・保安所分、警留法、監獄法改悪攻撃こそ三里塚二期攻撃―反対同盟切りくずし攻撃とともに、人民の日常に対するたたかいを鎮圧し、侵略総動員体制をきづくための凶暴な八〇年代治安政策だ。
今秋、三里塚・反戦・反核闘争と結合し、刑法・保安処分、拘禁二法とのたたかいの大高揚かちとろう。「障害者」はその最先頭でたたかうぞ!

連帯のアピール
全国日雇労働組合協議会・山谷争議団

本日の刑法闘争―法制審答申八カ年弾劾闘争に結集された全ての闘う皆さんに、全国日雇労働組合協議会・山谷争議団より連帯のアピールを送ります。
われわれは、昨日、釜ヶ崎の地において五・二八鈴木組闘争勝利―釜共闘・現闘委結成十周年・全国日雇労働組合協議会結成宣言集会を戦い取り、釜ヶ崎、笹島、寿の仲間と共に、帝国主義と対決する全国寄せ場の団結と統合に向けた第一歩を刻印しました。
われわれは、七二年釜共闘・現闘委以来の十年間の闘いを、その否定面の主体的切開から始め、冬の時代≠超えるべく昨年十月山谷争議団結成以来、不況期の戦術の要を半タコ・ケタオチ戦と定め、越年越冬闘争―その中で百四十件を上回る労働相談を掘り起こし、玉姫を拠点に敵の封じ込めを打ち破るべく、収容所・監獄を貫いて闘い抜き、この闘いの中でアブレ地獄下の寄せ場の疲弊化→寄せ場性の拡散、半タコ・ケタオチ飯場の労働下宿化の現実を、支配の還流=保安処分的支配として肥え、これとの闘いを二・一六デカパン虐殺糾弾人民葬を結節点として連日連夜の闘いとして貫徹してきました。
このような闘いが、山谷を拠点とした監獄法―留置施設法粉砕ハンスト闘争の真只中における四・二五山谷暴動として大爆発したのです。この四・二五暴動は、「不況下で暴動は起こらない」「山谷ではもう暴動は起こらない」という敵の神話を打ち破り、一方で春闘始まって以来のスト無し春闘といわれる基幹労働者の闘いの停滞を打ち破り闘い抜かれました。われわれは、この暴動闘争を階級支配の最下層におし込められた下層労働者の怒りの爆発として、この闘いを、この怒りを下層労働者の血と汗の一滴たりとも無駄にせず闘わんとしたわれわれ山谷争議団を中核とした闘いの成果と確信しています。
それゆえ、われわれは、この暴動に恐れおののき、まず、四・二五当日四名の労働者をイケニエとしてパクリ、さらに五月六日や山谷争議団八名に令状攻撃をかけ内四名をパクっていった権力の四・二五暴動弾圧に対し、一歩もひるむことなく攻勢的な反弾圧闘争の闘いを、五・九反弾圧集会一〇〇名の結集と寄せ場を制圧する全国寄せ場労働者の団結で、マンモスへの徹底した抗議行動を展開し、これまでに八名のパクられた仲間全員を奪還し、令状攻撃三名も山谷争議団と密に連けいしつつ、各自の任務を貫徹し、五・二八全国統合へ向けた第一歩を勝ち取ったのです。
われわれにとって、刑法改「正」―保安処分新設粉砕闘争とは、寄せ場にかけられた実態的保安処分攻撃・治安支配との対決であり、寄せ場支配総体との日常的な闘いです。
その上でわれわれが、四・二四?二八監獄法闘争を獄中者・「障害者」と共に最先頭で闘い抜いた意義は、決定的なものと考えています。われわれは、階級支配の最下層におし込められた者の怒りを、存在そのものを武器に転化し、日帝の支配総体との闘いに、基幹労働者が監獄法・警留法を対象化しえず闘いえない中で決起したのです。
四・二五暴動として爆発した闘いに対し、権力が四・二五のみにとどまらず、この間の山谷争議団の闘い―四・一第一波監獄法闘争渦中でのパクられた仲間の実力奪還の闘い―としても、打ちおろして来たことをもってしても知れると思います。われわれは、反弾圧闘争を、五・二八闘争として結実した全国寄せ場の団結と下層労働者の闘いと結合する闘う部分との団結で勝利的に闘い抜いています。
われわれは、この地平の上に刑法改「正」―保安処分新設を軸とした刑事法体系の全面改「正」攻撃との対決を、さらに推し進めてゆく決意です。われわれは、その闘いを、
 @国日雇労働組合協議会として勝ち取った内実を、寄せ場を拠点に現場―飯場―寄せ場を貫き、多くの下層労働者との団結をもって実態的保安処分攻撃と対決し抜き、
Aデカパン問題として突きつけられた「障害者」との団結を、第二波ハンスト闘争での「障害者」との端緒的結合をさらに深化し、
B南朝鮮労働者人民の闘い―「韓国」の保安処分=社会保護法や社会安全法下でも不屈に決起する南朝鮮労働者人民との国際的連帯を勝ち取る闘いとして、
C四・二五暴動として爆発した下層労働者の怒り―すなわち、多くの在日朝鮮人・「本土」沖縄人民・被差別部落民・「障害者」等々の怒りを組織し解き放つ闘いを、
日帝を総対決する闘いとして闘い取っていく決意です。
われわれは、この課題が困難であり、われわれの力量がいまだ小さいことは充分知っています。だが、四・二五暴動として爆発した下層労働者の怒りは、このことを不可避としているのです。われわれは、全ての皆さんとともに刑法改「正」―保安処分新設粉砕!監獄二法国会上程阻止闘争を、その最先頭で闘い抜く決意を明らかにし、連帯のアピールとしたいと思います。
最後に、四・二五暴動弾圧完全粉砕のため全ての皆さんがわれわれに圧倒的な支援・カンパを寄せられることを訴えます。

■集会の最後に補足された発言■

「病」者にとっての拘禁二法
赤堀中央闘争委員会 M・O

先ほどいい忘れたのですが、どうしても補足しておきたいことがあります。時間がないので要点だけにしておきますが、こんどの刑事施設法、留置施設法が「病」者にとっては生命にかかわる重大な問題点を含んでいるということです。
すでに、刑事施設法、留置施設法が被拘禁者に対する弁護人の接見制限の強化となる問題については提起がありましたが、「病」者にとっても、この接見制限によって、外部との交通が一切遮断されることが起こりうるわけです。
ところが、「病」者は、拘禁状態で病状は必ず悪化しますが、その中で「病」者にとって何よりも必要なことは、自分の信頼できる人間との交通であり、信頼できる医者の処方です。
鈴木国男君が大阪拘置所で病状が悪化させられ、虐殺されたのは、この点で大阪拘置所の処遇に責を帰すべきであり、徹底して糾弾しなければならないわけですが、接見制限の強化は、いわば、鈴木君の問題を全面化するものです。
刻一刻と変化する病状を的確に把握するためには、信頼できる医者の判断が必要なのですが、そのためには、弁護士との共闘が不可欠です。こうした手続きが一切制限されたままならば、「病」者にとっては、死をまつのみという状態におかれることになってしまいます。
もう一点、赤堀さんの場合もそうですが、デッチ上げの問題について見ると、デッチ上げをする権力と、される側とは、水素爆弾と焼い弾の違いがあります。この水素爆弾に対抗して防禦権を行使するためにも、身柄の奪還を含む、無実の証明のための救援態勢の確立が必要です。この点でも、弁護士の接見制限は許すわけにはいきません。
私たち「病」者は、これらの点からして、こんどの刑事施設法、留置施設法を、断固として粉砕しなければならないものだと考えます。

資料
保安処分の立法化にむけた
厚生省との「関係局長連絡会議」の設置―運営を強く弾劾する

一、法務省が、保安処分を次期国会に上程しようと、「精神障害による他害行動の実態、保安施設、医療スタッフの確保」等を巡り、厚生省との協議(関係局長連絡会議)に入いった事を、怒りを込めて弾劾する。
一、そもそも、保安処分制度自身、「精神障害者」、病歴者を「いつ何をおかすかわからない者」という差別(隔離・収容)を、法制度として固定化するものであり、絶対に許すわけにはいかない。
一、更に保安処分の法制度化により、「精神障害者」に対して根深く残っている国民の差別性をあおりたてるものであり、私達を今以上に窒息するように追い込むものである。
一、私達は、病いのしんどさをかかえつつも、もっと厳しいのは、周囲の「わけのわからない者」「何をするかわからない危険人物」という露骨な差別的対応(地域・職場・学園・監獄・病院における)によって、日々、孤立と自殺の淵に立たされていることである。
日々社会外社会へ放逐され、人権さえも奪われてきたことを一度として考えた事があるのか。
一、法務省が、これまで「精神障害者」に対し何を行なってきたのか。
住む家もないとか、安定した職場もみつからないとか、周囲の者からも病状への配慮が行なわれない中で、長期入院を強いられ、社会生活から隔離させられて、「障害者雇用促進法」からも「精神障害者」をはずし、あるのは、ただ強制医療と監視の強化を合法化させる「精神衛生法」のみではないか。
更に「精神障害者」であることを理由に最低賃金法の適用除外・様々な欠格条項(差別条項)をみすごしてきたのは法務省である。
このように、病歴者が退院しても、地域社会で暮らせなくさせてきた事実をどう責任をとるのか。「精神障害者」の自殺率は、「健常者」の20?50倍である。差別と偏見によって追い込まれた結果なのだ。
それを、これまで以上に、治安政策的に「精神障害者」にマトを紋り、国家政策として「保安処分」という差別をうみ出そうとする事は、国家による差別の煽動に他ならない。
私達、「精神障害者」にとっては、差別と迫害の中で死ね≠ニいう攻撃であり、決して許すことのできないものである。
私達は、心からの怒りを込めて、即刻、「関係局長連絡会議」をとりやめ、保安処分を廃案とするよう強く抗議する。
法務大臣 坂田 道太 殿
      全国「精神病」者集団
一九八二年六月三十日

保安処分の立法化にむけた
「関係局長連絡会議」の設置を白紙に戻すよう要望する

一、保安処分の次期国会上程へ向け、今年十月をメドに「精神障害による他害行動の実態、精神医療の犯罪防止効果、治療処分の必要性と内容、保安施設、医療スタッフの確保、仮退所中の治療体制、裁判確定前の収容施設と医療等を巡って、法務省との協議(関係局長連絡会議)に入ったことを怒りを込めて弾劾する。
一、保安処分制度は、「精神障害者」病歴者を、「いつ何をおかすかわからない者」との偏見と差別をもって、予防拘禁的に、隔離・収容し、差別の法制度化をねらうものである。
何をもって異常≠ニするかは、結局、主観的判断によるものであり、幻覚・妄想は、誰もが経験せざるを得ない心理学的現象といわれている。
更に、「精神障害者」の年間犯罪率は、〇・〇四%で「健常者」の〇・三八%の十分の一にすぎず、少なすぎる程である。
その犯罪も、「精神障害者」であるが故に、職をうばわれ、(労基法51条、労働安全規則47条、最低賃金法8条等)地域で、差別と偏見の中、孤立を強いられ、心をうちあけることもできない所まで追いつめられた結果である。
それを、「キチガイ」に保安処分は必要と、国民の中の差別をあおりたてて、地域の「精神障害者」病歴者全体に対し、差別的監視が強まる中で生きていけると思うのか。
一、私達は、精神病院の収容所化をなくしていくという方向性を追求してきた。
日本精神神経学会も開放医療の流れを追求し、世界のすう勢を見ても、精神衛生法を撤廃した(イタリア)もある。
そして、長い抑圧の歴史の中から「精神障害者」の人権に、光があてられてきている。
それを、今回の保安処分は、隔離収容の強化の方向性であり、全く逆行するものである。
一、聞く所によれば、法務省との協議に参加している部分は、医者・医療従事者ときいている。
そもそも、医師は患者を擁護する立場にある。その原則をかなぐりすて、患者を差別的に断罪していく、保安処分の立法化に手をかすとは何事か。
法務省と共に保安処分の立法化にむけ協力する事に対し、私達の怒りはつきることがない。
一、私達は、病いのしんどさをかかえつつも、より厳しいのは、周囲の「わけのわからないもの」「何をするかわからない危険人物」という差別的対応によって、日々、孤立と自殺の淵にたたされていることである。
その、厳しさをどれだけ「精神障害者」の立場に立って考えたことがあるのか。
一、これまで、精神衛生法で合法的に強制入院、隔離してきたことを、治安政策的に、国家政策に便乗し、保安処分という差別に手をかす事は、歴史に残る「犯罪性」である。
私達「精神障害者」にとっては、差別と迫害の中で死ね≠ニいう攻撃であり、決して許すことのできないものである。
私達は、心からの怒りを込めて即刻、法務省との協議を凍結し、保安処分廃案にむけて努力することを要請する。
厚生大臣  森下 元晴
公衆衛生局 三浦    殿
精神衛生課 野崎
医務局
薬事局
       全国「精神病」者集団
 一九八二年六月三十日

● 各団体連絡先
● 全国「精神病」者集団事務局
  名古屋市南区呼続町七−七六
   健幸荘A三〇一 大野方
● 赤堀中央闘争委員会
  藤枝郵便局私書箱70号
● 全国障害者解放運動連絡会議全国事務局
  東京都豊島区巣鴨三−三四−三
   フラワーコーポ三〇三号
● 監獄法改悪を許さない全国連絡会議
  東京都港区新橋二−八−十六
   石田ビル 救援連絡センター気付
保安処分・監獄法を貫くねらいと対決するために
[5・29刑法集会報告集]
発 行●東京都港区新橋2−8−16 石田ビル4F
    救援連絡センター ?(03)591−1301
編 集●刑法改悪・保安処分「新設」阻止!意見交換会粉砕!
    6・12闘争実行委員会
発行日●一九八二年八月二八日
頒 価●三〇〇円


*再録:桐原 尚之
UP: 20120506 REV:
精神障害/精神医療  ◇反保安処分闘争  ◇全文掲載 
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